第一章

 ヒュンッ!
 風を切る音。
 青年の放った矢は、見事正面の細い木に突き刺さった。
「ったく、ついてないな……」
 彼は刺さった矢を抜きながら、ぶつぶつと呟いた。
「せっかく絶好調だっていうのに、肝心の獲物がいない……」
 季節は秋。いつもならこの森は、食料を探す動物たちが何匹もいて、しばらく歩いていれば見付かるのだが……。
「まいったね。一体どこに消えたんだか……」
 青年はぼりぼりと頭を掻いた。

 彼の名はヤクト。年は十九。背はあまり高くないが、顔は整っており、やや長めの髪は後ろで結んでいた。
 一人で狩りをするようになってまだ日は浅いが、腕は確かだ。誰もが認めている。
 彼の住むラグナス村では、何日かに一度、数組に分かれて狩りをする。腕の立つ者はやり方を教えるために少年と組むか、単独で行う。
 ヤクトは単独でする方を選んでいた。他人に教えるのは苦手だ、と言って断っているのだが、本当はただ面倒なだけだった。
「……仕方ない。もう少し奥の方へ行ってみるかな」
 ヤクトは普段は行くことのない、森の奥へ進んでみることにした。
 この森は深くて広大だ。どこまで続いているのかは誰も知らない。だから村では、ここより先に行くことを禁止していた。凶暴な獣がいたり、迷う恐れがあるからだ。そこまで行かなくても、十分に狩りはできる。
「だけど、いないんじゃ仕方ないよな」
 ヤクトは少し緊張して、奥へと歩き出した。 紅葉した木々の葉は綺麗だが、鳥の声さえ聞こえてこない静かな森の中では、かえって不気味な気がしてくる。
「……何怖がってんだよ。しっかりしろよな、このくらいで」
 ヤクトは気持ちをまぎらわすため、口に出して自分を叱咤した。
 ときどき迷わないように、ナイフで木に印を付けていく。
「……しかし……本当にどうなってるんだ……? これだけ探して一匹も見つからないとは……」
 疑問に思いながらしばらく先へ進んで行くと、少し開けた場所があり、古びた井戸があった。といってもそれには蓋がしてあり、水を引き上げるための道具もない。おかしな井戸である。
「何でこんなところに井戸が……?」
 ヤクトは警戒しながら蓋を開けてみた。
 ゆっくりと中を覗いてみると、どうやら水はあるようだった。
「……しかし、これじゃ飲めないな……」
 喉が乾いてきたのだが、まさか飛び込むわけにはいかない。
「あきらめるか……」
 ヤクトは名残惜しそうに水を見ていたが、突然その水がボコボコと吹き出した。
「なっ、何だあっ!?」
 驚いていると、今度はそこから何かが飛び出してきた。
「うわっ!」
 ヤクトは慌てて体を引っ込め、尻餅を付く。 井戸から飛び出してきたのは、奇怪な姿をした獣ーーいや、化け物だった。後から後から湧いてきて、ざっと三十匹が地上と空とに集まっている。
(い、い、一体何なんだ、これは!?)
 ヤクトは驚愕のあまり声も出ない。
 そして最後に、翼のある黒い馬に乗った男が出てきた。他と違って、この馬だけは美しい姿をしている。
 男は見慣れない服装をしていた。年齢は二十代後半くらいだろう。髪は短めで、目付きが鋭い。
 男はヤクトに気付くとほくそ笑み、化け物たちに「行くぞ」と号令をかけた。彼らはそのままどこかに向かい、姿を消してしまった。
 ヤクトは呆然としていた。
「い、今のは一体……?」
 腰が抜けたらしく、まだ立てないでいる。「も、もしかして俺、とんでもないことをしたんじゃ……」
 封印していた化け物を解き放ってしまい、世界中の人々がそいつらに苦しめられるという物語は、いくつか聞いたことがある。
「冗談じゃない……!」
 何とかしなくては。
 だが情けないことに、まだ立てなかった。
「くそ……!」
 と、そのとき。
 井戸の底から光が溢れ始めた。
「なっ……まさかまだ!?」
 ヤクトが顔を引きつらせる。
 だが中から出てきたものを見て、
「えっ……?」
 彼はぽかんと口を開けていた。
 井戸から光と共に現れたのは、きらびやかな衣装を着た、繊細な美しさを持つ女だった。艶のある髪は足元まである。
 ヤクトが戸惑うのも無理はない。
 化け物が出て来たと思ったら、今度は美女の登場だ。
 戸惑うなという方が無理である。
 その女はヤクトの方を向くと、ゆっくりと口を開いた。
「私はこの井戸の女神です。あなたが落としたのは金の弓ですか? それとも銀の弓ですか?」
「……は……?」
 あまりに予想だにしなかった言葉に、ヤクトの頭の中は真っ白になった。
「ですから、あなたが落としたのは金と銀、どちらの弓なのですか?」
 その女はいつの間にか、右手に金の弓を、左手に銀の弓を持っていた。
「お、俺は落としてない!」
 何とか立ち上がり、ヤクトはそう答えた。 すると彼女は笑顔を浮かべ、
「あなたは正直ですね。ご褒美にお水をあげましょう」
 と、水の入ったコップを差し出した。
「あ、これはどーも」
 混乱していたヤクトは、喉が乾いていたこともあってか、それを受け取って飲み干した。「う、うまい」
「でしょう?」
「……って、そうじゃなくて!」
 コップを返しながらヤクトは怒鳴った。
「あんた、何者だ! さっき出て来た化け物のことも知ってるな!? 答えろ!」
「ああ……やっぱり……」
 女は憂いを帯びた顔でため息を付いた。
「な、何だよ……」
 不安になるヤクト。
「いえ。まずは名乗りましょう。私の名はアムセ。この井戸の女神です」
「め、女神って……」
 いきなりそう言われても信じられるわけはないが、とりあえず自分も名乗ることにした。「お、俺はヤクトだ」
「そう。ではヤクト。あなたに頼みがあります」
「な、何だよ、いきなり……」
「あなたの見たあの化け物を、全て捕らえて来てほしいのです。殺しても構いませんが、死体は忘れずに回収してください」
「ちょっ、ちょっと待てっ!」
 ヤクトは慌てた。
「何だよ、それは! どうしてそんなこと俺に頼むんだ! 第一、できるわけないだろ!」「できなくても、やらなくてはなりません。あなたにも少しは責任があるのですから」
「え……!?」
「あなたは井戸の蓋をはずしたでしょう。あれは内側からは開けられないようにできているのです。化け物はこちらに来ることはなかった……」
「…………そ、その前にあの化け物は何なんだよ!? 井戸の中はどうなっているんだ!?」
「…………」
 アムセは少し困った顔をしていたが、やがてあきらめたように、
「仕方ありませんね……本当は話してはいけないのですが……。それではあなたも納得しないでしょう?」
「当たり前だ」
 ヤクトの声は堅い。
 アムセは応えるように頷いたが、急にはっとした。
「いけない! あなたの村が襲われているわ!」
「なっ、何だって!?」
 愕然とするヤクト。
「説明する暇はないようね……あ、待ちなさい!」
 彼は既に走り出していた。
「そのままじゃ倒せないわ!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ!?」
 ヤクトは立ち止まり、声を張り上げた。
「みんなを見捨てろって言うのか!?」
「そうは言ってないわ。この娘を付けてあげる」
 アムセが言うと、井戸の中から、また女が出て来た。といっても年は十七、八くらい。髪も肩までしかない。それに何といっても印象深いのは、彼女の感情の欠落したような表情だった。美人なのは間違いないのだが……ヤクトは苦手なタイプだと思った。
「詳しくはその娘に訊いてちょうだい。名はイシェル。あなたを助けてくれるわ」
 そう言い残し、アムセは光と共に井戸の中に消えてしまった。
「あ、おい!」
 井戸を覗き込むが、中は水しか残っていなかった。
「くそっ……何がどうなってるんだ……。いや、今はそれどころじゃない!」
 ヤクトはイシェルに向き直り、彼女の肩をつかんだ。
「おい、俺はどうすればいい!? 化け物を倒して、みんなを助けるにはどうしたら!?」 ヤクトは肩をつかむ手に思わず力を入れていた。
 かなり痛いはずだが、イシェルは無表情のまま言った。
「村に行きましょう。とりあえずそれからです」
「あ……ああ。わかった」
 透き通った声にどぎまぎしながら、ヤクトは頷いた。
 そして彼を先頭に、二人は村に向かって走り始めた。

「もうすぐだ」
 ヤクトは呟いた。
「もうすぐ村に着く」
 ずっと走りっ放しで息が上がりそうだったが、休んでなどいられない。
 村で腕の立つ者は、皆狩りに出てしまっているのだ。彼らが早く帰ればいいのだが、それは当てにならない。自分が行くしかないのだ。
 彼のすぐ後ろでは、イシェルが息も乱さずに、平然と付いて来ている。
(何なんだよ、この女。俺でさえ苦しいのに……)
 少し不気味に思えたが、彼女について知るのは後でもいい。
 もうそろそろ森を抜けるというときになって、獣の呻き声と、人の悲鳴が聞こえてきた。「こ、これは……!?」
「村人が襲われているようですね」
 隣に並び、イシェルが言った。
 ここからだとまだ村の様子は見えないが、ほぼ間違いないだろう。
「急ぎましょう、ヤクトさん」
「くそっ……!」
 歯の奥を噛み締める。
(母さん……ヤイカ……無事でいてくれ……!)
 ヤクトはせめて家族が助かっているようにと願った。ヤイカは妹の名だ。父は既に他界している。
 そして、二人はついに森を抜けた。
 呼吸するのも苦しかったが、それどころではない衝撃が彼を襲った。
「なっ……!」
 それ以上言葉がでない。
 村の惨状はひどいものだった。本当に自分の住んでいた場所なのかと疑いたくなる。
 辺り一面血の臭いが漂っていた。破壊された家と、無造作に転がっているいくつもの死体が、すぐに視界に入り込んでくる。体はいくつにも千切れ、腕や足などがなくなっているのが多い。
「そ、そんな……」
 愕然とし、体が震えだした。
「お、俺の村が……みんなが……」
「何をしているんです? まだ全員が死んだわけではないんですよ」
 イシェルの言葉に、ヤクトははっとした。
「そ、そうか……母さんやヤイカは無事かもしれない」
 死んだ者には悪いが、それは彼の唯一の希望になった。
「よし、俺の家に行こう」
 と、二人で向かおうとした時。
「た、助けてくれぇっ!」
 家の陰から、中年の男が飛び出してきた。何か大きな赤いものを背中に抱えている。
「あ、あれは……化け物か!?」
 ヤクトは目を見開いた。
 抱えているのではなく、食われているのだ。 赤いものは肉塊で、体の半分程を大きな口が占めており、それが男の左肩に食らい付いていた。腕がないことから、そこは既に食われてしまったのだろう。
「お、おじさん!」
 ヤクトは震える腕で、懸命に弓を構えた。 親しくはないが、顔見知りの人だった。
「ぐあああっ!」
 男は何とか振りほどこうとするが、化け物はしっかりと食らい付いて離れない。
 ヤクトは間違って男に当たらないよう気を付け、矢を放った。
 さすがの腕で、矢は見事に化け物に命中する。が、化け物は何事もなかったかのように、反応すらせずに男を食い続けていた。
 突き刺さった矢が、化け物の肉に押し戻され、地面に落ちる。
「な、何! どうなってるんだ!?」
 驚くヤクト。矢が効かないのでは、彼は他にどうしようもない。
「く、くそ……」
 彼は思わずイシェルを見た。
 そして息を飲む。
 彼女の手から、光が溢れていた。その手を合わせ、上に向けると光の玉が浮かび上がる。その中に何かの形が現れ始めた。
「弓矢だ……」
 ヤクトは呟く。
 光が消えると、彼女の手の上に銀の弓矢が残った。
「これを使ってください。あなたのではファルクスは倒せません」
「ファルクス?」
「あの人を食らう生物の総称です。さあ、早く受け取って」
「あ、ああ……」
 ヤクトは恐る恐る銀の弓矢を受け取った。
「な、なあ。矢が一本しかないけど……」
「大丈夫です。目標に当たったら自動的に戻ってきますから」
「そ、そう……」
 当たらなかったらどうするんだ、と彼は疑問に思ったが、試してみるつもりは毛頭なかった。
「ようし……食らえ、化け物!」
 ヤクトは矢をつがえ、男に食らい付く肉塊に放った。
 矢が当たると、肉塊は悲鳴すら上げずに、男からぼとりと落ちた。
「死んだようですね」
 イシェルが呟いた。
「こんなあっさりと……?」
 ヤクトは拍子抜けした。
 武器を変えるだけで、ここまでちがうとは……。
 その間にイシェルは肉塊に近付き、手の平を当てた。そこから光が出て肉塊を包み込むと、その姿は一瞬で消えてしまった。
「な、何をしたんだ?」
「元の世界に戻したのです。これはファルクスが死ぬか、気を失うかしないと使えません。……それより、その人はいいんですか?」
 イシェルは化け物に食われていた男に視線を向けた。
「そ、そうだった。おじさん!」
 ヤクトは男に駆け寄った。……が、時既に遅く、彼は息絶えていた。
「く、くそっ……どうして死ななきゃならないんだ……!」
「行きましょう、ヤクトさん。できる限り助けなくては」
「そ、そうだな……」
 男には悪いが、死んだ者より生きている者を優先するべきなのだ。
「こっちだ、イシェル!」
 ヤクトは自分の家の方に駆け出した。

「くそっ……死体ばかりだ……」
 家に向かいながら、ヤクトは唇を噛み締めた。どこかに隠れているのかも知れないが、生きている者を全く見かけない。
「そういえば、化け物もいないな……」
「食事を終えて、村を出たのでしょう。今この村にいるのは一匹だけです」
 隣でイシェルが言った。
「そんなことがわかるのか?」
「ええ。ーーヤクトさん、あそこに」
 急に立ち止まり、イシェルが左を指した。 壊れかけた家の向こうに見えたのは、巨大なイソギンチャクだった。上部に花状の触手がある。
「なっ……あれもファルクスか!?」
 ヤクトは顔を引きつらせた。
 先程のといい、ファルクスというのは不気味なものしかいないのだろうか。
「ヤクトさん、誰かが食べられています」
「何!?」
 ヤクトは目を凝らした。
 触手の辺りに、わずかに髪の毛と手足が見える。
「……既に死んでいるようですが」
「だからって、全部食わせてやるものか!」 ヤクトは奥歯を噛み締め、矢を放った。長距離だが、狙い通りに体の中心に突き刺さる。 イソギンチャクは、ヤクトが聞いたこともないような甲高い声を上げた。それが悲鳴だったらしい。触手からぼとぼとっと手足の先が落ちる。
「やった! ……だが、あいつまだ死なないぞ」
「あのファルクスはダメージを受けにくいのです。何度も当てて体力を奪わないと」
「わかった!」
 ヤクトは手の中に戻ってきた矢をつがえ、どんどん放った。
 イソギンチャクはその度に悲鳴を上げていたが、二人のいる場所を見付け、触手を伸ばしてきた。距離があるというのに、驚く程長く伸びる。
「う、うわっ、こっちに来たぞ!」
 ヤクトは矢を射るどころではない。
「大丈夫です、続けて」
 イシェルが前に出て、左手を突き出した。そこから光の壁が現れ、触手の進行を阻んだ。何とか入り込もうとする触手を、全く寄せ付けない。
「す、すごい……けど、こっちからも攻撃できないんじゃ……」
「いえ、内側からならできます」
「そ、そう……」
 ヤクトには理解できない仕組みだが、そんなことは問題にならない。彼はただ矢を射ればいいのだ。
「くらえっ!」
 矢は光の壁をすり抜け、イソギンチャクに命中した。そしてとうとう断末魔の声を上げ、地面に倒れ込んだ。
「ふうっ……ようやく死んだか……」
 ヤクトは額の汗を拭った。
「これでもうこの村にファルクスはいません。生きている人を探しましょう」
「あ、ああ……」
 とりあえずは一安心だが、早く家族の無事を確認しなくては。
「じゃあとりあえずーー」
「あそこに一人います。それに死体も回収しないと」
 イシェルがイソギンチャクのいたところを指した。
「そ、そうか。それじゃ、行ってみよう」
 あそこには食われずに済んだ手足が残っているはずだった。あまり気は進まないが、そういうわけにもいかないだろう。
 二人は生存者のところへ向かった。

 壊れた家を越えると、イソギンチャクの死体と一人うつ伏せで倒れている者がいた。右足の膝から下がない。
「私は死体を回収します。ヤクトさんはその人を」
「わかった」
 イシェルの指示に従い、ヤクトは倒れている人のところへ駆け寄った。女のようだ。
 見覚えのある服装だな、と思いながらヤクトは声をかけた。
「おい、しっかりしろ!」
 その女性の顔に手をやり、ヤクトは息を飲んだ。
「……母……さん……」
「ヤ……ヤクト……」
 母には意識があった。
「母さん! くそっ……ヤイカ、ヤイカは!?」
「…………」
 彼女は静かに首を振った。
「ま、まさか……!」
 ヤクトは振り返った。イソギンチャクの方へ。そのファルクスは、たった今イシェルに回収されたところだったが、近くに手足が残っている。
 ヤクトは走り、その手足を手に取った。
「これか!? これがヤイカなのか!?」
 華奢で小さな手足をつかみ、ヤクトは絶叫した。
「くそぉぉっ! 何てことだっ! ファルクスめ、そんなにヤイカがうまかったのかよっ!」
「ヤクトさん」
「うるさいっ!」
 声をかけたイシェルに、ヤクトは怒鳴りつけた
「死んだ者に構っている暇はないと思いますが」
「黙れぇっ!」
 ヤクトは泣いていた。
「……かわいい妹だったんだ。俺のことを慕ってくれて……」
「このままだと、あなたのお母様も死にますよ」
 イシェルの言葉に、ヤクトははっとした。「……う、ううっ……」
 母の呻き声が聞こえる。
「母さん!」
 妹の手足を持って、彼は母のところへ駆け寄った。彼女の息は荒く、苦しそうだった。「どうしたらいい!? これじゃあ母さんまで……」
「私が治します」
 イシェルが母の胸に手をあてた。
「何?」
 とヤクトが疑問に思う間もなく。
 イシェルの手から光が発せられ、母の体を包んだ。母はびくんっと震えると、そのまま意識を失った。
「なっ……母さんに何をした!?」
「騒がないでください。彼女の失った足を治したんです」
「えっ……?」
 見ると、膝の辺りから徐々に肉と骨が伸びてきていた。そして完全に足の形となる。
「体の一部でしたら、元に戻すこともできます。その代わり体力を奪ってしまうので、二、三日は睡眠をとらなくてはいけませんが」
「い、いや、そうか……ありがとう。妹は……治せないよな……?」
「無理です」
 イシェルはきっぱりと言った。
「そ、そうだよな……。それに、もう死んでるんだよな……」
 ヤクトはまた溢れてきた涙を袖で拭った。「しかし、イシェル。君はすごいな……。一体何者なんだい?」
「私はファルクスを狩る者……ファルクスハンターです」
「……ファルクスハンター……」
 ヤクトは口の中で呟く。
「おーい! 誰かいないのか!?」
「何がどうなっている? みんな無事か!?」 そのときになって、狩りをしていた者たちが戻ってきた。誰もが驚愕の色を隠せないでいるが、当然の反応だろう。帰ってみたら自分たちの村が潰れていたのだから。
「そうか……。あいつらに説明しなければならないな……」
 ヤクトは弱々しいため息を付いた。

  第二章

「みんなに説明しないと……」
 ヤクトはため息を付くが、ふと思う。
「……いや、待てよ。考えてみれば、俺自身ほとんど説明を聞いていないぞ」
 その事に気付き、イシェルを見る。
 彼女は周囲に視線を巡らせ、森の方を見た。 井戸のある方ではなく、小高い丘のある方だ。
 ここからだと村の様子がよくわかるが、丘の方は木々に隠れて見えないだろう。
「あそこに行きましょうか。私のような見ず知らずの者がいてはまずいですからね」
「そ、そうだな……。しかし母さんは?」
「誰か親しい人に預けてはどうです? これからしばらく、私たちは帰らないのですから」「……そうだな。俺たちは旅に出るんだよな」 ヤクトは母を腕に抱き、立ち上がった。
「ついでにそのことも話してくるよ。君は先に行っててくれ」
「わかりました。しかし、これ以上混乱を招くようなことは言わない方がいいですよ」
「ああ、わかってる」
 そう言ってヤクトは歩いていき、イシェルは丘に向かった。

 十五分程が過ぎて。
 ヤクトは丘にやってくると、すぐにイシェルを見付けた。
「どうでした?」
 と彼女は訊ねてくる。
「ああ。友人の一人が生きていてね。母さんはそいつに頼んできたよ」
「何て言ったんです?」
「ただ、旅に出るって。……そいつは何か感づいたみたいで、一旦は止められたけど、気を付けろって見送ってくれた」
「そうですか……」
「それより、村の様子を見てきたよ……」
 ヤクトは声を沈ませ、イシェルに話して聞かせた。

 実に、村人の半分が殺されていた。
 助かったのは、家の地下に隠れて運良く見付からなかった者と、川に洗濯に行ったり畑に行っていた者たちが多くを占めている。
 殺されたほとんどの者は、ヤイカのように、あまり体が残っていなかった。
「一体何にやられたんだ!?」
 狩りに行っていて事情を知らない者たちからは、当然出る疑問だった。
「か、川で遊んでいたら、突然化け物が現れて……!」
「お、お母さんが、食べられちゃったよぉ!」「うわぁ〜ん!」
 生き残った子供たちが泣き出した。
 村は嘆き悲しむ者たちであふれているのだった。

「……やはり、俺のせいなのかな……」
 話し終えると、ヤクトはぽつりと呟いた。 陰から見ていて、彼は罪悪感を感じているのだった。
「俺が井戸の蓋を取ってしまったから、こんなことに……」
「違います」
 イシェルが言った。
「……何が違うんだ? アムセがそう言ってたじゃないか」
「確かにそうですが……」
 イシェルは言葉を切った。
 そのことについては隠していることがあるのだが、まだ話してはいけないとアムセに命令されている。
「ヤクトさんのせいだけではありませんよ。アムセ様の管理をかいくぐって、ファルクスを送り込んだ者がいるのです。直接の原因はその人ですよ。名はラオスといいます」
「……もしかして、翼のある黒い馬に乗った目付きの鋭い奴か?」
「見たんですか?」
「ああ……。俺のことを見て笑いやがった」 思い出し、ヤクトは唇を噛みしめる。
「しかし、そいつは何でこっちにやって来たんだ? ……いやそれより、そもそもあの井戸は一体どうなってるんだよ? 何で人が出たり入ったりできるんだ?」
 片手で頭を抱えながら、ヤクトはイシェルを見た。
「とにかく疑問が多すぎる。説明してくれ」「そうですね」
 彼女は頷いた。
「まず、あの井戸の向こうとここは別世界になっています。正確には、遥か遠くの星と星が、空間に歪みが生じたせいでつながったのですが。私たちの世界では科学が発達し、空間の歪みを操る技術があるのです」
「…………はあ?」
 ヤクトは顔をしかめた。
「理解する必要はありません。とりあえず、井戸の向こうに違う環境の人々がいると思ってください」
「う、うむ……」
「そして、そこにはファルクスという凶暴な生物がいるのです。異形の姿で動物、特に人間を好んで食べます。昔は被害も出ていて殺されていたのですが、最近では捕まえて見せ物にするようになりました。ラオスはそんなファルクスの飼育係をしていたのです」
「……そんな凶暴な動物を飼うのか? 危なくはないのか?」
 ヤクトの住むラグナス村では、飼うとしても犬や猫くらいである。人を食うような危険動物と一緒に生活するなど、とても考えられないことだ。
「向こうは生活が豊かですからね。そうなると、人々は娯楽を求めるようになるんですよ」「ふ〜ん……」
 そんなものかな、とヤクトは思った。
 ここも別に貧しいわけではないが、それなりに楽しい生活をしていた。……しばらくはそんなことを言ってはいられないだろうが。「ともかく、そのラオスという男は、ファルクスを異常なくらい可愛がっていました。ファルクスの方も、彼の言うことはよく聞くように仕込まれていました。……それだけなら問題はなかったのですが」
 イシェルはそっと目を伏せる。
「どうした?」
「……人々がファルクスに飽きてきたのです。見物客は入らなくなり、食料費が高く付くので、とうとうまた殺すことになりました」
「……何か、それって勝手だな」
「ええ。ですが、特に許せなかったのはラオスでしょう。彼はファルクスたちを連れ出して、アムセ様のいる管理室に侵入したのです」「……管理室って何だ?」
「先程言いましたように、私たちには空間の歪みを操る技術があります。不定期に発生する歪みを見付け、特定の場所に安定させ、行き来ができるようにするのです。しかし、十分に注意して使わないと大変危険で、時には環境が合わなくて死ぬ場合もあります。それはつながった土地に住む人にも言えることですから、管理室の操作がなくては行き来できないようにしているわけです」
「……お、俺にはさっぱりわからないんだが……」
 ヤクトは頭が痛くなってきた。
「……例えるなら、川が流れていて渡れなかった向こう岸に、橋をかける所が管理室なんです」
「ああ、それなら何となくわかるぞ」
 ヤクトは一応納得した。
「……すると、井戸の中から出てきたのは、そこに橋ができたからなんだな」
「そうです。ラオスは管理室を使って適当な星を見付け、ここにファルクスと共にやって来たのです。目的はファルクスの移住でしょう」
「……なるほどな……」
 彼にも少し事情がわかってきた。
「でも、だからって……」
 科学とか星とか、空間の歪みだとか、理解しかねることが多いが、怒りを向ける先ははっきりした。
「平穏に暮らしてるこっちの人間に、迷惑をかけることはないじゃないかっ!」
 そのおかげで、村の半分の人間が殺されてしまったのだ。しかもその数はまだまだ増える可能性がある。
「その通りです。ですから、早く彼を止めねばなりません」
「そうだな。これ以上この村のような目にあわせるわけにはいかないからな」
 ヤクトは改めてファルクスと戦う決意をした。
「すぐに出発した方がいいかな?」
「はい。できれば」
「そうか……。じゃあ、さっそく行こうか。どこへ向かえばいい?」
「川の上流の方へ行きましょう。その辺りにファルクスの反応があります」
「わかった。村の奴に見付かるとまずいから、こっちを通って行こう」
 ヤクトが先頭に立って歩き始める。
 その後ろにイシェルが付いた。
 二人はそのまま無言で歩いていく。
「…………」
 イシェルは彼の後ろ姿を見ながら、ふと思った。
(アムセ様は……どうして彼をファルクスと戦わせるのだろう……)
 命令を受けたときから疑問だった。
 ファルクスの回収だけなら、イシェルだけで十分なはずである。
 それを、わざわざ現地の者にやらせ、イシェルにそのサポートをさせるとは。
 何か他に目的があるのだろうか。
 ハンターである彼女は、地位が高くはなく、アムセの部下ということになっている。
 上司が話さないときは、ハンターから訊いてはならない決まりだ。
 しかし、今までは話してくれていたアムセが話したがらないのだから、よほど深い事情があるに違いない。
 彼女としては、本当は彼を連れていくことに気が進まないのだが、命令は絶対である。 疑問に思っても、逆らうことは許されない。 だからイシェルとしては、自分のできる限りの力で彼を守るつもりだった。
(私は命令通りにしか行動できないのだから……)
 ともかく、こうして二人はラグナス村を後にした。

「……一体どこまで行くんだ?」
 川沿いを上流に歩いていきながら、ヤクトが訊ねた。
 少し息が荒くなってきている。
 そろそろ日も暮れる頃だ。
 かなり進んだはずだが、周囲にはまだ森が広がっていて、しばらくはとぎれそうもない。「私はここの土地を知らないので、どこへ行くかはわかりませんが、こちらにファルクスの反応があります」
 今はイシェルが先頭を歩いている。
「……遠いのか? もうだいぶ歩いたと思うんだが……」
「向こうも移動しているので、すぐに追い付くのは無理ですね。ファルクスは食後と夜に動きが鈍くなるので、そのときがチャンスなのですが……あまり近付き過ぎるのも危険です。今日はもう少し進んだら早めに休みましょう」
「……それで大丈夫なのか? その間にまたどこかの村が襲われたらどうするんだ?」
「……確かにそれはないとは言えませんが……ヤクトさん、色々あって疲れているでしょう? 仮に休みなしで行って追い付いても、戦う力が残っているとは思えません」
「……それはそうなんだが……」
 ヤクトは唇を噛んだ。
「気持ちはわからないでもないですが、焦りは禁物ですよ」
「あ、ああ。わかってるよ」
 ヤクトは頷いた。
 確かに彼女の言う通りで、焦ってもいたし、疲れてもいた。
 しかし、妹や村人を殺されたせいで、ヤクトは気を抜くと今にも泣いてしまいそうで。 それを必死に我慢して、ずっと気を張り詰めていたのだが。
 そろそろ限界のようだった。
「……ヤクトさん?」
 イシェルに顔を見詰められ、ヤクトははっとした。
 いつの間にか、涙がこぼれていたのだ。
 ヤクトは慌てて袖で拭った。
「は、はは、ごめんな。つい思い出しっちゃって……」
「……私、しばらく向こうに行っています」 イシェルは気を遣って、離れようとしたが、「あ、いいよ。大丈夫だから」
 ヤクトは彼女の腕をつかんで止めた。
「それより、少しでも前に進もう」
「……ヤクトさんがそれでいいのなら」
 二人はまた歩き出した。

 しばらくして。
「……なあ、イシェル」
「何です?」
 と彼女は顔を向ける。
「……ちょっと訊きにくいんだけどさ」
 ヤクトは足を止め、彼女を見た。
「その……どうして、君はいつも無表情なんだ? 俺は今まで、といっても会ってからそんなに立っていないんだけど、君の表情が変わるのを見たことがない」
「……それが訊きたいことですか?」
「気を悪くしたのなら謝るよ」
「いえ。……確かに私の……ハンターのことを知らない人が見たら、不気味に思えるかもしれませんね」
「い、いや。俺は別に……」
「いいんです。私には感情が欠如した部分がありますから」
「……え?」
 ヤクトは首を傾げた。
「私だけでなく、ハンターなら誰でもそうです。ないわけではないんですが……。今はこれだけで勘弁してくれませんか」
「あ、ああ。ごめんよ」
「構いません。何か疑問に思ったら、遠慮せずに言ってください。答えられる範囲で答えますから」
「……わかった」
 そうして、また歩き出そうとしたとき。
 ふいに、イシェルが足を止め、左を見た。「向こうに誰かいます」
「ファルクスか!?」
 ヤクトは咄嗟に弓を構えようとしたが、
「いえ。どうやら人間のようです」
 確かに彼女の言う通り、川向こうの森の中から現れたのは、人間のようだった。
「誰だ? そこにいるのは」
 彼は声をかけてきた。
 ヤクトと同じか、少し年下くらいの、若い男である。少年に見えなくもない。
 右手には長槍を持ち、腰には短剣が差してある。
 ヤクトの知らない顔なので、ラグナス村の者ではないだろう。
 格好からして、おそらく狩りに来たものと思われるが、槍をつかうとは珍しい。
「特に危険はないと思いますが」
「そうだな」
 ヤクトはイシェルと短く言葉を交わし、彼に返事をした。
「俺の名はヤクト。こっちはイシェルだ。君は?」
「俺はカヤセ。ナカト村から獲物を探しに来たんだけど、道に迷っちゃって」
「そうか……。なあ、どこかに橋はなかったか? 君と少し話がしたいんだ」
「いや、俺はこの川まで来たのは初めてだから。見ていない」
「……う〜む……困ったな……」
 ヤクトは腕を組んで、間を遮る川を見た。 幅は十メートル程で、決して大きいわけではないし、流れもそんなに速くない。
 しかし、この辺りは水が深そうだ。
 泳げば渡れるが、服が濡れてしまう。
 替えの服は持っていないので、川に入るわけにはいかなかった。
 これからファルクスと戦うというのに、風邪でもひいたら洒落にならない。
「上流に歩いていって、見付けるしかないかな……」
 ヤクトが考えていると、イシェルが体を寄せてきた。
「え? な、何?」
「ヤクトさん、私につかまってください」
 戸惑っている彼の体を、イシェルはおぶるようにして言った。
「飛び移ります」
「なっ……」
 驚く彼に構わず、イシェルは川の向こう岸に向かってジャンプした。
 といっても、そのジャンプは水の上を滑るような、信じられない動きのものだった。
 あ、と思った瞬間には、イシェルは何事もなかったかのような、相変わらずの無表情のまま、カヤセの隣に立っていた。
「う、うわっ!」
 とカヤセは思わず声を上げ、尻餅を付いた。 イシェルはヤクトを背中から下ろす。
「……す、すごいな、イシェル。君、力持ちなんだ……」
 ヤクトは驚いて顔を硬直させたまま言った。「力は関係ありません。ハンターの特殊能力で、短い距離なら空中でも水の上でも、こうして瞬時に移動できるんです」
「……よ、よくわからないけど、そうか。……何か、ハンターってのは何でもありだな」 ヤクトは苦笑いする。
「……そういうわけでもないのですが」
「お、お、おい! お、お前ら、い、一体何者なんだ!?」
 カヤセが顔面蒼白になり、二人を交互に見て、どもりながら言う。
 これまでイシェルの特殊能力を見てきたヤクトでさえ驚くのだから、彼の反応は当然といえば当然である。
「俺たち、別に化け物じゃないよ。……まあ、彼女はちょっと特別だけど」
「特別って何だ、特別って!?」
 ヤクトが落ち着かせようと声をかけるが、効果はなく、カヤセは変わらずわめいている。「……困ったな、どうしよう……」
「仕方ありません。話だけでも済ませましょう」
 イシェルはすっと腰を下ろし、カヤセと視線を合わせた。
「確か、ナカト村から来て道に迷ったと言っていましたね」
「そ、そ、そうだよ」
 彼女の綺麗な瞳に見据えられ、カヤセは思わずどきっとする。
 別の意味でどもってしまった。
「大体の距離はわかりますか?」
「さ、さあ。俺は二、三時間ぐらい歩いてたと思うけど……」
「村人の数は?」
「え、え〜と……た、たぶん百五十人ぐらいだと思うけど……」
 何でそんなことを訊くんだ、と思いながら、カヤセは何とか答えた。
「……狙うかな?」
 ヤクトが訊ねる。
「おそらく、間違いないでしょう」
 とイシェルは答えた。
「な、何だよ、一体何の話をしてるんだ?」 ようやく落ち着いてきたカヤセは、立ち上がり、不思議な会話を交わす二人に詰め寄った。
 その二人は一瞬、顔を見合わせる。
「……実はな……」
 ヤクトが言った。
「俺たちは化け物を追っているんだ」
「ば、化け物?」
 カヤセはぽかんと口を開ける。
 その目は信じていないようだが、とりあえずヤクトは続けた。
「そいつらは人を食うんだ。数時間前に、俺のいたラグナス村の連中の半分が殺された。このまま放っておくと、次は君の村が狙われる」
「……ふ〜ん……」
「……信じてないな?」
「当然だろ? 化け物なんか物語の中だけで十分だ。何を真面目な顔して言ってるんだか……」
 カヤセは肩をすくめてみせる。
「これは作り話じゃない!」
 ヤクトはむっとして怒鳴った。
「本当に化け物がいるんだ! 俺の妹だって殺されて……いや、そんなものじゃない。食われちまったんだ!」
「ヤクトさん……」
 イシェルが、思わず興奮する彼の前に立ってなだめる。
「……全く、何を盛り上がってんだ。そんなことより、俺にとっては帰り道を知る方が大事だよ」
「あくまで信じるつもりはなしか……」
「しつこいな。あんたらの遊びに俺を巻き込まないでくれよ」
 カヤセはそっぽを向いた。
 しかし、ふいににやりと笑い、
「そこまで言うなら、何か証拠でもある?」「証拠?」
「そう。それがあるなら、あんたたちの遊びに付き合ってもいい」
「遊びじゃないんだがな……」
 ヤクトはため息を付く。
「しかし、証拠といっても……。俺の村に行けば信じるとは思うが……今戻るわけにはいかないし……」
 ふと、イシェルを見てみる。
「そうだ、さっきの彼女のジャンプを見ただろ? 彼女はその化け物を倒すハンターなんだ。普通はあんなことできないだろ?」
「うっ……、そりゃそうだが……」
 と迷うカヤセ。
「い、いや、鍛えればできるかも知れない」「……できないって。頑固だな。君の村だって危ないんだぞ」
 ヤクトもいらいらしてきた。
「俺は化け物なんて信じない!」
「……何でそうむきになるんだよ?」
「俺は、化け物とか何だとか、そういう話をして喜んでる連中が嫌いなんだよ」
「……どうして?」
「…………」
 カヤセは少しの間黙っていたが、やがて仕方なさそうに話した。
「……小さい頃、俺は怖い話を聞かされるとすぐに泣いてたんだ。大人たちはそんな俺を面白がって、すぐに俺に怖い話をする。……だからそれ以来俺は努力して、怖い話は信じないようにしたんだ」
「…………」
 ヤクトとイシェルは、無言で彼を見詰めている。
「あっ、お前ら俺をばかにしてるな!? そうだろう!?」
「いや、ばかになんてしてないよ。……しかしな、カヤセ。これは本当のことなんだ。化け物は確実に君の村を狙う」
「だから、証拠を見せろ」
「…………」
「ヤクトさん、弓を使ってみてはどうですか?」
 イシェルが言った。
「私が渡した武器は、ファルクス以外には何の効果もありません」
「……そうか。そうだな」
 とヤクトは銀の弓を構えた。
 そしてどれを目標にしようかと周りを見回すと、イシェルが言った。
「どうぞ、私を狙ってください」
「えっ?」
 とさすがにヤクトは驚く。
「驚くことはないですよ。私はファルクスじゃありませんから、絶対に当たりません」
「…………」
 自信満々な彼女だが、しかしそれでもヤクトは迷った。やはり人を狙うにはためらいがある。
「ヤクトさん」
 イシェルが誘うように、両手を差し出した。「…………」
 ヤクトはためらいがちにゆっくりと弓を上げ、イシェルに狙いを定めた。
「お、おい……本当にやるのか……」
 カヤセが息を呑む。
 何だかはらはらしてきた。
 それはヤクトも同じで、もし当たってしまったら……という思いが何度も頭をよぎる。「大丈夫ですよ」
 とイシェルが言う。
 その言葉を合図に、ヤクトは矢を放った。 一瞬どきっとしたが、矢はイシェルに触れる寸前に掻き消え、ヤクトの手の中に戻ってきた。
「ほら、大丈夫だったでしょう」
 呆然とするヤクトとカヤセに、イシェルは言った。
「あ、ああ……」
「お、お前ら、本当に……」
 とカヤセが指を差し、顔を引きつらせる。「……カヤセ、この弓矢はイシェルが持ってきたものなんだ」
 ヤクトが彼に近付いて言う。
「彼女はハンターで、化け物は本当にいる。俺たちはこれ以上犠牲者を出したくない」
「…………わ、わかった。信じるよ」
「そうか……」
 ヤクトはほっと息を付く。
「……で、俺にどうしてほしいわけ?」
「あっ……そういえば……」
 ヤクトは今までの会話の内容を思い出す。 彼にファルクスの話を信じさせようとするばかりで、別に何かを頼んでいたわけではない。
「……ったく、困った人たちだな。俺も協力してやるよ。というか、協力せざるを得ないけどさ。ともかく、これからよろしく」
 カヤセは手を差し出した。
「こちらこそ、よろしく」
 とヤクトは手を握る。
「こっちの彼女もよろしく」
「よろしく……」
 イシェルも握手をした。
(……まあ、仲間が増えるくらい問題ないだろう……)
 アムセからはそのことについての命令は受けていない。
「何か、美人だけど無表情な人だなあ……」 カヤセが呟く。
「まあいいや。あ、言っとくけど、俺にはちゃんと恋人がいるから、安心していいぞ」
 彼は笑ってヤクトの肩を叩いた。
「べ、別にそんなんじゃ……」
「照れるなって」
「照れてないけど……」
 まあ、確かに気になる存在ではあるが。
「ともかく、早く行こうぜ。こうなったら俺の村が心配だ」
「あ、ああ。イシェル、ファルクスの反応は?」
「こちらです」
 イシェルは歩き出す。
「よし、行こう」
 ヤクトとカヤセはその後に続いた。
「…………」
 ふと、ヤクトは思う。
(イシェル……君の笑顔が見られるときは来るのだろうか……)
 恥ずかしくて、とても口に出しては言えないが、ヤクトは真剣に思った。

  第三章

 日もすっかり暮れてしまい、とうとう夜になった。
「……村はまだ見付からないのかよ……」
 ぜえぜえと荒い息を吐きながら、カヤセがぼやいた。
「……自分の村だろうが。それに一度通ったはずだろ。思い出せないのか?」
 とヤクト。
 彼の息も荒い。
 あれからずっと、森の中をさまよっていた。 しかし、さっぱり村は見付からない。
「イシェル、ファルクスの反応は?」
「ここからはだいぶ離れていますね。動きが鈍ってきていますから、そろそろ眠るのでしょう」
「何? だったらチャンスじゃねーか! 今の内に村を探そうぜ!」
「無理ですね。私はともかく、二人とも体力が限界のようです。今日はこれで休みましょう」
「そうだな……仕方ないか……」
 ふうっと息を付き、ヤクトは立ち止まった。「何呑気なこと言ってんだよ? 早く村を見付けないと、大変なことになるんだろ? 休んでる暇なんかないぜ」
 とカヤセが言う。
「焦ってはいけません。仮にこのまま進んで村を見付けても、ファルクスと戦う力は残っていないでしょう」
「…………わかったよ」
 イシェルに言われ、カヤセは地面に腰を下ろした。
「しかし……何か食べ物はないのか? それに水は?」
「もう何も残ってないよ」
 とヤクト。
 川の水を水袋に入れて持ち歩いていたが、森の中を進む内に全部飲んでしまった。
 他に、時々木の実を見付けては食べていたが、それもほんのわずかで、肉にする小動物は全く見かけない。
「まあ、確かに腹は減ったな……」
 ヤクトは自分の腹を押さえる。
「どこかに食べ物はないかな……」
 と周りを見渡したが、しかし、どこにも何もない。
「ああっ、これじゃ、村に帰る前に餓死しちまうぜ!」
 カヤセは横になってごろごろと転げ回った。 空腹の怒りを表現しているらしい。
「そ、それは大袈裟だと思うが……」
 しかし、冗談ではなく本当に困った。
「でも、何でこんなに動物がいないんだろう。ファルクスのせいかな?」
「それはわかりませんが……危険に気付いて、どこかに逃げたのかも知れません」
「まいったな……」
 ヤクトは頭を掻いた。
「二人とも、ここにいてください」
「えっ?」
 ヤクトとカヤセが、驚いてイシェルを見る。「私が食べ物を持って来ます。すぐに戻りますから」
 そう言うと、彼女は二人が止める間もなく駆け出した。
「は、速い……」
 カヤセは呆然として呟く。
 もう姿が見えなくなってしまった。
「……なあ、ヤクト」
「ん?」
「彼女のこと、どう思う?」
「な、何だよ、いきなり……」
 ヤクトは近くの木の下に座り、寄り掛かった。
 カヤセもその隣に移動する。
「いいじゃないか。好きなのか?」
「……好きも何も……まだ会って間もないんだ……。わからないよ」
「ふ〜ん……。へへへへ……」
 カヤセはいきなり笑い出した。
「な、何だ? 気持ち悪いな……」
「俺の彼女な、レンっていう名前なんだ」
「ああ、そういえば恋人がいるって言っていたな」
「レンはな、すごくかわいい奴なんだ。容姿だけじゃなく、性格もいいんだぜ」
「……のろけ話なんぞ聞きたくないが……」「まあまあ。彼女、結構器用でさ、この槍だって作ってくれたんだぜ」
「へえ、それはすごいな」
 とヤクトはカヤセの持つ槍を見る。
 なかなかしっかりした作りだ。
「今もさ、この槍がもう古いからって、新しいのを作ってくれてるんだぜ」
「へえ……商売ができそうだな……」
「だめだめ。レンは俺のためにしか作らないんだ」
「……お熱いことで」
 ヤクトは呆れた。
「ああ……今頃、レンの奴心配してるだろうなあ……」
 カヤセは空を見上げた。
 夜は星がきらきらと光って綺麗だ。
「レンもこの星を見てるのかな……」
「……カヤセ……、そういうことを真面目な顔で言わないでくれるか……。聞いてる方が恥ずかしいから……」
「あ、ああ、そうだな。ははは……」
 カヤセは照れくさそうに頭を掻いた。
 しかし、彼は急に表情を沈ませて、
「……でもさ、ヤクト。ファルクスとかいうわけのわからない化け物に、俺の村が狙われているんだろう? 本当のところ……俺、レンのこと守れなかったらと思うと……気が気じゃないよ……」
「…………」
「なあ、ヤクト。……俺、レンのこと守れるかな?」
「……さあな。俺には何とも言えないよ」
「……冷たいな。こういうときは、お前なら大丈夫だ、とか言って励ますもんだろ?」
「そんなこと期待してないくせに。守れるかどうかは、お前次第だよ」
「……そうだな。レンを守るのは、俺しかいないからな」
 カヤセはごろんと横になった。
「ああ……腹減った」
「そういえばイシェル……一体どこまで行ったんだ……」
 ヤクトは立ち上がって周りを見た。
 ふいに、ひゅん、と上空で音がした。
「何だ?」
 見上げたと同時に、何かが地面に降り立った。
 視界には黒い影しか入らなかった。
「食べ物、持ってきました」
「……イシェル……」
 視線を正面に戻すと、イシェルがいた。
 手には何やら色々と持っている。
「君ねえ……一体どこから来たの……」
「すみません。驚かしてしまいましたか。鳥を捕まえていたものですから」
「何、鳥? 食べ物か?」
 カヤセはがばっと立ち上がると、イシェルに詰め寄った。
 彼女の手には、鳥が二羽と、果物が四個ある。
「へえ、よく見付けたねえ」
 カヤセがほめる。
「……でも、この鳥食えるのかな?」
「大丈夫だろう。俺は食べたことがある」
 とヤクト。
「そうか。じゃあ俺、薪を拾ってくるよ」
「あ、待て。また迷子になるかも知れない」 走りかけたカヤセを、ヤクトが腕をつかんで止めた。
「俺が行くから、お前はおとなしくしてろ」 そう言うと、彼は歩いて行ってしまった。「……俺ってそんなに信用ないかねえ……」 カヤセがぼやく。
 まあ、実際迷子になったから、こうして一緒にいるわけなので、言い返すことはできないが。
「……ところでイシェルさん。ヤクトが薪を持ってくるまでまだ時間がかかりそうだし、先に果物だけでも食べてない?」
「私はいりません。取って来る時に食べましたから」
「ふ〜ん……。じゃ、悪いけど一人で食うよ」 カヤセは果物にかじりついた。
 ひょうたんのような形だが、味はリンゴと同じである。
「ところでさあ、俺、会った時から思ってたんだけど……」
 カヤセはイシェルの目を見詰めて言った。「何ですか?」
「……こんなこと言ったら怒るかも知れないけど……イシェルさんって、変わってるよね。いつも無表情だし、やたらに人間離れしているし……」
「…………」
「遠くの国から、ファルクスを追って来たって言うけど……」
 カヤセには、ファルクスのことはそう説明してあった。
「その国では、君みたいな女の子まで強くならないと、生きていけないのか?」
「……そんなことはありません。弱い人はたくさんいます。心も、体も、弱い人ばかりです」
「……何か複雑そうだけど……、俺は、女の子は笑顔でいるのがかわいいと思うし、そんな子を、守ってやりたいと思うよ」
「そうですね。……おそらく明日には、ファルクスに接触できると思います。カヤセさんは、しっかりとその子を守ってあげてくださいね」
「ああ。レンは必ず守ってみせる! ……って、あれ? 話したっけ?」
「恋人がいるとは聞いています」
「そっか。……イシェルさんもさ、いつか誰かと笑顔でいられるときが来るといいね」
「そうですね」
 このとき、イシェルは笑ってみたいと思った。……しかし、やはり表情は変化する気配すらなかった。
(……本当に、そんなときが来ればいいけど……)
 所詮、無理なこととはわかっているが、イシェルは願わずにはいられなかった。

 やがてヤクトも戻ってきて、火を起こし、鳥を焼いて食べた。ちなみに、あまりおいしくはなかった。
 ヤクトは食べたことはあると言ったが、おいしいとは言っていない。
 それからすぐに眠ることにした。
 今の暖かい季節、夜でもそう冷えることはないので、毛布がなくても問題ない。
 だが、眠れなかった。
「……ヤイカ……」
 ヤクトは妹を初めとする、村人たちの死による悲しみで。
「……レン……」
 カヤセは、守ってやるとは誓ったものの、やはり不安からくる緊張で。
「ヤクトさん……カヤセさん……」
 イシェルはどうしようかと考えた。
 疲れている上に、このまま眠れずにいては、ファルクスと戦う体力がなくなってしまう。 しかし、慰めたところで効果はないだろうから、少し放っておくことにした。
「ヤクトさん、カヤセさん、明日は早く出ましょう。ファルクスは空腹になると、食べ物に対する反応が敏感になります。これ以上の犠牲者を出さないためにも、しっかりと眠ってくださいね。私は少しこの森を探索してきますから」
 そう言うと、イシェルは奥の方へと歩いていった。
「……なあ、カヤセ」
 しばらくしてから、ヤクトは横になったまま言った。
「……何だ?」
「……余計なことは考えないで、そろそろ眠ろうか」
「……そうだな」
 それから程無くして、二人は眠りに付いた。
 森の奥を歩いていたイシェルは、ふいに思い立ち、飛び上がってみた。
 十メートル以上はある木より、少し高い位置にまで来た。
 さっと周りを見渡すと、森はかなりの広範囲にあるとわかる。
 木が邪魔でよくは見えないが、その端の方には少し開けた場所があった。
 ヤクトのいたラグナス村は川の向こうにあるから、あれはおそらく、カヤセの住むナカト村だろう。
 距離は……歩いて二時間程だろうか。
 イシェルは地面に降りると、朝の食事を探しながら歩き始めた。
 ふと、上空で鳥の羽ばたく音がした。
 イシェルが見上げると、黒い、人間並の巨大な鳥が、彼女に向かって急降下してきた。「ファルクスか」
 他のことを考えていたので、気付かなかった。
 イシェルは紙一重でかわすと、行き過ぎようとする黒い鳥の足をつかんだ。
 鳥はその勢いのまま地面に叩き付けられる。 逃げようとしても、イシェルに押さえ付けられていて,できそうにない。
「さて、どうするか……」
 イシェルはもがいている巨大な鳥を見た。 目が三つあり、翼には鉤爪のようなものがある。
 おそらく、他のファルクスとはぐれたのだろう。
 回収するいい機会なのだが、このファルクスは気絶しているわけでも、死んでいるわけでもない。
 従って、このままでは回収はできない。
 イシェルが手を出せれば早いのだが、彼女はヤクトのサポートという役目なので、そういうわけにもいかなかった。
「行きなさい」
 イシェルは手を離した。
 ファルクスは慌てて飛び立っていく。
「…………」
 これでよかったのだろうか、とイシェルは考える。
 逃がしたあのファルクスは、これから向かうナカト村で、誰かを襲うかも知れない。
 その分の犠牲者を減らせるかも知れない。 なのに……。
「私は命令には逆らえないから……」
 やはり無表情のまま、イシェルは呟き、歩き始めた。

 朝になった。
 イシェルはヤクトとカヤセを起こしてから、食事の用意をした。
 二人はしばらく眠そうだったが、だいぶ疲れは取れたようだった。
「イシェルは眠ったのかい?」
 彼女の取ってきた木の実等を食べながら、ヤクトが訊ねた。
「ええ、寝ましたよ」
 とイシェルは答える。
 彼女は先に済ませたと言い、今は食べていない。
「……何で一緒に食べないんだ?」
「深い意味はありません。今度は一緒に食べますから」
「……なら、いいけど」
 そうして食事を終えて、少し休んでから、ヤクトたちは出発した。
 イシェルが村らしきものを見たと言うので、その方向に進むことにした。

「……いよいよか」
 カヤセが呟く。
 彼の表情も、段々と緊張したものになっていく。
 イシェルによれば、村まではあと一時間くらいらしい。
「……ところで、カヤセ」
 歩きながら、ヤクトが訊ねる。
「お前槍を持ってるけど、どのくらい使えるんだ?」
「どのくらいって……かなり使えるぜ」
「本当か?」
「本当だって。村の中じゃ、槍で俺にかなう奴はほとんどいないんだぜ」
「……その前に、槍を使う奴ってのはどのくらいいるんだ?」
「……いや、実は俺だけなんだけどさ……。しかし、俺はこれで野ウサギを仕留めたことがあるんだぞ」
「……野ウサギを? 槍でか? ……まあ、それはそれですごいかも知れんが……」
 普通、野ウサギなどの小動物を狩るときは、弓矢を使う。
 彼の場合は槍なので、どうしても接近しなくてはならない。
 しかも野ウサギはかなり素早いので、近付くだけでも大変だというのに、それを仕留めるとなればさらに大変なのだ。
 それをやったという彼は、確かにすごいかも知れないが、しかし普通そんなことをする者はいない。
 ……もっとも本当のところ、他の弓を使う仲間と協力して、カヤセは止めをは刺しただけなのだが。
「カヤセは、どうして槍を使うんだ?」
 とヤクトが訊ねた。
「どうしてって……俺は弓が使えないんだ」「練習してもか?」
「ああ、どうもうまくいかなくてさ。でも試しに槍を使ってみたら、これだと思ったよ」「なるほど……」
「それに、俺の彼女のレンがさ」
 カヤセが幸せそうな笑みを浮かべた。
「……ん?」
「槍を作るのが得意なんだよ。他に使う奴もいるわけじゃないし、俺が使ってやらないとな」
「……本当はそれが原因じゃないのか?」
「……まあ、何でもいいじゃないの。はっはっはっ」
「……笑いごとじゃないだろうに……」
「……カヤセさん。言っておきますが、ファルクス相手に普通の武器では通用しませんよ」 イシェルの言葉に、カヤセから笑みが消える。
「どういうことだ?」
「ファルクスを倒すには、ファルクス専用の武器が必要なのです」
「……だからどうして?」
「主に体質的な問題があります。ファルクスは普通の動物とは違いますから」
「……う、う〜む……。よくわからんが、武器が通じないなんてこと、ありえるのか……?」
 カヤセは首を傾げる。
「信じられないのはわかるが、本当だ」
 とヤクトが言う。
「俺が矢を命中させたっていうのに、何もなかったようにしてたんだからな……」
「……ふうむ……」
「カヤセさん。聞いて納得できないのなら、実際見て試してはどうですか?」
 そう言って、イシェルが空を見上げる。
「え……?」
 つられてカヤセとヤクトも上を見た。
「あれは……!」
 ヤクトが目を見開く。
「……ファルクスか!?」
 はっきりとは見えないが、二つの影が翼を使って飛んでくる。
 一つは猿のような、もう一つは虎のような姿をしている。二匹とも黒い体毛で、口には何か赤い塊ををくわえていた。
 そして、ヤクトたちには気付かず、そのまま離れたところに降りた。
「……今のがファルクスか?」
 とカヤセが訊ねる。
 あまり驚いた様子はない。
「間違いないと思うが……しかし、何故こんなところに……」
「どうやら、一足遅かったようですね」
 とイシェルが言う。
「何? まさか……?」
 ヤクトは嫌な予感がした。
「行きましょう」
 イシェルが走り出した。
「行くぞ、カヤセ」
 その後を、ヤクトが彼の手を引いて続く。「お、おい、どういうことだよ?」
 訊ねるが、二人とも答えない。
 そして、すぐに二匹のファルクスを見付けた。
 ファルクスの方も三人に気付いたようだが、食事の方を優先している。
「……何だ? 何を食ってるんだ……?」
 カヤセは目を細める。
 くちゃくちゃと音がし、段々と血の臭いが漂ってきた。
「何かの肉だとは思うが……」
 原形をとどめていないので、元が何なのかわからない。
「……ファルクスは肉なら何でも食べますが、一番好むのは人間の肉なんですよ」
「……!」
 イシェルの言葉に、カヤセは息を飲んだ。「……この様子だと、村の方もやられてるな……」
 ヤクトが悔しそうに舌打ちする。
「……くっ……くそっ!」
 カヤセは歯軋りした。
 そしてイシェルに顔を向けて問う。
「村の方向は!?」
「あのファルクスがいる方へ真っ直ぐ行けば着きます」
 そう聞くと、カヤセは槍を振り上げ、ファルクスに向かって行った。
「でやぁぁっ!」
「よせ!」
 とヤクトが叫ぶが、彼は止まらない。
 カヤセは虎の方へ槍を突き出した。
 だが、虎は素早く横に避けると、前足で彼を突き飛ばした。
「うわっ!」
 カヤセは地面に叩き付けられる。
 そしてその上に虎が乗りかかり、牙を剥く。「ぐうっ……!」
 血で濡れているその牙が間近に迫った時、カヤセは死ぬと思った。
「動くな、カヤセ!」
 ヤクトの声が聞こえた。
 瞬間、虎は悲鳴を上げてカヤセから離れ、のたうち回った。
 その背には銀の矢が刺さっていたが、すぐに消えてヤクトの手に戻る。
「大丈夫か?」
「あ、ああ。助かったよ」
 カヤセは顔の汗を拭いながら立ち上がった。「いきなり突っ込むなんて、危ないことをするな!」
 ファルクスに矢を向けたまま、ヤクトは怒鳴った。。
「……今のは油断しただけだ。それより、俺は先を急ぐ。ここは任せた」
 早口でそう告げると、カヤセはあらぬ方向へ走り出した。
 回り道するつもりなのだろう。
「おい、カヤセ! 一人じゃ無理だ! 戻れ!」
 ヤクトが叫ぶが、彼は無視して走って行ってしまった。
「くそっ……専用の武器も持たないで、ファルクス相手に勝てるかよ……」
 目の前には、虎と猿のファルクスがこちらの隙をうかがっている。
「仕方ない……」
 ファルクスを睨み付けたまま、ヤクトは隣にいる少女に言った。
「イシェル、俺は大丈夫だから、カヤセに付いていってやってくれ。一人じゃ心配だ」
「それはできません」
「……何?」
 意外な答えに、ヤクトは思わず彼女を見る。 その瞬間、二匹のファルクスが飛び掛かってきた。
「うわっ!」
 矢を放つ暇はない。
 しかし、イシェルが光の壁を作ってそれを防いだ。
 ファルクスは壁の内側に入って来られない。「助かった。……しかし、どういうことだ?」 猿の方に矢を射ながら、ヤクトは訊ねる。 だが猿は素早い動きで、矢をかわしてしまった。
「私はあなたのサポートをするのが役目です。あなたから離れるわけにはいきません」
「何を言ってるんだ。食料を取りに行った時は離れてたじゃないか!?」
「あの時はファルクスが近くにいなかったからです」
「……早く行かないと、カヤセだけじゃなく、大勢の人間が殺されてしまうんだぞ!」
「だめです。私は戦闘中、あなたの側にいることを最優先にするよう命令を受けています」「何だよ、大勢の命より俺一人の方が大事なのか!?」
「そうです」
 イシェルは迷いもなく答えた。
「私にとって命令は絶対ですから」
「……くそっ、君はそれでいいのか!?」
 いらついて矢を放ちながら、ヤクトは問う。 しかしその矢はわずかに虎の足をかすめただけだ。
「いいも何も、私はそれしかできません。早く助けたいのなら、まず目の前のファルクスを倒すことです」
「……わかったよ」
 小さくため息を付き、ヤクトは矢を放つことに集中した。
「すいません」
 とイシェルは小さな声で謝る。
 彼女も本心では、大勢の人を助けたいと思っている。
 だが、行動には起こせない。
 命令には逆らうことができないから。
(カヤセさん、村の人たち、どうか無事でいてください)
 心配だと表情に出すこともできないが、イシェルはそう願うのだった。

  第四章

 森の中を、カヤセは走っていた。
 もう二十分くらいになるだろうか。
 息は荒くなり、胸は苦しい。
 こう疲れてしまっては、村に着いてもすぐに戦えるのか疑問だが、カヤセは足を止めることはできなかった。
「……レン……」
 彼女は無事だろうか。
 怪我などしていないだろうか。
 走っている内に、どんどん不安になってくる。
 そういえば、ファルクスには普通の武器が通じないとヤクトが言っていた。
 大丈夫だろうか、と少し心配になったが、今更考えても仕方がない。
「レンは、俺が守るんだ」
 何度もそう呟きながら、カヤセは懸命に走った。
 そうして、やがて見覚えのある景色に出た。 家の屋根も見えてくる。
「ようやく着いたか」
 カヤセは安堵すると同時に、気を引き締め直した。
 しかし村に入ると、そんな引き締めた気など、何の意味も持たなかった。
「なっ……」
 ヤクトは呆然と立ち尽くす。
「……本当に、ここは俺の村なのか……?」 家は潰され、死体はいくつも転がっており、異形の化け物が徘徊している。
 あちらこちらから、化け物の歓喜の声と、人々の恐怖の声が聞こえてくる。
「……レ、レン……。レンは!?」
 カヤセは焦る気持ちで、彼女を探した。
 途中、誰の者かもわからない肉片がいくつも目に付いた。
「まさかレンも……いや、不吉なことを考えるのはやめよう」
 カヤセは慌てて首を振った。
 見た感じ、ファルクスの数は五匹程。
 他は森の中で見たように、どこかへ行ったのだろう。
「……しかし皆、どこにいるんだ?」
 森の奥にでも逃げたのだろうか。
 動いている人間を、あまり見かけない。
「レンはうまく逃げたみたいだな」
 とりあえずそう信じることにして、カヤセは後回しにしてしまった他の村人を助けることにした。
「確か、向こうの方で誰かが逃げていたな」 潰れかけた家の陰に隠れながら、カヤセは進んでみた。
「お、お兄ちゃん!」
 ふいに自分を呼ぶ声がした。
 潰れた家の所に子供が二人いる。
「お、お前ら、何やってんだ?」
 近所にいる幼い兄妹だ。
 カヤセもよく遊んでやっている。
「お兄ちゃん! 助けてよ!」
 兄の方、レムスが泣き叫んでいる。
「クスナが! クスナが!」
「落ち着け! 今行く!」
 カヤセはファルクスが近くにいないことを確かめながら、二人の所へ向かった。
 そして、状況を理解して目を見開く。
「これは……!」
 妹のクスナが、潰れた家の下敷きになっていた。
 幸い怪我はしていないようだが、柱が邪魔で抜け出せないらしい。
「お兄ちゃん! クスナを助けて!」
 レムスがしがみついてくる。
「わかった。危ないから、お前は離れてろ」「う、うん」
「よし……やるか」
 カヤセは柱をつかんだ。
「もう少しの辛抱だからな。俺が柱を持ち上げたら、素早く出てくるんだ」
「う、うん」
 とクスナは答える。
「よし、いくぞ」
 カヤセは力を込めた。
 柱がかすかに震える。
 さすがに重いが、ここは頑張るしかない。「ぬううううりゃあああっ!」
「あっ、持ち上がった!」
 レムスが声を上げる。
 わずかな高さだが、子供が通るには十分である。
「い、今だ! 早く出ろ!」
「う、うん!」
 クスナは慌ててそこから抜け出した。
「ぶはっ!」
 力を抜いて手を離すと、柱は上にあった屋根と共に、大きな音を立てて崩れだした。
「うわっ! 逃げろ!」
 カヤセは二人を連れてそこから離れる。
「ふうっ……、危なかったな」
「うわ〜ん! お兄ちゃ〜ん!」
 クスナがレムスに泣き付いた。
「ありがとう、カヤセお兄ちゃん」
 妹の背中を「大丈夫」と撫でながら、レムスは礼を言う。
「でも、あの化け物は一体何なの? 凄い悲鳴が何度も聞こえたんだ。それに……」
 彼は妹を抱きしめながら、体を震わせた。「……もういいよ。あの化け物の正体は俺にもわからん。それより、みんなはどこへ行ったんだ? レンは?」
「わかんないよ。僕、ずっとここにいたから」「そうか……。ともかく、あの化け物に見付からないように、みんなを探そう」
「う、うん……。……あっ」
 レムスは小さな声を上げた。
 体を硬直させ、目は恐怖に見開かれている。(……まさか!?)
 カヤセは咄嗟に後ろを向いた。
 やはり、ファルクスだ。
 家くらいはある、大きなカマキリのようだが、色は茶色で、全身の肉がぶくぶくと膨れているように見える。
「くっ……いつの間に!?」
 カヤセは後退った。
 二人の兄妹は震えている。
「お前ら、こいつは俺が何とかするから、早く逃げろ!」
「……に、逃げるって、どこへ……」
「どこでもいい! 化け物に見付からない所だ! 早く行け!」
「…………」
 レムスはかすかに頷くと、クスナの手を引いて走り出した。
「うまく逃げてくれよ……」
 カヤセは槍を構えながら呟いた。
 カマキリは、鎌状の前足をカヤセに向けている。
 あれにつかまったら、おそらく命はないだろう。
「とりあえず、あいつらから引き離すか」
 カヤセはカマキリの後ろに回り込もうとした。
 しかし、途中まで進んでも、一向に付いてこようとする気配がない。
「ちっ……俺より子供の方がうまそうだってか……」
 仕方なく、カヤセは元の位置に戻った。
(……さて、どうする?)
 カマキリに動く様子はないが、こちらも動けない。相手は大きい上に、昆虫型だ。素早くて力もある。うかつに攻撃を仕掛けることはできない。
(……ここは引いた方がいいか?)
 あの兄妹もうまく逃げただろうし、ファルクスには普通の武器では通じないらしいし。 それに、他にもファルクスはいるはずだ。(……引こう)
 そう決断し、一歩後退った時だ。
 突然、カマキリが二、三歩歩み寄り、カヤセに向かって前足を振り下ろした。
「!?」
 咄嗟にカヤセは、槍を水平に持ち、防ごうとした。
 しかし、その槍は何の効果もなく、あっさりと折られてしまった。
 体に傷こそ付かなかったが、上着が腹の辺りまで裂かれた。
「そんな……!」
 だが、驚いている暇はない。
 仕方なくカヤセは逃げた。
 槍は折れたが、レンの作ってくれたものなので、捨てずにそのまま持っていく。
「くそっ! どうしたら……」
 こうなると、ヤクトとイシェルを置いて一人で来てしまったことが、無謀だったと思えてくる。
 とりあえず、カヤセはカマキリの視界から外れるよう、横道に入り、家の陰に隠れた。 そこで思わず、目を見開く。
「なっ……お前ら……!?」
 レムスとクスナの兄妹が、二人で抱き合うように、縮こまっていた。
「何でここにいるんだ! 逃げろって言っただろ!」
「だ、だってだって……」
 とレムスが、鼻をすすりながら言う。
「どこに行けばいいのか、わからなかったんだもん……」
「だ、だからって、こんな危ないところに……」
 言いかけたカヤセだったが、
「ひっ」
 と突然クスナが息を呑み、呆然としながらレムスに強くしがみついた。
 はっとカヤセは気配を感じ、後ろを振り返る。
 少し離れたところから、ファルクスが二匹、こちらに向かって来ていた。
 硬そうな殻を付けた大きな蛇と、異様に足の長いトカゲである。
 このままでは、反対側から来るカマキリとに囲まれてしまう。
(……くそっ……もうだめか……)
 カヤセは周囲に視線を巡らせる。
(どこかに逃げ道は……)
 しかし、ここに来た時にわかっていたことだが、やはりそんな場所はない。
 その間にも、少しずつファルクスが間合いを詰めてきている。
「お兄ちゃん……」
 レムスが助けを求めるように、カヤセを見上げている。
「…………」
 彼は唇を噛み締める。
 このままでは、この二人どころか、自分さえも守ることができそうにない。
(もっと力があればな……)
 何だかおかしくなってきて、カヤセは小さく笑った。
「お、お兄ちゃん……?」
 レムスが不思議そうに見る。
「……何でもないさ」
 カヤセはそう言って、二人の頭を撫でた。「いいか、俺が何とかしてあの化け物を引きつけるから、お前らは今度こそちゃんと逃げるんだ」
「えっ……で、でも、お兄ちゃんは……?」「俺のことは心配するな。別に死ぬつもりはない」
「で、でも……」
「レムス! お前兄貴だろう!? だったら妹を守れ!」
 カヤセに怒鳴られ、レムスは思わずびくっとする。
「……お兄ちゃんをいじめないで……」
 一瞬の沈黙の中、クスナが小さく呟くように言った。
 カヤセは優しく微笑む。
「妹がこう言ってるぞ。俺にいじめられたくなきゃ、さっさと行けよ」
「う……うん。気を付けて……」
 レムスはクスナの手を引いて、走り出した。「さてと……」
 カヤセは折れた槍を地面に捨てた。もうレンの作ってくれた物だとか、言っている場合ではない。
 そして滅多に使うことのない、腰の小刀を抜いて、構えた。これも苦手な武器に変わりないが、槍が使えない以上、仕方ない。
 一つ深呼吸し、
「やるか」
 とカヤセは呟いた。
 正面からは、蛇とトカゲのファルクスが、すぐ近くまで迫っていた。

「わぁぁっ!」
「やだぁっ!」
 正面のファルクスを引き付けるため、走り出そうとしたカヤセだったが、レムスとクスナの悲鳴に、思わず後ろに目をやった。
「……嘘だろ……」
 最悪の状況に、彼は顔を引きつらせる。
 立ちすくむ二人の前には、カマキリがいた。 あくまで子供の方を狙うつもりらしい。
「どうしろって言うんだよ……」
 助かる方法を必死に考えるが、何も、浮かばない。
「お、お兄ちゃん……」
 二人の兄弟は、震えながらこちらを見ている。
「く、くそっ!」
 カヤセは蛇とトカゲに背中を向け、走り出した。
 やれる所まで、やるしかない。
 それが彼の出した結論だ。
 これで駄目なら……いや、そんなことは考えない。
 カヤセはとにかく全力で走った。
「逃げろーーっ!!」
 そう叫んだが、二人は動けそうにない。
 カマキリも、鎌状の前足を振り下ろそうとする。
 カヤセとの距離は、まだあった。
(間に合わない!?)
 全身が、ひやりとした。
 レムスとクスナが、目の前で殺されるーー。 今まさに、前足が振り降ろされ、それが現実のものになろうとする瞬間。
 横から、誰かが飛び出した。
「!?」
 その誰かは、二人を押し退けようと、手を伸ばして跳躍する。
 その体を、前足が貫いた。
 ごふっと血を吐きながらも、その長い髪の持ち主は、懸命に二人を押して、前足に取られないようにする。
 結果、クスナは転んで顔面を打っただけだが、レムスまでは動かしきれず、右足を刈り取られてしまう。
 そこから血が吹き出し、長い髪は赤く染まった。
「…………」
 カヤセは自分の目を疑った。
 あの長い髪には、見覚えがある。
 ありすぎる。
「……レ、レン……なのか……?」
 心臓が止まりそうになった。
 全身が真っ赤になった彼女は、前足に貫かれたまま、ぐったりとして動こうとしない。
「……レ……レ……」
 呼ぼうとしたが、声がかすれて言葉にならなかった。
 その間にも、カマキリは彼女を口許に持っていこうとする。とりあえず、手にしたものを食べるらしい。
「や……やめ……」
 止めさせないと。
 そう思うカヤセだが、足が震えて進むことができない。
「あ……ああ……」
 絶望し、カヤセは膝をつく。
 泣いているクスナの声も、苦しげに呻くレムスの声も、どこか遠い世界のものに思える。 ふいに、右肩に痛みが走った。
 見ると、蛇が食らい付いている。
 そして一瞬遅れて、トカゲが左手を飲み込んだ。
「……終わりかな……」
 何だか、全てがどうでもよくなってくる。
 だが、そんなとき、自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえてきた。
「カヤセっ!」
 それに反応して顔を上げると、大きな音を立てて、前足が落ちてきた。
 そして右肩の蛇が、続いて左手のトカゲが、悲鳴を上げてカヤセから離れる。
 力が抜け、倒れかけたカヤセを支えたのは、いつも通り感情のない表情と声のイシェルだった。今の彼には、それも懐かしく思える。
「しっかりしてください、カヤセさん」
「……イ……イシェル……さん……」
 彼女を見ながら、彼は「あっ」と声を上げた。
 イシェルが、血まみれの少女を抱えている。 その視線に気付き、彼女は少女をカヤセの手に渡した。
「この人が……レンさんなんですね」
「あ、ああ……そうだよ……。へへっ……美人だろ……」
 カヤセは、少女をしっかりと抱き締めた。
 その胸から腹にかけて、大きな穴が開いている。
 食い千切られた右肩も、左手も、痛みはない。あるのは心の痛みだ。
「……お、俺……彼女を、守ってやれなかった……」
 カヤセは苦しそうに泣き始めた。
「…………」
 イシェルはそっと離れた。
 そして右足を失った、レムスの元に付いてやる。
 途端に、上からカマキリの前足が迫ってきた。片足を奪われ、怒り心頭のようだ。
 だが、その前足が、イシェルに触れることはなかった。
 彼女の発した光の壁に、遮られてしまっている。
 カマキリは壊そうとするが、光の壁はびくともしない。
 その隙を付き、カマキリに矢が突き刺さる。「イシェル、こいつは俺が引きつけるから、早くその子を!」
 ヤクトは立つ位置を変えながら、次々と矢を放った。
「はい」
 と返事をして、イシェルは壁を消す。
 そして、倒れているレムスに手を当てた。「あ、あっ……」
 傍らで、クスナが心配そうに声を発する。
「お兄さん、ですか?」
 とイシェルは訊ねた。
「う、うん……」
「大丈夫です、お兄さんは助かりますよ」
「ほ、本当……?」
「はい、この様子だと二、三日も眠れば」
 イシェルは手から光を発した。その光がレムスを包み込むと、彼はびくんっと体を震わせる。すると、切れた足から段々と肉と骨が伸び、やがて元通りとなった。
「お、お姉ちゃん、すごい……」
 不思議な力に、クスナは素直に感心した。 その間にも、ヤクトはカマキリを倒し、今は蛇とトカゲを相手にしている。
 さすがに二匹同時に相手では、つらそうだ。 イシェルは他のファルクスの反応を探った。(……村に残っているのは、あの二匹だけか……)
 来る前にはもっといたはずだが、既に移動したらしい。
「少しここで待っていてください。大丈夫です、もう危険はありませんよ」
 イシェルはそうクスナに告げると、ヤクトの許に走った。

 そうして程なくして、ファルクスは倒れ、イシェルは死体を回収した。
「はぁ……さすがに疲れたな……」
 ヤクトは地面に座り込み、呼吸を整えた。 しかし、あまり休んではいられない。
「カヤセはどうだい?」
「体は問題ありません。ですが……」
 とイシェルは答える。
 戦闘が終わったとき、カヤセはレンを抱いたまま、気を失っていた。ファルクスにやられて重傷だったのだが、イシェルが治療して、命を取り止めたのである。
 しかし、イシェルのその能力も、死んだ者には効果がない。
「立ち直れるかどうかは、わかりませんね……」
「そうだな……」
 ヤクトは深くため息を付く。
 あれだけ恋人を守ってみせると宣言していたのに、結果は悲惨なものだった。
 彼でなくても、心が痛む。
「どうします? カヤセさんは」
 イシェルが訊ねた。
 ここに置いて行くのか、それとも連れて行くのか。
「悩むところだな……。まあ、ここにいて悩んでいるより、連れて行った方が彼のためだと思うけど……」
「では、そうしましょう」
 そう決まったので、カヤセが目を覚ますまで、二、三日はここにいることになる。
 しかし、家は半分以上壊され、村人たちも五十人近くが死に……。
「……ん?」
 ヤクトはおかしなことに気付いた。
 とっくにファルクスはいなくなったというのに、村人が現れる様子が全くない。
「どういうことだ?」
 全員が跡形もなく食われたということは、まずないだろう。
 遠くまで逃げてしまったのだろうか。
 化け物が出る村になど、戻るつもりはないのかも知れない。
「……お父さんも、お母さんもいない……」 クスナが目を真っ赤にして、涙を浮かべている。
 幼すぎる彼女には、つらい出来事だ。
(どうする……?)
 ヤクトはまたも悩んだ。
 まさか、幼い兄妹を連れて旅に出るわけにはいかないし、かといって誰もいない村に置いていくわけにもいかない。
「……そうだ。イシェル、頼みがあるんだけど」
「何でしょう」
「クスナとレムスを、俺の村に連れて行ってやってくれないか」
「えっ……」
 とクスナが驚く。
「この二人を旅には連れていけない。俺の友人に頼めば、きっと引き受けてくれる」
「……私は、あなたから離れるわけにはいかないのですが……」
「それは何度も聞いた。けど、今は戦っているわけじゃない。危険はないはずだ」
「…………」
 イシェルはファルクスの反応を探ってみた。 そんなに遠くではないが、ほとんど人のいない村に、また来たりはしないだろう。
 安全であれば、ヤクトから離れても構わないのである。
「……わかりました。引き受けます」
「そうか、よかった」
 ヤクトはさっそく、友人の特徴を説明した。 彼には母のことも頼んでいるのだから、感謝しなければならない。
「君が帰るまで、俺は墓でも作っているよ」 説明を終えると、ヤクトは苦笑混じりにそう言った。
「あたしとお兄ちゃん、どこへ行くの?」
 不安そうにクスナが訊ねた。
「俺の村だよ」
 ヤクトは優しく微笑み、彼女の頭を撫でて言う。
「俺の村もひどい状況だけど……いい人ばかりだから、大丈夫だよ。用事が終われば、俺もカヤセもそこに行くから」
「……本当?」
「ああ、だから待っていて」
「うん……」
 幾分安心したのか、クスナはわずかに笑みを浮かべた。
「ではさっそく行きます。私におぶさってください」
 イシェルは眠っているレムスを腕に抱き、しゃがみ込んだ。
「……いいの?」
「はい。スピードを出しますから、しっかりつかまっていてください」
「うん……」
 クスナは恐る恐る、背中に抱き付き、首の前に手を伸ばした。
 それを確かめると、イシェルは立ち上がった。
「ヤクトさん、すぐに戻ってきますので」
「ああ、気を付けて」
 ヤクトは軽く手を振る。
「では」
 イシェルはラグナス村に向かって走り始めた。いきなりではなく、徐々にスピードを上げていく。
「わあ、速い」
 と背中でクスナが声を上げる。
「すぐに着きますからね」
 イシェルはさらにスピードを上げた。
 ずっとこの速さを維持するのは無理なので、緩急をつけて走った。

「……さて」
 とヤクトは呟く。
 イシェルの姿は、もう見えなくなってしまった。
「……墓、作るか」
 ヤクトはレンを見る。
 その隣には、眠っているカヤセがいた。
「まずはシャベルを探さないと」
 そのために、彼は各家を探し始めた。

  第五章

「ほら、見て。とっても綺麗に咲いてる……」
 彼女は、自分の育てた花たちを見て、カヤセに笑顔を向けた。
「花には心があるの。だから大事に育ててあげると、その思いを感じ取って、もっと綺麗に咲こうとするのよ」
「う、うん……」
「……もう、どうしたの? 何だか元気がないわね?」
「き、君の方が……綺麗だよ」
 と、カヤセは唐突に言った。
「……え?」
 彼女は、きょとんとする。
 彼は真っ赤な顔で、必死に言葉を出していた。
「お、お、俺が、ずっと守ってやる!」
「…………」
 彼女はしばらく呆然としていたが、やがて小さく吹き出した。
「もう、やあね。何を必死に言い出すのかと思えば」
「…………」
 カヤセはうつむいた。
(やっぱり、だめだったか……。そりゃ、そうだよな。彼女はやさしくて、美人で……村のみんなの人気者なんだ。俺なんかじゃ釣り合わないよな……)
 と、自分の言葉に後悔しながら……。
「……でも、ありがとう。そこまで言うなら、守ってもらおうかな」
「えっ……?」
 思わず顔を上げる。
 彼女ーーレンは、優しく微笑んでいた。
「あ……」
 ようやく意味がわかった。
 彼女は受け入れてくれたのだ。
 自分の思いを。
 だがーー。
 突然、レンの後ろに巨大なカマキリが現れ、彼女を捕えた。
「なっ……!」
 すぐに助けようとするが、花が蔦のように伸びて、カヤセに絡み付いてきた。
「何だ!? くそ、離せ!」
 だが力を込めても、指の先さえ動かすことができない。
 その、彼の目の前で、カマキリはレンの胸を貫いた。
「……!」
 そして、首筋に食らい付く。
(ああ……)
 守ると言ったばかりなのに。
 なのに、何もできないなんて。
 次の瞬間、嫌な音がした。
 カマキリが、首を食い千切った音だった。「レン……!」

 そこで、目が覚めた。
「お、ようやく起きたか」
 ヤクトの声がする。
 壊れかけた天井が見えた。
 意識がはっきりしてくる。
(……夢、か……)
 なんて最悪な夢だろう。
 相当まいっているのだろうか。
(やれやれ……)
 カヤセは目をこすった。
 そこで、ふと気が付く。
 確か左手は、ファルクスに食われてしまったはずである。それに右肩もだ。
 それなのに、どちらも元通りとは。
「イシェルが治したんだよ」
 カヤセの側に来て、ヤクトが言った。
「そうか……」
 と、彼女に特殊能力があることを思い出す。「ありがとう……」
 同じく側に来た彼女に、小さく呟くような声で礼をする。
 それでも聞こえたらしく、イシェルは「どういたしまして」と言った。
「……そうか……俺は助かったのか……」
 カヤセは大きく息を付き、天井を見上げた。 窓に目をやると、青い空が見えた。
「レムスとクスナは無事なのか?」
「ああ、君の恋人のおかげでね。二人とも無事だよ。……もっとも、今はここにいないけど」
「……ん?」
 どういうことだ、とカヤセは訊いた。
 ヤクトは説明する。
 二人とも、ラグナス村にいて、カヤセが来るのを待っているということ。
 助かった村人が、どこかへ移動したらしいこと。
 それから、死んだ者の墓を作ったことも話した。
「そっか……村には誰もいなくなったのか……。でもまぁ、あの二人が助かってよかったよ……」
 カヤセは布団から起き上がった。
 そして、軽く伸びをする。
「食事の用意、してありますよ」
 とイシェルが言ったが、
「ああ、でもその前に……」
 彼は外に出るドアまで歩くと、振り返った。「……墓はどこにあるんだ? とりあえず墓参りしておかないと、安心して食事もできないよ」
「……そうですね」
 三人は、家を出て墓に向かった。

 村の端の方に、墓があった。
 もっとも、墓と呼べる程、たいしたものではないのだが。
 半円型に盛り上がった土が、横に、縦に、びっしりと並んでいる。
 誰のものかもわかりはしない。
 しかし、それはヤクトが知るはずはないのだから、仕方のないことだ。
 他にお参りに来る者もいないだろうが、これは墓だった。
「こんなにたくさん……」
 カヤセは呟いた。
「……大変だったな、ヤクト」
「えっ? ……ああ、いや。ほら、あそこがレンさんのだよ」
 ヤクトは指を差した。
「そうか……」
 カヤセはゆっくりと近付いていく。
 ヤクトとイシェルは、そこからそっと立ち去った。
「……レン……」
 カヤセは腰をおろし、土を軽く撫でてみた。「ごめんな……。守ってやるなんて言っておきながら、俺は何もできなかった……」
 涙が出そうになったが、我慢して堪えた。「……それに比べて、君は立派だよ。レムスとクスナを、しっかり守ったんだ……」
 カヤセは、大きくため息を付いた。
「俺……何だか、自分が情けないよ……」

「……カヤセの奴、大丈夫かな……」
 料理の並べられたテーブルに付き、ヤクトは頬杖を付いて言った。
「心配ですか?」
 とイシェルが振り向く。
 ヤクトは失礼にも驚いてしまったが、この料理は彼女が作ったものだった。
 たいした材料はないというのに、なかなかのものが並べられている。
「……少しね。ショックでふさぎ込まなけりゃいいんだけど……」
「誰が、ふさぎ込むって?」
 突然ドアが開かれた。
「カヤセ?」
 彼は、何故か笑みを浮かべている。
「俺は、落ち込んだりしない。一緒に連れて行ってもらうぞ。そして、レンの仇を討ってやる。そのために、ここにとどまっていたんだろ?」
「……心配無用、だったかな?」
「当たり前だろ。それより腹減ったよ。お、うまそうなものがあるな。これ全部もらうぞ」 カヤセはテーブルに飛び付いた。
「おいおい……腹壊すぞ……」
 ヤクトが苦笑する。
「なあ、イシェル……」
 と隣の彼女を見て、思わず息を呑んだ。
 かすかにだが、イシェルが笑顔を浮かべていたのだ。
 だが、それも一瞬のことで、また元の無表情な顔に戻っていた。
(……気のせいなのか?)
 無遠慮に彼女の顔をじろじろ見ていると、イシェルが彼の方を向いた。
「どうしました?」
「あ、ああ、いや、何でもない……」
 驚いて、心臓の鼓動が早くなってしまった。 ふう、と一呼吸して落ち着かせる。
(でもとにかく、カヤセが元気でよかったよ。まあ、カラ元気だとは思うけど、落ち込んでるよりはましだしな)
 そのカヤセは、おいしそうに料理を食べている。
「ほらほら、ヤクトもイシェルも早く食べないと、なくなっちまうぞ」
「あのなあ……食べ過ぎはよくないぞ」
 そう言いながら、ヤクトも手を付け始めた。 そして、イシェルも料理を口に入れる。
 カヤセは、その様子をじっと見ていた。
 森の中で、彼女が食事をする所を、一度も見ていなかったからだ。
 ヤクトはここにいる三日の間に、何度も見たが。
「ほら、別に何ともないんですよ」
 とイシェルは言う。
「そ、そうだな……」
 納得せざるを得なかった。

 それから、三人はさっそく出発することにした。
「カヤセさん、これをどうぞ」
 イシェルが、銀の槍を差し出した。
「これを使えば、ファルクスを倒すことができます」
「…………」
 カヤセは受け取った。
「……あの時これがあれば……レンも守れたかな……」
「…………」
 沈黙が降りた。
「あ、いや、悪い。今のは聞かなかったことにしてくれよ。あははは……」
 カヤセはさっさと歩きだす。
「さあ、行こう行こう」
「おい、行くのはそっちじゃないぞ」
 ヤクトが声をかける。
 彼は反対方向に向かっていた。
「さ、先に言えよ」
 恥ずかしそうに、慌てて戻ってくる。
「カラ元気も、程々にな。見え見えだぞ」
「ちぇっ……」
「とにかく、早く行きましょう。ファルクスはかなり遠くまで行っています」
 イシェルが顔だけ向けて言う。
 確かに、三日も間があるのだ。
 追い付くのはかなり難しいだろう。
「どうするんだ?」
「急ぐしかありません。幸い、近くに村はないようですし」
「あっ、でも確か……」
 とカヤセが声を上げた。
「この先をずっと行くと、アスランの町があったと思うんだが……」
「……この先なのか?」
 とヤクトが首を傾げる。
「森の中を通って、方角がてんでわからくなったからな……」
「俺は覚えてる。行ったことはないけど、村からこの方角だって聞かされたことがあるからな」
「……なら、間違いないか……。ファルクスの奴等、人の多い首都を襲うつもりなんだな……」
「……ヤクトさん、首都があるということは、国があるということですよね? 私、ここには村しかないと思っていました」
 とイシェルが言う。
「え……? イシェルさん、そんなことも知らなかったの?」
 カヤセは驚いた。
「いくらイシェルさんが遠くの国から来たといっても、そのくらい常識のはずだけど……」「ま、まあ、彼女の国は文化が高いみたいだし、こんな森だらけの未発達なところに、国なんてあるとは思わなかったんじゃないかな」 ヤクトはそう言ってごまかした。
「……何焦ってんだ?」
「べ、別に……」
 ともかく、ヤクトはカヤセと二人でイシェルに説明した。
 ここには、小さいがアスランという国があり、ラグナス村やナカト村もその領地に含まれている。
 もっとも、含まれるというだけで、二つの村には何の影響もなく、完全に独立している状態だ。税を収める義務もない。
 広大な森のせいで、首都を初め、他の町との行き来を断たれているためだった。
 それでも昔は、領地内にあるのだから何とか道を作り、スムーズな通行をさせようという計画もあったらしいが、しかしそれには莫大な工事費がつくとわかり中断。今では村のことさえ忘れられた存在となっているのである。
「なるほど。よくわかりました」
 とイシェルは頷いた。
 少しでも先に進もうと、歩きながら話している。
「ま、俺はこれで不満はなかったけどね」
 とカヤセは言った。
 それに、もう村はないと同じなのだから、本当に国からは忘れられるだろう。
 だからと言って、何が変わるわけでもない。
「俺も、別に文句はないよ」
 とヤクト。
「そうですか」
 その方が、かえって面倒がなくていいのかもしれない、とイシェルは思った。
 道が作られていたら、おそらく高い税金を取られていただろう。だがそれがないのだから、自分たちの生活分だけ働けばいいのだ。政治の影響もないだろうから、のんびりとしていられるはずである。
 それから、三人は黙々と進んだ。
 だが、その雰囲気に耐えられなくなったのか、カヤセが口を開いた。
「あ、あのさあ……」
「ん?」
「ファルクスって、人とか、とにかく肉を食うためにうろつき回ってるんだよな?」
「ええ。彼らの食料ですからね」
「……だよな。でもさ、このペースで進んで行くと、そう時が立たない内に食べるものがなくなるんじゃないのか?」
「あ……そうだな。仮にそうなったとすると、ファルクスの奴等どうする気なんだろう?」
 ヤクトが首を傾げる。
「ファルクスに、考えなんてありませんよ」
 イシェルが言う。
「彼らは本能で動いているだけです。先のことまで考える知能なんてありません。……もっとも、彼らを率いているラオスが、どんな考えを持っているのかはわかりませんが」
「はあ……何か、大変そうだな……」
「そうですね。少なくとも、ファルクスは残り四十匹はいるはずですから」
「げっ……四十匹……」
 カヤセは顔を引きつらせた。
「……三人で割っても、一人約十三匹か……。結構つらいな……」
「あ、私は数に入れないでください。私はサポートをするだけですから」
「え? な、何で?」
 とカヤセは驚いて言う。
「俺の村が襲われたときも、戦ってくれたんじゃないのか?」
「あのとき戦ったのは、ヤクトさんだけです」
「……カヤセ」
 ヤクトが彼の肩に手を置いた。
「彼女には、彼女の事情があるんだよ。直接戦わなくても、十分役に立ってくれるから」
「そ……そうか」
 どうやら納得したらしい。
「しかし、事情ってどんな事情なんだろう。気になるなぁ……」
「いずれ、話しますよ」
「本当?」
「はい。全てのファルクスを回収することができたら……。約束します」
「……そうか。楽しみにしてるよ」
 そう言って笑みを作り、イシェルを見た時。
 ふと、彼女は足を止めた。
「どうした、イシェル?」
 ヤクトが訊ねる。
「……ファルクスの気配がします」
「何!?」
 ヤクトとカヤセは険しい顔つきになり、得物を構えて周囲を見渡した。
「どこだ、イシェル!?」
「……静かに。かすかな気配です。場所は……」
 彼女は目をつむり、ファルクスの位置を探った。
「こっちです」
 イシェルは駆け出した。
「よし」
 その後を二人が続く。
 そのまま一分程走った。
「こんな遠くまで、本当によくわかるな」
 途中で、カヤセが半ば呆れたように言った。
「何言ってんだ。一時間以上離れた所だってわかってただろ」
 とヤクト。
「そりゃそうだけど……あの時はあまり考える暇がなかったし……」
「ヤクトさん、カヤセさん、ここです」
 彼女は、一本の木の前で止まった。
「……おい、イシェル……。ファルクスなんて、いないじゃないか」
「イシェルさんの勘違いか?」
 二人が周りを見て怪訝そうに言う。
「この木の……一番低い枝を見てください」
「一番、低い枝?」
 二人は上を見上げた。
 そして、思わず「げっ」と顔を引きつらせる。
 枝の所には、大きな白い塊があった。薄い繭のようだが、中には子供の頭程の大きさのものが、二十個は透けて見えている。
「こ、これは……まさか、ファルクスの卵か……?」
 ヤクトが目を見開く。
 今までこんな卵は見たことがない。
「そうです。ここを通ったとき、産み付けていったのでしょう」
 ヤクトは嫌な予感がした。
「もしかして……他にもこういう卵があるんじゃないのか!?」
「今のところ感じませんが……これからの可能性はあると思います」
「くそ……これ以上ファルクスが増えたら、まずいなんてものじゃないぞ……」
 それこそ数に押されて、手に負えなくなってしまう。
「……しかし、正直驚いたな……。あいつらにも、子供がいるのか……」
「ヤクトさん……。だからといって、同情してはいけませんよ」
「あ、ああ……わかってる」
「お、おいっ、今、卵が動いたぞ!」
 カヤセが慌てた声を出した。
「何?」
 見ると、一つにつられて、他の卵も一斉に震え始めている。
 そしてひびが入った。
「生まれるのか!?」
 カヤセが槍を構える。
 その槍にすっと手を伸ばし、イシェルが言った。
「少し……様子を見ましょう」
「え? どうして?」
 当然の疑問だが、答える前に、ファルクスが卵から出てきた。
 ひびの入った卵の隙間から、ぼとり、と肉塊が地面に落ちる。
「え……?」
 ヤクトとカヤセは、眉をひそめた。
「何だ、あれは?」
 ただの肉の塊にしか見えない。
「どうやら、相性が悪かったようですね」
 とイシェル。
「……相性?」
「ファルクスは、ファルクスという種族同士であれば、どんなに姿が違っても、子を成すことができます。生まれる姿は親のどちらかに似たり、全く別のものだったりとまちまちですが、中には姿が形成できず、ああいうただの肉塊となるものもあるのです」
「……だから相性か……」
「よくわからん生物だ……」
 ヤクトとカヤセは武器を向けたまま、ふうとため息を付く。
 その後にも、ぼとりぼとりと、次々とファルクスの子供が地面に落ちてくる。
 それらはただの肉塊ではなく、ほとんどは見覚えのあるファルクスの姿をしていた。
「何だ? 全部姿が違うぞ!?」
「どういうことだ!?」
 二人は驚いてイシェルを見る。
「先程も少し説明しましたが、生まれてくるファルクスは、姿が親のものとは限りません。ですから、全て違う姿をしていようと不思議はないのです」
「俺にとっては十分不思議だよ……」
 ヤクトは呆れた。
「なあ、早く始末しておかないと、人を襲いに行くんじゃないのか?」
 とカヤセが最もな意見を言う。
「もう少し、見ていましょう。そろそろお腹がすき始めるころですよ。するとどうするのか……」
 突然、ファルクスの方から奇声のようなものが上がった。
「え?」
 見ると、ファルクスの子供たちが、一か所に固まって、もぞもぞと動いている。
「何をしてるんだ……?」
「共食いですよ」
「と……共食い?」
 二人は顔をしかめた。
「お腹がすけば、見境がなくなる。何でもいい、近くにあるものを食べようとします。子を生んだ親でさえ、食料がなければ、ためらいなくその子供を食べます」
「……ファルクスには、愛なんてわかんないんだろうな……」
 カヤセが呟いた。
 ふと、突然。
 ひゅん、と風が鳴った。
 ほぼ同時に、ファルクスの悲鳴が上がる。
「ヤクト……」
「ヤクトさん……」
 彼は弓を引き、矢を放った。
 またファルクスの悲鳴が上がる。
「イシェル、いいよ、こんなの見せなくて。
こいつらは妹の仇だ。俺はためらったりしない」
「……そうですね」
「ん? 何だ? 今のはファルクスの説明じゃなかったのか?」
 カヤセが不思議そうに二人を見回す。
「いや、その通りだ。俺はファルクスってのが、よくわかったよ」
「ふ〜ん……。ま、とにかく、こいつらを片付けちまおうぜ」
「ああ」
 二人はファルクスに武器を向けた。
 だが、最初のヤクトの攻撃で驚いたファルクスは、ばらばらに移動している。
「まずいぞ!」
 このままでは見失ってしまう。
「イシェル!」
 ヤクトが叫んだ。
 彼女は言われるまでもなく、行動を起こしていた。
 イシェルが両手を広げる。
 その指先から、蜘蛛の糸のように光の線が伸びた。
 その光線は周囲に広がって金網状になり、円形の壁となって半径十メートルを囲んだ。
「おお、何かすごいぞ」
 とカヤセは興奮気味に言った。
「ヤクトさん、これでファルクスは外へ出られません」
「よし。やるぞ、カヤセ」
「おう!」
 二人はそれぞれの武器を手に、ファルクスに向かって行った。

「ていっ!」
 カヤセの槍が、カマキリを二つに分けた。
 そしてヤクトの放った矢が、動きの遅い肉塊を貫く。
「ふう……これで終わったかな」
 軽く息をつき、周りを見渡した。
「はい。もう反応はありません」
 イシェルが死体を回収しながら、彼の呟きに答える。
 全てを片付けるまで、五分とかからなかった。
 生まれたばかりで体が小さいため、狙いが付けにくく、反撃されて数か所怪我をしたが、たいしたことはない。
「ま、弱い物いじめみたいであまり気分のいいものじゃなかったけど、とにかくやったな」 と、カヤセはヤクトの肩を軽く叩いた。
「ああ、そうだな」
「……しかし、この槍すごいな。ファルクスを簡単に倒すことができるんだからな」
 上に持ち上げたり、振り回したりして、カヤセはしきりに感心した。
「くれぐれも言っておきますが、それはファルクスにしか使うことはできませんからね。それを忘れないでください」
「大丈夫、何度も聞いたって。イシェルさんも心配症だなぁ」
 と彼は微笑む。
「それに、ファルクスにしか通じないのに、他にどう使い道があるのさ?」
「わかっているならいいのですが。それと、全てのファルクスを回収したら、返して頂きますので」
「……ま、それはしょうがないよな。ファルクスがいないのに、持っていても仕方ないし」「おい、二人とも、話なら歩きながらにしろよ」
 ヤクトが一人で前の方に行っていた。
「あ、待ってくれよ」
 カヤセとイシェルが走って追い付く。
 三人はアスラン国の首都である、アスランの町に向かった。

  第六章

 あれから三日後。
 特に何事も起こらず、三人は森を抜け、アスランの町に着いた。
 ファルクスの反応は町から離れたところにあるので、とりあえずここで休んでいくことにした。
「……しかし、にぎやかなところだな……」
 町の入口に立って周りを見回し、カヤセは言った。
「まるでお祭りみたいだ……」
 通りのあちこちに小さな店が並び、人があふれている。
「初めてきたけど、町ってこんなものなのかな」
 ヤクトも珍しそうに、店を覗いたりしている。
「……それにしても、ここはファルクスに襲われていないのでしょうか?」
 とイシェル。
「ここに来るのは間違いないと思ったのですが……」
 しかし町の様子を見る限り、そんなことがあったとはとても思えない。
 平和そのものである。
「もしかして、気が変わってやめたとか?」
「まさか。そんなわけないだろう」
「そうですよ、カヤセさん」
「うう……冗談なのに、二人で攻めないでくれ……」
 などと話しながら歩いていると、
「ちょっとちょっと、そこのお兄さん」
 誰かに声をかけられた。
「俺?」
「そう。あんただよ」
 ヤクトが声の方を見ると、他と比べてみすぼらしい店があり、そこに汚い格好をした中年の男がいた。
 店の棚には、わずかに装飾品などが並べられている。
「……何か用ですか?」
「あんた、綺麗なお嬢さんを連れているじゃないか。どうだね、これをその子に買ってやっては?」
 男は棚から耳飾りを取り出し、ヤクトに見せた。
 小さな宝石が着いているが、随分と汚れているようだ。
「……何だ? その汚いものは?」
 カヤセが横から顔を出し、不満そうに言う。
「……おっさん、そんなもん買えって言うのか?」
「これは盗まれないよう、汚してあるだけだ。こう見えても、とっておきの掘り出し物なんだぞ」
「どうだか……」
「どれ、証拠を見せようか」
 男は布を取り、耳飾りを少し磨いてみた。
 すると、宝石が綺麗な輝きを見せた。
 ここまでのものは、あまり見たことがない。
「へえ……まんざら嘘でもないってわけね」
「そういうことだ。どうだね、お兄さん?」 男がヤクトを見た。
「いいんじゃないか。買ってやれば?」
 とカヤセも言う。
「……私はいりませんよ」
「イシェルさん、そういうこと言うもんじゃないって」
「しかし……」
「せっかくくれるって言うんだから、素直にもらっとけばいいんだよ。なあ?」
 確かに、ヤクトは買ってやりたい衝動に駆られた。もしかしたら、彼女は喜んでくれるかも知れない。だが、そのために必要な、重大なものを彼は持っていなかった。
「……悪いけど……俺、金ないんだ……」
「あらっ……」
 カヤセはこけた。
「……ま、まあ、俺だって持ってないけどさ……」
 村で金を使うことなど滅多にないのだから、それは仕方のないことである。
「うぅむ……残念だ。ぜひ君に買ってほしかったんだが……」
 男はため息を付き、もう一度「残念だ」と呟いた。
「……ごめん、イシェル」
「いいんですよ、謝らないでください。気持ちだけで十分ですから」
 彼女は一瞬、かすかに笑みを浮かべた。
「あっ……」
「どうしました?」
 既にいつもの表情に戻っている。
「い、いや、何でもないよ」
 思わずそう言ってヤクトはごまかした。
 だが心の中では興奮していた。
(今、確かに笑っていた。自分ではわからないみたいだけど、彼女にも感情はあるんだ) ということは、努力次第で普通に表情を出せるかも知れないということだ。
(よし、頑張ろう)
 とひそかに決意していると、
「これで足りるかい?」
 突然青年がやって来て、棚に金貨を置いた。
 長身で、人のよさそうな優しい笑顔を浮かべている。軽装だが、腰には剣を差していた。 男は一瞬呆然としたが、
「え? ええ、確かに足りますが……」
「この耳飾り、この人に譲ってやりたいんだが……」
 青年はヤクトを見た。
「ええ!?」
 とヤクトたちは驚く。
「ああ、そういうことですか。わかりました」
 男はにっこり笑い、布で宝石を磨いた。そして青年に耳飾りを渡す。
「どうも。ほら、君から彼女に渡してやりなよ」
「い、いや、しかし、見ず知らずの人にそんなものをもらうわけには……」
「いいから、遠慮せずに」
 青年は強引に、ヤクトの手に持たせた。
「……あ、ありがとう……」
「よし、渡せ渡せ! 愛の告白だ!」
 カヤセが冷やかすように言う。
「あ、あのなあ……」
 ヤクトはため息を付き、それからイシェルに耳飾りを差し出した。
「……あ、あの、イシェル。よかったら、付けてみてくれないかな……」
「だあっ、もう少し気の利いたこと言えないのか!?」
 自分のことは棚に上げ、カヤセがわめいている。
「う、うるさいぞ。……それよりイシェル、もらってくれるかい?」
「……はい。ありがとうございます」
 イシェルは耳飾りを受け取った。
「そ、そうか。よかった」
 彼女の表情は変わらなかったが、ヤクトには嬉しそうにしているように見えた。
「おお、よかったな、ヤクト。顔がにやけてるぞ」
「……さっきからうるさいぞ、カヤセ」
「嬉しいときは、素直に喜ぶもんだぜ。ひっひっひっ」
「……いやらしい笑い方するなよ……」
「まあとにかく、お嬢さん。せっかくだから付けてみせてくれんか」
「そうだな。俺も見てみたいぞ」
 男と青年が言った。
「……そうですね」
 イシェルは耳にかかった髪をかき上げ、耳飾りを付けた。きらり、と宝石が光る。
「いやあ、よく似合うよ、イシェルさん」
「確かに。あんたに売ってよかった」
「どうせなら、似合う人に付けてほしいからな」
 男たちが手放しに褒めている。
「う、うん……似合ってるよ、イシェル」
 最後にヤクトが言った。
「……何だか……」
 イシェルはうつむいた。
「え? 気に入らなかった?」
「いえ、その……」
 言葉につまるイシェルを見て、青年はヤクトに言った。
「彼女は照れてるんだよ」
「照れてる……?」
 ヤクトよりも、イシェルが驚いた。
(感情がないはずの私が……?)
 正確に言うと、感情を表に出すことができないはずである。
 しかし、体がかっと熱くなり、思考が混乱したのは今まで経験がないことだ。
(この世界に来て、どこかおかしくなったのだろうか?)
 イシェルは不安を覚えた。
 いくらハンターとしての腕がよくても、欠陥があって直らないようなら、容赦なく捨てられるだろう。すなわち、死が待っているのだ。
 以前は使えなくなったのなら仕方ないと思っていたが、今では何だか怖いもののように感じる。
(そんなことを考えるなど、やはり私は不良品なのか……?)
 だが、それならそれでいい。
 今回の仕事が最後になろうとも、全力でやりとげてみせる。ヤクトを初め、迷惑をかけたこの世界の人たちのためにも。
 イシェルはそう決意した。
「どうした? 大丈夫か、イシェル?」
 黙り込んだ彼女の顔を、ヤクトが心配そうに覗き込んだ。
「え? ええ、大丈夫です。何でもありません」
「……なら、いいけど。あまり心配させないでくれよ」
「はい……」
 答えたイシェルは、苦笑したい気分だった。 他人に心配されるハンターなど、完全に失格だ。だがかえって安心して、全てを捨てられる気がする。
 そんな様子を見ていて、青年は笑顔で言った。
「はははは、初々しくていいなあ」
 彼は、二人を付き合い始めて意識している恋人同士とでも思ったのだろうが、実際はそんな単純なものではない。
「はははは……」
 説明するのも面倒なので、ヤクトは愛想笑いだけ浮かべていた。
「お、否定しないとは、やっと自分の気持ちを認めたか?」
 カヤセがからかい口調で言う。
「…………」
 ヤクトは無視した。
「はははは、楽しい人たちだ」
 青年はおかしそうに笑っていたが、ふいに「……さて」と呟き、表情を引き締めた。
「話は変わるが、君たちは旅の者なのかい?」
「ええ、まあ……」
 とヤクトが答える。
「なるほど。悪いが、向こうで少し話を聞かせてくれないか?」
「……か、構いませんが」
「じゃあ、行こうか」
 青年に連れられて、ヤクトたちは通りを出た。

 商店街を抜けると、急に静かになった。
 怖いくらいに、しんと静まり返っている。「な、何なんだ、この差は?」
 カヤセが不安そうに周りを見た。
 ここは住宅街らしいが、ほとんど人を見かけない。いても、力なく座り込んでいる。
「……ここからだとわからないが、もう少し行くと城が見えるんだ。とりあえず、そこまで行こう」
「……わかりました」
 ヤクトたちは黙って付いて行った。
 そして住宅街を抜けると、急に視界が広がった。
 辺り一面、大地が草原のように広がっており、正面に城が見える。
 城の周りには堀があって、太陽に反射してきらきらと光っていた。
 一見すると綺麗な景色である。
 だがーー。
「……城が……半壊している……!?」
 ヤクトとカヤセは目を見張った。
 正面の城はぼろぼろで、とても人の入れる所ではなくなっている。
「座らないか?」
 青年が草むらに腰を下ろして言った。
「あ……はい」
 ヤクトは彼の隣に座り、カヤセとイシェルはその側に座った。
「……そういえば、自己紹介はまだだったね。私はピステール。よろしく」
「あ、こちらこそ」
 と言って、ヤクトたちもそれぞれ名前を告げた。
「君たちは旅をしているということだが、途中で何か変わったことはなかったかい?」
 ピステールはそう訊ねてきた。
「……変わったこと?」
「そう。例えば、不気味な化け物は見なかったか?」
「……化け物……」
 三人の頭にファルクスが浮かんだが、とりあえず口には出さなかった。
「見なかったのかい? 君たち、いいものを持っているようだが……それは?」
 彼はヤクトの弓矢とカヤセの槍を見て言った。
「あ、これは……俺たち狩人ですから。でもここに来る途中、そんな化け物は見ていませんよ」
「そうか……。化け物と戦うためのものかと思ったのだが、勘違いだったな」
 いや、いい勘している。と三人は思った。「しかし、ここまで無事に来れたとは……運がいいのか悪いか……」
 ピステールは唇を噛んだ。
「どういうことです?」
「ああ。実は三日前のことなんだが、急に見たこともない化け物の集団が襲ってきたんだ。でも襲われたのは城だけで、幸い……というのか、町の方には被害はなかったんだけどね。城にいた人間は随分死んだよ。私は何とか助かったのだが……友人は全員、食われてしまった……」
「……ピステールさんは、兵士なんですか?」
 ヤクトが訊ねた。
「ん? ああ、話していなかったね。私はこれでも一応、騎士をやっているんだ」
「ええ!?」
 それはすごい、とカヤセは声を上げた。
「……そんなに驚かないでくれよ。いざというとき役に立たない騎士なんて、いても仕方がないさ」
「……けどそうすると、王様はどうしたんです?」
「王は無事だ。側近と共に、抜け道を使って町に脱出したからな」
「そうですか……」
「だが」
 とピステールは険しい顔つきになった。
「化け物は、まだ町の外にいる。いつ襲ってくるのかわからない上に、今外に出れば確実にやられるだろう」
「……だから、みんなで大袈裟にはしゃいだり、妙に気前がよかったりしたんですね。いつ死ぬかわからないから……」
「……何とかならないのかよ。みんなして死ぬのを待つなんて、あきらめがよすぎるぜ」 とカヤセ。
 ピステールはため息を付き、
「……何とかできるものなら、とっくに何とかしているさ。まあ、三日前は三匹程化け物が死んだが、それだって満腹になった奴等が、あやまって堀に落ちておぼれたんだ。そんな偶然でもない限り、俺たちの力ではとても倒せないよ」
「…………」
 しばらくの間、沈黙が落ちた。
「……と、すまない。愚痴っぽくなってしまったな。せっかく来たのに、こんな話をして怖がらせてしまった」
「いえ……。何も知らないより、予備知識があった方が、対処もしやすいですから。助かりました」
「ははは……。君たちは前向きでいいなぁ」
 笑みを浮かべて、ピステールは立ち上がった。
 ヤクトたちも立ち上がろうとしたが、彼は手で制した。
「いいかい。もし外に出るつもりなら、今はやめた方がいい。逃げるなら、化け物が襲ってきたときだ。奴等は町に集まるから、運がよければ助かる。わかったね?」
「はい」
 とヤクトは頷いた。
「よし。じゃあ私はもう行くが、気を付けて。無事を祈ってるよ」
 ピステールは軽く手を振り、歩き出した。
「耳飾り、ありがとうございました」
 とヤクトは彼の背中に向かって声をかける。
 ピステールは振り返ってもう一度手を振り、笑顔で去って行った。
「……何か、結構いい奴だったな」
 とカヤセ。
「そうだな」
 とヤクト。
 二人でしばらく見送っていると、イシェルが立ち上がった。
「どうした、イシェル?」
「ファルクスの回収をします。堀の所まで行きましょう」
「あ、ああ、わかった」
 三人は堀に向かった。

 よく見ると、堀の水は濁っていた。
 三匹のファルクスの死体は、体が大きいため水の中に隠れ切れていない。もしあれば拾おうかと思っていたが、人間の死体はないようだ。
「少し、待っていてください」
 と言って、イシェルは堀に飛び下りた。
 死体に着地した瞬間、手から発した光で包み込む。そして光が消えたと同時に死体も消えていた。
 そのまま水に落ちる前に次の死体へと飛び移り、イシェルは今の動作を繰り返した。
「……しかし、イシェルさん。ぽんぽん飛び跳ねて、何か鳥とか虫みたいだな」
 カヤセが呟いた。
「……なあ、ヤクト」
「うん?」
「俺、前から不思議に思ってたんだけどさ、人間ってイシェルさんみたいなことができるもんなのかな?」
「えっ……?」
「俺は無理だと思う。でもイシェルさんにはできる。……彼女、本当に人間なのかな?」「……まさか」
 とヤクトは否定した。
 彼もその疑問を持たなかったわけではない。
 しかしその答えとして、彼女がいた世界の人間は、それくらいできるかも知れない、と考えいた。
 彼女以外にもハンターはいるようだし、ここよりも文明が発達しているらしいから、自分たちには想像できない、特別な訓練をしたのだろう。
 ヤクトはそう思うことにしていた。
「そうだよな」
 と言って、カヤセはいきなり笑い出した。
「彼女に触ることもできるんだし、幽霊のはずないよな」
「……ゆ、幽霊?」
 ヤクトは首を傾げた。
「……あ、そういえば、お前そういうのだめなんだっけ。小さい頃怖い話ばかり聞かされたから」
「そうそう、そうなんだよ。ま、疑問はあるけど、幽霊じゃなきゃいいさ。はっはっはっ」「……お気楽な奴だな……」
「何か楽しいことでもあったんですか?」
 回収を終えて、堀の中から出てきたイシェルが、二人に寄って来てそう訊ねた。
「いや、何でもないよ。それよりこれからどうする?」
「そうですね。とりあえず今日は休んで、行動は明日にしましょう」
「ファルクスは襲ってこないかな?」
「大丈夫だと思います。三日前にたっぷり食事して、蓄えもあるようですから」
「……ああ、そう……。たくさん殺されたわけね……」
 ヤクトは顔を引きつらせた。
「三日も動かないということは、おそらくそうだと思います。再びここに来るのはおそらく明日でしょう」
「……わかった。じゃあ明日に備えて今日は休もう」
「……まあ、それはいいんだが」
 とカヤセが言った。
「どこで休む? また野宿か? それに食べ物はどこから取ればいい? 町の中に落ちていそうにないぞ。金だってないし」
「い、いっぺんに訊くなよ。……まあ、いいじゃないか。ここで眠れば」
 ヤクトは草むらに横になった。
「ぽかぽかして暖かいぞ。それに食べ物なら、こんな時だ。頼めば誰かわけてくれるさ」
「……ヤクトも結構呑気だな」
 そう言いつつ、カヤセも横になった。
「ほら、イシェルさんも眠ろうよ」
「……そうですね」
 こうして三人は、草むらで眠りについた。
 眠りの中、イシェルは気配を感じた。
 誰かが近付いて来る。
 ヤクトのものでもカヤセのものでもない。
(この気配は……)
 覚えがあった。
 気配の主は頭の方で止まった。
 顔を覗き込んでいるようだ。
「…………」
 イシェルは静かに目を開けた。
「あ、ごめん。起こしたかな?」
 と彼は照れたように言った。
「……ピステールさん……」
 昼に会った青年だった。
「こんな時間にどうしたんです?」
 夜中の、それも深夜である。
「いやね、もしかしたら君たちがまだここにいるんじゃないかと思ってね。気になって見に来たというわけさ」
「……食べ物を持って、ですか?」
 ピステールの腕の中には、パンや野菜や果物の入った袋があった。
「ははは、君たちお金も持っていないって言ってたから、困ってるんじゃないかと思ったんだ。ほら、あげるよ」
 突然、がばっとカヤセが起き上がった。
「食べ物の匂いがする……」
 カヤセが隣を見ると、ピステールと目があった。
「あ、あんたは確か……」
「ははは、カヤセくんだったけ。君は鼻がいいね。遠慮せずに食べていいよ」
「へえ、気前がいいな。おい、ヤクト、起きろよ。食べ物があるぞ」
 カヤセは寝ているヤクトを揺すった。
「ん……」
「お、起きたな」
「あれ? ピステールさん……」
「やあ、おはよう。起こして悪かったね」
「いえ……もうたっぷり眠りましたから……」
 とヤクトは欠伸をして目をこする。
「ははは、まぁお詫びに食べ物を持ってきたから食べてくれ」
「あ、ありがとうございます……」
 こうして、しばらく食事をすることになった。
「いやあ、それにしても……」
 ピステールがしみじみと言った。
「何です?」
「イシェルさんの寝顔はかわいかった……」
「んぐっ……!」
 ヤクトはパンを喉に詰まらせた。
「あ、大丈夫ですか?」
 イシェルが背中をさする。
「彼女、普段は表情を変えないみたいだけど、ほんと、寝顔はかわいかったね」
「ちぇっ、いいなあ……。イシェルさん、いっつも俺たちより眠るのが遅いくせに起きるのが早いから、寝顔見たことないんだよな……」
「そうすると、私は運がよかったみたいだね」
「う〜む……うらやましい……。そうだ、イシェルさん、寝顔見せてよ」
「……嫌です」
 彼女はゆっくりと首を振った。
「ああ、そんなこと言わずに……」
 カヤセが身を乗り出してくる。
「おい、カヤセ、彼女恥ずかしがってるだろ」
「ふふふ、ヤクト……。イシェルさんのそういう態度、実は結構嬉しいんだろ?」
「うっ……」
 図星だった。
 普段は無表情なイシェルが、恥ずかしがったり照れたりと、人間らしい感情を出す瞬間が、何だか嬉しいのである。
「ま、まあいいじゃないか。あははは……」
「笑ってごまかしてる」
「……あ、あまり突っ込むなよな……」
 そう言って、ヤクトは果物をかじった。
 さて、イシェルの方はというと、そんな自分の行動に戸惑っていた。
(私は……本当に、どうしてしまったんだろう……)
 自分が不良品になってしまったのなら、仕方ないとは思った。だが、やはり経験したことのない感情には、不安なものがある。
(……ん?)
 ふと彼女の頭に、危険信号が発せられた。
 城の向こうの方からだ。
 かなりの数が、移動している。
 イシェルは立ち上がった。
「どうした、イシェル?」
「ファルクスです。ファルクスがこちらに向かって来ています」
「何!?」
 ヤクトとカヤセは食べるのを止め、一瞬呆然とした。
 夜の闇の中、月明りだけが彼らを照らしている。
 ただ一人、ピステールが緊張感のない声で言った。
「ファルクスって、何だ?」

  第七章

「……困ったな」
 ヤクトは呟き、唇を噛んだ。
 今は深夜である。
 昼間と違って、明りは月の光だけ。
 雲がないからまだいいが、さすがに暗い。
 ファルクスと戦うというのに、これでは相手の動きがよく見えない。
「イシェル、前にファルクスは夜に動きが鈍くなるって言わなかったか? それに動くのは明日だって……」
「確かに言いましたが……動けなくなるわけではありませんし、少し予想より早くなっただけです。こちらに向かってくる以上、食い止めないわけにはいかないでしょう」
「そうだな……。よし、やるか!」
 ヤクトは弓を手にした。
「まあ、俺たちは相手がよく見えない。ファルクスは動きが鈍くなる。お互いハンデだと思えばいいさ」
 カヤセが槍を持ち、にやりと笑った。
「お、おい、君たち、何をする気だ?」
 ピステールが不安そうに訊いてきた。
「あ、そういえばあんたもいたんだっけ。すっかり忘れてた。はははっ」
 カヤセは笑った。
 しかしピステールは険しい顔つきで、
「……ファルクスって……もしかして、ここを襲った化け物のことなのか!?」
「そうです」
 とイシェルが言った。
「隠していましたが、私たちはファルクスを倒すためにここに来ました」
「イシェル、いいのか、そんなこと話して?」
 ヤクトが囁く。
「構いませんよ。ピステールさん、私たちは行きますが、あなたはどうします? 一緒に来ますか?」
「……昼にも言ったが、俺の友人はあの化け物に殺された……。何としても仇を討ちたい……だが、勝てない! あの化け物相手には、剣も通らないんだ! それで戦いに行っても、死ににいくようなものだ!」
 ピステールは悔しそうに腕を震わせた。
「大丈夫です」
「……何を根拠に……」
 とイシェルを見て、彼ははっとした。
 彼女の手が、光り輝いている。
「なっ……」
 合わせた両手を離すと、光の玉があった。
 そこから銀色の剣が現れる。
「これを……」
 光は消え、イシェルは剣を差し出した。
「使ってください。これならファルクスを倒すことができます」
「…………」
 ピステールはおそるおそる剣を受け取った。
「……お、お前ら、何者なんだ?」
「普通の人間」
 とカヤセは自分で言って笑う。
「くくくく……」
「……お前は黙ってろ」
 ヤクトは彼を押し退けて、ピステールに言った。
「理屈なんて、どうでもいいじゃないですか。それを使えば、仇だって討てるんです。町の人たちも守れるんです。一緒に戦いましょう」
「……わかった」
 ピステールは頷いた。
「私も行くよ」
「よし、そうと決まれば急ごう!」
 ヤクトが先頭に立った。
 四人は城の向こう側へと走り始める。
 その途中。
「……ところでピステール、さっき自分のこと“私”じゃなく“俺”って言ってなかったか?」
「……カ、カヤセくん……。君は意外と鋭いんだね……」
 ピステールは困ったような笑みを浮かべた。
「……意外ってところが気になるんだけど……」
「いや、気にしなくていいよ。……まあ、騎士っていうのは何かと礼儀を重んじるものだからね。色々苦労してるんだよ」
「な〜るほど」
 結構親しみやすい奴である。

「……さてと」
 城の裏側に着いた。
 ここから先には湖と、その周りを囲むようにして小さな森がある。
 おそらくファルクスはそこにいるのだろう。
「……ここで食い止めないと、町が襲われるってわけだな」
「そうなりますね」
「根性出して頑張らないとな」
 ヤクトたちが戦いの前に集中力を高めようとしている中、一人ピステールが不安そうに、「……しかし、本当に大丈夫なのか? 武器を変えたくらいであの化け物を倒せるとは思えないが……」
 とぶつぶつ言っている。
「……あのな、ピステール」
 カヤセがあきれたように、
「戦う前から負けることを考えてるなんて、騎士のくせにみっともないぞ」
「……み、みっともないって……。確かに一理あるかも知れないけど、勝てないときの引き際を見極めるのも重要なんだよ」
「だあっ、今はそんなこと考えなくていいんだよ! 負けたら後がないんだからな!」
「そうですよ、ピステールさん」
 とイシェル。
「大丈夫ですから、私たちを信じてください」
「……そうだな。ごめん。今は君たちを信じて戦うしかないんだからな」
 ピステールは微笑み、すっと剣を掲げた。
「騎士として誓おう! 私はこの剣で、君たちと共に町を守ってみせる!」
「……なあ……、やってて恥ずかしくないか?」
「……それは言わない約束だよ、カヤセくん……」
 ふっ、と彼は自嘲気味に笑った。
「……面白い奴だな」
「君の方こそ」
「ふふふ……」
「ふっふっふっ……」
 二人は不気味に笑い合った。
「……ま、まあ、場もなごんだことだし、湖の方に行こうじゃないか。ほら」
 ヤクトは引きつった笑みを浮かべながら、強引に二人を連れ出そうとした。
 だが、イシェルがそれを止める。
「待ってください、ファルクスが来ました」
「何!?」
 三人は正面を見据えた。
 暗くてよく見えないが、確かに湖の方から何かが迫ってくるのがわかる。
「数は……四十、ほぼ全部です」
「よ、四十!? 多すぎるぜ!」
 カヤセが顔を引きつらせる。
「イシェル、ほぼ……ということは、残りは?」
 ヤクトが訊ねる。
「町の外にいくつか反応があります。こちらはおそらく寝ているのでしょう。後回しにして大丈夫です」
「そうか……。しかし、一気に四十はきついな……」
「ええ。ですが、とにかくやってみましょう。私も精一杯サポートします」
「ああ、頼むよ」
 とヤクトは笑った。
「相手は数も多く、苦戦は必至……。だが騎士たる者、逃げるわけにはいかん!」
 ピステールは冷や汗を浮かべながら、剣を構えた。
「……本当は、ちょっと怖いんだけどさ……」
「ったく、せっかく決めてるのに、自分でオチをつけるかねぇ?」
 カヤセは肩をすくめてみせる。
「まあ、あんたらしいけどさ」
「ははは、カヤセくん、お互い頑張ろう」
 ピステールは笑顔を向けた。
「ふふん、あんたよりたくさんやっつけてやるぜ。ほら、行くぞ、ヤクト!」
 カヤセとピステールは走り出した。
「お、おう! じゃあイシェル、援護、頼むよ」
 と言って、ヤクトも二人の後ろに付く。
「はい」
 イシェルは一人、その場に残った。
 彼らの前には、多くのファルクスが迫ってきている。
(三人で、うまくいけばいいけど……)
 さすがにそれは難しいだろうと思いながらも、イシェルはそう願うのだった。

「いやあ、こう大勢に立ちはだかれると、かえって壮快だなあ。思わず吐きそうだよ、はははは」
 とピステールが笑う。
 前後左右に、ずらりとファルクスが並んでいた。要するに囲まれたのである。
「呑気なこと言ってる場合かよ」
「カヤセくんが考えなしに走るから」
「人のせいにするな。おい、ヤクト! 何とかしてくれ!」
 カヤセは円の外に向かって叫んだ。
 遅れて走った彼は、囲まれてはいない。が、ファルクス五匹に行く手を阻まれている。
「何とかしろったって……無理だぞ、この状況じゃ……」
 焦りながらも、矢を放つ。
 鳥のようなファルクスに当たりはしたが、何分数が多い。いくつか倒したところで、戦力は変わらない。
「もっと一気に倒せたら……」
 しかし、無理なことを言っても仕方がない。
 地道にやるしかないのだ。
「くそっ……ヤクトは無理だな……。俺たちでやるしかないか……」
「そのようだね。カヤセくん、そっちは頼むよ。私はこっち側のをやるから」
「……よし、任せた」
 二人は攻撃を仕掛けた。
「うおおおっ!」
 ピステールが剣を振り上げ、正面の、角の鋭い鹿に斬り付けた。
 その角ごと、頭を真っ二つにする。
 吹き出す血が顔にかかったが、目の辺りだけ袖で拭き、すぐさま次の獲物を狙う。
(本当に、倒せるぞ。三日前、歯が立たなかったあの化け物を)
 そうなると、後は自信が付く。
 大きな虎が素早い攻撃を仕掛けてきたが、彼は今までに鍛えた技でそれを防ぐ。
「友の仇だ!」
 ピステールは虎を斬り裂いた。
「さすが、騎士だけのことはあるな」
 とカヤセは呟く。
「俺も負けてらないぜ」
 左右から、大きな蜂と蠅が向かってくる。
 足が長く、体内が透けていて、ますますグロテスクだ。
「うげっ、気持ち悪い……」
 と顔をしかめながら、カヤセは槍を薙払う。
 しかし二匹の動きは素早く、上に避けられてしまった。
「やばいっ!」
 後退るカヤセだが、地面につまづき転んでしまう。
「うげっ」
 その彼に向かって、二匹が迫った。
(う、嘘だろ!?)
 とんだどじを踏んでしまった。
 槍を動かす余裕はない。
 二匹は目の前だというのに。
「動くな!」
 突如ピステールの声がし、槍ごと胸を踏んづけられた。
「うっ!」
 思い切りだったらしく、これは痛かった。
「てぇいっ!」
 ピステールはカヤセの胸を足場にし、蜂と蠅を同時に剣で薙払った。
 二匹の胸部と腹部が離れて落ちる。
「早く起きろ!」
 とピステールはカヤセの手を取って立たせる。
「いやあ、はは、助かったぜ」
 二人は背中合わせで構える。
「……カヤセくん。君、もしかして……弱いんじゃないのかい?」
「なっ……、さ、さっきのは油断しただけだ!」
「強い者なら、決して油断などしないはずだが」
「お前、理屈っぽいぞ」
「まぁそういうなら、次からは油断しないでくれ。私がいなかったら、君は死んでいたぞ」「わかってる!」
 と思わず口調を強めたとき。
「カヤセさん、ピステールさん」
 上の方から声がした。
 と思った瞬間、二人の前にイシェルが立っていた。
「え!?」
「イシェルさん!?」
 驚く二人だが、イシェルはその間に行動を起こしていた。
 両手を左右に向け、半球型の光の壁を作る。
 広がった壁に押されて、ファルクスが後退した。
「おお、すごいぜ!」
 カヤセが声を上げる。
「二人とも、今のうちに攻撃を」
「え? しかし……」
 と躊躇するピステールを置いて、
「わかったぜ!」
 カヤセが駆け出した。
 そして壁の前で止まり、外にいるファルクスを、槍で突き刺す。
「内側からは通すのか……?」
 そうとわかれば。
 ピステールも壁に向かい、剣を振った。
 だが、そのファルクスは離れてしまい、かすめただけだった。
「ちっ……イシェルさん、壁を」
 消してくれ、と言う前に、壁は消されていた。
「よしっ」
 ピステールは縞模様の猿に迫り、腰から肩へと斬り上げた。猿は悲鳴を上げて倒れる。 彼はすぐさま次の目標を見付けようとするが、様子がおかしい。
「……何だ?」
 ファルクスが二人から離れて行く。
「お、おい、逃げるのかよ……」
 とカヤセも呆気に取られている。
 しかし、ファルクスは逃げたのではない。
「な、何!? こっちに……」
 数体を相手にしていたヤクトの方に、集団で向かってきた。
 とても一人では対処できない。
「ヤクトさん!」
 イシェルが瞬時に移動し、ヤクトの前に立った。そして光の壁を作る。
 それで正面のファルクスは押し止められたが、大半は壁の外から通り抜けてしまった。 ファルクスは二人を無視し、町の方へ進んで行く。
「ま、まずいぞっ!」
 焦るヤクトたちだが、町へ向かうファルクスは三十匹以上。数体倒したところで、状況は変わらない。
 このままでは寝ている町の人たちが襲われ、多くの死者が出てしまう。
「イ、イシェル……」
 隣で壁を作っている彼女を見る。
「…………」
 一瞬、悩んだような彼女だったが、何か決心したようだ。
「……仕方ありません。命令違反ですが、私が何とかします」
「えっ!?」
 思わず声を上げるヤクト。
「何? イシェルさんが!?」
 壁の前のファルクスと戦いながら、カヤセとピステールも驚く。
「壁を消します」
 言った瞬間壁は消え、代わりにイシェルの両手から光が剣のように伸びた。
「う、うああああああっ!」
 突然、彼女は苦しげに顔を歪め、絶叫した。
「なっ……イ、イシェル!?」
 ヤクトは目を見開いて驚愕する。
 今まで、ほとんど声も上げなければ表情も変えなかった彼女の、この変化は何だ。
 戦っている最中のカヤセとピステールも、思わず手を止めてしまう。
「うっ……くくっ……!」
 イシェルはぎりっと奥歯を噛み締め、全身に力を込める。
「でやぁぁぁっ!」
 そして苦しそうに叫びながら、正面のファルクスに迫った。
 その速さは疾風のごとく。
 両手の光の剣が、夜の闇の中で星のように輝いた。
 通り抜けた後には、肉をえぐられ、血を吹き出すファルクスたちの死体が、力なく次々と地面に倒れていった。
「はあっ、はあっ、はあっ」
 顔中に汗を浮かべ、荒い呼吸をするイシェルだが、すっと息を止め、また疾風のように駆け出した。
 次の狙いは、町へ向かったファルクスだ。
「な……何がどうなってる……」
「イシェルさん……すごすぎ……」
 ピステールとカヤセは呆然としている。
「……イシェル……」
 そんな彼女を見て、ヤクトは心配そうに呟いた。

 町へ向かったファルクスたちは、今まさに、城を越えようとしているところだった。
 町はもう目と鼻の先にある。
 腹をすかせた彼らは、人間を見付けては口の中に放り込んでいくだろう。
 だが、そうはさせないとばかりに、上空からイシェルが現れた。
(これ以上、無関係の者を死なせるわけにはいかない!)
 彼女は走り来るファルクスの前に立ちはだかる。
「うおおおおおっ!」
 イシェルは向かって行く。
 光の剣が弧を描いた。
 体の大きなものや小さなもの、軟体動物や甲殻類まで、彼女は一撃、二撃で斬り裂いていく。
 この一瞬で、十匹のファルクスが死んだ。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
 イシェルはふらつきかけたが、何とかこらえた。
「……あと、二十か……」
 うつむきながら、数を確認する。
 ファルクスたちには、一体何が起こったのかわからなかった。
 ただ、異様な恐怖を本能で感じ取り、皆、動けないでいた。
 いや。鳥のファルクスたちが、慌てて町へ入ろうと飛んで行く。
「…………」
 イシェルはそれを見付けると、両手の二つの剣を合わせた。そこから、光を弾丸のように撃ち出す。
 先頭の鳥の頭が、一瞬で消えた。
 後続の鳥たちが焦って引き返す。
 イシェルはもう一度狙おうとしたが、ついに膝をついてしまった。
「うっ……ぐっ……」
 顔から吹き出す汗が、いくつも地面にこぼれ落ちた。
(や、やはり苦しい……! これ以上はもう……!)
 イシェルは今、体中に走る激痛に耐えていた。
 心臓が激しく波打ち、全身の血管がはちきれようとしている。さらに刃物で体中に穴を開けられ、切り刻まれているようだ。
 何度も気が遠くなりそうになるが、必死で耐えていた。
 何故、そんな激痛が襲うのか。
 それは、彼女にかけられた保険だった。
 万が一にも、命令違反を起こさないようにと。
(しかし、あと二十……何とかしないと……)
 ふいに、新たなファルクスの反応を感じた。 一体のみである。
 こちらに近付いて来た。
(この反応……もしや!?)
 見ると、翼のある黒い馬が飛んでいた。
 異形だらけのファルクスの中で、その馬は美しかった。
 背中には、人間が乗っている。髪は短めで目付きの鋭い、二十代後半くらいの男だ。
「馬が騒ぐので様子を見に来てみれば……。こんなところまで追ってきたのか、ハンターが」
「……ラオス……」
 イシェルは立ち上がった。
「ようやく見付けた……」
「俺のファルクスたちをこんなに殺しやがっって……だが、お前もふらふらのようだな」「……おとなしく元の世界へ帰るんです。この世界の人たちに、これ以上迷惑をかけてはいけない」
「ふん……」
 とラオスは鼻で笑った。
「たかがハンターが、偉そうに」
「あなたのしていることは犯罪です」
「それがどうした。罪もないファルクスたちを殺すのが正しいとでも言うのか?」
「……それが法となった以上、仕方ありません」
「ふん……。やはりハンターなど、主人に忠実なだけの飼い犬だな。……と、そうだ。その飼い犬のお前に、いいことを教えてやろうか」
 くくく、とラオスはおかしそうに含み笑いをした。
「俺をこの世界へ送ったのは、誰だと思う?」
「……えっ?」
「ただの飼育係だった俺が、転送機の使い方など知るわけがない。ある人が手伝ってくれたのさ」
「……!」
「くくく……それはな」
 ラオスはにやりと笑った。
「ガリエルさ」
「……まさか!?」
 イシェルは愕然とする。
「そう。ガリエルだ。大統領であり、転送機の直接の責任者、ガリエル」
「そんな……」
「ははは。愕然とするハンターなど、面白いものが見られたな。俺はもう行く。これ以上ファルクスを殺されるわけにはいかないからな」
 ラオスは馬に後ろを向かせた。
「ま、待て!」
 イシェルは光の弾丸を撃ち出した。
「ちっ」
 舌打ちするラオスだが、馬の方が先に反応し、弾丸をかわした。
「ははは、いいのか? お前の任務は俺を殺すことじゃないはずだぞ」
「くっ……」
 さすがにその命令まで違反するわけにはいかない。
 だが、このままではファルクスが逃げてしまう。
 まだ二十……いや、ここに来ていないものも含めれば、三十近くは残っているはずだ。 全部は無理としても、ここは少しでも数を減らしておきたい。
 イシェルは逃げるファルクスの後を追いかけた。
「でやぁぁぁぁぁっ!」
 全身を襲う激痛に耐えながら、イシェルが迫ってくる。
「ちっ……あのハンター、まだ来るか。しぶとい奴だ」
 そうはわかっていても、ラオスには逃げるよう指示するしかない。本気を出したハンターに、ファルクスがかなうはずがないからだ。
 後部で光が舞い、悲鳴が飛び交った。
 一、二、三……。
 イシェルは次々と倒していく。
 しかし、もう限界だった。
 体が言うことを聞かない。
「ぐぅっ……!」
 走る勢いのついたまま、肩から倒れ込む。
 光の剣も消えてしまった。
「ははは、だらしないな。無理はするなよ」
 ラオスはファルクスを率い、笑いながら去って行った。
「くっ……」
 悔しそうに唇を噛み締めるイシェルだが、やはり無理をしすぎたのか、そのまま意識を失ってしまった。

 辺りは血の臭いが漂い、ファルクスの死体がいくつも転がっている。
「……こりゃ、すごいな……」
 鼻をつまんでカヤセが言った。
「まったくだ」
 とピステールは相槌を打つ。
「一人でここまでやるとはね……。あのイシェルって子は何者なんだ?」
「……イシェル……どこだ?」
 ヤクトは彼女を探した。
 ようやくここまで追い付いたと思ったら、この有様だったのだ。
 どうやらファルクスは立ち去ったらしいが、肝心の彼女が見付からない。
「イシェルーっ!」
 呼び掛けても、返事はなかった。
「くそ……どこへ行ったんだよ……」
「こう暗いと、見付けるのは難しいな……」
 とピステール。
「イシェル……」
 ヤクトは不安そうに呟く。
 だが、段々と空が白み始めてきた。
「朝だな……」
 とカヤセが言った。
 もうすぐ日が昇る。
「あ……ヤクトくん、あれじゃないのか?」
 ピステールが指を差す。
 ファルクスたちの死体の中で、一人、人間が倒れていた。
「間違いない……イシェルだ!」
 ヤクトは慌てて駆け寄った。
「おいっ、しっかりしろ!」
 一瞬、死んでいるかもと焦ったが、どうやら大丈夫のようだ。
 しかし彼女の表情は、苦しそうに歪んでいる。
「イシェル……」
 ヤクトは彼女の顔を撫で、優しく微笑んだ。
「ありがとう。君のおかげで町は助かったよ」
 戦い疲れた少女の顔を、朝日が眩しく照らしていた。

  第八章

 次の日の朝。
 イシェルは目を覚ました。
(ここは……)
 見知らぬ天井。見知らぬ部屋。
 自分はベッドの中にいる。
 ふと、話し声と共にドアの開く音がし、やがてこの部屋のドアも開けられた。
「あ、イシェルさん、起きたのかい? まだ寝ててもよかったのに」
 ピステールだった。手には食べ物が入った袋を持っている。
「ここは私の家だから、安心して寝てていいよ」
「何? イシェルさん、もう起きたのか?」
 カヤセも入ってきた。
「おい、ヤクト、イシェルさんが目を覚ましたぞ」
「ほ、本当か?」
 遅れてヤクトがやってくる。
 そして彼女の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろし、
「よかった……」
 と嬉しそうに呟いた。
「……みなさん、心配してくれたんですね」
「当たり前さ」
 とカヤセが言う。
「でも、一番心配してたのはヤクトだけどな」
「あ、お前、言うなよっ」
「ははは、いいじゃないか」
「ま、とりあえず、目覚めにこれでもどうだい?」
 ピステールが袋からリンゴを取り、差し出した。
「……ありがとうございます」
 イシェルは受け取り、そして訊ねた。
「ところで、私はどのくらい眠っていたのですか?」
「え……と、丁度一日だね」
「その間、ファルクスは?」
「動きはないよ」
「死体はそのままですか?」
「あ、ああ。とても片付けなんてできないよ」
「……わかりました」
 イシェルは立ち上がった。
「少し出かけてきます」
「ファルクスの回収か? まだ寝ていた方がいいんじゃないか?」
 と心配そうにヤクトが言う。
「もう大丈夫ですよ。すぐに戻りますから」
 イシェルは部屋を出て行った。
「……やれやれ。仕事熱心な子だな」
 ピステールが呆れたように呟いた。
「お、おい、待ってくれ」
 ヤクトがはっとして、彼女の後を追う。
「イシェル!」
「何です?」
 玄関を出たところにいた。
「本当に、休んでなくて大丈夫なのか? 昨日の戦いのときだって、あんなに苦しそうにしてたのに……」
「大丈夫ですよ」
 とイシェルは言った。
「昨日のは私が命令違反をして戦ってしまったからです。それに一日休んでだおかげで、もう何でもありません」
「……そ、そうなの……」
「はい。では、私は行きますので」
 イシェルは城の方へ歩いて行った。
「…………」
 ヤクトはしばし呆然としてから、部屋に戻った。
「おい、ヤクト」
 カヤセがにやにやと不気味な笑みを浮かべて言う。
「うまくできたか? 愛の告白は?」
「……何か、誤解してないか?」
「何だ、やっぱりできなかったのか」
 カヤセは肩をすくめる。
「でもよかったな、念願のイシェルさんの寝顔が見られて」
「べ、別に……」
「照れちゃって。かわいかっただろ?」
「…………」
「……ま、それは置いといて。俺たちはすることがないから、食事にしよう。これ、もらいっ」
 カヤセは袋からパンを取って、素早く口に入れた。
「あっ、それは……私の大好物のあんパン……人気商品で一個しかないのに……」
 ピステールが愕然とする。
「へへっ、早いもの勝ちさ。う〜ん、こりゃうまい」
「くっ……だ、だが、私にはまだクリームパンが……」
「これももらいっ」
 ピステールの手にしたそのパンを、カヤセは奪い取った。
「取るなぁっ!」
「ま、まあまあ。騎士様が、せこいこと言うなって」
「……騎士は関係ないと思うが」
「まあまあ。俺の村には菓子パンなんてないんだから、譲ってくれよ」
「……君は自分の分を選んだじゃないか。普通のパンを」
「やっぱり菓子パンが食べたてみたくなったんだ。ほら、ヤクトも食べろよ」
 カヤセはクリームパンを彼に渡した。
「あ、ああ」
「……まあいい。ところで話は変わるが、彼女、イシェルさんは何者なんだ?」
「え? 昨日の戦いの後も説明しただろ? ファルクスハンターだって」
「……一晩考えてみたが、やはりそれだけでは納得できないな。いくら訓練したとしても、人間にあんなことができてたまるか」
「そんなこと俺に言われてもな。俺だって疑問に思ってることは結構あるし……」
 カヤセはヤクトを見た。
「イシェルさんと一番長くいるのはヤクトだろ? 何か知らないのか?」
「……俺も知らないよ」
「本当か? 隠してない?」
「隠してないって。俺もイシェルに訊いたことはあるけど、あまり答えてくれないんだ」 知りたいのはヤクトも同じである。
「う〜ん……そうか……。しかし、よくよく考えてみれば、謎だらけな人だよな。遠くの国から来たとか言ってたけど、遠くの国ってどこだ?」
「ファルクスとかいう化け物のいる国? 私も聞いたことがない。それに、あんな不思議な術を使うハンターが大勢いれば、世界征服もたやすいんじゃないか?」
 とピステール。
「いや、でもあれは人間には効果がないそうだけど……」
「どういう仕組みなんだ?」
「さ、さあ……」
 ヤクトは困ったように首を傾げた。
「……でも、ここで色々考えていても仕方がないよ。彼女は味方なんだから、いいじゃないか」
「ふぅむ……」
 とピステールは大きくため息を付いた。
「そんな楽天的に考えていいのだろうか……」
「いいんじゃない? 何かあったら、その時はその時さ」
 そう言ってカヤセは、ピステールが手にしようとしたチョコパンを先に取り、素早く口に入れた。
「あ、また君は! 何故私が食べようとしたものばかり取るんだ!? 他にもあるじゃないか!?」
「偶然だって。……ピステールって、甘いものが好きだったんだな」
「ごまかすな」
「ところで、ピステールって何歳?」
「……二、二十四だが……それがどうした」
「……まだ独身?」
「はあ?」
「彼女もなし?」
「……し、失礼な奴だな、君は」
「じゃあいるのか?」
「……い、いない……」
「ふ〜ん、俺はいたぜ。すんごく美人の彼女が。ファルクスに殺されたけど」
「……何が言いたいんだ?」
「ちょっとした自慢と、同情を誘ってパンを全部もらおうかと……」
「……そう言うなら、私だって友人が殺されてるんだぞ」
「……俺も妹を殺された……」
 とヤクト。
「……みんな、大事な人を殺されたってわけか……」
 しん、と空気が沈み込んだ。
「……これ以上、誰かが死ぬのは嫌だよな……」
 カヤセが呟く。
「そうだな」
 とピステール。
「そのためにも、イシェルと協力しないと」
「わかってるよ、ヤクト。イシェルさん、美人だからな」
「……あ、あのなあ、カヤセ……」
「カヤセくん、他人の恋路を邪魔してはいけないよ」
「……ピステールさんまで……」
 ヤクトは困ったように頭を掻く。
(そういうのとは、ちょっと違うと思うんだけどな……)
 だが、実際のところはよくわからない。
 少しずつ人間らしさを見せる様子が嬉しいだけなのか、女性として好きなのか。
 もっとも、人間としての彼女に好意を持っているのは確かなのだが。

 イシェルが戻って来たのは、それから十分後だった。
「早かったね」
 とヤクトは声をかける。
「もう全部回収したのかい?」
「はい。みなさんは食事は済んだのですか?」
「ああ。今は休んでいるところだ」
「……ねえ、イシェルさん」
 とカヤセが訊ねる。
「イシェルさんのことで、疑問に思うことがたくさんあるんだけど」
「こ、こら、カヤセ」
 ヤクトが止めようとするが、構わず、
「例えば、俺たちにくれた武器を突然どこからともなく出したり、今言ってた、ファルクスをどこかに消したり、あと人間離れした動きをしたりとか……。はっきり言うけど、とても普通の人間じゃないよ」
「…………」
「別にそのことでどうこうするわけじゃないけど、やっぱりきちんと説明してほしい。イシェルさんが何者なのか。どこから来たのか」 カヤセは真っ直ぐに彼女の目を見詰めた。「……そうですね」
 少し考えてから、イシェルは言った。
「確かにみなさんから見れば、不思議に思うのも無理はないでしょう」
「じゃあ、話してくれる?」
「はい。……でも、今はだめです。全てのファルクスと、ラオスを捕らえた後に話します」「ラオスというと……ファルクスを率いているという奴か。しかし、何故今じゃだめなんだ?」
「…………」
「もう、いいじゃないか。後で話してくれるって言うんだからさ」
「ったく、ヤクトは美人に甘いな」
「……人のこと言えないだろうが」
「それはさておき」
 とピステールは三つパンが残っている袋を差し出した。。
「ほら、とにかく、イシェルさんも食事を取って」
「いえ、私はいりません。それより、ファルクスのところへ行きましょう。彼らは森の中で腹をすかせているはずです」
「……森の中か……」
「そろそろ、最後にしたいよな」
「しかし、また数で来られたらどうする?」
「残りのファルクスは三十程度です。一度に相手にすることはできませんから、私が引き付けてばらばらにします。そうすればかなり楽になると思います」
「なるほど……。しかし、そんな作戦、ラオスとか言う奴にすぐに気付かれるのでは?」 とピステール。
「昨日のイシェルさんの力があれば、楽なんだけど……」
「カヤセ」
 ヤクトが睨む。
 あのときのイシェルが、どんなに苦しそうだったか。
 あんな姿は見たくはない。
「わ、わかってるって。言ってみただけだよ」
「……昨日のは、すぐに動けなくなってしまいますから、安易には使えません」
 とイシェル。
 彼女にしても、あの時の苦しみを思い出すだけで、全身に寒気を感じる。
 あくまで、あれは最後の手段だ。
「ファルクスの好きな臭いというのがあります。新鮮な血の臭いですが……私がそれを出しますから、彼らはすぐに飛び付いてくるはずです」
「なるほど。それなら大丈夫だろう」
 顎に手をやり、ピステールは頷く。
「しかし、血の臭いをどうやって出す? かなりの量がいるんじゃないか?」
「これがあります」
 イシェルは小さなカプセルを見せた。
「な、何だ、それ?」
 もちろん、カヤセたちはそんなもの見たことはない。
「この中には血の臭いが凝縮されて入っています。ファルクスをおびき寄せるためのものです」
「はあ……ハンターの道具って奴か……」
「はい。私がこれをあちこちに置いていくというわけです」
「よし、これで準備は整ったな」
 ヤクトが弓矢を持って立ち上がる。
「行こう!」
 彼の言葉に、カヤセとピステールは頷いた。
 ヤクトたちは、アスランの町の商店街を抜け、森の中を進んで行った。
 歩きながら、イシェルがファルクスの反応を探る。
「……近いですね。私たちが食い止めなければ、今日中に町の人たちは食べられてしまうでしょう」
「……緊張するようなこと言わないでくれよ……」
 とカヤセ。
「では、みなさんはここにいてください。これ以上近付くと、ファルクスに気付かれてしまいます」
「ああ、わかった。お互い気を付けよう」
「はい」
 イシェルは一人、森の奥へ走って行った。
 そして程無くして、血の臭いがここまで漂ってきた。
「……あ、あまりいい匂いじゃないな……」
 カヤセが顔をしかめる。
「当たり前だろう」
 とピステール。
「ともかく、そろそろファルクスが移動するはずだ。その時の足音を合図にしてこっちも動くぞ」
「おう」
 三人は、静かに待った。
 目を閉じ、耳を澄ます。
 かすかに、音が響いてきた。
 森全体に広がっていくようだ。
「……動いたな」
 とヤクトが言った。
「右の方が音が小さいな。こっちに行こう」
 三人は進み始める。
 そしてしばらくして。
「見えたぞ!」
 血の臭いに集まったはいいが、何もなくて混乱しているファルクスたちの姿が。
 さっそくヤクトが矢を放った。
 一番端にいたファルクス、ナメクジに当たり、体を痙攣させた。他のファルクスは気付かないのか、それどころではないのか、構わずに血の元を探している。
「よっしゃあ、俺が止めを刺してやる!」
 カヤセが苦しんでいるナメクジに突進し、槍を突き刺した。しかし、それでもまだ死なない。
 ナメクジは、口から緑色の液体を吐き出してきた。
「う、うわっ」
 何とか避けたからいいが、地面に落ちた液体は、不気味な煙を吹き出している。
「な、何だ、これ!?」
「カヤセくん、さがれ! 触れると体が溶けるぞ!」
 ピステールは同じようなことをするファルクスを、城で見たことがあった。
「何いっ!?」
 カヤセは慌てて逃げる。
「はぁっ!」
 代わりにピステールが飛び出し、剣で斬り裂いた。ナメクジの体は二つに分かれた。
 まだぴくぴくと動いているが、それも時間の問題だろう。
「よし、まずは一匹だ」
 ヤクトがほっと息を付く。
 だが、今ので他のファルクスに完全に気付かれてしまった。
「……休んでいる暇はないな。早くこいつらを片付けないと」
「そうはいかないな」
 ふいに声がし、黒い影が見えた。
 風が吹き、空中に翼のある黒い馬が現れる。 その背には男が乗っていた。
「だ……誰だ!?」
 カヤセが槍を向け、問いかける。
「あのハンターから聞いていないか? 俺の名はラオスだ」
「ラオス……!? するとお前が!?」
 三人は武器を向け、男を睨み付けた。
「まあ、待て」
 とラオスは手で制す。
 そして馬に乗ったまま地面に下り、ファルクスにも待機するよう合図をした。
「少し話し合おうじゃないか」
「話し合うだと……!? お前がファルクスを連れてきたおかげで、こっちはえらく迷惑しているんだ! 犠牲者も大勢出ている!」 ピステールが怒鳴った。
「それは済まなかったな。だが、俺の方にも事情があってね」
「事情? ファルクスが殺されるからか!?」
「……そうだ。私はファルクスが好きなんだよ。それをいらなくなったから殺すなんて、理不尽だろう」
 ラオスは馬の頭を優しく撫でてやる。
「だから俺はこいつらを連れ、ここに移住することにしたのだ」
「勝手なことを……!」
 ヤクトは怒りに奥歯を噛み締める。
「……勝手か……。だが、勝手に振り回されたのは、俺もファルクスも同じだ」
「……?」
「……ファルクスは、元から醜い姿だったのではない。人間の勝手で変えられたのだ」
「な、何? 何を言っている?」
「……説明したところで、お前たちに理解はできんだろう。まぁまれに、この馬のように美しいものも生まれるようだが、大半はあんなだ」
 と、後ろのファルクスたちを見る。
「この森にもいたはずだぞ。ファルクスと似た姿を持つ動物が。ファルクスの元の姿はあれだ」
「……まさか……」
「何をすればあんなになるって言うんだ!?」
「……安心しろ。ここではそうならないだろう。……しばらくはな」
「その、何かを含んだ言い方やめろよ! 言うならはっきり言え!」
 カヤセが槍を向けて声を上げる。
「…………」
 ラオスは顔を森の奥の方に向け、言った。「……もうすぐここに、全てのファルクスが集まる」
「!?」
「あのハンターが血の臭いを出しておびき寄せたらしいが、そこには何もない。腹をすかせたファルクスたちは感覚を研ぎ澄まし、お前たちのこともすぐに見付け出すはずだ。俺と呑気に話していていいのか?」
「ちっ……」
 カヤセは舌打ちするが、にやりと笑い、
「ファルクスを率いているのはお前だろう。ならお前を倒せば、奴等は統制がとれなくなる! ヤクト!」
「おう!」
 ヤクトが矢を射る。
 だが馬は素早くかわし、三人に向かってきた。
「うわっ!」
 思った以上の速さだ。
 対処をする暇がなかった。
 馬は彼らのすぐ上を通り抜け、高く舞い上がった。
「くっ……」
「ははは、いい馬だろう」
 空中で止まり、ラオスが笑いを上げる。
「悪いが、ファルクスの食料になってもらうぞ」
「誰が、食料なんかに!」
 三人は武器を構える。
 だが彼らの周りには、目を光らせたファルクスたちがいた。
「くくく……終りだな。第一、俺を倒すといったところで、こいつの速さに付いてはこれまい?」
「いいえ、それくらいなら何とか」
 ラオスの耳元で、突如声がした。
「な、何!?」
 振り向いた彼の目には、ファルクスハンター、イシェルの顔が映っていた。
 彼女の手から、丸い光の膜が生まれ始める。
 その膜はファルクスに触れると、全身に張り付き、動けなくしてしまう。。
 それで死ぬわけではないが、うまくいけばラオスを引き離すことができる。
「くっ!」
 ラオスは完全に不意をつかれた。
 だが、彼の馬の反応は速かった。
 イシェルが迫る気配を感じ、咄嗟に体が動いて避けたのだ。
「……はっ、はあっ、はあっ……危なかった……」
 ラオスは冷や汗を拭う。
「馬に助けられましたか……」
 イシェルは地面に着地した。
「イシェル!」
 ヤクトたちが彼女の側に駆け寄る。
「どうしたんだ、こんな所へ来て? 気付かれたのか?」
「ええ。それと、ラオスがヤクトさんたちに近付く反応があったので、戻ってきました。ファルクスもすぐそこまで来ています」
「おい、ハンター」
 ラオスが問い掛ける。
「何故、お前は直接戦えない? ここの連中を協力させるより、お前一人で戦った方が効率がいいはずだぞ」
「……そ、そうなの?」
 とカヤセがイシェルを見る。
「お前に命令を出した奴の目的は何だ!?」
「……私は何も知りません。ただ命令を実行しているだけです」
「……ちっ……融通の効かん奴め……」
 ラオスは馬と共に空へ舞い上がった。
「お、おい、イシェル……」
「来ますよ、ファルクスが」
 ラオスの質問の意味を訊こうとしたヤクトに、イシェルはそう言って制した。
 答えたくないようだ。
 それなら無理に訊くつもりはない。
「あ……足音が聞こえてくる……」
 森の奥を見て、カヤセが言う。
 まるで地鳴りのようだ。
 ここにいたファルクスたちも、ヤクトたちに襲いかかろうと、一歩ずつ迫ってくる。
「くっそー……結局大勢を相手にするのか……」
「今更言っても仕方がない。やるぞ!」
 武器を構え、相手に向ける。
 ラオスはその様子を上空で眺めているだけだ。
「来たぞ!」
 ヤクトが声を上げる。
 とうとう全てのファルクスが姿を見せた。
 その息は荒く、涎が垂れ、目は血走っている。
「な、何か今日のあいつら、迫力あるな……」
 カヤセが顔を引きつらせる。
「腹をすかせているからですよ」
 とイシェル。
「みなさん、気を付けて」
「気を付けてと言われても……」
「集中しろ、カヤセくん! やられてしまうぞ!」
「わ、わかってるよ!」
 だが、ファルクスたちは彼らではなく、別のものに興味を向けている様子だった。
 集団の一部が、もぞもぞとうごめいている。
「な、何をしている?」
「……どうやら、ヤクトさんたちの倒したファルクスの死体を食べているようですね」
「何?」
 三人は目を見開く。
「……見境ないのかよ……」
 とカヤセが顔をしかめた。
 もうなくなってしまったのか、ファルクスたちは今度はヤクトたちに狙いを定めた。
「……ちょっと危険かな……」
 ヤクトは一瞬、寒気を感じた。
 腹をすかせた動物は、普段よりずっと手強くなる。
「イシェル、壁を作ってくれ!」
「はい。カヤセさん、ピステールさん、早くこちらに」
「お、おうっ」
 二人は慌てて移動するが、そこをファルクスが飛び掛かってきた。
 それも一斉にだ。
「うわっ!」
「ひええっ!」
 この数では、とても相手になどしていられない。
 だが、その時イシェルが半球型の壁を作り、間一髪、二人は中に入り助かった。
 彼らに迫っていたファルクスは、壁の外側へと押し退けられる。
 そこをヤクトが二回連続で矢を放ち、そのファルクスを絶命させた。
「ふうっ……危ない危ない……」
 息を付くカヤセ。
「……しかし、これはまずいぞ。相手が凶暴化している上に、この数が相手では……」
 どうしたものか、とピステールが唇を噛む。
「いつまでもこの中にいるわけにもいかないしな……」
 とヤクトはイシェルを見る。
 彼女も、そう長くは壁を維持できないだろう。
「はははは、どうした? いつまで閉じこもっているつもりだ?」
 ラオスが下りてきて、いやらしく笑った。
「さっさと出てこい! そしておとなしく食料になれ!」
「勝手なことを……!」
 彼に向け、ヤクトは矢を放つ。
「当たるものか」
 余裕の表情のラオスだが、彼の馬は急に体を反転させた。
「なっ、何!?」
 ラオスが落ちる。
 黒い馬はそれを追い、彼をつかまえた。
 口を開け、鋭い牙の生えた歯で。
 彼の喉を噛み締める。
 ゴキッ、と骨の砕ける音がした。

  第九章

「なっ……!?」
 ヤクトたちは目を剥いた。
 何が起きたのか、理解するのに少しの時間が必要だった。
「しまった……」
 イシェルも呆然としてしまう。
 予想できないことではなかったのに、そこまで考えが回らなかった。
 翼ある黒い馬は、口にラオスをくわえ、地面に降りた。
 ラオスの首は不自然に曲がっており、体は痙攣を起こしている。
 馬はラオスを下ろして足で押さえ、首を食い千切った。
 ぶしゅうっ、と血が噴水のように吹き出す。
「うわっ……」
 カヤセは思わず目を覆う。
「あの馬、何であんなことを……」
「空腹に、我慢ができなかったんでしょう」
 とイシェルが言った。
「美しい姿をしていても、ファルクスには違いがありませんから」
 他のファルクスたちも、動かなくなったラオスに群がり、彼の肉を食べ始めている。
「まさか、自分が食事にされるとはな……」
 憎むべき相手だが、ピステールは彼に同情した。こんな死に方をするとは、夢にも思わなかったことだろう。
「くそっ!」
 突然ヤクトは声を上げ、光の壁の方へ走り出した。
「ヤクトくん!?」
「おい、よせ!」
 驚き、止めようとするピステールとカヤセだが、ヤクトは彼らの手をすり抜けた。
「やめろぉぉっ!」
 叫びながら、ラオスに群がるファルクスに矢を放つ。
「そいつはお前たちの主人だろうがっ! かわいがってもらったんだろうがっ!」
 それだけではない。
 元はと言えば、彼らを助けるために、ラオスはここまで逃げてきたのだ。
 その恩に報いるどころか、殺して食料にしてしまうとは。
 ファルクスには本能しかない。
 そうイシェルに聞かされた時には、彼らも生きるために必要なのだと思っていた。
 しかし、ヤクトは今初めて、怒りを覚えた。
 生きるためにラオスを利用し、生きるためにラオスを食べる。
 彼らにとっては当たり前のことかもしれないが、それではラオスがあんまりすぎる。
 ラオスも許せなかったが、ファルクスも許せなかった。
「でえいっ!」
 手に戻ってくる矢を、怒りに任せ、次々と放つ。
 食事に夢中のファルクスは避けようともせず、面白いように命中したが、それでも食べるのを止めようとしなかった。
「くそっ……そんなに、殺されるより食べていたいのかよ……」
 何だか、悲しくなってきた。
「危ない! ヤクト!」
 カヤセの声に、彼ははっと顔を上げた。
 大きなファルクス三匹が、すごい速さでヤクトに向かって来る。
「しまった!」
 今構えた弓矢では、同時に三匹は倒せない。
 周りに気を配っていれば、それを防げたはずなのに。
「くっ!」
 仕方なく、中央のファルクスを狙って矢を放つ。
 これで隙ができれば、まだ助かることはできるはずだ。
 だが、中央の獅子型のファルクスは、空中に飛び上がって避けた。
「なっ……!?」
 そのまま来れば、ヤクトを押さえ付けることができる。
(もうだめか!?)
 そう思った時。
 ヒュッ、と短く風が唸り、その獅子の首が宙を舞った。後を追うように血が吹き出す。 それと同時に、両脇にいた二匹のファルクスの首も飛んでいた。
 ヤクトが驚いていると、ふいに体が浮き上がった。
「う、うわっ」
「ヤクトさん、無茶はしないでください」
 イシェルが顔をしかめつつ、彼を支えるように持ち上げていた。
「イ、イシェル……」
 どうやら、やったのは彼女のようだ。
 長い滞空時間の後、イシェルはカヤセとピステールの所へ降り立った。
 ヤクトを離すと、彼女は思わずよろめいた。
「イシェル!」
 慌ててヤクトは彼女を支えた。
「すいません……」
「お、俺の方こそごめん……。おかしいな。俺、普段から自分のこと冷静な奴だと思ってたんだけど……」
「おいおい、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ?」
 とカヤセが言う。
 見ると、ラオスと思われるものはすっかり骨になり、しかもばらばらに砕かれている。 そしてファルクスたちは、今イシェルが首をはねた三匹のファルクスの死体に群がっているが、半分はこちらを見つめていた。
「来るか……?」
 ピステールは剣を構えて睨み付ける。
 いや。来なかった。
 先程から肉を口にできなかったファルクスが、とうとう我慢も限界にきたのか、別の一体に噛み付いた。
 そのまま食い千切り、うまそうに噛み始める。だが、食われた方も食い返す。
 悲鳴を上げながらも、彼らは互いの肉を食べていた。
 それに触発されたのか、他のファルクスたちも、近くのファルクスを襲い出した。
 完全に、見境がなくなっていた。
「こ……こんなのって、ありか……?」
「同じ種族なのに、死体だけでなく、生きていても食いつくとは……」
 カヤセとピステールは呆然としている。
「共食い、か……」
 ヤクトは意外と冷静に、その光景を見ていた。
「イシェル……。何なんだろうな、ファルクスって……。ラオスは人間の勝手で生まれたって言っていたけど……」
「……その話は後にしましょう。まだファルクスは残っています。全てを回収すれば、もう大事な人が殺されることはありません」
「そ、そうだったな」
 とカヤセは我に返った。
「もう残りは少ないんだ。早く片付けちまおうぜ」
「よし、行こう、カヤセくん」
 ピステールは彼と二人で、ファルクスに向かって行った。
「私たちも行きましょう、ヤクトさん」
「ああ」
 とヤクトは頷いた。
「……俺にはよくわからないけど、ファルクスって悲しい生き物だな……」
 そう呟いてイシェルを見ると、何だか彼女まで悲しそうな顔をしていた。

「でやっ!」
 ピステールが鹿を斬り裂いた。
「残りは……五匹か!」
 息を荒くしながら、彼は言った。
 あの黒い馬と巨大なカニ、それとウサギと蝶と猪だ。
「へへへ……俺たち、強いぜ!」
 とカヤセは笑みを浮かべる。
「もう少しだな……」
 ヤクトが呟く。
 三人はうまく連携を取り、共食いで死んだものを抜かしても、十匹近くを倒していた。 多少怪我はしたが、こんな時だ。大して痛みは感じない。
「イシェル、もう少しだぞ」
「はい、頑張りましょう」
 側にいる彼女の顔を見て、ヤクトは蝶に狙いを定めた。
 イシェルは危険な時しか行動しなかったが、声をかけてくれるだけでも十分だった。
 それだけで何だか調子がよくなる。
「はっ!」
 見事、彼の矢は蝶を貫いた。
「いいぞ、ヤクトくん」
 とピステール。
「いいよなあ、ヤクトは。イシェルさんが側にいて」
 カヤセが羨ましそうに言う。
「お、おい、来たぞ、カヤセ!」
「え?」
 ヤクトの声に前を見ると、ウサギが向かって来ていた。
「よし、任せろ!」
 カヤセは槍を振り上げる。
 しかし槍が届く距離になって、ウサギは走るのを止め、飛び上がった。と思ったが違った。
 足は地面につけたままで、胴を人間並に伸ばしたのだ。
 そして一瞬で、頭のある位置まで体を縮める。
 変わった飛び上がり方だが、その高さはカヤセの頭と同じ位置である。
 槍を降り下ろすには、丁度いい高さだ。
「はっ!」
 切っ先がウサギの脳天に当たり、そのまま地面に叩き付けられた。
 槍を離すと、割れた頭から脳みそが飛び出した。
「うげっ!」
 自分でやったとはいえ、これは少し残酷だったかもしれない。
「と、ともかく、あと三匹だ!」
 とカヤセが指を三本立てて言った時。
「でぇいっ!」
 ピステールが、突進してきた猪をかわして、横から斬り上げた。
 腹を半分斬られ、倒れ込んだ猪を、剣で突き刺して止めを刺した。
「おお、あと二匹!」
 カヤセは指を二本立てる。
 だが、その二体は他と比べても強そうだ。 翼のある馬と巨大なカニ。
「こいつらさえ倒せば……!」
 ファルクスはいなくなり、安心した生活ができる。
 そう考えた時、ヤクトははっとした。
(イシェルも、帰ってしまう……?)
 そうだ。ファルクスがいないのだから、ここにいる意味はないはずだ。
 ヤクトは弓を構えたまま、一瞬躊躇してしまった。
「ヤクトさん!」
 イシェルの声だ。
「今は何も考えないで!」
「……イシェル……」
 迷いが読めたらしい。
(……そうだ。あいつらを倒さなければ、元も子もないじゃないか)
 それからのことは、それから考えればいい。
 ヤクトはカニに矢を放った。
 だが、カニは二つのハサミで防御する。
 矢はわずかに傷を付けた程度だった。
「なっ……」
「……思ったよりやりますね」
 とイシェル。
「よし、カヤセくん、後ろに回ろう。カニは横にしか動けないし、正面はハサミがあるからね」
「わかったぜ」
 二人は同時に走った。
「あ、待ってください」
 とイシェルが止めるのも聞かずに。
 カニは、横ではなく、縦に向かってきた。
「えっ!?」
「うわっ!?」
 二人は慌てて、それぞれ左右に避ける。
 しかし、カニは横歩きもした。
 カヤセの方に突っ込んでくる。
「な、何で俺の方に!」
 彼は後ろへ回り込もうとするが、カニは素早く正面を向き、行かせてくれない。
 だが。
「いいぞ、カヤセくん!」
 カニは、反対側にいるピステールに後ろを向けていた。
「やあっ!」
 ピステールは甲羅の上を駆け上がった。
 そして剣で両目を潰す。
 カニは暴れ回り、ピステールは振り落とされた。
「いてて……。だが、チャンスだぞ」
「ピステールって、結構ひどいことするな」
「そんなこと言っている場合じゃないだろう。やるぞ、カヤセくん!」
「やれやれ」
 二人は苦しんでいるカニの正面に回った。
 無茶苦茶にハサミが振り回されるが、狙いが上を向いているので、近付くのは簡単だった。
「でやあっ!」
「はあっ!」
 二人でハサミを付け根から斬り落とした。
 そして口の中に、剣と槍を突き刺した。
 二つの刃は、背中の甲羅まで貫く。
「……今更ながら、俺も結構ひどい殺し方してるな」
 とカヤセは言った。
「そんなことより、最後のあの馬は!?」
 ピステールは空を探した。
 つられてカヤセも上を見る。
 その彼らの後頭部に、突然衝撃があった。
 思い切り殴られたような痛みが走る。
「ぐわっ!」
「だあっ!」
 二人は頭を押さえて地面にうずくまる。
「う、くく……何だ、今のは?」
 顔を上げると、黒い影が通り過ぎるのが見えた。
「大丈夫か!?」
 二人の所に、ヤクトとイシェルが駆け寄ってきた。
「あ、ああ、大丈夫」
 カヤセとピステールは起き上がる。
「くそっ、あの馬、速くて矢が当たらないんだ」
 とヤクトが唇を噛んだ。
 弓には自信があっただけに、悔しかった。
「まずいですね。あの馬、このまま町へ行ってしまうかもしれません」
 とイシェル。
 黒い馬はこの上空を旋回して、様子を見ているようだった。
 邪魔者は消すか、放っておくか、判断しようとしているのだろう。
「……よし、イシェル。矢を当てるのが無理なら、あの馬に飛び移って直接攻撃する。君ならできるだろう? 手伝ってくれ」
「また無茶なことを……」
 とカヤセが呆れる。
「でも、いいんじゃないか? ほら、この剣を使うといいよ」
「ありがとう」
 ヤクトはピステールから剣を受け取った。代わりに弓を渡す。
「さあ、頼むよ。イシェル」
「……危険ですが、仕方ありませんね」
 彼女は後ろから、ヤクトの腰に手を回した。
 体がしっかりと密着される。
「変な気起こすなよ」
 カヤセが言った。
「あ、あのなあ、こんな時に……」
 一瞬意識してしまったのは事実だが。
 ともかく、二人は丁度こちらに飛んでくる馬に、狙いを定めた。
「よし、今だ!」
「行きます!」
 イシェルは飛んだ。
 そして風の速さで、馬の背に乗り移る。
「ヤクトさん、しっかりつかまって!」
「うぐっ……」
 風の抵抗にあおられながらも、ヤクトは懸命にしがみついた。
 右手に剣を持っているので、左手を馬の首に回す。
「イシェル!」
 強い風で目を開けていられないので、きつく閉じながら、ヤクトは後ろの彼女に叫んだ。「こいつは俺がやる! 大丈夫だから、任せてくれ!」
「……わかりました、気を付けて」
 イシェルは馬につかまる手を放し、風の流れに乗ってそこから降りた。
 戦闘中はヤクトに付いているという命令があるが、イシェルは彼の気持ちを尊重して、激痛に耐えることにした。
「イシェルさん!」
「どうしたんです!?」
 地面に着地した彼女に、カヤセとピステールが駆け寄ってくる。
「ヤクトさんに任せました。見守りましょう」
 と脂汗をかきながら、無表情に言う。
「……ったく、あいつは」
「まあ、さっき随分怒っていたからね。気持ちはわからないでもないけど」
 三人は空を見上げた。
 馬はヤクトを振り落とそうと、体を震わせ、速さに緩急をつけ、上下左右に移動したりしているが、彼はしがみついて離れない。
「ぐぅっ……いい加減、おとなしくしろよ……」
 腕がしびれてきた。もうあまり持ちそうにない。
 ヤクトは顔をしかめながら、剣の鞘を抜いた。鞘は地面へ落ちていく。
 風が強くて剣を振ることはできないので、流れに乗せて差し込むようにする。
 狙いが定めると、翼の辺りから体の中心へ、一気に剣を突き刺した。
 馬が悲鳴を上げ、その場で暴れ回る。
「で……やあっ!」
 それでも何とか力を込め、ヤクトは剣を柄まで突き入れた。
 馬は口から血を吐き、地面に墜落していく。「ぐはっ!」
 ついにヤクトの腕から力が抜け、彼は空中に放り出された。
「あっ!」
「ヤクトくん!」
 カヤセとピステールが声を上げる。
 瞬時にイシェルは走っていた。
 ヤクトの落ちる位置の見当を付け、空中へ飛び上がる。
「ヤクトさん!」
 彼女はしっかりとヤクトを受け止めた。
 それとほぼ同時に、馬は落ち、地面に叩き付けられた。その衝撃で傷口が開き、内臓が飛び出す。即死だった。
 イシェルはヤクトを腕に抱き、しっかりと着地した。こちらの衝撃は軽くジャンプした程度だ。
「た、助かったよ」
 ヤクトは彼女から離れ、礼を言った。
「イシェル……これで、終わったんだよな」
「ええ、終わりました」
「……はは、とりあえず、これで一安心だ」
 ヤクトは大の字に寝転がった。
 もう全身疲れ切ってしまい、早く休みたかった。
「おーい、ヤクト!」
「よくやったぞ!」
 カヤセとピステールが走ってくる。
 そして寝ているヤクトの顔をぺちぺちと叩いた。
「い、痛い! やめろよ!」
 だが、彼らは笑顔でなおも叩いてくる。
「ははははっ」
「よくやったよくやった」
 喜びの表現らしいが、やられる方は痛いだけである。
「だあっ!」
 耐えられず、ヤクトは起き上がった。
 一瞬、しんとなるが、
「はは……はははははっ」
 ヤクトが笑った。
「やったな、みんな!」
 と二人に抱き付く。
「げっ、俺はそういう趣味はないぞ!」
「いいじゃないか。こういう時は全身で喜びを表現しよう!」
 ピステールも抱き付く。
「……そういうことなら。イシェルさんもおいでよ!」
「え? しかし……」
「来ないなら、こっちからいっちゃうよ〜。ひっひっひっ」
 カヤセはいやらしく笑った。
「それじゃ変態だろうが」
 彼はヤクトとピステールから叩かれた。
 ともかく。
 彼らは大声で笑い合った。
 そんな様子を見て、
(よかった)
 とイシェルは思った。
 ラオスを連れ帰るという命令は果たせなかったが、この世界の人たちを守れただけでも満足だ。
(さて……)
 ファルクスを回収した後、イシェルはどう行動しようか考えた。

 とりあえず、イシェルはファルクスの回収をすると言って一人で残り、ヤクトたち三人は、ピステールの家で休むことにした。
 今日は疲れを取るためにゆっくりと休むことにし、そして次の日。
「ただいま」
 ピステールが帰ってきた。
 彼は王の所へ報告に行ってきたのだ。
 もう化け物はいなくなったと。
 それはすぐさま町の人たちにも伝わり、町は本当の明るさを取り戻そうとしていた。
 今も外からは人々の声が聞こえてくる。
「ぴすてぇるぅ〜」
 とカヤセは彼に詰め寄った。
「食べ物は買ってきたのか?」
「あ、ああ。買ってきたぞ」
 ピステールは袋を見せた。
「あ、また菓子パンがある」
「……いいじゃないか、好きなんだから。今度は取らないでくれよ」
「と、言ってる間に、も〜らい」
「あ、こらっ」
「はははは」
 とヤクトは笑った。
「ピステールさん、俺にもくださいよ」
「あ、ああ。どうぞ、イシェルさんも」
 こうして、しばらく食事を取ることになった。
「あの、ところでみなさん。これからどうします?」
 イシェルが訊いた。
「これからって……」
 カヤセはパンを食べながら、う〜んと上を向いた。
「俺の村はなくなったも同然だし……そうだ。ヤクトの村に行かなきゃな。レムスとクスナが待ってるんだ」
「……私は騎士だから、当然ここに残ることになるが」
「そうか。考えてみれば、ピステールともお別れだな」
「寂しくなるな、カヤセくん」
「じゃあ記念にそのパンをくれ」
「やらない」
「……冷たい奴だな」
「それとこれとは別だよ」
「ふっ……」
「ふっふっふっ……」
 二人は笑い合った。
 まあ、彼らは置いておいて。
「俺も村に帰るしかないけど……でも、イシェル。どうしてそんなこと訊くんだ?」
 とヤクト。
「……みなさん、私のことを知りたかったのではないんですか?」
「え……?」
「……いや、それはもういいよ、イシェルさん」
 とカヤセが言った。
「確かに気になるといえば気になるけど、イシェルさんがどんな人でも、関係ないからね」「そうだね。いやあ、カヤセくんも結構いいこと言うじゃないか」
 とピステール。
「ははは、まあな」
「君はすぐ調子に乗る。しかし、イシェルさんのことはともかく、私は今回の事件が起きた、そもそもの原因を知りたいな。あのファルクスというのは何だったのか。どうやって生まれたのか。……君の国がどうなっているのか知らないが、また似たようなことが起こって、儀牲者が出ないとも限らない」
「…………」
「それで、イシェルさんの方はどうするつもりなんだい?」
「私はヤクトさんと一緒に行きます。まだ、仕事は終わっていませんから」
「え……?」
 とカヤセとピステールはイシェルを見た。
「ファルクスを倒したんだから、もう終りなんじゃないの?」
「ああ、わかった。報告を終えるまでは終わっていないってことだね。さすが、真面目だな」
「……少し、違います」
「ん?」
「ヤクトさんの村の近くに、私の国につながる道があります。本来ならヤクトさんだけを連れていく予定でしたが、カヤセさんとピステールさんも協力してくれたことですし、来てみますか?」
「イシェルさんの国に?」
「入り口まで、になるかもしれませんが。私の上司の話を聞けると思います」
「いいのか、イシェル?」
 と不安そうにヤクトが言った。
 命令にないことをして、怒られないか心配なのだ。
「大丈夫ですよ。あまり細かいことまで命令されていませんから」
「ふ〜ん……まあ、俺は村に行くついでだし……」
「私も興味があるな。騎士の仕事もしばらくは休みにして、行くことにしよう」
「わかりました」
 こうして、彼らは食事の後、さっそく出発することにした。

  第十章

 一同は、来た道を覚えているというイシェルを先頭に、森の中を進んでいた。
「……しかし、すごい森だな」
 とピステールは呟いた。
「私だけでは迷ってしまいそうだ。君たち、よく来れたな」
「まあ……それは、イシェルがファルクスの反応を探ることができたおかげなんだけど」 とヤクトは苦笑しつつ言う。
「ふっふっふっ……俺は村の近くを歩いていたつもりが、迷って全然違う所へ行ってしまったことがあるぞ」
 カヤセが自慢気に言った。
「あのなあ、カヤセ……」
 ヤクトが呆れる。
「まあ、そのおかげでヤクトやイシェルさんや、ついでにピステールに会えたわけだから、少しは運がよかったのかな」
「……私はついでか?」
「ま、その辺りは気にしないように」
 ともかく、四人は森の中を進んでいく。
 そうして二日ほど過ぎた所で、
「カヤセさん」
 イシェルが振り向いて言った。
「もうすぐナカト村の辺りですが、寄らなくてもいいですね?」
「ん?」
 行ったところで、何もないはずだが……。
 いや、墓がある。大切な人の墓が。
 イシェルは気遣ってくれたのだろう。
「……ああ、いいよ。墓参りにはまだ早いしな」
「わかりました」
 カヤセがそう言うので村には寄らず、先に進むことにした。
 しばらくすると、ようやく川が見えてきた。
「少し休憩しようか」
 ヤクトの言葉に皆は賛成し、しばらく休むことになった。
 とりあえず、なくなった水の補給をしておく。
「う〜ん、何か少し前のことなのに、懐かしく感じるな」
 とカヤセが言った。
「この川の辺りで、初めてヤクトと会ったんだよな」
「そうだったな。カヤセは道に迷っていて……」
「ほほう。その辺のこと、詳しく聞きたいな」
「あ、ピステール。そういうこと言って、俺をからかうつもりだな?」
「さあ?」
 しかし、彼の顔は思い切り笑顔だ。
「教えなくていいぞ、ヤクト」
「ヤクトくん、ぜひ教えてくれ」
「いや、あの……」
 二人に詰め寄られ、彼は困っていた。

(ようやくここまできた)
 イシェルは軽く息を付いた。
 ふと、この世界に来る前のことを思い出してみる。
「ヤクトのサポートに付いて、彼にファルクスを倒させて。絶対に彼を死なせてはならないわ。そしてそれが終われば、彼を連れて井戸まで戻ってきて」
 それがアムセの出した命令だった。
 他にもラオスを捕らえてくるようにと言われたが、それはついでのような言い方だった。 考えてみれば、奇妙な命令である。
 何故他の世界の住人のことを調べて、その者を危険な目に合わせるのか。効率もかなり悪いはずなのに。
 それに、ラオスの言っていた言葉も気になる。
 彼をここへ送り込む手伝いをしたのは、大統領のガリエルだとか。
 それが真実だとするならば、一体どういうことなのか。
 上司が言わないことをハンターが訊いてはいけないのだが、疑問があって仕方がない。(一体、ヤクトさんに何をさせようというのだろう)
 命令とは関係のない者も連れているが、大丈夫だろうか。
 少し心配になってきた。
 危険がなければよいのだが。

 小高い丘に着いた。
 ここからだとラグナス村がよく見える。
「へえ……」
 とヤクトは目を見張った。
 ほとんどの家が壊れたというのに、もう新しいものがいくつか建てられようとしている。 堀っ建て小屋のようなものも多いが、何とかやっているようだ。
「ふ〜ん、ここがヤクトの村か。レムスとクスナは元気かな?」
 カヤセは爪先立ちをして、覗くようにしている。しかし、姿は見えない。
「う〜ん、残念」
「私も後で寄らせてもらうつもりだが、しかし、今はその井戸のところへ急ごう」
「そうだな」
 ピステールの言葉に、皆は頷いた。

「え……と、確か、この辺だったかな……」
 森の奥へ入り、ヤクトがきょろきょろと周囲を見回す。
 既にここは、危険のため立ち入り禁止となっているところだ。
「こっちです」
 イシェルは真っ直ぐに進んでいった。
「いやあ、イシェルさんは記憶力がいい。それに比べて、ヤクトは……」
 カヤセがにやにやしてヤクトを見る。
「う、うるさいな」
「まあ、仕方ないよ。こんな広い森、誰だって迷うさ。立ち入り禁止にするわけだ」
 とピステール。
「ありました」
 イシェルが言った。
「え?」
 とカヤセは一瞬、何だかわからない。
 しかし、彼女の視線を追うと、少し開けた場所があり、そこに井戸が見えた。
「……な、何あれ? 井戸があるだけだけど……。イシェルさんの国につながる道を探してたんじゃなかったのか……?」
 カヤセは首を傾げた。
「よし、行こう」
 ヤクトが進んだ。
「ほら、カヤセくん、行くよ。わからないことは考えるより直接見て答えを出そう」
 ピステールがカヤセの服の襟をつかむ。
「い、いてっ、離せよっ」
「はっはっはっ」
「笑ってごまかすなっ」
 ともかく、四人は井戸の前に立った。
 あの時のまま、蓋は取られてある。
「……あの、イシェルさん。質問があるんだけど……」
 とカヤセは言った。
「イシェルさんの国って、この中にあるの?」 井戸の中を指で差す。
「そうです」
 イシェルは答えた。
「ふ〜ん、そうか。この井戸の中にイシェルさんの国が…」
 うんうんと頷いていたカヤセだが、ふと思考を中断させた。
「って、ちょっと待ってよ。俺、冗談で言ったんだぜ? ……あ、そうか。イシェルさんも冗談を言ったのか。ははは、何だ、つい本気にしちゃったぜ……」
 と笑いながら彼女を見ると、どうも冗談を言っている様子ではない。いや、それ以前に、彼女は冗談を言わない。
「……あ、あれ?」
「カヤセ……」
 ヤクトはぽんと彼の肩を叩いた。
「信じられないだろうが、どうやら本当にこの中にあるらしい」
「……へ?」
 カヤセは眉を寄せた。
 理解できていない顔だ。
「ヤクトくん、どういうことだい?」
 ピステールが訊ねる。
「いや、俺も詳しくは知らないんだけど……」
 とヤクトはイシェルを見る。
 彼女は振り返り、
「みなさん、もうすぐ私の上司が来ますから」
「え? く、来るって、この井戸の中から?」
「はい」
 カヤセの問いに、イシェルは頷いた。
「……い、井戸の中から来るっていうと、幽霊を連想してしまうんだが……」
「まあ、落ち着いて」
 とヤクトが彼の背中を撫でる。
「ところで、上司って、やっぱりあのアムセっていう人かい?」
「はい。あ、来ました」
 イシェルが言うと、井戸の中から眩しい光があふれた。
 そしてその中から、ゆっくりと姿を現す。
 ヤクトが前に見たときと同じ、きらびやかな衣装を着けた長い髪の美女、アムセだ。
 光が消えると、彼女は言った。
「お帰りなさい、待ってたわよ。……あら、その二人は?」
 アムセは見知らぬ二人に目をやった。
 カヤセとピステールは、腰を抜かして驚いている。
「私が連れてきました。彼らにも協力してもらったものですから。すみません、勝手なことをして」
「……まあ、協力させたら駄目とは言わなかったからね。二人くらいならいいでしょう。それより、あなたたち、いつまで座っているのかしら?」
「あ……」
 カヤセが震える手で、彼女の足元を指差した。
「う、浮いてる……」
「え?」
 アムセは思わず自分の足を見た。
 確かに、井戸の中心、何もない所に立っているのだから、間違いなく浮いている。
 アムセは口元に手を当て、笑った。
「うふふふ、安心して。私は幽霊じゃないわよ」
「え?」
「私は、女神です」
 アムセはにっこり笑って言った。
「…………」
 カヤセは一瞬呆然としたが、いきなり立ち上がった。
「そ、そうだったのか! お会いできて光栄です! 女神様!」
「……あ、あら、信じたみたいね」
 アムセの方が驚いている。
「ということは、やっぱり嘘か」
 ヤクトがため息を付いて言った。
「君は前から信じていなかったみたいだけどね」
「え? ……何だ、嘘なのか」
 カヤセはがっくりする。
「あ、ごめんなさい。ちょっとした冗談のつもりだったんだのよ」
「ということは、じゃあ……やっぱり幽霊!?」
「カヤセ……ちょっと黙っててくれ。話が進まない」
 彼はヤクトに押し退けられた。
「アムセ、俺たちは全てのファルクスを倒したぞ!」
「そのようね。回収された死体を確認したわ。ありがとう」
「……そんな言葉で、犠牲者は返ってこないぞ」
「……そうね。私の方も、まだあなたに用事があるし」
「あの、アムセ様」
 イシェルが言った。
「ん? なあに?」
「ラオスを捕らえろということでしたが、彼はファルクスに食べられ、死にました。命令を果たすことができず、申し訳ありません」
「……そう、死んだのね。でもいいわ、彼のことは。それより」
 とアムセはヤクトを見つめた。
「あなたに来てほしいの。いえ、絶対に来てもらうわ。あなたに会いたいという人がいるから」
「……どういうことだ?」
「ヤクトくん、あなたお父さんの記憶ないわね?」
「!?」
 ヤクトは目を見開いた。
「何で、そのことを……」
 母からは、父はヤイカがお腹にいる時に死んだと聞かされている。その時ヤクトは一歳だったのだから、覚えがないのも当然なのだが……。
「来れば、それに関することがわかるわ」
「…………」
 どうする? とヤクトは考えた。
 確かに気になることではある。
 だが、安易に誘いに乗って平気なのだろうか。
 一抹の不安がよぎる。
 ふと、横目でイシェルを見てみた。
 だが、それに気付いたアムセがすかさず言う。
「イシェルに訊いても無駄よ。彼女は何も知らないわ」
「…………」
「いいじゃないか、行こう、ヤクトくん」
 ぽん、とピステールが彼の肩を叩いた。
「ピステール……」
「そうだぜ、ヤクト」
 とカヤセも言う。
「父親の手掛かりがあるんだろ? 行かないと一生後悔すると思うぜ」
「…………」
「行きましょう、ヤクトさん」
 イシェルが彼の顔を見詰めた。
「……わかった。行くよ」
 とヤクトは答えた。
 何が待っていようと、ここまで来たのだ。逃げ出すわけにはいかない。
「そう、よかったわ」
 とアムセは微笑んだ。
「まあ、例え嫌だと言っても、強引に連れていったけどね」
 その言い方に、ヤクトは何だかむっとして睨んだ。
「それより、カヤセとピステールも連れていっていいんだろうな?」
「……その二人には用はないんだけど、まあいいわ。それじゃ、さっそく井戸の側に来て」 アムセの指示により、ヤクトたちは井戸に近付いた。
「も、もしかして……この中に入るのか?」
 カヤセが不安そうに言う。
「そうよ」
 とアムセ。
「大丈夫、別に危険はないわ。ファルクスもここを通ってきたんだから」
「そいつらと一緒にしないでほしいけど……」
 カヤセがぶつぶつ言っていると、
「静かに、移動するわよ。眩しいから、目はつむった方がいいわ」
「え?」
 と、ヤクトたちが一瞬ぼうっとしていると、突然井戸の中から強い光があふれた。
「うわっ!」
 思わず目をつむる。だが、それでも目の奥に光が残っているようだ。
 そして、やがて光が和らいでくると、ヤクトは何か異質な空気を感じた。
 目が開けられるようになってくる。
「何だ、ここは……!?」
 ヤクトは驚き、周囲を見回した。
 どこかの広い部屋らしいことはわかった。
 継ぎ目のない綺麗な平面が続いていて、壁には何か白い光沢がある。
 窓はないが、その代わりに天井が発光していて、明るさには不自由していない。
「こ、ここがイシェルさんの国か?」
「あの一瞬で、移動を?」
 カヤセとピステールも呆然としている。
「そうよ。すごいでしょ?」
 急に部屋のドアが開いて、一人の女姓が入ってきた。彼女が中に入ると、ドアは勝手に閉まる。
 ドアにも女性にも驚いて、三人は目を丸くした。
 背中まである髪、薄い水色のブラウスに、ミニスカート。
 ヤクトたちからすれば太ももが見えるだけで大胆な格好だが、それより、顔とその声には覚えがあった。
「アムセ……か……?」
「そうよ。見てわからない?」
 彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。
「ど、どういうことなんだ?」
 井戸の上に立っていた時とは、服も髪の長さも違う。
「あれは、立体映像よ。容姿も服も、自在に変えることができるわ。管理人の私が直接行くわけにはいかないからね」
「は……?」
 ヤクトたちはぽかんと口を開けた。
「アムセ様」
 とイシェルが言う。
「……そうだったわね。面倒だわ、文化が違うって」
 アムセは軽くため息を付き、
「ともかく、あれは私であって私じゃないの。でもそんなことどうでもいいわ。ヤクトくんに会いたいという人はもう来ているのよ。今は部屋の外でコーヒーを飲んでいるけど」
「……誰なんだ、そいつは? 俺にどんな用があるっていうんだ?」
「私も詳しくは聞いていないわ。ま、とにかく入ってもらいましょう。もう飲み終わったでしょうから」
 彼女の言葉が終わるのと同時に、ドアが開かれた。
 現れたのは、スーツを来た長身で痩せ気味の男だ。年齢は四十代前半くらい。
「ガリエル、こちらがヤクトくんよ」
 とアムセが紹介した。
「……なるほど、お前か」
 男は顎に手を当て、言った。
「どうやら私にはあまり似なかったようだな」
「何……?」
「ふふ、そう睨むな。感動の親子の対面ではないか」
「……お、親子……? えっ……?」
 ヤクトは自分の頭の中が混乱するのがわかった。
 戸惑っている彼らに、アムセが説明した。
「ヤクトくん、この人の名はガリエルといって、あなたの父親よ。今は大統領をしているわ」
 だが、彼らには大統領制がわからないと気付き、すぐに言い直す。
「要するに、この世界で一番偉い人なの」
 しかし、そんなことはヤクトにはどうでもいいことだ。
「何で……あんたが俺の父さんなんだ!?」
「そ、そうだぜ! ヤクトとは全然住んでる所が違うじゃないか!」
 興奮して言うカヤセを、ガリエルは睨み付けた。
「……馬鹿か、お前は? それならそこに行けばすむことだろうが。それから、せっかく来たのに悪いが、お前には関係ないことだ。黙っていてもらおう」
「くっ……」
 カヤセは悔しそうに唇を噛む。
「さて、ヤクト。いきなり父親と言われても信じられないだろうから、説明してやろう」「私も興味あるわ。聞いていてもいいんでしょう?」
「ああ」
 とアムセに答えて、ガリエルは話し始めた。
「今から二十年前になるな。その時の私は、調査員という仕事をしていた。私は新人だったからな、こんな誰でもできる仕事を任されたわけだ。そして、調査の対象はお前たちのいる世界になった」
「何!? そんなことを調べて、どうしようというんだ!?」
 とヤクトが問う。
(まさか)
 イシェルにはそれが何かわかった。
(アムセ様は知っていて……?)
 ちらり、と彼女を見てみる。
 アムセはかすかに笑みを浮かべていた。
「お前たちには想像できんだろうが、我々の住むこの世界では、科学が発達し、人間が爆発的に増加している。そうなると、当然食料や住む所がなくなり、この星だけではあふれてしまうわけだ。だから付近の人の住めそうな星を探したが、それはほんのわずかでしかない。そこで考え、作り出されたのが、次元転送機、お前たちも使ったこの部屋というわけだ」
「こ、この部屋……!?」
 ヤクトたちは周りを見回した。
 どう見ても、そんな大それたものがあるような部屋には見えない。
 いや、今まで気付かなかったが、よく見ると、この部屋には何もない。
 ただ、部屋があるだけなのである。
「つまりね」
 とアムセが言った。
「この部屋に入ったものは、何でも送ることができるわけよ。例えばファルクスとかね。まあ、移動できる場所は、空間の歪みが生じた所っていう制限はあるんだけど」
「そう。これを使えば、どんなに遠くの星でも行くことができる。転送機はここ以外にも設置はできるから、大きな機材を運ぶこともできる。もうわかったか?」
 とガリエルは訊いた。
「…………」
 ヤクトは黙っている。
「……まあいい、答えを言ってやろう。我々は、転送機を使った移住を行っている。そして、いくつかある移住予定地には、お前たちの住む世界も入っている」
「何いっ!?」
 これはヤクトたちにも理解できた。
「俺たちの世界を乗っ取るつもりか!?」
 思わずピステールが怒鳴った。
「ふっ……」
 とガリエルは笑みを浮かべる。
「……アムセ様は知っていたのですか?」
 イシェルが訊いた。
「ええ。でも、いいじゃない。私たちの技術があれば、未発達な文化しか持たない彼らには、いいことだらけだわ」
「いや、そうでもないな」
「……え?」
 ガリエルの言葉が、アムセには何のことかっわからなかった。
「あの地には、良質の資源が豊富にある。だからお前たちの代わりに、我々が有効利用してやろうというのだ」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ」
 さすがにアムセは驚いた。
「それじゃあ、本当に乗っ取るみたいじゃないのっ。私、そんなこと聞いてないわよっ」「……アムセ。我々には資源がもうないと同じ状態なんだ。まだ決定事項ではないが、ほぼ決まりだろう」
「な、何言ってるのよ? そこに住んでいる人たちはどうするつもり?」
「邪魔だから、消えてもらう」
「なっ……! 何てこと……!」
 アムセは拳を震わせた。
 彼女が望んでいるのは、平和的共存である。
 自分たちの都合で、そこに住む人を消すなど、許せないと思った。
 その手を、イシェルがそっと近付き、そっと包んだ。
「イシェル……?」
「…………」
 彼女は無言でいるが、アムセにはその気持ちがわかった。
 今は押さえろということだろう。
(仕方ないわね……)
 アムセは拳を引っ込めた。
「とにかく、そういうわけだ」
 とガリエル。
「お前たちの住む世界は、我々が使わせてもらう」
「な……何勝手なこと言ってやがるっ!」
 カヤセは怒りのあまり顔を引きつらせている。
 ガリエルは彼をあっさり無視して、
「……と、そうそう。私が父親だという説明を飛ばしてしまったな。私は調査をしていたんだ。似たような環境であっても、生物の体質の違いがあったり、我々の知らない有害物質があったりするからな。以前にそれで死んだをいう例もある。で、その際に私は一人の女に会ったんだ。なかなかの美女だったんで、口説いてみたらすぐに落ちた。しかし、私も仕事がある。だから帰る時に記憶操作して、私は死んだことにしてもらった。後で調べたところ、子が生まれたらしいとわかった。それがお前だな、ヤクト。父親のことを訊いたことはあるだろう? 何て答えた?」
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」
 と戸惑うヤクト。
「確かに、母さんに訊いてもまともに答えてくれたことはなかったけど……俺には妹がいるんだ。ファルクスに殺されたけど……」
「……そうか。だが、妹など知らんな。他に父親がいたんじゃないのか? 今いないということは、死んだか?」
「…………」
 黙り込むヤクトを見て、ガリエルはふっと笑った。
「まあ、今更どうでもいいことだな。私も今は妻子もある身だ」
「……一つ訊きたい。何で俺にファルクスを倒させたんだ? ラオスが、俺たち三人でやるより、ハンター一人の方が効率がいいって言っていたぞ」
「ラオスか……。おい、イシェル」
「はい」
「あいつ、他に何か言っていなかったか? 構わんから、正直に話せ」
「はい……」
 ガリエルに言われ、イシェルはその時のことを思い出してみる。
 あれは確か、アスランの町を襲おうとするファルクスと、戦った時だったか。
「彼は言っていました。自分を向こうへ送る手伝いをしたのは、ガリエル様だと……」
「何ですって!?」
 思わずアムセは声を上げた。
「本当なの、ガリエル!?」
「ああ、本当だ」
 とガリエルは言った。
「どうして、そんなことを……」
 アムセは驚くばかりだ。
「イシェル、こっちに来い」
「はい」
 近付くイシェルに、ガリエルはふと違和感を感じた。
「……ん? お前、その耳飾りは……」
 手を伸ばし、それに触れてみる。
「ふっ……誰かにプレゼントされたのか? 誰だ?」
「ヤクトさんです」
「……ヤクト……?」
 ガリエルはおかしそうに吹き出し、ヤクトを見た。
「はははは、お前、まさかこんな奴に惚れたのか? こいつは人間の玩具として作られた生命体だぞ」
「えっ……?」
 ヤクトたちは一瞬、呆然となった。

  第十一章

「……玩具として、作られた……?」
 恐る恐る、ヤクトは聞き返した。
 心臓が高鳴っているのが、自分でもわかった。
「何だ、聞いていなかったのか?」
 とガリエルはおかしそうに言う。
「お前たちも少しは見たんじゃないのか? こいつの能力を。普通の人間に、あんなことができるわけないだろう」
「しかし、彼女はハンターなら誰でもできることだと……」
「だから」
 とガリエルは諭すように言った。
「ハンター全員が、人工的に作られた存在なんだよ。当然、母もいなければ父もいない。玩具として作られたから、一部の人工人間、つまりハンターに、ファルクスを倒せる力を持たせ、観賞して楽しんだというわけだ。今では飽きられたがな」
「そんな……」
 ヤクトは愕然とした。
「ハンターがいるのは、ファルクスに殺されないためじゃなかったのか?」
「……いつの話だ? あんな化け物、今時驚異でも何でもない。いかにハンターに派手に殺されるかに価値があるだけの玩具だぞ」
「…………」
 ヤクトは息を呑んだ。
 科学というものは、生命まで作り出せてしまうのか。それに、ファルクスを倒すのも被害を防ぐためではなく、娯楽に過ぎないとは。
「本当なのか、イシェル?」
 と彼女に訊いてみる。
「本当です」
 とイシェルは答えた。
 何だか悲しそうに見える。
「嘘だろ……」
「信じられん……」
 カヤセとピステールも、呆然としたままだ。
「そう。つまり、こいつらは人間の欲を満たすための奴隷に過ぎない。そして人間に服従するよう遺伝子状態から教育し、さらに万が一のため、脳に機械を埋め込んである。逆らおうと考えると、激しい痛みが起きるよう信号を出させるものだ」
 ガリエルは自分の頭を指でつつきながら説明した。
「ま、そのせいもあってか、感情を出すことができなくなったようだが」
「……あんた、生命を何だと思ってるんだ……。そんな、無理やり服従させるなんて……」 ヤクトは低い声を出してガリエルを睨んだ。
 怒りがふつふつと込み上げてくる。
 カヤセとピステールも、同じ気持ちだった。
「おいおい、何も私が始めたわけじゃない。もう何十年も昔からのことなんだ」
 さも当然のように言う。
「……そんな昔から……」
 ますます許せないと思った。
 ガリエルを殴ってやりたい衝動を我慢しながら、ヤクトは訊ねた。
「あ、あともう一つ、ラオスが言っていたんだが……ファルクスは人間の勝手で生まれたって、元は普通の動物だったって……どういうことだ?」
「ほう……。あいつ、そんなことを言っていたのか。確かに勝手かもしれんが、仕方のないことだ」
「……仕方のない……?」
「そう。原因は科学汚染とかだったかな。実験の失敗やら、廃棄物やらのせいらしい。これも人間の発展のためだ。それに人間には何の影響もないから、たいした問題でもあるまい」
「なっ……何言ってやがる!」
 ヤクトは思わず怒鳴った。
「はっきり言ってよく意味はわからなかったけど、人間さえよければ他はどうでもいいなんて、本当に勝手すぎる! 動物だって生きてんだ!」
「ふん、お前もラオスと同じ考えか」
 ガリエルはつまらなそうに言った。
「ね、ねえ、ガリエル」
 とアムセが声をかけた。
「ん?」
「私知らなかったんだけど、どうしてラオスを逃がす手伝いをしたの?」
「……わからんのか?」
 ガリエルはあきれたように言う。
「え、ええ」
 答えが聞きたいので、彼女はそう答えた。
「全く……。いいか? 移住の際にその地の人間を消すのはいいが、それには金と手間がかかる。だからファルクスに殺させようと思ったんだ。どうせファルクスも消さないといけないところだったから、丁度いいだろう」
「……そう」
 アムスは小さく微笑んだ。
(やっぱりこういう人間だったのね……)
 今まで気付かなかったことが恥ずかしく思える。
「さて、ヤクト。お前をここへ呼んだわけを教えてやろうか?」
 そう言いながら、ガリエルは手を伸ばし、イシェルの耳に触れた。そして耳飾りを外す。「!?」
 イシェルは「返して」と言いたかったが、抵抗はできない。
「な、何のつもりだ!?」
 ヤクトが叫ぶ。
 彼の父親だという男は、笑みを浮かべて、耳飾りをもてあそんでいる。
「私がお前にファルクスを倒させたのは、お前の能力がどの程度のものか、調べるためだ」「何……?」
「お前のいた世界の人間は全て消す予定だが、お前は私の子でもある。場合によっては特別に生かしておいてやろうと思ってな」
「……それは俺だけ、か?」
「当然だ。他の者に用はない」
「……なら」
 ヤクトは腰に差してあった短剣を構えた。
 あいにく弓は持っていない。
「俺は、お前を殺す。父親だろうが何だろうが関係ない。お前たちの勝手で、俺たちの大事なものを消されてたまるか!」
「よく言ったぜ、ヤクト!」
 カヤセが肩を叩いた。
「そうだな。せっかく会えたのに悪いが、こんな奴は父親失格……いや、人間として失格だ」
 ピステールも剣を鞘から抜いて構えた。
「ふん、せっかく思い出してやったというのに」
 ガリエルは耳飾りを床に放り捨てた。
「あっ……」
「……まあいい。お前を生かしてやろうと思ったのはついでに過ぎないからな。本来の目的であるデータ収集は十分にできた。あそこは子供の成長にも、移住にも何の問題もない」 にやり、とガリエルはいやらしく笑う。
「近々、準備に取り掛からないとな」
「てめえっ!」
 カヤセが拳を握る。ここに槍があれば、すぐにでも突っ込んでいくのだが。
「私を殺したところで、問題は解決はせんぞ」
 やれやれ、というように、ガリエルはため息を付いた。
「まあ、やりたいようにやるがいい」
 そして殺気だっているヤクトたちを横目で見ながら、彼はイシェルに言った。
「お前に命令する。あの三人を始末しろ」
「なっ……!?」
 思わずヤクトたちは声を上げる。
(ガリエル……そこまでするか?)
 とアムセは不快そうに眉をひそめた。
 耳飾りをもらうくらいだから、少しは交流があっただろうに。
 人工生命体とはいえ、まるきり感情がないわけではないことをアムセは知っている。
 その彼らを殺すよう命令するなど、残酷というか、悪趣味というか。
 人間として、許せないものがある。
「ちょっと、ガリエル……」
 見兼ねて、止めようと思ったアムセだが、それより早く、
「わかりました」
 とイシェルは答えてしまった。

「嘘だろ……」
 ヤクトは呆然とイシェルを見詰めていた。
 彼女はこちらに視線を向けている。
「や、やめてくれよ、イシェルさん!」
 カヤセの叫びも、むなしく響くのみだ。
「くそっ……命令には逆らえないっていうのか……」
 ピステールが唇を噛む。
「ふふふ……さて、どうする? お前たちはこいつのことを気に入っているようだしな」 腕を組み、ガリエルは見物気分である。
「言っておくが、こいつは対ファルクス用の武器が使えなくても、十分に強いぞ。たったのパンチ一発で、お前たちを殺すことも簡単にできる」
「くっ……」
 確かにその通りだった。彼女の圧倒的なパワーとスピードは、何度も見てきている。
 しん、と静まる部屋の中、突然靴音が響いた。アムセが彼らの間に入ってくる。
「ん? 何のつもりだ?」
「…………」
 ガリエルの問いには答えず、アムセは床に落ちた耳飾りを拾い、彼に言った。
「ガリエル、もうやめてよ。イシェルもヤクトくんたちも、かわいそうじゃない」
「かわいそう……? 何を言ってるんだ、お前は?」
 ガリエルは不思議そうに首を傾げた。
「こんな奴ら相手に、そんなことを思う価値もないだろう」
「……!」
 思い切り、むかっときた。
「くだらんことを考えていないで、そこをどいてろ」
「…………」
 アムセはその場を動かなかった。
「……ったく、逆らいおって……。構わん、いけ、イシェル」
「はい……」
 イシェルは歩を進める。
「やめなさい、イシェル! そんな命令聞くことないのよ!」
「うっ……」
 一瞬、彼女は苦しそうに顔をしかめる。
「イシェル!」
 だが、アムセの呼び掛けでも止めることはできなかった。直接の主人である彼女よりも、大統領の命令の方が優先されるのだ。
 イシェルはヤクトたちの方へ、ゆっくりと歩いていく。
「く、くそっ」
「やるしかないのか……」
 カヤセは拳を、ピステールは剣を、それぞれ構える。
「待ってくれ、二人とも!」
 ヤクトが彼らの前に立って制した。
「ヤクト……」
「……気持ちはわかるが、このままでは俺たちが殺されてしまうんだぞ」
「俺が……説得してみせる!」
 彼は決意に満ちた顔で言った。
「え?」
「ヤクトくん……」
 彼はイシェルの前に立った。
 イシェルも彼の前で止まる。
「はははは、外見だけでなく、頭まで私に似なかったようだな、ヤクト」
 ガリエルが笑った。
「説得などできるか。先程も言っただろう。そいつは命令に逆らうことができないんだ」「……イシェル」
 ヤクトはイシェルの目を見詰めた。
「本当に、俺を殺すのか?」
「…………」
 イシェルは表情を変えない。
「……俺は!」
 がしっ、と彼女の肩をつかみ、ヤクトは顔を近付けて叫んだ。
「お前が好きなんだ! ずっと一緒にいたいと思ってる!」
「……!」
 びくん、とイシェルの体が痙攣した。
「イシェル!」
 ヤクトは彼女を抱き締めた。
「お前が作られた人間であるとか、関係ないよ。一緒に旅してきて、お前のいい所をたくさん見付けた。一瞬見せた笑顔がかわいいと思った。イシェル……俺のこと、嫌いじゃないだろ?」
「わ、私…………う、うぐっ!」
 イシェルはヤクトにしがみつき、苦しげに呻いた。
「イシェル!?」
 ヤクトははっとした。
(そうか、命令に逆らおうとしているんだ)
 この苦しみ方は、ファルクスと戦った時に一度見たことがある。
「イシェル、しっかりしろ! 君は人形じゃないだろ!?」
「ヤクトさん……」
 イシェルは顔をしかめながら、ヤクトの顔を見上げた。
「大丈夫……耐えてみせます……。私も、ヤクトさんと、一緒にいたいから……」
 彼女はかすかに微笑んだ。
「イ……、イシェル!」
 ヤクトは彼女を強く抱き締めた。
「や……やったぜっ!」
 カヤセが興奮して叫んだ。
「くぅ〜っ! うまいことやりやがって!」
「はははは! 愛の勝利だよ、カヤセくん!」
 ピステールがカヤセに抱き付いた。
「げっ! おい、やめろよ!」
 とにかく、彼らは笑顔で喜び合った
「やれやれ、何か悔しいな」
 アムセが笑顔でため息を付く。
「私もイシェルのことかわいがってたのに、連れていかれちゃうのね」
 親の心境がわかる気がした。
 しかし、そんな浮かれた雰囲気が許せないのは、ガリエルである。
「何をしている、イシェル! 私はヤクトを殺せと命じたんだぞ! 誰がくだらんラブロマンスをやれと言った!」
 彼はすっかり頭に血が上ってしまっていた。
「ちっ……まだあいつが残ってたか……」
 カヤセが舌打ちする。
「……ガリエル、もういいじゃない」
 アムセが彼の前に立ち塞がった。
「な、何?」
「もうやめてよ。ヤクトくんたちは向こうで幸せに暮らしているの。それを壊す権利は私たちにはないわ」
「……そうはいかんのだ」
 ガリエルは言った。
「人間があふれ、ここはパンク寸前だ。早急に移住できる世界を探さなくてはならない」「……だったら、まだ人が住んでいない所にすればいいじゃないの」
「それが見付からんから、私は言っているのだ!」
「探せばいいじゃない!」
「探した! だが人の住める所など限られているし、あっても我らの体質に合わない! しかしヤクトの所は全ての条件を満たしているんだ!」
「……探し足りないのよ」
 アムセは言った。
「見付かるまで、探すしかないでしょう。他人の死体の上で暮らすなんて、少なくとも私はごめんだわ」
「……ったく、頑固者め」
「それはお互い様でしょ」
「……ふん」
 ガリエルは顔を背けた。
「さて……あなたたち、そろそろ元の世界へ返してあげるわ」
 アムセがヤクトたちに近付いてきた。
「え? ……いや、しかし……」
 ヤクトはちらり、とガリエルを見る。
「ああ、いいのよ。私が何とか説得してみせるから」
「……今日はアムセに免じて見逃してやるが、私は諦めたわけではないからな」
「ガリエル、ちょっと黙ってて」
 アムセは振り返って彼を睨むと、ヤクトたちに言った。
「彼もね、責任ある立場として焦ってたのよ。まあ、許してほしいとは言わないけど、ほんの少しでいいから、わかってあげて」
 そして皆の頭を撫でていく。
「残念だけど、もうお別れね。ヤクトくん、イシェルはもう大丈夫だから、よろしく頼むわね」
「だ、大丈夫って……」
「もう痛みはないでしょ、イシェル?」
「え? は、はい……」
 と彼女は自分の体を見下ろしてみる。
 引き裂かれるような痛みは、いつの間にか消えていた。
「それじゃ、元気でやるのよ」
 アムセは彼女の頬にキスをした。
「アムセ様……」
「バイバイ」
 彼女は手を振り、ガリエルを連れて部屋の外へ出ていった。
「な、何なんだろう、あの人は……」
「よくわからない人だな……」
 カヤセとピステールが呟く。
「イシェル……」
 ヤクトは彼女の肩を抱き寄せた。
「俺たち、もう大丈夫なんだよな。平和な世界で、一緒に暮らせるんだよな」
「はい……」
 イシェルは微笑んだ。
「あ、今の笑顔、すっごくかわいい」
 とカヤセが驚き、感心する。
 イシェルは顔を赤くし、うつむいた。
「おお、今度は照れた」
「急に表情が増えたな」
 カヤセとピステールがじろじろとイシェルを見る。
「お、おい、やめろよ」
 とヤクトが彼女を二人の視線から隠した。
「ヤクトも急に積極的になったな」
 カヤセがにやにや笑ってからかう。
「あのなあ、いい加減に……」
 とヤクトが言いかけた時、部屋全体が発光し、視界が真っ白になった。
「うわっ……」
 と声を上げる間もなく、体がふわっと浮き上がる感覚になる。
 そして、再び周囲が見えるようになると、そこは森の中だった。
 目の前に井戸がある。
「……戻ってきたのか……?」
 ヤクトが呟くと、
「はい」
 とすぐ下から声がした。
「イっ、イシェルっ……?」
 ヤクトの声が裏返った。
 彼はイシェルの上になって、抱き付いていたのだ。しかもしっかりと。
 二人の視線が合う。
「イ、イシェル……」
 ヤクトはつい意識してしまった。
 考えてみれば、随分大胆なことをしたものである。皆の前で、彼女に好きだと言ってしまったのだから。
 心臓がどきどきしてくる。
 イシェルも視線を外さない。
「あ、あの……」
「おいおい、いつまで見詰め合ってんだよ」
 いきなりカヤセに突き飛ばされた。
「な、何をする」
「はっはっはっ、いいじゃないか。それより、無事に戻って来れたんだ。もっと喜ぼうぜ」「そうだな。とりあえず、私たちは助かったんだから」
 とピステールがカヤセに抱き付く。
「げっ! 何でピステールはいつも俺に抱き付くんだ! そういう趣味なのか!?」
「仕方ないだろう。ヤクトとイシェルさんに抱き付くわけにはいかないから、残り物で我慢するしか……」
「あのなあ!」
 と二人が言い合う中、ヤクトが訊ねた。
「……なあ、イシェル。前にアムセが言ってたけど、井戸に蓋をしなくても大丈夫なのかな? 俺があれを取ったせいで、ファルクスがこっちへ来たんだろう?」
「あ、いえ……あれはアムセ様の嘘です」
「えっ……う、嘘?」
「はい。あなたの責任ということにすれば、断れないだろうと。……ごめんなさい」
「い、いや、いいんだ。もうすんだことだし……」
 イシェルにも会えたことだし。
 と心の中で呟く。
「じゃあ、井戸はこのままでいいんだな?」
「はい。後は、アムセ様がガリエル様を説得することを信じましょう」
「ああ。じゃあ、二人とも」
 とカヤセとピステールに呼び掛ける。
 二人が振り向いた。
「行こうか、俺の村に」
「おう」
 と二人は元気良く手を突き上げた。
 そして、ヤクトはさりげなくイシェルの手をつないだ。
 すぐにカヤセにからかわれたが、手は離さなかった。

 それから、一週間が過ぎた。
 ラグナス村では、死者を埋葬した後、皆で壊れた家を直していた。
 ピステールも数日は手伝っていたが、騎士の仕事もあるので、また来ると言って、アスランの町へ帰って行った。
 カヤセはここに住むことを皆に許され、一緒に家を直している。
 ここに預けられたレムスとクスナの兄妹には、前以上に懐かれて、一日中べったりだった。
「なあ……二人も乗っかられると、重いんだけど……」
 前にクスナ、後ろにレムスが、落ちないよう見事にしがみついている。
 通り掛かる人には、暖かい視線で見られていた。
「あたし、レンちゃんの代わりに、カヤセくんのお嫁さんになるの!」
「僕は愛人になるんだ!」
 二人が目を輝かせて言う。
「……あのなあ……。特にレムス、お前男だろうが……」
 呆れ顔のカヤセだが、別に悪い気分ではない。
「やれやれ……ん?」
 いつの間にか、目の前に一人の少女がいた。
 初めて見る顔である。おとなしそうで、結構かわいい。
「カヤセさん……ですよね? 子供に人気あるんですね」
「え? ……ま、まあね」
「村を襲った化け物をヤクトさんたちと倒したんですってね。すごいわ」
「い、いやあ、そんな。ところで君の名は?」
 レンという名前だったらどうしようと思いながら、カヤセは訊いてみた。
「私、ルルといいます。これからもよろしくお願いしますね」
 彼女は手を振り、去って行った。
「う、う〜む。レンには及ばないが、結構かわいいな……」
 彼女の後ろ姿をぼーっと見ていると、両方の頬をつねられてしまった。
「カヤセくんは、あたしと結婚するの!」
「僕以外に、浮気しないでよ!」
「い、痛い……」
 顔が変形してしまう。
「言っておくけど、俺はレン一筋なんだからな……」
 だが、二人は同時にカヤセの頬にキスをした。彼の話など聞いていないようだ。
(……まあいいか。楽しいし……)
 それにしても、羨ましいのはヤクトである。
(イシェルさんとうまくやってるみたいだしな……)
 さて、そのヤクトはというと、家で料理をする母親と話していた。
「ヤクトも、案外隅に置けないね。目が覚めた時、旅に出たって聞いて、ヤイカに続いてヤクトまで……って気が気じゃなかったけど、こんないい子を見付けてくるなんて。いずれは結婚するんでしょ?」
「か、母さん……」
 ヤクトは照れている。
 料理を手伝うイシェルも、照れてうつむいた。
「美人で働き者で、よく気も利くし、私はもう言うことないね。ほら、ここはいいから、二人でカヤセくんたち呼んできてよ。もう料理はできるから」
「え……?」
「気を利かせてるんだよ。早く行ってきな」
「あ、ああ。行こう、イシェル」
「はい」
 二人は家を出た。
「は、はは、母さんも変な気を利かせるんだから」
 ヤクトは照れ笑いを向けた。
 イシェルは黙って微笑んでいる。
「でも、やっぱり訊けないな、母さんには。ヤイカの父親は誰だったのかなんて」
「気になりますか?」
「そりゃあ、ね。でもいいさ。母さんも結構かわいそうな目にあってるんだ。思い出させるのも悪いし」
 と気の利かない自分に苦笑する。
「……それはそうと、あれからアムセはどうしたのかな。井戸にも全然反応がないけど、うまくガリエルを説得できたのかな」
「きっとそうですよ」
「うん。でもイシェル……」
 ヤクトは彼女の顔を見詰めた。
「本当に、表情が増えたよな」
「私も、何だか変な気分です。今まで心にあった感情が、素直に出せるんですから」
「ははは、いいことだよ」
 と彼女の頭を優しく撫でる。
「イシェル……これからも、ずっと一緒にいような」
「はい……」
「お、お〜い……」
 いい雰囲気の二人に、呼吸の荒い、呻いた声がかけられた。
「カ、カヤセ……何してんだ?」
 レムスとクスナに前後に抱き付かれたまま、ゆっくりと歩いてくる。
「あっ」
 カヤセはつまずき、転んでしまった。
「ぎゃっ」
 レムスが地面に落ち、クスナが下敷きになる。二人は泣き出した。
「うわあ〜んっ!」
「痛いよお〜っ!」
「俺も痛いーっ!」
 と、これはカヤセ。
「……何やってんだか……」
 ヤクトは頭を抱えた。
「大丈夫ですか?」
 とイシェルが助けに行く。
「こら、ヤクトも助けに来い!」
 カヤセが文句を言う。
「へいへい……」
 と肩をすくめつつも、ヤクトは微笑んでいた。
「何か、毎日が楽しいな……」
「おい、ひとが痛がってるのに、何笑ってんだ!」
 カヤセがわめいている。
「……ったく、文句の多い奴……」
 ヤクトは笑顔で彼の所へ行った。

 終。

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