姉妹劇場「バレンタイン編」
「ふぅ〜……ただいま〜っと」 家のノブを回し、玄関にドッカリと腰をおろすと、吉川雅巳(よしかわまさみ)は安堵のため息をついた。 カバンを置いて、その上に制服の上着をのせる。部活の疲れで重くなった身体も、我が家に着いたことで幾分軽くなったような気がした。 「…………」 ふと、上のほうを見上げる。玄関先にかけてある時計の針は、八時をさしていた。 いや、時計を見たかったわけではない。いつもはある何かが、たりないような気がしたのだ。 「……あ」 思い出した。 いつも心配そうに出迎えにくる姉の姿が、今日はない。 「姉ちゃーん」 居間のほうへ声をかけてみる。しかし気配はするものの、やはり出迎えにはこなかった。 「……?」 疑問に思い、雅巳は立ち上がると、居間へと続く扉を開けてみた。 途端に香る、甘い世界。そう、そこは汗臭さとは無縁の、別世界だった。 女の子特有の匂い――安心できる、大好きな姉ちゃんの匂いだ。 ……そこ、変態とか言わないように。 純粋な姉弟愛である。 しかし、今日はそれだけではなかった。 部屋全体に漂う、濃厚なカカオの香り――。 「こ、これは」 すぐにピンときた。 今日は何日だ。十三日だ。しかもただの十三日ではない。二月の十三日である。 つまりはバレンタインデーの前日。女の子が男の子をゲットするために、呪いにも似た感情を込めてチョコ作りにはげむ日なのだ。 「ふっ……」 生まれてこのかた十六年、家族以外にチョコをもらったことがないのは、雅巳の自慢のひとつである。 ……自慢にならない? とんでもない。 美人でやさしくて、学校でもモテモテの姉が、自分のためだけに毎年手作りチョコをくれるのだ。これが自慢でなくて何だというのだろう。 ……正直、他の女子からも欲しいと思ったことはあるけれど。 とはいえ、明日がバレンタインデーであるなら、今年も作ってくれているに違いない。 「姉ちゃ〜ん♪」 足取りも軽やかに、雅巳はキッチンへと顔をだした。 するとそこでは予想通り、姉の七恵(ななえ)と――もう一人、こちらは予想外だが、妹の由恵(ゆえ)が一緒にチョコを溶かしているところだった。 「おかえり〜、まーくん」 にっこり笑顔を浮かべて、七恵が顔を向けた。短めのポニーテールが、ぴょこんと揺れる。普段はおろしているが、家事のときは結んでいることが多い。 ……ああ、今日もかわいいよ姉ちゃん。 こうして姉のエプロン姿を見れるのは、弟の特権である。 「ごめんねぇ、出迎えにいけなくて。いま手が離せなくて……」 「そんなのいいからいいから」 もちろん出迎えてくれれば嬉しいが、都合があるならそちらを優先してもらったほうがいい。姉の場合は特にだ。誰かさんなど、もう何年も出迎えになど来ていない。 「で……」 と、雅巳はその誰かさんを見る。三つ年下の妹だが、彼女のほうが身長は5センチほど高い。 「なんで由恵までいるんだ?」 「雅巳には関係ないでしょ」 だるそうに振り返り、両脇で結んだ髪の片方をつかんだ。そしてピシピシと、近づこうとする雅巳の顔めがけて、その先端で叩いてくる。 「あっちいけ。しっ、しっ」 「な、なんだよ、いいじゃん」 この素っ気無い態度も、兄の名前を呼び捨てにすることも、由恵が中学に入ってからのものだ。それまでは兄にベッタリ――というわけではないが、少なくとも『お兄ちゃん』とは呼ばれていた。 やはり身長を追い越されたことが関係しているのだろうか。たしかに雅巳の身長は、平均とくらべても小さいほうだが……。 「もう、ダメでしょ由恵ちゃん。お兄ちゃんにそんないじわるしちゃ」 そう言って、鞭のように叩く手を止めたのは七恵である。 「そういうことしたら、もうチョコ作り手伝わないからね」 「う……ご、ごめんなさい、お姉ちゃん」 途端におとなしくなる由恵。兄には冷たい彼女だが、姉のことは尊敬しているらしく、その態度の違いは呼び方ひとつですぐわかる。 ……どうせオレなんて。 思わずいじけたくなる雅巳だったが、そういうことを言うとまた由恵の機嫌をそこねるだけなので、やめておいた。 「しかし姉ちゃんはともかく、由恵がチョコ作ってるなんてなぁ……」 うんうんとうなずきながら、雅巳は過去に想いをはせる。 「最後に由恵からチョコをもらったのは、いつだったか――」 「はぁ? 言っとくけど、雅巳にあげる分なんてないからね」 由恵はうざそうに顔をしかめる。 「これは彼氏の分よ。カ・レ・シの分」 「……なんだ、彼氏か」 ガクリ、と雅巳は肩を落とす。 せっかく数年ぶりに、しかも初の手作りチョコを妹からもらえると思ったのに。 「……ん? か、かれ……し?」 なんだか聞き慣れない単語が、そこにあった。 「彼氏だとぉぉぉぉぉっ!」 「なによ、うるさいわねぇ。あ、お姉ちゃん。そろそろ火をとめても平気かなぁ?」 「そうね。それじゃ、少し冷まして……もう一度ゆっくり温めるから、その間にトッピングの用意をしましょ」 「はーい」 「お、おい由恵! か、彼氏って、彼氏って一体どこのどいつ」 「雅巳、ジャマ」 げしっ。 「はうっ……!」 下腹部に衝撃が走る。 見下ろすと、水平に伸ばされた由恵のかかとが、大事な部分にめりこんでいた。 「ぐ、ぐぉっ……」 後ろによろけて、雅巳は膝をつく。幸いにしてポイントはわずかにはずれていたため、致命傷ではない。だが、男の急所に容赦なく攻撃を与えてくるとは――おそろしい妹だ。 「こ、こんな凶悪な妹に彼氏ができるなんて、そんなバカな……。何かの間違いだ。とても信じられん」 たしかに見た目は結構かわいい。かわいいが、それは見た目だけだ。外見にひかれて近づいた男子が、性格を知って離れていく様を、雅巳は小さい頃から何度も見てきている。 「もう、うるさいなぁ……」 股間を押さえた両手の上から、由恵がさらに足先を突っ込んできた。 「いいから、あっちいって」 ぐりぐり。 爪先でねじいれてくる。 力はこもってないので別に痛くはないが、この様子ではこれ以上情報は聞き出せそうにない。ここは撤退するしかなさそうだ――。 そう思った矢先に、情報は意外なところから提供された。 「彼氏はヒロくんよね、由恵ちゃん」 姉の七重の口から、あっさりと漏らされたのだった。 「も、もう、バラさないでよっ」 慌てて姉の口を押さえる由恵。 「雅巳は早くあっちいって!」 「あ、ああ……わかった」 とりあえず今は名前がわかっただけでよしとして、雅巳はキッチンを後にしたのだった。 「う〜ん……う〜ん……」 二階にある自分の部屋に入ると、雅巳はカバンを置き、制服をハンガーにかける。 その間、ずっとうなっていた。 もちろんトイレに行きたいわけではなくて、気になることがあるからだ。 「ヒロくんって、誰なんだ……?」 姉の口から出てきた、由恵の彼氏だというその名前。『くん』とつけるからには同学年か、それ以下か――。付き合い始めたとしたら、中学になってからだろうから、おそらく同学年のほうだろう。 子供だと思っていた由恵に――しかも自分より先に恋人ができるなんて。 「くそ……」 雅巳は親指をかむと、そのまま床に腰をおとした。朝からだしたままの布団の上に、ごろんと横になる。 「あんな凶悪な奴に、何で彼氏ができるんだよ……」 何かといえば蹴ってくるし、ツンツンしてるし、そもそも兄に優しくないし。 小さい頃のように、由恵の外見にひかれて近づいてきた男子――という可能性もなくはないが、それならば由恵が見抜いて相手にもしないだろう。 「…………」 そう考えるとヒロくんというのは、由恵が認めたまともな男子ということなのかもしれない。 『お兄ちゃんっ。はい、チョコあげる〜っ』 ふいに――、 昔の出来事が脳裏をかすめた。 四年前、由恵が小学三年生だった頃のバレンタインデー。彼女がくれた、最初で最後の手作りチョコをくれたときのものである。 「あ……れ……?」 胸の中がざわりとした。 何で急に思い出したのか、わからない。だがあれ以降、由恵はバレンタインにチョコをくれなくなった。理由を訊いても、彼女は答えようとしない。 「あのチョコ……どうしたっけ?」 姉の七恵がくれたチョコは、よく覚えている。当時中学一年生だった七恵は、既に料理の腕もかなりのもので、毎年凝ったチョコをくれたものだったが――。 由恵がくれたほうのチョコはどうしたのか。食べたとは思うが、どうも思い出せなかった。 「まぁ……いいか」 昔のことだし、思い出せないものは仕方ない。 それよりも考えるべきは、『ヒロくん』の正体である。 自分でもなぜこんなに気になるのかわからないが、それを確かめるまでは、気持ちの整理がつきそうになかった。 本人に直接訊く――というのは、絶対無理な話。 妹の部屋に侵入して、クラス名簿を見れば『ヒロくん』がわかるかもしれないが、バレたときが危険すぎる。 やはりここは、正体を知っていそうな姉に訊くのが一番だろう。とはいえ、由恵と一緒にいるときには訊けないので、一人になるときを待たねばならない。 「どうするかな……」 二人はまだチョコ作りを続けるだろうから、しばらくは無理だろう。 ふと、机の上のパソコンが目に入った。そして、とあるドラマを思い出す。オタクの青年が、好きになった女性と仲良くなるためにネットで相談するという話である。 「……俺も相談してみようかな」
つづくっ!
……いや、まぁ、最後のネットで相談という展開は、続きができるまでの冗談ですけどね。
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