気がつくと、俺は暗闇の中に立っていた。
慌ててまばたきをしてみるが、状態は変わらず、自分の身体すら見ることができない。 どこに立っているのかもわからず、言いようのない不安がこみ上げてくる。
ふと目の前に、人の気配があることに気がついた。
闇の中だというのに、彼女の姿だけがぼうっと浮かび上がっている。まるでそれ自身が輝いているかのような、金髪の少女だった。
年齢は十歳前後だろうか。長い髪を頭の両脇で束ねてツインテールにしており、結び目には瞳の色と同じ、ブルーのリボンをつけていた。洋服は真っ白なワンピースで、上品そうな印象を受ける。どこか外国から来た、お嬢様なのかもしれない。
が……何故だろうか。そんなはずはないのに、俺はこの少女を知っている気がする。
「ヒロくんっ」
彼女ははにかみながら、俺の名――瀬名広人からとった愛称を口にした。しかも日本語である。
ということは、この少女は日本に住んでいて、俺とは親しい間柄にあるということだろうか。しかし近所にも学校にも、こんな少女がいたという記憶はまったくない。もしいたなら、これだけ目立って、可愛い子だ。絶対に覚えているはずである。
「助けてくれてありがとうっ」
「……?」
俺は首をひねる。
助けるって……俺が彼女を、だろうか。まあ、他に意味はないだろうが……どこで会ったかもわからないのだから、もちろんそんな覚えもなかった。
「ヒロくんは、命の恩人だよっ」
……命の恩人、とまできた。
目の前の少女は、にこにこと笑顔を浮かべているが――はて? 俺は一体、何をしたのだろう。
……あれ?
ふと気づいたが、俺の目線は、彼女と同じ高さにあった。
高校二年の俺が、十歳前後の少女と同じ目線のはずがない。となると――
……そういうことか。
俺はようやく、この状況が呑み込めてきた。
目の前の少女は、特別背が高いわけではない。それどころか、かなり低いほうだ。なのに俺と目線が同じということは――俺のほうが小さくなっているのである。
何しろ俺は、中学だけで二十センチも伸びたのだ。暗闇の中で自分自身の姿すら見えないが、彼女との位置関係からして、間違いないだろう。
要するに、これは夢だ。
夢の中の俺は、少女と同じ年代の子供になっているらしい。
「……あ」
顔を上げると、いつの間にか、少女の姿がぼんやりと揺らいでいた。夢だと気づいたせいで、俺の覚醒が近くなったからかもしれない。
「あ、あのねっ、ヒロくんっ。わ、わたしっ……わたしねっ」
焦ったように、少女が言う。俺が目覚めるからといって、夢の人物が焦るというのも、おかしな話だが――。
「わ、わたしっ……助けてもらったお礼に、ヒロくんのおヨメさんになってもいいよっ」
「ぶっ!」
思わず俺は吹き出した。
……こ、このコは、いきなり何を言い出すのか。
まあ、『好き=結婚』という図式に結びつくところが、子供らしくて可愛いけれど。
とりあえず、何て答えようか。しょせんは夢だし、マジメに考える必要もないが――。
と、そのとき。
突然、全身が凍りついたように動かなくなり、自由がきかなくなった。
そして何かに突き動かされるように、勝手に口が動き、声を発する。
「だめ」
彼女に向けて、俺は冷たくそう答えていた。もちろん、自分の意志ではない。
「えっ……」
少女の瞳が、驚愕に見開かれる。
「ど、どうしてっ?」
「それだ」
俺は彼女の身体の中心を、指さしていた。やはり俺の意志ではない。
「えっ、な、なに?」
少女は困惑顔になる。
「あたしになんかついてる?」
「じゃなくて――ペチャパイ」
ひくっ。
少女の口端がひきつった。
「……俺、巨乳が好きなんだよね」
ひくくっ。
少女の眉がつりあがる。
「お前も将来、巨乳になったら考えてやってもいいぜ。ま、一生ムリだろうけどな。はーっはっはっはっ」
ぴっきーん!
少女の金髪が逆立ち、何かが切れたような音が聞こえた。
「ひ、ヒロくんの……」
ぷるぷると、彼女の身体が震えている。
「ん、どうした?」
「ヒロくんの、バカーーーっ!」
バキィッ!
「ぐはっ!」
少女の下から突き上げるような拳が、俺の頬に炸裂した。勢いで、一瞬身体が浮き上がり――それから、急にガクンとバランスが崩れる。
「うわっ!」
足もとに、地面がなかった。真っ暗なので、もともとあったのかも不明だが。
上空何千メートル。それとも高い高い崖の上からか。
とにかくそんな場所から突き落とされた感覚だった。
「うわあああーーーっ!」
落ちていく。落ちていく――!
「バカ……」
つぶやくような声と共に、あっという間に小さくなる少女の姿。
しかし彼女の目元ににじんだ水滴だけは、俺にはやけにはっきりと見えていた――。
「うわあっ」
ガバッ、と俺は勢いよく起き上がった。それからすぐに、毛布がかけられていたことと、下が温かいふかふかの絨毯であることに気づく。
周りを見ると、随分と広い部屋の中に、俺はいた。少なくとも俺の部屋の二倍、いやそれとも三倍か。二十畳くらいは、余裕である。
正面には迫力の大画面テレビとスピーカー、様々なゲームハードが置かれており、横の棚にはゲームショップも顔負けなくらいに、ぎっしりとソフトが並べられている。
「……そっか。俺、寝ちゃったんだっけ」
毛布をよけて、軽く頭をかく。
それから先程の夢を思い出していた。
……あの女の子。
間違いなく、見覚えがあった。
そして身体の自由がきかなくなってからの、あの会話。あれは過去に彼女と交わした、そのままの会話だ。……実際に突き落とされたのは、崖の上からだったが。
どうやって助かったのかは覚えてないし、彼女の名前も思い出せないでいる。……といっても、別に頭を打って記憶障害になったというわけではない。念のため。
そもそも、何で俺はあんなひどいことを言ってしまったのだろう。
……巨乳好きなのは、今でも変わってないけれど。
ガチャッ。
急に部屋のノブが回る音がし、誰かが入ってくる気配がした。
「あっ……」
少し驚いたような、少女の声。
俺は後ろを向いた。
「瀬名くん、目が覚めたんですね」
そこに立っていた少女が、にっこりと微笑む。
八つ橋高校の紺のブレザーに、標準仕様で短めなスカート。一瞬、小学生かと思わせる背丈に、出るところも出ていない寸胴体型。さらに子供っぽく見せるかのようなツインテールに、顔がわかりにくくなる黒ぶちメガネ。
七宮由衣。現在の、俺の――『彼女』である。
「もう、瀬名くんたら……ひどいですよ」
そう言って、由衣は少し眉をひそめ、困ったように首をかしげた。
「わたしがコーヒーの準備をしている間に寝ちゃうんですから……。それで毛布を出して、カップを片付けてきたら――今度は起きてしまうなんて」
「あー……ごめん」
この部屋の絨毯が、あんまりポカポカしていたせいなのだが……。とりあえず、苦笑しつつも謝っておく。
「いいですよ。別に怒ってませんから」
彼女は微笑み、くるりん、と後ろを向いた。その拍子に、ツインテールがピコンと揺れて……ちょっとだけ、可愛く思える。
「もう一度、コーヒーいれてきますから。そしたら一緒にゲームしましょ?」
「ん……あ、ああ」
「わたしが来るまでの間、好きなゲームをしてていいですからね」
ノブに手をかけ、彼女が言った。
「……わかった」
「では、またあとで」
俺が頷くと、由衣は軽く手を振り、ドアをしめた。彼女の足音が遠のくのを聞きながら、俺はソフトのつまった棚を眺める。
「ゲーム、ねえ……」
ざっと見ただけでも、千本以上は間違いなくあった。ここまであると、どれから手をつけていいのかわからなくなる。
……それに。
ちらり、と俺は部屋の隅のほうを見た。
数は少ないが、あそこにあるのはゲームセンターにある専用ビデオ筐体に、大型体感ゲームではないだろうか。ああいうのは、買うと軽く百万以上はすると聞いたことがあるが……。
壁にはしっかりと防音加工もしてあるし、明らかに一般家庭とは一線を画していた。
「……はあ」
と俺はため息をつく。
金持ちらしいという噂は聞いたことがあったが、実際来るまで、まさかここまでとは思わなかった。土地はうちの一戸建ての十倍以上はあるし、門も自動で開く。庭も広くて池まであったし、車も三台とめてあった。家の周りにはセンサーが張り巡らされ、常に警備システムが作動しているとか。
……なんだか、俺には遠い世界のように思える。
由衣と付き合って二週間。初めて家に来たのがゲームをするため……というのも、何だか別の目的のための、口実っぽい気もするが。誘ったのは彼女のほうからである。
付き合う前は想像もしなかったが、由衣は意外とゲーマーだった。しかもかなりの腕前で、対戦ゲームも俺なんかより全然うまい。ただ恥ずかしがりやのせいか、ゲーセンで注目をあびるのが嫌いらしく、もっぱら家でプレイしているという。
……だからって、わざわざ専用部屋まで作ってしまうのはどうかと思うが。
金持ちならではの発想である。
「しかし……どうしたもんかな」
俺は呟き、立ち上がった。手を後ろで組み、老人のように背中を丸めて歩きながら、窓の外を眺める。
この部屋は春のように暖かいが、外では木枯らしが吹いていた。ガラスが分厚いため何も聞こえないが、木々がしなり、葉っぱが飛ばされていく。
……昨日は暖かかったんだけどな。
これも着実に、冬へと向かっている証拠なのだろう。
よく抽象的に、男女の交際が始まると春が来たと言い、別れたり、付き合っていない状態を冬と表現するが――。
俺は今日、自分からその冬にしようとしていた。
……由衣と結婚すれば逆玉だ。
そう考えると惜しい気もするが、それは彼女に対して失礼である。といっても、付き合い始めた時点で、俺は彼女に対して既に失礼なことをしていたのだが。
何故なら俺は――
由衣に特別な感情など、持っていないからである。
二週間前、俺は由衣に告白された。
といっても二人の間では、俺が先に告白したことになっている。
これがどういうことかというと――
友人の沢村武が、俺の名前を使って、彼女にラブレターをだしたのである。
……たちの悪い、いたずらだった。
二学期からの転校生、七宮由衣(引っ越したわけではなく、前の学校が合わなくて変えたらしい)。そのひかえめで優しい性格と、可愛らしい容姿で男子には割と人気があるのだが――なにぶん、見た目はほぼ小学生である(一時は本当に小学生じゃないのか、と噂されたくらいだ)。
なので、彼女のことが好みであるような発言をすると、すかさず他の男子からロリコン呼ばわりされる状態が、クラスの中では続いていた。
そこに目をつけたのが、沢村武である。
「よう、瀬名。今日もまた、つまらなそうな顔してるじゃないか」
その日の朝。
登校してきた俺に対し、武は開口一番そんなことを言ってきた。
いつものことなので、俺は気にせず席につき、教科書を机の中にしまい始める。が、奴の次の言葉に、俺の手は空中で止まっていた。
「そんなお前のために、七宮さんにラブレターをだしておいたぞ」
「ら、らぶ……れたあ……?」
ぎりぎり、と油の切れたロボットのように首を回し、俺は武のほうを見た。
「ふふん、感謝しろよ」
奴は長めの髪をかきあげ、楽しそうに鼻を鳴らす。
「あのラブレターは自信作だ。これでお前も、間違いなく彼女持ちになれるぞ」
「……って、何勝手なことを――」
「五回」
俺が言い終わる前に、武がずいっと手のひらを突きだした。
「……な、なにが五回なんだ?」
「昨日と一昨日、お前が七宮さんと話した回数だ」
「か、数えてたのか……?」
呆れた奴である。
「女子とはほとんど会話がないお前が、七宮さんとはよく話すじゃないか」
「そりゃあ……転校してきたとき、席が隣だったし――」
もっとも今は席替えをして、俺が廊下側の一番前で彼女が窓際と、端っこ同士になっているが。
ただ、そのときに色々と案内をしたせいか、彼女はいまだに俺に話しかけてくる。
「でも悪い気はしないんだろ? 七宮さんは可愛いし、どこに文句がある?」
「勝手にラブレターをだされたら、文句しかでないと思うが――」
俺は机に肘をつき、深いため息をつく。
信じられない奴だが、こいつがだしたと言ったら本当にだしてしまったのだろう。あとが面倒くさそうだ。
「……それより、大事なことを忘れてないか? 俺、巨乳好きなんだけど」
「おおっ」
ぽん、と武が手を叩く。
「忘れてた」
「……おい」
「しかしだ、瀬名」
奴は腕を組み、急にまじめな顔になって俺を見た。
「お前は女を胸で選ぶのか? 胸のない奴は女じゃないとでも言うのか? どうなんだ?」
「い、いや、別にそういうわけでは……」
「ああ……俺は悲しい。友達が、女を胸でしか見ない奴だったなんて」
武がうつむき、手で目元をおおった。動作がいちいち、わざとらしい。
このまま続けさせるとうるさそうである。
「……わかったわかった。で、俺はどうすればいい?」
肩をすくめつつ俺がそう言うと、武はにんまりと笑みを浮かべた。
「放課後、体育館裏に来るよう書いておいた」
「……放課後だな。わかった」
俺は頷いてみせる。
「うむ、頼んだぞ。報告が楽しみだ」
武はポンと俺の肩を叩くと、満足そうに自分の席へと戻っていった。
しかし――
俺が奴の思い通りになると思ったら、大間違いだ。
確かに七宮さんは可愛いし、いいコだとは思うが、付き合いたいわけではない。ラブレターは武のいたずらだと説明すれば、彼女も納得してくれるだろう。
……いや、なにも本当に放課後まで待つ必要もないよな。
ふと、そう思う。
武の書いたラブレターなんて、どうせろくでもないものに違いない。彼女が本気にするとも思えないが、わざわざ奴のいたずらに付き合わせることもないだろう。
……第一、俺が書いたと思われたくないし。
武だって、四六時中俺を監視しているわけではない。奴の見ていない隙をつき、こっそり七宮さんに話しかけることは可能なはずだ。
さっさと説明したほうが、お互い気まずい思いをしなくてすむ。
――と、そう決めた、矢先のことだった。
教室の扉から、ツインテールの少女が入ってきた。七宮さんである。
カバンは持っていないところを見ると、どこかに行っていたようだ。
……トイレか?
まあ、失礼な詮索はしないことにして、俺は彼女に話しかけることにした。
「七宮さん」
「あっ……」
彼女が、俺を見て立ち止まる。
俺から声をかけたのが珍しいのだろうか。目を丸くして驚いている。
……いや、違うな。
既にラブレターを読んでしまったのだろう。心なしか、頬が紅潮している……気がする。
「…………」
「…………」
しばし、お互い無言で見つめ合う。
……な、なんか気まずい。
さっさと説明してしまおう。
「あ、あの……さ。え〜と……って、あれ?」
俺が言い終わる前に、七宮さんはさっさと自分の席へと行ってしまった。
どうやら無視されたらしい。
こんな彼女の反応は初めてだが……これは、断るという意味だろうか。まあ、そのほうが助かるが……それはそれで、ちょっと悔しい気もする。
――結局。
その日は放課後まで、七宮さんが俺に話しかけてくることは一度もなかった。
……俺から何か言おうとしても、避けられている雰囲気だし。
そんな様子を見ていた武が、
「残念だったな。まあ、いさぎよく振られてこい」
と勝手なことを言って、俺の背中をバシバシ叩いて帰っていった。
……結果は見るまでもない、ということか。
奴にはそのうち、適切な報復処置をすることにしよう。
そして俺は、体育館裏へと向かった。
彼女は来ないかもしれないが、一応呼び出した責任という奴である。
冷たい空気のかたまりが、ヒュウと俺の頬を撫でて通り過ぎた。
少し風がでてきて、グラウンドの乾いた砂を巻き上げる。部活をしている連中がむせているのが、ここからは一望できた。
体育館裏は日陰になっており、いつもじめじめしているので砂が飛んでくることはないが――寒い。
ついでに、こんなところで一人でいるのは寂しい。
告白で呼び出した場合、いつまで待っていればいいのだろうか。
立場上、俺が先に帰るわけにもいかないだろうし。
……面倒だなあ。
俺は身を縮こませながら、ため息をついた。
まったく、武は厄介なことをしてくれる。
――それから十分ほど。
武の奴にどんな仕返しをしようか、頭を悩ませていると、
「あ、あの……」
風に消えそうな、小さな声が聞こえた。
聞き覚えのある声――俺はそちらに顔を向ける。するとやはり、彼女がいた。
風のせいか、ツインテールが横になびいている。見ていてちょっと面白い。
「来て……くれたんだ。あはは、はは……」
俺は頬をかきつつ、乾いた笑いを浮かべる。
……ホントは来てほしくなかったけど。
思わず出そうになったその言葉は、喉の奥にしまいこんでおく。
まあ、説明は面倒だが、後回しにしても仕方がない。ここはさっさと終わらせることにする。
「あ、あのさ、七宮さん」
「これ――」
言いかけた俺の前に、彼女がすっと白い封筒を突き出した。ややうつむき加減のまま、俺のほうを見ないようにしている。
「本当に……瀬名くんが書いたんですか?」
「…………」
俺は、それを見たまま、少し固まっていた。
封筒にはどこで買ってきたのか、ご丁寧にハートのシールで封がしてあり、赤いマジックで『ラブレターだよ〜ん。瀬名より』と書かれている。これだけで、既にいたずらで書かれたような印象を受けてしまう。
……どこが自信作なんだよっ!
俺は心の中で叫びつつ、満面の笑顔を浮かべる奴の姿を思い出す。
……沢村のアホめ。
とりあえず中身が気になったので、俺は封筒を受け取り、中の手紙を取り出した。
「……?」
七宮さんが不思議そうな視線を向けるが、気にせずに紙を広げる。そして、手紙の内容を確認した俺は――
思わず、ずっこけていた。
『キミのハートにときめきズギャーン!』
手紙には、そう書かれていたのである。しかも紙面一杯に、マジックで書き殴るように、だ。下のほうには小さく、『放課後に体育館裏まで』と書かれているが――これのどこがラブレターなんだ!
……あいつはアホだ。アホすぎる。
第一、意味がよくわからない。『ときめき』はともかく、『ズギャーン』って何だ。『ズギャーン』っていうのは。
ともかく今日、七宮さんが来てくれて助かった。そうでなければ、明日までこの手紙を書いたのが俺だと思われるところだった。
……それだけは、勘弁してほしい。
「あ、あの……そのお手紙ですけど、びっくりしました」
と、呆れている俺に待ちくたびれたのか、七宮さんが言う。
「最初は、意味がよくわからなくて……」
……それはそうだろう。俺だってよくわからない。
「でも……」
口許に小さく笑みを浮かべ、俺をちらりと見ると、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「何度も読み返したとき、ようやく意味がわかったんです」
「えっ?」
思わず声に出して驚いてしまう。
……意味が……わかったのか? この手紙の……この文章で?
思わず七宮さんをのぞきこむように見ると、彼女はパッと顔を上げた。
「わたし、感動しましたっ」
……ホントかよっ!
のけぞりながら、心の中でツッコミをいれる。あの文章の、どこに感動する部分があるというんだ?
「『キミのハートにときめき』で私への好意を表し、『ズギャーン!』でその想いの強さを表す……。さらにマジックで書くことで、男らしさをアピールするなんて……すごくステキなラブレターです」
「…………」
俺はあんぐりと口を開けて七宮さんを見る。
彼女は夢見る乙女のように、瞳をキラキラさせているが……マジですか? それはいくら何でも、好意的に解釈しすぎじゃありませんか?
よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、せっかく感動しているのにそれを壊すのも悪い気もする。
それにこういう反応をされると、『実は間違いだった』とか『いたずらだった』とか、言いにくい。……というより、何だかどうでもよくなってきた。
どこまで本気かわからないが、少なくとも彼女の中では、あの手紙は好印象のようだ。それなら変な目で見られることはないだろうし、わざわざ否定して、その印象を壊すこともないだろう。
「あ、それで、お返事ですけど――」
彼女は笑みを止めると、きりっと眉を上げ、俺を見上げる。
「はいはい」
腕を組み、俺は視線をそらす。
手紙の印象はよかったようだが、だからといって、いい返事まで返ってくるはずがない。
七宮さんとの会話は、日に一、二回あるかどうかだ。しかもほとんど俺は、短く返事をするだけ。そんな俺と付き合いたいなんて……彼女が思うはずがない。
「瀬名くん、こっちを向いてください」
「……ああ、ごめん」
確かに、正面を向かないのは失礼だ。
俺が向きを変えて、七宮さんを見ると――彼女は、にっこりとまた笑顔を浮かべていた。
そして、ぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「……えっ?」
「わたしでよかったら、ぜひお付き合いしてください」
「……えぇぇえええええっ!」
俺は驚きのあまり、絶叫していた。こんなに声を出したのは、高校入学以来、初めてかもしれない。
「せ、瀬名くん。そんなに大声を出したら、誰かに聞こえるかもしれないじゃないですか」
「ご、ご、ごめん。で、でも……えええっ?」
彼女に注意されても、まだ驚きがおさまらない。
「なんだか……OKしたのが迷惑みたいな反応ですね」
七宮さんが眉をひそめ、怪訝そうに俺を見る。
「い、いや、そんなことはないけど……」
「じゃあ、瀬名くんもOKでいいんですよね?」
「う、うん」
……あ、やべ。
頷いてからしまったと思ったが、もう遅い。
「よかったーっ」
ぺたんっ、といきなり彼女は地面に座り込む。
「ど、どうした?」
「え、えへへ……」
少しひきつったような笑みを浮かべながら、七宮さんは足をさすっていた。
「実は……ここに来るまで、すごく緊張してて……足もガクガクしてたんです」
「そ、そうなんだ……」
足なんて見てなかったから、気づかなかったが――彼女がそんなに緊張していたなんて、驚きだった。
と思ったら、七宮さんは今度は肩を震わせ、涙をにじませている。
「ご、ごめんなさい……」
あふれた雫を手でぬぐいながら、彼女は言う。
「瀬名くんと付き合えることになったのが、嬉しくて……」
「…………」
俺はどうすればいいのかわからず、呆然と立ち尽くしていた。
何で彼女は、そんなに喜んでいるのだろうか。俺のどこに、彼女に好かれる要素があったのか。まったくわからなかった。
しかし、ともかく。
望んだわけではないが――今日から、俺と七宮さんは恋人同士だ。
こんなに嬉しそうな彼女を前にして、今さら断ることなんてできない。
……まあ、それもいいかな。
と、笑顔で泣き続ける七宮さんの顔を見ながら、俺は思う。
今はまだ、彼女を特別に好きだとは思えない。
だが、いつかは変わるかもしれないし、それに女の子と付き合ってみるというのも、いい経験にはなるだろう。
……沢村の奴を見返すこともできるし。
仮に彼女が俺の気持ちに気づいて、嫌われたとしても――そのときはそのときだ。俺の心に、たいしてダメージはない。
我ながらひどいことを考えていると思うが、それが正直な気持ちだった。
とりあえず、付き合う以上は努力をしてみようと思う。彼女を好きになる、努力を――。
だから俺は、座り込んでいる彼女に手を伸ばして、出来る限りの笑顔で言った。
「七宮さん……。明日から、お昼、一緒にしようか?」
「えっ……?」
彼女は顔を上げ、驚いたように目を見開き――
「は、はいっ」
それから、心底嬉しそうに微笑んだ。
見ている俺まで嬉しくなるような、笑顔だった。
それから二週間。
俺と七宮さんの交際は続いていた。
学校では一緒に弁当を食べ、一緒に昼休みを過ごし、放課後は一緒に帰る。日曜日には定番ではあるが、遊園地や映画に行ってデートもした。俺から言い出し、互いを名前で呼び合うようにもしてみた。……もっとも、彼女は恥ずかしがって、二人きりのときでもなかなか呼んではくれないが。
はたから見れば、実に恋人らしい恋人同士に見えただろう。
沢村の奴も随分悔しがっていた。やはり、あの手紙はいたずら目的だったらしい。
しかし俺の報告を聞き、調子に乗って他の女子にまったく同じ内容の手紙を送っていたが、もちろん相手にされるはずがなかった。あれはあくまで、七宮さんのときが特別だったのである。
そう、特別といえば――
彼女に対する、俺の気持ちだ。
この二週間、色々と努力はしてきたつもりだが、やはり変化はなかった。
俺は、彼女を特別な存在として、見ることができない。
可愛い子だとは、思う。性格も、悪くない。
人として好感は持てるが、異性としては好きになれないだろう。恐らく、この先も――。
結論をだすには、早すぎるかもしれない。だが、これ以上彼女をだまし続けるのは、正直つらかった。七宮さんがいい子だからこそ、惰性では付き合えない。
だから俺は決意したのである。彼女と、別れることを。
「うっ……」
口の中に、コーヒーの熱さと苦味が広がる。
顔をしかめたのがわかったのか、ミニテーブルの向かい側に座った由衣が、小さく笑いをこぼした。
「わたしがブラックだからって、無理しなくていいですよ」
そう言って、トレイに用意してあったシュガースティックの先を破る。
「ほら、瀬名くん」
「ん……」
ちょっとカッコ悪いが、俺は素直にカップを差し出した。
ノンシュガーのコーヒーを口にしたのは、小学生のとき以来である。そのときの味がうろ覚えになっていたことと、もう高校生なのだから平気だろうと思って飲んでみたのだが……やっぱり苦手のままだった。
由衣はそのままで平気みたいだが――見かけが子供っぽいわりには、意外な部分で大人である。
「……って、おい。何いれてんだ?」
俺が黙って見ている前で、彼女は小瓶を手にして、中の赤い液体をポタポタとたらし始めた。
「コーヒーがおいしくなる、秘密兵器ですよ」
由衣はにっこり笑って、スプーンで数回、かきまわす。赤い液体は、すぐに見えなくなってしまった。
「ヒミツヘイキ……?」
せっかく大人っぽいと思ったのに、今度は子供っぽい発言だった。しかし『秘密』はともかくとして、『兵器』というのが気になるが……。
「まあ、飲んでみてください」
「…………」
いかにも怪しげだが……彼女に期待の目で見られては、飲まないわけにもいかない。
仕方なく、少しだけ口に含んでみた。すると――
「……あ。コーヒー牛乳の味」
これなら平気だった。息を吹きかけつつも、俺はすぐに飲み干してしまう。ポカポカと、身体が芯からあたたまってきた。
しかしあの液体は何だったのだろう。
赤いミルク? ……って、そんなはずはない。
気になって由衣の顔を見ると、彼女は人差し指を唇にあてて、言った。
「秘密兵器、ですよ」
「……あ、そ」
別に深く追求するほどのものではないので、それ以上訊かないことにした。
俺が今、一番気にしているのは……どういうタイミングで、彼女に別れ話を切り出すかということである。
「さて。それでは……そろそろ、ゲームをしましょうか」
由衣がコーヒーを飲み終わったところで、立ち上がる。
今日は彼女の誘いで、一緒にネットゲームをすることになっていた。
せっかく由衣が楽しみにしているのだ。別れ話は、その後でもいいだろう。
とりあえず、俺は彼女の準備を手伝うことにした。
大迫力のテレビモニターに、電源が入る。それに比べると、目の前に置かれたゲーム機は随分小さい。が、パッと見たとき、どちらに目を引かれるかと訊かれたら、間違いなくそのゲーム機のほうだろう。
ウィィィン。
ゲーム機に電源が入り、CD型のディスクが回転を始める。そして同時に、本体上部にとりつけられたドリルも回転していた。
――そう。このゲーム機には、何故かドリルがついている。
名称は、どりるキャスト。略して、どりキャス。
ただし、これはイベントの企画用に作られたものであり、世界にひとつしか存在していない。由衣の父親が開発メーカーのセガタ社の知り合いということで、譲ってもらったのだそうだ。
市販されているのは、ドリルキャストという名称で、もちろんドリルはついていない(シンボルマークはドリルだが)。ゲームマニアには人気のハードだったが、他機種との競争に負け、二年前に生産が中止となっている。しかしソフトのほうがいまだに発売され続けているあたり、根強い人気があるといっていいだろう。
……由衣もそのマニアの一人のようだし。
『どりるーっ』
部屋の四隅に配置されたスピーカーから、突然可愛らしい少女の声が響く。そして画面にはシンボルマークが表示された。ドリルを正面から見た図、いわゆる渦巻きの形をしている。
どうやら今の声は、どりるキャストの起動音らしい。市販品にはない演出だった。
『ど〜りるっ、ど〜りるっ』
スチョーンスチョーン。
奇妙な効果音……というか、音楽まで流れてくる。まだ続くらしい。
『ぼ、ぼ、ぼくらはどりるがだいすきさ〜っ』
「…………」
「これはテーマソングですね」
隣に座る由衣が解説した。
さすがはイベント企画品。市販にはできないアイディアが満載である。……マニアにはうけそうだが。
「一応、スキップはできますけど……最後まで聞きます?」
「……いや、いい」
パタパタと、俺は手を振った。
「早く進めてくれ」
「わかりました」
由衣がコントローラーを操作して、画面が切り替わる。そしてソフトのタイトルが表示された。
『ファンタジードリルオンライン』
数あるネットゲームの中でも、一番人気のタイトルである。他機種にも次々と移植されているが……俺は一度もプレイしたことはない。理由は、単にネットに繋ぐ準備が面倒だから。それだけである。
「それじゃ、最初にキャラクターを作りましょう。ひとつのシナリオが一時間くらいで終わりますから……一緒にプレイするには丁度いいですね」
「ふ〜ん……」
まあ確かに、いつまでも遊んでいるわけにもいかないから、俺にとっても都合がいい。
由衣は俺とゲームができることが嬉しいのか、今日はずっと笑顔を浮かべている。だが、そのゲームが終わったとき。きっと今の表情は、二度と俺には見せてくれないだろう。
そう考えると……さすがに少し、心が痛んだ。
「瀬名くんは、職業は何にしますか? 私は魔法使いにしようと思いますけど」
「じゃあ……無難に、戦士かな」
俺はコントローラーのボタンを押し、決定した。『アフロ使い』とか『週一秋葉』とか『十二人の妹を持つ男』とか、色々と変わった職業もあったが、戦士と魔法使いなら、バランスは悪くないだろう。
そのかたわらに、俺はマニュアルのほうにも軽く目を通しておいた。
このゲームは、まず最初にプレイヤーが職業とキャラクターの容姿を決めるところから始めるらしい。
舞台は、中世ヨーロッパと現代日本をごちゃ混ぜにしたような、剣と魔法のファンタジー世界。プレイヤーはモンスターを倒してレベルを上げ、情報を集めながら、世界のどこかに眠る伝説のドリルの秘密をめぐり、冒険を続けていく。
もっとも、このゲームの売りはストーリーではなく、コミュニケーションの楽しさにあるらしいが……さて。一体どんなものなのか。
あとのことを考えると憂鬱だが、とりあえず、今はゲームを楽しむことにしよう。
俺と由衣は、あれがいい、これがいい、と言いながら、キャラクターの顔や髪型、体型や服装を決めていく。だが――
「ふあ……」
いきなり、あくびがでた。それだけでなく、急にまぶたが重くなってくる。
「あ、あれ……?」
一瞬、がくんと身体が沈みそうになり――俺は慌てて頭を振った。
一体どうしてしまったのか。睡眠は一日八時間、きっちりとっているし、先程コーヒーも飲んだばかりである。
「どうしたんですか?」
あくびをくり返す俺に、由衣が怪訝そうに訊ねてきた。だが、俺にもわけがわからない。
急激な、眠気――。
限界だった。俺はまぶたの重さに耐えられず、目を閉じ、意識を闇の底へとゆだねていった……。
目を開けたとき。そこには抜けるような青空が広がっていた。
「……あれ?」
そして周囲を見回したとき。そこには地平線まで見渡せる草原が広がっていた。
「……あれあれ?」
さらに後ろを振り返ったとき。一つ目で角を生やした、三メートル近い大男が、俺に向かってドリルを振りおろそうとしていた。
「……どわああっ!」
間一髪で、身体が動く。俺は慌てて横に転がった。靴の先に、固いものがかすったのを感じる。
「なっ……何なんだ! 何なんだっ!」
尻餅をついた状態で大男を見上げて、俺はとにかく叫んでいた。
状況が、理解できない。
俺は確か――そう、由衣の部屋でゲームをしていたはずだ。それが何故、こんな場所でモンスターみたいな奴に襲われてるのか。……って、考えている場合ではなかった。
一つ目の大男が、再び腕を振り上げ、俺に襲いかかってくる。
「うわああっ!」
避けようとしたが、靴が脱げかけて、足を滑らせた。――俺は動くことができない。
と、そのときだ。
「瀬名くん、Aボタンです!」
後ろのほうから、少女の叫ぶような声が聞こえてきた。
……この声は……ゆ、由衣かっ?
――って、何だよ、Aボタンって!
しかし俺が理解するより先に、大男がドリルを振り下ろしてきた。
もうダメか、と思って目をつぶる。が、ふと手の中の違和感に気がつき――俺は無我夢中でそれを押していた。
ギィンッ!
頭のすぐ上で、激しい金属音が鳴り響く。
「瀬名くん、もう一回!」
由衣の声に合わせ、俺は何度も同じ動作を繰り返した。
カチカチカチカチッ!
押しながら、それがボタンであると気づき、そっと目を開けてみる。と同時に、大男が悲鳴を上げて、背中から倒れていくのが見えた。
ドシン、と軽く地面が揺れる。
視線を手元に戻し――俺が見たもの。それは、どりるキャストのコントローラーだった。
「やりましたね、瀬名くんっ」
声と共に、由衣が駆け寄ってくる。いつもの八つ橋高校の制服。そして彼女の手には、やはり俺と同じものが握られていた。
「ど……どうなってるんだ……?」
俺はしばらく座り込んだまま、立ち上がることができなかった。
太陽がだいぶ傾きかけている。空もオレンジ色に染まり、空気が少しずつ冷たくなってきた。軽く振り返ると、二人の影が大きく伸びており、まるで親子が並んでいるようにも見えた。
……いや、親子というよりは、老人と子供だろうか。
それだけ俺は、背中を丸めて歩いていたのだ。
「瀬名くん……元気をだしてください」
隣を歩く由衣が、心配そうに言うが……とてもそんな気分にはなれない。
ある日突然、ふつーの高校生が、異世界やらゲームの世界やらに迷いこんでしまう。
マンガでもゲームでも、実によくあるパターンだった。が、よくありすぎて、最近では食傷気味でもある。
しかしその迷い込んだのが自分となると、そんなことは言っていられない。
俺は由衣と合流した後、それらのマンガの内容を必死に思い出しながら、まずは状況確認を最優先におこなっていた。
土を触ってみたり、草木のにおいをかいでみたり。自分のほっぺたをつねってみたり。
この場所が作り物ではないのか。はたまた夢ではないのか。五感をフル稼働させて調べてみたが……どれもリアルな感触しかなかった。
だが、ここが現実世界のはずはないのである。
何故なら――俺と由衣は、どりるキャストを装備しているからだ。
背中にはベルトのついた本体をリュックのように背負い、後ろから伸びてきたコードは、コントローラーが落ちないように左腕に巻きつけられている。もちろん、俺にこんなものを身につけた覚えはないが……。
ちなみにどりるキャストは常に動いており、ドリルも回転している。電源コードはないのに、どこから電源をとっているのかは不明のままだった。
そして、最初に俺を襲い――偶然倒すことができた、一つ目の大男。
由衣によると、あれは『ファンタジードリルオンライン』のモンスターであるらしい。
俺がコントローラーのAボタンを押すことにより、目の前に剣が出現し、攻撃をすることができたのだ。ちなみにBボタンを押すと、盾が出現する。さらにスタートボタンを押すことで空中にウインドウが現れ、それを見ながら武器の変更やアイテムの使用、ステータスの閲覧も可能のようだった。もっとも、今の俺たちには変更する武器もアイテムも、ひとつもなかったのだが。
ゲームソフトのモンスターがいて、ゲーム機のコントローラーで攻撃や防御ができる――。こんな非現実的なこと、認めたくはないが……やはり俺たちは、ゲームの世界に来てしまったのだろう。そうとしか、説明がつかない。
……夢なら覚めてほしい。
切に願った。が、いつまでもそこにいては、モンスターに襲われるだけだ。由衣の提案もあり、まずは人のいるところへ行き、情報を集めようということになった。
だが、見つからない。出会うのはモンスターばかりで、もう数時間、人間を見ていなかった。
「なあ、由衣……。これってコミュニケーションが重要なゲームなんじゃなかったっけ? これじゃあ、コミュニケーションなんてできないぞ?」
「おかしいですねえ……」
俺の言葉に、由衣も首を傾げる。
「今人気のゲームですし、プレイしている人が他に誰もいないなんて、あるはずないんですけど……。それに、しばらく歩いていて気づいたんですが……どうもここ、エリア制限がないみたいです」
「……エリア制限?」
俺が問いかけると、彼女は簡単に説明してくれた。
何でもこのゲームでは、一回で進めるエリアというのが限られているらしい。街でシナリオを選び、冒険に出かけ、クリアすると戻ってくる。それがワンセットで一時間程度。この一時間というのは、社会人のプレイヤーでも気軽に楽しめるように、という考慮もあるらしい。だからシナリオと関係のない場所へ進もうとすると制限がかかり、マップで迷う時間をなくすことができるのだ。
「つまり、それがないということは――」
「わたしたちが来たせいで、バグが起きたのかもしれませんね」
「バグ……か」
俺は、ため息をつく。
バグとは、プログラムの不具合のことだ。それのせいで、時々ソフトの回収騒ぎなんてものもある。プレイヤーにもスタッフにも、それは大の天敵だった。
「……やっぱり俺、思うんだけど」
足を止め、背中を見る。ドリルが回転し、電源もないのに作動している、いかにもあやしいどりるキャスト。
「これのフタ……開けてみないか?」
それは、電源スイッチを切る以外の、もうひとつのゲームをやめる方法だった。あくまで通常ならば、だが。
「でも……わたしは危険だと思います」
由衣は眉をひそめる。
「ただでさえ異常な状況なんですから、余計なことをすると戻れなくなることも考えられますし……」
「…………」
「それに、こういう状況のセオリーとして、ゲームの設定に従うべきですよ。そういうマンガとか、読んだことありませんか?」
「そ、そりゃあ、あるけど……」
ゲーマーなだけだと思っていたら、由衣はマンガも結構読んでいるらしい。ちょっと意外である。
「きっと戻れますよ」
彼女は笑顔で言った。
「街につくことができれば……きっと何とかなります。だから、もう少し頑張りましょう?」
「あ、ああ」
俺は頷く。それから――彼女に気づかれないように、わずかに視線をそらして言った。
「……すごいな、由衣は」
「えっ?」
「こんな状況、普通ならパニックになるだろ? なのに、冷静だし前向きだし……。俺なんて、落ち込んでただけだから……正直、恥ずかしいよ」
素直にでてきた言葉に、自分で苦笑する。
こんな俺を、彼女は情けなく思ったのだろうか。それならそれで都合がいいはずだったが、今は何だか、ひどく寂しく気持ちになった。
「そんなことないですよ」
と、彼女が俺の前に立つ。
夕日のせいだろうか。ほんのり赤く染まった顔で、俺を見上げている。
「わたしが冷静でいられるのは……きっと、瀬名くんのおかげです」
「……俺の?」
「瀬名くんが一緒だから、わたしは頑張れるんですよ。瀬名くんは……わたしの元気のみなもとです」
「なっ……」
カッと顔が熱くなったのがわかった。
……ゆ、由衣の奴、なんて恥ずかしいセリフを。
俺も十分恥ずかしいことを言ったが、彼女には負ける。
しかし――やっぱり不思議だった。付き合い始めたときから疑問だったが、本当に、由衣は俺のどこが好きになったのだろう。別れる前に、それだけは訊いてみたかった。
「……なあ、由衣」
と、俺は話しかけようとしたが――そのときである。
突然目の前にウインドウが開き、『警告』というメッセージが表示された。これまでに何度も見てきた、モンスター出現の合図である。
「ちっ……どこから来る?」
俺は舌打ちしてから、周囲を見回した。
この辺り一帯は草原が続いている。見渡しはいいが、ここはゲームの世界だ。モンスターは近づいてくるのではなく、空間から突然出現してくるため、油断はできない。
「――こっちですっ」
と、由衣が夕日のほうを指さす。十メートルほど先――そこに、地面から湧き出るように光の粒が現れ、大きな輪の形になっていく。そこが扉となり、モンスターが出てくるのだ。
今回のモンスターは……犬だった。種類は詳しくないのでわからないが、たぶん秋田犬とか何とかの、日本にいる犬なのは間違いないだろう。ただ、普通と大きく違うのは――鼻の先に、ドリルがついていることである。
「あれはドリル犬です」
と由衣が言った。そのままなネーミングである。
「動きが素早く、ドリルで攻撃してくるので注意が必要です」
「注意といっても……大丈夫だろ、犬の一匹くらい」
これまで何度か戦闘をしてきて、ボタンの押すタイミングにもだいぶ慣れてきた。
ましてや相手は、ドリルがついているとはいえ、たかが犬だ。素手ならともかく、こちらには剣も盾もあるし、由衣の魔法だってある。
何の問題もないはず――だが、由衣の表情には、何故か焦りの色が浮かんでいる。
「瀬名くん……。ドリル犬は、群れで襲ってくるモンスターなんです。ですから――」
と、彼女が解説する間に、周りに次々と光の輪が現れ、ドリル犬が姿を見せた。その数――ざっと十匹以上。
「げっ」
いくら何でも多すぎる。同時に攻撃されたらひとたまりもないが――既に囲まれており、逃げることもできない。
こういうときこそ、由衣が全体攻撃魔法を使えればいいのだが……彼女はまだ、炎系と水系の、二つの単体攻撃魔法しか習得していない。俺とプレイするために、初期の状態から始めたことがあだになったわけだが、彼女を責めてはいけないだろう。
「くそっ……。どうすりゃいいんだ?」
俺と由衣は背中合わせになっていた。
犬の唸り声と、ドリルの回転音。じりじりと、奴らが間合いを詰めてくる。
ゲームでいえば、全滅パターンだった。窮地を切り抜ける都合のいいアイテムもないし、迂闊にリセットをするわけにもいかない。
俺はコントローラーのスタートボタンを押し、ステータスを表示させた。HPはまだ半分以上残っているが……もしこれがなくなったら、どうなるのか。
ゲームオーバー。つまりは、『死』だ。このゲーム世界から抜け出せるなんて、甘い考えは持たないほうがいいだろう。
「瀬名くん……」
「ん?」
声がしたので、俺は小さく顔を向けた。彼女はコントローラーを構えたまま、まっすぐに敵を見据えている。
「ここは、逃げるしかありません。二人で群れの一角を同時攻撃して……穴が開いたところを突破します。そうして逃げ切るか、または少しずつ相手をして、倒していくしかないです」
「そ、そう……だな」
俺は頷いた。確かに、それくらいしか方法はなさそうだ。
「それじゃあ目標は――」
群れの状態を見回し、狙いを定める。
「よし、夕日の方角だ。そこが一番敵が固まっていない。――いくぞっ」
「はいっ」
俺の声を合図に、同時に走る。ドリル犬のほうも素早く反応し、飛び掛ってきたが、俺は十分にひきつけてからAボタンを押した。目の前に剣が出現し、斬りかかる。
「キャウンッ」
悲鳴と共に、ドリル犬が地面に転がり――そこへ、後ろから炎の玉が衝突した。由衣の攻撃魔法である。派手な音と共に、爆風がまきあがった
「くっ……」
威力はたいしたことはないはずだが、案外風が強く、俺は腕で顔を覆う。しかし目くらましには、丁度いい。
「走れ、由衣っ」
叫んで、俺は群れの間を駆け抜けた。
走る。とにかく走る。こうして少しでも引き離して、同時に相手をしなければ、きっと何とかなるはずだ。あまり運動をしていないので、すぐに足が重くなってくるが、そんなことは言っていられない。
ふいに、辺りが薄暗くなった。夕日が地平線の向こうに沈みかけ、わずかに顔をだしているだけになっている。
……夜はやっぱり野宿かなあ。
そんな心配が頭に浮かび――俺はハッとした。
後ろに、気配がないのだ。足音も、息遣いもない。ドリル犬のものも、由衣のものも――。
「……まさかっ?」
俺は立ち止まり、後ろを向いた。
暗くてよく見えないが、先のほうで、かすかに動く『点』が見えた。その『点』に対して、いくつもの小さな『点』が、くっついたり離れたりしている。
心臓が、ドクンとはね上がった。
「ばっ……バカやろうっ……!」
思わず口をついて出た乱暴な言葉に、自分でも驚く。それが彼女に対してというより、自分に対して言った言葉だからかもしれない。
――何故、ここまで気づかなかったのか。
逃げることに夢中になり、彼女を気遣う余裕がなかった……というなら、実に情けない話である。彼女のほうは、俺を逃がすためにひきつけ役になったというのに。
俺はスタートボタンを押し、ステータスを表示させた。この画面からは、仲間の分も見ることができる。
そして――由衣のHPのゲージが、赤く点滅していることに、愕然となった。
「くそっ、間に合えっ!」
俺は全速力で、走り出す。足が鉛のように重いが、それで遅れたなんて、言い訳にもならない。
「由衣ーーーっ!」
呼吸が苦しい。身体中から汗がふき出し、背中にシャツが張り付いているのがわかる。
しかし段々と、『点』だったものが『人のかたち』になっていく。だが、それがガクリと膝をついた。周りの、いくつもの『点』――いや、ドリル犬たちが、一斉に飛びかかっていく。
「くっ――!」
彼女との距離は、あと百メートルもないはずだ。だが、間に合わない。何か、奴らの気を引くことができれば――。
咄嗟に、俺は手の中のコントローラーの存在に気がついた。迷わずに、背中のどりるキャストからコードを引き抜き、右手に持ち変える。
「うおおおっ!」
気合いの声と共に――それを、投げた。遠投には多少自信があるものの、さすがに届くとは思っていない。コントローラーは放物線を描き、彼女の二十メートルほど手前で落ちる。
どんっ。
という地面に落ちた音は、ドリル犬の唸り声にかき消されて、ほとんど聞こえない。が、その中の一匹が気づき――俺のほうを見た。
――よし!
手の中で、ガッツポーズを作る。
「ワォーーーンッ」
俺に気づいた一匹が、吼えた。それを合図に、他のドリル犬たちが彼女から離れ、俺に向かって走り出す。
さて、ここからどうするか。――なんてことは、考えてもいなかった
コントローラーがないから、剣で攻撃することも、盾で防御することもできない。しかし俺にはまだ、自分の身体がある。気合と根性もある。彼女を助けるためなら――きっと何でもできる。
普段の俺からは想像できない考えが、今の自分の中にはあった。
――いつもつまんなそうな顔だ、と沢村に言われる俺。
――部活にも入らず、勉強もやる気は起こらず、ただ何となく過ごしているだけの俺。
――男女の付き合いに騒ぐ連中を、冷めた目で見ているだけの俺。
そんな俺が、由衣のために、熱くなっている。
不思議な感覚だった。
……こういうのも、悪くないんじゃないか?
何となく、そう思いながら――
俺は両腕で顔をガードし、頭を低くしたまま、ドリル犬の群れの間へ突入した。
「うおおおっ!」
ドンッ、と正面の一匹を吹き飛ばすことに成功する。が、すぐに腕に重みを感じ、刺されるような痛みが走った。
「くそっ」
俺は構わず、身体を動かし続ける。しかし重みはどんどん増していった。腕、足、背中――と、ドリル犬が、次々と食らいついてくる。もはや、ほとんど歩いている状態だった。
由衣は、あと十メートル先にいるというのに。早く、彼女のもとへ行かなければならないというのに。
「せっ……瀬名くんっ」
重さと痛みで、とうとう一歩も進めなくなっていたところで、彼女の声が耳に入った。顔を上げると、由衣が足を震わせながらも、懸命に立ち上がっている。
髪はバサバサに乱れ、制服は傷だらけ。黒く染みになっているのは、血だろうか。
「今、残ったマジックポイントで、最後の魔法を使いますからっ……」
「バカッ、無理すんな!」
「頭、下げてくださいっ」
俺を無視して、由衣がコントローラーのボタンを押す。と同時に、彼女の前に小型の太陽みたいな塊が出現し、こちらに向かって飛んできた。
「くっ」
俺は前のめりになり、強引に身体を倒す。熱の玉が、俺の頭の上を通り過ぎた。
「ギャウンッ」
足の先のほうで、悲鳴が上がる。焦げ臭いにおいが漂ったかと思うと、途端に身体が軽くなった。燃やされた仲間に驚いたドリル犬が、一斉に離れたようだ。
「よしっ」
立ち上がろうとして、ズキンと足に痛みが走る。しかしチャンスは今しかないのだ。
歯を食いしばり、俺は由衣のもとへと走った。
既に夕日は沈んでおり、空にわずかな明かりが残っている程度だった。近づいても、彼女の顔をはっきりとは見ることができない。
「由衣っ」
俺はふらふらの彼女に声をかけ、肩を支える。触れた途端、血のにおいが鼻を刺激した。
「……だ、大丈夫か? とにかく、少しでもここから離れよう」
「は、はいっ……」
頷く由衣。俺以上に、彼女はボロボロの状態だった。
こんなときに回復アイテムがあれば……と思うが、ないものはどうしようもない。
俺は、彼女を支えて、一歩を踏み出す。少しでも、遠くへ――。
ただ、もう一度ドリル犬に襲われたら、そのときはおしまいだ。もう抵抗する手段も、力も残っていない。
ゲームオーバー。そんな言葉がよぎり、俺は後ろを見る。
「……?」
不思議なことに、ドリル犬たちは、襲ってこなかった。俺たちを見つめたまま、その場で微動だにしない。
「何だ……? どうしたんだ?」
疑問に思いながら、俺は歩を進め――
「危ない!」
由衣が叫んで、身を固くしたのは、そのときだった。
「え?」
足が、空を切る。地面の先が、なかった。
「なっ……!」
気づいたときには、もう遅い。
辺りが暗いせいと、前方にまだ大地が見えていたせいもあり、まったくわからなかった。
地殻変動の影響だろうか。大地が寸断され、幅一メートル程度の裂け目ができていたのである。
そして大きくバランスを崩した俺たちは、その裂け目の中へと落ちていった……。
左右を囲む岩肌が、天まで届いているかのようにも見えた。上空から差し込むかすかな月明かりのおかげで、由衣の姿を何とか認識することができる。
「大丈夫か、由衣……?」
首筋に、彼女の吐息を感じていた。少し、苦しげな息遣い。今、彼女は俺の腕の中にいる。
「わたしは……大丈夫、です。それより、瀬名くんは……?」
「俺も、平気……かな。はは、は……」
そう言って、小さく笑う。本当は全然平気ではないが、彼女の手前、強がってみせた。
何しろ二十メートル近くも落下し、何度も周りの岩に身体を打ち付けたのだから。
幸い、岩と岩の間が狭くなった部分にはさまったので、これ以上落ちなくてすんだが、全身はボロボロだった。首から下がしびれたようになって、全く動かないのである。
由衣のほうは、俺がクッションになったおかげで少しはマシなようだった。体力の消耗と怪我のせいでつらそうだが、動けないほどではない。が、もしここで彼女が、この裂け目から出るために身を起こそうとすれば、下にいる俺がバランスを崩す恐れがある。そうすれば、俺はこの深い闇の底へと真っ逆さまだ。
もちろん、このままこうしていたところで、助かる方法が見つかるわけではないのだが――。
相変わらず動き続けている、背中のどりるキャストの作動音だけが、狭い岩肌の間に響いていた。
「なあ、由衣……」
俺はあることがどうしても気になり、思い切って訊ねてみた。
「何であんなマネ……したんだ? 一人で敵をひきつけて、俺を逃がそうだなんて……」
「……わたしの、せいですから」
長く吐いた息が、顔にかかる。表情は、暗くてよく見えない。
「わたしがゲームに誘ったから、こんなことになったんですよね……」
「……そんなの、由衣のせいじゃないだろ」
ゲームの世界に入るなんて非現実的な展開を、誰が想像できたというのだろう。
「それに――」
と、彼女が小さく笑いをこぼした。
「瀬名くんは……わたしにいなくなってほしかったんじゃないですか?」
「えっ?」
一瞬、呼吸がとまる。
「な、何言って――」
「別れたかった……んですよね? わたしとは」
「…………」
「……知ってました。あの手紙が、瀬名くんが書いたものでないこと。瀬名くんが、わたしを好きではないこと。何もかも、全部――」
「なっ……なっ……」
俺は、口をパクパクさせていた。心臓が早鐘を打ち、背筋が凍ったように冷えていく。
「そんな、何でっ……」
全てを知っていて、どうして俺と付き合っていられたのか――。
そう訊ねようとした俺の唇に、ふいに水滴が落ちた。
……血?
いや、違う……。
「そんなの――瀬名くんを好きだからに、決まってるじゃないですかっ……!」
由衣の叫びが、岩肌の間に大きく反響した。
「わたしだって……好きな人の筆跡くらい、チェックしてるんですよ? だから手紙もすぐにいたずらだってわかりましたけど、これがきっかけになればいいって思って。それで迷惑だとは思ったんですけど、瀬名くんの優しさを利用して、断れないような状況を作ったんです……」
水滴が、また落ちる。ぽたり、ぽたりと――。
「でも……だめですね。一緒にお弁当を食べたり、デートをしたりして、わたしは嬉しかったんですけど――瀬名くんが無理してるのも、わかっちゃうんです。……わからなければ、よかったのに」
彼女は少し笑ってから、大きく息を吐いた。
「…………」
俺は口をつぐんだまま、何も言うことができない。
「瀬名くん、呆れたでしょう? わたしのこと。本当はたくさんたくさん――ずるいこと、考えていたんですよ?」
「……な、なあ、由衣」
頭の中が混乱して、整理がつかないけれど。俺はこれだけは訊こうと思っていたことを、訊いてみることにした。
「俺のどこが……そんなに好きになったんだ?」
「……あ、やっぱり覚えてないんですね」
怒ったのか、頬を軽くつねられる。痛くはなかった。
「……なんか、あったっけ?」
「転校してからじゃないですよ」
と、彼女は意外なことを言う。
「転校する前――わたしが十歳のときに、一度会ってるんです」
「えっ……?」
……俺と由衣が、昔会っている? そんな、まさか――。
目を見開き、何とか彼女の顔を見ようとしたけれど、やはり暗くてわからなかった。
「あのとき、わたしは家族で山のキャンプ場に行ったんです。父も母も仕事で忙しいので、あまり家族ででかけることはないのですが、そのときは二人ともまとまった休みがとれて。すごく嬉しくて、わたしは姉と一緒にはしゃいでいました」
「……お姉さん、いたんだ?」
「今は、結婚して家にはいませんけどね……」
少しだけ寂しそうに、彼女は言った。
「そこで、一人の男の子に会ったんです。同じ年代の子が他にいなかったせいか、話しかけてきて……。わたしは家族と過ごそうと思っていたのに、その子、強引にわたしのこと連れて行こうとするんです」
思い出したのか、由衣がくすくす笑う。
「そ、その男の子って……もしかして、俺か?」
「そうです」
と、腕に感触が伝わり、由衣が頷いたのがわかった。
「それで結局は根負けして、わたしはその子と遊ぶことにしたんですけど……まだ、思い出せませんか?」
「え、えっ、え〜とっ……」
キャンプ、キャンプ……。十歳の頃……。
俺は必死に当時の記憶をさぐる。そしておぼろげながら、頭の中に映像が浮かんできた。
夏の強い日差しの中。緑の木々に囲まれ、セミの声が響き渡る山のキャンプ場で、俺は――……。
……そう。一人の女の子に出会った。とても元気な、ツインテールの女の子に。
『ヒロくんっ』
真っ白なワンピースを着て、風に流れる髪を手で押さえながら――そう呼んでくれただけで、俺はドキドキしていた。
一目惚れと初恋とを、同時に体験した、あの夏の日。そして家に帰ったとき、キャンプ場で何をして過ごしたのかすっかり忘れていた、不思議な日のこと――。
「……思い、だした。けど、何で……?」
頭の中が、まだ混乱している。
何故そんな大切なことを、今まで思い出せずにいたのか。
あの女の子が、本当に由衣なのか。今とは全然印象が違うし、何より、彼女は金髪碧眼の、白人の女の子だったはずだ。
彼女と出会って、遊んで――それから家に帰るまで、何があったのか。その間の記憶が、まだ闇に沈んだままだった。
「その子と遊ぶうちに……わたしも段々楽しくなってきました」
俺の疑問に答えるかのように、由衣が話を続けていく。
「二人でどんどん山の奥のほうへ行って……そして気がついたときには、帰り道がわからなくなっていたんですね。辺りは暗くなってきて、不安もいっぱいになって……でもその子――瀬名くんは言うんです。『俺が守ってやるから安心しろ』って」
「……そ、そんなこと言ったか?」
さすがに、顔が熱くなる。
しかし次の瞬間には、頭の中にそのときの光景が蘇っていき――……確かなものであることが、はっきりした。子供とはいえ、恥ずかしいことを言ったものである。
「瀬名くんは……その言葉通り、わたしを守ってくれました」
由衣の少し冷たくなった手が、俺の頬をなでる。
「わたし、足をすべらせて――山の急斜面から落ちそうになったんです。そこを、瀬名くんが手を引いてくれたんですが……支えきれずに、一緒に落ちてしまいました」
「…………」
「でも、瀬名くんは咄嗟にわたしを抱きしめて――自分がクッション代わりになったんです。丁度、今みたいに……」
「……そっか」
そこまで聞いて、俺は完全に思い出していた。
夢で見た、リアルな落ちる感覚は、あのときのものなのかもしれない。
俺は彼女を守るために一緒に転落して……そしてようやく落下が止まったとき、身体の感覚がなくなっていたのだ。本当に、今と同じような状況だったのである。違うのは、彼女が奇跡的に怪我ひとつなかったということだろうか。
そして彼女が助けを呼びに行き――どれほどの時間が過ぎたのか。気がつくと、俺は金髪女性に抱きしめられていた。二十歳くらいの美女で、温かく、柔らかな感触に顔が埋もれている。
『守ってくれてありがとう』
確かそんなようなことを言われた気がするが、顔いっぱいに伝わる感触に、俺はそれどころではなかった。その柔らかさを堪能したまま、やがて意識を失い――目を覚ましたのは、翌日の朝。キャンプ場の、テントの中だった。
やけに頭がぼんやりしていたのを、覚えている。この時点で昨日の記憶がなくなっていたのだが、身体の怪我がすっかり治っていたこともあり、当時の俺は別段気にもしていなかった。そして母親に、外で女の子が呼んでるから……と言われ、出てみると、そこには昨日の少女の姿があった。
だがこのとき俺に彼女の記憶はなく(ただし胸の感触だけは覚えていた)、あとは夢のとおりにひどいことを言って、突き飛ばされたというわけだ。記憶のなかった俺には、少女とのことはわけがわからないことでしかなく――やがて、忘れていってしまったのだろう。しかし疑問なのは、あれだけの怪我がどうして治っていて、記憶までなくなっていたのか、ということだが……。
「姉が……消したんです。瀬名くんを助けるために、仕方なく――」
「……は?」
驚く俺に、由衣はかすかに笑いをこぼしたかと思うと、静かに身体を離していく。
「瀬名くんと最後に会ったときには、わたしはまだ、そのことを聞かされてなかったんです。だから、あのときは混乱させてしまったみたいで……ごめんなさい」
「そ、そんなことよりっ……き、記憶を消したって一体っ……?」
「……こういうことです」
彼女の身体が、かすかに動いた気配がして――俺の顔に、何かがかけられる。両耳と鼻のところに生まれる、違和感。由衣のメガネ……だった。
「お、おい――」
と、そう呼びかけた、次の瞬間。闇の中に、突然太陽が生まれたかのような、強い光が生まれた。辺りが昼間のように明るくなり、俺は思わず目を閉じる。
「なっ……何だ、一体っ」
「ヒロくん……」
耳に響く、懐かしい呼び名。
「……ゆ、由衣?」
俺は、うっすらとまぶたを上げた。光の中で俺を見下ろし、金髪の少女が微笑んでいる。ツインテールに、青いリボン。白いワンピース。昔出会った頃そのままの姿で、彼女はいた。
「ほ……本当に、由衣なのか? 一体――」
「ごめんね、ヒロくん……。わたし、今までキミをだましてたの」
口調までが、昔のものになっている。何だか俺まで子供に戻ったかのような気分だ。
「わたし、本当は魔法の国の住人で……勉強のためにヒロくんたちの世界に来たの。ここもゲームの世界じゃなくて、魔法の国の一部……。本来は訓練場なんだけど、どりるキャストのゲーム風に改造してあるの。ヒロくんにはコーヒーにいれた薬で眠ってもらって、その間にわたしが連れてきた……」
「なっ……何だそりゃっ?」
何をふざけているのかと思ったが……由衣は、いたってマジメな表情である。
「昔、ヒロくんの記憶を消したのは……魔法で怪我を治したことを知られたくなかったから……」
彼女の微笑みが、ゆっくりと崩れていく。
「それでも今日、ここへ連れてきたのは……完全に、わたしのわがまま。本当はヒロくんに、おムコさんになって来てもらおうと思ってたんだけど……無理そうだから。だから、少しでもいいから、こっちでも一緒に過ごしてみたかったの……。ごめんね……」
「それで……これから、また俺の記憶を消そうっていうのか?」
俺の問いかけに、由衣は一瞬目を見開き――それから、すぐに頷いた。
「うん……。次に目を覚ましたとき、わたしのことは頭の中から消えてるの。学校にももう行かないから、わたしとは二度と会わなくてすむ――」
「ふざけんな、バカっ!」
俺は思わず叫んでいた。
「ひ、ヒロくんっ……?」
びくっ、と由衣が身をすくめる。
「そんなこと、勝手に決めるなよっ! 俺を何だと思ってるんだっ!」
「だ、だって……わたしのこと、好きじゃないんでしょ……?」
「嫌いとも言ってないだろっ? ……だ、第一、由衣が悪いんだ。本当の姿を見せないから――」
もし最初からその姿で現れていたなら、俺はきっと――例え記憶がなくても、また彼女を好きになっていただろう。
「だって……」
と、由衣がうつむき、顔をそむける。
「大きく……なりたかったんだもん」
「……は?」
……大きく、って何の話だ?
「その……む、胸が……」
「……ムネ?」
俺が聞き返すと、彼女が真っ赤になって俺のほうを向いた。
「だから、胸よっ! おっぱいが大きくなりたかったのっ!」
「は、はあ〜?」
「だ、だって、言ったじゃない! あのとき、『俺は巨乳が好きだから、そうなったら考えてもいい』って! わたし、すっごく悔しかったんだもん!」
「…………」
……まあ、確かに言ったけど。しかし今思い出せば、あれはお姉さんの胸の感触が頭に残ってたいたことと、告白された照れ隠しで、ついつい言ってしまっただけのような気がする……。
「でもわたし、全然大きくならなくて……。せめて性格だけでも好かれるようになろうと思って……おとなしくていい子に見せてたし。ヒロくんに会いにきたのはいいけど、このままの姿だと悔しいから魔法で変身して……。でも全く違うとわたしでなくなるから……日本人風に少し変わるだけにしたんだ。もちろん、いつかは正体を明かすつもりで……」
「…………」
……なんか俺の一言で、だいぶ気にさせたみたいだな。
確かに、俺は今でも巨乳好きである。だが、胸が小さいから好きにならない――なんてことにはならない。
……第一、俺のために姿や性格まで変えてくるなんて……バカだよな。そんなことされても、少しも嬉しくないのに……。どおりで、好きだと思えなかったはずだ。
しかし、どうしたものだろう。今さら謝るのも、なんか違うような気もするし……。
「ヒロくん……。今までありがとう」
突然、由衣がそう言った。うっすらと、目に涙を浮かべながら。
「もう、お別れしなくちゃ……。正体を明かしたときがそのときだって、以前から決めてたの……。お父さんやお母さんにも、無理いってここにいさせてもらっていたから……」
「なっ……なにっ?」
わけがわからず、俺は慌てて聞き返す。
「お、お別れって、どういうことだよっ?」
「……わたし、勉強のためにここに来たって言ったよね? その勉強の中には、おムコさん探しも含まれてるの。相手がいいって言ってくれたら、一緒に魔法の国に連れて行くんだけど……ダメなら、その人の記憶は消さなければいけない」
「つまり……やっぱり俺の記憶を……」
「うん……ごめんね。勝手なことして」
すっ、と由衣が俺の額に手のひらを乗せる。払いのけようにも、俺の身体は動かないままだ。
「痛い思いさせちゃったね……。守ってくれて、嬉しかったよ」
彼女の手が、ぼんやりと輝きはじめた。
――くっ!
俺は奥歯を噛み締める。
――このまま――何も言えないまま、記憶を失ってたまるか!
「――好きだ! 由衣!」
「えっ?」
ぴくん、と由衣の手がかすかにはね上がる。
「姿も性格も作ってない、今のお前が――俺は好きなんだ! だから――勝手にひとの記憶なんて、消すな!」
「ヒロくん……」
ぽたり、と俺の顔に熱い雫が落ちる。俺の目は彼女の手におおわれて、何も見ることができない。
「……ありがとう。嘘でも嬉しいよ……」
「嘘じゃな――んぐっ」
言いかけた唇が、ふいにふさがれた。しかし柔らかな感触は、一瞬だけですぐに離れる。
「さよなら、ヒロくん……」
「まっ……待て、由衣!」
俺は何とか彼女を止めようと思ったが、何やら呪文のようなものを呟いたのが聞こえ――そこで、意識が途切れてしまった。
「瀬名くんっ……瀬名くんっ」
声と共に、肩が揺すられる。その感覚に、俺はゆっくりとまぶたを開き、声の主を確認した。
黒髪のツインテールに、黒ぶちメガネで、童顔の女の子。一瞬、金髪でないことに違和感を覚え、名前がでてこなかったが――すぐに思い出した。
「ゆ、由衣……か?」
「寝ぼけてるんですか、もう……。一緒にゲームをしてるのに、途中で寝てしまうなんてひどいですよ」
由衣が不満そうに眉をひそめて、俺を見る。
「ゲーム……?」
顔を上げると、テレビモニターには『ファンタジードリルオンライン』の画面が表示されていた。どうやら店に入り、シナリオを選んでいたところらしい。
「俺……寝てた、のか……?」
……なら、ゲームの世界に入ったのも夢? 大怪我をしたのも、由衣が昔会った初恋の人で、実は魔法の国の住人だというのも、夢……?
確かにあんな現実離れしたこと、夢でなければ説明がつかないが――。だが、そのひとことで片付けてしまうには、どうにもリアルすぎる体験だった。
あのとき。最後に由衣は、俺の記憶を消したはずである。それがこうして覚えているということは、魔法が失敗したのか、やはり夢だったのか。まあ、どちらが現実的であるかは、考えるまでもないのだが――。
……認めたくない。
俺の中には、もやもやとしたそんな気持ちが残っていた。
「なあ、由衣。お前、十歳のとき、キャンプに行かなかったか?」
「もう、眠いのなら眠いと、ちゃんと言って――……って、な、何ですかいきなり?」
彼女の文句の言葉をさえぎって、俺は質問する。由衣はまだ不満そうだったが、しばらく目を閉じ……それから答えてくれた。
「……そうですね。キャンプでしたら、家族で何度か行ったことがあります。十歳の頃にも、たぶん……」
「そこで、男の子と遊んだりはしなかったか? 二人で山の奥のほうまで行って、そして急斜面から落ちて怪我をして――」
「ちょ、ちょっと待ってください、瀬名くんっ」
由衣が両手で俺の肩を押し返してきたので、はっとした。いつの間にか、興奮して近づきすぎたらしい。顔と顔が、三十センチの距離まで迫っていた。
「どうしたんですか、一体? 言ってること、よくわかりませんよ……」
「ご、ごめん……」
俺は心の中でため息をつき、身体の位置を戻す。
「ともかく、わたしにはそういう覚えはないです。キャンプはずっと家族だけで過ごしてましたから」
「……そっか」
決定的だ。あの体験は、完全に――……いや、もうひとつだけ、確認したいことがあった。
「なあ、由衣。メガネ、はずしてみてくれないか?」
「……え? だ、だめですよ。これをはずすと、わたし何にも見えなくなるんです」
「いいから、ちょっとだけ……。な?」
「……仕方ないですね」
しぶしぶながらも、彼女はフレームに手をかける。
「瀬名くんは……メガネの子は嫌いなんですか?」
「いや、そんなことないよ。ちょっと、その……由衣の顔を、よく見てみたかったから」
言っていて、自分でも恥ずかしいが……。よく見たいのは、本当である。
「わ、わかりました……」
顔を赤くしながらも、由衣はメガネをはずした。
「あ……」
少し、印象が変わる。そして、やはり……似ていた。まだ鮮明に記憶が残っている、あの金髪の少女に――。
これは、どう考えればいいのだろう。由衣の記憶を消す魔法が、彼女自身にかかってしまったのか。それとも、やはり俺の意識が生んだ妄想だったのか。
どちらにしても、これで俺は、まだ彼女と別れるわけにはいかなくなった。目の前にいる由衣が、あの金髪の少女と同一人物なのかはわからない。けれど由衣への興味がどんどん湧き上がり、もっと彼女のことを知りたくなってしまったのは確かだ。そのために……俺はひとつの提案を持ちだした。
「由衣……。そろそろ敬語で話すの、やめないか?」
「……え?」
「同学年なんだし……それに、どうも俺に対して遠慮があるように思うんだ。その、なんていうか……由衣とは、もっと本音で付き合っていきたいんだよ」
「…………」
由衣が、目を丸くして俺を見る。
ちょっと、いきなりすぎたかもしれない。けれど、俺はそうしたかった。由衣と金髪の少女に、実際は何の関係もなかったのだとしても――これをきっかけに、俺は彼女を好きになれるかもしれない。いや、知りたいと思う気持ち――これが、既に好きということなのかもしれない。
「本音で……ですか」
由衣が、わずかに顔を伏せる。
「本音のわたしなんて……きっと、かわいくなんてないですよ。それでもいいんですか?」
「いいよ。そのほうが……俺はいい」
「……じゃあ、とりあえずひとつだけ」
顔をあげ、俺を見た。そして――素早く立ち上がったかと思うと、俺に倒れこんでくる。
「んぐっ……」
唇に触れる、あのときと同じ感触――。
「瀬名くん、わたしっ……」
すぐに、由衣は顔を離した。俺を押し倒したまま、潤んだ瞳で見下ろしてくる。
「ずっと……こうしたいって思ってたんですよ。瀬名くんのことが好きだからっ……。でも瀬名くんは――あっ」
最後まで言わせず、由衣の頭を引き寄せる。俺からも、彼女に触れてみた。
しばらくそのままでいて、それからゆっくりと唇を離していく。頬に残る冷たいあとは、彼女のこぼした涙だろうか。
由衣もまた、気づいていたのだろう。俺の気持ちが、彼女にないことに――。
「いままでごめんな……。けど、これから好きになっていけそうな気がする。だから……もう少し、付き合っていてもいいかな?」
答えるかわりに。
由衣は目を閉じ、再び俺に触れてきた。
俺たちの交際は、これからが本当のはじまりだった。
おわり。
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