仲のいい、男の子がいた。
 父を亡くし、引っ越してきた美夜の家の、近所に住む子である。
 名前は池田浩一。おとなしく、女の子のような顔立ちでからかわれていたりもしたが、とても優しい性格で、美夜は彼のことが大好きだった。
 初恋――だったのだろう。
 他の男の子から好きだと言われたこともあったが、美夜は浩一以外の子に興味を持てなかった。
 幼稚園から小学校に上がっても、二人はいつも一緒にいた。直接言ったことはないし、言われたこともなかったが、きっと浩一も自分を好きで、両想いなのだろうと美夜は勝手に信じていた。嫌いだったら、一緒にいてはくれないはずである。
 しかし、小学校といえば、男女を意識し始める時期だ。当然二人も、クラスメイトにしばしばからかわれることがあった。それが嫌で離れてしまうというケースはよくあるが、二人にそんなことはなかった。美夜もかなり恥ずかしい思いをしたのだが、何と浩一がそれをはねのけたのである。
「ボクだってからかわれるのは恥ずかしいけど、でも美夜ちゃんとはずっと仲良くしていたいから」
「浩一くん……」
 もちろん、美夜がますます彼のことを好きになったのは、言うまでもない。
 しかし、段々と学年が上がるに連れて、彼女は自分の中の異変に気付き始めた。
(何だろう、最近……。ときどき……妙に……)
 わかっている。自分でも、わかっているのだ。
(妙に……血を、吸ってみたくなる……)
不思議な、いや、異常な衝動が、時折沸き上がってくるのである。
 自分の血を舐めて、軽く吸ってみるくらいなら、誰でも経験があるだろう。だが、そうではない。人の首筋に噛み付き、歯を立てて――コクコクと喉を鳴らしながら、飲んでみたいのだ。
(でもそれじゃあ、まるで――)
 本やテレビで、美夜も知っていた。そうやって血を吸うのは、ただひとつ――ヴァンパイアだけなのだ。
 もしかして、それは誰にでもある症状なのだろうか。そう思い、美夜は浩一に訊いてみたことがある。
「……え? 血を吸いたくなることはないかって?」
「う、うん。そういう気分になること……ない?」
「ボクはないけど……。美夜ちゃんはあるの?」
「うん……ときどき……。それって変かな……?」
「……変、かも」
 ……ショックだった。
浩一に変だと言われたこと。しかし何より、こうして向かい合って会話をしているだけだというのに、彼の首筋を見つめてしまっているという事実にだ。
(どうしよう、わたし……。浩一くんの血を……吸いたいと思ってる……)
 普通じゃない、と思った。周りには、自分の傷口にできたかさぶたを剥いて、舐めている男の子が何人かいたが、それとはわけが違う。
 自分の血が吸いたいのではない。他人の血を、襲って吸いたいのだ。
 こんなこと、誰にも相談できない。できるわけがない。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう――。
「トマトジュースなんて、どうかな?」
 悩んだ様子を見かねたのか、浩一がそう言ってきた。
「え……?」
「ほら、よくマンガでヴァンパイアが血の代わりに飲んでるじゃない。あれじゃ、だめかな?」
「……トマトジュース……」
 確かに、美夜もそんな場面を見たことがあった。あの独特の酸味が、血の代用品となるのだろうか。どちらにしろ血が飲めないのだから、試してみる価値はあるのかもしれない。
 そしてさっそく買ってきたはいいが、美夜は重要なことに気付いた。
(そういえばわたし……トマトジュース苦手なんだ……)
 いくつのときだろうか。母が買ってきたトマトジュースを飲んだはいいが、口に合わず、吐き出してしまったことがあるのだ。以来、もう何年も飲んでいない。
(まあ、あれは小さい頃だし……)
 苦手なことを忘れるくらい昔のことなのだ。今なら大丈夫かもしれない。
「よし」
 気合いを入れて缶のフタを開け、一気に飲み干す。
「うっ……」
 しかしだめだった。やはり口に合わず、美夜は洗面所で吐き出してしまう。
「ま、マンガの嘘つき……」
体調が良くなるどころか、悪くなってしまった。
 だが、血を飲みたいという衝動は、ますます高まってしまう。
 そこで――彼女は思い切って、自分の身体を傷つけることにした。
 カッターを手にし、腕に近づける。
 もちろん、自分を傷つけるのは怖い。だが、それ以上に血を飲みたいという衝動が止まらないのだ。
「くっ……」
 歯を噛みしめ、スッとカッターを引いてみた。やはり怖くて、深い傷にはならなかったが、線になった傷口から段々と血がにじみ出てくる。
 美夜は、口を付けてみた。そして舌をあて、舐めとる。
「……だめだ……」
 確かに、血の味だ。トマトジュースではない、本物の血だ。
 だが――満足できない。やはり、自分の血ではだめなのだ。他人の血でなければ。
「でも……誰かを襲うなんて、そんなことできないよ……」
 結局、彼女はその衝動を我慢することしかできなかった。
 だが、それはとてもつらいことだった。
 貧血気味で気分が悪くなり、身体はだるくなる。頭の奥の方で微痛が続き、物事に集中できない。それに誰かが怪我をして血を流したとき、すぐにも飛び付いてしまいそうになるのを、必死に我慢しなくてはならなかった。
 あまりに調子が悪そうなのを、母親の亜沙美が心配し、病院に連れていったこともあったが、ただの生理痛としか診断されなかった。確かに、生理が始まった頃から、その時期に衝動が起きるようになった。だが、他の子とは明らかに違うと自分ではわかる。他の子は、気分が悪くなることはあっても、血を飲みたくなることはないだろう。だから当然、薬を飲んで治るということはなかった。
 しかし――つらい。つらすぎる。
 この衝動を、我慢すればするほど、段々とつらさが増していくのがわかる。
 いっそ、襲ってしまおうかと思ったのは、一度や二度ではない。だが、それをしてしまえば、もう普通に戻ることはできない気がする。
「……何で……? もしかして、わたし一生こうなの……?」
苦しさに耐えながら、ベッドの中で何度も涙を流した。
「そんなの、嫌だよっ……」
 自分の身体に爪を立て、食い込ませる。痛みでごまかそうとしたが、とてもごまかしきれるものではない。
「ううっ……」
「……美夜……」
 ベッドの中で苦しむ彼女を見て、亜沙美はそっと部屋のドアを閉めた。
「どうして……? あんな苦しみ方、おかしいわ……」
 亜沙美も、美夜がつらいのは生理のせいだろうと思っていた。女性の中には、症状が重い人もいるからである。だが、あそこまで苦しむのは、あきらかにおかしい。
 そこで再び、美夜を病院に連れていったのだが、やはり診断は同じ。他の病院にもいくつか行ってみたが、結果は変わらなかった。
「美夜がこんなに苦しんでるのに……」
 と不満を口にする亜沙美に、
「大丈夫。……大丈夫だから」
 美夜は無理に笑顔を浮かべて言うのだった。
「……美夜……」
これでは、どちらが心配されているのかわからない。
「……本当に大丈夫なの? 薬飲んでも、全然楽にならないみたいだし……。そんなにつらいなら、学校休んでもいいのよ?」
「大丈夫だよ。病気なわけじゃないんだから……」
「でも……」
「心配しないで、お母さん」
「……わかったわ。でも、絶対無理はしないでね」
「うん。わかってる……」
 微笑む美夜。
 しかし本当は、休ませたかった。病気ではないといっても、こんな体調なのだ。だがそれでも美夜は学校に行くことを望んでいる。そんな娘を、亜沙美は止めることはできなかった。しかし結果的に――それが間違いだったと、亜沙美はひどく後悔することになるのだが。

 美夜に異常な症状が出始めて、約一年が過ぎた。
 そして小学六年の三学期も終わりに近付いたある日のこと。
「……大丈夫? 美夜ちゃん、今日も体調悪そうだけど」
 奥歯を噛みしめ、苦痛に耐えていた美夜の顔を、浩一が心配そうに覗き込んできた。
「あ……浩一くん」
うつむいていた顔を上げ、美夜はわずかに微笑む。
「……うん、大丈夫だよ。いつものことだから」
「そう……」
 いつものこと。確かに、いつものことだ。
 最初の頃は心配していたクラスメートたちも、今では「いつものことだから」と、誰も心配する者はいない。そしていつも体調の悪い様子の美夜には、自然と人も寄らなくなり、すっかり「暗い女の子」という認識がされているのだった。
ただ一人、浩一を除いては。
「ほら、美夜ちゃん。ホームルームも終わったし、帰ろうよ」
「あ……終わってたんだ。気付かなかったよ……」
「……だめだよ、聞いてなきゃ」
「あはは、そうだね。……それじゃ、帰ろっか」
 そう言って美夜は、椅子から立ち上がりかけるが、めまいがし、よろめいてしまう。
「く……」
「危ないっ」
 慌てて支える浩一。
「あ……ご、ごめん」
「いいから。ほら、しっかり立って」
「う、うん……」
 彼につかまり、体勢を立て直す美夜。
 正直、彼には申し訳ないと思っている。自分といつも一緒にいるせいで、彼もまた、友達が少ないのだ。
(わたしのせいで――)
 実際、迷惑をかけるからもう構わなくいい、と何度も言ったこともある。
 しかしそれでも彼は、彼女と共にいることを望んだ。
「気にしないでよ。幼なじみなんだし、助け合うのは当然じゃない」
 幼なじみ。いくらそうだとしても、それだけでここまでしてくれるものなのだろうか。
 きっと彼にはそれ以上の気持ちがあるのだと、美夜は信じていた。だが。
(そりゃあ、わたしは浩一くんのこと、幼稚園の頃からずっと好きだったけど……。で
も、今のわたしは、浩一くんに好きになってもらえるような魅力なんて、ないよ……)
 彼の優しさが、今は重い。

「でも、本当にどうしてだろうね」
 学校からの帰り道。ふらふらと歩く美夜を支えるようにしながら、浩一は言った。
「病気でもないのに、美夜ちゃんがこんなに調子が悪いなんて……」
 それは幾度となく、繰り返されてきた疑問だった。
 原因は、誰にもわからない。それでも、思わず口にしてしまうのだ。どうして、と――。
「いつか……治る日が来るのかなあ……。そうすれば、また美夜ちゃんの笑った顔が見れるのに……」
「浩一くん――」
驚いたように、美夜は彼の顔を見る。
「あ……ごめん。一番つらいのは美夜ちゃんなのにね……」
「ううん。わたし、いつも浩一くんに助けられてるから。ありがとう、浩一くん」
「あはは。そう言われると、照れるなあ」
 浩一は、ごまかすように頭を掻いた。
 彼の笑顔が、美夜は好きだ。彼の笑顔を見ると、安心することができる。
 彼になら――話してもいいだろうか。母親にもずっと秘密にして言わなかった、あのことを。
「あのね……浩一くん。わたし、自分では何となく原因わかってるんだ……」
「え……?」
「多分……ううん、きっと間違いないと思う。わたし自身信じられないんだけど……」
「……そうなんだ? いいよ、話してみて」
浩一は、真面目な表情で頷いてみせる。
「……浩一くん……」
 口を開きかける美夜。だが、その口からは言葉が紡がれることなく、そのまま閉じられてしまう。
これから話そうとすることは、あまりに突拍子もない事なのだ。自分でも信じられないのに、果たして彼が信じてくれるかどうか。
 信じてくれなかったとき――。そのときが、怖い。
「大丈夫。美夜ちゃんの言うことなら、ボクはどんなことでも信じるよ。美夜ちゃんがボクに嘘をついたことはないからね」
「……ありがとう、浩一くん……」
嬉しかった。浩一は、自分を信頼してくれている。彼なら、きっと真剣に聞いてくれる。
 そう確信し、美夜は話してみることにした。
「わたしね……あの……血が、飲みたくなるの……。もうどうしようもなく、我慢できないくらいに」
「……血?」
 浩一が、眉をひそめる。
「血って……身体の中を流れている、あの血?」
「うん……その血。まるで……ヴァンパイアみたいにね、人を襲って飲みたくなるの」
「…………」
「自分の身体を傷つけて、飲んでみたこともあるけど、それじゃ全然だめなの。誰かの……他人の血が飲みたい。……でも、さすがにそんなことできるわけないしね」
「…………」
「だから、ずっと我慢してた。我慢して、我慢して――でもそうしたら、どんどん気分が悪くなって、体調も悪くなっていったの。最初の頃は、血が飲みたくなるのは月に一回くらいのペースだったけど、段々感覚は短くなっていって、今では体調も戻らなくなっちゃって……」
「……美夜ちゃん……」
「何なんだろうね、わたし……。病院では異常はないって言われるのに、こんな風になっちゃうなんて……。もしかしたら、本当にヴァンパイアだったりして」
「……美夜ちゃんっ」
「あっ……」
 浩一に肩を揺すられ、彼女は我に返る。
「泣いてるよ、美夜ちゃん……」
「え? ……あ」
自分の頬に触れ、美夜は初めて自分が涙を流していることに気付いた。
「ご、ごめん、浩一くん」
 慌ててハンカチを取り出し、拭い取る。
 ここは通学路で、まばらとはいえ、同じ方向へ帰る児童もいるのだ。こんな所で泣いては、浩一が美夜を泣かしたように見えてしまうかもしれない。
 だが――涙が、止まらなかった。
 初めて自分の秘密を話して、張り詰めていた気が緩んだのか、次々と溢れてきてしまう。
(どうして、わたし――)
 一体、何度この境遇を呪っただろうか。何故、自分だけがこんな苦しみを味合わなくてはならないのか。つらかった。苦しかった。助けてほしかった。
(やだよぉっ……! こんなの、もう耐えるのやだよぉっ……!)
声を押し殺しながら、美夜は心の中で叫んだ。
 助けて。助けて。助けて――!
「いいよ」
 優しい声が、美夜の耳に届く。
「え……?」
 顔を上げると、そこには何故か微笑んだ浩一がいた。
「ボクの血でよかったら、飲んでもいいよ」
「……なっ……う、嘘でしょ……?」
 美夜は大きく目を見開く。
 信じられなかった。自分は、血を飲みたいと言ったのだ。普通なら、変人扱いされて、嫌われても当然だというのに。
「こ、浩一くん、わたしの言ったことわかってる?」
「わかってるよ。ほら、ここじゃ人の目もあるし、そこの公園に行こうよ」
「あっ……」
 浩一は美夜の手を取り、強引に引っ張っていく。
 わかっていない。浩一は、絶対にわかっていないのだ。でなければ、そんな笑顔でいられるはずがない。
 しかし――心の奥では、「飲んでもいいよ」といった彼の言葉に、期待感を抱いている自分も確かにいた。
(バカ……! 何考えてるの、わたしのバカ……!)
 飲めるはずがないではないか。
 幼なじみ。そして、大好きな人。
 もし、仮に自分が本当にヴァンパイアだとしたら、彼がどうなってしまうのか。それを考えれば、絶対に実行はできない。してはならない。
「は、離してっ」
 公園に入り、何歩か進んだ後、美夜は手を振りほどいた。
「美夜ちゃん……?」
 不思議そうに首を傾げる浩一。
 そんな彼に、美夜は呆れてしまう。
「何考えてるの、浩一くん! わたしの話、本気にしてないんでしょ!?」
「え? そんなことないけど」
「嘘! 本気にしてないから、飲んでもいい、なんて言えるんだよ! 大体、浩一くんはいつものんびりしてて――えっ!?」
 彼女の言葉は、途中で遮られた。
 突然浩一に、抱きしめられたからである。
「なっ、なっ……」
 驚きのあまり、口をパクパクさせる美夜。
「本気だよ」
 囁くような彼の声が、美夜に流れ込んでくる。
「最初に言ったじゃない。美夜ちゃんの言うことなら、ボクはどんなことでも信じるって。だから――さっきの話も信じるよ」
「だ……だって、だって……」
 信じられないのは美夜の方だ。
「血を、飲むんだよ……?」
「うん……。でも、こんなに苦しんでいる美夜ちゃんを見てるの、つらいんだ。だからボクの血で助かるなら、いいよ。幼なじみだし、助け合わなきゃ……って言うのは、今さらずるいかな」
 浩一は照れたように頭を掻いた。
「ボクは自分の好きな女の子を、少しでも助けてあげたいんだ」
「……えっ……」
 思わず、美夜は息を呑む。
「浩一くん、今……」
「うん。ボクは美夜ちゃんのこと、ずっと好きだったよ。今まで言えなかったけど、美夜ちゃんも勇気を出して、秘密を教えてくれたしね」
「…………」
 美夜は、自分の全身がカッと熱くなってくるのを感じた。
「だから、ほら」
 シャツのボタンを外し、首筋を見せる。
「遠慮しなくていいから」
「……浩一、くん……」
 ドクン、と美夜の心臓が大きく鼓動した。
 熱を持った身体から、汗が噴き出し、頭がぼんやりしてくる。
 両想い――両想いだったのだ。もしかしたら、自分のこの想いは一方的なものかもしれない、と不安に感じていた。それが、報われた瞬間……。
 だが。
 美夜の身体が反応したのは、違うことだった。
 許可が、出たのである。血を飲んでもいいという、許可が。
 飲める……血が、飲める――。
(だめっ!)
 身体が欲する要求を、美夜は懸命に否定した。
(だめ……だめだよっ……! いくらいいって言われても……どうなるか、わからないのにっ……! 好きな人の血を飲むわけにはいかないよっ!)
 しかしそんな理性は、急速に薄れていく。
(でも……血が、飲める。飲めば、この苦しみから解放されるかもしれない……)
 ぎゅっ、と美夜は浩一の背中に腕を回した。
 惹かれていく。彼の首筋に。そこを流れる、赤い血に。
(……欲しい……浩一くんの血……)
 そしてゆっくりと、顔を上げる。
 我慢はできなかった。何しろ、今まで一年間も耐えてきたのだ。我慢に我慢を重ね、既に限界に達していたのである。
「み……美夜ちゃん?」
 虚ろな目で見上げる彼女に、浩一もさすがに不安を覚えた。
「あ、あの……あんまり痛くしないで……ぅぐっ!」
 言いかけた、途中だった。
 彼の首に、美夜は食いついていた。
 前歯の犬歯が伸び、首筋にめり込んでいく。
「ぐっ、ううっ……!」
 激しい痛みが走り、浩一が呻いた。
 しかし美夜は構わず、動脈に傷を付けた。そこから流れ込んでくる血。浩一の血。
(ああ……)
 口の中に広がる感触に、美夜は恍惚となる。
 特に、おいしいとは思わなかった。だが、たまらなく心地よい。全身が、癒やされていく。
(ずっと、こうしていたい……)
 まさに、彼女は至福を味わっていた。
 だが、そんな時間が、突如として邪魔されてしまう。
「おおっ、池田と夕月が抱き合ってるぜ!」
「すげぇ! あいつら、やっぱりそういう関係だったんだ!」
 クラスメイトの男子、前川と山田だった。
 ランドセルを背負っているところからして、帰り道の途中で偶然見付けてしまったのだろう。
 小学校高学年といえば、異性のことに興味はあるが恥ずかしくて行動に出せない時期でもある。堂々と抱き合っている二人を見て、彼らもすっかり興奮したようだった。
「ヒューヒュー!」
 はやしたてるかのようにそんな声を出しながら、彼らは近付いてくる。だが、すぐそばにまでやってきたとき、ようやく何かがおかしいことに気付いた。
「え……?」
「お前ら、何やって……」
 怪訝な顔を向ける前川と山田。そして彼らは見た。浩一の首筋に、美夜が歯を突き立てているところを。
「なっ!?」
 驚愕の声を上げる二人。
 彼らに反応するかのように、美夜は身体を離した。そしてゆっくりと、彼らに顔を向ける。小さく笑みを浮かべるその唇は、赤く濡れていた。
「お、お前っ……!」
さすがに、彼らにもわかった。美夜が、浩一の血を吸ったのだと。
 それを裏付けるかのように、浩一の身体からは力が抜け、地面に崩れ落ちる。
「お、おい、池田!」
「夕月、お前何やったんだ!」
 美夜を睨み付けながらも、二人は先に倒れた浩一に駆け寄った。彼女を責めるよりも、今は浩一の方が心配である。
「池田! おい、池田!」
 声をかけながら、うつ伏せだったのを仰向けにする。
 そこで二人は、眉をひそめた。
「傷が、ない……?」
 そう。彼の首筋には、何の傷も、血の跡すらもなかったのである。確かに先程は、美夜に噛まれていたというのに。
 とはいえ、こうして浩一が倒れたのは事実だ。気を失っているのか、彼は目を開いたまま、ぴくりとも動かない。
「しっかりしろよ、池田!」
「起きろよ、おい!」
 もしや、死んでいるのでは――。
 そんな思いが、彼らの脳裏をよぎる。
 しかし、そのときだ。浩一に、変化があった。
 開いたままの彼の瞳が、赤く――血のように真っ赤に、染まっていったのである。
「うわっ!」
「な、何だ、これっ……」
二人は思わず後ずさる。と同時に、彼らの耳に音が聞こえてきた。
 ヒュッ! ゴギッ!
 短く風を切る音。そして何か硬いものが折れる音だ。
 瞬間、山田は自分の目を疑った。
 たった今まで、目の前にあったはずの、前川の顔がなくなっていたのである。
 あるのは、真っ赤な――噴水のように真っ赤な血を噴き出す、首のない前川の胴体だけだったのだ。
「ぅ……わ、あ、あああああああっ!」
 鮮血を全身に浴び、山田は悲鳴を上げる。腰が抜け、尻餅を付いたまま慌てて後ろに下がった。
 数メートル先の地面に、ドサリと落ちる前川の頭。
 間違いない。彼は、首を切られたのだ――。
「あぅわぅわわっ」
 まともに声が出ないほどに、山田の身体は硬直していた。恐怖のあまり、動くこともできない。
「ウ、ウウ……」
 唸りながら、浩一は立ち上がった。その表情には精気はなく、赤く染まった瞳で山田を見据えてくる。
「ひぅ、あ、あぅっ」
 口をパクパクさせながら、山田は顔を歪ませ、涙を浮かべた。
 怖い。だが動けない。逃げられない――。
(何なんだ! 何なんだよぉ、これはっ!)
 今、目の前に起きている現実を、彼は理解することができなかった。無理もない。常識ではありえないことが、起きているのだから。
「ガァッ!」
 声を上げ、浩一は右手を振り上げる。
「ひぃっ!」
 彼の手が山田の額をつかみ、そしてその勢いのまま地面に叩き付けられた。
 ゴッ!
「ぐあっ!」
 後頭部に激しい振動が起きる。意識が飛んでもおかしくない痛み――だが、そうはならなかった。
 地面に押し当てたまま、浩一はさらに力を込めたのである。人間には出すことが不可能な強さで、だ。
 メキメキメキッ!
「ひ、いぎゃああああああっ!」
山田の頭蓋骨が悲鳴を上げる。
「ああ! あああああああああっ!」
 絶叫。最後の絶叫だった。
ビキィッ! ブシュゥゥッ!
 骨が砕け、裂けた頭頂部から、潰れた脳味噌が飛び出した――。
「グゥゥ……」
 動かなくなった山田を見て、浩一は隣で倒れている前川の身体もつかみ上げる。
 そして、投げた。
 小さなグラウンドに張られている、金網に向かって――。
 ガシャァァンッ!
 金網が激しく揺れ、大きな音を立てる。
 二人の少年の身体は、金網に深くめり込んでいた。

 その音で、恍惚に浸っていた美夜は、我に返った。
「えっ……? わたし、今何を……?」
 意識が、混乱していた。
 浩一に抱き付き、それから……?
「わからない……」
 頭を振る美夜。だが、妙に気持ちよく感じていたのは確かだ。先程まであった、身体のつらさもなくなっている。元の状態に戻れたのは、久しぶりだった。
「もしかして――わたし飲んだの……!? 浩一くんの血を……!?」
 美夜は思い出す。そうだ、飲んでしまったのだ。身体の奥から沸き上がる、衝動を止められずに――。
 そこで、彼女はようやく顔を上げる。
「え……!?」
 そこに、浩一はいなかった。
 代わりに、ツンと鼻につく異臭。そして赤く染まった地面。
「血……!? まさか!?」
 慌てて周囲を見回し――美夜は、金網に異様なものが張り付いていることに気付く。首のない身体と、頭の潰れた身体が、血を垂れ流しながら、めり込んでいることに。
「ひっ……!」
 と息を呑む美夜。
 この錆びた鉄のような臭いは、本物だ。本物の血の臭いだ。
 そしてあれも作り物ではない、本物の人間の死体だ。
「ど、どうしてこんなっ……」
ドン、と後ずさる彼女の背中に、何かがぶつかる。
 振り返り、そこにいたのは、浩一だった。
「こ、浩一く……」
 と言いかけて、美夜は顔を強張らせる。
 違う。目の前にいる浩一は、彼女の知る浩一ではない。
 瞳は赤く輝き、凶暴そうに歪んだ表情にはいつもの面影がなく、服は返り血で全身染まっていたのである。
「ガアアッ!」
 浩一は咆哮し、走り出す。
「きゃっ!」
 その拍子に転倒する美夜。
 浩一が向かったのは、この公園では一番高く、十メートル以上もある大木だった。幅も一メートルはあるその大木に、彼は拳を振り上げ、殴り付ける。
 ドゴォッ!
 衝撃に、幹が激しく揺れた。だが、まだ倒れない。
 二発、三発、とさらに浩一は続けた。
 ビキビキッ!
 と大木にヒビが入る。
「な、何をしてるの、浩一くん……」
 美夜には、彼の行動が理解できなかった。
 何故、大木を殴り付けているのか――。
 まるで、抑えの効かない力を、どうにかして発散させようとしているかのように……。
「……わたしのせい? わたしのせいなの……?」
 ハッとなる美夜。
 彼のこの変貌が、もし自分が血を吸った影響だとするならば――。
 もしそうなら、自分が止めねばならない。
「や、やめて! もうやめて、浩一くん!」
 懸命に叫ぶが、彼の動きは止まらなかった。
 そしてついに。
 バキィィィッ!
 大木が、折れた。
 周囲の木々の枝を巻き込みながら、大地に倒れる。
「……こ、浩一くんっ……」
 衝撃で揺られながら、美夜は見てしまった。
 彼の手が真っ赤に染まり、原型がないほどに潰れてしまっているのを。
「な、何で……」
 膝を付く美夜の目に、涙が溜まる。
「何で、こんなことに……」
 彼の血を、飲んでしまったから。衝動を、抑えられなかったから。欲望に、従ってしまったから――。
「わたしのバカァッ! 好きな人の血を飲んで、それで楽になろうとするなんて、そんなの最低だよっ! わたし一人が苦しんでれば済むことだったのにっ!」
 拳を、地面に叩き付けた。そしてきつく噛みしめた唇から、血がにじみ出る。
「こんな……こんな血のせいで……」
だが、今は後悔しているときではないのだ。
「きゃああっ!」
「うわあっ!」
聞こえてきた悲鳴が、彼女を現実へ引き戻す。
 悲鳴を上げたのは、小学校からの帰宅途中だった数人の児童のものだった。突然大木が倒れたことで公園内を覗き、そして金網に張り付いた死体を見たのである。
 怯えた彼らは、悲鳴を上げて逃げ出すことしかできなかった。
(そう。それでいい……)
 と美夜は息をつく。
 今、下手に浩一に近付けば、殺されるかもしれないのだ。逃げるのが、最良の方法である。
 しかし――。
 浩一は、彼らの後を追うかのように、公園の外へと向かいだした。
「だ、だめぇっ!」
 美夜は立ち上がり、彼に駆け寄った。
(これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない――!)
 浩一の背中に、彼女はしがみつく。
 だが、彼は軽く腰をひねっただけで、美夜を振りほどいてしまった。
「きゃあっ」
 地面に転がる美夜。
「こ、浩一くん……」
 懸命な彼女の声にも、反応はない。
だが、彼女に対して力を使わなかったのは、何故か。かろうじて記憶が残っているからなのだろうか。
「いかないで、浩一くん!」
 叫びながら、美夜は気付いた。
 小型トラックが、向こうから走って来たのだ。このままでは、公園の出入り口を横切ることになる。最悪なことに、出入り口近くには車が駐車しており、そのせいで運転手も浩一も気付いた様子はない。
「お願いっ、止まってぇっ! お願いっ!」
 絶叫。心からの願い、そして叫び。
 しかし、彼女の願いは届かなかった。
 ドンッ!
 鈍い音と共に、浩一の身体が宙を舞った。
 人間とは、こんな簡単に飛んでいくものなのか。彼は十メートルは離れた道路に落下した。

「やべえっ!」
 とトラックの運転手である、中年の男は叫んでいた。
 慌ててブレーキを踏むが、既に遅い。前方では、大量の血を流した少年が倒れている。
「ちっくしょう! いきなり飛び出してきやがるから!」
 しかし、いくら相手に非があろうと、責任は運転手側にあることになってしまうのだ。
 男は思わず周囲を見回した。辺りに人は少ない。
「どうする? 逃げるか、それとも――」
 一瞬だけ、悩む。だが、逃げてもいずれは捕まるだけだ。ひき逃げとなれば、罪は重くなってしまうだろう。
「くそっ!」
 男は、トラックから飛び降りた。こうなったら、何としても少年に無事でいてもらわねばならない。
「頼むぜ、生きててくれよ……」
 祈る気持ちで彼に駆け寄っていく。
 と同時に、男と同じように少年に近付く者がいた。
「浩一くんっ!」
 泣き叫びながら、彼にしがみつく。
 そんな少女の姿に気まずく思いながら、男は言った。
「悪いがどいてくれ! 俺が責任持って病院に連れていく! 君はこの子の親に連絡を取ってくれ!」
 だが、少女は顔を強張らせたまま反応しない。
「どうした!? 早くしないと死ぬかもしれないんだぞ!?」
「……こ、こ、こう、い……」
 彼女は、口をパクパクさせながら、指をさしていた。
「んっ?」
 怪訝に思い、男は指の示す先を見る。そして、思わず悲鳴を上げていた。
「うわあっ!」
 抱きかけた手を離し、尻餅を付く。
 先程まで、確かに閉じられていた目が、開かれていたのである。血のように、赤い瞳が。男を真っ直ぐにとらえ、笑みを浮かべながら。
 ズンッ!
 潰れて原型のない浩一の手が、男の両肩を貫いていた。
「ぅぐっ!?」
 何が起こったのか、男はすぐに理解できない。
 伸ばされた浩一の腕を、血が伝っていく。
「なっ、なっ……!?」
 彼が、状況を知るよりも先に。
 浩一の腕が、上に上げられた。
 ブツッ!
 と音を立てて、男の肩口が切断される。
 空にはね上がった彼の両腕が地面に落ちたのと同時に。
 ブシュッ、と切断面から血が噴き出した。
 瞬間、ようやく痛みが襲ってくる。
「ぐぅああああああっ!」
男は絶叫し、背中から倒れ込んだ。腕がないので起き上がることもできず、身体をひねりながら、ズルズルと後ろへ引きずっていく。
「ああっ! うぐぁあああああ!」
「あ……あ……」
 両腕を失い悶える男に、美夜は呆然として動くことができない。
 これで三人目――いや、浩一を含めて四人目の犠牲者を出してしまったのだ。
 自分が、血を吸った。それだけのことで。
(どうすれば……どうすれば、浩一くんは止まってくれるの!?)
 このままでは、浩一自身も死んでしまう。
 しかし口で言ってもだめ、押さえつけてもだめ、となると。
(力じゃとてもかなわない……けど、浩一くんはわたしには攻撃してこなかった……)
 確信はないが、血を吸った美夜は、攻撃対象にならないのかもしれない。
(わたしが、浩一くんの正面に入れば!)
 そう決断した美夜は、男に近づこうとする浩一の前に、立ちふさがった。
「止まって! 止まって浩一くん!」
 両手を広げ、彼に向かって言う。
 だが浩一はその声にも反応せず、赤い瞳で正面を見据えたまま、一歩一歩進んでくる。
「止まってってば! 聞こえないの、ねえっ……」
 言いかけて、美夜は、後ずさった。
 浩一に、止まる様子はなかったのである。
「こ、浩一くんっ……」
 息を呑む美夜。
(だ、大丈夫。浩一くんは、わたしには手を出さない……)
 勇気を奮い、彼女もそこから動かなかった。
 そして、二人は正面に対峙する。
(――やった!)
 浩一の足が止まったのを見て、美夜は笑みを浮かべる。やはり、予想は正しかった。彼は、自分には手を出さない――。
「え?」
 次の瞬間、美夜は浮遊感と共に、空を見上げていた。
(な、何が……?)
 わけがわからないまま、背中に衝撃が伝わる。
「ぐっ!」
 そして、口の中に感じる異物。吐き出すと、それは白い固形物――奥歯だった。口から、血が溢れてくる。
「な、何で……」
 顔と背中に、ようやく痛みが伝わってきた。
 殴られたのである。浩一に。軽く吹き飛んでしまうほどに。
「何でわたしにまで、手を出すの……」
 ゴギッ!
 骨の、砕ける音。
 浩一の手が、男の心臓を貫いていた。
「ぐあああああっ!」
 断末魔の声。
 男は痛みと恐怖に顔を歪めたまま、絶命した。
「……何でなの……浩一くん……」
 美夜の目からは、涙がこぼれていた。
 他の人間は殺したのに美夜を殺さなかったのは、浩一の最後の理性なのだろうか。
「フーッ、フーッ」
 浩一の息が、荒かった。
 無理もない。彼は、既にかなりの血を流してしまっているのである。
「え……?」
 美夜は、一瞬目を疑ってしまう。今、彼の流す血が、蒸発しているように見えたのだ。
「まさか……」
 だが、間違いなかった。彼の身体は、わずかに赤い霧のようなものを纏っている。
「でも、このままじゃ……」
 人間は三分の一の血を失えば、死ぬと言われている。彼の血が蒸発を続ければ、既に大量の血を流している今、そう長く持たずに死ぬことになる。
「そんなの、だめ……。浩一くんまで死んだら、わたし……」
 痛みを堪えながら、美夜は立ち上がった。
 既に彼は、どこかへ向かって歩き出している。
「行かせない――」
彼女は走り、再び浩一の正面に立った。
「お願い、やめて! これ以上やったら死んじゃうわ!」
 だが、そんな叫びも彼には届かない。
「死んでほしくないのっ……!」
 美夜は、抱きしめる。血まみれの、彼を。大好きな、彼を。
「んっ……」
 勢いのままに、彼女は浩一の唇に、口づけた。唇から伝う熱い液体。ファーストキスは、血の味がした。
「好きだから……大好きだから……」
 美夜は、唇を離す。
「だから、もうやめ――」
 ガシッ。
 言いかけた、途中だった。
 浩一の右手が、美夜の肩をつかんでいた。砕けて露出している指の骨が、ゆっくりと食い込んでいく。
「こ、こういち、くんっ……!?」
「ガァッ!」
彼の咆哮と共に、美夜の肩の肉は裂けていた。
「ああっ!」
 地面に転がる美夜。ドクドクと、肩口から血が吹き出してくる。
「ぐっ……ぐぅぅっ!」
 焼けるように、肩が痛む。だが、まだ動ける。まだ――。
「ううぅっ!」
 美夜は、唇を噛みしめた。痛みを堪えながら、それでも立ち上がる。
「浩一くん……目を覚ましてっ!」
 後ろを向いた彼に、体当たりを仕掛けた。
 不意をつかれ、浩一は押し倒される。
「浩一くんっ……浩一くんっ!」
 必死の呼びかけ――。
 だが、やはり彼は、反応しない。
「……こう……いち、くん……」
 さすがに、美夜の表情にも諦めの色が浮かび始めた。
 だが。
 シュゥゥゥ……。
 音が、聞こえた。
「……何?」
 怪訝に思い、耳を澄ます。
 音は、自分の真下から聞こえた。
「浩一くん!?」
 そう。彼の血が、急速に蒸発していたのである。
 浩一の周囲は、血による赤い霧で覆われ始めた。
「なっ……ど、どうして?」
 理由など、わかるはずもない。
 しかし血の蒸発と同時に、浩一が苦しみだしたのは確かである。
「ガッ……ガァァァァァァッ!」
 美夜を押しのけ、彼は悶えた。傷から流れ落ちる血までが、瞬時に気体へと変化していく。
「こ、このままじゃ……」
 考えなくともわかる。このままでは、彼の血は一滴残らず蒸発してしまうだろうことを。
 だが、方法がわからない。浩一を、助ける方法が。
「やだ……浩一くんが死んじゃうなんて……そんなのやだよ……」
 美夜は、頭を振る。これ以上、見たくない。見ていたくない。
「ウォォォッ!」
突然、浩一は走り出した。彼が一歩を踏み出す度に、ボタボタと血が落ちる。
「ど……どこ行くの?」
 顔を上げる美夜。立ち上がりかけて、ズキンと肩に痛みが走った。
「うぐっ……! こ、浩一くん、その先は……」
 直進すれば、大きな道路に突き当たる。車の通行も頻繁にあるところだ。
「行かないで、お願いっ!」
 叫んでも、彼は止まらない。
「ぐっ、ううっ……!」
肩が痛いなどとは、言っていられなかった。
 美夜は爪を立て、拳を握りしめる。手の平に伝わる痛みで、多少堪えることができた。
「浩一……くんっ!」
彼女は、走る。
 だが、追いつけない。
 それどころか、どんどん離されていく。
「きゃあっ!」
「うわあっ!」
 道を行く人々は、血まみれの彼を見ては悲鳴を上げ、避けていく。
 彼らに止めるように頼みたいところだが、これでは無理である。第一、止める前に殺されてしまう。
「浩一くん、待って……置いていかないで……」
 離れていく。彼の姿が、小さくなっていく。
「……こういちくん……」
 キキィィィーーーッ!
急ブレーキをかけた車のタイヤが、アスファルトを激しくこすった。いきなり車体を斜めにして止まったため、対向車、さらに後続車が次々と激突していく。
 ドンッ! ドドンッ! ドォンッ! ガシャアアッ!
 十台以上を巻き込む玉突き事故となった。車体はへこみ、窓ガラスは砕け散った。
 そしてその中心にいた人物、浩一。
 彼の姿は、確認できない。
 だが、上空から、塊が落ちてきた。
「きゃああっ!」
 とそれを見て、近くにいた女性が悲鳴を上げる。
 それは、血にまみれた、肉片だった。
 車と車に押し潰され、内蔵の一部が飛び散ったのである。
 彼の本体はまだ車の間にあったが、完全に潰れ、とても正視できる状態ではない。
 シュゥゥゥ…………。
 そして今。
 血の蒸発が、止まった。

「あっ……」
 美夜は、呆然と立ち尽くしていた。
 彼の――浩一の血が消える。
 残された肉体――それすらも白く変色し、ミイラのように干からびてしまう。
 彼の生命活動は、ここに完全に停止した。
 そして。
 ドオンッ!
 さらに追い打ちをかけるかのように、爆発が起きた。ガソリンに引火したらしく、潰れた車から激しく炎が吹き上がる。
「……嘘……嘘だよ、こんなの」
 美夜の口元から、笑みが漏れた。
「だって……人があんな風になっちゃうなんて、聞いたことがないよ……」
 呟きながら、彼女のその声からは、段々と力が抜けていく。声だけではない、身体中の力が、抜けていく……。
「…………嘘に…………決まってるんだからぁっ…………」
 水滴が、落ちた。
 彼女の頬を伝って。
「あは……はははは……」
 笑いが、止まらない。
「夢……夢なんだよ。こんなの、悪い夢……」
 がくん、と美夜は膝を付いた。
「わたしの病気は、治っちゃいけなかったんだ……。これはその警告……。わたし一人が我慢してさえいれば、浩一くんはずっとそばにいてくれるんだから……」
 人々の悲鳴と怒号。そして鳴り響くクラクション。
「身体は苦しいけれど、優しくお母さんに起こされて、浩一くんの笑顔を見ながら学校へ行くの……。決して身体は楽にならない……けれど心は楽になる……。そんないつもの朝に、戻ればいいだけ……」
 近づいてくる、サイレンの音。いくつも、いくつも――。
「ほら、こんなにわたしに目を覚ませって言ってる。だから早く目覚めなくちゃ。目覚めなくちゃ……」
 だが、覚めない。覚めることはない。
 夢ではないから。現実だから。
しかしそれを、彼女は認めることができない。
「悪い夢……。でもいいの。目覚まし時計が効かないなら、自分から目を覚ましてやるだけだから……」
 ゆらり、と美夜は立ち上がった。
 彼女の左肩からは、まだ血が流れ続けている。
「わたしも浩一くんと同じことすれば、目が覚めるはずだから……」
 道路に、近づいていく。おそらく死者が出たであろう、事故の現場に。激しい煙を噴き出す、燃え盛る炎の現場に。
「わたしも車にぶつかれば……また浩一くんに会えるんだから……」
 血まみれで、笑みを浮かべながら歩く美夜を見て、近くにいた人々が息を呑む。
「何だ、あの子は……」
「あの子も事故に……?」
「……でも、場所が違うだろ……」
 彼らは、公園での惨状を、まだ知らない。
「み……美夜っ!?」
 その中で、驚愕の声を上げた女性がいた。
 買い物帰りだったのだろう、その買い物袋も自転車も放り捨て、慌てて駆け寄ってくる。
「一体どうしたの、美夜!?」
 ふらつきながら歩く彼女を抱きしめたのは、母親の亜沙美だった。
「美夜……美夜っ!」
 しかし彼女の呼びかけに気付いた様子もなく、美夜は歩みを止めようとしない。
「美夜っ! しっかりしなさいっ!」
 両手で顔を挟み、自分の方へと向けさせる。
 そうしてようやく、美夜は母親の顔を認識した。
「あ……お母さん」
「そんな怪我をして……大丈夫なの? 一体何があったの?」
「……怪我? こんなの平気だよ。だって夢だから」
「……え?」
 娘の不可解な言葉に、亜沙美は眉をひそめる。
「夢って、どういう……」
「これは夢なの。わたし、早く目覚めなきゃいけないの。だから行かなきゃ。浩一くんと同じところに……」
 小さく、笑みを浮かべる美夜。
 彼女の見つめる先――そこは、大惨事となっている事故現場。
「浩一くんって……まさか……」
 亜沙美の脳裏に、最悪の展開が思い浮かぶ。
 浩一とは亜沙美もよく挨拶をするし、美夜と仲がいいことも知っている。そんな彼が目の前で事故に遭ったのだとすれば、今の美夜の状態は、そのショックによるものに違いない。
「美夜……美夜、しっかりしなさいっ」
「お母さん、離して……。これは夢なんだよ。だって一杯血が出て、ミイラみたいになっちゃったんだから……。人がいきなりあんなになるなんて、夢じゃないとありえないんだから……」
「……な、何を言っているの……?」
 亜沙美には、娘の言動が理解できなかった。
「本当だって! 俺見たんだ!」
 ふいに、そんな声が彼女の耳に届く。
 野次馬たちに向かって話しているのは、若い男性である。
「飛び出した子供が車に挟まれた後、血が蒸発して干からびちまったんだ! 見間違いなんかじゃねえよ!」
「ああ、俺も見たぜ!」
「私も!」
 どうやら、目撃者は複数いるようである。
(血が蒸発してミイラに……? そんなバカな……)
 当然だが、見てもいないのに、そんな現象を信じることはできない。
 おそらく事故の接点だろうと思われる箇所に目を向けたが、そこは既に炎の中心となっており、姿を確認することはできない。
 本当に彼がいたのだろうかと思うが、しかし目撃者の中には娘もいるのだ。
(ともかく、先にこの子を何とかしないと……)
 肩の傷は、見た目ほど深いものではなさそうだ。家の薬で十分何とかなる。
「帰るわよ、美夜っ」
「だめ……わたしは浩一くんのところに行くんだから……」
「美夜!」
「離して、離してお母さん……」
 つかんだ亜沙美の手を、美夜は振りほどこうとする。これでは歩くことができない。
「こうなったらっ……」
 亜沙美は、強引に腰を回し、嫌がる娘を背中に抱え込んだ。
「あっ、やだ。降ろして、降ろしてっ」
「だめよ! 来なさい!」
 暴れる彼女を押さえつけ、亜沙美は必死の形相で走り出す。
「行かなきゃいけないのっ……わたし、夢から覚めないといけないのっ……」
 頭を叩かれ、髪を引っ張られた。
 思わず顔をしかめるが、亜沙美は腕の力だけは決して抜かずに走り続ける。
「お母さんっ、お願いだから離してっ……離してっ……。わたしは浩一くんのところに行かなくちゃ……行かなくちゃ……いけないんだからっ……」
 美夜の声が、段々と小さく、涙声へと変わっていく。
(美夜……)
 背中で震える娘を感じ、亜沙美は唇を噛み締めた。強く、強く……血がにじみ出るほどに……。

 家に到着したとき、美夜は涙で頬を濡らしたまま、口を閉ざしていた。焦点の合わない瞳で、呆然と虚空を見上げている。
 そんな彼女を床に座らせ、亜沙美はまずは傷の治療に専念した。
 傷口を消毒し、薬を塗り、包帯を巻いていく。傷自体は浅いのだが、まるで手で引っかけられたような跡なのが、亜沙美は気になる。
「もういいわ、美夜。ほら、服を着て……」
「…………」
 べっとりと血の付いた服を脱がせ、新しい服を用意したのだが、彼女は反応しない。
「美夜……」
 すっかり無気力状態になってしまった娘に、亜沙美は思わず目を伏せる。
(こんなとき、どうすればいいの。母親として、どうすれば……)
 娘を……娘の心を、助けてやりたい――。
 そのためには、やはり事情を聞かなくてはならないだろう。そこから、解決の糸口を探していくしかない。
「何が……あったの? お母さんに話してみて……」
「…………」
「浩一くんは一体……どうしたの?」
「……こう……いち、くん……」
 その名前に、美夜はようやく反応した。
「そう、浩一くんよ。美夜と仲のよかった浩一くん。あの子は一体……」
「死んだの……」
 と美夜は言った。
「車と車に挟まれて……身体がグシャグシャになって……それから血が全部蒸発して……ミイラみたいになったの……」
「…………」
 亜沙美は困ったように顎に手を当てた。当然だが、そんな非常識な現象は信じられない。しかし娘が嘘を付いているようにも思えないのだ。
 だが次に彼女は、気になることを言った。
「でもね……それもわたしのせいなの」
「……え?」
「浩一くんがああなったのも……人を殺しちゃったのも……全部わたしのせい。あはは……はは……」
 美夜はうつむいたまま、力無く笑った。笑いながら、また涙が流れてくる。
「……殺したって……どういうことなの、美夜!?」
 思わず声を荒げてしまい、亜沙美は慌てて口を閉じる。
「あははは……」
 笑いながら、美夜は立ち上がった。
「浩一くんが死んだのもわたしのせい。浩一くんが人を殺したのもわたしのせい。そして事故が起きたのもわたしのせい……」
「み、美夜?」
「だったら……」
 笑いが、止まった。
「わたしが最初に死んでいれば……よかったんだよね」
「なっ……」
「そう、わたしは生きてちゃいけない……生まれてきちゃいけない人間だったんだ……。このまま生きてたら、きっとまた誰かを死なせてしまう。だから……」
 涙を拭い、にっこりと微笑んだ。
「責任取って……わたし死ぬよ」
「ばっ……」
 瞬間、亜沙美は手を上げていた。
「バカッ!」
 彼女の平手が、美夜の頬を激しく打ち付けた。衝撃で、彼女は床に倒れ込む。
「何があったかわからないけど……」
 初めて娘を殴ってしまったことに自分で驚きながらも、亜沙美は言った。
「死んで責任なんか、取れるわけがないでしょ……? 浩一くんが美夜に死んでほしいと望んでいると……本当にそう思っているわけ?」
「……だってっ……」
 美夜の声が、震えた。
「わたし、他にどうしたらいいか……」
「一緒に考えましょう?」
 震える娘を包み込むように、亜沙美は彼女を抱きしめる。
「どうしてこんなことになってしまったのか、これからどうすればいいのか……。二人きりの親子じゃない。私にもあなたの悩みを分けて」
「お母さん……」
「もし美夜まで死んでしまったら……私だって、もう生きていけないんだからっ……」
「お母さんっ……」
 美夜は、堪えられなかった。亜沙美の腕に包まれることで、ようやく声を出して泣くことができたのである。
「うわぁぁぁぁっ……! わぁぁぁぁんっ……!」
「美夜っ……!」
 娘を抱きしめながら、亜沙美の目にも涙が浮かんでいた。

お互いにひとしきり泣いて、落ち着いてきた頃。
「わたし……自分の体調が悪い原因、わかってたんだ……」
 美夜は、ぽつりぽつりと話し始めた。
 一年ほど前から、度々血が飲みたくなってしまい、我慢しているうちに体調が崩れていったこと。もちろん誰にも話すことができなかったが、今日、ついに浩一に話してしまったということ。
「こんな嘘みたいな話、浩一くんは信じてくれたの……。そして、そんなにつらいなら自分の血を飲んでもいいって言ってくれた……。けど……」
 最初は抵抗した。だが、自分の内から湧き出る衝動に耐えられずに、欲望に身を任せてしまったこと――。
「わたしが血を飲んだせいで、浩一くんは変わってしまった……」
 まるで自分の意志というものを失ってしまい、周囲のものに力をぶつけ続けた浩一。止めに入った美夜までも――。
 結果、人を殺し、事故を起こし、自分まで死んでしまった。
「わたし……きっとヴァンパイアなんだよ……」
「……ヴァンパイア?」
「だって……じゃなきゃ、血を飲みたくなったり、飲んだ相手が急に暴れ出したりするなんて、他に理由が付けられないよ……」
「……ヴァン、パイア……」
 その単語を聞いたとき、亜沙美の脳裏に古い記憶が蘇ってきた。三十年近くも前の、幼い子供の頃の記憶……。もうはっきりとは顔も思い出せない、死んでしまった祖父の記憶である。
「ワシらはな、ヴァンパイアの子孫なんじゃよ……」
 お盆で祖父の家に行ったとき、彼は孫たちを集めてそんな話をしたことがあった。
「もう大分血は薄まっているが、ワシの爺さんが強い力を持っていてな……。もしかしたらお前たちの子供の中に、そういう子が生まれることがあるかもしれん……」
しかし。
 誰も、本気で聞いてはいなかった。子供とはいえ、ヴァンパイアなど作り話だということは皆知っている。
「もし、そんな子が生まれたら――」
 ……プツッ。
 と、切れた録音テープのように、そこから先の記憶が消えていた。いや、そもそも興味を失い、それ以上聞いていなかったのかもしれない。
(そんなっ……肝心なときにっ……!)
 当時を後悔しても、今さらどうにかなるものではない。
(そんな子が生まれたら……その先、おじいちゃんは何て言ったんだろう……)
 考える。考える――。
 ……いや、考える必要などなかった。
(私が、この子を守ってやらないでどうするのよっ……!)
 亜沙美は、腕の中の美夜を、ぎゅっと抱きしめた。
「今までつらかったね、美夜……。気付いてあげられなくて、ごめんね……」
「お母さん……」
「でも、これからは大丈夫……」
 そう言って微笑むと、彼女は自分のシャツのボタンを外していく。
「えっ……?」
「これからは……私の血を飲んでいいから……」
 亜沙美は首筋を、娘の前に差し出した。
「なっ……」
 美夜は驚きの声を上げた。
「何言ってるの、お母さん! わたしの話、聞いてたの!? わたしが血を飲んだせいで、浩一くんはおかしくなったんだよっ!」
「それはきっと、美夜が力を制御できなかったのよ」
「……力を、制御……?」
「そう。美夜はまず、自分の力を知らなきゃいけないの。自分にはどんな能力があるのか、そしてどうすればその能力を操れるのかを」
「…………」
「それさえわかれば、きっと大丈夫。きっと普通に生きていける。だから、これはそのための練習よ」
「で、でも……」
 美夜は、うつむいたままだ。
 もちろん亜沙美の気持ちはありがたい。だが、もし浩一と同じようになってしまったら――。そうなったら、美夜は今度こそ、生きる気力を失ってしまう。
「私だって、美夜がいないと生きていくことなんてできないわ。だから、二人で頑張りましょう。浩一くんの死を無駄にしないために」
「浩一くん……」
「大丈夫。美夜がしっかりと自分の意志を持ってやれば、絶対大丈夫」
 ぽんぽん、と亜沙美は優しく、美夜の背中を叩いてやる。
「お母さん……」
 美夜は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、涙の中にも強い決意の光が宿っている。
(やらなきゃ……。自分が死ぬかもしれないのに、ここまで言ってくれたお母さんのために。わたしが力を制御できなかったせいで、死んでしまった浩一くんのために。そして……)
 亜沙美を抱きしめ、唇を寄せていく。
(わたしが、生きていくために……!)
 美夜の歯が、母の首筋に突き立てられた――。

 緩やかな風が少女の髪を揺らし、頬をくすぐる。
 柔らかな日差し。抜けるように高く、青い空。桜の匂いが香るそよ風。
「春だね、浩一くん……」
 夕月美夜は、彼に向かって呟いた。
 彼女の足下に――彼、池田浩一は眠っている。
「ごめんなさい……今まで来れなくて……」
 美夜はそっと、花束を置いた。彼の両親から教えてもらった、池田家の墓に。
 あれから、三年が過ぎていた。
 ロングだった髪をショートにし、身長も伸びて、少し大人びた美夜の姿。
 あのことがなければ、彼女が今こうしていることはない。だが、いい思い出として語ることはとてもできないだろう。
 あのあと――。
 美夜が血を吸ったあと。亜沙美が暴走することはなかった。やはり意志の力というのが重要だったようだ。
 そして彼女たちは、練習を続けた。己を知り、理解するために。
 事件のことはニュースにもなり話題となったが、やはり原因は不明のまま、解決されることはなかった。事件を起こした浩一が死んでしまったのだから、当然といえば当然である。仮に生きていたとしても、常識では考えられない出来事だ。誰も信じることはできないだろう。
 その浩一のことだが、美夜はしばらく考えないようにしていた。考えてしまうと、後悔ばかりが膨らんで、何もできなくなってしまうからだ。それに、彼の死を認めたくない、という思いも強く残っていたのである。
 だが――高校の入学を機に、美夜はついに決心した。ずっと拒み続けていた、浩一のお墓参りに行くことを。
 それはつまり、彼の死を受け入れる、ということでもある。
 後悔ばかりの自分と決別し、前へと進むために。
「浩一くん……」
 淡い、初恋の思い出。そして、最悪の悲しい思い出。どちらにしても、一生忘れることはできないだろう。
 その後、美夜は亜沙美から、自分はヴァンパイアの子孫かもしれないことを聞いた。確証はないが、他にこの能力の理由が思い付かないという。
 亜沙美のお陰で、美夜の体調はすっかり落ち着きを取り戻した。月に一度、母の血を吸うだけで、彼女は普通の生活ができる。
しかし――。
 数年が過ぎ、事件が起こり始めた。
 人間離れした力を発揮し、血がなくなるまで暴走を続けるという、異常な出来事――通称ヴァンパイア事件が。
 目的はわからないが、そんなことができるのは美夜と同じヴァンパイアの子孫――同族の仕業に間違いなかった。
 だから、彼女は止めなくてはならない。
 浩一と同じ目に遭う人を、これ以上増やさないために。
 自分と同じ境遇であるその人物を、救うために。
 そしてそのための力を、美夜は持っている。
 三年間母と続けた、自分の能力を知り、操るための練習――。その成果を生かせば、きっと止めることができるはずだ。この、悲しい事件を。
「……きっと、できるよね。浩一くん……」
そう呟いて、美夜は墓石に背を向ける。
「わたし、頑張るから……。浩一くんのために。お母さんのために。何より、自分自身のために」
「美夜ー、そろそろ時間よー」
 霊園の外で待たせている、亜沙美の声が聞こえてきた。
「今行くー」
 と、美夜は返事を返す。
 今日は、これから入学式だった。学校へ行くより先に、どうしてもここへ来たかったのである。
「んっ……」
 と声を漏らし、美夜は背筋を伸ばした。そのまま、高い高い空を見上げる。
「うん。いい天気」
 春――。
 美夜は高校生になった。
 新たな生活の始まり。そして――。
「いってきます」
 彼女はもう一度だけ墓石を見ると、歩き出した。
 決意の、眼差しと共に。

 そして――。
 彼女は、戦い始める。

 おわり。

 

戻る