没原稿
第二話 「メイドさんはお嫌いですか?」
所々に落書きされた、お世辞にも綺麗とはいえない壁に囲まれた、狭い部屋の中。
ツンと鼻につく臭いと、隣から聞こえてくる、呻くような声。そして足元にこびりついた、見るのも遠慮したいような汚れのかたまり。
不快なそれらを我慢しながら、杉崎潤はそこに設置されている小さな棚にバッグを置いた。
そして、おもむろに両腕と左足を上げると、カクッと内側に曲げる。
「変身っ」
一昔前のアニメで登場し、割と流行ったポーズだった。何となく、一人でいるとやりたくなってしまうことがある。
――それはともかく。
これから変身の開始だった。といっても、ただの着替えなのだが。
潤はポーズを解除し、するすると服を脱ぎ始める。
胸に八つ橋高校の校章が描かれた、ブレザーの制服。ネクタイに、ワイシャツ。スラックス。
そしてパンツ。……は、脱がなくてもよかった。勢いに乗って、膝まで下ろしかけたところで我に返る。
潤は制服一式をバッグにしまうと、中から代わりの服を取り出し、着替えていく。
トレーナーにジーンズ。そして頭にはイベントでしか手に入らない限定品、ゲームメーカーハジルスの、特製帽子をセットする。ハジルスのロゴである、双子少女のシルエットが特徴だった。なかなかレアな一品である。
「よし、変身完了っ」
バッグのファスナーを閉め、潤は立ち上がった。
「時間は……七時半か」
腕時計を見て、確認する。いつもなら、丁度このくらいが起きる時間だ。
苦手な早起きをし、母親に不審そうな顔をされてもごまかし、さらに学校までサボるのは、すべて、ただひとつの目的のため。すなわち――トゥハード購入のためである。
「急がないとな……。サクラちゃんの抱き枕、必ず手に入れてみせる!」
クイッ! ズゴゴゴゴーーーッ!
景気づけに勢いよく水を流し、潤はさわやかな気分で駅のトイレを出発した。
そして三十分後。
京浜東北線の電車に揺られ、辿り着いた秋葉原の電気街。
さすがは大作の発売日というだけあって、たくさんのゲーマーが集まっている。その数、ざっと数百人。開店時間が迫れば、もっと増えてくるだろう。
彼らはそれぞれ目的の店の前に列を作っていた。
ダンボールを敷いて寝ていたり、仲間同士で雑談したり、カードゲームをしたり。一種のイベントのようなものである。
これまで潤も何度か目にしてきた、そんないつもの光景。
「俺も急がないとな」
会社に向かうサラリーマンや、同士と思われる者たちと並びながら、潤は早足で歩いていく。
目的地は、メンズサイコー。駅から大通りに出れば、あとは真っ直ぐ歩いて約五分の距離だ。間に信号があるが、既にこの地点でも、店の前に人だかりができているのがわかる。
「ちと、出遅れたかな……」
歩道の前で立ち止まる潤。直前で信号が赤になってしまったのが、もどかしい。
だが――。
後から考えると、ここで止まることができたのは、運がよかった。
「お、おい、あれっ……」
「な……何だ、一体っ?」
周りの人々が、一斉に上を向いてざわめきだす。その慌て方が、尋常ではなかった。
潤としては、早く列に並ぶことだけが重要だったのだが、周囲のあまりに大げさな反応に、ちょっとだけ気になってしまう。
「何なんだ……?」
潤は顔を上げてみる。
まさか、飛行機が落ちてくるとか、そんなバカな話でもないだろう――。
などと、思っていたが。
その予想は半分あたり、半分はずれていた。
澄み渡った青空の向こうに見えたのは、まるで切り傷でもできたかのような、赤い線の飛行機雲。
「い、いや――違うっ」
赤い飛行機雲など、あるわけがない。しかも、かなりのスピードで移動してきている。――地上に向かって。正確には、ここ、秋葉原に向かってだ。
「いっ……隕石か!?」
思わず口に出して、潤がそう言ったとき。
ギィィィィィンッ!
金属を激しく切り裂いたような、耳障りな音の衝撃が襲ってきた。
「ぐぅっ!」
耳を押さえ、うずくまる。
ズキン、と頭に痛みが走った。
周りからも、人々の悲鳴が聞こえてくる。
しかし、もしあれが本当に隕石だとしたら、こんなところで立ち止まっている場合ではなかった。
無駄かもしれない。だが、少しでもここから離れないと、それだけ危険が増すことになる。
「じょ……冗談じゃない」
潤は頭を押さえつつ、立ち上がった。
周囲は、既にパニックである。
地面に座り込んでしまう者。悲鳴を上げる者。慌てて走り出す者。
他人を気遣う余裕などなく、狭い歩道で押し合いへし合いをしている。
「…………」
そんな彼らを見て、逆に、潤は冷静になった。
そして、あることに気づく。
こちらに向かってきているはずの隕石が、いつまでも大きくならないのである。
普通は遠くのものは小さく、手前のものは大きく見えるはずである。ということは、あの隕石は小さいのだろうか。
いや、それもおかしい。小さな隕石なら、大気圏で燃え尽きてしまうはずである。どう見ても、あの隕石は数メートルあるかないかだ。
しかし謎は解けないまま、赤い炎に包まれた隕石は、潤の手前――二百メートルほど先に向かって落ちていく。
小さいが、スピードだけはあった。
そして――。
赤い看板のビルに、直撃する。赤い光の筋が、突き刺さったかのように見えた。
ドォンッ、という衝撃と共に、大地が揺れる。
「うおっ!?」
足元がふらつき、潤は尻餅をついた。
走っていた車の何台かがスリップし、激突する。
続いて、爆風。
潤は慌ててハジルス帽子を押さえた。
まるで積もったホコリに息を吹きかけたかのように、建物の瓦礫と人間が、宙を舞って飛ばされていく。その勢いのまま、彼らは道路や、向かい側のビルに叩きつけられた。
ぶつかった箇所が赤く染まり、そのまま誰も動かない。
丁度赤信号だったため、車にひかれるということはなかったが、それでも確実に重症のはずだった。中には、命を落とした者もいるかもしれない。
幸い、といってはいけないのだろうが――。
潤は、無事だった。爆風で数メートル転がっただけで、怪我ひとつない。
落ちてきたものは本当に小さな、二、三メートルあるかないかの塊だったようで、被害はごく一部に過ぎなかった。しかしもろに受けたのが、メンズサイコーのあるビルである。あの周辺に、ポッカリと隙間が出来てしまっているのが、この位置からでもわかった。
「そ、そんな。抱き枕が……」
最初に浮かんだのが、そのことだった。メンズサイコーがなくなっては、抱き枕が入手できない。
こんな状況で不謹慎だが、それが潤の正直な気持ちでもある。
もちろん、怪我をした人々を助けたいという思いもあった。と同時に、一体何が落ちたのかという好奇心も浮かんでくる。
「……よしっ」
潤は赤信号のままの道路を走り抜けた。
先程の衝撃で車は何台も激突し、交通状態はストップしている。
他にも潤と同じ考えの者はいたようで、無事だった人々が現場へと向かいだした。
しかし、近づくにつれて、段々と後悔の念が増してくる。
「……臭い」
潤は左手で鼻をふさぎ、口元を覆う。
道路に倒れた人々の流した、大量の血の臭いが、風に乗って流れてきていた。
それは鼻が曲がりそうなほどのきつさで、吐き気をもよおしてしまいそうなほどだった。
「大丈夫ですか?」
「しっかりしてくださいっ」
何人かが彼らに駆け寄り、介抱をし始めている。
潤も手伝おうか迷ったが、やはり先に現場の確認をしておきたかった。
こんなときに好奇心のほうを優先させてしまう自分に、嫌悪感を覚える。だが、周囲のほとんどの人間は、その場で呆然と見ていたり、とにかくここから離れようとしている者ばかりだった。
「おい、あれ死んでるんじゃないのか?」
「早く救急車呼べよー」
「どうせ誰かが何とかするだろ」
「うわー、あんな血まみれの奴に、よく触れるなー」
現場へと走る潤の耳に、無事だった野次馬たちの、そんな声が聞こえてくる。
(お前ら、最低)
心の中で吐き捨てるように言うが、すぐに、こうしている自分も同類だな、と思って少し悲しくなった。
しかし誰だって、自分の身が一番大切だ。
だから潤は、こう決めた。
現場を見て、危険そうなら逃げる。大丈夫そうなら助けるのを手伝う。
(情けないけど……これくらいで許してください)
倒れている人たちに頭を下げながら、潤は野次馬たちの間を、急いですり抜けていった。
「うおっ……!」
現場に到着した潤は、思わず声を上げて身をのけぞらせる。
そこは、メンズサイコーのビルがある場所だった。だがそんな面影は、きれいさっぱりと消えてしまっている。
「蟻地獄みたいだな……」
と、潤はそれを見て思った。
逆さにした円錐形の穴。そんなものが、直径三十メートル程もの大きさで広がっている。
しかも相当な勢いだったらしく、この位置からでは、穴の底が見えなかった。
「これがクレーターって奴か……。って、ちょっと待てよ?」
潤は首をひねる。
このクレーター――つまり隕石の跡は、あきらかにおかしかった。いや、そもそも落ちてきた隕石自体がおかしいのだが、あまりにも不自然なのである。
わずか二、三メートルの隕石で、こんな大きさと形のクレーターができるはずがなかった。
ただの隕石ではないだろう。だが、一体何が落ちたというのか。
「まあ、そういうのは専門家に任せるとして……」
底が見えないのでは、実物を確認することもできない。そのために逃げずにここまで来たわけだが、あきらめるしかなかった。
「しかし、これは……」
潤は、あらためて周囲を見回してみる。
穴との境界線上にあり、消滅はまぬがれたものの、衝撃によって今にも崩壊しそうないくつものビル。そして道路には、血まみれで倒れている人々。
だが、彼らはまだましである。
消えてしまったビルの中には、当然人がいたはずだ。おそらく、何が起きたかすらわかっていなかっただろう。わけもわからず、一瞬にして消えてしまうのは……怖いことだ。
もし、あと少し早くここに到着していたなら、今頃こうして立っていられなかったに違いない。
抱き枕がどうとか、言っている場合ではなかった。
「可奈ちゃん! 可奈ちゃん!」
「……ん?」
ふと、このクレーターの前にある道路で、一際、人が集まっているところがあるのに気がついた。数人の血まみれの男たちが、自分の怪我もかえりみずに、誰かに呼びかけている。
「可奈ちゃん、しっかりして!」
「かなちゃん……?」
潤は首をひねった。
どこかで聞いたことのある名前である。
周りを見回すと、ここにいる野次馬の半分くらいは、彼らの様子をうかがっているようだった。
「かなちゃんって……まさか」
一人だけ、思い当たる人物がいた。
芸能界だけでなく、アニメ・ゲーム業界でも有名な、今人気のチャイドルである。しかし彼女は、平日はきちんと学校に通っているという話だ。こんな時間にいるはずがない。
だが、近くにいた数人の男たちの、こんな会話が耳に飛び込んできてしまう。
「おい、あそこにいるのって、高瀬可奈だよな?」
「ああ。メンズの前でインタビューしてたときに隕石が落ちてきたもんで、もろに衝撃食らったらしいぜ」
「さっき、ちらっと見たけど、すごい血まみれだった」
「ありゃ、助からねえな……」
「あ〜あ、俺の妹にしたかったのにな〜」
「へっ、何言ってるんだよバーカ」
彼らは、へらへらと笑いながら、話し続けている。
(こんなときに、笑ってんじゃねーよ!)
まったく、不快な会話だった。年齢は、二十歳前後だろうか。常識がなさすぎる。
よっぽど殴ってやろうかと思ったが、今はこんな連中を相手にしている場合ではない。
「何か、俺も手伝わないと……」
現場を見たが、早急に逃げなければいけないほどの危険はなさそうだった。クレーターができているのは、歩道より外側である。道路の下は地下鉄が走っているので、落盤が怖いが……。多少ヒビが入っている程度なので、すぐに落ちてくるようなことはないだろう。
「でも、何をすれば……」
救急車は、既に誰かが呼んでいるはずだ。だが、先程の衝撃で、この付近は事故が多発している。到着まで、まだ時間がかかるだろう。
かといって、ただ倒れた人に呼びかけるだけでは助けることができない。
「……そうだ、薬だ!」
メンズサイコーの周辺を除けば、ほとんどの建物は無事だったのである。そういうところから、薬を分けてもらえばいいのだ。
「よし。じゃあ、さっそく……」
と、どこか適当な店にでも向かおうとした、そのときである。
妙な音が、足元から聞こえてきた。
シャカシャカシャカ……と、普段からよく聞いているそれは、学校の通学手段にもなっている、自転車のペダルをこぐ音だった。
それだけなら、何も珍しいことはない。だが問題は、それが足元から聞こえてくるということである。
潤の足元――。
そこには、隕石が落ちてできたクレーターがあった。音は、その中心――底の見えない穴の奥から聞こえてきている。
「な、何なんだ……?」
潤は怪訝に思いながらも、下を覗き込んだ。
ありえない場所からの、ありえない音。
それは段々と大きく、近くなり――。
「とおりゃあああ〜っ!」
気合の声と共に、何か小さく白いものが、勢いよく穴から飛び出してきた。それはそのまま高く、上空へと舞い上がる。
「うおおっ!?」
声を上げ、潤はのけぞった。
白と黒のヒラヒラとした布地が、最初に目に入る。
続いて、丸い二つの輪――タイヤだった。タイヤ同士を繋ぐ金属部分が、太陽を反射して、一瞬キラリと光る。
その上には、人らしきものが乗っているのがわかった。髪が長く、小柄で――何より胸が膨らんでいることから、どうやら少女のようだとわかる。
「じ、自転車に乗った……メイドさん!?」
潤は驚愕して目を見開く。
要約すると、その通りだった。
メイド服を着た少女が自転車に乗り、穴から飛び出してきたのである。
しかし、何故メイド服を着ているのか。
何故、隕石が落ちたはずの穴から出てきたのか。
そして何故、ビルの十階相当の高さまで、飛ぶことができたのか。
色々と謎は尽きないが、呑気に考えている暇はなかった。
メイド服の少女が、今度は落下してきたのである。こちらに――上空を見上げる、潤に向かって。
「きゃぁぁぁっ! よ、避けてくださぁぁぁいっ!」
自転車のハンドルを握り締めたまま、悲鳴を上げるメイド少女。
スカートがはためき、太ももが見えそうになって一瞬、目を奪われるが――すぐにそれどころではないことに気づいた。
「わっ、わわわわっ!」
反応が遅れる。我に返ったときには、彼女が目の前に迫っていた。
ドガッ!
「ひでぶっ!」
タイヤの後輪が、潤の頭上にヒットする。
「ああっ、ごめんなさいっ!」
謝る少女の声が、遠くで聞こえたような気がした。
頭がクラクラし、一気に意識が遠のく。
「う……あうっ……」
力が抜け、身体が沈んだ。
バッタリと、潤は地面に倒れこんでしまう。
(タ、タイヤにすられた部分……ハゲてないだろうな……)
気を失うまでのわずかな時間、潤はそんなことを心配していた。
「あの……大丈夫ですか?」
「……えっ?」
目を覚ましたとき、すぐそばに彼女の顔があった。
仰向けで寝ている潤の左側に座り、心配そうに覗き込んでいる、メイド服を着た少女。
きれいな黒髪の持ち主で、肩口から流れるように前に垂れてきたのが、妙に色っぽく感じる。ややたれ目がちで童顔だが、年齢は潤よりもひとつかふたつ、上くらいだろうか。
「これ……見えますか?」
彼女が、顔の前でヒラヒラと手を振ってみせる。
「あっ……み、見えます」
見とれている場合ではなかった。
潤は頷くと、半身を起こす。
すると、周りには随分と人が集まっていることに気づいた。
気を失った自分を心配してくれたのだろうか、と一瞬思ったが、彼らの視線の先は、隣の少女へと向けられている。いきなりあのような登場の仕方をしたのだから、当然といえば当然だった。
潤は、改めて彼女を見てみる。
立ち上がった少女は、黒のワンピースに、白いエプロンといった、いわゆるメイド服を身に着けていた。胸が強調されたデザインなので、正面から見るのはちょっと照れくさいが、なかなかボリュームはある。
そしてその横には、先程彼女が乗っていた自転車がとめてあった。見た目には、サイクリング用の何の変哲もない、普通の自転車のように思える。
(って、観察してる場合じゃないよな……)
潤は自転車から少女へと、視線を戻した。
目の前で何事もなかったかのように微笑んでいるが、彼女は明らかに普通ではない。
メイド服という格好自体は、ときどき見かけることができる。メーカーの販促活動等で、女性がコスプレして登場することがあるからだ。
しかし彼女の場合は、ただのコスプレ少女では済まされない。
何しろ、隕石がめり込んだ穴から、飛び出してきたのだから。
「あの……大丈夫なようでしたら、わたしはこれで。ぶつかってしまって、すみませんでした」
メイド少女は一礼すると、自転車に手をかけ、立ち去ろうとする。
「え、あ、ちょっと……」
潤は思わず手を伸ばし、彼女の腕をつかんでいた。
このまま別れてしまうには、あまりに惜しい。別に彼女が美少女メイドだから、というわけではなく、純粋に謎が知りたかった。
そこで――。
「ぐ、ぐおおおお〜っ!」
突然頭を押さえ、地面を転げ回った。
「えっ……ど、どうしたんですか?」
案の定、彼女は戸惑いの表情を見せる。
「き、君にぶつけられた部分が、きゅ、急に痛み出してっ……!」
そう言って、大げさなくらいにゴロゴロと転がった。
もちろん、これは演技である。先程ぶつけられた痛みは、既にほとんど残っていない。嘘でも何でも、この少女を引き止めることができればいいのだ。
「あ、でしたらあそこに救急車が来ていますので、見てもらいましょう」
「えっ……?」
潤は転がるのをやめ、彼女が指さしたほう見てみる。
すると、いつの間に来ていたのか、五、六台の救急車が道路に止まり、懸命に怪我人の治療と収容をしていた。
「すいませ〜ん、こちらもお願いします〜」
メイド少女が手を振ると、救急隊員の一人が足を止める。こちらに気づいたらしく、走ってやってきた。
「げげっ」
これはまずい。仮病であることがばれてしまう。
「怪我人はどなたですかっ?」
かなり慌てた様子で訊ねる救急隊員。顔中汗だくだった。
怪我をしていないのは調べればわかるし、この状況で仮病だと告げれば、かなり怒られてしまうだろう。
なので、潤はごまかすことにした。
「す、すいませんっ。俺はちょっと擦りむいただけで、たいしたことはないんです。お、俺よりも、他の人を助けてあげてくださいっ」
「……?」
首を傾げる、救急隊員。
そんなことを言うなら、何故呼んだのかと、おそらくは思っているのだろう。しかし、今は怪我人でもない者に構っている暇はないと、彼は判断したようだ。
「……わかりました。ご協力、感謝します!」
軽く一礼し、彼は再び他の怪我人のもとへと走っていく。
その後ろ姿を見ながら、潤はひどく罪悪感を感じていた。
(怪我の治療は一分一秒を争うっていうのにっ……)
今のせいで、誰かの治療が遅れて助からなかったり、後遺症が残ったりする可能性もある。
潤は迂闊な行動をしてしまったことを、反省した。
「あの……どこを擦りむいたんですか?」
ふいに後ろから、メイド少女の声がかかる。
彼女は両手で潤の頭に触れてきた。
「うわわっ」
身をすくませ、慌てて前に飛び出す。
振り返ると、彼女はきょとんとした顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「い、いや、だって……。そ、そんないきなり触られたら、びっくりするじゃないですか」
「ごめんなさい。でも、今見たところ、どこも怪我はないようですが?」
「うっ。そ、それは……」
潤は口はしを引きつらせる。
確かに、痛みはもう消えていた。気を失ったのは、ぶつかった痛みのせいではなく、あまりに驚いたせいなのかもしれない。
「ああっ、でもでもっ。俺は君にぶつけられたわけだしっ。お詫びとして、ちょっとだけ付き合ってほしいなー、とか思うのは自然の摂理というか何と言うか……」
「それは、つまり……ナンパしてるんですか?」
メイド少女は、小さく首を傾げてみせた。
「それとも、ゆすり……? 裏道に連れて行かれて、お金が払えないと身体を要求するつもりなんですね? 日本は怖いところだと聞いてはいましたが……いきなりこんなことになるなんて……」
「ち、違いますっ!」
眉をひそめてこちらを見る彼女に、潤は思い切り否定した。
確かにナンパはしようとしたが、ゆすろうなどという気はさらさらない。
それともこの少女には、自分がそういうことをしそうな存在に見えてしまうのか。だとしたら、随分失礼な話である。
確かにちょっと横幅はあるかもしれないが、背は高いし、太い眉に細い目、丸い鼻と、チャームポイントだらけだというのに。幼稚園の頃など、よく「女の子みたい」と言われたものである。……さすがに今は言われないが。
「ん……?」
そういえば、彼女は気になる発言をしていた。
日本は怖いところだと聞いていた、というのはつまり――。
「あの……もしかして、日本に来たのは初めてなんですか?」
潤が訊ねると、案の定、彼女は頷いてみせる。
「はい。実は先程、着いたばかりでして」
「へえ……」
どう見ても日本人にしか見えないが、外国暮らしだったのだろうか。しかしそれよりも、ここに着いたばかりだというのに、何故メイド服を着ているのだろう。
潤はさらに訊ねてみた。
「あの、どうしてそんな格好を……?」
「これですか? お仕事の関係で、日本の男性に好かれる服を着るように言われまして」
彼女は、スカートの裾を、軽くつまんでみせる。
そしておそるおそる、上目遣いで言った。
「あの……メイドさんはお嫌いですか?」
「大好きですっ!」
潤は即答していた。
「メイドさんは最高です! ご主人様と言われてみたいです! 美少女メイドは、男の夢なんですぅっ!」
「は、はあ……。よく、わかりました……」
苦笑いしながら、後ずさるメイド少女。
それに気づき、潤は我に返る。ちょっと興奮しすぎたかもしれない。
「す、すいません。つい……」
「いえ。参考になりましたから」
「……参考? あの、何のお仕事なんですか?」
「それは、ヒミツです」
彼女は微笑む。極上の笑顔だった。
(ああっ……このままお持ち帰りしたいなあ……)
一家に一台。もとい、一人は欲しい、美少女メイド。
美少女、というのがポイントである。美少女でなければ、メイドとは認められない。
最近のアニメ・コミック・ゲーム業界で溢れている、数多くのメイドキャラたち。その影響で、潤はすっかりメイドマニアになっていた。
「そ、それじゃあ、別の質問を。あの……どうしてあの穴の中にいて、どうやって外に出てきたんですか?」
クレーターを指しながら、潤は訊ねる。
ついでに、念を押しておいた。
「この質問には、ヒミツって言うのはなしですよ? 他の人たちだって知りたがっているんですから」
そう言って周りを見回すと、先程よりも増えたような気がする野次馬たちが、頷いてみせた。
しかしメイド少女のほうは、それらを気にするでもなく、ニコニコと微笑んでいる。
「実はですね……」
「……実は?」
「わたし、隕石が落ちた場所のすぐ近くにいたせいで、あの穴の中に落ちてしまったんです。それで、どうにかして出ようと自転車を思い切りこいだら、何とか脱出できたというわけです」
「なるほどなるほど……。って、そんなこと、できるわけないじゃないですか!」
潤は思わず叫んでいた。
あの底の見えない穴に落ちて平気で済むはずがないし、どう頑張って自転車をこいだところで、真下から地上約十メートルの高さまで飛べるはずがない。
彼女の言っていることは、無茶苦茶だった。
「……できませんか?」
「できませんっ!」
常識以前の問題である。
「あの……でも、わたしが入手した、この国の書物によりますと……」
言いながら、メイド少女は、自転車の前かごに入れてある、黒いカバンをあさり始めた。そして中から数冊の本を取り出し、彼女は問題のページを開いてみせる。
「ほら、みんな空を飛んだり、手から不思議な光線を出したりしていますよ?」
「それはマンガですっ!」
しかも少年向けのものだった。やたらと超能力を使ったり、技を叫んだりしている。
「マンガは日本の教科書である、と聞いたのですけど……」
「それ、偏見っ! 第一、人間は空を飛べないでしょうがっ!?」
「そうなんですか……」
メイド少女は、残念そうにうつむいた。
「日本は不思議な国だと、期待していたのですが……」
「何の期待ですかっ」
潤はツッコミ続ける。
彼女を通して、外国人の日本への偏見を、垣間見たような気がした。
「……やれやれ」
と、ため息をつく。
どうもこのメイド少女は、日本語を流暢に使える割には常識がないようだ。しばらく滞在するのなら、色々困ることになるに違いない。
(待てよ? これは逆にチャンスかも……)
彼女に日本の常識を教えるという口実で、デートに誘うという手もある。うまくいけば、美少女メイドな彼女をゲットという、おいしい展開も可能だ。
そんな妄想を描き、潤は口を開きかけたが、そのとき。
ふいに脳裏に、悪魔の声が囁いた。
(でも、それだけだとつまんないよな……)
幸いなことに、潤はオタクのバイブルともいえる本を所持していた。これさえあれば、彼女を使ってもっと面白い展開にもなりえるだろう。
「とりあえず、そのマンガは役に立たないのでしまってください。代わりにこれをあげますから」
潤はバッグから、一冊の雑誌を取り出した。表紙には、メイド服を着た女の子のイラストが描かれている。
「これは……」
受け取ったメイド少女は、タイトルを読み上げた。
「オー・ワイ・ディー・エス……?」
「O・Y・D・S。オタク四段積みシステムの略です。まあ、俺はオタヨンって呼んでいますけど」
「オタヨン……ですか」
怪訝そうな顔をしながらも、メイド少女はページをめくっていく。
「女の子のイラストがたくさんありますね……」
「そうです。これこそが、アニメ・ゲーム・同人誌・フィギュア等、その手のオタク必携の、総合情報誌なんですっ」
「……それを、どうしてわたしに?」
「ここを見てくださいっ」
潤は特集ページを開いた。
そこでは、読者からアンケートで募集した、様々なオタク的好みのランキング付けがしてあった。潤が指したのは、その中の『女の子に着て欲しい衣装ランキング』である。
「第一位、メイド服! 第二位、巫女服! 第三位、セーラー服! この三つが他を大きく引き離しています!」
「……そうみたいですね」
「さらに、髪型ランキング! 語尾ランキング! メガネランキング! 他多数!」
「…………」
「つまりは何が言いたいのかといいますと……。これらの第一位をすべて身につければ、完璧な日本人好みの女性になることができるのです!」
「はあ。なるほど……」
頷くメイド少女。
まあ、偏った好みではあるが、一部からは猛烈な支持を受けるのは間違いなかった。
彼女の場合、容姿と服装は問題ないので、あとはメガネをかけさせたり、三つ網にしたり、猫耳をつけたり、変な語尾を使わせれば完璧である。
常識を身につけさせるより、この方が断然面白い。
「というわけで、とりあえず頭に猫耳をのせて、しゃべるときは語尾に『にょー』とつけて言ってくださ……って、い、いない!?」
いつの間にやら、目の前から彼女の姿が消えていた。自転車もない。
「そ、そんな。メイドさん! メイドさーーーんっ!」
その頃。
メイド少女は、事故で渋滞続きの大通りを、自転車で走っていた。
「あと四時間……」
一瞬だけ空を見上げ、彼女は呟いた。
「早く接触しなくては……。彼に……高瀬雅也さんに……」
第二話おわり。
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