プロローグ
恐怖が全身を駆け巡った。
このまま一人でなら、もっと楽に、この危機から抜け出すことができるかもしれない。
だが人として、何より男として、秋人(あきひと)は隣にいる少女を守らねばならないという使命感があった。
「こっちだ!」
彼はその少女の手を握ったまま、素早く道の角を曲がる。
「わ、渡利(わたり)先輩っ……わたし、これ以上はっ……」
「もう少し頑張ってくれっ」
苦しげに息をする少女を励ましながら、秋人は周囲を見回し、そして舌打ちする。
「くそっ……何でこんなときに、誰もいないんだっ」
夜中の十一時過ぎという時間帯。そしてここが閑静な住宅街というせいもあるだろうが、それにしても、ここまで誰も見かけないというのも妙である。
こういうときには、もっと人通りの多い所へ出るべきなのだろう。だが、初めてこの地区に来た秋人には、それがどの方角なのかわからない。
「渡利先輩っ、次の角を曲がると大きな公園がありますから、そこに隠れましょっ」
「公園か……」
この時間では、ますます人がいないだろう公園は、危険かもしれない。だが、地元である彼女がそう言うのだから、とりあえず身を隠すにはそこが最適なのだろう。
「わかった。そこまで行こう」
「はいっ」
二人は荒い息を付きながら、何とかその公園まで走り続けた。
「はあっ……はあっ……。大丈夫か、夕月……?」
木の陰に身を潜めながら、秋人は隣で胸を押さえている少女に訊ねる。
「は、はい……。それより、追ってきてませんか……?」
「ああ、まだ来てないみたいだ……。しかし、何でいきなり俺たちのことを襲ってきたんだ……?」
「わたしが可愛いから、じゃないですか?」
少女――夕月美夜(ゆづきみや)は、そう言ってはにかむ。
「あのなあ……。こんなときに冗談言うなよ……」
ふう、と呆れてため息を付く。
とはいうものの、確かに目の前にいる少女は、一般的に見てもかなり可愛い部類に入るだろう。
艶のあるストレートの黒髪に、眼鏡をかけているものの目元はぱっちりしている。最近の少女にしては珍しく、化粧もしておらず、アクセサリーも身に付けていない。体型は小柄で痩せ型、服装は薄地のトレーナーにミニのスカート、背中には小さなリュックを背負っている。
対して、秋人はデートだというのにボサボサ気味の髪、家で過ごすときと変わらないシャツにジーンズという出で立ちだ。
(もう少しましな格好で来ればよかったかな……)
と服装には疎い彼も思ったが、少女はあまり気にしていないようだった。
(何で俺なんかがいいんだか……)
はっきり言って、秋人は自分と少女が釣り合っていないように思える。しかし誘ってきたのは彼女の方なのだ。
(何か好かれるようなこと、したっけかな……?)
初めて美夜と出会った頃を思い出しみる。といっても、最初に会ったのは高校の入学式が終わって、数日が過ぎたくらいのときなので、あれからまだ一ヶ月もたっていない。
きっかけはわからないが、何故か秋人のことを気に入ったらしい彼女に誘われ、今日は遊園地デートというわけだ。遊園地自体は特に何事もなく終わったのだが、その帰り。
遅くなったので家まで送って欲しいと彼女が言い出した。しかもできるだけ一緒にいたいから、歩いていきたいらしい。そんな申し出を断ることもできず、秋人は送っていたのだが……。
住宅街に入ってしばらくした頃だった。
突然、道路の影から一人の男が現れたのである。もちろん、通行人がいるのは不思議なことではない。しかしスーツを着たサラリーマン風のその男は、奇声を発し、目つきもどこか虚ろで、明らかに正常な状態ではなかった。
周囲には他に人もおらず、関わらないようにしようと思った秋人は、美夜を連れて少し離れることにする。
だが、そのとき奇妙な現象が起きた。
男がこちらの存在に気付くと、ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、そして――ゆっくりと、瞳の色が赤く変化していったのである。
「な、何だっ?」
ゾクッと背筋に寒気が走る。夜の闇の中でも、瞳の赤ははっきりとわかった。
「グガァッ!」
獣のように短く吼えると、男が拳を振り上げた。狙いは美夜の方だった。
「くっ!」
瞬間的に、秋人は彼女の腕を引く。
ゴッ!
鈍い音が響いた。
「なっ……!」
秋人は驚愕する。
今まで美夜のいた後ろの壁に、男の拳がめり込んでいたのである。やがて壁にはひびが広がり、音を立てて崩れ落ちた。
(な、な、何なんだ、こいつ!)
どう見ても、普通の人間にできる芸当ではない。
「ガゥッ!」
男はもう一度、拳を向ける。
防御しても、あの破壊力では意味がないだろう。となると――
「走れ、夕月!」
逃げるしかなかった。
一体何の目的で、自分たちが襲われるのかわからない。とにかく今は、あの男から離れることが先決だ。
誰かに助けを求めようとしたが、不思議なことに誰も通行人を見かけなかった。
振り返ると、男は不気味な赤い瞳を光らせながら、追ってきている。
「くそっ……何なんだよ、一体……」
公園の入り口を見張りながら、秋人は唇を噛んだ。
「……ねえ、渡利先輩」
ツンツン、と美夜がシャツを引っ張ってきた。
「ん?」
「先輩は知ってますか? 近頃流行ってる、ヴァンパイア事件のこと」
「ヴァンパイア事件……? そりゃあ、まあ、知ってるけど……」
ここ一ヶ月ほど、ニュースや新聞で、仕切りに話題となっているのだ。内容も衝撃的なだけに、知らないはずがない。
ヴァンパイア。夜に活動して人の血を吸うという、ヨーロッパの伝説上の妖怪で、本や映画など、幅広いメディアの題材として扱われ、一般にもよく知られている。
そしてヴァンパイア事件は、そのヴァンパイアに引っかけて付けられた名だ。
まず最初に、街の道路で、全身の血を抜かれた死体が発見された。原因は不明だが、その人物は前日の夕方から朝方にかけて、数人を殺害していたことがわかった。
それだけなら、少し変わったニュースで済むはずだったのだが、二日後に起きた出来事が、この事件の異常さを決定付けた。
もう日付が変わろうかという、深夜である。警察に、異常な男が暴れているという、通報があった。駆け付けると、その男は人間離れした力で、見境なく人や物を襲っていたという。そして警察も捕らえられないまま時間は過ぎ、やがて朝日が昇ると、男は急に倒れてしまった。調べると、その男には血がなく、死亡していたという。原因はやはり不明。
被害者の身体に血がないことと、朝が来ると死亡することから、これらの事件は、やがてヴァンパイア事件と呼ばれるようになる。
そしてそれは、一ヶ月が過ぎようとする現在も、解決のめどが立っておらず、未だ事件は続いていた。
「もしかして……あいつもそうだっていうのか?」
「他に考えられないと思いますけど」
と冷静に答える美夜。
「となると……朝が来るのを待つしかないのか……?」
はっきり言って、力で対抗することは不可能。警察を呼んでも役には立たない。
テレビなどでは夜中の外出はできるだけ控え、もし出くわしたら、とにかく逃げるようにと呼びかけている。
「くそ……迂闊だった……」
いくら危険だと呼びかけても、自分だけは大丈夫、と思っている者は多い。遊園地でも遅くまで遊んでいる人が大勢いたため、秋人も事件のことは忘れていたのである。
ニュースでは事件の異常性ばかりを取り上げているが、実際、被害者に襲われ殺された二次被害者も存在しているのだ。
と、そのとき。公園の入り口に、人影が見えた。
「くっ……来やがった……」
秋人はすぐさま身を隠す。
姿ははっきり見えなくても、あの赤い瞳でわかる。
このまま隠れるか。それともこの場を離れるか。
ここで判断を間違えれば、自分たちも殺される可能性があった。
「……すまん、夕月。俺がもっと早くに君を帰せばよかったんだ……」
「何言ってるんですか。もっと遊びたいって言ったのはわたしなんですから、謝るのはわたしの方です」
意外と、彼女の方は落ち着いているように見えた。
「それより、渡利先輩。わたしのこと……守ってくれますか?」
上目づかいで、見つめてくる。
こんなときだというのに、思わず秋人の心臓が高鳴った。
「あ、ああ……もちろん」
どぎまぎしながら、そう答える。
「誓います?」
「ち、誓うよ」
どんなに危険な状態になっても、見捨てることは絶対にしない。したくない。
建前ではなく、本心から彼はそう思った。
「よかった」
ニッコリと、美夜は笑顔を浮かべる。
見ているだけで幸せになるような、魅力的な笑顔だ。だが、今はじっくりと見つめているときではない。
木陰から、そっと様子を伺う。
瞬間。
赤い瞳の男と、目が合った。
「――しまった!」
すぐに身体を引いたが、男がこちらに歩き出すのが見えた。
「逃げるぞっ……って、お、おいっ……夕月……?」
秋人は困惑する。
走り出そうとする彼に、美夜が抱き付いてきたのだ。そして首に手を回し、誘うように目を細める。
「お、おい……何やってんだよ……」
「わたしを守るって……言ってくれましたよね。だから、誓いの儀式……ですよ。……目を閉じて、先輩……」
ゆっくりと、彼女の唇が近付いてくる。
「い、い、今は、こんなこと、してる場合じゃ……」
情けないことに、そう言いながらもはねのけることができない。
「大丈夫ですよ、先輩なら……」
唇まで、あと三センチ。
「夕月……」
秋人は思わず、目を閉じてしまう。
だが。
スッ、と彼女の唇が通り過ぎた。
(えっ?)
予想とは違う感覚。それが痛みだとわかるまで、数秒かかった。
寒気。
そして一気に血の気が引いていく。
「……ゆ……ゆづ、き……?」
何とか目を向けると、首筋に、美夜の唇があった。
歯が、立てられている。そして吸われていく体内の血。
「……お、お前……」
身体に力が入らない。意識が朦朧としていく。
やがて彼女は、ゆっくりと、身体を離した。唇に、赤い血が濡れている。
「先輩の血……おいしかった」
舌で唇の血を舐めとると、美夜は笑顔を浮かべた。
先程と、同じ笑顔。だが秋人は、今度はその笑顔に恐怖を感じた。
(……お前が……お前がヴァンパイア……だったのか……)
薄れていく意識の中、秋人が最後に見たのは、闇の空に輝く月と、その下で微笑む美夜の姿だった。
第一話
身体が熱かった。
まるで炎が噴き出しているかのように、全身が燃えている感覚。
「う……」
音が聞こえる。聞こえるのは、自分の両手の先。
グシャッ! グシャッ!
何かの塊を壊し、砕き、握りつぶしていた。
それを繰り返す。跡形も、なくなるまで。
不快な音のはずだった。だが、どこかでそれを心地よく感じている自分も確かにいた。
――闇。夜の闇。
そこは暗い世界だ。早く、朝になればいい。朝になれば、光が見える。光が見えれば、この気分も少しは晴れる気がする。
ここは不快だ。心地よいはずがない。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
この闇の世界が。手に触れているものが。そして自分の身体が。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
「ごめんなさい……」
突然、声が聞こえた。か細い、今にも消え入りそうな、少女の声。
「ごめんなさい……」
もう一度、同じ声。しかし闇に包まれたこの世界では、彼女の姿を見ることができない。
一体、何を謝っているのだろうか。
わからないが、その少女の小さな腕に抱きしめられたとき、嘘のように、スッと身体の熱が引いていった。
(ああ……ここは……)
柔らかかった。温かかった。そして心地よかった。
(ここは、気持ちのいい場所だ……)
そのまま身を任せていると、少女の腕に、わずかに力が入った。
「やっぱり……あなたも闇は嫌ですよね……」
声が、かすかに震えている。
離したくないのか、しっかりと胸に抱え込む。
「……俺は……」
考える。いや、考える必要はなかった。
確かに人間は、闇を恐れる生物だ。だが今、闇の中にも温かいものがあることを知ってしまった。
「君がいるなら……闇の世界も悪くないかな……」
ズキィンッ!
「えっ!」
突然、衝撃が来る。頭の奥から響くかのような、激しい痛み。
ズキン! ズキン!
「いてぇ……いてえっ……!」
頭を押さえて苦しみながら、ふと少女の温もりが消えていることに気付く。
「ど、どこに……」
見えない。闇の中では見えない。光のない、この世界では。
「恐れないで……」
少女の声だけが聞こえてきた。
「……大丈夫。闇はあなたの味方。だって……」
と、かすかに笑いをこぼす。
「あなたも闇の住人になったんだから……」
ズキィーーーンッ!
頭が割れてしまうかのような、強烈な痛みが襲ってきた。
「いてぇぇぇーーーっ!」
ガバッ!
勢いよく布団をはね上げる。
「えっ……!?」
唐突に、渡利秋人は覚醒した。
視界に飛び込んでくる映像を、頭の中で整理していく。
「……どこだ、ここは……?」
初めて見る場所だった。しかし肌に触れるシーツのリアルな質感が、ここが夢ではなく現実だと認識させる。
「ベッドの中……か……」
どうやらここは寝室らしい。
柔らかく、温かい布団に、このまま包まれていたいとも思うが、そうもいかないだろう。何しろ、ここがどこかもわからないのだ。どうして自分がここで寝ているのか、その記憶すらない。
「一体どうなって……」
ともかく、早急にこの状況を確認しなくてはならなかった。
そして、布団をまくり上げて起き上がったとき、彼はようやく気付いた。
「えっ……?」
思わず顔をひきつらせ、硬直してしまう。
隣に、寝ていたのである。パジャマ姿の少女が。――夕月美夜が。
「お・は・よ。先輩」
彼女は横になったまま、ニッコリ笑顔で挨拶する。
「なっ、なっ、なっ……!」
心臓の鼓動が、一気に激しくなった。
あまりの出来事に、頭の中がパニックになる。
彼女と、一緒に寝ていたのだ。一つ屋根の下で――いや、それ以上に、一つのベッドの中で。
「うわぁぁぁーーーっ!」
秋人は、思わず悲鳴を上げていた。
「ちょ、ちょっとっ、どうして先輩が悲鳴上げるんですか? それってわたしに失礼じゃないですかっ」
美夜は起き上がって、不満そうに口を尖らせる。
「い、いや、ごめん。あまりの状況に驚いて……」
朝、目が覚めたら見知らぬ部屋にいて、しかも後輩の少女と同じベッドに寝ていたのだ。驚くなという方が無理である。
「…………」
ちらりと、秋人は自分を見下ろし、確認してみる。服は昨日のまま。ということは、間違いは起きていないようだ。かすかに洗剤の匂いが残っているが、これは昨日から付いていたものなので、気にすることではないだろう。
「そ、それで……夕月。その……俺はどうして、こんなところで寝てるんだ……? そもそもどこなんだ、ここは……?」
「え……? 昨日のこと覚えていないんですか、先輩?」
美夜はわずかに眉をひそめる。
「うっ……あ、ああ。実は……全く」
嘘を付いてもいずれはばれる。それなら今、正直に言った方がいいと秋人は判断した。
「……本当に、覚えていないんですか?」
「悪いけど、何も……。ここって、もしかして夕月の部屋なのか……?」
「そうですよ。もう……先輩ったら、昨日あんなにすごかったのに……」
美夜は頬に手をあて、小さくため息を付く。
「す、すごいって……何がっ?」
思わず冷や汗を浮かべる秋人。覚えがないだけに、否定もできない。
「先輩、とっても激しくて……」
「は、激しい?」
「わたしがもういいです、って言っても全然やめてくれなくて……二回も三回も続けるし」
「そ、それって……まさか連戦?」
「おまけに一方的に終わってそのまま寝ちゃうから、後始末はわたしがしたんですよ?」
「一方的にって……そ、それはそうろ……って、こ、これ以上は想像できないっ!」
頭を抱えて、秋人は悶える。
(俺は……俺は一体、何をしたんだっ!?)
本当にそういう行為をしたのなら、せめて感触だけでも思い出しておきたかった。
(こんな肝心なときに、何で記憶を失うんだよ、俺っ!)
自分の役立たずの脳味噌を、本気で恨めしく思う秋人。
「……なんてね」
苦悩する彼の様子を見て、美夜は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちょっと思わせぶりなこと言ってみました〜。……先輩のえっち」
「……え……?」
ぽかん、と大きく口を開いたままの秋人。
「……嘘……なのか?」
「……まるきり嘘、というわけでもないんですけどね。まあ、覚えていないならしょうがないです」
そう言ってベッドから降りて、彼女は置いてあった眼鏡をかける。
「先輩、お腹すきましたよね? そろそろご飯にしましょ?」
「い、いや、それより昨日の話を……」
と言いかけた秋人の口を、美夜は人差し指でふさいだ。
「ますは腹ごなし、ですよ。ね、先輩?」
「あ、ああ……」
彼女の笑顔に、思わず頷いてしまう秋人。
「洗面所の方に顔を洗うタオルと髭を剃るカミソリを用意してありますから、終わったらキッチンまで来てくださいね。それじゃ」
手を振り、美夜は先に部屋を出ていってしまった。
「……何か……流されてるよな、俺……」
ポリポリと、秋人は頭を掻く。
昨日、男に公園で襲われた後、どうなったのか――。
早急に知りたいことではあったが、お腹がすいていることも事実だ。とりあえず、ここは彼女の好意に甘えることにする。
「しっかし……無断外泊してしまうとは……。親に何て説明しようかな……」
憂鬱そうに呟きながら、秋人は洗面所に向かうのだった。
「おはようございます……」
キッチンのドアを開け、秋人は控えめに挨拶をした。
いくら何もなかったはずだとはいえ、同じ年頃の男が、娘と同じ部屋で寝ていたのである。さすがに家族の反応が怖かった……のだが。
「あらあら〜っ、おはようございます。秋人くんっ」
やけに明るい声と笑顔で、エプロンを付けた女性が駆けてきた。ウェーブのかかった髪にカチューシャをしており、顔つきが少し美夜に似ている。
「先輩。この人がわたしのお母さんで、亜沙美っていうの」
今日はポニーテールの髪型にした美夜が、そう言って紹介した。
「はじめまして。あなたのことはいつも話を聞いていますよ」
「は、はあ……。どうも……」
年齢は三十代くらいだろうか。高校生の娘がいるにしては、随分若く見える。
「もうっ、そんな緊張しなくていいのよ? あなたはわたしの息子みたいなものなんだから」
「は、はあ……。……って、えええっ!?」
さり気なく出てきた、聞き捨てならない言葉に、秋人は思わず目を剥く。
「む、む、息子って、どういうことですかっ?」
「えっ……? だって、あなたたち将来結婚するんでしょ? だったら、美夜ちゃんも秋人くんも私の子供ということになるわよね?」
さも当然のように説明する亜沙美。
「そ、そ、そんな話聞いていませんよっ! 第一、俺たち付き合ってもいないんですからっ!」
「……えっ……」
秋人の言葉に、彼女は後ずさり、ふらふらとよろめいた。
「あ、あの……?」
「そんなっ……! あなたは結婚する気もないのに、付き合ってもいないのに、娘と寝たと言うの……!? あんまりだわ! 所詮、遊びに過ぎなかったと言うのね……!」
「お母さ〜んっ! わたし、遊ばれちゃったよぉっ……!」
顔を手で覆いながら、美夜は母親の胸に飛び込む。
「ああっ……美夜ちゃん、かわいそうにっ……」
親子で抱き合いながら、彼女たちはしくしくと、本当に涙をこぼし始めた。
「え、えー……っと、その……あ、あの……」
予想外の展開に、秋人は混乱して何も言う事ができない。
目の前では、泣いている母と娘の姿。彼女たちは、美夜が秋人に遊ばれたと言う。
もちろん秋人にそんなつもりはないが、付き合ってもいないのに一緒に寝ていたのも事実だ。目を覚ましたとき、美夜は何があったのかは言わなかったが、本当はあったということだろうか。
(ま、まさか……いや、しかしっ)
自分がそんなことをするはずがないという理性と、記憶がないという事実の間に、葛藤する秋人。
「ううっ……先輩ったら強引で……」
「泣いちゃだめよ、美夜ちゃんっ。女は強く……強く生きなきゃっ……!」
「だぁぁぁっ! 俺は何もしていませーーーんっ!」
我慢できずに、秋人は叫んでいた。
そう、自分は何もしていない。するはずがない。
「……本当に?」
ちらり、と疑わしそうな視線を向ける夕月親子。
「してないったらしていない! 俺はそんないい加減な奴じゃないんだ!」
そう。いくら可愛い女の子がいても、誰でもいいわけじゃない。本当に好きな子でなければ、そういう行為はしたくないと、普段から思っている。
その自分の理念を、秋人は信じることにした。
「…………」
そんな彼の表情を見て、美夜と亜沙美は互いに目配せし、そして小さく笑いをこぼした。
「え……?」
怪訝そうな顔をする秋人に、彼女たちは涙を拭い、笑顔を向ける。
「……な〜んてね」
「今のは冗談でした〜」
「……は……?」
ぽかん、と大きく口を開ける秋人。
冗談――冗談といったのだろうか。自分は真剣に焦り、悩んだというのに。
「そう。じょ・う・だ・ん・ですよ、先輩」
「だって……泣いてただろ……?」
「あれくらいは演技でできますよぉ。わたし得意ですから」
「……くっ……」
静かに、胸の奥から、怒りがこみ上げてきた。
(何なんだ……何なんだ、この親子はっ……!)
物事には、冗談で済むことと済まないことがある。今の彼女たちがしたものは、秋人にとっては冗談で済まないことだった。
「せ〜んぱい」
にこにこと笑顔のまま、美夜が近付いてきた。
(こいつ、ぬけぬけと………………えっ!?)
見上げる彼女を見て、秋人は息を呑む。
笑顔のはずの彼女の表情――だが、眼鏡の奥の瞳だけは、笑っていなかったのだ。かすかな――言われてみてもなかなか気付かないような、ほんのかすかな表情の変化である。
「もし、先輩が認めていたら……」
耳元で、彼女は囁くように言った。
「わたし、少し失望していたかもしれません……」
「えっ……!?」
驚き、後ずさる秋人。そして頬に残った、柔らかい感触。
「キス、か……?」
「今は、これくらいで許してくださいね……先輩」
高校生とは思えないくらい、妖艶に微笑む美夜。
「さ、それじゃご飯にしましょうか」
「わたし、今日は張り切って作ったのよ。たくさん食べていってね」
美夜と亜沙美は、そう言ってテーブルに向かった。
「…………」
頬を押さえたまま、秋人は呆然としている。先程まであった怒りも、どこかへ消えてしまった。
(俺……試されたのか……?)
失望、という言葉が耳に残っていた。彼女は一体、何を期待していたのだろうか。
わからない。今は何も――。
しかし、どんな真実があるにせよ、ひとつだけ確かなことがあった。
(あいつら……何て悪質な親子なんだ……)
美夜との付き合いは、慎重に考えねばならないと、秋人は強く思った。
「……あ、あのー……」
目の前に並べられた料理を見て、秋人はかろうじて声を出した。
「……何かしら?」
と、笑顔で返す亜沙美。
「今って……まだ朝ですよね?」
「ええ。午前八時だけど」
「どうしたんですか、渡利先輩?」
隣に座った美夜が、小さく首を傾げる。
「いや、その……」
頬を掻きながら、彼は遠慮がちに言った。
「朝の食事にしては、豪華すぎやしないかと思って……」
そう。テーブルには、肉や野菜料理など二十皿近くが、しかも大盛りに並べられているのである。とても三人で食べられる量ではない。
「そうかしら? 昨日の疲れを回復するには、これくらいは必要かと思ったのだけど……」
「……え?」
「あ、何でもないわ。美夜ちゃんが彼氏を連れてきたものだから、つい張り切ってたくさん作っちゃったのよ」
「いや、だから俺は彼氏では……」
「いいのいいの。それはいずれ……ね? とりあえず残してもいいからたくさん食べて」
「は、はあ……」
頷く秋人。顔に似合わず結構強引である。
「はい、先輩。あ〜ん」
そう言って、美夜が箸ではさんだ料理を口元に持ってきた。
「い、いいって。自分で食べるからっ」
秋人は慌てて手を振る。いくら何でも、そんな恥ずかしい真似ができるはずがない。
「もう……先輩は照れ屋さんですね。ベッドを共にした仲なのに」
「まあ、秋人くんくらいの年だと、みんなそういうものよ」
笑顔を交わす美夜と亜沙美。
(はあ……疲れる……)
心の中で、秋人はため息を付いた。
料理を口にしてみたが、これがなかなかおいしい。とはいえ、やはり朝はさっぱりしたものが好きなのだ。濃い味のものばかりだと、あまり箸が進まない。
(あ……そうだ)
料理に集中できないせいか、秋人はふと思い付いた。
(昨日のこと、テレビでやってないかな……?)
男に襲われて、公園まで逃げたことは覚えている。だが、その後どうなったのか。二人ともここにいるということは、うまく逃げ出せたのだろうが、ではあの男はどうしたのか。さらに他の人間を襲ったとしたら、ニュースになっているはずである。
「あ、あの、すいません。テレビ……観てもいいでしょうか……?」
食事中にテレビを観るのは失礼だとは思ったが、どうしても早く確認しておきたかった。
「……ニュースでも観たいんですか、先輩?」
意味ありげな笑みを浮かべる美夜。行動は読まれているようだ。
「あ、ああ……そうだけど。いいかな?」
「構いませんよ。まあ、食事に合う内容だとは思えませんけどね」
言いながら、彼女はリモコンで電源を付けた。
「さっき少し観たんですけど、どのチャンネルも同じニュースしかやっていませんし」
「え……?」
ということは、何か大きな事件があったのだろうか。気になるが、それはこれから観ればわかることだ。
先にアナウンサーの声だけが聞こえ、やがて画面が鮮明になっていく。
「えっ? ここは――」
秋人は目を見開く。
最初に現れた映像。それは、昨日男に襲われて逃げた公園であった。
それほど大きくもないその公園には、警察と報道陣、そして野次馬でごった返している。
そして――秋人は気付いた。
テレビの隅の方に、このニュースについての題字が書かれていることに。
〈ヴァンパイア事件の被害者、バラバラ遺体で発見!〉
「ばっ、バラバラ……!?」
思わず自分の目を疑ってしまう。何度か見返したが、やはりそう書かれていた。
「ど、どういうことなんだ……」
秋人は食い入るようにテレビを見つめる。
そこでは公園をバックに、男性アナウンサーが解説をしていた。
『今朝、この公園でバラバラになって発見された遺体には、一切の血がなく――』
と、彼は原稿を読み上げる。
『これまでに起きた事件から、今回もヴァンパイア関連のものだろうというのが警察の意見です。しかし、これまでと明らかに違うのは、発見された遺体がバラバラになっている、ということなのです!』
そう。今までにわかったことといえば、被害者の身体からは一切の血がなくなっており、夜中に人間離れした力で暴れ始め、そして朝になると死亡してしまうということだった。被害者はほとんどが男性で、東京近郊で起こっているのだが、関連性は今のところ見付かっていない。
この事件の厄介なところは、朝を待つ以外に、暴走する被害者を止めることができないという点だ。警察により、拳銃やスタンガン、睡眠薬や麻酔薬などが使われたことがあったのだが、まるで効果はなかった。さらに檻や網で囲って動きを止めようとしても、簡単に引きちぎってしまうのである。爆弾で吹き飛ばすか、火で燃やせば止めることはできるかもしれないが、さすがにそれを実行するわけにはいかなかった。従って、異常な人間を発見したら、とにかく逃げるしかないのが現状なのである。
だが今回、遺体がバラバラになっていたということは、明らかに何者かの手が加えられた、ということになる。ヴァンパイア化した被害者を相手にするなど、普通の方法では無理だと言われているのに、だ。
『警察の調べによりますと、驚いたことに、遺体をバラバラにしたのは刃物ではなく、強引に引きちぎられたもの……。つまり――”人間の手によるもの”だというのです!』
原稿を読みながら、思わずアナウンサーの表情も強張っていた。
『人が人の身体を――しかも大の大人の身体をバラバラに引きちぎるなどということは、まずできることではありません。おそらく、ヴァンパイア化と同じように、異常な力を持った人間がいるのではないか、というのが警察の考えです。その人間が、果たして我々の味方なのか敵なのか、それはまだわかりません。ただひとつ言えることは、我々はこれまで以上に、周囲に気を付けて出歩かねばならないのでしょうか――』
アナウンサーがそこで言葉を閉めると、続いて映像が被害者の遺族へと切り替わった。
『ううっ……! どうして……どうしてこんなことにっ……!』
激しい泣き声が聞こえてくる。と、ほぼ同時に、突然テレビの電源が消された。
秋人が振り返ると、そこにはリモコンを持った美夜の顔があった。
「何でニュースって、わざわざ遺族が悲しんでいる姿を流すんでしょうね……」
彼女にしては珍しく、やや不機嫌そうな表情になっている。
「夕月……」
「まったく、ご飯がまずくなるじゃないですか」
ぶつぶつ言いながらリモコンを置き、彼女は箸を進める。
「お、おいおい、そういうことじゃ――」
「そういうことです」
決めつけた。きっぱりと。
「そうよね。せっかくのご飯だもの、おいしく頂かないとね」
と亜沙美も言う。似た者親子だ。
「い、いや、ご飯だとか、そんなことよりっ……」
そう。そんなことより、今は訊かねばならないことがある。
「どういうことなんだ、夕月!」
「……何がですか?」
ご飯を噛みながら、美夜は首を傾げる。
「何がって……今テレビに映っていただろ? あの公園、昨日俺たちが逃げた場所じゃないか! ということは、顔は出てこなかったけど、あの被害者は俺たちを襲った奴なんじゃないのか!?」
「……かも、しれないですね」
「かもしれないって……」
平然と食事を続ける彼女に、秋人は少しイライラしてくる。
「まさか、お前も昨日のこと、覚えていないのか?」
「わたしは覚えてますよ。はっきりと」
そう言って、美夜は食事の手を止めた。そして真っ直ぐに秋人を見つめてくる。
「……先輩は、どうして覚えていないんですか?」
「わ、わからないから、訊いてるんじゃないかっ」
彼の言葉に、美夜は小さくため息を付く。
「わたしは覚えているのに、先輩は覚えていない……。不思議ですねぇ」
「い、いい加減にっ……」
ドン、と思わず拳でテーブルを叩いていた。その腕が、ブルブルと震えている。
「して、くれよっ……!」
絞り出すように、秋人は声を出していた。
「ひとが真剣に悩んでいるっていうのに、冗談でからかうわ、とぼけるわ……! 知ってて教えないのは、何か意味があるっていうのか!?」
叫びながら、彼はそんな自分の声に驚いていた。こんなに大声を張り上げたのは、随分久しぶりだったのである。この場に知り合いがいたら、意外に思うことだろう。
だが美夜の方は、そんな彼の様子にもたじろぐ様子はなかった。
「わたしは……」
そのままの視線で言う。
「渡利先輩に、自分で思い出してほしいだけなんですよ……」
「だからどうし……」
「はい、そこまで」
パンパン、と亜沙美が手を叩き、会話を遮る。
「秋人くん、今は食事中よ」
「あ……す、すいません」
謝りながら、彼は椅子に戻った。
「まずは料理をおいしく食べて、それからじっくり話し合うといいわ」
「は、はあ……どうも。ところでおばさんは、昨日のことは何か知って……」
言いかけて、秋人は口を閉じる。
今一瞬、亜沙美の顔がすごいことになったように見えたのは、気のせいだろうか……。
「あ、あ、あの……」
顔をひきつらせる秋人に、彼女はにっこり笑いかける。
「秋人くん。私のことは、名前で呼ぶか、親しみを込めてママと呼ぶように。ね?」
「ま、ママですか……」
実の親にさえ、そんな呼び方をしたことはないというのに。それは恥ずかしすぎるので、秋人は名前で呼ぶ方を選んだ。
「あ、亜沙美さん……は、昨日のこと知ってますよね……?」
「知らないわ」
彼女はあっさり答えた。
「え……?」
意外な解答に、秋人は思わず聞き返す。
「知らないって、嘘でしょう?」
「本当よ。昨日美夜ちゃんが、あなたを連れてきて、「部屋に泊める」って聞いただけ……。美夜ちゃんが連れてきたんだから、信用できる人だと、私は判断したわ」
「……それだけで……?」
信じられなかった。娘がいきなり男を連れてきて、部屋に泊めるというのを、普通許すだろうか。それほど信用しているというのだろうか。
「秋人くん。美夜ちゃんには美夜ちゃんの考えがあると思うの。大変でしょうけど、もう少し付き合ってあげてくれる?」
「…………」
秋人は、視線をそらしてしまう。
どう、判断すればよいのか、彼にはまだわからない。
「渡利先輩」
と、美夜は言った。
「食事が終わったら、出かけましょうか?」
「……え?」
「デートのやり直し、ですよ」
そして一時間半後の午前十時。
二人は、駅前に立っていた。
天気は快晴。日曜日だけあって、そこは行き交う人々で溢れている。
「昨日は遊園地でしたから、今日は映画でも観ましょうか、先輩?」
隣に立つ少女が、不機嫌そうな顔をする秋人を見上げて言う。
「あのなあ……」
と、彼は呆れた様子だった。
「俺は呑気に出かけている気分じゃないんだよ……」
「だったら、その気分を晴らすためにも、思いっ切り遊びませんと」
「…………」
微笑む彼女に、秋人は視線をそらす。
どうも、彼女のペースに乗せられているような気がした。
実は駅に来る前に、公園を調べようと思って行ったのだが、警察がいて立入禁止になっていたのである。
(ここに来れば、何か思い出すかと思ったけど……)
しかし、残念ながら何一つ思い出すことはなかった。
「公園がだめなら、デートをすれば思い出すかもしれないじゃないですか」
と美夜は言う。
だが、記憶がないのがデートの後なのだから、そんなことをしても意味がないだろう。それでもここまで付いてきてしまったのは、他にできることがないからかもしれない。
「なあ……夕月さ」
「はい?」
「昨日、訊こうかと思ってたんだけどさ……」
やや迷ったが、秋人は思い切って訊ねる。
「お前、何で……俺を誘ったわけ? 俺なんて、全然もてるタイプじゃないのに……おかしいぜ」
「……そんなに、変ですか?」
「ああ。最初、お前の方から近付いてきたときは、からかわれてるかと思ったけど……それだけのために、わざわざデートを申し込んでもこないだろうなって、ずっと考えてた」
「…………」
「俺、思ったんだけど……からかう以外の、何か目的があるんじゃないのか?」
「何かって、何です?」
「それは、わからないが……」
だが、あまりいい方向には考えられない。
「やれやれ。先輩って、結構疑り深いんですね」
美夜はため息を付きながら、肩をすくめてみせる。
「どうしてそこで、自分を好きだからじゃないか、って思わないんですか?」
「まさか……」
それこそ信じられなかった。
「今までよっぽどもてなかったんですねぇ……」
しみじみと言う彼女。何だか悔しかった。
「そ、そういう夕月はどうなんだ? 随分もてるんじゃないのか?」
「ええ、まあ」
と、美夜はあっさり肯定する。この様子からして、告白されたのは数人では済まないだろう。
「でも残念ながら、いい人が見付からなくて……」
「ふ、ふぅん……」
つまり、今まで付き合った男はいないということだろうか。
「わたし、守ってくれる人が欲しかったんですよ」
壁に寄りかかり、視線を下げながら、彼女は言う。
「え……?」
「わたし自身は、すごく弱い存在なんです。だからそんなわたしを守ってくれて、支えてくれるような、強い人……。あ、強いといっても、ケンカが強いとかじゃなくて、精神的に、という意味ですよ」
「…………」
秋人は、顎に手を当てた。
果たして、今彼女の言った条件に、自分は当てはまるのだろうか。
あまり自信はない。ケンカが強くないのは確かなのだが……。
「大丈夫。先輩は第一条件、クリアですよ」
「だ、第一条件って……?」
訊ねる秋人に、美夜は唇に人差し指をあてる。
「ひ・み・つ・です」
「お前なぁ……」
「でも先輩、昨日誓ってくれましたよね。わたしのこと、守ってくれるって」
「えっ……」
「デートの帰り、男の人に襲われて、公園に逃げて……そのときですよ?」
「夕月に誓い……?」
そう。彼女の希望で、秋人は家まで送ることになったのだ。その途中で、ヴァンパイア化した男に遭遇。追いかけられ、二人で公園に隠れることにしたのである。だが男に見付かり、やばいと思った瞬間、急に彼女が迫ってきて……。
「うぐっ……!」
突然激しいめまいが、秋人を襲った。目の前の景色が、赤く染まる。
「先輩!」
倒れそうになる彼を、美夜は慌てて支えた。
「あ……」
めまいは一瞬だった。すぐに何でもないと告げ、彼女から離れる。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
おそらく貧血だろうと彼は判断した。しかし食事も睡眠もたくさん取ったはずなのに何故、と疑問に思う。
「昨日の影響ですね……」
ぼそりと呟く美夜。
だが、秋人には聞き取れなかったらしい。
「え、何か言ったか?」
「いえ、何でも。それより……」
と彼女は微笑み、言った。
「先輩はきっと、思い出しますよ」
「えっ……?」
「今日の夜には、きっと……」
「そ、それって……」
思わず、秋人は身を乗り出し、彼女に迫っていた。
「夜になれば、何か起きるっていうのか!?」
先程の言葉からは、そういう推測しかできない。
だが美夜は、そんな彼の腕から、するりと抜け出してしまう。
「まだ秘密、ですよ。それに起きるか起きないかは、わたしにもわかりませんし」
言いながら、彼女はどんどん歩き始める。
「お、おい、夕月……」
「だから先輩。とりあえず、それまでは楽しく遊びましょっ」
振り返り、美夜は追いかけてきた彼の手を取る。
「やれやれ……」
と頭を掻く秋人。
何だか笑顔にごまかされているような気もするが、それを見ているのも悪い気分ではなかった。
「しょうがない、夜まで付き合うか……」
「はいっ」
嬉しそうに美夜は頷く。
そして手を繋いだまま、彼女は秋人を引っ張っていった。
「さあ先輩。まずは映画ですよ」
「お、おい、もっとゆっくり行こうぜ」
「だめです。時間がもったいないですよ。だって……」
と、その先は口には出さない。
(先輩が思い出したら、わたしは嫌われるかもしれないから……)
一瞬、寂しそうな表情を見せる美夜だったが、秋人がそれに気付くことはなかった。
二人が観たのは、アメリカで話題になったという恋愛映画だった。
秋人はアクションものの方がよかったのだが、
「やっぱりカップルは恋愛映画を観て、雰囲気を盛り上げないと!」
というよくわからない言い分で、美夜の希望する方になったのである。
「はあ……。最後はハッピーエンドでよかったですね」
映画館を出た後、彼女は興奮気味に頬を染めながら言った。
「わたし、途中で少し泣いちゃいましたよ」
「ふ〜ん……」
秋人は適当に返事をする。
どうも、恋愛ものというのは苦手だった。男と女がくっついて、別れて、どうしたこうしたというものに、面白さが感じられないのだ。
(やっぱり、派手なアクションものの方がよかったなあ……)
などと思っていると、美夜が怪訝そうに視線を向けてくる。
「先輩……ちゃんと、観てました?」
「え? あ、ああ。観てたぞ」
「慌てた様子が何だか怪しいですけど……ま、いいです」
美夜は腕時計を見た。
「少し遅くなりましたけど、軽く何か食べませんか?」
「そ、そうだな」
というわけで、ファーストフード店を探し、中に入る。
しばらくして店を出たとき、時刻は午後三時になっていた。
「どうする? 帰るか?」
「……先輩、帰ってどうするんですか。今日は夜まで付き合ってもらいますからね」
人混みで混雑する道を歩きながら、美夜は言った。
「その夜までってのは……外じゃないとだめなのか?」
「だめではないですけど、外の方が先輩のためですよ」
「そうか……」
表情を曇らせる秋人。
一体、夜になると何が起きるというのだろうか。いくら訊いても、彼女は教えてはくれない。
「あ……」
ふと、美夜は足を止めた。
「ん? どうしたんだ?」
彼女の視線を追いかけると、そこには露店が出ており、数人の若者が道行く人に呼びかけている。
「さあさあ、近頃物騒な世の中だけど、でもこれさえあれば大丈夫! ヴァンパイアなんて怖くない!」
「十字架はもちろん、ニンニクに聖水! みんな知ってるヴァンパイアの弱点! アクセサリー風だから、ファッションにもなるよ! どれでも一個千円だ!」
どうやら事件の話題性を利用し、グッズを作って売っているらしい。
「……やれやれ。何にでも商売に結び付けるなぁ」
秋人は少し呆れてしまう。もう何人も死者が出ているというのに。
しかし、露店の周りに結構人が集まっているのを見ると、やはり皆どこか不安に感じているのかもしれない。
ちらりと商品を見ると、どれもネックレスになっていた。十字架はよくある、ありふれたもののように見える。ニンニクはさすがに生というわけにはいかないので、抽出したエキスを小瓶に詰め、チェーンに繋いだものらしい。聖水も同様だが、青い色をしており、元が何かわからないだけ、一番怪しい。
「もう行こうぜ、夕月。……って、おい、夕月?」
隣に姿が見えないので、探してみると、露店の一番前に立ち、商品を手に取りながら、じっと見ていた。
「何やってんだ、あいつ……」
ああいうものに興味があるのだろうか。
「どうだい? それさえ身に付けていれば、ヴァンパイアに襲われることはないよ。しかも有名な霊能力者、R(あ〜る)田中の霊力が込められてるんだ」
露店の男に話しかけられる美夜。しかし彼女は、
「いえ、結構です」
と言いながら、商品を置き、離れていった。
「ちっ……何だよ」
男が小さく呟いたのが耳に入る。しかし彼は気にした様子もなく、呼びかけを再開した。
「さあさあ、ヴァンパイアに襲われたくなければ、これを持ってなきゃだめだよ! 早い者勝ちだ!」
「……ふう」
とため息を付きながら、美夜は人混みの中から抜け出してきた。
「ごめんなさい、先輩。行きましょ」
「どうしたんだよ、夕月」
歩きながら、秋人は訊ねる。
「まあ、ちょっとだけ気になりまして……」
珍しく彼女は苦笑いをした。
「簡単に調べてみたんですけど、適当に作られた安物ですね。もちろん効力なんてありませんよ」
「そ、そうか……」
と応える秋人。
しかし、何故彼女にそんなことがわかるのだろうか。
「ところで……先輩は知ってます? 一般にヴァンパイアの弱点と言われていることは、みんな迷信だってこと」
「……ヴァンパイアの弱点って、今の店で売ってた奴か?」
「そうです。ねえ、先輩。ヴァンパイアの弱点って、どうしてこんなに有名なんだと思います?」
「唐突な質問だな……」
だが言われてみると、他の妖怪の弱点というものは、ほとんど知られていないような気がする。
「やっぱり、テレビとか本とかで、ヴァンパイアを扱ったものが多いからかな……」
「さすがです、先輩」
美夜は微笑む。
「元々、ヴァンパイアには弱点なんて、ないんですよ。ただ、何か弱点がないとヴァンパイアを倒すことはできませんからね。それで後から付けられたのが有名になって、一般的になってしまったんです」
「へえ……そうなのか」
「……ま、そういう説があるというだけですけどね」
と彼女は付け加える。
「でもさ、夕月。今起きてる事件だと、ヴァンパイア化した人は、朝になったら死んじゃうだろ? それは直射日光が弱点ってことじゃないのか?」
「それは、単に人の少ない夜の方が活動しやすいだけで、力尽きるのが朝だというだけ……だとわたしは思いますけど」
「そ、そうか……」
真相が解明されていないから、そういう説もあるのかもしれない。
「しかし夕月って、そんなにヴァンパイアに興味があったんだな……」
結構意外である。
「ええ、まあ……。最近事件で騒がしいですからね。テレビでも弱点の紹介とか、やってますし」
もっとも、ヴァンパイア化というのは俗称であり、警察や学者はもちろん、ほとんどの人々は実際にヴァンパイアが存在するとは思っていない。あくまであれは病気か、新種のウイルスだろうというのが一般的な考えだ。
それは、秋人も同じである。
(ヴァンパイアなんて、本当にいるわけないだろ……)
とは思っていても、先程の露店のようなものを見ると気になってしまうのは、人間の弱い部分なのかもしれない。
「ああ、そういえば先輩。さっきのお店の人が言ってましたけど、霊能力者のR(あ〜る)田中って知ってます? わたし、聞いたことないんですけど……」
「俺も知らない……」
まあ、所詮はインチキグッズである。単に方便か、実在したとしても、能力もインチキに違いなかった。
それから二時間ほど、二人はショップ巡りをして時間を潰した。
洋服を見たり、本屋で立ち読みをしたり、ゲームセンターに寄ったりもした。
それはそれで結構楽しかったのだが、今日の秋人は、デートを楽しむことが目的ではないのである。
「なあ、夕月……。まだだめなのか?」
「何がです?」
「……だから、昨日何が起きたのかってことだよ。いい加減、教えてくれよ……」
さすがに、連日デートとなると、疲れが出てきた。
「せっかちですねぇ、先輩は……」
美夜の方はまだまだ元気な様子で、秋人の少し前を楽しげに歩いている。
「夜までもう少しじゃないですか」
「う〜ん、でもなあ……」
と、ぶつぶつ言いながら頭を掻く秋人。
「…………」
ふと、前を行く彼女が足を止めた。かと思うと、強引に腕を組んでくる。
「えっ? お、おいっ、ゆづ……」
「しっ。先輩、このまま」
言いかけた秋人を、美夜は人差し指を立てて口元に寄せ、遮った。そして彼女の方が引っ張るように、そのままの状態で歩き出す。
「ど、どうしたんだよ、夕月?」
「……思ったより、早かったみたいですね」
複雑な笑みを浮かべて、美夜は言う。
来てもらわなければならなかった。だが、来て欲しくはなかった。
「渡利先輩。わたしたち、付けられてますよ――」
「えっ……!?」
彼女の言葉に、秋人は思わず足を止め、振り返りそうになる。
「だめです、先輩! そのまま――」
意外と強い力で、彼女は強引に腕を引っ張った。
「えっ? あ、ああ……」
戸惑う秋人。
「つ、付けられてるって、誰にだよ?」
「昨日、わたしたちを襲った男の仲間……みたいなものです」
「なっ……! そ、それって……」
声を上げそうになる彼に、美夜は再度人差し指を立て、言わないようにと合図する。
こんな人混みの中で、”ヴァンパイア”という言葉を口にすれば、注目が集まるのは目に見えていた。
「そ、それで、これからどうするんだ?」
「とりあえず、できるだけ人のいない所まで移動します。あくまで狙いはわたしたちですから、向こうだって余計なトラブルは避けたいはずです」
つまり、それまでは襲ってこないということだろうか。
「だ、だけどその後はどうする? 逃げなくていいのかよ?」
そう。現在、ヴァンパイア化した人間に対抗する手段は見付かっていないのである。うまく人混みを避けて、対峙することができたとして、どうしようというのだろうか。
「何とかなりますよ」
と美夜は言った。
「何とかって……そんな無責任な。第一、何で俺たちが狙われるんだ? それに何で付けられてるって、わかるんだよ? 夕月の勘違いじゃないのか?」
「わたしにはわかるんです……」
疑問をぶつけてくる彼に、美夜は視線を前に向けたまま、答える。秋人の位置からは、彼女の表情は見ることができない。
「もうすぐですよ、先輩」
「えっ……?」
「もうすぐ、先輩は思い出します。昨日起きた、全てのことを――」
振り返らずに、二人は歩いていく。
沈黙したまま、口を開くことはない。
裏道に入り、静かになってくると、さすがに秋人にも感じることができた。間違いなく、付けられていることを。
時刻は五時を過ぎ、空がやや薄暗くなってきていた。連日の事件の影響からか、この時間でも帰り始める人が多くなっている。
「人がいなくなるのは、わたしたちには好都合です。見られて騒ぎになりたくはないですから」
普段と変わらない口調の美夜。
だが、秋人の方は、段々と緊張してきていた。何しろ、今自分たちの後ろにいる者に襲われれば、冗談ではなく命を落とす可能性があるのだ。
「な、なあ、夕月。本当に、何とかなるんだろうな?」
「……先輩、あまり大きな声を出さないでください。慌てた様子を見せると、隙があると思われて、今すぐ襲ってくるかもしれませんよ」
「うぐっ……。わ、わかった……」
とりあえず、見た目だけでも冷静であるように、表情を作る。
「まあ、何とかなるかどうかは、先輩次第ですね」
「……お、俺次第?」
「あ、この先、右に行きましょう」
秋人には答えずに、彼女は右の角を曲がった。
その角の入り口には、看板が立っており、<この先、八つ橋神社>と表記がある。
「神社に行くのか……?」
「ええ。多分、今一番人のいない場所だと思いますから」
「…………」
そう。確かに、人はいないだろう。だがそれは逆に、危険な状態になったときでも、助けを求めることができないということでもある。
(頼むぜ、神様……。本当に、何とかなってくれよ……)
普段信仰心がないのに、こういうときばかりは神頼みをしてしまう秋人だった。
「この辺で待ちましょうか」
そう言って美夜が立ったのは、神社全体の敷地のほぼ真ん中にある、広場だった。ちょっとした野球やサッカーができる程度の広さはある。
「…………」
秋人は、不安げに周囲を見回した。いくつかある、人の気配のしない建物に、背の高い木々。夕闇に照らされると、昼間は何でもないものが、急に不気味に思えてくる。
やがて。
神社の入り口に、一人の人影が見えた。
コツコツ、という足音が響いてくる。
「あ、あいつか……」
秋人は、緊張して早鐘を打つ心臓を押さえながら、その人物を見据えた。
大学生、くらいだろうか。長髪で背が高く、ラフな服装をした男である。
彼はゆっくりと、二人の前に近付き、そして足を止めた。
「ナルホド……気付イテイタ、ヨウダナ……」
男の発した声に、秋人は眉をしかめた。
彼の声は、くぐもっており、どこか遠くから発せられているような、不気味な声だったのである。通常、人間が出せる声ではない。
「何者ダ、お前タチ。タダノ人間ニ、我ガ仲間ヲ殺セルハズガナイ」
仲間。つまりは、昨日のバラバラにされた被害者のことを言っているのだろうか。
(いや、それよりも――)
秋人には、気になることがあった。彼の言葉からすると、昨日の男を殺したのは、秋人と美夜の二人ということになっているらしい。
(殺した……? 俺たちが……? そんなバカな……)
確かに、昨日の記憶はないから、絶対に違うとは言えないだろう。だが、自分に人間の身体を引きちぎるような力があるはずがなかった。
「何か勘違いしてるんじゃないのか……?」
「トボケルカ……マア、イイ。昨日ノ礼、サセテモラウ……」
ニヤリ、と男は口の端に不気味な笑みを浮かべた。
そして、瞳が赤く、変化していく。
「目が、赤く――」
それを見た瞬間、秋人の頭に一瞬、昨日の光景がフィードバックした。
そうだ。確かに昨日の男も、瞳が赤く変化し、そして襲ってきたのである。
「目の前の男は、ただの操り人形に過ぎません。そして瞳が赤に染まったとき――彼は、ただの暴走する死人となります」
「夕月っ……?」
声に反応し、秋人は彼女を見る。
ぞくっ。
背筋に、寒気が走った。
美夜は、今までに見たこともないような、冷たい視線を男に向けていたのである。これが普段笑顔で一杯の彼女と同一人物なのかと、疑いたくなるほどだ。
(お前……一体……)
彼女は何を隠しているのか。そして何を知っているのか。
(俺が殺したんじゃないとすれば、夕月が……いや、まさか……)
そう、それこそまさかだ。か弱い少女の力で、大の男を殺せるはずがないではないか。
「来ますよ、先輩!」
「えっ?」
美夜の鋭い声で、秋人は我に返る。
見ると、男が奇声を発しながら、こちらに腕を振り上げながら向かってきたのである。
「グァァァッ!」
「うわああっ!」
慌てて秋人は横へ飛んで逃げた。
ゴゥンっ!
激しい音が響く。
見ると、男の拳がめり込み、石畳がグシャグシャに砕け散っていた。
「そんな、バカな……」
人間に、できる芸当ではない。
そして、同じ事を秋人は昨日も見たのだ。襲ってきた男の拳が、壁を砕いたところを。
「言ったでしょう、先輩。彼は既に死人なんです」
いつの間にか、美夜が横に立っていた。
「遠慮することはありません。彼の肉体を破壊することこそが、死んでもなお苦しみの中にいる彼を救う、唯一の方法になるんです」
「な、何を言っているんだ、お前……」
理解が、出来なかった。
「だから先輩――」
尻餅を付いていた秋人に、美夜が手を伸ばす。
「先輩の手で、彼を止めてあげてください」
「俺の、手、で……!?」
伸ばしかけた手が、止まった。
驚愕に目を見開き、頭の中で彼女の言葉を反すうする。
(先輩の手……つまり、俺の手で……)
だが、考える暇もなく――。
振り返った男の拳が、秋人の腹部にめり込んでいた。
ドンッ!
「ぐふぅっ!」
「先輩!」
声を上げた美夜の声が、あっという間に遠のく。
数メートル、いや、軽く十メートルは吹き飛ばされた。
そして激しく地面に叩き付けられる。
「ぐぼぉっ!」
衝撃が全身を走り、熱い液体が口から吐き出された。
(い、今のは……)
錆びた鉄のような臭いが、ツンと鼻につく。
うつ伏せに倒れる彼の目の前の地面には、鮮血が広がっていた。
(血……!? 俺が吐いたのか……!?)
激痛を噛みしめながら、秋人はその事実に愕然となる。
よくマンガなどで、キャラクターが殴られて血を吐くとしうシーンは見たことがあったが、まさか自分が血を吐いてしまうとは、夢にも思わなかった。
(ま、マジでやばいだろ、この状況……)
殺される。このままでは。
やりたいこと、やり残したこと、まだまだたくさんあるのに――。
「く、くぅ……っ」
何とか立ち上がろうと、手に力を込める。
だが、胸の辺りが焼けるように熱く、奥の方から血がこみ上げてくる。石畳を破壊するほどのパンチだ。骨が折れ、内蔵も破裂しているかもしれない。
「ち……ちく、しょうっ……!」
地面に付いた腕が、ブルブルと震えている。これでは立ち上がれたとしても、逃げ出すのは不可能だ。
「きゃああっ!」
ふいに、少女の悲鳴が耳に届いた。
(――夕月……!?)
ハッと顔を上げる秋人。
そこには、男に片手で首をつかみ上げられている美夜の姿があった。
十メートルは離れたこの位置からでもわかるほど、彼女の顔は青ざめている。
「せ、せん……ぱい……たす、け……て……」
美夜が苦痛に顔を歪めながら、秋人の方へ手を伸ばす。
「夕月っ――!」
瞬間、秋人の頭に、昨日の彼女の言葉が甦る。夜の公園で、切なそうな瞳を向ける彼女から紡がれた、あの言葉。
「渡利先輩。わたしのこと……守ってくれますか……?」
ドクンッ。
心臓が、大きく鼓動した。
(そうだ。俺は、誓ったんじゃないか……)
例え流されて答えたのだとしても、守りたいと思ったのは本当である。
そして、もしここで助かったとしても、助からなかったとしても、ここで誓いを守らなければ、最低の男になってしまう。自分を好いてくれる女の子を見捨てる、最低男に――。
(それだけは、しちゃいけねえよな……)
それは自分が死ぬよりもつらく、そして苦しいことだ。
「ぐっ……! ぐぅぉぉぉっ……!」
力の入らない身体に、それでも気力を注ぎ込む。全生命力をかけ、全神経を集中させる。
(どうせ死ぬなら……誓いを守って死んでやる!)
立ち上がろうとする度に、身体が悲鳴を上げているのがわかる。それでも、格好悪い死に方だけはしたくない。
「……離……せ……」
口の中に溜まった血を吐き出し、秋人は言う。
「せ……ん……ぱい……」
呼吸もままならない状態で、それでも美夜は彼を見て、嬉しそうに口を開いた。
「ウウーッ」
彼女の視線を追い、男が振り返る。
「離せって……言ってんだろうがっ!」
そこには、震える足で、それでも懸命に男を睨み付けている秋人がいた。
叫んだ拍子に、またも血がこみ上げてきて、彼は咳をする。立っているのがやっとの状態だった。
ニヤリと、男は面白そうに笑った。
美夜から秋人へと興味を移し、彼女を地面に投げ捨てる。
「ぐぅっ! ……ごほっ、ごほっ……ごほっ……」
うずくまり、咳き込みながらも、彼女は急いで空気を取り入れた。苦しそうだが、これでとりあえず大丈夫だろう。
秋人は安心したように笑みを浮かべる。
「さあ! お前の相手は、俺がしてやるぜ!」
その声を聞き、美夜は慌てて顔を上げた。
「先輩、だめっ! まだ力が――」
だが、彼女の叫びは届かない。
「ガァァッ!」
咆哮と共に、赤い目が動く。
男が駆けると、あっという間に秋人の前まで迫っていた。
「こ、この――」
驚き、咄嗟に拳を振り上げる秋人。だが、男に比べると、全てが遅い。
そして次の瞬間。
ズンッ!
秋人の背中から、男の腕が突き出ていた。
左胸――丁度、心臓のある部分を。
「そ、そん……な……」
自分の胸に、男の腕が突き刺さっているという事実。
さらに激しさを増す苦痛。
秋人は、死を確信した。
「そりゃ……ないよな……」
何もできず、何も守れず死んでいく。自分の惨めさに、もう笑うしかなかった。だが、身体の方は笑うことができない。
(せめて……今の内に逃げてくれよな……夕月……)
男の背中越しに、座り込んだままこちらを見ている夕月の姿があった。だが、目がかすんではっきりとは確認できない。
(守れなくて、ごめん――)
意識が、急速に遠のいていく。
そして、男は腕を引き抜くと、ゴミでも捨てるかのうように、秋人を放り投げた――。
(……え? 何だ、これ……?)
遠のいたかのように思えた秋人の意識は、消えてはいなかった。
周囲は暗闇で、まだ状況が確認できない。
だが、腕には奇妙な感触があった。
グシャッ! グシャッ!
断続的に響く、どこか不快な音。
まるで豆腐のような柔らかいものが、砕け、壊れていく。
(俺は……何をしている……!?)
この感触は、前にも感じたことがあった。そう、ごく最近に、同じ感触を――。
ビチャッ!
熱い塊が顔にかかるのを感じたそのとき、突然秋人の視界は開けた。
(えっ……!?)
一瞬、目の前にあるのが何だかわからなかった。そんな奇妙な形のものは、見たことがなかったのである。
しかし、自分の拳と共に飛び散る肉片を見たとき、彼は確信した。
(さっきの男だ……! しかも、首がなくなってる……!)
そう。目の前にあるのは、ヴァンパイア化し、秋人の胸を貫いた男の、変わり果てた姿であった。
(もういい! やめろ! やめろよ!)
憎い相手だが、男は既に原型を留めていない。これ以上やる必要はなかった。
だが、自分の身体は意志とは無関係に動き、攻撃を続けている。
肉を砕く。引き裂く。えぐる。飛び散る――。
驚いたことに、男には血があった。しかし外気に触れた瞬間に、蒸発していってしまう。
(……そうだ、俺は……)
今こそ、秋人ははっきりと思い出した。
これと同じことを、昨日も体験しているのである。
公園で、美夜に「守る」と誓った後――。
彼女は、突然キスを迫ってきたのだ。いや、キスではない。彼女は秋人の首筋に噛み付き、血を吸ったのである。
そして意識が飛び、気が付いたら今と同じ状況になっていた。自分の身体が勝手に動き、男の肉体を破壊しているという、奇妙な感覚に。
(だけど、何故だ? 何故なんだ?)
本当に美夜が、ヴァンパイアなのだろうか。
人間の血を吸い、暴走させるのが目的なのか。
だが、それだといくつも矛盾が生じてしまう。
何故、秋人は暴走して死ぬことがなかったのか。それに、彼女自身もヴァンパイア化した男に襲われているのである。
(わからない、わからない――)
秋人の頭は混乱するばかりだ。
(そうだ、夕月は……?)
ふと気が付き、秋人は美夜の姿を探してみた。
彼女は――いた。
目を伏せがちにして、悲しそうに秋人の方を見つめている。
(何だ……あの表情……)
この状況は、彼女の望み通りではないとでもいうのだろうか。
(理解が、できない……)
やがて。
男の肉は全て砕け、全ての血は蒸発した。
それを見届けると、身体は動きを止める。と同時に、離れていたような感覚の意識が、身体の方に戻っていった。
途端に、激しい苦しみが秋人を襲う。
当然だ。骨と内蔵は砕け、心臓が貫かれているのである。
「ぐっ……があっ……!」
倒れ込み、胸を押さえて悶える秋人。
死は目前だ。
「先輩っ!」
慌てて、美夜が抱きしめてくる。
彼女の目には、涙がにじんでいた。
「もう、大丈夫ですから――」
そう言うと、彼女の唇が、秋人の唇をふさいだ。
(え……?)
苦痛の中に、柔らかく、温かい感覚が流れ込んでくる。
それは、どのくらいの時間だっただろうか。
美夜のキスで、痛みが消えてしまったのである。
それだけではない。驚いたことに、身体の傷も全て消えていたのだ。
秋人の目が開くと、美夜はゆっくりと唇を離した。
「大丈夫……ですか?」
と彼女は訊ねる。
「あ、ああ……」
秋人は答えた。
「よかった。今度は意識、あるみたいですね」
「…………」
なるほど、と秋人は思う。
昨日、記憶がなくなってしまったのは、あまりにショックが強すぎたためなのだろう。今回は二回目だから、耐性ができていたのかもしれない。
「……どういう……ことなんだ?」
身を起こしながら、秋人は低い声で訊ねた。
「お前……俺に何をしたんだ?」
「……わたしは……」
小さくひとつ、深呼吸し、彼女は意を決して言った。
「わたしは……ヴァンパイア、の子孫です……」
「ヴァンパイアの……子孫?」
「はい。遠い遠い昔、ヴァンパイアは実在していたんです……。でも、やがて人間と混じり、血は薄まり……完全な人間になっていた……」
「…………」
秋人は、黙って彼女を見つめ続ける。
「でも、ごくまれに……隔世遺伝というそうですが……ヴァンパイアの血が濃い子供が生まれることがあるんです……」
「……それが夕月って、わけか?」
「はい。とはいっても、決して完全なヴァンパイアではないんです。特殊な能力をいくつか、使えるだけで……」
美夜は説明する。
彼女の特殊能力。それは、血を吸った相手を、自分の下僕にできること。しかし、永久にというわけではない。人間の血は、三ヶ月で新しい血に変わると言われているが、彼女も同様で、吸った相手の血が体内からなくなれば、下僕から解放されるという。
そして下僕になった人間は、普段は何ら変化はなく、服従させることもできないが、主が危機に遭遇したとき、通常の数倍の力を発揮し、守ることができるのである。しかし、それには厄介な条件があり、必ず力を発揮できるというわけではなかった。主の危機の度合いで確率が変動するものの、完全にランダムなのである。先程、美夜が首を絞められたときに、秋人に力が出なかったのは、このためだった。
もうひとつ。何らかの理由により、下僕が行動できなくなったとき。主の意志により、例えどんな大きな怪我を負っていたとしても、それを無視して強制的に力を発揮させることができた。しかし、これは一旦発動させれば、敵を殲滅するまで主の意志でも止めることはできない。つまり、ほとんど暴走状態になってしまうのである。
そして、それが終わった後にした、美夜のキス。主の口付けは、下僕の傷を完全に癒やすことができるのだ。
「ごめんなさい……。わたしの能力が不完全なせいで、先輩に苦しい思いをさせてしまって……」
「……それは、別にいい」
と秋人は言った。
「……え?」
意外な言葉に、美夜は目を見開く。
「それより……どうして、先に教えてくれなかったんだ? 俺は朝から、何度も訊いたはずだよな?」
「……それは……」
思わず、美夜はうつむいてしまう。
「実際に、危機的状況にならないと、信じてもらえないと思ったから……」
「……なるほど」
と頷く秋人。
彼は、自分でも奇妙なくらい冷静になっていた。あまりに異常な状況のせいで、逆に落ち着くことができたのかもしれない。
「確かに、ヴァンパイアの子孫だからどうとか、口で言われただけじゃ、信じなかっただろうな……。それじゃ、次の質問だ。――何故、俺を選んだ?」
「…………」
美夜は、口を開かない。
「お前……俺を好きだとか何とか、言ってたけど……どうせ嘘なんだろ? 俺みたいなもてない奴は利用しやすかった……。そんなとこだろ?」
「ち……違いますっ!」
美夜は大きな声で否定した。
そう。それだけは、絶対に違う――。
「わ、わたしだって、誰でもいいってわけじゃなくて……渡利先輩だから……。好きになった渡利先輩に、助けて欲しかっただけでっ……」
パシッ。
境内に、渇いた音が響いた。
秋人が、平手で彼女の頬を殴ったのである。
「ふざけるなよ……」
低い声を出し、彼は美夜を睨み付けた。
「……先輩……」
驚き、呆然となり、そして彼女の表情は悲しみへと変わっていく。
「俺はなぁっ……! マジで死にかけたんだよ! 殺されるのを覚悟して、お前を守ろうとしたんだよ!」
「…………」
「それが……何だよ! 力が出せるのがランダムだとか……それに暴走? 助かる方法があるなら、何で最初から使わなかった!? 俺がもがいてるのが、そんなに面白かったのかよっ!?」
「あれは……先輩が行動不能にならないと、使えないんです……」
「……とにかくだ!」
地面を叩き、秋人は勢いよく立ち上がった。
「お前には、付き合ってられねえよっ……」
「先輩っ……!」
「触んなっ!」
袖をつかもうとした彼女の手を、秋人は払いのける。
「あっ……」
「もう……俺の前に現れるな。顔も見たくねえよ……!」
吐き出すようにそう言うと、秋人は美夜を置いて歩き出した。
「……せ……先輩……」
呟く彼女の声が、震えているのがわかった。
自分が、ひどいことを言っているのはわかっている。だが、どんな理由があろうと、結局は彼女に利用され、死にかけたのだ。許すことはできなかった。
「ご……ごめんなさいっ!」
突然の美夜の叫びに、秋人は思わず足を止めてしまう。
「謝ります! 謝りますからっ……だから、行かないで先輩……!」
「…………」
「先輩に行かれたら、わたしっ……もう頼れる人がいないんですっ……!」
「……うるせぇよ……」
ぼそりと、秋人は呟いた。
奥歯がきしむほど、強く噛みしめ、爪が食い込むほど、拳を握りしめる。
「もう、しゃべんな……!」
最後にそう言い残し、彼は走り出す。一刻も早く、彼女から離れるために。
「先輩っ!」
美夜の叫びは、届かない。
拒絶されたのだ。完全に。
「渡利……先輩……」
彼女の頬を雫が伝い、こぼれ落ちた。
どうして、こうなってしまったのだろう。
あのとき、きちんと秋人に力が発揮できていれば、こうはならなかったはずだ。
……いや、違う。多少展開が変わっただけで、きっと同じように、彼は自分を許さないだろう。
彼の意志を無視して勝手に血を吸い、下僕としてしまったから――。
「でもあのときは……」
ああしなければ、助かることはできなかった。
美夜自身には、戦う力はないのだから。
しかし、全てはもう遅い。
結果として、秋人は去ってしまった。不器用な、美夜の行動によって……。
「……せん……ぱい……」
彼女の涙は、止まらない。
やがて日は完全に沈み、美夜の姿は深い闇の中に呑まれ――そして見えなくなった。
第二話
仲のいい、男の子がいた。
父を亡くし、引っ越してきた美夜の家の近所に住む子である。
名前は池田浩一。おとなしく、女の子のような顔立ちでからかわれていたりもしたが、とても優しい性格で、美夜は彼のことが大好きだった。
初恋――だったのだろう。
他の男の子から好きだと言われたこともあったが、美夜は浩一以外の子に興味を持てなかった。
幼稚園から小学校に上がっても、二人はいつも一緒にいた。直接言ったことはないし、言われたこともなかったが、きっと浩一も自分を好きで、相思相愛なのだろう、と美夜は勝手に信じていた。嫌いだったら、一緒にいてはくれないはずである。
しかし、小学校といえば、男女を意識し始める時期だ。当然二人も、クラスメイトにしばしばからかわれることがあった。それが嫌で離れてしまうというケースはよくあるが、二人にそんなことはなかった。美夜もかなり恥ずかしい思いをしたのだが、何と浩一がそれをはねのけたのである。
「ボクだってからかわれるのは恥ずかしいけど、でも美夜ちゃんとはずっと仲良くしていたいから」
「浩一くん……」
もちろん、美夜がますます彼のことを好きになったのは、言うまでもない。
しかし、段々と学年が上がるに連れて、彼女は自分の中の異変に気付き始めた。
(何だろう、最近……。ときどき……妙に……)
わかっている。自分でも、わかっているのだ。
(妙に……血を、吸ってみたくなる……)
不思議な、いや、異常な衝動が、時折沸き上がってくるのである。
自分の血を舐めて、軽く吸ってみるくらいなら、誰でも経験があるだろう。だが、そうではない。人の首筋に噛み付き、歯を立てて――コクコクと喉を鳴らしながら、飲んでみたいのだ。
(でもそれじゃあ、まるで――)
本やテレビで、美夜も知っていた。そうやって血を吸うのは、ただひとつ――ヴァンパイアだけなのだ。
もしかして、それは誰にでもある症状なのだろうか。そう思い、美夜は浩一に訊いてみたことがある。
「……え? 血を吸いたくなることはないかって?」
「う、うん。そういう気分になること……ない?」
「ボクはないけど……。美夜ちゃんはあるの?」
「うん……ときどき……。それって変かな……?」
「……変、かも」
……ショックだった。
浩一に変だと言われたこと。しかし何より、こうして向かい合って会話をしているだけだというのに、彼の首筋を見つめてしまっているという事実にだ。
(どうしよう、わたし……。浩一くんの血を……吸いたいと思ってる……)
普通じゃない、と思った。周りには、自分の傷口にできたかさぶたを剥いて、舐めている男の子が何人かいたが、それとはわけが違う。
自分の血が吸いたいのではない。他人の血を、襲って吸いたいのだ。
こんなこと、誰にも相談できない。できるわけがない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう――。
「トマトジュースなんて、どうかな?」
悩んだ様子を見かねたのか、浩一がそう言ってきた。
「え……?」
「ほら、よくマンガでヴァンパイアが血の代わりに飲んでるじゃない。あれじゃ、だめかな?」
「……トマトジュース……」
確かに、美夜もそんな場面を見たことがあった。試してみる、価値はあるのかもしれない。
さっそく、母親の亜沙美に頼んで買ってきてもらった。
そして口を付ける――。
「まずい……」
吐いてしまった。どうも口に合わないようだ。
色は赤いし、錆びた鉄のような味はするが、血とは違う。マンガのヴァンパイアは嘘なんだと、美夜はこのとき、はっきりと確信した。
しかし、血を飲みたいという衝動は、ますます高まってしまう。
そこで――彼女は思い切って、自分の身体を傷つけることにした。
カッターを手にし、腕に近づける。
もちろん、自分を傷つけるのは怖い。だが、それ以上に血を飲みたいという衝動が止まらないのだ。
「くっ……」
歯を噛みしめ、スッとカッターを引いてみた。やはり怖くて、深い傷にはならなかったが、線になった傷口から段々と血がにじみ出てくる。
美夜は、口を付けてみた。そして舌をあて、舐めとる。
「……だめだ……」
確かに、血の味だ。トマトジュースではない、本物の血だ。
だが――満足できない。やはり、自分の血ではだめなのだ。他人の血でなければ。
「でも……誰かを襲うなんて、そんなことできないよ……」
結局、彼女はその衝動を我慢することしかできなかった。
だが、それはとてもつらいことだった。
貧血気味で気分が悪くなり、身体はだるくなる。頭の奥の方で微痛が続き、物事に集中できない。それに誰かが怪我をして血を流したとき、すぐにも飛び付いてしまいそうになるのを、必死に我慢しなくてはならなかった。
あまりに調子が悪そうなのを、母親の亜沙美が心配し、病院に連れていったこともあったが、ただの生理痛としか診断されなかった。確かに、生理が始まった頃から、その時期に衝動が起きるようになった。だが、他の子とは明らかに違うと自分ではわかる。他の子は、気分が悪くなることはあっても、血を飲みたくなることはないだろう。なので、もちろん薬を飲んで治るということはなかった。
しかし――つらい。つらすぎる。
この衝動を、我慢すればするほど、段々とつらさが増していくのがわかる。
いっそ、襲ってしまおうかと思ったのは、一度や二度ではない。だが、それをしてしまえば、もう普通に戻ることはできない気がする。
「……何で……? もしかして、わたし一生こうなの……?」
苦しさに耐えながら、ベッドの中で何度も涙を流した。
「そんなの、嫌だよっ……」
自分の身体に爪を立て、食い込ませる。痛みでごまかそうとしたが、とてもごまかしきれるものではない。
「ううっ……」
「……美夜……」
ベッドの中で苦しむ彼女を見て、亜沙美はそっと部屋のドアを閉めた。
「どうして……? あんな苦しみ方、おかしいわ……」
亜沙美も、美夜がつらいのは生理のせいだろうと思っていた。女性の中には、症状が重い人もいるからである。だが、あそこまで苦しむのは、あきらかにおかしい。
そこで再び、美夜を病院に連れていったのだが、やはり診断は同じ。他の病院にもいくつか行ってみたが、結果は変わらなかった。
「美夜がこんなに苦しんでるのに……」
と不満を口にする亜沙美に、
「大丈夫。……大丈夫だから」
美夜は無理に笑顔を浮かべて言うのだった。
「……美夜……」
これでは、どちらが心配されているのかわからない。
「……本当に大丈夫なの? 薬飲んでも、全然楽にならないみたいだし……。そんなにつらいなら、学校休んでもいいのよ?」
「大丈夫だよ。病気なわけじゃないんだから……」
「でも……」
「心配しないで、お母さん」
「……わかったわ。でも、絶対無理はしないでね」
「うん。わかってる……」
微笑む美夜。
しかし本当は、休ませたかった。病気ではないといっても、こんな体調なのだ。だがそれでも美夜は学校に行くことを望んでいる。そんな娘を、亜沙美は止めることはできなかった。結果的に――それが間違いだったと、亜沙美はひどく後悔することになるのだが。
美夜に異常な症状が出始めて、約一年が過ぎた。
そして小学六年の三学期も終わりに近付いたある日のこと。
「……大丈夫? 美夜ちゃん、今日も体調悪そうだけど」
奥歯を噛みしめ、苦痛に耐えていた美夜の顔を、浩一が心配そうに覗き込んできた。
「あ……浩一くん」
うつむいていた顔を上げ、美夜はわずかに微笑む。
「……うん、大丈夫だよ。いつものことだから」
「そう……」
いつものこと。確かに、いつものことだ。
最初の頃は心配していたクラスメートたちも、今では「いつものことだから」と、誰も心配する者はいない。そしていつも体調の悪い様子の美夜には、自然と人も寄らなくなり、すっかり「暗い女の子」という認識がされているのだった。
ただ一人、浩一を除いては。
「ほら、美夜ちゃん。ホームルームも終わったし、帰ろうよ」
「あ……終わってたんだ。気付かなかったよ……」
「……だめだよ、聞いてなきゃ」
「あはは、そうだね。……それじゃ、帰ろっか」
そう言って美夜は、椅子から立ち上がりかけるが、めまいがし、よろめいてしまう。
「く……」
「危ないっ」
慌てて支える浩一。
「あ……ご、ごめん」
「いいから。ほら、しっかり立って」
「う、うん……」
彼につかまり、体勢を立て直す美夜。
正直、彼には申し訳ないと思っている。自分といつも一緒にいるせいで、彼もまた、友達が少ないのだ。
(わたしのせいで――)
実際、迷惑をかけるからもう構わなくいい、と何度も言ったこともある。美夜自身も、自分と一緒にいたところで、いいことはないと思っているのだ。
それでも彼は、彼女と共にいることを望んだ。
「気にしないでよ。幼なじみなんだし、助け合うのは当然じゃない」
幼なじみ。いくらそうだとしても、それだけでここまでしてくれるものなのだろうか。
きっと彼にはそれ以上の気持ちがあるのだと、美夜は信じていた。しかし。
(そりゃあ、わたしは浩一くんのこと、幼稚園の頃からずっと好きだったけど……。で
も、今のわたしは、浩一くんに好きになってもらえるような魅力なんて、ないよ……)
彼の優しさが、今は重い。
「でも、本当にどうしてだろうね」
学校からの帰り道。ふらふらと歩く美夜を支えるようにしながら、浩一は言った。
「病気でもないのに、美夜ちゃんがこんなに調子が悪いなんて……」
それは幾度となく、繰り返されてきた疑問だった。
原因は、誰にもわからない。それでも、思わず口にしてしまうのだ。どうして、と――。
「いつか……治る日が来るのかなあ……。そうすれば、また美夜ちゃんの笑った顔が見れるのに……」
「浩一くん――」
驚いたように、美夜は彼の顔を見る。
「あ……ごめん。一番つらいのは美夜ちゃんなのにね……」
「ううん。わたし、いつも浩一くんに助けられてるから。ありがとう、浩一くん」
「あはは。そう言われると、照れるなあ」
浩一は、ごまかすように頭を掻いた。
彼の笑顔が、美夜は好きだ。彼の笑顔を見ると、安心することができる。
彼になら――話してもいいだろうか。母親にもずっと秘密にして言わなかった、あのことを。
「あのね……浩一くん。わたし、自分では何となく原因わかってるんだ……」
「え……?」
「多分……ううん、きっと間違いないと思う。わたし自身信じられないんだけど……」
「……そうなんだ? いいよ、話してみて」
浩一は、真面目な表情で頷いてみせる。
「……浩一くん……」
口を開きかける美夜。だが、その口からは言葉が紡がれることなく、そのまま閉じられてしまう。
これから話そうとすることは、あまりに突拍子もない事なのだ。自分でも信じられないのに、果たして彼が信じてくれるかどうか。
信じてくれなかったとき――。そのときが、怖い。
「大丈夫。美夜ちゃんの言うことなら、ボクはどんなことでも信じるよ。美夜ちゃんがボクに嘘をついたことはないからね」
「……ありがとう、浩一くん……」
嬉しかった。浩一は、自分を信頼してくれている。彼なら、きっと真剣に聞いてくれる。
そう確信し、美夜は話してみることにした。
「わたしね……あの……血が、飲みたくなるの……。もうどうしようもなく、我慢できないくらいに」
「……血?」
浩一が、眉をひそめる。
「血って……身体の中を流れている、あの血?」
「うん……その血。まるで……ヴァンパイアみたいにね、人を襲って飲みたくなるの」
「…………」
「自分の身体を傷つけて、飲んでみたこともあるけど、それじゃ全然だめなの。誰かの……他人の血が飲みたい。……でも、さすがにそんなことできるわけないしね」
「…………」
「だから、ずっと我慢してた。我慢して、我慢して――でもそうしたら、どんどん気分が悪くなって、体調も悪くなっていったの。最初の頃は、血が飲みたくなるのは月に一回くらいのペースだったけど、段々感覚は短くなっていって、今では体調も戻らなくなっちゃって……」
「……美夜ちゃん……」
「何なんだろうね、わたし……。病院では異常はないって言われるのに、こんな風になっちゃうなんて……。もしかしたら、本当にヴァンパイアだったりして」
「……美夜ちゃんっ」
「あっ……」
浩一に肩を揺すられ、彼女は我に返る。
「泣いてるよ、美夜ちゃん……」
「え? ……あ」
自分の頬に触れ、美夜は初めて自分が涙を流していることに気付いた。
「ご、ごめん、浩一くん」
慌ててハンカチを取り出し、拭い取る。
ここは通学路で、まばらとはいえ、同じ方向へ帰る児童もいるのだ。こんな所で泣いては、浩一が美夜を泣かしたように見えてしまうかもしれない。
だが――涙が、止まらなかった。
初めて自分の秘密を話して、張り詰めていた気が緩んだのか、次々と溢れてきてしまう。
(どうして、わたし――)
一体、何度この境遇を呪っただろうか。何故、自分だけがこんな苦しみを味合わなくてはならないのか。つらかった。苦しかった。助けてほしかった。
(やだよぉっ……! こんなの、もう耐えるのやだよぉっ……!)
声を押し殺しながら、美夜は心の中で叫んだ。
助けて。助けて。助けて――!
「いいよ」
優しい声が、美夜の耳に届く。
「え……?」
顔を上げると、そこには何故か微笑んだ浩一がいた。
「ボクの血でよかったら、飲んでもいいよ」
「……なっ……う、嘘でしょ……?」
美夜は大きく目を見開く。
信じられなかった。自分は、血を飲みたいと言ったのだ。普通なら、変人扱いされて、嫌われても当然だというのに。
「こ、浩一くん、わたしの言ったことわかってる?」
「わかってるよ。ほら、ここじゃ人の目もあるし、そこの公園に行こうよ」
「あっ……」
浩一は美夜の手を取り、強引に引っ張っていく。
わかっていない。浩一は、絶対にわかっていないのだ。でなければ、そんな笑顔でいられるはずがない。
しかし――心の奥では、「飲んでもいいよ」といった彼の言葉に、期待感を抱いている自分も確かにいた。
(バカ……! 何考えてるの、わたしのバカ……!)
飲めるはずがないではないか。
幼なじみ。そして、大好きな人。
もし、仮に自分が本当にヴァンパイアだとしたら、彼がどうなってしまうのか。それを考えれば、絶対に実行はできない。してはならない。
「は、離してっ」
公園に入り、何歩か進んだ後、美夜は手を振りほどいた。
「美夜ちゃん……?」
不思議そうに首を傾げる浩一。
そんな彼に、美夜は呆れてしまう。
「何考えてるの、浩一くん! わたしの話、本気にしてないんでしょ!?」
「え? そんなことないけど」
「嘘! 本気にしてないから、飲んでもいい、なんて言えるんだよ! 大体、浩一くんはいつものんびりしてて――えっ!?」
彼女の言葉は、途中で遮られた。
突然浩一に、抱きしめられたからである。
「なっ、なっ……」
驚きのあまり、口をパクパクさせる美夜。
「本気だよ」
囁くような彼の声が、美夜に流れ込んでくる。
「最初に言ったじゃない。美夜ちゃんの言うことなら、ボクはどんなことでも信じるって。だから――さっきの話も信じるよ」
「だ……だって、だって……」
信じられないのは美夜の方だ。
「血を、飲むんだよ……?」
「うん……。でも、こんなに苦しんでいる美夜ちゃんを見てるの、つらいんだ。だからボクの血で助かるなら、いいよ。幼なじみだし、助け合わなきゃ……って言うのは、今さらずるいかな」
浩一は照れたように頭を掻いた。
「ボクは自分の好きな女の子を、少しでも助けてあげたいんだ」
「……えっ……」
思わず、美夜は息を呑む。
「浩一くん、今……」
「うん。ボクは美夜ちゃんのこと、ずっと好きだったよ。今まで言えなかったけど、美夜ちゃんも勇気を出して、秘密を教えてくれたしね」
「…………」
美夜は、自分の全身がカッと熱くなってくるのを感じた。
「だから、ほら」
シャツのボタンを外し、首筋を見せる。
「遠慮しなくていいから」
「……浩一、くん……」
ドクン、と美夜の心臓が大きく鼓動した。
熱を持った身体から、汗が噴き出し、頭がぼんやりしてくる。
両想い――両想いだったのだ。もしかしたら、自分のこの想いは一方的なものかもしれない、と不安に感じていた。それが、報われた瞬間……。
だが。
美夜の身体が反応したのは、違うことだった。
許可が、出たのである。血を飲んでもいいという、許可が。
飲める……血が、飲める――。
(だめっ!)
身体が欲する要求を、美夜は懸命に否定した。
(だめ……だめだよっ……! いくらいいって言われても……どうなるか、わからないのにっ……! 好きな人の血を飲むわけにはいかないよっ!)
しかしそんな理性は、急速に薄れていく。
(でも……血が、飲める。飲めば、この苦しみから解放されるかもしれない……)
ぎゅっ、と美夜は浩一の背中に腕を回した。
惹かれていく。彼の首筋に。そこを流れる、赤い血に。
(……欲しい……浩一くんの血……)
そしてゆっくりと、顔を上げる。
我慢はできなかった。何しろ、今まで一年間も耐えてきたのだ。我慢に我慢を重ね、既に限界に達していたのである。
「み……美夜ちゃん?」
虚ろな目で見上げる彼女に、浩一もさすがに不安を覚えた。
「あ、あの……あんまり痛くしないで……ぅぐっ!」
言いかけた、途中だった。
彼の首に、美夜は食いついていた。
前歯の犬歯が伸び、首筋にめり込んでいく。
「ぐっ、ううっ……!」
激しい痛みが走り、浩一が呻いた。
しかし美夜は構わず、動脈に傷を付けた。そこから流れ込んでくる血。浩一の血。
(ああ……)
口の中に広がる感触に、美夜は恍惚となる。
特に、おいしいとは思わなかった。だが、たまらなく心地よい。全身が、癒やされていく。
(ずっと、こうしていたい……)
まさに、彼女は至福を味わっていた。
だが、そんな時間が、突如として邪魔されてしまう。
「おおっ、池田と夕月が抱き合ってるぜ!」
「すげぇ! あいつら、やっぱりそういう関係だったんだ!」
クラスメイトの男子、前川と山田だった。
ランドセルを背負っているところからして、帰り道の途中で偶然見付けてしまったのだろう。
小学校高学年といえば、異性のことに興味はあるが恥ずかしくて行動に出せない時期でもある。堂々と抱き合っている二人を見て、彼らもすっかり興奮したようだった。
「ヒューヒュー!」
はやしたてるかのようにそんな声を出しながら、彼らは近付いてくる。だが、すぐそばにまでやってきたとき、ようやく何かがおかしいことに気付いた。
「え……?」
「お前ら、何やって……」
怪訝な顔を向ける前川と山田。そして彼らは見た。浩一の首筋に、美夜が歯を突き立てているところを。
「なっ!?」
驚愕の声を上げる二人。
彼らに反応するかのように、美夜は身体を離した。そしてゆっくりと、彼らに顔を向ける。小さく笑みを浮かべるその唇は、赤く濡れていた。
「お、お前っ……!」
さすがに、彼らにもわかった。美夜が、浩一の血を吸ったのだと。
それを裏付けるかのように、浩一の身体からは力が抜け、地面に崩れ落ちる。
「お、おい、池田!」
「夕月、お前何やったんだ!」
美夜を睨み付けながらも、二人は先に倒れた浩一に駆け寄った。彼女を責めるよりも、今は浩一の方が心配である。
「池田! おい、池田!」
声をかけながら、うつ伏せだったのを仰向けにする。
そこで二人は、眉をひそめた。
「傷が、ない……?」
そう。彼の首筋には、何の傷も、血の跡すらもなかったのである。確かに先程は、美夜に噛まれていたというのに。
とはいえ、こうして浩一が倒れたのは事実だ。気を失っているのか、彼は目を開いたまま、ぴくりとも動かない。
「しっかりしろよ、池田!」
「起きろよ、おい!」
もしや、死んでいるのでは――。
そんな思いが、彼らの脳裏をよぎる。
しかし、そのときだ。浩一に、変化があった。
開いたままの彼の瞳が、赤く――血のように真っ赤に、染まっていったのである。
「うわっ!」
「な、何だ、これっ……」
二人は思わず後ずさる。と同時に、彼らの耳に音が聞こえてきた。
ヒュッ! ゴギッ!
短く風を切る音。そして何か硬いものが折れる音だ。
瞬間、山田は自分の目を疑った。
たった今まで、目の前にあったはずの、前川の顔がなくなっていたのである。
あるのは、真っ赤な――噴水のように真っ赤な血を噴き出す、首のない前川の胴体だけだったのだ。
「ぅ……わ、あ、あああああああっ!」
鮮血を全身に浴び、山田は悲鳴を上げる。腰が抜け、尻餅を付いたまま慌てて後ろに下がった。
数メートル先の地面に、ドサリと落ちる前川の頭。
間違いない。彼は、首を切られたのだ――。
「あぅわぅわわっ」
まともに声が出ないほどに、山田の身体は硬直していた。恐怖のあまり、動くこともできない。
「ウ、ウウ……」
唸りながら、浩一は立ち上がった。その表情には精気はなく、赤く染まった瞳で山田を見据えてくる。
「ひぅ、あ、あぅっ」
口をパクパクさせながら、山田は顔を歪ませ、涙を浮かべた。
怖い。だが動けない。逃げられない――。
(何なんだ! 何なんだよぉ、これはっ!)
今、目の前に起きている現実を、彼は理解することができなかった。無理もない。常識ではありえないことが、起きているのだから。
「ガァッ!」
声を上げ、浩一は右手を振り上げる。
「ひぃっ!」
彼の手が山田の額をつかみ、そしてその勢いのまま地面に叩き付けられた。
ゴッ!
「ぐあっ!」
後頭部に激しい振動が起きる。意識が飛んでもおかしくない痛み――だが、そうはならなかった。
地面に押し当てたまま、浩一はさらに力を込めたのである。人間には出すことが不可能な強さで、だ。
メキメキメキッ!
「ひ、いぎゃああああああっ!」
山田の頭蓋骨が悲鳴を上げる。
「ああ! あああああああああっ!」
絶叫。最後の絶叫だった。
ビキィッ! ブシュゥゥッ!
骨が砕け、裂けた頭頂部から、潰れた脳味噌が飛び出した――。
「グゥゥ……」
動かなくなった山田を見て、浩一は隣で倒れている前川の身体もつかみ上げる。
そして、投げた。
小さなグラウンドに張られている、金網に向かって――。
ガシャァァンッ!
金網が激しく揺れ、大きな音を立てる。
二人の少年の身体は、金網に深くめり込んでいた。
その音で、恍惚に浸っていた美夜は、我に返った。
「えっ……? わたし、今何を……?」
意識が、混乱していた。
浩一に抱き付き、それから……?
「わからない……」
頭を振る美夜。だが、妙に気持ちよく感じていたのは確かだ。先程まであった、身体のつらさもなくなっている。元の状態に戻れたのは、久しぶりだった。
「もしかして――わたし飲んだの……!? 浩一くんの血を……!?」
美夜は思い出す。そうだ、飲んでしまったのだ。身体の奥から沸き上がる、衝動を止められずに――。
そこで、彼女はようやく顔を上げる。
「え……!?」
そこに、浩一はいなかった。
代わりに、ツンと鼻につく異臭。そして赤く染まった地面。
「血……!? まさか!?」
慌てて周囲を見回し――美夜は、金網に異様なものが張り付いていることに気付く。首のない身体と、頭の潰れた身体が、血を垂れ流しながら、めり込んでいることに。
「ひっ……!」
と息を呑む美夜。
この錆びた鉄のような臭いは、本物だ。本物の血の臭いだ。
そしてあれも作り物ではない、本物の人間の死体だ。
「ど、どうしてこんなっ……」
ドン、と後ずさる彼女の背中に、何かがぶつかる。
振り返り、そこにいたのは、浩一だった。
「こ、浩一く……」
と言いかけて、美夜は顔を強張らせる。
違う。目の前にいる浩一は、彼女の知る浩一ではない。
瞳は赤く輝き、凶暴そうに歪んだ表情にはいつもの面影がなく、服は返り血で全身染まっていたのである。
「ガアアッ!」
浩一は咆哮し、走り出す。
「きゃっ!」
その拍子に転倒する美夜。
浩一が向かったのは、この公園では一番高く、十メートル以上もある大木だった。幅も一メートルはあるその大木に、彼は拳を振り上げ、殴り付ける。
ドゴォッ!
衝撃に、幹が激しく揺れた。だが、まだ倒れない。
二発、三発、とさらに浩一は続けた。
ビキビキッ!
と大木にヒビが入る。
「な、何をしてるの、浩一くん……」
美夜には、彼の行動が理解できなかった。
何故、大木を殴り付けているのか――。
まるで、抑えの効かない力を、どうにかして発散させようとしているかのように……。
「……わたしのせい? わたしのせいなの……?」
ハッとなる美夜。
彼のこの変貌が、もし自分が血を吸った影響だとするならば――。
もしそうなら、自分が止めねばならない。
「や、やめて! もうやめて、浩一くん!」
懸命に叫ぶが、彼の動きは止まらなかった。
そしてついに。
バキィィィッ!
大木が、折れた。
周囲の木々の枝を巻き込みながら、大地に倒れる。
「……こ、浩一くんっ……」
衝撃で揺られながら、美夜は見てしまった。
彼の手が真っ赤に染まり、原型がないほどに潰れてしまっているのを。
「な、何で……」
膝を付く美夜の目に、涙が溜まる。
「何で、こんなことに……」
彼の血を、飲んでしまったから。衝動を、抑えられなかったから。欲望に、従ってしまったから――。
「わたしのバカァッ! 好きな人の血を飲んで、それで楽になろうとするなんて、そんなの最低だよっ! わたし一人が苦しんでれば済むことだったのにっ!」
拳を、地面に叩き付けた。そしてきつく噛みしめた唇から、血がにじみ出る。
「こんな……こんな血のせいで……」
だが、今は後悔しているときではないのだ。
「きゃああっ!」
「うわあっ!」
聞こえてきた悲鳴が、彼女を現実へ引き戻す。
悲鳴を上げたのは、小学校からの帰宅途中だった数人の児童のものだった。突然大木が倒れたことで公園内を覗き、そして金網に張り付いた死体を見たのである。
怯えた彼らは、悲鳴を上げて逃げ出すことしかできなかった。
(そう。それでいい……)
と美夜は息をつく。
今、下手に浩一に近付けば、殺されるかもしれないのだ。逃げるのが、最良の方法である。
しかし――。
浩一は、彼らの後を追うかのように、公園の外へと向かいだした。
「だ、だめぇっ!」
美夜は立ち上がり、彼に駆け寄った。
(これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない――!)
浩一の背中に、彼女はしがみつく。
だが、彼は軽く腰をひねっただけで、美夜を振りほどいてしまった。
「きゃあっ」
地面に転がる美夜。
「こ、浩一くん……」
懸命な彼女の声にも、反応はない。
だが、彼女に対して力を使わなかったのは、何故か。かろうじて記憶が残っているからなのだろうか。
「いかないで、浩一くん!」
叫びながら、美夜は気付いた。
小型トラックが、向こうから走って来たのだ。このままでは、公園の出入り口を横切ることになる。最悪なことに、出入り口近くには車が駐車しており、そのせいで運転手も浩一も気付いた様子はない。
「お願いっ、止まってぇっ! お願いっ!」
絶叫。心からの願い、そして叫び。
しかし、彼女の願いは届かなかった。
ドンッ!
鈍い音と共に、浩一の身体が宙を舞った。
人間とは、こんな簡単に飛んでいくものなのか。彼は十メートルは離れた道路に落下した。
「やべえっ!」
とトラックの運転手である、中年の男は叫んでいた。
慌ててブレーキを踏むが、既に遅い。前方では、大量の血を流した少年が倒れている。
「ちっくしょう! いきなり飛び出してきやがるから!」
しかし、いくら相手に非があろうと、責任は運転手側にあることになってしまうのだ。
男は思わず周囲を見回した。辺りに人は少ない。
「どうする? 逃げるか、それとも――」
一瞬だけ、悩む。だが、逃げてもいずれは捕まるだけだ。ひき逃げとなれば、罪は重くなってしまうだろう。
「くそっ!」
男は、トラックから飛び降りた。こうなったら、何としても少年に無事でいてもらわねばならない。
「頼むぜ、生きててくれよ……」
祈る気持ちで彼に駆け寄っていく。
と同時に、男と同じように少年に近付く者がいた。
「浩一くんっ!」
泣き叫びながら、彼にしがみつく。
そんな少女の姿に気まずく思いながら、男は言った。
「悪いがどいてくれ! 俺が責任持って病院に連れていく! 君はこの子の親に連絡を取ってくれ!」
だが、少女は顔を強張らせたまま反応しない。
「どうした!? 早くしないと死ぬかもしれないんだぞ!?」
「……こ、こ、こう、い……」
彼女は、口をパクパクさせながら、指をさしていた。
「んっ?」
怪訝に思い、男は指の示す先を見る。そして、思わず悲鳴を上げていた。
「うわあっ!」
抱きかけた手を離し、尻餅を付く。
先程まで、確かに閉じられていた目が、開かれていたのである。血のように、赤い瞳が。男を真っ直ぐにとらえ、笑みを浮かべながら。
ズンッ!
潰れて原型のない浩一の手が、男の両肩を貫いていた。
「ぅぐっ!?」
何が起こったのか、男はすぐに理解できない。
伸ばされた浩一の腕を、血が伝っていく。
「なっ、なっ……!?」
彼が、状況を知るよりも先に。
浩一の腕が、上に上げられた。
ブツッ!
と音を立てて、男の肩口が切断される。
空にはね上がった彼の両腕が地面に落ちたのと同時に。
ブシュッ、と切断面から血が噴き出した。
瞬間、ようやく痛みが襲ってくる。
「ぐぅああああああっ!」
男は絶叫し、背中から倒れ込んだ。腕がないので起き上がることもできず、身体をひねりながら、ズルズルと後ろへ引きずっていく。
「ああっ! うぐぁあああああ!」
「あ……あ……」
両腕を失い悶える男に、美夜は呆然として動くことができない。
これで三人目――いや、浩一を含めて四人目の犠牲者を出してしまったのだ。
自分が、血を吸った。それだけのことで。
(どうすれば……どうすれば、浩一くんは止まってくれるの!?)
このままでは、浩一自身も死んでしまう。
しかし口で言ってもだめ、押さえつけてもだめ、となると。
(力じゃとてもかなわない……けど、浩一くんはわたしには攻撃してこなかった……)
確信はないが、血を吸った美夜は、攻撃対象にならないのかもしれない。
(わたしが、浩一くんの正面に入れば!)
そう決断した美夜は、男に近づこうとする浩一の前に、立ちふさがった。
「止まって! 止まって浩一くん!」
両手を広げ、彼に向かって言う。
だが浩一はその声にも反応せず、赤い瞳で正面を見据えたまま、一歩一歩進んでくる。
「止まってってば! 聞こえないの、ねえっ……」
言いかけて、美夜は、後ずさった。
浩一に、止まる様子はなかったのである。
「こ、浩一くんっ……」
息を呑む美夜。
(だ、大丈夫。浩一くんは、わたしには手を出さない……)
勇気を奮い、彼女もそこから動かなかった。
そして、二人は正面に対峙する。
(――やった!)
浩一の足が止まったのを見て、美夜は笑みを浮かべる。やはり、予想は正しかった。彼は、自分には手を出さない――。
「え?」
次の瞬間、美夜は浮遊感と共に、空を見上げていた。
(な、何が……?)
わけがわからないまま、背中に衝撃が伝わる。
「ぐっ!」
そして、口の中に感じる異物。吐き出すと、それは白い固形物――奥歯だった。口から、血が溢れてくる。
「な、何で……」
顔と背中に、ようやく痛みが伝わってきた。
殴られたのである。浩一に。軽く吹き飛んでしまうほどに。
「わたしにまで、手を出すの……」
ゴギッ!
骨の、砕ける音。
浩一の手が、男の心臓を貫いていた。
「ぐあああああっ!」
断末魔の声。
男は痛みと恐怖に顔を歪めたまま、絶命した。
「……何でなの……浩一くん……」
美夜の目からは、涙がこぼれていた。
他の人間は殺したのに美夜を殺さなかったのは、浩一の最後の理性なのだろうか。
「フーッ、フーッ」
浩一の息が、荒かった。
無理もない。彼は、既にかなりの血を流してしまっているのである。
「え……?」
美夜は、一瞬目を疑ってしまう。今、彼の流す血が、蒸発しているように見えたのだ。
「まさか……」
だが、間違いなかった。彼の身体は、わずかに赤い霧のようなものを纏っている。
「でも、このままじゃ……」
人間は三分の一の血を失えば、死ぬと言われている。彼の血が蒸発を続ければ、既に大量の血を流している今、そう長く持たずに死ぬことになる。
「そんなの、だめ……。浩一くんまで死んだら、わたし……」
痛みを堪えながら、美夜は立ち上がった。
既に彼は、どこかへ向かって歩き出している。
「行かせない――」
彼女は走り、再び浩一の正面に立った。
「お願い、やめて! これ以上やったら死んじゃうわ!」
だが、そんな叫びも彼には届かない。
「死んでほしくないのっ……!」
美夜は、抱きしめる。血まみれの、彼を。大好きな、彼を。
「んっ……」
勢いのままに、彼女は浩一の唇に、口づけた。唇から伝う熱い液体。ファーストキスは、血の味がした。
「好きだから……大好きだから……」
美夜は、唇を離す。
「だから、もうやめ――」
ガシッ。
言いかけた、途中だった。
浩一の右手が、美夜の肩をつかんでいた。砕けて露出している指の骨が、ゆっくりと食い込んでいく。
「こ、こういち、くんっ……!?」
「ガァッ!」
彼の咆哮と共に、美夜の肩の肉は裂けていた。
「ああっ!」
地面に転がる美夜。ドクドクと、肩口から血が吹き出してくる。
「ぐっ……ぐぅぅっ!」
焼けるように、肩が痛む。だが、まだ動ける。まだ――。
「ううぅっ!」
美夜は、唇を噛みしめた。痛みを堪えながら、それでも立ち上がる。
「浩一くん……目を覚ましてっ!」
後ろを向いた彼に、体当たりを仕掛けた。
不意をつかれ、浩一は押し倒される。
「浩一くんっ……浩一くんっ!」
必死の呼びかけ――。
だが、やはり彼は、反応しない。
「……こう……いち、くん……」
さすがに、美夜の表情にも諦めの色が浮かび始めた。
だが。
シュゥゥゥ……。
音が、聞こえた。
「……何?」
怪訝に思い、耳を澄ます。
音は、自分の真下から聞こえた。
「浩一くん!?」
そう。彼の血が、急速に蒸発していたのである。
浩一の周囲は、血による赤い霧で覆われ始めた。
「なっ……ど、どうして?」
理由など、わかるはずもない。
しかし血の蒸発と同時に、浩一が苦しみだしたのは確かである。
「ガッ……ガァァァァァァッ!」
美夜を押しのけ、彼は悶えた。傷から流れ落ちる血までが、瞬時に気体へと変化していく。
「こ、このままじゃ……」
考えなくともわかる。このままでは、彼の血は一滴残らず蒸発してしまうだろうことを。
だが、方法がわからない。浩一を、助ける方法が。
「やだ……浩一くんが死んじゃうなんて……そんなのやだよ……」
美夜は、頭を振る。これ以上、見たくない。見ていたくない。
「ウォォォッ!」
突然、浩一は走り出した。彼が一歩を踏み出す度に、ボタボタと血が落ちる。
「ど……どこ行くの?」
顔を上げる美夜。立ち上がりかけて、ズキンと肩に痛みが走った。
「うぐっ……! こ、浩一くん、その先は……」
直進すれば、大きな道路に突き当たる。車の通行も頻繁にあるところだ。
「行かないで、お願いっ!」
叫んでも、彼は止まらない。
「ぐっ、ううっ……!」
肩が痛いなどとは、言っていられなかった。
美夜は爪を立て、拳を握りしめる。手の平に伝わる痛みで、多少堪えることができた。
「浩一……くんっ!」
彼女は、走る。
だが、追いつけない。
それどころか、どんどん離されていく。
「きゃあっ!」
「うわあっ!」
道を行く人々は、血まみれの彼を見ては悲鳴を上げ、避けていく。
彼らに止めるように頼みたいところだが、これでは無理である。第一、止める前に殺されてしまう。
「浩一くん、待って……置いていかないで……」
離れていく。彼の姿が、小さくなっていく。
「……こういちくん……」
キキィィィーーーッ!
急ブレーキをかけた車のタイヤが、アスファルトを激しくこすった。いきなり車体を斜めにして止まったため、後続車、さらに対向車が次々と激突していく。
ドンッ! ドドンッ! ドォンッ! ガシャアアッ!
十台以上を巻き込む玉突き事故となった。車体はへこみ、窓ガラスは砕け散った。
そしてその中心にいた人物、浩一。
彼の姿は、確認できない。
だが、上空から、塊が落ちてきた。
「きゃああっ!」
とそれを見て、近くにいた女性が悲鳴を上げる。
それは、血にまみれた、肉片だった。
車と車に押し潰され、内蔵の一部が飛び散ったのである。
彼の本体はまだ車の間にあったが、完全に潰れ、とても正視できる状態ではない。
シュゥゥゥ…………。
そして今。
血の蒸発が、止まった。
「あっ……」
美夜は、呆然と立ち尽くしていた。
彼の――浩一の血が消える。
残された肉体――それすらも、消えていく。
白く変色し、粉末のようになり、風に流されていく……。
浩一という名の存在は、この世から消滅してしまったのだ。
「嘘……嘘だよ、こんなの」
美夜の口元から、笑みが漏れた。
「だって……あんな風に人が消えちゃうなんて、聞いたことがないよ……」
呟きながら、彼女のその声からは、段々と力が抜けていく。声だけではない、身体中の力が、抜けていく……。
「…………嘘に…………決まってるんだからぁっ…………」
水滴が、落ちた。
彼女の頬を伝って。
「あは……はははは……」
笑いが、止まらない。
「夢……夢なんだよ。こんなの、悪い夢……」
がくん、と美夜は膝を付いた。
「わたしの病気は、治っちゃいけなかったんだ……。これはその警告……。わたし一人が我慢してさえいれば、浩一くんはずっとそばにいてくれるんだから……」
人々の悲鳴と怒号。そして鳴り響くクラクション。
「身体は苦しいけれど、優しくお母さんに起こされて、浩一くんの笑顔を見ながら学校へ行くの……。決して身体は楽にならない……けれど心は楽になる……。そんないつもの朝に、戻ればいいだけ……」
近づいてくる、サイレンの音。いくつも、いくつも――。
「ほら、こんなにわたしに目を覚ませって言ってる。だから早く目覚めなくちゃ。目覚めなくちゃ……」
だが、覚めない。覚めることはない。
夢ではないから。現実だから。
しかしそれを、彼女は認めることができない。
「悪い夢……。でもいいの。目覚まし時計が効かないなら、自分から目を覚ましてやるだけだから……」
ゆらり、と美夜は立ち上がった。
彼女の左肩からは、まだ血が流れ続けている。
「わたしも浩一くんと同じことすれば、目が覚めるはずだから……」
道路に、近づいていく。おそらく死者が出たであろう、事故の現場に。浩一の、消えた現場に。
「わたしも車にぶつかれば……また浩一くんに会えるんだから……」
血まみれで、笑みを浮かべながら歩く美夜を見て、近くにいた人々が息を呑む。
「何だ、あの子は……」
「あの子も事故に……?」
「……でも、場所が違うだろ……」
彼らは、公園での惨状を、まだ知らない。
「み……美夜っ!?」
その中で、驚愕の声を上げた女性がいた。
買い物帰りだったのだろう、その買い物袋も自転車も放り捨て、慌てて駆け寄ってくる。
「一体どうしたの、美夜!?」
ふらつきながら歩く彼女を抱きしめたのは、母親の亜沙美だった。
「美夜……美夜っ!」
しかし彼女の呼びかけに気付いた様子もなく、美夜は歩みを止めようとしない。
「美夜っ! しっかりしなさいっ!」
両手で顔を挟み、自分の方へと向けさせる。
そうしてようやく、美夜は母親の顔を認識した。
「あ……お母さん」
「そんな怪我をして……大丈夫なの? 一体何があったの?」
「……怪我? こんなの平気だよ。だって夢だから」
「……え?」
娘の不可解な言葉に、亜沙美は眉をひそめる。
「夢って、どういう……」
「これは夢なの。わたし、早く目覚めなきゃいけないの。だから行かなきゃ。浩一くんと同じところに……」
小さく、笑みを浮かべる美夜。
彼女の見つめる先――そこは、大惨事となっている事故現場。
「浩一くんって……まさか……」
亜沙美の脳裏に、最悪の展開が思い浮かぶ。
浩一とは亜沙美もよく挨拶をするし、美夜と仲がいいことも知っている。そんな彼が目の前で事故に遭ったのだとすれば、今の美夜の状態は、そのショックによるものに違いない。
「美夜……美夜、しっかりしなさいっ」
「お母さん、離して……。これは夢なんだよ。だって浩一くんは消えちゃったんだから……。人が消えるなんて、夢じゃないとありえないんだから……」
「……な、何を言っているの……?」
亜沙美には、娘の言動が理解できなかった。
「本当だって! 俺見たんだ!」
ふいに、そんな声が彼女の耳に届く。
野次馬たちに向かって話しているのは、若い男性である。
「飛び出した子供が車に挟まれた後、粉みたいになって消えちまったんだ! 見間違いなんかじゃねえよ!」
「ああ、俺も見たぜ!」
「私も!」
どうやら、目撃者は複数いるようである。
(粉になって消えた……? そんなバカな……)
当然だが、見てもいないのに、そんな現象を信じることはできない。
おそらく事故の接点だろうと思われる箇所に目を向けたが、そこには浩一の姿もなければ血の跡すらなかった。
本当に彼がいたのだろうかと思うが、しかし目撃者の中には娘もいるのだ。
(ともかく、先にこの子を何とかしないと……)
肩の傷は、見た目ほど深いものではなさそうだ。家の薬で十分何とかなる。
「帰るわよ、美夜っ」
「だめ……わたしは浩一くんのところに行くんだから……」
「美夜!」
「離して、離してお母さん……」
つかんだ亜沙美の手を、美夜は振りほどこうとする。これでは歩くことができない。
「こうなったらっ……」
亜沙美は、強引に腰を回し、嫌がる娘を背中に抱え込んだ。
「あっ、やだ。降ろして、降ろしてっ」
「だめよ! 来なさい!」
暴れる彼女を押さえつけ、亜沙美は必死の形相で走り出す。
「行かなきゃいけないのっ……わたし、夢から覚めないといけないのっ……」
頭を叩かれ、髪を引っ張られた。
思わず顔をしかめるが、亜沙美は腕の力だけは決して抜かずに走り続ける。
「お母さんっ、お願いだから離してっ……離してっ……。わたしは消えた浩一くんのところに行かなくちゃ……行かなくちゃ……いけないんだからっ……」
美夜の声が、段々と小さく、涙声へと変わっていく。
(美夜……)
背中で震える娘を感じ、亜沙美は唇を噛み締めた。強く、強く……血がにじみ出るほどに……。
家に到着したとき、美夜は涙で頬を濡らしたまま、口を閉ざしていた。焦点の合わない瞳で、呆然と虚空を見上げている。
そんな彼女を床に座らせ、亜沙美はまずは傷の治療に専念した。
傷口を消毒し、薬を塗り、包帯を巻いていく。傷自体は浅いのだが、まるで手で引っかけられたような跡なのが、亜沙美は気になる。
「もういいわ、美夜。ほら、服を着て……」
「…………」
べっとりと血の付いた服を脱がせ、新しい服を用意したのだが、彼女は反応しない。
「美夜……」
すっかり無気力状態になってしまった娘に、亜沙美は思わず目を伏せる。
(こんなとき、どうすればいいの。母親として、どうすれば……)
娘を……娘の心を、助けてやりたい――。
そのためには、やはり事情を聞かなくてはならないだろう。そこから、解決の糸口を探していくしかない。
「何が……あったの? お母さんに話してみて……」
「…………」
「浩一くんが消えたって……どういうことなの?」
「……こう……いち、くん……」
その名前に、美夜はようやく反応した。
「そう、浩一くんよ。美夜と仲のよかった浩一くん。あの子は一体……」
「消えたの……」
と美夜は言った。
「車と車に挟まれて……身体がグシャグシャになって……それから真っ白になって……粉になって飛んでいったの……」
「…………」
亜沙美は困ったように顎に手を当てた。当然だが、そんな非常識な現象は信じられない。しかし娘が嘘を付いているようにも思えないのだ。
だが次に彼女は、気になることを言った。
「でもね……それもわたしのせいなの」
「……え?」
「浩一くんがああなったのも……人を殺しちゃったのも……全部わたしのせい。あはは……はは……」
美夜はうつむいたまま、力無く笑った。笑いながら、また涙が流れてくる。
「……殺したって……どういうことなの、美夜!?」
思わず声を荒げてしまい、亜沙美は慌てて口を閉じる。
「あははは……」
笑いながら、美夜は立ち上がった。
「浩一くんが死んだのもわたしのせい。浩一くんが人を殺したのもわたしのせい。そして事故が起きたのもわたしのせい……」
「み、美夜?」
「だったら……」
笑いが、止まった。
「わたしが最初に死んでいれば……よかったんだよね」
「なっ……」
「そう、わたしは生きてちゃいけない……生まれてきちゃいけない人間だったんだ……。このまま生きてたら、きっとまた誰かを死なせてしまう。だから……」
涙を拭い、にっこりと微笑んだ。
「責任取って……わたし死ぬよ」
「ばっ……」
瞬間、亜沙美は手を上げていた。
「バカッ!」
彼女の平手が、美夜の頬を激しく打ち付けた。衝撃で、彼女は床に倒れ込む。
「何があったかわからないけど……」
初めて娘を殴ってしまったことに自分で驚きながらも、亜沙美は言った。
「死んで責任なんか、取れるわけがないでしょ……? 浩一くんが美夜に死んでほしいと望んでいると……本当にそう思っているわけ?」
「……だってっ……」
美夜の声が、震えた。
「わたし、他にどうしたらいいか……」
「一緒に考えましょう?」
震える娘を包み込むように、亜沙美は彼女を抱きしめる。
「どうしてこんなことになってしまったのか、これからどうすればいいのか……。二人きりの親子じゃない。私にもあなたの悩みを分けて」
「お母さん……」
「もし美夜まで死んでしまったら……私だって、もう生きていけないんだからっ……」
「お母さんっ……」
美夜は、堪えられなかった。亜沙美の腕に包まれることで、ようやく声を出して泣くことができたのである。
「うわぁぁぁぁっ……! わぁぁぁぁんっ……!」
「美夜っ……!」
娘を抱きしめながら、亜沙美の目にも涙が浮かんでいた。
お互いにひとしきり泣いて、落ち着いてきた頃。
「わたし……自分の体調が悪い原因、わかってたんだ……」
美夜は、ぽつりぽつりと話し始めた。
一年ほど前から、度々血が飲みたくなってしまい、我慢しているうちに体調が崩れていったこと。もちろん誰にも話すことができなかったが、今日、ついに浩一に話してしまったということ。
「こんな嘘みたいな話、浩一くんは信じてくれたの……。そして、そんなにつらいなら自分の血を飲んでもいいって言ってくれた……。けど……」
最初は抵抗した。だが、自分の内から湧き出る衝動に耐えられずに、欲望に身を任せてしまったこと――。
「わたしが血を飲んだせいで、浩一くんは変わってしまった……」
まるで自分の意志というものを失ってしまい、周囲のものに力をぶつけ続けた浩一。止めに入った美夜までも――。
結果、人を殺し、事故を起こし、自分まで死んでしまった。
「わたし……きっとヴァンパイアなんだよ……」
「……ヴァンパイア?」
「だって……じゃなきゃ、血を飲みたくなったり、飲んだ相手が急に暴れ出したりするなんて、他に理由が付けられないよ……」
「……ヴァン、パイア……」
その単語を聞いたとき、亜沙美の脳裏に古い記憶が蘇ってきた。三十年近くも前の、幼い子供の頃の記憶……。もうはっきりとは顔も思い出せない、死んでしまった祖父の記憶である。
「ワシらはな、吸血鬼の子孫なんじゃよ……」
お盆で祖父の家に行ったとき、彼は孫たちを集めてそんな話をしたことがあった。
「もう大分血は薄まっているが、ワシの爺さんが強い力を持っていてな……。もしかしたらお前たちの子供の中に、そういう子が生まれることがあるかもしれん……」
しかし。
誰も、本気で聞いてはいなかった。子供とはいえ、吸血鬼など作り話だということは皆知っている。
「もし、そんな子が生まれたら――」
……プツッ。
と、切れた録音テープのように、そこから先の記憶が消えていた。いや、そもそも興味を失い、それ以上聞いていなかったのかもしれない。
(そんなっ……肝心なときにっ……!)
当時を後悔しても、今さらどうにかなるものではない。
(そんな子が生まれたら……その先、おじいちゃんは何て言ったんだろう……)
考える。考える――。
……いや、考える必要などなかった。
(私が、この子を守ってやらないでどうするのよっ……!)
亜沙美は、腕の中の美夜を、ぎゅっと抱きしめた。
「今までつらかったね、美夜……。気付いてあげられなくて、ごめんね……」
「お母さん……」
「でも、これからは大丈夫……」
そう言って微笑むと、彼女は自分のシャツのボタンを外していく。
「えっ……?」
「これからは……私の血を飲んでいいから……」
亜沙美は首筋を、娘の前に差し出した。
「なっ……」
美夜は驚きの声を上げた。
「何言ってるの、お母さん! わたしの話、聞いてたの!? わたしが血を飲んだせいで、浩一くんはおかしくなったんだよっ!」
「それはきっと、美夜が力を制御できなかったのよ」
「……力を、制御……?」
「そう。美夜はまず、自分の力を知らなきゃいけないの。自分にはどんな能力があるのか、そしてどうすればその能力を操れるのかを」
「…………」
「それさえわかれば、きっと大丈夫。きっと普通に生きていける。だから、これはそのための練習よ」
「で、でも……」
美夜は、うつむいたままだ。
もちろん亜沙美の気持ちはありがたい。だが、もし浩一と同じようになってしまったら――。そうなったら、美夜は今度こそ、生きる気力を失ってしまう。
「私だって、美夜がいないと生きていくことなんてできないわ。だから、二人で頑張りましょう。浩一くんの死を無駄にしないために」
「浩一くん……」
「大丈夫。美夜がしっかりと自分の意志を持ってやれば、絶対大丈夫」
ぽんぽん、と亜沙美は優しく、美夜の背中を叩いてやる。
「お母さん……」
美夜は、ゆっくりと顔を上げた。彼女の目には、涙の中にも強い決意の光が宿っている。
(やらなきゃ……。自分が死ぬかもしれないのに、ここまで言ってくれたお母さんのために。わたしが力を制御できなかったせいで、死んでしまった浩一くんのために。そして……)
亜沙美を抱きしめ、唇を寄せていく。
(わたしが、生きていくために……!)
美夜の歯が、母の首筋に突き立てられた――。
ゆっくりと、空が白み始めている。
やがて日の出を迎え、日の光は彼女の部屋の中にも射し込んできた。
「…………」
じわじわと体温が上昇するのを感じ、夕月美夜はベッドの中で目を覚ました。
「朝……か」
目元をこすりながら、そう呟く。
体調は、悪くない。いや、むしろ快調なのだが、精神的に不快感を感じている。
「昔の夢、見ちゃったな……」
あのことがなければ、美夜が今こうしていることはない。だが、いい思い出として語ることはとてもできないだろう。
あのあと――。
美夜が血を吸ったあと。亜沙美が暴走することはなかった。やはり意志の力というのが重要だったようだ。
そして彼女たちは、練習を続けた。己を知り、理解するために。
事件のことはニュースにもなり話題となったが、やはり原因は不明のまま、解決されることはなかった。事件を起こした浩一が消えてしまったのだから、当然といえば当然である。
その浩一のことは、結局行方不明扱いとなり、悲しみから逃れるかのように、美夜たちはその土地を離れた。
「浩一くん……」
淡い、初恋の思い出。そして、最悪の悲しい思い出。どちらにしても、一生忘れることはできない。
その後、美夜は亜沙美から、自分はヴァンパイアの子孫かもしれないことを聞いた。確証はないが、他にこの能力の理由が思い付かないという。
亜沙美のお陰で、美夜の体調はすっかり落ち着きを取り戻した。月に一度、母の血を吸うだけで、彼女は普通の生活ができる。
しかし――。
数年が過ぎ、事件が起こり始めた。
人間離れした力を発揮し、血がなくなるまで暴走を続けるという、異常な出来事――ヴァンパイア事件が。
目的はわからないが、そんなことができるのは美夜と同じヴァンパイアの子孫――同族の仕業に間違いなかった。
だから、彼女は止めなくてはならない。
浩一と同じ目に遭う人を、これ以上増やさないために。
しかしそのためには、美夜一人では無理なのだ。直接の力を持たない、彼女には。
「渡利先輩……」
協力者が必要だった。共に戦ってくれる、仲間が。
しかし力を与えるには、強い意志を要するのだ。大切に思える相手でなければ、心から願うことはできない。
だが偶然にも。
そう、偶然にも、彼女は事件より前に、人を好きになっていたのである。まさに、適任者だったのだ。
「勝手なのはわかってます――」
美夜はうつ伏せのまま、枕を抱きしめた。
「でも……お願いです。わたしを、みんなを、助けてください……渡利先輩っ……」
シーツが濡れるのを感じながらも、美夜はしばらく涙を止めることができなかった。
第三話
「犬、好きなんですか?」
と、渡利秋人は、その少女に訪ねられた。
桜の香る春の日差しの中。校舎の隅に一人座り込んでいる秋人の前に、彼女は立っている。
「……別に」
素っ気なく答えて、彼は手にしたパンを口に運ぶ。
「でも、せっかく買ったパンをあげたじゃないですか」
そう言う彼女の目の前、秋人の隣では、首輪のない犬が、パンを頬張っていた。元は白かったであろう体毛は茶色く汚れ、すっかり痩せ細っている。明らかに野良犬だ。
「……落としたんだ。捨てるのも勿体ないだろ」
「へぇ〜、そうなんですか」
とその少女は小さく微笑む。
少し顔を上げて、秋人は彼女の姿を確認してみた。
綺麗な黒のストレートヘアー、やや大きめの眼鏡をかけているが、ぱっちりした瞳に、白い肌。顔立ちはやや幼いが、可愛い。それもかなり。背はそれほど高くないが、出るところは出ており、スタイルは良さそうである。
上着が白で、襟、袖、スカートが紺というデザインのセーラー服に、彼女が付けているリボンの色は緑。学年ごとに色が変わるので、彼女は一年生ということになる。
「あっ」
ふいに少女が声を上げた。
「あはは。わたしもパンを落としてしまいました」
そう言って笑いながら、彼女はその場に座り込む。
「捨てるのも勿体ないですから、これも犬さんにあげますね」
「……それ、袋に入ったままだろ」
「いいじゃないですか、細かいことは」
まだ開けてもいない袋を破り、少女は中のパンを犬に差し出す。
「ほら、これも食べていいですよ〜」
すると野良犬は嬉しそうに、彼女のパンにかじりついた。
「あはは、焦らなくていいからね」
少女は微笑む。
「…………」
変な奴だな、とそんな様子を見て秋人は思った。
わざわざ自分の食べる分を減らしてまで、見ず知らずの、しかも犬にパンをあげるなんて、普通はできない。いや、しようともしないだろう。
秋人の場合は本当に気まぐれであり、たまたまそういう条件が重なっただけなのだ。
まず、初めて買った種類のパンが、あまりおいしくなかったこと。そして空腹で今にも倒れそうな野良犬を、偶然見かけたこと。
それだけである。彼にしてみれば、ほめられるようなことをしたわけではなく、女子に気に入られようとしたわけでもない。
だから、ついこんな言葉を口にしてしまった。
「パンツ見えてるぞ」
「えっ……」
驚き、秋人の顔を見る少女。だが、すぐに確信し、悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「へえ……先輩って、そういうこと言う人なんですね。でも、この足の角度でどうやって見えるんですか?」
彼女の膝先は、揃えて地面の方に向かれている。これでは、真下からでも見るのは難しいだろう。
「……それは悪かった。はいてなかったんだな」
「うわ、今度はそう来ましたか」
もちろん、秋人からは見えるはずがない。ただ、何となくからかっていたくなったのである。
てっきり怒って離れていくかとも思ったが、彼女は秋人の冗談に付き合ってきた。
「これで見えるってことは、先輩は透視能力があるんですね」
「そうか……。君がはいてないだけかと思ったら、俺が透視できるせいだったのか。裸も見たい放題だな」
「男女問わずですけどね」
「うっ、それは嫌だな……」
そこまで言って、お互いの顔を見つめ合う。
「ぷっ……」
「くくっ……」
やがて、どちらからともなく、笑いが上がった。
「先輩って、変な人ですね」
「君も十分に変な奴だと思うぞ」
「クゥーン……」
ふいに、秋人の脇に、犬が鼻をすり寄せてきた。
「ん、何だ? もうパンはやらないぞ……って、うわっ!」
彼は慌てて立ち上がった。
「こいつの口、クリームだらけじゃないかっ」
もちろん、秋人の制服にもばっちり付いてしまっていた。
「あらら、わたしのクリームパンが。もったいない」
「あのなあっ……。俺の制服よりパンの心配をするのか」
「はい」
彼女は、白いハンカチを差し出した。
「これ使っていいですよ」
「あ、ああ……そうか」
ハンカチを受け取る秋人。しかしこれはハンカチよりも、ちり紙か水洗いの方がいいと思った。まあ、自分が何も持っていないのだから仕方ない。
「ちゃんと洗って返してくださいね」
「わかった……」
と秋人が頷くのを見て、少女は立ち上がった。
「それじゃ、わたしそろそろ行きますね」
「え? おい、このハンカチはいつ返せばいいんだ?」
戸惑う秋人に、少女は言う。
「わたし、夕月美夜っていいます。先輩は?」
「あ、ああ。渡利秋人だけど」
「じゃ、わたしが会いに行ってあげます。羨ましいですね、こんな可愛い子と知り合いになれるなんて」
「自分で言うなよ……」
秋人は呆れる。まあ、確かに可愛いのだが。
「それじゃ、また」
「ああ」
手を振り、彼女――夕月美夜は、去っていった。
「……やっぱ、変な奴だったな」
それでも、何だか楽しい気分だったのは何故だろう。
とりあえず、秋人はクリームの付いた上着を脱ぐことにする。
「クゥーン……」
その隙に、また犬が鼻先をくっつけてきた。
「こらっ、もうパンはやらんってゆーのにっ」
慌てて秋人は飛び上がる。
始業式から数日が過ぎたばかりの、暖かい春の午後。
そんな何気ないきっかけで、二人は出会った。
「んんっ……」
と、小さく呻いた。瞼が、重い。
しかし枕元では、目覚まし時計がうるさく鳴っている。
「ううっ」
仕方なく、手を伸ばして止めた。瞼だけでなく身体も重い気がするが、起きなければ遅刻になってしまう。
「くそっ……」
悪態を付き、かけ布団をはね上げる。
気分は、最悪だった。
「そういえば、あのときが最初だっけ……。あいつと会ったのって……」
昨日の影響からなのか、一ヶ月以上前の記憶が、そのまま夢に出てしまったようだ。今は思い出したくないというのに。
「……昨日のあれも、夢だったらな……」
呟き、自分のシャツをめくって胸元を見る。
そこは間違いなく、昨日、心臓を貫かれた箇所だった。だが、そこには傷跡一つ残ってはいない。
「ヴァンパイアって……本当にいたんだな……」
ふと、彼女が最後に見せた泣き顔が蘇ってくる。「先輩!」と呼び、懸命に懇願する彼女の姿が。
「ちっ……知るかよ、あんな奴っ……」
美夜のせいで、昨日は散々な目に遭ってしまったのである。考えるだけで腹が立ってきた。
「あいつのせいで死にかけるし、おまけに今の俺はヴァンパイアもどき……ってなところか。ああ、イライラするっ……!」
秋人は頭を掻きむしった。
しかし腹を立てても事態が解決するわけでもなく、時間が過ぎるばかりだ。彼女の言葉を信じるなら、三ヶ月が過ぎれば、身体も元に戻るはずである。
「やれやれ……」
とりあえず、秋人はベッドから起きあがり、学校へ行く準備を始めた。
トイレに行き、顔を洗い、朝食を食べて着替えて、鞄の中身をチェックする。
「あいつの顔は見たくないけど……行くか」
憂鬱な気分のまま、秋人は自転車にまたがり、家を出た。
「ったく……朝から暑いな」
雲一つない青空を見上げ、秋人は顔をしかめる。
強い日差しはジリジリと彼を照らし、学ランを通して熱を伝えてきた。
五月の下旬――。暦の上ではまだ春だが、気温は既に夏である。
「はあ……」
信号で止めていた自転車をこぎ出しながら、ため息をついた。何をするにも、今日はいちいちため息が出てしまう。
秋人の家から学校までは、自転車で二十分ほどだ。あと五分ほどの距離になると、同じように学校へ向かう生徒の数が、急激に増えてくる。
「オッス、渡利っ」
最後の信号の前で止まっていると、こちらに向かって手を振る生徒がいた。青になっている反対側の道路から、同じく自転車でやってくる。
「オーッス……羽柴」
ちらりと見て、秋人は軽く手を振った。
「何だ。今日は元気がないなぁ。一昨日は可愛い後輩とデートだったっていうのに」
そう言って、笑いかける彼の名は、羽柴庄吾。秋人のクラスメイトで、一年生の頃から親しくしている友人である。
秋人より頭の半分ほど背が高く、がっしりした体型で、髪は短めにカットしていた。サッカー部に所属するスポーツマンではあるが、あまり上手い方ではない。
「ははあ……さては上手くいかなかったな?」
「まあな……」
と秋人はぶっきらぼうに答えた。
「あれ? ホントにそうなのか?」
信号が青になり、並んで自転車を走らせながら、庄吾が首を傾げる。
「最悪だった……」
「……そ、そうか……」
そうまで言われては、さすがにそれ以上は訊けなかった。
何だか気まずい雰囲気のまま、二人は学校に到着した。自転車置き場に自転車を置き、玄関へと向かう。
「先輩……」
「あっ」
庄吾は声を上げて立ち止まる。
そこに、彼女がいた。ややうつむき加減でこちらを見ている一年生の少女は、土曜日に秋人とデートをしたという、夕月美夜に間違いなかった。
「何だよ、何が最悪なんだよ。向こうから声をかけてくれたじゃないか」
つんつん、と庄吾は秋人を肘でつつく。が、すぐに肘打ちは空振りした。秋人が急に早足で歩き始めたのである。
「あらら? お、おい、渡利?」
「お、おはようございます」
近づいてきた彼に、美夜はおずおずと挨拶する。
しかしその脇を、秋人はスルリと通り抜けてしまう。そのまま下駄箱へと向かうと、彼はすぐに見えなくなってしまった。
「……渡利先輩……」
悲しげにその後ろ姿を見送る美夜。
彼は、こちらを見ようともしなかった。つまり――無視、されたのである。
ある程度予想していた反応だとはいえ、やはり実際されるとつらいものがあった。
「え、えーと、夕月さん、だっけ?」
「……はい?」
振り返ると、彼女の前に、庄吾が立っていた。
「俺、羽柴庄吾。渡利の友達ね、と・も・だ・ち」
と自己紹介をする。顔は知っていたが、お互い話すのは初めてだった。
「は、はあ……」
と美夜は一歩身を引く。何気に迫ってきているように思えるのは、気のせいだろうか。
「あいつと土曜日にデートしたんだろ? ケンカでもしたのか?」
「……いえ。ケンカ……というわけでは……」
それどころか、彼には既に絶交宣言されている。
「そっか……。あいつ、何だか機嫌悪そうだからさ。何かあったのかなー、って思ってさ」
「そうですか……」
機嫌が悪い。つまりはまだ怒っているということだ。
「当然……よね」
と口の中で呟く。何しろ、事が事なのだ。
もし自分が彼の立場になったとしたら、やはり昨日の今日では怒りを冷ますことはできないだろう。
「え? 今何か言った?」
「……いえ、何も。それより心配してくれたのに申し訳ないんですけど、これはわたしたちの問題ですから、気にしないでください」
「えっ? 気にしないでって……」
「失礼します」
軽く頭を下げ、美夜も下駄箱へと向かった。
これ以上関わらないでほしいというオーラが、彼女から発せられているのがわかる。
「そう言われてもな……」
ボリボリと、庄吾は困ったように頭を掻いた。
「すっごく気になるんだけど……」
庄吾が二年一組の教室に入ったとき、秋人は既に席に座っていた。机に肘を付き、ボーッと窓の外を眺めている。
「さっきはどうしたんだよ、渡利」
自分の席に鞄を置き、庄吾は窓側の彼の机の前に立つ。
「いくら何でも無視はないだろ、無視は」
「今……あいつの顔見たくないし……口も聞きたくないんだ……」
目を背け、ぼそりと言う。
「おいおい……」
呆れる庄吾。
「何があったか知らないけど、彼女の方から声かけてきたんだぜ? 多分、勇気を振り絞ってな。つまり、仲直りしたいってことじゃないのか?」
「…………」
「まあ、あれだ。初デートで失敗なんて、よく聞く話だろ? たいした問題じゃないって。ここは彼氏の方が広ーい心を持ってだな、彼女を包み込むように……」
バンッ!
「……そんなんじゃないんだっ!」
思わず激しく机を叩き、秋人は立ち上がっていた。
突然響いた音に、登校していた生徒たちは振り返り、教室がしんと静まり返る。
「……悪い、何でもない」
彼らに向かってそう言うと、秋人は椅子に座り直した。
一瞬の戸惑いの後、教室は再びざわめきに包まれる。
「デートの失敗とか……そんな、単純なことじゃないんだ……」
周囲を気にして、秋人は声をひそめて言った。その表情はまだ険しく、怒りを抑えるかのように唇を噛み、拳をブルブルと奮わせている。
「渡利……」
「あいつの……あいつのせいで、俺はっ……」
と、そこまで言いかけて、秋人は力無く頭を振った。
「……羽柴。悪いけど、しばらくこの話はしないでくれないか? とても楽に話せるようなことじゃないんだ……」
「ああ……俺の方こそ悪かったよ……。そこまで悩んでるとは思わなくて」
「別に気にしなくていい」
再び、秋人は窓の外を見上げる。自然と、ため息が漏れた。
「元気……出せよな」
「ああ……」
庄吾は、自分の席に戻った。そして教科書を机に入れながら、考える。
何なのだろう。何があったというのだろう。
普段、どちらかといえばおとなしい秋人が、あんなに声を上げるとは、ただ事ではないことがわかる。しかしデートに行き、デート以外のことで悩んで帰ってくるとは、一体どういうことなのか。
(……だぁぁぁっ! わかんねぇぇぇっ!)
庄吾は心の中で叫ぶ。
どうやら秋人のいらつきが、彼にも伝染してしまったようである。
しばらくして、始業のチャイムが鳴り響いた。
朝礼が終わると、さっそく授業である。
一限目の現代文担当の田中教諭が、担任と入れ替わるように入ってきた。 眼鏡をかけており、少し化粧の濃い中年女性である。
「起立、礼」
日直の号令で、生徒たちは立ち上がり、一礼する。
「はあ……」
着席し、またもため息をついている秋人の様子を見て、庄吾もため息をついた。
「はあ……。ったく、こっちまで憂鬱になってくるぜ……」
とにかく早めに解決してほしいものである。
(俺が何とかしようにも……二人とも話してくれないしな……)
やはり、地道に聞き出すしかないのだろうか。
(こういうときあいつがいれば、まだ話しやすいんだが……)
ちらりと、後ろの方にある秋人の席の隣を見る。
そこは、空席になっていた。最後尾でもないのに、ぽつんと不自然に空いている。
(桜沢……)
その席の主である彼女は、既に一ヶ月近く学校を休んでいた。
(早く帰って来いよな……)
そんな風に思いを巡らせていると、田中教諭に注意されてしまった。
「羽柴くん、よそ見しないで」
「は、はい……」
しんとしていた教室から、軽く笑いが上がった。
「はは……」
と照れ笑いを浮かべてごまかしながら、視線を巡らせると、やはり秋人だけは笑っていなかった。
(だめだ……渡利を見てると、こっちまで暗い気分になっちまう……)
なるべく気にしないようにし、庄吾は授業に集中することにする。が、やはりいまいち集中しきれない。
渡利秋人と夕月美夜。二人の物憂げな表情が、脳裏にちらついているのである。
しかし、転機は唐突に訪れた。
授業が開始されて、三十分後。
ガラガラと、遠慮がちに教室のドアが開かれる。
「お、おはようございます……」
「んっ……?」
生徒たちの視線が、一斉にそのドアに向いた。そして驚愕に目を見開き、息を呑む。
誰もが、見覚えのある人物だった。以前のロングヘアーからショートカットになり、少し痩せたような印象を受けるが、間違いない。一ヶ月間、休んでいたクラスメイト――桜沢鈴理だった。
「桜沢さんっ」
「鈴理ちゃんっ」
数人の女子が、思わず立ち上がる。
「ひ、久しぶり……」
照れたような笑いを浮かべ、彼女は後ろ手にドアを閉めた。
「はいはい、みんな静かに」
田中教諭が手を叩き、ざわめく教室を静める。
「桜沢さん……もう大丈夫なの?」
「はい。今朝、ちょっとした検査があったので遅れましたが、無事退院できました」
「そう、よかったわね。ところで……」
と、彼女も少し言いにくそうな顔になった。
「あ、はい。このことは最初にみんなに言っておきます」
鈴理は気にした様子もなく、鞄を降ろすと、左手の袖をまくり始める。すると 丁度、肘と手首との間くらいの位置に、包帯がグルグルと巻かれているのが見えた。
彼女が包帯を外し終えると、手と腕との間に、境目があった。通常ではありえない、不自然な境目。
鈴理が左手をつかみ、引っ張ると、それはそのまま取れてしまう。
短い悲鳴が、いくつか上がった。
彼女の左腕の先には、あるべき手がなく、棒のような状態になっていたのである。
教室中の視線が注がれる中、鈴理は堂々と左手を上げ、笑みを浮かべながら言った。
「あたしの左手……元には戻りませんでした」
しん、と静まり返る一同。
左手を失ってしまったクラスメイトに対して、何と声をかければいいのか、誰一人としてわからない。
「大丈夫。傷はほとんどふさがってるし、今、義手も作ってもらってるから」
そう言って、彼女は先程外した、手の形をしたものを付け始める。
「これは仮の義手……といっても、ただのゴム手袋みたいなものだけど」
しかしそんなゴム手袋でも、腕の先にはめ、包帯で固定し、袖を下ろして隠せば、じっくり見ない限り義手だとはわからない。すれ違った人に、奇異の目で見られることもないのだ。
「元に戻らなかったのは残念だけど、利き腕じゃなかったから、そんなに不便じゃないの。だからみんなも、あまり気を使わないでいいので、また仲良くしてください」
ペコリと頭を下げると、拍手が上がった。
「退院おめでとう」
「がんばれよー」
「こっちこそ仲良くしてね」
そんな励ましの声をかけられ、鈴理はもう一度頭を下げると、自分の席に向かった。
「……久しぶり。元気だった?」
彼女は鞄を置くと、隣の男子生徒に声をかける。
鈴理の隣――そこは、渡利秋人の席だった。
「さ、桜沢……」
彼女を見る、彼の表情が、固まっていた。まるで信じられないものを、見ているかのような表情で。
「……うわ、何か失礼。わたしが帰ってきたのが、そんなに意外?」
「そ、そんなことはないよ」
秋人は慌てて否定した。
「で、でも、いきなりだったから……。髪も短くなってるし……」
「……似合う?」
「う、うん。まあまあ……」
「まあまあ、って……。素直に可愛いってほめればいいのに」
「……自分で言うなよ」
「はいはい、その辺にしておきなさい」
パンパン、と手を叩き、田中教諭がざわめく教室を静かにさせる。
「久しぶりで、おしゃべりしたい気持ちはわかりますが、今は授業中ですよ。特に桜沢さんは、一ヶ月の遅れを取り戻さないといけないんですから」
「すいません……」
鈴理と秋人は、頭を下げた。
しかし田中教諭は厳しい表情から一転、笑顔になる。
「桜沢さん……あなたも大変でしょうけど、頑張って。みなさんも、できるだけ協力してあげるように」
「はーい」
と、ほぼ全員から返事が上がった。高校生にもなると、なかなか返事を返さなくなるものだが、それだけ協力しようとする意志が強い、ということだろう。
「みなさん、ありがとうございます」
鈴理は、もう一度頭を下げた。一ヶ月ぶりの学校で、来るまでは緊張していたのだが、やはり来てよかったと思う。
「では、授業を再開します」
田中教諭が教科書を読み、黒板に書き始めると、生徒たちは一斉にノートを取り始めた。
「渡利くん」
同じくノートに書こうとする秋人に、鈴理は顔を寄せ、小声で話しかける。
「後でゆっくり、お話しましょ」
「え? あ、ああ……」
少し戸惑いながらも、秋人は頷いてみせるのだった。
しかし、休み時間になっても、秋人が鈴理と話すことはできなかった。
授業が終わった途端、彼女はクラスメートたちに、囲まれてしまったのである。
「鈴理ちゃん、会いたかったよー」
「左手、本当に大丈夫?」
「ノートが必要なら、貸してやるぞ」
次々と話しかけられる鈴理。これでは、とても秋人が口を挟むことはできない。
(ま、俺は後でいいか……)
そう思い、席を離れたところへ、庄吾が近づいてきた。
「よっ、便所行こうぜ」
「……いいけど」
秋人は頷き、教室を出る。と、そこに、小柄な少女が立っていた。
「渡利先輩……」
美夜だった。走ってきたのか、少し肩が上下している。
「先輩と話がしたくて、来たんです……。お願いですから、聞いてください」
「…………」
必死に頼み込む美夜。しかし、秋人は沈黙したままだった。
(渡利……)
ちらりと、庄吾は彼の顔をのぞいてみる。
秋人は別段、怒った様子もなく、無表情だ。だがそれは、目の前にいる少女の存在を、認めていないということである。
案の定、秋人はまたも彼女を無視し、歩き出してしまった。
「あっ……」
思わず、手を伸ばそうとする美夜。だが彼女の手は、庄吾に手によって遮られてしまう。
「……あなたは……」
「羽柴庄吾。覚えてくれた?」
そう言って、彼は自分ではさわやかだと思っている笑顔を向ける。
「は、はい……」
美夜は、さりげなく一歩退いた。
「それで……羽柴先輩は、どうして止めるんですか?」
「まあ、俺は君らの詳しい事情は知らないけどさ。今のあいつ、すっげー機嫌悪いから、話し合うのはもう少し落ち着いてからの方が、いいんじゃないかと思うんだ」
「…………」
「そうすれば、あいつも話くらいは聞くと……」
「……だめなんです」
庄吾の言葉を遮り、美夜は言った。
「え?」
「急がないと……そうしないと、また……犠牲者が……」
「……え? 今、何て?」
耳に手を当てる庄吾。
また……の後が、よく聞き取れなかった。
「い、いえ、何でもないんです」
美夜は慌てて首を振った。
「羽柴先輩……。多分わたし、渡利先輩にすごく嫌われたと思うんです。それは仕方ないことだと思います。でも、そうだとしても、きちんと話し合いたいんです。渡利先輩が話を聞いてくれるまで、わたし何度でも来ますから……」
そう言って軽く一礼すると、美夜は自分の教室へと戻っていった。
「はあ……。いい子じゃないか、夕月さんって……」
思わず庄吾はため息をつく。
「あの子が、渡利を怒らせるようなこと、するとは思えないけど……。ったく、話くらい聞いてやればいいのに……」
意地を張る秋人に呆れながら、庄吾は彼の後を追うのだった。
「夕月さんさ、話を聞いてもらうまで、何度でも来るってさ」
トイレを出て、廊下の窓から並んで外を眺めながら、庄吾は言った。
「それが嫌なら、一回話をして、終わりにすればいいんじゃないか?」
「……話したく、ないんだ……」
「でもさ……」
「あいつの話はしないでくれって、言ったろ……」
秋人の声が、低くなる。
「……わかったよ」
仕方なく、庄吾は話題を変えることにする。
これ以上しつこくすれば、彼を怒らせるだけだ。
「それじゃ、今度は桜沢さんのことにしよう」
「桜沢さん……か」
「驚いたよな、急に学校に来たから。しかも手がアレだし……な」
「…………」
再びうつむき、暗い表情になる秋人を見て、庄吾ははっとなる。思い出したのだ、彼女が手を失った原因を。秋人がまだ、深く気にしていることを。
だから庄吾は、慌ててごまかそうとした。
「あ、ああ、でもさ。アレだ。ショートカットも結構似合ってるよな。可愛いよな」
「まあ……な」
と、秋人は曖昧に頷く。
確かに髪型は似合っているが、彼にとって重要なのはそのことではない。
「けど、俺のせいで、あいつの手は……」
「お前のせいじゃねえって」
きっぱりと、庄吾は言った。一ヶ月も前に、何度も繰り返された会話である。
「渡利こそ、もうその話はするなよな」
「……そうだな」
秋人は、頷く。
だが、納得できたわけではない。
何と言われようとも、あれは自分の責任なのだから。
一ヶ月前――。
同じ中学の同じクラス出身ということで、割と仲のいい秋人と鈴理。そして高校に入ってから知り合った庄吾の三人で、遊びに出かけたことがあった。
場所は新しくオープンしたばかりという遊園地。テレビや雑誌でも紹介されている、人気スポットである。庄吾は他にも数人誘ったのだが、その日は都合が悪いということで、結局三人になったのだ。
そして遊園地に着き、彼らは楽しんだ。混雑はしていたが、目的の乗り物にも乗れ、会話も弾み、充実した一日を終えるはずだった。
「それじゃ、また明日な」
駅前に止めてあった自転車にまたがり、庄吾は手を振る。
夕方には帰る予定だったのが少し遅れ、既に日は陰り、星が瞬いていた。
「ああ、じゃあな」
「バイバイ、今日は楽しかった」
秋人と鈴理も自転車に乗り、手を振り返す。二人は途中までは同じ帰り道なため、ここで庄吾と別れたのである。
「羽柴くんって、楽しい人だね」
並んで自転車を走らせながら、鈴理が言う。この頃は彼女はまだロングヘアーで、綺麗な黒髪が、風に乗って流れていた。
「そうだな……」
「渡利くんも、もっとしゃべればいいのに」
「これが俺のペースだから……」
別に無口ではないのだが、自分から積極的に話すタイプというわけでもなかった。
そしてしばらくして、彼らの道も別れる地点に到着する。
秋人は自転車を止めて、鈴理を見た。
「……家まで送ろうか?」
「へえ……。珍しいこと言うのね」
風が、少し出てきた。髪を押さえながら、彼女はからかうように笑みを浮かべる。
「さては、あたしに気があるわね?」
「違う」
即座に、きっぱりと言った。
「渡利くん……」
鈴理は肩をすくめながら、呆れてため息をつく。
「いくら本当のことでも、そんなはっきり言われると、傷つくんですけど……」
「そ、そうだな……。ごめん」
もしかすると、これも女の子にもてない要因のひとつかもしれない。
「あたしって、そんなに魅力ないのかしら。うじうじ」
「いや、それはともかく」
「ともかくって……」
彼女の冗談に、秋人は付き合わなかった。
「何となく……胸騒ぎがするというか……」
「そう? でも大丈夫だよ、家まですぐ近くだし」
「だよな……」
秋人も、気のせいだろうと納得する。ここから鈴理の家までは、二、三百メートルといったところだ。彼女は日頃から安全運転を心がけているので、事故に遭う確率は低いはずである。
「交通事故よりも、渡利くんが送り狼になる確率の方が高いわよ」
「親がいるなら無理だって……」
「……それじゃ、親がいなかったらするってこと?」
「いてもいなくても、何もしないって」
そう言って、二人は笑い合う。
こんな会話をしているが、彼らはお互いを恋愛対象とは見ていない。あくまで気の合う友達関係である。
「それじゃ、一応気をつけてな」
「うん、ありがと」
二人は手を振り、別れた。角を曲がり、秋人の姿は見えなくなる。
「もう……渡利くんてば、心配性なんだから」
苦笑しながら、鈴理は自転車を走らせた。
「小学生だってまだ遊んでる時間だし、人通りもまばらにあるし……」
周囲に気を配り、時々通る車にさえ気を付ければ、事故になど遭うはずがない。
鈴理はそう確信していた。
「……あれ? あの人……」
思わず眉をひそめてしまう。
彼女の進む道路の先に、不審な人物が立っていた。長い髪とダブダブの服でわかりにくいが、どうやら若い男のようだ。しかしその肌は血の気を失ったように青白く、口からは涎を垂らし、表情には精気が感じられない。
「やばい」
と鈴理は直感した。
どう見ても、彼は普通ではない。危ない薬でもやっているのかもしれない。
だが、この道を通らなければ家へは帰れないため、鈴理は距離を置いて通り過ぎることにした。
段々と、近づいていく。
二十メートル……十メートル……。
ハンドルを握る手に、思わず力がこもる。
男は立ち尽くしたままだ。
(大丈夫、このまま……)
あと一メートル。
そのとき、ふっ、と男が顔を上げた。
「えっ?」
そんなつもりはなかったのに、鈴理は思わずそちらを見てしまう。
「あっ……」
男と目が合った。そして驚愕する。
彼の瞳が、赤く染まっていたのだ。まるで血のように、生々しい色に。先程までは、確かに黒い瞳だったはずである。
(嘘っ……)
と驚愕する間もなく。
男の腕が動き、鈴理の横を風と共に通り過ぎた。
「なっ……」
がくん、とふいに身体が前のめりになり、バランスが崩れる。
「きゃあっ!」
ガシャーンッ!
何故そうなったのかもわからないまま、彼女は激しく転倒した。身体から離れた自転車が、数メートルも道路を転がっていく。
「う、ううっ……」
何とか頭を打たないように受け身を取ったものの、全身が痛む。よくわからないが、先程の男が何かをしたのは確かだ。とすれば、このままでいるのはまずい。
(に、逃げなきゃっ……)
だが、立ち上がろうとして、彼女は気づいた。自分の左腕の、違和感に。
「えっ……!?」
思わずその光景を疑ってしまう。
そこには、あるべきものが付いていなかった。
腕の先からは吹き出すように血が溢れ、白い骨が露出している。
「あっ……ああっ……!」
ブルブルと、身体が震えた。じりじりと、ようやく左腕に痛みが伝わってくる。
「あたしの……あたしの手がっ……!」
鈴理は、周囲を見回した。あるのは、横倒しになった自分の自転車。他には――と、移動しかけた視線を戻す。自転車に、何かが付いていた。
「ああっ……」
鈴理は愕然となる。
ハンドルに、手が付いていた。切り離された自分の手が、そのままハンドルを握りしめている。
「痛い……痛いっ……」
右手で押さえたが、血は止まらない。痛みはますます激しくなっていく。
「うあああああああっ!」
とうとう、鈴理は悲鳴を上げた。我慢できない程の激痛に、彼女は地面を転げ回る。
「ひぐっ、うっ、ううっ……!」
奥歯を噛みしめ、何度も頭を道路に打ち付けた。少しでも、この苦しみから逃れるために。
そんな彼女の前に、気配が近づく。
「うぐっ……!」
顔を上げ、鈴理は後ずさる。
あの男だ。赤い瞳の、不気味な男が、笑みを浮かべながら彼女に近づいてきた。
(こ、殺される……)
鈴理の背筋が凍り付く。
安全だと思っていた。通り慣れたこの道で、夕食前のまだ早い時間帯で、襲われるとは思わなかった。
(渡利くん――)
別れる前の、彼の言葉が蘇る。
秋人が感じたという胸騒ぎが、まさに的中してしまったわけだ。
(ごめん……言うこと聞いて、送ってもらえばよかったね……)
男が、目の前で手を振り上げる。
痛みと出血多量で身体が震え、鈴理は動くことができない。
(やだっ……! まだ死にたくない! まだ死にたく……)
ヒュッ。
恐怖でひきつる彼女の顔に、風を切って男の手が迫る――。
だが、そのときだ。
横からの、衝撃が来た。
「えっ?」
鼻先をかすかにかすめただけで、男が吹き飛んだ。
そこにいたのは、サラリーマン風の中年の男だ。彼が体当たりをして助けてくれたらしい。
「大丈夫か!?」
と彼は心配そうに声をかけてくる。
「あっ……あ……ううっ……」
返事をしようと思うのだが、ひきつって声が出なかった。
「フゥゥ……」
ゆっくりと息を吐き、赤い瞳の男が立ち上がる。笑いは崩さないまま、サラリーマンを睨み付けた。
「こいつは俺が押さえておく! その間に君は近くの家に駆け込んで、警察と救急車を呼ぶんだ! できるな!?」
必死の形相で、サラリーマンは声を張り上げる。
見た所、彼は体格がいいわけでも、格闘技が使えそうなわけでもない。ただ鈴理を助けるために、少女の未来を守るために、勇気を奮って立ち向かったのだ。
「う、うぐっ……ぐぅっ……!」
鈴理は見ず知らずのこのサラリーマンに感謝し、必死に頷くと、重い身体を引きずりながら移動を始めた。懸命に力を込めているのだが、とても普段のように走ることはできない。
「どこでもいいんだ! 急げ!」
「あ、あぅっ……!」
鈴理はすぐそばにある一軒家の門を越え、庭に飛び込んだ。
それを見守ると、サラリーマンは目を細め、赤い瞳の男を見据える。
「何を考えてるのか知らないが……自分の都合で、他人を傷付けるんじゃねえっ!」
彼は怒りを込めて、男に向かっていった。
十数分後――。
警察がその現場に辿り着いたときには、赤い瞳の男の姿はなかった。あったのは、身体中の肉を切り裂かれ、絶命しているサラリーマンだけだった。
その後、赤い瞳の男は他の場所に現れ、次々と殺人が起こった。取り押さえようとした警察官までもが殺され、慌てふためく中、彼はまたも行方をくらましてしまう。そして結局見つかったのは、朝日が昇り、道端で全身の血液がない死体となってからだった。
この不可解な謎の事件は、その日ニュースで報道され、世間に衝撃を与えた。最初のヴァンパイア事件――と、後に呼ばれることになる。
鈴理は、あの勇気あるサラリーマンのおかげで、助かることができた。すぐに手術をし、切られた手を戻そうとしたのだが、それは失敗に終わってしまう。
しばらくは深く落ち込んでしまったが、自分は生きているのだ。命をかけて助けられたのだ。そう思い、何とか立ち直ることができた。今ある命を、あのサラリーマンに感謝して――。
「けど、ショックだったんだよな……」
青空を見上げ、秋人は肩を落として言った。
「俺と別れた後、桜沢があんなことになるなんて……」
多少強引にでも、家まで送るべきだった。そうすれば、彼女は腕を失うまでにはならなかったかもしれない。
「そんなこと言ったら、俺だって同じだろ……」
と庄吾。彼もあの日から、ずっと後悔し続けていた。
「そもそも他の奴らの都合が悪いのに、俺が強引に三人で行こうって連れ出したんだからな……」
鈴理が襲われて入院したと聞いたとき、二人はすぐに見舞いに行った。だが、面会は断られてしまった。
今は会いたくない、と。
それほど、彼女にとってはつらい状態だったのだろう。しかし立ち直ったからこそ、彼女はこうして学校に出てきて、わざわざ切られた腕を皆に見せたのだ。
「だから、俺たちがいつまでも暗い顔してるわけにはいかないだろ?」
「ああ」
と秋人は頷く。
納得できたわけではない。だが、後悔よりも、他にするべきことがある。
「桜沢も勇気を出して登校してきたんだ……。俺たちが、元気を出させてやらないとな」
「あたし、元気だよ?」
後ろから、いきなり鈴理が顔を出した。
「うわあっ!」
二人は驚いて飛び退く。
そこには話題にしていた彼女が、ニコニコと笑顔で立っていた。
「な、何だよ。驚かすなよな……」
「悪趣味だよ、桜沢さん……」
顔をひきつらせたまま言う秋人と庄吾。
「だって、二人して真面目な顔で話してるから」
あはは、と声を上げて鈴理は笑う。
昨日まで入院していたとは思えない明るさだった。
「…………」
そんな様子に戸惑い、秋人と庄吾は互いの顔を見合わせる。
「それより――」
笑顔のまま、彼女は言った。
「今まで心配かけちゃってごめんね。もうホントに大丈夫だから。それと……見舞いに来てくれたときも、ごめん。あのときはまだ、これを見せる決心がつかなかったから……」
左手を見せる鈴理。そこにあるのは本物の手ではなく、義手である。といっても、ほとんどゴム手袋のような代物だ。彼女は若くして、肉体的ハンデを背負ってしまったのである。
「いや……気にしなくていい」
と秋人。さすがにそれを見て、笑顔を返すことはできない。
「それより、俺の方こそ――」
「ストップ」
言いかけた彼の口を、鈴理は素早く右手で押さえた。
「むぐっ?」
「どうせ、あのとき俺が送っていれば――とか、言う気なんでしょ?」
「…………」
図星だった。
「これははっきり言っておくけど、渡利くんと、それに羽柴くんには何の責任もないんだからね。悪いのは、あたしを襲った奴! ……と、いうわけでもないか。あの人だって被害者なんだし」
鈴理もニュースを観て知っていた。世間で今、騒がれている事件のことを。
「本当の犯人はまだわからないけど……悪いのは、ヴァンパイア事件を起こしている奴なの。二人が悪いわけじゃないの。……それでいいでしょ?」
「……わかった」
頷く秋人と庄吾。
彼女がそれで納得しているのなら、二人が口を挟むことは何もない。
「ところで桜沢さん。その髪型、似合うなあ。すっごく可愛いよ、うん」
話題を明るくしようと、庄吾が照れ臭そうにしながら言った。
「そう?」
と鈴理は短くなった自分の髪に触れてみる。
「ちょっとした気分転換なんだけど。ありがとね」
正確には、登校する前に決心を固めるためだったのだが……やはり、ほめられて悪い気はしない。
(強いよな、桜沢……)
つらくないわけがないのに、明るく振る舞っている彼女を見て、秋人は切に思う。
(俺だったら、とても真似できないよ……)
もし自分の左手が失われ、二度と戻らないとしたら、果たして一ヶ月で立ち直れるだろうか。二ヶ月、いや三ヶ月が過ぎても落ち込んだままのような気がする。
(既に俺は逃げてるしな……)
夕月美夜から。ヴァンパイア事件に関わることから、自分は逃げている。
(だって、しょうがないだろ……。あいつに協力したら、本当に死ぬかもしれないんだ……)
昨日は彼女のキスで、傷ついた身体を回復することができた。だが、それに間に合わなかったら? 間に合ったとしても、あの地獄のような苦しみは、二度と味わいたくない。
「……ヴァンパイア事件……か」
思わず呟いてしまう秋人。
彼女は――夕月美夜は、犯人の正体を知っているのだろうか。
何らかの方法で、人間をヴァンパイア化してしまう犯人。
昨日の体験で、秋人は美夜と犯人の共通点を見つけていた。すなわち、人の血を吸い、暴走させることができるという点――。つまり、犯人は彼女の同族なのではないだろうか。
(もしそうだとしたら……ますます俺には関係ないじゃないか。他人を巻き込まないでくれよ……)
同族の問題なら、同族で解決すべきである。大勢の犠牲者を出し、鈴理の左手を失わせた彼女の一族を、秋人は許すことができない。
しかし、彼女の必死の表情が、ちらついて離れないのは何故だろうか。
「どうしたんだ、渡利……?」
暗い表情で考え込む彼を見て、庄吾が訊ねる。
「……い、いや、何でもない。それよりもう授業が始まるだろ。戻ろうぜ」
「そうだな。行こう、桜沢さん」
「うん。……あれ?」
頷いた鈴理の視界の先に、見覚えのある少女の姿が入り込んだ。顔を向けると、彼女は長い髪をひるがえして廊下の角に消えてしまい、はっきりと確認することはできなかった。
「どうかした?」
「ううん。何でもない」
庄吾の問いに首を振って答えると、彼女たちは教室へと戻った。
(誰だったかなあ、あの子……)
授業が始まっても、鈴理はしばらくそのことを考えていた。
次の休み時間。
再び教室にやってきた美夜を見て、鈴理は思い出した。
一ヶ月程前から、何故か秋人を慕い、会いに来ていたのを見かけたことがある。そのときは、二人とも割と楽しそうに話していたのだが、今日は何やら様子が違った。
美夜は必死に話しかけているのだが、秋人は口を開こうとせず、どんどん廊下を歩いていってしまう。
「ねえ、羽柴くん。あの二人、何かあったの?」
鈴理は、庄吾に訪ねてみた。秋人の数少ない友人である彼なら、事情を知っているかもしれない。
「あ、ああ……あいつらな」
困ったように、庄吾は顔をしかめる。
「実は先週の土曜日に、デートしたらしいんだが……」
正確には、土曜日に続いて日曜日もしたのだが、そこまでは彼も聞かされていない。
「え? デート?」
思わず声を上げる鈴理。
「あの、渡利くんが?」
「そう。あの渡利がだ」
と庄吾。そう強調してしまうほど、彼にデートという言葉は似合わなかった。
「一週間くらい前から、夕月美夜っていう、あの一年生の子がしつこく誘ってきたんだ。最初は渡利も断ってたんだが、根負けしたらしい」
「へえ〜……。あんな可愛い子が渡利くんをねえ……」
失礼な言い方ではあるが、誰が見ても美少女である美夜と、誰が見てももてそうにない秋人とでは、釣り合いが取れていない。といっても顔が悪いわけではないので、彼ももう少しおしゃれに気を使えば、まだ見られるようになるはずである。もっとも、秋人自身は興味がなさそうだが。
「……で、そのデートで、どうやらケンカしたらしいんだな、これが。しかもかなり激しいのを」
ふう、と庄吾はため息をつく。
「俺が何とかしてやろうと思っても、二人とも事情を話してくれないし。……まあ、夕月さんの方はああして仲直りしようとしてるんだが、渡利は口をききたくもないらしい」
「もしかして……修羅場?」
にやり、と鈴理は思わず笑みを浮かべた。
「楽しそうに言うなよ……。あいつらのせいで、おかげでこっちまで暗い気分なんだ」
「あはは。そりゃ災難ね」
「おいおい、他人事じゃないって」
笑っている彼女に、庄吾は呆れる。
「しばらくあいつのそばにいれば、嫌でもわかるって」
「うん、わかった」
ぽん、と鈴理は自分の膝を叩いて見せた。
「あたしから渡利くんに、仲直りするように言ってみるよ」
「ホントか? そりゃ助かる」
二人とも、秋人とは同じくらいに親しいが、彼がどちらの言うことをより聞くかといえば、やはり鈴理である。
それに、秋人は彼女に負い目がある。前の休み時間では互いに納得したが、彼の心の中では、その思いは消えていない。
その二つを利用すれば、秋人も美夜の話くらいは聞くようになるのではないだろうか。
庄吾は、そう考えていた。
「まあ、あくまで渡利くんの問題だからね。それにあたしが頼むと、左手のこと気にしちゃうかもしれないから、あまり強くは言えないんだけど」
「あ……。そ、そう……だな……うん。」
鈴理の言葉を聞き、庄吾は焦って頷く。そして一瞬でも、彼女の左手のことを利用しようとした、自分の考えを恥じた。
(俺ってバカ……)
二限目が終わった後、秋人はすぐに教室を飛び出してしまった。美夜に会うのを避けるためらしいが、おかげで鈴理は彼に話しかけることができなかった。
(でも、何でそこまで避けるんだろう……)
デート中に何かあったにせよ、会いたくない口もききたくないというのは、どういうことだろう。二人はデートをするほど仲が良かったのだ。ケンカをしたのなら、きっかけさえあれば、仲直りもできるはずである。
(ただのケンカじゃないのかな……)
そんな疑問が持ち上がるが、それが何かまでは予想できなかった。
昼休み。
弁当を持って外へ出ようとした秋人を、鈴理は慌ててつかまえた。
「ちょっと待ってよ」
「……何だ?」
「一緒にお弁当、食べようよ」
「……は?」
秋人は怪訝そうな顔を向ける。
当然だ。昼食時は男子は男子、女子は女子でグループになるのが普通である。例え彼氏彼女の関係だとしても、一緒に食べるのはさすがに恥ずかしいのか、誰もやる者はいない。
それに鈴理は今日、復帰第一日目なのだから、黙っていても誘われるはずである。
「何考えてるんだ、お前……」
「いいのっ、そうしたいんだからっ」
「よし、それなら俺も一緒に食べようじゃないかっ」
そう言って、横から庄吾が割り込んできた。
「…………」
口の端をひきつらせながら、秋人は彼の顔を見る。すると庄吾は、さっと視線をかわした。
「羽柴……お前、何か吹き込んだな」
「俺は知らないぞ。全然、全く。いや、ホントに」
口調からして、わざとらしかった。
「ね、お願い。久しぶりなんだから、お話しようよ」
「……ったく、しょうがないな……」
秋人は渋々了承した。
「ありがと。というわけで、ごめんね。今日だけだから」
誘ってくれた女子に謝り、鈴理は彼の机のそばの、空いた席に座る。
「よし、それじゃ、俺はここだな」
誘われてもいない庄吾が、どっかと腰を下ろした。
「……さて、食うか」
「やれやれ」
二人は鞄から弁当を取り出し、包みをほどく。
鈴理もそれに続き、弁当を取り出す。片手しか使えない彼女を気遣ったのか、マジックテープで簡単に取り出せる袋に入っていた。
「いただきます」
「……いただきます」
普段はそんなことはしない彼らも、鈴理につられて手を合わせた。鈴理は左手の義手で弁当箱を押さえると、右手で箸を使い始める。
「桜沢、片手で平気なのか?」
「うん、平気。なくなったのが右手だったら、多分すごく苦労しただろうけど、左手だったから」
心配する庄吾にそう答え、証明するように、彼女は箸を口に運んでいく。問題はないようだった。
「……ねえ、渡利くん。羽柴くんから聞いたんだけど……後輩の夕月さんって子とデートしたんだって?」
「羽柴……」
じろり、と秋人は彼を睨む。
「……悪い。けど、お前が不機嫌な顔してると、こっちまで不機嫌になってくるんだよ。だから、桜沢さんに相談して、解決してもらおうと思ってな」
「解決できるかはわからないけど……」
苦笑しつつ、鈴理は言った。
「彼女、休み時間の度に来てるよね。つまり、それだけ一生懸命だってことなんだから、せめて話くらいは聞いてあげれば?」
「…………」
秋人は、無言のまま、弁当を口に入れる。
ふう、と小さく息を吐きながら、鈴理は続けた。
「デートで何があったにしろ、口も聞いてあげないなんて、よくないよ。それとも……もう嫌いになっちゃったの?」
「…………」
秋人は箸を止めた。黙っていても、彼女は話をやめないだろう。
「好きとか嫌いとか……そういう単純な問題じゃないんだ……」
「じゃあ、何?」
鈴理の真っ直ぐな視線が、秋人に向けられた。
「あいつは……」
と言いかけて、やめる。
夕月美夜はヴァンパイアの子孫であり、今世間を騒がせているヴァンパイア事件の犯人と、関わりがあるかもしれない。……などと話したところで、一体誰が信じてくれるというのだろう。
仮に信じたとしても、しかしそのとき、鈴理はそれでも美夜の味方をするだろうか。自分が左手を失った原因があるかもしれない、彼女のことを。
「あ、あの……失礼します」
か細い声が響き、教室に一年生の少女が入ってくる。彼女は真っ直ぐに秋人の所へやってきた。
「渡利……先輩」
悲しげに沈んだ表情が、向けられる。夕月美夜だった。
今日は一日中、無視され続け、さすがに気持ちが落ち込んでいる。
「あっ……夕月さん? 丁度今、あなたの話をしてたところなの」
「え?」
面識のない鈴理に話しかけられ、美夜は少々面食らう。
「ほらほら。今度は逃げないように、あたしたちが押さえといてあげるから」
「ああ。今のうちに、言いたいこと全部話しちゃえよ」
鈴理と庄吾が立ち上がり、秋人の腕をつかんだ。
「お前らな……」
「あ、あの……いいんです」
小さく微笑み、美夜は言った。
「え……?」
意外な言葉に、二人は目を丸くする。
「渡利先輩がわたしと話したくない気持ち……よくわかりますから……」
「……は、はあ……」
「そう……ですか……」
彼女にそこまではっきり言われては、鈴理も庄吾も何もできない。二人は腕を離した。
「先輩の気持ちはよくわかります。わたしを無視したいのもわかります。でもせめて……話を聞いてから判断して欲しかったんです」
真っ直ぐに見つめる鈴理の視線に、しかし秋人は合わせようとしなかった。
「直接話そうと思っていたんですけど……もう上手く話せる自信がないので、手紙にしました……」
ルーズリーフを切り離し、折り畳んだ紙を、秋人に差し出す。
「その手紙には、わたしが先輩にした行動の理由が、全て書かれています」
「…………」
秋人は無言で、彼女の持つその紙を見つめる。
(行動の理由が全て……か)
正直、興味はあった。もしかしたら、予想もしない意外なことが書かれているのかもしれない。
だが、それがどんな内容であるにしろ、既に秋人の決意は固まっていた。
彼は手を伸ばし、手紙を受け取る。
「先輩……」
嬉しそうに、美夜は顔をほころばせた。
そんな彼女を見るとさすがにためらうが、自分の意志を見せるためには、はっきりとした行動が必要だった。
ビリビリッ!
勢いよく、秋人は手紙を破り捨てた。
「あっ……」
呆然と、床に落ちていく紙片を見る美夜。
彼の予想外の行動に、鈴理も庄吾も声が出ない。
「これが最後だ」
秋人は、美夜の目を見て、はっきりと言った。
「俺はもう、お前に関わりたくない」
「……わかり……ました……」
項垂れたまま、彼女はしゃがみ込み、落ちた紙片を拾う。そのまま残して他人に見られたくはなかった。
「今まで迷惑かけてごめんなさい……」
立ち上がり、彼女は頭を下げる。
「もう二度と話しかけたりしません。……さようなら……」
背中を向けると、美夜は走って教室を出ていった。眼鏡の奥が潤んでいたように見えたのは、気のせいではないだろう。
何とも、後味の悪い出来事だった。
しかも、それはまだ終わりではない。
「渡利くん……。今の、ひどすぎるんじゃない?」
「あんまりじゃないか……?」
鈴理と庄吾が、非難の目を向けていた。
当然だな、と秋人は思う。もし自分が逆の立場でも、同じ反応をしただろう。
「今、言った通りだよ……」
自分の言葉の後に返ってくる結果も予想できたが、彼は構わずに続けた。
「俺はあいつとは、関わりたくない」
「…………」
ガタッ。
同時に、二人は立ち上がった。
「今の渡利くん……あたし嫌いだよ……」
「最低だな……」
「…………」
秋人は視線を逸らした。
自分でも、わかっている。
返す言葉は、何もない。
「行こ、羽柴くん」
「ああ。最低男のいない場所で食べようぜ」
二人は食べかけの弁当を手にし、教室から出ていった。
「ふう……」
秋人は、大きく息を吐いた。
「最低……か。そうかもな……」
美夜にひどいことを言い、泣かせたのだ。誰でもそう思うだろう。
(けど、あいつを受け入れることはできない……)
あと一歩で死ぬところだった、昨日の出来事。彼女に関わるということは、ああいうことが今後も起こるということだ。
(何とでも言えばいい。俺は自分の命が大事なんだ)
ヴァンパイア事件も、夕月美夜も、鈴理も庄吾も、全て関係ない。関係ないのだ。自分の命を、守るためには――。
ふと、視線を感じた。
振り返ると、教室中の生徒たちがこちらを見ていた。
今の様子を見ていたのだろう、全員の目に、非難が込められている。
「やれやれ……」
食べかけの弁当を包み、秋人は立ち上がった。さすがにこのままここで食べるほど、図太い神経でもない。
「ホント、最低だな……」
自虐的な笑みを浮かべながら、秋人は教室を出ていった。
第四話
声が聞こえる。
教室で、廊下で、階段で。
ある者は弁当を広げ、ある者は廊下で雑談し、ある者は購買へと向かう。
授業で疲れた頭と身体が休まる時間、または学校生活でもっとも楽しい時間ともいえる昼休み。
そんな彼らの間を、秋人は弁当を手に、無表情に通り抜けていく。
(みんな仲間がいるな……。なのに俺は一人か……)
周囲を見て、彼はふう、とため息をつく。
一人きりには慣れていた。彼は積極的に友人を作るタイプではないため、昔はよく一人で食べたものだ。ただ、最近は庄吾や鈴理が親しくしてくれたため、少し寂しく感じてしまったのである。
(しばらく仲直りは無理かな……)
悪いのは自分だということはわかっていた。だが、命をかけてまで美夜と関わることはできないし、避ける理由を説明したとしても、証拠もなしに信じられる内容ではない。
(夕月美夜……か)
一瞬、最後に見せた、涙の表情が頭をよぎる。
彼女はこれからどうするのだろう。新たな協力者でも探すのだろうか。
「ま、俺には関係ないことだ……」
浮かんでくる彼女の姿を振り払い、秋人は歩を進めた。差し込む日差しで、廊下が眩しい。
気が付くと、彼は生物室の前に立っていた。
意識して来たわけではない。なのにここにいるということは、秋人も心の底では、人との関わりを求めているのだろうか。
(まあ、あの人なら気が楽だしな……)
秋人は生物室の扉を開けた。
中に入ると、廊下のざわめきが小さくなり、静けさに包まれる。授業がなければほとんど生徒が近寄ることがないこの教室は、孤独と静寂を求める者には、絶好の場所ともいえた。
「ああ、いたいた」
見回すと、すぐに彼女は見つかった。日当たりのいい、窓側の席に座り、うつぶせになっている。
「う〜ん……誰……?」
近づいてくる気配を感じ、彼女は頭を上げた。目が半開きで、眠そうな顔だった。
「俺です」
「”俺”なんて人、知らない」
そう言って、またうつぶせになる。
「……渡利です」
「”わたり”なんて人、知らない」
ぐー、と寝息を立てた。
「……西山先輩の後輩の、渡利秋人です」
「私の後輩の渡利くんは、西山先輩なんて呼ばないも〜ん。奈々ちゃん先輩って呼ぶんだも〜ん」
「……俺はそんな呼び方しません……」
「ぐーぐー、ぐーぐー」
寝息を声に出し始めた。
こうなったら、そう呼ばない限り彼女は起きないだろう。
(ったく……)
心の中でため息をついてから、秋人は仕方なく言った。
「奈々ちゃん先輩の可愛い後輩で、唯一の生物部部員でもある、渡利秋人です」
「ああ……それなら知っているかも」
ようやく頭を上げる彼女。目をこすり、にっこり笑った。
「おはよう、可愛い後輩の渡利くん。よくも私のお昼寝タイムを邪魔してくれたわね。罰として、ジュース一本おごってもらおうかな」
「そんないきなり……。小遣いが残り少ないので、パスします……」
「パスは不可。もしくは、グラウンド三周」
「……じゃ、代わりに弁当を分けてあげますから」
「う〜ん……。まあ、いいでしょ」
そう言って、彼女はセミロングの髪を掻き上げた。ようやく目が覚めてくる。
「渡利くんったら、急に来るんだから……。せっかく光合成してたのに……」
「光合成……ですか」
その言葉に、秋人は苦笑する。
相変わらず変な先輩だな、と思った。しかし、彼女といると何故か心が安らぐのも事実である。だからこそ、秋人は適当に仮入部した生物部に、そのまま居続けているわけだが。
「それじゃ、遠慮なく頂きま〜す」
そう言って、彼女は秋人の食べかけの弁当を、気にすることなく口に運んでいく。
「あ、あげるのは半分までですからね。全部は食べないでくださいよ」
「ケチ……」
「ケチじゃないでしょ」
「ま、いいけど。うん、これはなかなかおいしいわ」
「そうですか」
食べ続ける彼女を見ながら、秋人は向かい側の席に座った。
ふと、奈々の手が止まる。
箸を口に入れたまま、秋人の目を見つめてきた。
「……な、何ですか?」
「……渡利くん……。週末に、何かあったの?」
「えっ?」
どくん、と心臓が大きく鼓動した。
「どっ……どうしてですか?」
「いつもと雰囲気が……というより、”におい”が変わってる」
「に、におい……?」
「うん。血のにおいに、微妙だけど変化がある」
「ち、血のにおいって……」
突拍子もない言葉だった。血のにおいの変化など、どうすればわかるというのだろうか。冗談だとしても、笑えない――。
そう。秋人は笑えなかった。彼女の言葉が、あまりにも的を得ていたからだ。
「せ、先輩、何言って……」
「吸われたわね。あの一年生の子に」
「なっ……!」
思わず声を上げ、立ち上がっていた。
驚愕に目を見開き、彼女を見据える。
(な、何で西山先輩が知ってるんだ……!?)
知っているはずがなかった。彼女には、美夜の話など一度もしたことはないはずだ。
「やっぱりそうなのね」
軽く肩をすくめ、奈々は再び箸を進め始める。
「……っと、もう半分過ぎたわね。はい、お弁当ありがとう」
「そ、そんなことより!」
秋人は、思わず身を乗り出していた。
「ど、どうして……どうして先輩が、そのことを知ってるんですかっ!」
「ぐー」
「寝ないでくださいっ!」
うつぶせになる彼女を、秋人はガクガクと揺り動かした。
「も、もうっ……。今、私はお昼寝タイムの時間なんだから、邪魔しないでよ……」
「昼寝なら、家に帰ってからにしてくださいっ!」
「それじゃ夕方寝になっちゃう……」
「西山先輩!」
声を張り上げる秋人。マイペースな奈々の態度が、彼をいらつかせた。
「わかった。わかったわよ……」
仕方なく、彼女は起き上がる。
それから眠気覚ましに、目薬をさした。
「ふう……あー、すっきり。それじゃ説明するけど、その前にいくつか質問するわよ」
「は、はあ……」
「渡利くんは、私のこと好き?」
「えっ?」
思わず、表情が固まる。予想外の質問だった。
「……どうしたの? それとも嫌いなの?」
小さく首を傾げ、奈々は答えを催促する。
「え、えーと……」
困ったように頭を掻く秋人。
彼女の意図はわからないが、ここは正直に答えることにした。
「……恋愛感情ではなく、先輩としてなら……好きですよ。だから、いつも昼寝しかしない生物部にも、辞めずに残っているんです」
「そうね、ありがとう。おかげで、私も結構楽しいよ」
小さく微笑む奈々。
「じゃあ、渡利くんの血を吸った、一年生の子のことは?」
「……夕月は……」
彼はうつむき、目を伏せた。
「あいつのことは……俺は許せない」
「でも、別に嫌いなわけじゃないんでしょ?」
「…………」
彼女に問われ、秋人は思わず口をつぐむ。
そうなのだろうか。少なくとも、先週までは嫌いではなかった。だが今は……わからない。まだ、気持ちの整理がつかない。
「何があったか、話してみてよ」
奈々は優しい口調で言う。
「彼女の行動の理由は知りたいけど、今更訊けない、とか思ってるんでしょ? ……そんな意地っ張りの渡利くんのために、私が代わりに答えてあげる。彼女の気持ち……多分、私はよくわかると思うから」
「……どうして……」
椅子に座り直しながら、秋人は疑問を口にした。
「どうして先輩は、夕月をそんなにかばうんです? 今の言い方だと、直接は知らないみたいだし……」
「だって……私もヴァンパイアだから」
「えっ!?」
「これ、証拠ね」
驚きの声を上げる彼に構わず、奈々は爪先で自分の親指に傷を付けた。そこから数滴、血がにじみ――秋人は、驚愕する。
数滴分の血が集まり、何と空中に浮かび上がったのだ。その血は、そのまま丸、三角、四角へと、次々と変化していく。
「これが私の能力……血を自在に操れるの」
「…………」
秋人は固まったまま、動くことができなかった。
(そんな、バカな……西山先輩がヴァンパイアだったなんて……)
いつものんびりしていて、昼寝ばかりしている、ちょっと変な先輩――西山奈々。彼女がこんな能力を持っていたとは、気づかなかった。いや、隠していたのなら当然なのだが、疑いもしなかった。
「そんな警戒しなくても大丈夫よ」
美夜のこともあり、思わず顔に出ていたらしい。
奈々はいつもの笑みを浮かべて言った。
「渡利くんなら、彼女から聞いて知ってるかもしれないけど……。ヴァンパイアといっても、だいぶ血は薄くなってるし、使える能力は限られてるの。それに無闇に血を吸ったりなんて、絶対しないから」
「どうして……」
「ん?」
「どうして、急に正体をばらしたんですか?」
「んー……そうね」
顎に手を当て、しばらく考える。
「はっきり言って私、今起きてる事件にも、一年生の夕月さんにも、関わるつもりはなかったんだけど……」
そこまで言って、彼女は秋人の顔を見た。
「可愛い後輩が関わっちゃったんじゃ、放っておくわけにもいかないでしょ?」
「先輩……」
ようやく、秋人も笑みを浮かべる。
何だか安心した。実はヴァンパイアだというのには驚いたが、いつもの彼女である。
「さ、それじゃ話してみて。悪いようにはしないから」
「はい」
秋人は口を開き――そして、鈴理にも庄吾にも言わなかったことを、話し始めた。
「なるほど……。そりゃ、渡利くんの完全な誤解ね」
彼の話を聞き終わるなり、奈々はそう言った。
「夕月美夜ちゃんが渡利くんの血を吸ったのは、あなたを助けるためよ」
「で、でも、おかげで俺は死にかけたんですよ? 骨は折れるわ、内蔵は潰されるわ、しまいには心臓まで貫かれるわで……」
「けど、美夜ちゃんが血を吸わなかったら、最初に襲われたときに死んでたわよ」
「…………」
思わず、口をつぐむ秋人。
「た、確かにそうかもしれないけど……元はといえば、あいつが誘ってきたから……」
「そうね」
と頷く奈々。
「けど、渡利くん。そういうこと言うのって、すごく格好悪いよ。彼女を一人で帰らせて、襲われたけど抵抗できなくて、そして次の日、彼女は死んでいた――。……なんてことになってたら、渡利くんはどうしてただろうね?」
「…………」
「きっとね……その日、美夜ちゃんは、話そうとしてたんだよ。自分の正体と、そして渡利くんに協力してほしいってことを」
協力。つまりは、ヴァンパイア事件を解決するために。
事件を起こしている同族を止めるためには、直接戦う力を持たない彼女は誰かの協力を得るしかない、というわけだ。
「彼女、すごいよね。誰も解決できなくて困っている事件を、解決しようとしてるのよ? いくらヴァンパイアの子孫でも、危険が伴うっていうのに。……私なんか、関わろうともしなかったのに」
少しだけ、奈々は自虐的に笑う。
「で、どうするの?」
「えっ……?」
「え? じゃなくて、美夜ちゃんに協力するの? しないの?」
「……それは……」
「どっちを選んでも、私は責めないよ? 誰だって、自分から危ない目に遭いたくはないんだから」
奈々は肩をすくめてみせる。
「まあ、協力するにしろしないにしろ、せめて仲直りくらいはしなさいね」
「何で……」
「ん?」
「何で……あいつは、俺を選んだんでしょう?」
「そりゃ、渡利くんが好きだからでしょ」
当然とばかりに、奈々は言う。
「ヴァンパイアが力を与えられるのは、自分が好きな人にだけ。もしどうでもいい人の血を吸ったら、その人は自我を失い、暴走してしまうの。今、世間でヴァンパイア化と言われている現象みたいにね」
「……それはつまり……」
「そう。渡利くんは血を吸われたのに、こうして自我を持ち、平常の状態にいる。これこそ、彼女が本気だという証明に他ならないわね」
「……くっ……」
秋人は、うつむいてしまう。
美夜の言葉は、本気だった――。
それを、「どうせ嘘だろう」などと言われたら、どれほど傷つくだろうか。
「美夜ちゃんも、随分悩んだんじゃないかな」
と奈々。
「だって、好きな人を危険な目に遭わせたい人なんて、いないでしょ?」
「お、俺は……」
苦悩の表情で秋人が言いかけたとき、チャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン。
「さてと。そろそろ戻ろうかな」
奈々は立ち上がった。そして大きな口を開けてあくびをする。
「お昼寝途中だったから、まだ眠いなあ……」
「に、西山先輩?」
呼び止めようとする彼に構わず、奈々は廊下へと向かう。
「後は自分で判断して決めてね、渡利くん。まだ時間はあるんだし。ただし、どっちにしても仲直りはすること。いい?」
「は、はい」
秋人は頷いた。
「よろしい。じゃ、お先に――」
と、生物室を出かけた彼女の足が止まった。
「先輩……?」
怪訝に思い、奈々の顔をのぞき込むと、意外な表情をしていた。愕然としたように、強張っていたのである。あの、いつものんびりしている西山奈々がだ。
「そんな……」
と彼女は呟きを漏らした。
「どうしたんですか?」
「……いる」
そう言って、ゆっくりと、彼女は振り返る。
「この学校に……私と美夜ちゃん以外の、ヴァンパイアの子孫が……」
「なっ――!」
秋人は驚愕の声を上げた。
奈々の能力には、自分の血を操る以外に、近距離という制限があるものの、同族の位置がわかるというものがあった。ヴァンパイアの子孫なら、誰でもある程度はわかるのだが、彼女ほど正確ではないらしい。
その彼女の探索範囲以内に、引っかかる反応があったのである。
「間違いないわ。ヴァンパイアの血を引く何者かが、校内に進入してきた」
頭に手を当て、緊張した表情で奈々は言う。こんな様子の彼女は、秋人は初めて見た。
「まずいわよ、渡利くん。もしかしたら、この人が事件の犯人なのかもしれない……」
「そ、そんなっ……!」
秋人は青ざめる。
この学校には、数百人の人間がいるのだ。もし一人でもヴァンパイア化したなら、それだけで校内はパニックになり、一体何人の犠牲者が出るかわからない。
「くっ……」
苦悶の表情で、彼女は呻いた。
「一人……やられたわ。校舎の外にいた生徒よ……」
「なっ……!?」
愕然となる秋人。
ヴァンパイア化、してしまった。その瞬間、その者は死んだことになる。そして残された身体は暴走し続けるのだ。体内の血が、なくなるまで――。
「このままじゃ、もっと犠牲者が……どうしたらっ……!」
「――逃げる?」
と奈々は訊ねた。
「え……?」
驚いて、秋人は彼女を見る。
「私なら相手の位置がわかるから、逃げることも簡単にできるわよ」
「……西山先輩……」
ごくり、と口の中にたまった唾を呑み込む。
確かに、彼女となら逃げることも可能だ。しかし――助かったとして、その後どうなるだろう。残るのは、一生続く深い後悔ではないだろうか。
「渡利くんがそうしたいなら、私が安全な所まで連れて行ってあげる。気に病むことはないよ。誰だって、自分の命が一番大事なんだから」
「何言ってるんですか、先輩……」
自分の声がかすかに震えていることに気づきながらも、秋人ははっきりと言った。
「俺は――逃げません」
「……いいの?」
少し意外そうに奈々が訊くと、彼は頷いてみせる。
「俺だけ……逃げるわけにはいかないじゃないですか。夕月が頑張っているっていうのに……」
「……無理してない?」
「少し……してるかもしれません」
小さく、秋人は笑った。
「でも、俺とあいつが協力すれば、ヴァンパイア化した奴を止められるんです。だから――」
「わかったわ」
彼を手で制し、奈々は微笑む。
「微力だけど、私も協力する。行きましょう、みんなを助けに」
「はい!」
二人は、生物室を出た。廊下に出ると、ほとんどの生徒は教室に戻り始めている。
「急ぎましょう」
声をひそめて、奈々は言った。
「ヴァンパイア化された人の近くに、美夜ちゃんもいるわ」
「えっ――は、はいっ!」
秋人は急いで階段を下り、彼女たちのいる裏門の方へと走った。
中庭での食事を終え、庄吾と鈴理は一階の廊下を歩いている。弁当はおいしかったものの、あまり会話も弾まず、二人とも重い表情だった。
「わからないなあ、ホント……」
ため息と共に、鈴理は呟く。
秋人が何も説明しない理由を、庄吾と色々推測したが、どれも納得のいく答えには辿り着かなかった。
「もういいって、あいつのことは……」
不機嫌そうに言う庄吾。
「だって……やっぱり嫌だよ。せっかく戻って来たのに、こんな風になっちゃうなんて……」
「…………」
表情を沈ませる鈴理に、庄吾は声をかけることができない。
(くそ……渡利のバカが……。復帰したばかりの桜沢さんに、こんな顔させやがって……)
二人とも、教室に戻るのがつらかった。意識せずとも、歩みが遅くなってしまう。
「きゃあああああーーーっ!」
突然、少女の絶叫が廊下に響き渡った。
「え……?」
二人は顔を見合わせ、怪訝に思いながら、廊下の角を曲がる。
叫び声は、ほんの数メートル先にいる女生徒のものだった。
「おい、どうした……」
と、庄吾が声をかけようとしたときである。
ブシッ!
鮮血が、飛び散った。
「え……?」
すぐには、理解できない。
ポタポタと、自分の顔を伝う液体を手に取って見たとき、ようやくそれが何か理解できた。
「……血……?」
正面を見ると、廊下が天井から周囲の壁まで、全て赤で染まっていた。
床には、頭をグシャグシャに潰され、倒れている女子。その先には、他にも身体が真っ赤になっている生徒が何人かいた。
そして、一人そこに立っている男子。青白い肌に、精気のない表情、しかし瞳だけは燃えるように赤く染まっている。
「お、お前……加川、か……?」
知っている生徒だった。あまり親しかったわけではないが、去年のクラスメイトである。
「お前……一体……?」
彼の変貌ぶりに驚きながらも、頭の隅でだんだんと理解してきた。
(まさか……こいつがやった……?)
殺人。普通に生活していれば、言葉ではよく聞いても、現場には馴染みがないものだ。
庄吾はまだ、目の前の現実を理解できない。だが、本能的な恐怖に、思わず一歩後ずさった。
そこで、ドンと何かにぶつかる。
「桜沢さん……」
振り返ってみて、庄吾は驚く。
彼女は顔面蒼白になっており、ガクガクと大げさなくらいに震えていたのである。
「お、同じ……」
「え?」
「あのときと……。あたしが……左手を切られた、あのときと……」
「それって――」
ヴァンパイア化。
ようやく彼の頭にその単語が思い浮かぶ。
「に、逃げるぞ!」
庄吾は鈴理の手を取る。
実物を見るのは初めてだが、それがどんなに危険なものかは、よく知っていた。
逃げなければ、死ぬ――。
廊下に転がっている、グシャグシャの肉塊と化した、彼女たちのように。
しかし、庄吾の引いた手は動かなかった。
「さ、桜沢さん!」
「う……動かないのっ……!」
顔をひきつらせ、鈴理は彼を見る。
「あ、足が、全然っ……!」
「くっ……!」
おそらく、当時の恐怖が身体中に染みついているのだろう。明るく振る舞ってはいても、表面的なものに過ぎないというわけだ。
「しっかりしろ! 死にたいのか!?」
「だ、だってっ!」
庄吾の叱咤にも動けない彼女の目に、とうとう涙が溢れる。
「おぶされ!」
「え?」
「いいから、早く!」
「う、うんっ」
しゃがみ込む彼の背中に、鈴理は倒れ込むようにつかまった。
「よしっ!」
と立ち上がる庄吾に、加川が迫る。
「ガアッ!」
獣のような咆哮と共に、拳が突き出された。
「うおっ!」
間一髪、庄吾は角を曲がり、廊下を駆ける。
ゴッ!
空を切った加川の拳が、コンクリートの壁にめり込んだ。
「くそっ……! マジなのかよっ!?」
いまだに信じられないが、どういうわけか加川がヴァンパイア化し、その驚異的な力を振るっているという事実。夢なら早く覚めてほしかった。
「た、助けて……助けてくれぇぇぇっ!」
走りながら、庄吾は叫ぶ。
仮に誰かが来ても、どうにもならないのはわかっていた。だが、叫ばずにはいられなかったのだ。死が現実的に迫るこの恐怖から、少しでも逃れるために――。
ぐん、と空気が唸った。
途端に、庄吾と鈴理の背中に衝撃が走る。
「ぐおっ!」
「きゃあっ!」
バランスが崩れ、庄吾は倒れ込んだ。咄嗟に片手を差し出したので、顔だけは打たずに済んだが、胸と腹にもろに衝撃が走る。
「がぁっ!」
しばらく、息ができない。苦痛に彼の表情が歪む。
「は、羽柴くんっ!」
鈴理は慌てて背中から下り、彼を支える。いつの間にか、動けるようになっていた。
「きゃぁっ!」
すぐそばにある、赤い物体を見て、彼女は悲鳴を上げる。一瞬何だかわからなかったが、それは先程頭を潰された女生徒の身体だった。加川が投げつけたらしい。
「くそっ……。こうなってたまるかよっ……」
胸を押さえつつ、庄吾は立ち上がる。苦しいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「フゥゥッ……!」
不気味なうなり声を上げ、全身を返り血で真っ赤に染めた加川が、こちらに歩いてくる。
「もうよせ、加川……!」
ヴァンパイア化した時点で、既に彼が死んでいるという知識はあった。
だが、本当にそうなのか。もしかしたら、まだ意識が残っているのではないか――。
そんな淡い期待を込めて呼びかけるが、反応は返ってこない。
「加川!」
無駄だった。ヴァンパイア化した彼は、衝動のままに、目の前のものを破壊しようとする。
「ガアッ!」
「くっ――!」
反応が遅れた。避けられない。
思わず庄吾は目を閉じる。
その瞬間、後ろから空気が流れた。
ドンッ! バキバキッ!
衝撃と、いくつもの骨が砕ける音。だが、それは庄吾が受けたものではない。
目を開けると、少女の背中が見えた。しかし鈴理は隣で怯えた顔をしたままだ。とすると、彼女は――。
「ゆ……夕月さんっ……!?」
庄吾は愕然となる。
自分たちをかばい、加川の拳をその身に受けたのは、夕月美夜だったのだ。先程感じた空気の流れは、彼女が飛び出してきたものに違いない。
「ごふっ!」
加川の腕をつかんだまま、彼女の口から血が吹き出す。
「ゆ、夕月さん!?」
「は、早く……」
息も絶え絶えに、彼女は言う。
「早く逃げて……」
「そ、そんなことっ……」
できるはずがない。彼女を見捨て、自分たちだけ逃げるなど――。
そう続けようとした彼に、美夜は必死の形相で振り向く。
「わ、私は平気だから……。それより、彼女を守って……! お願い、羽柴さん!」
「そんなっ!」
「は、早く!」
美夜を離そうと、加川が腕を振り回す。彼女は懸命にその腕にしがみついていたが、そう長くは持たないだろう。
「くっ――!」
時間がない。決断は一瞬でしなければならなかった。
「す、すまない、夕月さん!」
座り込んでいる鈴理の手をつかみ、庄吾は走り出す。
苦渋の選択だった。もちろん美夜を見捨てたくなどなかったが、鈴理と比べて、どちらを取るかといえば、やはり付き合いの長い鈴理である。
「すぐに――すぐに助けを呼んでくるから!」
唇をきつく噛みしめながら、庄吾は彼女の手を引き、走り続けた。
「羽柴さん……」
それを確認し、美夜は薄く笑みを浮かべる。
そう。あれでいい。このままでは、三人共殺されてしまう。ならば、少しでも助けられる者を増やす――。
今の美夜には、それしかできることはなかった。
「だけど、わたしだって殺されるわけには……きゃあっ!」
美夜の身体が持ち上がる。
横に振りほどこうとしていた加川が、今度は上に放り投げようとしたのだ。
突然方向が変わり、ふいをつかれた彼女は、腕を放してしまう。
「ぐぁっ!」
背中が、天井に打ち付けられた。折れた肋骨の骨に、さらに衝撃が加わる。
意識が、朦朧とした。
(だ……だめ……)
身体が、動かない。
体勢を直すこともできずに、彼女は床に落ちる。
加川の腕が、自分に伸びてくるのが見えた。
(せ、先輩……浩一くん……)
死を覚悟したとき、二人の顔が思い浮かんだ。
(ごめんね……)
頬を涙が伝う。
自分の能力が制御できずに、死なせてしまった浩一。
勝手な判断で血を吸い、迷惑をかけてしまった秋人。
二人のためにも、事件を解決したかった。
せめてもの、罪滅ぼしに――。
だが、それも志し半ばで終わってしまう。自分も殺されるのだ。他の者と、同じように。
「い、いやあああっ!」
目前に迫る加川の拳。だが、それが止まった。
(えっ――!?)
悲鳴を上げたから、ではないだろう。では何故止まったのか。
恐る恐る見上げると、そこに見知らぬ少年が立っていた。
そう。少年だった。十歳前後だろうか。やせ細った身体に、精彩を欠いた顔つき。
彼は少し戸惑ったように、彼女を見下ろしている。
「……なか……ま……?」
「え……?」
少年の呟きに、美夜は息を呑んだ。
「ボクと……同じ……でしょ?」
「ま、まさか……」
目の前のこのやせた少年が、ヴァンパイアだというのか――。
いや、逆に少年だからこそ、納得がいく。ヴァンパイアの血に目覚めるのが、第二次性徴が始まる時期と同じ頃である。彼が自分の能力についての知識がないのなら、制御ができずにいるのかもしれない。かつての、美夜と同じように。
「行こうよ……」
少年が、手を差し出す。
「え……?」
「お姉ちゃんなら……ボクの仲間なら……いいエサになるって、パパが言ってたんだ……」
「なっ……!」
美夜は、目を見開いた。
違う。この少年は、自分とは違っている。
彼は、自分の能力を知っていて使っているのだ。だからこそ、ヴァンパイア化した加川を操ることができ、今の攻撃も止めることができたのだろう。
彼の父親が、そうするように仕向けたのかはわからないが――。
「だ、だめ……」
「……え……?」
「だめよっ……! あなたの能力は、そんな風に使っちゃいけないのっ……!」
「……だって、食事を取らないと生きていけないよ。人間はボクのエサなんだって、パパに言われたよ……」
無邪気な顔で少年は言う。
どうやら彼は、間違った教育を受けてきたらしい。
「ち、違う……! 人間とは共存できるのよ! 現にわたしは、そうして生きてる!」
「……お姉ちゃんの言ってること、よくわからないよ……」
少年は首を傾げた。
「でも、いいよ……。一緒に来ないなら、今ここで食べてあげるから……」
「え……」
彼の手が、美夜の顔を押さえつける。
「い、いや……」
払いのけようとしたが、力が入らない。
「すぐ済むよ……」
少年の小さな牙が、首筋に迫った。
「や、やめて……」
恐怖に美夜は震える。
「やめない。……ん?」
牙が肌に触れたとき、少年の動きが止まった。
「……残念」
と彼は呟く。
「え?」
そのとき、空気が唸りを上げた。
「離れろぉぉぉっ!」
怒りのこもった声。だが、聞き覚えのある声だった。
「渡利先輩――!」
振り返る美夜の瞳に、こちらへ駆けてくる彼の姿が映った。
彼女を組み敷く少年に向けて、秋人は勢いのまま拳を突き出す。
「うおおおっ!」
だが、少年の身体が変化した。
ぶわっ!
秋人の拳が触れた瞬間、彼は赤い霧となり、霧散する。
「何っ!?」
秋人の腕は、むなしく空を切った。
「またね、お姉ちゃん」
そんな言葉を残し、赤い霧は空気に溶け込むように消えてしまう。
だが、代わりにヴァンパイア化した加川が、再び動き出した。
「グォォッ!」
「ちっ」
舌打ちし、迫る彼を、秋人は受け止める。お互いの手をつかみ、力比べの形となったが、彼は逆に押し返していた。常人の数倍の力を持つようになるという、ヴァンパイア化した加川に、彼は力で勝っていた。
「せ、先輩……」
安堵の笑みを浮かべる美夜。彼女にはわかっていた。ようやく、彼に与えた力が引き出されたことを。
「うおおおっ!」
秋人は足をかけて腰をひねり、加川を投げ飛ばした。柔道でいう、”体落とし”である。体育の授業で多少習った程度の技だが、成功したようだ。
ドシン! と廊下の床が響いた。
「はあはあ……どうだっ!」
倒れた彼を睨み付ける。
沸き出す力に、秋人は自分自身で驚いていた。
ここに向かってくる途中、急に力が満ちてきたのである。普段では考えられないほどに、強力な力を。と同時に、激しい胸騒ぎをも感じた。
主が危機であればあるほど、下僕は力を発揮する確率が高くなる――。
前にそう、美夜が言っていた。
彼女がピンチかもしれないと思い、秋人は全力で走ってきたのである。足の遅い、奈々を置いて……。
文句を言われるだろうが、それは後回しだ。怪我をしているらしい美夜も心配だが、今は目の前の相手を何とかしなくてはならない。
「グゥゥ……」
「……え?」
起き上がり、こちらを向く彼の顔を見て、秋人は気がついた。随分雰囲気が変わってはいるが、間違いない。
「加川か……お前……」
庄吾と同じ、去年のクラスメイト。つい数ヶ月前までは、同じ教室で勉強していた仲間の一人。
「く……そ……」
構えていた腕が、無意識に下がった。
ヴァンパイア化した者は、その時点で死んでいる――。
それはわかっていた。だが、こうして生きているように動いている彼を、これから攻撃しなければならない。そのことへの、ためらい。拒絶感。
「迷わないで、先輩っ……!」
胸を押さえながら、美夜が息も絶え絶えに言う。
「早く、その人を……救ってあげてっ……!」
「夕月……」
彼女のその言葉に、秋人の決意が固まる。
そうだ。自分の身体を勝手に操られて、加川が喜ぶはずがない。
苦しむ彼の肉体と魂に、安らぎを――。
それこそが、今の秋人ができる、唯一のことなのだ。
「つらいけどな……」
思わず、本音が口をついて出る。
「ガアッ!」
加川が吼えた。秋人を敵と認識したのか、真っ直ぐに彼に向かってくる。
だがその動きが、秋人には見えた。
「うおおおっ!」
カウンターで、彼の顔面に拳が入る。ぐしゃり、と嫌な音がした。
ドゴォッ!
加川は吹き飛び、壁に激突する。
「もう立つなよ、加川……」
拳を押さえ、秋人は願うが、その思いは届かない。
「グゥゥッ……」
口から血を吐きながら、加川は立ち上がってきた。
「くそっ……」
秋人は舌打ちする。
ジリリリリリリリ!
「なっ!?」
突然、大きなサイレンが校舎に鳴り響いた。
そして慌てたような、男の声。
『全生徒に告ぐ、全生徒に告ぐ! たった今、一階中庭付近の廊下にて、数人の生徒がヴァンパイア化し、暴れている! 全生徒は非常扉を閉め、教室で待機! 繰り返す! 非常扉を閉め、教室で待機!』
途端に、上の階から生徒たちの驚愕の声が響き渡る。
おそらく庄吾の報告を受け、教師が指示を出したのだろう。今ここにいる生徒は見捨てる形になってしまうが、判断としては正しい。ヴァンパイア化した者には、誰もかなわないのだから。ただ一人、秋人を除いては――。
「誰も来ないなら、その方が好都合だ……」
見捨てられて寂しくもあるが、それも仕方ない。
「ちょ、ちょっと、渡利くんっ。置いてくなんて、ひどいじゃないっ」
「あ、西山先輩……」
今頃になって、奈々がやってきた。
たいした距離ではないというのに、肩で息をしている。
「先輩って、足遅いんですね……」
「お昼寝部部長のわたしが、足が速いわけないでしょっ」
「お昼寝部なんてないですよ……」
秋人の口元に、思わず笑みが浮かぶ。こんなときでも冗談が言えてしまうのは、彼女の強さだろうか。
「そんなことより、渡利くんっ。いくら殴ったってだめよ! その子の身体をグシャグシャにするつもり!?」
「えっ……?」
「要は、血を抜けばいいのよっ」
そう言って、奈々は自分の指先に傷をつける。そこから数滴……どころではなく、かなりの量の血が流れ、彼女の手の中で形を作っていく。
(えっ……? これって、まさか……)
突然現れた奈々を訝しんでいた美夜は、その光景に目を見開いた。
(ヴァンパイアの、能力なの……?)
こんな近くに、同じ学校に同族がいたなんて――。
美夜が気付かなかったのも、無理はない。彼女の探索能力はあまり高くはない上に、何より奈々が、自分のことを悟られないように、気配を隠し続けていたのである。
「…………」
彼女は呆然としたまま、そのまま座り込んでいた。
「西山先輩……」
「ほら、これ」
顔をしかめながら、奈々は自分の血で作りあげた剣を、彼の手に持たせる。原料が血というのが不気味ではあるが、感触はしっかりと金属のそれになっていた。
「これで、相手の動脈や静脈に傷をつけるの。血が流れやすくなるわ」
「な、なるほど」
「それと、今は剣の形だけど、渡利くんの思い通りに変化するから、うまく使って……くっ」
頭を押さえ、奈々はその場にしゃがみ込む。
「先輩!?」
「だ、大丈夫。ただの貧血だから……。それより早く!」
「は、はい!」
秋人は、奈々の血でできたその剣を構えた。
「いくぞ、加川!」
こちらの様子を伺っていた彼に向け、剣を薙払う。が、あっさりかわされ、首をつかまれた。
「ぐおっ!」
グイグイと、締めつけられる。
当然ではあるが、秋人は剣を握ることなど初めてだ。剣道を習ったこともない。なので、思ったように振るうことができなかったのである。
「ったく、渡利くんたら、わかってないんだから……」
奈々はじれったそうに唇を噛む。あれだけの血を抜いたので、何をするにもつらい状態だった。
「これ以上は、助けてあげられないから……ね」
右手を突き出し、ギュッと握りしめる。
ビシュッ!
秋人の握っていた血の剣が、一斉に細かく分裂した。
「なっ!?」
声を上げる秋人を避け、小さな刃となった血が、加川の肌を切り裂いていく。
「グォォっ!」
うまく動脈が切れたらしい。裂かれた部分から、一斉に血が吹き出し、大量の血は蒸気となった。
「ほ、ほら、渡利くん。あとは任せた……から……」
ついに奈々が、床に倒れ込む。
「は、はい!」
頷く秋人。彼女のことが気になるが、今は加川をどうにかする方が先決だ。 頭にイメージを集中させ、手の中に剣を作り上げる。
戦い方は、今彼女が見せてくれた。何も、剣のまま戦う必要はなかったのだ。
「――よし」
一気に血が抜けて、加川も苦しんでいる。絶好のチャンスだ。
狙いは心臓。既に死んでいるから止まっているはずだが、やはりそこは、全ての血が運び込まれる場所である。
「はああああっ!」
隙だらけとなった加川の心臓めがけ、秋人はそこに血の剣を突き刺した。 そして――分裂させる。
ブシュゥゥ!
身体中の彼の傷口から、噴水のように血が吹き出した。
加川の心臓で分裂させた血を、血管を通して外に押し出したのである。強引なやり方で、うまくいくかはわからなかったが、これが一番手っ取り早かったのだ。
「グォォォォッ!」
悲鳴を上げる加川。
「うまくいったみたい……だな」
息をつき、秋人は額の汗を拭う。
服についた返り血も、全て蒸発してしまった。
「加川……」
弱っていく彼を、秋人は悲しげに見つめる。
「ガウゥ……ゥ……」
加川の声は段々と小さくなり、力が抜けたように膝をついた。既にほとんどの血が抜けており、肌も干からびたようになっている。
「よくやったわ、渡利くん。あとは時間の問題ね……」
倒れたまま、奈々が微笑んだ。
「わたしの血は、次の命令がなければ勝手に消滅する。数分もすれば、彼の体内には、一滴の血も残らないはずよ……」
「あ、あの……大丈夫ですか?」
青ざめた顔をした彼女に、同じく青ざめた顔をした美夜が訊ねる。
「え? ああ、私はただの貧血だから……。それより、あなたの方がずっとひどい状態じゃない」
「へ、平気です……うぐっ!」
起き上がろうとして、美夜はうずくまる。ヴァンパイア化した加川に殴られ、肋骨が折れているのだ。
「動かないで。すぐに救急車を呼んであげるから。――渡利くん?」
「え?」
急に呼ばれ、秋人は戸惑う。
「もう、ボーっとしてないで。まだ力残ってるでしょ? とりあえず保健室まで連れていくから、早く彼女をおんぶして。肋骨が折れてるみたいだから、丁寧にね」
「は、はい。……ほら、夕月」
彼女に背を向け、しゃがみこむ。
「あ、あの……」
彼に手を伸ばそうとして、美夜は躊躇した。
「いいんですか? 先輩、わたしのこと許せないんじゃ……」
「もういいんだ。あれは……俺が悪かった」
「んんー? 今何て言ったの? 小さくて聞こえなかったなー?」
わざとらしく、声を上げる奈々。貧血だというのに、よくやるものである。
「……俺が悪かった! ごめん、夕月!」
「先輩……」
「お前は俺を助けてくれたのに、色々ひどいことして……本当に悪かった!」
「い、いえ、先輩は悪くありませんっ。わたしが勝手すぎたんですっ」
美夜の目に、涙が浮かんだ。
「先輩は一生懸命、わたしを助けようとしてくれました……。なのに、わたしはそれを裏切るようなことを……」
「夕月……」
「ごほん、ごほんっ」
奈々が咳払いをする。
「あのね、二人とも……。そういう話はあとにした方がいいんじゃない? 今は何より、治療が先でしょ?」
「……あ」
そうだった。美夜は肋骨を折る大怪我なのである。もしかしたら、内蔵にも傷ができているかもしれない。
「ほ、ほら、夕月。早く乗れ」
「は、はい。……んくっ」
顔をしかめる美夜。身体を乗せただけで、痛みが走った。
「少しの我慢だからな。しっかりつかまってろよ、夕月」
「はいっ」
痛みをこらえて、彼女はしがみつく。
「それじゃ、西山先輩。あとはお願いしますっ」
秋人は軽く頭を下げ、歩き出した。急ぎたいところだが、走ると彼女への負担が大きくなってしまう。
「間違っても転ばないようにね」
「わかってます」
ちらりと彼女を見て返事をし、やがて二人の姿は角を曲がって見えなくなった。
「ふう……行ったわね」
それを見送り、奈々はため息をつく。
「ま、仲直りもできてめでたしめでたし……と、いきたいところだけど」
痛む頭を押さえながら、血で染まった廊下を見渡す。
加川は、既に動いていない。他には、数名の生徒の死体が残っている。
「そしてもう一人のヴァンパイアは消えた……か」
彼女が現場に着く前に気配が消えてしまった、おそらく事件を起こしていたであろうヴァンパイア。一瞬にして、奈々の探索範囲外に出た――つまりは、瞬間移動能力。
「厄介だなぁ……」
彼女は呟く。
もう一人のヴァンパイアを止めるためには、かなりの苦労を強いられるはずだ。死にかけるようなこともあるかもしれない。
だが、美夜と関わってしまった。協力すると、秋人にも約束した。
ヴァンパイア事件は、これからも起こるだろう。多くの犠牲者が出ることになるかもしれない。それを少しでも減らし、解決するためには、奈々の能力も、きっと必要になる。
「でも、貧血つらいんだよね……」
頭を掻きながら、ぼそっと呟いた。
「けど二人とも命がけで頑張ってるんだし、わたしも頑張らないと……」
昼寝の時間が減るかもしれないのは、ちょっと残念ではある。
「ま、とりあえず……」
よろめきながら、奈々は歩き出す。
「非常事態の解除宣言に行きますか……」
壁に手をつき、彼女は職員室へと向かった。
エピローグ
「夕月さん……すまなかった!」
「本当にごめんなさい……」
事件から数日後。
入院している美夜を訪ねてきた庄吾と鈴理が、深々と頭を下げた。
「あのとき君を置いて逃げた俺が、とても言えた義理じゃないんだが……」
「どうしても、謝りたくて……」
「え……?」
病室に入るなり謝る二人を見て、彼女は目をぱちくりさせる。
視線を移動し、彼らの後ろに控えている秋人を見ると、彼は小さく微笑んでみせた。
(あ……)
それだけで、理解ができた。どうやら彼が連れてきたらしい。
「そんな……いいんですよ」
ベッドに寝たまま、戸惑いながらも、美夜は首を振る。
「あのときは、わたしが逃げるように言ったんですから」
「しかし……」
「それに」
と、庄吾の言葉を遮り、彼女は微笑んだ。
「渡利先輩が、助けてくれましたから――」
あのあと。
学校での事件はすぐにニュースとなり、世間に衝撃を与えた。
初めて学校が襲われた、ということもあるが、それよりも重要なのが、事件が昼間に起きたということである。太陽が出ているから安全、という保証がなくなり、人々は怯えながら会社や学校に向かうようになった。とりあえず町中に警備の数だけは増えたものの、有効な打開策は、まだ見つかっていない。
いや、方法がないわけではないのだが、それには問題がある。
第一に、ヴァンパイア化した者を止めるために効果的な武器は、町で使うには周囲への危険が大きすぎること。
第二に、既に死んでいるとはいえ、動いている人間の身体を破壊するという、倫理的な部分のこと。誰だって、家族や友人の遺体がボロボロに傷つくのは嫌である。
ヴァンパイア化が起こる原因さえ突き止められれば、まだ他の方法もあるかもしれないが、それは残念ながらわかっていなかった。だから警察ができるのは、逃げ道を確保し、誘導することくらいなのである。
『よお、渡利』
事件の起きた日の夜。
秋人の家に、庄吾から電話がかかってきた。彼の声は、明らかに元気がない。
『今日は……大変だったな』
「ああ……」
と秋人は短く応える。
『色々、すまなかった』
「色々?」
『昼休みのこと。それから……夕月さんのこと』
庄吾の声が、かすかに震えていた。
『お前が助けてくれたらしいな。お前の先輩……西山さんが先生に説明しているのを聞いた』
「まあ……な」
『ありがとう。本当に……』
「…………」
『俺、夕月さんに助けられたくせに……彼女を置いて逃げちまったんだ……。もし彼女が死んでしまっていたら……そう考えると、すごく怖かった……』
「桜沢さんを助けるためだったんだろ? なら仕方ないじゃないか」
そのあたりのことは、美夜から話を聞いている。
『いや、俺が不甲斐なかったんだ……。お前のこと最低だなんて言って、本当に悪かった。最低なのは俺の方だ……
』
「そう自分を責めるなよ。……って、俺が言っても納得しないだろうな」
ふう、と秋人はため息をつく。
「だったら、直接夕月に言うか? 今は無理だが、しばらくすれば面会できるようになる。そのとき、俺は見舞いに行くつもりなんだが……」
『……俺も行っていいのか?』
「構わないだろう。あいつは別に怒ってはいないし、それでお前の気が晴れるならな。それに見舞いは多い方が元気が出る」
『さんきゅ。……ところで渡利。お前、夕月さんとは……って、聞くまでもないか』
ようやく、庄吾は少し笑い声を上げた。
「ああ。仲直りした」
『……そうか。よかったな、渡利』
「何なら、ケンカの理由……話してやろうか?」
自分の境遇を受け入れ、美夜に協力することを約束した秋人。そしてこんなにも彼女を心配する庄吾。今なら――今の状態なら、話しても構わなかった。例え、信じてもらえなかったとしても。
『……いや、いいんだ。お前たちが仲直りしたなら、それで』
「そうか……」
『それじゃ、見舞いに行けるようになったら、連絡してくれるか? 学校では、しばらく会えないからな』
あれだけの、事件の後である。生徒たちのショックを和らげるためにと、二週間ほどだが休校になったのだ。
「わかった」
『じゃあ、またな』
そう言って、庄吾の電話が切れる。と、すぐにまた呼び出し音が鳴った。
「もしもし?」
『あ、渡利くん? あたし、桜沢だけど……』
ひどく気落ちした、鈴理の声。
彼女は最初に昼休みでのことを謝ってから、ぽつりぽつりと用件を話しだした。その内容は、庄吾とほぼ同じものである。
自分が動けなくなってしまったせいで、美夜に大怪我をさせてしまったことを、彼女はかなり気にしていた。秋人は「前に襲われたときの恐怖が残っているから、仕方がない」と言って慰めたのだが、それで納得できるはずもない。
そういうわけで、秋人は二人を美夜の見舞いに連れていくことになったのである。
そして数日が過ぎ、秋人の家に奈々から連絡が入った。面会ができるくらいに、彼女は回復したと。
「大好きな渡利先輩が、助けてくれましたから――だってさ。よかったね、渡利くん」
ベッドのそばにいる奈々が、からかうように言う。
彼女は事件当日、慌てて病院に来た亜沙美と話し合い、自分から世話をすることを進言していた。正直な所、夕月家はあまり裕福ではない。入院費の為にも仕事を休めない亜沙美は、正体を明かした奈々を信頼したこともあり、その申し入れを受けたのである。
「大好きな……とまでは言っていませんよ、先輩」
「いいじゃない、本当のことなんだから。ねえ、美夜ちゃん?」
「は、はあ……」
奈々に話を振られ、彼女は赤くなってうつむいてしまう。二人はすっかり仲良くなっているようだった。
「と、とりあえず、羽柴さんも桜沢さんも座ってください。入院中は暇なので、一緒にお話してくれるだけで嬉しいですから」
「そ、そっか。……わかった」
庄吾は言われた通り、椅子に腰をかけた。
正直、まだ謝りたりないのだが、彼女が怒っていないのにしつこくするのも、逆に迷惑になるだろう。その代わり、彼女の退屈をできるだけ癒やしてあげようと思った。
「ほら、桜沢さんも」
「う、うん……」
どこか落ち着きのない様子で、彼女は座る。
鈴理は、強い負い目を感じていた。あのとき、自分が恐怖ですくんでしまわなければ、美夜がこんな大怪我をすることもなかったはずなのに、と。
(あたしが左手を失ったときの、渡利くんと羽柴くんの気持ち……痛いくらいにわかるよ……)
二人は、鈴理が襲われたのは自分のせいだと言って悔いていたが、実際には彼らには何の責任もない。だが、今回美夜が怪我をしたのは、明らかに鈴理に原因があるのである。
(あの日、あたしが……無理に出てこなければよかったんだ……)
ヴァンパイアに学校を襲われた日であると同時に、鈴理の復帰日でもあった月曜日。実は予定では、彼女が登校するのはまだ先のことだった。
怪我の方は、もう治っていた。完治ではないが、少なくとも痛みはない。
原因は、精神面の方である。彼女はあの日、襲われて死にかけたことで、強いトラウマを残していた。
一人きりになったとき。目の前に急に人が現れたとき。夕日が差し込んだとき。光の反射で、瞳が煌めいたとき――。
そんな状況に遭遇したとき、彼女は度々発作を起こしていた。一ヶ月前の悪夢の光景が、目の前に蘇るのである。そうなると、恐怖で動けなくなるか、悲鳴を上げ続けるかのどちらかになってしまうのだ。夢に現れ、うなされて目を覚ましたことも一度や二度ではない。
医師にはもう少し落ち着くまでと、療養を勧められたのだが、鈴理はどうしても友人たちと会いたかったのだ。気心の知れた彼らと過ごすことで、悪夢から解放されるかもしれないから――。
しかし、せっかく医師の了解を得て登校し、カラ元気を振る舞ったものの、結果は散々だった。むしろ、逆にひどくなった方である。
「ううっ……」
鈴理の目から、涙がこぼれた。
「ごめんなさい……夕月さん、ごめんなさい……」
「桜沢……」
「……桜沢さん……」
急に泣き出した彼女に、驚く一同。だが、それだけ鈴理の精神が追いつめられているのだと思い、秋人は庄吾を見る。
「羽柴……」
「あ、ああ」
頷く庄吾。椅子から立ち上がり、肩を震わせる彼女の背中を撫でた。
「桜沢さん……今日は帰ろう……。俺が送っていくからさ……」
「ううっ……。ごめんなさい……ごめんなさい……」
顔を手で覆い、鈴理は何度もその言葉を繰り返す。
「はい、ハンカチ」
「あ、どうも。ほら、桜沢さん」
奈々からハンカチを受け取ると、庄吾は彼女に差し出した。
「うううっ……」
それを目に当てながら、鈴理は声を押し殺して泣き続ける。
「……さ、行こう」
彼女の背中を押し、部屋を出ようとする庄吾。
その二人に、美夜は声をかけた。
「また……来てくださいね。わたし、待ってますから」
「ああ」
庄吾は頷き、そして……ゆっくりとだが、鈴理も頷いた。
「あの子……相当つらいみたいね」
二人が部屋を出たのを見送った後、奈々は言った。
「トラウマになってるみたいです……」
と美夜。
事件の日の、彼女の様子が思い出される。詳しい事情は知らないが、左手が義手だったことから、何となく推測できた。
(桜沢……あいつ、やっぱり……)
秋人の脳裏に、復帰した鈴理の、明るく振る舞う姿が浮かぶ。
(カラ元気だったんだな……くそっ)
すっかり立ち直ったものだと思っていた、自分のバカさ加減が悔やまれた。
「渡利先輩……。桜沢さんがもう少し元気になったら……絶対連れてきてくださいね」
「ああ。絶対な」
秋人は頷き、ようやく椅子に腰かける。
「ところで、どうなんだ? 傷の方は」
「……やっぱり折れてたみたいです。退院できるまで、二、三ヶ月はかかるって言われました」
「多分、もうちょっと早いわよ」
と奈々が言う。
「ヴァンパイアの血を引いてるんだから、回復力も普通の人より高いの」
「へえ……。しかし、血液検査とかもしたんだろ? 大丈夫だったのか?」
「大丈夫。能力を発動してるときはともかく、普段は他の人間と変わらないから。その辺は、都合よくできてるのよ」
「なるほど……」
もし検査で、通常の人間にはない反応が出ていたら……と心配していたのだが、無用のものだったらしい。
「それで先輩。奈々ちゃん先輩とも話し合ったことなんですけど……」
「……奈々ちゃん先輩?」
美夜から出てきた妙な言葉を、秋人は首を傾げて聞き返す。
「あ……。その……そう呼んでほしいと言われましたので……」
「……西山先輩……」
呆れながら、彼女を見る。
「いいじゃない。『西山先輩』って呼ばれるより、『奈々ちゃん先輩』って呼ばれた方が、わたしは似合うんだから」
そう言って、奈々はにっこり笑う。
「だから、渡利くんもそう呼んで?」
「遠慮しときます。――で、夕月。何だって?」
「あ、はい。学校で、先輩が助けに来てくれたとき……わたし、襲われていましたよね。小学生くらいの男の子に」
「ああ、確かに……」
殴りかかったが、霧となって姿を消してしまった、あの少年。
彼については、事件の後に、秋人も考えていたことだ。
「あいつ、もしかして――」
「はい。間違いなく、わたしたちと同じヴァンパイアの子孫です」
「問題なのは、彼は能力を制御できないわけではなく、自分の意志で操っているということよ」
真剣な表情で、奈々が言った。
「どうやら父親が、人間はエサだと教えてるらしいのよね……。何考えてるのか知らないけど……能力も高いみたいだし、ホント厄介だわ……」
「でも、俺たちが止めなきゃな」
と秋人。
「桜沢さんや、他の多くの犠牲者のためにも」
「そして、その男の子のためにも――ですね」
彼の言葉を続け、美夜は微笑んだ。
そう。あの少年を倒すのが目的ではない。人間は、ヴァンパイアのエサではないのだ。それを教えてやることができれば――事件は解決し、彼をも救うことができる。
「ま、そこまで上手くやるのは難しいだろうけど」
肩をすくめてみせる奈々に、秋人はため息をついた。
「西山先輩……。せっかく盛り上がった場を下げないでくださいよ……」
「まあまあ。ところで話を変えるけど、渡利くん、まだ美夜ちゃんに返事してないでしょ?」
「返事……?」
「な、奈々ちゃん先輩っ」
急に慌てた様子で、美夜が真っ赤になる。
そんな彼女を楽しそうに見ながら、奈々は言った。
「好きって、言われたことへの返事よ」
「なっ……!」
声を上げ、固まる秋人。
「……そんなに驚くことはないじゃない。今日はそのために来たんじゃないの?」
「い、いや、そこまでは……」
考えていないわけではなかったが、周りに人がいる中ではさすがにできない。だから今日はその話をするつもりはなかったのである。
「いいじゃない。今すれば」
「し、しかし……」
ちらりと美夜の方を見ると、彼女と目があった。慌ててお互い目をそらしてしまう。
「何やってるんだか……」
小学生じゃあるまいし、と口の中で呟く。
「しょーがない。わたし、ちょっと外に出ていてあげるから。その間に二人で話し合うのよ?」
本当は見ていたかったが、これでは話が進みそうにない。
仕方なく、奈々は立ち上がった。
「な、奈々ちゃん先輩っ」
「待ってくださいよっ」
「そうだ、渡利くん」
呼び止めようとする彼らを無視し、ドアノブに手をかけた彼女だが、ふいに振り返って言う。
「もし、OKなら……美夜ちゃんに君の血を吸わせてあげて」
「えっ? 血を……ですか?」
意外な発言に、秋人は目を丸くする。
「そう。わたしたちヴァンパイアの血を継ぐ者は、月に一回くらいは誰かの血を呑まないと体調が崩れてしまうの。彼女、今までお母さんに血を吸わせてもらってたらしいんだけど、あれって結構体力も奪ってしまうから」
それでなくても、亜沙美は仕事が大変で、残業で遅くなることも多い。そんなときに血を吸われれば、二、三日は起きられなくなってしまうこともあるのだ。
娘のためだからと、亜沙美は気にしていないような口調だったが、やはり少しでも負担を減らしてあげたいと、奈々は彼女と話しながら思っていた。
ちなみに、奈々は家族が多いので順番に吸わせてもらっている。かなり薄いとはいえ、家族たちにも血は継がれているので、ヴァンパイア化現象が起こることはない。ヴァンパイア化させずに他人の血を吸うためには、その相手を心から大切に想っていなければならなかった。
「だから……ね? 渡利くんが吸わせてあげるのが一番いいの」
「は、はあ……わかりました」
そういうことなら、告白の返事は関係なしでもいいのだが、一応頷いておく。
「じゃ、頑張って〜」
楽しそうに手を振りながら、彼女は部屋を出ていった。
そして秋人と美夜、二人だけが残される。
「あ、あの……」
「えっと……」
お互いに言いかけて、思わず見つめ合った目をそらした。
(……って、何やってるんだ俺はっ)
秋人は自分で自分が情けなくなる。
彼女の気持ちはわかっているのだ。だから、後は自分が返事をしてやるだけである。
(でもなぁ……)
彼にはどうしても納得できない部分があった。
「あ、あのさ、夕月」
「はっ、はい。何ですか?」
声が少し固い。彼女も緊張しているようだ。
「夕月は……その、俺のことが好きなんだよな?」
言いながら、自分でもずるい訊き方だと思った。
「は、はい……。好きです……」
うつむきながら、頬を染める。
「それって……俺のどこがよかったんだ?」
「え……?」
「いや、俺って女の子にもてるようなタイプじゃないし……。顔はいまいち、勉強は普通で部活もやらない、性格は暗めで友達も少ない。……って、自分で言っててむなしいけど、好かれるような部分なんてないだろ?」
「もうっ……。何言ってるんですか、先輩」
おかしそうに、美夜は笑いをこぼした。
「そんなの関係ないですよ。好きになるのに理由なんてないんですから」
「いや……しかしな……」
と秋人は頭を掻く。
そういう話はよく聞くが、どうも納得がいかなかった。
「しょうがないですねぇ……」
美夜は短く息を吐き、彼を見つめた。
「それじゃ、あえて言いますけど……目、ですね」
「目?」
「ええ。最初に会ったときのこと、覚えてますか?」
「覚えてるけど……」
確か、一年生が入学して間もない頃、たまたま犬にパンをあげていたときに、美夜に話しかけられたのである。
「あのときの先輩の目……すごく優しかったんです。それに惹かれて、わたし思わず話しかけたんですよ」
「そうだったのか……」
「そうなんです。わたし……それまで、もう人を好きにならないって思っていたんですよ?」
「え?」
「ふふ」
首を傾げる秋人に、美夜は小さく微笑んだ。
「小学生の頃……わたし、すごく好きな男の子がいたんです。幼なじみで、すごく優しい男の子……」
「……へえ……」
相手のことが気になるが、秋人はそのまま続きを聞く。
「でも小学校高学年になって……わたしの中のヴァンパイアの血が目覚め始めたんです。でも、そのときのわたしには、それが何だかわからなくて……血が飲みたいと思うのは異常なことだから、その衝動をずっと我慢してました。そしてどんどん体調が悪くなって……病院に行っても原因がわからなくて……」
話しながら、彼女の表情が少し歪んだ。余程つらい思いをしたのだろう。
「一年くらいが過ぎて、身体を動かすのもつらくなっていたわたしは、ある日そのことを男の子に話しました。そうしたら……彼が言ったんです。ボクの血を飲んでもいいよ、って……」
「…………」
「わたしは……我慢できずに飲みました。頭の中ではいけないと思っていたのに……歯止めが聞かなくなっていたんです。そして……」
と美夜は一旦、言葉を切る。
「男の子は……ヴァンパイア化しました。それも不完全な形で……」
「不完全……?」
「通常なら、ヴァンパイア化した者は、血を吸った相手の命令は聞くようになっています。でも、わたしは体調を崩し、能力も不安定なままでした。そのせいで……彼は命令も聞かず、ただ破壊を繰り返し、血が蒸発した後は、身体まで灰になって消えてしまったんです……」
「……夕月……」
「……わたしは、大好きな男の子を殺してしまったんです……」
彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「それ以来、もう誰も好きならないって決めていたのに……先輩の優しい目に出会ってしまって……」
「もういいよ、夕月……」
ぽん、と秋人は美夜の頭に手を置く。
「事件が起き始めて……彼みたいな人は作りたくないって思って行動したら……先輩に迷惑を……」
「もういいって!」
思わず声を上げ――そして、秋人は彼女を抱きしめていた。
「あ……」
「もういいから……な?」
「先輩っ……」
抱きしめた肩が、震える。
「わたしっ……本当はずっとつらくて……!」
「大丈夫だ、夕月」
彼女の温もりを感じながら、秋人は言った。
「これからは、俺が一緒にいてやる。俺が、お前を守ってやる」
「先輩……」
潤んで瞳が、秋人を見つめた。
「俺……さ。初恋もまだで、好きってどういう感情なのか、正直よくわからないんだけど……夕月のことは、そうしてやりたいと思えるんだ。とりあえず……それでもいいか?」
ずるい答え方だと、頭の中では思う。だが、好きだという感情をはっきりできないまま付き合うような、いい加減なこともできない。
しかし、彼女は嬉しそうに涙を拭い、微笑んだ。
「充分です。今は、それで……」
「ありがとう、夕月。その代わり……というか、ほら」
一旦美夜の身体を離し、秋人は自分の首筋を差し出す。
「これからは俺の血……飲んでいいから」
「先輩……」
「いいぜ、遠慮せずに」
「ありがとうございます。でも、今はいいんです」
気持ちは嬉しかったが、血はこの前飲んだばかりである。
「飲み過ぎは逆によくないんですよ。だから、それはまた次の機会に……」
「何だ、そうなのか。西山先輩が言うから、てっきり……」
「奈々ちゃん先輩の方が、能力は高いですから。飲み過ぎても大丈夫なんだと思います」
「なるほどね」
ヴァンパイアの子孫の能力は、個人によって様々なのである。
「それより先輩。血の代わりに……って言うと、図々しいかもしれないんですけど。わたしのお願い、聞いてもらえますか?」
「あ、ああ。いいけど」
「キス、して欲しいです」
「えっ!?」
驚いて声を上げる秋人だが、美夜は視線をそらさない。彼女の願いは、本気だった。
「八つ橋神社で先輩が死にかけたとき、わたしたちキスしたじゃないですか……。でも、あんなどさくさにしたのじゃなくて……ちゃんとしたキスがしたいんです」
「夕月……」
確かに、キスはした。ボロボロになった、秋人の身体を癒やすために。
(しかし……)
と、言い訳を考えようとして、やめた。
美夜がここまでしているのだ。それで断る方が、彼女に失礼である。
「……わかった」
「お願いします、先輩……」
目を閉じ、美夜はかすかに顔を上げる。
少し、震えているのがわかった。彼女も、緊張しているのである。
(可愛いよな、こいつ……)
そう思いながら、ゆっくりと顔を近づけた。息がかかる距離だ。
だが――寸前で、秋人は位置をそらしていた。彼の唇は、美夜の頬に触れる。
「え……先輩?」
意外そうに、目を開ける美夜。
秋人は、苦笑して言う。
「やっぱり……さ。こういうのって大事なことだろ? だから……ちゃんと付き合ってからにしないか……?」
「もう……先輩ったら」
残念ではあるが、彼らしいといえば彼らしい。
「まあ、これから時間はたくさんあるし、早く事件を解決して、付き合うかどうかはそれから……あっ!」
秋人は声を上げる。重要なことを思い出した。
「夕月……お前が入院している間に、もしヴァンパイア化が起きたらどうするんだ?」
「あっ……」
美夜が危機に遭遇しない限り、秋人は力が発揮できないのである。他に、秋人を暴走させるという手段もあるが、これはできれば使いたくない。
「大変よ、渡利くんっ!」
バンッ、と音を立てて、いきなり奈々が部屋に入ってきた。
「先輩、病院内では静かに……」
「それどころじゃないの! 今、病院にヴァンパイア化された奴が入り込んで来たのよ! あのときの男の子も一緒にいるわ!」
「何っ!?」
「そんなっ!」
愕然となる秋人と美夜。
病院とは、その名の通り、病気の人がやってくる場所だ。そんな状態で襲われては、逃げることさえままならずに殺されてしまう。
「ど、どうしたら……」
「わたしがいるでしょ?」
ぴっ、と奈々が自分に指を差す。
「こういうときのために、わたしがここにいるんだから」
「先輩……」
「そんなわけで、渡利くんには手伝ってもらうわ。一緒に来て」
「は、はい」
「あ……ま、待ってください」
椅子から立ち上がろうとして、秋人は美夜に手をつかまれた。
「勝利のおまじないです、先輩」
ちゅっ、と頬にキス。
「ゆ、夕月」
思わず、秋人はその頬を押さえる。
「わたし、ここで待ってますから。絶対、無事に帰ってきてください」
にっこりと微笑む美夜。
「あ、ああ。任せとけ!」
彼は力強く、親指を立てて見せた。
「さあ、行きましょう。西山先輩」
「あ、あー……うん。」
頷く奈々。何だか見ている方が気恥ずかしかった。
(ほっぺにチュー……って、小学生かあんたらはっ)
と内心思うものの、仲良くなれたようなので、とりあえずはそれでいい。
「……帰ってきたら、今度は口にしなさいよ」
「なっ……せ、先輩っ」
ぼそっと言うと、二人は真っ赤になった。純情である。
「それはともかく……気合い入れるのよ、渡利くん。今度は彼を……止めないとね」
「え、ええ。わかってます!」
勝利のおまじないもしてもらったことだ。絶対に……負けられない。そしてこれ以上の犠牲者は、増やせない。ヴァンパイアに関わり、死んでいった人たちのためにも。
「行って来る!」
秋人と奈々は、駆け出した。
「頑張って、二人とも!」
その後ろ姿に、美夜は声援を送る。
(どうか……無事で――!)
秋人たちが怪我をせずに戻ってくること。
それが彼女の、一番の願いだった。
終
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