第二話 ボツ原稿その1



 午前七時五十分。
 澄み渡った青空を見上げ、さわやかな朝の光を全身に浴び、その少年は姿を現した。
 秋葉原の電気街にである。
「ここが、オタクの聖地か……」
 駅の改札を出て、キョロキョロと周りを見回す。
 電気街というだけあって、本当に電気店ばかりだが、この時間ではどこもシャッターが閉まっていた。
 そして立ち止まっている彼を、会社へ向かうサラリーマンや、明らかに同士と思われる者たちが、追い抜いていく。
「おっと……俺も急がないとな」
 鳥のフンだらけの地面を見て、ちょっと顔をしかめつつも、急いでポケットから地図を取り出した。
「え〜と、メンズサイコーの場所は……っと、こっちだな」
 場所を確認し、大通りへ向けて少年は歩き出す。
 髪は短く刈り上げ、背は高め。そしてがっしりした体型と、一見スポーツマン風である。
 しかし――。
「だっきまっくら〜っ、だっきまっくら〜っ。サクラちゃんの〜抱き枕〜っ」
 実態は、妙な鼻歌を歌う、オタク少年だった。彼もまた、メンズサイコーの購入特典を目当てにやって来た一人のようである。
「ふふふ……ついに始めたインターネットで、たまたま見つけたメンズサイコーのホームページ……。抱き枕がもらえるなんて、近所のショップじゃ考えられないぜ。さすがは秋葉原……」
 少年は口はしに笑みを浮かべながら、ブツブツとひとりごとを言っていた。ちょっと危ない性格なのかもしれない。
「開店時間が十時だからな。二時間も前に来れば余裕で買えるだろう」
 そんな計算をして、この時間にやって来たらしいが――そのセリフは、彼がまるっきりの初心者であることを表していた。
 先程、少年自身も口にしていたが、ここはオタクの聖地、秋葉原。彼の考えは、まだまだ甘かったのである。
「なっ……!」
 そのことに少年が気づいたのは、大通りに出てすぐにある、オラックスというゲームショップを見たときだった。
 高いビルの周囲を、人の列が埋め尽くしているのである。しかも、先頭の数十人はダンボールを下に敷き、中には寝ている者までいたのだ。
「まさか……徹夜か……!?」
 目を見開き、少年は驚きと戸惑いの表情を浮かべる。
 初めてこの光景を見たのなら、無理のない反応だった。
「やべえ……」
 少年は唇を噛み締める。ようやく、自分の考えの甘さに気づいたようだ。
 オラックスの入り口には、トゥハードの購入特典は、『描き下ろしのテレカ』と書かれていた。
「テレカでこの人数ってことは……」
 少年は慌てて歩き出す。
 抱き枕はもっといるに違いない、という結論に達したようだ。
 確かに、その通りである。よっぽどの有名作家が描いたテレカならともかく、基本的には抱き枕のほうが商品価値は高い。
 ちなみに。
 ツワモノともなれば、友人と協力し、各店でそれぞれ数本ずつ購入する。すべては特典が目当てだ。しかしそうすると、肝心のゲームソフトが余ることになるが、それはどうするのかというと――中古屋に売るのである。なので、当日の中古屋は未開封品であふれることになり、特典がいらない者は、より安く新品を購入することができるのだ。しかし、中には転売が目的の不届きな連中もいるので、注意が必要である。そういう者たちのせいで、純粋なファンが入手できないこともあり、困った問題でもあった。
 少し話はそれたが、トゥハードの純粋なファンである少年は、駅から約五分ほどの位置にある、メンズサイコーの前に到着していた。
「う、嘘だろ……」
 呆然と、たたずむ少年。
 ここに来るまでにも、いくつか長い列は見てきた彼だったが、メンズサイコーはその中でも明らかに最長の列を作っていた。店の入り口から、最後尾が見えないほどである。
「し、しかも……」
 ちらりと、彼は列の先頭を見る。
 そこでは、周りを大きなカメラが囲んでおり、マイクを持った少女が男にインタビューをしているようだった。
「あ、あれって……高瀬可奈ちゃんじゃないかっ……!」
 最近、様々な妹役をこなし、人気急上昇中のチャイドルである。声優をしていることもあり、アニメ・ゲームファンの間でも話題になっていた。
「むうっ……さ、さすがは秋葉原……」
 顎に手を当て、少年は唸る。
「できれば可奈ちゃんを見ていたいが……」
 ためらいがちに足を引きずりつつ、何とか後ろを向くと、そのまま一気に最後尾へと向かう。
「くそ〜っ。抱き枕が手に入らないと、来た意味ないからな〜」
 この人数では並んでも買えるかわからないが、とりあえず並ばないことには始まらない。
 少年は苦渋の決断を下した。

 

 最後尾に並んだ少年の横を、登校途中の小学生や、会社に向かうサラリーマンたちが、不思議そうな顔を向けていく。大抵はそのまま通り過ぎていくが、たまに「何の列ですか?」などと訊いてくる人がいるので、困りものである。
 誰でも知っているような、大衆向けRPGならともかく、彼らが並んでいるのはギャルゲーの列なのだ。
 ギャルゲーとは、女の子キャラがメインに登場する、恋愛要素を含んだゲームのこと。感動する名作もあれば、安易に作られた駄作もあるのだが、知らない人からすれば全部同じに見えてしまうという、厄介なジャンルでもある。そして彼らの大抵は、『ギャルゲーユーザー』イコール『オタク』という図式を思い浮かべるので、できればされたくない質問だった。『オタク』は決して悪いことではないのだが、やはりまだまだマイナスイメージが強いのである。
「それにしても、すごい列だな……」
 先の見えない前方を見て、少年は呟く。
「これじゃ、いつ買えるんだか……」