プロローグ

 男は何気なく捨てただけだった。
 そう、いつものように気にすることなく、彼は煙草の吸い殻を道路に捨てたのである。
 どうせみんながしていることだから――。
 だから罪悪感も感じない。しかしそんな様子に腹が立ったらしく、一人の男がズカズカと大股で近付いてくる。
「おめえ、道に煙草さ捨てるんでねえ!」
 注意したその言葉はなまっていた。どこかの方言だろうか。よく見ると、ぼさぼさ頭に無精髭、Tシャツにジーンズというラフな格好で、あまり裕福そうではない。おそらく上京してきて、現在フリーターといったところなのだろう。そんな感じである。
(田舎者か……)
 心の中でため息をつきながら、サラリーマンである男は言った。
「すいません」
 言い返すのも面倒なので、適当に謝って吸い殻を拾う。このまま手に持っているだけではまだうるさそうなので、スーツのポケットから携帯灰皿を取り出して中に捨てた。
「そんなの持ってるなら、何でそれに捨てねえんだ!」
「ええ、気を付けます」
 取り出すのが面倒だからに決まっていると思いながら、サラリーマンはその場を後にすることにした。まだ営業の途中で、仕事が残っているのだ。一服も終わったことだし、こんな田舎者に構っている暇はない。
「待ていっ!」
 と男が大声で引き留める。
 サラリーマンは顔をしかめながら振り向いた。
「……まだ何か?」
「おめえ、ちっとも反省の様子がねえな! おめえのような悪人は、天にかわって、オラが成敗してやるべ!」
 ビシィ! と大げさに指をさし、にやりと笑う無精髭の男。
「…………」
 サラリーマンはゆっくりと天を仰いだ。
 青い空。眩しい日射し。どこからか香る桜の匂い。
(春だからなあ……)
 この季節、こういう輩が増えるから困る。
 駅前だが、人通りの少ないこのビル街。といっても、ぱっと見ただけですぐに十人は目に入る。そんな中で、いい年をした男が、よくこんなことをできるものだ。まあ、あまり関わり合いにならない方がいいだろう。
 そうこうしているうちに、男はゆっくりと両腕を回転させ、何やらポーズを決め始めた。
「はあああ〜〜っ! 変〜身〜!」
「…………」
 サラリーマンは顔をひきつらせた。
(こいつ……特撮マニアか……)
 別にマニアに偏見があるわけではないが、こんなところでこういうことをする神経が信じられなかった。本格的にもうだめだと判断し、さっさとこの場を去ろうと背中を向ける。
しかしそのとき。
ピカピカッ!
 フラッシュを同時に何度もたいたような、強い光が後ろから放たれた。
「な、何だ……?」
サラリーマンは後ろを振り返るか迷った。関わり合いになりたくはないが、何が起きたのか興味はある。だが、悩む必要はなかった。
「とうっ!」
 バキッ!
「ぐわっ!」
 吹き飛ぶサラリーマン。突然彼の後頭部に、蹴りが入ったのである。
「いてて……。な、何をする――……って、……おい……」
 頭を押さえつつ立ち上がった彼は、男の姿を見て唖然とした。
 彼は先程の言葉通り、変身していたのである。
 全身を銀色の装甲で覆ったその姿は、まさしく特撮ヒーローそのものだった。
「…………」
 サラリーマンが呆れ返って言葉を失っている間に、男は腰に手を当てて前口上を始める。
「世のため人のためより自分のため! 例え大きな悪は見逃しても、小さな悪は絶対に見逃さない!」
「……見逃すなよ……」
 ぼそっと呟くサラリーマン。
 聞こえていないのか、男は調子に乗って続ける。
「全ては自己満足のために、私は戦う! 一応正義の使者――その名も!」
 バッと男は両手と片足を上げた。
「私設特捜刑事バリギャン! 只今参上!」
上げた手と足をカクッと内側に曲げて、彼はポーズを決める。その姿は、何だか昔流行った『シェーッ!』に似ていた。
(……な、何て……格好悪い上に恥ずかしい奴なんだ……)
 サラリーマンは呆れ果てていた。当然のことだが、もはや通行人の注目の的である。
(こうなったら走って逃げるか……いや、それとも警察呼んだ方が……)
そう思案している内に、ふと閃いた。
(――まさか! いや、そうだ間違いない!)
 彼は確信する。このわざとらしい非現実的な展開。その理由は一つしか浮かばなかった。
(これは、テレビなんだ!)
 テレビのバラエティー番組で、『ビックリカメラ』というものがある。それは何も知らない通行人等にいたずらをして驚かすという内容だ。サラリーマンはこれもその番組の撮影だと思ったのである。
(ふっ……そういうことなら、少し合わせてやるかな……)
 先程頭を蹴られたお詫びも含め、お礼くらいはあるだろう。
 しかし、彼の考えははっきりいって甘かった。
「いくぞ! 必殺、バリギャンブレード!」
そう叫ぶと、バリギャンは腰に差してあった剣を抜き取る。だが、その剣は柄だけの代物だった。おそらく編集で特殊効果の剣でも入れるのだろうと思うサラリーマンだったが、次の現象を見て彼は目を剥いた。何と、柄の部分からレーザーのようなものが飛び出し、剣の形を作ったのである。
(ビ、ビ、ビームサーベル!?)
 咄嗟にそんな言葉が浮かぶ。昔どこかのアニメで、似たようなものを見た気がした。最近の玩具はここまで進歩していたのだろうか、などど思う暇もなく、バリギャンは攻撃してきた。
「でやああっ! 覚悟ーっ!」
 ビームサーベルを振り上げ、バリギャンが向かって来る。
 番組としては素直に当たった方がいいのかもしれないが、何だか勢いがあって痛そうなので、サラリーマンはかわすことにした。
 寸前で横に逃げると、空を切ったビームサーベルがそのまま道路にめり込む。
 ズゴオオオオッ!
 ものすごい音がした。
「なっ……!?」
 凍り付くサラリーマン。息を呑む野次馬たち。
 アスファルトの道路が、バリギャンの一振りで大きく切り裂かれていたのである。
(……う、嘘だろ!?)
驚きのあまり、サラリーマンは声も出なかった。もし今のを避けなければ、間違いなく死んでいただろう。
 これはテレビの撮影ではなかったのか。ではこの非現実的な状況は一体何だというのか。
しかし彼に思考する時間を与えず、バリギャンは再び襲いかかってくる。
「死ね! 悪人!」
 振り上げられるビームサーベル。
 特撮ヒーローが攻撃してくるという、日常ではありえないはずの光景だった。だが、それは確実に死をもたらせてくる。
「う、う、うわああああああっ!」
恐怖のあまり、サラリーマンは絶叫した。野次馬からも悲鳴が上がる。
(俺が何をしたんだ? ただ道路に吸い殻を捨てただけじゃないか? どうしてこんな目に合わなけりゃいけないんだ!)
 突然の理不尽に、憤るサラリーマン。
 だが、そのときだった。
「待ちなさい!」
 遙か上の方から、凛とした声が響きわたった。
 それに反応し、バリギャンは剣を止める。
「誰だ……!?」
 その場にいた一同は揃って上空を見上げ、声の主を探した。
「あそこに誰かいるぞ!」
野次馬の一人が声を上げる。彼の指さす先――それはビルの屋上だった。
 目を向けると、確かにこちらを見ている人物がいる。
 長い髪が風になびいていた。小さく笑みを浮かべているその人物は、十五、六歳くらいの少女だった。セーラー服とメイド服を、強引に一つにしたような、よくわからない組み合わせの衣装を着ている。色は透き通るような白で、袖やリボンに黒のラインが入っていた。この現実世界の中で、彼女の周囲だけが異空間のような雰囲気をかもし出している。
「今の声は、おめえか!?」
とバリギャンは訊ねた。
「ふっ……」
それには答えず、少女は笑みを浮かべたまま、足を前に踏み出す。もちろんそこは屋上の外であり、踏みしめる場所がないため、彼女は落ちていった。
「きゃーっ!」
「自殺だ!」
 野次馬たちの悲鳴。普通なら当然の反応だが、彼女は普通ではなかった。道路にぶつかる寸前にふわっと浮き上がり、何事もなかったかのように、そこに立ったのである。
「…………」
 呆気に取られる一同。それは、バリギャンも例外ではなかった。
「な、何者だ……!?」
 と、かろうじて声を出す。
(ああっ……また変なのが現れたよ……。一体どうなってんだよ、今日は……)
 この異常な展開に、サラリーマンは頭を抱えていた。
「己の欲望に憑かれた愚か者が……」
呟くように少女は言う。
「私はお前のような暴走者を救いに来た、天よりの使者……。その名も、エンジェル・ユーニィ!」
「天よりの使者……エンジェルだと!?」
 自分でもよくわからないが、バリギャンは彼女に戦慄を感じていた。本能が、彼女を倒せと命令する。
「おめえは後回しだ! いくぞ、バリギャンブレード!」
 サラリーマンを突き飛ばし、バリギャンはビームサーベルでユーニィに向かっていく。
「……も、もうわけわからんっ! 今の内に逃げよう!」
 この状況に我慢できず、サラリーマンは慌てて走り出そうとする。だが、最後まで彼は不運だった。
「……エンジェルウイング」
 ユーニィはすっと右手を上げた。彼女の言葉に応えるように、翼をかたどった手首のブレスレットが巨大化する。
「ゴーッ!」
バリギャンに向けて右手を振り下ろすと、鳥が羽ばたくように二枚の翼が飛び出した。
「うおっ!?」
思わず立ち止まるバリギャン。ユーニィから放たれた翼は彼の両脇に位置すると、電撃を発した。
バリバリバリバリッ!
「ぐぎゃああああああっ!」
逃げる間もなく、バリギャンは電撃の餌食となる。
 そしてその電撃は、周囲にも漏れていた。
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
静電気に触れたときのような痛みを感じ、さすがに野次馬たちも逃げ出していく。
「ひいいっ!」
 ちなみにサラリーマンは、バリギャンの近くにいたこともあり、電気にしびれてこけていた。
 だが、ユーニィは彼の存在などお構いなしだ。
 動けないバリギャンに向けて、バッと右手の平を広げる。
「エンジェル・ディストラクション!」
言葉と共に、手の平から巨大な光線が放たれた。その直径は、彼女の身長ほどもある。
「う、うわあああああああっ!」
 絶叫するバリギャン。
 シュォッ!
 光線は、彼の体を突き抜けていった。
 そして突き抜けた先。そこにはバリギャンの体内から抜き取られたものがあった。
 小さな輝きを放つ、小さな黒い宝石。その宝石は、光線が消えると共に、粉々に砕け散ってしまった。
「…………」
 それを確認し、ユーニィは右手を降ろす。そして一旦は彼女から飛び出した二枚の翼が、再び手首にブレスレットとして戻る。
 宝石が砕けたのに合わせて、バリギャンの変身は解けていた。彼は気を失い、バタリと倒れる。
「……任務、完了」
 ユーニィは呟き、目を閉じた。そして蜃気楼のように、彼女の姿はすっと消えてしまう。
「あ……う……」
 ユーニィが消えた後、うつ伏せで倒れていたサラリーマンは、何とか目を開けることができた。全身がしびれて、あまり力が入らない。
 そして、彼は自分の見ている光景に違和感を感じた。
「これ……は……?」
 アスファルトが、めくれ上がっていたのである。それだけではない。この辺り一帯のガラスが割れ、ビルは半壊していた。倒れている人間も何人か見かける。
 ディストラクション――その技の名前の通り、この周囲はユーニィの光線の衝撃によって、音もなく破壊されていたのである。
「な……な……何だったんだ一体……」
 どこか遠くから聞こえてくるサイレンの音を耳にしながら、サラリーマンは気を失ったのだった。

「……うわ、すごいな……」
 そんな破壊活動のあった場所を、ビルの脇からのぞき見る人影があった。
 小柄なその体は、小学生くらいだろうか。髪型はツインテールにして赤いリボンで結び、フリルのたくさん付いた派手な洋服を着ている。大きめの眼鏡をかけ、右手には魔法少女もののアニメでお約束アイテムである、ステッキが握られていた。しかしそのステッキは、どう見てもおもちゃ屋で売られているような安物にしか見えない。
「エンジェル・ユーニィか……」
 彼女の行動の一部始終を見ていたその派手な格好の人物は、その名を呟いて小さくため息を付いた。
「魔力を感じたからこの格好で来てみたけど……また出番を取られちゃった……」
手持ち無沙汰な手でステッキを振り回しながら、辺りの様子をうかがってみる。怪我をして倒れている人たちがたくさんいるが、目立つとまずいので助けにはいけなかった。それにサイレンも近いため、もうすぐ救急車が来るはずである。
「……仕方ない。怒られるだろうけど、帰ろう……」
 もう一度ため息をつき、現場に背中を向けた。
「魔法少女エアリス、やることがないので帰還しまーす……。って、とほほ……何か寂しい……」
 エアリスというその派手な格好の少女は、こそこそと隠れるようにしながら、この場から去っていったのである。

 闇。
 そこは闇の世界と呼ばれていた。
 といっても、全てが闇では何も見えないので、普通に光は存在する。ただ、そこにいるのが闇の住人――悪魔であるため、便宜上そういう呼び方をされているのだ。
悪魔、と一口に言っても様々な捉え方があるが、この世界の住人たちの姿形は、普通の人間と変わることはない。闇の世界自体も、我々のいる現実世界と同じ仕組みでできており、東から日が昇り西に沈んでいく。では何が違うのかといえば、住人たちが悪魔と呼ばれるだけの特殊能力を持っていることだ。
 そして、そこに住む者たちを統治するのは、たった一人の悪魔――魔王である。
魔王は、まだ二十代前半くらいに見える若い男だった。細身でスラリと背は高く、黒いマントを羽織っている。やや長めの前髪からのぞく切れ長の瞳は、見るものを突き刺すかのように冷たい印象を放っていた。
 彼は腕組みをしたままで、城の窓から、まだ明るい昼間の空を見つめ続けている。
 静寂――。
 彼の周囲は、まさにそんな言葉がふさわしい程の静けさだった。いや、静かすぎた。虫や動物といった生物の気配はなく、聞こえるのは、ほんのかすかな呼吸音のみ。魔王の側に控える、唯一の人間のものだった。かなり太めの体型をした、中年の男である。髪は少し薄くなっており、全身がぴっちりとしたタイツのようなものを着ていた。はっきりいって、容姿にも服装のセンスにもいいところはない。
「……ふぅー……ふぅー……」
彼は緊張のためか冷や汗をかきながら、押し殺すように呼吸をしている。魔王が自分の存在を快く思っていないことを彼は承知していたのだ。
「…………」
 そして魔王は、男を無視しつつも、先程からずっと不機嫌そうに眉をひそめている。
 男はこの雰囲気が苦手ではあったが、闇の世界において絶対の存在である魔王の指示であるため、ここにいなければならない。
 そんな異常な空間の中、ふいに魔王の体から黒いもやのようなものが沸き上がった。
「おおっ、魔王様っ」
 男が、歓声を上げる。
ようやく、彼らの待っていた結果が現れたのだ。
「……ふう……」
しかし、魔王はため息を付いただけであった。彼から沸き上がったもやは、吸い込まれるように体の中に消えてしまう。
「……ま、魔王様……?」
 男が怪訝そうに訊ねる。何だか嫌な予感がした。
「ダスタンよ……」
「は、ははっ」
 ダスタンと呼ばれた男は、深々と頭を下げる。
「確かにまた一つ、俺の魔力は回復した」
 彼の方には目を向けずに、魔王は話し出す。
「だが、それは神に選ばれた小娘の手によるものだ。貴様の選んだ……エアリスといったか。奴の成功ではない」
「も、申し訳ありませんっ!」
床に頭が付きそうなくらいに、とにかく頭を下げるダスタン。
「ど、努力はしているのですが、何分神の者とは力の差が大きく……」
「……ほう。俺のせいだと言いたいのか?」
ちらり、と魔王は視線を向ける。
「め、滅相もありませんっ!」
「……まあいいだろう。確かに今の俺は魔力が足りない状態だからな」
 そう言って、魔王は自虐的な笑みを浮かべる。
 怒っていないようなので、ダスタンは心の中で小さく安堵の息を付いた。闇の住人は、魔王に逆らっては生きていけないのである。
闇の世界において、魔王が絶対の存在である理由――。それは、闇の住人たちは魔王の魔力のおこぼれをもらって生きているからなのである。そして今、魔王の魔力が足りない状態であるため、この世界には魔王とダスタンの二人きりしか存在していなかった。
 何故、こんな状態になってしまったのか。それは遙か昔に行われた、神と悪魔の戦いに原因があった。神の方も悪魔と同じで、特殊な能力を持った人間たちの集まりである。
 当時、互いの力は均衡していた。悪魔側が魔王中心であるのに対し、神の側は多数が集まって大きな力としていた。戦いは長く続いたが、あまりに力が均衡していたため、互いに滅ぼそうとするのをあきらめ、いつしかその存在を封印することに切り替わり始めた。そしてその結果、神も悪魔も全員が長い眠りに付いたのである。
 しかし、その封印方法には違いがあった。神の側は時が過ぎれば少しずつ目覚めていくが、悪魔側は生命線である魔王の魔力を封印されてしまったのである。その魔力は能力ごとにバラバラにされ、我々の住む現実世界へと飛ばされていた。神の側は何もしなくても復活していくが、悪魔の側は自分たちで魔力の封印を解いていかねばならないという、不利な状況にあった。
 そして現在、長い時の流れによって、わずかにゆるくなった封印から漏れた魔力で魔王は目覚め、自分の魔力を集め始めたのである。魔王以外の闇の住人たちは未だ眠ったままだが、何故か下っ端であるダスタンだけが目覚めたため、仕方なく彼を使っているという状態だ。そして彼は現実世界でエアリスという人間に協力させているが、非常に効率が悪かった。
 魔王の機嫌が悪い理由はここにある。
 時を同じくして、神の側も封印から目覚め始めていた。そして彼らの遣わせたエンジェル・ユーニィという少女が、強力な力で魔力が封印された黒い宝石を破壊し始めたのである。……そう、実は神たちは大きな勘違いをしていた。彼らは宝石を壊すことで魔力を消滅できると思っているが、それは逆に魔力を回復させているのである。つまり、神のおかげで魔力が回復しているため、魔王は不機嫌なのだ。
「……しかし、いくら奴らが勘違いしているとはいえ、神のおかげで魔力が回復したとなれば、下僕どもに面目が立たない」
 魔王はそう言って、床に額を付けているダスタンを見据えた。
「もう貴様だけに任せておくわけにはいかん。私が直接行って来る」
「ま、魔王様それは……!」
思わず顔を上げるダスタン。冷や汗を掻きながら、おずおずと進言する。
「お、恐れながら……今の状態で神の連中に見付かれば、魔王様といえども……」
 その後の言葉はとても言えず、ぼそぼそと消え入ってしまう。
 そう、今のわずかな魔力では、力を合わせた神には勝てない。だからこそ、神たちも自分たちの勘違いに気付かないのだ。
「……わかっている」
 と魔王は言った。
「もちろん素性は隠すし、地上の人間に協力させるつもりだ。今のままでは、ますます不利になるばかりだからな」
「も、申し訳ありません……」
 再び頭を下げながら、ダスタンはふと気付く。
「それでは……魔王様が直接出向くとなれば、エアリスはもう必要ないのでしょうか?」
「……いや、少しは役に立つこともあるだろう。貴様たちは今の任務を続けろ」
どうせダスタンには他にやらせることもない、というのが魔王の本音である。
「はっ。ありがとうございます」
 改めて仕事を与えられ、ようやく緊張の解けたダスタンは、取り出したハンカチで額の汗を拭った。
「……それで魔王様。協力させる人間の候補は決まったのでしょうか……?」
「ああ、適任者を見付けた」
 と魔王は答える。
協力させるのに、魔力はもちろん、愛や正義などは必要ない。必要なのは、純粋さと強い欲望。そして健康な肉体。それらを兼ね備えた人物を、魔王は以前から調査していたのだ。
 魔王は回復した能力を使い、その者の現在の様子を探ってみる。
そこは、東京にあるごく普通の一軒家。その二階にある部屋に、魔王に選ばれた人間はいた。
 まだ昼間だというのに部屋を暗くし、ベッドの中でぐっすりと眠っている。小学校中学年ぐらいだろうか。無邪気で可愛らしい寝顔である。
「……う〜ん……」
ごろん、とその少女は寝返りを打った。そのせいでベッドの下に布団がずり落ち、それと共に少女も落ちてしまう。しかしそれでも彼女は目覚める様子はなかった。余程眠いのだろう。
「……ま……ほ……」
 下に落ちた布団に蓑虫のようにくるまりながら、少女は何やらぼそぼそと呟いた。
「……ま、ほう……あたしの……魔法……えへへ」
 楽しい夢でもを見ているのだろう。にやにやと不気味に笑みをこぼす。
(ふっ……魔法少女になりたいという貴様の望み、叶えてやるよ……。その代わり、ボロボロになるまで働いてもらうぞ……)
 魔王は何も知らずに眠っている少女を見ながら、楽しそうに笑いを浮かべた。

  第一話 「選ばれし少女」

  その一 「竹内美加」

 午前七時まであと三分――。
 そんな朝の時間だった。
 ちゅんちゅん、とせわしなく聞こえてくる雀の鳴き声と、窓から入る日射しは今日一日の始まりを告げているかのようだ。
 そしてここに、そんなさわやかな朝を迎えるために、目覚めを待つ少女がいた。
「う〜ん……」
 ベッドの下に落ちたにも関わらず、毛布にくるまって気持ちよさそうに寝返りを打っている。ベッドの脇にある目覚まし時計は、七時にセットされていた。そろそろベルが鳴り響く頃である。
「急げ急げ」
 そんな彼女の部屋に、こそこそと近付く二人の少年がいた。音を立てないよう、すり足気味に廊下を進む。
「気付かれないようにな」
 口許に人差し指を当て、先頭の少年が言った。彼は身長は百六十センチくらいで、スポーツマン風のがっしりした体型をしており、髪は短めで眼鏡をかけている。
「君も本当に好きだね……」
 と後ろの少年が苦笑いした。こちらは先頭の少年より頭半分ほど背が高く、髪もさらさらで、力はなさそうだが容姿には恵まれているようだ。二人とも学生らしく、制服のワイシャツ姿である。
「まあな」
と先頭の眼鏡の少年は応えた。
「俺は目的のためなら努力を惜しまない男なのだ」
「美加ちゃんは迷惑そうだけどね」
 小さく肩をすくめる後ろの少年。
「……別にお前は来なくてもいいんだぞ」
「いや、僕も朝の挨拶をしておきたいから」
「……まあいい。ともかく、ここからは会話はなしだ」
 目的の部屋の前に着いたので、眼鏡の少年は目で合図を送る。そしてそっと部屋のドアを開けると、中をのぞき込んだ。
「あいつ……またベッドから落ちてるな」
「可愛いじゃないか」
彼の頭の上から、背の高い方の少年が話しかける。
「……おい。さっき、会話はなしだって言っただろ?」
「ああ、そうか。ごめんごめん」
「……ともかく、進入開始だ。広人はそこにいろよ」
「いってらっしゃーい」
眼鏡の少年が部屋に入っていくのに対し、広人と呼ばれた背の高い少年は、面白そうに見守っているだけである。
(ふっふっふっ)
不気味な笑みを浮かべながら、眼鏡の少年はベッドの脇へと移動する。そして素早く目覚まし時計を自分の持ってきたものと交換した。が、時計をベッドに置く際、誤ってカチンと小さな音を立ててしまう。
「くー……くー……」
 ちらりと様子を見ると、少女は静かに寝息を立てていた。どうやら何も気付かなかったようだ。少年は安心して部屋の外へと出た。
「ふう……」
 と彼はかいてもいない額の汗を拭い、息を付く。
「今日も一仕事終えたぜ」
「大げさだなあ」
 広人は苦笑する。だが、その言葉に眼鏡の少年は反論した。
「大げさなんかじゃないぞ。これは最近の俺の生き甲斐なんだからな」
「はいはい」
 と頷きながら、広人はやっぱり大げさだと思った。
「……おっと、そんなことよりもう時間だ。目覚ましが鳴るぞ」
 自分の腕時計を見て少年が言う。そしてドアの隙間から、こっそりと中をのぞき込んだ。
「さーて、今日はどんな反応するかな」
「慌てて頭ぶつけなければいいけど……」
 そんな心配をしつつ、広人も少年の頭の上から様子を伺う。
 二人が見守る中、時間は過ぎていく。七時まであと、五、四、三、二、一……。
 チャンチャンチャン、チャ〜ン。チャララ〜ン。スチョーン。
少年のすり替えた時計から、明るいが力の抜ける音楽が聞こえ出した。そして――。
『み・ら・く・る・チェーンジ! セットアップ! みらくるルンルンちゃん、あなたの枕元に、只今参上よ!』
 びくっ!
 時計から聞こえた声に反応し、安眠していた少女は一瞬、体を震わせる。
『さあ、今日も謎のみらくるパワーで、あなたの睡魔を倒してあげるわ! 必殺、みらくるフラーッシュ!』
 ドガガガガガガガガッ! ズドドオオオオオオンッ!
グシャグシャッ! ビチョッ!
 明るい声とは裏腹に、殺人的な破壊音が鳴り響く。しかも生々しい、肉が砕けて血が飛び散るという効果音付きだ。
 しーん……、としばらく静寂が続く。
『……あれえ? 睡魔を倒したのにまだ起きられないのかなあ? しょうがない、それじゃあ私と一緒に目覚めの歌を歌おうね。みらくるルンルン、ルンルンル〜ン。みらくるルンルン、ルンルンル〜ン』
 以後、この目覚ましは止められるまで約五分間、同じセリフを繰り返すのである。
「くぅぅ〜! 何度聞いても、これはいい目覚まし時計だ……!」
 拳を震わせ、恍惚の表情を浮かべているのは、眼鏡の少年だった。
 ちなみにこの目覚まし時計は、最近深夜枠で放送中のテレビアニメ、『みらくるルンルン』という番組のキャラクターグッズである。しかもセリフが三種類から選べるという、内容の充実ぶりだ。
 この作品は一応魔法少女ものだが、かなり理不尽な内容のため賛否両論らしい。しかしキャラクターデザインと人気声優の起用、そして妙なノリのストーリーが、一部のマニアには受けているようだ。
(確かに、結構ノリはいいんだけど……無意味な殺戮シーンが多いよな、あれ)
 以前付き合わされて見たことがある広人は、そんな感想を持っていた。アニメにあまり興味のない彼は、眼鏡の少年がここまで入れ込む理由がわからなかった。
『みらくるルンルン、ルンルンル〜ン』
 時計のセリフはまだ続いている。
「……る……るん……」
 寝ている少女の唇から、わずかにそんな声が漏れた。
「おっ?」
 どんな小さな声も聞き逃すまいと、少年は耳を澄ませる。
「る、ん…………って、だああああああっ!」
 突然少女は大声を上げ、ガバッと起き上がった。そして怒りの形相で毛布を時計に向かって投げ付ける。
 時計は毛布にくるまれてベッドの下に落ちた。
「うわああああっ! 俺のルンルンちゃん目覚ましがああっ!」
 慌てて部屋の中へと飛び込み、少年は時計に向かってスライディングする。
『みらくるルンルン、ルンルンル〜ン』
「ほっ……」
 まだセリフを言い続けているので、時計は無事のようだ。
「おい、美加! 俺の大事な目覚まし時計に何を……って、あの……その……」
 文句を言おうとした少年だが、彼女の恐ろしい視線に気付き、最後まで口にできなかった。
「……鉄兄ぃ……ま〜た勝手にあたしの部屋に入って、変なことしたな……」
 地の底から沸いてくるような声で、ゆっくりと少女は近付いてくる。
 その少女の名は、竹内美加。ショートカットの髪型で、目はパッチリしており、なかなか可愛らしい顔をしている。背は平均的だが、今後の成長を見越して、やや大きめの青いパジャマを着ていた。
(うむ。俺の妹は今日も可愛いぞ)
彼女を見てそう思う鉄男だが、はっきり言って今はそれどころではなかった。何とかして、ごまかさなくてはならない。
「え、えーと、ほら何だ。まあ若いうちは色々あるわけだし、兄貴としては妹の面倒を見ないといけないわけだし……」
 顔をひきつらせながら、眼鏡の少年こと鉄兄貴は、わけのわからない言い訳をした。もちろん、それで彼女が納得できるわけはない。
「……この……、バカ鉄ーーーーーっ!!」
 ボグウッ!
 美加の下から突き上げるような拳が、容赦なく彼の腹にめり込んだ。
「ぐはあっ!」
 こいつは効いたぜ! と鉄はよろめきながらは思った。
 しかし、美加のパンチはそれで終わりではなかった。
 全く同じ箇所に、続けてラッシュ! ラッシュ! ラッシュ!
 ドスドスドスドスッ!
「ぐおおおおおっ……!」
 衝撃でプラスチック製の眼鏡が飛び、そして廊下に落ちた。
「……ふっ……美加よ……。今日のはいいパンチだったぜ……」
 そんな捨てセリフと共に、続いて鉄の体も落ちた。それでも手にした時計を離さなかったのは、彼の執念か。
『みらくるルンルン、ルンルンル〜ン』
 時計はまだセリフを言っている。
「…………」
 美加は無言でその時計のスイッチを切った。
「……だ、大丈夫かな……鉄男くん……」
 心配そうに彼の顔をのぞき込む広人。
「ぜーんぜん平気ですから気にしないで。それより」
 と美加は彼の袖を引っ張り、自分の方へと向かせる。
「おはよう、広人さん」
 先程の、鉄男への悪魔のような仕打ちとは打って変わって、彼女は天使のような笑顔を見せた。少女漫画のように、バックに花でもあれば絵になりそうだ。
「う、うん。おはよう、美加ちゃん」
 広人も笑顔で返す。
「ごめんね、いつも鉄兄ぃのしょーもない趣味に付き合わせちゃって」
「そんなことないよ。『妹オタク化計画』……だっけ? 僕も結構楽しませてもらってるから」
「……そ、そーですか……」
しかし、それはそれで非常に困る。
 『妹オタク化計画』とは、美加の兄である鉄男が最近考案し、実行しているはた迷惑な計画のことだ。鉄男は美少女アニメや美少女ゲーム等をこよなく愛する、世間一般から見れば典型的な、いわゆる“オタク”である。アルバイトをしては、そのお金をゲームやキャラクターグッズに全て注ぎ込むというマニアぶりだ。だがそれぐらいのことなら、美加も大して気にしていなかった。
最初は、自分の好きなアニメを一緒に見ようと誘ってくるだけだった。美加もアニメが嫌いというわけではないので、それに付き合っていたのだが……。ある時期を境に、鉄男の美加を見る目が変化してしまったのである。
 といっても、理由は実にくだらないものだ。何でも、最近のアニメやゲーム業界では『妹キャラ』――つまり主人公である男の子の妹役のキャラクターが、大人気であるらしい。そんな影響からか、鉄男は以前より美加を可愛がるようになり、さらに必要以上に『お兄ちゃん』と呼ばせたがるという病気ぶりを発揮した。しかし美加はそれが嫌になり、お兄ちゃんという呼び方をきっぱりやめた。自然とアニメにも離れていってしまう。
 そんな様子を嘆いた鉄男はある計画を立てた。――そう、『妹オタク化計画』だ。これは妹をおたくにし、こちらの世界の仲間にしてしまおうというものである。これが成功すれば、鉄男の望みである『妹生活』が実現するはずなのだが……今朝のように、ことごとく失敗し続けている。
(根本的にやり方が間違っていると思うんだけど……)
 と美加は思うが、それを教えて自分がオタクになるのも嫌なので、黙っている。
「ま、まあ、こんなおバカな人は放っておいて、早く朝ごはん食べましょうよ。遅刻しちゃいますよ」
「う、うん。でも……」
 ちらり、と広人は、時計を抱いたまま気絶している鉄男を見る。
「鉄兄ぃなら大丈夫です。この人、無駄に丈夫ですから」
「…………」
「……え? な、何ですか?」
 広人を引っ張っていこうとする美加だが、ふと彼の視線が自分に向けられていることに気付いた。
「いや……ただね」
と広人は、ちょっと困ったように首を傾げて言う。
「僕と美加ちゃんが兄妹になって結構立つのに、いまだに敬語を使うのはどうしてなのかなって思って」
「あ……そ、そのことですか。あ、あははは……」
と美加は寝癖の付いた頭を掻きながら、気まずそうに笑った。
「ま、まあ、その……広人さんと鉄兄ぃを同じ扱いにすると、気分が乗らないというか何というか……」
「……気分?」
「ま、まあ、気にしないでください。あまり大した理由じゃないので」
「う、うん……わかったよ。美加ちゃんがそう言うなら」
 少し寂しげだが、広人はそれ以上訊こうとはしなかった。
「えへへ……すみません」
 と愛想笑いでごまかす美加。極めて個人的な理由なので、言うのが恥ずかしいのである。
 その理由とは、自分で言った通りの気分の問題だ。実の兄である鉄男があの通りのオタクなので、義理とはいえ、広人を同じ兄として見ることに抵抗があるのである。それに、あまりベタベタして仲良くするよりも、一歩距離を置いた方が恋愛気分を味わえるのだ。
 ――そう。美加は、義理の兄である広人に恋をしていた。しかも、一目惚れという奴である。
 出会いは、約一年前。美加と鉄男の父親である竹内祐司と、広人の母である三崎祥子が再婚したことがきっかけだった。美加の母親の加奈子は、彼女が物心付く前に病気で死んでしまっている。そのためなのか、普通なら親の再婚には付き物の問題である、子供の反対がなかった。
「まあ、親は親だし」
 というのが、美加と鉄男の共通の意見である。当時十四歳の鉄男はまだしも、八歳児の考えとしては、美加はかなり冷めていた。言いかえれば、少し暗い性格だったのである。
 そんな美加を何とかしようと、鉄男は自分の好きなアニメを見せたりゲームをしたり、外でスポーツをしたりと色々楽しませようとしたが、あまり効果はなかった。彼女が変わったのは、広人と会ってからだ。その容姿と優しさに惹かれた美加は、これが初恋だと理解した。それからは彼に好かるために明るくなろうと努力し、今ではすっかり乱暴者……もとい、元気はつらつ、ちょっぴりアニメオタクな小学生に成長していた。
「ともかく、あたし顔洗って着替えてから行きますから、広人さんは先に食べててください。鉄兄ぃもそろそろ目を覚ますと思いますから」
「うん、わかった。それじゃ、先に行ってるね」
 広人は手を振り、廊下を通って階段下に下りていく。
「んー……さて、と。着替えようかな」
 手を組んで背中を伸ばしてから、美加は部屋に戻ろうとする。が、ふと廊下に転がっている鉄男の姿が目に付いた。 
「……鉄兄ぃも、いつまでも寝たふりしてないでよね」
 そう言って、鳩尾に軽く蹴りを一発食らわす。
「げふっ」
 と呻く鉄男。
 しかし美加は気にせず、バンと力強くドアを閉めてしまった。
「み、美加……」
 倒れたまま、鉄男はぷるぷると手を震わせて、彼女の部屋へと手を伸ばす。
「お前のパンチ、ほ、本気で痛かったんですけど……」
しかし、その呟きは美加には届いていなかった。

「ふああ〜……」
美加は自室の鏡の前で髪をとかしながら、大きな欠伸をした。
「……ああ、眠り過ぎたかな……。だるいよ……」
そう呟いて、ぐりぐりと首を回す。
 このだるさの原因は、一昨日の夜にある。翌日が始業式だというのに、鉄男の十二時間耐久アニメ鑑賞に付き合わされてしまい、徹夜したせいなのだ。まあ、途中で寝てしまえばよかったのだが、意外と面白かったため、ついついシリーズ全二十六話を最後まで見てしまったのである。おかげで、始業式を終えて帰ってから今日の朝まで、ずっと寝るはめになってしまった。鉄男の方は慣れているのか、元気だったが……。
「あ、そうそう。時間割り時間割り……」
 今日からさっそく授業だというのに、用意していなかった。髪をとかし終えると、教科書をランドセルに入れていく。
「う〜ん、新しい教科書はいいなあ……って、見てる場合じゃないや」
 下の階で広人が待っているのである。
「次は着替え着替え……って、うわっ、用意してない……」
 昨日は部屋に入った途端パジャマに着替えて眠ったので、服は脱ぎ散らかしたままだ。
「……ま、いいか。別に汚してないし」
 美加は昨日と同じブラウスとキュロットスカートに着替えた。同じ服を続けて着ていくのはあまりイメージがよくないが、新しく用意している時間がないので仕方がない。といっても、美加はほとんど似たような服しか持っていないので、新しく用意してもあまり代わり映えはしないのだが。
「ともかく、準備完了っと。うんうん、今日もあたしは可愛いぞ」
 そう言って、美加は鏡の前でポーズを決めた。
「とうっ! 魔法少女美加、参上! ……な〜んちゃって。てへっ」
 一人でやって、一人で照れ笑いをする。が、ふと視線を感じ、後ろを振り返った。
「じーっ」
 そこには、そんな声を出しながら、ドアの隙間から中を覗く鉄男の姿があった。確かに閉めたはずなのに、いつの間にドアを開けたのか。目が合うと、彼はにやりと笑う。
「なっ……!」
 ということはまさか、今のポーズから着替えまで見られていたのだろうか。
恥ずかしさがこみ上げてきた彼女は、兄に向かってダッシュをかけた。
「何、覗いてんのよーーーーーっ!」
 ドゴォォーーーーンッ!
 美加のドロップキックが見事に決まった。
「ぐわああーーーーっ!」
 鉄男は吹き飛び、壁に激突する。そしてそのまま崩れ落ち、彼は今度こそ気絶した。
「ったく、しょーもない兄貴……」
 大きなため息を付いてから、美加はランドセルを持って下の階に下りていった。

 居間に入ると、テレビから流れるニュースの音と、みそ汁のいい香りがした。テーブルには父の祐司と広人が付いており、既に食事を始めている。ご飯にみそ汁、焼き魚にサラダといった、ごく一般的な和風の食事である。
「やあ、美加ちゃん。今日も可愛い服だね」
 にっこり笑って広人が言う。昨日と同じ格好だとは気付いていないようだ。
「えへへ……どうも」
美加としては複雑だが、とりあえずお礼を言っておく。
「あー、あー」
「ん?」
ちらちらとこちらを見ながら、変な声を上げているのは父親の祐司だ。テレビと新聞を同時に見ながらお茶をすするという、器用なことをしている。どうやら娘の挨拶を待っているらしい。
「おはよー、パパりん」
「ぶはあっ! ……げふっげふっ! ごほっ!」
 挨拶をしてあげたというのに、祐司は激しくむせた。
「……大丈夫?」
と広人の隣に座りながら訊ねる。
「あ、ああ……。それより美加。パパりんはやめなさい、パパりんは」
 ちり紙で眼鏡を拭いてかけ直しながら、ワイシャツ姿の祐司は言った。多少白髪が混ざってきたが気だけは若い、四十五歳の父親は、娘に貫禄を見せたいのである。しかし美加の方は、元々そんなことは期待していない。
「ちょっとしたお茶目なのに……パパりん」
「……ごほんっ。それより、さっき上ですごい音がしたようだが?」
「ああ……いつものことだから、気にしないで」
「……そうか。いつものことか」
 祐司は頷き、新聞に目を戻した。それだけで意味が通じている。
「仲がいいのは結構だが、家は壊すなよ。まだローンが残ってるんだからな」
「あのね……。あたしを何だと思ってるわけ?」
「まあまあ、美加ちゃん。元気なのはとってもいいことよ」
そう言って、慰めているつもりで出てきたのは、美加の義理の母、祥子だ。髪はソバージュで、小柄な体型、化粧をしなくても実年齢より若く見える三十八歳である。
「それに、兄妹愛って言うのかしら? 鉄くんはあなたが可愛くて仕方ないのよ」
 美加の前に食事を置きながら、うらやましそうに言う。
「兄妹愛はともかく……。その可愛がり方に問題があると思うんですけど……」
 美加は小さなため息を付いた。
「ま、それはおいといて……。とりあえず、いただきまーす。ごくっごくっ」
手を合わせ、コップに注がれた牛乳を一気に飲み干す。彼女の朝の一口は、これでないと始まらない。
「……ぷはっ。やっぱ、朝一番は牛乳に限るわっ」
「相変わらずいい飲みっぷりだね」
と広人。とりあえず、彼は何でもほめる。
「それより、鉄男くんを呼んでこなくて大丈夫かな?」
「ああ、平気ですよ。あと五分もすれば起きてくるはずです」
「……そう? 昨日は十分くらい来なかったけど」
「今日は手加減したんです」
 きっぱり言ってみそ汁を飲む美加に、広人は苦笑いを返すしかなかった。
「あ、ははは……そうなんだ……」
「ええ。あたしも優しいですよね、いつもあんな目に合わされてるっていうのに」
「う、うん……」
 広人はそれ以上の言葉が見付からず、とりあえず食事を進めることにした。
『こちら、現場です! こちら、現場です!』
「……ん?」
 ふと、慌ただしい報道の声に、一同の目はテレビへと向けられる。そして思わず「うわっ」と声を上げた。
 そこには、東京のとあるビル街が映し出されていた。しかし、そこにあるビルは半壊、アスファルトの道路はグシャグシャに砕け、そこかしこに飛び散った血の跡が見える。
 まさに惨劇、といった言葉が相応しい状況であった。
「これはひどい……」
「一体何が……」
 祐司と広人が顔をしかめてテレビに注目する。
「昨日の昼間に起きたらしいわよ」
 と祥子が言った。
「え?」
 二人が振り返る。
「夕方にニュースでやってたわ」
「そ、そうなのか」
 この家では、基本的に祥子以外は朝しかニュースを見ないのである。ちなみに今朝の新聞にも報道されているのだが、祐司は朝はテレビ欄しかチェックせず、ニュース欄は仕事を終えてから読むのだ。何故なら彼は大のドラマ好きであり、番組をチェックする時間しかないからなのだが……これでは娘に貫禄を見せるのは難しいだろう。
そんな会話をしているうちに、テレビでは新人女性アナウンサー小宮典子が、現場をバックにレポートを読み上げる場面になっていた。童顔でおかっぱ頭の彼女は、初登場のときに「私、胸が小さくて気にしてるんですよー。てへへ」などどいきなり問題発言しており、最近話題のアナウンサーである。多少問題はあるものの、元気で明るいところが若者だけでなく、お年寄りにも支持を受けているようだ。
『えー、現場にいた人の証言によりますと、何でも言い争っていた二人の男性のうちの一人が突然、特撮番組で使われるような姿に変わ……り……? って、これ本当なんですか?』
 思わず素っ頓狂な声を上げ、カメラの外のスタッフに訊ねる小宮。時々生放送だということを忘れるドジなところが新人らしく、また彼女の人気のひとつでもある。もちろん、後で怒られるのであろうが。
『……あっ、し、失礼しましたっ。そして変身した男性がもう一人に襲いかかろうとしたところへ……現れたそうです!  エンジェルユーニィと名乗る魔法少女が!』
小宮はカメラに近付き、力説する。
『これで今月は二度目! 今年の一月に最初に現れてから、丁度十回目です! 高校生くらいらしい彼女は、今回も不思議な力でビル街を破壊したそうですが……その方法は全く不明のままです。仮に爆弾だとしても、音が一切なかったことを考えると可能性は低いそうです。一体彼女の目的は何なのでしょう? 変身した男性の方も爆発に巻き込まれ重傷を負っており、現在病院で治療中とのこと。意識を取り戻し次第事情聴取を行うそうです』
そこで小宮は一旦区切り、ぐっと拳を握りしめる。
『……こうなったら、早いところ彼女の映像が欲しいところですねっ! 全国のみなさんっ、出歩くときはカメラを持ち歩いた方がいいかもしれませんよっ! ではっ!』
 と彼女が手を振ったところで映像が切り替わり、続いて様々な専門家たちによる、謎の少女についての議論と検証が始まった。
「今日も元気だねー、小宮ちゃん」
 ご飯をかみながら、美加は言う。
「元気なのはともかく……あんな調子で、いつ番組降ろされないか心配だよ」
と苦笑いの広人。
「大丈夫ですよ、小宮ちゃんは人気ありますから」
「だといいけど……」
「ああ、なるほど……」
 先程のニュースが気になったのか、珍しく祐司は朝にニュース欄を見た。
「例の魔法少女のこと、新聞にも載ってるな」
 第一面に大きく見出しが出ている。ここまで大きく掲載されていれば普通は気付くものだが、彼はテレビ欄以外は目に入らないのだ。
「しかし音もなくビル街を爆破させるなんて、どういう仕掛けなんだろうな?」
「ふっふっふっ……仕掛けなんてないぜ、父さん!」
 不敵に笑いながら居間に現れたのは、もちろん鉄男だった。予想より早い復活である。
「何故なら……魔法少女は実在するからだ!」
「…………早くご飯を食べないと遅刻するぞ、鉄男」
 祐司は新聞を読むのをやめ、ずずっとみそ汁を飲んだ。
 当然のことながら、祐司を含む大多数の人間は、魔法の存在などは信じていないのである。
「……なあ、美加。お前は信じてるよな? なー?」
「べ、別に……」
美加は一瞬口ごもりながらも、そう答えてご飯を食べ続ける。
「そうかそうか。うんうん」
 鉄男はわかってるというように、ポンポンと肩を叩いた。小学四年になっても魔法を信じているのが、恥ずかしいのだろうと勝手に理解する。
「…………」
 しかし美加にしてみれば、それは大きな勘違いなのだが――わざわざ説明する必要もないので、放っておくことにした。
「あーあ、やれやれ」
 鉄男は肩をすくめ、大きくため息を付いた。
「ったく、みんな夢がないんだから……」
「現実的だと言わんか。お前も高校二年になったんだから、いつまでも夢みたいなことばかり言っていないでだな……」
「あー、あー、それより美加。それ、昨日と同じ服じゃないか。いけないな、女の子がそんなことじゃ」
 祐司の言葉を遮り、鉄男は美加に話しかける。
「…………」
無視された祐司は黙って箸を置き、トイレへと向かった。
いつものことなので祥子も何も言わず、笑みを浮かべながら自分の食事を始める。
「べ、別にいいでしょっ。鉄兄ぃのせいで、用意する時間がなかったのっ」
 怒りながら、美加はご飯を口に詰め込んでいく。
(う〜ん……昨日と同じ服だったのか。気付かなかった……)
 広人は改めて隣の少女の服装を見てみる。すると、確かに昨日見たような覚えがあった。
(本当に可愛かったから可愛いってほめたんだけど……適当に言ってると思われたかも……)
少しだけ罪悪感が生まれる。今度からよく見てからほめることにしよう、と彼は心の中で決めた。
「ふっふっふっ……感謝しろ、美加。そんなずぼらな妹のために、優しい兄は服を用意してやったぞ」
 そう言って、鉄男は手にしたビニール袋を彼女に差し出した。
「ずぼらって……」
 勝手なことばかり言う兄に呆れながらも、一応中身を確かめることにした。
「こ、これは……!」
それを見て、美加は目を見開く。フリルのたくさん付いた白いエプロンとその紺の洋服は、いわゆるメイド服であった。
「それは昨日バイト代をはたいて買った、みらくるルンルンちゃんのメイド服バージョンの衣装だ。どうだ? 気に入っただろう?」
 自信満々に胸を張る鉄男。
 しかし。
「こんなもん着て学校に行けるかーーーっ!」
 バシッ。
 メイド服は投げ捨てられた。
「ぐわあああっ! な、何をするっ!」
 慌てて拾う鉄男。
「四年になってもおしゃれに気を使おうとしない妹のために、わざわざ服を用意してやった、この兄の心遣いがわからんのかっ!」
「わかるかっ! 大体、メイド服のどこがおしゃれなのよ! 鉄兄ぃの趣味でしょ!」
「うぐっ……」
 図星を指され、鉄男は一瞬口ごもる。
「ふ、ふん……。そういうお前だって、この間のイベントでは喜んで着ていたじゃないか」
「うっ。そ、それは……」
確かに、あのときは鉄男に連れられて行ったイベントでコスプレをし、写真を取られたりしながらはしゃいでいた覚えがある。
「で、でもあれはイベントだからであって、普段着として着ていく人はいないでしょ?」
「むむっ……」
唸る鉄男。理屈では美加の方が正しい。正しいが、しかし――。
 ちらり、と鉄男は広人へ視線を向けた。
 その視線に気付いた広人は小さく頷き、そして言う。
「美加ちゃん、僕はその服、とっても可愛いと思うな。美加ちゃんが着ればきっと似合うと思うよ」
「えっ……?」
 振り返り、美加は彼の笑顔に思わずドキッとする。
「それに、エプロンだけ取れば普段着としておかしくないから、大丈夫だよ」
「そ、そうですか?」
 ほめられて、自然とにやける美加。
冷静に考えれば、例えエプロンを取ってもそれはメイド服であり、普段着としてはおかしいのだが、今の彼女は気付いていなかった。
「僕も見たいな。美加ちゃんがその服を着たところ」
ちなみに、広人は本心で似合うと思っている。
「あ、あたし着てきますっ!」
 美加は鉄男の手からメイド服を引ったくると、自分の部屋へと駆け込んで行った。
「……ナイスだぜ、広人」
 鉄男はにやりと笑い、彼にVサインを送った。
「まあ、僕も見てみたかったしね」
「よし、カメラだ! カメラを用意しよう! 美加が浮かれているうちに、一杯撮りまくるんだ!」
言うが早いか、鉄男はダーッと駆けていく。もちろん部屋にあるカメラを取りに行ったのだ。
 こうして、居間には広人と祥子だけが残った。
「元気な兄妹よねえ……」
 ぽつりと祥子が呟く。
「うん。でもにぎやかでいいよ」
 と広人。祥子が再婚する前は二人きりで、いつもしんとした静かな生活だった。それが今では毎日がこんな調子だ。大幅な環境変化に、最初は戸惑ったものの、もうすっかり慣れてしまった。逆に、この状況を楽しめるようになっている。
「再婚して良かったね、母さん」
「……ありがと、広人」

 パシャッ、パシャパシャッ。
 数分後。
 居間の白い壁を背にして立つ美加に、フラッシュがたかれていた。
「よーし、いいぞ。それじゃ、くるりと回ってー」
「はーい」
 鉄男の指示で、美加はゆっくりと回転した。
「お、いいねー。そのスカートの広がり具合」
「可愛いよ、美加ちゃん」
付き合いで、広人も鉄男のカメラを借りて撮影する。
「でへへー」
 美加はにやけっぱなしだ。最初は嫌がっていた彼女だが、着てみると案外気に入ったらしく、現在エプロンを付けての撮影会になっている。
「なっ……」
 トイレから帰って来た祐司は、居間に入った途端、その光景を見て呆然と立ち尽くした。
「何なんだ、これは一体……」
「あら、お帰りなさい祐司さん」
 一人テーブルに付き、祥子はのんびりとお茶を飲んでいる。
「あ、ああ。ただいま……って、いや、それよりこれは……」
「美加ちゃんの撮影会みたいね。ほら、美加ちゃん着替えてるでしょ」
「ほ、本当だ……」
 トイレに行っていた数分の間に、一体何があって食事から撮影会になってしまったのだろう。祐司にはさっぱりわからなかった。
「と、止めなくていいのか……?」
 ちらりと時計を見て言う。今日は休みでも何でもなかったはずだ。
「大丈夫よ。そろそろ気が付く頃だから」
「……呑気だな」
「おほほ」
とわざとらしく笑って、祥子は二杯目のお茶を飲み始めた。
「美加、今度はスカートを軽く持ち上げてポーズだ」
「はーい」
「可愛いよ、美加ちゃん」
 鉄男の指示で三人の撮影会は進んでいく。いつの間にか、広人も夢中でシャッターを押していた。はまれば抜けられない世界に、彼もまた足を踏み入れかけている。
 しかし、そんな彼らの撮影会は、ふいに響いた甲高い音によって中断させられた。
 プッ、プッ、プッ、ポーン。
 テレビの時報である。
「…………はっ」
 一瞬固まった後、三人は我に返った。
「う、嘘! もう八時!?」
「しまった! 俺、まだご飯食べていないぞ!」
「でももう出ないと遅刻だよ、鉄男くん」
「くそー、つい夢中になりすぎた」
「ああ、待ち合わせに遅れちゃう!」
 制服の上着と鞄を取るために、彼らは慌てて部屋に向かう。
 鉄男と広人は同じ高校に通っており、自転車で三十分ほどかかる距離にある。美加は小学校まで歩いて十五分ほどだが、いつも早めに友達と待ち合わせていた。そういうわけで、八時に家を出ないと間に合わないのである。
「とととととっ!」
 ドドドドドドッ!
 鉄男を先頭に、転がるように階段を駆け下りる三人。そして玄関で一斉に靴を履く。
「い、いってきまーす」
「あ、ちょっと待って美加ちゃん。エプロンくらいは外してから行かないと」
「……え? あっ、そうだった!」
 メイド服のままランドセルを背負ってきた美加は、急いでエプロンを外す。
「ありがとうございます、広人さん。もう少しで恥ずかしい思いをするところでした」
「いやいや」
 と首を振る広人。おそらく、例えエプロンを外しても、その服は後から恥ずかしくなってくるのだろうな、とは思っても口には出さないでおく。
「ちっ……気付かせなければ面白かったのに……」
舌打ちする鉄男。そんな彼を、美加は鼻で笑う。
「ふっふーん、残念でしたー」
「……ま、今回はメイド服姿を撮れただけでもよしとするか」
「うっ……」
 そうだった。ついつい調子に乗ってポーズを決めてしまったことを、美加は反省する。
(もうやらないぞ。絶対やらないぞ。あたしまでオタクになるわけにはいかないんだから!)
兄妹そろってアニメオタクと見られるのだけは嫌だった。しかし、広人に言われたら断りきれる自信がないな……と心の中で思っていることは秘密である。
 ともかく、いつまでも玄関で話し込んでいるわけにはいかないので、三人は外へと出た。
「いってきまーす」
 バタン、とドアが閉められ、鉄男と広人は自転車で、美加は歩いて出かけていく。
「うーむ……、いつものことながら、騒がしかったな……」
 ふう、と一息ついて、祐司は椅子に腰掛けた。
「しかし美加の奴、よくあんな格好で出ていったな……」
 いつもスカートは嫌がるのに、と呟く。
「コスプレなら平気なのよ」
と祥子。
「あの格好のときは、自分に酔ってるから」
「コスプレ、ねえ……」
 鉄男の影響で、この家族にはオタク用語も日常会話として通じている。
「……私もコスプレしてみようかしら?」
「なにいいいいっ!?」
ぽつりともらした祥子の一言に、祐司は思わず立ち上がって叫んだ。
「……や、やあね、冗談よ。冗談なんだから、そんなに声を上げないでよ」
「そ、そうか。冗談か。ははっはっはっ」
 乾いた笑いを上げる祐司。彼女の言うことは、時々冗談に思えないので恐かった。
「それより、そんなにのんびりしていていいの?」
「そ、そうだな。ワシもそろそろ出ないとな」
 席を立ち、着替えるために部屋に向かう。祐司の仕事場は車で行けばすぐの距離にあるので、この時間に出ても間に合うのである。
「じゃあ、行って来る」
「いってらっしゃーい」
 車に乗り込む祐司を、祥子は玄関先で見送った。
「……さーて。そろそろ洗濯でもしますか」
うーん、と伸びをして、彼女は家の中へ入っていく。
 こうして竹内家の平和……だと思われる朝は過ぎていくのだった。

  その二 「藤原沙世」

「う〜ん……」
 しまったな、と歩きながら美加は思った。そして、やはり着替えてくるべきだったと後悔する。
「あたし、やっぱりスカート苦手だな」
 着慣れないせいもある。が、やはりスカートだとパンツが見えないように気を使わなければいけないため、いつものように走り回ることができないのだ。
「それに、何だかじろじろ見られているような気がするし……」
 美加が今歩いているこの通学路には、同じように学校へ向かう児童が何人もいる。そして、その児童たちは大抵が同じ時間帯に登校するため、名前は知らなくても顔を覚えているという場合が多々発生する。だから美加のことを見慣れている者がいれば、今日の意外な格好に注目してしまうのだろう。
「はあ……。この乗りやすい性格、自分でも何とかしたいわ……」
 いくら広人に言われたとはいえ、ついついコスプレをしてしまう自分に対し、深いため息を付く。このままでは、鉄男の思い通りに事が運んでいきそうな気がする。
「美加ちゃん」
「あ……沙世ちゃん」
 通学路にある小さな公園の入り口前。そろそろ満開かという桜の木の下で、待ち合わせていた少女――藤原沙世はにこやかに手を振っていた。
(ああ……今日も綺麗だな)
彼女を見て、美加はごく自然にそう思った。
風にたなびくストレートのロングヘアー。すらりとした細身の体型で、目鼻立ちのはっきりした美人顔。タレントとしても十分過ぎる程通用する容姿である。しかし服装の方はいつもやや地味で、今日は無地のジャンパースカートの上に、カーディガンを羽織っている。本人曰く、派手な服装は嫌いらしいが、それでも通り過ぎる人は皆彼女を振り返っていく。実際、スカウトされたことも数え切れない程あり、また一目惚れする男子も後を絶たない。
(……でも、ま、性格はあまりよくないんだけどね)
 そのせいか、彼女の友達は美加一人だけである。
「おはよー、沙世ちゃん」
「おはよう、美加ちゃん」
近くに来ると、二人はいつもの挨拶を交わした。そして、手を振ったまま、互いの動きが止まる。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合う二人。沙世の視線が、上から下へ、そしてまた上へと、ゆっくりと美加の体を移動した。
「……え、え〜と……」
視線に押され、美加は一歩後ずさった。気まずい上に、何だか嫌な予感がする。
「……今日の美加ちゃんの格好……」
呟き、ずいっと詰め寄る沙世。
「うっ……な、何かな……?」
「とっても……可愛い!」
 両手を広げ、がばっと思い切り抱きしめた。
「ひええっ!」
予想していたとはいえ、力一杯抱きしめられてはちょっと苦しい。
「ああっ、もう、どうして今日はそんな可愛い格好してるの!? 美加ちゃん、可愛すぎるっ!」
ぎゅぎゅぎゅーっ。
 見た目は華奢な沙世だが、実はかなりのパワーの持ち主だった。
「あ……あの……く、苦し……」
 ちょっとどころではなく、かなり苦しくなってきた。しかし、沙世の方は興奮して気付いておらず、抱きついたままうっとりとしている。
「美加ちゃーん……」
「すっ、ストップ、ストーップ!」
 危険を感じた美加は、ドンドンと彼女の背中を叩いた。それでようやく沙世は我に返る。
「はっ……ご、ごめんなさい、美加ちゃん。わたし、つい……」
「ま、まあ、いつものことだからいいけどね……ぜえぜえ」
ようやく解放された美加は、締められた箇所をさすりながら、呼吸を整えた。
「本当にごめんね。今日の美加ちゃんがあんまり可愛いから……」
「も、もういいって。でもいきなり抱きつくのだけはやめてほしいかな……」
「うん……。気を付ける」
にこっと微笑む沙世。
 こうして見ると、いきなり女の子に抱きつくようには見えないが、あれが彼女の癖なのだ。美加はこんなメイド服で出てきたときに注意すべきだったと反省する。
 というのも、沙世は無類の可愛い物好きだからである。小動物やぬいぐるみ等、世間一般的に「可愛い」と呼ばれる大抵のものはそうだ。――ただし。少しでもその可愛いものの範疇に含まれないもの、彼女が「醜い」と判断したものは、例え何だろうと虫けら以下に扱われる。先程美加が、性格がよくないと言ったのはこの部分である。
 美加としては、自分をそんなに可愛いとは思っていないのだが(でも平均以上だとは思っている)、沙世にとってはかなり好みだったらしい。そのため、友達付き合いを始めて以来、時々こうして抱きついてくるのだ。
「でも……どうしたの? いつも男の子っぽい服なのに、急にそんな格好してきて」
 二人並んで歩き出しながら、沙世が訊ねた。
「ま、まあ……色々あってね。色々と……」
 遠い目をしながら、ポリポリと頭を掻く美加。
「ふ〜ん……」
 言いたくなさそうなので、沙世もそれ以上は訊かないでおく。
「まあ、わたしは美加ちゃんの可愛い格好が見られたから、それでいいんだけどね」
「そ、そう……」
 別に沙世を満足させるために着てきたわけではないが、彼女がご機嫌なのでとりあえず、よしとしておく。……よしとしておきたいのだが。
(やっぱり、目立つな……)
 歩いていると、周囲の視線がかなり気になるのである。
 ただでさえ目立っていたのに、何もしなくても目立つ沙世と一緒になるとますます注目されてしまうのだ。
(しょーがないか……。自分のせいでもあるし……)
 トホホ、と心の中で呟きながら、美加は沙世と共に登校したのだった。

 同時刻。
 仲良く登校する美加を見つめ続ける、ひとつの視線があった。しかし、その視線はかなり離れた位置からのものであり、誰もその気配に気付くことはない。
「見付けたぞ……」
呟いて、その男は小さな笑みを浮かべる。春だというのに黒いマントを羽織った細身のその人物は、美加のいた公園から、実に一キロは離れたマンションの屋上にいた。もちろん、そんな距離のものを普通の人間が見られるはずがないが、彼の持つ特殊能力を使えば簡単ことだ。
(しかし……ああ人が多くては接触はできんな……。一人になるときを待つか)
 男は別の特殊能力を使うことにした。
 それは、一瞬の出来事だ。
ぶわっ。
 男の体が細かい粒となり、一気に霧散する。しかし、消えたわけではない。体を粒子に変えることで、姿を見えなくしたのだ。
 他人の目や、何より敵である神に見付からないための変化である。とはいえ、実際神に対しては魔力を感知される恐れの方が強いが、今の彼の状態ではその危険もまずないはずだ。先程美加を見ていたときに姿を現していたように、今の彼は同時に複数の能力を使えない程魔力が弱く、また現在使っている能力もそれほど強い魔力を必要としないのである。
だが、こんな状態ももう長くはないだろうことを、彼は予想していた。何しろ、闇の世界の王が直々にやってきたのだから。
(待っていろ……。今日、お前は望みである魔法少女になれるのだ)
 こうして、魔王カナルは美加の向かう先――小学校へと進入したのだった。

「それにしても」
 と玄関で靴を履き替えながら、沙世は言った。
「こうしてまた美加ちゃんと同じクラスになれるなんて……わたし、本当に嬉しい」
この小学校では一学年四クラスで、毎年クラス替えを行っているのである。ちなみに、二人は三年生からの付き合いだ。
「そ、そう……? よかったね」
「…………?」
苦笑いの美加に、沙世は首を傾げる。
「……もしかして、美加ちゃんはあまり嬉しくないのかな?」
「え? そ、そんなことないよ。親友と同じクラスになれたんだから、嬉しいに決まってるじゃない」
「親友……!」
 きらり、と沙世の瞳が輝いた。
(あ、やば……)
 思わず言ってしまった言葉に後悔するが、既に後の祭りだった。
「そうね、わたしたちは親友……。未来永劫、例え肉体が離れても心は一緒よ!」
 ぎゅぎゅぎゅぎゅーっ。
 感激した沙世は、美加を力強く抱きしめた。
「い、いやっ、とりあえず今は離れてほしいんだけど……って、沙世ちゃん! ロープロープ!」
 叫びながら手足をばたつかせる美加。しかし、沙世はプロレスのルールを知らなかった。
「美加ちゃん……可愛い」
「ギブアップ! ギブアップだってば! 沙世ちゃん!」
「あ……ご、ごめんなさい。わたしったらまた……」
沙世は慌てて手を離し、恥ずかしそうに頬を染める。
「ぜ、ぜーぜー……」
ようやく解放された美加は、荒い呼吸を整えた。
(な、何で朝からこんなダメージ受けなきゃいけないのよ……)
早くも美加のストレスが溜まり始めていた。確かに自分のことをこれだけ思ってもらえるのは嬉しいことだが、少し行き過ぎている。困った親友もいたものだ。
「……と、ともかく、早く教室に入ろ。新学期二日目で今日からさっそく授業なんだし」
「そ、そうね。美加ちゃん」
二人は自分たちの教室である四年一組に向かった。しかし、そこに着くまでの短い距離の間にも、二人は注目の的だった。理由は前にも説明した通りである。
(やっぱり恥ずかしいな……。教室に入ったら何て言われるか……)
 美加は大きくため息を付く。するとそんな彼女の心情を悟ったのか、沙世が耳元で囁いた。
「大丈夫。今日の美加ちゃんの格好は少しもおかしくなんてないから」
「う、うん……。ありがと」
 果たして、彼女以外にそう言ってくれる者が何人いることやら。
 そして、二人は教室に入った。さすがに新学期二日目だけあって早めに登校している児童が多く、既に半分近い席が埋まっている。
「おはよー」
 美加が挨拶すると、何人かの女子が挨拶を返してくれた。
「あ、おはよー竹内さん」
「へぇー。今日は随分可愛い格好してるね」
「そ、そう? 変じゃないかなぁ……?」
照れ笑いの美加。
「そんなことないよ、ねえ?」
「うん、似合う似合うー」
 昨日少し話しただけの田中由美と中西恵子が、口々に褒めてくれた。
 美加にしては、予想外の反応である。
「ほら、わたしが言った通り、おかしくないんだよ」
「う、うん……」
 沙世の言葉に頷く美加。
 だが、いい雰囲気はそこまでだった。
「あーっ! お前、何だその服!」
 指をさしてやってきたのは、やや太めの体型をした、いかにも生意気そうな男子だった。大川久典という名で、美加とは今年初めて同じクラスになる。
「ひょっとしてメイド服か? 『メイドさん大王』のマネだろう? へっへー、誰に奉仕するんだよ?」
「『メイドさん大王』……? ああ……もしかして」
「昨日から始まった新しいドラマ? ちょっとデザインが違うけど、ふ〜ん……これもメイド服っていうんだ」
 顔を見合わせ、納得する由美と恵子。
 『メイドさん大王』とは、人気歌手がテーマ曲を歌うと同時にヒロイン役にもなり、大々的に宣伝している話題のコメディー・ドラマである。
 放送時間が午後八時からのため、観ている小学生も多い。なので、例えメイドの真の意味は知らなくても、とりあえず、主人に仕えるものらしいということはわかっているのだ。
「そんなヒラヒラした服、藤原ならともかく、お前みたいなブスには似合わーよ!」
「ちょっと、ひどいよ大川」
「そうだよー」
「だって、本当のことだろ!」
由美と恵子の非難も気にせず、肩をすくめ、馬鹿にしたように言う。しかし彼とて、本心からそう思っているわけではない。
 もちろん人によることではあるが、このぐらいの男子というものは、女子と仲良くすることを恥ずかしいと思っているものなのである。だから本当は可愛いと思っていてもついつい反対のことを口にしてしまうのだ。
 ……そう、実は彼は、以前から美加に気があったのである。しかし大人ならそんな心情も少しは理解できるだろうが、美加も子供である。
(こいつ……むかつく)
 当然悪い印象を与えただけに過ぎなかった。
(やば……言い過ぎたかも……)
 久典自身も言ってしまって後悔しているが、これから彼はさらに後悔することになる。
 何しろ、場所が悪かった。隣には親友の沙世がいたのである。
「大川くん……だったかしら。少し話したいことがあるんだけど、いい?」
 彼の目を見て、笑顔で話しかける沙世。
 その瞬間。
 びくうっ!
教室内の一部で、激しい戦慄が走った。去年、美加と沙世と同じクラスだった児童たちのものである。彼らは必死に、自分たちは何も知らないとばかりに視線を逸らす。
「え……? あ、ああ……いいけど」
 久典はだらしない笑みを浮かべながら頷いた。気があるのは美加の方だが、沙世のような美人に誘われて悪い気はしない。
「それじゃ、ちょっと付いてきてくれる? 他の人には聞かれたくないお話だから」
「わ、わかった」
 ぶっきらぼうに応える久典だが、内心はかなりドキドキしている。
「あ、あの……沙世ちゃん?」
「すぐ戻るから待っててね、美加ちゃん。あと、鞄をお願い」
 ためらいがちに声をかけた美加にランドセルを渡し、沙世は久典を連れてさっさと教室を出ていってしまった。
「あー……行っちゃった」
 こういうときの沙世が何をするのか、美加にはわかっていた。もちろんそれは、久典が期待している愛の告白などではない。
 沙世が彼に声をかけてから教室を出るまでの間、美加は二つの選択の中で葛藤していた。すなわち、沙世を止めるか止めないかだ。
 しかし、あの状態の彼女を止めることは、美加でさえも多大な困難を要する。悪口を言われた後で、そんな苦労をして助けてやろうとは思えない。とはいえ、その程度のことで彼を見捨てるのも大人げないのではないだろうか。
 だが、結局は選択肢を決定できないまま、時間切れになってしまった。こうなれば彼の無事を祈るしかないだろう。
「藤原さん、大川くんと何を話すんだろう?」
「もしかして、愛の告白? でもまさかねえ……。悪いけど大川くんじゃ釣り合わないし」
 由美と恵子が、期待に満ちた顔で楽しそうに話している。
(もしそうなら、あたしも気が楽なんだけど……)
 小さくため息をつきながら、美加は席に着いて教科書を机の中にしまい始めた。

 そして三分後。
 沙世は教室に戻ってきた。ただし、一人で。
「ただいま、美加ちゃん」
「……早かったね」
 視線だけ向けて応える美加。やはり、予想通りの結果になったようである。
「ねえ、藤原さん。大川くんは?」
「何話したの?」
 由美と恵子が気楽に質問する。
「それは言えないけど、でもきっと、二人が期待しているようなことじゃないと思うよ」
何事もなかったかのように、沙世はいつもの笑顔で答えた。
「ありゃりゃ、読まれてたか」
「なーんだ、つまんない」
 二人は顔を見合わせ、苦笑いする。
「それと大川くんは考え事があるらしいから、わたしだけで戻ったの。あ、美加ちゃん鞄ありがとうね」
 自分の机にランドセルが置いてあることを確認し、沙世はお礼を言って席に着く。
(……考え事、ねえ……)
相変わらずうまい言い訳を考えるな、と美加は思う。そして、彼がどうなったかはすぐにわかった。
 朝礼まであと二、三分となったそのとき。
 ピーポーピーポー。
 ふいにサイレンの音が聞こえたかと思うと、どんどんこちらに近付いてきたのである。
「まさか……」
 と思わず声を漏らす美加。そのまさかだった。
 サイレンはこの小学校で止まったのである。
「何だ何だ?」
 児童たちが一斉に教室を飛び出し、廊下の窓から外を確認する。
「救急車だ!」
 という誰かの声が美加の耳に届いた。
「……はあっ……」
 それを聞いた途端、思わず机に突っ伏した。はっきり言って、これは予想外の展開だった。まさか救急車を呼ぶ事態にまでなろうとは。
 ちらりと沙世の方を見ると、救急車にはまるで無関心で、教科書を開いて予習をしている。
(……やっぱ、止めるべきだったかな)
 美加は少し後悔した。さすがに、これはやりすぎだと思う。
「おい、みんな! 大川の奴が大怪我してたぞ!」
 たった今登校してきて、彼の様子を見たらしいクラスメイトの男子が、慌てて駆けてきて叫んだ。
「顔中血だらけで、手足の骨も折れてるみたいだった!」
「ええっ!」
「嘘っ!?」
 児童たちから悲鳴が漏れる。そして、去年沙世と同じクラスだった者たちが、ちらちらと彼女のことを見ていた。犯人として疑っているというより確信しているようだが、しかし沙世は彼らのことなど気に止める様子はない。
「…………」
 ガタッ……。
 ふいに、美加が椅子から立ち上がった。そして周りの視線を気にしつつ沙世の席へ行き、声をひそめて訊ねる。
「……沙世ちゃん……。大川くんに怪我をさせたのは……沙世ちゃんなの……?」
「あら……わたしを疑っているの?」
 沙世は笑みを浮かべたまま訊き返す。
「だ、だって……いつもやってるじゃない」
 そう、彼女はいつもこういうことをしていた。友達付き合いを始めてから、沙世は美加に悪口を言ったり意地悪をしたりした者を痛めつけ、二度とさせないようにしてきたのだ。それだけの力を、彼女は持っていた。もちろん、普段はおとなしい優等生で通っているので、このことを他言しないようにもしている。
 おかげで三年生のときは、美加をいじめようなどという者は現れなくなったが、代わりに沙世以外の友達は作ることができなかった。当然といえば当然である。
 沙世がそんなことをしていると最初に知ったとき、美加は彼女を非難した。しかし、沙世はいつもの笑顔で言ったのだ。
「だって、友達のことを守るのは当然じゃない」
 ……守る? ……何から? ……些細な悪口や意地悪から? ……そんなものは子供にとってコミュニケーションの一環だというのに?
 しかし、そのときの美加は、疑問に思いつつも妙に納得している部分もあった。
(親友が一人いれば、他には友達なんていらないのかも……)
それは、沙世が美加に対して、いつも言っている言葉だった。
「他に友達なんていらない。美加ちゃんだけでいいの」
 その影響だろう。美加もそんな考えになりつつあったが、ある日。
「確かに親友がいるということは素晴らしいことだけど――」
 美加が広人に、沙世という友達がいることを話したとき、彼が言ったのである。
「色々な人と友達になって、人と人との付き合い方を勉強するのも大事じゃないかな」
 ……その通りだと思った。沙世のやり方は良くないことだと、はっきり気が付いた。……しかし、気が付いて半年が過ぎようとしている今も直、美加は沙世を止められないでいる。
「わたしには美加ちゃんだけなの。美加ちゃんだけは、わたしを裏切ったりしないわよね?」
 信用仕切った瞳でそんなことを言われたら、なかなか言い出すことなどできない。
 ――だが。だが今回は、救急車を呼ぶ事態にまでなってしまった。去年のように、沙世を恐れて登校拒否をする者を増やすわけにはいかない。
(今日こそ、はっきり言わないと!)
 何も友達をやめたいわけではない。ただ、もう少し普通の付き合い方をしてほしいのだ。
「さ、沙世ちゃん……」
思い切って言おうとしたそのとき。
「今回は、わたしじゃないわよ」
「…………え?」
 先に答えられてしまい、美加は出鼻をくじかれた。
「大川くん、わたしと話している途中で、足を滑らせて階段から落ちたのよね」
「……………………そ、そうなの?」
「そうよ」
「……ほっ……」
美加は息を吐いた。
少し肩の力が抜ける。
「な、何だ、そうだったんだ。じゃあ、大川くんを助けたのも沙世ちゃんだったんだね」
 その言葉に、沙世から笑みが消えた。
「……どうしてわたしがあんなのを助けないといけないの?」
「えっ……?」
「いつも言ってるでしょ? わたし醜いものは嫌いだって」
「沙世ちゃん……」
 おかしいよ、そんな考え方――。
喉元まで出かかったその言葉は、しかし口から吐き出されることはなかった。
ピーポーピーポー。
 ふいにサイレンが鳴り響く。どうやら久典の収容が終わったようだ。
 救急車が遠ざかっていくと同時に、パンパン、と手を叩きながら、男性教諭が教室に入ってきた。
「はいはい。みなさん、席に着いてください」
 それを合図に、廊下に出ていた児童たちが一斉に戻り始める。
「ほら、美加ちゃん」
「う、うん――」
 言いたいことはあったものの、沙世に促されて席に戻る。
(まいったなあ……またいい損ねた……)
 心の中で大きなため息を付いた。
「えー、みなさん。救急車が来ていたので見た人もいるかもしれませんが、大川久典くんが怪我をしました。かなりの勢いで階段から落ちたらしく、両手足の骨折、さらに鼻や歯を折るなどの重傷です」
 前もって聞いていたとはいえ、さすがに教室内がざわめく。
(重傷、か……)
 美加はうつむいたままだ。
(……本当に、沙世ちゃんがやったんじゃないんだよね……?)
 先程の表情を見た限りでは、少し怪しい感じもする。だが、彼女は美加に対しては嘘を付かないということを信じていたい。
(うん……せめてあたしへの言葉は信じないと……って、あれ? そういえばこの声……)
 いつもの担任の声ではない。顔を上げて確認すると、それは教頭先生だった。
(あれ? 橋口先生はどうしたんだろう?)
 担任の、まだ若い男性教諭のことである。少し頼りないが、優しいので美加は結構気に入っている。
「大川くんはしばらく入院することになりそうなので、みなさんお見舞いに行ってあげてください。……それと、橋口先生なのですが」
 こほんと咳払いしてから、教頭先生は説明した。
「えー。何でも、昨日起きたビル街爆破事件で先生のお父さんが被害にあったらしく、今日は病院で付き添うためお休みだそうです」
「ええっ、先生のお父さんが?」
「そんなっ……」
 教室内はさらにざわめいた。
(ビル街爆破事件……)
 すっかり忘れていたが、今日もニュースで報道されていたあの事件のことだった。
「…………」
 ちらりと沙世を見ると、彼女は完璧に無関心のようだった。いくら世間では大事になっていようと、自分に直接関係なければ、人は無関心でいられるものである。
 例えばこのクラスにしてもそうだ。連日、ニュース番組ではその事件で盛り上がっているというのに、そんな話題は一言も出てこない。……もっとも、ニュースに興味のある小学生というのは少ないだろうが。
(……人って、結構冷たい所あるよね)
 そんなことを思う美加だが、実際彼女も、今朝家族でその話題になっても関心を示さなかったはずである。
 ……いや。しかし、実はそれは違っていた。関心のないふりをしていたのだ。
 自分の憧れである、魔法少女が起こした事件なのだから、興味がないはずがない。ただ、事情があった。
 一つは、この年で本気で魔法少女になりたいと思っているのがばれると恥ずかしいから。 そしてもう一つ。事件を起こした魔法少女の正体を知っているから――。
 この二つの理由により、美加は事件に興味がないように装っていたのである。
(でも……今回はとうとう先生のお父さんが……)
 身近な人間に被害が広がったことで、美加は危機感を覚えていた。しかし彼女の知る魔法少女は、自分の好きな物以外を壊すことなど何とも思わない人物だから、説得しても聞いてもらえるかどうか。
「みなさんもニュースで聞いたことがあると思いますが、この謎の爆破事件は東京近辺で起きることが多いようです。みなさんも十分に気を付けてください」
 そう言って、教頭先生は連絡事項を終えた。
「さて。そんなわけで、今日のこのクラスの授業は私が受け持ちます。さっそく教科書を開いて」
 朝礼から、そのまま授業は開始された。普段と感じが違うので、慣れないながらも皆は授業を受けていく。しかし美加は――。
(ああ……憂鬱だなあ……)
 これからのことを考えると、あまり集中はできなかった。

「くくく……あの娘、なかなか面白いな……」
 一時間目の授業が始まり、人の気配がしなくなった階段の最上階の踊り場。そこに突然霧が集まったかと思うと、一つに固体化し、魔王カナルは姿を現した。小学校の中に、全身黒づくめの男の姿というのは、かなり異様な光景である。
「あの年齢であそこまで非情になれるとは、見所のある奴だ」
 カナルの言うあの娘とは、沙世のことである。彼は見ていたのだ。沙世が久典をここに呼び出してから、何が起きたのかを。

 数分前――。
 次々と児童たちが登校してくる中、沙世は久典を後ろに連れて階段を上っていた。この先には屋上への扉があり、滅多に人が来ることはない。秘密の話には絶好の場所とも言える。
(話なら廊下でもいいのに……こんな人気のない場所へ行くなんて、や、やっぱり告白か? で、でも俺が好きなのは竹内だし……ああっ、でも藤原も美人だし……)
 そんなことを考えながら、久典は緊張気味に付いていった。これから自分がどうなるかも知らずに。
「さて、ここでいいかしら」
 最上階の踊り場で沙世は足を止め、振り返る。長い髪がふわっと流れて、それがますます久典を緊張させた。
「そ、それで、は、話っていうのは何なんだよっ」
 少し口ごもりながらも、ぶっきらぼうに訊ねる。
(ま、まさか。まさかなぁ……)
 彼の心臓はずっとドキドキしていた。
「……うん。実はね」
 沙世は笑顔を浮かべて、彼に一歩近付いた。そして小学生にしては艶っぽい目で見つめてくる。
(お、おいおいおい〜っ! ま、マジなのか!?)
 久典はパニック寸前だった。
 だが。
 すっ、と彼の前に、沙世の右手が伸ばされた。
(え?)
 もちろん、それが何のことだかわからない。しかし、考える暇はなかった。彼女の手の平が久典の口を塞いだかと思うと、そのまま信じられない力で持ち上げられたのである。
「ぐっ!?」
両顎に激痛が走るが、久典にはしばらく何が起きたのかわからなかった。
 下を見ると、そこには相変わらず笑顔の沙世がいる。しかし、彼女から伸ばされた手の先には、間違いなく自分の顔があった。
(こ、これは……?)
 あまりに突然の出来事に、久典はまだ状況を理解できないでいる。
「告白でもされると思った?」
 沙世の言葉に、彼は目を見開いた。心の中を見透かされたようで、かっと全身が熱くなる。
「……図星? ふふ、残念ね。逆よ」
ドスッ!
 沙世の左拳が、久典の腹にめり込んだ。
(うぐっ!)
声も出ないほどの衝撃だった。口を塞がれているせいもあるが、とても小学生の、しかも女子の力とは思えない。
(な、何が起きてるんだ、一体……?)
 激痛に顔をしかめながら、久典は自分を締め上げている者にもう一度目を向ける。こんなことをあの華奢な沙世がしているとは信じられない。確認したかったのだ。
しかし。その彼女の顔を見たとき、久典は背筋に寒気を感じていた。
先程までの笑顔とは一転して、沙世はまるで別人のような冷たい目をしていたのだ。
「わたしね……あなたのこと気に入らないの。理由の一つは……あなたが醜いから」
(み、醜い……?)
 確かに、久典は自分の容姿がそれほど良い方だとは思っていない。しかし、そこまではっきり言われたことはなかった。
「まあ、それだけでこんなことしてたらキリがないけどね。どうせあなたのことなんか視界にも入っていないし」
「…………」
 ひどい。あまりにひどい言われようだった。思わず涙がこぼれそうになる。
「だから、最大の理由はこっち。さっき、美加ちゃんのこと悪く言ったでしょ?」
 まさか、と思った。
「わたし、友達を悪く言う人は絶対に許せないのよ。だからこうして――」
 ぐぐっ、と沙世の手に力がこもる。
 顎の骨がきしむようだった。
「痛めつけて、二度と言えないようにしてあげるの。いい考えでしょ?」
 ぞくっとするほどの冷たい笑みを浮かべる沙世。
(く、くそっ……)
 さっきまでの浮かれ気分は吹き飛び、久典は激しい怒りを感じていた。
(ふ、藤原がこんな奴だったなんて……。絶対、絶対先生に言いつけてやる! それに竹内……は、あいつ、このこと知ってるのか……?)
「……言っておくけど、誰かに話そうとしても無駄よ」
 沙世の左手が、今度は久典の右手をつかんだ。
(くっ――)
 当然振りほどこうとするが、しかし彼の体は彼の命令を聞こうとしなかった。
(う、動かない?)
まるで金縛りにあったようだった。そして次の瞬間。
 ごきっ。
 と骨が鳴った。
「――!」
久典の体が悲鳴を上げる。右腕が間接とは逆のほうに曲がっていた。
「ふー! ふー!」
 鼻で荒い息をする。痛みと恐怖でぽろぽろと涙がこぼれた。
「……痛い? ……苦しい? でもね、まだまだ終わりじゃないのよ」
 しかし言葉とは逆に、ふいに沙世は右手を離した。
(えっ……?)
 何故かはわからないが、逃げ出すチャンスである。が、次に起きたことは、彼をさらに驚愕させた。
(う、う、浮いてる!?)
 金縛りどころの衝撃ではなかった。沙世が手を離しても、久典の足が床に着くことはなかったのである。
(何なんだ! 何なんだ! これは一体……何なんだ!?)
 彼は心の中で絶叫する。久典は宙に浮いたまま、手足を動かすことも、さらに声を出すこともできなくなっていた。
「さっきも言ったけど、誰かに言おうとしても無駄だから」
 浮かんだ彼を見上げたまま、沙世は言った。
「わたしね、不思議な力が使えるの。今あなたに使っているような、手を触れずに物を動かす力。それに――他人の記憶を消す力とかね」
 ぼきっ。
 今度は左腕がおかしな方向へ曲がった。
(――!)
あまりの激痛に、久典の意識は飛びそうになる。
だが、沙世はそれを許さなかった。
 バシッ。
 彼の頬を平手打ちし、強引に目を覚まさせる。
「う、うう……」
 久典は体を痙攣させながら、沙世を見つめた。
(も、もう……もう許してくれ……)
 声には出せないものの、彼の目がそう訴えていた。
「ふふっ」
 沙世は冷たい笑顔のまま言った。
「……やりすぎだと思う? でもね、わたし中途半端は嫌いだから」
 ぐぎっ。
 右足が折れた。
ごぎっ。
 続いて左足も折れる。
 既に久典の意識は朦朧としていたが、気絶することを許されず、ひたすら痛みを味わわされていた。
「……まあ、こんなものかしらね。わたしへの恐怖は十分体に染みついたでしょう」
(……え?)
 どうやら終わりらしいということに、久典はゆっくりと目を向ける。
「あとはあなたの記憶をいじって、今起きたことを忘れてもらうわ。わたしへの恐怖だけを残してね」
 そういうことか、と久典は納得した。いくら痛めつけて脅したとしても、何人も続けていれば誰かが口を割る可能性がある。しかし記憶を消してしまえばそんなことはありえない。去年、沙世のクラスで登校拒否者が続出したという話を聞いたことがあるが、おそらく自分と同じことをされたのだろうとと彼は思った。以前に他の男子たちと、沙世という美人がいることで話題になったこともあるが、その中で理由もわからず彼女を恐れる男子がいたが、そういうことだったのだ。
 しかし、今はそんなことはどうでもよかった。確かに彼女の思い通りに事が運ぶのは面白くないが、それよりも早くこの恐怖から解放されたかった。
「それじゃ、消すからね」
 沙世は久典に手の平を向ける。
 ちくっ、と一瞬針で頭を刺されたような痛みが走った。
「…………」
 前方から白い波がやって来て、頭の中を洗い流したようだった。そして目の前も真っ白になり、ふわりと柔らかいものに包まれたような感覚になる。しかし。
 がくんっ。
 ふいに地に足が着いたかと思うと、急激に落下していくのがわかった。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 悲鳴が階段に響き渡る。
 久典は、落ちていた。沙世が浮かせるのをやめたためだが、彼の両足は自分を支えることができないため、階段から転がり落ちていったのだ。
ようやく止まったとき、彼は歯をぶつけたらしく、口から血を吹き出していた。そして手足をおかしな方向へ曲げたまま、気を失ってしまっている。
「……派手に落ちたわね」
 階段を下りながら、彼の様子を見て沙世は呟く。先程の悲鳴を聞いて、すぐにでも人が集まってくるだろう。
「……さてと。美加ちゃんが待ってるし、早く戻ろうかな」
まるで何事もなかったかのようにいつもの笑顔を浮かべて、沙世は自分の教室へ戻っていったのだった。

 その後、人が続々と集まり、そのうちの何人かが先生を呼びに行き、そして久典が救急車へと運ばれるまで、魔王カナルは様子を見ていたのだった。
「これだけの騒ぎを起こしたというのに、あの娘、顔色一つ変えないとはな……」
 目を閉じ、そのときのことを思い出しながら、カナルは笑いをこぼした。
(――それにあの能力。力は自分ではなく他人を助けるために、が神の信条だというのに……。まったく、おかしな天使もいたものだ)
天使。それは、神によって特別な力を与えられた人間のことを指す。
 当然ながら、魔王であるカナルは、沙世の力の正体に気が付いていた。
(しかし、まさかこんな所に天使がいたとはな。俺の魔力がもう少し強ければ気付かれていたかもしれん)
 できることなら、すぐにでも消しておきたい存在である。だが現状ではそれは無理だ。魔力が回復するまで、放っておくしかない。
「さて、と……」
思わぬ発見をした所で、カナルは神に対抗するための存在、美加を待ち伏せするために、再び体を粒子に変えた。

 キーンコーンカーン。
 授業終了のチャイムが鳴った。
「ふう……ようやく一時間目が終わりか」
 美加はため息をついて、机に突っ伏す。朝の事件のせいで、あまり集中はできなかった。
 それに、今来ているコスプレ用のメイド服。予想に反してこのことについてはあまり言われなかったが、慣れていないせいか、肌触りがかなり気になる。それに、いつもズボンをはいているせいもあるが、スカートだと風通しが良すぎていけない。
(やっぱ、失敗だったな……。それに沙世ちゃんのこと考えると憂鬱だし……)
 などと心の中でぼやいていると。
「美加ちゃ〜ん」
 沙世がにこやかにやってきた。
 まるで菜の花を背景にして駆けているような、そんなさわやかさだ。
「ぎくっ」
「……ぎくっ?」
「い、いや、何でもない何でもない」
 できればもう少し気持ちを整理してから会いたかったが、それはこちらの都合というものだ。
「そ、それでどうしたの? 何の用?」
「うん。えっと……こうしてね」
 沙世はその場に座り込むと、美加の机に肘を乗せて頬杖を付いた。
「……?」
「可愛いメイド姿の美加ちゃんを見つめていようと思って」
「ぐはっ」
 美加は精神的ダメージを受けた。
「い、いやあ……まあ……可愛いって褒められるのは嬉しいんだけどさ。真顔で言われても……」
「だって本気でそう思ってるからね」
 にっこり笑う沙世。
「う、う〜ん……」
 美加は複雑な表情だ。
確かに、沙世が好意を持ってくれるのは嬉しい。しかし彼女のそれは、美加の考える友達の範疇を越えているような気がする。かといって、恋人になりたいというわけでもなさそうなのだ。考え方の違いなのだろうか。
「それより……ねえ、沙世ちゃん」
 周囲の人を気にしながら、美加は一時間目から気にしていた話を切り出した。
「なあに? 美加ちゃん」
「……その、昨日の事件についてなんだけど」
「昨日の事件……? ああ、そのこと」
 それだけで、何を言いたいのか察しが付いたらしい。
「橋口先生のお父さんが怪我したことを気にしてるのね」
「うん……それに他にも大勢が怪我したみたいだし。いくら悪魔のかけらを消すためだからって、ちょっと建物とか壊しすぎだと思う……」
 そう。美加の言うように、近頃起きている謎の建物爆破事件を起こしているのは沙世だった。現場に現れる謎の魔法少女が、彼女なのだ。世界に無数に散らばっているという悪魔のかけらを消すため、神に選ばれた沙世は力を与えられ、エンジェルユーニィに変身しているのである。
 そんな経緯を、美加は友達だからという理由で沙世に説明されていた。憧れていた魔法少女が現実に、しかも沙世が選ばれたことを知ったときはかなりのショックだった。一時期妬んだこともあったが、今はあまり気にしないようにしている。
「美加ちゃんは優しいわね」
「え?」
 笑みを浮かべながら言う沙世に、美加は思わず聞き返す。
「……でもね、美加ちゃん。よく考えてほしいのよ。もしあのとき、わたしが何もしなかったら……どうなっていたと思う?」
「どうって……」
 現場にいたわけではないから、そんなことはわからない。ただ沙世に聞いた話によると、悪魔のかけらに憑かれた者は、欲望を解放するため、見境なく暴れるという。
「間違いなく、死人が出ていたわね」
 きっぱりと、沙世は言った。
「……死人……」
「そう、わたしは被害を最小限に押さえているのよ。それを勘違いされると……ちょっと悲しいかな」
「あ……ご、ごめんね沙世ちゃん」
 美加ははっとして、慌てて謝った。
「いつもニュースでたくさんの人が怪我してるのを見てて、つい、その……沙世ちゃんのことだから楽しんで壊してるんじゃないかって……そう思っちゃって……え? な、何? 沙世ちゃん?」
いきなり頭を撫でられて、目を見開く美加。
「ううん……。ただね、やっぱり美加ちゃんは可愛いなって思って」
「……?」
「そんなに心配しなくても大丈夫。神様に頼まれた仕事だもの、一生懸命やるつもりだし、それにわたしの魔法は人を死なせることはできないから」
「うん……。うん、そうだよね。ごめんね、疑っちゃって」
 ようやく美加は笑顔を浮かべた。そして急に思い立ったように立ち上がる。
「安心したら、トイレに行きたくなっちゃった。沙世ちゃんも一緒に行く?」
「わたしはいいわ」
「そう? じゃあ、すぐ戻るから」
 そう言って、駆け足で教室を出ていく美加を見送りながら、沙世は呟いた。
「……美加ちゃんって、やっぱり可愛いなあ」
そしてその場から立ち上がり、小さく笑いをこぼす。
(わたしが他人を助けるかどうかなんて、今までの付き合いでわかってるはずなのに、あっさり信じちゃって……)
 神に頼まれた仕事など、はっきり言ってどうでもよかった。ただ、与えられた強力な力で相手を倒すのは、なかなか快感だった。
 ストレス発散になる。ただそれだけでやっていることだ。
(わたしの動機がそんなことだと知ったら、ずっと魔法少女になりたかった美加ちゃんは、どう思うのかな……?)
 自分の席に戻って、次の授業の予習をしながら、沙世は楽しそうに美加のことを考えていた。

(そうだよねえ……みんなを守った結果なんだよねえ……)
トイレに向かいながら、美加は沙世の言葉を思い出していた。
 確実に死者が出ていたであろうことを、怪我で押さえたのだ。もちろん、一人の怪我人も出ることなく済むのが理想ではあるが、現実ではなかなかそうもいかないのだろう。
(沙世ちゃんって、性格は少し問題あるけど、基本的にいい子だもんね。神様に仕事頼まれるくらいだし。疑って悪かったなあ……)
 そう思いながら、ふと自分の足許で揺れるスカートに気付く。
(コスプレ、か……)
 兄に誘われたとはいえ、こんな格好をして喜んでいる自分が、何だかむなしくなる。
(魔法少女が現実にいるんだもんな……。もうあたしにチャンスなんかないよね……)
 最近のアニメでは、ピンチの主人公を助けるため、友人が仲間になっていくという展開が割とあるが、沙世は優秀だ。仲間の助けなどいらないだろう。
「は〜あ……。どうせ、あたしは脇役ですよ……」
大きくため息をついて、うつむきながら歩いていく。
 どんっ。
「わっ」
 廊下の角を曲がろうとしたときに、誰かとぶつかってしまった。
「あっ、ご、ごめん」
「いや、こっちこそ……って、あれ? 竹内さん?」
「え?」
 顔を上げると、そこには女の子のような顔立ちの少年が立っていた。
「あっ……山口くん?」
 去年のクラスメイトで、山口晃という名前である。四年生になってクラスは離れてしまったが、割と仲が良かった男子だ。簡単に特徴をいうと、顔は良し、勉強できるが運動だめで、気が弱い。雰囲気が少し広人に似ているので、美加は結構気に入っている。
「そういえば、終業式以来会ってなかったよね。久しぶり」
「そうだね、違うクラスになっちゃったから」
 にっこり笑う晃。清潔感のある、さわやかな笑顔だ。
「それにしても……今日は竹内さん、スカートなんだね」
「ぎくっ」
会った途端に来るだろうと思った話題が、やはり来た。
「ま、まあ……その……たまにはね」
うまくごまかす言葉が見付からない。
「へえ……。前はスカートなんて絶対はかない、なんて言ってたのに。高学年になったら変わったのかな?」
「ま、まあ、高学年はもう大人だからね。あははは、はは……」
自分でも何を言っているのかよくわからない美加だった。
「じゃ、じゃあ、あたし急ぐからこれでっ」
「あ、うん。またね」
 走ってトイレに向かう彼女を、晃は手を振って見送った。
「……何だか訊いちゃいけないことだったみたいだな。でもまあ、珍しいものが見れたからいいか」
 そうして教室に戻ろうとするが、ふいに足を止めて振り返る。
(どうもトイレの方から、気配がするんだよね……)
今日登校してから、校舎内でずっと感じていたものである。それが気になって、今もトイレに行って来たが、何もわからなかった。
(休み時間の残り、まだ少しあるし……やっぱりもう一回行ってみよう)
 晃は美加の後を追って、再びトイレに向かった。

「やばいやばい」
話し込んでいたせいで、休み時間があと一分しかない。
 美加は慌ててトイレに駆け込んだ。そして丁度よく個室が空く。
(おっ、ラッキー)
この学校のトイレは和式と洋式があるが、今空いたのは和式の方だ。洋式だと使用後の温もりが残っているので好きではなかった。
美加はすぐさま中に入って鍵をかける。そしてズボンを下ろそうと腰に手をやるが――。
(あ、今日はスカートだった)
 ついいつもの癖を出してしまった。
(えーっと、まずスカートをたくし上げて……っと)
 それから下着に手をかける。が、そのときだった。
<ミカよ……タケウチミカよ……>
男の声が、頭の中に強引に入り込んできた。
 びくんっ。
 その瞬間、身体が震え上がった。
 頭の中心がちくちくと痛む。
(な……何……今の……?)
 顔をしかめながら、個室内を見回す。
 すると、どこから入ってきたのか、黒いもやが現れ、便器の上に集まっていった。
「なっ……!?」
 集まった黒いもやは、ゆっくりと男の姿を形作っていく。
<ミカよ……>
 上半身まで出来たとき、男は再びミカに呼びかける。
 だが。
<俺は魔王カ……>
「うっぎゃああああーーーっ!!」
 カナルは最後まで言うことができなかった。
 ばきぃっ! びちゃっ!
 完成した上半身を悲鳴と共に殴られ、便器の中に叩き付けられる。
 そして。
 美加はすぐさまコックをひねり、水を流した。
 ズゴゴゴゴーーーッ!
<ぐ、ぐわああああっ!>
 まだ粒子を固定していなかったため、カナルの上半身は流されていく。後を追うように、残っていた下半身分の粒子もその場から消えてしまった。
「はあ……はあ……。な……何だったの……今のは……」
 美加は呆然としていた。全身に冷や汗をかいているのがわかる。
「ねえっ、今すごい悲鳴がしたけど、どうかしたの?」
 さすがに驚いたらしく、隣に入っていた子が声をかけてきた。
「あっ……ご、ごめん、何でもないの! そ、その……ゴキブリ! ゴキブリがいたからびっくりしただけ!」
「えっ、嘘、ゴキブリ!?」
怯えた様子の彼女。誰だってゴキブリは嫌いである。
「だ、大丈夫! 今流したから!」
「そ、そう。……それじゃ、あたしはお先に」
「う、うん」
彼女が出ていくのを確認し、美加はほっと息をする。
「何とかごまかせたみたい……」
 まさか、こんなところに幽霊が出たなどと言うわけにはいかないだろう。
 ……そう、幽霊だ。身体が透けていたり、足がなかったり、声が頭に直接届いたりしたことを考えると、幽霊に間違いないだろう。
「……って、ひぃぃぃっ! ごまかしてる場合じゃなかった! あたし幽霊大嫌いなのよっ!」
 美加は顔面蒼白になりながら、用を足すのも忘れ、大慌てでトイレを出た。
どっすーん。
「うわっ」
「きゃっ」
 出た途端に誰かにぶつかってしまった。勢いがあったため、そのまま美加が押し倒してしまう。
「いたたっ。……ねえ、大丈夫……って、山口くん?」
 美加の下になっているのは、何と先程別れたはずの山口晃だった。
「……何で女子トイレの前にいるの?」
「あ、た、竹内さんっ。そ、その、ちょっと野暮用があって……」
 まずい、と説明しながら晃は思った。このままでは変態扱いされるかもしれない。
 だが、そんな彼を救うかのように、予鈴が鳴り響いた。
「あっ……早く教室に戻らないと」
「そ、そうだね」
 二人は慌てて起き上がって、それぞれの教室に向かう。
「じゃあね、山口くん」
 晃の方が教室に近いので、彼が足を止めても、美加はそのまま通り過ぎていく。
「じゃ、じゃあ」
 と手を振りながら、晃はほっとしていた。美加は細かいことはあまり気にしないからいいが、他の女子だったら、女子トイレの前にいたことを言いふらされるかもしれない。
(それにしても、竹内さんは随分慌てていたようだけど、何かあったのかな?)
 あのとき、女子トイレの前にいた晃は、感じていた。中に現れた気配が、急にどこかへ移動していくのを。
(あとで、訊いてみるかな……)
 走っていく美加の背中を見ながら、晃は教室の中に入った。

 ダダダダダッ、キキィーッ! ガラッ!
「はあはあ、ぜいぜい」
 派手な音を立てながら、教室に入る美加。当然注目を浴びるが、そんなことはどうでもいい。まだ先生が来ていないのを確認すると、真っ直ぐに沙世の席に向かった。
「遅かったわね、美加ちゃん」
「そ、それより沙世ちゃん。聞いてほしいことが――」
「ああ、残念。先生来ちゃったわ」
「ええっ?」
 見ると、確かに教頭先生が入ってきたところだった。雑談していた児童たちも、すぐに自分の席に戻る。
「お話なら、次の休み時間にしましょ」
「う、うん……」
 と、仕方なく美加も席に戻ったものの。
(ううっ……き、気になるよぉぉっ……)
あんな体験をした後で、授業に集中できるわけがなかった。
(沙世ちゃんの能力を使えば、幽霊の正体がわかるかもしれないのに……)
しかし、今は授業中。待つしかなかった。

「くそっ……あの娘、まさか俺をトイレに流すとは……」
 顔をしかめながら、彼はぶつぶつと悪態を付く。
 現在、魔王カナルは、屋上に姿を現していた。トイレに流された後、すぐに再び身体を粒子にし、ここまで移動してきたのである。
「能力を見せるために、ゆっくりと姿を見せたのが裏目に出たか……」
 特殊能力を持たない人間の前に、ああいう現れ方をすれば、驚くのは当然である。美加を魔法少女にすることばかりが頭の中にあったため、そこまで考えていなかったのだ。何より、いくら一人きりになるとはいえ、やはりトイレの中でスカウトするのはまずいだろう。
「うぅむ……考えてみれば当然の結果かもしれんな……」
いくら魔王が、闇の世界では絶対であり、敬うべき存在だとしても、そのことを美加は何も知らないのである。従っていきなりトイレに現れた彼に対する反応は、ごく自然のものだった。
「……そうだな。ここは闇の世界とは違うからな。契約が終わるまで……少しは気を使ってやるか」
 子供とはいえ、美加も女である。きちんと女扱いした方が、物事も運びやすいだろう。
 そう考えながら、カナルは腕を組み、視線を飛ばす。身体を移動せずとも、別の場所の様子を探れる能力だ。
 そして視線の先、そこには美加がぼんやりしながら授業を受けていた。
「……タケウチミカ。魔法少女に憧れるが、興味のなかった友人の方が先に魔法を使えるようになってしまった……か。境遇としてはなかなか面白いな」
 呟いて、ごろりと横になる。
「お前の望みが叶うのは、今日の放課後だ……。それまで、俺も楽しみに待たせてもらうか……」
 魔王カナルは、大胆にもその場で眠りに付いたのだった。

  その三 「魔王カナル」

「う〜ん……絶対幽霊だと思うんだけどなあ……」
 ぶつぶつ言いながら、美加は教室内を箒で掃いていた。周囲には、同じ掃除当番である数人が残っているだけである。既に放課後なっていた。
 あの後の休み時間、美加はすぐに沙世の所へ行き、トイレで見た幽霊の話をした。
 しかし。
「この学校に幽霊はいないわよ」
 はっきりきっぱり、そう言われてしまった。霊関係にも詳しい彼女に断言されてしまっては、何も言い返すことができない。
「まあ、幽霊以外に何かあるとしたら……悪魔のかけらが発動しかかっているくらいしかないけど……特にそういう気配は感じないわね」
 つまり、見間違いでしかないということだ。
「うー……」
 普通なら反論するのだが、相手は沙世だ。彼女が違うというのだから違うのだろう。
 美加は渋々ながら認めたのだった。
「でもなあ……」
 沙世を信用していないわけではないが、やはり恐いので、あれからトイレは別の個室を使っていた。
そしてその後、またもトイレの前で晃に会ってしまう。
「山口くん……さっきもここで会ったけど、何してんの?」
 さすがに美加も疑わしそうな目で見る。
「別に変なことしてるわけじゃないよ。ちょっと調べ物をね」
「……調べ物?」
「そう。さっきは時間がなくて訊けなかったけど、竹内さん、トイレの中ですごい悲鳴あげてたよね?」
「えっ……」
 当然だが、外まで聞こえていたらしい。自分があんな悲鳴をあげたことが少し恥ずかしくなる。
「あのとき――」
 急に晃の顔が、真剣なものになった。
「何を見たの……?」
「えっと……」
 咄嗟にどう答えようか迷う。
「ゴ、ゴキブリ……」
「……くらいじゃ、竹内さんは悲鳴をあげないよね?」
「…………」
 晃は何が言いたいのだろうか。とりあえず、彼にしては珍しく突っ込むので、本当のことを答えることにした。
「……幽霊……みたいなもの。黒づくめで二十代くらいの男の人」
「……なるほど」
 一人納得するように頷く晃。
「ねえ、何でそんなこと訊くの? 幽霊って聞いて驚かないの?」
「いや、僕はそういうの平気だから。竹内さんが珍しく悲鳴あげるから、何があったか気になっただけ。それじゃ」
「あ……ちょっと」
 彼はさっさと言ってしまった。残された美加はわけがわからない。
「何なの? まさかそれが訊きたくてトイレの前で待ってたわけ?」
 しばらく会わない間に、晃も妙な行動を取るようになってしまった。
 まあ、それはともかく。
 ゴミを掃くために移動した机を元に戻し、雑巾で拭くと掃除は終わりだ。
「それじゃ、バイバイ、竹内さん」
「うん、バイバーイ」
同じ班の女子たちが先に帰っていく。友達を作るチャンスなので、彼女たちと一緒に帰
ろうと思ったのだが、方向が逆だった。仕方ないのでいつものように一人で帰ることにする。沙世は放課後はいつも忙しいので、なかなか一緒にはなれないのだ。
「沙世ちゃんもあれで意外と努力の人だからねえ……」
 他の人には絶対秘密なのだが、沙世は放課後になると宿題以外にも勉強をし、様々なスポーツをして身体を鍛えているのである。勉強も運動もトップを保つ裏には、こういう努力の跡があるのだ。しかも、最近では魔法少女としての仕事もあって、美加から見ても非常に忙しい小学生である。
「あれでもう少し性格が良ければ最高なんだけど……」
 といっても、たいして努力もしていない自分が言うことではないのかもしれない。
「さっさと帰ろうっと」
 このメイド服のコスプレ衣装も、早く脱いでしまいたい。美加はランドセルを背負うと、教室を出たのだった。

「…………」
 美加は顔を強張らせたまま、歩いていた。おもむろに立ち止まり、後ろを振り向いてみても、特に怪しげな人物はいない。
(……おかしいなあ……)
 学校を出てから、どうも付けられているような感じがするのである。周囲に人はまばらなのだが、すぐ隣に誰かがいるような気がしてならないのだ。
 ふいに。首筋を撫でられたような感触があった。
「ひっ」
 ぞくぞくっ、と背筋に寒気が走る。
 自分には沙世のような霊を感じる能力はないはずだが、これはもう幽霊の仕業としか思えない。あのトイレの幽霊が、便器に流した仕返しに付いてきたのだろうか。
 そんな恐怖の想像が頭をよぎり、美加は思わず走り出していた。
(くっくっくっ……)
彼女の後ろ姿を見ながら、笑いをこぼしているのはカナルだった。
 粒子に姿を変えたまま、ずっと後ろを付いてきたのである。
(あの娘、からかうとなかなか面白いな)
トイレに流された仕返しも兼ねて、ちょっとした悪戯をしていたのだ。
(ま、あまり怖がらせても何だな。この辺にしておくか)
カナルは慌てて走る美加の後を、少し離れて付いていった。

「はーはー、ぜーぜー」
 スカートのまま全力疾走し、美加はようやく家の前まで辿り着く。義理の母である祥子は午後から食堂でパートのため、帰っても一人きりである。
「うー…………はっ!」
 おもむろに気合いを入れて、後ろを振り返った。どうやら、妙な気配は消え去ったようだ。
「ふう……付いては来なかったみたいね」
 とりあえずは、一安心である。
 それにしても、自分はいつから幽霊がわかるようになったのだろう、と美加は首を傾げる。沙世の側にいる影響だろうか。
「魔法が使えるようになるならまだしも……幽霊だけはごめんだわ」
 呟きながら、鍵を開けて家のなかに入った。
「さーて、と。さっさとこんな服着替えようっと」
 ピンポーン。
「……………………え?」
 まだ靴も脱ぎ終わっていない状態だというのに、玄関のチャイムが鳴った。確か家に入るとき、周囲に人はいなかったはずである。普通、そんな二、三秒で玄関の前まで来れるはずがない。と、いうことは。
「…………ま、まさか…………」
 何だか嫌な予感がした。
 慌ててドアに鍵をかけたことを確認してチェーンをかけ、恐る恐る覗き穴から外の様子を伺う。
 すると、そこには思った通り、今日学校のトイレで見た若い男の幽霊が立っていた。春で暖かいというのに黒マントを羽織り、黒づくめの洋服を着ているところが怪しくて恐い。
(ひええええっ! や、やっぱりっ!)
 何故自分の前に姿を表すのだろうか。やはりトイレに流した仕返しに来たのだろうか。それとも別に理由があるのだろうか。美加の頭の中では、そんな思考がぐるぐる回っていた。
「開けてもらえるかな、お嬢ちゃん」
 男が声を発した。あきらかに、そこに美加がいることがわかっている話し方だ。
(あれ……? 普通の声だ)
 トイレで聞いた、頭に響いてくるものとは違っている。
(幽霊じゃないのかな……)
しかし、それで幾分かは安心できた。
「あ、あのっ、今お父さんもお母さんもいないので何もわからないんですけどっ」
明らかにセールスではないが、とりあえずそれ対策用の言葉を返す。
 すると男は、小さな笑みを浮かべた。
「なあに……構わないさ。むしろ邪魔がない分、好都合だ」
 そして一瞬にして、男の姿が砂よりも細かく弾け飛んだ。
「!?」
 それを見て、凍り付く美加。
 ぶわっ。
 ドアの隙間から、黒い霧状のものが一気に侵入した。
「ひっ」
 短く悲鳴を上げ、思わず尻餅を付く。
 そして彼女の目の前で。
 黒い霧は、再び男の姿となって現れた。
「くっくっくっ……どうやら十分に驚いてくれたようだな」
 腕を組んで彼女を見下ろし、楽しそうに笑うカナル。要するに、特殊能力を持たない人間を驚かせたかったのだ。結構悪趣味である。
「俺は闇の世界の絶対者。魔王カナル……って、おい?」
 反応がないので、カナルは美加に呼びかけた。
 ひらひら、と目の前で手を振ってみるが、やはり反応なし。
「……こ、こいつ……目を開けたまま気絶していやがる……」
カナルにしてはちょっとした冗談だったのだが、美加にしてはショックが強すぎたらしい。
「……情けない奴だな……。本当にこいつに任せて大丈夫なのか?」
 選んだのは自分だが、少し不安になってくる。
「まあ、今さらそうも言ってられないか。やれやれ」
 このままにもしておけないので、カナルはとりあえず、美加を部屋まで運んでやることにした。

「おい、そろそろ起きろ」
「う、う〜ん……」
 聞き慣れない声を耳にしながら、美加はぼんやりと意識を目覚めさせる。
「……ようやく起きたか」
「えっ……?」
 目を開けると、ベッドの横には、先程の黒づくめの男が立っていた。
「ひぃっ! さ、さっきのゆうれ…‥ふぐっ」
「幽霊じゃない!」
 悲鳴を上げようとした彼女の口を、カナルは鬱陶しそうに塞いだ。
「うぐぐぐ〜っ!」
しかし混乱する美加は、彼の言葉など聞いてはいられない。何とかこの場を逃げ出そうと、手足をじたばたさせる。
「こら、暴れるなっ」
「むぐぐぐ〜っ!」
じだばたじたばた。
「……こ、こいつ……」
 やはり言うことを聞かない美加に、カナルは段々いらいらしてきた。
「お前は、魔法少女になりたくはないのか!?」
「!?」
 この言葉は、効いたようだった。
 思わぬ言葉に、美加の動きがぴたりと止まる。
「もう暴れないというなら、詳しく説明してやろう」
 こくこく、と美加は頷いた。
「よし」
 カナルは彼女の口から手を離した。
「あ、あのっ、えーと、それで……」
 美加はベッドの上で正座に座り直し、緊張の面もちで訊ねる。
「先程の、魔法少女というのは……?」
「ああ。タケウチミカ。俺はお前をスカウトに来た」
「えっ……? ほ、本当に?」
 思わず顔がにやけていた。
 目の前の男は、明らかに普通の人間ではない。そして美加をスカウトに来たという。ということは――。
(つ、ついに! ついにあたしも憧れの魔法少女になれるときがっ!)
 しかし、ふと重要なことを思い出す。
(――あれ? でも待てよ……。魔法少女って、既に沙世ちゃんがいるんだけど……)
 もし仲間に誘われるとすれば、彼女がピンチの場面に遭遇しなければならないという、お約束パターンがあるはずだ。こんな風に、主人公と別にスカウトされては、ストーリーの盛り上がりに欠けてしまう。まあ、アニメと現実は違うにしても、やはり疑問は残る。
「あのー、えーと……失礼ですけど、あなた何者ですか? 神様の使い……じゃないですよね……?」
 質問しながら、何となく予想は付いていた。白のイメージを持つ神の使いが、果たして黒づくめの服を着てくるだろうか。
「俺は悪魔だ」
「悪魔……」
「そう。しかも、一番偉い魔王様だ。名前はカナル」
「……魔王……」
 魔王というのは意外だが、悪魔というのは予想通りだった。
(とりあえず、幽霊じゃないのはよかったけど……悪魔か……)
 沙世から神と悪魔が戦っているという話を聞いていたため、大体の事情は読めた。神の側がこの世界の人間を使って成功しているため、悪魔の側もそれに対抗しようというのだろう。
(憧れの魔法少女にスカウトされたのは嬉しいけど……)
 もし誘われた相手が沙世と同じ神であるなら、迷うことなく引き受けただろう。しかし、その敵である悪魔に誘われるとなると、これは悩み所だった。もし引き受けたなら、敵である沙世と、嫌でも戦わなくてはいけないのだ。
「…………」
「……何だ、悩んでいるのか?」
「だ、だって……」
 よくわからないが、悪魔の味方をするからには、やはり悪いことをしなければいけないのだろう。正義の方が好きな美加にとって、それはつらいことだった。
「悪魔に付くのは嫌か?」
「…………」
「ま、俺も強制するつもりはない。ただ、な」
 カナルは小さく笑みを浮かべて言う。
「お前の友達――サヨという神の使いから聞いていると思うが、あの娘の持つ力はかなり強い。だから今後、神が新たに仲間を増やすことはないだろう。つまり」
「…………」
 うつむく美加。魔王の言いたいことはわかっていた。
「この機会を逃せば、お前は二度と魔法少女になれることはない、ということだ」
 予想通りの言葉。それは、沙世の話を聞きながら、いつも考えていたことだった。
 美加はぎゅっ、と目をつむる。
(魔法少女にはなりたい。なりたいけど……!)
 小さい頃、兄と一緒にアニメを観てから、ずっと憧れていた魔法少女。
 そして今、目の前にそのチャンスがある。
 しかしそれは、悪魔の味方をし、友達である沙世と戦わなければいけないものだった。
 果たして、自分の望みを叶えるために引き受けるべきか、それとも友達のため、この世界のために断るべきか――。
「どうやら悪魔の味方をすることに抵抗があるようだが……別に悪いことをしろというわけじゃない」
 悩んでいる美加に、カナルは言った。
「頼みたい仕事は、お前の友達がしているのと同じ事だ。奴らが悪魔のかけらと呼ぶ、俺の能力が封じられた宝石。それを壊してほしい」
「……それだけ?」
 顔を上げる美加。
「ああ。それにあのサヨという娘は、性格に色々と問題があるようだからな。お前に負ければ、少しは変わるかもしれんぞ」
「……沙世ちゃんが……?」
 言われて、少し頭の中でシミュレートしてみる。いつも唯一の友達である美加にべったりの沙世。それが敵同士になり、ライバル関係になったらどうなるのだろうか。
「……………………」
結論。なったことがないので予測不可能。
(でも、よくマンガでは主人公に負けた敵は改心して味方になるし……もしかして)
 マンガはあくまでマンガである。それは美加もわかっているが、可能性がないわけではない。それに、何かそういう建前が欲しかったのだ。
「あたし……なります。魔法少女に」
 美加は決意し、そう告げた。
「よし、わかった」
 真剣な彼女の目を見つめ、カナルはほくそ笑む。
(全く、子供は扱いやすくて助かるな)
 おそらく、いや間違いなく、美加は後のことを考えてはいない。そう、全ての封印を解き放った、その後のことを。
(ま、せいぜい利用させてもらおうか)
 そして、美加を魔法少女にする儀式が開始された。

 ザクザクッ。
 カナルは懐からナイフを取り出すと、自分の手の平を切り始めた。
「う、うわああっ! いきなり何してんのよっ!」
どくどくと滴り落ちる血に、美加は思わず悲鳴を上げて後ずさる。
「契約に必要なことだ。ほれ、次はお前の番だ」
そう言って、おもむろにナイフを渡す。
「……あたしの番……って、ま、まさか……」
たらり、と冷や汗が流れる。
「俺と同じように、手の平にこの文字を刻むんだ」
 何でもないことのように、手の平を見せるカナル。そこには、英語のKの上下に横線が引かれた文字が刻まれている。見たことがないが、もしかしたら彼を表す印なのかもしれない。しかし、何はともあれ、非常に痛そうだ。
「で、できるわけないでしょっ!」
 叫ぶ美加。至極当然の反応である。
「……できないのか?」
カナルは眉をひそめる。
「当たり前でしょ! 大体、何でそんなことしなくちゃいけないの!?」
「……悪魔が血を分け合うということは、魂の一部を渡すのと同じことなんだ。魂を共有するお前は、俺の能力を使うことができるようになる。――つまり、それで魔法少女になれる、ということだ」
丁寧に説明するカナル。しかし。
「……な、何か違う……何か違うぞ……」
想像と大きくかけ離れた、魔法少女の誕生方法に、美加は大きな不安を感じた。
「ちょ、ちょっと待ってて! えーと……」
机の上にいくつか積んである雑誌をめくり、何かを探す。
「あったわ! これを見て!」
「な、何だ……?」
「これが、本当の魔法少女ってものよ!」
 それは、鉄男から借りたアニメ雑誌だった。彼女の開いたページには、『みらくるルンルン』の変身シーンと魔法を使うシーンの特集がある。
「……何だ……これは……?」
「魔法少女っていうのは、こうして意味不明な呪文を唱えて、長ったらしい魔法シーンを繰り返し見せるものなのよっ!」
 美加にとっては、それが昔から見てきた理想の魔法少女の姿なのである。
「要するに、可愛らしくて派手なのがいいの! 血を分け合うとか、そういうおどろおどろしいのは嫌なの!」
「…………」
 ぽかんと口を開け、カナルは呆れ果てていた。
「お前は……悪魔に一体何を期待してるんだ……?」
「がーん!」
 そうだった。相手は悪魔だったのだ。おどろおどろしいのが得意な連中なのである。
「そ、そんな……」
 がっくりと膝を落とす美加。
「他に……方法は……?」
「ないな」
 カナルはきっぱりと答えた。
 つまり、ナイフで自分の手の平を切る以外には、魔法少女になることができないということだ。しかし、そんな痛そうなことはとてもできそうにない。
「あたし……やめようかな……」
「何?」
「だって、そんな痛いことできないし、それに悪魔の魔法を使えるようになっても、怖そうなものばかりじゃ嫌だし……」
「ま、待て待て。そんなことはないぞ」
 少し慌てた様子のカナル。ここで断られては、元も子もない。
「最初は無理かもしれんが、経験を積めばお前の理想の魔法だって使えるようになるはずだ。それに、このナイフで切った部分の感覚は麻痺するから、痛くはない。傷だって、俺の血をもらえばすぐ治る」
「…………」
 それを聞いて、美加は顔をひきつらせた。
「そ、そうなの……?」
「ああ」
「だったら、最初から言ってよ!」
 そうすれば、余計な心配をする必要はなかったはずだ。
「いやあ、悪い悪い」
と頭を掻きながら笑うカナル。しかし、全然悪いと思っていなさそうだ。
「まったく……」
 美加は大きなため息をついた。
 どうも、先程からからかわれているような気がする。
(あれ? そういえば……)
 いつの間にか、美加はカナルに対する恐怖が消えているのに気が付いた。最初は恐る恐るだった会話が、今では鉄男に対するのと同じ様な感覚だ。
(まさか、あたしの緊張をほぐすため……とかじゃないわよね。悪魔だし……)
 多分、良い方に考えすぎだろう。今から信用できる範囲を決めておいた方がいいかもしれない。
 そして美加は、ナイフを左手に押し当てた。いくら痛くないと言われても不安だったが、皮膚に当てても感覚はなかった。思い切ってもう少しだけ力を入れてみると、豆腐でも切るかのように、あっさり線が引かれた。
「うわっ」
 確かに痛くはなかったが、思わずのけ反ってしまう。
「俺の言った通り、痛くはないだろう?」
「う、うん……」
 だが、自分の肉が裂かれるのを見るのは、かなり気持ちが悪い。さっさと終わらせることにした。
「お、終わったよ」
 刻まれた文字を、カナルに見せる。手の平からは、ぽたぽたと血が垂れていた。
「よし。では、いくぞ」
 差し出された彼女の手に、カナルは自分の手の平を近づけ、そして合わせた。
 ビリッ。
 瞬間、静電気に触れたような痺れが走った。
「痛っ」
 思わずはねのけようとする美加だが、カナルにしっかりと掴まれた。
「我慢しろ」
「う、ううっ……」
 美加は懸命に奥歯を噛みしめた。痺れは手から心臓へ、そして足の先まで広がっていき、と同時に自分の奥から何かが抜け出していく。全身の感覚が麻痺していくようだった。
「……感じるか? 今、俺の血はお前の体内に、そしてお前の血は俺の体内を巡っているんだ」
「う、うん……」
 目を見開いたまま、小さく頷く美加。
 不思議な感覚だった。身体が熱く、そして力がみなぎってくる。これが悪魔の力なのだろうか。
(あっ……)
 一瞬、風が吹き抜けた。そしてその風は、身体の痺れをも運んでいってしまう。
「……これで契約は終了した」
 そう言って、カナルは手を離した。
「この瞬間から、お前は晴れて魔法少女だ」
「…………」
 美加は自分の手の平を見つめた。血まみれだが傷は塞がっている。しかし、そこには代わりに、ナイフで付けたあの文字が、黒い痕となって残っている。
「これ……消えないの?」
「契約を終えたばかりだからな。もうしばらくすれば消えるだろうが、ただな」
 とカナルは説明する。
「それは闇の世界での俺を表す文字で、カナルと読むんだが……魔法を使うときにはその文字が浮き出るようになる。嫌かもしれないが、それは我慢してくれ」
「……まあ、普段出ないならいいけど……。こういうのって、何かヒーロー物みたいだなぁ……」
 美加は手の平の文字を指でなぞってみた。くすぐったかった。
「……しかし何だ。ようやく念願が叶ったというのに、あまり嬉しそうじゃないな」
「だって実感わかないし」
 と彼女は答える。
 確かに、今までにない力がありそうな感じはするが、それをどう受け取っていいのかよくわからなかった。
「ねえ、どうすれば魔法が使えるの?」
「まあ少し待て。今は契約を終えたばかりだ。血が混じって落ち着くまで、あと一時間くらいはおとなしくしてろ」
「ふうん……」
 アニメの場合だと、魔法を受け取ったらすぐに使えるというのに、現実では色々不便らしい。まあ、契約方法が方法だけに、仕方ないかもしれないが。
「それで、一時間後だがな」
 とカナルは言う。
「丁度この近くに一つ、封印の緩んだかけらを見付けた。それをお前が、完全に解き放つんだ」
「あ、あたしが?」
「……当然だろう。そのために俺はお前と契約を交わしたんだからな」
「で、でも自信ないなぁ。それに、そうなると沙世ちゃんも来るだろうし」
 まだ心の準備ができていなかった。
「あの娘ならすぐには来ないはずだ」
「え? どうして?」
 意外な言葉に、美加は訊ねる。
「……まあ、時間もあるしな。詳しく話してやろう」
 そんなわけで、カナルは封印についての説明を始めた。

 沙世が悪魔のかけらと呼び、破壊している宝石。しかし、それは元々宝石の形をしているわけではない。神が封印した魔王の能力のかけらは、気体となって空気中を漂っているのだ。その状態のままだと、神にも悪魔にも、封印の所在はわからない。だが、魔王のかけらの特徴として、封印が緩むと、人間に取り憑きやすいのである。そしてそのとき初めて、かけらは宝石という固体になるのだ。
 しかしこのとき、神と悪魔の、かけらの探索能力に違いが生じる。元々かけらは魔王の能力だからなのだが、悪魔が封印がある程度緩んだときにわかるのに対し、神はかけらが人間に取り憑いて宝石となったときにようやくわかるのである。
「……つまり、かけらが人間に取りつ憑いてからじゃないと沙世ちゃんは動かないから、あたしたちの方にチャンスがある、ということね?」
「そういうことだ」
 カナルは満足げに大きく頷いた。
「まあ、それなら何とかなるかな……。あれ? でも……」
 腕を組み、うーんと美加は唸る。
「……何だ? どうした?」
「え〜と……いくつか質問があるんだけど」
「言ってみろ」
「あたし……前に沙世ちゃんから聞いたんだけど、沙世ちゃんはもう十個もかけらを壊したらしいのよ」
「む……」
 カナルは一瞬顔をしかめた。嫌な予感がする。
「封印が味方の悪魔じゃなくて、敵の神様に壊された場合って、どうなるのかなぁ? それに、魔力が封印されてるってことは、使える魔法も少ないってことじゃ……」
「…………」
「あのー……カナルさん?」
 呼びかけても、彼は沈黙していた。
(何かまずいこと言っちゃったかな……)
 美加は少し不安になる。いつの間にやら親しげに話しているが、相手は魔王だ。怒らせるとやばいのかもしれない。
「あまり話したくはないが……仕方ないな」
 ようやくカナルは口を開いた。何しろプライドに関わる部分なので、できれば話したくなかったが、黙っていてもばれることだ。
「実は……お前の言う通り、現在俺の魔法はかなり制限されている」
「え……」
 美加は顔をひきつらせた。
 ということは、カナルの魔法=美加の使える魔法だから、彼女はほとんど魔法を使えないことになる。何となく予想していたとはいえ、少しショックだった。
「魔力を取り戻すには封印を壊すことだが……神には一つ勘違いしていることがあってな。封印は神も悪魔も関係なく、破壊さえすれば俺の許に戻ってくる」
「えっ、それじゃ、沙世ちゃんのしていることって、もしかして……」
「無駄だな。いや、むしろ俺たちに協力していることになる」
「…………」
 複雑な気分だった。
(沙世ちゃんのあの努力は無駄だったんだ……)
 そう思ってから一瞬、彼女の知らないことを知っているという優越感を感じた自分を、すぐに恥じた。悪魔の味方をしても、考え方まで悪魔のようになってはいけないと思った。
「だが、それも今のうちだ」
 とカナルは言った。
「いずれ神も自分たちの勘違いに気付くだろう。だからそれまでに……」
「あたしがたくさん封印を壊せばいいのね?」
「そうだ。俺が直接動けば、その魔力で魔王だと気付かれる。しかしお前という人間を使うことにより、奴らが気付くのを遅らせることができるんだ」
 つまり、美加が魔法を使う場合、その魔力の源は魔王でも、発生させるのは人間からということになる。人間が魔法を使っている分には、神もそれが悪魔の力だとは気付かないのだ。
「そっか……あたしって結構重要なんだ……」
「かなりな。お前には我々闇の世界の者たちの命運がかかっている」
「ふーん……そっか……。ふふっ」
 美加は小さく笑いをこぼした。
(あたし、何笑ってるんだか……)
 そうは思うが、何だかおかしかった。
 何しろ、世界の運命は自分の頑張り次第で決まるのだ。つい先程までは考えられなかったことである。
(それにあたしが頑張って沙世ちゃんに勝てば……沙世ちゃんだって変わるかもしれない)
 いつも他人を見下し、気に入らない者は排除してきた沙世。そんな行動は、常に自分が一番だという自信から来るものだ。その自信を打つ砕くことができれば、あるいは……。
(そう。全てはあたしにかかっている!)
 友達と、そして世界の未来が、彼女の可能性の中に委ねられていた。
「はて。……世界?」
 首を傾げる美加。ふいに思い付いてしまったのだ。
「あれ……? あ、あの……もしあたしたちが神様に勝った場合、この世界ってどうなるの……?」
 彼女は自信なげに訊ねる。今更ながら、悪魔の味方をしたことに、少し焦りを感じたのだ。
(ちっ……まさか急にそのことに考え付くとは……)
 意外だったが、既に解答は用意してある。
「安心しろ。これはあくまで神と俺たちとの戦いだ。決着が付けば、お前たちに迷惑をかけるつもりはない」
「そっか……。なら安心」
 美加はほっと息を付く。どうやら信じたようだ。
(くくく……単純な奴)
むろん、そんなはずはなかったが、今はそう思わせておくことにする。
(こいつが後悔したときの顔が見物だな……)
 そのときが楽しみだった。
「さあ、それじゃあさっそく行きましょ! 沙世ちゃんが来ないうちにかけらを壊さないと!」
 美加は元気よく立ち上がった。
「それで、かけらはどこに?」
「ここからかなり近い。距離にして一キロくらいだ」
「一キロなら走っていけるか……。にしても、何で東京ばっかりなの? かけらは世界中に散らばってるはずなのに」
「それは、力ある者に引き寄せられるからだ」
 とカナルは言う。
「さっきも説明したが、封印された俺の能力は効力が小さくなったとき、人間に取り憑きやすい。同様に、特殊な力を持つ者にも取り憑こうとする性質がある。つまりは、神の使いであるサヨのことだ。もちろん本来の持ち主である俺がいれば、真っ先に還ってくるはずだが……俺はこの世界にはいなかったからな。不安定なんだろう。……もっとも、あの娘の許に着く前に、強い欲望を持った人間に憑いてしまうようだが」
「そっか……。……ああっ、そうか!」
 一度納得した後、ポンと手を打ち、再び何かを納得する。
「な、何だ?」
「前から疑問に思ってたのよね……。どうしてアニメに出てくる敵は、主人公のいる街にしか現れないのか! きっとこれと同じような理由なんだわ!」
「……あー、そうかい」
 呆れてため息を付くカナル。アニメの話なんて、どうでもよかった。
「あ、ねえねえ」
 美加が訊ねた。
「封印のかけらのところまで、魔法でびゅーんと行けないの?」
「残念だが、そういう移動の能力はない」
「そっか……。じゃあ、やっぱり走って……いや、自転車かな」
 そう呟き、ポケットを探って鍵があることを確認する。そして部屋を出ようとしたが、その前にここには契約のときにこぼした血が残っていることに気付いた。
「おっと……、これは拭いておかないとまずいよね……」
 いくら駄目と言っても、この部屋には鉄男が勝手に入ってくるのだ。こんなものを見られては、一体何を言われることやら。
「よーし、準備OKかな。行きましょ」
「ああ」
 カナルが頷き、二人は部屋を出る。そして階段を下りたとき、美加はふと、そこにあるものに気が付いた。
「あ、これ……」
今朝学校へ行く前に放っておいた、エプロンである。祥子が拾ってくれたのだろう、居間にあるテーブルの椅子に、それはかけてあった。
「そうだ」
 美加はそのエプロンを手に取ると、身に付け始めた。
「……何をしてるんだ、時間がないというのに……」
「えへへー。こういうヒラヒラした服を着ているほうが魔法少女らしいかと思って」
 偏見である。大抵の魔法少女は普段は一般人であり、変身時には派手でも動きやすい衣装を着ている。しかし彼女が現在観ているアニメ『みらくるルンルン』では、主人公は意味もなく(本当に意味もなく)こんな服を着ているから、そう認識しても仕方がないかもしれない。
「さあ、今度こそ行くわよっ!」
 美加は靴を履いて外に出ると、玄関の鍵を閉めた。朝はこの格好で外に出るのは恥ずかしかったが、今は本当の魔法少女になったのだ。すっかりその気になっている。
「よしっ」
 美加は気合いを入れて自転車にまたがった。
「あ、そうだ。カナルさんは自転車どうするの? 何なら、余っている奴貸すけど……って、あれ?」
いつの間にか、彼の姿が消えていた。一緒に玄関を出たところまでは覚えているのだが。
「おーい、カナルさーん。魔王さーん」
「ここだ」
 後ろから声がした。
「うわっ、びっくりした」
 驚きながら振り返るが、しかしそこに誰もいなかった。
「あのー……見えないんですけど……」
「当然だ。見えないようにしているからな」
 空気の中からカナルの声だけが聞こえる。不思議な感覚だ。
「あの格好で出歩くと目立つからな。俺は当分このままでいる」
「…………」
 だったら最初からそう言えばいいのに、と美加は心の中で呟いた。

「ねえ、ところでさっきの話だけど」
 封印があるという場所に向けて自転車を走らせながら、美加は空気に向かって話しかける。
「……何だ?」
どこから声が発せられているのかわからないが、とにかくカナルの声が返ってきた。
 彼は現在、姿を消しているのだが、正確には身体を細かい粒子に変え、美加の周囲を空気のように漂っているらしい。
 美加としては脳がバラバラで思考ができるのかとか、口がないのにどうやって声を発生させるのかとか、色々疑問はあるのだが、魔王だから不思議なこともできるのだろうと強引に納得した。
(さっき訊いたら、固体が気体になっただけだから、性能は変わらないとか適当なこと言われたけど……)
 どうも嘘っぽい。固体が気体に変われば、十分違いはあると思うのだが……しかし、それ以上訊くのはやめておいた。理科は苦手なので難しい話をされても困るし、魔法ということにすれば誰でもとりあえずは納得できる。
とりあえず、今は別の質問だ。
「さっき封印が緩んだ魔力は、力ある者に取り憑きやすいって言ってたよね? だったら、沙世ちゃんに取り憑いたらどうなるのかな?」
 彼女も暴走するのだろうか。それとも逆に力を取り込むのかもしれない。
 などと美加が考えていると。
「それはありえないな」
 とカナルは言った。
「え? どうして?」
「あの娘は神に力を与えられた天使だ。悪魔の力に影響を受けることはない」
「……そっか」
 やはり、沙世の力はかなり強そうだ。果たして彼女に勝てるのか……。
 しかしそれよりも、沙世が天使と呼ばれていることが少し羨ましい美加だった。

 五分程で、美加たちは目的の場所に到着した。
「……ここなの?」
「ああ、間違いない」
 そうカナルに言われ、美加は周囲を見渡した。
 ここは、緑公園と呼ばれるほど木々や草花が多い公園である。すべり台やブランコなどの遊具は全くないが、とにかく広い。ゴムボールで野球をする男子小学生や、バドミントンをする女子。芝生に座って語らうカップルや、散歩をする老人など、様々な人がこの公園にはいる。
「う〜ん……」
 しかし美加は疑問だった。今までビル街ばかりだったのに、こんな人がまばらなところで事件が起きるのだろうか。
(いや、起こしちゃだめなんだけどね……)
 ともかくそのことをカナルに言うと、彼は否定した。
「場所は関係ない。俺の能力は強い欲望を持つ者に引かれるからな」
「そっか……。なら探さないとね」
「……いや。もう遅い」
「え?」
「どうやらのんびりしすぎたようだ。既に人間に取り憑いている」
「ええ? ど、どこ?」
 見回すが、それらしい姿は見えない。
 カナルは大げさにため息を付いた。
「……いるだろう、そこの集団の中に」
「集団……?」
 この公園で集団といえば、野球をしている小学生のグループしかいない。
「もしかして、あれ?」
「あれだな」
「う〜ん……と言われても……。野球してるだけだし」
 どこかおかしいだろうか。と首を傾げていると、その中に、一人だけ大人が混じっていることに気が付いた。髪を短く刈り上げ無精髭を生やしており、中肉中背のちょっと怖そうな顔をした三十代くらいの男だ。しかもピッチャーをしている。
「……あのおじさん?」
「まあ、ちょっと見てみろ」
 とカナルが言うので、しばらく様子を見ることにする。
「よーし、次の球いくぞっ」
 はりきって声を上げ、男は振りかぶる。
「へーい」
「おーう」
 しかし子供たちの方は、いまいちやる気がなさそうだ。
「くらえっ、ミラクルボール第一号、消える魔球!」
 男はそう叫んで投げる。スピードは大したことはない。しかしバッターの一メートル手前で、ボールは突如として消えてしまった。そしてたっぷり三秒、不自然な間を置いてから、ボールはキャッチャーの前に現れてミットの中に収まった。これではバッターボックスの中を通ったのかはわからないが、バッターはわざとらしくバットを振った。
「どうだっ、またしてもストライクだ!」
 一人満足そうに笑う男。どう見ても、子供たちは彼に無理矢理付き合わされているようだった。
「もしかして……………………あれなの?」
 美加は顔をひきつらせながら訊ねた。
「ああ」
 とカナルは答える。
「……何あれ? 何で魔球なの? しかもあんなインチキくさい」
「き、気にするな。ちょっとした遊び心で作った魔法なんだ」
「…………」
呆れる美加。
 魔王というのは案外暇なのだろうか。というより野球をするのだろうか。しかしはっきり言って今はどうでもよかった。
「とりあえず実害はなさそうだし、放っておいてもいいんじゃない? 魔球なんて身に付けてもしょうがないでしょ」
「まあ、そう言うな。あんなのでも多少は魔力が回復するんだ。初仕事、頼むぞ」
「ううっ……せっかく張り切って来たのに、初仕事がこんな事件だなんて……」
 がっくりとうつむく美加。おじさんが魔球を投げて喜んでいることなんて、事件とも呼べない。呼びたくない。
「さあ、変身だ。魔法少女に変身しようじゃないか」
「変身……」
 すっかりやる気を失いかけていた美加だったが、その言葉に我に返った。
「そうよ、変身よ! 相手はともかく、とりあえず変身して魔法を使ってやるわ!」
「よし、ではさっそくトイレに行くぞ!」
「と、トイレ……? 何で?」
「正体を隠すためだ。ばれたら色々面倒だろう?」
「……ううっ……確かにばれたら困るけど……」
 世間では魔法少女が事件を起こしていると思われているので、美加が正体を明かせば、おそらくその仲間だと見られるだろう。そうなると、マスコミに追われるかもしれないし、近所や学校、それに家族の反応にも怖いものがある。
「だからってトイレで……記念すべき初変身がトイレだなんて……」
 美加はうつむき、ぶつぶつと呟く。何だか理想がどんどん遠のいていくようだった。
「迷っている暇はない。早くしないと、お前の友達が来てしまうぞ」
「わ、わかってるわよ」
しかし美加は歩いてトイレに向かった。急いでいるとはいえ、慌ててトイレに駆け込むのは恥ずかしいのだ。
「……知り合いに見られるわけでもないだろうに」
「いいのっ。男は気にしなくても、女の子は気にするのっ」
 そんな会話を交わしながら、二人はトイレに入った。
 公園のトイレというと汚いイメージがあるが、ここのトイレは綺麗である。落書きもなく、掃除が行き届いている。
「よし、他に誰もいないようだな」
 周囲を確認し、カナルは姿を元に戻した。
「……それで?」
 と彼に対して冷たい視線を向ける美加。
「どうしてカナルさんまで女子トイレに入っているのよ?」
「……おかしなことを言う奴だな。まだ変身の仕方を教えていないじゃないか」
「それはそうだけど……あっ! そういえば、今日学校でも女子トイレにいたでしょ! しかもひとがパンツ下ろそうとしたときに出てきて! 悪魔ってそんなに女子トイレが好きなわけ?」
「ち、違う! あれはお前が一人になる機会を探していたら、たまたまトイレに出ただけだ!」
 ちょっとだけ嘘を付く魔王。本当はそこまで気が回らなかっただけなのだ。
「それより、今はそんな話をしている場合じゃない。早く変身だ」
「うー……まあ、その件はいいわよ。で、やり方は?」
 不満そうな顔をしながらも、美加は訊ねる。
「う、うむ。まずはお前の中に眠る、俺の魔力を目覚めさせねばならない。念じるだけでもいいんだが……何かかけ声を出した方が意識がはっきりしていいだろう」
「え? それ、あたしが決めていいの?」
「ああ」
 と頷くカナル。
 しかし美加は困った。アニメではこういうのは大抵、魔法を与えてくれた相手が教えてくれるのだが……。おかげで急には思い付かない。
「メイクアップじゃパクリだし……え〜と、マジカルパワーじゃ普通すぎるし……う〜ん…」
 案外難しかった。
「ジュゲムジュゲム……は魔法とは関係ないか。みらくるチェ〜ンジ、はルンルンちゃんだし……むむむっ……」
 頭を抱えて座り込み、悩み続ける美加。どんどん時間が過ぎていく。
「お、おい……何でもいいんだぞ」
 と困ったような顔のカナル。しかし何でもいいというのが、逆に困らせてしまったようだ。
「……わかったわかった」
 と彼はため息を付いた。
「とりあえず、今回はカナルパワーとでもしておけ」
「えーっ、ださいからやだ」
 ださいと言われ、カナルも少しむっとする。
「だから今回は、と言っているだろうっ。嫌なら次は自分で考えろっ」
「うー……わかった」
 美加は渋々頷く。何だか思わぬ宿題ができてしまった。
「それじゃ、さっそく……」
「印を刻んだ手に意識を集中させろよ」
 カナルに言われ、美加は自分の左手を見つめた。右手で手首を押さえ、力を込める。そして叫んだ。
「カナルパワー……ウェイクアップ!」
 カナルの魔力よ目覚めろ……という意味だが、美加はやはりださいと思った。
(今度は絶対いいのを考えてこようっと)
 それはともかく、彼女のきっかけの声で、左手にカナルの印が現れた。
「……成功だな」
 とカナルは言う。一度目からうまくいくとは、少し意外だった。
「これで魔法が使えるのね?」
「そうだ。しかし現在、俺には攻撃用の魔法がない」
「えっ……? じゃあ、どうやって敵を倒すの?」
「安心しろ。つい先日、変身能力を取り戻した。だからそれで変身すれば攻撃ができる」
「変身……変身かぁ……」
 自分の変身した姿を想像し、にやける美加。しかし何かが引っかかる。
(つい先日、変身能力を取り戻した……?)
そういえば今朝のニュースで言っていた。沙世が現れる前に、男が特撮ヒーローの姿に変身したとか何とか……。
「あ、あのー……その変身能力って、もしかして……」
「ああ。今からやってみせるから、真似するんだ。こうして……」
 と言いながら、カナルは腕をゆっくりと自分の前で回転させた。
「このポーズを取りながら気合いを込めて、変身〜と叫ぶのだ」
「いやああああああっ!」
 美加は思わず悲鳴を上げていた。
(あのポーズは……あのポーズは……お面ライダーそっくり!)
 お面ライダーとは、屋台で売られているようなお面を付けて戦う、特撮ヒーローである。もうかなり昔から、何作もシリーズが作られているが、美加は大嫌いだった。
 別に特撮物が嫌いなわけではない。ただ、お面ライダーにはろくな思い出がないのだ。
 というのもその昔、お面ライダーの必殺技「お面割り」(敵もお面をかぶっている)が、子供たちの間で流行っていたのである。そしてお祭りでお面をかぶっていた美加もその被害にあった……というわけである。それ以来、お面ライダーは見るのも嫌だった。
「お、おいっ。そんなでかい声を上げたら人が来るじゃないかっ」
 慌てて外の様子をうかがうが、幸い近くに人はいなかったようだ。
「だってだって……あたし、お面ライダーは嫌いなのよ!」
「何のことか知らんが……魔法少女に変身したくないのか?」
 その言葉に、美加はぴくっと頬の辺りをひきつらせる。
「……カナルさん……あなた、絶対魔法少女というものを勘違いしてるわ!」
「少女が魔法を使えば魔法少女なんじゃないのか?」
「違ーうっ! 全然違ーーうっ!」
叫びながら、美加は彼に詰め寄る。
「魔法少女っていうのは、女の子の憧れで、華やかじゃなきゃいけないの! 大人になって芸能界デビューとか……は、まあ置いておくにしても! 変身シーンは本当は一瞬だけど三十秒くらいかけなきゃいけないし、例え使い回しで見飽きても、技は一つや二つだけじゃなきゃいけないのよ! それからそれから……」
「わ、わかった! わかったから少し落ち着け!」
 何を言っているのか、カナルにはさっぱりわからなかった。
「ともかく、特撮ヒーローとは全く別物なのよっ!」
 そこまで一気に言い終えると、彼女はぜーぜーと息を整えた。
(女の子が恐ろしいものだということだけは、よくわかったぞ……)
 カナルはふうと息を吐いて汗を拭う。全く、こんなことで魔王に冷や汗をかかせるとは、思いもしなかった。
 しかし彼女の要望はわかったものの、今は他に手がないのも事実だ。とりあえず我慢してもらうしかない。
「いずれ能力を取り戻せば別の方法もあるし、お前の望む姿にもなれるはずだ。だからそれまで……頼む」
「いずれ……って、いつ?」
「いずれ、としか言えないが、必ずなれることは保証する」
「……………………しょうがない。わかったわよ」
 大きなため息を共に、美加は了承した。
「そうか。助かる」
 ほっとしたように笑顔を浮かべるカナル。しかし心の中では、悪態を付いていた。
(魔王である俺をこんな下手に出させやがって……覚えていろよ)
 そのうち別の形で仕返ししてやる、と決めるカナルだった。

「では、さっそく変身してくれ。急がないと神の使いが来てしまうぞ」
「うん……」
渋々ながらも、美加は構えを取った。そして――。
「はあああ〜、変〜身〜!」
 気合いのかけ声と共に腕を回し、ポーズを決めた。お面ライダーの決めポーズだ。
 すると、カッと彼女の身体が光を発した。
 シャキーン! シャキーン! シャキーン!
 光の中で、美加の身体に特殊装甲が身に付けられる。といっても、それは美加がそう感じているだけで、実際にはわずか一秒間の出来事だ。
「よし。これでバリギャンの誕生だ」
「……バリギャン?」
「その変身した姿の名前だ。なかなか似合うぞ」
「…………」
 美加はトイレに付いている鏡の前に立った。
 銀色に輝く特殊装甲。作り物とは比較にならない質感と、デザインの格好良さ。どれをとっても、小さな男の子からマニアまで喜びそうな出来だ。しかし――。
「……等身が低い……」
そう。この変身スーツは、持ち主の体格に合わせて装着されるため、原型のサイズから美加のサイズにまで縮められていたのである。おかげで随分小さなバリギャンになってしまった。
「子供サイズの特撮ヒーローなんて、格好悪いわよ……」
「まあ、そう言うな。その姿になれば普段の何倍もパワーが出るぞ」
「う〜ん……とにかくやってみる」
 この格好で飛び出していくのはかなり恥ずかしいが、どうせ正体はばれないのだ。こうなったら、自分が竹内美加ではなくバリギャンになったつもりでやってやろうと思った。
「いくわよ……とうっ!」
 気合いを入れて、美加はトイレから飛び出した。そして魔球親父の所に向かって走り出す。と思ったらいきなりこけた。
 ずざざざーーーっ。
 五メートルほど地面を滑っていく。
「いたたた……」
 顔を押さえながら立ち上がる美加。実際は装甲をまとっているので、ほとんど痛みはない。
「本当にいつもとパワーが違う……。気を付けなくちゃ」
 そして再び走り出そうとするが、ふと自分が注目されていることに気付いた。突然こんな格好で出てきたら当然なのだが、公園にいた人々は困惑した眼差しで見つめている。
「ううっ、やっぱり恥ずかしい……。今度は転ばないようにしないと……」
 美加は慎重に走って男の許へ向かった。そして二人は対峙する。
「な、な、何だお前は?」
 さすがに動揺しながら、男が訊ねる。
「ふっふっふっ……私の名はバリギャン! お前を倒しに来た正義のヒーローだ!」
 それなりに気分が乗ってきた美加だった。
「正義のヒーローって……ぷぷっ。子供じゃないか」
あまりのおかしさに、思わず男は吹き出してしまう。
「……何だ、あれ?」
「また変なのが来たな」
「しかし作りはよくできてる」
「でも小さいから格好悪いぞ」
野球少年たちからも失笑が漏れた。
「だあっ! 小さくても、私は本物なのっ! 見なさいっ!」
 馬鹿にされて悔しくなった美加は、腰のバリギャンブレードを引き抜いた。それは、腰にあるときは柄だけだが、外すとレーザーの剣になるという代物だ。
「おおっ」
 感嘆の声が上がった。そして次の瞬間、誰もが息を呑む。
 ガッ!
 美加の一振りにより地面がえぐられ、大きな穴が開いたのだ。
 バラバラ、と上空まで上げられた土の塊が落ちてくる。
「ほう……なかなかやるな」
男は楽しそうに笑みを浮かべた。ボールを握る手に力がこもる。
「それならワシも名乗ってやる。……そうだな、魔球親父とでも呼んでくれ」
 そのままだった。
「しかしワシは今、子供たちと殺人野球の最中なんだ。お前の相手は勝負が終わってからにしてもらう」
「……殺人野球?」
「その名の通り、勝負に負けた方が殺されるというルールの野球だ。しかし今は人数が足りないため、ワシの投げた球を一人でも打てれば子供たちの勝ち、打てなければワシの勝ちというルールにしている」
「何だって!」
子供たちから怒りの声が上がった。
「聞いてないぞ、そんな話!」
「ピッチャーやらせろ、って無理矢理入り込んできただけじゃないか!」
「じゃかましいっ!」
 公園全体に響くようなでかい声で、魔球親父は子供たちを制した。
「野球といえば殺人野球と昔から決まっているだろうが!」
 もちろん、そんな決まりはない。
 しかし理屈で言っても、この男には通用しないだろう。
「ったく、しょうがない……。私もバッターやるから、それでいい?」
「ふん……まあいいだろう。その代わり、負けたらお前も殺されるんだぞ?」
「私は負けない」
 美加は男を睨むと、子供たちの方へ向かった。
「というわけで、仲間になります」
「…………」
 しかし彼らは一様に、不安そうな顔をしていた。小学五、六年の彼らから見れば、美加は随分小さいのである。そんな彼女に自分たちの運命を任せていいものかどうか。
「お前……あんなこと言って、本当に大丈夫なんだろうな?」
「まさか本当に殺されるとは思わないけど、ひどい目にはあいそうだぞ」
「大丈夫」
 ドン、と美加は力強く自分の胸を叩いた。
「私に任せなさいっ」
「…………」
 しかしやっぱり彼らは不安そうだった。
「まあ、いざとなったら逃げればいいか……」
「で、次のバッター誰だっけ?」
「……ぼ、僕だけど」
 おとなしそうな少年が手を挙げた。
「うっ、和夫か」
「あれ? もうみんな打ったんだっけ?」
 頷く一同。どうやら彼が最後のバッターらしい。
「くっそー、こんなルールだとわかってたら、真面目にやったのに」
 みんな早く魔球親父を帰そうと、わざと三振していたのだ。
「ど、どうしよう、僕……一番下手なのに」
 緊張する和夫。
「ああ、平気平気。まだ私、正義のヒーローのバリギャンが残っているから」
「……野球得意なの?」
「えーと……テレビで観てルールくらいなら知ってるけど」
「だめだこりゃーっ!」
「任せておけねーっ!」
 男子一同頭を抱えた。
「そ、そんな、大丈夫だってば」
 しかし根拠はなかった。
「どうした! 次のバッター、早く来い!」
 魔球親父が催促する。
「じゃ、じゃあ行って来る……」
 びくびくしながら、和夫はバッターボックスへ向かった。
「気を付けてなー」
「死ぬなよー」
 本気とも冗談ともとれない応援である。
 そして。
「さあ、いくぞ!」
 親父は振りかぶった。
「ミラクルボール第二号、炎の魔球!」
 ボールから炎が吹き出した。
「続けて、七色の魔球!」
 ボールが七色に変化した。
「そして最後に、男の魔球!」
 ボールから男の臭いが漂った。
 バシッ。ビシッ。ボスッ。
「あ……」
 と小さな声を漏らす和夫。
 見逃しの、三球三振だった。
「あ〜あ……」
 男子たちから落胆の声が上がる。
「ご、ごめん……」
 和夫はすごすごと戻ってきた。
「お前なー……」
「一回くらいバット振れよ!」
「……しかし、最後の男の魔球ってのは何だったんだ……」
前の二球はともかく、疑問の残る魔球だった。
「ふふっ、やはり私の番が来たようね」
 美加は不敵に笑うと、バットを手にした。
「みんな、安心して私に任せておきなさい!」
 ドンと胸を叩き、自信満々にバッターボックスへ歩いていく。
「……おい、いつでも逃げられる準備しておけよ」
「でもあれ、俺のバット……」
「それくらい我慢しろっ」
薄情にも、彼らは既に逃げる相談をしていた。キャッチャーをしている仲間にも、ジェスチャーで伝えておく。
「ふっふっふっ……ついに最後のバッターの登場だな」
にやりと笑う魔球親父。
「お前を三振にとれば、ワシの勝利だ」
「私は負けない……魔球親父、勝負!」
 ビシッ、と彼にバットの先を向ける。必ず打ち返すという予告のサインだ。
「ふん……後悔するなよ」
 魔球親父は静かに構えた。
「絶対打つ……!」
「おい……」
 突然ぼそっと耳元で声がした。
「うわっ、また!」
驚いて、美加はバッターボックスから飛び退く。
「何だ何だ、逃げる気か?」
「ち、違うって! ちょっとだけ待ってて」
 ごまかすためにしゃがんで靴ひもを直そうとするが、特殊装甲にそんなものはついていなかった。仕方ないのでその体勢のまま座り続ける。
「な、何よ。いきなり話しかけないでっ」
「……盛り上がっているところ悪いが、呑気に野球をやっている場合じゃないぞ」
「えっ?」
「サヨがこちらに向かってきている。すぐ近くだ」
「そ、そうだった……。でもまだ勝負が……」
「どうでもいいだろう。バリギャンブレードでいきなり斬りつけろ」
「だめっ。こういうのは、敵の目的を失敗させてから本番勝負っていうのが定番なんだから!」
「またアニメの話か……」
 呆れるカナル。
「お願い、まずは野球の決着を付けないことには先へ進めないわ!」
「やれやれ……。知らんぞ、俺は」
 カナルの気配が離れていった。
「バッター、早くしろ!」
「わかってる!」
 美加は再びバッターボックスに立つ。
(初球に打てば、何とか間に合うはず……)
今の段階で沙世と接触しない方がいいのはわかっている。しかし自分が魔法少女となった今(正確には特撮ヒーローではあるが)、どうしてもこれまで思い描いてきた理想の展開にしたかったのだ。
「では今度こそいくぞ。ミラクルボール第五号……」
 魔球親父は振りかぶり、そして投げた。
「セクシーボール!」
「……は?」
 目を丸くする美加。その球は、不自然な程ゆっくりとしたスピードで向かってきた。ボールの回転がはっきりわかるほどだ。
「ふはははは、どうだ!」
 どうだと言われても困る、というのが美加の感想だ。
「幻想的なボールの回転が、バッターにセクシーな幻を見せるのだ! どうだ、メロメロになって打てんだろう!」
 確かに、ボールの周りに何故か色っぽい姿でポーズを取る女性の姿が見えてきた。
(でもあたし、女だし……)
 だが相手にしては、バリギャンの中身がまさか女の子だとは思わないだろう。魔球親父にとっては実に不運だった。
「……もらった!」
 ようやくバッターボックスの前まで来た亀のようにのろい球を、美加は思いきり打ち込んだ。しかも普段の何倍もパワーがあるので、公園から見えなくなるほどの特大ホームランだ。
「おおっ」
 男子たちから歓声が上がる。
「私の勝ちだ、魔球親父!」
 ガッツポーズを決め、美加はショックを受けているであろう男を見る。……が。
「あっ……」
美加はそのポーズのまま固まってしまう。何故なら、突然魔球親父の周りに白い二枚の羽が現れ、彼を包み込むように激しい放電を起こしていたのだ。
「うぎゃああああああっ!」
 絶叫する魔球親父。
「まさか……!」
 そのまさかだった。
「エンジェル・ディストラクション!」
 シュゴオオオオオッ!
 エンジェル・ユーニィの声が響き渡ると、彼女から発せられた巨大な光線が、魔球親父を包み込む。
 そして光線が通り抜けた先、そこには魔球親父から抜け出た黒い宝石があった。それはすぐさま粉々に砕け散ってしまう。
(やばいっ!)
 焦ったカナルは、粒子の身体のまま一瞬にして姿を消した。この場から、完全にいなくなったのである。
「くそっ」
 悪態を付き、元の姿になって現れたのは、闇の世界の城の玉座であった。遠距離の瞬間移動はできないが、異世界間の移動能力なら持っているのだ。その彼の身体からは黒いもやのようなものが吹き出し、やがて収束していく。
「……全く……。魔力は回復したが、結局最後はあの天使にやられたじゃないか……」
 疲れたように額に手を当て、カナルはため息を付く。
「それに、危うく俺の存在がばれるところだった……」
 魔力が回復するとき、一瞬魔力を全開に発してしまうのだ。もし闇の世界まで来ていなければ、沙世に魔王が来ていることがわかり、今後の活動に支障をきたしていただろう。
(あとはミカ、うまくやり過ごせよ……)
 カナルはその場から彼女たちの様子をうかがうのだった。

 バタリ、と魔球親父――いや、ただの親父に戻ってしまった男は、意識を失ってその場に倒れ込んでしまった。
倒したのはもちろん、エンジェル・ユーニィに変身した沙世である。彼女は男には目もくれず、真っ直ぐに美加に向かって歩いてくる。
(ど、ど、どうしよう。沙世ちゃん、来ちゃったよ)
 焦る美加。まさかこんなに早く来るとは思わなかった。
(でもやっぱりいいなあ……。あたしもこんな魔法少女になりたかった……)
 以前に一度だけ変身した姿を見せてもらったことがあるが、やはり大人になった沙世はすこぶる美人だった。それにセーラー服とメイド服を混ぜたようなコスチュームは、ちょっとセンスがどうかと思うが、それなりに魔法少女っぽくて羨ましかった。
(って、羨ましがっている場合じゃない。重要なのはこの場をどうするか……)
戦って勝てる相手ではない。何とかごまかさなくてはならなかった。
「……何なの、あなた?」
 ユーニィは怪訝そうに美加に話しかけてきた。さすがにバリギャンの中身が誰かは気付いていないようだ。
「……その姿、小さくなっているけど昨日も見たわね。何か関係あるのかしら?」
「え、え〜と、その〜……」
 ポリポリと頭を掻く美加。
「じっ、実はこれっ、パパに作ってもらったんだっ。よくできてるでしょっ」
情けない言い訳しか思い付かなかった。
「…………」
 黙って見つめるユーニィ。沈黙が痛かった。
「……まあいいわ」
 と彼女は薄い笑みを浮かべて、背中を向けた。
「えっ?」
「わたし、力のない者に興味はないから。せいぜい子供を相手にして喜んでいるのね」
 そう言うと、ユーニィはスッと瞬間移動で姿を消してしまう。
 どうやら、美加の言葉が嘘だというのはばれていたようだ。
「……な、何とか助かったけど……。でもっ、悔しいっ……!」
拳を震わせ、歯ぎしりする美加。
 せっかく魔法少女になれたのに、初仕事だというのに、結局は沙世に最後を持っていかれ、馬鹿にまでされてしまった。
「次はっ……次こそはあたしが勝ってやるんだからっ!」
 しかしそう言ってから、これでは悪役の負けゼリフみたいだと思って後悔した。
「おーい、大丈夫か?」
「無事かー?」
 突然の出来事でしばらく呆然としていた野球少年たちが、美加の許に集まってきた。
「うん、大丈夫……」
 と美加は答える。
「しかし、今の姉ちゃんは何だったんだ?」
「もしかしてあれじゃないのか? ほら、今噂の魔法少女とかいう」
「だったら、警察に電話した方がいいんじゃないか?」
「テレビでインタビューされるかもしれないぞ」
「好きにすれば……」
 事件に遭遇したのにこんな反応しかしない彼らに、美加は少し呆れた。
「ねえー? このおじさん、大丈夫なのかなー?」
 一人、倒れた魔球親父の心配をしていたのは、おとなしい和夫だった。
「一応、救急車も呼んだ方がいいかもね……。それじゃ、私はこれで」
「え? 帰るのか?」
「ヒーローは忙しいのっ」
 しかし誰もそうは思っていなさそうだった。
「ふーん。じゃあな、また野球しようぜ」
「気が向いたらね」
 疲れたようにため息を付いて、美加は走り出した。
 そして走りながら思う。
(あ……変身ってどうやって解くんだろう? 今トイレに入ったら正体ばれるし、かといって、公園から出ていけば騒ぎになるし……)
 とか考えているうちに、既に出口は目の前だ。
(とにかく、人のいないところへ行かないと!)
 幸い、公園の外は建物の密集地だ。死角になる所は多い。
 美加は周囲を確認すると、小さく声を発する。
「変身終了っ」
 するとあっという間にバリギャンの装甲は消え、コスプレ衣装に戻った。
「ふうっ、これで大丈夫だったみたいね」
 バリギャンになったときが『変身』という合図だから、終わるには『変身終了』。咄嗟の思い付きだが、正解だった。
「あとは自転車を取りに行って……っと。あれ? そういえばカナルは……?」
 いつの間にやら、気配が消えていた。
「まあ、家で待ってれば来るか……。今日はもう疲れたから帰ろうっと」
 そう呟くと、美加は本当に疲れた顔で家に帰って行ったのだった。

「…………」
 その少女は、ぼーっとした顔で少年たちを見ていた。公園の端の方の芝生で、手の平に顎を乗せ、体育座りをしている。ツインテールの髪型に、フリル一杯の洋服、そして大事そうに抱えるおもちゃのステッキに、隣には大きめのバッグが置いてある。
「せっかく来たのに、また出番がなかった……」
魔法少女エアリスは、ため息と共にそう呟く。
封印の反応を感知してから出発したのだが、ここに到着して変身を終えて出てみれば、バリギャンと魔球親父が野球対決をしており、かと思えばあっと言う間にエンジェル・ユーニィが倒してしまった。まさに無駄足である。
「まあ、ボクが先に来たとしても勝てたかわからないんだけど……」
エアリスは、闇の世界で魔王以外に唯一眠りに付いていないダスタンによって、力を与えられた。従って、彼女の魔法の源も彼であるため、使える能力も大したことはないのである。
「それにしても、あのバリギャンって……仲間だよね」
ユーニィは気付かなかったようだが、同じ闇の血を持つ彼女にはわかった。バリギャンには、闇の力を感じた。おそらくダスタンが言っていた、魔王が力を与えた魔法少女なのだろう。近いうちに来ることは知っていたが、それが今日だとは思わなかった。
「……でも、確か女の子だって聞いたんだけどな……」
 あの格好では、中身まではわからない。まさか誰も、女の子が特撮ヒーローの姿に変身しているとは思わないだろう。
「まあ、ボクも他人のことは言えないか。さてと……もうここにいてもしょうがないし、帰ろうっと」
 エアリスは立ち上がってお尻を払うと、真っ直ぐトイレに向かった。
 そして女子トイレの個室に入ると、しっかりと鍵をかける。
「まったく、不便だよね……。ボクだって一応魔法少女なのに」
 ぶつぶつ呟きながら、彼女は自分の頭に手をやる。そして髪の毛をつかんで手前に引くと……ずるっと取れてしまった。その下からは、短い本物の髪がある。少女趣味のツインテールは、カツラだったのだ。
 続けて丸い眼鏡を外す。レンズのない、フレームだけの伊達眼鏡だ。
「魔法でパッと変身できれば、早く事件の場所に行けるんだけどな……」
 カツラをバッグにしまうと、次に洋服を脱ぎだした。そして自分の本当の服である、トレーナーとジーンズに着替える。
「誰もいないよね……?」
 トイレ内に気配がないことを確認すると、急いで外に出る。
 派手な格好から一転、地味な格好で出てきたその姿は、間違いなく少年だった。しかも――彼は、美加の元クラスメートの山口晃であった。今日、学校で魔王の気配を感じ、美加に色々と話を聞いていたのは、彼が魔力を持っていたためである。
「ふぅ……早く変身能力回復してくれないかな」
 歩きながら、晃は小さくため息を付く。
 正体を隠すため、ということで、彼は契約時にこの変身セットをダスタンから渡されたのである。しかし実はあの格好が、ダスタンの趣味であることには気付いていた。
 断らなかったのは、晃の女装現場を見られたからである。といっても、それは晃の趣味ではなく、彼の姉のものだ。晃の姉は、時々彼に自分の服などを着せて楽しむという趣味があった。晃は姉には逆らえないので、ほとんど彼女の玩具と化している。もちろん最初は嫌だったが、最近、自分でも楽しんでいることに気付いてしまった。
「僕って女装の宿命でもあるのかなぁ……」
 大人になってまで女装をするつもりはないので、晃は少しだけ不安そうに呟いた。
 ちなみに、普段の一人称である『僕』と、女装したときの『ボク』で、微妙にイントネーションが変わっていた。不安に思いつつも、結構こだわっているのである。

 陽が大分西に傾いてきていた。
 夕陽に少し目を細めながら、少女は一人町中を歩いている。子供とはいえ、彼女の美しい風貌に、道行く人は思わず息を呑み、振り返っていく。
(うざったいなぁ……)
 とその少女、沙世は心の中で呟いた。派手な服を着ているわけでも、特別におしゃれをしてきているわけでもない。服は地味なものが多いし、身だしなみも最低限必要なことをしているだけだ。なのに、他人はいちいち彼女に反応する。
 羨ましいと思う者もいるだろう。しかし沙世にとっては、他人は虫けらも同然だ。虫けらに褒められても嬉しいどころか嫌悪を感じる。
 もちろん例外もあった。竹内美加だ。沙世は人に会った瞬間、それが自分にとって人間か、虫けらかと判断してきた。美加は彼女にとって数少ない『人間』だった。
(早く明日になればいいのに……。そうすれば美加ちゃんに会える)
 学校で美加と会うこと。それが沙世にとっての一番の楽しみだ。
 そして今は、二番目の楽しみを終えて帰るところである。しかし今回はいつにも増して相手が弱かったため、少しばかり不満だった。
(そういえば、今日は変なのがいたわね……)
 もちろん、子供のバリギャンのことである。悪魔の力を感じなかったこともあって放っておいたが、何者だろうか。たまにいる特異能力者だろうか。しかしどっちにしろ、弱い者に興味はない。
「ねえ君。暇かな?」
 突然声をかけられた。少しだけ視線を向けると、そこに三人の高校生がいた。制服を着て鞄を持っているところからして、学校帰りなのだろう。彼らはへらへらと笑いながら、沙世を取り囲んだ。
「君、すごく可愛いよね。おごるからさ、ちょっとだけ俺らと遊ぼうよ」
「こいつロリコンでさ、君のことすごくタイプなんだってさ」
「別に変なことしないからさ。あ、お姉さんとかいたら紹介してほしいなー」
「…………」
 沙世は心の中で小さくため息を付いた。たまにこういう程度の低いナンパをされることがある。本当は無視したいが、こういうのは結構しつこいのだ。
 仕方なく沙世は顔を上げると、にこっと愛くるしい笑顔を見せた。
「おっ?」
「かわいー」
 いい反応に、彼らも期待の目を向ける。しかし返ってきたのは、彼女の意外な行動だった。
 ポン。
「え?」
 ポン。
「ん?」
 ポン。
「は?」
 三人の額に、沙世はそれぞれ手の平を当てた。ただ、それだけだった。
「それじゃバイバイ、女の子には気を付けてね」
 彼らの間を抜け、手を振りながら沙世は歩いていく。
「は……?」
「何だ、今の……?」
「わけわかんねー……」
三人は沙世の謎の行動に、思わず顔を見合わせる。
「お、おい、ちょっと待……」
 追いかけようと一歩を踏み出したとき、彼らは自分の身体に違和感を感じて立ち止まった。
 腕が勝手に震える。足がむずがゆくなる。腹の中がどくどくと鼓動する。
「な、何だ……?」
 不思議に思いながら、自分の身体を見下ろし、そして――。
 ボンッ。
 腹が爆発して、内蔵が勢いよく吹き出した。
「!?」
 続けて、身体中の皮膚が裂けて肉がどろどろに溶け出す。
「うぎゃああああーーーーっ!」
「わああああああーーーーっ!」
 自分の身体の突然の異変に、彼らは大きく絶叫する。わけもわからずに、彼らはもてる力を振り絞って、悲鳴を上げながら地面を転がり回った。
「あー、うるさい」
振り返りもせずに、沙世は一言そう呟いた。
「な、何だ何だ」
「どうしたんだ?」
 彼女の後ろの方で、人々がざわめきだした。そこには、大声で叫びながら苦しそうに転がる三人の高校生がいる。もちろん、身体が溶けたりなどはしていなかった。
彼らは、沙世に幻を見せられたのである。なので実際には痛みはないのだが、自分の身体があんなことになれば、恐怖でそれどころではないだろう。彼らは自分の想像による痛みを味わい、そして苦しんでいた。
(でも後遺症くらい残るかもね)
 精神的ショックがあまりに強ければ、立ち直れるかどうかわからなかった。しかし沙世は後悔などしていない。所詮、相手は虫けらなのだから。
 しばらくすれば、救急車も来ることだろう。沙世は人々のざわめきも気にせず、その場を後にした。

「ただいま」
 数分後。沙世はようやく自分の家に到着した。多少大きいが、ごく普通の一軒家だ。両親は共働きで、いつも遅い時間にならないと帰ってこない。一人っ子で兄妹もいないので、この家には今誰もいないはずである。しかし……。
「おかえり、沙世ー」
 小さな男の子のような甲高い声が、物音と共に迫ってきた。廊下を走ってきたそれは、ぴょんとはねて、沙世の胸に飛び込む。
「あら、いたのクレイス」
意外そうな顔で、沙世は毛むくじゃらのそれを受け止めた。見た目は、ハムスターに近い。しかし身体はボールのように丸く、大きさは沙世の顔程もある。
 このクレイスと呼ばれた不思議な生物は、神のいる光の世界から派遣された、神と沙世との連絡係兼沙世のサポート係である。本当は人間の姿をしているのだが、正体を隠すために今の姿に変身しているらしい。しかしこんな、地球上に存在しないような生物になっている方が、よっぽど怪しいと沙世は思うのだが、可愛いので気にしないことにしている。
「さっき帰ってきたばかりだけどね。さっそくだけど連絡事項を伝えるよ」
 クレイスは顔を上げて沙世に言った。彼は昨日から、光の世界へ沙世のことを報告に行っていたのである。
「とりあえず、沙世のエンジェル・ユーニィとしての活躍は、みんなほめていたよ。大体週に一回のペースで悪魔のかけらを壊しているからね。ただ……」
「ただ?」
 キッチンに行ってジュースを飲みながら、沙世は聞き返す。
「怪我人と、建物の破壊が異常に多いことが非難されていたよ。それと、魔法の無駄遣いが多いこともね」
「ふーん……」
 興味なさそうに聞き流す沙世。
「私用で使うことも多少ならともかく、沙世は多すぎるんだよ。君も知っての通り、今の僕らは不完全な状態で、魔法エネルギーにも限りがある。だから、魔法の消費量には特に気を付けてほしいんだ」
 クレイスの言うように、沙世の魔法にも制限があった。彼女は美加と違って、全ての種類の魔法を使えるが、消費量に限りがあるのだ。魔力の供給源は神たちなので、彼らの封印が解かれていけば、使える量も増えていくことになる。消費した分の魔力は、月に一回程のペースで回復はするのだが、悪魔のかけらがいつ現れるかわからないため、無駄なく使っていかなくてはならないのが現状なのである。
「大丈夫よ」
 ジュースを冷蔵庫にしまいながら、沙世は言った。
「……根拠は?」
「だって、私には神様が味方してくれるもの」
つまり、神様が物事を良い方向に導いてくれる、ということだろう。
「う、う〜ん……」
確かにその通りではあるのだが、クレイスを含め神たちに運命を左右する力はない。それは沙世もわかっているはずなのだが……となると、やはり根拠はないのだろうか。
「ま、まあそれはとりあえず置いておこう。それより僕たちが気になるのは、悪魔の動きなんだ」
「悪魔?」
「そうだよ。もう十個以上かけらを壊しているのに、悪魔たちの動きが何も感じられない。奴らだって、既に封印から目覚めていてもおかしくないはずなんだけど……」
「ふーん。ああ、そういえば、今日はおかしなのがいたわね」
 顎に手を当て、沙世は先程の出来事を思い出す。
「おかしなのって?」
「特撮っていうのかな。ああいう格好の子供がいたんだけど、その着ているものが魔法で作られていたのよね」
「魔法で……って、えっ?」
クレイスは驚いたように声を上げる。
「そ、そ、それってもしかして!」
「悪魔の力は感じなかったから、違うと思うわよ。この世界にもたまにいるじゃない、特殊な能力を持った人って」
「まあ……そうだけど。でも一応、気を付けてよ。僕らは君だけが頼りなんだから」
「わかってる。……さてと、話はもういい?」
「えっ? う、うん。いいけど……」
「私、汗かいたからお風呂入りたいのよね。クレイスも入る?」
「そ、そうだね。それじゃ……い、一緒に……」
 一緒に、の部分はぼそぼそと小さかったが、沙世には聞こえたようだ。
「照れなくてもいいわよ。私が隅から隅まで洗ってあげるから」
「は、恥ずかしいなぁ……」
 クレイスは真っ赤になって頭を掻く。彼は一応男なのだが、見かけが可愛い動物なので、沙世は気にしないようだ。
「さて、行きましょうか」
「お、お手柔らかに」
鼻の下が伸びそうになるのを我慢しながら、クレイスは沙世に抱きかかえられて風呂場へ行ったのだった。

「ただいま……」
 公園での事件が終わってから、美加は真っ直ぐに家に戻ってきた。外に出ていたのはせいぜい一時間程度だが、辺りはすっかり夕焼けに染まっていた。
 鉄男も既に帰ってきており、居間でテレビゲームをしている。もちろんソフトは、通称ギャルゲーと呼ばれる、美少女キャラがたくさん出る恋愛ゲームだ。
 ちなみに広人は、サッカー部に所属しているので、帰りはいつも遅くなる。
「何だ、美加。その格好で出かけてたのか?」
 ゲームの手を止め、鉄男はにやりと笑って言う。
「しかもきちんとエプロンまで付けて……。どうやら随分気に入ったみたいだな」
「ち、違うってば。これはたまたま……いや、とにかくすぐ返すから」
「遠慮するなって。それはお前にプレゼントしたんだし」
「いい。返す。絶対返す」
「ま、いいけど……。着たくなったらいつでも言えよ」
「言わないっ」
 不機嫌そうに顔を背けながら、美加は二階へと上がっていった。
「本当は着たいくせになあ……」
 小さく呟いてから、鉄男は再びゲームの続きを始めた。

「あー、疲れた」
 だらりと力を抜いて、美加はそのままベッドに倒れ込む。
 今日は色々なことがあって、身体はともかく精神的に疲れてしまったのだ。
「こんなんで、これから大丈夫かな……」
 憧れだった魔法少女(らしきもの)にようやくなれたはいいが、初日から失敗してしまって、先が不安である。
「それにしても……カナルはどこに行ったんだろ」
「おう、ここだ」
 いきなり男の声がした。
「えっ!?」
 驚いて部屋を見回すが、誰の姿も見えない。
 そうして彼女が不安そうな顔をしていると――。
 むくっ。
 机の上に寝かせてあったぬいぐるみが、突然起き上がったのである。それは先日兄にもらった、アニメ「みらくるルンルン」の主人公、ルンルンの制服バージョンのぬいぐるみだった。
 ぬいぐるみが声を発して動き出すのは、アニメやマンガではよくあることだが、実際目にすると非常に不気味で怖かった。なので当然、美加は悲鳴を上げた。
「う、わああああーーーっ!!」
「な、何だ何だ! どうしたーーーっ!」
ドタドタと音を立てて、鉄男が美加の部屋へ駆け込んでくる。
「ぬ、ぬいぐるみが動いた……幽霊よ幽霊!」
「何っ……これが?」
 彼女が怯えながら指をさしたものを見て、鉄男は眉をひそめて首を傾げる。
「ふぅ〜む……何ともないようだが」
 確かに、今は動いていなかった。しかし動いた証拠に、仰向けだったぬいぐるみが、うつ伏せになっている。
「燃やそう! そういう呪われたものは燃やすしかない!」
「ルンルンちゃんを燃やせるか! ……これは俺が預かっておくことにしよう」
「ええーっ」
 不満の声を上げる美加。
「ふふん、お前もまだまだ甘いな。愛さえあれば、ぬいぐるみがしゃべろうが動こうが関係ない。むしろ喜ぶべきじゃないのか?」
 そう言って、鉄男はぬいぐるみに頬ずりをした。
「ほら、俺なんかこうやってすりすりできるぞ」
「いや……そこまではどうかと思うけど……」
時々、鉄男には付いていけなくなる。
「ま、ともかくそういうわけで」
「う、うん」
 ぬいぐるみを手に、鉄男は部屋から出ていった。
「はぁ……とりあえず助かった」
 それにしても、今日は幽霊関係に遭遇することが多い。厄日だろうか。
「……あれ。待てよ……?」
 咄嗟のことで忘れてしまっていたが、美加は今日から(一応)魔法少女なのだ。そして今日出会った幽霊関係のものは、全てある人物の仕業であった。
「ということは、今のはまさか……」
「ようやく気付いたか」
 呆れたような声。振り向くと、ベッドの上に乗っていたぬいぐるみが、腕組みをして立っていた。「くまのブー野郎」という、ちょっとシュールな熊のぬいぐるみである。
「カナル……なの?」
「その通りだ」
 偉そうな言葉遣い。間違いないだろう。
「な、何でぬいぐるみに? それ、あたしのブーさん……」
 結構お気に入りなのに、と美加は目で訴える。
「事情があってな。俺が直接そちらにいることができなくなった。だから今後は、こいつを依り代にしてお前と連絡を取り合うことにする」
「まあ、それはいいけど……別にぬいぐるみじゃなくても……」
 アニメではよくあるが、生命を持たないものが動くのはやはり怖かった。
「これが一番適当だったんだ。それとも、お前の兄貴が持っていったルンルンとかいう方がよかったか?」
「う、ううん。いいよこれで」
 ルンルンがカナルの声でしゃべられたら、大幅にイメージダウンするところである。その点、ブーさんなら割と似合っていた。
「それにしても、お前も同じ事を繰り返す奴だな。いい加減、俺だとすぐに気付よ」
「だ、だってしょうがないじゃない。いきなりぬいぐるみが動いたら驚くわよっ」
「そうか。まあ、それは置いておこう」
「置いておかないでよ」
「……俺たちの今後についてだが」
「あ……うん」
美加は真っ直ぐにブーさん……ではなくてカナルを見つめる。何か妙な感じだ。
「俺の魔力のかけらについては、俺が探し出して情報を送る。お前はその間は普通に生活していていい」
「沙世ちゃんみたいに?」
「そうだ。ただし、あいつはいつでも魔法を使えるが、お前は俺と一緒でなければ魔法を使えないようにしておいた」
「ええっ、何で?」
 唇を尖らせる美加。思い切り不満そうな表情だ。
「悪いが、俺たちにとってこれは遊びじゃないんだ。私用で俺の魔力を無駄遣いされて、肝心なときに足りなくなったらどうする。それにあの天使は勘が鋭いから、正体がばれるかもしれないだろう」
「う〜ん……そうだね……」
 残念だが、カナルの言う通りである。
「それから戦い方だが……今日はまあ大目に見たが、これからはああいう無駄はやめてもらう。理由はわかるな?」
「はーい。反省してまーす……」
 理想にこだわってノロノロしていたせいで、エンジェル・ユーニィに先を越されてしまったのだ。あれは悔しかったので、気を付けることにする。
「でも、余裕があるときはいい……?」
「余裕があればな……」
 ユーニィを相手に、あるかはわからないが。
「まあ、俺の言いたいことはこのくらいだな。これから頼むぞ」
 そう言って、カナルが手を差し出す。
「あ、うん。よろしく」
 美加はぬいぐるみの手をそっと握り返した。
 それからふと思い付いたように、少し顔をひきつらせながら質問する。
「……あのー、ところで……もしかして、この部屋にずっといるの?」
「それがどうした?」
「あたし、そろそろ着替えたいんだけど……」
 それを聞いて、ブーさんのぬいぐるみが不敵な笑みを浮かべる。
「ふっ、気にするな。俺は子供の裸には興味がない」
「気にするわよっ。あっち向いててっ」
「やれやれ。子供のくせに色気づきやがって」
 肩をすくめて、カナルは後ろを向いた。
「失礼ねー……」
確かに世間的にはまだ子供だが、そう連発されると頭に来る。
「これでもちょっとはねぇっ……」
「ちょっとは?」
「……な、何でもないわよ」
 自分の成長具合を、わざわざ教えることもないだろう。
「ふんだ」
 そっぽを向きながら、美加は服を脱ぎ始める。
「何を怒っているんだか……」
 と、二人がそんな会話をしているときだ。
「おーい、美加!」
 バン、とドアを叩いて、いきなり鉄男が入ってきた。
「やっぱりルンルンちゃん全然動かないぞ! 本当に動いたのか……あっ!?」
「えっ……?」
 二人は見つめ合ったまま、一瞬その場で固まってしまう。
 美加は丁度スカートを脱ぎかけたところで、下着姿をばっちりと見られてしまった。
「や、やあ。本日はお日柄もよく……」
 混乱したのかわざとなのか、鉄男はわけのわからないことを言い出す。
「鉄兄ぃ〜……」
 ぷるぷると美加の拳が震えていた。
「さっさと出てけーっ!」
「は、はいはーい」
「あと、これも返す!」
 急いで脱いだコスプレ衣装も、彼に投げ付けた。
「何っ……脱ぎ立てをくれるのか?」
 顔にぶつかったそれを、鉄男はしっかりと抱きしめる。
「このっ、へんたーいっ!」
 バキィッ!
 ダッシュで勢いを付けたパンチを、彼の顔面に食らわせた。
「ぐはあっ!」
 鉄男は鼻血を吹き出した。しかしその顔は何だか楽しそうだ。
 そんな二人の様子を見て、カナルは一言、呆れたように呟いた。
「変な兄妹だな……」
 ともかく、こうして美加の魔法少女としての一日目は過ぎていったのである。

  第二話 「魔法少女たち」

  その一 「別離」

 キラキラと。少女の周りは輝いていた。
「まじかるチェ〜ンジ!」
 ちゃんちゃんちゃらら〜ん。
 彼女のかけ声と共に、どこからかBGMが流れてくる。
 光の中で少女の着ていた服は破け、そして新たな衣服を身に纏った。とても機能的とは思えない、フリルだらけのど派手な衣装だ。何故か手にはスティック、肩には謎の未確認生命体が乗っている。
「戦う正義のヒロイン! まじかるミカ、参上!」
 変身が終了すると、誰にともなくピシッとポーズを決め、きりりと敵を睨み付ける。敵はへのへのもへじの顔をしており、さらにくねくね踊る謎の人間もどきだ。
「途中省略でいきなり必殺技よ! まじかるスーパーアタック!」
 ぽわぽわーん。
 一体どんな意味があるのかわからないが、彼女の周りを星やハートがくるくると飛び交っていた。そして――。
 ちゅどーん!
 スティックから放たれた光線が、敵を貫き、爆発する。理由は彼女にもわからないが、何故か敵はやられると爆発するらしい。
「やったわ! 今日もまじかるでスーパーな勝利よ!」
少女は満面の笑みを浮かべ、カメラに向かってVサインをする。そう、実はこの様子はテレビカメラで中継されており、今や彼女はお茶の間のヒロインなのだ。
『やりました! まじかるミカが勝ちました! 彼女は今日も我々を悪の手から守ってくれました!』
 実況するのは、人気アナウンサーの小宮典子だ。
『さっそくインタビューしてみましょう! まじかるミカさん、この勝利をまず、誰に伝えたいですか?』
「てへへ、そりゃあやっぱり……」
 とにやける彼女の許に、一人の少年が近付いてきた。
「美加ちゃーんっ!」
「ひ、広人さんっ……」
そう。それは彼女の義理の兄であると同時に、片思いの相手でもある、広人だった。彼は走ってくると、そのまま美加を抱きしめる。
(きゃーーっ)
 彼女は心の中で歓喜の声を上げていた。
「美加ちゃん、君が僕らを守ってくれていたんだね。ごめんよ、何も知らなくて」
「そ、そんなっ、いいんです! みんなが喜んでくれればあたしも嬉しいんです!」
「き、君は何て健気なんだ……! 美加ちゃん、僕でよかったらぜひ恋人になってくれないか?」
「広人さんっ……嬉しいですっ!」
 テレビカメラの前で抱き合い、見つめ合う二人。
『何と! 我らがアイドル、まじかるミカに美形の恋人ができましたーーっ!』
 絶叫する小宮アナウンサー。
「ちょっと待ったあああーーーーっ!」
 観衆の中から、一際大きな声が上がった。
『お、おーっと! カップルが誕生したというのに、ちょっと待ったコールですっ!』
「えっ……?」
その声を聞き、美加は嫌な予感がして声の方を振り返った。そしてそこにいたのは――予想通り、実の兄である鉄男であった。
「て、鉄兄ぃ! な、何で!?」
「何でとは心外な。妹が平和のために頑張っているというのに、兄が黙っているわけにはいかんだろう」
「い、いや、そうじゃなくて……何でここに……?」
「ふっ……全国のみなさんに、真実の愛を伝えようと思ってな……」
「えっ……?」
 非常に、とてつもなく、最大級の嫌な予感がした。
「みなさん、実は私と美加は兄妹という垣根を越えて、深く深ーく愛し合っているのです! 広人との恋人宣言はそのカモフラージュなのです!」
「って、何言い出すのよぉぉぉーーーっ!」
 バキイッ!
 美加の拳が彼の顔面に激突した。しかし鉄男は全然平気だった。
「おおうっ、何発でも殴ってくれ! この痛みが愛の証なのさっ!」
「て、鉄兄ぃ、変……」
 いつも変だが、何だか今日はいつも以上に変である。
「そうだったのか……。そうだね、君たち兄妹の絆に僕なんかが入れる余地はなかったんだね……」
『何と、衝撃の事実です! まじかるミカは実の兄と熱愛関係があったのです!』
「って、広人さんも小宮ちゃんも、何で信じてるのよーーーっ!」
 無茶苦茶な展開に、美加は頭を抱える。
「………………あ、あれ? みんなはどこに……」
 ふと顔を上げたとき、いつの間にか観衆はいなくなり、真っ暗な空間に一人きりになっていた。
「ふふふ……一人じゃないぞ」
 闇の中から、鉄男の姿が浮き上がった。
「お前の側にはいつでも俺がいる」
「いなくていいわよっ!」
「まあ、そういうな。ここでは二人きりだ。兄妹の愛を堪能しようではないか」
「げっ……! ま、まさか……」
「さあ、遠慮はいらない。『お兄ちゃん』と呼んでくれ」
「誰が呼ぶかーーーっ!」
ドカーーーンッ!
 まじかるミカの格闘技、真空跳び蹴りが炸裂する。しかし鉄男には効かなかった。
「嘘っ! 何で!?」
「もちろん、それは愛のパワーだ」
 彼は嬉しそうにずんずんと近付いてくる。
「い、いやあああーーーっ!」
 たまらず、美加は逃げ出した。しかし彼はぴったりと付いてくる。
「さあ〜、早く『お兄ちゃん』と呼んでくれ〜」
「いやあーーーっ! 助けてーーーっ!」
闇の中を走る美加。その先に光は見えない。
「助けて……!」
彼女にとっての光、それは――。
「助けて……広人さんっ!」

ガンッ。
「あたっ」
 何か硬いものが激突した。目の前がちかちかする。
「あ、あれ……?」
 状況を把握するのにしばらくの時間がかかった。
 目の前には顔をぶつけた白い壁。四方を囲まれた狭い空間。床のタイル。ズボンを下ろし、腰をかけている自分。横にはトイレットペーパー。
「トイレ……?」
「ようやくお目覚めか」
 すぐ側で、呆れたような男の声。そこには、「くまのブー野郎」のぬいぐるみがあった。
「カナル……?」
「ああ。何やらうなされていたようだが?」
「うーん……ちょっと変な夢見て……」
 と眉をひそめながら頭に手をやり、軽く振ってみる。
 そしてようやく自分がここにいる理由を思い出した。
 今日は日曜日なので、昼近くまでベッドでごろごろしていたのである。しかし、カナルの魔力のかけらに憑かれた人を発見し、現場であるデパートの屋上に向かうことになった。そして何とかエンジェル・ユーニィが来る前に倒すことができた美加は、変身を解いた後トイレに入り、そのままつい眠ってしまったのだ。というのも、昨日遅くまでアニメ「みらくるルンルン 愛の湯煙編」を観ていたため、寝不足なせいだった。
「はーあ……」
 と美加は大きくため息を付いた。
「どうした? わざとらしくため息なんか付いて?」
「だってさ……あたしが魔法少女になってから、もう半年になるじゃない? なのに、どうしてまだ特撮ヒーローにしか変身できないのよ?」
 便座の上から、じろりと睨み付ける。
「それは俺に言われても困る。どの封印が解けるかは、俺にもわからんからな。運が悪いとしか言えん」
「ぶーぶー」
 口をとがらせ、美加は不満の声を上げた。どうしようもないのは彼女もわかっているのだが、期待していただけに、やるせないものがある。
 そう。最初に美加がカナルと出会ってから、既に半年が過ぎていた。
 その間に、色々あった。魔力の封印は大体週に一回のペースで解かれ、欲望を持った人間に取り憑いていった。そして宝石へと変化する魔力を破壊するために、エンジェル・ユーニィと競っていく。もちろん、力の強さでは美加はまだ彼女にかなわない。だから彼女より早く魔力の所在がわかるという利を生かし、ユーニィが到着する前に破壊するのだ。
 しかしユーニィもそれで黙ってはいない。例え遅れてきても、豊富な種類の魔法を使い、実際美加以上に成果を上げていた。割合はユーニィが六、美加が三といったところである。そして残りの一は、エアリスだ。
 三人目の魔法少女、エアリス。一応彼女は悪魔側の人間らしいが、美加はほとんど話したこともなければ、まともに会ったこともない。三人の中では一番魔力が低いが、時々ふっと現れては、魔力のかけらを破壊していた。カナルに言わせるとそれは偶然でしかないそうだが、仲間なのに何故美加と会おうとしないのかは謎である。
 ともかく、彼女のたちの活躍で、現在解かれた封印は三十六個。カナルの魔力も随分回復し、美加もかなりの攻撃魔法を覚えることができた。だが、解かれた封印はまだ三分の一に過ぎないらしい。まだまだ先は長かった。
「へ、下手すると……魔法少女に変身できる魔法は、一番最後の封印ということも……」
「ありえるかもしれんな」
 カナルはあっさり肯定する。
「カ〜ナ〜ル〜っ!」
 じろりとぬいぐるみを睨み付ける美加。そこではたと気付く。
「あんた……何でここにいるのよ……?」
「何でと言われても、いつも一緒じゃないか」
 腕組みをし、彼は偉そうに見上げる。
 現在、魔王カナルは闇の世界に戻っていたが、美加のアドバイザーとして、彼女の部屋にあった「くまのブー野郎」というぬいぐるみに意識の一部を宿していた。幸い、それはそんなに大きなものではないので、美加はランドセルとは別に手提げ袋に入れて、学校にも持っていっているのだ。しかし。
「トイレは別に決まってるでしょ! この変態! 女子トイレ好きの魔王!」
「人聞きの悪いことを言うな! 一緒に連れ込んだのはお前じゃないか!」
「そ、それはしょがないでしょっ。疲れてたんだから! それくらいは気を利かせるのがマナーってもんじゃない!」
「何をっ……」
しかしカナルが反論する前に、彼はトイレの外へと投げ捨てられてしまった。
 ぽいっ。
「うわっ!」
 床に転がるブー野郎こと魔王カナル。
(くそー……ミカの奴、最近調子に乗ってるな……)
 起き上がりながら、彼は思う。出会ったばかりの頃は、美加も魔王という存在に少しは警戒していたのだが、今ではそんなものは影も形もない。完全に友達同士か、またはペットのような扱いである。カナルとしては彼女には働いてもらわねばならないので、多少は多めに見ているが、段々と扱いがいい加減になっている。今だって、覗こうと思っていたわけではない。美加がトイレに入ってすぐに眠ってしまったので、どうしようもなかったのだ。ぬいぐるみの状態では動くことはできても、魔法は使えないので、ドアノブを開けることもできないし、隙間から出ることもできない。そういう理由で、決して女子トイレが好きなわけではないのである。
 少しして、美加は個室から出てきた。カナルは文句の一つでも言ってやろうと口を開く。
「おい、美加」
「もういいわ。あたしも悪かったし」
「何っ……?」
 いきなり謝られるとは、拍子抜けである。
「よく考えたら、慌ててトイレ入った後、あたしそのまま寝ちゃったんだった。なのに怒りだしちゃって、ごめんねカナル」
「ま、まあ……反省しているならいいが……」
こうして悪いと思ったらすぐに謝るのは美加のいいところである。それに免じ、今日のところはカナルも許してやることにした。
「じゃ、早く帰ろ。七時からアニメスペシャルがあるから、今のうちに寝ておかないと」
「そうか」
 彼女に付き合って、カナルも時々アニメを観るが、はっきり言ってどうでもよかった。
(こいつも最初に比べたら、大分使えるようになってきたからな。あの天使は相変わらず強いが、確実に差は縮まってきている。しかし……)
 一つ、解せないことがあった。神と悪魔がお互いに活動を始めてから半年が過ぎようというのに、神はいまだに勘違いをしたままなのである。
(奴らがよっぽど鈍いのか? それとも俺の心配しすぎか? まあ、それならそれに越したことはないんだが)
 カナルがそんな考え事をしていると、その体がひょいとつまみ上げられた。
「ほら、いくよカナル。誰かに見られたら困るでしょ」
「あ、ああ」
 カナルは美加の手提げ袋の中に入れられた。ここからは声を出しての会話はなしである。
「さーて、帰って寝てアニメ観よーっと」
「……気楽だな、こいつは」
 手提げ袋の中で、カナルはぼそっと呟いた。

「……おい。帰るんじゃなかったのか?」
 周りに人がいないのを確認してから、カナルは呆れたように言った。
「だって、せっかくデパートまで来たんだし。ちょっと見るだけだって」
しかしちょっと言いながら、既に十分が過ぎている。彼女のいるのは、洋服売場。エスカレーターを降りながら売場を目にし、ついつい寄り道してしまったのである。
「……お前、金は持ってないんだろ?」
「だから、見るだけ。下見しといて、今度来たとき買ってもらうの。あ、これいいかも〜」
一つを手にして、自分の身体に当ててみる。
「今度来たときはもうないかもしれないじゃないか」
「う、うるさいなあ……」
「それに、子供が一人でうろうろしていたら、万引きと思われるぞ?」
「失礼ねっ」
 思わず怒鳴るが、ふと見ると、少し離れたところでこちらを見ている店員がいる。
「まさか疑ってはいないだろうけど……わかったわよ。帰るわよ」
 何だか気が削がれてしまった。
 服を置いて、ため息を付きながら売場を出る。
 と、そのときだ。
「わっ」
 仕切りの陰で気付かなかった。向こうから歩いてきた人に、美加はぶつかってしまう。
「あっ……ご、ごめんなさい」
 確認しないで飛び出した、こちらの不注意だ。彼女は慌てて謝る。
 が、返ってきたのは聞き覚えのある声だった。
「あれ……? 美加ちゃんじゃない?」
「えっ? あ……広人さん?」
 そこにいたのは、いつものように優しい顔をした広人であった。
 まさかこんなところで会えるとは思わなかった。美加の胸はドキドキと高鳴り出す。
「え、えと、その、ぐ、偶然ですねっ」
「うん、偶然だね」
相変わらずのとぼけた答え方である。
「ねえ、竹内くん。この子、知り合いなの?」
「えっ?」
よく見ると、広人の隣には彼と同じくらいの年の少女がいた。いつも沙世を見慣れているのであまり感じないが、まあ美人といえる部類に入るだろう。茶髪のロングヘアーで、秋だというのに服も露出度が高い。しゃべり方も何だか軽そうなだ。
「えーと……ボクの義理の妹だよ」
「あ、この子がそうなんだ……。それじゃあ、あたしも挨拶しておかなきゃね」
 彼女は美加に向き直り、少し腰をかがめる。
「はじめまして。あたし、長崎恵。竹内くんの彼女で〜っす」
「えっ……」
 ドクンっ、と美加の心臓が強く鼓動した。
「……かの……じょ……?」
 確かめるように、ゆっくりと言葉を繰り返す。
「そう。か・の・じょ。てへっ」
 そう照れ笑いをして、彼女は広人の腕にしがみつく。
「な、長崎さん。そんな大声で言わなくても……」
 困った顔の広人だが、恵はお構いなしだ。
「いいじゃない、別に。もう、照れ屋さんっ」
 つんつん、と彼の頬をつつく恵。どうやら彼女の方が主導権を握っているようである。
「……本当……なんですか、広人さん?」
 美加はじっと広人の顔を見つめた。
 二人のやり取りからして、それらしい雰囲気はある。だが、彼女の方がからかっているだけという可能性もあった。もしくは強引に付き合わされてるとか。
 そんな答を期待して、美加は訊ねたのだ。
「その……実はね……」
 と頭を掻きながら、広人は答えにくそうに言った。
「……本当なんだ」
「……………………」
 目を見開き、呆然となる美加。
「ごめん……黙ってて」
「いえ……」
 と美加はゆっくりと首を振り、そしてにっこり笑顔を浮かべた。
「よかったですね、きれいな彼女ができて。広人さん、ぽけっとしてるから、ちょっと心配だったんですよ」
「…………」
「それじゃ、あたしはこれで。ゆっくりデートの続きしてきてね」
 手を振り、美加は早足で去っていく。
「ばいばーい」
とその後ろ姿に、恵が手を振った。
「……ねえ、竹内くん。あの子、もしかしてショック受けてなかった?」
「……きっと内緒にしてたから、びっくりしたんだよ。僕なんかに彼女ができたってね」
「そう? 竹内くん、かっこいいのに」
「ありがとう。じゃ、行こうか」
 一度だけ美加の行った方を振り返り、広人は歩き出す。
「あ、待ってよ」
 慌てて後を追う恵。
 それからデパートを出た後、広人は表面上は楽しそうにしていたが、内心後悔で一杯だった。
(美加ちゃんに……悪いことしちゃったな……)
彼女の気持ちには、前から気付いてはいたが、ずっとそれに対する答が出せないでいた。年が離れている、というのは言い訳だろうか。
(どうすればよかったんだろ……)
恵に対してもそうだ。告白されて答につまる広人に、だったら試しに付き合ってみようよ、と言われて押されるように付き合ってはいるが、そんな関係をいつまでもを続けていくわけにもいかないのだ。
「ねえ、竹内くん。何か、つまんなそー」
 唐突に足を止め、恵はすねたような顔をしている。
「あたしといてもつまんない?」
「え? そ、そんなことはないよ」
「……もういい。とにかく今日は帰るから」
「あ、長崎さん」
 引き止める間もなく、彼女は行ってしまった。
(何やってるんだろうな、僕は……)
 自分の優柔不断さがつくづく嫌になる広人だった。

 スタスタと。美加は早足で歩いていた。
「意外だったな。あいつに彼女がいたとは」
「意外じゃないよ。広人さん、かっこいいし」
からかい口調のカナルに、美加はムスッとした顔をしながら応える。
「ショックだろ?」
「…………」
 美加は無言で歩いて行く。
 カナルはもちろん、美加の気持ちには気付いていた。なので、最初はいいからかいのネタであったのだが、いつの間にやら、相談を受けるようになっていた。だから、カナルは美加がどれほど広人を好きなのか、また影響を受けてきたのかを知っていた。
(……仕事に支障がなければいいがな……)
 とりあえず、思ったのはそんなことだった。
「……ん? おい、どこに行くんだ?」
 先程トイレに行ったばかりだというのに、美加はまたトイレに向かっていた。
「ちょっと寄り道」
「腹冷やすぞ」
 カナルのからかいに、美加は応えない。
「はあ……」
 小さくため息を付くと、カナルはそれ以上話しかけるのをやめた。
 美加はトイレの個室に入ると、鍵もかけずにその場に立ち、人がいなくなるのを待つ。
そして誰もいなくなったのを確かめてから、美加はぼそりと呟いた。
「……ウェイクアップ」
その言葉と同時に、彼女の身体の中に眠る魔力が活動を始める。
「おい、美加」
「移動するよ、カナル」
 一方的にそう言うと、美加は瞬間移動の魔法を使った。その途端、彼女の姿がかき消え、押さえがなくなったドアが、ゆっくりと開いていく。誰もいないトイレに、バンッという音が大きく響いた。

着いたのは、美加の通う小学校の屋上だった。少し強めの風が、彼女の髪や服をなびかせる。
「ここに何の用があるんだ?」
「別に。ちょっと一人になりたかっただけ。家じゃ鉄兄ぃがうるさいし。ここなら今日は日曜日だし、誰も来ないから」
 そう言って、美加はごろんと手足を広げて横になった。風を感じながら、どこまでも高く、青い空を眺める。
「……風邪ひくぞ」
「いいの。ちょっと冷やしたいから」
 目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。そしてぽつりと呟く。
「悔しいなぁ……」
「何がだ?」
「あたしがもう少し早く生まれてれば、広人さんと釣り合ってたのに。あんな人に取られることもなかったのにと思って」
「随分、自意識過剰だな」
「そうかな……」
 美加はだるそうに、手提げ袋の中からカナルを取り出して、自分の前に置いた。
「確かにあたし、おしとやかじゃないし、あんまり女の子っぽくないけどさ。ほら、女の子は恋をすると変わるって、よく言うじゃない。あれ本当なんだよね。あたし、昔に比べたら変わったと思うよ」
「そうかい」
 そんなことはどうでもいい、と言うように、カナルはそっぽを向く。
「まあ、聞いてよ……。昔は暗くておどおどしてて、いつも鉄兄ぃの側にくっついてたけど。広人さんと出会ってからは、この人に好かれようと思って頑張って明るくなったんだよ……。おかげで、今じゃこんなに元気だし……」
声が、かすかに震えていた。
「……泣くなよ。うっとうしい」
「泣いてないよっ……」
 懸命に否定する美加。だが、その瞳からは次々と涙が溢れてくる。
「別にお前の努力は無駄になったわけじゃないだろう。だったら、今まで元気をくれてありがとう、ぐらい言ってやればいい」
「……………………えっ?」
しばしの間を置いて。
 ずざっ、と美加はわざとらしく後ずさる。
「……何だ、その反応は?」
「だって、カナル……もしかして、慰めてくれてる?」
「そんなわけあるかっ。ただ、近くで泣かれるとうっとうしいだけだっ」
「ぷぷっ、照れてる。かわいい」
 笑いながら、美加はカナルを手に取り、抱きしめた。
「照れてない、離せっ。お前、最近俺が魔王だということ、忘れているだろ?」
「いいじゃない、そんなこと。ありがとね、カナル」
 腕の中で暴れるカナルの頭を、強引に撫でる。ぬいぐるみの状態では魔法が使えないので、彼はされるがままだ。
(完全にペット扱いだな……)
 カナルはため息をついた。

 翌日。月曜日。
 カナルのおかげで少しは和らいだものの、やはり昨日のショックは大きく、その日の美加は、朝から気の抜けた状態だった。
「どうしたの、美加ちゃん。今日は元気ないわね」
「うん、ちょっとね……」
 心配する沙世にも、素っ気ない返事しかしなかった。それで何かを察したのか、その日の彼女はあまり話しかけてはこなかった。
(美加ちゃんがここまで落ち込む原因は、大体想像できるけど……。他の女子たちの様子も、少し変なのよね……)
 授業中でも互いに目配せをし、何だかそわそわしているのである。
(ま、他の子のことなんて、どうでもいいけど)
 そう思って、いつもの通り無関心でいたのだが、昼休みの給食中に、相手の方から沙世に関わってきた。
「放課後、話があるから残ってくれる?」
 同じ班の樺島香奈が、おもむろにそう話しかけてきたのである。彼女は男子にも引けを取らないがっしりした体格で、気も強く、クラスのリーダー的存在だった。
 沙世としては、そんな彼女に用などなかったのだが、話は美加を抜かした女子全員からあるというので、仕方なく承諾した。
「何か、やな雰囲気……」
 美加が呟く。
「そう?」
 と沙世は気にとめた風でもなく、昼食を続けた。もちろん、その時点で話の内容というのは、ある程度予想できていた。

「あんた、気に入らないんだよねっ!」
 バンっ、と机を叩き、開口一番に怒鳴ったのは、樺島香奈だった。
 美加を除くクラスの女子十五名が、放課後教室に集まり、彼女を睨み付けていた。
(……やっぱり)
 と沙世は心の中でため息を付く。
 こんな連中の相手などしていたくないのが本音だが、とりあえず話だけは聞いておくことにする。
「……それで、具体的に何が気に入らないの?」
「全部だよ全部! あんたの顔から、その態度まで全部!」
 指をさし、怒鳴り散らす香奈。よほど腹に溜まっていたものがあるらしい。
 それをきっかけに、他の女子たちからも、口々に沙世に対する不満の声が挙がっていった。
 沙世は美人で成績優秀なことを鼻にかけているとか、美加以外とは目を合わせようともしないとか、はたまた自分の好きな男子を取られた等々。
「……なるほど。要するに、ひがみね」
「なっ……!」
 絶句する女子たち。
「何をしてもわたしにはかなわないから、こうして憂さを晴らそうっていう魂胆でしょ」
「う、うるさいっ! それ以上言うと……」
 じりじり、と香奈たちが距離をつめてきた。
「ちょ、ちょっと樺島さん、やめようよ。そういうのは……」
 高まる険悪な雰囲気に、それまで黙って成り行きを見ていた美加が口を開く。
「竹内さんはこっち来な。来ないなら、あんたも一緒だからね」
「ちょ、ちょっと〜……」
 顔をひきつらせる美加。彼女には、もうどうしていいのかわからなかった。
「心配しないで、美加ちゃん。私も彼女たちがうざったく思っていたから、丁度よかったわ」
 にっこり微笑む沙世。
「このっ、何が丁度よかったっていうの……!」
 怒りが頂点に達した香奈が、沙世に迫り、右手を大きく振り上げる。
 次の瞬間。
「うあああっ!」
 ガシャーーーンッ!
 香奈は沙世に迫った勢いのまま、その後ろの壁に叩き付けられていた。
(あちゃー……)
 と美加は手の平で目を覆う。
「えっ……?」
何が起こったのかわからず、呆然とする女子たち。
 今のは、沙世は何もしていなかったはずである。いや、もちろん実際には魔法を使って吹き飛ばしたのだが、少なくとも他の人間には、何もしていないように見えた。
「あらあら、樺島さんたら一人で転がって、何してるの?」
 倒れたまま痛みをこらえる彼女に、沙世は平然とした表情で挑発する。
「く、くそっ……許さないっ!」
何とか立ち上がった彼女は、皆に号令を出す。
「一斉にやるよ!」
 その言葉に、大勢の女子たちが沙世に向かっていく。
 だが、結果は既に見えていた。
「きゃああっ!」
「な、何これ!?」
 悲鳴の声が同時に上がる。
 彼女たちは、不自然な格好のまま動けなくなっていた。からまれていたのである。沙世の発した、見えない糸に。今や、教室中が蜘蛛の巣のように糸が張り巡らされていた。
「痛っ……締め付けられてるみたい……!」
「そうそう。あまり動かない方がいいわよ。下手すると、手足がちぎれ落ちるかも」
楽しそうに笑みを浮かべて、沙世は言う。
「ま、まさか! あんたがやったっていうの!?」
 常識ではありえない事態に、彼女たちは愕然としていた。
 バリバリッ!
 糸を伝って電気が流れる。
「うああああっ!」
電気は少ししびれる程度のものだったが、沙世に対する畏怖もあり、彼女たちの意識は朦朧となった。
「ふ、藤原……あんた、一体何なの……?」
「ば……化け物……」
 女子たちはすっかりおびえて、身を震わせている。
「ふふ……化け物とは失礼ね。天使のわたしに向かって」
「さ、沙世ちゃん、もうその辺でやめようよ……」
 彼女たちの方から仕掛けたこととはいえ、これ以上は危険である。美加は止めにかかったのだが、それを遮るような大声で、香奈は言った。
「言いふらしてやる!」
「……え?」
「先生にも! 親にも! みんなに言いふらして、もう学校に来れないようにしてやる!」
「いいわよ」
沙世はあっさりそう返した。
「えっ……?」
 意外な言葉に、香奈は目を見開く。
「……ただし、言えたらの話だけど」
 すっ、と彼女の身体が持ち上がり、宙に浮いた。
「なっ、なな何っ?」
「大丈夫。ここ三階だから、落ちても死にはしないわよ」
 沙世の言葉と共に、香奈の身体が窓側へと移動していく。
「ちょっ……ちょっと嘘でしょ! 冗談はやめてよ!」
沙世は応えない。その間にも、彼女の身体が、ベランダへと行き着いた。普段見慣れている景色でも、ここから落ちるとなると話は別だ。
「さて。頭は打たないように調整はしてあげるけど、何日くらい入院するかしらね?」
「や、やめて! やめてよ! 謝るから! ねえっ!」
 香奈の顔は、恐怖ですっかりひきつっていた。
「沙世ちゃん! やめて!」
美加の声に、沙世の動きが止まる。
「こんなの、やりすぎだよ!」
「……そう? こんな連中、いてもいなくても同じじゃない?」
「何言ってんの! クラスメイトじゃない!」
「…………」
 一瞬、沙世は顎に手を当て、考える素振りをする。
「必要ないわね。前にも言ったでしょ? わたしに必要なのは……美加ちゃんだけ」
にっこり微笑む沙世。
(……だめだ……)
 と美加は思った。今年の春から半年、美加は何とか沙世のそういう考えを変えようと努力してきた。してきたつもりだった。だが、彼女は何も変わってはいない。
(……あたし……これ以上、沙世ちゃんに付いていけない………)
 もしかしたら、自分には沙世を変える力などなかったのかもしれない。ともかく、これ以上彼女と友達付き合いをしていくことなどできないと、そのとき強く思った。
「美加ちゃんと二人きりの教室……きっと楽しいわよ」
微笑みながら、沙世は外を見る。その目の前では、香奈の身体がベランダの上に持ち上げられ、今にも落とされようとしていた。
「いやああっ! お願い、助けてっ!」
 必死に叫ぶが、彼女は沙世にとって人間としての価値すらない、虫けら同然の存在だ。そんな虫けらの声を聞き入れるはずがなかった。
「安心して。あなただけじゃなく、クラスの全員を同じように落としてあげるから」
「ひぃっ!」
 と教室の中で悲鳴が上がる。
「沙世ちゃん……」
「もう少し待っててね、美加ちゃん。今日は一緒に帰れるから。それじゃあ樺島さん、さよなら――」
「沙世ちゃんっ!」
 ぱしんっ!
 音が、大きく響いた。
「………………………………えっ?」
 信じられないものを見たように、沙世は目を丸くして彼女を見る。
その瞬間、どすん、と香奈の身体がベランダの中に落ち、クラスの女子たちも見えない糸から解き放たれた。
「美加、ちゃん……? どうしたの? わたし、何か気に障ることでも言った?」
「……いい加減にしてよ……」
 ぽつりと、美加は言った。
「えっ……?」
「そんなこともわからないから、沙世ちゃんはいつまでも友達できないんだよっ!」
「……な、何言ってるの美加ちゃん。わたし、友達はあなただけで――」
「あたしだって!」
 美加は叫んだ。その目から、涙がこぼれて頬を伝う。
「あたしだって、もうっ……沙世ちゃんには、付いていけない……」
「……………………」
 最初は混乱していた沙世だが、美加の言葉を理解すると、その目がすっと細くなった。
「つまり……わたしとは絶交したい、ということね……?」
「……そうだよ」
美加はしっかりと頷いた。
「そう。残念ね」
 意外とあっさりした表情で、沙世は言う。
「それじゃ、今からあなたとは他人だから。今後、わたしには話しかけないで」
「……わかった」
「それじゃ、さよなら」
 沙世は自分の席に行って鞄を取ると、教室のドアに向かった。出ていく前に、一度だけ振り返る。
「全員に一応言っておくけど。もし今のことを他の誰かにしゃべったら、命の保証はしないから」
 びくっ!
 女子たちは身を縮こませた。
 そして彼女が出ていったのを確認すると、安堵からか、それともこれからの学校生活を考えてか、一斉に泣き始めた。
「うああああっ……」
「何なのっ……! 何なのよ、あいつはっ……!」
「…………」
 美加は何も言うことができなかった。

 そして翌日。事件に関わった女子たちは、美加と沙世を抜かし、全員欠席した。

  その二 「消去」

『一体……誰がこんな事態を予測できたでしょうか?』
 明るさが売りの小宮典子アナウンサーも、さすがに沈痛な面持ちでテレビカメラの前に立っていた。
『御覧ください。あれほど人で溢れていた新宿でさえも、今やほとんどその姿を見ることができません』
 彼女の声と共に、その後ろ、新宿の街並みが映し出される。
 そこは――廃墟、といってもよかった。高層ビルなど一つもなく、建物はほぼ瓦礫と化してしまっている。
『新宿だけではありません。東京を中心に、日本各地が似たような状態なのです。私にもいまだに信じられないのですが、この事態を引き起こしたのはたった一人の少女――エンジェル・ユーニィなのです』

「…………」
 竹内家の居間で、カナルの意識の一部があるブーさんぬいぐるみを胸に抱きながら、美加は家族と共にテレビを観ていた。
(沙世ちゃん……)
 各地の状況を伝えるニュースを観ながら、美加はますます暗い表情になる。
 あの、沙世と絶交した事件から半年近く。彼女はそれまで以上の破壊力を持って活動していた。

「エンジェル・イレイザー!」
 あれから数日が過ぎて。現れた、カナルの魔力に取り憑かれた人間に対し、ユーニィは、新たな技を使ったのである。
 彼女が手の平を掲げると、そこに巨大な青い円盤状の放電物体が生まれた。その大きさ、実に半径五百メートル。これまでと違い、効果範囲が驚異的な広さだった。しかもそれだけではなく――。
「はあっ!」
 手を振り下ろすと、その円盤状のものは大地に向かって落とされる。
「やばい! 逃げろ、美加!」
「えっ?」
 その場にいた美加に、カナルは慌てて言った。
「いいから早く! 瞬間移動であれの外に出るんだ!」
「う、うん」
 ぎりぎりのところで、美加たちはその場から逃れることができた。
 しかし魔力に憑かれた者は、そんな距離から逃げることもできずに受けてしまう。
 悲鳴すら、上げることができなかった。
 大地に叩き付けられた円盤状のものは、その地下深くに沈み込み――そして。
 ドゴオオオオオオオオオオッ!
 範囲以内の全てのものを、破壊したのである。ただ、神の術の性質状、生命を奪うことはできないので、破壊したのは主に建物だ。しかし、それでも怪我人や重傷者は膨大な数に上った。
「嘘……そんな……街が……」
 離れた場所――ビルの屋上で、美加は呆然とその光景を見ていた。
「くそ……奴ら、とんでもない術を完成させたようだな」
 カナルも険しい表情になっていた。
「あれは……封印を破壊するんじゃない。封印ごと魔力を消去しやがった。ようやく間違いに気付いたのか、それとも今までのは、この術を開発する間のカモフラージュだったのか、はわからんがな」
 もしあの場にいたのなら、ぬいぐるみに宿したカナルの意識も、美加の身体に流れる魔力さえも消されるかもしれない、と彼は付け加えた。
「……沙世ちゃん……どうして……」
 美加は悲しげに呟く。しかし原因は予想が付いていた。唯一の友達である美加と縁を切った彼女にとって、世界などどうでもいいのかもしれない。
「こうなると、こちらも手は抜けないぞ、美加。この調子であの娘に魔力を消されていくと、俺たちの勝ち目はどんどんなくなっていく」
「……わかってる。これ以上、沙世ちゃんに街を破壊させるわけにはいかない……」
そう、絶対にだ。こんなことを、彼女に続けさせるわけにはいかないのだ。
 美加は決意を新たにした。
そして約半年。
二人の少女の争いは、一進一退だった。
 美加も回復したカナルの魔力で対抗するものの、ユーニィも強力だ。美加が封印を解けば、次はユーニィが魔力を消去する。まさに互角だ。しかし、彼女たちの争いの影響は、瞬く間に日本中に広がっていった。幸い、美加の住む地区は無事だが、日本の機能はほぼ停止してしまっている。電車や道路も破壊され、ほとんどの会社や学校が休みとなっており、怪我人で病院はパンク状態、食料も配給制となっていた。テレビやラジオでさえ、娯楽番組はなくなり、残った一部の局が同じニュースを繰り返し流している程度である。
 まさに世紀末――。誰かが言ったそんな言葉が、瞬く間に人々の間に広がっていった。ノストラダムスの予言にある恐怖の大王が、遅れてやってきたのだと。

「……これから、どうなるんだろ……」
 自分の部屋に戻った美加は、ベッドに横になり、天井を見上げてぽつりと呟く。
 もうすぐ春になる。本来なら五年生になるはずだが、このままでは学校にいつ行けるのかさえわからない。
「どうにかするさ」
 返事が返ってきた。
「えっ?」
 慌てて起きあがると、そこには久々に目にする、黒づくめの男の姿。
「カナル!? じゃあ、こっちは……」
 ぬいぐるみを見ると、既に何の反応も示さなくなっていた。
「ここまで街が破壊された以上、もう俺の存在を隠す必要はないからな。俺も一緒に封印を解いていく」
「本当? カナルが一緒なら心強いよ。沙世ちゃん、もう無茶苦茶だし」
「ああ。あの娘の好きにはさせんさ」
 にやりと笑うカナル。
 正直、彼にとってこの状況はありがたかった。魔力を消されていくのは痛いが、あの技の威力からして、そのエネルギー消費量は半端ではないはずだ。そこを狙えば、まだ完全ではない今の魔力でも、十分に戦って勝つことは可能である。
(それに、あまり街を壊されては楽しみがなくなるからな……)
 そう。残りの封印はあとわずか。あとわずかで、闇の世界の悪魔が完全復活できる。
(そのときは、こいつも用済みだ――)
しかし当の美加は、「カナルと一緒、カナルと一緒」と呑気に喜んでいる。
「…………馬鹿だな、こいつ」
「……え? 何か言った?」
「いや、何でもない。それより行くぞ。俺が近付けば封印の解放を促せる」
「あ、ちょっと待ってよ。急いで着替えるから。カナルはあっち向いて」
「…………」
 カナルはため息と共に後ろを向く。
 美加の着替えというのは、いつまでたってもバリギャンにしか変身できないので、仕方なくそれっぽい衣装を自分で着て、気分を出しているのである。昔はともかく、今は魔法も多く覚えたので、バリギャンの特殊装甲に頼らなくても平気なのだ。
「……もういいか?」
「オッケー。それじゃあ、一緒に」
 と美加は手を差し出す。
「……何だ、この手は?」
「何って、手を繋いでおかないと、瞬間移動で違う場所に出るかもしれないでしょ?」
「……そうだな」
 ぬいぐるみのときとは違うのである。しかし彼女のその嬉しそうな顔は何だろうか。
(こいつが望むなら、闇の住人にしてやってもいいかな……)
 美加の笑顔を見ながら、カナルはそんなことを思う自分に、一瞬戸惑う。
「何? もしかして嫌なの?」
「……そんなことはない。行くぞ」
カナルは自分から手を取り、瞬間移動をした。
「あっ」
 部屋から二人の姿がかき消える。
 しばらくして、そのドアが静かに開いた。
「……美加の奴……行っちまったな……」
「……そっか。美加ちゃん、本当に魔法少女になっちゃったんだね……」
 どこか寂しげに、鉄男と広人は呟く。
 鉄男は、以前から美加のことに気付いていた。いつものように部屋を覗いていて、偶然にぬいぐるみが動いているところを見たのである。だからといって、どうするわけでもないが、ただそれ以来、あまり部屋を覗かないことにした。
 広人は相変わらず鈍いので気付かなかったが、今の危険なご時世に、ときどき美加の姿が家から消えてしまうのを心配した彼のために、鉄男がこうして連れてきたのだ。
「……今から美加に乗り換えようとしてもだめだぜ?」
「そんなつもりはないよ。それに……僕じゃ相応しくないと思うし」
 鉄男の言葉に、広人は苦笑する。前に美加にデパートで見られた彼女とは、既に別れていた。何でも、マイペースな広人には付いていけないらしい。
「ともかく、美加ちゃんには無理はしないでほしいね」
「ああ。あいつに俺たちの未来がかかっている、といっても犠牲になってはほしくないからな」
 二人の兄たちは、共に彼女の無事を祈るのだった。

「あっ」
 と美加は思わず声を上げた。
 ここは既に廃墟となった新宿だが、カナルが来ただけだというのに、彼の周囲に黒いもやが集まり、固体化しだしたのである。それは彼の手の中で、徐々に宝石の形となっていく。
「もうかなり封印も弱まっているからな。魔力が俺に戻ろうと、自然に集まってくるんだ」
「そっか。それなら、ユーニィに見付かる前に封印を壊せるね。楽勝〜」
 そう気楽に喜ぶ美加に向かって、ヒュンと風を切り、何かが迫る。
「よけろ」
 げしっ。
カナルは美加を蹴り飛ばした。
「痛い! 何するのっ……」
 と文句を言いかけた彼女の目の前を、二枚の羽が通り過ぎる。
 ドゴォンッ!
 地面にめり込んだそれは、派手な音と土煙を上げた。
「あちゃー……これってまさか……」
 眉をひそめながら、飛んできた方角に目を向ける。そこには、やはり予想通りの人物がいた。
「エンジェル・ユーニィ……」
「久しぶりね、美加ちゃん」
ユーニィは上空からゆっくりと大地に降り立つと、薄い笑みを浮かべて言った。
「なかなか会う機会がなかったから言いそびれていたけど、ようやく魔法少女になれたのね。おめでとう」
「げ、ばれてる……」
実際彼女の前で魔法を使ったことはないはずなのだが。
「当然でしょ。まあ、気付いたのは半年前に、あなたとケンカした後だけど。で、そちらの方はもしかして……」
「魔王カナルだ」
視線だけ向けて彼は言った。
「ふ〜ん……そう。美加ちゃんもかわいそうに。とうとう悪魔に魂を売ってしまったのね」
「うるさいわね! あたしは沙世ちゃんみたいに、街を破壊したりしていないわよ!」
 美加は後ろの廃墟を指して怒鳴る。
「おかげで、学校には行けないわ、テレビは観れないわ、好きなものは買えないわ、それからえ〜と……とにかく、みんなが迷惑してるのよ!」
「そんなもの」
 と彼女はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「正義のための小さな犠牲に過ぎないわ。わたしにはどうでもいいことだし」
久しぶりだというのに、沙世は相変わらずのようである。
「このっ……」
「それより」
 文句を言おうとした美加を遮り、ユーニィは言う。
「魔王自らがここに来るなんて、悪魔側はよっぽど余裕がないのかしらね。美加ちゃんも頼りないみたいだし」
「むかむかっ」
「まあ、いいわ。敵のボスが出てきたのはこちらには好都合。全部滅ぼしてあげるわ」
 余裕の笑みを浮かべ、彼女は右手をすっと挙げた。
「その構え……!」
広大な範囲で魔力を消去する、エンジェル・イレイザーの構えである。
 ぶおんっ、と音を立てて、エネルギーが彼女の手の平に集まる。
 その瞬間。
シュオッ!
 美加の後方より、レーザー光線のようなものが発射され、ユーニィの右手を消し飛ばした。集まっていたエネルギーも消失する。
「いっ!?」
 いくらケンカ中とはいえ、元友人の手がなくなり、さすがに美加は青ざめる。
「ちょ、か、カナル! 何もそこまでしなくてもっ……」
だがカナルは、そのままユーニィを見据えたまま言った。
「確かにその技は強力だが、膨大なエネルギーを溜める”間”が必要だ。それが大きな弱点になる」
「ふ〜ん……さすがは魔王ね」
右手がなくなったというのに、彼女は吹き出る自分の血を、平然とした顔で見ている。
「い……痛くないわけ?」
 思わず訊いてしまう美加。
「もちろん痛いわよ。……でもね」
 リカバリー。彼女はそう呟く。
 するとそれだけで、彼女の手は一瞬にして元の状態に戻ってしまう。
「御覧の通り。この程度、わたしの魔法ですぐに回復できるのよ」
「…………」
「とはいえ、痛かったのは確かだから、その分のお返しはさせてもらうわ」
ユーニィがそう言うと、彼女の背中に羽が現れ、上空高く舞い上がる。
「エンジェル・バースト!」
ヒュンッ。
 彼女の手から、小さな玉のようなものがこぼれ落ちる。
 そしてそれが地面に着くと――。
ドドドドドドドォッ!
 小さな爆発が数百、いや数千は同時に起きた。そしてそれは連続して続いていく。
「わあっ!」
 思わず目を覆う美加だが、爆発の影響は受けていなかった。カナルがバリアを張り、しのいでいたおかげである。
「あ、カナル……」
「まったく、お前はいつまでも戦いに慣れないな」
 少し呆れたような声。
「う……ごめん」
「それより、今のうちにこいつを破壊しろ」
 うつむく美加に、カナルは黒い宝石を渡した。
「お前がずっと望んいた、変身できる魔力だ」
「変身!?」
 きらり、と瞳が輝く。そして震える手でそれを受け取る。
「苦節一年近く……。つ、ついに、ついに……!」
「どうでもいいから早くしろ。バリアで無駄に魔力を消費したくはない」
「わ、わかった。えーと……ブレイク!」
 パシーン。
 美加の手の中で、宝石が砕け散った。すると一瞬、カナルの身体から黒いもやが吹き出した。魔力が回復した証拠だ。
「こ、これであたしも変身できる……。呪文は何にしようかな……」
ぼかっ。
妄想を巡らせる美加の頭を、カナルは殴り付ける。
「痛ーい!」
「そんなことはどうでもいいだろうっ。さっさと変身しろっ」
「は、はーい。んじゃ、とりあえず……まじかるチェーンジ!」
 その言葉と同時に。一瞬で変身が終了する。
「…………あれ? もう終わり?」
 確かにアニメでも、シーンが長くても実際に変身するのは一瞬という設定になっている。しかしこれではあまりにも実感がない。
「か、鏡は?」
「そんなもんあるか」
「しくしく……」
 仕方ないので見下ろしてみる。変身時にイメージしたフリフリの衣装は、実際は「みらくるルンルン」に近いものになっていた。そして等身も上がり、胸もきちんと成長しているのがわかる。
「ね、ねえカナル! もしかしてあたし……大人になってる? 美人?」
「……とりあえず、その変身はお前が”理想通りに成長した場合”の姿だ。実際にそうなるかはわからんがな。むしろならない可能性の方が高い……」
「よっしゃー!」
 喜びの声を上げる美加。カナルの最後の方の言葉は聞いていない。
「これであたしも完璧な魔法少女! こわいもんなしよ!」
「そう。でも残念ね。せっかく理想通りになれたのに、それも一瞬で終わりだなんて」
 上空から声が響く。
「え? あっ……!」
 見上げて、美加は絶句する。
 そこにいるユーニィは、既にエンジェル・イレイザーを完成させていたのだ。いつでも攻撃できる体勢になっている。
「今使っていたバリアなんてこれには無駄よ。美加ちゃん、あなたの魔力もこれで消滅。短い魔法少女人生も終わりね」
 そしてユーニィは、笑みを浮かべながら右手を振り下ろす。
 巨大な円盤状のエネルギー物体が、高速で落下してきた。
「そんな……」
愕然となる美加。この効果範囲から逃げるには瞬間移動を使うしかないが、今からでは間に合わない。
「せっかく変身できたのに……」
 終わりだと、思った。
 だが。
 一瞬にして、世界が闇に染まった。
同時に、エンジェル・イレイザーも消え失せてしまう。
「えっ?」
 何が起こったのか信じられず、周囲を見回す美加とユーニィ。しかし闇の空間で見えるのは、二人の魔法少女と、そして――。
「カナル!?」
 彼の身体から、闇が沸き出しているのが見えた。
「ふっ……予定より少し早かったがな。ここまで魔力が集まれば十分だ」
 腕を組み、不敵に笑うカナル。
「まさか、これはあなたの仕業!?」
「ああ」
とユーニィの問いに、彼は答える。
「バカな! エンジェル・イレイザーを逆に消したとでもいうの!?」
「そんな驚くことでもないさ。あの技は一定以下のパワーの魔力を消すものだからな。だったら、それ以上のパワーの魔力で対抗すればいい」
「……そんな……」
 今まで余裕の表情を崩したことのないユーニィに、初めて焦りの色が浮かんだ。
「なら……今度はもっとパワーを高めて……!」
 再び技の体勢に入るユーニィ。しかし。
「あっ――」
 集めようとした魔力が、弾かれた。
と同時に、彼女の変身が解け、藤原沙世の姿となる。
「強大な魔法を使いすぎたな」
 にやりと笑い、カナルは勝利を確信した。
「くっ――!」
 魔力を失い、上空にいた沙世は真っ逆さまに落ちていく。
「沙世ちゃんっ!」
身体が先に動いていた。美加は魔法で空中へ飛び上がり、彼女をしっかりと受け止めた。勢いでずしりと衝撃がくるが、何とか地面ぎりぎりで持ちこたえる。
「ふうっ……危なかった……」
 美加は息を付き、彼女を下ろす。
「……何で……助けたのよ……」
 そんな美加を、沙世は複雑な表情で見つめる。
「もう友達じゃないのに……」
「ばかっ」
 ぱしっ、と美加は彼女の頬を軽く叩き、そのまま手を当てる。
「友達だとか関係なく、困ってるときに助け合うのが人間ってもんでしょっ」
「……人間……」
「そうよ。文句ある?」
 ぎゅーっ、と両頬を引っ張った。
「痛い、美加ちゃん……」
「沙世ちゃんみたいに、自分が気に入るかどうかで判断するのは最低なんだからね!」
 さらに、ぎゅーっ、と引っ張る。
「い、痛い。わかった、わかったわよ」
「……本当に?」
「本当だって」
 その言葉に頷き、美加はようやく手を離す。
「………………そうね」
 頬をさすり、少し間を置いてから沙世は言った。
「わたしの心が……狭かったのかもしれない……」
「わかればよし!」
ばしんっ、と両肩を叩く。
「痛いっ。美加ちゃん、乱暴……」
「沙世ちゃんよりましよ」
久々に、本当に久々に、少女たちは笑みを交わした。
「まあ、そんなわけで、あたしたちの勝ちよカナル! この暗いの、元に戻して!」
「そうはいかんな」
「……………………は?」
予想外の言葉に、美加はぽかんと口を開けて聞き返す。
「そうはいかん……って、どういう意味よ!?」
「元には戻せない、という意味だ。これよりこの世界は――我々悪魔のものとする」
「なっ……!?」
 カナルの言葉に、美加は驚愕し、大きく目を見開いた。

「あ、悪魔のものにするって、あたしたちを支配しようってことなの!? もしかして、最初からそのつもりだったの!?」
「当然だろう」
 混乱する美加を楽しそうに見ながら、カナルは腕を組んで言った。
「ただし、支配ではない。今いる人間は全て滅ぼし、代わりに闇の住人をこの地に住まわせる」
「そんな……嘘だよ! カナルがそんなことするなんて……だって、カナルいい奴だもん! あたしとだって、仲良かったじゃない!」
「ふん……必要だからそうしたまでだ」
「やれやれ」
 と沙世は呆れたようにため息を付く。
「まったく、美加ちゃんはお人好しなんだから。悪魔なんかに協力すれば、最終的にどうなるかくらい、予想が付くでしょうに」
「しょ、しょーがないでしょ! 考えてなかったんだから!」
 美加は悔しそうに唇を噛んだ。必要だから仲良くしたということは、今までのことは全て演技だったということになる。そう、今までの一年間が全て……。
「まあ、美加には感謝しているよ。お前のおかげで神の使いに勝利し、この世界を滅ぼすことができるんだからな」
「…………」
「どうする? 協力してくれた礼に、お前を闇の住人として迎えてやってもいいぞ」
「そんなの……お断りよ! カナルのバカ!」
「なら仕方ないな……」
 すっ、とカナルは右手を美加に向ける。
「お前も一緒に滅ぶか」
 キィン――。
ガラスを金属で叩いたような音が響いて。
 瞬間的に、彼の手に強大なエネルギーが集まった。それは、明らかにわかるほど、エンジェル・イレイザーよりも強い力だった。
「魔王がここまで魔力を回復していたなんて……。もう終わりかしらね」
「簡単にあきらめないで!」
美加は叫んだ。
「あたしの魔法で、絶対止めてみせるんだから!」
「ふっ……お前は重要なことを忘れているようだな。お前の魔力の源は何だ?」
「うっ、そ、それは……」
言われて、彼女は思い当たる。
「そう、俺だ。つまり、俺の意志があれば、お前に魔法を使えなくすることも可能なわけだ」
「ううっ……」
 歯ぎしりする美加。もしそんなことをされてしまっては、もうカナルの攻撃を止めることは不可能である。
「それでも抵抗するというのか?」
「あ、当たり前よ! そりゃあ、魔法が使いたくて協力はしたけど、あたしは人間として生きていたいの! 悪魔になりたいわけじゃないんだから!」
「そうか……」
 一瞬、カナルは目を閉じる。
「あっ」
 声を上げる美加。カナルが魔法供給を停止したのか、変身が解け、元の少女の姿に戻ってしまった。
「残念だ」
 小さく呟き、そしてカナルは強大なパワーが凝縮されたエネルギー弾を発射した。
 ドゴォォォォォンッ!
闇の空間が、大きく震えた。
「せっかく誘ってやったのに、バカな奴だな……」
「誰がバカよ!」
美加の元気な声が響く。
「何っ?」
 予想外のことに、カナルはそちらへ目を向ける。
 確かに魔力を止めたはずなのに、美加と沙世、二人の少女は怪我もなく無事な姿で立っていた。何故――と思ったが、その答はすぐにわかった。
「なるほど……そういうことか」
 彼女たちの前に、一人の少年が倒れていたのである。
「山口くん! 大丈夫!?」
「あ、はは……だいじょう……ぶ……」
 彼は力なく笑いながら、振り絞るように言った。
「ただ、全ての魔力を使ってシールドを張ったから、身体に力が入らないんだ……」
「ま、魔力って……山口くんがどうして……」
「エアリスの正体が山口くんだからでしょ」
 ぼそっと言った沙世の言葉に、美加は首を傾げる。
「は? 何言ってるの、沙世ちゃん? だって、エアリスは……」
「あは、は……僕だよ、竹内さん。エアリスは僕が女装していたんだ」
「えっ……?」
思わぬ告白に、瞬間、美加は晃とエアリスの姿を重ね――そして驚愕の声を上げた。
「えええええっ!?」
「……相変わらず鈍いわね、美加ちゃん」
 呆れたような顔の沙世。
「な、何で沙世ちゃんは知ってるの?」
「……見ればわかるわよ」
「そ、それより竹内さん。詳しいことは後で説明するから、今は魔王を止めないと……」
 顔をしかめながら晃は言った。
「僕はこんなことになるなんて考えないで、何となく手伝っていたけど……でも、この世界を滅ぼされたくないから……」
「う、うん。わかった」
 頷き、美加はカナルを見据える。
「魔法も使えないのにどうするの、美加ちゃん?」
「どうにかする!」
「くくく……今は運良く助かったが、次は助けてくれる者はいないぞ」
「カナル……」
 笑みを浮かべる彼に、美加は悲しそうに目を細める。
「本当にあたしを殺そうとしたわね……」
「そう言ったはずだろう?」
「どうして? ひどいよ、悲しいよ、そんなの……」
 ふるふると、彼女は拳を震わせた。
「あたし…………カナルのこと、結構好きだったのに!」
「な、何?」
 意外な言葉に、カナルは戸惑う。
「何を言ってるんだ、お前の好きなのは広人だろう?」
「そ、そういう好きじゃなくて、友達でってこと! だって、一年も一緒にいたんだよ? そりゃあ、最初は恐かったけど、一緒に遊んだり、悩み聞いてくれたりして……あたしは友達だって思ってたんだから!」
 そう言いながら、彼女は段々と涙目になっていた。
(……ペットじゃなかったのか……)
何だか意外であった。しかし今考えると、あの扱いは身体がぬいぐるみだったせいかもしれない。
「それなのに!」
 キッ、とカナルを睨み付ける。
「それなのに、あたしを殺そうとするなんて……絶対許さないんだから!」
そう叫んで、美加は彼に向かって駆け出した。その身体は闇を纏い、一気にスピードを増す。
「美加ちゃん!」
 沙世はそれがすぐに魔法の力だとわかったが、美加は気付いていないようだ。
「カナルの、バカーーーーーっ!!」
 バキイッ!
 涙を流しながらのパンチは、見事にカナルの頬に激突した。しかし彼はその場から一歩も動いてはいない。
「ふっ……」
 カナルは頬に当たったその手を取り、笑みを浮かべて美加を見下ろす。少し赤くなっているところを見ると、一応効いてはいるのだろう。
「……美加。俺は魔王カナル、闇の世界の絶対者だ」
「は? し、知ってるわよ、そんなの」
 いきなり違う話題をされても戸惑ってしまう。しかしカナルは気にせずに話を続けた。
「闇の住人たちは俺がいないと生きていけないからな。だから絶対に俺に逆らうことはできないんだが、正直、それも少しつまらないんだ」
「……?」
「つまり、俺と対等に話せて、俺を殴ることもできる、お前みたいな奴がいてもいいかと思ってな」
「……あ、あたし、悪魔にはならないわよ」
「ならなくていいさ。この世界を滅ぼすのはやめにした」
「えっ――」
 美加は目を見開く。
「……本当、に……?」
「ああ。俺の気が変わらなければの話だが」
「…………」
ジッと、カナルの目を見る美加。そして今までの付き合いから確信した。この目のときは、嘘ではない。
「だったら!」
 安心したのか、彼女は急に笑顔になる。
「あたしが死ぬまで! ううん、あたしの子供のそのまた子供――とにかく子孫が滅ぶまで! 気が変わるのは許さないからね!」
「何だそれは。自分勝手な奴だな」
「お互い様でしょ」
 二人で笑みを交わす。
「……解決……したみたいだね。さすが竹内さんだよ」
「……そううまくいけばいいけどね」
 安堵する晃の言葉に、沙世は小さく呟いた。
「神様って、頭堅いから」
 いくら一方が戦いをやめるといっても、もう一方はそう簡単に信用できるはずがない。
「そうだな」
 彼女の呟きが耳に入ったのか、カナルが言う。
「いいだろう、俺が連中を説得してきてやる」
「……できるの?」
「ああ。悪魔の活動を止めるというのが、奴らの大義名分だからな。俺たちが何もしなければ、奴らも何もできないさ。というわけで、美加」
 滑るように、カナルの手が動き、美加の顎を持ち上げる。
「えっ――」
 理解する間もなく。彼の唇が、静かに触れた。
「えっ、えっ、えええええっ!? な、何? 何で!?」
 唇はすぐに離れたが、あまりの予想外の出来事に、美加は激しく混乱する。
「どうせ広人にはふられたんだ。俺が相手でもいいだろう」
「で、で、でも、でもーーーっ!」
「じゃあ、行って来る。家で待っていろ」
 闇と共に。そう言って、カナルは姿を消した。
「あっ――」
 急に空に明るさが戻り、美加は眩しさに目を細める。
「……あの魔王って……実はロリコンだったのかしらね……」
 と沙世。実際彼が何歳かは不明だが、見た目は二十代で、美加は十歳。そう思われても仕方がないだろう。
「……キス……されちゃった……。ファーストキス……」
 ぶつぶつ言いながら、美加は赤くなっている。
「……それじゃ、わたしは帰るわ」
 もじもじしている彼女に、沙世はくるりと背を向ける。
「え? あ、沙世ちゃん」
「大丈夫。わたし、もう魔法少女はやめるから」
きっぱりと、そう宣言した。
「……そう」
「しばらくしたら、また学校も通えるようになるわ。そのときにまた会いましょ」
 そのまま、沙世は振り返らずに歩いて行った。
「何か……やっぱりちょっと怒ってるみたい」
少しだけ、沙世は不機嫌そうな顔だった。またいつか、彼女と仲良くできる日が来るのだろうか。
「大丈夫だよ、きっと」
 ようやく起き上がり、晃は言う。
「友達は、ずっと友達だから」
「そうかもね」
 頷き、そしてふと思い出す。
「ところで山口くん……どうして女装してたの?」
「えっ! あ、いや、それは……」
 あたふたと慌て出す晃。
 勢いで正体をばらしてしまったが、その理由を説明するのは非常に恥ずかしかった。
「あ、あははは。僕も家の人が心配してるから、帰るよ。また学校でっ」
「ああっ、ちょっとっ。後で説明するんじゃなかったのっ?」
「ごめーんっ」
 晃は走っていってしまった。
「まったく……。でも、これで……」
 もう一度、美加は空を見上げる。青く澄み渡った、高い空を。
「あたしの魔法少女としての役割は終わり……か」
 自分は魔法少女として、どうだったのだろうか。
 結果的に解決してよかったが、日本をここまでの状態にしてしまった魔法少女は、他にはいないかもしれない。あまり理想通りとはいかなかったような気がする。
「でも――」
 終わったからこそ言えることだが、楽しかった。沙世とケンカをしてからは本当につらかったが、憧れだった魔法少女になれたのだ。普通の人にはできない、貴重な経験である。
「せっかく変身できるようになったし、もうちょっとやっていたかったな……」
 美加は笑顔でそう呟いた。

 こうして。
魔法少女たちの一年に渡る戦いは終わりを迎えた。

  エピローグ

 あれからしばらくして。
 世間に魔法少女が現れることはなくなり、破壊されたものの復旧作業は順調に進んでいた。怪我をした人々も驚異的な早さで回復し、退院していく。これはおそらく、沙世の魔法によるものだろう、と美加は思った。彼女なりの、罪滅ぼしかもしれない。
 そして春。四月。
 学校には仮校舎として、プレハブが建てられ、子供たちは何とか新しい年度をスタートすることができた。ただし、前年度では半年以上授業ができなかったため、もう一度同じ学年でやり直しということになってしまった。
 まだまだ元通りの生活とは言えないが、それでも人々は動き始めている。

「まさか小学校で留年するとは思わなかった……」
 一人、学校へと歩きながら、美加は浮かない顔で呟いた。
「ま、それはみんな同じだからいいんだけど……。あれからカナルも帰ってこないし……」
 あのとき、「待っていろ」と言い残して姿を消したカナル。彼はあれから、何の音沙汰もなかった。神との交渉がうまくいっていないのだろうか。
「まあ、あたしにまだ魔力残ってるし……無事だとは思うんだけど……」
そう。美加にはまだ魔力が残っていた。しかし、その力は一切使ってはいない。
 まだ少し残っていたはずの封印の気配も全くなくなり、せっかく手に入れた変身の魔法も、用もなく使うのは何だか気が引けてしまうのだ。そんなわけで、使う機会がないまま過ごしている。
「そういえば、今日から『みらくらルンルン』も再開するんだっけ……」
 中断されていたテレビの番組も、徐々に放送され始めている。
 そう言ってから、美加はふと気が付いた。
「あたし、やっぱりアニメ好きなんだよね」
 前は鉄男のようにオタクにはなりたくないと思っていたのだが、今はそれほど嫌だと思ってはいなかった。やはり、好きなものは好きなのである。
 鉄男といえば、彼も最近少し変わったようだ。あまり美加の部屋に侵入しなくなったし、「お兄ちゃん」と呼ばせようとはしなくなった。
 広人は相変わらず優しいが、彼女にふられて以来、少しだけ優柔不断がなくなった。あくまで、少しだけではあるが。
 どちらにしろ、美加にとっては優しい、いい兄たちだ。

 そしてしばらくして、小学校に到着した。
 去年のこの時期は舞い散る桜で綺麗なものだったが、今は桜は数本残っているのみで寂しい限りである。
「うちのクラス、大丈夫かなあ……」
 少ない桜を見ながら、美加は不安な思いに駆られた。
 クラス割は、去年と同じままだと聞いている。しかし同じということは、半年前、沙世をリンチしようとして逆にやられ、以来学校を休んでしまった女子たちもいるのだ。
「みんな来ればいいけど……」
 沙世とはしばらく会っていないが、今の彼女はもう大丈夫なはずだ。相手を痛めつけるようなことはしないはずである。
 そんな少し不安な気持ちのまま、自分のクラス名が記されているプレハブに移動する。そしてドアを開け、確認する。
(――いた!)
沙世がいた。それに香奈を始め、クラスの女子たちも全員がそろっていた。
「みんな、おはよーっ!」
 美加は元気良く挨拶をした。
「お、おはよ」
「おはよう……」
 やや暗い表情で元気は足りないが、きちんと返事は返ってきた。今はこれでもいい。これから段々と打ち解けて、元のように戻っていけばいいのだ。
「久しぶりね、美加ちゃん」
 静かな口調で、沙世が話しかけてきた。
「うん……久しぶり。髪、切ったんだ」
背中まであった彼女の髪は、肩口ぐらいまでに短くなっている。
「ちょっとね。気分転換」
「似合うよ」
 と美加は素直な感想を述べた。彼女は以前のような媚びた笑顔はしなくなっていたが、その方が自然でいいような気がする。服装もわざと地味なものを着るのはやめたらしく、今日はおしゃれなワンピースだ。
「ありがと。……それより、クラスのみんな、来てるでしょ」
 後ろをちらりと見て、沙世は言う。
「うん。来なかったらどうしようって、ちょっと不安だったよ」
「わたし、謝ってきた」
「……え?」
「一軒一軒、訪ねていってね」
「……へえ……」
 と美加は感心した。それは正直、意外だった。
「でもまさか、来なかったら痛い目にあわせるぞー、とか脅したわけじゃないよね?」
「怒るわよ、美加ちゃん」
 笑顔で頬をつねる沙世。
「い、痛い。もう怒ってるよー」
「……わたしね、みんなを人間として見てあげることにしたのよ」
「いいことじゃない?」
「でも、ま、だからって友達にしたいわけじゃないけどね」
「あ、はは……そう……」
 乾いた声で笑う美加。しかしそこまで変われば、今回の事件は彼女にとって、十分に意味のあったことだろう。
「……ね、美加ちゃん」
「ん?」
「わたしね……やっぱり、美加ちゃんのこと好きみたい」
 すっ、と沙世は右手を差し出した。
「よかったら、また……友達になってくれる……?」
「もちろん!」
美加はにっこり笑って、手を握り返した。
 今度はうまくいきそうな気がする。お互いが相手を思いやり、悪い部分は注意できる。 そんな関係に、きっとなれる。

「みんな、おはよう。元気だったか? 俺もまさか、もう一度同じ学年をやり直すとは思わなかったぞ」
 朝礼の時間になり、橋口先生がやってきて挨拶をした。
「おっ、大川もいるな。もういいのか?」
「はい。完全復活です」
 とブイサインをする太めの少年。彼は以前に、沙世が両手両足を骨折させ、入院させたのである。
「ね、ねえ沙世ちゃん。大川くんって、あのときの記憶は消したままなの?」
「わざわざ戻すことはないでしょ。どちらにしろ、わたしを怖がることには変わりないし」
「うーん……そっか……」
「ま、代わりに魔法で回復を早めてあげたから、それで勘弁ってところね」
 つん、と彼から目をそらす沙世。やはり、嫌いなものはどうしても嫌いらしい。
「しょうがないか……。でもそれより、先生の隣にいる子が気になるんだけど……」
 そう。橋口先生の後ろに控える、綺麗な黒髪の少年に、皆は注目していた。先生の話など、耳を通り抜けていく。
「ん? 何だ……みんな彼が気になるみたいだな」
 にやりと橋口先生は笑う。
「ま、意地悪しないで紹介しよう。外国からの転校生のカナルくんだ」
 おおっ、と感嘆の声が上がる。
「カナル……!?」
 眉をひそめて、美加はその少年を見る。確かに、何となく顔は似ていた。しかし、目の前の彼は少年だ。美加の知っている人物ではない。
「偶然、よね……?」
「さて、どうかしら?」
 沙世は意味ありげに笑みを浮かべる。
「転校生のカナル・アスティールです。よろしく」
さわやかに自己紹介すると、彼はスタスタと歩き出す。
「お、おい。どこに行くんだ?」
 先生の制止も聞かずにカナルは進み、そして美加の前で止まった。
「な、何?」
「よろしく。竹内美加」
 ちゅっ。
 戸惑う彼女に、彼はさっとキスをした。
 おおおっ、と大きな歓声が沸き上がる。
「なっ、なっ……!」
驚きのあまり、口をぱくぱくさせる美加。
「……何だ、まだわからないのか? 相変わらず、鈍い奴だ」
呆れたような少年。
「やっ……やっぱり、カナルなの!? でもその姿――」
「魔法で調整したんでしょ」
 沙世がこっそり耳打ちする。
「美加ちゃんだって、前に魔法で大きくなったじゃない」
「あっ……」
 ようやく、美加は納得した。
「何だ、お前ら知り合いなのか?」
 橋口先生が照れ笑いをしながら言う。
「でもいくら外国育ちでも、いきなりキスはやめてくれよ。目の毒じゃないか」
「すみません。つい、愛情を押さえ切れなくて」
 悪びれもせず、カナルは笑顔で返す。
「なっ、何言ってるのよっ。ばかっ」
 かあっ、と美加は真っ赤な顔になった。
「ま、ともかく、これからは一緒だぞ、美加」
「そうはいかないわよ」
「えっ?」
 ぐいっ、と沙世が美加を引き寄せた。
「わたしの美加ちゃんを、そう簡単には渡さないんだから」
「さ、沙世ちゃんっ……」
「ほう……なら仕方ない。こうなったら、今度こそ神と悪魔の決着を付けるか」
「面白いわね」
 睨み合う二人。
 バチバチッ、と火花が散る。
「そ、そんなことで争うなーーーっ!」
美加の叫びは、プレハブ内に響いていった。
 これから大変な毎日になりそうな予感を覚えながら。

  おわり

 

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