プロローグ
窓から差し込んでくる街灯のおかげで、電気をつけなくとも、部屋の中は充分に明るかった。
六畳間の中心に敷かれた薄い布団と、端に積み上げられたいくつものダンボール箱。あるのは、たったそれだけだ。
すっかり変わった自分の部屋の姿に、雅也はどうにも落ち着かない。
布団に入って、もう三十分は過ぎただろうか。それなのに、少しも眠くはならなかった。
「まあ、仕方ないかな……」
両手を組んで頭の下に入れ、天井を見上げる。
子供の頃は、木目がお化けに見えて怖かったこともあるが――明日から高校二年の自分にとっては、既に笑い話だ。
しかしその天井も、明日からもう二度と見れなくなるかと思うと、少しだけ感慨深くなる。
「……ん?」
ふと、かすかに音が聞こえた。
ドアの向こう。指先で、叩いたというより軽く押したような、そんなわずかな振動音。
気のせいかとも思ったが、部屋の外で、ギッと床がきしんだ。築二十年の廊下の床は、歩くと時々そんな音がする。
「もしかして……」
こんな時間に部屋に来そうな相手は、一人しか思いつかない。
「可奈……か?」
半身を起こし、ドアの向こうに呼びかけてみる。
「…………」
少しだけ、間があった。
「入っていいぞ」
そう言うと、ゆっくりとドアが開かれ、ショートカットの少女がうかがうように顔をのぞかせた。
「お兄ちゃん……起こしちゃった?」
「……あんなノックで起きるのはムリだろ」
「えへへ……。お兄ちゃんがもう寝てたらやめようと思ったんだけど……起きてたならいいよね」
小さく笑いながら、後ろ手で静かにドアを閉める。
「……いっしょに寝てもいい?」
「おいおい……。お前、明日から六年生だろ?」
「いいじゃない。今日で、最後なんだから……」
可奈の表情が、暗く沈み込む。
今日で最後――。
避けようのないその事実に、雅也は思わず拳を握りしめた。手の平に、爪が食い込むほどに。
ひとつ。ゆっくりと、深呼吸をした。
「……わかったよ、可奈」
雅也はつとめて笑顔を作り、かけ布団を持ち上げる。
「その代わり、母さんに見つかるとうるさいから……静かにな」
「わかってる。ありがとう、お兄ちゃん」
嬉しそうに、可奈は布団の中に入ってきた。雅也の腕に頭を乗せ、ぴったりと身体を寄せてくる。
「えへへ〜。お兄ちゃんと寝るの、久しぶりだよ〜」
「そうだな。一年ぶりくらいか……」
それまで雅也は、毎日可奈と同じ布団で眠っていた。正直、狭いからやめようと思っていたこともあるのだが、可奈が離れるのを嫌がったのである。雅也としても、かわいい妹に甘えられては断れない。
しかしある日、母親の奈津子に、『年頃なんだからそろそろ一人で寝るようにしなさい』と言われ、部屋も別々にされてしまった。もちろん、それくらいであきらめるような可奈ではない。奈津子に何度怒られても、彼女は部屋に忍び込んできたのである。
『可奈のお兄ちゃん子ぶりにも困ったものね』
と、奈津子は呆れた様子だった。しかし娘がいつまでもそれでは困ると、今度は雅也から説得するよう彼女は相談してきた。
母親にそんなふうに言われたら、聞かないわけにもいかない。それでも説得するにはえらく苦労したのだが。
『お兄ちゃん、わたしと一緒がイヤなんだぁっ! うわーんっ!』
最後には了承したものの、あのときは泣き叫んで、しばらくは口を聞いてくれなかったものである。
「思えば、俺たちがケンカをしたのはあのときくらいかな……」
雅也は苦笑した。
他人に話すと『信じられない』とよく言われるが、こんなに慕ってくれる妹がいたら、ケンカなんてとてもできない。あとは――少しだけ特殊な家庭環境にも原因はあるだろうが、それはささいなことである。
「もうっ……あのとき、すごーく悲しかったんだからねっ」
軽く唇をとがらせた可奈が、頬をつねってくる。が、つねるというよりはつまむような感じで、全然痛くはない。
「ごめんな、可奈」
かわいい妹の、頭を撫でた。
ふわふわとした髪の毛は手触りがよく、シャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
「えへへ……。お兄ちゃんに撫でられるの、好きだよ」
機嫌を直したのか、照れたように笑いながら、可奈は抱きついてきた。
ためらいもなく押しつけられた小さなふくらみは、パジャマ越しでも確かな柔らかさを感じる。
「お、おいおい……くっつきすぎじゃないか?」
妹とはいえ、さすがに照れくさい。
しかし気にしているのは雅也だけなようで、
「お兄ちゃんだから、いいんだもんっ」
そう言って、さらに強く密着してくる。
「お、おい、可奈」
小さい頃は気にしていなかったが、ここ一年ほどで、可奈はすっかり女の子らしくなっていた。そんなに身体を押しつけられては、兄として抱いてはいけない感情を抱きそうになってしまう。
それを否定するためにも、雅也は少しだけ語気を強めた。
「可奈っ……」
瞬間、ぎゅっとシャツをひかれる。可奈のつかんでいた部分だ。
「……だって」
先程とはうって変わって、沈み込んだ声。身体も小さく震えていた。
「こんなこと……次はいつできるかわからないんだよ? 明日になったら、はなればなれだもん……。お兄ちゃんのあったかさ、覚えておきたいんだもん……」
そうしてもう一度。今度は静かに身を寄せてくる。
「可奈……」
そうだった。明日になれば、可奈とは離れて暮らすことになる。二度と会えないわけではないが、気軽に行き来できるような環境でもない。
「お兄ちゃんと会えなくなるの、イヤだよぉっ……」
「…………」
震える可奈を、雅也は無言で抱きしめた。
なぐさめの言葉は思いつかない。また、思いついたとしても、はなればなれになるという事実は変わりようがないのだ。それならせめて、少しでもこうして震えをとめてやりたかった。
「……ごめんね、お兄ちゃん」
しばらくして、可奈が顔を上げる。
「少し、落ち着いたから……」
「そうか」
確かに、震えはおさまっていた。だがその瞳は濡れていて、今にも雫がこぼれてしまいそうだ。
「……そろそろ寝ようか」
ぽんぽん、と雅也は軽く頭を叩いてやる。
「明日は引越しの準備で、朝も早いんだし」
「う、うん……」
わずかに可奈はうなだれた。もっと話していたかったのかもしれないが、これ以上遅くなると、明日に支障が出るのも事実である。
「……あ、あのね、お兄ちゃん。寝る前に、その……兄妹として、最後にしておきたいことがあるんだけど……いい?」
「しておきたいこと……?」
一体なんだろう。
雅也は首をかしげた。
そもそも、兄妹としてするべきことなどあっただろうか。
などど考えていると――
目の前に、妹の顔が迫っていた。
「えっ……?」
理解する間もなく、唇がふさがれる。
キス――。
唇を通して、体温が伝わる。柔らかさが伝わる。妹の鼓動までもが、伝わってくる。
ほんのわずかな重なりから、すべてが通じ合う気がする――ふしぎな感覚。
「んっ、んっ……」
可奈は、懸命に唇を押し付けてきていた。
小さい頃に何度かしていた、妹とのキス。あの頃はさほど意識していなかったが――数年が過ぎた今では、もちろんこの行為の意味もわかっている。
家族間での、親しみを込めたキス……? いや――可奈の求めているのは、そういうことではない。
「おにい……ちゃん……」
一旦、彼女が唇を離す。その瞳は、熱を持ったかのように潤んでいた。
これ以上続けてもいいのかどうか。そう訊ねているように、雅也には思えた。
「可奈……」
そっと、彼女の頭に手を伸ばす。一瞬、ビクッと震える可奈だったが、雅也は安心させるように、優しく撫でてやる。そして自分のほうへと引き寄せた。
「んんっ……」
互いの吐息が混じり合う。
その心地よい感触に、雅也は身も心もゆだねていた。
そして、どのくらいそうしていただろう。
可奈はゆっくりと、唇を離した。すっかり顔がほてっているのが、街灯のわずかな明かりからでもわかる。
「ご、ごめんね、お兄ちゃん……。無理矢理、しちゃって……」
「……いや」
と短く返事をするが、心臓のほうは、激しく脈打っていた。
しばらくは静まりそうにない。
「でも、明日になる前に……ちゃんと兄妹のキス、しておきたかったんだ……」
「き、兄妹のキスって……あれがか?」
最初はともかく、途中から完全に大人のキスになっていた。……もっとも、雅也も抵抗はしなかったのだが。
「えへへ……ごめんね」
悪びれた様子もなく、ペロッと可奈は舌を出す。
「お兄ちゃんとするの久しぶりだったから、つい……興奮しちゃったかも。……それとも、イヤだった?」
「い、イヤなわけじゃないけど……でも」
「だったらいいよね。もともと血は繋がってないんだし……明日からは兄妹でもなくなるわけだし……。えへへ、ちょっと背徳的だよね」
「…………」
意味がわかって言っているのだろうか。
まあ、可奈もここ数ヶ月間、大人の世界に混ざって過ごしているわけだから、その手の知識も入ってくるのかもしれないが……。
「ね……最後にもう一回」
雅也のほうに顔を傾けて、可奈は目を閉じる。
「今度は兄妹の……子供の頃にしたキスでいいから……」
「……今だって子供だろ」
「もう、そういうこと言わないのっ」
「あははは……」
やっぱり子供だ。
そう思いながら、雅也はかわいい妹の頬を撫で、ゆっくりと唇を近づける。
ふつうの兄妹なら、例え家族でもしない行為。しかし雅也も可奈も、お互いに血の繋がりがないことは、昔から知っていた。お互いに一人の他人として見ていたからこそ、こんな行為もできるのかもしれない。
「お兄ちゃん、好き……」
可奈が囁くように言う。
「会えなくても、わたしのこと忘れちゃやだよ……」
「……バカだな」
好きという言葉が、兄妹以上のものであることを、雅也は知っていた。
「忘れるわけ、ないだろ……」
そうして目を閉じ、可奈の唇に触れようとする。
が、次の瞬間。
ドォォォォォンッ!
激しい轟音と共に、家が大きく揺れた。
「ぶっ!」
顔面に、衝撃。
目標がはずれ、雅也は畳にキスをしてしまっていた。いや、キスというよりも、叩きつけられたといったほうが正しいだろう。それほどの強い揺れだった。
「な、何? 地震っ?」
さすがに驚いたのか、可奈が慌てて身体を起こし、布団から出る。
「い、いや、地震とは違うみたいだが……」
顔を押さえながら、雅也も立ち上がった。部屋を見ると、積んでいたダンボールがいくつも下に転がっている。引越しのおかげで助かったが、今頃他の家では大変なことになっているのだろう。
「何か爆発音みたいだったよね? それに、まだ音が……きゃっ」
窓の外をのぞこうとした可奈が、ふらつき、座り込んだ。
「可奈っ」
その肩を、雅也は抱き寄せる。
揺れは終わっていなかった。
ギィィィィィンッ!
金属を削るような音が大気を震わせ、窓枠はガタガタときしんでいる。
先程より小さいとはいえ、立っていることもできない。
「くぅっ……!」
耳障りな音に、雅也は顔をしかめる。腕の中では、可奈がぎゅっと目を閉じ、耳を塞いでいた。
この音と揺れが、深く関係しているのは間違いないだろう。
爆弾でも落ちたのか、戦争でも始まったのか。
それとも世界が終わってしまうのか。
「こわいよ、お兄ちゃんっ……」
「可奈っ……大丈夫だ!」
異様な状況は、激しい不安を掻き立てる。
彼女のそれを少しでもやわらげるために、雅也は強く抱きしめ続けた。
そしてどれほど過ぎたのか。
「お兄……ちゃん……」
腕の中の可奈が、わずかに身じろぎする。
「揺れ……おさまったみたいだよ?」
「……そ、そうか?」
言われて、思わず周りを見たが、確かにもう揺れは感じない。
しかし街灯が消えていて、部屋の中は真っ暗だった。あれほどの揺れだったのだから、停電してしまったのだろう。
「ありがとう、お兄ちゃん。もう大丈夫だから、手……離していいよ。それに、ちょっと痛いし……」
「あ、ああ、ごめんな」
離そうとして、一瞬腕が動かなかったことに、雅也は驚いた。よっぽど力を込めていたのか、少ししびれている。
「ううん、嬉しかったから」
と、可奈は笑みをこぼす。
「やっぱりいざというとき、お兄ちゃんは頼りになるね」
「あ、はは……」
そんな風に言われると、何だか照れくさい。
それにしても、今のは何だったのだろう。ただの地震でないことだけは確かだが……。
しばらくして、目が慣れてきた。かすかな月明かりだけでも、周りに何があるかくらいはわかるようになってくる。
「ん? 可奈……?」
ふと隣を見ると、彼女は窓の外を見上げていた。
「お兄ちゃん……あれ、何だろう……?」
「うん……?」
眉をひそめ、視線を追う。
いつもの、見慣れた光景――。
だが、そこにひとつだけ、奇妙なものが混ざっていた。
巨大な棒のようなものが、地上から天へと伸びている。一体どれほどの長さがあるのだろう。その先が、雲に隠れていた。
「もしかして……あれが落ちてきたのかな?」
「……そんな、まさか」
あんな巨大で細長いものが、大気摩擦で燃え尽きずに――それも、地面に突き刺さるなんて、絶対にありえない。
「でも、あれ……隕石じゃないよね」
「…………」
可奈の言葉に、雅也は何も返す言葉がなかった。
そして翌日。
地面に突き刺さった巨大な棒は、『宇宙から飛来した人工物』として、大々的に報道されたのだった。
第一話 五月一日
「お兄ちゃん……。ねえ、お兄ちゃんってば」
ゆさゆさ、と何かが雅也の肩を揺すっていた。
右腕に、軽く重みを感じる。布団のそれとは違う、あたたかくてやわらかな感触。
手をすべらせると、ぷにょん、という不思議な弾力が返ってきた。
「やんっ……。そんなところ、さわっちゃだめだよぉ〜」
「…………」
瞬間。一気に汗が噴き出したような気がした。
……まさか。
イヤな予感が頭から離れないまま、雅也はおそるおそる、まぶたを開く。
「おはよう、お兄ちゃん」
そこには、何故だか恥ずかしそうに顔を赤らめている、可奈の姿があった。
そして、目に飛び込んでくる肌色――。かけ布団から肩が見えているが、そこには何も身に着けていない。
「もう、朝からえっちなんだからぁ〜。昨日、いっぱいしたくせにぃ」
「…………」
可奈の言葉に、ダラダラと、さらに汗が噴き出す。
気が付いたら、隣で裸の女の子が寝ていた――というのは、マンガなどでもよくあるシチュエーションである。
しかし。
義理とはいえ、妹はまずいだろう、妹は。しかも小学生なら、なおさらだ。
「か、可奈……。その……どうして」
顔をひきつらせながら質問すると、
「はい、これ」
いきなり目の前に、右手を持ってきた。そこには何やら白い布きれが握られている。
「何だ……?」
雅也は受け取り、その布きれを広げてみた。
びみょーん、とよく伸びる素材でできており、下のほうに小さめの穴がふたつ、上のほうには大きめの穴がひとつ開いている。その大きめの穴のすぐ下には、小さなリボンもついていた。
「……って、これパンツじゃないか!」
「うん。しかも脱ぎたてだよ」
両手を頬にあて、ポッと顔を赤らめる。
たしかにこのパンツには、まだほんのりとぬくもりが残っていた。
「こ、これを……俺にどうしろと?」
「お守り」
「……お守り?」
「そう。ほかの女の子が寄ってこないよーに。物干しに飾ってもいいし、大事に持ち歩いてもいいし」
……なるほど。
洗濯物として干しておけば、女と暮らしていると思わせることができるし。大事に持ち歩いていれば、ヘンタイさんだと思わせることができる。
女の子を近づけない効果としては、まさに絶大だ。
……イヤすぎる効果ではあるが。
「お兄ちゃんは……わたしだけのお兄ちゃんだよ」
そう言って、可奈は唇を突き出すように顔を上げ、そっと目を閉じる。
この行動の意味がわからないほど、雅也は鈍くないつもりだが――それでも、どうしても戸惑いがあった。
「え、え〜と……」
「昨日のつ・づ・き。早くぅ〜」
「早くぅ〜、って……」
それは小学生のセリフじゃない。
と頭の片隅でツッコミをいれながらも、雅也は彼女の頬に手を伸ばした。
自分よりも一回り以上小さい可奈の身体は、どうしても幼さを強調させる。
彼女にこんな行為はまだ早い。しかも相手は義理の妹だ。
もちろん頭の中ではわかっているが、しかしそんな背徳感が極上のスパイスとなって、雅也の欲望を刺激した。
「可奈……」
ぷにぷにとした唇に指先を這わせ、そこに自分の唇を近づける――。
が、いつまで進んでも、唇が触れ合うことはなかった。
……あれ?
おかしいと思って目を開けると、周囲は一面の乳白色に包まれていた。
可奈の姿も布団も見えず、雅也自身も空中に浮いているようで、それでも顔だけはとまらずに進んでいく――。
ごちんっ。
「あいたっ」
額に硬いものが激突し、痛みで一瞬にして乳白色は消え去っていた。
目の前にあるのは、既に見慣れた抹茶色の壁紙。そして身体を包んでいる、薄っぺらい布団。
「……夢、か」
雅也はかけ布団をはねのけ、身体を伸ばす。
ふと下のほうを見ると、下半身が反応しているのがわかった。健康な男子高校生としては、まあ、いつものことではあるのだが――。
今日見た夢は、結構やばいかもしれない。何しろ、妹と肉体関係を結んでいるという内容なのだから。しかも相手は十一歳の小学生……。
「……やっぱり、大人のキスはやりすぎだったか」
唇を押さえ、可奈との別れの夜のことを思い出す。
彼女の勢いに流されてしまった感じもあるのだが、あれ以来、夢に見てしまって仕方がない。
……もっとも、本当の妹ではない、というのが唯一の救いではあるが。
「ふうっ……。さて、と」
うつ伏せになり、枕元に置いてある目覚まし時計に手を伸ばす。
長針が真下で、短針がそのやや左のほう。午前七時半だった。
せっかくの日曜日だというのに、いつもと同じ時間に目が覚めてしまうのは、何だかもったいないような気もするが。しかしもう完全に目が覚めてしまった。
「よっ、と」
両足を高く上げ、そのまま下ろした勢いで起き上がる。そして身体を上に伸ばしながら、ついでに天井からぶら下がっているヒモをひき、電気をつけた。
薄暗かった室内が、パッと明るくなる。見えないわけではないが、この部屋で過ごすには電灯は必需品だ。
東側には大きな窓もあるのだが、光を取り入れるには、ほとんど役にたたない。この部屋だけでなく、周辺の家はほとんどそうである。
原因はただひとつ。一ヶ月前に落ちてきた、アレのせいだ。
一時期、世界中を騒然とさせ、害がないとわかった今でも周囲は立ち入り禁止となっている、宇宙からの飛来物――。
「よしっ……」
短く息を吐き、雅也は窓に手をかける。
「せーのっ」
ギシッ……ギシギシッ……。
力を込めると、窓枠がきしんで耳障りな音を立てた。
とりあえず、光は入らなくても、空気を入れ替えることはできる。せめてこれくらいはしないと、カビでも生えてきてしまいそうでたえられない。
「ふうっ……」
何とか開けきると、雅也は手を離す。窓枠からはずさないように開くのは、なかなかコツがいるのである。
やがてゆっくりと空気が入り込み、雅也の肌をかすかに冷やして通り過ぎていく。
そしてその外には――この辺り一帯を暗く覆い隠している、巨大な人工物がそびえたっていた。
通称、宇宙ドリル。地面にめり込んでいる部分がドリル状であることから、そんな名前がついたらしい。
高さと幅、共に東京タワーとほぼ同じ。色は黒で、材質は不明。
明らかに人工物であることから、地球外生命体からの何らかのメッセージではないか、という意見が頻繁にニュースで流されており、現在でも世界中から人が集まって研究が続いている。
しかしニュースでは、対立するようにもうひとつの意見もあった。
世界中から注目を受ける宇宙ドリルではあるが、その下敷きとなって死亡した者は二百人近くにものぼっている。そのままでは気の毒だという、遺族の涙ながらの訴えも同時に流れており、何とも複雑な気分にさせてくれた。
実際、雅也の通う高校の生徒にも死者がでたくらいだ。不謹慎なのはわかっているが、それが自分の友人ではなくて、ホッとしたものである。
……もっとも、宇宙ドリルが地中深くにめり込んでいることや、地球にはない金属でできており、これまでに傷ひとつつけられないでいること。何よりその巨大さから、取り除くのは非常に困難であるということが発表されていた。
迷惑なことことのうえなく、雅也の周囲でも一部の宇宙好きなマニアをのぞいては、不満の声しか聞くことがない。まあ、ただひとつ、恩恵があるとすれば――現在借りているこのアパートの家賃が、格安になったことくらいである。
日当たり最悪。近所にあった店はほとんど潰され、買い物に不便。大量に死者が出たせいで、活気のない街の人々。世界中から研究者が集まっており、外国人だらけで何だか怪しい雰囲気。
色々と理由はあるが――もっとも重要なのは、宇宙ドリルの存在そのものである。
みんな思っているのだ。何かが起きるんじゃないか、と。
実は某国の秘密兵器ではないか、とか。突然爆発したり、放射能を吐き出したりするのではないか、など――。
そんな噂が絶えることはなく、街を出て行く人々も多い。
……もちろん、雅也にも不安はある、
だが、今の一人暮らしを続けていくためには、ここにいるしかないのだ。ここに、いるしか――。
だからこうして、毎朝宇宙ドリルを眺めているのは、確認が欲しいからなのかもしれない。今日も何も起きていなかった、ということを。
「……さて、と」
窓に背を向け、雅也はポリポリと頭をかく。
「メシの用意でもしようかな……」
誰にともなくそう呟くと、台所へと向かった。
「……あ、その前にトイレトイレ」
一人暮らしを始めると、独り言が増えるのは本当だな、と雅也は用をたしながら思うのだった。
トイレを済ました雅也は、そのまま洗面台の前に立った。既に毎朝の習慣となりつつある、身だしなみのチェックのためである。
一人暮らしを始めてからは、一度も欠かしたことがないのが、少し自慢だった。
……もっとも、それもすべて、トイレの壁に貼られたポスターのおかげである。
『可奈は清潔なお兄ちゃんが好きです。ちゅっ』
投げキッスのポーズを決めた可奈の横に、デカデカと書かれた文字。そして下のほうにはやや小さく、『清潔なお兄ちゃんになるための五ヵ条』なんてものまで書かれていた。
ちなみに、第一条は『朝、トイレを出たら身だしなみをチェック!』とある。
可奈のお手製ポスターだからというのもあるが、こんな恥ずかしいものを毎朝目にしていては、守らないわけにもいかなかった。まあ、そのおかげでキレイな部屋をたもっていられるのだから、感謝しなくてはいけないだろう。
「……あ〜、今日も寝癖ついてるなぁ」
鏡を見ると、髪の後ろの方が、少し立っていた。髪はいつも短めにしているのだが、こうして中途半端に伸びてくると、寝癖がつくようになってしまう。整髪料などという洒落たものはないので、とりあえずペタペタとお湯をつけて直しておく。床屋に行こうかとも思ったが、手持ちに余裕がないので、しばらくはこれでガマンである。
それから電気カミソリで、少し濃くなってきたヒゲを剃り、タオルで顔を洗った。
「うん。だいぶさっぱりしたな」
呟いて、最後にもう一度、鏡でチェックする。
面長で、やや色黒の肌。濃い目の眉に、細い目と鼻、薄い唇。
ハンサムとまではいかないが、そんなに悪くはない顔立ちだ……と自分では思う。
お兄ちゃんカッコいい、と可奈にも言われるし。……ただ、そう言ってくれるのが妹だけ、というのが少し寂しいが。
ともかく、次は食事の用意だ。
キッチンに置いてある数個のダンボールを、しばし眺め――それから、雅也は二つのものを取り出した。
レトルトのご飯に、しょうゆ味のカップラーメン。
さっそくご飯をレンジにいれて、お湯を沸かす。
あとは時間を待つだけで、準備は完了。
こんなにラクなことはない――ということで、食事はほとんどこれである。オカズは閉店前に半額になるスーパーで、ときどき肉やサラダを買うくらいだ。
最初のほうこそ自分で色々作ろうとしたものだが、面倒でとてもやっていられなかった。
気楽と思って始めた一人暮らしではあるが、家事で結構な時間をとられてしまう。それをできるだけ減らして、自由な時間を作るためでもあった。
まあ、空いた時間で何をするのかといえば、テレビゲームだったりするのだが。
チーン。シュゥシュゥシュゥ。
レンジの終了音と、お湯の沸騰する音が同時に鳴る。
「おっと」
雅也はレンジのフタを開け、火を止めた。
カップラーメンにお湯を注ぎ、そのままナベを上に乗せる。
「えっと……昨日の残りがたしか……」
腰までしかない、小さな冷蔵庫を探って、一枚の皿を取り出した。スーパーで買ってきた、肉やら野菜やらのパックを、移しかえたものである。
これもレンジにいれ、その間に雅也は布団をたたみ、折りたたみテーブルを中央に広げた。その上に温め終わった皿やラーメンを移動させ、最後に牛乳を持ってくると、雅也は腰をおとす。
これで準備は終わり、あとはテレビを見ながらの、のんびり食事タイムである。
「……なんかやってたかな」
新聞がないので、どんな番組があるかはわからない。特に見たいものがあるわけではないので、いつも適当だった。
牛乳を飲みながら、雅也は部屋の端に転がしておいたリモコンを手に取り、テレビに向ける。
ブン、と音を立てて、電源が入った。
『あっ……』
ドターン!
いきなり声と共に、激しく床に打ち付けたような音が聞こえる。
テレビはまだ音声だけだったが、やがて映像のほうも見えてきた。
『大丈夫か?』
中学生くらいの男の子が、心配そうに声をかける。
『ふえ〜ん……ミルクがぁ〜』
泣きべそをかいた女の子が、白濁液にまみれた顔を上げ――画面いっぱいに映し出された。
「ぶうっ!」
それを見た瞬間、雅也は派手に吹き出していた。テーブルの上に、テレビと同じ白濁液が降りそそぐ。
女の子には、見覚えがあった。ありすぎるほど、あった。
「か、か……可奈っ……げふっ」
せきこみながらも、その名を呟く。
そう、可奈だった。三月まで一緒に暮らしていた――そして、妹だった少女。
もっとも、可奈がテレビに出ていること自体は、なんら不思議ではない。彼女がそういう仕事をしていることは、離れる前から知っていたことだ。
ただ、いきなりあんな――顔中ミルクまみれな場面を目にして、驚いただけである。
『ほら、俺の分をやるよ』
『わあ、ありがとうお兄ちゃん!』
テレビでは、兄の役らしい男の子が、可奈にコップを渡していた。
そして笑顔で受け取り、可奈はこくこくと飲み干していく。
『えへへ……お兄ちゃんのミルク、おいしいよ』
『ばーか』
こつん、と男の子が軽く可奈の頭を叩いた。そこで画面が切り替わり、牛乳パックが映し出される。
『おいしいミルク、カナリア』
……CMだったらしい。
それからテレビはニュースが始まったが、雅也としてはまだ衝撃が収まらない。
可奈がアップになった場面が、まだ目に焼きついている。
「あれ……絶対狙ってるだろ」
何を、とまでは言わないが。
……だまされてる。お前きっと、だまされてるぞ。
別の意味を連想してしまうCMに、そう思わずにいられないが――実際、可奈のCMは好評らしいのだ。
先週届いた手紙に、「新しいCM撮影したよー」と書いてあったから、おそらくこれがそうなのだろう。
『おいしいミルクシリーズ』のイメージキャラクターとして、オーディションに合格し、デビューした可奈。その人気は上々で、他のCMにも採用されたり、最近ではバラエティー番組や、念願だったドラマにも出演するようになっていた。
いま、もっとも注目を集めている子役タレント――といっても、過言ではないだろう。雅也のクラスでも、話題にのぼることがあるくらいだ。
面白いのは、彼女が『妹系』と呼ばれていることだろうか。CMにドラマと、妹役が続いているから……というのは、もちろんあるのだが。
可奈は自分が『お兄ちゃん大好き』であることを、まったく隠そうとしていなかった。
インタビューの『好きな人はいる?』という質問には、『お兄ちゃんが好きです』と堂々と答えるし。バラエティーの挨拶では、『お兄ちゃん、見てる〜?』とカメラに向かって手を振るし。
見てるほうとしては冷や冷やものだったが、結果的にはそれがウケたらしい。事務所側もそういう方針で可奈を押し出し、ドラマや声優など、次々と妹役が舞い込んだという話だ。
「しかし……すごいよな、可奈は……」
先程、テーブルにまき散らしてしまった牛乳を雑巾で拭いてから、雅也は食事を再開する。
「小さい頃からの夢を、もう叶えちゃったんだからな……」
オーディションに合格したのは、半年ほど前だったろうか。応募者は千人以上いたというのだから、たいしたものである。
可奈の母親である倉木奈津子が熱心だったこともあり、彼女は小学校にあがる前から養成所に通っていた。
最初の頃は、可奈もあまり気乗りではなかったようだが……。
雅也が中学生のとき、とある女優のファンになり、熱心にドラマを見ていた時期があった。その女優は、結婚してすぐに引退してしまったわけだが――
『わ、わたしだって、いつか女優さんになって、ドラマにも出るんだもんっ。そ、そうしたらお兄ちゃん、わたしのこと応援してくれる?』
『え? あ、ああ……』
『絶対だよ? わたし……お兄ちゃんのアイドルになるんだからっ』
そんな些細なやり取りがきっかけになったのか。
可奈は真剣に練習に取り組むようになり、めきめき上達していったらしい。
……もっとも、可奈が頑張っていたのには、ほかにも理由があった。
彼女の母親である倉木奈津子と、雅也の父親である高瀬直樹の、離婚を阻止するためである。七年前に再婚した二人だったが、いつからか性格の不一致が目立ち始め、やがて離婚話も浮上するようになっていた。
それに猛烈に反対したのが可奈である。
直樹と奈津子の関係が七年間も保たれたのは、全て彼女のおかげといってもいいだろう。彼女が雅也を慕い、明るい笑顔を見せ続けたことで、二人の心も和んでいたようだった。
しかし、それもやがて限界が来てしまう。
だが、半年前。正式に離婚を決意したことを、直樹と奈津子は雅也たちに報告した。
二人の決意が変わらないことを知ると、可奈はひとつの賭けに出た。つまり、自分がオーディションに応募するから、合格したら離婚を取り消してほしいと。
そして努力の甲斐もあって、見事合格を果たす可奈だったが、結果は――
……裏切られてしまった。
オーディションの前に、既に離婚届けを提出していたことを後から二人に聞かされたときは、雅也も怒りを抑えきれなかった。
他人を――ましてや父親を殴ったのは、はじめてだった。あのときは頭が混乱していて、拳が痛かったことしか覚えていない。
だがもっと痛かったのは、可奈の涙だった。
うれし涙がくやし涙に変わる瞬間は、思わず目をそむけてしまったほどだ。
せっかくオーディションに合格したというのに、可奈は部屋に閉じこもり、雅也も両親とは顔を合わせずらく、その日はとてもお祝いをする雰囲気ではなかった……。
ドンドンッ。
直樹と奈津子が可奈の部屋をノックするが、彼女は鍵をかけ、夜なっても出てこようとしなかった。二人は何度も謝罪の言葉をかけたが、それで離婚を取りやめるわけではない。可奈は無視を続けるだけだった。
『俺がいくから……』
雅也は両親をさがらせ、彼女に声をかける。そうすると、可奈はようやく鍵を開けてくれた。
ドアを開くと中は電気もついておらず、真っ暗だった。街灯の明かりで、何とか彼女の姿が確認できる。
『鍵……かけて』
『あ、ああ……』
可奈の言葉に、雅也はドア閉め、鍵をかけた。すると突然、胸にぶつかるように、彼女が飛び込んでくる。
『か、可奈……?』
声をかけるが、彼女は応えない。しかし小さく震えるその姿を見ると、雅也は黙ってそのまま抱きしめ続けていた。
『ねぇ……お兄ちゃん』
そのままどのくらいが過ぎたのか。
可奈がゆっくりと顔を上げた。
『結婚しよっか……』
『えっ……?』
『だって、そうすれば……また家族になれるでしょ?』
『それは……』
言いかけて、口をつぐむ。
たしかに、もともと血が繋がっていないのだから、可能かもしれないが……すぐに答えられるようなことではない。
『……あ。わたしと結婚なんてイヤだなー、とか思ってるでしょ?』
可奈が不満そうに唇をとがらせる。
『いや、そんなことはないけど……ただ、そういうことは大人になってから考えるものだろ? それにあの人たち……父さんと母さんもさ、結果的には可奈を裏切るようなカタチになったわけだけど……前からあまり仲よくなかったし。可奈のために、ずいぶんガマンしてくれていたと思うよ』
『あ……』
思いあたることがあるのか、可奈が顔をうつむかせる。
最初に離婚話がでてから、二、三年はたっていたはずだ。それを考えると、よく続いていたものだとも思う。
『だからさ……そろそろ好きにさせてもいいんじゃないかな』
べつに両親をかばうわけではない。ただ、可奈をなぐさめるために……雅也はどこか上の空で、そういう言いかたをした。
『……お兄ちゃんは、わたしと離れて暮らしてもいいの?』
『いいわけじゃない。けど、』
ここまでです。すいません。
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