周囲のざわめきと、うるさいくらいのセミの鳴き声で、俺は目を覚ました。いつもの布団ではなく、寝袋の中にいたことに、一瞬違和感を覚える。
 ……ああ、キャンプに来ていたんだっけ。
 小学校最後の夏休みということで、両親が気をつかってくれたのだ。今まで家族で出かける機会が少なかったから――ということらしいが、それでキャンプ場というのもせこいような気がする。……まあ、多くは期待していないけど。
「んっ……」
 俺は天井を見あげて、それからまぶしさに目を閉じた。テント越しでも、日差しの強さが伝わってくる。今日も暑くなりそうだ。
 ――って、ちょっと待てよ?
 突然わきあがった疑問に、俺は首をかしげる。
 今は朝だ。それも早朝。太陽の位置がまだ低いし、かすかにご飯を炊くにおいも漂ってきている。そして俺は眠りから覚めたわけだが……では、いつ眠ったというのだろう。
 昨日何をして、いつ寝たのか。まったく思い出せないのだ。
 ――そんなバカな。せっかくキャンプに来たのに。
 俺は思い出そうと、寝袋に入ったままテントの中を転げまわった。
 キャンプは一泊二日だから、今日には帰らなければならない。なのに、記憶がまったくないなんて……これじゃ、一体何をしに来たのか。
 ともかく、腹もすいたし、頭をすっきりさせるために、俺は外に出ることにした。
 しかし立ち上がろうとして、右足首に軽く痛みが走る。
「何だ?」
 見ると、そこには包帯が巻かれていた。こんな怪我をした覚えはないが……これも昨日のものだろうか。
 ――まあ、母さんにでも訊けば、何かわかるだろう。
 おそらく朝食の準備をしているだろうから、探してみることにした。
 靴をはき、入り口を出て……俺はまぶしい朝日に、目を細める。少し湿った土を踏みながら、周囲を見回した。俺たちと同じく、キャンプに来た人たちが大勢いるが……ふと、目がとまる。女の子が、そこにいた。
 年齢は、たぶん俺と同じくらい。腰の辺りまである長い髪を、頭の両脇で束ねてツインテールにしており、結び目にはブルーのリボンをつけていた。洋服は真っ白なワンピースで、上品そうな印象を受ける。どこかのお嬢様なのかもしれない。
 ……何だろうか、この感覚は。彼女を見た途端、俺の心臓の動きは、二倍くらいに速くなったような気がする。
「ヒロくん……」
 彼女が俺を見て、呼びかけてきた。しかも俺の名前――瀬名広人からとった愛称で、だ。
 俺はどう反応していいのかわからず、その場で彼女を見つめ続ける。
「あの……昨日は、助けてくれてありがとう」
 女の子は、はにかみながら言った。
「ヒロくんは、命の恩人だよ」
「……は?」
 俺はぽかんと口を開く。
 ……助けた? ……命の恩人?
 一体何の話だろうか。
「足は……大丈夫?」
 女の子が俺の右足首に目を向ける。包帯が巻かれた部分。見た目は大げさだが、歩いたとき少し痛みが走る程度だ。
「え? ……あ、ああ、大丈夫だけど」
 とりあえず、そう答えたが。もしかして、この怪我はこの子のせいなのだろうか。記憶がないのも、この子のせい?
 そう考えると……いくらかわいい女の子でも、ちょっとムカついてくる。
「あ、あのねっ、ヒロくんっ。わ、わたしっ……わたしねっ」
 急にもじもじしながら、彼女は俺を見ては目をそらし、口を開きかけては閉じる、といったことをくり返した。
 ……なんだろう。よっぽど言いにくいことらしいが、あやまりたいのだろうか。
 そう思って待ち構えていると、ついに意を決したのか、彼女は俺を見すえた。
「わ、わたしっ……助けてもらったお礼に、ヒロくんのおヨメさんになってもいいよっ」
「ぶっ!」
 思わず吹き出した。
 ……こ、この子は、いきなり何を言い出すのか。
 冗談じゃない。俺はまだ小学生だ。今から将来の約束なんてしてたまるか。
「だめ」
 俺はぷいと目をそらして、冷たく言い放った。
「えっ……」
 息を呑む気配が伝わってくる。
「ど、どうしてっ?」
「……それだ」
 咄嗟に考え、俺は彼女に向けて、指をさした。身体の中心――丁度、心臓のあたり。
「えっ、な、なに?」
 女の子は困惑顔になる。
「あたしになんかついてる?」
「じゃなくて――ペチャパイ」
 ひくっ。
 彼女の口端がひきつった。
「……俺、巨乳が好きなんだよね」
 ひくくっ。
 今度は眉がつりあがる。
「お前も将来、巨乳になったら考えてやってもいいぜ。ま、一生ムリだろうけどな。はーっはっはっはっ」
 ぴっきーん!
 ついには髪が逆立ち、何かが切れたような音が聞こえた。
「ひ、ヒロくんの……」
 ぷるぷると、彼女の身体が震えている。
「ん、どうした?」
「ヒロくんの、バカーーーっ!」
 バキィッ!
「ぐはっ!」
 思い切り顔を殴られ、俺は尻餅をついた。見事なストレートパンチである。
「バカバカバカーーーっ!」
 彼女は怒りの形相で俺を睨みつけると、背中を向けて走り出した。
「あ……」
 じんじんと頬が痛みだすと同時に、胸に罪悪感が生まれる。
 殴られたあとに、一瞬だけ見えたのだ。彼女の目が潤み、涙がこぼれていたのを。
 ……どうしよう。あやまるべきだろうか。しかし婚約はまだしたくないし。
 悩んでいるうちに、彼女の姿が見えなくなった。
「くっ……」
 迷った末に俺は立ち上がり、あとを追い始めた。さすがに女の子を泣かせてしまったのでは、気分が悪い。
 それによく考えれば、婚約はだめでも、友達から始めるという手もある。俺としても、あんなかわいい子とこのまま別れるのは、惜しい気がするし。
 ――だが。
「あれ? どこ行ったんだ?」
 俺はきょろきょろと辺りを見回す。いくらさがしても、彼女は見つからなかった。
 あの女の子は、キャンプの参加者とは違うのだろうか。彼女くらいかわいければ、すぐに気づくはずだが……そもそも昨日の記憶がないのだから、いたかどうかもわからない。
 そのうちに、母さんのほうが俺を呼びにきてしまった。ご飯の準備ができたらしい。
 仕方なくあきらめ、俺はとりあえず母さんに、足の怪我や昨日のことについて訊いてみた。しかし母さんも詳しくは知らないらしい。
 ……母さんいわく、俺はいつの間にか姿を消していたのだそうだ。そして夜になっても戻らなくて、心配になり始めた頃。若い女の人が、気絶した俺を抱えて戻ってきたらしい。そのときには既に怪我をしており、そのままテントで寝かせたという。
 その女の人は? と俺は訊ねたが、すぐにいなくなってしまったらしい。
 ――結局。
 帰る時間になっても記憶は戻らず、女の子の正体もわからないまま、キャンプは終了してしまった。
 一体、俺は何をしに来たのだろう。せっかく思い出作りにと、両親が気をつかってくれたのに……。
 ちょっと不思議で、ちょっと悲しい出来事だった。

「んっ……」
 ゆっくりと、俺はまぶたを開けた。それからすぐに、毛布がかけられていたことと、下が温かいふかふかの絨毯であることに気づく。
 周りを見ると、随分と広い部屋の中にいた。少なくとも俺の部屋の二倍、いやそれとも三倍か。二十畳くらいは、余裕である。
 正面には迫力の大画面テレビとスピーカー、それに様々なゲームハードが置かれており、横の棚にはゲームショップも顔負けなくらいに、ぎっしりとソフトが並べられている。
「……そっか。俺、寝ちゃったんだっけ」
 毛布をよけて、軽く頭をかく。それから先程の夢を思い出していた。
 ……あの女の子。
 なぜ今頃思い出したのだろう。もう五年も前のことで、今まですっかり忘れていたというのに。
 ガチャッ。
 急に部屋のノブが回る音がし、ひとの入る気配がした。
「あっ……」
 少し驚いたような、少女の声。
 俺は後ろを向いた。
「瀬名くん、目が覚めたんですね」
 そこに立っていた少女が、にっこりと微笑む。
 八つ橋高校の紺のブレザーに、標準仕様で短めなスカート。一瞬、小学生かと思わせる背丈に、出るところも出ていない寸胴体型。さらに子供っぽく見せるかのようなツインテールに、オシャレとはちょっと言いがたい黒ぶちメガネ。
 七宮由衣。一応、俺の『彼女』である。
 ……そういえば、由衣とあの子は似ているかもしれない。由衣は髪の長さは肩口くらいまでだが、やはりツインテールにしているし。体型なんて、ほぼそのまま。顔は……黒ぶちメガネのせいでちょっとわかりにくいが、かなり似ている気がする。
 でもまあ、別人だろう。性格が違いすぎるし、小学生から高校生になれば、見た目だって結構変わっているはずだ。
 きっと今頃はボインボインになって、モテモテな学生生活を送っているのだろう。会ってみたい気もするが、俺の記憶は結局戻っておらず、名前すらわからないのだからどうしようもない。
「もう、瀬名くんたら……ひどいですよ」
「……え?」
 由衣の声に、一瞬ドキッとする。『あの子に会いたい』と思ったことがばれたかと思ったが……さすがにそれは考えすぎだったようだ。
「わたしがコーヒーの準備をしている間に寝ちゃうんですから……。それで毛布を出して、カップを片付けてきたら、今度は起きてしまうなんて」
 由衣は少し眉をひそめ、困ったように首をかしげている。
「あ、ああ……ごめん」
 この部屋の絨毯が、あんまりポカポカしていたせいなのだが……。とりあえず、苦笑しつつも謝っておく。
「いいですよ。別に怒ってませんから」
 彼女は微笑み、くるりと後ろを向いた。
「もう一度、コーヒーいれてきますから。そうしたら、一緒にゲームしましょう?」
「ん……あ、ああ」
「わたしが来るまでの間、好きなゲームをしてていいですからね」
 ノブに手をかけ、彼女が言った。
「……わかった」
「では、またあとで」
 俺が頷くと、由衣は軽く手を振り、ドアをしめた。彼女の足音が遠のくのを聞きながら、俺はソフトのつまった棚を眺める。
「ゲーム、ねえ……」
 ざっと見ただけでも、千本以上は間違いなくあった。ここまであると、どれから手をつけていいのかわからなくなる。
 ……それに。
 ちらり、と俺は部屋の隅のほうを見た。
 数は少ないが、あそこにあるのはゲームセンターにある専用ビデオ筐体に、大型体感ゲームではないだろうか。ああいうのは、買うと軽く百万以上はすると聞いたことがある。
 壁にはしっかりと防音加工もしてあるし、明らかに一般家庭とは一線を画していた。
「……はあ」
 と俺はため息をつく。
 金持ちらしいという噂は聞いたことがあったが、実際来るまで、まさかここまでとは思わなかった。土地はうちの一戸建ての十倍以上はあるし、門も自動で開く。庭も広くて池まであったし、車も三台とめてあった。家の周りにはセンサーが張り巡らされ、常に警備システムが作動しているとか。
 ……なんだか、俺には遠い世界のように思える。
 由衣と付き合って二週間。初めて家に来たのがゲームをするため……というのも、何だか別の目的のための、口実っぽい気もするが。誘ったのは彼女のほうからである。
 付き合う前は想像もしなかったが、由衣は意外とゲーマーだった。しかもかなりの腕前で、対戦ゲームも俺なんかより全然うまい。ただ恥ずかしがりやのせいか、ゲーセンで注目をあびるのが嫌いらしく、もっぱら家でプレイしているという。
 ……だからって、わざわざ専用部屋まで作ってしまうのはどうかと思うが。
 金持ちならではの発想である。
「しかし……どうしたもんかな」
 俺は呟き、立ち上がった。手を後ろで組み、老人のように背中を丸めて歩きながら、窓の外を眺める。
 この部屋は春のように暖かいが、外では木枯らしがふいていた。ガラスが分厚いため何も聞こえないが、木々がしなり、葉が飛ばされていく。
 温かかった昨日が嘘のようだ。これも着実に、冬へと向かっている証拠なのだろう。
 よく抽象的に、男女の交際が始まると春が来たと言い、別れたり、付き合っていない状態を冬と表現するが……。俺は今日、自分からその冬にしようとしていた。
 ……由衣と結婚すれば逆玉だ。
 そう考えると惜しい気もするが、それは彼女に対して失礼である。といっても、付き合い始めた時点で、俺は彼女に対して既に失礼なことをしていたのだが。
 何故なら俺は――
 由衣に特別な感情など、持っていないからである。

 二週間前、俺は由衣に告白された。
 といっても二人の間では、俺が先に告白したことになっている。
 これがどういうことかというと――
 友人の沢村武が、俺の名前を使って、彼女にラブレターをだしたのである。
 ……たちの悪い、いたずらだった。
 二学期からの転校生、七宮由衣。そのひかえめで優しい性格と、かわいらしい容姿で男子には割と人気があるのだが――なにぶん、見た目はほぼ小学生である。なので、彼女のことが好みであるような発言をすると、すかさず他の男子からロリコン呼ばわりされる状態が、クラスの中では続いていた。
 そこに目をつけたのが、沢村武である。
『誰も手を出さない今がチャンスだ。お前だって好みなんだろう? 女子とは滅多に話さないお前が、今週はもう五回も会話をしてるじゃないか。どうなんだ、ウリウリ』
 ……どうやら会話の回数を数えていたらしい。
 しかしそれは、単に席が隣であり、まだ学校に不慣れな彼女の質問に答えてあげただけである。
 俺はそう説明したのだが、沢村のバカは既に手紙を出してしまったという。しかも自信作で、OK間違いなしだとか。
 手紙の内容はともかくとして、いたずらだとわかれば、彼女は傷ついてしまうかもしれない。だからほうっておくわけにもいかず、きちんと説明するために、俺は待ち合わせ場所へ向かうことにしたのである。

 冷たい空気のかたまりが、ヒュウと俺の頬を撫でて通り過ぎた。
 少し風がでてきて、グラウンドの乾いた砂を巻き上げる。部活をしている連中がむせているのが、ここからは一望できた。
 体育館裏は日陰になっており、いつもじめじめしているので砂が飛んでくることはないが――寒い。ついでに、こんなところで一人でいるのは寂しい。
 告白で呼び出した場合、いつまで待っていればいいのだろうか。立場上、俺が先に帰るわけにもいかないだろうし。
 ……面倒だなあ。
 俺は身を縮こませながら、ため息をついた。まったく、武は厄介なことをしてくれる。
 ――それから十分ほど。
 武の奴にどんな仕返しをしようか、頭を悩ませていると、
「あ、あの……」
 風に消えいりそうな、小さな声が聞こえた。
 聞き覚えのある声――俺はそちらに顔を向ける。するとやはり、彼女がいた。
「来て……くれたんだ。あはは、はは……」
 俺は頬をかきつつ、乾いた笑いをこぼす。
 まあ、説明は面倒だが、後回しにしても仕方がない。ここはさっさと終わらせることにする。
「あ、あのさ、七宮さん」
「これ――」
 言いかけた俺の前に、彼女がすっと白い封筒を突き出した。ややうつむき加減のまま、俺のほうを見ないようにしている。
「本当に……瀬名くんが書いたんですか?」
「…………」
 俺は、それを見たまま、少し固まっていた。
 封筒にはどこで買ってきたのか、ご丁寧にハートのシールで封がしてあり、赤いマジックで『ラブレターだよ〜ん。瀬名より』と書かれている。これだけで、既にいたずらで書かれたような印象を受けてしまう。
 ……どこが自信作なんだよっ!
 俺は心の中で叫びつつ、満面の笑顔を浮かべる『奴』の姿を思い出す。
 ……沢村のアホめ。
 とりあえず中身が気になったので、俺は封筒を受け取り、中の手紙を取り出した。
「……?」
 七宮さんが不思議そうな視線を向けるが、気にせずに紙を広げる。そして、内容を確認した俺は――思わず、ずっこけていた。
『キミのハートにときめきズギャーン!』
 手紙には、そう書かれていたのである。しかも紙面一杯に、マジックで書き殴るように、だ。下のほうには小さく、『放課後に体育館裏まで』と書かれているが――これのどこがラブレターなんだ!
 ……あいつはアホだ。アホすぎる。
 第一、意味がよくわからない。『ときめき』はともかく、『ズギャーン』って何だ。『ズギャーン』っていうのは。
 ともかく、七宮さんがちゃんと来てくれて助かった。そうでなければ、この手紙を書いたのが俺だと思われ続けるところだった。
 ……それだけは、勘弁してほしい。
「あ、あの……そのお手紙ですけど、びっくりしました」
 と、呆れている俺に待ちくたびれたのか、七宮さんが言う。
「最初は、意味がよくわからなくて……」
 ……それはそうだろう。俺だってよくわからない。
「でも……」
 口許に小さく笑みを浮かべ、俺をちらりと見ると、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「何度も読み返したとき、ようやく意味がわかったんです」
「えっ?」
 思わず声に出して驚いてしまう。
 ……意味が……わかったのか? この手紙の……この文章で?
 思わず七宮さんをのぞきこむように見ると、彼女はパッと顔を上げた。
「わたし、感動しましたっ」
 ……ホントかよっ!
 のけぞりながら、心の中でツッコミをいれる。あの文章の、どこに感動する部分があるというんだ?
「『キミのハートにときめき』でわたしへの好意を表し、『ズギャーン!』でその想いの強さを表す……。さらにマジックで書くことで、男らしさをアピールするなんて……すごくステキなラブレターです」
「…………」
 俺はあんぐりと口を開けて七宮さんを見る。
 彼女は夢見る乙女のように、瞳をキラキラさせているが……マジですか? それはいくら何でも、好意的に解釈しすぎじゃありませんか?
 よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、せっかく感動しているのにそれを壊すのも悪い気もする。
 それにこういう反応をされてしまうと、『実はいたずらだった』とは、言いにくい。……というより、何だかどうでもよくなってきた。
 どこまで本気かわからないが、少なくとも彼女の中では、あの手紙は好印象のようだ。それなら変な目で見られることはないだろうし、わざわざ否定して、その印象を壊すこともないだろう。
「あ、それで、お返事ですけど――」
 彼女は笑みを止めると、きりっと眉を上げ、俺を見上げる。
 手紙の印象はよかったようだが、だからといって、いい返事まで返ってくるはずがない。
 七宮さんとの会話は、日に一、二回あるかどうかだ。しかもほとんど俺は、短く返事をするだけ。そんな俺と付き合いたいなんて、彼女が思うはずがない。
 だが予想とは裏腹に、彼女はにっこりと笑顔を浮かべていた。
 そして、ぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「……えっ?」
「わたしでよかったら、ぜひお付き合いしてください」
「……えぇぇえええええっ!」
 俺は驚きのあまり、絶叫していた。こんなに声を出したのは、高校入学以来、はじめてかもしれない。
「せ、瀬名くん。そんなに大声を出したら、誰かに聞かれてしまいますよっ」
「ご、ご、ごめん。で、でも……えええっ?」
 彼女に注意されても、まだ驚きがおさまらない。
「なんだか……OKしたのが迷惑みたいな反応ですね」
 七宮さんが眉をひそめ、怪訝そうに俺を見る。
「い、いや、そんなことはないけど……」
「なら、瀬名くんもOKでいいんですよね?」
「う、うん」
 ……あ、やべ。
 頷いてからしまったと思ったが、もう遅い。
「よかったーっ」
 ぺたん、といきなり彼女は地面に座り込む。
「ど、どうした?」
「え、えへへ……」
 少しひきつったような笑みを浮かべながら、七宮さんは足をさすっていた。
「実は……ここに来るまで、すごく緊張してて……足もガクガクしてたんです」
「そ、そうなんだ……」
 足なんて見てなかったから、気づかなかったが――彼女がそんなに緊張していたなんて、驚きだった。
 と思ったら、七宮さんは今度は肩を震わせ、涙をにじませている。
「ご、ごめんなさい……」
 あふれた雫を手で拭いながら、彼女は言う。
「瀬名くんと付き合えることになったのが、嬉しくて……」
「…………」
 俺はどうすればいいのかわからず、呆然と立ち尽くしていた。
 何で彼女は、そんなに喜んでいるのだろうか。俺のどこに、彼女に好かれる要素があったのか。まったくわからなかった。
 しかし、ともかく。
 望んだわけではないが、今日から俺と七宮さんは、恋人同士だ。
 こんなに嬉しそうな彼女を前にして、今さら断ることなんてできない。
 ……まあ、それもいいかな。
 と、笑顔で泣き続ける七宮さんの顔を見ながら、俺は思う。
 今はまだ、彼女を特別に好きだとは思えない。だが、いつかは変わるかもしれないし、それに女の子と付き合ってみるというのも、いい経験にはなるだろう。
 ……沢村の奴を見返すこともできるし。
 仮に彼女が俺の気持ちに気づいて、嫌われたとしても――そのときはそのときだ。俺の心に、たいしてダメージはない。
 我ながらひどいことを考えていると思うが、それが正直な気持ちだった。
 とりあえず、付き合う以上は努力をしてみようと思う。彼女を好きになる、努力を――。
 だから俺は、座り込んでいる彼女に手を伸ばして、出来る限りの笑顔で言った。
「七宮さん……。明日から、お昼、一緒にしようか?」
「えっ……?」
 彼女は顔を上げ、驚いたように目を見開き――
「は、はいっ」
 それから、心底嬉しそうに微笑んだ。
 見ている俺まで嬉しくなるような、笑顔だった。

 それから二週間。
 俺と七宮さんの交際は続いていた。
 学校では一緒に弁当を食べ、一緒に昼休みを過ごし、放課後は一緒に帰る。日曜日には定番ではあるが、遊園地や映画に行ってデートもした。俺から言い出し、互いを名前で呼び合うようにもしてみた。……もっとも、彼女は恥ずかしがって、二人きりのときでもなかなか呼んではくれないが。
 はたから見れば、実に恋人らしい恋人同士に見えただろう。
 沢村の奴も随分悔しがっていた。しかし俺の報告を聞き、調子に乗って他の女子にまったく同じ内容の手紙を送っていたが、もちろん相手にされるはずがなかった。あれはあくまで、七宮さんのときが特別だったのである。
 そう、特別といえば――彼女に対する、俺の気持ちだ。
 この二週間、色々と努力はしてきたつもりだが、やはり変化はなかった。
 俺は、彼女を特別な存在として、見ることができない。
 かわいいい子だとは、思う。性格も、悪くない。
 人として好感は持てるが、異性としては好きになれないだろう。恐らく、この先も――。
 結論をだすには、早すぎるかもしれない。だが、これ以上彼女をだまし続けるのは、正直つらかった。七宮さんがいい子だからこそ、惰性では付き合えない。
 だから俺は決意したのである。彼女と、別れることを。

「うっ……」
 口の中に、コーヒーの熱さと苦味が広がる。
 顔をしかめたのがわかったのか、ミニテーブルの向かい側に座った由衣が、小さく笑いをこぼした。
「わたしがブラックだからって、無理しなくていいですよ」
 そう言って、トレイに用意してあったシュガースティックの先を破る。
「ほら、瀬名くん」
「ん……」
 ちょっとカッコ悪いが、俺は素直にカップを差し出した。
 実はノンシュガーでコーヒーを飲んだのははじめてなのだが、こんなに苦いとは思わなかった。由衣はそのままで平気みたいだが、見かけが子供っぽいわりには、意外な部分で大人である。
「……って、おい。何いれてんだ?」
 いつの間にやら、彼女は小瓶を手にして、中の赤い液体をポタポタとたらしていた。
「コーヒーがおいしくなる、秘密兵器ですよ」
 由衣はにっこり笑って、スプーンで数回、かきまわす。赤い液体は、すぐに見えなくなってしまった。
「まあ、飲んでみてください」
「…………」
 いかにも怪しげだが……彼女に期待の目で見られては、飲まないわけにもいかない。
 仕方なく、少しだけ口に含んでみた。すると――
「……あ。コーヒー牛乳の味」
 これなら平気だった。息を吹きかけつつも、俺はすぐに飲みほしてしまう。ポカポカと、身体が芯からあたたまってきた。
 しかしあの液体は何だったのだろう。赤いミルク? ……って、そんなはずはない。
 気になって由衣の顔を見ると、彼女は人さし指を唇にあてて、言った。
「秘密兵器、ですよ」
「……あ、そ」
 別に深く追求するほどのものではないので、それ以上訊かないことにした。
 俺が今、一番気にしているのは……どういうタイミングで、彼女に別れ話を切り出すかということである。
「さて。それでは……そろそろ、ゲームをしましょうか」
 由衣がコーヒーを飲み終わったところで、立ち上がる。
 今日は彼女の誘いで、一緒にネットゲームをすることになっていた。
 せっかく由衣が楽しみにしているのだ。別れ話は、その後でもいいだろう。
 とりあえず、俺は彼女の準備を手伝うことにした。

 大迫力のテレビモニターに、電源が入る。それに比べると、目の前に置かれたゲーム機は随分小さい。が、パッと見たとき、どちらに目を引かれるかと訊かれたら、間違いなくそのゲーム機のほうだろう。
 ウィィィン。
 ゲーム機に電源が入り、CD型のディスクが回転を始める。そして同時に、本体上部にとりつけられたドリルも回転していた。
 ――そう。このゲーム機には、なぜかドリルがついている。
 名称は、どりるキャスト。略して、どりキャス。
 ただし、これはイベントの企画用に作られたものであり、世界にひとつしか存在していない。由衣の父親が開発メーカーのセガタ社の知り合いということで、譲ってもらったのだそうだ。
 市販されているのは、ドリルキャストという名称で、もちろんドリルはついていない(シンボルマークはドリルだが)。ゲームマニアには人気のハードだったが、他機種との競争に負け、二年前に生産が中止となっている。しかしソフトのほうがいまだに発売され続けているあたり、根強い人気があるといっていいだろう。
 ……由衣もそのマニアの一人のようだし。
『どりるーっ』
 部屋の四隅に配置されたスピーカーから、突然幼い少女の声が響く。そして画面にはシンボルマークが表示された。ドリルを正面から見た図、いわゆる渦巻きの形をしている。
 どうやら今の声は、どりるキャストの起動音らしい。市販品にはない演出だった。
『ど〜りるっ、ど〜りるっ』
 スチョーンスチョーン。
 奇妙な効果音……というか、音楽まで流れてくる。まだ続くらしい。
『ぼ、ぼ、ぼくらはどりるが大好きさ〜っ』
「…………」
「これはテーマソングですね」
 隣に座る由衣が解説した。
 さすがはイベント企画品。市販にはできないアイディアが満載である。……マニアにはうけそうだが。
「一応、スキップはできますけど……最後まで聞きます?」
「……いや、いい」
 パタパタと、俺は手を振った。
「早く進めてくれ」
「わかりました」
 由衣がコントローラーを操作して、画面が切り替わる。そしてソフトのタイトルが表示された。
『ファンタジードリルオンライン』
 数あるネットゲームの中でも、一番人気のタイトルである。俺も少し興味はあったのだが、まだ一度もプレイしたことがない。理由は単に、ネットに繋ぐというのが、何となく面倒そうだからだ。金もかかりそうだし……。
「それじゃ、最初にキャラクターを作りましょう。ひとつのシナリオが一時間くらいで終わりますから……一緒にプレイするには丁度いいですね」
「ふ〜ん……」
 まあ確かに、いつまでも遊んでいるわけにもいかないから、俺にとっても都合がいい。
 由衣は俺とゲームができることが嬉しいのか、今日はずっと笑顔を浮かべている。だが、そのゲームが終わったとき。きっと今の表情は、二度と俺には見せてくれないだろう。
 そう考えると、さすがに少し、心が痛んだ。
「瀬名くんは、職業は何にしますか? 私は魔法使いにしようと思いますけど」
「じゃあ……無難に、戦士かな」
 俺はコントローラーのボタンを押し、決定した。『アフロの使者』とか『猫耳メイド』とか『十二人の妹を持つ男』とか、色々と変わった職業もあったが、戦士と魔法使いならバランスは悪くないだろう。
 そのかたわらに、俺はマニュアルのほうにも軽く目を通しておいた。
 このゲームは、まず最初にプレイヤーが職業とキャラクターの容姿を決めるところから始めるらしい。
 舞台は、中世ヨーロッパと現代日本をごちゃ混ぜにしたような、剣と魔法のファンタジー世界。プレイヤーはモンスターを倒してレベルを上げ、情報を集めながら、世界のどこかに眠る伝説のドリルの秘密をめぐり、冒険を続けていく。
 もっとも、このゲームの売りはストーリーではなく、コミュニケーションの楽しさにあるらしいが……さて。一体どんなものなのか。
 あとのことを考えると憂鬱だが、とりあえず、今はゲームを楽しむことにしよう。
 俺と由衣は、あれがいい、これがいい、と言いながら、キャラクターの顔や髪型、体型や服装を決めていく。だが――
「ふあ……」
 いきなり、あくびがでた。それだけでなく、急にまぶたが重くなってくる。
「あ、あれ……?」
 一瞬、がくんと身体が沈みそうになり、俺は慌てて頭を振った。
 一体どうしてしまったのか。睡眠は一日八時間、きっちりとっているし、先程コーヒーも飲んだばかりである。
「どうしたんですか?」
 あくびをくり返す俺に、由衣が怪訝そうに訊ねてきた。だが、俺にもわけがわからない。
 急激な、眠気――。
 限界だった。俺はまぶたの重さに耐えられず、目を閉じ、意識を闇の底へとゆだねていった……。

 目を開けたとき。そこには抜けるような青空が広がっていた。
「……あれ?」
 そして周囲を見回したとき。そこには地平線まで見渡せる草原が広がっていた。
「……あれあれ?」
 さらに後ろを振り返ったとき。ひとつ目で角を生やした、三メートル近い大男が、俺に向かって巨大なドリルを振りおろそうとしていた。
「……どわああっ!」
 間一髪で、身体が動く。俺は慌てて横に転がった。靴の先に、固いものがかすったのを感じる。
「なっ……何なんだ! 何なんだっ!」
 尻餅をついた状態で大男を見上げて、俺はとにかく叫んでいた。
 状況が、理解できない。
 俺は確か――そう、由衣の部屋でゲームをしていたはずだ。それがどうして、こんな場所でモンスターみたいな奴に襲われてるのか。……って、考えている場合ではなかった。
 大男が再び腕を振り上げ、俺に襲いかかってくる。
「うわああっ!」
 避けようとしたが、靴が脱げかけていて、足を滑らせた。最悪の状況である。
 と、そのときだ。
「瀬名くん、Aボタンです!」
 後ろのほうから、少女の叫ぶような声が聞こえてきた。
 ……この声は……ゆ、由衣かっ? 
 ――って、何だよ、Aボタンって!
 しかし俺が理解するより先に、大男がドリルを振り下ろしてきた。
 もうダメか、と思って目をつぶる。が、ふと手の中の違和感に気がつき――俺は無我夢中でそれを押していた。
 ギィンッ!
 頭のすぐ上で、激しい金属音が鳴り響く。
「瀬名くん、もう一回!」
 由衣の声に合わせ、俺は何度も同じ動作を繰り返した。
 カチカチカチカチッ!
 押しながら、それがボタンであると気づき、そっと目を開けてみる。と同時に、大男が悲鳴を上げて、背中から倒れていくのが見えた。
 ドシン、と軽く地面が揺れる。
 視線を手元に戻し――俺が見たもの。それは、どりるキャストのコントローラーだった。
「やりましたね、瀬名くんっ」
 声と共に、由衣が駆け寄ってくる。いつもの八つ橋高校の制服。そして彼女の手には、やはり俺と同じものが握られていた。
「ど……どうなってるんだ……?」
 俺はしばらく座り込んだまま、立ち上がることができなかった。

 太陽がだいぶ傾きかけている。空もオレンジ色に染まり、空気が少しずつ冷たくなってきた。軽く振り返ると、二人の影が大きく伸びており、まるで親子が並んでいるようにも見えた。
 いや、親子というよりは、老人と子供だろうか。それだけ俺は、背中を丸めて歩いていたのだ。
「瀬名くん……元気をだしてください」
 隣を歩く由衣が、心配そうに言うが……とてもそんな気分にはなれない。
 ある日突然、ふつーの高校生が、異世界やらゲームの世界やらに迷いこんでしまう。
 マンガでもゲームでも、実によくあるパターンだった。が、よくありすぎて、最近では食傷気味でもある。しかしその迷い込んだのが自分となると、そうも言っていられない。
 俺は由衣と合流した後、それらのマンガの内容を必死に思い出しながら、まずは状況確認を最優先におこなっていた。
 土を触ってみたり、草木のにおいをかいでみたり。自分のほっぺたをつねってみたり。
 この場所が作り物ではないのか。はたまた夢ではないのか。五感をフル稼働させて調べてみたが……どれもリアルな感触しかなかった。
 だが、ここが現実世界のはずはないのである。何故なら――俺と由衣は、どりるキャストを装備しているからだ。
 背中にはベルトのついた本体をリュックのように背負い、後ろから伸びてきたコードは、コントローラーが落ちないように左腕に巻きつけられている。もちろん、俺にこんなものを身につけた覚えはないが。
 ちなみにどりるキャストは常に動いており、ドリルも回転している。電源コードはないのに、どこから電源をとっているのかは不明のままだった。
 そして、最初に俺を襲い――偶然倒すことができた、一つ目の大男。
 由衣によると、あれは『ファンタジードリルオンライン』のモンスターであるらしい。
 俺がコントローラーのAボタンを押すことにより、目の前に剣が出現し、攻撃をすることができたのだ。ちなみにBボタンを押すと、盾が出現する。さらにスタートボタンを押すことで空中にウインドウが現れ、それを見ながら武器の変更やアイテムの使用、ステータスの閲覧も可能のようだった。もっとも、今の俺たちには変更する武器もアイテムも、ひとつもなかったのだが。
 ゲームソフトのモンスターがいて、ゲーム機のコントローラーで攻撃や防御ができる――。こんな非現実的なことを認めたくはないが、やはり俺たちは、ゲームの世界に来てしまったのだろう。そうとしか説明がつかない。
 ……夢なら覚めてほしい。
 切に願った。が、いつまでもそこにいては、モンスターに襲われるだけだ。由衣の提案もあり、まずは人のいるところへ行き、情報を集めようということになった。
 だが、見つからない。出会うのはモンスターばかりで、もう数時間、人間を見ていなかった。
「なあ、由衣……。これってコミュニケーションが重要なゲームなんじゃなかったっけ? これじゃあ、コミュニケーションなんてできないぞ?」
「おかしいですねえ……」
 俺の言葉に、由衣も首を傾げる。
「今人気のゲームですし、プレイしている人が他に誰もいないなんて、あるはずないんですけど……。それに、しばらく歩いていて気づいたんですが……どうもここ、エリア制限がないみたいです」
「……エリア制限?」
 俺が問いかけると、彼女は簡単に説明してくれた。
 何でもこのゲームでは、一回で進めるエリアというのが限られているらしい。街でシナリオを選び、冒険に出かけ、クリアすると戻ってくる。それがワンセットで一時間程度。この一時間というのは、社会人のプレイヤーでも気軽に楽しめるように、という考慮もあるらしい。だからシナリオと関係のない場所へ進もうとすると制限がかかり、マップで迷う時間をなくすことができるのだ。
「つまり、それがないということは――」
「わたしたちが来たせいで、バグが起きたのかもしれませんね」
「バグ……か」
 俺は、ため息をつく。
 バグとは、プログラムの不具合のことだ。それのせいで、時々ソフトの回収騒ぎなんてものもある。プレイヤーにもスタッフにも、それは大の天敵だった。
「……やっぱり俺、思うんだけど」
 足を止め、背中を見る。ドリルが回転し、電源もないのに作動している、いかにもあやしいどりるキャスト。
「これのフタ……開けてみないか?」
 それは、電源スイッチを切る以外の、もうひとつのゲームをやめる方法だった。あくまで通常ならば、だが。
「でも……わたしは危険だと思います」
 由衣は眉をひそめる。
「ただでさえ異常な状況なんですから、余計なことをすると戻れなくなることも考えられますし……」
「…………」
「それに、こういう状況のセオリーとして、ゲームの設定に従うべきですよ。そういうマンガとか、読んだことありませんか?」
「そ、そりゃあ、あるけど……」
 ゲーマーなだけだと思っていたら、由衣はマンガも結構読んでいるらしい。ちょっと意外である。
「きっと戻れますよ」
 彼女は笑顔で言った。
「街につくことができれば、きっと何とかなります。だから、もう少し頑張りましょう?」
「あ、ああ」
 俺は頷く。それから――彼女に気づかれないように、わずかに視線をそらして言った。
「……すごいな、由衣は」
「えっ?」
「こんな状況、普通ならパニックになるだろ? なのに、冷静だし前向きだし……。俺なんて、落ち込んでいただけだから……正直、恥ずかしいよ」
 素直にでてきた言葉に、自分で苦笑する。
 こんな俺を、彼女は情けなく思ったのだろうか。それならそれで都合がいいはずだが、今は何だか、ひどく寂しい気持ちになった。
「そんなことないですよ」
 と、彼女が俺の前に立つ。
 夕日のせいだろうか。ほんのり赤く染まった顔で、俺を見上げている。
「わたしが冷静でいられるのは……きっと、瀬名くんのおかげです」
「……俺の?」
「瀬名くんが一緒だから、わたしは頑張れるんですよ。瀬名くんは……わたしの元気のみなもとです」
「なっ……」
 カッと顔が熱くなったのがわかった。
 ……ゆ、由衣の奴、なんて恥ずかしいセリフを。
 俺も十分恥ずかしいことを言ったが、彼女には負ける。
 しかしやっぱり不思議だった。付き合い始めたときから疑問だったが、本当に、由衣は俺のどこが好きになったのだろう。別れる前に、それだけは訊いてみたかった。
「……なあ、由衣」
 と、俺は話しかけようとしたが――そのときである。
 突然目の前にウインドウが開き、『警告』というメッセージが表示された。これまでに何度も見てきた、モンスター出現の合図である。
「ちっ……どこから来る?」
 俺は舌打ちしてから、周囲を見回した。
 この辺り一帯は草原が続いている。見渡しはいいが、ここはゲームの世界だ。モンスターは近づいてくるのではなく、空間から突然出現してくるため、油断はできない。
「こっちですっ」
 と、由衣が夕日のほうを指さす。十メートルほど先――そこに、地面から湧き出るように光の粒が現れ、大きな輪の形になっていく。そこが扉となり、モンスターが出てくるのだ。
 今回のモンスターは……犬だった。種類は詳しくないのでわからないが、たぶん秋田犬とか何とかの、日本にいる犬なのは間違いないだろう。ただ、普通と大きく違うのは――鼻の先に、ドリルがついていることである。
「あれはドリル犬です」
 と由衣が言った。そのままなネーミングである。
「動きが素早く、ドリルで攻撃してくるので注意が必要です」
「注意といっても……大丈夫だろ、犬の一匹くらい」
 これまで何度か戦闘をしてきて、ボタンを押すタイミングにもだいぶ慣れてきた。
 ましてや相手は、ドリルがついているとはいえたかが犬だ。素手ならともかく、こちらには剣も盾もあるし、由衣の魔法だってある。
 何の問題もないはず――だが、由衣の表情には、何故か焦りの色が浮かんでいる。
「瀬名くん……。ドリル犬は、群れで襲ってくるモンスターなんです。ですから――」
 と、彼女が解説する間に、周りに次々と光の輪が現れ、ドリル犬が姿を見せた。その数――ざっと十匹以上。
「げっ」
 いくら何でも多すぎる。同時に攻撃されたらひとたまりもないが――既に囲まれており、逃げることもできない。
「くそっ……。どうすりゃいいんだ?」
 俺と由衣は背中合わせになっていた。
 犬の唸り声と、ドリルの回転音。じりじりと、奴らが間合いを詰めてくる。
 ゲームでいえば、全滅パターンだった。窮地を切り抜ける都合のいいアイテムもないし、迂闊にリセットをするわけにもいかない。
 俺はコントローラーのスタートボタンを押し、ステータスを表示させた。HPはまだ半分以上残っているが……もしこれがなくなったら、どうなるのか。
 ゲームオーバー。つまりは、『死』だ。このゲーム世界から抜け出せるなんて、甘い考えは持たないほうがいいだろう。
「瀬名くん……」
「ん?」
 声がしたので、俺は小さく顔を向けた。彼女はコントローラーを構えたまま、まっすぐに敵を見据えている。
「ここは、逃げるしかありません。二人で群れの一角を同時攻撃して……穴が開いたところを突破します。そうして逃げ切るか、または少しずつ相手をして、倒していくしかないです」
「そ、そう……だな」
 俺は頷いた。確かに、それくらいしか方法はなさそうだ。
「それじゃあ目標は――」
 群れの状態を見回し、狙いを定める。
「よし、夕日の方角だ。そこが一番敵が固まっていない。――いくぞっ」
「はいっ」
 俺の声を合図に、同時に走る。ドリル犬のほうも素早く反応し、飛び掛ってきたが、俺は十分にひきつけてからAボタンを押した。目の前に剣が出現し、斬りかかる。
「ギャウンッ」
 悲鳴と共に、ドリル犬が地面に転がり――そこへ、後ろから炎の玉が衝突した。由衣の使える、唯一の攻撃魔法である。派手な音と共に、爆風がまきあがった
「くっ……」
 威力はたいしたことはないはずだが、案外風が強く、俺は腕で顔を覆う。しかし目くらましには、丁度いい。
「走れ、由衣っ」
 叫んで、俺は群れの間を駆け抜けた。
 走る。とにかく走る。こうして少しでも引き離して、同時に相手をしなければ、きっと何とかなるはずだ。あまり運動をしていないので、すぐに足が重くなってくるが、そんなことは言っていられない。
 ふいに、辺りが薄暗くなった。夕日が地平線の向こうに沈みかけ、わずかに顔をだしているだけになっている。
 このゲームはリアルタイムで昼と夜が切り替わるため、夜にプレイするにはランプなどのアイテムが必須になっていた。街で冒険者登録をするば無料でもらえるとマニュアルにはあったが――突然フィールドに出た俺たちには、そんな最低限のアイテムすらもない。
 ……街に着くまで、大丈夫だろうか。下手をすれば野宿かも。
 そんな心配が頭に浮かんでから、俺はハッとした。
 後ろに、気配がないのだ。足音も、息づかいもない。ドリル犬のものも、由衣のものも――。
「……まさかっ?」
 俺は立ち止まり、後ろを向いた。
 暗くてよく見えないが、先のほうで、かすかに動く『点』が見えた。その『点』に対して、いくつもの小さな『点』が、くっついたり離れたりしている。
 心臓が、ドクンとはね上がった。
「ばっ……バカやろうっ……!」
 思わず口をついて出た乱暴な言葉に、自分でも驚く。それほど、由衣の行動は予想外のものだったのだ。
 ――何故、ここまで気づかなかったのか。
 逃げることに夢中になり、彼女を気遣う余裕がなかった……というなら、実に情けない話である。彼女のほうは、俺を逃がすためにひきつけ役になったというのに。
 俺はスタートボタンを押し、ステータスを表示させた。この画面からは、仲間の分も見ることができる。そして由衣のHPのゲージが、赤く点滅していることに、愕然となった。
「くそっ、間に合えっ!」
 俺は全速力で、走り出す。足が鉛のように重いが、それで遅れたなんて、言い訳にもならない。
「由衣ーーーっ!」
 呼吸が苦しい。身体中から汗がふき出し、背中にシャツが張り付いているのがわかる。
 しかし段々と、『点』だったものが『人のかたち』になっていく。だが、それがガクリと膝をついた。周りのいくつもの『点』――いや、ドリル犬たちが、一斉に飛びかかっていく。
「くっ――!」
 彼女との距離は、あと百メートルもないはずだ。だが、間に合わない。何か、奴らの気を引くことができれば――
 咄嗟に、俺は手の中のコントローラーの存在に気がついた。迷わずに、背中のどりるキャストからコードを引き抜き、右手に持ち変える。
「うおおおっ!」
 気合いの声と共に――それを投げた。遠投には多少自信があるものの、さすがに届くとは思っていない。コントローラーは放物線を描き、彼女の二十メートルほど手前で落ちる。
 音は俺には聞こえなかったが――群れの一匹の耳がぴくんと動き、俺のほうを見た。
 ――よし!
 手の中で、ガッツポーズを作る。
「ワォーーーンッ」
 俺に気づいた一匹が、吼えた。それを合図に、他のドリル犬たちが彼女から離れ、俺に向かって走り出す。
 さて、ここからどうするか。――なんてことは、考えてもいなかった
 コントローラーがないから、剣で攻撃することも、盾で防御することもできない。しかし俺にはまだ、自分の身体がある。気合と根性もある。彼女を助けるためなら――きっと何でもできる。
 普段の俺からは想像できない考えが、今の自分の中にはあった。
 ――いつもつまんなそうな顔だ、と沢村に言われる俺。
 ――部活にも入らず、勉強もやる気は起こらず、ただ何となく過ごしているだけの俺。
 ――男女の付き合いに騒ぐ連中を、冷めた目で見ているだけの俺。
 そんな俺が、由衣のために熱くなっている。
 不思議な感覚だった。
 ……こういうのも、悪くないんじゃないか?
 何となく、そう思いながら――
 俺は両腕で顔をガードし、頭を低くしたまま、ドリル犬の群れの間へ突入した。
「うおおおっ!」
 ドンッ、と正面の一匹を吹き飛ばすことに成功する。が、すぐに腕に重みを感じ、刺されるような痛みが走った。
「くそっ」
 俺は構わず、身体を動かし続ける。しかし重みはどんどん増していった。腕、足、背中――と、ドリル犬が、次々と食らいついてくる。もはや、ほとんど歩いている状態だった。
 由衣は、あと十メートル先にいるというのに。早く、彼女のもとへ行かなければならないというのに。
「せっ……瀬名くんっ」
 重さと痛みで、とうとう一歩も進めなくなっていたところで、彼女の声が耳に入った。顔を上げると、由衣が足を震わせながらも、懸命に立ち上がっている。
 髪はバサバサに乱れ、制服は傷だらけ。黒く染みになっているのは、血だろうか。
「今、残ったマジックポイントで、最後の魔法を使いますからっ……」
「バカッ、無理すんな!」
「頭、下げてくださいっ」
 俺を無視して、由衣がコントローラーのボタンを押す。と同時に、彼女の前に小型の太陽みたいな塊が出現し、こちらに向かって飛んできた。
「くっ」
 俺は前のめりになり、強引に身体を倒す。熱の玉が、俺の頭の上を通り過ぎた。
「ギャウンッ」
 足の先のほうで、悲鳴が上がる。焦げ臭いにおいが漂ったかと思うと、途端に身体が軽くなった。燃やされた仲間に驚いたドリル犬が、一斉に離れたようだ。
「よしっ」
 立ち上がろうとして、ズキンと足に痛みが走る。しかしチャンスは今しかないのだ。
 歯を食いしばり、俺は由衣の許へと走った。
「由衣っ」
 俺はふらふらの彼女に声をかけ、肩を支える。触れた途端、血のにおいが鼻を刺激した。
「……だ、大丈夫か? とにかく、少しでもここから離れよう」
「は、はいっ……」
 頷く由衣。俺以上に、彼女はボロボロの状態だった。
 こんなときに回復アイテムがあれば……と思うが、ないものはどうしようもない。
 俺は、彼女を支えて、一歩を踏み出す。少しでも、遠くへ――。
 ただ、もう一度ドリル犬に襲われたら、そのときはおしまいだ。もう抵抗する手段も、力も残っていない。
 ゲームオーバー。そんな言葉がよぎり、俺は後ろを見る。
「……?」
 不思議なことに、ドリル犬たちは、襲ってこなかった。俺たちを見つめたまま、その場で微動だにしない。
「何だ……? どうしたんだ?」
 疑問に思いながら、俺は歩を進め――
「危ない!」
 由衣が叫んで、身を固くしたのは、そのときだった。
「え?」
 足が、空を切る。地面の先が、なかった。
「なっ……!」
 気づいたときには、もう遅い。
 辺りが暗いせいと、前方にまだ大地が見えていたせいもあり、まったくわからなかった。
 地殻変動の影響だろうか。大地が寸断され、幅一メートル程度の裂け目ができていたのである。
 そして大きくバランスを崩した俺たちは、その裂け目の中へと落ちていった――。

 左右を囲む岩肌が、天まで届いているかのようにも見えた。上空から差し込むかすかな月明かりのおかげで、由衣の姿を何とか認識することができる。
「大丈夫か、由衣……?」
 首筋に、彼女の吐息を感じていた。少し苦しげな息遣い。今、彼女は俺の腕の中にいる。
「わたしは……大丈夫、です。それより、瀬名くんは……?」
「俺も、平気……かな。はは、は……」
 そう言って、小さく笑う。本当は全然平気ではないが、彼女の手前、強がってみせた。
 何しろ二十メートル近くも落下し、何度も周りの岩に身体を打ち付けたのだから。首から下がしびれたようになって、全く動かないが、正直、よく生きていたものである。
 由衣のほうは、俺がクッションになったおかげで少しはマシなようだった。体力の消耗と怪我のせいでつらそうだが、動けないほどではない。
 しかしここは、例えるなら巨大な落とし穴である。抜け道はないし、助けを呼ぼうにも、彼女にこの垂直の壁をのぼれというのも無茶な話だ。まあ、仮にのぼれたとしても、上にはドリル犬が待ち構えているだろう。
 今のところ、完全に手詰まりだった。もちろん、このままじっとしていたところで、助かる方法が見つかるわけではないのだが……。
 相変わらず動き続けている、背中のどりるキャストの作動音だけが、狭い岩肌の間に響いていた。
「なあ、由衣……」
 俺はあることがどうしても気になり、思い切って訊ねてみた。
「何であんなマネ……したんだ? 一人で敵をひきつけて、俺を逃がそうだなんて……」
「……わたしの、せいですから」
 長く吐いた息が、顔にかかる。表情は、暗くてよく見えない。
「わたしがゲームに誘ったから、こんなことになったんですよね……」
「……そんなの、由衣のせいじゃないだろ」
 ゲームの世界に入るなんて非現実的な展開を、誰が想像できたというのだろう。
「それに――」
 と、彼女が小さく笑いをこぼした。
「瀬名くんは……わたしにいなくなってほしかったんじゃないですか?」
「えっ?」
 一瞬、呼吸がとまる。
「な、何言って――」
「別れたかったんですよね? わたしとは」
「…………」
「……知ってました。あの手紙が、瀬名くんが書いたものでないこと。瀬名くんが、わたしを好きではないこと。何もかも、全部――」
「なっ……なっ……」
 俺は、口をパクパクさせていた。心臓が早鐘を打ち、背筋が凍ったように冷えていく。
「そんな、何でっ……」
 全てを知っていて、どうして俺と付き合っていられたのか――。
 そう訊ねようとした俺の唇に、ふいに水滴が落ちた。
 ……血?
 いや、違う……。
「そんなの――瀬名くんを好きだからに、決まってるじゃないですかっ……!」
 由衣の叫びが、岩肌の間に大きく反響した。
「わたしだって……好きな人の筆跡くらい、チェックしてるんですよ? だから手紙もすぐにいたずらだってわかりましたけど、これがきっかけになればいいって思って。それで迷惑だとは思ったんですけど、瀬名くんの優しさを利用して、断れないような状況を作ったんです……」
 水滴が、また落ちる。ぽたり、ぽたりと。
「でも……だめですね。一緒にお弁当を食べたり、デートをしたりして、わたしは嬉しかったんですけど――瀬名くんが無理してるのも、わかっちゃうんです。……わからなければ、よかったのに」
 彼女は少し笑ってから、大きく息を吐いた。
「…………」
 俺は口をつぐんだまま、何も言うことができない。
「瀬名くん、呆れたでしょう? わたしのこと。本当はたくさんたくさん――ずるいこと、考えていたんですよ?」
「……な、なあ、由衣」
 頭の中が混乱して、整理がつかないけれど。俺はこれだけは訊こうと思っていたことを、訊いてみることにした。
「俺のどこが……そんなに好きになったんだ?」
「あ、やっぱり覚えてないんですね」
「……なんか、あったっけ?」
「転校してからじゃないですよ」
 と、彼女は意外なことを言う。
「転校する前……わたしが六年生のときに、一度会ってるんです」
「えっ……?」
 ……俺と由衣が、昔会っている? そんな、まさか――。
 頭の中に、今日夢で見た『あの子』のことが思い浮かぶ。
「あのとき……わたしは家族で山のキャンプ場に行ったんです。父も母も仕事で忙しいので、あまり家族ででかけることはないのですが、そのときは二人ともまとまった休みがとれて。すごく嬉しくて、わたしは姉と一緒にはしゃいでいました」
「……お姉さん、いたんだ?」
「今は、結婚して家にはいませんけどね……」
 少しだけ寂しそうに、彼女は言った。
「そこで、一人の男の子に会ったんです。同じ年頃の子が他にいなかったせいか、話しかけてきて……。わたしは家族と過ごそうと思っていたのに、その子、強引にわたしのこと連れて行こうとするんです」
 思い出したのか、由衣がくすくす笑う。
「そ、その男の子って……もしかして、俺か?」
「そうです。それで結局は根負けして、わたしはその子と遊ぶことにしたんですけど……まだ、思い出せませんか?」
「え、えっ、え〜とっ……」
 俺がキャンプに行ったのは、六年生のあのときだけである。しかし肝心のそこでの記憶は、ずっと闇に沈んだままだ。
 となると、やはりあの子が――あのときの少女が、由衣だったというのか? 確かに顔は似てるが、そんなバカな。
 到底信じられなかったが、しかし。そんな俺に、由衣は決定的な証拠をつきつけた。
「ヒロくん――」
 耳元で、彼女はそうささやく。
「わたし……あのとき、瀬名くんをそう呼んでいました」
「あ……」
 瞬間。頭の中に、映像が浮かびあがった。
 夏の強い日差しの中。緑の木々に囲まれ、セミの声が響き渡る山のキャンプ場で、俺は――……。
 ……そう。一人の女の子に出会った。とても元気な、ツインテールの女の子に。
『ヒロくんっ』
 真っ白なワンピースを着て、風に流れる髪を手で押さえながら――そう呼んでくれただけで、俺はドキドキしていた。
 一目惚れと初恋とを、同時に体験した、あの夏の日。しかしそのことを、翌朝にはすっかり忘れてしまっていた、不思議な日のこと――。
 彼女のたったひとことで、どんなに思い出そうとしても思い出せなかった記憶が、蘇っていた。
 しかしまだ、頭の中が混乱している。出会ってから、一体何があったのか。俺は深呼吸をしながら、ゆっくりと記憶の整理を始めた。
「その子と遊ぶうちに……わたしも段々楽しくなってきました」
 それをなぞるかのように、由衣も話を続けていく。
「二人でどんどん山の奥のほうへ行って……そして気がついたときには、帰り道がわからなくなっていたんです。辺りは暗くなってきて、不安もいっぱいになって……でもその子――ヒロくんは言うんです。『俺が守ってやるから安心しろ』って」
「…………」
「ヒロくんは……その言葉通り、わたしを守ってくれました」
 由衣の少し冷たくなった手が、俺の頬をなでる。
「わたし、足をすべらせて――山の急斜面から落ちそうになったんです。そこを、ヒロくんが手を引いてくれたんですが……支えきれずに、一緒に落ちてしまいました」
「…………」
「でも、ヒロくんは咄嗟にわたしを抱きしめて――自分がクッション代わりになったんです。丁度、今みたいに……」
「……そっか」
 そこまで聞いて、俺は完全に思い出していた。
 彼女を守るために一緒に転落して……そしてようやく落下がとまったとき。衝撃で、身体の感覚がなくなっていたのだ。実際の怪我は、運よく足の捻挫だけだったが、それよりもやけに頭が痛かったような気がする。もしかしたら、そのせいで記憶を失ってしまったのかもしれない。
 意識が朦朧とする中、無傷だった彼女が助けを呼びに行き――どれほどの時間が過ぎたのか。
 気がつくと、俺は二十歳くらいの女性に抱きしめられていた。温かく、柔らかな感触に顔が埋もれている。
『守ってくれてありがとう』
 確かそんなようなことを言われた気がするが、顔いっぱいに伝わる感触に、俺はそれどころではなかった。その柔らかさを堪能したまま、やがて意識を失い――目を覚ましたのは、翌日の朝。キャンプ場の、テントの中だった。
 あとは夢で見たとおり。女の子に呼ばれて、ひどいことを言って、怒った彼女は姿を消してしまった。彼女からすれば、怒るのは当然である。
「ごめんな……」
 俺は言った。
「今、思い出すまで……あのときの記憶が、俺にはなかったんだ」
「……忘れてたわけでは、ないんですね?」
「ああ。……自分でも言い訳みたいだと思うけど」
「……もういいですよ。思い出してもらえれば」
 ふう、と由衣は短く息を吐いた。
「わたしのほうこそ……あのときは混乱させてしまったみたいで、ごめんなさい」
「いや、いいけど……。しかし、なあ……」
 俺は苦笑する。
「なんです?」
「まだ、ちょっと信じられなくて……。だって、あのときの由衣と今の由衣、全然性格が違うじゃないか」
「え? ……そんなことは、ないですけど」
「いや、ありすぎだろ。第一、何で敬語なんだ?」
「……それは……わたしだって、最初はふつうに話すつもりだったんですけど」
 ぼそぼそと、声が小さくなっていく。
「わたし、ヒロくんに会うために転校してきたのに……なのに、肝心のヒロくんは全然気づいてないみたいで……。だから……悔しかったから、決めたんです。わたしも気づかないふりをして、別人を演じてやろうって」
「……おいおい。何でそうなるんだ?」
「だって――」
 と、そこまで言ってから、由衣はなかなか次の言葉を発しようとしなかった。
「……由衣?」
「だって、わたしっ――」
 俺が声をかけてから、ようやく彼女は口を開く。
「大きく、ないからっ……」
「……は?」
 ……何の話だ?
「ヒロくん、巨乳が好きなのに……わたしは全然大きくないから、せめて性格だけでも好かれるようになろうって思って……」
「あっ……」
 確かに昔、そう言ったが――覚えてたのか。
「……最初はすぐやめるつもりだったんですけど、ヒロくん、本気で気づいてないからわたしも意地になったんです。でもしばらく続けていたら、クラスでの私のイメージが固まっていて……やめられなくなってしまって」
「……お前、バカ」
 俺ははっきりと言ってやった。
「ばっ……バカとはなんですか。誰のせいだと――」
「……そんな別人を演じてたら、気づきたくても気づけないだろ」
「…………」
 俺の言葉に、由衣は黙り込む。
「それに……本当の由衣だったら、別れたいなんて思わないよ。なにせ――」
「……なにせ?」
「……俺の……初恋の人、なんだからな。お前は」
 瞬間。由衣の息を呑む気配が伝わってきた。
「ヒロ……くん……」
 身体の震えと共に、また熱い雫が俺の顔に落ちてくる。
「わたしも、だよ……」
 ゆっくりと、彼女は俺に頬をすり寄せてきた。抱きしめてやれないのが、何とももどかしい。
「……なあ、由衣。俺に提案があるんだけど」
「え?」
「どりるキャストのフタ……開けてくれよ」
「ヒロくん……」
 顔を離す由衣。きっと不安げに俺を見ているのだろう。
「……確かに危険かもしれない。下手をしたら、ゲームの世界に閉じ込められて、出てこれないかもしれない。……でも、ここにずっといるよりはましだ」
「……うん」
 やや間をおいてから返事があり、由衣が慎重に身体を起こす。俺が動くことができないので、彼女に指示し、ふたつのどりるキャストをそばに並べさせた。
 そして俺は、同時に開くように言うが……由衣はなかなか実行しようとしなかった。やはり怖いのだろうか。もちろん、俺にも不安はあるが……。
「――そうだ、由衣。髪を結んでるゴムがあっただろ? それ、俺に持たせてくれよ」
「……え?」
「もし離れ離れになっても、記憶をなくしたとしても――それがあれば、証になるだろ? ここに、二人でいたことの証にさ。……今度は、忘れたりしないように」
「ヒロくん……」
 ……気休めでしかないのは、わかっている。が、少しでも由衣の安心材料になるなら――そう思っての発言だった。
 ややあって、右手が持ち上げられ、手首が軽くしめつけられた。……ちょっと痛い。
「なくさないように……二重巻きね」
「……まあ、いいけど」
 そして由衣はフタを開け――どりるキャストの作動音が、停止した。

「瀬名くんっ……瀬名くんっ」
 声と共に、肩が揺すられる。その感覚に、俺はゆっくりとまぶたを開き、声の主を確認した。黒髪のツインテールに、黒ぶちメガネで、童顔の女の子。
「ゆ、由衣……か?」
「寝ぼけてるんですか、もう……。一緒にゲームをしてるのに、途中で寝てしまうなんてひどいですよ」
 由衣が不満そうに眉をひそめて、俺を見る。
「ゲーム……?」
 顔を上げると、テレビモニターには『ファンタジードリルオンライン』の画面が表示されていた。どうやら店に入り、シナリオを選んでいたところらしい。
「俺……寝てた、のか……?」
 それなら、ゲームの世界に入ったのも夢? 大怪我をしたのも、由衣が昔会った初恋の人だったというのも、夢……?
 確かにあんな現実離れしたこと、夢でなければ説明がつかないが――。だが、そのひとことで片付けてしまうには、どうにもリアルすぎる体験だった。
「ん……?」
 ふと、手首の違和感に気づく。そこには、髪どめ用のゴムが巻きつけられていた。
「これって……」
「あっ――」
 由衣が声を上げる。見ると、彼女のツインテールの片側が、ほどけていた。
「え……? どうして……?」
 髪をおさえ、不思議そうに俺を見る。
「それ、わたしの……。瀬名くん、いつの間にとったんですか?」
「…………」
 俺にもわからない。だが、もしかすると――。
 と、現実離れした推測をして、俺は苦笑する。例えあの体験が夢にすぎなかったとしても、俺は構わなかった。
 由衣の隠していた想い。初恋の人かどうか。
 そんなことは、これからの付き合いでわかっていくことだ。
「なあ、由衣――」
 俺は『証』である髪どめを彼女ににぎらせて、言った。
「またいっしょに、どりるキャストで遊ぼうな?」
「また……って、いっしょに遊ぶのは、これからですよ?」
 首をかしげる由衣に、俺はただ、微笑むだけだった。

 おわり。