「ほら、夕月さん。いつまでも座ってると掃除の邪魔だよ」
「う、うん、ごめん」
掃除係に追い立てられ、夕月美夜はうつむいていた顔を上げた。
その表情が、重い。苦しげに、唇を噛んでいた。
だが掃除係の少女は構わずに言う。
「早く机運んで」
「う、うん。……あっ」
教科書をランドセルにしまい、椅子から立ち上がろうとしたところで、美夜はよろめいた。
「危ないっ」
咄嗟に抱き留めたのは、一人の少年。池田浩一だった。
「あ、ありがとう、浩一くん……」
つかまりながら、美夜は幼なじみの彼に感謝する。
するとすかさず、教室のあちこちから冷やかしの声が飛んできた。
「ヒューヒュー! 熱いねえ、お二人さん!」
「結婚はいつですかぁ?」
「……先に行ってて、美夜ちゃん。机は僕が運んで置くから」
「う、うん……。いつもごめんなさい……」
申し訳なさそうにしながらも、美夜はよろよろと歩き出し、教室を出ていく。
「ほら、これで文句ないだろ」
美夜の机を後ろに下げると、浩一は言った。
「まあ……いいけど」
係の少女はそれ以上何も言わず、掃除を始める。
「ははは、池田もよくやるよなー」
「ほんとほんと」
帰ろうとした浩一のランドセルに、二人の少年が後ろから寄りかかってくる。山田弘と、前川康男だった。
「確かに顔はちょっと可愛いけどさ。あいつ、いつも暗いだろ」
「そうそう。病気持ちだしな」
バシン。
からかう二人の腕を、浩一は払いのけた。
「美夜ちゃんだって、好きで病気になってるわけじゃない。僕はともかく、美夜ちゃんはからかうな」
どちらかといえばおとなしい浩一の、思わぬ反撃に、彼らは面食らう。
「……けっ。わかってるよ」
「本当に倒れたりしたら面倒だしな」
二人はため息と共に、肩をすくめてみせた。
「……それじゃ、お先に」
浩一は教室を出ていく。
一瞬しんとなった教室だったが、再びざわめき出した。もちろん話題は、美夜と浩一のことである。
「池田くんもよくやるよね」
「確かに夕月さんには同情するけど。もうずっとあんな調子だし」
「けど、いつまでも気を使ってられないよねぇ」
掃除をしながら、少女たちはそんな会話をする。
「くそっ……」
廊下にまで聞こえてきたその会話に、浩一は思わず足を止め、唇を噛む。
彼女たちの会話が、六年一組全員の意見でもあることは、彼も知っていた。 最初の頃こそ気を使っていた彼女たちも、一年近くが過ぎた今では、美夜の味方は浩一しか残っていない。
「僕だけでも、美夜ちゃんを助けてやらないと……」
それが、幼なじみとしての義務感であり、昔から抱いていた、恋心から来る使命感でもあった。
「でも美夜ちゃんの病気……一体いつ治るんだろう……」
原因不明の身体の不調。それがもう、一年も続いている。
果たして、終わりは来るのだろうか。
卒業まであと一ヶ月。できれば、完治した彼女と式を迎えたいものである。
「ううっ……」
と夕月美夜は呻いた。
何とか玄関を出たものの、頭痛がし、全身がだるい。だが、それ以上に――自分の中の異常な感覚に耐えねばならなかった。
(人が……人がいっぱいいる……)
美夜と同じように、学校から帰ろうとする児童たち。この寒い季節、皆自然と厚着になるため、まだ楽な方だ。しかし、これが夏ともなれば――。
「うわあっ」
ふいに悲鳴が上がる。
見ると、一人の少年が玄関の前で転んでいた。冬だというのに、半ズボンである。元気がありあまっているようだ。
(うらやましい……)
自分の境遇と比べてそう思う美夜だったが、彼の膝から流れるものを見て、目を見開く。
「血……!」
瞬間、素早く後ろを向き、ギュッと目を閉じた。
(わたしにっ……今のわたしに、そんなもの見せないでっ……!)
全身が――熱くなる。
心臓の鼓動が速くなり、呼吸が荒くなった。
「はあっ……はあっ……」
自分を押さえ込むかのように、美夜は両腕に爪を立て、抱きしめる。
「美夜ちゃん」
ポン、と誰かに肩を叩かれた。
「だめっ!」
思わず叫んで、彼女はその手を払い落とす。
「……み、美夜ちゃん?」
叩かれた手を押さえ、戸惑いの表情を見せたのは、浩一だった。ここまで追いついて来たらしい。
「はあ……はあ……。こう……いち、くん……」
彼の姿を確認すると、美夜は呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げた。
「ご、ごめんね……。急に肩を叩かれたから、びっくりしちゃって……」
「あっ……いや、僕の方こそ、驚かせちゃってごめん」
ははは、と頭を掻きながら笑う浩一。
そんな彼に、美夜は視線を向ける。
熱のこもったような、艶っぽい眼差し――。
美夜には無意識の行動だったが、浩一には当然予想外だ。
「え、え〜っと……」
どぎまぎしながら、必死に考える。が、言えたのは、結局一言だけだった。
「……帰ろっか」
「うん……」
美夜は視線をはずし、小さく頷いた。
「でも、本当にどうしてだろうね」
学校からの帰り道。ふらふらと歩く美夜を支えるようにしながら、浩一は言った。
「もう一年にもなるのに、原因がわからないなんて……」
それは幾度となく、繰り返されてきた疑問だった。
一年前――。
美夜は授業中に突然倒れ、救急車を呼ぶ騒ぎとなった。
病院で検査を受けた彼女だったが、結局異常は見つからず。しかし以降、彼女は時々身体の不調を訴えるようになる。最初の三ヶ月が月に一回のペースで起きたので、生理のせいだろうと噂されたが、違うようだった。今ではもう苦しげな表情しか見ることはできない。
原因がわからないため、最初は重い病気だと思われていた美夜。だが、何の進展もないままそんな状態が続けば、段々疑わしくなってくる。
夕月美夜は、仮病じゃないのか――。
一度だけ、そんな事をクラスの人間はもちろん、先生にまで言われるような事態に発展したことがあった。
「演技でこんなことできるもんかっ」
と、そのときは浩一の主張で皆を納得させたのだが――。
彼自身も、疑ったことがないわけではない。
だが、浩一は美夜の幼なじみ。家族を除いては、一番多く付き合ってきた。だから、信じたいと思う。彼女は演技をするような子ではない、と。第一、そんなことをしてメリットなどあるはずがない。
(せめて僕だけでも、美夜ちゃんを助けてあげよう)
そう誓ってから、浩一は行動に出始めた。
無理はせず、自分にできることをする。
それが、彼女を助け、励まし、願うこと――。
「いつか……治る日が来るのかなあ……。そうすれば、また美夜ちゃんの笑った顔が見られるし、クラスのみんなとも仲良くなれるのに……」
「浩一くん――」
彼の呟くような声に、美夜は驚いたように目を見開く。
「あ……ごめん。一番つらいのは美夜ちゃんなのにね……」
「ううん。わたし、いつも浩一くんに助けられてるから。ありがとう、浩一くん」
「あはは。そう言われると、照れるなあ」
浩一は、ごまかすように頭を掻いた。
正直、打算がないわけではない。できることなら、このまま幼なじみ以上に仲良くなりたいと思っている。しかし、今はいい。それは、彼女の病気が治ってからだ。全てはそれから――。
「絶対治るよ、美夜ちゃん。信じていれば、必ず」
「うん……ありがとう……」
頷く美夜。だがその表情は、変わらず暗いままだ。
(僕は……美夜ちゃんの役に立ってるのかな……)
そんな顔を見ると、思わず不安になってしまう。
少なくとも、迷惑にはなっていないと思いたいが――。
「あのね……浩一くん」
美夜が、こちらを見ていた。
「え? な、何?」
慌てて返事をすると、美夜は何度かためらうように指を噛みながら、言った。
「わたし、自分では何となく……原因わかってるんだ……」
「え……?」
浩一は、耳を疑う。
(原因が、わかっている……?)
一体どういうことなのか。
すぐにでも聞きたいところだったが、彼女は言った。
「ごめん……浩一くん。先に公園に寄ってもいい……? ちょっと……座りたくて……」
「あ、ああ……うん。いいけど、大丈夫?」
「大丈夫だから……お願い」
「うん……」
よろめく彼女を支えながら、浩一は通学路の途中にある小さな公園、八つ橋公園に入る。そしてすぐそばにあるベンチに、彼女を座らせた。
「ありがとう、浩一くん……」
「いいけど……それより、原因がわかっているってどういうこと?」
自分も隣に腰掛けながら、浩一は訊ねる。
「多分……ううん、きっと間違いないと思う。わたし自身信じられないんだけど……」
やはりためらう様子を見せながらも、美夜は話し出した。
「わたしね……あの……血が、飲みたくなるの……。もうどうしようもなく、我慢できないくらいに」
「……血?」
浩一が、眉をひそめる。
「血って……身体の中を流れている、あの血?」
「うん……その血。まるで……そう、ヴァンパイアみたいにね。人を襲って飲みたくなるの」
「…………」
呆気に取られる浩一。
(血が飲みたくなるって……ふざけてる?)
もし突然そんなことを言われたなら、誰だってそう思うだろう。
だが、美夜の表情は真剣だ。息も絶え絶えに、懸命に声を絞り出している。
「自分の身体を傷つけて、飲んでみたこともあるけど、それじゃ全然だめなの。誰かの……他人の血が飲みたい。……でも、さすがにそんなことできるわけないしね」
「…………」
「だから、ずっと我慢してた。我慢して、我慢して――でもそうしたら、どんどん気分が悪くなって、体調も悪くなっていったの。最初の頃は、血が飲みたくなるのは月に一回くらいのペースだったけど、段々感覚は短くなっていって、今では体調も戻らなくなっちゃって……」
「……美夜ちゃん……」
「何なんだろうね、わたし……。病院では異常はないって言われるのに、こんな風になっちゃうなんて……。もしかして、本当はヴァンパイアだったりして」
「……美夜ちゃんっ」
「あっ……」
浩一が肩を揺すると、彼女は我に返った。
「泣いてるよ、美夜ちゃん……」
「え? ……あ」
頬に触れ、美夜は初めて自分が涙を流していることに気付いたらしい。
「ご、ごめん、浩一くん」
慌ててハンカチを取り出し、拭い取る。
だが、彼女の涙は止まらなかった。
張り詰めていた気が緩んだのだろうか。次々と溢れてきているのが、浩一からもわかる。
(これが――ふざけてる奴ができることか? そんなはずないっ)
確かに、言っていることは突飛で、にわかには信じがたいことだ。言って良い冗談と、悪い冗談の区別は、彼女にもつくだろう。
下手をすれば人間関係すら崩しかねない、彼女の発言。だが、それでも彼女は言った。おそらく――浩一を信じて。
「うっ、うっ……わ、あぁぁぁぁっ」
彼女は、泣き始めた。
公園には、他に学校帰りの児童や、親子連れなど、十人近くの人間がいる。それでも、彼女は声を上げ、泣き続けた。
「やだよぉっ……! こんなの、もう耐えるのやだよぉっ……!」
「……美夜ちゃん……」
端から見れば、誤解されかねないセリフである。だが、そんなことはどうでもよかった。
おそらく浩一の想像以上に、彼女はつらい思いをしてきたに違いない。
(何とか――何とか、してあげたいけど……)
血を飲めないせいで、彼女は苦しんでいる。ならば、どうすれば血を飲ませられるのか。
(病院で血をわけてもらう? いや、飲みたいなんて言って、わけてくれるはずがない)
第一、それができるならとっくにやっているはずである。
(他には、何か――)
ふと、そこで気づいた。
(……何だ。簡単な方法があるじゃないか……)
浩一はランドセルを下ろし、中からカッターを取り出す。
カチカチ、という刃を伸ばす音で、美夜がはっと顔を上げた。
「こ……浩一くんっ」
「つっ……」
浩一は顔をしかめる。
指先につけた線から、赤いものがにじんできた。
さすがに深い傷はつけられなかったが、とりあえずはこれで充分だろう。
「ほら、美夜ちゃん……」
指先を、彼女に差し出す。
「ばっ……バカッ」
美夜は、慌てて後ろを向いた。
ブルブルと震えているのが、浩一にもわかる。
「そ、そんなことっ……そんなことしてもらいたくて、話したわけじゃないのっ……。ただ、こんなわたしといたら、浩一くんに迷惑がかかるからって……それを伝えたくてっ……」
自分を抱く彼女の腕に、力が入った。その腕を、浩一はつかむ。
「……こんなに苦しんでいる美夜ちゃんを見てるの、つらいんだ。だからボクの血で助かるなら、いいよ。それに迷惑なんかじゃない。幼なじみだし、助け合わなきゃ……って言うのは、今さらずるいかな」
浩一は照れたように頭を掻いた。
言うつもりはなかったのだが――勢いだった。
「ボクは自分の好きな女の子を、少しでも助けてあげたいんだ」
「……えっ……」
突然の告白に、美夜は息を呑む。
「浩一くん、今……」
ゆっくりと、振り向いた。
「好きだから、助けてあげたいんだ」
その振り向いた彼女の唇に、浩一は血のにじむ指先で触れた。
「あ……」
血が、彼女の口内へと入り込む。
その瞬間――美夜が必死で耐えていた衝動は、一気に爆発した。
浩一が美夜のことを好きなように、美夜も浩一のことが好きだった。
クラスのみんなと違い、ずっと助けてくれた浩一――。
幼なじみで元々仲が良かったというのもあるが、そのことが、美夜の気持ちを特別なものへと変えていった。
だが、だからこそ、美夜はつらかったのである。
自分をかばったせいで、彼までも孤独になってしまったことが。
これ以上付き合わせて、迷惑をかけるわけにはいかない――。
そんな想いから話した、自分の吸血衝動。
こんなバカな話をしたら、きっと嫌われるだろう。それが怖くて、今まで言い出せなかったが――決心がついた。迷惑をかけるより、嫌われた方がましだからだ。
しかし予想に反して、彼は美夜に血を差し出し、好きだとまで言ってくれた。
普通の少女なら、喜ぶところだ。だが、美夜の身体は、好きだと言われたことよりも、目の前の血に反応してしまった。
急速に沸き上がる衝動――。
(だめ……っ!)
美夜は持てる限りの力で、その衝動に耐えようとする。
何しろ、この衝動の原因がわからないのだ。本当に自分がヴァンパイアだとは思わないが、血を吸うことが相手にどう影響するのかわからない。新種の病気なら、感染する可能性もある。
(耐えなくちゃ……! 絶対に、吸っちゃいけないっ……!)
腕に力を込める美夜。
しかし浩一は彼女の口に、自分の血をつけてしまった。
その血が、わずかに入り込む――。
それだけで、十分だった。
何しろこの一年間、我慢に我慢を重ね、美夜の精神は限界に達していたのである。
彼の血さえ飲めば、この苦しみから解放されるかもしれない――。
そんな想いが、どこかにあった。
そしてその想いは一気に膨らみ、彼女を包み込む。
(あ……だめ……)
意識が、朦朧となる。
力が、入らない。
理性が、消えていく。
(だめ……なの……に……)
この瞬間、彼女の身体は、血を求める本能が支配した。
口の中に広がる、わずか一滴の血に、彼女の精神は敗れてしまったのである。
「あの……美夜ちゃん?」
硬直してしまった彼女に不安を覚え、浩一は声をかける。
「どうかし……えっ?」
言いかけた、途中だった。
突然、彼女が抱きついてきたのである。
「み、み、美夜ちゃんっ?」
このまま抱きしめていいのかわからず、中途半端に手を上げながら、戸惑う浩一。
(ま、まさか、喜んでくれた? これって、両想いって奴?)
と、楽観的に思えたのは、一瞬でしかなかった。
「ぐあっ!」
首筋に、激しい痛みが走る。
ずぶずぶと、硬いものが肉の中にめり込んでいく。
吐き気をもよおすような、気持ちの悪い感触。
「なっ……」
首の方を見ると、それは――美夜だった。彼女が、浩一の首に食らいついているのである。
驚く暇もなく、今度は吸われていく。
体内の何か――水分のようなものを。
(血をっ……血を吸ってるのかっ……!)
浩一は愕然となる。
これではまるで、本当にヴァンパイアではないか。
そんなバカな、と浩一は必死で否定する。
「う、ぐぐっ……! み、みや……美夜ちゃんっ……!」
痛みを堪えながら、何とか呼びかけた。が、彼女は無反応で血を吸い続けている。
(……何で……何でこんな……)
一体、何故こうなってしまったのか。
彼女は、どうしてしまったのか。
わからないまま、意識が薄れていく。
遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた気がしたが、それが誰のものかはもう思い出せなかった。
「おおっ、池田と夕月が抱き合ってるぜ!」
「すげぇっ! あいつら、やっぱりそういう関係だったんだ!」
二人を見つけたのは、クラスメイトの少年、前川弘と山田康男だった。
ランドセルを背負っているところからして、帰り道の途中で偶然見つけてしまったのだろう。
普段から浩一と美夜をからかう彼らだったが、それは羨ましいから、というのも理由の一つになっている。小学校の六年生ともなれば、男女を意識してしまい、なかなか仲良くできるものではない。しかしだからこそ、仲の良い男女を見ると、からかいたくなってしまうのだ。
「ヒューヒュー!」
はやしたてるかのようにそんな声を出しながら、弘と康男は近付いていく。
堂々と抱き合っている二人を見て、彼らもすっかり興奮したようだった。が、すぐそばにまでやってきたとき、ようやく何かがおかしいことに気付く。
「え……?」
「お前ら、何やって……」
怪訝な顔を向ける弘と康男。そして彼らは見た。浩一の首筋に、美夜が歯を突き立てているところを。
「なっ……!」
驚愕の声を上げる二人。
彼らに反応するかのように、美夜は身体を離した。そしてゆっくりと、彼らに顔を向ける。小さく笑みを浮かべるその唇は、赤く濡れていた。
「お、お前っ……!」
さすがに、彼らにもわかった。美夜が、浩一の血を吸ったのだと。
それを裏付けるかのように、浩一の身体からは力が抜け、地面に崩れ落ちる。
「お、おい、池田!」
「夕月、お前何やったんだ!」
美夜を睨み付けながらも、二人は先に倒れた浩一に駆け寄った。彼女を責めるよりも、今は浩一の方が心配である。
「池田! おい、池田!」
声をかけながら、うつ伏せだったのを仰向けにする。
そこで二人は、眉をひそめた。
「傷が、ない……?」
そう。彼の首筋には、何の傷も、血の跡すらもなかったのである。確かに先程は、美夜に噛まれていたというのに。
とはいえ、こうして浩一が倒れたのは事実だ。気を失っているのか、彼は目を開いたまま、ぴくりとも動かない。
「しっかりしろよ、池田!」
「起きろよ、おい!」
もしや、死んでいるのでは――。
そんな思いが、彼らの脳裏をよぎる。
しかし、そのときだ。浩一に、変化があった。
開いたままの彼の瞳が、赤く――血のように真っ赤に、染まっていったのである。
「うわっ!」
「な、何だ、これっ……」
二人は思わず後ずさる。と同時に、彼らの耳に音が聞こえてきた。
ヒュッ! ゴギッ!
短く風を切る音。そして何か硬いものが折れる音だ。
瞬間、弘は自分の目を疑った。
たった今まで、目の前にあったはずの、康男の顔がなくなっていたのである。
あるのは、真っ赤な――噴水のように真っ赤な血を噴き出す、首のない彼の胴体だけだったのだ。
「ぅ……わ、あ、あああああああっ!」
鮮血を全身に浴び、弘は悲鳴を上げる。腰が抜け、尻餅を付いたまま慌てて後ろに下がった。
数メートル先の地面に、ドサリと落ちる康男の頭。
間違いない。彼は、首を切られたのだ――。
「あぅわぅわわっ」
まともに声が出ないほどに、弘の身体は硬直していた。恐怖のあまり、動くこともできない。
「ウ、ウウ……」
唸りながら、浩一は立ち上がった。その表情には精気はなく、赤く染まった瞳で弘を見据えてくる。
「ひぅ、あ、あぅっ」
口をパクパクさせながら、彼は顔を歪ませ、涙を浮かべた。
怖い。だが動けない。逃げられない――。
(何なんだ! 何なんだよぉ、これはっ!)
今、目の前に起きている現実を、弘は理解することができなかった。無理もない。常識ではありえないことが、起きているのだから。
「ガァッ!」
声を上げ、浩一は右手を振り上げる。
「ひぃっ!」
彼の手が弘の額をつかみ、そしてその勢いのまま地面に叩き付けられた。
ゴッ!
「ぐあっ!」
後頭部に激しい振動が起きる。意識が飛んでもおかしくない痛み――だが、そうはならなかった。
地面に押し当てたまま、浩一はさらに力を込めたのである。人間には出すことが不可能な強さで、だ。
メキメキメキッ!
「ひ、いぎゃああああああっ!」
弘の頭蓋骨が悲鳴を上げる。
「ああ! あああああああああっ!」
絶叫。最後の絶叫だった。
ビキィッ! ブシュゥゥッ!
骨が砕け、裂けた頭頂部から、潰れた脳味噌が飛び出した――。
「グゥゥ……」
動かなくなった弘を見て、浩一は隣で倒れている前川の身体もつかみ上げる。
そして、投げた。
小さなグラウンドに張られている、金網に向かって――。
ガシャァァンッ!
金網が激しく揺れ、大きな音を立てる。
二人の少年の身体は、金網に深くめり込んでいた。
その音が周囲に響いたのと同時に、美夜は意識を取り戻した。
「えっ……? わたし、今何を……?」
ふいの覚醒で、頭の中が混乱していた。
浩一の血が口に入り、それからどうしたのか。
「わからない……」
頭を振る美夜。
完全に、意識が飛んでいた。だが、妙に心地よく感じていたのは確かだ。先程まであった、身体のつらさもなくなっている。元の状態に戻れたのは、本当に久しぶりだった。
「えっ……?」
ふと、口の中に残る、妙な味に気づく。
錆びた鉄のような、これは、まさか――。
「もしかして……わたし、飲んだの……? 浩一くんの血を……?」
最初に含んだのは、わずかに一滴だけのはずだ。しかし今、口の中に残っている感触だけでも、確実にそれ以上はある。
間違いない。飲んでしまったのだ。身体の奥から沸き上がる、衝動を止められずに――。
そこで、彼女はようやく顔を上げる。
「え……!?」
浩一はいなかった。
代わりに、ツンと鼻につく異臭。そして赤く染まった地面。
「血……!? まさか!?」
慌てて周囲を見回し――美夜は、金網に異様なものが張り付いていることに気付く。首のない身体と、頭の潰れた身体が、血を垂れ流しながら、めり込んでいることに。
「ひっ……!」
と息を呑む美夜。
この錆びた鉄のような臭いは、本物だ。本物の血の臭いだ。
そしてあの死体には、見覚えがある。片方は頭がなく、片方は原形を留めていないが、服装と名札でわかった。
「ど、どうしてこんなっ……」
ドスンッ。
後ずさる彼女の横に、何かが落ちてくる。
「え……?」
それは、子供だった。幼稚園にも行っていないような、小さな男の子。ただし、内臓がグチャグチャに引き出され、既に絶命している。
「あ……ああ……」
あまりのことに、美夜はまともに声が出ない。
「きゃあああっ!」
遠くから、悲鳴が聞こえてきた。
目を向けると、そこには先程も見かけた数人の母親と、小さな子供たちがいる。その母親たちの一人の腕が、宙へと舞い上がった。続けざまに、肉片が飛び、血しぶきが上がる。骨の砕ける音が響く。人という形のものが、一瞬でただの肉塊へと変化していった。
「そ、そんな……嘘……」
あまりに現実味のない光景。むごたらしい惨殺行為。しかしそれを起こしたのは、たった一人の少年だった。
「こう……いち、くん……」
美夜は顔を強張らせる。
違っていた。その姿が、彼女の知る浩一とはあまりにも――。
瞳は赤く輝き、凶暴そうに歪んだ表情。そこにはいつもの面影がなく、服は返り血で全身染まっていた。
「ガアアッ!」
咆哮する浩一。
母親と子供たちを殺した彼は、次の獲物に目をつけた。
今のを見て、逃げようとする、ランドセルを背負った少年たち。彼らの数倍の速さで、浩一は走り出す。
「や、やめ……やめっ……」
恐怖でうまく声が出ない。動くこともできない。
その間にも、浩一は泣き叫ぶ彼らに追いつき、肉体を破壊していく。明らかに、普通の人間にはありえない運動能力だった。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
最後に残された少年が絶叫する。必死に逃げようとするものの、浩一に頭をつかまれてしまった。
「い、いやだ! いやだぁぁぁっ!」
少年は手を離そうと、最後の抵抗を見せる。だが、メキメキッ、とつかまれた部分が嫌な音を立てると、彼は動かなくなってしまった。
さらに浩一は、とどめを刺す。少年の身体の中心を貫くと、そのまま引き裂いた。
「……あ……ああ……」
美夜は、がっくりと膝をつき、力が抜けたように座り込む。
これでこの公園には残ったのは、もう自分たちだけとなってしまった。
「何で……」
美夜の目に、涙が溜まる。
「何で、こんなことに……」
原因は、わかっていた。
彼の血を、飲んでしまったから。衝動を、抑えられなかったから。欲望に、負けてしまったから――。
「わたし……耐えられなかった……。あのとき……浩一くんの血を、飲みたいと思ってしまった……」
ぽたぽたと、目から溢れた滴が地面にこぼれた。
「わたしのバカァッ! 好きな人の血を飲んで、それで楽になろうとするなんて……そんなの最低だよっ! わたし一人が苦しんでれば済むことだったのにっ……!」
拳を、地面に叩き付けた。そしてきつく噛みしめた唇から、血がにじみ出る。
「こんな……こんな血のせいで……」
だが、今は後悔しているときではないのだ。
「きゃああっ!」
「うわあっ!」
聞こえてきた悲鳴が、彼女を現実へと引き戻す。
悲鳴を上げたのは、小学校からの帰宅途中だった数人の児童のものだった。通学路の近くにあるため、この公園に寄り道する者は多い。そしてたまたま、彼らは惨状を見てしまったのである。
怯えた彼らは、悲鳴を上げて逃げ出すことしかできなかった。
(そう。それでいい……)
と美夜は息をつく。
今、下手に浩一に近付けば、殺されるかもしれないのだ。逃げるのが、最良の方法である。
しかし――。
浩一は、彼らの後を追うかのように、再び走り出した。
「だ、だめぇっ!」
反射的に美夜は立ち上がる。
(これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない――!)
幸い、美夜は彼らと浩一との、一直線上の間にいる。わずかな移動で、彼の進行の前に立つことができた。
「と、止まって!」
両腕を広げ、立ちふさがる。
「お願い! 浩一くん、もうやめて!」
もしかしたら、自分まで殺されるかもしれない。
そう思うとたまらなく怖かったが、美夜は懸命に勇気を振り絞っていた。
(だって、これはわたしのせい。わたしが、何とかしないと――)
ガクガクと足が震え、声も震える。浩一が迫る。
それでも、彼女は避けることはしなかった。
「止まってぇっ! 浩一くんっ!」
そんな美夜の叫びに、彼は――止まった。彼女の目の前で、ピタリと足を止める。
「えっ……?」
意外な反応に、美夜は目を見開く。
(わたしの言うこと、聞いてくれた……?)
一瞬、そんな風に思ったが、甘かった。
彼は――少年たちから美夜へと、目標を変えただけなのだ。
「ウガアッ!」
浩一は咆哮し、もう何人も手をかけた、その腕を振り上げる。
「くっ……!」
反射的に目をつむる美夜。
だが、その腕が振り下ろされることはなかった。
「ガ……ウウッ……」
「えっ……?」
呻き声が聞こえ、美夜は顔を上げる。
「ひっ……!」
その目が、驚愕に見開かれた。浩一の身体が、異常に変化していたのである。
全身の血管という血管が、皮膚の上からでもわかるくらい、はっきりと浮かび上がっていた。彼の血管は止まることを知らず、そのまま膨張を続け、やがて――弾けた。
ビチャッ! ビチャビチャッ!
「やあっ!」
大量の血が、美夜へと降りかかる。
その中に、ドロリとした固まりがあった。
顔に張り付いたそれを、恐る恐る手で触れてみる。柔らかく、生温かい感触――。
(……何、これ……?)
袖口で目元の血を拭い、目を開いてみた。
手にあるのは、赤い固まり。だがそれが何かはわからない。
ふと、前を見てみる。
そこに――浩一はいなかった。
あるのは、内部から割れたように飛び散った肉片と、ドロドロに溶けた白い骨の跡だけだったのだ。
「……………………」
呆然と立ち尽くしたまま、美夜はそれを見続ける。目の前にあるものが何なのか、しばらく理解できない。
「……浩一くん……?」
もう一度、手の中にあるものを見てみた。
赤い肉片。間違いなく、目の前に広がるものと同じ固まりだった。
人間離れした能力を使ったがための反動。負荷のかかり過ぎた肉体が耐えられず、崩壊してしまったのだが――そんなことは美夜には理解できない。
ブルブルと、彼女の腕が震える。
「……嘘……嘘だよ、こんなの」
口元から、笑みが漏れた。
「だって……人がこんな風になっちゃうなんて、聞いたことがないよ……」
呟きながら、美夜のその声からは、段々と力が抜けていく。声だけではない、身体中の力が、抜けていく……。
「…………嘘に…………決まってるんだからぁっ…………」
水滴が、落ちた。
彼女の頬を伝って。
「あは……はははは……」
笑いが、止まらない。
「夢……夢なんだよ。こんなの、悪い夢……」
がくん、と美夜は膝を付いた。
「わたしの病気は、治っちゃいけなかったんだ……。これはその警告……。わたし一人が我慢してさえいれば、浩一くんはずっとそばにいてくれるんだから……」
目の前で溶け出している、赤いものを両手ですくってみる。
「身体は苦しいけれど、優しくお母さんに起こされて、浩一くんの笑顔を見ながら学校へ行くの……。決して身体は楽にならない……けれど心は楽になる……。そんないつもの朝に、戻ればいいだけ……」
だが、落ちていく。手の隙間から、こぼれ落ちていく。
「だから、わたしは早く目覚めなくちゃいけない……。目覚めなくちゃ……目覚めなくちゃ……」
だが、覚めない。覚めることはない。
夢ではないから。現実だから。
しかしそれを、彼女は認めることができない。
「……そっか」
ふと、思いつく。すぐそばに、浩一が使ったカッターが目に入り、美夜は手に取った。
カチ、カチ、カチ、と大きく刃を出す。
「わたしも死んじゃえばいいんだ……。そうしたら、また……会えるよね、浩一くん……」
カッターを、左の手首に押し当てた。
怖くは、ない。これで夢から覚めるから。浩一と会えるから。
スッ、とためらいもなく、彼女は手を引いた。赤い線がにじみ、どんどん溢れてくる。
「目が覚めたら……迎えに来てね……。いつもみたいに……」
そう呟き、美夜は浩一の肉片の中に倒れこんだ。
美夜の血が、浩一の血と混ざり合っていくのが見える。
「……こう……い、ち……く……ん……」
やがて目を閉じ、彼女の意識は深い底へと沈んでいった。
身体が、重い。
指先を動かそうとするだけで、つらく感じる。
(あ……これ……)
いつもの感覚。一年に渡り、美夜を苦しめ続けた鈍い痛み。
「起きて、美夜ちゃん」
優しく肩を揺すられた。
そして耳に心地いい、優しい声。
「もう朝だよ。学校行かなきゃ」
「……んっ……」
ゆっくりと、彼女は目を開ける。
「おはよう、美夜ちゃん」
「……浩一……くん……」
そこに、幼馴染の少年がいた。
見慣れた姿に安堵する。と同時に、美夜は慌てて布団をかぶった。
「きゃあっ。ど、どうして浩一くんがわたしの部屋にいるの?」
「どうしてって……昨日、起こしに来る約束したじゃない」
「え? そ、そんな約束、したかなぁ……」
恐る恐る、布団から顔を出す。
覚えはないが、この状態は何だか恥ずかしかった。
「あ、あの、浩一くん……」
「うん。外で待ってるから」
気を利かせたのか、彼は美夜が言う前に部屋から出て行く。
「も、もう。浩一くんたら……」
彼女は笑みを浮かべた。
身体の苦しさは変わることはないが、気持ちが楽になったように思える。
待たせるのも悪いので、美夜はできるだけ急いで着替えた。
そしてランドセルを背負い、ドアを開ける。と、そこは既に玄関で、美夜もいつの間にか靴を履いていた。
「……あれ? いつの間に……」
「ほら、美夜ちゃん」
目の前に、笑顔の浩一が立っている。
「さ、早く行こう」
「あ……」
彼は手を握ってきた。
それだけで、今のことなど本当にどうでもよくなっていく。
「桜がきれいだね……」
「うん……」
春の日差し。柔らかな風。二人の歩く先に続いている、満開の桜並木。
「本当に……きれい……」
きゅ、と握る手に力を込める。
この手を、離したくなかった。
(このまま……一緒にいたいな……)
二人の歩く先には、誰もいない。人も動物も、いや、それ以前に、ここは生命の気配のない世界だった。
だが、隣には浩一がいる。それだけが、彼女の望みだった。
(ずっと……二人きりで……)
美夜は、身体の苦しさを噛み締めながらも、笑みを浮かべ続けていた。
少女が寝ている。
白い壁の部屋。白いベッドの上で。
彼女の左手首には、包帯が巻かれていた。その側に、少女の手を両手でしっかりと握り締めながら、寄り添うようにしている者がいる。少女の母親――亜沙美だった。
「先生……。今日でもう三日、娘はこのままです。娘は……美夜は、いつになったら目覚めるんですか?」
不安げな表情で、そう訊ねる。
目の前には、白衣を着た若い男の医師が立っていた。
「手首の傷の方は大したことはありません。体力も十分に回復しています。それでも目覚めないとなると……精神的なものに原因があるのかもしれません」
と、彼は顔を曇らせる。
「……彼女は自分で手首を切ったと思われます。申し上げにくいのですが……もし彼女が現実を拒んでいるのであれば、このまま目覚めないという可能性も考えられます」
「……美夜……」
亜沙美の手に、思わず力が入る。
美夜は――彼女の娘は、最初に現場を見つけた小学生たちにより通報され、この病院に運ばれてきた。
昼間の公園で、十数人が無残に殺害されるという、衝撃の事件。美夜は、その唯一の生き残りである。何故彼女だけが無事だったのか、他の者たちがどうやって殺されたのか、そして犯人は誰なのか。そのどれもが、今のところわかっていない。だが確実なのは、彼女が自ら手首を傷つけたこと。それが浩一の死によるショックからであろうということだけだ。
「お願い、目を覚まして……。お父さんが死んで、あなたまでこのままだったら……」
亜沙美の目から涙が零れ落ちる。
美夜の父親――つまり亜沙美の夫は、三年前に事故で他界していた。以来、二人きりの家族である。
「わたしだって……生きていけないんだからっ……」
彼女は、泣き続けた。
だがその声は――夢の中の美夜には届いていない。
少女は、夢を見続けている。
現実を拒み、自らが望み、創り出した夢を。
何気ない日常の繰り返し。
だが、おかしな部分は、あるはずだった。
景色や服装が急に変わったり、睡眠を取らなかったり。何より、その世界には浩一以外には誰もいないということに、彼女は気づかなかった。いや、気づこうとしていなかったのである。
彼女は、現実に戻ることを拒み続けていた。
夢が永遠に続くことを――美夜は望んでいた。
しかしその夢は、唐突に終わりを告げることになる。
「そろそろ――終わりにしようよ」
夢の中の浩一が、ふいにそんなことを言い出した。
満開の桜並木の下で、彼は寂しそうに微笑む。
「え……?」
と美夜は首を傾げた。
舞い散る花びらを楽しそうにつかまえていた、その手が下におろされる。
「終わりって……何が?」
「この夢のこと。今美夜ちゃんが見ている、僕たち二人の世界のこと」
「……よくわかんない」
「それは嘘だよ」
ゆっくりと、彼は首を振った。
「美夜ちゃんは、わかろうとしていないだけ。例えば――ほら」
浩一は、上を見上げる。
「この桜、綺麗だよね……。でもずっと満開のままなのは、おかしくない?」
「…………」
「何より――」
彼は視線を下げ、まっすぐに美夜を見た。
「ここには僕たち以外、誰もいない」
「…………」
「学校に行っても二人きりで、授業を受けるふりをするだけ。食べ物は食べたいときに出てくる。家に帰っても、すぐ次の朝になって、僕たちは出会う。おまけに昼間ばかりで夜にはならない。……あきらかに不自然な世界じゃないか」
「…………」
「美夜ちゃんは、本当は気づいているんだ。でも、現実に戻りたくないから……あのときのことを思い出したくないから、不自然な世界でもそうして気づかないふりをしている」
「あ、あははは……。も、もう、何言い出すのかなあ、浩一くんは……」
ごまかすように笑いながら、美夜は彼の袖をつかむ。
「ねえ、そんなつまらない話やめようよ。もっと楽しいことしよ?」
「……美夜ちゃん……」
しかし浩一は、小さく微笑むだけだ。
美夜の手に、わずかに力が入る。
「……ここは夢の世界なんかじゃない。だってわたし、身体が苦しいよ? 夢だったらこんなことないはずでしょ?」
「それは美夜ちゃんが、ここを現実だと思い込むためだよ。いつも感じていた苦しさがあるから、ここは現実なんだ、ってね……」
「……いい加減にしてっ……」
その言葉に、美夜もさすがに腹を立てた。
「ここはわたしの夢なんだからっ……! なのに、どうして夢の中の浩一くんが、そんなこと言うのよっ……!」
その目からは、涙があふれている。
「……認めたね」
と浩一は言う。
「ここが、夢の世界だと」
「……そうだよ、ここはわたしの夢。わたしが創り出した世界……」
「違うよ」
彼女の頬にこぼれた雫を、浩一はそっと拭い取る。
「……違うって……?」
「ここは、僕の夢でもあるんだよ」
戸惑う彼女に、彼はそう言ってみせた。
「えっ……?」
浩一の言葉に、美夜は呆然と立ち尽くしている。
「ここが……浩一くんの夢……?」
「そう」
と浩一は頷いた。
あのとき――。
美夜に血を吸わせた途端、彼女は豹変し、浩一に襲い掛かってきた。そのまま血を吸われ、意識を失う浩一。だがその意識は、消えたわけではなかった。
偶然だとは思うが――彼の意識は、美夜を心配するあまり、彼女の意識の中に入り込んでいたのである。
そのことに浩一が気づいたのが、美夜が手首を切ったとき。現実から目をそむけようと創り始めた彼女の夢に、浩一は変化を加えることに成功した。
それがこの、不自然な世界。少しずつ不自然さを大きくし、彼女にここが夢だと気づかせるためのもの。
自分はもう死んでしまった。悲しいが、それはどうしようもないことだ。
しかしそのせいで、美夜まで死人のようになってしまうのは、浩一の望むことではない。
そして、彼女は夢の変化に気づいた。だが、気づかないふりを続けていた。
現実だと認めたくない美夜。現実だと認めさせたい浩一。
そんな状態が一ヶ月も続いたわけだが、浩一の方は限界が来ていた。意識が薄れ始め、夢への干渉力が弱くなってきたのである。
元々、他人の意識の中に入り込むという無茶なことをしていたのだ。こんな状態が、長く続くとは思っていなかった。
しかしせめて、美夜にこれが夢であることを認めさせたい。そのためには、 どうすればいいのか。
浩一は考え続けた。
彼女に直接、話してしまえばいい――。
確かにそうだ。最初はそうしようと思った。
だが本来ここは、美夜の夢の中である。世界に変化を与えることができても、世界を否定するような発言はできなかったのだ。無理にしようとすれば、意識が消滅する恐れもある。それに、もし話をしても、彼女が認めてくれなければ――。
最悪の事態だけは、避けねばばらなかった。しかし一向に、彼女は認めようとはしてくれない。
干渉力も弱くなった今――浩一は、決断した。
最後の力を振り絞り、彼女に全てを話すことを。
「僕はもう消えてしまう……。美夜ちゃんとは、もう会うことはできないんだ……」
「そ、そんな……そんなことって……」
浩一の話を聞き、美夜の目からはとめどもなく涙が流れている。
「ひどいよぉっ……! あんまりだよぉっ……! 急に……急にそんなこと言うなんてっ……!」
「ごめんね……美夜ちゃん……」
「違う……違うっ!」
美夜は激しく首を振った。
「謝るのはわたしの方なの! ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
「もういいから……」
苦笑いを浮かべながら、浩一は彼女の頭を優しく撫でた。
「……このまま聞いて、美夜ちゃん。僕が死んでしまったのは、もうどうしようもないことなんだ。悲しいけど、だからって君を恨んでいるわけじゃないし、ましてや死んでほしいわけじゃない」
「……こ、浩一くん……」
「僕の願いはひとつだけ。……美夜ちゃんに、生きててほしい」
「で、でもっ……でも、それじゃ浩一くんがかわいそうすぎるよっ……! わたしのせいで……わたしのせいで、浩一くんは死んだのにっ……!」
「…………」
泣きながら話す彼女を、浩一は黙って撫で続ける。
手の形が、ぼんやりと薄くなってきた。
「それにっ……それに、わたしは生きてちゃだめなんだよっ……!」
「……どうして?」
「だって……きっとまた、血が飲みたくなるから! 浩一くんのときみたいに、我慢できずに、誰かを襲ってしまうから!」
「じゃあ、我慢しなければいい」
「えっ……?」
意外な言葉に、思わず顔を上げる美夜。そして、息を呑む。
「こ、浩一くんっ……か、身体が……」
透けていた。半透明で、向こう側が見えるくらいに。
「……そろそろ時間みたいだね。だからこれは、僕の最後の言葉だよ」
浩一は微笑む。
正直、今の状態は怖い。このまま消えてどうなるのか、わからないからだ。 しかし消えてしまう前に、どうしてもこれだけは、彼女に伝えておきたかった。
「相談するんだよ。君のお母さんに……全てを」
「え……?」
「僕たちは子供だから、できること、やれることに限りがある。でも大人なら……君のお母さんなら、何とかしてくれるかもしれない」
「……で、でも……」
美夜は顔を伏せる。
「……うん。多分、最初は信じないと思う。でも真剣に、あきらめずに言うんだ。そうすればきっと……わかってくれるよ」
「…………」
「たった一人のお母さん……だろ?」
「う、うん……」
彼女は頷く。
「やって……みる……」
「うん」
と浩一も頷き返した。
「ねえ、美夜ちゃん。……聞こえない?」
「え?」
「誰かの……呼んでる声が」
「…………」
美夜は、耳に手を当てる。
するとかすかに、聞き覚えのある、懐かしい声が聞こえてきた。
「お母さんだ……」
だが、泣いている。娘の名を呼びながら、彼女は泣いていた。
「美夜ちゃんが目覚めないから、泣いてるんだよ……」
「…………」
「ほら。早く起きて、安心させてあげなよ」
「……浩一くん……」
美夜の目が潤む。
「僕のことは気にしなくていいよ。最後にこうして……話もできたしね」
「……最後……」
彼の言葉を、美夜は繰り返す。そして慌てたように口を開いた。
「……こ、浩一くんっ、わ、わたし……」
と、そこで口が閉じてしまう。
言いたいけど、言えない――そんな表情。
「あ、あの……わ、わたし、浩一くんのことっ……」
「……いいよ」
「え……?」
「僕のことは忘れていいよ。その代わり――頑張れ」
「…………」
美夜は目を見開く。
もしかしたら、彼女は告白の返事をしようとしたのかもしれない。浩一が死ぬ前に、好きだと言ったことへの返事を。
正直、聞きたい気持ちはあったが、もう必要はなかった。浩一が望むのは、彼女が新たな決意で生きていくことのみである。
「浩一くん……」
そんな想いが伝わったのか、美夜はわずかに微笑んだ。
「わたし――忘れないから。絶対に」
そして、もうほとんど見えなくなってしまった彼の頬に、素早くキスをする。ありったけの勇気と、精一杯の感謝を込めて――。
「み、美夜ちゃん……」
「今まで本当にありがとう。それと……やっぱりごめんなさい。わたし、もう自殺なんてしない。頑張って生きるって、約束する」
「うん。……元気で」
手を振る浩一の目の前で、美夜の姿が薄くなり始める。同時に、世界も崩れ始めた。二人の夢で構成されたこの世界が、ガラスのように砕けていく。
「バイバイ。浩一くん……」
「バイバイ。美夜ちゃん……」
世界と共に――二人の姿は、同時に消えた。
白い天井。白い壁。そして母、亜沙美の顔。
目を開けると、それらの光景が飛び込んできた。
「み……美夜っ!」
驚愕の声を上げる彼女。その頬は、少しやつれただろうか。
「……おか……あ……さん……」
美夜は呟き、手を伸ばす。まだ少しだけ傷の後が残っている、左手を。
「心配かけて……ごめんなさい……。わたし……大丈夫だから……」
「美夜っ!」
瞳を潤ませながら、亜沙美は娘を抱きしめる。
「……美夜っ……美夜っ……! 自殺なんて……バカなんだから、この子はっ……!」
「ごめんなさい……」
互いの温もりを感じながら、二人はしばらく泣き続けていた。
「……私が浩一くんの血を吸ったんです」
と、美夜は答える。
「そうしたら、彼が急に凶暴になって――」
「もういい、もういい」
目の前に座る中年の刑事は、ため息と共に呆れたように手を振った。そして後ろに立つ若い刑事に、
「……本当に正常なんだろうな?」
と小声で訊ねる。
「本日二度に渡る検査の結果、身体、精神状態、共に異常なしとのことです」
「ったく……。唯一の生存者だってのに……」
中年刑事は、ボリボリと頭を掻いた。
ここは、美夜が入院していた病院の一室である。目を覚ました翌日から、もう何度目になるだろうか。検査を受けては質問。質問の次はまた検査、の繰り返しである。
というのも、問題は美夜の発言だ。
彼女は、訊かれたことに対して、全て正直に答えてきた。だがその内容は、例えそれが事実であるにしろ、第三者からすれば美夜の精神に異常があるとしか思えないものである。
事件当日から一ヶ月が過ぎたが、何一つ犯人の手がかりが得られない警察にとって、美夜は重要な証人だったのだが――。
「……もう結構です。ご協力、ありがとうございました」
このまま続けても進展はないと思ったのだろう。
そう告げて、刑事たちは立ち去った。
扉が閉められた後、美夜は隣に座っていた亜沙美の顔を見た。
「これで……よかったんだよね?」
「うん。こっちは正直に言っているんだし。信じないのは向こうの勝手よ」
亜沙美は小さく笑顔を向ける。
おそらくこの先、事件が解決されることはないだろう。
殺された被害者の遺族には申し訳ないと思うが、検査に異常が出なかったことには、正直安堵した。検査なら今までも受けていたが、今回は浩一の血を吸った後である。もし何か異常が出たら……と、不安だったのだ。そんなことになったら、何をされるかわかったものではない。
だが、検査に異常がないということは、この吸血衝動の原因も結局わからないということでもある。ならば、もう病院に行く必要はなかった。自分たちでこの衝動を抑える方法を考え、付き合っていくしかない。
目を覚ました後、美夜は浩一に言われた通り、亜沙美に全てを話した。
さすがに最初は驚いていたが、美夜の真剣さに、彼女も考え始める。
「お母さん……。血が吸いたくなるなんて……吸った相手が凶暴化するなんて……。わたしって……ヴァンパイアなのかな……」
浩一のことを思い出し、涙ながらに言う美夜。
「ヴァンパイア……」
その言葉に反応し、亜沙美は顎に手を当てる。
「もしかして……」
と、美夜の顔を見た。
「本当に……そうなのかもしれない……」
「え?」
「……昔ね。私が子供の頃だけど……死んだおじいちゃんがよく言ってたの。ワシの爺さんは吸血鬼だったんだって。私たちはその子孫だから、いつか吸血鬼の血が濃い子供が生まれることがあるかもしれないって」
「…………」
「てっきり冗談だと思ってたんだけど……まさか、本当だったとはね」
「…………」
美夜はうつむく。
どうやら自分がヴァンパイアであるというのは、間違いなさそうだ。
「ね、お母さん……。わたしのこと……怖くない?」
「……どうして?」
「だってわたし、ヴァンパイア……」
「どうでもいいわ、そんなこと」
「え?」
「だって、わたしの娘であることに変わりはないもの」
亜沙美は、涙顔の美夜を、ぎゅっと抱きしめた。
「今までつらかったね、美夜……。気付いてあげられなくて、ごめんね……」
「お母さん……」
「でも、これからは大丈夫……」
そう言って微笑むと、彼女は自分のシャツのボタンを外していく。
「えっ……?」
「これからは……私の血を飲んでいいから……」
亜沙美は首筋を、娘の前に差し出した。
「なっ……」
美夜は驚きの声を上げた。
「何言ってるの、お母さん! わたしの話、聞いてたの!? わたしが血を飲んだせいで、浩一くんは死んじゃったんだよっ!」
「それはきっと、美夜が力を制御できなかったのよ」
「……力を、制御……?」
「そう。美夜はまず、自分の力を知らなきゃいけないの。自分にはどんな能力があるのか、そしてどうすればその能力を操れるのかを」
「…………」
「それさえわかれば、きっと大丈夫。きっと普通に生きていける。だから、これはそのための練習よ」
「で、でも……」
美夜は、うつむいたままだ。
もちろん亜沙美の気持ちはありがたい。だが、もし浩一と同じようになってしまったら――。そうなったら、美夜は今度こそ、生きる気力を失ってしまう。
「私だって、美夜がいないと生きていくことなんてできないわ。だから、二人で頑張りましょう。浩一くんの死を無駄にしないために」
「浩一くん……」
「大丈夫。美夜がしっかりと自分の意志を持ってやれば、絶対大丈夫」
ぽんぽん、と亜沙美は優しく、美夜の背中を叩いてやる。
「それにね、美夜。あのときと今は、違うでしょ?」
確かに、あのときの美夜は、血を吸いたくて頭がいっぱいだった。そして、今は落ち着いた状態にある。
「限界に来る前に、定期的に血を吸えばいいだけの話よ」
「お母さん……」
美夜は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、涙の中にも強い決意の光が宿っている。
亜沙美の言うことにも、一理ある。だが、あくまでも推測に過ぎない。それでも、彼女はこうして首筋を差し出してくれている。
(やらなきゃ……。自分が死ぬかもしれないのに、ここまで言ってくれたお母さんのために。わたしが力を制御できなかったせいで死んでしまった、浩一くんのために。そして……)
亜沙美を抱きしめ、唇を寄せていく。
(わたしが、生きていくために……!)
美夜の歯が、母の首筋に突き立てられた――。
緩やかな風が少女の髪を揺らし、頬をくすぐる。
柔らかな日差し。抜けるように高く、青い空。桜の匂いが香るそよ風。
「春だね、浩一くん……」
夕月美夜は、彼に向かって呟いた。
彼女の足下に――彼、池田浩一は眠っている。
「ごめんなさい……遅くなって……」
美夜はそっと、花束を置いた。彼の両親から教えてもらった、池田家の墓に。
美夜が目を覚ましてから一週間。数度の検査と事情聴取を終えた彼女は退院し、ここへとやってきた。
「でも、時期的には丁度よかったのかな……」
手を合わせながら、美夜は言う。
「……今日ね、これから卒業式なんだよ。だから中学の制服着てきたんだけど、わかるかなあ……。……って、わかんないよね。あはは……」
墓石に話しかけても無駄なのはわかっていた。
だが、今日ここへ来たのは、自分の声を彼に届けるためではない。もちろん届くに越したことはないが、一番の目的は、気持ちを整理するため。そして決意を固めるためである。
今日は卒業式であると同時に、美夜が退院してからの登校初日でもあった。
一ヶ月以上休んでからの登校。ただでさえ体調のせいで、クラスメイトとは馴染んでいなかったというのに、池田浩一、山田弘、前川康夫の三人が死んでいるのだ。一体どんな雰囲気なのか、考えるだけで不安になる。
しかし今日が終われば、半分以上は中学が別れて会えなくなってしまう。だからせめて、小学校最後の日として、皆との壁を埋めておきたい。元の明るい自分へと、少しでも戻るために。
「浩一くん……どうか、わたしに勇気をください」
「――頑張れ――」
「えっ?」
美夜は驚いて顔を上げた。
今、耳元で声が聞こえたのである。浩一の、声が――。
だが、周囲を見回しても誰もいない。
「……気のせい……かな?」
彼の声を聞きたいと思って、勝手に頭の中で作り出してしまったのか。それとも、本当に彼の霊が現れ、声をかけてきたのだろうか。
「……まさかね」
どちらでもよかった。だが、今ので勇気が出てきたような気がする。夢の中でも浩一に言われた、「頑張れ」という言葉。あのとき、目を覚ますことができたように、今回もきっと――。
「……きっと、大丈夫だよね。浩一くん」
そう呟いて、美夜は墓石に背を向ける。
「わたし、頑張るから……。浩一くんのために。お母さんのために。何より、自分自身のために……」
「美夜ー、そろそろ時間よー」
霊園の外で待たせている、亜沙美の声が聞こえてきた。
「はーい。今行くー」
と、美夜は返事を返す。
「んっ……」
と声を漏らし、美夜は背筋を伸ばした。そのまま、高い高い空を見上げる。
「うん。いい天気」
春――。
今日、彼女は卒業する。
「いってきます」
彼女はもう一度だけ墓石を見ると、歩き出した。
決意の、眼差しと共に。
おわり。
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