プロローグ
誘惑に、勝てなかった。
衝動を、抑えきれなかった。
そして理性は、効かなかった。
何しろ、今まで一年以上も我慢に我慢を重ね、精神の限界まで耐えていたのである。だから――それを解放できる一言が彼の口から出たとき、止めることができなかった。例え相手が、大好きな初恋の相手であったとしても。
「が、あっ……!」
苦しげに表情が歪み、少年が呻いた。喉元をさらけ出し、全身がガクガクと震えている。
彼の首筋には、少女が食らいついていた。異常に伸びた犬歯がめり込み、動脈に傷をつけている。
「み、み……や……ちゃ……っ……」
声がかすれて、まともに出ない。急速に、意識が薄れていく。
少女は――夕月美夜は、完全に理性を失っていた。目の前にいるのが誰かもわからずに、ただ欲望のままに、彼の血を吸い続けている。
「おおっ、池田と夕月が抱き合ってるぜ!」
「ヒューヒュー!」
通学路の途中にある小さな公園。学校帰りに丁度通りかかったクラスメイトが、そう言ってはやしたてるが、既に彼女の耳には届いていなかった。
やがて美夜の意識が戻り、我に返ったとき――。
「えっ……!?」
彼女は、状況が理解できなかった。
目の前に広がる、一面の赤。
ツンと鼻にくる、錆びた鉄のにおい。
そこかしこに散らばった血と、グシャグシャに砕けた肉塊。それも、一つや二つではない。かろうじて原型を残している、人の形をしたものが、少なくとも十はある。
「……なっ……、な……に、これ……?」
顔をひきつらせ、彼女は恐怖に身を震わせる。
「死んでる……? 嘘っ……嘘でしょっ……!?」
身体の大きさから、大人もいれば子供もいた。
「こ……浩一くん! 浩一くんはどこ!?」
肉塊の中から、彼の姿を探す。だが――見つからない。
「浩一くん、どこに……あっ!」
見覚えのある服。少し離れたところに倒れている彼を見つけると、美夜は急いで駆け寄った。しかし手を伸ばそうとして、その動きが止まってしまう。
「……こう……いち、くん……?」
違っていた。それは、浩一とは違っていた。美夜の知る彼の姿とは、あまりにも――。
「……嘘……」
かすかに、声が漏れる。
浩一の身体は、体内の水分が抜け、干からびていた。つまり、ミイラ状態となっていたのである。
「こんなの、嘘……」
唇が、震えた。そして懸命に首を振る。
「嘘だ、嘘だ、嘘だっ……!」
否定したかった。認めたくなかった。目の前で起きてしまった、この残酷な現実を――。
だが本当は、わかっていた。朦朧とした意識の奥底で、自分が何をしたのか。してしまったのか。
「わたし……最近、血が飲みたくなるの。どうしようもなく……」
学校の帰り道。一緒に帰った浩一に、そのことを話したのがきっかけだった。
美夜はここ一年ほど、ずっと悩んでいた。生理が始まったのと同時期だろうか。その頃から、他人の首に吸い付き、血が飲みたいと思い始めていた。
理由は、自分でもわからない。だがそんなことが実行できるはずもなく、そのときは我慢するしかなかった。一旦は治まって安堵したものの、その衝動は次の月にもきてしまう。しかも日毎にその思いは強さを増し、我慢すればするほど、体調が崩れていった。 母親に何度か病院に連れていかれたが、ただの生理痛と診断。結局どうすることもできないまま、日々を過ごしていた。
「ずっとずっと、つらくて……苦しくて……! 何でわたしばっかり、こんなっ……!」
話すうちに、どんどん感情が溢れてくる。
身体の苦痛だけではなかった。症状が出始めて、最初は心配していたクラスメイトも段々無関心になり、やがていつも暗い表情でいる彼女には、近づかなくなっていったのである。幼なじみでもある、浩一を除いて。
そして原因のわからないこの症状は、美夜の最大の悩みでもあった。
一体この苦しみは何なのか。どうして血が飲みたくなるのか。もしかしたら……自分は普通の人間ではない、異常な存在ではないのか。有名な、人の血を吸う妖怪――ヴァンパイアの話は、彼女も本やテレビで知っている。もちろんそれが作り話だとはわかっているが――疑いたくもなった。
「もう……限界なんだよっ……!」
美夜の目から、涙がこぼれる。
普通なら、ホラ話だと思われても仕方のない内容だ。
だが、浩一は言ったのである。
「そんなに苦しいなら……僕の血を飲んでもいいよ」
と――。
おそらく、彼はその意味をわかっていないのだろう。もしくは、冗談だと思っているに違いない。一体どこまで本気の言葉なのか――。
「信じるよ、美夜ちゃんの話。僕たち、長い付き合いじゃない」
「こ、浩一くん……」
彼の真っ直ぐな視線を受け、一瞬美夜の心は揺らいだ。
浩一の気持ちは嬉しい。
しかし、もし自分が本当にヴァンパイアだとしたら――。あるいは、新種の病気だとしたら――。どちらにしても、実行するわけにはいかなかった。絶対に。
そう、美夜はわかっていた。頭の中では、わかっていたのである。だが――身体の方が止まらなかった。
浩一に襲いかかり、そして……美夜の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。
「やだよぉっ……! こんなの、やだよぉっ……! 浩一くんっ……浩一くんっ……!」
亡骸となった浩一を抱きしめ、美夜は泣き叫ぶ。
「わたしのせいで――わたしのせいで、こんなっ……!」
彼の血を吸った後の記憶は、断片的にだが頭の中に残っていた。
恍惚としたまま、立ち続けていた美夜の目の前で、浩一は――暴走したのである。意識はなく、通常の数倍もの力を発揮し、ただただ破壊と殺戮の限りを尽くしていた。しかし、それはわずかな時間でのこと。暴走の間、彼の身体からは、常に赤い蒸気が噴き出していた。体内の血が、蒸発していたのである。そして、公園内にいた人々を殺害した彼は――やがて血を失い、ミイラと化して倒れたのだった。
「うわぁぁぁぁぁぁっ! わぁぁぁぁぁぁっ!」
美夜は叫んだ。絶叫した。
「わたしのバカァッ! 好きな人の血を飲んで、それで楽になろうとするなんて、そんなの最低だよっ! わたし一人が苦しんでれば済むことだったのにっ!」
拳を、地面に叩き付ける。そしてきつく噛みしめた唇から、血がにじみ出した。口の中に、自分の血の味が広がる。
「こんな……こんな血のせいでっ……!」
涙が、地面にこぼれた。いくつも、いくつも。
強い後悔――。
そして、自分自身への憎悪――。
彼女の脳裏に、闇が渦巻く。
「……そうか」
ふいに、美夜は悟った。
「どうして、今まで気付かなかったんだろう……」
まさに天啓。いや、それとも悪魔の囁きか。
「わたしは……生きていちゃいけなかったんだ……」
その考えに到達したとき。
夕月美夜は、久々に――約一年ぶりに、笑顔を浮かべた。止まらない、涙を流したまま。
「まずいな、あの娘……」
顎に手を当て、男は呟いた。たった今、公園の外から異常な惨劇を目にしたというのに、平然とした表情をしている。
年は三十前後。背はスラリと高く、長い黒髪は後ろに束ねている。
「貴重な血族だ……。このまま消させるのは惜しい」
男は膝まで覆う黒いコートを翻し、柵を飛び越えた。
そして、血肉の海と化した公園を、悠然と歩いていく。
一方、美夜は近づいてくる男には気が付かず、ランドセルからカッターを取り出していたところだった。おそらく無意識なのだろうが、腕が少し震えている。それでも、彼女はカチカチと刃を押し出した。
「浩一くん……今、わたしも死ぬからね……」
力無く笑いながら、それを手首に当てる。
美夜にはもう、生きていく気力などなかった。
自分のせいで浩一や、他の関係ない人々まで無惨に死なせてしまったのだ。血が飲みたいという衝動は治まったが、今回限りで終わりとは思えない。また、同じことを起こしてしまうくらいなら、自分などいない方がいい――。
「ごめんなさい、お母さん……」
唯一の気がかりは、母を一人きりで残してしまうこと。夫である父を早くに亡くしてしまい、苦労しただろうに、美夜を心配させまいと、いつも微笑んでくれた母。奇妙な症状の出始めた美夜のために、いくつもの病院を巡ってくれた母。彼女には感謝している。
だが、それでも美夜を現実に繋ぎ止めることはできなかった。将来、母を襲ってしまうようなことだけは、絶対にしたくない。
「さようなら……」
最後にそう呟き、美夜はカッターを引いた。――つもりだったが、突然右手が持ち上げられる。
「えっ?」
驚いて見ると、そこに男が立っていた。全身に黒を纏った彼は、彼女からカッターを引き離す。
「あっ……! な、何をっ……」
止めに来たのなら、余計なことである。そう言おうとした美夜だったが、眼前に男の手が迫った。
「ぐっ!?」
大きな手の平で、顔を包まれる。何故だかわからないが身体が硬直し、動けなくなった。
「んぐぐっ……!」
力も入らず、胸が圧迫されるような感じがし、気持ちが悪い。
「よく聞け」
男の低い声が、美夜の頭から全身へと響く。
真っ直ぐに見つめてくる彼の視線。容姿も服装も、至って普通のものである。だが、美夜はこの男に、得体の知れない恐怖を感じていた。
(何……何なの、この人っ……!)
怖い、怖い、怖い――!
危険信号が、頭の中でガンガンと鳴り響く。
「いいか。お前は――」
震える美夜にも構わず、男は言った。
「異形の血を引いている」
「……?」
一瞬、意味がわからない。
「妖怪の……それも、ヴァンパイアの血だ。先程起きたのは、その能力が暴走したもの……」
「……ヴァン……パ、イア……?」
かろうじて、声が出た。
ヴァンパイア。吸血鬼とも呼ばれ、夜に活動し、人の血を吸うという有名な妖怪である。
「わた……し……が……?」
「そうだ。かつて存在した妖怪たちは、人間の中に混じり消えていった。しかし時々、お前のように妖怪の血が濃い者が生まれることがある。もっとも、ほとんどの者はその能力を制御できずに、自滅してしまうようだがな。……先程のお前のように」
「…………」
「だが私としては、その貴重な存在を無駄にしたくない。一時的にだが……記憶を消してやろう」
「……記憶……を……?」
美夜の中で、段々と恐怖の感情が薄れ、頭がぼんやりしてきた。
「ああ。能力のこと、死にたいと思ったこと。それらに関する全てのことを」
「……全てを……」
全身の力が抜け、急激な眠気が襲ってくる。
「もちろん能力も封印してやる。これで血を吸いたくなることはなくなるはずだ。だが――」
と、男が言い終わる前に、美夜の身体は崩れ落ちた。
完全に意識を失い、眠りについている。
「ふっ……」
彼は初めて笑みを浮かべた。
「せいぜい、束の間の幸せでも味わっておくんだな。数年後……お前には生け贄になってもらう」
男は少女の身体を離し、立ち上がる。
「封印解除のキーワードは、久坂宗丞……そして久坂慎司。私と息子の名前だ」
彼――久坂宗丞は、そう言い残すと、何事もなかったかのように、公園を後にした。
通行人によって救急車が呼ばれ、美夜たちが病院へと運ばれたのは、それから十分後のことである。
「美夜! 美夜! 起きなさい、美夜!」
「……あれ……お母さん……?」
興奮した様子で、懸命に呼びかける母――亜沙美の声で、美夜は目を覚ました。
「美夜! 大丈夫なの、美夜!」
「え……? 大丈夫って……」
「ま、まあまあ。夕月さん、少し落ち着いて」
彼女の肩を叩き、白衣を着た男がなだめようとするが、亜沙美の感情は止まらない。
「落ち着いてられないわよ! 仕事場に美夜が事件に巻き込まれて、倒れたって電話がかかってきたときは、もう気が気じゃなくてっ!」
「事件……? 倒れた……?」
美夜は目をこすり、半身を起こした。
見回すと、ここは白い壁に包まれた、小さな個室。なのに、医者と看護婦らしき者が数名、警官らしき者数名が、自分が寝ているベッドの周りを囲んでいる。
「ここ……病院……? 何で、わたしこんなところに……?」
「美夜……?」
娘の様子がおかしいことに、亜沙美は気付く。
「あなた、何言って……。公園にいたでしょ? 浩一くんと一緒に……」
「……浩一くん……って、誰……?」
美夜は、首を傾げた。
「み、美夜……まさか……」
愕然となる亜沙美。
「あれ……? そういえば、わたし……今日学校行って、帰って……それからどうしたんだろう……」
頭の中に深いもやがかかったようで、どうしても思い出せない。
彼女は、公園での事件のこと、血が飲みたいという衝動で苦しんでいたこと、そして浩一に関することを、全て忘れてしまっていたのである。
夕月美夜、十二歳。
小学校の卒業式も間近に迫った、ある冬の日の出来事だった。
第一話
浩一とは誰だろうか。
幼なじみ。友達。そして初恋の人。……で、あるらしい。
らしいというのは、それが母の亜沙美から聞かされたことだからだ。
確かに、小さい頃から誰か男の子と遊んでいたような記憶はある。一緒に写っている写真まである。しかし、どうしても思い出せない。
浩一がどんな顔で、どんな性格だったか。どんな口調で、どんな会話を交わしたか。
写真を見て顔はわかっても、全く覚えがないのである。だから、浩一が殺されたのだと聞かされても、別段悲しいとも思わなかった。
惨劇を目の当たりにしたショックによる、記憶喪失――。
医者はそう診断した。
しかし事件の唯一の生き残りである美夜は、解決のための重要な手がかりである。そのため、警察は何とか記憶を取り戻そうと色々治療を施したが、全て失敗に終わった。何より、せっかく閉じこめた記憶を無理に引き出しては、美夜の精神が危険だと判断されたのである。
特に怪我もなかった美夜は退院し、普段の生活へと戻った。
以前と変わらぬ生活――。しかしそう思っていたのは、彼女だけであったらしい。
ここ一年ほど、美夜は原因がわからない身体の不調に苦しんでいたのだが、そのことを彼女は覚えていなかった。だから突然明るく振る舞う様子は、周囲の者たちを戸惑わせ、余計に気を使わせたのである。
話しかけてもぎこちない。元々友達がいなかったため、遊ぶ相手もいない。周りは気を使うばかり。
だから、時々考えるのだ。
浩一とは一体誰なのか、と。
しかし結局思い出すことができないまま、そんな状態が卒業まで続いた。
中学に上がると、他の小学校からも生徒が入ってくるため、普通に友達を作ることができた。
勉強に頑張り、部活に頑張り、遊びに頑張る、ごくごく普通の学校生活――。明るい性格から友達も多くでき、事件のことも浩一のこともすっかり忘れ、美夜はまさに幸せな日々を過ごしていた。
しかし三年が過ぎ、受験をして進学する高校も決まった頃。
美夜は、夢を見始めた。
昔の記憶。幼い頃、男の子と遊んでいた光景――。
その子が浩一だとはすぐにわかったが、どうしても顔が浮かんでこない。
断片的に、夢は続いていく。そして夢は、失われた記憶を紐解いていく。少しずつ、少しずつ……。
ふいに一瞬、赤い映像がよぎった。
一面の赤――。
そして何故か泣き叫ぶ自分の声。手にしているのは、干からびた少年の亡骸――。
「うわあっ!」
身体を震わせ、美夜は思わず飛び起きていた。
「……何、今の……?」
全身が汗で濡れているのがわかる。背筋に寒気が走った。
「怖い夢……」
呟いて、本当に夢だろうか、と美夜は思う。もしかしたら、今のは過去に体験したことではないのだろうか。
「……記憶が戻り始めてる……?」
確証はない。だが、もしそうだとしたら。
ブルッと震えて、両手で自分を抱きしめる。
「……あれが夢じゃないなら……わたし、思い出したくない……」
しかし、彼女は気付いていた。
おそらく、その望みは叶わないものだということに。
記憶が、確実に鮮明になってきているという事実に。
「美夜ー、そろそろ起きなさーい」
居間の方から、いつもの亜沙美の声が聞こえてきた。その声が美夜を現実に引き留めてくれたような気がして、彼女は返事を返した。
当時、浩一が殺された事件は大々的に報道された。
平日の昼間。町中の公園で起こった、大量虐殺。しかも殺され方が普通ではない。遺体は原形を残さないほどバラバラにされ、唯一浩一のみがミイラ化しているという、常識では説明できないものだ。しかし結局、騒ぐだけ騒いで、犯人の手がかりは何も得られなかったというのが現状である。
「……そういえば……そういう事件だったよね……」
食事を終え、部屋で着替えながら、美夜は当時の事件直後を思い出していた。
あの頃、記憶のない彼女は、色々な報道を調べた覚えがある。
「となると、やっぱりあの夢は……」
腕に抱いていたミイラは、浩一に間違いないだろう。しかしどうしてああなっていたのかは、まだわからない。
「記憶を閉じこめてしまうほど、あのときのわたしは怖い思いをした……。けど……」
ネクタイを締め、上着のボタンをとめると、美夜は机の上の写真を見た。そこには自分と浩一が、笑顔で並んで映っている。亜沙美はその写真を片付けようとしたが、美夜が思い出せないのはかわいそうだから、と飾ったままにしておいたのだ。
確かに、思い出すのは怖い。それから逃れるために記憶喪失になる、というのも一つの手だろう。だが――それでは、いつまでも浩一が報われることはないのもまた事実だ。
あの事件から、もう三年もたつ。
「そろそろ……思い出した方がいいのかな……」
美夜は、鏡を見た。
昔は背中まであった髪も、最近では肩までのセミロングにし、中学の頃から眼鏡もかけている。身長も十センチは伸び、胸も膨らんでブラをつけるようになった。
机の写真と比べて、随分大人びたと思う。
「一緒に……成長したかったよね……。浩一くん……」
記憶はないものの、ずっと仲が良かったと聞いた、自分と浩一の関係。彼が死んでいなければ、今頃恋人同士にでもなっていただろうか。
しかしふいに、夢の中での彼の姿が思い浮かぶ。ミイラとなった、彼の姿が。
ゾクッと寒気が走り、美夜は身震いした。
「やっぱり怖い……。けど、浩一くんのためにも……思い出せるなら思い出してあげたい……」
相反する、二つの想い。だが、それが正直な想いでもある。
「今日も……夢を見るのかな……」
美夜が望むにしろ望まないにしろ、夢を見ることは止められない。
ならばどういう結果になるにしろ、このまま流れに身を任せてみるのもいいかもしれない。
「行って来るね、浩一くん……」
美夜はもう一度だけ写真を見ると、鞄を手にして部屋を出ていった。
――夕月美夜、十五歳。
この春、彼女は高校生になった。
「ねえねえ、夕月さん」
一限目の授業が終わると、隣の席の萩原霞が話しかけてきた。ショートカットで、快活そうな少女である。今のところ、一番多く会話をしている相手だった。
「ん、何?」
トントン、と教科書を揃えて机にしまいながら、美夜は返事をする。
「部活、何にする?」
「……部活?」
「そう。一年生は一学期まで、必ずどこかに入ってなきゃいけないらしいじゃない」
「あ……そうだったね」
そのために、今日の午後は体育館で部活発表会が行われるのだ。
「夕月さん、中学のときは何やってたの?」
「えっと……バスケ部。あんまり上手くなかったけどね。萩原さんは?」
「奇遇ねっ。あたしもバスケ部だったのよっ」
同士を見つけた喜びからか、霞は強引に握手を求めてきた。ちょっと痛いと思いながらも、握り返す美夜。まあ、それくらいなら、割とよくある光景ではあるのだが――。
「……で、誰ファン?」
霞は顔を寄せ、囁いた。
「……は?」
「いや、『は……?』じゃなくて、誰のファンなの? バスケ部だったなら、知ってるでしょ?」
「え、えーと……」
美夜は困ったように首を傾げる。
霞がしたいのは、バスケ選手の話だろうか。だとしたら、何となく部に入っただけの美夜には、わからないことだ。
「あ、あの、ごめんね。わたし、そういうのわからなくて……」
と、言いかけた美夜だったが。
「あたしはやっぱりルカワ! ルカワ好き好き! ルカワ最高ーっ!」
彼女はうっとりと目を閉じ、自分の世界に浸っていた。
「……ル、ルカワって誰……?」
「むっ」
思わず呟いた美夜の言葉に、キラーンと霞の目が光る。
「夕月さん、ルカワを知らないのっ? ルカワよ、ルカワ! あんなに有名なのに! このマンガの影響で、全国でバスケをやる人が急増したという、あの『スラムパンク』のキャラなのに!」
「す、スラムパンク……? あ、ああ。マンガの話ね……」
ようやく美夜は理解できた。
スラムパンク――。
美夜も少しだけ読んだことがある、有名な少年マンガだ。スラム街にいるパンク少年たちがバスケをするマンガなのだが、少し内容が危険で、よく少年誌で出せたものだと余計な心配をしたものである。
「わ、わたし、あんまり読んでなかったから……」
苦笑いを浮かべながら、応える美夜。
(な、何かこの人……やばい方向の人かも……)
内心、仲良くなったことを後悔し始めていた。
「もう、しょうがないなあ……。あたしなんか、スラムパンクの影響で、三年間補欠でも頑張ったっていうのに……」
「あ、あははは……はは……」
美夜は笑うしかなかった。
「――で、それはともかく、部活の話だけど」
「う、うん」
「あたし、囲碁部に入ろうと思うのよ」
「……い、囲碁部? まさか、それも……」
「そう!」
キラリン、とまたしても霞の目が光った。
「今人気急上昇中の少年マンガ、『ヒミツの碁』! もう、トウヤくんが可愛くて可愛くて!」
「は、はあ……」
それと彼女が部活に入ることがどう関係あるのかわからないが、本人が幸せならいいのだろう。
ちなみに、ヒミツの碁はその名の通り、ヒミツクラブで碁を打つ少年たちの話である。
つづく……かな?
この後は、ギャグ半分、シリアス半分で続いていく予定です。 |