第一話 「お兄ちゃん、みてる〜?」
「あたしは、お兄ちゃんに押し倒されました」
六畳一間の部屋に突然響く、わざと棒読みをしているかのような少女の声。その聞き覚えのある声と、過激な発言内容に、高瀬雅也はまどろみの中から目を覚ました。
この春から始まった、アパートでの一人暮らし。当然、自分以外には誰もいるはずがないのだが、それは先月までのこと。今月――五月に入ってからは、とある少女が毎朝やってくるのである。
「『だ、だめだよ、お兄ちゃん』……とあたしは抵抗したのですが、お兄ちゃんはやめてくれません。お兄ちゃんの唇が、ゆっくりとあたしに迫り――」
「う、うわああああっ!」
叫び声を上げ、雅也は慌てて布団から飛び起きた。
「お、お前、いきなり何を言い出すんだっ!」
そう言って、パジャマ姿のまま玄関の方を見る。
「おはよう、雅也くん」
そこに立っていた紺のブレザーの制服を着た少女は、にっこりと微笑んだ。
「ばっちり、目は覚めたみたいね?」
「あ、ああ……。まあ、な……」
その笑顔を見ながら、雅也は肩を落としてため息をつく。どうやら、彼女にしてやられたらしい。
少女の名前は、神村ありか。このアパートの大家の娘である。
背は割と高めで、髪はややウエーブがかったボブ。頭の左右で一房ずつ、三つ編みに結んでいる。つり目がちなので一見きつそうだが、笑うと随分幼く見えるから不思議だ。男子の間でも人気があり、先日ひそかに行われた『彼女にしたいクラスメイト』ランキングで、見事一位を獲得した実績もある。まあ、雅也にはどうでもいいことだが。
「――で?」
と頭を掻きながら、雅也は訊ねる。
「今読んでたのは、まさか……」
「うん、これ」
ありかは手にしていたハガキを差し出した。
「いつもの、可奈ちゃんからの手紙ね。郵便受けに入っていたから持ってきたの」
「しまった……」
少しだけ、後悔する。昨日、チェックをし忘れていた。
「勝手に読んで悪いとは思ったけど、目覚ましも効かなかったみたいだから」
ちらり、と彼女が、床に投げ捨てられている時計を見ながら言う。どうやら寝ぼけてやってしまったようだ。
「ま、お前ならいいけどさ……」
どうせ彼女には可奈のことはばれているし、過去に手紙も何度か読まれている。
可奈は妹の名前で、現在十二歳の小学六年生。といっても、雅也との血の繋がりはない。十年前に父が再婚したときの、相手の連れ子だったのである。
小さい頃から可愛がっていたので、よく懐かれていたのだが、先日離婚して離れ離れになってしまった。既に義理の関係でもなくなってしまったのだが、それでも彼女は、こうしてよく手紙を書いてくれる。内容は、ちょっと……いや、かなり変なのだが。
「……で、その続きは何て書いてある?」
布団を畳み、壁にかけてある折りたたみテーブルを用意しながら、雅也は彼女に訊いてみる。
「うん。ここで目が覚めた、って書いてある」
夢オチらしい。
「あと、『今回の課題です。近いうちに、あたしの抱き枕が届くと思うので、それを抱いている写真を送ってね』……だって。ハートマーク付きで」
「だ、抱き枕……」
顔が引きつっているのが、自分でもわかった。
「またこの部屋に、可奈グッズが増えるのか……」
雅也はざっと、この小さな室内を見回してみる。
壁を埋め尽くすかのようにポスターが貼られ、テレビの上にはフィギュアとぬいぐるみが数体。窓には名前の刺繍入りカーテン。棚にある全ての食器と、今寝ていたシーツには彼女のプリント入り。
もはや、可奈グッズでないものを探す方が困難な状態だ。
「もし他の人がこの部屋を見たら……相当な可奈ちゃんマニアだと思われるわね」
さすがに、少し呆れたような顔をするありか。
「まあ、それ以前に……『小学生に夢中のやばい人』として見られるでしょうけど」
「それは言うな……」
ちょっとは気にしているのである。
そもそも、こうして可奈が自分のグッズを送ってくるのには、わけがあった。
両親の離婚を機会に、雅也は一人暮らしをすることになったのだが、それは当然、可奈とも離れ離れになることを意味する。お兄ちゃん子である彼女は泣いて引き止めたのだが、雅也の決意が揺るがないことを知ると、ある条件を出してきた。それが、『可奈グッズに囲まれた写真を定期的に送ること』なのである。
別に嫌だとか、面倒だとかいうわけではない。可愛い妹の頼みならば、聞いてやりたいと思う。だが、しかし――。
「さすがに、増えすぎだろ……」
わずか一ヶ月で、この量だ。食器やカーテン等、助かるといえば助かるものもあったが、このペースではいずれ置く場所もなくなってしまう。
「まあ、さすがは可奈ちゃんというか……今人気のチャイドルだけあるわね〜。これ全て特注品だなんて、資金力が違うわ……」
そう言いながら、ありかが急にテレビの電源を入れる。
「……どうしたんだ?」
「うん。追伸で、七時半からの『ゲームばくだん』にゲストで出るって書いてたから。しかも生放送だって」
「そりゃ、ギリギリセーフだったな……」
雅也はほっと息をつく。時計を見ると、開始まであと一分もなかった。
ゲームばくだん――略して『ゲーばく』は、主に子供向けのゲーム情報番組だ。雅也もゲームは好きなので、たまにだが、見ることがある。
かなり仕事が増えているとは聞いていたが、まさかそういう番組にまで出るようになるとは、意外だった。
『おはようございま〜す。高瀬可奈で〜す』
そうこうしているうちに、番組は始まっていた。手を振りながら、アップで画面に映っている。
『お兄ちゃん、みてる〜?』
その言葉に、彼女の周囲から笑いが漏れた。
「いや。だからやめろって、それ……」
テレビにツッコミをいれる雅也。
とはいえ、もはや可奈のそれは、お約束となっていた。『お兄ちゃんが好き』ということを隠そうとしないので、事務所も彼女を『妹キャラ』として押し出すことにしたらしい。それが成功したのか、ドラマやCM、声優など、次々と妹役が舞い込んできたという話だ。
その笑顔と、キラキラと純粋そうに輝く瞳が、見る者をひきつける。と、何かの雑誌で可奈のことがそう書かれていたのを、雅也は思い出す。ついでに、『妹にしたいアイドル』ランキングで、圧倒的多数で見事一位となっていたことも。
――確かに、そうかもしれない。
身長百四十センチ前後の小柄な体型に、思わず撫でたくなるような、ふわふわしたショートの髪。おまけに、アニメに出てきそうな、舌足らずな可愛らしい声。まさに、妹になるために生まれてきたような少女だった。まあ、実際は一人っ子なので、妹ではないのだが――。事情が複雑なこともあり、そんな細かいことは、誰も気にしていない。
「ちょっと、雅也くん。テレビを見ていたいのはわかるけど、先に顔でも洗ってきたら? そんなに時間ないんだから」
そう言ってテーブルについたありかは、持ってきた手提げ袋から大きな弁当箱を取り出した。
「ほらほら、今日はサンドイッチだよ」
ふたを開けると、中にはぎっしりとサンドイッチがつまっていた。具は卵にハムに、レタスにきゅうり。形もなかなかきれいに仕上がっている。
「どう? 月に二万円払うだけの価値はあるでしょう?」
腰に手を当て、ありかは得意満面の笑みを浮かべた。
「月に二万円、か……」
ぽつりと、雅也は呟く。
彼女には、朝と昼の弁当を作ってもらう代わりに、その額を渡していた。最初の頃は出来がいまいちだったので、値段が高いと文句を言ったこともある。それが悔しかったのか、彼女の料理の腕は目に見えて上達してきていた。
「確かに、インスタントばかり食べるよりはずっといいんだけど……」
しかも、朝に弱い雅也を、毎日起こしにきてくれるという特典付きである。普通なら、純粋に喜んでいいことなのだろうが――。
「その代わりに、お金を払うっていうのがなあ……」
それさえなければ、もっと全身から喜びを表現してみせるところである。
「……何よ? いまどき無償で、女の子にお弁当作ってもらおうだなんて、虫がよすぎるんじゃない?」
「まあ、それはそうかもしれないが……。ただ、その二万円が材料費じゃなく、お前の小遣いになるっていうのが、ひっかかるんだよな……」
弁当の材料は家のものを使っているのだと、以前に聞いていた。
「ふふふ……。わたしのお小遣いのためにも、お弁当作りをやめるわけにはいかないわ……」
ありかは小さく、口はしに笑みを浮かべた。
「せいぜい、いい実験台になってもらわないと……」
「ああっ! 今何か聞こえたぞ! 実験台って、ぼそっと言ったのが聞こえたぞ!」
「き、気にしちゃだめよ。ほら、早く顔洗ってこないと、可奈ちゃんを見る時間がなくなるわよ」
テレビでは、ゲストである可奈の挨拶が終わり、CMに入ったところだった。席をはずすには、今がチャンスである。
「……ったく」
ため息をつき、雅也は洗面所に向かった。
ありかに対してああは言ったものの、こうして毎日きちんと来てくれることには、素直に感謝しなくてはいけないだろう。朝と昼の分の食事を用意するだけでも、結構な手間がかかるはずである。それを考えれば、二万円が彼女の小遣いになろうと構わないのだが――それを認めるような発言をするのは、ちょっとだけ悔しかった。
「さて、と」
トイレを済まし、雅也は洗面所の前に立つ。
鏡を見ると、髪の毛の後ろの方が、少し立っていた。髪はいつも短めにしているのだが、こうして中途半端に伸びてくると、寝癖がつくようになってしまう。整髪料などという洒落たものはないので、とりあえずお湯をつけて直しておいた。
それから電気カミソリで、少し濃くなってきたヒゲを剃り、タオルで顔を洗う。
「うん。だいぶさっぱりしたな」
呟いて、最後にもう一度、鏡でチェックする。
面長で、やや色黒の肌。ハンサム……とまではいかないが、悪くはない顔立ちだ。
たまに、ありかと並んでも釣り合わない、などと失礼なことを言う連中もいるが、付き合っているわけではないから、いいのである。付き合う予定も、いまのところはない。
おそらく、他人から見ればかなり変な関係なのだろう。恋人でもないのに、食事の用意をしてもらい、一緒に登校してくるというのは。
最初、彼女が雅也にご飯を作ると言い出したときには、断った。誤解されるから、と。
すると、彼女はこう言ったのである。
「いいじゃない、友達なんだから」
確かに、一年生の頃から、ありかとは仲が良いほうだったが――。
「それに大家の娘として、店子に餓死されたら困るのよ」
……仕送りがあるので、餓死はしないだろう。さすがに。
「雅也くんのお父さんにも、よろしく頼まれたし」
それは、雅也の一人暮らしが認められた理由のひとつでもある。互いの両親が知り合いだったからこそ、雅也はここに住むことができたのだ。
「誤解されるような相手だっていないし……まあ、要するに、心配なのっ。いいから黙って言うこと聞きなさいっ」
そんなわけで、最後は強引に押し切られてしまい、二万円も持っていかれてしまったのである。
結局、彼女が何を考えているのかは、今もわからないままだ。
お金が欲しかったのか、それとも本当に心配だったからなのか――。
どちらにしろ、ありかとの関係は、周囲がどう思おうとも友達のままである。
たまに可愛いと思うこともあるが、それ以上の感情は、今のところはない。少なくとも、雅也には。
「雅也く〜ん。可奈ちゃん、もう出てるわよ〜」
「ああ。今行くー」
ありかに呼ばれて、雅也は思考を中断する。
とりあえず制服に着替え、彼女のところに向かった。
「ほら、早く食べて食べて」
「あ、ああ」
テーブルには、既に牛乳も用意してある。
まずは、それを一気飲みしてから、サンドイッチに口をつけた。
「どう?」
「……うん、うまいな」
じっと見つめるありかに、雅也は正直に感想を告げた。
「ありがと」
彼女はにっこり微笑む。
この質問はいつもされるが、もう最近では『うまい』としか言っていない。それほど、彼女の料理の腕は上がっていた。その進歩の速さに、雅也は驚いている。
「いや……お前、ホントにうまくなったよ。うん……」
「ほめてもお弁当代は減らないわよ」
それだけ言うと、ありかはテレビのほうを向いてしまった。
(これさえなければなあ……)
と思う雅也だったが、それ以上は何も言わないことにした。
とりあえず、今重要なのは、可奈の出ているテレビである。
(お兄ちゃんは応援してるからな〜)
と心の中で声援を送りつつ、サンドイッチを食べ続けた。
『可奈の、街角インタビュー!』
どこかの路上で、可奈はマイクを片手に叫んでいた。しかもよく見ると、背中にはランドセルをしょっている。
『平日の朝に生放送という、無茶な企画のせいで時間がないので、こんな格好してまーす。と同時に、あたしのランドセル姿が見たいという、ファンの声にも応えてみました〜』
彼女の言葉に、周囲のやじ馬から歓声が上がった。見事に男ばかりである。
「いや、それにしても……やけに人が多いな。どこだ、ここ?」
雅也は思わず身を乗り出していた。
可奈の後ろには高いビル群があり、その周りを大学生くらいの男たちが埋め尽くしている。
その疑問に答えるかのように、可奈は言った。
『今日は秋葉原に来ていま〜す。あたしが声優として出演した恋愛アドベンチャーゲーム、トゥハードの発売日なので〜す』
「とぅぶはっ……!」
トゥハード、と言おうとして、雅也は飲みかけの牛乳を吹き出した。
「うわ、汚いっ」
瞬間、ありかは飛ぶようにテーブルから離れていた。見事な反射神経である。
それはともかく。雅也の口内でシェイクされたその白い液体は、テーブルの上にあった全てのサンドイッチに降りかかっていた。
「もうっ……何やってんのよ、雅也くん」
腰に手を当て、呆れ顔で見るありか。
「全部食べなかったら、許さないからねっ」
「わ、わかってるよ。とりあえず、雑巾取ってくれ」
「……はいはい」
彼女から雑巾を受け取ると、雅也はテーブルの上の液体を拭き取った。と同時に、何だか嫌な臭いがし始める。牛乳を搾った雑巾というのは、どうしてこうも臭いのだろうか。
「……で、さっきのは何に驚いたわけ?」
テーブルから少し離れたところに座り、ありかが訊ねる。
「いや、その……今日、トゥハードの発売日だったのをすっかり忘れていて……」
苦笑しながら、雅也はひとさし指で頬を掻いた。
トゥハード――。スペルは、ToHardと表記する。
大手メーカーであるハジルスが、「今までにない、男らしい恋愛ゲーム」として発表し、前人気が非常に高いタイトルである。どこらへんが男らしいのかは、メーカーが情報を規制していて謎なのだが――しかしそれ以上に、可奈が主人公の妹役として出演していることも、大きなポイントだった。姿から言動、性格まで彼女をモデルとし、クリアしたユーザーにはメッセージボイスCDをプレゼントするという、キャンペーンも行っている。
「うっわ〜……」
それをありかに教えると、彼女はわざとらしく顔をひきつらせた。
「危ないお兄ちゃんだわ……。そんな気合入れて、妹を攻略しようだなんて……」
「べ、別にそういうつもりじゃ……。ただ、兄として、頑張っている妹の仕事はチェックしておこうと……」
「……シスコン」
テレビへ向き直しながら、ありかはぼそっと言った。
「なっ……ち、違うぞっ。可奈の奴がブラコンなだけだぞっ」
「……そんなの、どっちでもいいって。それよりほら、早くサンドイッチ食べて。時間ないよ」
「あ、ああ」
時計を見ると、既に七時四十五分である。
少し嫌だったが、牛乳まみれのサンドイッチを、雅也は急いで口に放り込んだ。
『では、次の方にインタビューです』
テレビでは、可奈が開店前の店の前を、歩いているところだった。歩道の半分を埋め尽くし、長い長い行列ができている。
『今度はこちらのお店のほうへ行ってみましょう』
そう言って、彼女がやってきたのは、今までテレビに映った中でも、最も長い行列ができている店だった。
看板に、「メンズサイコー」と表示してある。ちょっと嫌な店名だ。
『こちらのメンズサイコーさんというお店では、何と購入特典として、メインヒロインであるサクラちゃんの抱き枕がつくらしいです!』
『可奈ちゃんの抱き枕のほうがよかったよー』
行列の中から、すかさずそんな声が聞こえてくる。
すると可奈の顔から、すっと笑みが消えた。
『……そんなのお断り』
シーン……。
と、周囲が凍りつく。
しかし次の瞬間には、可奈は可愛らしくぽっと頬を染めて言った。
『だって……あたしを抱きしめていいのは、お兄ちゃんだけだもん』
おおっ、と歓声が上がった。
『ヒューヒュー』
『うらやましいぜー』
『どうも〜』
と可奈は手を振る。
これでウケるから不思議だった。
「よかったわねー。世界にひとつしかない抱き枕がもらえて」
ありかがにやにやと笑みを浮かべていた。
「もし俺が兄だとばれたら怖いぞ……」
可奈の人気が上がるにつれて、それだけが悩みの種である。誰も家に近づけなければ、大丈夫だとは思うのだが……。何事も、注意は必要だ。
『時間がなくなってきましたので、これで最後のインタビューにしたいと思います。一番先頭の人に、お話を聞いてみましょう』
可奈は先頭の男性に、マイクを向けた。
『おはようございます。今日は、何時から並んだんですか?』
『…………』
彼は、答えなかった。
やや太めの男性で、頭にはバンダナを巻き、背中にはリュック。どこか遠くを見るような虚ろな目で、首の辺りがプルプルと震えていた。
『え、え〜と……体調でも悪いんでしょうか?』
眉をひそめる可奈。
雅也にはわかった。あれは、訊く相手を間違えたと思っている顔だ。
『……ぉ……っ……』
『え? 何ですか?』
ぼそぼそと、男は口の中で呟いたが、聞き取ることができない。
可奈は彼にマイクを向けた。
『あ、あの俺……』
男が顔を向ける。やはり首がプルプルしていた。
『お、一昨日……から並んでます……』
『お、一昨日からですか?』
驚く可奈に、男はニタリと笑みを浮かべた。無精ヒゲが生えており、見るからに不潔そうである。
『あ……あお、青森……から……来たんです……』
『あ、青森から……ですか』
もはや驚くというより、可奈は呆れ顔だ。
『は、はい……。通販なしの、店頭販売のみと……聞きまして……。会社を休んで、来たんです……。お、お金がギリギリしかなくて……二日間、何も食べてないんです……』
『は、はあ……。すごい根性ですね。そこまでして、抱き枕が欲しかったと?』
『も、もちろんです……。で、でも本当は……』
男が可奈を見る。
『さ、サクラちゃんより……か、可奈ちゃんの抱き枕の方が……』
『…………』
『そ、そしてそして……』
ハアハアと荒い息をしながら、男の妄想が膨らんでいく。
『か、可奈ちゃんを抱きしめながら、可奈ちゃんを攻略し……ラ、ラブラブにさえなれば……。ほ、本物の可奈ちゃんも攻略可能ということに……』
『ちぇすとーっ!』
気合の声と共に、可奈は男の顔面にパンチを繰り出した。
『ぐはあっ!』
男はのけぞり、地面に倒れこむ。
鼻血を吹き出す彼を画面の外へと追いやると、可奈はわずかに頬をひきつらせながらも、営業スマイルを見せた。
『……バカです。バカがいました。悪い大人の見本です。とりあえず、鉄拳制裁しておきましたが……』
可奈は、カメラに顔を近づける。
『いるんですねえ……ゲームと現実の区別がつかない人って……。とりあえず、変な物体を見せてしまったことをここにお詫びします』
ぺこり、と頭を下げた。
『お、おおおおおっ』
彼女の後ろから、妙な叫び声が聞こえてくる。
振り向くと、先程の男が地面に寝たまま、空を指差していた。
『し、死兆星が見えるっ……』
『……放っておきましょう』
可奈は気にしないことにしたようだ。
丁度、そのとき。メンズサイコーのシャッターが、ガラガラと音を立てて上がり始める。大作の発売日のためか、通常よりも早い開店だった。
『それでは、もうお時間となりました』
時間も八時に迫り、可奈は締めに入る。
『名残惜しいですが、今回の生放送特別企画、可奈の街角インタビュー秋葉原編を、この辺で終了したいと思いま……』
と、そこまで言いかけた彼女の言葉が、激しい轟音と閃光によって、掻き消された。
突然降ってきた赤い光が、可奈の後ろ――メンズサイコーのあるビルに直撃し、爆発したのである。
ブツッ、と一瞬にしてカメラが途切れ、テレビには砂嵐だけが映っていた。
「な、なっ……!」
思わず立ち上がる雅也とありか。
呆然としたまま、雅也はゆっくりと彼女の顔を見る。
「い、今のって……何かの冗談か……?」
「で、でも……これ生放送でしょ……?」
「だ、だよな……」
ごくり、と唾を飲み込む。
心臓の鼓動が早くなっているのが、自分でもわかった。
突然のビル爆発。そして、映らなくなったテレビ。そろそろ一分が過ぎようとするのに、まだ回復しない。
このことが、意味するものは――。
「か、可奈ぁぁぁっ!」
雅也は、テレビに向かって絶叫していた。
第二話 「予約済みなんだから……」
午前七時五十八分。
秋葉原の、大地が揺れた。
あまりに一瞬の出来事で。そしてあまりの轟音で、誰の悲鳴すらも響かなかった。
まるで積もったホコリに息を吹きかけたかのように、メンズサイコーの前にいた人々や、そこにあった建物が、宙を舞って飛ばされていく。
その勢いのまま、彼らは道路や、向かい側のビルに叩きつけられた。ぶつかった箇所が赤く染まり、誰も動かなくなる。
空から伸びていた赤い光の直線が、数秒間、残像を残していたが、すぐに消えてしまった。
そして光が突き刺さったのは、メンズサイコーのビルである。そこを中心とし、直径約三十メートルの穴が、蟻地獄のような形で広がっていた。
深さは、約十メートル。
隕石が落ちたのだとしたら不自然すぎる穴だったが、それもそのはずである。
穴の底にいたのが、一人の少女と一台の自転車だとは、誰が想像できただろう。しかも彼女は黒のワンピースに白のエプロンといった、いわゆるメイド服を着ており、それがさらに現実離れした光景を作り出している。
「……何とか着きましたね」
と、メイド少女は呟いた。そして少し乱れた、艶のある長い黒髪をかきあげる。
やや垂れ目がちで童顔だが、年齢は十代後半といったところだろうか。外見は高校生にも、大学生にも見える。
『だから言ったじゃないか、栞(しおり)』
突然、若い男の声が響いた。彼女の乗る、自転車のハンドル部分からである。
『お前とこの轟沈号のコンビなら、大気圏通過するくらい問題ないと……』
「ディオさん……」
栞と呼ばれたメイド少女は、ハンドルの中心に顔を近づけた。そこにネジと同じくらいの黒い突起があり、それが通信機となっているらしい。
「もうちょっとマシなもの、なかったんですか? 私だから平気でしたけど、バリアの中、摂氏百度を越えていましたよ。普通の人間だったら今頃死んでます」
『仕方ないだろう、予算がないんだから』
「轟沈号というネーミングもどうかと思いますが……。元々ついていた、ラディストという名前のほうがよかったですよ」
『今頃文句を言うな。この国の情報誌に合わせてつけた名前だぞ』
「これですか……」
栞はエプロンのポケットから、A5サイズの本を取り出した。表紙には、女の子のイラストが描かれており、タイトルには英語で、「O.Y.D.S.」とあった。
「オタク四段積みシステム……ですね」
『うむ。日本人の趣味・嗜好を詳しく解説した情報雑誌だ。お前のそのメイド服も、この本を参考にデザインしてある』
「まあ……いいですけど。仕事がスムーズに進むのなら……」
少し複雑そうに、栞は自分の服装を見下ろした。胸が強調されたこのデザインは、やはり恥ずかしいようだ。
『それよりも、あまり時間がない。あと二時間ほどで、奴らが到着する』
「はい。それまでに彼に接触しませんと」
栞は口を閉じ、轟沈号と呼ばれた自転車をこぎ始める。
「とおりゃあああ〜っ!」
気合の声と共に、十メートルもの坂を一気に駆け上がった。勢いのまま、空中へと舞い上がる。その高さ、地上約十メートル。
『わざわざそんな声を出さなくてもいいだろうに……』
轟沈号から、ディオの呆れたような声が聞こえた。
「いえ、何となく。先程の雑誌に、メイド少女がああやって気合を入れる場面が紹介されていましたので……」
『なるほど……。まあ、いまのうちに練習しておくのもいいだろう。ではそのまま彼のところへ……』
「あ、待ってください」
地上を見下ろした彼女は、まるで浮いているかのように、ゆっくりと轟沈号を着地させた。
『ん、どうしたんだ?』
「怪我人がたくさんいます……」
周囲を見回し、栞は眉をひそめる。
崩れた建物。ひび割れた地面。そこに倒れ、血を流す大勢の人々。
被害は、今彼女が出てきた穴を中心に広がっていた。
栞が突然飛び出してきたというのに誰も反応しないのは、皆それどころではないからだろう。
現にすぐ目の前にいる男たちは、自分たちも血まみれだというのに、動かない少女に向かって必死に呼びかけている。
「可奈! 可奈!」
「しっかりするんだ、可奈!」
「くそっ! 救急車はまだか!」
余程大事な少女であるらしい。周りの何人もの大人たちが、彼女を助けようとしていた。
「あんな子供まで……。わたしたちのせいみたいです……」
『……まあ、仕方ないだろう。大事の前の小事という奴だ』
「でもざっと見たところ、このままではあの子も含め、半分くらいが死んでしまいます。わたしたちのせいで死んだなんて、さすがに後味悪いですから、せめて命くらいは……」
『……わかった』
あまり乗り気ではなさそうなディオだったが、少女の意見を承諾したらしい。その言葉と同時に轟沈号の黒い突起部分が光り、パチンコ玉程度の、小さな金色の玉が現れる。
『一番安物だが、これで命だけは助かるはずだ』
「ありがとうございます、ディオさん」
少女は微笑み、その金色の玉を高々と掲げた。
そして、指先で潰す。
パシーン。
ガラスが割れるような音と共に、彼女を中心とし、巨大な光の輪が出現した。その輪は一瞬にして街中を囲むように広がり、そして一瞬にして収束する。
「あ、あれ? 急に痛みが引いたような……」
「……何か、らくになった気がする」
倒れていた人々の、苦しげに歪んでいた表情が、穏やかなものへと変わっていた。失われかけていた生気も、段々と戻り始めている。
そして、先程の少女も――。
「……あ……ううっ……」
血まみれの顔を震わせ、ゆっくりと目を開く。
「可奈! 気が付いたか!?」
「よかった! すぐ救急車が来るからな! もう少し頑張れよ!」
「あ……、お……おに……ちゃ……」
「え? 何だって?」
「お、にい……ちゃ、んに……で、でんわ……したい……」
ブルブルと震える腕を、彼女は伸ばした。指が何本か、おかしな方向に曲がっている。
「お前、それどころじゃっ……! あっ……いや、わかった! 電話は俺が持っててやるから! 携帯、バッグの中か?」
「うん……」
少女はかすかに頷く。
「おい! 誰か、可奈のバッグを!」
男の一人が、仲間に指示した。そして持ってこさせたバッグを開けると、中から彼女の携帯電話を取り出す。
「登録名『お兄ちゃん』……これでいいんだよな?」
「うん……」
「あまり無理するなよ」
念を押すようにそう言うと、男は彼女の耳に当ててやった。
少女は満足そうに微笑むと、電話口に向かって話し始める。傍から見ても、その様子は怪我をしているとは思えないほど、幸せそうな顔をしていた。
「……少しでも助けることができて、よかったです」
そんな様子を見て、栞はほっと息をついた。
「でも、既に死んでしまった人たち……ごめんなさい」
自分の出てきた穴のほうを見て、呟く。
「きっと……無駄にはしませんから」
『……もういいだろう、栞。早く彼のもとに向かわなくては』
「はい」
栞は頷く。
そして自転車をこぎ、彼女は秋葉原を後にする。
「待っていてくださいね……」
ちらり、と青く晴れた空を見上げ、栞は呟いた。
「高瀬……雅也さん……」
ポーン、とテレビの時報が鳴った。
突然画面が砂嵐となってから、約一分。
時刻が午前八時になると、通常通りのニュース番組が始まった。
「可奈はっ……可奈はどうなったんだ!?」
雅也はテレビにかじりつく。
少しでも情報が知りたくてチャンネルを変えたりもしていたが、さすがに事件直後では、他局でニュースが流れるはずもない。仕方なくチャンネルを戻したところ、先程の時報が鳴ったというわけである。
しかし番組のほうでは、雅也の期待するような情報は何もなかった。
『申し訳ありませんでした』
と、男性と女性の二人のキャスターが、同時に頭を下げる。
何のことかと思ったが、どうやら先程の放送事故についての謝罪らしかった。
「そんなのどうでもいいから、可奈はどうなったんだよ!」
テレビに向かって雅也は叫ぶが、そのことについてキャスターが伝えたのは、わずかに一言だけであった。
『詳しいことは情報が入り次第お伝えします』
「何だ、そりゃあ! 今伝えろ! すぐ伝えろっ!」
「ちょ、ちょっと雅也くん! 少しは落ち着いて!」
ぐいっ、と急に肩をつかまれ、後ろに引っ張られる。
「うわっ!」
バランスを崩し、雅也は床に背中を打ちつけた。
「もうっ……テレビに文句言ってもしょうがないでしょ?」
そこを覗き込むようにして、ありかの顔が真上に現れる。
「それにいくら何でも、五分もたたないうちに放送なんて、できるわけないじゃない」
「い、いや、でも可奈がっ……」
「はい、これ」
起き上がろうとする雅也の顔に、ありかが何かを突きつけた。近すぎてよくわからなかったので、顔を離してみると、それは雅也の携帯電話だった。
「心配だったら、これで電話すればいいでしょ?」
「で、でもあいつの携帯、仕事専用のものだけだし……」
以前可奈が持っていたプライベート用は、あまりに雅也に電話をしすぎて仕事や勉強に影響が出たため、母親に止められてしまったのである。現在の仕事専用の携帯は、仕事のときしか持たせてもらっていないため、番号は雅也もわからなかった。
そんな理由から、今は代わりに手紙のやり取りをしているというわけだ。
ついでに説明すると、お互いに会えるのは、ニケ月に一回と決められている。可奈は今、仕事が増えてかなり忙しいのだが、そのときだけは完全な休日にしてもらえるらしい。
可奈はもっと回数を増やしたかったようだが、お互いの都合もある。雅也も週に三日のアルバイトや、一人暮らしの大変さもあるが、何より、彼女はアイドルだ。元兄弟であるとはいえ、今の雅也は世間的には血の繋がりのない他人なのである。そういう者に頻繁に会いに行くのは、あまり体裁がよくないということで、この回数はスタッフとも相談して決められたのだった。
ちなみに、送り迎えすらもスタッフが車でおこなうという徹底ぶりである。三月までは毎日顔を会わせていたというのに、今では会うことも難しい。人気アイドルは大変だな、と当時相談を受けながら、雅也は実感したのだった。
「要するに……電話はできない、と」
「そうなるな」
雅也は頷く。
「それに、緊急用の連絡は母さ……奈津子さんに入ることになってるから」
「そうなんだ……」
言葉を返しながら、ありかは視線をそらした。
母さん、と言いかけてしまったのを、聞かなかったことにしてくれるらしい。
彼女らしい気の使い方である。
奈津子は、雅也の父親である直樹の再婚相手だった。
最初に会ったときから、彼女はどこか苦手な相手であったが、それでも「母さん」とだけは呼ぶようにしていた。そんな苦手意識が、伝染したのだろうか。それとも、月日が経つうちにお互いに気づき始めたのか。いつからか、性格の不一致が目立ち始め、ケンカを多くするようになってきていた。
それでも十年間も関係が保たれたのは、全て可奈のおかげといっていいだろう。彼女が雅也を慕い、明るい笑顔を見せ続けたことで、二人の心も和んでいたようだった。
しかし、それもやがて限界が来てしまう。
「何で!? 何で離婚なんてしちゃうの!?」
両親から話をされた日――。
親の言うことなら何でも聞く、「良い子」の可奈が、このときばかりは泣き叫んで反対した。
「あたしはお父さんもお母さんも好きなのにっ! それにっ……それに、お兄ちゃんと離れ離れになるなんて……絶対嫌だぁっ!」
可奈のあのときの声を思い出すだけで、雅也の目に思わず涙がにじむ。
しかし結局は両親に頼まれ、雅也が彼女を説得することになってしまったわけだが――。
「お兄ちゃん……。何で、こんなことになっちゃったのかなぁ……」
雅也の部屋のベッドに座り、可奈は涙ながらに言う。
「あんなに仲良かったのに……。愛って、なくなっちゃうものなのかな……」
「俺には……よくわからないけど」
隣に座り、雅也は頭を撫でてやる。
妹が救いを求めているというのに、気の利いたことの言えない自分に腹が立った。
「ね、お兄ちゃん。離れても、また会えるよね? 会ってくれるよね?」
頭一つ分は背の高い雅也を、潤んだ瞳で見上げてくる。
「あたし、これからお仕事が忙しくなるけど、できるだけ時間作るから。作って会いに行くから」
「当たり前だろ」
目の赤い彼女にちり紙を渡してやりながら、雅也は微笑む。
「そりゃあ、戸籍上は家族じゃなくなるわけだけど……お前は俺の大事な妹だ。お前が頑張ってるとこ、テレビで見て応援してるからな」
「うん。ありがとう……」
堪えきれなくなったのか、可奈が弱々しい声を出しながら、抱きついてくる。
「あたし、頑張るから……。お兄ちゃんのこと思いながら、頑張るから」
「ああ」
「電話……するからね」
「ああ」
「手紙も書くからね」
「ああ」
「……大きくなったらお嫁さんにしてね」
「ああ。……って、何ぃぃぃーーーっ!」
雅也は驚愕の声を上げる。
今、さりげなくすごい言葉が入っていたような気がしたが……。
「あはははっ」
ぱっ、と離れ、可奈がおかしそうに笑う。
「ごめんね、お兄ちゃん。今の冗談だから」
「冗談……」
「だって、『ああ』ばっかりなんだもん。関係ないこと言っても、そう答えてくれるかなって思って」
「……ったく」
雅也は苦笑した。
しかし考えてみれば、可奈とは血が繋がっていない上に、兄弟でもなくなったわけだから、一応、結婚も可能なのである。
「あ、お兄ちゃん。今考えてるでしょ?」
「……な、何を?」
ドキッ、と心臓が高鳴る。
「あたしとの結婚」
「ま、まさかっ……」
「ぷぷっ。お兄ちゃんてば、焦ってる」
「か、からかうなよな……」
雅也は何だか情けなくなった。
五歳も年下の少女にからかわれて、どうするのだろうか。
第一、いくら何でも十年も妹だった彼女を、そういう対象で見ることはできない。
「今はね……まだいいんだ」
ふいに視線を遠くに向けながら、可奈は言った。
「十年くらいして、大人になってからね……。それでも、一緒にいたい。もっと近くにいたいって思えたら……考えてね」
「可奈……」
本気か? と口にしようとして、やめた。
そんなことは、彼女の真剣な表情を見れば一目瞭然である。訊くだけ野暮というものだ。
それにしても、芸能界で大人に揉まれているせいだろうか。とても小学生のものとは思えない言葉の連続で、雅也は内心焦りっぱなしである。
「これからしばらく会えなくなるけど……」
視線を戻さずに、可奈は言う。
「一人暮らしだからって、女の子連れ込んだりしちゃダメだよ? お兄ちゃんは、あたしが予約済みなんだから……」
「予約済みって……おいおい」
雅也は苦笑して、前を向く。
確かに、そういうことを全く期待していないわけではないが……。
「――えっ?」
ふいに、頬に暖かく、柔らかいものが触れた。
慌てて振り向くと、そこに可奈が身を乗り出し、唇を突き出している。
「か、可奈……」
「えへっ」
顔を離してから微笑み、ぺろっと小さく舌を出す。悪戯が成功したときの、可奈の癖だった。
「予約済みの証、だからね」
「ま、まあ、お前がもう少し大人になったら……考えてはおくよ……」
戸惑いながら、雅也は答える。
正直なところ、可奈と結ばれるという展開を、今までに考えたことがないわけではない。血の繋がらない兄妹が互いを好きになるというマンガや小説も、読んだことがある。
しかし、それはあくまで妄想に過ぎない。
家族となった最初の頃こそ意識はしていたが、可奈とは一生家族なのだと思っていた。だからこそ、実際問題として考えたことはないのだが、それはおそらく彼女も同じだろう。
突然、家族ではなくなって――。改めて、個人として捉えてみれば、「好き」という感情は家族に対するものとは違うことに気がついた。そういうことなのだろうか。
「いいよ。ゆっくり考えて」
と可奈は言った。
「時間はたっぷりあるんだから。……でも、必ず結論は出してね」
「あ、ああ……」
雅也は頷く。
「もうっ……。また『ああ』って言ってる」
「わ、悪い」
苦笑しながら、雅也は天井を見上げる。
義理の妹からの告白は、複雑ではあるが、どこか嬉しい気持ちもあった。だが、やはり早急に出す結論ではない。先程自分で口にしたように、互いに大人になってからでも遅くはないだろう。それまでは、やはり彼女は妹だ。大切な、妹である。
プルルルっ! プルルルッ! プルルルッ!
突然、けたたましく電子音が鳴り響いた。
「うわっ」
雅也は思わずのけぞるが、すぐにそれが目の前の携帯電話からだとわかった。
「もうっ……ボケッとしてるから驚くのよ」
呆れたようなありかの声。
悔しいが、確かにその通りである。
「ん……あれ? これ知らない番号だ」
携帯の画面を見ながら、ありかが首を傾げた。雅也が登録しているのはほんの数人なので、彼女は全て把握しているのである。
「間違いかな……?」
画面を向けながら、携帯を差し出すありか。
受け取って見てみると、確かに知らない番号だった。
「無視しよう」
と雅也は即断する。
これまで登録されていない番号でかかってきた場合、すべて間違い電話だった。そして相手の方はそれに気づくと、謝罪もなしに切ってしまうのである。出ても不快になるだけなので、こういうときは放っておくことにしていた。
しかし、いつもなら数回で切れるコールが、今回はなかなか鳴り止まない。
「雅也くん……。うるさいんだけど」
「…………」
「せめて着メロ、もっといいのにしようよ」
「別にいいだろ、シンプルで」
プルルルッ! プルルルッ! プルルルッ!
とはいうものの、やはりこう続くとうるさかった。
仕方ないので、とりあえず出てみることにする。
「……もしもし?」
声を出しながら、耳を澄ます。
聞こえてきたのは、人々の大きなざわめきだった。ということは、場所はどこかの街中だろうか。
だが、返事はまだ来ない。
次に何も返ってこなければ切ろうと思い、雅也はもう一度だけ声をかけることにする。
「もしもし――」
『もしもし、お兄ちゃん?』
ふいに聞こえてきた、明るい少女の声。
雅也の思考が、一瞬停止した。
予想外の相手であったこと。何よりその声が、今一番聞きたい人物であったことからだ。
(そうか……。無事だったのか……)
普段どおりのその口調に、雅也はほっと胸を撫で下ろす。
そして隣で様子をうかがっているありかに、グッと親指を立ててみせた。
「電話、可奈からだ」
「よかったわね」
彼女は安堵したように笑みを浮かべる。
それに頷いてから、雅也は電話のほうに集中した。
「大丈夫だったか、可奈? お前が出てる番組見てたけど、いきなりビルが爆発して映らなくなったんで、すごく焦ったぞ」
『う、うん。心配かけてごめんね。ちょっと事故があったみたいだけど、あたしは大丈夫だから』
「そうか……怪我はないんだな?」
『うん、平気。これから学校に向かうところだったけど、お兄ちゃんが心配してるかもって思って、先に電話したの。……あ、それからこの電話、スタッフさんに借りてるものだから、着信記録は消しておいてね』
「ん? ……あ、ああ、わかった」
『それじゃ、もう時間がないから切るね。バイバイ』
「え? あ、おい――」
プツッ。
切れてしまった。
「……?」
雅也は首を傾げる。
可奈との電話は、実に一ヶ月ぶりだったが、一方的に切るというのは今までなかったはずだ。それほど時間がなかったというのだろうか。
「それに着信記録を消しとけって……まあ、間違って電話しても困るしな」
操作ミスの可能性もあるので、とりあえず言うとおりに消しておく。
にしても、わざわざ言うことではないはずだが――。
「ねえ、雅也くん」
考えていると、ありかが声をかけてきた。
「可奈ちゃん、無事だったんでしょ? だったら、そろそろ学校に向かわないと遅刻するわよ」
「え?」
言われて、テレビに表示されている時刻を見ると、八時五分になっていた。八時十分にはここを出ないと、間に合わない。
「うわっ、まだ食べ終わってないぞっ」
とりあえず携帯電話をテレビの上に置き、テーブルに戻ってサンドイッチを頬張る。パンとキュウリと牛乳が微妙にブレンドされ、複雑なハーモニーをかもしだしているが、のんびりと味わっている暇はない。
残り時間を考えると、今口にしている一個が限界といったところだろう。
「そうそう。これ、お昼の分ね」
言いながら、ありががさらに弁当箱を置いた。
「ちなみに、中身は同じサンドイッチだから」
「んぐっ……!」
それを聞き、飲み込もうとしたパンが喉につまる。ドンドンッと胸を叩くと、ありかが牛乳を注いでくれたので、すぐに流し込んだ。食道から胃の中へと、冷たいものが通り過ぎていく。
「……ぶはっ! はあっ……はあっ……さ、さんきゅー。……っていうか、また朝昼同じメニューなのか?」
荒い息で文句を言うと、ありかの眉がわずかにつり上がった。
「何よ? 違うメニューのお弁当を二つ作るなんて、すごく大変なんだから。たまにはいいじゃない」
「たまに……というか、二日おきだが……」
「わたしだって忙しいのよっ。……って、そんな話をしてる場合じゃないでしょ? 時間、時間っ」
「おおっ、そうだった!」
あと二、三分のうちにここを出ないと、遅刻確定である。
仕方ないので食べかけのサンドイッチを置き、雅也は洗面所に向かった。そして、そこのハンガーにかけてあったネクタイを結び、上着を羽織る。ついでに軽く、口の中をゆすいでおいた。
「よーし。行くぞ、ありか」
準備が終わり、部屋に戻ると、テーブルはきれいに外からの光を反射していた。わずか一分たらずの間に、彼女が片付けてしまったらしい。
「はい、お弁当。頑張って作ったんだから、忘れたりしないでよね」
ありかが弁当の包みを、眼前に差し出す。
「……わ、わかってるよ」
それを受け取り、雅也はショルダーバッグの中にしまった。
「もう……本当にわかってるのかなぁ……」
そう言って、ありかは唇を尖らせる。適当な返事をする雅也に、不満そうな様子だった。
「あはは……」
それには答えず、乾いた笑いで雅也はごまかす。
もちろん、彼女には感謝していた。
よく気が利くし、お金を取ったからとはいえ、弁当も欠かさず持ってきてくれる。
しかし、礼を言うのはどうにも照れくさかった。
「ほらほら、早く行こうぜ」
雅也は先に玄関に向かい、靴を履いてドアを開ける。
「……はいはい。今日も一日、頑張りましょうね」
ため息をつきながら、彼女は軽く肩をすくめてみせた。
今朝は色々あったものの、そんなありかの顔を見て、雅也はようやくいつもどおりの朝に戻ったような気がしたのだった。
雅也たちが出かけてからしばらくして――。
プルルルッ! プルルルッ! プルルルッ!
無人となった雅也の部屋に、携帯電話の着信音が鳴り響いた。彼が、テレビの上に忘れていったのである。
その画面には、先程可奈からかかってきたものと同じ番号が表示されていた。
しかし当然、部屋は無人なので、誰もとることができない。
コールは何度も何度も、それこそ数十回も鳴り続けていたが、やがてあきらめたのか、切れてしまった。
『午前八時三十分、着信一件あり』
画面には、そう残されていた。
第三話 「通りすがりのメイドです」
緩やかな風が吹いていた。
少し前までは青空が広がっていたが、いつのまにか現れた白雲が日差しをさえぎり、地面を覆っていた影を消していく。
栞は走らせていた自転車を止め、上空へと視線を移した。周囲を高い建物で囲まれているので、見える範囲は狭くなっている。
「自然に天気が変わるなんて、何だか不思議な感じがしますね……。それが当たり前ではあるんですけど」
珍しそうに、彼女は空と、看板だらけの建物を見続ける。どうやら商店街へと入ったようだった。
「でも、空気が灰色で……最悪です」
栞はわずかに顔をしかめ、視線を正面に戻す。
そこは大きな道路となっており、何台もの車が排気ガスを出しながら行き交っていた。
「地面にはタバコの吸殻やゴミでいっぱいですし……。ナスタークなら、間違いなく消去される環境レベルですね」
ふう、と彼女は小さくため息をついた。
『……仕方ないだろう』
自転車のハンドル部分の中心から、若い男の声が聞こえてくる。
『この星の……特にこの日本での環境に対する認識は、非常に低いからな。自分たちのしていることがどれだけ危険なことか、ほとんどの人間はわかっていないようだ』
「……わかっていたとしても、やめることはできないんですよね」
呟くように、栞は言う。
「人間なんて、不便なものです。……まあ、そこが面白い部分でもあるのですが」
『それより栞、いつまで止まっているんだ? この国の観察など、後でもできるだろう?』
「今、赤信号なんです」
『赤信号?』
「ええ。信号が赤を表示しているときは、止まらないといけないんですよ」
栞が、そう説明する。
どうやらディオは、彼女の行動はわかっても、周囲の状況はわからないようだった。
『信号か……。そうか、まだそんなものがあったんだな』
「何言ってるんですか。ここに来る前に、一緒に調査したじゃありませんか」
『そんな細かいことまでは覚えてないな……』
「もう、ディオさんたら……」
呆れ顔の栞。
「……?」
ふと、何かを感じたのか、彼女は急に足元へと目を向ける。
すると、そこには小学校中学年といったくらいの少女が三人、不思議そうな顔で栞のことを見つめていた。三人とも、黄色い帽子をかぶり、ランドセルをしょっている。時間から考えて、おそらく通学途中なのだろう。
胸には名札がついており、東小学校の三年生と記入されていた。左のおかっぱ頭が『伊藤舞』、真ん中のロングヘアが『田中あゆ』、右の三つ編みが『吉田かおり』という名前のようである。
「どうかしましたか?」
自転車を降りて栞が訊ねると、彼女たちは困ったように互いの顔を見合わせた。
「あ、あの……」
やや間があってから、あゆが口を開く。
「お、おねーさんがさっき、男の人としゃべっていたのが聞こえたんですけど……でも一人しかいないし、どうなってるのかなって、みんなで言ってたんです……」
「ああ、そのことですか」
ディオとの会話を聞かれていたのだが、だからといって、彼女の表情に焦りの様子はなかった。
「あれは無線なんです。遠くにいる人と話すことができるんですよ」
「……むせん?」
「聞いたことあるような、ないような……」
舞とかおりが首を傾げる。
小学三年生では、無線と聞いてもピンとはこないだろう。
それで、すぐに別のものに興味が移ったようだった。
「あ、あの……おねーさんの服、すごくかわいいですね」
と、瞳を輝かせ、あゆが言う。
「うふふ。ありがとうございます」
栞は笑顔で言葉を返す。
その間に、信号は赤から青に変わっていた。
「さ、急がないと学校に遅れてしまいますよ」
「は〜い」
「ばいばい、おねーさん」
手を振り、駆け出す少女たち。
それを見送り、栞が自転車にまたがろうとした、そのときだ。
激しい急ブレーキの音と、何かがぶつかる音が響いた。
「あ」
正面を向き、栞は目を見開く。
ロングヘアの少女が、宙を舞っていた。
先程話していた中の一人、田中あゆである。
彼女は軽く十メートルは吹き飛ばされ、地面に激突すると同時に、大量の血でその場を濡らしていく。
「あ、あゆちゃーーーん!」
「あゆーーーっ!」
凍りついたように固まっていた舞とかおりだったが、すぐに彼女のもとへと走り出した。
「交通事故……」
栞は呟く。
今のは、あきらかに車の前方不注意である。一体何を急いでいたのか、確認もせずにハンドルを切ってきたのだ。
『何をしてるんだ、栞。急がないと間に合わなくなるぞ』
止まったままの栞に対し、ディオが声をかけてくる。
「……交通事故が起きたんです」
『交通事故? ……ひどいのか?』
「いえ。急いで病院へ連れて行けば、この国の医療技術でも助かります」
『だったら、お前が構う必要はないだろう。余計なエネルギーは使うなよ』
「……はい」
頷く栞。
彼女たちに、怪我をした少女を助ける様子はなかった。……ぶつけた運転手が、そのまま車を走らせてしまうまでは。
「……ひき逃げ、ですか」
白いボンネットに、べっとりと赤い血がついていることに、彼は気がついていないのか。思わぬ事故で、焦ってしまったのか。まだ若い男の運転手は、エンジンを唸らせ、逃走を始める。
放っておいても、いずれ警察に捕まるだろうが――。
それまで、彼女は待てなかった。
『おい、栞――』
という、ディオの制止の声よりも先に、彼女の姿が揺らめき、消え失せる。
支えを失った自転車が、ガシャン、と倒れた。
次の瞬間。
パアンッ!
巨大な風船でも割れたかのような音が響き、男の車が弾けた。
それが元は何だったのかわからないほど、バラバラに分解された部品が宙を舞い、道路に降り注ぐ。――運転手の、男と共に。
「ぐはっ!」
腰を打ち、男が呻く。
「な、なっ……何がどうなって……」
腰を押さえ、半身を起こす彼の目の前に、栞の顔があった。
「うわあっ!」
驚愕の声を上げ、男は尻餅をつく。
「な、な、何だ、お前はっ!?」
「単なる、通りすがりのメイドです」
顔をひきつらせる彼に、栞はにっこりと微笑んだ。
「それよりも、事故を起こしてしまったなら、逃げるより先にすることがあるんじゃないですか?」
「なっ……う、うるせえよ! 関係ねえだろ!」
「関係ない……? 人をひいてしまったのに、関係ないんですか?」
栞は、小さく首を傾げる。
「あのガキが周りを見ねえから悪いんだ! それより何で俺の車、バラバラになっちまったんだよ! ちくしょう!」
彼女を押しのけ、男は道路に転がる部品を手にし、悔しそうに声を上げた。
「……なるほど。随分、身勝手な人のようですね」
「ああん?」
栞の呟きが聞こえたのか、男が眉間にしわを寄せて振り向く。
「今、何か言っ――んぐっ!」
言葉の途中で、男が呻いた。
彼の額の中心に、栞の人さし指が深くめり込んでいたのである。
「あ、あ、あああああっ!」
男の身体が、ガクガクと震えだす。
「反省、してくださいね」
最後まで変わらぬ笑顔のまま、栞は指を引き抜き――そして、彼は倒れた。
目が覚めると、男は大きな交差点の中心で、大の字になっていた。広げた両手首と両足首には、それぞれ半円型の金属が取りつけられており、それが道路に深く埋め込まれている。動く部分は、首と腰くらいのものだった。
「くそっ。どうなってんだ、一体……」
男は必死に首をひねり、周囲の状況をつかもうとする。
しかし交差点の中心だというのに、人や車の姿は一切なく、信号の電気すらついていなかった。音もなく、生命の気配すらない。ただ無機質な空気だけが流れる世界に、男は存在していた。
「…………」
男は、唾を飲み込んだ。その表情に、不安の色がにじんでくる。
「な……何なんだよ、ここは! 俺をこんな目に合わせやがって! 誰かいるなら出てこい!」
空に向かって叫び声を上げるものの、どこにも響かず、むなしく空気に溶けていく。
「くそっ!」
怒りをぶつけるかのように、男は首を回し、腰を上下に動かす。だが、やはり手足だけはビクともしなかった。
「ぐっ……!」
顔をしかめる。
下手に動いたところで、痛いだけだった。
「くそっ! 誰かっ……誰かいないのかっ!」
男は再び叫び始める。
「誰かーーーっ! いるなら返事しろーーーっ!」
ブオンッ。
わずかに、空気が震えた。
男は口をつぐむ。
地面がかすかに振動し、段々と音が近づいてきた。
「車の音だ!」
首を向け、彼は嬉々とした笑みを浮かべる。
「おい、止まれ! 止まってこれを何とかしろ!」
一体、何様のつもりなのか。こんなときまで、男は命令口調だった。
しかし、そんな彼の笑みは、急速に失われていく。
「お、おい、止まれ! 聞こえないのか!」
制止する声にも構わず、迫るエンジン音。
身体が震えているのは、伝わる振動のためか、恐怖のためか。
「お、おい――!」
顔がひきつりながらも、男の視線は、白い車の運転手をとらえた。
その目が、愕然と見開かれる。
「お、俺っ……!?」
そう。運転手は彼と同じ顔、同じ姿をしていた。乗っている車種も同じ。ナンバープレートまで同じなのである。
「そっ、そんなっ……! ぐあああああああっ!」
男は絶叫した。
車は止まることなく――いや、むしろスピードを上げ、彼をタイヤの下敷きにしていく。
鮮血がほとばしり、肉片が飛び散った。
道路に赤黒いタイヤの跡を残しながら、車は止まることなく走り続ける。
やがてエンジン音も遠のき、見えなくなった。
「あっ……ぐぅぅ……」
男が呻く。まだ、かすかに意識があった。
しかし身体のほうはグシャグシャに潰れており、腹が破れて白い背骨が見えているという状態だった。
ブォン、とまたも近づくエンジン音。先程と同じ車、同じ運転手であった。
「うぁうっ……」
男はもう声も出せないが、残された顔の部分が恐怖に強張る。
が、その顔も、今度は潰された。
車が通り過ぎた後に残ったものは、もう原型が何であるのか、すぐには判断できないような肉の塊だった。
しかし次の瞬間。
ブクブクと沸騰するように肉塊が泡立ちはじめ、男の身体は元通りへと戻ってしまう。きちんと、服も着ていた。
「……ど、どうなってんだ?」
男は自分の身体の無事を確認する。その表情が、またも恐怖に歪んだ。
彼の両手両足は、拘束されたままだったのである。
そして再び、車が近づいてきた。
「や、やめろおおおおおっ!」
絶叫し、男は潰される。
グシャグシャになった身体が、元に戻る。
車が、彼をひきにやってくる。
後はもう、この繰り返しだった。
その度に男は絶叫していたが、五回目を過ぎた頃には、既に叫ぶ気力すらなくなっていた。
「いっそ、殺してくれ……。頼む……」
いつしかそんな呟きをもらすが、無限に続くかのようなループは、まだ終わらない。
男の身体が、またも自分の車によって潰された。
「あゆちゃん!」
「あゆ、しっかりして!」
道路に倒れた田中あゆは、大量の血を流し、意識を失っていた。
そこが横断歩道の中であるにも構わず、伊藤舞と吉田かおりは彼女に寄り添い、声をかけ続ける。
「どうしよう、かおりちゃん!」
「あたしにもわかんないよ!」
反応のないあゆの様子に、二人は顔を見合わせる。
周りには何人か人がいたが、皆面倒を避け、遠目に眺めているだけだった。車も止まることなく、彼女たちの横を通り過ぎていく。
しかしその前方には、あゆをひいた車がバラバラになって転がっており、運転手のほうも、端のほうで気を失っていた。
それにも構わず、車は進んでいき――案の定、部品がタイヤに弾かれる。その中のひとつが、彼女たちに迫った。
「わあっ!」
悲鳴を上げる少女たち。だが咄嗟のことで、避けられない――。
パシンッ!
当たる寸前で、乾いた音が響いた。
「えっ……?」
恐る恐る、目を開ける舞とかおり。
するとそこには、メイド服の少女――栞が立っていた。伸ばした右手には、飛んできた金属片をつかんでいる。
彼女は何事もなかったかのように去っていく車の後姿を見つめると、笑顔で少女たちのほうへ振り向いた。その際に、彼女たちには見えないよう背中に回した手を、軽くひねる。
バリンッ!
激しい音を立てて、車の後ろガラスに穴が開いた。驚いた運転手が慌ててハンドルを切り、ガードレールに激突する。どこか故障でもしたのか、車は横向きになったまま、動く様子がなかった。
「あっ……」
「車が……」
一瞬の出来事に、舞とかおりは呆然となる。
そんな彼女たちの肩を、栞はポンと叩いた。
「お二人とも、今は車のことより、あゆさんのことを何とかしましょう」
「あ……う、うん。そうだった」
「おねーさん、どうしたらいいの? 血が止まんないよぉ……」
今にも泣き出しそうな舞とかおり。二人の頭を、栞は優しく撫でる。
「大丈夫ですよ。絶対助かりますから。……わたし、怪我については詳しいので、わかるんです」
「……そうなの?」
「はい。……ところで、舞さんとかおりさん、足が速いのはどちらですか?」
「え? 足?」
「それは、あたしのほうだけど……」
栞の質問に戸惑いながらも、かおりが答える。
「では、かおりさん。あゆさんの家に行って、家の人と救急車を呼んできてくださいますか? わたしは舞さんと一緒に、あゆさんを見ていますから」
「う、うん。わかった」
かおりは頷くと、すぐに走り始めた。
「すぐ戻ってくるから!」
「がんばって、かおりちゃん!」
舞が声援を送る。彼女の姿は、すぐに見えなくなった。
「さて。……今のうちに、応急処置をしておきましょうか」
栞は呟き、血まみれのあゆの顔の上に、右手を当てる。
ぴくん、とあゆの身体が一瞬、痙攣した。
「お、おねーさん? 一体何を……」
舞が不安そうな顔で見つめる。
「大丈夫ですよ」
栞は、静かに微笑む。
「ちょっとした……魔法を使うだけですから」
「ま、魔法……?」
彼女が聞き返すうちに。
スッ――
と、栞は手のひらを、あゆの頭から足先まで、移動させた。
「これで……もう大丈夫ですよ」
「えっ……?」
わけがわからない、といった表情で首を傾げながら、舞はあゆを見下ろし――そして目を見開く。
彼女の傷口からは、泡が吹き出していたのである。
「な、何、これ……」
「これはですね、細胞を活性化させ――……あ、いえ。要するに、あゆさんの傷を治す力を高めたんです」
「治す力を……高める……?」
「ええ。その代わりに体力を奪ってしまうので、しばらく安静が必要となってしまいますが」
「う、う〜ん……」
眉をひそめる舞。栞が簡単に説明したものの、やはりわからないようだ。
「言葉で言うよりも、見たほうが早いですね。ほら、もう治ってますよ」
「えっ?」
慌てて、舞はあゆの身体を確認する。
「……ほ、ホントだ……治ってる……」
全身にできたすり傷や切り傷が、すべて塞がっていた。流れ出た血だけが、べっとりと残っている。
「お、おねーさん、すごい……」
呆然と、舞は栞を見つめた。
「本当に……魔法使い……?」
「わたしは、ただの通りすがりのメイドですよ」
彼女はにっこり微笑み、立ち上がる。
「舞さん、ちょっとだけ待っていてくださいね」
そう言って、栞は横断歩道を渡っていく。
先程の事故のせいで、片側の通行は完全に止まっていた。通れないことを判断した車は進路を変え、脇道へと入っていくので、少なくとも渋滞にはなっていない。
栞は反対側の道路に残していた自転車を取ると、あゆと舞のもとへと戻ってくる。
「ごめんなさい、舞さん」
いきなり、栞は謝った。
「わたし、もう行かないといけません」
「えっ? お、おねーさん……?」
困惑する少女の頬を、栞は優しく両手で包み込む。
「大丈夫ですよ。すぐに救急車も来ますし、かおりさんも戻ってきます」
「う、うん……」
舞は不安そうだったが、栞は手を放した。
「ほんの二、三分の辛抱ですよ。それから……例え自分たちが交通ルールを守っていたとしても、車のほうが守らないこともありますから。青信号になっても、周りをしっかり確認してくださいね」
「う、うん」
こくこく、と舞は頷く。
友達が目の前でひかれたのだ。十分にわかっただろう。
「では、わたしはこれで」
栞は自転車にまたがると、ペダルをこぎはじめた。
「あっ――」
彼女の後ろ姿を見て、舞は弾かれたように立ち上がる。
「おねーさーんっ! どうもありがとうーっ!」
その声に反応し、栞は少しだけ振り向いて、手を振った。
舞も手を振り返す。
やがて彼女の姿が小さくなり、見えなくなったとき。
「舞―っ!」
道路の向こうから、かおりの呼ぶ声がし、遠くから救急車のサイレンが近づいてきた。
『……何をしてるんだ、お前は?』
しばらく進み、人通りが少なくなってきたところで、それまで黙っていたディオが口を開いた。
「さっきのことですか?」
自転車を走らせながら、栞は訊ねる。
『そうだ。余計なエネルギーは使うなと言ったはずだが――』
「消費した<レイテス>は、一日分程度です。雅也さんが調査した通りの人なら……許してくれると思います」
『そういう問題ではなくてだな……ったく……』
呆れたように、ディオは言う。
『いいか、栞。困っている人間を見捨てられないという、お前の性格はよくわかっているが……。だからといって、いちいち手を貸していたらキリがないぞ。第一、今のお前には大事な使命があるだろう』
「……そうですね」
栞は苦笑いを浮かべた。
「すみませんでした、ディオさん」
『まあ、わかればいい。……ところで高瀬雅也のことだが、ゆっくりと移動を始めている。どうやら学校に向かったようだな』
「……学校ですか。わたし、そちらの場所はわかりませんが」
キッ、とブレーキの音を立てて、栞は自転車を止める。ここは小さな陸橋となっており、すぐ下には線路が敷かれていた。
『お前が小学生に構っている間に、調べておいた。そこに線路があるだろう? それに沿って進めばすぐだ。詳しくは追って指示する』
「わかりました。さすがですね、ディオさん。これで着地場所さえ間違えなければ、もっとよかったんですが……」
『……ほほう。栞も皮肉を言うか……』
「皮肉だなんて、そんな。……あっ」
ふいに、彼女は後ろのほうを見る。
この陸橋に着くまでには坂道があるのだが、そこで大きな荷物を背負った一人の老婆が、膝をついていた。
そのときのかすかな音が、栞の耳には届いたらしい。
「おばあちゃんが坂道で転びました。助けにいきませんと――」
彼女は急いで自転車をこぎ始める。――目的地と、反対方向に。
『って、こら! お前はそれどころじゃないだろう!』
「大丈夫です。<レイテス>は使いませんし、すぐに済ませますから」
ディオが制止したが、栞の意志は固かった。先程の事故のせいで、見てみぬふりが我慢できなくなったのかもしれない。
『ったく……この星の運命がかかっているっていうのに……』
かすかなため息と共に、彼は呟く。
彼女たちが雅也のもとへ辿り着くには、もう少し時間がかかりそうだった。
第四話 「ご主人様ですっ!」
五月も半ばを迎え、緑に覆われ始めたイチョウの葉が、ゆらゆらと風に揺れている。
広がりすぎて少し邪魔ではあるが、それでも歩道は、自転車が二台並んでも余裕で走れるスペースがあった。
「ほら、急いで急いで」
やや前を行くありかが、ちらりと降り返って声をかける。
「あ、ああ」
と答えて、雅也はペダルに力を込めた。自転車は、すぐに彼女と同じ位置へと並ぶ。
雅也の通う八つ橋高校まで、残り十分。この距離になると、あとはひたすら一直線なのだが――この単調な道のせいで、集中力は薄れ、運転以外のことが頭に浮かんできてしまう。
「可奈……」
雅也は呟いた。
考えるのは、やはり今朝の出来事である。
――テレビの生放送中での、突然の事故。
立っていた可奈のすぐ後ろのビルが爆発し、映像は途切れた。
あんな間近にいて、無事で済むはずがない。そう思っていた矢先の、彼女からの電話。
元気な、声だった。いつもと変わらぬ、彼女の声。
怪我はない、と可奈は言っていた。だが、本当にそうなのか。彼女のあの立ち位置で、どうすれば助かったというのだろう。
それに、言動にもおかしな部分があった。
着信履歴を消しておいてほしい、という彼女のお願い。
これに何の意味があるのか。
確かに、操作ミスでかけてしまうこともあるかもしれないが、わざわざ言うことでもないはずだ。
そして、普段なら絶対にやらない、一方的に電話を切るという行為。どんなに時間がないときでも、可奈はお互いに声をかけあってから切るようにしている。
それすらできなかったということは、現場で何かあったということではないのか。
「き、気になる……」
雅也は奥歯をかみしめた。
制服のポケットを探ってみるが、携帯電話は入っていない。どうやら家に忘れてきてしまったようだ。第一、履歴は消してしまったから、もう可奈に電話をすることはできない。
「――んっ?」
ポケットに手を入れたまま、雅也は重大なことに気がついた。
「履歴を消すように言ったのは……俺に電話をさせないため……?」
だとしたら、つじつまはあう。
確かに今、雅也は電話をかけようと思った。そして返事によっては、すぐにでも可奈のところへ向かうつもりだった。
しかし履歴を消してしまったために、もうこちらから電話はできない。
彼女は雅也の行動を想定して、あんなことを言ったというのだろうか。
「可奈……」
もう一度、雅也は呟く。
彼女の言うとおりに履歴を消してしまった、迂闊な自分を呪いながら――。
「雅也くんっ!」
ふいに真横から、ありかの叫ぶような声が耳に届いた。
「えっ?」
慌てて、雅也は彼女のほうを向いて――次の瞬間、腕と股間に衝撃が走る。車が進入できないように、車道と歩道との間に設置されているポール――これに、ぶつかってしまったらしい。
「どわあっ!」
勢いで、身体が前に投げ出される。頭が沈み、足が宙に浮かんだ。
キキィィィーッ!
背中に痛みが走るのと同時に、激しいブレーキ音が響く。
「雅也くん!」
ありかの絶叫。
死――。
雅也の脳裏に、そんな言葉が思い浮かぶ。
背筋が、凍りついた。
だが――ぶつかる衝撃は、ない。
目と鼻の先に感じる、エンジンの熱気。ゴムの焦げるにおい。喉を痛める排気ガス。
恐る恐る、閉じてしまった視界を開くと――目の前十センチのところに、車のバンパーがあった。
本当に、ギリギリの位置で。
雅也はぶつからずに済んだのである。
「大丈夫ですかっ?」
バタンッとドアが開かれ、車の運転手が降りてくる。サラリーマン風の、若い男だった。
「だ……大丈夫です」
少し背中が痛むものの、雅也は立ち上がる。
改めて周囲を見回してみると、ここは横断歩道の上だった。しかも現在赤信号である。
車がたまたまスピードを出していなかったから助かったが、そうでなければ今頃死んでいたかもしれない。
段々と状況を理解していくにつれ、雅也の心臓の鼓動は、激しさを増していった。
「……怪我はありませんか?」
男に非はないというのに、彼は申し訳なさそうに、丁寧に訊ねてくる。
「は、はい。どうもすみませんでした。急に飛び出してしまって……」
「いえ、怪我がなくて何よりです。では、私は急ぎますので」
男は小さく微笑むと、車へと乗り込んだ。若く見える割には、紳士的な対応である。
そして軽くこちらに手を振り、去っていく。
「……ふうっ。びっくりした」
彼の姿が見えなくなるのと同時に、雅也は大きくため息をついた。
「まったく、死ぬかと思っ……ん?」
ポールにからまり、倒れている自転車を起こそうとして。
雅也は、目の前で固まっているありかに気づいた。
「どうした、ありか?」
呆然としている彼女の顔の前で、ヒラヒラと手を振ってみせる。
すると、反応があった。
「う、ううっ……」
唸りながら、こちらを睨みつけてくる。しかもその瞳が、潤んでいた。
「……あ、あれ?」
意外な様子に、雅也は首を傾げる。その戸惑いの、一瞬の隙をつかれた。
「雅也くんのバカッ!」
ぱしーんっ!
彼女の強烈な一撃が、左頬に炸裂する。
「ぐはあっ!」
目の前で、火花が散った。
そのまま、意識が飛んでしまうかと思ったほどである。
「いっ……いきなり何すんだよ!」
痛む頬を押さえつつ、雅也は文句を言うが――彼女の顔をみた途端、そんな怒りは消え失せてしまった。
「な……何泣いてんだよ、お前……」
「う、ううっ……」
涙で頬を濡らし、押し殺すようにありかは肩を震わせている。
「バカっ……雅也くんのバカっ……! 死んじゃったかと……思ったんだからっ……!」
「…………」
「勝手に死んだりなんてしたら、許さないんだからねっ……!」
手で目元を拭いながら、彼女は言った。
「……もう、バカッ! バカバカっ! 大バカの雅也くんなんて死んじゃえっ!」
「どっちだよ……」
思わずツッコミをいれてしまう。
興奮して、混乱しているのだろうか。などと思っていると、キッと彼女に睨まれた。
余計なことは言わないほうがよさそうである。
「あ〜……え〜と、その〜、………………わ、悪かった」
改まって言うのは照れくさいが、涙まで流している彼女に対して、ここは謝っておくべきだろう。
「その……な。つい今朝のこと考えててさ」
「……今朝のこと?」
取り出したハンカチで顔を拭きながら、ありかは訊ねる。
「可奈ちゃんのこと……? だって、無事だから電話できたんでしょ? 考える必要ないじゃない」
「それは……まあ、そうなんだろうけど……」
雅也は苦笑いを浮かべながら、倒れた自転車を起こした。少しハンドルが歪んでいるが、大丈夫だろうか。
「何か、いつもと違っていたし……」
「そりゃあ、目の前で事故があれば、いつも通りとはいかないでしょう?」
「…………」
「……でしょ?」
念を押すように、ありかが言う。
「……かも……な」
頬をかきながら、雅也は頷いた。
彼女の言うことにも一理ある。しかしそれで心配ではなくなるかというと、そういうわけでもない。どちらにしても、今ここで議論しても仕方がないことだ。
「だったら、早く行きましょ? 時間ないんだから」
「そうだな」
周囲にも、同じ制服の生徒たちが多くなってきた。ここでのんびりしている暇はない。
「よし、行くか」
雅也は自転車にまたがり、ペダルに足を乗せ――ようとしたのだが、そのペダルが空回りする。
「あ、あれ?」
よく見ると、チェーンが外れていた。
「うげっ、時間ないのにっ」
しかしこのままではどうしようもない。
雅也は慌ててチェーンを直しにかかる。すぐに手が油で黒くなった。
「ありか、先に行ってていいぞ」
「いいよ、待つから。雅也くん一人にすると心配だし」
「……あっ、そう。信用ないんだな」
「当然でしょ」
「…………」
雅也は何か反論しようと思って、口を開きかけたが――やめた。実際、心配をかけて泣かせたばかりである。
そうこうしているうちに、チェーンはすぐに直すことができた。
「よし、行くかっ」
「うん」
再び自転車にまたがり、先程引かれかけた横断歩道を渡っていく。
しかし――
カシャンッ。
丁度渡りきったところで、またもチェーンが外れてしまう。自転車自体が歪んでしまっているので、いくら直してもだめそうだった。
「くっそ〜!」
仕方なく、雅也は走りだす。置いていくわけにもいかないので、自転車を押しながらである。走りにくいこと、この上ない。
「何でこんなことに……」
「自業自得でしょ〜」
横を走るありかの顔は、何だか楽しそうだった。
「ほら、ファイトファイトっ。放課後、自転車屋さんに付き合ってあげるから」
「金ないのに……」
予想外の出費に、がっくりと雅也は肩を落とす。
可奈の出演しているゲーム、『トゥハード』を買うのは外せないとして、他のものは我慢しないといけなくなるだろう。
それでも――放課後付き合ってくれるという彼女の言葉を、雅也は少しだけ嬉しく感じていた。
「ぐ、ぐおおお……」
呻きながら、雅也は寄りかかるようにして自転車を押し進める。
心臓がバクバクと鳴っていた。
普段運動しないだけに、五分ほど走っただけでこのざまである。
「もうっ……だらしないなあ……」
その横では、あきれたようなありかの声。ブレーキ音と共に、自転車から降り立つ。
「ほらっ。もう着いたんだから、ちゃんとしてよ」
「ぜ……ぜえーっ……ぜえーっ……」
見上げると、見慣れた白い校舎があった。
県立八つ橋高校。特に変わったところもない、創立五十年のごく普通の学校である。
「ほらほら、予鈴まであと五分」
「あ……ああ」
ありかにせかされ、雅也は息を整えながら、校門をくぐった。そこからすぐ右にある、自転車置き場に自転車を止めると、彼女と並んで玄関に向かう。
「ふう……。何だか、今日はここまで来るのに長かったわね……」
軽く前髪をかきあげて、ありかが息をついた。
「まあ……そうかもな」
ポリポリと頬をかき、雅也は頷く。
確かに、今朝は色々あった。
可奈の番組での放送事故に始まり、通学途中では車にひかれそうになった。
妹のことはまだ気がかりではあるが、しかし驚いたのは、ありかのことである。
(まさか、いきなり泣き出すとはなあ……)
それなりに、大事に思われているということだろうか。
そう考えると、何だか照れくさい。
「……ん? なあに?」
じっと見ていると、その視線に気づいたのか、彼女が振り向いた。
前髪をかき上げ、微笑んだその表情に、不覚にもドキッとなる。
「い、いや……な、何でもない。早く行こうぜ」
雅也は慌てて早足で歩き出した。
「え? あ、ちょっと待ってよ〜」
パタパタという足音が、後ろをついてくる。
もしかしたら赤いかもしれない顔を見られるのが嫌で、振り向くことはしなかった。
(泣いた顔でドキドキする俺って……変かなあ……)
彼女との付き合いは去年の春からで、もう一年以上にもなるが――。
泣き顔を見たのが初めてなら、胸が高鳴ったのも初めてだった。
クラスメイトから散々、『神村さんってカワイイよな!』とか『一緒に登校してくるなんて、うらやましいぞ!』とか言われても、意識したことはなかったというのに。
「雅也くん、前!」
ふいに叫ぶような声が聞こえた。
「え――?」
思わず前を見ると、正面にガラスがあった。
バンッ。
「のわっ」
顔面に、衝撃。
玄関のガラスドアに、もろにぶつかってしまった。
クスクスという、周囲の生徒からの失笑が耳に入る。
「もうっ……何やってるかなあ」
ありかも笑いながら、近づいてきた。
「あ、あはは、はは……」
間抜けすぎて、自分でも笑うしかない。
「は〜あ……」
雅也は大きくため息をついた。
『もう、お兄ちゃんっ!』
目の前に、眉をつり上げた可奈の姿が浮かんでくる。
『あたし以外の女の子にドキドキしたら、許さないんだからね!』
この場に彼女がいたならば、きっとそんなことを言うのだろう。
(はいはい。わかってますよ)
想像の中の可奈に謝りながら、雅也は玄関をくぐる。
(まあ、単に珍しかったんだろうな)
先程のありかに対する気持ちに、とりあえずそんな説明をつけておくことにした。
二年生の教室は、校舎の三階にある。
苦労して階段を上り、二組の教室の前に着くと、ありかがちらりとこちらを見た。
「じゃね」
と、ひとこと言って、先に教室に入る。
同じクラスなのにこんなことを言うのは変だが、彼女と一緒なのはいつもここまでだった。別にそういう風に決めたわけでもないのだが、教室では話す機会がなくなってしまうのである。
「おはよー」
ありかが挨拶をして中に進んでいくと、それまで席で雑談していた生徒たちが、一斉に彼女の方を向いた。
「おはよー、神村さんっ」
「ありか〜」
「会いたかったよ〜」
数人の男子が声をかけ、クラスの約半分の女子が彼女を取り囲んでしまう。
これでは雅也が近寄れるはずがない。
(人気者だからな、あいつ……)
多少口うるさいものの、気がきくし、優しいし、真面目だしで、その性格の良さは、毎朝一緒にいる雅也にはよくわかっている。さらに勉強も運動もできる上に、容姿にも恵まれているとなれば、これは人気が出ないほうがおかしいだろう。
(俺とは正反対だな)
はっきり言って、雅也には人気がない。友達も少ない。
女の子にもてたのは、妹の可奈くらいのものである。
そんな人気のない雅也に対して、何故人気のあるありかが毎朝弁当を作ってくれるのか。
もし、『二万円やるから毎朝弁当作れ』などと言われても、雅也なら絶対断っているだろう。
一体何を考えているのか。いまだに謎である。
「さてと」
考えてもわからないことは、とりあえず置いておき、雅也も教室に入ることにする。
前の方は騒がしいので、後ろからこっそりと進入した。廊下側の、後ろから二番目の席に、雅也は着席する。
「やれやれ……」
カバンから出した教科書を机にしまいながら、雅也はため息をつく。
「早く授業終わらないかな……」
とにかく、家に帰ってニュースを見たかった。
さすがに帰る頃には、朝の事件について詳しく報道をしているだろう。
「……ん?」
ふと、隣に影ができる。見ると、一人の男子生徒が立っていた。
やや長髪に近いサラサラした髪に、薄いフレームのメガネ。少し離れると糸目に見えるくらいに細い目は、どこか狐のそれを思わせる。
「……何だ、大沢か」
大沢健介。雅也の数少ない友人の一人である。
「……オース」
と、彼は口を開いた。低くて、ボソボソとしたしゃべり方である。
「メース」
と、雅也はそれに返す。自分でもわかっているが、つまらないギャグだった。
しかし健介は、それを聞くとにやりと笑みを浮かべる。
「……いいギャグだ、高瀬」
「そ、そうか……?」
あれのどこがよかったのかはわからないが、ここは深く追求しないことにしておく。
「……で、大沢。何か用か?」
「……お前にはどうでもいいことだろうが、一応伝えておこうかと思ってな」
少しずれてきたメガネを直してから、健介はその手をポケットに入れた。そのまま後ろの机に腰をかける。
「杉崎の奴だが……今日は『トゥハード』とかいうゲームの発売日らしく、学校は休むそうだ」
「なにっ……!」
雅也は、窓側の席を見た。もうじき予鈴が鳴るというのに、彼――杉崎潤の机には、カバンもかかっていない。
「あ、あいつ……」
思わず呆れてしまう。
杉崎潤は、雅也のもう一人の友人ではあるが――はっきりいって、アニメ・ゲームオタクである。
確かに、だいぶ前から発売日を楽しみにしていたが、まさか学校をサボってまで行くとは。
「……実は昨日の夜、電話がかかってきたんだ」
と、健介は言う。
潤とは中学が一緒だったらしく、二人は雅也よりも付き合いが長い。
「秋葉原のメンズ……何とかいう店で買うと、すごい特典がつくらしい。それで始発の電車で出発するそうだ」
「なっ……!」
雅也は息を呑んだ。
わざわざ学校をサボってまで行くのだから、近所のショップではないだろうとは思ったが、まさかよりによって秋葉原だとは。
雅也の脳裏に、今朝テレビで見た光景が思い浮かぶ。メンズサイコーの、爆発した場面が――。
「お、おい、大沢! お前、携帯持ってるか?」
雅也は立ち上がり、彼に詰め寄っていた。
「……な、何だ、いきなり?」
眉をひそめる健介。
この反応からして、おそらく何も知らないのだろう。
「今朝、テレビで見たんだがな……」
と雅也は説明する。
「秋葉原で、爆発事故が起きたんだ」
「……爆発事故?」
「ああ。俺も詳しくはわからないんだが……今朝、生放送で秋葉原を映しているところがあってな。丁度メンズサイコーが開店するときに、建物が爆発して映像が途切れたんだ」
「……ふむ」
顔色を変えずに、健介は頷いた。
「まあ、現地でインタビューしてた子が無事らしいから、あいつも無事だとは思うんだが……一応、確認しておきたいだろ? 俺、携帯忘れてきちゃってさ……」
可奈のことは、一応伏せておく。知らないフリをしておけば、誰も彼女が雅也の妹だとは思わないだろう。
そして潤への電話は、彼も心配だが、何よりも状況が知りたかった。メンズサイコーに並んでいたなら、わかるはずである。可奈が、本当に無事なのかどうかを――。
「……爆発事故、か」
健介は机から腰をおろし、携帯電話を操作する。
「……ちょっと信じられんが、まあ電話すればわかるだろう」
そう言いながら、彼は耳にあてた。
潤の携帯への、コールが始まる。
「…………」
胸が、少し苦しくなった。心臓の鼓動が、早くなったのがわかる。
数秒間のコールが、とても長く感じられた。
「……でないな」
健介は、携帯を顔から離した。
「でない?」
「……コールは鳴ってるから、少なくとも携帯は無事なんだろうな」
「…………」
だが、結局は潤がどういう状況なのかは、わからないことになる。
「おーい、朝礼始めるぞー」
いきなり野太い声と共に、担任の橋本が教室に入ってきた。と同時にチャイムが鳴り、雑談していた生徒たちは席へと戻っていく。
「きりーつ、れーい、ちゃくせきー」
やる気のなさそうな日直の号令で、挨拶をすませると、橋本が出席を取り始めた。
「相沢ー、伊頭ー」
呼びながら、彼は前に垂れてきた長い髪をかきあげる。某青春ドラマにでてくる熱血教師の真似という噂だが、邪魔なら切ればいいのに、と雅也は思う。しかも全然似合っていなかった。三十歳を過ぎても独身なのは、あの髪型が一番の原因のような気がする。
(まあ、それはどうでもいいとして……)
今考えるのは、橋本の髪型についてではない。
潤が携帯に出ないのは、何故かということだ。
単にコールが聞こえていないのか。それとも、でることができない状況なのか。
(そういえば……職員室に、テレビがあったよな)
どうして今まで気づかなかったのだろう。
事情を説明して頼めば、テレビくらいは見せてもらえるはずだ。そこまでできなくとも、情報を教えてもらえればいい。
担任の橋本は、髪型は変だが、悪い人間ではない。彼ならきっと聞き入れてくれるだろう。
(よし。朝礼が終わったら、話してみよう)
雅也がそう決めたとき。
「高瀬〜。おーい、高瀬〜。返事しろ〜」
その橋本が、呼んでいた。
「あっ……。は、はいっ」
どうやら考え事に夢中で、気づかなかったようだ。
「ボーっとしてるんじゃないぞ」
「は、はい……」
注意され、いくつかの苦笑が聞こえてくる。前の方に座っているありかが、ややあきれたような顔でこちらを見ていた。
「橋本先生っ」
朝礼が終わり、教室を出ていった橋本を、雅也は急いで呼び止めた。
「ん? 何だ、高瀬?」
橋本は振り返り、怪訝そうな顔で髪をかきあげる。
「は、はい。実は、先生に相談が――」
「相談……!?」
きゅぴーん! という音を立てそうな勢いで、橋本の目が輝いた。
熱血教師を目指すという噂の彼が、生徒からの『相談』という言葉に弱いであろうことは、計算済みである。
「相談とは何だね、高瀬くん。遠慮なく、この私に話してみたまえ。はーっはっはっはっ」
廊下に響く、橋本の笑い声。
(……口調まで変わってるよ、おい)
本当にこの先生で大丈夫だろうか、という一抹の不安を感じつつも、とりあえず雅也は話してみることにした。
「ふぅむ……。秋葉原で爆発事故、ねえ……」
あごに手をあて、橋本は頷いてみせる。
「そこで働いている知り合いが巻き込まれたかもしれないから、職員室のテレビで確認させてほしい、と。つまり、そういうことだな?」
「え、ええ。そうなんですよ、先生」
可奈のことはもちろん、サボリである潤のことも話すわけにもいかないので、とりあえずそういうことにしておいた。
「よし、わかった!」
ドン、と橋本が自分の胸を叩く。
「この私に任せておけ!」
「おおっ、ありがとうございます! じゃあ、さっそく職員室に――」
雅也は彼の横をすり抜けた。が、すぐに後ろから肩をつかまれてしまう。
「待て待て。これから授業だろうが」
「うっ……。すぐに見せてくれたりは……できないですか?」
「情報がわかったら教えてやるから。お前はしっかりと授業を受けるんだ」
「は、はあ……」
しぶしぶと、雅也は頷いた。
さすがは熱血教師もどきだけあって、余計なところで真面目である。
仕方なく雅也は教室に戻り、授業を受けることにしたのだが――集中などできるわけもない。
一限目の古文の授業が終わり、休み時間中、橋本が来るのを待っていたのだが、結局は姿を見せなかった。
(忘れてるんじゃないだろな……)
思わずそんな疑いを持ってしまう。
そして二限目の物理も何事もなく終了し、休み時間となった。
授業中に報告に来ることを期待していたわけではないのだが、あれから二時間近くもたつ。いい加減、ニュースを放送していてもおかしくはないはずだ。
もっとも、次の授業が橋本の数学であるから、質問するチャンスはいくらでもある。
(可奈……早く俺を安心させてくれ……)
休み時間でざわめく教室の中、雅也は心の中で祈り続けた。
キーンコーンカーンコーン。
休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。
「……結局、繋がらなかったな」
健介が携帯の電源を消し、ポケットにしまう。彼は雅也の席の隣で、ずっと杉崎にコールを続けていた。
「……何してるんだろうな、あいつ」
そう呟いて、彼は自分の席へと戻っていく。
そんな彼の後ろ姿を眺めつつ、雅也はため息をついた。
(早退しようかな、俺……)
退屈な授業の間に考えていたのだが、やはり今は学校に来ている場合ではないような気がする。ありかの言うとおり、考えすぎの可能性ももちろんあるのだが、どうも落ち着かないのだ。
しかし早退したとして、どこへ行けばいいのか。秋葉原に行ったとしても、既に病院へ移動しているかもしれない。朝に携帯電話の履歴を消してしまったので、直接可奈と連絡が取れないのだ。
(まあ、方法がないわけでもないんだけど……)
元義理の母である、倉木奈津子。可奈の実母であり、保護者でもある彼女になら、何かあれば連絡が入るはずである。奈津子の携帯電話の登録は一応残してあるので、早退したら彼女に電話をすればいいわけだ。
しかし正直なところ、あまり奈津子と話したくはなかった。だが他に方法もなく、緊急事態である以上、我慢するしかないだろう。……もちろん、何事もなければ電話をしなくてもすむのだが。
ともかく、彼女に電話をするかどうかは、橋本に話を聞いてからだ。
「おお〜い。始めるぞ〜」
そんなことを考えていると、ドカドカと足音を立てて、橋本の低い声が教室内に響き渡った。どうやら、やって来たらしい。
(――よし!)
早めに質問してしまおうと、雅也が顔を上げ――かけた瞬間。
教室内は、どよめいた。
「…………えっ?」
雅也も、教壇の上に立つ“それ”を見て、一瞬思考が停止する。
「……ん? みんな、どうしたんだ? そんな、鳩に豆鉄砲食らったような顔をして?」
生徒たちの反応に、橋本は不思議そうに一同を見回した。彼だけが、状況を理解していない。
「ふふん。そんなにこの私の髪型が決まっていたかな? 実はさっき、少しセットしてきて――」
「あ……あの、先生。そうじゃなくて……」
てんで的外れなことを言う橋本に呆れたのか、ありかが立ち上がった。
「その……先生の後ろにいる、その人は……」
「……後ろ?」
くるり、と橋本は振り返った。
「どうも」
と、そこには微笑む少女の姿。そう、おそらくは――少女である。年齢は雅也よりも一つか二つ、上のようにも見えるが、問題はそこではない。
その少女は何と――メイド服を着ていたのである。
黒のさらさらロングヘアに、やや垂れ目がちで幼い顔立ち。しかも胸は大きく、ウエストは細いという、まさに女の子の理想のスタイル。
メイド服は、その派手なデザインから仕事で使うというよりは、見せるのが目的のような気もするが、彼女にはよく似合っていた。
(いや、似合うか似合わないかは、とりあえず置いといて……)
思わず見とれてしまったが、今問題にしたいのは、どうしてメイド服を着た少女がこの教室にいるのか、ということである。
「……どわあああっ!」
たっぷり三秒間、固まってから、橋本は声を上げてのけぞった。一人だけ反応が遅い。
「な、な、なっ……何だ、キミはっ!?」
プルプルと、震える腕で彼女を指す。
「すみません。ちょっと……人を探していまして」
「……ひ、人?」
「はい。申し訳ありませんが、少しだけご協力お願いします」
そう言って、メイド少女は教室内を見回した。
「ディオさんの情報だと、確かこの辺に……あっ」
彼女の視線が止まる。生徒たちの視線も、一斉に動く。
そして、その先にあるものは――
「……お、俺かっ!?」
雅也は目を見開く。
「はい、そうですっ」
満面の笑みを浮かべ、メイド少女がこちらに駆け寄ってきた。
「高瀬、雅也さん――」
バッ、と彼女は手を広げる。
「私の……ご主人様ですっ!」
むぎゅうっ。
大きな胸が押し付けられ、雅也の顔はメイド少女の両腕に包まれた。
「な、なっ……!」
柔らかな感触の中をもがきながら、雅也は酸素を求め、何とか顔を上げる。
「ごっ……ごしゅじん、さまぁぁっ!?」
嬉しそうに抱きついたままの彼女に、そう聞き返したとき――
「なにぃぃぃぃぃーーーっ!?」
教室内に、生徒たちの驚愕の声が響き渡った。
第五話 「それ、シーっです」
県立八つ橋高校二年二組の教室は、どよめきに包まれていた。
一部の男子からは怒りの声も上がっているが――無理もない、と雅也は思う。もし美少女メイドに抱きつかれたのが自分ではなかったら、態度に出さないまでも、羨ましいと感じるだろう。
だが、呑気にそんなことを考えている場合ではなかった。
男子一同からは、
『俺と代われっ! 今すぐ代われ!』
とでも言いたげな、怒りのオーラが立ち上っている。
(こわっ……!)
ここが教室ではなく、さらに彼女と二人きりであるなら、もう少し抱きつかれていてもよかったのだが、そういうわけにもいかなかった。
何より――。
彼女の背中越しに見える、ありかの冷たい視線に耐えられそうにない。
普段は偶然身体がぶつかったときくらいにしか味わえない、この柔らかな感触を引き離すのは、残念ではあるが……。
「ちょっ……ちょっと、離れてくださいっ」
間近に迫るメイド少女の顔にドキドキしながらも、雅也は彼女の腕をつかんだ。
「あ……あれ?」
だが、離れない。
相手は女性だから、とあまり力を込めなかったせいかもしれないが、それにしてもビクともしなかった。
「あ、あの……困りますから」
今度は、もう少し力を込める。
「……ぐっ」
さらに、込める。もはや全力だった。
ここまですれば、男子が相手でも痛がるはずだが――彼女はこちらを見て、少し首を傾げただけだった。
「ご主人様、どうかしましたか? 何だか、息が荒いようですが……」
「い、いや。あの……」
誤解されるような言い方をするメイド少女。
ちらり、とありかのほうを見ると、その目はいっそう細くなっていた。
(ひえー)
あとが怖い。あれは、絶対にあとが怖い。
「あ、わかりました」
そんな雅也の心境には少しも気づかない様子で、彼女は微笑む。
「照れているんですね、ご主人様」
全然違う。
違うが、頭の中が混乱して、否定の言葉が出てこなかった。
(どうしようどうしよう。というか何者だよ、この人? そしてどうする、この状況?)
言うまでもないが、雅也はこの少女のことなど知らないし、第一、ただの高校生にメイドを雇う余裕などあるはずがない。
(……あ、待てよ? まさか可奈が……)
身近でお金に余裕のある人物といえば、仕事が好調な彼女しかいない。
それが証拠に、雅也に送るためだけに自分のグッズを制作しているのだ。余裕がなければできるものではない。
(でも……そんなわけないか)
可奈がグッズを送ってくるのは、いわば愛情表現である。
会えない代わりに、自分のグッズで存在をアピールするのと同時に、他の女の子を近づけないためだ。だから、メイド少女を送ってくるなどということは、絶対にありえないのである。
しかしそうなると、本当にこの少女が何者なのか、思いあたることがない。
「ちょっと!」
バン、という机を叩く音が響いた。
教室中の視線が、今度は前の方へと移動する。
立ち上がり、眉をつり上げているのは――ありかだった。学校ではいつもニコニコしている彼女が、そんな表情をしているのを、雅也は初めて見た気がする。
「あなた、誰なんですかっ? 今は授業中なんですよっ。関係ない人は出ていってください!」
「…………」
教室はしんとなった。
雅也もそうだが、生徒たちは明らかに彼女の迫力に気圧されていた。ただメイド少女だけは、変わらぬ微笑みを浮かべていたが……。
「――はっ!」
最初に我に返ったのは、意外にもそれまで硬直していた橋本だった。
「そ、そそそそうだ! 無関係の者は出ていきなさい!」
少しみだれた髪をかきあげ、ビシッと指をさす。
しかしポーズとは裏腹に、全然格好よくなかった。
「…………」
メイド少女が、彼をちらりと見る。
「……な、なんだね?」
「授業の邪魔をして、すみませんでした」
雅也から手を離し、彼女はぺこりと頭を下げた。
「すぐに出ていきます」
「う……うむ、そうか」
自分の説得が成功したと思ったのか。
途端に橋本は、満足そうに胸をそらす。
「はっはっはっ。まあ、わかってくれれば……」
「ですが――」
と、メイド少女が、彼の言葉をさえぎる。
「高瀬雅也さんは、お借りしていきますので」
そう言って、彼女は雅也の腕をつかんだ。
「さあ、一緒に来てください」
「えっ――?」
事態が呑み込めないまま、引っ張られる。
「おっ、おおおおおっ!?」
抵抗する暇はなかった。
予想外の力――まるで自分の腕が、ロープで車に結ばれているような感覚だ。
「ま……雅也くんっ!?」
驚くありかの声だけが、耳に届く。
床の上を引きずられていく中、一瞬だけ仰向けになり、教室内が見えたが――皆、呆気にとられて動けないようだった。
「それではみなさん、私はこれで失礼します」
メイド少女は教室の入り口まで辿り着くと、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「高瀬雅也さんは後でお返ししますので、心配なさらないでください。それから、しばらくは教室を出ないほうがいいと思います。――では」
彼女は微笑み、ドアを閉める。
授業中でしんとしている廊下に、二人きりとなった。
「…………」
冷たい床に背中をつけたまま、雅也は彼女の姿を見上げる。
色々と、彼女には訊きたいことがあった。だが教室で動けなかった生徒たち同様、雅也もあまりのことに声が出せないでいる。
「乱暴なことをしてごめんなさい」
メイド少女はしゃがみ込み、まっすぐに見つめてくる。
「う……」
息がかかるほどに近づいてきたので、何だか顔がほてってきた。――いや、理由はそれだけではない。
先程は気づかなかったものの、彼女は――このメイド少女は、雅也の好みをもろに反映していたのである。
艶のある黒髪に、きめ細かい、柔らかそうな肌。垂れ目がちで幼い顔立ち。そして身体は華奢だというのに、胸はしっかりボリュームがあるという、いわざ反則技のプロポーション。しかも、着ているものがメイド服。最近、一部の業界では『メイドさん』が流行しているのだが、雅也もご多分にもれず、しっかりはまっていた。……一応そのことは、ありかや可奈には秘密であるが。
「でも……もう時間がないんです」
少し焦ったような表情で、メイド少女が言った。
「……じ、時間?」
何とか、雅也は声を出す。
「はい。事情はあとで説明しますので、一緒に来てください」
潤んだ瞳で見つめる彼女。
雅也は目をそらすことができない。
あとほんの少し、顔を前に突き出せば、その柔らかそうな唇に触れることができる。そう思うと、何だか頭がクラクラしてきた。
「私と……来て、くださいますか?」
メイド少女が問いかける。雅也は条件反射のごとく、コクコクと頷いた。
今が授業中だとか、彼女が何者かとか、可奈やありかが怒るだろうなとか、色々と気になることはもちろんあった。だが、この目の前にいる理想の少女の魅力には、逆らうことができなかったのである。
「よかったですっ」
身体を離し、メイド少女は安堵したような表情を浮かべた。
「では急ぎましょう、雅也さん」
彼女が手を差し出す。小さくて、華奢な手だった。
「……わかった」
雅也は壊してしまわないように、そっと握りしめる。
その感触は、まさに『女の子の手』だった。めったに触ることがないので、雅也には違いがよくわかる。
しかしそうなると信じられないのが、彼女のパワーだ。先程教室からひきずりだされたとき、全く抵抗できなかったが、彼女はどう見てもそんな力の持ち主には見えない。
「さあ、こっちです」
彼女が手を引き、先導する。
目の前を駆ける、理想の容姿をしたメイド服の少女――。
ついていけば、わかるのだろうか。突然現れた、この不思議な少女のことが。
どこへ行くのかはわからない。
ただ彼女のことが知りたいと、それだけを雅也は思っていた。
足音が、遠ざかっていく。
今は授業中で静かなため、物音がよく響いていた。
「先生! 橋本先生!」
ありかが立ち上がったまま、呼びかける。
一同が呆気にとられて声が出せないでいる中、彼女だけが行動していた。
「――え? あ、ああ、何だね神村」
硬直していた橋本が、ありかの声で我にかえる。
「いいんですか? 高瀬くん、連れていかれたじゃないですかっ」
「そ……そうだな。早退届けを出さんと、認めるわけには……」
「そういう問題じゃありません!」
呑気な橋本に我慢できなくなったのか、ありかはとうとう教壇へと上がる。
「わたし――連れ戻してきますからっ! クラス委員長として! ……いいですね?」
じろり、と睨むように見る。
その迫力に、橋本は冷や汗を浮かべた。
「わ……わかった。頼んだぞ、神村」
「……いってきます」
ガラッと乱暴にドアを開け、ピシャンッと乱暴にドアを閉めた。
普段の彼女からは、考えられない態度である。
それから教室内はようやくざわめいてくるが、どちらかといえばメイド少女のことよりも、ありかのことが話題になっていた。
「ありか、こわ〜い……」
「どうしたのかな……」
「やっぱ、高瀬くんが気になるってことじゃない?」
「え〜? そうなのかなぁ……」
「まあ、好みは人それぞれだし……」
ありかの友人たちが、席から顔を寄せ合って話をする。
「はい、静かに静かに!」
パンパン、と橋本が手を叩く。
「高瀬のことは、とりあえず神村に任せる。こっちは授業を始めるぞ」
「ええ〜?」
「せっかく面白そうな状況なのに……」
と、当然不満の声が上がったが、橋本はさっさと教科書を開き、黒板に字を書き始めた。
仕方ないので、生徒たちもノートを開き、書かれたことを写していく。
しかし窓側の席に一人だけ、ペンも持たずに外を見ている生徒がいた。
大沢健介である。
「……やっぱり出ないか」
彼は呟くと、ようやく正面を向いた。そして、手にした携帯電話の電源を切る。
「……爆発事故、か。まさか本当に起きたんじゃないだろうな……」
わずかに表情をしかめると、彼はもう一度外を見た。
今にも雨が降りそうな、曇り空だった。
「お……おーい、どこまでいくんだよ?」
雅也は少女に右手を引かれていた。
階段をひとつ下りる度に音が大きく反響し、一歩先をいく彼女の髪が、流れるように揺れている。
「もう少しです」
メイド少女は一瞬だけ振り返ると、そう言って微笑んだ。
「も、もう少しって……よっと」
途中でバランスを崩しかけたが、階段の残りが三段程度なので、そのままジャンプして下り立つ。
そこはもう一階であり、あとは玄関ホールと下駄箱があるだけだった。
しかしメイド少女は止まる様子がない。
「外にいくのか?」
「はい」
訊くと、彼女はそう答えた。
「ま、まあいいけど……。だったら、靴を履き替えないと」
雅也は下駄箱へ向かおうとしたのだが、彼女に手を引っ張られる。
「すみません。時間がないので、そのままで来てください。支障はありませんから」
「支障がない……?」
今履いているのは内履きといって、校舎内専用の薄っぺらい靴である。歩くのならともかく、走ると少し痛いし、第一学校指定の靴で外に出るのは、ちょっと恥ずかしい。
よく見るとメイド少女は土足のままなので、彼女自身は問題ないのだろうが……。
「こっちです」
とうとう校舎から出て、メイド少女が今度は左へと進んでいく。学校から出るかと思ったのだが、そうではなく、どうやら裏門に向かっているようだった。
(あ……)
グラウンドや体育館が目に入り、雅也は焦りを覚えた。体育をしているクラスがあるかもしれないからだ。こんな目立つ少女と一緒にいては、すぐに騒がれてしまうだろう。
だが近づいても、人の気配は感じられない。どうやら運がよかったようである。
「あそこです」
と、体育館を通り過ぎたとき、メイド少女が指をさした。
「え……?」
雅也は首をひねる。
そこには何もなく、ただの小さな門が見えるだけだった。
「あそこって……?」
「あの自転車です」
「自転車……?」
裏門の外側に、サイクリング自転車が一台、とめてあった。二人でそれの前まで着くと、ようやく彼女が走るのをやめる。
「これ……君のなの?」
息をととのえ、ポンポン、とサドルを叩きながら、雅也は訊ねた。車でも用意しているかと思っていたので、拍子抜けである。
「はい。名前は轟沈号といいます」
メイド少女はにこやかに答えた。
「…………え?」
一瞬、自分の耳を疑う。
何やら聞き慣れない単語を耳にしたのだが、気のせいだろうか。
「あの……いま、何と?」
「この自転車の名前が、轟沈号というんです」
変わらぬ笑顔の、メイド少女。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「ふ、ふ〜ん……。轟沈号……ね」
まともなセンスの持ち主なら、絶対つけない名前である。
「あ、あの……もしかして、変でしょうか?」
彼女の表情が、笑顔から一転、不安をたたえたものになった。
「いや、変というか……微妙なセンスというか……って、そうじゃなくて!」
今は自転車の名前について話している場合ではないのである。第一、彼女も時間がないと先程言っていたばかりだ。
「……で?」
雅也は腕を組み、メイド少女を見据える。
「授業中だっていうのに、俺をこんなところに連れてきて、一体何の用なわけ?」
「あ、はい。そうでしたね」
ぺこり、と彼女は一礼した。
「申し遅れました。わたしはナスタークからやって来ました、栞と言います」
「栞さんね……了解。それで、ナスタークって?」
地名なのか、どこかの企業の名前なのかはわからないが、雅也は聞いたことがなかった。
「星の名前です」
「……ほし?」
雅也は首をひねる。
何のことだか、咄嗟には思いつかない。
「はい。宇宙の……銀河系には、生命の誕生した星が他にもありまして。その中のいくつかを除き、統治しているのがナスタークなのです」
「…………」
「といいましても、地球はまだ他の星の生命体と交流がありませんから、ピンとこないかもしれませんね」
と説明する栞。
そういう問題ではない気もするが、突拍子もない話に、言い返す気力もなかった。
「最初に断っておきますが、地球を統治に加えようということではありません。地球はまだそのレベルに達していませんし……第一、雅也さんにするお話でもないですから」
それはそうである。雅也はただの高校生にすぎない。
仮に、無作為に選んだ人間を星の代表扱いされたら……とんでもないことになるだろう。
「それで、私がここに来た理由ですが……」
と栞は話を続ける。
――そういえば。
と雅也はふいに思った。
(橋本に可奈のこと訊くの忘れてた……)
メイド少女――栞の勢いと魅力に引っ張られて、ここまでついてきてしまったわけだが、考えてみればこんなことをしている場合ではないのである。
(そうだよ。俺は可奈が大事で、無事を確認しなきゃいけないんだ)
雅也は目の前の少女を見る。
「ウィルラーダ、という星があります。地球と同じく、ナスタークの統治下にはない、生命体を持った星です。わたしたちから見れば地球とは同程度の技術レベルなのですが、それでも差はありまして――彼らは既に宇宙での活動を始めています」
彼女は、何だかわからない話を続けていた。
はっきり言って、今はどうでもいい内容だ。
「そして困ったことに、彼らは地球人同様、戦争を好む種族なのです。居住可能な星を見つけたら、例え先住民がいても皆殺しにして、強引に奪う気で――」
「……俺、帰る」
くるり、と雅也は後ろを向いた。そしてそのまま歩き出す。
これ以上、わけのわからない話に付き合う気はなかった。
「――えっ?」
背中のほうから、栞の驚く声が聞こえてくる。
「……俺、忙しいから」
ひらひら、と彼女に見えるように手を振った。
せっかく理想の容姿をして、ご主人様とまで呼んでくれた彼女には色々と期待したのだが――電波系・妄想系だけは勘弁してほしい。
一体何が目的で、どうやって雅也のことを知ったのか。考えると怖いものがあるが……この場合、相手にしないに限る。
『ほら、お兄ちゃん。浮気心を出すとこういうことになるんだからねっ』
腰に手を当て、そんなふうに怒っている可奈のイメージが浮かんでくる。
(……ごめんなさい。俺が悪かったです)
心の中で、妹に謝った。素直に謝った。
(ありかにも、後で何て言われるか……)
歩きながら、雅也は小さくため息をつく。
「そ、そんな……困ります!」
離れた後ろから、栞の慌てたような声がした。
追いかけてくるのだろうか。だったら、走って逃げてしまおう。
――そう思った矢先である。
目の前に、彼女が立ちふさがっていた。
「な、なっ――!」
雅也は驚いて目を見開き――よけることもできずに、彼女にぶつかってしまう。
「うわっ」
反動で、身体が後ろに飛ばされた。
「あ、すみませんっ」
地面に尻餅をつきそうになった寸前、手が引っ張られた。
身体を起こされ――栞の顔が、目の前にくる。
「……大丈夫でしたか? 雅也さんに行かれるわけにはいかないので、つい慌ててしまって……」
「い、いや……別に、いいけど……」
そう。そんな理由はどうでもよかった。
今、問題なのは――
彼女が、どうやって雅也の前に移動したのか、ということである。
栞とは、雅也が歩いた分の距離――約十メートルの差があった。そして今は授業中で、周りには誰もおらず、自分の足音さえも聞こえる状態である。なのに、彼女の足音が全く聞こえず――しかも一瞬で移動したというのは、一体どういうことなのか。
雅也は、謝る栞をじっと見つめた。
そういえば彼女は、雅也を教室から連れ出す際にも、人間離れした力を発揮した。
自分は宇宙人だと名乗るし、メイド服を着ているしで、普通でないのはわかるが――では彼女は、何者だというのか。
宇宙人だというのは、さすがに信じられないが……。
「お願いです、雅也さん。わたしの話を聞いてください」
栞が両手を組み、潤んだ瞳で見上げてくる。
「うっ……」
思わず引き込まれそうになってしまい、雅也は慌てて一歩下がった。
言動がおかしいとはいえ、さすがは理想の美少女である。
「わ、悪いけど……そういうのは他をあたってくれよ。何が目的かは知らないけど、俺、宇宙人とか興味ないから」
「お願いします、雅也さんでないと――」
『……まったく。じれったいな、栞は』
突然、若い男の呆れたような声が聞こえてきた。
「だ、誰だ?」
雅也は周囲を見回す。しかし、誰の姿も見えない。
「あ、ディオさん」
裏門のほうを見て、栞が声を出した。
「ディオさん?」
そこも確認したはずだが――と思いながら、雅也は振り向き、そして驚愕の声を上げる。
「……のわああああっ!」
信じられないものが、そこにあった。
裏門のほうにあった自転車が、誰も乗っていないというのに、まっすぐこちらに向かってきているのである。
「ぽっ、ぽぽっ、ぽっ、ぽっ……」
「……鳩の真似ですか?」
栞が怪訝そうに訊ねた。
「ち、違う!」
驚きのあまり、うまく声がでなかっただけである。
「ぽ、ポルターガイストだ!」
ビシッ! と雅也は指をさした。
物体が勝手に動き出す現象――ポルターガイスト。原因は悪霊だったかサイコキネシスだったか覚えていないが、とにかくそんなような映画を見たことがあった。
「いえ、雅也さん。先程も説明しましたが、あれの名前は轟沈号です」
「名前のことじゃない!」
思わず叫んでしまう。
目の前で怪奇現象が起きているというのに、どうして呑気でいられるのか。
「と、とにかく逃げよう!」
そう言って、栞の手をとった。
彼女とは関わりたくないのだが、まさか置いて逃げるわけにもいかないだろう。
だが――思い切り引っ張ったというのに、栞はピクリとも動かなかった。
「えっ――?」
驚いて、彼女を見る。
「大丈夫ですよ」
と栞は微笑んでいた。
「轟沈号は、怖くありませんから」
『すまないね、驚かせてしまったようで』
自転車――轟沈号は、雅也の前でピタリと止まると、どこからか声を発した。先程と、同じ男の声である。
『キミの説得は栞に任せておいたんだが、どうにもじれったくてね。ついしゃしゃりでてしまった』
「…………」
『と、失礼。自己紹介がまだだったね。わたしの名はディオ。この轟沈号を通してキミと話している、ナスタークの人間だ』
「ナスターク……」
そういえば、栞もそんなことを言っていたような気がするが……。
『率直に言おう』
とディオ。
『地球は、狙われている』
「…………」
『ウィルラーダ人はこの星を発見し、地球人類を全滅させようとしているのだ。まあ、はっきり言って我々にはどうでもいいことなのだが、ちょっとした暇つぶしがわりに――』
「ディオさん、それ、シーっです」
栞が唇に指をあてて、轟沈号に囁いた。
『ん? ああ、そうだったな。今のは訂正しよう』
「…………」
もう遅い。ばっちりと耳に入っていた。
『地球人が全滅するのがわかっているのに、放っておくのも忍びないという結論が、我々の間で決定した』
ディオは話を続ける。
『そこで銀河系一の技術力を誇る、我々の戦闘機をキミたちに貸し――たら、簡単に決着がついてしまって面白くない』
「ディオさん、それもシーっです」
『……あ、そうだったな。まあいい。我々はスクラップ置き場にあった適当なマシンを適当に改造し、キミに貸すことにしたのだ』
「ディオさん、それも……」
『あーっ! もういいじゃないか! それくらい!』
栞に注意され、逆に怒り出すディオ。割といい加減な性格のようである。
しかし、ともかく。
「スクラップに……適当に改造って……」
そんないい加減な。
「と、いうか……今、キミって言って――お、俺のことかっ?」
恐る恐る、雅也は自分を指さした。
「はい」
栞が頷く。
『その通り』
ディオも言った。
『キミは我々に選ばれたのだよ。――抽選で』
「抽選かよっ?」
思わず叫んでしまう。
地球を守る代表が、そんないい加減な決め方でいいのだろうか。
――まあ、要するに、彼らの言いたいことはわかった。
地球はウィルラーダ人とやらに狙われており、このままだと地球人は全滅してしまう。そこで技術力の高いナスターク人が戦闘機を貸すから、雅也にそれで対抗してほしい……と、つまりそういうことのようである。
「……で、その戦闘機ってのは?」
一応、訊くだけ訊いてみる。
「これです――」
と、栞は手の先を、それに向ける。
クールな漆黒のボディ。軽快な走りを約束する二つのタイヤ。長時間乗ると尻が痛くなりそうなサドルと、握りやすい位置にあるハンドル。そして買い物にも便利な大きな前カゴ……。
「この、轟沈号がそうなのです」
「……って、自転車だろ、それは!」
しかもごく普通のサイクリング自転車である。
一体どうやって、自転車で侵略する宇宙人と戦えというのだ。
バカにされている。これは絶対に、バカにされている。
「あーっ、もう! つきあってらんねえ!」
雅也は頭を抱えた。
「何考えてるのか知らないけど、そういうのはそっちで勝手にやってくれ! 俺を巻き込まないでくれ!」
彼らの言うことが完全に嘘だとは証明できないが、かといって、本当だとも証明できるわけではない。
それならば――関わり合いにならないに限る。
雅也は、校舎に向かって歩き出した。
今度こそ、邪魔をされても止まる気はない。
『まあ、キミのその反応は仕方ないかもしれないが――』
とディオが言う。
しかし、聞く気はなかった。
『結論を出すのは、空を見てからでもいいかと思うが』
「空……?」
見る気はなかった。
ただ、彼の言葉に反応し、無意識に上を見上げてしまったのである。
「……?」
最初は、わからなかった。
今にも雨が降りそうな、灰色の雲が空全体を覆っている。
その中に――いくつかの、黒い点が見えた。いや、点というよりも、形ははっきりとしている。飛行機ではない、ゴツゴツとした金属の人型――。
ふいに。
それらが、一斉に雲の中から飛び出した。
「!」
一体、どれほどの大きさがあるのか。少なくとも、飛行機よりは大きいだろうそれら――人型のロボットが、何百、何千と、空を埋め尽くしている。
「…………」
雅也は、声もだせない。
(これは……夢か……?)
あまりにも、現実味のない光景だった。
「雅也さん」
栞が、隣に立つ。
夢ではない証拠に、彼女の声がやけにはっきりと、耳に響いた。
「あれが――ウィルラーダです」
第六話につづく。
|