「痛い……」
 夕月美夜はうつむいたまま、かすかに声を漏らした。
 身体が、鉛のように重い。それに関節や筋肉も、ズキズキと痛みを発している。
 美夜のいる六年一組の教室では、今日の最後の授業が行われていた。
 身体の変調に気づいたのは、その授業が開始して数分後。
 いつもの感覚。もう一年近く続いているが、決して慣れない、嫌な感覚。
 しかもそれは日を追うごとに強さを増し、発生する間隔もかなり短くなってきていた。
 病気――ではない、らしい。
 いくつもの病院をハシゴしたが、どこも結果は同じだった。
 ならば、この痛みの原因は何なのか。
 それはわからない。わからないからこそ――美夜は今、こうして最悪な状況の中にいる。

 チャイムが鳴り響いた。授業が終わり、ざわめきだすクラスメイトたち。
 結局――痛みのせいで、内容はさっぱり頭に入ってはこなかった。
「えー、というわけで――」
 と、授業を終えたまだ若い男の先生が、そのまま連絡事項を告げている。
 美夜の様子に、彼も気づいているはずだった。だが何も言ってこないのは、彼もクラスメイトたちと同じ意見だからだろう。
 今さら――期待はしていない。それに、保健室に行くように言われたところで、治しようがないのも確かだ。この痛みは、ただ黙って治まるのを待つしかないのである。だから彼の判断は正しいとも言えるが――先生としては、最低に違いなかった。
「起立」
 日直が号令をかけると、ガタガタと椅子を鳴らし、皆が立ち上がっていく。もう話は終わってしまったらしい。
 しかし、美夜は立てなかった。身体の苦痛には、一定時間毎の波がある。今はその波が、強くなっているところだった。
 一瞬、日直の少女と目が合う。だが構わずに、彼女は言った。
「礼」
 頭を下げる先生と、クラスメイトたち。
 このクラスの誰もが、美夜の状態には気づいている。だが一人として、気にした様子は見せなかった。
それは何故か。皆、知っているからだ。美夜が病院で検査を受け、どんな結果が出たのかを。
 すなわち――異常なし、と判断されたことを。
 それでも、美夜の様子は変わらなかった。だから、クラスメイトたちはこう思ったのだ。
 夕月美夜は、仮病なのだと――。
 ガタッ、ギギギギーッ。
 一斉に、床に何かを引きずるような音が響く。机を、教室の後ろに下げている音だった。
「掃除だ……動かなきゃ……」
 うつむいたまま、口の中で呟く。
 だが、まだ動けるほど痛みは治まっていない。それでも何とか顔を横に向けると、もう周りには机は残っていなかった。一番前の端の席で、ぽつんと一人きり。
「夕月の奴、まだ寝たままだぜ」
「掃除当番の連中、大変だよなー」
 数人の男子が、笑いながら教室を出て行く。
 そしてそのすぐ後。
「ちょっと、夕月さん」
 ホウキを手にした少女が、美夜の席に近づいて来た。
「いつまでもそこにいられると、掃除の邪魔なんだけど」
 彼女は、別に怒っているようではない。ただ、目の前に落ちている邪魔な石ころをどかすような――そんな、物としか見ていない表情を向けている。
「ご……ごめん……」
 と美夜は謝るが、まだ痛みは治まっていなかった。動くことは、できない。
「ちっ、また夕月かよ。しょうがねえな」
「どうする?」
「よーし、それなら手伝ってやろうぜ」
 当番の男子たちが、そう言いながら近づいて来る。
 ……手伝う?
 美夜は疑問に思った。最初の頃ならともかく、今の彼らがそんなことをするとは、どういう風の吹き回しだろうか。
「ほら、手伝うぜ」
 男子たちが、机の前に集まる。そして、
「せ〜のっ」
 と、一気に机を手前に引いた。
「あっ」
 急に支えがなくなり、美夜は倒れこんでしまう。その頭の上に、机からこぼれた教科書が、何冊も落ちてきた。
「うぐっ……」
 今までの痛みとは、また別の痛みが走る。
「あはははっ」
 男子たちの、笑い声。
「さっさと片付けろよな」
「それとも、夕月が代わりに掃除してくれんのか?」
「…………」
 美夜は、ゆっくりと身を起こす。
 ――明らかな、いじめだった。
 だが、誰も何も言わない。それが、このクラスの日常だから。
「お前ら、何やってんだ!」
 ふいに大きな声が、教室内に響き渡る。
 入り口を見ると、そこに少年が立っていた。
「……浩一……くん……」
 隣のクラスの、池田浩一。美夜の幼なじみでもある。
「お前ら、また美夜ちゃんをいじめて……」
 怒りで肩を震わせながら、浩一は教室に入ってきた。
「何だ、また池田か。うるさい奴が来たな」
「熱いねえ。ヒューヒュー」
「あはは。結婚はいつですかあ?」
 からかう掃除係の男子たち。
「……いい加減にしろよっ」
 浩一は彼らを睨みつける。
「美夜ちゃんは病気で、身体がまともに動かないんだ。みんな知ってるはずなのに……助けるどころかいじめるってのは、どういうことなんだよ!」
「へっ……」
 からかう男子の一人――前川康男は、鼻で笑った。
「お前こそいい加減にしろよ、池田」
「……何?」
「夕月を本当に病気だと思ってる奴は、今じゃお前くらいだぜ? 先生だってそうだ。夕月の親がどうしてもって頼むから、仕方なく一応病人ってことにしてるけどな」
「病院で異常はないって言われて、熱だってないんだろ?」
 隣の男子、山田弘が肩をすくめてみせる。
「そういうの、仮病って言うんじゃないのか?」
「仮病じゃない! 原因がわからないだけだ!」
 浩一がそう言うと、教室内から一斉に笑い声が上がった。
「何だよ、それ? 本当に原因不明の病気だったら、普通入院するだろ?」
「くっ……」
 康男に言われ、浩一は悔しそうに唇を噛む。
 彼の言葉は、もっともだった。検査の結果、病気の要素が見つからなかったからこそ、美夜はこうして学校に来ている。
「浩一くん、ありがとう……。もういいから……」
 美夜は立ち上がり、彼を手で制した。
「美夜ちゃん……」
「みんな、ごめん……。すぐに机、下げるから……」
「あ、僕がやるよ」
「大丈夫。少し治まったから」
 美夜はかすかに微笑み、浩一の申し出を断る。
 これ以上、彼に迷惑をかけたくはなかった。
 落ちた教科書を拾うと、ランドセルにしまい、机を下げていく。
「……帰ろう、浩一くん」
「あ、ああ……うん」
 浩一は頷き、ちらりと康男を見る。
彼はやる気をそがれたような、複雑な顔をすると、手を組んで身体を伸ばした。
「……さーて、と。さっさと掃除終わらせて、帰ろうぜ」
「あ、ああ。そうだな」
 弘もホウキを手にした。
 それから、他の当番も掃除を始めていく。
「……それじゃ、バイバイ」
 と美夜は声をかけたが、誰も返事を返さなかった。
 構わず、彼女は教室を出る。
 クラスメイトに仮病だと思われてから、挨拶をしてくれる者はどんどん減り、今では一人もいなくなっていた。それでも、美夜は挨拶だけは続けている。
返事は、期待していない。彼らの気持ちはわかるから。ただ、自分もこのクラスの一員なのだと――そう思っていたかった。

「ごめんね、浩一くん」
 通学路を歩いて、しばらくしてから、美夜は口を開いた。
「わたしのせいで、嫌な思いさせちゃったね」
「気にしなくていいよ。それより、身体は大丈夫……?」
「うん、平気」
 と美夜は笑ってみせる。
 本当は一歩進むごとにズキズキと痛みが走るのだが、先程より楽になったのも確かである。とりあえず、彼を安心させるためにそう答えておいた。
「そっか……。それならいいんだけど……」
 そう言って、浩一が少しため息をついたのを、美夜は見逃さなかった。
「雨、降りそうだね……」
 憂鬱そうに、浩一は空を見上げる。もしかしたらこの曇り空は、美夜だけでなく、彼の心理をも表しているのかもしれない。雨が降りそうな……つまり、泣き出してしまいそうな、そんな悲しみの感情を。
「うん……」
 と、美夜は軽く相づちを打つだけにしておいた。
 今の境遇は、正直とてもつらい。だが、彼の前で泣くわけにはいかなかった。泣いてしまえば、優しい彼は、ますます自分をかばうようになるだろう。
 自分のせいで、浩一をも孤独にさせる――。それだけは、避けたかった。
「どうして……なんだろう……」
 ぽつりと、ふいに浩一は呟くように言う。
「……どうして……こんな……」
「…………」
 それ以上、彼は言葉を口にしなかった。
 だが、後に何が続くかは想像できる。
 原因がわからない、美夜の病気のこと。仮病だと決めつけ、いじめるクラスメイトたちのこと。おそらく、そんなところだろう。
「どうして、か……」
 彼に聞こえないように、美夜は口の中で呟く。
 原因は、自分にもわからない。だが、きっかけならわかっていた。
 それは、一年近く前の春に、突然生まれた衝動――。
 ズキンッ。
「あっ――」
 ふいに、美夜はよろめき、その場に膝をつく。しばらく治まっていた痛みが、また強くなってきたのだ。
「美夜ちゃんっ」
 慌てて浩一もしゃがみ込む。肩を支えてくれたが、ここは通学路だ。二人で抱き合うようにしていると、案の定、他の児童たちがじろじろと好奇の目を向けていた。
「浩一くん……。誤解、されちゃうよ……」
「そんなことどうでもいいから。それより、動ける? ここ、道路で危ないから……休むなら、そこの八つ橋公園まで行こう」
「う、うん……」
 美夜は、奥歯を噛み締めながら、立ち上がった。そして、彼に肩を借りながら、移動し始める。
 また彼に迷惑をかけてしまったと、後悔をしながら。

 八つ橋公園は、通学路の途中にある、割と大きな公園だ。周りを木々で囲まれ、少し広めのグラウンドもある。普段はよく小学生の遊び場となっているのだが、こんな天気だからだろうか、あまり人はいなかった。遊具の近くに幼稚園児くらいの子供を連れた数人の主婦と、グラウンドにサッカーをする少年たちがいるくらいである。
 美夜と浩一は、中に入ると、入り口近くにあるベンチに腰を下ろした。
「落ち着いた?」
 彼が声をかけてくる。
「まだ……」
 美夜は、小さく首を振って答えた。
「多分、もう少しすれば……大丈夫……」
「そっか……」
 そう言って、浩一は前を見る。
 美夜がこの状態のとき、彼にできることは何もなかった。以前に背中をさすろうとしてくれたこともあったが、身体に触れられると、余計に痛みを感じてしまうのだ。声を出すために、口を動かすだけでも痛みがあるので、浩一はこんなときは黙っているか、色々と話をしてくれる。
「もう一年近く……か」
 サッカーをする少年たちを見ながら、ぽつりと浩一は言った。
「早く病気……治るといいね。そうすれば……多分、あいつらだっていじめなくなるだろうし……」
「…………」
 確かに、そうかもしれない。
 いじめの原因が、美夜が仮病を使っていると思われていることなのだから、要は病気が治ってしまえばいいのだ。なくなりはしないかもしれないが、確実に減りはするだろう。
 だが問題なのは、治し方である。
 病院では、美夜を病気とは認めてくれなかった。
 確実に身体はおかしいのに、そういう検査結果が出たとき。不満を覚えながらも、どこか納得できていた。何故なら、症状が現れたきっかけが、あまりにも特殊だから――。
 そしておそらくは、きっかけと同じ特殊な方法を使えば、治すことはできるはずだった。 しかしその方法だけは、実行するわけにはいかないのである。
 人間として。普通の少女として――。
「ふう……」
 と、美夜は息をつく。
「少し、治まったみたい……」
「よかった」
 浩一は笑みを浮かべた。
「自分が好きな子が苦しんでるのに、何もできないなんて……つらいから……」
 好きな子――。
 それは、前に浩一が言ってくれたことだった。だからこそ、彼は自分もいじめられるかもしれないのに、いつも助けに来てくれる。でなければ、幼なじみというだけで、ここまでしてはくれないだろう。
「ごめん……」
 と美夜は言った。
 つらい思いをさせたこと。そしていまだに、告白の返事をしていないことに対して。
「あ……僕の方こそ、ごめん。一番つらいのは美夜ちゃんなのにね……」
「ううん。わたし、いつも浩一くんに助けられてるから……。ありがとう、浩一くん」
「あはは。そう言われると、照れるなあ」
 浩一は、ごまかすように頭を掻いた。
「……絶対治るよ、美夜ちゃん。信じていれば、必ず」
「うん……ありがとう……」
 頷く美夜。彼の言葉はありがたかったが、信じるだけではこの病気は治らない。
 最近では、痛みが強くなる頻度がかなり多くなってきた。今のところ、何とか耐えてはいるが――もし耐えられなくなったとき。そのときが、怖い。
 いっそ話してしまおうか、とも思う。ずるずると彼に甘えてここまで来てしまったが、だいぶ前から考えていたことだ。迷惑をかけるだけでなく、危険にさらすようなことになれば、取り返しがつかない。
 正直、彼に頼るのも潮時かもしれなかった。頻繁に起こる痛みに、精神が限界に来ているのが自分でもわかる。
 一緒にいられなくなるのはつらいけど――。
 それが好きという感情なのかはまだわからないが、ともかく。
 美夜は、彼に話すことに決めた。
「あのね……浩一くん」
 少しためらってから、美夜は口を開く。
「ん、何?」
「今さら……こんなこと言うのも何なんだけど……。わたし、自分では何となく……原因わかってるんだ……」
「え……?」
 浩一は、驚いて目を見開いた。
「げ、原因がわかってるって……。ど、どういうこと?」
 困惑の、表情。
 当然の反応だった。今までそれがわからなくて苦労していたのに、実はわかっていたなどと言われたら、彼でなくても驚くだろう。
 話し終えたら、きっと嫌われる。
 そう思うと、自然と美夜の肩は震え始めていた。
 だが、覚悟を決めねばならない。自分ではなく、彼のために。
「多分……ううん、きっと間違いないと思う。わたし自身信じられないんだけど……」
 そこで二回ほど。
 ゆっくりと息を吸い、吐く。
 彼の目をまっすぐに見ると、美夜は言った。
「わたしね……あの……血が、飲みたくなるの……。もうどうしようもなく、我慢できないくらいに」
「……血?」
 浩一が、眉をひそめる。
「血って……身体の中を流れている、あの血?」
「うん……その血。まるで……そう、ヴァンパイアみたいにね。人を襲って飲みたくなるの」
「…………」
 ぽかんと口を開ける浩一。
 おそらくは、呆れている顔だった。
 もし突然そんなことを言われたなら、誰だってそんな顔をしてしまうだろう。そしてその次には、自分は真剣なのにふざけた話をするな、と怒り出すかもしれない。
 だがそれこそが、美夜の望みだった。
 もちろん、本心ではなかったが――。
「自分の身体を傷つけて、飲んでみたこともあるけど、それじゃ全然だめなの。誰かの……他人の血が飲みたい。……でも、さすがにそんなことできるわけないしね」
「…………」
 沈黙する浩一。
 構わず、美夜は話し続ける。
「だから、ずっと我慢してた。我慢して、我慢して――でもそうしたら、どんどん気分が悪くなって、体調も悪くなっていったの。最初の頃は、血が飲みたくなるのは月に一回くらいのペースだったけど、段々感覚は短くなっていって、今では体調も戻らなくなっちゃって……」
「……美夜ちゃん……」
「何なんだろうね、わたし……。病院では異常はないって言われるのに、こんな風になっちゃうなんて……。もしかして、本当にヴァンパイアだったりして」
「……美夜ちゃんっ」
「あっ……」
 浩一が肩を揺すられ、美夜は我に返った。
「泣いてるよ、美夜ちゃん……」
「え? ……あ」
 頬に触れ、美夜は初めて自分が涙を流していることに気付いた。
「ご、ごめん、浩一くん」
 慌ててハンカチを取り出し、拭い取る。だが、涙は止まらなかった。
 泣くつもりなどなかったのに――。
 どうやら思いとは裏腹に、感情的になってしまったようだった。
 わけのわからない衝動と、身体の苦痛。そして友達はいなくなり、いじめられるようになったことのつらさ。必死に抑えていた感情が――爆発する。
「うっ、うっ……わ、あぁぁぁぁっ」
 美夜は、大声で泣き始めた。
 公園には、他に学校帰りの児童や、親子連れなど、十人近くの人間がいる。それでも構わず、声を上げ、泣き続けた。
「やだよぉっ……! こんなの、もう耐えるのやだよぉっ……!」
「……美夜ちゃん……」
 困ったような、浩一の声。
 ここで泣いてはいけないのは、頭ではわかっていた。この話をしたのは、彼に嫌われるためなのだから。しかし泣いてしまえば、嫌われるどころか、心配させてしまうことになる。
 彼は、優しいから――。
 だがこうなっては、まるっきり逆効果だった。
「血が……飲めればいいのか……」
 空を見上げ、浩一は呟くように言う。
「病院でわけてもらうのは……だめか。飲みたいなんて言って、わけてくれるわけないよね……。第一、できるならとっくにやってるだろうし……」
「……こ、浩一くんっ……」
 やはり、彼は考え始めてしまった。
 嫌われなければいけないのに。バカな話をするなと、怒られなければいけないのに。
 思わず流してしまった、美夜の涙のせいで――。
「ご、ごめん。今の嘘。嘘なんだ。ちょっとからかってみただけなの……あははは」
 ごまかすように、無理に笑ってみたが――彼には通用しなかった。
「美夜ちゃん……」
 まっすぐに、彼は見つめてくる。
「僕はね……少し怒ってるんだ」
「え? あ……う、うん……。ごめん……」
「でもそれよりも……悲しみの方が強いかな……」
 そう言うと、浩一は背中のランドセルを下ろし、中をあさり始めた。
「え……?」
 と美夜は不思議に思う。
 怒るのはわかるが、悲しむのは、どういうことだろうか。
「だって……そんな大事なことを今まで話してくれなかったなんて……美夜ちゃんは僕のこと信用してくれなかったのかな、ってね……」
「あ……」
 どこまで、彼は優しいのだろう。
 美夜はまた、涙がこぼれそうになる。
「ごめん……ごめんね、浩一くん……」
 そうだった。彼は――浩一は、いつも心配して、助けてくれた。なのに、自分は彼を信用していないかのような行動を取ってしまったのだ。
「ホントに……ごめん……」
 美夜は、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「……別にいいよ。ただ、早く話してくれさえすれば……こんなに長い間、苦しまなくてよかったかもしれないのに……」
 浩一のランドセルの中で、カチカチ、という音がした。
 そして次の瞬間、美夜は目を疑う。彼は素早く手を取り出したかと思うと、指先にカッターを押し当てたのである。
「こ……浩一くんっ」
 慌てて声を上げたが、止める暇はなかった。
「つっ……」
 浩一は顔をしかめる。指先につけた線から、赤いものがにじんできた。さすがに深く切ることはできなかったようだが、自分からそれだけの傷をつけることは、相当の覚悟がいるはずである。
「ほら、美夜ちゃん……」
 微笑み、浩一は指先を差し出した。痛いのを、必死に我慢しているのが見た目でわかる。
「ばっ……バカッ」
 美夜は、慌てて後ろを向いた。
「そ、そんなことっ……そんなことしてもらいたくて、話したわけじゃないのっ……。ただ、こんなわたしといたら、浩一くんに迷惑がかかるからって……それを伝えたくてっ……」
 自分を抱くように腕を回し、爪を立てる。ギリギリと、力が込められた。
 治まったはずの痛みと衝動が、急速に膨れ上がる。
 抑えなきゃ。抑えなくちゃ――!
 心臓が激しく鼓動し、喉がカラカラに乾いていた。美夜の身体の全てが、目の前に差し出された血を求めている。
 こんなことは、以前にもあった。校内で怪我をし、血を流す者を見かけるのは珍しいことではない。その度に、飛びついて襲いたくなるのを、必死に我慢してきた。だから今回も、できるはずだ。――いや、しなくてはならない。
 何しろ、この衝動の原因がわからないのだ。本当に自分がヴァンパイアだとは思わないが、血を吸うことで、相手にどういう影響を及ぼすのか。新種の病気なら、感染する可能性もある。
「……我慢しなくていいよ、美夜ちゃん」
 震える美夜の肩に、浩一の手が触れた。
「……こんなに苦しんでいる美夜ちゃんを見てるの、つらいんだ。だからボクの血で助かるなら、いいよ。それに迷惑なんかじゃない。だって――」
 彼は照れたように頭を掻いた。
「前にも言ったけど、僕は美夜ちゃんのことが好きだから……」
「……えっ……」
 突然の意外な言葉に、美夜は息を呑む。
「浩一くん……」
 ゆっくりと、振り向いた。
「だから……少しでも、助けてあげたいんだ」
 その振り向いた美夜の唇に、彼の血でにじんだ指が触れる。浩一が、押し付けたのだ。
「あ……」
 血が、口内へと入り込む。広がる味と、におい。わずか数滴分に過ぎない、浩一の血。
 だがこの一年近く、我慢に我慢を重ね、限界に来ていた美夜の精神を崩すには、それだけで十分な量だった。
 彼の血さえ飲んでしまえば、この苦しみから解放されるかもしれない――。
 そんな想いが、どこかにあった。そしてその想いは一気に膨らみ、彼女を包み込む。
(あ……だめ……)
 意識が、朦朧となった。
 力が、入らない。理性が、消えていく。
(だめ……なの……に……)
 この瞬間。
 美夜の身体は、血を求める本能が支配した。

「あの……美夜ちゃん?」
 硬直してしまった彼女に不安を覚え、浩一は声をかける。
「どうかし……えっ?」
 言いかけた、途中だった。
 突然、彼女が抱きついてきたのである。
「み、み、美夜ちゃんっ?」
 このまま抱きしめていいのかわからず、中途半端に手を上げながら、戸惑う浩一。
(ど、どうしよう。嬉しいけど……こんなところで……)
 周囲の目が気になったが、すぐにそれどころではないことに気づいた。
「ぐあっ!」
 首筋に、激しい痛みが走る。
 ずぶずぶと、硬いものが肉の中にめり込んでいく。
 吐き気をもよおすような、気持ちの悪い感触。
「なっ……」
 首の方を見ると、それは――美夜だった。彼女が、浩一の首に食らいついているのである。
 驚く暇もなく、今度は吸われていく。体内の何か――水分のようなものを。
(血をっ……血を吸ってるのかっ……!)
 浩一は愕然となる。
 これではまるで、本当にヴァンパイアではないか。
 そんなバカな、と浩一は必死で否定する。
「う、ぐぐっ……! み、みや……美夜ちゃんっ……!」
 痛みを堪えながら、何とか呼びかけた。が、彼女は無反応で血を吸い続けている。
(……何で……何でこんな……)
 一体、何故こうなってしまったのか。彼女は、どうしてしまったのか。
 わからないまま、意識が薄れていく。
 遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた気がしたが、それが誰のものかはもう思い出せなかった。

「おおっ、池田と夕月が抱き合ってるぜ!」
「すげぇっ! あいつら、やっぱりそういう関係だったんだ!」
 公園の入り口前で、二人の少年が興奮気味に声を上げた。クラスメイトの、山田康男と前川弘である。彼らは当番の掃除が終わって帰る途中、偶然にも美夜と浩一を見つけてしまったのだ。
 普段なら学校外で彼らを見つけたとしても、いちいち相手にはしない。しかしこんなところで堂々と抱き合っているとなると、話は別だ。彼らの好奇心に、火がついた。
「ヒューヒュー!」
 はやしたてるかのようにそんな声を出しながら、康男と弘は近付いていく。が、すぐそばにまでやってきたとき、ようやく何かがおかしいことに気付いた。
「え……?」
「お前ら、何やって……」
 怪訝な顔を向ける康男と弘。そして彼らは見た。浩一の首筋に、美夜が歯を突き立てているところを。
「なっ……!」
 驚愕の声を上げる二人。
 彼らに反応するかのように、美夜は身体を離した。そしてゆっくりと、彼らに顔を向ける。小さく笑みを浮かべるその唇は、赤く濡れていた。
「お、お前っ……!」
 さすがに、彼らにもわかった。美夜が、浩一の血を吸ったのだと。
 それを裏付けるかのように、浩一の身体からは力が抜け、地面に崩れ落ちる。
「お、おい、池田!」
「夕月、お前何やったんだ!」
 美夜を睨み付けながらも、二人は先に倒れた浩一に駆け寄った。彼女を責めるよりも、今は浩一の方が心配である。
「池田! おい、池田!」
 声をかけながら、うつ伏せだったのを仰向けにする。
 浩一は目を見開いたまま硬直していた。首筋には、二本の牙による傷あとがある。
 有名な、ヴァンパイアが血を吸うシーンが、彼らの脳裏に思い浮かぶ。
「う、嘘だろ……」
 信じられなかったが、その疑問はひとまず置いておき、康男と弘は呼びかけ続けた。 
「しっかりしろよ、池田!」
「起きろよ、おい!」
 もしや、死んでいるのでは――。
 そんな思いが、彼らの脳裏をよぎる。
 しかし、そのときだ。浩一に、変化があった。
 開いたままの彼の瞳が、赤く――血のように真っ赤に、染まっていったのである。そして、首筋にあった傷あとまでもが、消え失せてしまう。
「う、うわっ!」
「な、何だ、これっ……」
 二人は思わず後ずさる。と同時に、彼らの耳に音が聞こえてきた。
 ヒュッ! ゴギッ!
 短く風を切る音。そして何か硬いものが折れる音だ。
 瞬間、康男は自分の目を疑った。たった今まで、目の前にあったはずの、弘の顔がなくなっていたのである。あるのは、真っ赤な――噴水のように真っ赤な血を噴き出す、首のない彼の胴体だけだったのだ。
「ぅ……わ、あ、あああああああっ!」
 鮮血を全身に浴び、康男は悲鳴を上げる。腰が抜け、尻餅を付いたまま慌てて後ろに下がった。
 数メートル先の地面に、ドサリと落ちる弘の頭。
 間違いない。彼は、首を切られたのだ――。
「あぅわぅわわっ」
 まともに声が出ないほどに、康男の身体は硬直していた。恐怖のあまり、動くこともできない。
「ウ、ウウ……」
 唸りながら、浩一は立ち上がった。その表情には精気はなく、赤く染まった瞳で康男を見据えてくる。
「ひぅ、あ、あぅっ」
 口をパクパクさせながら、彼は顔を歪ませ、涙を浮かべた。
 怖い。だが動けない。逃げられない――。
(何なんだ! 何なんだよぉ、これはっ!)
 今、目の前に起きている現実を、康男は理解することができなかった。無理もない。常識ではありえないことが、起きているのだから。
「ガァッ!」
 声を上げ、浩一は右手を振り上げる。
「ひぃっ!」
 彼の手が康男の額をつかみ、そしてその勢いのまま地面に叩き付けられた。
 ゴッ!
「ぐあっ!」
 後頭部に激しい振動が起きる。意識が飛んでもおかしくない痛み――だが、そうはならなかった。地面に押し当てたまま、浩一はさらに力を込めたのである。人間には出すことが不可能な強さで、だ。
 メキメキメキッ!
「ひ、いぎゃああああああっ!」
 康男の頭蓋骨が悲鳴を上げる。
「ああ! あああああああああっ!」
 絶叫。最後の絶叫だった。
 ビキィッ! ブシュゥゥッ!
 骨が砕け、裂けた頭頂部から、潰れた脳味噌が飛び出した――。
「グゥゥ……」
 動かなくなった康男を見て、浩一は隣で倒れている弘の身体もつかみ上げる。
 そして、投げた。小さなグラウンドに張られている、金網に向かって――。
 ガシャァァンッ!
 金網が激しく揺れ、大きな音を立てる。
 二人の少年の身体は、金網に深くめり込んでいた。

 その音が周囲に響いたのと同時に、美夜は意識を取り戻した。
「えっ……? わたし、今何を……?」
 ふいの覚醒で、頭の中が混乱していた。
 浩一の血が口に入り、それからどうしたのか。
「わからない……」
 頭を振る美夜。完全に、意識が飛んでいた。
 だが、妙に心地よく感じていたのは確かだ。先程まであった、身体のつらさもなくなっている。元の状態に戻れたのは、本当に久しぶりだった。
「えっ……?」
 ふと、口の中に残る、妙な味に気づく。
 錆びた鉄のような、これは、まさか――。
「もしかして……わたし、飲んだの……? 浩一くんの血を……?」
 最初に含んだのは、わずかに数滴だけのはずだ。しかし今、口の中に残っている感触だけでも、確実にそれ以上はある。
 間違いない。飲んでしまったのだ。身体の奥から沸き上がる、衝動を止められずに――。
 そこで、美夜はようやく顔を上げる。
「え……!?」
 浩一はいなかった。
 代わりに、ツンと鼻につく異臭。そして赤く染まった地面。
「血……!? まさか!?」
 慌てて周囲を見回し――美夜は、金網に異様なものが張り付いていることに気付く。首のない身体と、頭の潰れた身体が、血を垂れ流しながら、めり込んでいることに。
「ひっ……!」
 と息を呑む美夜。
 この臭いは、本物だ。本物の血の臭いだ。
 そしてあの死体には、見覚えがある。片方は頭がなく、片方は原形を留めていないが、服装と名札でわかった。
「ど、どうしてこんなっ……」
 ドスンッ。
 後ずさる美夜の横に、何かが落ちてくる。
「え……?」
 それは、子供だった。幼稚園にも行っていないような、小さな男の子。ただし、内臓がグチャグチャに引き出され、既に絶命している。
「あ……ああ……」
 あまりのことに、美夜はまともに声が出ない。
「きゃあああっ!」
 遠くから、悲鳴が聞こえてきた。
 目を向けると、そこには先程も見かけた数人の母親と、小さな子供たちがいる。その母親たちの一人の腕が、宙へと舞い上がった。続けざまに、肉片が飛び、血しぶきが上がる。骨の砕ける音が響く。人という形のものが、一瞬でただの肉塊へと変化していった。
「そ、そんな……嘘……」
 あまりに現実味のない光景。むごたらしい惨殺行為。しかしそれを起こしたのは、たった一人の少年だった。
「こう……いち、くん……」
 顔が強張っているのが、自分でもわかる。
 違っていた。その姿が、美夜の知る浩一とはあまりにも――。
 瞳は赤く輝き、凶暴そうに歪んだ表情。そこにはいつもの面影がなく、服は返り血で全身染まっていた。
「ガアアッ!」
 咆哮する浩一。
 母親と子供たちを殺した彼は、次の獲物に目をつけた。
 今のを見て、逃げようとする、ランドセルを背負った少年たち。彼らの数倍の速さで、浩一は走り出す。
「や、やめ……やめっ……」
 恐怖でうまく声が出ない。動くこともできない。
 その間にも、浩一は泣き叫ぶ彼らに追いつき、肉体を破壊していく。明らかに、普通の人間にはありえない運動能力だった。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
最後に残された少年が絶叫する。必死に逃げようとするものの、浩一に頭をつかまれてしまった。
「い、いやだ! いやだぁぁぁっ!」
少年は手を離そうと、最後の抵抗を見せる。だが、メキメキッ、とつかまれた部分が嫌な音を立てると、彼は動かなくなってしまった。
 さらに浩一は、とどめを刺す。少年の身体の中心を貫くと、そのまま左右に引き裂いた。
「……あ……ああ……」
 美夜は、がっくりと膝をつき、力が抜けたように座り込む。
 これでこの公園には残ったのは、もう自分たちだけとなってしまった。
「何で……」
 美夜の目に、涙が溜まる。
「何で、こんなことに……」
 原因は、わかっていた。
 彼の血を、飲んでしまったから。衝動を、抑えられなかったから。欲望に、負けてしまったから――。
「わたし……耐えられなかった……。あのとき……浩一くんの血を、飲みたいと思ってしまった……」
 ぽたぽたと、目から溢れた滴が地面にこぼれた。
 「わたしのバカァッ! 好きな人の血を飲んで、それで楽になろうとするなんて……そんなの最低だよっ! わたし一人が苦しんでれば済むことだったのにっ……!」
 拳を、地面に叩き付けた。そしてきつく噛みしめた唇から、血がにじみ出る。
「こんな……こんな血のせいで……」
 だが、今は後悔しているときではないのだ。
「きゃああっ!」
「うわあっ!」
 聞こえてきた悲鳴が、美夜を現実へと引き戻す。
 悲鳴を上げたのは、小学校からの帰宅途中だった数人の児童のものだった。通学路の近くにあるため、この公園に寄り道する者は多い。そしてたまたま、彼らは惨状を見てしまったのである。怯えた彼らは、悲鳴を上げて逃げ出すことしかできなかった。
(そう。それでいい……)
 と美夜は息をつく。
 今、下手に浩一に近付けば、殺されるかもしれないのだ。逃げるのが、最良の方法である。しかし――。
 浩一は、彼らの後を追うかのように、再び走り出した。
「だ、だめぇっ!」
 反射的に美夜は立ち上がる。これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかなかった。
 幸い、美夜は彼らと浩一との、一直線上の間にいる。わずかな移動で、彼の進行の前に立つことができた。
「と、止まって!」
 両腕を広げ、立ちふさがる。
「お願い! 浩一くん、もうやめて!」
 もしかしたら、自分まで殺されるかもしれない。
 そう思うとたまらなく怖かったが、美夜は懸命に勇気を振り絞っていた。
「だって、これはわたしのせい。わたしが、何とかしないと――」
 ガクガクと足が震え、声も震える。浩一が迫る。
 それでも、避けることだけはしなかった。
「止まってぇっ! 浩一くんっ!」
 そんな美夜の叫びに、彼は――止まった。目の前で、ピタリと足を止める。
「えっ……?」
 意外な反応に、美夜は目を見開く。
(わたしの言うこと、聞いてくれた……?)
 一瞬、そんな風に思ったが、甘かった。
 彼は――少年たちから美夜へと、目標を変えただけなのだ。
「ウガアッ!」
 浩一は咆哮し、もう何人も手をかけた、その血まみれの腕を振り上げる。
「くっ……!」
 反射的に目を閉じる美夜。
 だが、その腕が振り下ろされることはなかった。
「ガ……ウウッ……」
「えっ……?」
 呻き声が聞こえ、美夜は顔を上げる。
「ひっ……!」
 そして目を見開き、驚愕した。浩一の身体が、異常に変化していたのである。全身の血管という血管が、皮膚の上からでもわかるくらい、はっきりと浮かび上がっていた。彼の血管は止まることを知らず、そのまま膨張を続け、やがて――弾けた。
 ビチャッ! ビチャビチャッ!
「やあっ!」
 大量の血が、美夜へと降りかかる。
 その中に、ドロリとした固まりがあった。
 顔に張り付いたそれを、恐る恐る手で触れてみる。柔らかく、生温かい感触――。
(……何、これ……?)
 袖口で目元の血を拭い、目を開いてみた。手にあるのは、赤い固まり。だがそれが何かはわからない。
 ふと、前を見てみる。そこに――浩一はいなかった。
 あるのは、内部から割れたように飛び散った肉片と、ドロドロに溶けた白い骨の跡だけだったのだ。
「……………………」
 呆然と立ち尽くしたまま、美夜はそれを見続ける。目の前にあるものが何なのか、しばらく理解できない。
「……浩一くん……?」
 もう一度、手の中にあるものを見てみた。
 赤い肉片。間違いなく、目の前に広がるものと同じ固まりだった。
人間離れした能力を使ったがための反動。負荷のかかり過ぎた肉体が耐えられず、崩壊してしまったのだが――そんなことは美夜には理解できない。
 ブルブルと、腕が震える。
「……嘘……嘘だよ、こんなの」
 口元から、笑みが漏れた。
「だって……人がこんな風になっちゃうなんて、聞いたことがないよ……」
 呟きながら、美夜のその声からは、段々と力が抜けていく。声だけではない、身体中の力が、抜けていく。
「…………嘘に…………決まってるんだからぁっ…………」
 水滴が、落ちた。頬を伝って。
「あは……はははは……」
 笑いが、止まらない。
「夢……夢なんだよ。こんなの、悪い夢……」
 がくん、と美夜は膝を付いた。
「わたしの病気は、治っちゃいけなかったんだ……。これはその警告……。わたし一人が我慢してさえいれば、浩一くんはずっとそばにいてくれるんだから……」
 目の前で溶け出している、赤いものを両手ですくってみる。
「身体は苦しいけれど、優しくお母さんに起こされて、浩一くんの笑顔を見ながら学校へ行くの……。決して身体は楽にならない……けれど心は楽になる……。そんないつもの朝に、戻ればいいだけ……」
 だが、落ちていく。手の隙間から、こぼれ落ちていく。
「だから、わたしは早く目覚めなくちゃいけない……。目覚めなくちゃ……目覚めなくちゃ……」
 だが、覚めない。覚めることはない。
 夢ではないから。現実だから。
 しかしそれを、美夜は認めることができない。
「……そっか」
 ふと、思いつく。すぐそばに、浩一が使ったカッターが目に入り、美夜は手に取った。
 カチ、カチ、カチ、と大きく刃を出す。
「わたしも死んじゃえばいいんだ……。そうしたら、また……会えるよね、浩一くん……」
 カッターを、左の手首に押し当てた。
 怖くは、ない。これで夢から覚めるから。浩一と会えるから。
 スッ、とためらいもなく、彼女は手を引いた。赤い線がにじみ、どんどん溢れてくる。
「目が覚めたら……迎えに来てね……。いつもみたいに……」
 そう呟き、美夜は浩一の肉片の中に倒れこんだ。
 自分の血が、浩一の血と混ざり合っていくのが見える。
「……こう……い、ち……く……ん……」
 やがて目を閉じ、美夜の意識は深い底へと沈んでいった。

 身体が、重い。
 指先を動かそうとするだけで、つらく感じる。
(あ……これ……)
 いつもの感覚。一年に渡り、美夜を苦しめ続けた鈍い痛み。
「起きて、美夜ちゃん」
 優しく肩を揺すられた。
 そして耳に心地いい、優しい声。
「もう朝だよ。学校行かなきゃ」
「……んっ……」
 ゆっくりと、目を開ける。
「おはよう、美夜ちゃん」
「……浩一……くん……」
 そこに、幼馴染の少年がいた。
 見慣れた姿に安堵する。と同時に、美夜は慌てて布団をかぶった。
「きゃあっ。ど、どうして浩一くんがわたしの部屋にいるの?」
「どうしてって……昨日、起こしに来る約束したじゃない」
「え? そ、そんな約束、したかなぁ……」
 恐る恐る、布団から顔を出す。
 覚えはないが、この状態は何だか恥ずかしかった。
「あ、あの、浩一くん……」
「うん。外で待ってるから」
 気を利かせたのか、彼は美夜が言う前に部屋から出て行く。
「も、もう。浩一くんたら……」
 照れ臭さに、笑みを浮かべた。
 身体の苦しさは変わることはないが、気持ちが楽になったように思える。
 待たせるのも悪いので、美夜はできるだけ急いで着替えた。
 そしてランドセルを背負い、ドアを開ける。と、そこは既に玄関で、美夜もいつの間にか靴を履いていた。
「……あれ? いつの間に……」
「ほら、美夜ちゃん」
 目の前に、笑顔の浩一が立っている。
「さ、早く行こう」
「あ……」
 彼は手を握ってきた。
 それだけで、今のことなど本当にどうでもよくなっていく。
「桜がきれいだね……」
「うん……」
 春の日差し。柔らかな風。二人の歩く先に続いている、満開の桜並木。
「本当に……きれい……」
 きゅ、と握る手に力を込める。
 この手を、離したくなかった。
(このまま……一緒にいたいな……)
 二人の歩く先には、誰もいない。人も動物も、いや、それ以前に、ここは生命の気配のない世界だった。
 だが、隣には浩一がいる。それだけで、十分だった。
(ずっと……二人きりで……)
 美夜は、身体の苦しさを噛み締めながらも、笑みを浮かべ続けていた。

 少女が寝ている。
 白い壁の部屋。白いベッドの上で。
 彼女の左手首には包帯が巻かれ、右腕には点滴の針が刺されていた。
 その側に、少女の手を両手でしっかりと握り締めながら、寄り添うようにしている者がいる。少女の母親――亜沙美だった。
「先生……。今日でもう三日、娘はこのままです。娘は……美夜は、いつになったら目覚めるんですか?」
 不安げな表情で、そう訊ねる。
 目の前には、白衣を着た若い男の医師が立っていた。
「手首の傷の方は大したことはありません。体力も十分に回復しています。それでも目覚めないとなると……精神的なものに原因があるのかもしれません」
 と、彼は顔を曇らせる。
「……彼女は自分で手首を切ったと思われます。申し上げにくいのですが……もし彼女が現実を拒んでいるのであれば、このまま目覚めないという可能性も考えられます」
「……美夜……」
 亜沙美の手に、思わず力が入る。
 美夜は――彼女の娘は、最初に現場を見つけた小学生たちにより通報され、この病院に運ばれてきた。
 昼間の公園で、十数人が無残に殺害されるという、衝撃の事件。美夜は、その唯一の生き残りである。何故彼女だけが無事だったのか、他の者たちがどうやって殺されたのか、そして犯人は誰なのか。そのどれもが、今のところわかっていない。だが確実なのは、彼女が自ら手首を傷つけたこと。それが浩一の死によるショックからであろうということだけだ。
「お願い、目を覚まして……。お父さんが死んで、あなたまでこのままだったら……」
 亜沙美の目から涙が零れ落ちる。
 美夜の父親――つまり亜沙美の夫は、三年前に事故で他界していた。以来、二人きりの家族である。
「わたしだって……生きていけないんだからっ……」
 彼女は、泣き続けた。
 だがその声は――夢の中の美夜には届いていない。

 少女は、夢を見続けている。
 現実を拒み、自らが望み、創り出した夢を。
 何気ない日常の繰り返し。
 だが、おかしな部分は、あるはずだった。
 景色や服装が急に変わったり、睡眠を取らなかったり。何より、その世界には浩一以外には誰もいないということに、彼女は気づかなかった。いや、気づこうとしていなかったのである。
 彼女は、現実に戻ることを拒み続けていた。
 夢が永遠に続くことを――美夜は望んでいた。
 しかしその夢は、唐突に終わりを告げることになる。

「そろそろ――終わりにしようよ」
 夢の中の浩一が、ふいにそんなことを言い出した。
 満開の桜並木の下で、彼は寂しそうに微笑んでいる。
「え……?」
 と美夜は首を傾げた。
 舞い散る花びらをつかまえていた、その手をおろし、その顔をまじまじと見つめてみる。
「終わりって……何が?」
「この夢のこと。今美夜ちゃんが見ている、僕たち二人の世界のこと」
「……よくわかんない」
「それは嘘だよ」
 ゆっくりと、彼は首を振った。
「美夜ちゃんは、わかろうとしていないだけ。例えば――ほら」
 浩一は、上を見上げる。
「この桜、綺麗だよね……。でもずっと満開のままなのは、おかしくない?」
「…………」
「何より――」
 彼は視線を下げ、まっすぐに美夜を見た。
「ここには僕たち以外、誰もいない」
「…………」
「学校に行っても二人きりで、授業を受けるふりをするだけ。食べ物は食べたいときに出てくる。家に帰っても、すぐ次の朝になって、僕たちは出会う。おまけに昼間ばかりで夜にはならない。……あきらかに不自然な世界じゃないか」
「…………」
「美夜ちゃんは、本当は気づいているんだ。でも、現実に戻りたくないから……あのときのことを思い出したくないから、不自然な世界でもそうして気づかないふりをしている」
「あ、あははは……。も、もう、何言い出すのかなあ、浩一くんは……」
 美夜は笑いながら、浩一の袖をつかむ。
「ねえ、そんなつまらない話やめようよ。もっと楽しいことしよ?」
「……美夜ちゃん……」
 しかし浩一は、小さく微笑むだけだ。
 彼をつかむ手に、ぎゅっ、と思わず力がこもる。
「……ここは夢の世界なんかじゃない。だってわたし、身体が苦しいよ? 夢だったらこんなことないはずでしょ?」
「それは美夜ちゃんが、ここを現実だと思い込むためだよ。いつも感じていた身体の痛みがあるから、ここは現実なんだ、ってね……」
「……いい加減にしてっ……」
 その言葉に、美夜もさすがに腹を立てた。
「ここはわたしの夢なんだからっ……! なのに、どうして夢の中の浩一くんが、そんなこと言うのよっ……!」
 ずっとここにいたいのに。現実には戻りたくないのに――!
 涙があふれてくるのが、自分でもわかった。
「……認めたね」
 と浩一は言う。
「ここが、夢の世界だと」
「……そうだよ、ここはわたしの夢。わたしが創り出した世界……」
「違うよ」
 美夜の頬にこぼれた雫を、彼がそっと拭い取る。
「……違うって……?」
「ここは、僕の夢でもあるんだよ」
 戸惑う美夜に、浩一はそう言ってみせた。

「えっ……?」
 浩一の言葉に、美夜は呆然と立ち尽くしている。
「ここが……浩一くんの夢……?」
「そう」
 と浩一は頷いた。
 あのとき――。
 美夜に血を吸わせた途端、彼女は豹変し、浩一に襲い掛かってきた。そのまま血を吸われ、意識を失う浩一。だがその意識は、消えたわけではなかった。
 偶然かもしれない。いや、そういう能力だったと考えた方が、おそらく自然なのだろう。浩一の意識は、消えたのではなく、彼女の精神の一部として取り込まれたのである。
 そのことに浩一が気づいたのが、美夜が手首を切ったとき。現実から目をそむけようと創り始めた彼女の夢に、浩一は変化を加えることに成功した。
 それがこの、不自然な世界。少しずつ不自然さを大きくし、彼女にここが夢だと気づかせるためのもの。
 自分はもう死んでしまった。悲しいが、それはどうしようもないことだ。
 しかしそのせいで、美夜まで死人のようになってしまうのは、浩一の望むことではない。
 そして、彼女は夢の変化に気づいた。だが、気づかないふりを続けていた。
 現実だと認めたくない美夜。現実だと認めさせたい浩一。 
 そんな状態が一ヶ月も続いたわけだが、浩一の方は限界が来ていた。意識が薄れ始め、夢への干渉力が弱くなってきたのである。
 完全に美夜の一部と化してしまうのか。それとも、まだ能力が不完全なため、排除されてしまうのか。それはわからない。しかしどちらにしろ、こんな状態が長く続くとは思っていなかった。
せめて、美夜にこれが夢であることを認めさせたい。そのためには、どうすればいいのか。
 浩一は考え続けた。
 彼女に直接、話してしまえばいい――。
 確かにそうだ。最初はそうしようと思った。
 だが本来ここは、美夜の夢の中である。世界に変化を与えることができても、世界を否定するような発言はできなかったのだ。無理にしようとすれば、その時点で意識が消滅する恐れもある。それに、もし話をしても、彼女が認めてくれなければ――。
 最悪の事態だけは、避けねばばらなかった。しかし一向に、彼女は認めようとはしてくれない。
 干渉力も弱くなった今――浩一は、決断した。最後の力を振り絞り、彼女に全てを話すことを。
「僕はもう消えてしまう……。美夜ちゃんとは、もう会うことはできないんだ……」
「そ、そんな……そんなことって……」
 浩一の話を聞き、美夜の目からはとめどもなく涙が流れている。
「ひどいよぉっ……! あんまりだよぉっ……! 急に……急にそんなこと言うなんてっ……!」
「ごめんね……美夜ちゃん……」
「違う……違うっ!」
 美夜は激しく首を振った。
「謝るのはわたしの方なの! ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
「もういいから……」
 苦笑いを浮かべながら、浩一は彼女の頭を優しく撫でた。
「……このまま聞いて、美夜ちゃん。僕が死んでしまったのは、もうどうしようもないことなんだ。悲しいけど、だからって君を恨んでいるわけじゃないし、ましてや死んでほしいわけじゃない」
「……こ、浩一くん……」
「僕の願いはひとつだけ。……美夜ちゃんに、生きててほしい」
「で、でもっ……でも、それじゃ浩一くんがかわいそうすぎるよっ……! わたしのせいで……わたしのせいで、浩一くんは死んだのにっ……!」
「…………」
 泣きながら話す彼女を、浩一は黙って撫で続ける。
 手の形が、ぼんやりと薄くなってきた。
「それにっ……それに、わたしは生きてちゃだめなんだよっ……!」
「……どうして?」
「だって……きっとまた、血が飲みたくなるから! 浩一くんのときみたいに、我慢できずに、誰かを襲ってしまうから!」
「じゃあ、我慢しなければいい」
「えっ……?」
 意外な言葉に、思わず顔を上げる美夜。そして、息を呑む。
「こ、浩一くんっ……か、身体が……」
 透けていた。半透明で、向こう側が見えるくらいに。
「……そろそろ時間みたいだね。だからこれは、僕の最後の言葉だよ」
 浩一は微笑む。
 正直、今の状態は怖い。このまま消えてどうなるのか、わからないからだ。しかし消えてしまう前に、どうしてもこれだけは、彼女に伝えておきたかった。
「相談するんだよ。君のお母さんに……全てを」
「え……?」
「僕たちは子供だから、できること、やれることに限りがある。でも大人なら……君のお母さんなら、何とかしてくれるかもしれない」
「……で、でも……」
 美夜は顔を伏せる。
「……うん。多分、最初は信じないと思う。でも真剣に、あきらめずに言うんだ。そうすればきっと……わかってくれるよ」
「…………」
「たった一人のお母さん……だろ?」
「う、うん……」
 彼女は頷く。
「やって……みる……」
「うん」
 と浩一も頷き返した。
「ねえ、美夜ちゃん。……聞こえない?」
「え?」
「誰かの……呼んでる声が」
「…………」
 美夜は、耳に手を当てる。
 彼女の精神の一部と化していた浩一には、ずっと聞こえていた声。心を閉ざしていた美夜が、ずっと聞こうとしなかった声。
 それが今……彼女に届いた。
「お母さんだ……。お母さんの、声だ……」
 だが、泣いている。娘の名を呼びながら、彼女は泣いていた。
「美夜ちゃんが目覚めないから、泣いてるんだよ……」
「…………」
「ほら。早く起きて、安心させてあげなよ」
「……浩一くん……」
 美夜の目が潤む。
「僕のことは気にしなくていいよ。最後にこうして……話もできたしね」
「……最後……」
 彼の言葉を、美夜は繰り返す。そして慌てたように口を開いた。
「……こ、浩一くんっ、わ、わたし……」
 と、そこで口が閉じてしまう。
 言いたいけど、言えない――そんな表情。
「あ、あの……わ、わたし。わたしっ……浩一くんのことっ……」
「……いいよ」
「え……?」
「僕のことは忘れていいよ。その代わり――頑張れ」
「…………」
 美夜は目を見開く。
 もしかしたら、彼女は告白の返事をしようとしたのかもしれない。浩一が死ぬ前に、好きだと言ったことへの返事を。
 正直、聞きたい気持ちはあったが、もう必要はなかった。浩一が望むのは、彼女が新たな決意で生きていくことのみである。
「浩一くん……」
 そんな想いが伝わったのか、美夜はわずかに微笑んだ。
「わたし――忘れないから。絶対に」
 そして、もうほとんど見えなくなってしまった浩一の頬に、素早くキスをする。
「み、美夜ちゃん……」
 ありったけの勇気と、精一杯の感謝。それに、浩一への想い。
 かすかに触れた部分から、彼女の気持ちが伝わってきた。
 それだけで、浩一は十分だった。
「今まで本当にありがとう。それと……やっぱりごめんなさい。わたし、もう自殺なんてしない。頑張って生きるって、約束する」
「うん。……元気で」
 手を振る浩一の目の前で、美夜の姿も薄くなり始める。同時に、世界も崩れ始めた。二人の夢で構成されたこの世界が、ガラスのように砕けていく。
「バイバイ。浩一くん……」
「バイバイ。美夜ちゃん……」
 世界と共に――二人の姿は、同時に消えた。

 白い天井。白い壁。そして母、亜沙美の顔。
 目を開けると、それらの光景が飛び込んできた。
「み……美夜っ!」
 驚愕の声を上げる彼女。その頬は、少しやつれただろうか。
「……おか……あ……さん……」
 美夜は呟き、手を伸ばす。まだ少しだけ傷の後が残っている、左手を。
「心配かけて……ごめんなさい……。わたし……大丈夫だから……」
「美夜っ!」
 瞳を潤ませながら、亜沙美は娘を抱きしめる。
「……美夜っ……美夜っ……! 自殺なんて……バカなんだから、この子はっ……!」
「ごめんなさい……」
 互いの温もりを感じながら、二人はしばらく泣き続けていた。

「……私が浩一くんの血を吸ったんです」
 と、ベッドに横になったまま、美夜は答える。
 これで同じことを、もう何度答えただろうか。
 目の前に座る中年刑事の顔が、またもしかめっ面になっていくのがわかる。
 しかしいい加減にしてほしいのは、美夜とて同じだ。構わず、いつもと同じことを言う。
「そうしたら、彼が急に凶暴になって――」
「もういい、もういい」
 中年の刑事は、ため息と共に手を振った。そして後ろに立つ若い刑事に、
「……本当に正常なんだろうな?」
 と小声で訊ねる。
「本日二度に渡る検査の結果、身体、精神状態、共に異常なしとのことです」
「ったく……。唯一の生存者だってのに……」
 中年刑事は、ボリボリと頭を掻いた。
 ここは、美夜が入院していた病院の一室である。目を覚ました翌日から刑事がやってきて、検査を受けては質問。質問の次はまた検査、の繰り返しである。
 というのも、問題は美夜の発言だ。
 彼女は、訊かれたことに対して、全て正直に答えてきた。だがその内容は、例えそれが事実であるにしろ、第三者からすれば美夜の精神に異常があるとしか思えないものである。
 事件当日から一ヶ月が過ぎたが、何一つ犯人の手がかりが得られない警察にとって、美夜は重要な証人だったのだが――。
「……もう結構です。ご協力、ありがとうございました」
 このまま続けても進展はないと思ったのだろう。
 そう告げて、刑事たちは立ち去った。
 扉が閉められた後、美夜は隣に座っていた亜沙美の顔を見た。
「これで……よかったんだよね?」
「うん。こっちは正直に言っているんだし。信じないのは向こうの勝手よ」
 亜沙美は小さく笑顔を向ける。
 おそらくこの先、事件が解決されることはないだろう。
 殺された被害者や遺族には申し訳ないと思うが、検査に異常が出なかったことには、正直安堵した。検査なら今までも受けていたが、今回は浩一の血を吸った後である。もし何か異常が出たら……と、不安だったのだ。そんなことになったら、何をされるかわかったものではない。
 だが、検査に異常がないということは、この吸血衝動の原因も結局わからないということでもある。ならば、もう病院は必要はなかった。自分たちでこの衝動を抑える方法を考え、付き合っていくしかない。
 目を覚ました後、美夜は浩一に言われた通り、亜沙美に全てを話した。
 さすがに最初は驚いていたが、美夜の真剣さに、彼女も考え始める。
「お母さん……。血が吸いたくなるなんて……吸った相手が凶暴化するなんて……。わたしって……ヴァンパイアなのかな……」
 浩一のことを思い出し、涙ながらに言う美夜。
「ヴァンパイア……」
 その言葉に反応し、亜沙美は顎に手を当てる。
「もしかして……」
 と、美夜の顔を見た。
「本当に……そうなのかもしれない……」
「え?」
「……昔ね。私が子供の頃だけど……死んだおじいちゃんがよく言ってたの。ワシの爺さんは吸血鬼だったんだって。私たちはその子孫だから、いつか吸血鬼の血が濃い子供が生まれることがあるかもしれないって」
「…………」
「てっきり冗談だと思ってたんだけど……まさか、本当だったとはね」
「…………」
 美夜はうつむく。
 どうやら自分がヴァンパイアであるというのは、間違いなさそうだ。
「ね、お母さん……。わたしのこと……怖くない?」
「……どうして?」
「だってわたし、ヴァンパイア……」
「どうでもいいわ、そんなこと」
「え?」
「だって、わたしの娘であることに変わりはないもの」
 そう言って、亜沙美が優しく頭を撫でてくれる。
 美夜も泣いていたが、彼女も泣いていた。
「今までつらかったね、美夜……。気付いてあげられなくて、ごめんね……」
「お母さん……」
「でも、これからは大丈夫……」
 そう言って微笑むと、彼女は自分のシャツのボタンを外していく。
「えっ……?」
「これからは……私の血を飲んでいいから……」
 目の前に、亜沙美の首筋が差し出した。
「なっ……」
 美夜は驚きの声を上げた。
「何言ってるの、お母さん! わたしの話、聞いてたの!? わたしが血を飲んだせいで、浩一くんは死んじゃったんだよっ!」
「それはきっと、美夜が力を制御できなかったのよ」
「……力を、制御……?」
「そう。美夜はまず、自分の力を知らなきゃいけないの。自分にはどんな能力があるのか、そしてどうすればその能力を操れるのかを」
「…………」
「それさえわかれば、きっと大丈夫。きっと普通に生きていける。だから、これはそのための練習よ」
「で、でも……」
 決心がつかずに、美夜はうつむいた。
 もちろん亜沙美の気持ちはありがたい。だが、もし浩一と同じようになってしまったら――。そうなったら、美夜は今度こそ、生きる気力を失ってしまう。
「私だって、美夜がいないと生きていくことなんてできないわ。だから、二人で頑張りましょう。浩一くんの死を無駄にしないために」
「浩一くん……」
「大丈夫。美夜がしっかりと自分の意志を持ってやれば、絶対大丈夫」
 ぽんぽん、と美夜の背中を、亜沙美が優しく叩いてくれる。
「それにね、美夜。あのときと今は、違うでしょ?」
 確かに、あのときの美夜は、血を吸いたくて頭がいっぱいだった。そして、今は落ち着いた状態にある。
「限界に来る前に、定期的に血を吸えばいいだけの話よ」
「お母さん……」
 美夜は、ゆっくりと顔を上げた。そして、涙を拭う。
 亜沙美の言うことにも、一理ある。だが、あくまでも推測に過ぎない。それでも、彼女はこうして首筋を差し出してくれている。
(やらなきゃ……。自分が死ぬかもしれないのに、ここまで言ってくれたお母さんのために。わたしが力を制御できなかったせいで死んでしまった、浩一くんのために。そして……)
 亜沙美を抱きしめ、唇を寄せていく。
(わたしが、生きていくために……!)
 美夜の歯が、母の首筋に突き立てられた――。

 緩やかな風が少女の髪を揺らし、頬をくすぐる。
 柔らかな日差し。抜けるように高く、青い空。桜の匂いが香るそよ風。
「春だね、浩一くん……」
 夕月美夜は、彼に向かって呟いた。
 彼女の足下に――彼、池田浩一は眠っている。
「ごめんなさい……遅くなって……」
 美夜はそっと、花束を置いた。彼の両親から教えてもらった、池田家の墓に。
 美夜が目を覚ましてから二週間。数度の検査と事情聴取、そしてリハビリを終えた彼女は退院し、ここへとやってきた。
「でも、時期的には丁度よかったのかな……」
 手を合わせながら、美夜は言う。
「……今日ね、卒業式なんだよ。だから中学の制服着てきたんだけど、わかるかなあ……。……って、わかんないよね。あはは……」
 墓石に話しかけても無駄なのはわかっていた。
 だが、今日ここへ来たのは、自分の声を彼に届けるためではない。もちろん届くに越したことはないが、一番の目的は、気持ちを整理するため。そして決意を固めるためである。
 今日は卒業式であると同時に、美夜が退院してからの登校初日でもあった。
 一ヶ月以上休んでからの登校。ただでさえ体調のせいで、クラスメイトとは馴染んでいなかったというのに、池田浩一、山田弘、前川康夫の三人が死んでいるのだ。一体どんな雰囲気なのか、考えるだけで不安になる。
 しかし今日が終われば、半分以上は中学が別れて会えなくなってしまう。だからせめて、小学校最後の日として、皆との壁を埋めておきたい。元の明るい自分へと、少しでも戻るために。
「浩一くん……どうか、わたしに勇気をください」
「――頑張れ――」
「えっ?」
 美夜は驚いて顔を上げた。
 今、耳元で声が聞こえたのである。浩一の、声が――。
 だが、周囲を見回しても誰もいない。
「……気のせい……かな?」
 彼の声を聞きたいと思って、勝手に頭の中で作り出してしまったのか。それとも、本当に彼の霊が現れ、声をかけてきたのだろうか。
「……まさかね」
 どちらでもよかった。だが、今ので勇気が出てきたような気がする。夢の中でも浩一に言われた、「頑張れ」という言葉。あのとき、目を覚ますことができたように、今回もきっと――。
「……きっと、大丈夫だよね。浩一くん」
 そう呟いて、美夜は墓石に背を向ける。
「わたし、頑張るから……。浩一くんのために。お母さんのために。何より、自分自身のために……」
「美夜ー、そろそろ時間よー」
 霊園の外で待たせている、亜沙美の声が聞こえてきた。
「はーい。今行くー」
 と、美夜は返事を返す。
「んっ……」
と声を漏らし、美夜は背筋を伸ばした。そのまま、高い高い空を見上げる。
「うん。いい天気」
 春――。
 今日、彼女は卒業する。 
「いってきます」
 彼女はもう一度だけ墓石を見ると、歩き出した。
 決意の、眼差しと共に。

 おわり

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