第一章

 ヒュンッ!
 風を切る音。
 青年の放った矢は、見事正面の細い木に突き刺さった。
「ったく、ついてないな……」
 彼は刺さった矢を抜きながら、ぶつぶつと呟いた。
「こんなに絶好調だっていうのに、肝心の獲物がいない……」
 季節は秋。いつもならこの森は、食料を探す動物たちが何匹もいて、しばらく歩いていれば見付かるのだが……。
「まいったね。一体どこに消えたんだか……」
 青年はぼりぼりと頭を掻いた。

 彼の名はヤクト。年は十九。背はあまり高くないが、顔は整っており、やや長めの髪は後ろで結んでいる。
 一人で狩りをするようになってまだ日は浅いが、腕は確かだ。誰もが認めている。
 彼の住むラグナス村では、何日かに一度、若い男たちが数組に分かれて狩りをする。腕の立つ者はやり方を教えるために少年と組むか、単独で行うことが多い。
 ヤクトは単独でする方を選んでいた。他人に教えるのは苦手だ、と言って断っているのだが、本当はただ面倒なだけだった。
「……仕方ない。もう少し奥の方へ行ってみるかな」
 ヤクトは普段は行くことのない、森の奥へ進んでみることにした。
 この森は深くて広大だ。食料となる動植物が豊富にあるが、霧が発生しやすく、たまに狩りに出て迷ってしまう者もいる。だから村では狩りの範囲を決め、ここより先に行くことを禁止していた。
「だけど、いないんじゃ仕方ないよな」
 ヤクトは少し緊張して、奥へと歩き出した。紅葉した木々の葉は綺麗だが、鳥の声さえ聞こえてこない静かな森の中では、かえって不気味な気がしてくる。
「……何怖がってんだよ。しっかりしろよな、このくらいで」
 ヤクトは気持ちをまぎらわすため、口に出して自分を叱咤した。ときどき迷わないように、ナイフで木に印を付けていく。
「……しかし……本当にどうなってるんだ……? これだけ探して一匹も見つからないとは……」
 疑問に思いながらしばらく先へ進んで行くと、少し開けた場所があり、古びた井戸があった。といってもそれには蓋がしてあり、水を引き上げるための道具もない。おかしな井戸である。
「何でこんなところに井戸が……?」
昔ここに村があったのだろうか。そんな話は聞いたことがないが……。
 ヤクトは警戒しながら蓋を開けてみた。
 ゆっくりと中を覗いてみると、どうやら水はあるようだった。
「……しかし、これじゃ飲めないな……」
 喉が乾いてきたのだが、まさか飛び込むわけにはいかない。
「あきらめるか……」
 ヤクトは名残惜しそうに水を見ていたが、突然ヤクトの周囲がバチバチッと放電した。
「なっ、何だ?」
 驚いていると、今度はドンッ! という激しい地響きが起きた。
「うわっ!」
 慌てて井戸につかまるヤクト。そのとき覗いた井戸の中は、水がなくなっており、代わりに闇が発生していた。そしてその中から、何かがすごい勢いで飛び出してくる。
「くっ!」
 体を引っ込め、尻餅を付く。
 井戸から飛び出してきたのは、奇怪な姿をした獣――いや、化け物だった。後から後から湧いてきて、ざっと三十匹が地上と空とに集まっている。
(い、い、一体何なんだ、これは!?)
 ヤクトは驚愕のあまり声も出ない。
 そして最後に、翼のある黒い馬に乗った男が出てきた。他と違って、この馬だけは美しい姿をしている。
 男は見慣れない服装をしていた。年齢は二十代後半くらいだろう。髪は短めで、目付きが鋭い。
 男はヤクトに気付くとほくそ笑み、化け物たちに「行くぞ」と号令をかけた。彼らはそのままどこかに向かい、姿を消してしまった。
 ヤクトは呆然としていた。
「い、今のは一体……?」
 腰が抜けたらしく、まだ立てないでいる。
「も、もしかして俺、とんでもないことをしたんじゃ……」
 封印していた化け物を解き放ってしまい、世界中の人々がそいつらに苦しめられるという物語は、いくつか聞いたことがある。
「冗談じゃない……!」
 何とかしなくては。
 だが情けないことに、まだ立てなかった。
「くそ……!」
 と、そのとき。
 井戸の底から光が溢れ始めた。
「なっ……まさか、まだ!?」
 ヤクトが顔を引きつらせる。
 だが中から出てきたものを見て、
「えっ……?」
 彼はぽかんと口を開けていた。
 井戸から光と共に現れたのは、きらびやかな衣装を着た、繊細な美しさを持つ女だった。艶のある髪は足元まである。
 ヤクトが戸惑うのも無理はない。化け物が出て来たと思ったら、今度は美女の登場だ。戸惑うなという方が無理である。それでも、彼は何とか声を出した。
「あ、あんた、何者だ!」
 その女はヤクトの方を向くと、ゆっくりと口を開いた。
「私の名はアムセ。この井戸の女神です」
「め、女神って……」
 いきなりそんなことを言われても、普段なら絶対信じないだろう。だが、状況が状況である。何が起きてもおかしくはない。
「め、女神なら、さっき出てきた化け物のことも知っているだろう! あれは何なんだ!」
「……その前に、あなたの名を教えていただけますか」
彼女は静かな口調で言った。
「は?」
「名を教えてください」
「……お、俺はヤクトだ」
乱暴な言い方をして、怒らせてしまったのだろうか。少し不安になりながら、ヤクトは答えた。
「そうですか。ではヤクト。あなたに頼みがあります」
「な、何だよ、いきなり……」
「あなたの見たあの化け物を全て殺し、そして化け物たちを指揮していた男を、捕らえてほしいのです」
「ちょっ、ちょっと待てっ!」
 ヤクトは慌てた。
「何だよ、それは! どうしてそんなこと俺に頼むんだ! 第一、俺には関係ないじゃないか!」
「いいえ、こうなった原因はあなたにもあります」
「えっ……?」
「あなたは井戸の蓋をはずしたでしょう。あれを開けてしまったせいで、化け物はこちらに来ることになってしまったのです」
「お、俺のせいで……?」
やはりあの蓋を開けてしまったせいなのか。
「し、しかし……その前にあの化け物は何なんだよ!? 井戸の中はどうなっているんだ!?」
ヤクトはもう何が何だかわからなかった。
「……残念ながら、詳しい説明をしている時間はありません」
「え?」
 すっ、とアムセは彼の後ろ、森の奥を指さした。
「先程の化け物たちが、この方角に向かって進んでいます。この先にあるのは、あなたの村ではないのですか?」
「なっ……!」
 ヤクトは戦慄した。あの大量の化け物が、一気に村に押し寄せたら……おそらくひとたまりもないだろう。
「く、くそっ!」
「待ちなさい!」
振り返り、走りだそうとする彼を、アムセは慌てて止めた。
「あなた一人では化け物を倒せないわ!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ!?」
 ヤクトは立ち止まり、声を張り上げた。
「みんなを見捨てろって言うのか!?」
「そうは言っていないわ。この娘を付けてあげます」
 アムセが言うと、井戸の中から、また女が出て来た。といっても年は十七、八くらい。髪はセミロングで、ジャケットにショートパンツというラフな服装だ。背中に小さなリュックを、腰のベルトに小太刀を差している。しかし何といっても印象深いのは、彼女の感情の欠落したような表情だった。美人なのは間違いないのだが……ヤクトは苦手なタイプだと思った。
「詳しくはその娘に訊いてください。名はイシェル。あなたを助けくれます」
 そう言い残し、アムセは光と共に井戸の中に消えてしまった。
「あ、おい!」
 井戸を覗き込むが、中は水しか残っていなかった。
「くそっ……何がどうなってるんだ……。いや、今はそれどころじゃない!」
 ヤクトはイシェルに向き直り、彼女の肩をつかんだ。
「おい、俺はどうすればいい!? 化け物を倒して、みんなを助けるにはどうしたら!?」 ヤクトは肩をつかむ手に思わず力を入れていた。
 かなり痛いはずだが、イシェルは無表情のまま言った。
「村に行きましょう。とりあえずそれからです」
「あ……ああ。わかった」
 透き通った声にどぎまぎしながら、ヤクトは頷いた。
 そして彼を先頭に、二人は村に向かって走り始めた。

「もうすぐだ」
 ヤクトは呟いた。
「もうすぐ村に着く」
 ずっと走りっ放しで息が上がりそうだったが、休んでなどいられない。
 村で腕の立つ者は、皆狩りに出てしまっているのだ。彼らが早く帰ればいいのだが、それは当てにならない。自分が行くしかないのだ。
 彼のすぐ後ろでは、イシェルが息も乱さずに、平然と付いて来ている。
(何なんだよ、この女。俺でさえ苦しいのに……)
 少し不気味に思えたが、彼女について知るのは後でもいい。
 もうそろそろ森を抜けるというときになって、獣の呻き声と、人の悲鳴が聞こえてきた。「こ、これは……!?」
「村人が襲われているようですね」
 隣に並び、イシェルが言った。
 ここからだとまだ村の様子は見えないが、ほぼ間違いないだろう。
「急ぎましょう、ヤクトさん」
「くそっ……!」
 歯の奥を噛み締める。
(母さん……ヤイカ……無事でいてくれ……!)
 ヤクトはせめて家族が助かっているようにと願った。ヤイカは妹の名だ。父はヤクトが物心つく前に他界している。
 そして、二人はついに森を抜けた。
 呼吸するのも苦しかったが、それどころではない衝撃が彼を襲った。
「なっ……!」
 それ以上言葉がでない。
 村の惨状はひどいものだった。本当に自分の住んでいた場所なのかと疑いたくなる。
 辺り一面血の臭いが漂っていた。破壊された家と、無造作に転がっているいくつもの死体が、すぐに視界に入り込んでくる。体はいくつにも千切れ、原型さえわからなくなっているものが多い。
「そ、そんな……」
 愕然とし、体が震えだした。
「お、俺の村が……みんなが……」
「何をしているんです? まだ全員が死んだわけではないんですよ」
 イシェルの言葉に、ヤクトははっとした。
「そ、そうか……母さんやヤイカは無事かもしれない」
 死んだ者には悪いが、それが彼の唯一の希望だった。
「よし、俺の家に行こう」
 と、二人で向かおうとした時。
「た、助けてくれぇっ!」
 家の陰から、中年の男が飛び出してきた。何か大きな赤いものを背中に抱えている。
「あ、あれは……化け物か!?」
 ヤクトは目を見開いた。
 抱えているのではなく、食われているのだ。赤いものは肉塊で、体の半分程を大きな口が占めており、それが男の左肩に食らい付いていた。腕がないことから、そこは既に食われてしまったのだろう。
「お、おじさん!」
 ヤクトは震える腕で、懸命に弓を構えた。親しくはないが、顔見知りの人だった。
「ぐあああっ!」
 男は何とか振りほどこうとするが、化け物はしっかりと食らい付いて離れない。
 ヤクトは間違って男に当たらないよう気を付け、矢を放った。
 さすがの腕で、矢は見事に化け物に命中する。が、化け物は何事もなかったかのように、反応すらせずに男を食い続けていた。
 突き刺さった矢が、化け物の肉に押し戻され、地面に落ちる。
「な、何! どうなってるんだ!?」
 驚くヤクト。矢が効かないのでは、彼は他にどうしようもない。
「く、くそ……」
「ヤクトさん、私に矢を貸してください」
 すぐ後ろから、イシェルの声がした。
「え?」
 見ると、彼女が手を差し出している。
「さあ、早く」
「あ、ああ」
 一瞬ためらいながらも、ヤクトは腰の矢筒から、一本の矢を彼女に渡した。
 するとイシェルは、指で矢の先を軽くなぞった。あらかじめ手に何かを塗っていたらしく、彼女に触れられた金属部分が、かすかに濡れている。
「毒を塗りました。これでファルクスを倒せます」
「ファルクス?」
「あの人を食らう生物の総称です。さあ、早く受け取って」
「あ、ああ」
 毒くらいであの化け物を倒せるのか半信半疑だったが、今は迷っている時間はない。
「ようし……食らえ、化け物!」
 ヤクトは矢をつがえ、男に食らい付く肉塊に放った。
 矢が体にめり込むと、すぐに肉塊は小さく震え、硬直した。そして力を失った肉塊は、ぼとりと男から落ちる。
「死んだようですね」
 イシェルが呟いた。
「こんなあっさりと……?」
 ヤクトは拍子抜けした。まさかここまで効果のある毒だとは……。
 その間にイシェルは肉塊に近付くと、手にした小瓶の液体を数滴、肉塊の上に垂らした。するとその体はボコボコと泡立ち始め、ジュウッと音を立てて蒸発してしまった。後にはまだ消化しきれていない、溶けかけた肉片があった。かなりえぐいので、あまり正視したくはない。
「お、おい。何をしたんだ?」
「死体を消しただけです。ファルクスは、この世界にいてはいけない生物ですから。……それより、その人はいいんですか?」
 イシェルは化け物に食われていた男に視線を向けた。
「そ、そうだった。おじさん!」
 ヤクトは男に駆け寄った。……が、時既に遅く、左の上半身を失っていた彼は、息絶えていた。
「く、くそっ……どうして死ななきゃならないんだ……!」
「行きましょう、ヤクトさん。できる限り助けなくては」
「そ、そうだな……」
 男には悪いが、死んだ者より生きている者を優先するべきなのだ。
「それから、これを渡しておきます」
 イシェルはジャケットのポケットから、小さな金属製のケースを取り出した。中には透明のクリームが入っている。
「これは?」
「ファルクスを殺すための毒です。わずかでも体内に入れば殺せますので、付けすぎないようにしてください。あまり量がないんです」
「わ、わかった」
少し緊張しながら、ヤクトはそれを受け取った。
ファルクスを殺せる唯一のもの。逆に言えば、これがなければファルクスを倒すことはできないのだ。間違ってもなくしたりはできない。
「その毒はファルクス以外には無害で乾きにくいので、手に付けておいた方がいいですよ。矢をつがえるときに、すぐに塗れますから」
「……なるほど」
確かに、今は全ての矢に毒を塗り込んでいる時間はない。
彼女の言葉に、ヤクトは手の平に軽くクリームを塗る。
「よし、準備は整った。行くぞ、イシェル!」
 ヤクトは自分の家の方に駆け出した。

「くそっ……死体ばかりだ……」
 家に向かいながら、ヤクトは唇を噛み締めた。どこかに隠れているのかも知れないが、生きている者を全く見かけない。
「そういえば、化け物もいないな……」
「食事を終えて、村を出たのでしょう。今この村にいるのは一匹だけです」
 隣でイシェルが言った。
「そんなことがわかるのか?」
「ええ、気配でわかります。――ヤクトさん、あそこに」
 急に立ち止まり、イシェルが左を指した。壊れかけた家の向こうに見えたのは、巨大なイソギンチャクだった。上部に花状の触手がある。
「なっ……あれもファルクスか!?」
 ヤクトは顔を引きつらせた。
 先程のといい、ファルクスというのは不気味なものしかいないのだろうか。
「ヤクトさん、誰かが食べられています」
「何!?」
 ヤクトは目を凝らした。
 触手の辺りに、わずかに髪の毛と手足が見える。
「……既に死んでいるようですが」
「だからって、全部食わせてやるものか!」
 ヤクトは奥歯を噛み締めると、素早く毒を塗り込み、矢を放った。長距離だが、狙い通りに体の中心に突き刺さる。
 イソギンチャクは、ヤクトが聞いたこともないような甲高い声を上げた。それが悲鳴だったらしい。触手からぼとぼとっと手足の先が落ちる。
「やった! ……だが、あいつまだ死なないぞ」
「体が大きいため、毒が回りにくいのです。時間が立てば死ぬでしょうが、すぐに殺すにはあと数回、矢を当てた方がいいでしょう」
「わかった!」
 ヤクトは矢をつがえると、どんどん放った。
 イソギンチャクはその度に悲鳴を上げていたが、二人のいる場所を見付け、触手を伸ばしてきた。距離があるというのに、驚く程長く伸びる。
「う、うわっ、こっちに来たぞ!」
 ヤクトは矢を射るどころではない。
「大丈夫です、続けて」
 イシェルが前に出て、腰に差してある小太刀を抜いて構えた。
「はっ」
驚くべき跳躍力と素早さで、迫りくる触手を次々と切り落としていく。何とか近付こうとする触手を、全く寄せ付けない。
「す、すごい……」
思わず息を呑むヤクト。彼女は、ヤクトの数倍の運動能力を持っているようだった。
「おっと、見とれている場合じゃない」
 毒が回ってきたのか、イソギンチャクの動きが鈍くなってきている。
「イシェル、離れてくれ!」
ヤクトの声で、さっと彼女は離れた。
「くらえっ!」
 最後の矢が、イソギンチャクに命中する。そしてとうとう断末魔の声を上げ、地面に倒れ込んだ。
「ふうっ……ようやく死んだか……」
 ヤクトは額の汗を拭った。
 そしてその死体の近くに落ちている手足を見て、顔をしかめる。
(まだ子供だな……かわいそうに……)
 見たこともない化け物に食われながら、一体どれほどの恐怖を味わったことだろう。
「ヤクトさん、これでもうこの村にファルクスはいません。生きている人を探しましょう」
「あ、ああ……」
 とりあえずは一安心だが、早く家族の無事を確認しなくては。
「じゃあとりあえず――」
「あそこに一人います」
 イシェルがイソギンチャクの死体から、少し離れた家を指した。
「そ、そうか。それじゃ、行ってみよう」
 そこへ行くには、今見ていた死体の側を通らなければならない。あまり気は進まないが、そういうわけにもいかないだろう。
 二人は生存者のところへ向かった。

 壊れた家を二、三件越えると、一人うつ伏せで倒れている者がいた。女のようだが、右足の膝から下がない。
「ヤクトさん、私はファルクスの死体の処理をしておきますので、その人はお願いします」
「あ、ああ……」
 曖昧に答えて、ヤクトは倒れている彼女に近付いていく。
 どこかで見覚えのある服装だな、と思いながらヤクトは声をかけた。
「おい、しっかりしろ!」
 その女性の顔に手をやり、ヤクトは息を呑んだ。徐々に事実を認識すると、自然と体が震えてくる。服に見覚えがあるのも当然だった。
「……母……さん……」
「ヤ……ヤクト……」
 母には意識があった。
「母さん! くそっ……ヤイカ、ヤイカは!?」
「…………」
 彼女は静かに首を振った。そしてその視線はヤクトの後ろへと向かう。
「ま、まさか……!」
 ヤクトははっとして振り返った。イソギンチャクの死体のあった場所を。そこには食べかけの、まだ子供らしい手足と、わずかな髪の毛が残されているだけだった。さらに、イシェルが溶かした死体の跡から、いくつかの肉片が出てきたが、それはもはや原型を留めてはいなかった。
「あれが……あれがヤイカだったっていうのか!?」
 彼は絶叫した。
「く、くそぉぉっ! 何てことだっ! ファルクスめ、そんなにヤイカがうまかったのかよっ!」
 拳を地面に打ち付ける。何度も、何度も。
「ヤクトさん」
「うるさいっ!」
 声をかけたイシェルに、ヤクトは怒鳴りつけた。
「死んだ者に構っている暇はないと思いますが」
「黙れぇっ!」
 ヤクトは泣いていた。
「……かわいい妹だったんだ。俺のことを慕ってくれて……」
「このままだと、あなたのお母様も死にますよ」
 イシェルの言葉に、ヤクトははっと顔を上げた。
「……う、ううっ……」
 母の呻き声が聞こえる。失った右足からは、まだ血が流れ出していた。
「母さん!」
 彼女の息は荒く、かなり苦しそうだった。
「どうしたらいい!? これじゃあ母さんまで……」
「完全に治すことはできませんが……私の持ってきた薬で、傷を塞ぐことくらいはできます」
 背中のリュックをおろしながら、イシェルは言った。
「ほ、本当か!?」
「ええ。まずは血止めをしますから、ヤクトさんは足に包帯を巻いてください」
「わ、わかった」
これ以上家族を失いたくない。その思いで、ヤクトは必死に治療を手伝った。
 そして五分程過ぎた頃。
 ヤクトの母は痛みと出血で気を失っていたが、何とか足の傷を塞ぐことができた。薬で細胞を活性化させたのだが、代わりにかなり体力を消耗するらしく、数日は目を覚まさないということだ。
「まあ、死なないですむだけ良かったよ」
 吹き出す汗を拭いながら、ヤクトは小さく笑みを浮かべた。
 母は右足を失ったものの、命は助かった。しかしヤイカは……妹のヤイカは、もう戻ってはこない。
「くそっ……」
 じわじわと、涙が溢れてきた。昨日まで……いや、つい先程までは、平和な家族であり、平和な村だった。それがこの有様はどうだ。多くの村人が死に、ほとんどの家は潰れてしまっている。
(……本当に、こうなったのは俺のせいなのか……)
 井戸の女神とやらは、ヤクトが蓋を取ってしまったせいだと言っていた。ならば、村人たちが死んだ原因はヤクトにあるとも言える。
「あっ……」
 泣いている顔が珍しいのか、少し不思議そうな顔で見つめているイシェルの視線に気付き、慌てて涙を袖で拭った。
 そうだ。今は悲しんでいる場合でも、後悔している場合でもないのである。
 過ぎたことをやり直すことはできない。ならばこれから何をするべきか、何ができるのかを考えなくてはならない。
「し、しかし、君はすごいなイシェル。そんな華奢なのに、あんなに戦えるなんて……一体何者なんだ?」
「私はファルクスを狩る者……ファルクスハンターです」
「……ファルクスハンター……」
 ヤクトは口の中で呟く。
「おーい! 誰かいないのか!?」
「何がどうなっている? みんな無事か!?」
 そのときになって、狩りをしていた者たちが戻ってきた。誰もが驚愕の色を隠せないでいるが、当然の反応だろう。帰ってみたら自分たちの村が潰れていたのだから。
「そうか……。あいつらに説明しなければならないな……」
 ヤクトは弱々しいため息を付いた。

 第二章

「みんなに説明しないと……」
 ヤクトはため息を付くが、ふと思う。
「……いや、待てよ。考えてみれば、俺自身ほとんど説明を聞いていないぞ」
 その事に気付き、イシェルを見る。
「そうですね。でも、今はここでゆっくりと説明している時間はありません」
「……時間がない?」
「はい。ファルクスたちは、次の村を目指して動いています。一刻も早く後を追わなければなりません」
「あ……」
そうか。そうだった。この村に残っていたファルクスは倒したが、井戸から飛び出したのは、三十匹以上もいたのだ。
「ですから、説明は歩きながらします」
 そう言うと、イシェルはくるりと背を向け、歩き出す。
「ちょっ……ちょっと、待ってくれ!」
 ヤクトの声に、彼女は歩みを止めた。そして振り向かずに訊ねる。
「……行かないのですか?」
「…………」
 行きたくない。正直に言えばそうだ。誰が好き好んであんな化け物と戦いたいものか。それに全てのファルクスを倒し、この村に帰って来るまで、一体どれくらいかかるかわからない。長い旅になるのか、短い旅になるのか……。それまでの間、右足を失い、娘までを失った母を一人残して、心細い思いをさせたくなかった。だが……。
「……強制はしません。どうしても嫌なら、この村に残っても構いません。私だけで全てのファルクスを殺すことも、可能ではありますから」
「…………」
そう。彼女はハンターだ。その彼女が言うのだから、おそらく可能なのだろう。井戸の女神の言葉など気にせずに、この村に残るという選択肢もあるのだ。
「……行くよ、イシェル」
 考えた末、ヤクトはそう答えた。
イシェルがゆっくりと振り返る。
「俺は行く」
「そうですか」
 彼女は相変わらず無表情のままである。しかし、ヤクトには少し嬉しそうにしているように思えた。もちろん勝手な思い込みだが。
ヤクトが決心をしたのは、女神に頼まれたからではない。責任……も少しはあるが、何より自分と同じような悲しみの人を、これ以上増やしたくないと強く思ったからだった。母には悪いが、そのために自分の力を役立てたい。
「では、私は村の外で待っています」
「え?」
「簡単な旅の準備をしてきてください。お母様は親しい方に預けた方が良いでしょう。時間がないので、急いでお願いします」
「あ、ああ……そうか。ありがとうイシェル」
 ヤクトは地面に横になっている母を抱き上げる。その間に、イシェルは素早く姿を消していた。生き残った人が集まり始めている今、見知らぬ者が混ざっていては、怪しまれるからだろう。
(イシェルって無表情で冷たい感じがするけど、案外いい奴なのかな)
母を運びながら、ヤクトはふとそんなことを思った。

 イシェルは村の外に出て、再び森の中に入った。そして軽く周囲を確認すると、近くの木の枝へと飛び移る。
「さて……」
彼女はジャケットのポケットから、黒いカードを取り出し、その横に付いているボタンを押した。
 ピピッ、ピーッ。
 高い音が響き、しばらくするとカード全体に、二十代半ばくらいの女性の姿が映った。長い黒髪で、スーツを着ている。
「お待たせ。さすがに繋がるまで少し時間がかかったわね」
 そう言った彼女の声には、少し雑音が混ざっていた。
「あ、まだノイズが……。次までに調整しておくわ」
「いえ、通じれば問題ありませんから」
 とイシェル。彼女が持っているカードは、携帯用の通信機なのである。
「そう? まあ、それはともかく、こうして連絡をくれたってことは、一段落ついたのかしら?」
「はい。ヤクトさんの村を襲ったファルクスを、二匹倒しました。彼の弓の腕はかなりのものです。現在、ファルクスは次の村を目指して移動中です」
「それで、被害状況は?」
「村の半分程が殺されたようです。その中にはヤクトさんの妹もいます」
「そう……」
とスーツの女性は表情を沈ませた。
「彼もつらいでしょうね」
「はい。そのせいで少し迷ったようですが、私と一緒に来ることを決意してくれました」
「よかったわ。頑張るのよ、イシェル。私はこっちで応援してるから」
「はい、アムセ様」
 イシェルは彼女に向かってそう言った。
 アムセという名は、井戸の女神が名乗った名前である。だが、カードに映る女性とは姿も衣装も違う。これはどういうことなのか。
「何だ、もう報告が入ったのか?」
「あ、ちょっと」
 突然二人の会話に、男の声が割り込んできた。
「ふふふ……今度は女神の格好をしなくていいのか?」
「い、いいのよ。今はイシェルしかいないんだから」
画面の中で、慌てて照れた様子のアムセ。
「そうか。お前の趣味にはときどき呆れるが、あのホログラムはよくできていたと思うぞ。本人より美化されているしな」
「わ、悪かったわね」
 つまり、こういうことである。井戸の女神というのはアムセの作り出した立体映像なのだ。しかもその姿は彼女の趣味で、自分を美化したものらしい。
「それより、いいかイシェル」
 アムセに代わり、男が画面に映った。少し白髪の混じった、初老の男である。彼もスーツを着ており、その姿には貫禄があった。
「もう一度確認するぞ。ヤクトの身の安全を最優先にしつつ、ファルクスを倒させるんだ。お前が直接手を出すことはならんぞ」
「わかっています、ガリエル様」
「ならいい。では次の報告を待つぞ」
「はい。失礼します」
 軽く会釈をし、イシェルは通信を切った。カードをポケットにしまう。
(ガリエル様は何故あんな命令を出すのか……)
理由は聞かされていない。だが、ハンターであるイシェルにとって、彼の命令は絶対であった。
(……早く戻ろう)
 そろそろヤクトの準備もできた頃だろう。
 彼女は木の枝から下り、ラグナス村に戻っていった。

 それから数分が過ぎて。
 ヤクトはわずかな水と食料と衣服を詰めたリュックを背負い、村の外にやってきた。武器である弓を左手に持ち、矢筒には大量の矢が入っている。また、矢が切れたときのために、加工用の道具も忘れず持ってきている。
 母は、生きていた友人に預けてきた。彼には旅に出るとだけ告げたが、何か感づいたらしく、一旦は止められたものの、「気を付けろ」という言葉と共に送り出してくれた。
 彼のためにも、ヤクトは生きて帰らねばならない。
「さて、イシェルは……」
 周りを探してみるが、姿が見えなかった。
「こっちです」
 いきなり後ろから声がした。
「うわっ!」
慌てて振り向くと、相変わらず無表情なイシェルが立っていた。気配を感じさせずに近付くから、かなり怖い。
「び、びっくりさせるなよ」
かなり驚いたので、心臓がドキドキしている。
「……すみません。他の人に見付からないよう隠れていたものですから」
「そ、そうか。とにかく、俺の準備はできたから出発しよう」
「はい。ではわたしに付いてきてください」
 そう言い、イシェルは歩き始める。その方角は、ヤクトたちが普段狩猟場としている森のある所である。
「お、おい、ちょっと待ってくれ。森に入るのか?」
「ええ。ファルクスたちはこの奥に入っていきましたから。それが何か?」
「いや、その……」
 とヤクトは頭を掻き、答えにくそうに言う。
「この森の奥は、村の連中も滅多に入らないくらい迷いやすい所なんだ。本当に大丈夫なのか?」
ファルクスハンターは、ファルクスの気配を感じることができ、その数や位置などがわかるらしい。それもかなりの距離まで可能ということだ。
 ヤクトも彼女に任せるしかないのはわかっているのだが、やはり森の奥に入るのは不安であった。しかもつい先程、そこに入ったばかりに、こんなことが起きてしまったのだ。無理もないだろう。
「そうだ。ファルクスは次の村を目指して進んでいるんだよな。だったら先回りして……あ、だめか」
 自分で言いながら、気付いてしまった。ラグナス村の近くには、いくつか村があるが、ファルクスがどの村を目指すかはわからないのだ。
「入るしか、ありませんよ。ヤクトさん」
 じっと彼の目を見つめ、イシェルは言った。
「わ、わかったよ」
 何だか心の奥まで見透かされているみたいで、恥ずかしかった。
「人が殺されるかもしれないのに、不安だなんて言ってられないよな。行こう、イシェル」
「はい」
 こうして、二人は森の中へと姿を消したのだった。

しばらくは黙々と歩いていた。背の高い木々のひしめく森の中である。昼間だというのに薄暗く、少し霧も出始めていた。だが、イシェルは迷う様子もなく進んでいる。村人さえも迷うことがある森の奥。道などはなく、足場も悪いというのにかなりのペースだ。
「くっ」
 木の枝に足を取られ、ヤクトは何度か転びそうになった。少し息が上がってきている。
「くそっ」
体力にはかなり自信があった彼だが、間違いなくイシェルに劣っていることがわかり、少しばかりショックであった。
 ふいに、彼女が足を止め、後ろを振り返った。
「少し、ペースを落としましょうか」
「……俺に気を使っているのか?」
 不機嫌そうにヤクトは言う。
「いえ」
 と即座にイシェルは首を振った。ヤクトの気分など、どうでもいいというようだ。
「ただ、ファルクスの進行速度から、これ以上急ぐ必要はないと判断しました。もちろんこのペースで行けば夕方には追い付くでしょうが、そのときにはファルクスと戦う体力は残っていないでしょう」
「……確かに」
 戦うことができなければ、追い付いても意味はない。
「ファルクスも、今日は食事をたくさん取って、夜には休むはずです。こちらも休みながら進んでも、夜明け前には間に合うはずです」
「……それで、大丈夫なんだな?」
「はい。それに、ヤクトさんには色々と説明しなければいけないことがありますから」
「…………」
そうだ。彼女には聞かなければならない。
 ファルクスとは一体何なのか。何故井戸の中から飛び出して来たのか。そしてイシェルや井戸の女神は、一体どこから来て、何者なのか。
 彼女たちさえ来なければ、村は平和なままだったのかもしれない。
出発前に見た光景を思い出し、ヤクトは唇を噛みしめる。

 実に、村人の半分が殺されていた。
 助かったのは、家の地下に隠れて運良く見付からなかった者と、川に洗濯に行ったり畑に行っていた者たちが多くを占めている。
 殺されたほとんどの者は、ヤイカのように、あまり体が残っていなかった。
「一体何にやられたんだ!?」
 狩りに行っていて事情を知らない者たちからは、当然出る疑問だった。どう見ても、普通の獣の仕業ではない。
「遊んでいたら、突然化け物が現れて……!」
「お、お母さんが、食べられちゃったよぉ!」
「うわぁ〜ん!」
 生き残った子供たちが泣き出した。
 村は嘆き悲しむ者たちであふれているのだった。

「……やはり、俺のせいなのかな……」
 ヤクトはぽつりと呟いた。井戸の女神に言われてから、ずっと気になっている。悲惨な村の様子を見てきて、彼は罪悪感を感じていたのだ。
「俺が井戸の蓋を取ってしまったから、こんなことに……」
「あまり気にする必要はありませんよ」
 イシェルが言った。
「え……?」
 とヤクトは耳を疑う。イシェルが再び歩き出したので、彼も慌てて後に続く。
「お、おい。気にするなって……」
「アムセ様はああ言ってましたが、ファルクスがやってきたのは、ヤクトさんのせいだけではありません。アムセ様の管理をかいくぐって、ファルクスを送り込んだ者がいるのです。直接の原因はその人で、名をラオスといいます」
「……もしかして、翼のある黒い馬に乗った目付きの鋭い奴か?」
「見たんですか?」
「ああ……。俺のことを見て笑いやがった」
 思い出し、ヤクトは唇を噛みしめる。あれは嘲りの笑みだった。
「しかし、そいつは何でこっちにやって来たんだ? ……いやそれより、そもそもあの井戸は一体どうなってるんだよ? 何で人が出たり入ったりできるんだ?」
 片手で頭を抱えながら、ヤクトはイシェルを見た。
「とにかく疑問が多すぎる。説明してくれ」
「そうですね」
 彼女は頷いた。
「まず、あの井戸の向こうとここは別世界になっています。正確には、遥か遠くの星と星が、空間に歪みが生じたせいでつながったのですが。私たちの世界では科学が発達し、空間の歪みを操る技術があるのです」
「…………はあ?」
 ヤクトは顔をしかめた。何を言っているのか、さっぱりわからない。
「……理解する必要はありません。とりあえず、井戸の向こうに違う環境の人々がいると思ってください」
「う、うむ……」
「そして、そこにはファルクスという凶暴な生物がいるのです。異形の姿で動物、特に人間を好んで食べます。過去に被害も出ていて殺されていたのですが、最近では捕まえて見せ物にするようになりました。ラオスはそんなファルクスの飼育係をしていたのです」
「……そんな凶暴な動物を飼うのか? 危なくはないのか?」
 ヤクトの住むラグナス村では、家畜を行ってはいないので、飼うとしても犬や猫くらいである。人を食うような危険動物と一緒に生活するなど、とても考えられないことだ。
「向こうは生活が豊かですからね。そうなると、人々は娯楽を求めるようになるんですよ」「ふ〜ん……」
 そんなものかな、とヤクトは思った。
 ラグナス村も別に貧しいわけではないが、それなりに楽しい生活をしていた。……しばらくはそんなことを言ってはいられないだろうが。
「ともかく、そのラオスという男は、ファルクスを異常なくらい可愛がっていました。ファルクスの方も、彼の言うことはよく聞くように仕込まれていました。……それだけなら問題はなかったのですが」
 イシェルはそっと目を伏せる。
「どうした?」
「……人々がファルクスに飽きてきたのです。見物客は入らなくなり、食料費が高く付くことから、とうとうまた殺すことになりました」
「……何か、それって勝手だな」
「ええ。ですが、特に許せなかったのはラオスでしょう。彼はファルクスたちを連れ出して、アムセ様のいる管理室に侵入したのです」
「……管理室って何だ?」
「先程言いましたように、私たちには空間の歪みを操る技術があります。不定期に発生する歪みを見付け、特定の場所に安定させ、行き来ができるようにするのです。しかし、十分に注意して使わないと大変危険で、時には環境が合わなくて死ぬ場合もあります。それはつながった土地に住む人にも言えることですから、管理室の操作がなくては行き来できないようにしているわけです」
「……お、俺にはさっぱりわからないんだが……」
 ヤクトは頭が痛くなってきた。
「……例えるなら、川が流れていて渡れなかった向こう岸に、橋をかける所が管理室なんです」
「ああ、それなら何となくわかるぞ」
 ヤクトは一応納得した。
「……すると、井戸の中から出てきたのは、そこに橋ができたからなんだな」
「そうです。ラオスは管理室を使って適当な星を見付け、ここにファルクスと共にやって来たのです。目的はファルクスの移住でしょう」
「……なるほどな……」
 彼にも少し事情がわかってきた。
「でも、だからって……」
 科学とか星とか、空間の歪みだとか、理解しかねることが多いが、怒りを向ける先ははっきりした。
「平穏に暮らしてるこっちの人間に、迷惑をかけることはないじゃないかっ!」
 そのおかげで、村の半分の人間が殺されてしまったのだ。しかもその数はまだまだ増える可能性がある。
「その通りです。ですから、早く彼を止めねばなりません」
「そうだな。これ以上この村のような目にあわせるわけにはいかないからな」
 ヤクトは改めてファルクスと、そしてラオスと戦う決意をした。
「……しかし、いくつか気になるんだが」
 顎に手を当て、考えながら言う。
「何です?」
「アムセという女神のことだけど、あいつ本当に女神なのか? 君の話からすると、井戸の向こうが神の世界、というわけでもなさそうだし……。それに、どうして俺に責任を押し付けるようなことを言ったんだ」
「…………」
 ちらり、とイシェルは無言でヤクトを見た。少し意外な質問だったようだ。
「……そうですね。もう話してもいいでしょう」
 特に口止めされていることでもない。
「実は、アムセ様が女神というのは嘘なんです」
「う、嘘?」
「はい。女神と名乗ったのは、その方があなたを説得させやすいと思って咄嗟に思い付いたことです」
「…………何で俺に頼んだんだ? 君のようなハンターを何人か寄越せば済むことなんじゃないのか?」
「そこまではわたしもわかりません。全てが終わったら、アムセ様に訊いてみてください」
「全てが終わったらか……」
 ヤクトはため息を付いた。
 一体いつになることやら……。

それから二人は、無言で森を進んだ。ときどき、無惨に食い尽くされた動物の骨と血の跡を見付けては、ヤクトは顔をしかめていた。
「ファルクスめ……まだ食い足りないのかよ……」
「彼らの食欲の強さは、異常なくらいですからね。例え腹が膨れていても、目の前に食べ物があれば口にしてしまうんです」
「何なんだよそりゃ……」
 もういい加減にしてほしかった。外見の不気味さに加えてこの食欲では、ファルクスが疎まれたのもよくわかる。
「しかし、あまり食べ過ぎると動きが鈍りますから、そろそろラオスが止めさせるはずです」
「……敵に期待するしかないわけか」
「仕方ありません」
「やれやれ」
 そんな会話を交わしながら、二人はさらに森を進んでいく。相変わらず霧は晴れず、薄暗いが、そろそろ日が暮れる頃だった。
「ヤクトさん、この辺でしばらく休みましょう」
「そ、そうか」
 立ち止まり、ヤクトは息を整える。しかし、もう何時間も歩き続けたというのに、イシェルの方は全く息を切らしていなかった。ファルクスハンターとは、そこまで鍛えられたものなのだろうか。
(あんな細い体してるのにな……)
 ヤクトは不思議でならなかった。
 それはともかく、食事の用意だ。木を背にして地面に腰を下ろすと、リュックの中の食料を取り出していく。
 イシェルも座ろうとしたが、ふいに中断し、森の奥を見据える。
「ん? どうした?」
「向こうに何かいます」
「ファルクスか!?」
 彼は咄嗟に弓を構えようとしたが、イシェルがそれを制す。
「いえ。どうやら人のようです」
 確かに彼女の言う通り、向こうから現れたのは、人間のようだった。
「誰だ? そこにいるのは」
 と彼は声をかけてきた。
 ヤクトより少し年下くらいの、若い男である。少年に見えなくもない。右手には長槍を持ち、腰には短剣が差してある。
 ヤクトの知らない顔なので、ラグナス村の者ではないだろう。格好からして、おそらく狩りに来たものと思われるが、槍をつかうとは珍しい。
「特に危険はないと思いますが」
「そうだな」
 ヤクトはイシェルと短く言葉を交わし、彼に返事をした。
「俺はラグナス村から来たヤクト。こっちはイシェルだ。君は?」
「俺はカヤセ。ナカト村の者だ」
「ナカト村?」
 ナカト村とは、ラグナス村から一番近い村で、年に二、三度程度だが合同で市を開いたり祭りを行ったりと、交流のあるところである。ファルクスを追って森の奥に入ったが、どうやら近くまで来たらしい。
「そうか。君はナカト村の……」
とヤクトは親しげに話しかけ、そして息を呑んだ。突然目の前に、カヤセの槍が突き付けられたからだ。
「な、何の真似だ……」
「とぼけるなよ、わかってるだろ?」
彼は怒りのこもった目で睨んでくる。だが、もちろんヤクトにそんなことをされる覚えはなかった。
「知るか。俺が何をしたっていうんだ?」
「……まだとぼけるか」
カヤセが一歩踏みだし、さらに槍を突き付けようとする。だが、その進行は横から伸ばされたイシェルの手によって止められた。
「うっ」
慌てて振りほどこうとするが、槍は彼女にしっかりとつかまれ、びくともしない。
「な、何だこいつ! 放せ!」
 両手で全力を込めているというのに、その細い腕のどこに力があるのか。カヤセは信じられなかった。
「あなたが槍を下げるなら、手を離しましょう。証拠もないのに、憶測だけで人に武器を向けるものではありません」
「そうだ。俺がお前を怒らせることをしたというなら、きちんと説明しろ」
「くっ……わ、わかったよ」
堂々とした二人の態度に、自信がなくなってきたらしい。ばつが悪そうにカヤセは言う。 すると約束通りイシェルが手を離したので、彼も槍を下ろした。
「……実は俺、獲物を探してこの森に入ったんだが……」
「……一人でか? 見たところ十五、六歳だが、狩りの経験は?」
 ヤクトでさえ、そのくらいの頃は、単独での狩りは認めてもらえなかった。カヤセはそれほど優秀なのだろうか。
「あ、いや、その……」
 と彼は目をそらし、ぽりぽりと頬をかいた。
「まだ二回……」
「……………………」
「……………………」
沈黙が訪れる。
「……あ、あのなあ……」
 ヤクトは深いため息を付いた。呆れて、先程疑われて沸いた怒りが失せていく。
「たったそれだけの経験しかないのに、一人で、しかもこの森の奥に入ってくるなんて、自殺行為だ。無謀だとは思わなかったのか?」
「い、いや、とりあえず今はその話は置いておいて、だ」
と彼は必死にごまかそうとしている。おそらく一人で大物を捕まえて、皆に格好付けたかったとか、そんなところなのだろう。
「……まあいい。それで?」
「あ、ああ。本題はここからだ」
 カヤセは話を続けた。
「森に入った俺は、獲物を求めて探し回った。……しかし全く見付からない上に、霧まで出てきて、結局こんな所まで来てしまったんだが……」
「……ちょっと待て」
 とヤクトは彼の話を遮った。何だか嫌な予感がする。
「カヤセ、お前……まさか迷ったんじゃないだろうな……?」
「……………………」
「……………………」
再び沈黙。
「……ま、まあ、それも置いておいて、だ」
どうやら迷ったらしい。
 ヤクトは頭を抱えた。
「あのなあ、カヤセ……」
「そ、そんなことはどうでもいいんだよ! それより俺が言いたいのは、ここに来る途中で動物の死体を見たっていうことだ!」
「何?」
「そう! 死体だよ! ……といっても、食べられてほとんど残ってないけどな!」
「動物の食われた跡か……」
 呟き、そういうことかとヤクトは納得した。自分たちがここに来るまでに見てきたものを、カヤセも見たらしい。しかもファルクスの存在に気付いていないなら、彼が怒っていた理由も見当が付く。
「確かに、俺は迷って正確な位置は知らないが、この辺はまだナカト村の領地のはずだ!」
 興奮したカヤセは、声を張り上げ、ヤクトに詰め寄った。しかも唾を飛ばすので汚い。
「……落ち着けよ、カヤセ」
唾を手で避けながら冷静に言うが、もちろん彼は聞こうとしなかった。
「その俺たちの領地の獲物を、勝手に狩るなんて、協定違反だぞ! どうする気だ!」
「…………だから、少しは落ち付けって!」
 さすがに頭にきたヤクトは、カヤセの口を押さえ付けた。
「むぐっ!」
驚き、慌てて逃れようとするカヤセだが、ヤクトは彼の顔に近付き、彼以上の大声を出した。
「いいから、話を聞けっ!」
びくっ。
 固まるカヤセ。ヤクトの声で、ようやく静かになった。
イシェルは、二人から離れたところで黙って様子を見ている。
「いいか、よく考えてみろ」
手を離し、ヤクトは言った。
「俺たちは狩った獲物は必ず村に持ち帰ってから調理して食う。それはナカト村でも変わらないはずだ」
「あ、ああ……」
と頷くカヤセ。
「お前の見た死体は、どれも獣が食った跡が残っていなかったか? 殺したのは、そいつらだ」
「…………」
 記憶を探ると、確かにあった。
「……い、いや、しかし……」
彼はまだ納得できないでいる。というのも、この森にいるのは草食動物ばかりだからだ。肉食動物もいるが、見ることも滅多にできないほどだ。やられた数を考えると、計算があわない。それとも、森の奥には肉食動物が多いのだろうか。
「……ヤクトさん」
 それまで黙っていたイシェルが、急に口を開いた。
「ん? 何だ?」
「カヤセさんにはファルクスのことを話しておきましょう。この近くに村があるなら、必ず向かうはずですから」
「そうか……。……そうだな」
 信じるにしろ信じないにしろ、自分の村の危機は教えておいた方がいいだろう。
「な、何だよ。ファルクスって?」
 知らない単語を出されて、カヤセは眉をひそめる。
「今教えてやるよ。これから話すことは、嘘でも作り話でもないからな」
 そう前置きしておいてから、ヤクトは今までのことをかいつまんで話して聞かせた。

「……井戸から出てきた化け物、ねえ……」
あまりに突拍子もない話なので、カヤセもすぐには信じることはできないようだった。だが、もしその話が本当なら、先程見た死体も納得できる。
「どっちにしろ、カヤセは俺たちと一緒に来た方がいいだろう。イシェルはファルクスの気配がわかるから、ナカト村まで迷う心配はない」
「うるさいなあ……」
とカヤセは不満そうに口を尖らせる。狩人にとって、道に迷うのは相当の恥である。
「まあ、とにかく話はわかった。村が襲われるかもしれないなら、俺も化け物を倒すのに協力するぜ」
「そうか……」
 やる気になってくれたのはいいが、正直ヤクトは嬉しくなかった。経験の少ない彼は、逆に足手まといになるかもしれない。自分と同じような、つらい思いをするかもしれない。
「頑張りましょう、ヤクトさん」
隣に来て、イシェルが言う。
「これ以上の犠牲者を出さないように」
「あ、ああ。そうだな」
 励ましてくれたらしい彼女に、ヤクトは微笑む。だが、やはり無表情のまま笑い返そうとはしない。
(……イシェルって……)
 ヤクトは、感情のない人間はいないと思っている。人付き合いが苦手なだけなのだろうか。何だかそんな仕草が少し気になった。
ともかく、カヤセという同行者を加え、ヤクトたちはナカト村を目指して、森の中を進んでいった。

 第三章

 日が陰り始めた。ただでさえ高い木々に阻まれ、薄暗かった森の中が、さらに暗くなる。
「うわっ」
 地面から盛り上がった木の根につまづき、カヤセが転んだ。
「大丈夫か?」
 立ち止まり、ヤクトが振り向く。
「あ、ああ。何とか……いてて」
 ぶつけた足をさすりながら、カヤセは答えた。
彼が転んだのも無理はない。人の手が一切加えられず、自然の草木に囲まれたこの場所は、非常に歩きにくいのである。しかもこの辺には地面に転がる石や木に大量に苔が生えており、滑りやすくもなっている。
「……しっかし、大分進んだっていうのに、まだ村に付かないのかよ……」
額の汗を袖で拭いながら、カヤセがぼやいた。
「……自分の村だろうが。それに一度通ったはずだろ。思い出せないのか?」
 とヤクトが訊ねる。
 二人とも疲労のため、息が荒かった。平然としているのは、イシェルだけである。
「いやあ……それが全く」
「ったく……。俺たちと会わなかったら、完全に迷ってたな……」
「ははは。感謝してるって」
と人なつっこい笑みを浮かべるカヤセ。彼の無謀さには呆れるヤクトだが、その笑顔は気に入っていた。
「ところでイシェル、今ファルクスとの距離はどれくらいなんだ?」
「かなり近付いてきましたね。動きが鈍ってきていますから、そろそろ眠るのでしょう」
「何? だったらチャンスじゃねーか! 今の内に村を探そうぜ!」
「無理ですね。私はともかく、二人ともかなり体力を消耗しているようです。今日はこれで休みましょう」
「そうだな……仕方ないか……」
 ふうっと息を付き、ヤクトは立ち止まった。
「何呑気なこと言ってんだよ? 早く村を見付けないと、大変なことになるんだろ? 休んでる暇なんかないぜ」
 とカヤセが言う。
「焦ってはいけません。仮にこのまま進んで村を見付けても、ファルクスと戦う力は残っていないでしょう」
「…………わかったよ」
 イシェルに言われ、カヤセは地面に腰を下ろした。
「しかし……何か食べ物はないのか? それに水は?」
「もう何も残ってないよ」
 とヤクト。
 村から出るときに持ってきた食料は、カヤセと出会ったときに三人で食べてしまった。それに水は、川の水を水袋に入れて持ち歩いていたのだが、それも森の中を進む内に全部飲んでしまった。道中、時々木の実を見付けては食べていたが、それもほんのわずかで、肉にする小動物は全く見かけない。
「まあ、確かに腹は減ったな……」
 ヤクトは自分の腹を押さえる。
「どこかに食べ物はないかな……」
 と周りを見渡したが、しかし、どこにも何もない。
「ああっ、これじゃ、村に帰る前に餓死しちまうぜ!」
 カヤセは横になってごろごろと転げ回った。空腹の怒りを表現しているらしい。
「それは大袈裟だと思うが……」
 しかし、冗談ではなく本当に困った。
「でも、何でこんなに動物がいないんだろう。ファルクスのせいかな?」
「……そうですね。危険に気付いて、どこかに逃げたのかも知れません」
「まいったな……」
 ヤクトは頭を掻いた。
「二人とも、ここにいてください」
「えっ?」
 ヤクトとカヤセが、驚いてイシェルを見る。
「私が食べ物を持って来ます。すぐに戻りますから」
 そう言うと、彼女は二人が止める間もなく駆け出した。
「は、速い……」
 カヤセは呆然として呟く。もう姿が見えなくなってしまった。一体どういう体力をしているのだろうか。
「……なあ、ヤクト」
「ん?」
「彼女のこと、どう思う?」
真顔で訊いてきた。
「な、何だよ、いきなり……。信用できないのか?」
 カヤセには事情を説明してあるが、やはりその人間離れした存在は不気味でもあり、疑うのも無理はないかもしれない。
「いやいや、そうじゃなくて」
 とカヤセは手を振って否定した。
「イシェルさんって結構美人だけど、どうなんだ? 好きなのか?」
「…………」
 どうやら考えすぎだったらしい。小さくため息を付き、ヤクトは近くの木の下に座り、寄り掛かった。カヤセもその隣に移動し、しつこく訊いてくる。
「なあなあ、教えてくれよ。好きなのか?」
「……好きも何も……まだ会って間もないんだ……。わからないよ」
「ふ〜ん……。へへへへ……」
 カヤセはいきなり笑い出した。
「な、何だ? 気持ち悪いな……」
「俺の彼女な、レンっていう名前なんだ」
「へえ……」
 恋人がいたとは少し……いや、かなり意外であった。
「レンはな、すごくかわいい奴なんだ。見た目もいいけど、、性格もいいんだぜ」
「……のろけ話なんぞ聞きたくないが……」
 はたして、こんなときにする話だろうか。
「まあまあ。それで彼女、結構器用でさ、この槍だって作ってくれたんだぜ」
「へえ、それはすごいな」
 とヤクトはカヤセの持つ槍を見る。なかなかしっかりした作りだ。
「今もさ、この槍がもう古いからって、新しいのを作ってくれてるんだぜ」
「へえ……商売ができそうだな……」
「だめだめ。レンは俺のためにしか作らないんだ」
「……お熱いことで」
 ヤクトは呆れた。
「ああ……今頃、レンの奴心配してるだろうなあ……」
 カヤセは空を見上げた。もうほとんど日は沈み、星が出始めている。
「レンもこの星を見てるのかな……」
「……カヤセ……、そういうことを真面目な顔で言わないでくれるか……。聞いてる方が恥ずかしいから……」
「あ、ああ、そうだな。ははは……」
 カヤセは照れくさそうに頭を掻いた。
 しかし、彼は急に表情を沈ませる。
「……でもさ、ヤクト。ファルクスとかいうわけのわからない化け物に、俺の村が狙われているんだろう? 本当のところ……俺、レンのこと守れなかったらと思うと……気が気じゃないよ……」
「…………」
「なあ、ヤクト。……俺、レンのこと守れるかな?」
「……さあな。俺には何とも言えないよ」
「……冷たいな。こういうときは、お前なら大丈夫だ、とか言って励ますもんだろ?」
「気休めを言っても仕方ないだろう。守れるかどうかは、お前次第だよ」
「……そうだな。レンを守るのは、俺しかいないからな」
 カヤセはごろんと横になった。
「ああ……腹減った」
「そういえばイシェル……一体どこまで行ったんだ……」
 ヤクトは立ち上がって周りを見た。
「あ、帰ってきたみたいだぞ」
とカヤセが指をさす。イシェルは、行ったときとは逆の方から戻ってきた。手には何やら色々と持っている。
「食べ物を持ってきました」
「おおっ、待ってましたっ」
 カヤセはがばっと立ち上がると、イシェルに詰め寄った。
 彼女の手には、鳥が二羽と、果物が四個ある。
「へえ、よく見付けたなあ」
 カヤセがほめる。
「……でも、この鳥食えるのかな?」
「大丈夫だろう。俺は食べたことがある」
 とヤクト。
「そうか。じゃあ俺、薪を拾ってくるよ」
「あ、待て。また迷子になるかも知れない」
 走りかけたカヤセを、ヤクトが腕をつかんで止めた。
「俺が行くから、お前はおとなしくしてろ」
「ヤクトさん、それも私が……」
「いいから。君も少しは休めよ」
 そう言ってイシェルを制すと、彼は歩いて行ってしまった。
「……俺ってそんなに信用ないかねえ……」
 カヤセがぼやく。
 まあ、実際迷子になったから、こうして一緒にいるわけなので、言い返すことはできないが。
「……ところでイシェルさん。ヤクトが薪を持ってくるまでまだ時間がかかりそうだし、先に果物だけでも食べてない?」
「私はいりません。取って来る時に食べましたから」
「ふ〜ん……。じゃ、悪いけど一人で食うよ」
 カヤセは果物にかじりついた。ひょうたんのような形だが、味はリンゴに似ている。
「ところでさあ、俺、会った時から思ってたんだけど……」
 カヤセはイシェルの目を見つめて言った。
「何ですか?」
「……こんなこと言ったら怒るかもしれないけど……イシェルさんって、変わってるよね。ずっと無表情だし、やたらに人間離れした体力してるし……」
「…………」
「遠くの国から、ファルクスを追って来たって言うけど……」
 ヤクトの説明を、カヤセはそう理解していた。異国のことでさえほとんど知らないのに、異星のことなど理解するのは無理である。
「そこでは、君みたいな女の子まで強くならないと、生きていけないのか?」
「……そんなことはありません。私に力があるのは、ハンターだから。それだけです」
「…………」
「…………」
それ以上、そのことについては語ってくれなさそうである。
「……何か複雑そうだけど……、俺は、女の子は笑顔でいるのがかわいいと思うし、そんな子を、守ってやりたいと思うよ」
「そうですね。カヤセさんは、しっかりとその子を守ってあげてください」
「ああ。レンは必ず守ってみせる! ……あ、ちなみにレンっていうのは俺の恋人ね」
 自分を指さし、だらしなく笑う。どうも自慢したいらしい。
「そうですか」
といつも通りのイシェル。
 冷静に返されると、あまり面白くない。
「ま、まあ……イシェルさんもさ、いつかハンターなんて危ないことやめて、誰かと笑顔でいられるときが来るといいね」
 カヤセは心からそう思って言ったのだが、彼女からは意外な言葉が返ってきた。
「……私がハンターをやめられるのは、死ぬときだけです」
「えっ……そ、そうなの?」
「はい」
「……じゃ、じゃあさ、お嫁さんになりたいとは思わないわけ?」
「私の国では、ハンターは結婚できないんです」
「……そ、そう……。き、厳しいね……」
 イシェルの表情はやはり変わっていないが、それ以上質問できる雰囲気ではなかった。
(き、気まずい……。ヤクト、早く帰ってきてくれーっ)
おかげで、せっかくの果物も喉を通らなかった。

 やがてヤクトも戻ってきて、火を起こし、鳥を焼いて食べた。ちなみに、あまりおいしくはなかった。ヤクトは食べたことはあると言ったが、おいしいとは言っていない。不満そうなカヤセも、今は贅沢できるときでないことくらいはわかっている。
 それからすぐに眠ることにした。
 秋とはいえ、まだ暖かい今の季節。夜でもそう冷えることはないので、毛布がなくても問題ない。
 だが、眠れなかった。
「……ヤイカ……」
 ヤクトは妹を始めとする、村人たちの死による悲しみで。
「……レン……」
 カヤセは、守ってやるとは誓ったものの、やはり不安からくる緊張で。
 眠ろうとすればするほど、そんな感情が沸き上がってくる。
「…………」
 焚き火の番をしながら、イシェルは二人をどうしようかと考えた。
 疲れている上に、このまま眠れずにいては、ファルクスと戦う体力がなくなってしまう。
「ヤクトさん、カヤセさん、明日は夜明け前には出発するんです。ファルクスは空腹になると、食べ物に対する反応が敏感になります。これ以上の犠牲者を出さないためにも、しっかりと眠ってください。私は明日の食料を探してきますから」
 そう言うと、イシェルは森の奥の方へと歩いていった。
「……なあ、カヤセ」
 しばらくしてから、ヤクトは横になったまま言った。
「……何だ?」
「俺たち、イシェルにばかり無理させてるよな」
「…………」
「……余計なことは考えないで、そろそろ眠ろうか」
「……そうだな」
 それから程無くして、二人は眠りに付いた。

 森の中を歩いていたイシェルは、ふいに思い立ち、側にある木の枝に向かって飛び上がった。さらに枝から枝へ飛び移り、上を目指す。そしてあっという間に、十メートル以上はある木の頂上に着いた。
 木が邪魔で地上ではよく見えなかったが、空は一面星で埋め尽くされていた。かなり綺麗なのだが、彼女はそれを見に来たわけではない。
 さっと周りを見渡すと、森はかなりの広範囲にあるとわかった。その端の方には少し開けた場所がある。ヤクトのいたラグナス村は川の向こうにあるから、あれがおそらく、カヤセの住むナカト村なのだろう。
 距離は……歩いて二時間程だろうか。そして、その丁度間くらいの位置に、ファルクスのまとまった気配を感じる。
(なるほど)
 とイシェルは心の中で呟いた。
彼女はファルクスの位置はわかるが、ナカト村の位置はわからない。だから、高いところから見て位置を確認したかったのである。
 イシェルは地面に降りると、朝の食料を探しながら歩き始めた。
 バサバサッ。
 ふと、上空で鳥の羽ばたく音がした。
 イシェルが見上げると、黒い、人間並の巨大な鳥が、彼女に向かって急降下してきた。(ファルクスか)
 他のことを考えていたので、気付かなかった。
 イシェルは紙一重でかわすと、行き過ぎようとする黒い鳥の足を右手でつかんだ。
 鳥はその勢いのまま地面に叩き付けられる。何とか逃げようとしても、イシェルに押さえ付けられていて,できそうにない。
(さて……)
 イシェルはもがいている巨大な鳥を見た。目が三つあり、翼には鉤爪のようなものがある。
 おそらく、他のファルクスとはぐれたのだろう。
 単体でいる今、殺すには絶好の機会なのだが、この場にヤクトはいない。彼女はあくまでサポートであり、直接手を出してはいけないという命令だ。それにこのファルクスは死んでいるわけではないので、薬で体を溶かすこともできない。
「……行きなさい」
 イシェルは手を離した。
 ファルクスは慌てて飛び立っていく。
「…………」
 これでよかったのだろうか、とイシェルは考える。
 逃がしたあのファルクスは、これから向かうナカト村で、誰かを襲うかも知れない。その分の犠牲者を減らせるかも知れない。なのに……。
「私は命令には逆らえないから……」
 やはり無表情のまま、イシェルは呟き、歩き始めた。

「起きてください。そろそろ出発しますよ」
 まだ日も昇らない、真っ暗な内に、イシェルはヤクトとカヤセを起こした。既に食事の用意がしてある。木の実をすりつぶし、火で焼いたクッキーだ。
「う〜ん……あ、うまそー」
「……おはよう、イシェル」
 二人はしばらく眠そうだったが、酸味のある果実を食べて目を覚ます。
「うー、すっぱいな、これ」
「ところでイシェル、少しは眠ったのかい?」
 目をこすりながら、ヤクトが訊ねた。この食事の準備には、結構時間がかかったに違いない。
「ええ、寝ましたよ」
 とイシェルは答える。
 彼女は先に済ませたと言い、今は食べていない。
「……何で一緒に食べないんだ?」
「深い意味はありません。今度は一緒に食べますから」
「……なら、いいけど」
食べるところを見られるのが嫌なのだろうか。どうもヤクトには、彼女の行動がよくわからない。
「あ、そうそう。いいものあるんだ」
 突然カヤセが、小さな小瓶を取り出した。そして蓋を取ると、中には赤いゼリー状のものがあった。
「俺の非常食のジャムだけどな。このクッキーに付けると合うと思うぜ」
「お前……いつもジャムを持ち歩いてるのか?」
「ナカト村ではよく作られてるんだ。保存性もあるし、うまいから食ってみろって」
 そう言って、先に自分で食べてみせる。
「んー……じゃあ、ちょっとだけ」
 ヤクトもそのジャムをクッキーに付けてみた。
「……あ、うまいなこれ」
「だろ? ほら、イシェルさんも」
「いえ、私は結構です」
「そんなこと言わずにさ、一口でいいから食べてみてくれよ。絶対おいしいって」
 断っているのに、強引にジャムを差し出してくる。
「……わかりました。では、一口だけ」
しつこいので、イシェルは仕方なく一口分指ですくい、口に含んだ。
「……確かに、おいしいですね」
「だろ? だろ?」
ようやく満足したらしく、カヤセは笑みを浮かべた。
「村に着けばたくさんあるからな。たっぷり食べさせてやるよ」
 いくらおいしくても、それは遠慮したいと思うヤクトだった。
 そうして食事を終えて、少し休んでから、三人は出発した。
 イシェルが村らしきものを見たと言うので、その方向に進むことにした。

「……いよいよか」
 カヤセが呟く。
 あれから三十分。ゆっくりと空が白み始め、ナカト村までかなり近付いてきた。ファルクスの方も、村を目指して移動を始めたらしい。
 彼の表情も、段々と緊張したものになっていく。
「カヤセさん。言っておきますが、ファルクス相手に普通の武器は通用しませんよ」
 イシェルの言葉に、カヤセが首を傾げる。
「……どういうことだ?」
「ファルクスは異常な程の回復力がありますから、剣で斬られてもすぐに傷が塞がってしまうのです。そのため、専用の毒を使わないと、殺すことはできません」
「……毒、ねえ……。よくわからんが、武器が通じないなんてこと、ありえるのか……?」
「信じられないのはわかるが、本当だ」
 とヤクトが言う。
「俺が矢を命中させたっていうのに、何もなかったようにしてたんだからな……」
「ふ〜ん……」
「……ん? あ、あれ?」
 急にヤクトが立ち止まった。少し遅れて、イシェルも足を止める。
「どうしたんだ、二人とも?」
 彼らの前を通り過ぎたカヤセが、ゆっくりと振り返り、訊ねた。
「か、体がしびれて……な、何で急に……」
 手足を震わせ、苦悶の表情を浮かべるヤクト。
「私もです……」
 しびれた手をさすりながら、イシェルはカヤセに視線を移した。彼は一人だけ平気なようだ。
「……悪いな」
 そう言った彼の口元に、笑みが浮かんだ。
「実はさっき二人に食べてもらったジャムには、しびれ薬が入れてあったんだ。俺はあらかじめ解毒剤を飲んであるから平気だけど」
「な、に……」
 目を見開き、カヤセを睨み付けるヤクト。もううまくしゃべることもできない。
「村の掟で、祭りのとき以外はよそ者を入れてはならないことになっているんだ。知ってるだろ?」
「し……しか、し、今、は……」
緊急事態のはずだとヤクトは必死で訴える。
「ファルクス? そんな化け物なんて、いるわけないだろ? 今まで信じたふりをしてただけだよ」
 とカヤセは肩をすくめた。
「ま、仮に何か凶暴な奴がいたとしても、村の男たちが協力すれば倒せるさ」
「くっ……」
 ぎりぎり、とヤクトは奥歯を噛みしめる。裏切られた怒りよりも、悔しさの方が強かった。ファルクスは本当にいて、今ナカト村に向かっているのである。そしてそのことを信じられないカヤセは、絶対に後悔することになるだろう。口の中までしびれて話せないのがつらかった。
「二人のことは村議会にかけさせてもらうけど、世話になったし、できるだけかばってやるよ。……でも村に入ろうとしたことより、村の領地の獲物を殺したことの方が強く責められると思うから……俺なんかがかばいきれる自信はないなあ……」
 少しだけ申し訳なさそうな顔で、カヤセが言う。
「じゃあ俺、村の連中を呼んで来るから待っててくれよ。道に迷ったのは本当だけど、ここまで来ればわかるからさ」
 そして彼は二人に背を向け、歩き出す。
(ま、待て! カヤセ!)
 ヤクトの必死の叫びは、声にならなかった。カヤセは振り返ることなく、森の中へと姿を消してしまう。
(くそ……あのバカ……!)
 村が近いということは、ファルクスも近いはずである。もしかしたら、村の方はもう襲われているのかもしれない。
「ヤク、ト、さん……」
 とイシェルがたどたどしく声をかける。彼女の方がしびれが弱いのか、何とか言葉になるようだ。
「ファ、ルクスが……もう、すぐ村、に……」
「ぐっ……!」
 どうやら一番恐れていたことが、起きてしまいそうだ。しかもそれだけではない。
「こち、らにも……数、匹、近付いて、ます……」
 最悪の事態のようである。

 第四章

 森の中を歩きながら、カヤセはずっと考えていた。
(本当に、これでよかったのだろうか?)
 村の掟を守るためにやったことだが、まだ後悔があった。あの二人に出会ってから半日も過ぎていないが、話してみて悪い人物ではないと思った。しかし、彼らの言うファルクスという化け物の存在は、信じることができないでいた。
 彼らの格好は、どう見ても狩りをするためのものだった。ナカト村の者が森の奥には来ないと思って、ここまで来たに違いない。
(しかし……)
 同時に、疑問が沸くのも確かだ。例え狩りに来たとしても、肉食動物の仕業だとしても、あの死体の数は多すぎる。
(まさか、な。化け物なんかいるわけがない)
 そう信じて薬を盛ったのに、実行した後に後悔するのは悪い癖だ。
(……少し、急ぐか)
 ファルクスが村に近付いている、というイシェルの言葉を思い出し、カヤセは駆け足になった。また、彼らの言うことが本当かどうかも確かめたかった。
 しかし、それから何事もなく森の出口を見付け、カヤセはほっと胸を撫で下ろす。
「何だ、やっぱりあいつらの嘘か」
思わず口に出してみる。ここからだと、もう見慣れた家の屋根を見ることができた。ここまでは動物の死体も見かけていない。
安心したカヤセは、肩の力を抜いて歩き出した。
(まずは、村長に報告しないとな。いや、その前にレンの所に顔を出した方がいいかな。昨日帰らなかったから、心配してるだろうし)
 森を抜けると、幅が一メートル程の小さな川があるので、それを飛び越える。そして少し平地を進むと、そこはもうナカト村だ。
「ようやく着いたぜ」
 木の陰から、家の壁が見えるようになったそのとき、キィキィという鳴き声が聞こえた。それも複数だ。
「何だ?」
 声のする方を探すと、近くの木の根本にいるのを見付けた。黒い体毛の猿が二匹。カヤセに背中を向ける格好で座り込んで何かをしている。
「猿? 珍しいな」
 滅多に見かけない動物である。何をしているのか気になり、近付いてみると、くちゃくちゃと音がするのに気が付いた。そして広がる血の臭い。
「!?」
二匹の間に赤い物体が見えた。それは、首がなく、内蔵が引き出されていたが、間違いなく人間の形をしていた。胸に小さな膨らみがあることから、少女だとわかる。猿たちは、少女の肉を食べているのだ。
(……何だ……これは……?)
 その状況を理解できるまで、数秒の時間が必要だった。
 ふと、カヤセの気配に気付いた猿たちが、後ろを振り向く。
「ひっ」
 恐怖を覚えたカヤセは、思わず後ずさり、尻餅を付く。猿たちは、鋭い爪と牙を持ち、凶悪な顔つきをしていた。以前に見た猿のような、愛嬌などは欠片も持っていない。
「あ……う……」
 顔をひきつらせ、硬直したカヤセは動けないでいた。だが、そんな彼に興味はなさそうに、猿たちはまた食事を続ける。爪で肉を引き裂くと、吹き出した血が顔にかかったが、それを自分の長い舌でうまそうに舐め取った。
「……ファルクス……」
 彼らの姿を見て、カヤセはヤクトの言葉を思い出していた。
 そして村の方から、聞いたこともない獣の咆哮と、人々の悲鳴が聞こえてきた。
 どくんっ。どくんっ。
 自分の心臓の鼓動が、激しくなっているのがわかる。
本当だった。本当だったのだ。
 ファルクスは存在し、今ナカト村の住人を襲い始めている。しかしそのファルクスを倒しにきたはずの二人は、カヤセの盛ったしびれ薬により、森の中から動く事ができないのである。
(俺は……とんでもないことを……)
 しかもファルクスは、専用の毒がないと殺すことができないという。だが、今から二人のところへ戻っている暇はない。
「くそぉぉぉぉぉっ!」
 絶叫し、カヤセは全力で走った。一番大切な、恋人レンのもとへ急ぐために。彼女の作ってくれたこの槍で、彼女をファルクスから守るために。

 カヤセと別れてから数分。ヤクトの全身はびりびりとしびれ、感覚がないままだった。
(くそっ……このままじゃ……)
ナカト村も、ラグナス村と同じ運命を辿ることになってしまう。
 何とか進もうとするのだが、足に力が入らなかった。
しかもイシェルの話では、こちらに向かって来ているファルクスもいるという。この状態では、抵抗らしい抵抗もできないだろう。
(俺もファルクスに食われる……)
妹のように。多くの村人たちのように。仇も討てずに、食われてしまうのか。
 絶望から、ヤクトの目には涙が浮かんでいた。
 頼みのイシェルもこの展開は予想外だったのか、先程からずっと目を閉じ、黙ったままである。――いや。すっ、とその体が動いた。
(え?)
 彼女はそのままヤクトの正面に来て、彼の顔を見据える。
「私の体にはあらゆる異常を治す抗体があるんです。それがようやく効いてきました」
 そう言うと、イシェルはさらに一歩近付き、ヤクトの顔に両手を添えた。
(な、な、な、何だっ!?)
互いの息がかかる距離である。彼女の綺麗な瞳に見つめられ、こんなときだというのにドキドキしていた。
「私は怪我を治す薬しか持っていません。ですからこれしか方法がないんです」
(え?)
ヤクトが言葉の意味を理解するより早く、彼女の唇が押し付けられた。そして口の中に舌が入ってくる。
「んんっ」
暖かい感触。キス、だった。女性と付き合ったことのないヤクトには、初めての行為である。
 すぐに唇は離れたが、ヤクトは呆然としていた。
(……キス、だよな。これ……)
イシェルがそういうことをするとは、信じられなかった。
 彼女は説明する。
「私の唾液にしびれ薬の効果を消す抗体が含まれていますので、あと二、三分もすれば動けるようになるはずです。こちらに向かっているファルクスとの戦いには間に合うでしょう」
「…………」
 なるほど、とヤクトはようやく働き始めた頭で何とか理解した。つまり、彼女の体はしびれ薬の解毒剤を作り出すことができたため、それを飲ませるための行為だったわけだ。
「しかし、非常時とはいえ、失礼なことをしてすみませんでした」
 とイシェルは謝る。
「いや……気に……しないで……」
 さっそく効いてきたらしく、何とか出せる声で彼女を慰める。
初めてのキスに少し感動したヤクトだったが、好意のためのものではないのが同時に少し残念だった。しかも相変わらず無表情なので、今の行為をどう感じたのか、感情がさっぱり読み取れなかった。
(女って……いや、イシェルってよくわからん……)
そんなことを考えている間に、体のしびれは取れ、何とか戦う準備はできた。
「来ます」
「よしっ」
 弓を構えつつ、木の陰になり待ち伏せする。
 姿が見えた。やや小型だが、虎と熊のような姿だ。しかし、二匹とも毛はなく、皮膚が爬虫類のように鱗状になっていた。ファルクスの方も人間の匂いがわかるため、正確にこちらに近付いてくる。
(待っていろ、カヤセ。こいつらを倒したらすぐに行くからな)
 一度は裏切られたヤクトだが、それは無理のないことだとわかっていた。今頃後悔しているであろう彼を、早く助けに行かねばならない。
「いくぜっ!」
 ヤクトは木の陰から飛び出すと、遠距離から最初の矢を放った。

 あれからカヤセは、すぐに村の中に入った。そして進んでいくうちに、次々と信じられないものを目にする。
(……本当に、ここは俺の村なのか……?)
 家は潰され、死体はいくつも転がっており、異形の化け物が徘徊している。さらにあちらこちらから、化け物の歓喜の声と、人々の恐怖の声が聞こえてきた。
「……レ、レン……。レン!」
 カヤセは焦る気持ちで、真っ直ぐに彼女の家を目指した。
 途中、誰の者かもわからない肉片がいくつも目に付いた。
(まさかレンも……いや、不吉なことを考えるのはやめよう)
 カヤセは慌てて首を振った。
 見た感じ、ファルクスの数は五匹程。
 他は森の中で見たように、どこかへ行ったのだろう。
(しかし……みんなどこへ行ったんだ?)
 森の奥にでも逃げたのだろうか。動いている人間を、あまり見かけない。
「はあ……はあ……。レン!」
 荒い息をしながらも、ようやく彼女の家に到着すると、すぐに中に飛び込む。だが、ここにも誰もいないようだった。
「レンはうまく逃げたみたいだな」
 とりあえずそう信じることにして、カヤセは後回しにしてしまった他の村人を助けることにした。
「確か、向こうの方で誰かの悲鳴が聞こえたような……」
 潰れかけた家の陰に隠れながら、カヤセは進んでみた。
「お、お兄ちゃん!」
 ふいに自分を呼ぶ声がした。
 潰れた家の所に子供がいる。服は泥だらけだ。
「お、お前、何やってんだ?」
 近所にいる幼い兄妹の兄の方、レムスだ。カヤセもよく遊んでやっている。
「お兄ちゃん! 助けてよ!」
 普段あまり泣かないレムスが、泣き叫んでいる。
「クスナが! クスナが!」
「落ち着け! 今行く!」
 カヤセはファルクスが近くにいないことを確かめながら、必死で走る彼の後へ続いた。
 そして、状況を理解して目を見開く。
「これは……!」
 妹のクスナが、潰れた家の下敷きになっていた。
 幸い怪我はしていないようだが、柱が邪魔で抜け出せないらしい。
「お兄ちゃん! クスナを助けて!」
 レムスがしがみついてくる。
「わかった。危ないから、お前は離れてろ」
「う、うん」
「よし……やるか」
 カヤセは柱をつかんだ。
「もう少しの辛抱だからな。俺が柱を持ち上げたら、素早く出てくるんだ」
「う、うん」
 と泣きながらクスナは答える。
「よし、いくぞ」
 カヤセは力を込めた。
 柱がかすかに震える。
 さすがに重いが、ここは頑張るしかない。
「ぬううううりゃあああっ!」
「あっ、持ち上がった!」
 レムスが声を上げる。
 わずかな高さだが、子供が通るには十分である。
「い、今だ! 早く出ろ!」
「う、うん!」
 クスナは慌ててそこから抜け出した。
「ぶはっ!」
 力を抜いて手を離すと、柱は上にあった屋根と共に、大きな音を立てて崩れだした。
「うわっ! 逃げろ!」
 カヤセは二人を連れてそこから離れる。
「ふうっ……、危なかったな」
「うわ〜ん! お兄ちゃ〜ん!」
 クスナがレムスに泣き付いた。
「ありがとう、カヤセお兄ちゃん」
 妹の背中を「大丈夫」と撫でながら、レムスは礼を言う。
「でも、あの化け物は一体何なの? 凄い悲鳴が何度も聞こえたんだ。それに……」
 彼は妹を抱きしめながら、体を震わせた。
「……もういいよ。あの化け物の正体は俺にもわからん。それより、みんなはどこへ行ったんだ? レンは?」
「わかんないよ。僕、ずっとここにいたから」
「そうか……。ともかく、あの化け物に見付からないように、みんなを探そう」
「う、うん……。……あっ」
 レムスは小さな声を上げた。
 体を硬直させ、目は恐怖に見開かれている。
(……まさか!?)
 カヤセは咄嗟に後ろを向いた。
 やはり、ファルクスだ。
 家くらいはある、大きなカマキリのようだが、色は茶色で、全身の肉がぶくぶくと膨れているように見える。
「くっ……いつの間に!?」
 カヤセは後退った。
 二人の兄妹は震えている。
「お前ら、こいつは俺が何とかするから、早く逃げろ!」
「……に、逃げるって、どこへ……」
「どこでもいい! 化け物に見付からない所だ! 早く行け!」
「…………」
 レムスはかすかに頷くと、クスナの手を引いて走り出した。
「うまく逃げてくれよ……」
 カヤセは槍を構えながら呟いた。
 カマキリは、鎌状の前足をカヤセに向けている。
 あれにつかまったら、おそらく命はないだろう。
「とりあえず、あいつらから引き離すか」
 カヤセはカマキリの後ろに回り込もうとした。
 しかし、途中まで進んでも、一向に付いてこようとする気配がない。
「ちっ……俺より子供の方がうまそうだってか……」
 仕方なく、カヤセは元の位置に戻った。
(……さて、どうする?)
 カマキリに動く様子はないが、こちらも動けない。相手は大きい上に、昆虫型だ。素早くて力もある。うかつに攻撃を仕掛けることはできない。
(……ここは引いた方がいいか?)
 あの兄妹もうまく逃げたようだ。それに本当に普通の武器が通じないというなら、ここは無理をしない方がいいだろう。
(……引こう)
 そう決断し、一歩後退った時だ。
 突然、カマキリが二、三歩歩み寄り、カヤセに向かって前足を振り下ろした。
「!?」
 咄嗟にカヤセは、槍を水平に持ち、防ごうとした。
 しかし、その槍は何の効果もなく、あっさりと折られてしまった。
 体に傷こそ付かなかったが、上着が腹の辺りまで裂かれた。
「そんな……!」
 だが、驚いている暇はない。
 仕方なくカヤセは逃げた。
 槍は折れたが、レンの作ってくれたものなので、捨てずにそのまま持っていく。
「くそっ! どうしたら……」
 こうなると、ヤクトとイシェルに薬を盛ってしまったことが、どうしようもなく悔やまれる。とりあえず、カヤセはカマキリの視界から外れるよう、横道に入り、家の陰に隠れた。そこで思わず、目を見開く。
「なっ……お前ら……!?」
 レムスとクスナの兄妹が、二人で抱き合うように、縮こまっていた。
「何でここにいるんだ! 逃げろって言っただろ!」
「だ、だってだって……」
 とレムスが、鼻をすすりながら言う。
「どこに行けばいいのか、わからなかったんだもん……」
「だ、だからって、こんな危ないところに……」
 言いかけたカヤセだったが、
「ひっ」
 と突然クスナが息を呑み、呆然としながらレムスに強くしがみついた。
 はっとカヤセは気配を感じ、後ろを振り返る。
 少し離れたところから、ファルクスが二匹、こちらに向かって来ていた。全身真っ黒な大蛇と、異様に足の長いトカゲである。このままでは、反対側から来るカマキリとに囲まれてしまう。
(……くそっ……もうだめか……)
 カヤセは周囲に視線を巡らせる。
(どこかに逃げ道は……)
 しかし、ここに来た時にわかっていたことだが、やはりそんな場所はない。
 その間にも、少しずつファルクスが間合いを詰めてきている。追い詰めた獲物を、弄ぶかのように。
「お兄ちゃん……」
 レムスが助けを求めるように、カヤセを見上げている。
「…………」
 彼は唇を噛み締める。
 このままでは、この二人どころか、自分さえも守ることができそうにない。
(もっと力があればな……)
 何だかおかしくなってきて、カヤセは小さく笑った。
「お、お兄ちゃん……?」
 レムスが不思議そうに見る。
「……何でもない」
 カヤセはそう言って、二人の頭を撫でた。
「いいか、俺が何とかしてあの化け物を引きつけるから、お前らは今度こそちゃんと逃げるんだ」
「えっ……で、でも、お兄ちゃんは……?」
「俺のことは心配するな。別に死ぬつもりはない」
「で、でも……」
「レムス! お前兄貴だろう!? だったら妹を守れ!」
 カヤセに怒鳴られ、レムスは思わずびくっとする。
「……お兄ちゃんをいじめないで……」
 一瞬の沈黙の中、クスナが小さく呟くように言った。
 カヤセは優しく微笑む。
「妹がこう言ってるぞ。俺にいじめられたくなきゃ、さっさと行けよ」
「う……うん。気を付けて……」
 レムスはクスナの手を引いて、走り出した。
「さてと……」
 カヤセは折れた槍を地面に捨てた。もうレンの作ってくれた物だとか、言っている場合ではない。
 そして滅多に使うことのない、腰の短剣を抜いて、構えた。実はこちらは苦手な武器なのだが、槍が使えない以上、仕方ない。
「すー、はー」
 大きく一つ、深呼吸する。
「――やるか」
 とカヤセは呟いた。
 正面からは、蛇とトカゲのファルクスが、すぐ近くまで迫っていた。

「わぁぁっ!」
「やだぁっ!」
 正面のファルクスを引き付けるため、走り出そうとしたカヤセだったが、レムスとクスナの悲鳴に、思わず後ろに目をやった。
「……嘘だろ……」
 最悪の状況に、彼は顔を引きつらせる。
 立ちすくむ二人の前には、カマキリがいた。あくまで子供の方を狙うつもりらしい。
「どうしろって言うんだよ……」
 助かる方法を必死に考えるが、何も、浮かばない。
「お、お兄ちゃん……」
 二人の兄弟は、震えながらこちらを見ている。
「く、くそっ!」
 カヤセは蛇とトカゲに背中を向け、走り出した。
 やれる所まで、やるしかない。
 それが彼の出した結論だ。
 これで駄目なら……いや、そんなことは考えない。
 カヤセはとにかく全力で走った。
「逃げろーっ!!」
 そう叫んだが、二人は動けそうにない。
 カマキリも、鎌状の前足を振り下ろそうとする。
 カヤセとの距離は、まだあった。
(間に合わない!?)
 全身が、ひやりとした。
 レムスとクスナが、目の前で殺される――。今まさに、前足が振り降ろされ、それが現実のものになろうとする瞬間。
 横から、誰かが飛び出した。
「!?」
 その誰かは、手を伸ばして跳躍し、二人を勢いよくその場から押し退ける。兄妹が激しく地面に体を打ち付けた、その直後。
 助けに入ったその体を、前足が貫いた。
 ごふっと血を吐きながらも、その長い髪の持ち主は、まだ側にいる二人を懸命に押して、前足に取られないようにする。
 だが、無情にもカマキリは前足を動かし、貫いた部分から外に引き裂いた。体が半分に千切れ、大量の血が吹き出す。長い髪は真っ赤に染まり、側にいたレムスとクスナにも降りかかった。
「…………」
 カヤセは自分の目を疑った。
 あの長い髪には、見覚えがある。
 ありすぎる。
「……レ、レン……なのか……?」
 心臓が止まりそうになった。
 全身を血で染めた彼女は、ぐったりとして動こうとしない。
「……レ……レ……」
 呼ぼうとしたが、声がかすれて言葉にならなかった。
 その間にも、カマキリは彼女を口許に持っていこうとする。とりあえず、手にしたものを食べるらしい。
「や……やめ……」
 止めさせないと。
 そう思うカヤセだが、足が震えて進むことができない。
「あ……ああ……」
 絶望し、カヤセは膝をつく。
 泣いているクスナの声も、苦しげに呻くレムスの声も、どこか遠い世界のものに思える。 ふいに、右肩に痛みが走った。
 見ると、蛇が食らい付いている。
 そして一瞬遅れて、トカゲが左手を飲み込んだ。
「……終わりかな……」
 何だか、全てがどうでもよくなってくる。感じる痛みも、どこか遠くのものに思えた。
 だが、そんなとき、自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえてきた。
「カヤセっ!」
 それに反応して顔を上げると、大きな音を立てて、前足が落ちてきた。
 そして右肩の蛇が、続いて左手のトカゲが、悲鳴を上げてカヤセから離れる。
 力が抜け、倒れかけたカヤセを支えたのは、いつも通り感情のない表情と声のイシェルだった。今の彼には、それも懐かしく思える。
「しっかりしてください、カヤセさん」
「……イ……イシェル……さん……」
これは夢なのだろうか。薬で動けないはずなのに、どうしてここにいるのだろう。
 そう思いながら彼女を見て、カヤセは「あっ」と声を上げた。
 イシェルが、血まみれの少女を抱えている。その視線に気付き、彼女は少女をカヤセの手に渡した。
「この人が……レンさんなんですね」
「あ、ああ……そうだよ……。へへっ……美人だろ……」
 カヤセは、少女をしっかりと抱き締めた。
 その体は、腹から左側にかけて、大きく引き裂かれている。内蔵も飛び出していた。
 食い付かれた右肩も、左手も、大きな傷となっていたが、痛みはない。あるのは心の痛みだ。
「……お、俺……彼女を、守ってやれなかった……」
 カヤセは苦しそうに泣き始めた。そしてそのまま、意識を失ってしまう。
「…………」
 イシェルはレンを彼の隣に置き、そっと離れた。
 そして血まみれで倒れている兄妹の側に行く。地面にぶつけて怪我をしたようだが、大したことはなさそうだ。ただ、今はあまりのショックに気を失っているようである。
ぶん、とふいに空気が唸った。
 イシェルの頭上をめがけて、カマキリの前足が迫る。片足を奪われ、怒り心頭のようだ。
 だが、その前足が彼女に触れることはなかった。
 ザシュッ!
 ヤクトの放った矢が、その前足に突き刺さった。そして刺さった部分からすぐに毒が広がっていき、次々と細胞を殺していく。カマキリは悲鳴を上げた。
「イシェル、こいつは俺が引きつけるから、早くその子たちを!」
 ヤクトは立つ位置を変えながら、次々と矢を放った。
「はい」
 と返事をして、イシェルはレムスとクスナを小脇に抱える。二人は血まみれだったので、イシェルにもべったりと血が付いた。しかし気にすることなく、カヤセとレンの所へ一カ所にまとめた。こうしておけば、ファルクスから守りやすくなる。
 だが、それももう必要なさそうだ。ヤクトはカマキリを倒し、今は蛇とトカゲを相手にしているが、その二匹も最初に受けた毒が効いて、既に虫の息である。
しかしまだ油断はできない。イシェルは他のファルクスの反応を探ってみた。
(……村に残っているのは、あの二匹だけか……)
 来る前にはもっといたはずだが、既に移動したらしい。つまり、食事の時間は終わりということである。
(やはり、手遅れか……)
ふと、イシェルは随分太陽が高くなっていることに気付いた。本来なら朝食時のはずだが、この村にあるのは血の臭いだけであった。

 そうして程なくして、ファルクスは倒れ、イシェルは薬で死体の後始末をする。
「はぁ……さすがに疲れたな……」
 ヤクトは地面に座り込み、呼吸を整えた。森の中で襲って来たファルクスを倒した後、急いで村に向かい、着いたらまたすぐに戦闘である。かなり体力を消耗してしまった。
「カヤセはどうだ?」
「このくらいの怪我でしたら、私の薬で治せます。ですが……」
 と気を失ったままの彼を見て、イシェルは答える。
「精神的に立ち直れるかどうかは、わかりませんね」
「そうだな……」
 ヤクトは深くため息を付く。
 あれだけ恋人を守ってみせると宣言していたのに、結果は悲惨なものだった。
 彼でなくても、心が痛む。
「どうします? カヤセさんは」
 イシェルが訊ねた。
 ここに置いて行くのか、それとも連れて行くのか。
「悩むところだな……。まあ、ここにいて悩んでいるより、連れて行った方が彼のためだと思うけど……」
「では、そうしましょう」
「……いいのか? そんなあっさり決めて」
「ヤクトさんがいいなら、私は構いません」
「…………」
 そういうことらしい。となると、カヤセが目を覚ますまで、二、三日はここにいることになりそうだ。
 しかし、ほとんどの家は壊され、村人たちも五十人近くが死に……。
「……ん?」
 ヤクトはおかしなことに気付いた。
 とっくにファルクスはいなくなったというのに、村人が現れる様子が全くない。
「どういうことだ?」
ナカト村には百人以上の人間がいたはずである。ほかの村人が跡形もなく食われたということは、まずないだろう。
 遠くまで逃げてしまったのだろうか。化け物が出る村になど、戻るつもりはないのかも知れない。
「うわぁぁーんっ!」
突然の大声。ヤクトとイシェルが振り返ると、目を覚ましたクスナが、目を真っ赤にして泣き叫んでいた。
「みんな、みんな死んじゃったよーっ!」
「…………」
ヤクトは唇を噛みしめた。幼すぎる彼女には、つらい出来事である。
「お兄ちゃん、起きてよーっ!」
 隣で寝ているレムスとカヤセをゆさゆさと揺らす。その隣のレンの方はさすがに見られないらしく、顔を背けながら彼女は何度も続けた。しかし、二人はなかなか目を覚まそうとはしない。
「わぁぁぁーっ!」
力の限り泣き叫ぶクスナ。
「大丈夫」
 そんな彼女に、イシェルはそっと近付き、優しく抱きしめた。
「お兄さんは寝ているだけですから、すぐに目を覚ましますよ」
「ううっ……ほ、本当?」
 しゃくり上げながら、何とか聞き返す。
「本当です。だから泣かないで」
「う、うん……ぐすっ」
 無表情のまま、イシェルは頭を撫で続ける。
 そんな彼女を微笑ましく思いながら、ヤクトは次の問題に頭を抱えた。
(どうする……?)
レムスとクスナのことである。
 カヤセはともかく、まさかこの幼い兄妹を連れて旅に出るわけにはいかない。かといって、誰もいないこの村に置いていくわけにもいかないだろう。
「……そうだ。イシェル、頼みがあるんだけど」
「何でしょう」
「レムスとクスナを、俺の村に連れて行ってやってくれないか」
「えっ……」
 とクスナが驚く。
「この二人を旅には連れていけない。俺の友人に頼めば、きっと引き受けてくれる」
「……私は、あなたから離れるわけにはいかないのですが……」
「それは知っている。けど、今は戦っているわけじゃない。危険はないはずだ」
「…………」
 イシェルはファルクスの反応を探ってみた。そんなに遠くではないが、ほとんど人のいない村に、また来たりはしないだろう。仮に戻ったとしても、イシェルならラグナス村まで数時間で往復できる。問題ないはずだ。
「……わかりました。引き受けます」
「そうか、よかった」
 ヤクトはさっそく、友人の特徴を説明した。彼には母のことも頼んでいるのだから、感謝しなければならない。
「君が帰るまで……そうだな。俺は墓でも作っているよ」
 説明を終えると、ヤクトは苦笑混じりにそう言った。
「あたしとお兄ちゃん、どこへ行くの?」
 不安そうにクスナが訊ねた。
「俺の村だよ」
 ヤクトは優しく微笑み、彼女の頭を撫でて言う。
「俺の村もひどい状況だけど……いい人ばかりだから、大丈夫だよ。用事が終われば、俺もカヤセもそこに行くから」
「……本当?」
「ああ、だから待っていて」
「うん……」
 幾分安心したのか、クスナはわずかに笑みを浮かべた。
「それからイシェル、出発前にその体中に付いた血を洗い流した方がいいな。カヤセの方は俺が面倒見るから、二人の方は頼む」
「わかりました」
 イシェルは寝ているレムスを抱え上げる。
「とりあえず着替えを用意しましょう。クスナさん、家を案内してください」
「い、いいけど……もう潰れてるよ」
 そう言って、顔を沈ませるクスナ。
「でも、服は残っているはずです。行きましょう」
「あ、待ってよ、お姉ちゃん」
先に歩き出したイシェルの後を、クスナは慌てて追いかけた。
「イシェルに任せておけば大丈夫だな」
ヤクトは安心していた。一見冷たそうだが、面倒見は良さそうである。
「……しかし」
 とヤクトは呟き、レンの隣で意識を失ったままのカヤセを見た。
「こいつが目を覚ましたとき……つらいな……」
 レンの体は半分に千切れ、内蔵も飛び出しており、とても正視できるものではない。最愛の者のそんな姿は、誰だって見たくないはずだ。
「さて、と」
 ヤクトは立ち上がった。
「……墓、作るか」
 レンだけではない。殺された村人は何十人といる。大変な作業ではあるが、せめて墓くらいは作ってやりたかった。
「まずはシャベルを探さないと」
 そのために、彼は各家を探し始めた。

 それからしばらくした後。イシェルは目を覚ましたレムスとクスナを、見付けた手押し車に乗せ、ラグナス村へ向けて出発した。もちろん森の中を通るわけではなく、村同士を結ぶ本来の道をヤクトが教えてある。
 彼女は数時間で戻ってきたが、いまだにカヤセは眠ったままだった。

 第五章

「ほら、見て。とっても綺麗に咲いてる……」
 彼女は、自分の育てた花たちを見て、カヤセに笑顔を向けた。
「花には心があるの。だから大事に育ててあげると、その思いを感じ取って、もっと綺麗に咲こうとするのよ」
「う、うん……」
「……もう、どうしたの? 何だか元気がないわね?」
「き、君の方が……綺麗だよ」
 と、カヤセは唐突に言った。
「……え?」
 彼女は、きょとんとする。
 彼は真っ赤な顔で、必死に言葉を出していた。
「お、お、俺が、ずっと守ってやる!」
「…………」
 彼女はしばらく呆然としていたが、やがて小さく吹き出した。
「もう、やあね。何を必死に言い出すのかと思えば」
「…………」
 カヤセはうつむいた。
(やっぱり、だめだったか……。そりゃ、そうだよな。彼女はやさしくて、美人で……村のみんなの人気者なんだ。俺なんかじゃ釣り合わないよな……)
 と、自分の言葉に後悔しながら……。
「……でも、ありがとう。そこまで言うなら、守ってもらおうかな」
「えっ……?」
 思わず顔を上げる。
 彼女――レンは、優しく微笑んでいた。
「あ……」
 ようやく意味がわかった。
 彼女は受け入れてくれたのだ。
 自分の思いを。
 だが――。
 突然、レンの後ろに巨大なカマキリが現れ、彼女を捕えた。
「なっ……!」
 すぐに助けようとするが、花が蔦のように伸びて、カヤセに絡み付いてきた。
「何だ!? くそ、離せ!」
 だが力を込めても、指の先さえ動かすことができない。
 その、彼の目の前で、カマキリはレンの胸を貫いた。
「……!」
 そして、首筋に食らい付く。
(ああ……)
 守ると言ったばかりなのに。
 なのに、何もできないなんて。
 次の瞬間、嫌な音がした。
 カマキリが、首を食い千切った音だった。
「レン……!」

 そこで、目が覚めた。
「お、ようやく起きたか」
 ヤクトの声がする。
 壊れかけた天井が見えた。射し込む日の光と、肌に感じる隙間風。全身の冷や汗と、早鐘を打つ心臓の鼓動。
 意識がはっきりしてきて、カヤセはここが現実だと認識した。
(……夢、か……)
レンが殺された瞬間が、再びイメージされる。
 なんて最悪な夢だろう。
 相当まいっているのだろうか。
(やれやれ……)
 カヤセは体を起こした。
 どうやら一番壊れていない家の布団に寝かせてくれたらしい。部屋の中にはヤクトの他に、イシェルもいた。
 そして周りを見渡した後、ふと気が付く。
 確か左手と右肩をファルクスに食われかけ、大怪我をしたはずである。なのに、その場所には傷跡すらない。
「イシェルの薬で治したんだよ」
 カヤセの側に来て、ヤクトが言った。
「あれは効き目が早いからな」
「そうか……」
 と、二人とそういう薬の話をしたことを思い出す。
「ありがとう……」
 同じく側に来た彼女に、小さく呟くような声で礼をする。
 それでも聞こえたらしく、イシェルは「どういたしまして」と言った。
「……そうか……俺は助かったのか……」
 カヤセは大きく息を吐き、両手を頭に組んで後ろに倒れる。
「レムスとクスナは無事なのか?」
「ああ、君の恋人のおかげでね。二人とも無事だよ。……もっとも、今はここにいないけど」
「……ん?」
 どういうことだ、とカヤセは訊いた。
 ヤクトは説明する。
 二人とも、ラグナス村にいて、カヤセが来るのを待っているということ。
 助かった村人が、どこかへ移動したらしいこと。
 それから、死んだ者の墓を作ったことも話した。
「そっか……村には誰もいなくなったのか……。でもまぁ、あの二人が助かってよかったよ……」
 カヤセは再び布団から起き上がった。
 そして、軽く伸びをする。
「食事の用意、してありますよ」
 とイシェルが言ったが、
「ああ、でもその前に……」
 彼は外に出るドアまで歩くと、振り返った。
「……墓はどこにあるんだ? とりあえず墓参りしておかないと、安心して食事もできないよ」
「……そうですね」
 三人は、家を出て墓に向かった。

 村の端の方に、墓があった。
 もっとも、墓と呼べる程、たいしたものではないのだが。
 半円型に盛り上がった土が、横に、縦に、びっしりと並んでいる。
 誰のものかもわかりはしない。
 しかし、それはヤクトが知るはずはないのだから、仕方のないことだ。
 他にお参りに来る者もいないだろうが、これは墓だった。
「こんなにたくさん……」
 カヤセは呟いた。
「……大変だったな、ヤクト」
「えっ? ……ああ、いや。ほら、あそこがレンさんのだよ」
 ヤクトは指を差した。
「そうか……」
 カヤセはゆっくりと近付いていく。
 ヤクトとイシェルは、そこからそっと立ち去った。
「……レン……」
 カヤセは腰をおろし、土を軽く撫でてみた。
「ごめんな……。守ってやるなんて言っておきながら、俺は何もできなかった……」
 涙が出そうになったが、我慢して堪えた。
「……それに比べて、君は立派だよ。レムスとクスナを、しっかり守ったんだ……」
 カヤセは、大きくため息を付いた。
「俺……何だか、自分が情けないよ……」

「……カヤセの奴、大丈夫かな……」
 料理の並べられたテーブルに付き、ヤクトは頬杖を付いて言った。
「心配ですか?」
 とイシェルが振り向く。
 ヤクトは失礼にも驚いてしまったが、この料理は彼女が作ったものだった。
 たいした材料はないというのに、なかなかのものが並べられている。
「……少しね。ショックでふさぎ込まなけりゃいいんだけど……」
「誰が、ふさぎ込むって?」
 突然ドアが開かれた。
「カヤセ?」
 彼は、何故か笑みを浮かべている。
「俺は、落ち込んだりしない。一緒に連れて行ってもらうぞ。そして、レンの仇を討ってやる。そのために、ここにとどまっていたんだろ?」
「……心配無用、だったかな?」
「当たり前だろ。それより腹減ったよ。お、うまそうなものがあるな。これ全部もらうぞ」 カヤセはテーブルに飛び付いた。
「おいおい……腹壊すぞ……」
 ヤクトが苦笑する。
「なあ、イシェル……」
 と隣の彼女を見て、思わず息を呑んだ。
 かすかにだが、イシェルが笑顔を浮かべていたのだ。
 だが、それも一瞬のことで、また元の無表情な顔に戻っていた。
(……今のは錯覚? 俺の気のせいか?)
 無遠慮に彼女の顔をじろじろ見ていると、イシェルが彼の方を向いた。
「どうしました?」
「あ、ああ、いや、何でもない……」
 驚いて、心臓の鼓動が早くなってしまった。やはり、いつものイシェルのようだ。
 ふう、と一呼吸して落ち着かせる。
(でもとにかく、カヤセが元気でよかったよ。まあ、カラ元気だとは思うけど、落ち込んでるよりはましだしな)
 そのカヤセは、おいしそうに料理を食べている。
「ほらほら、ヤクトもイシェルも早く食べないと、なくなっちまうぞ」
「あのなあ……食べ過ぎはよくないぞ」
 そう言いながら、ヤクトも手を付け始めた。そして、イシェルも料理を口に入れる。
 カヤセは、その様子をじっと見ていた。森の中で、彼女が食事をする所を、一度も見ていなかったからである。
「ふ〜ん、やっぱり普通に食べるんだな……」
「失礼だぞ、カヤセ」
 とヤクトが叱る。
「いいんです。奇異の目で見られても仕方ありませんから」
 スープを飲みつつ、イシェルは言った。
「いや、そういう意味じゃ……。ごめん、イシェルさん」
「気にしないでください」
と彼女は言うが、感情が読めないので、どうもカヤセはやりにくい。
そしてこれからの予定を話し合いながら、食事は続けられた。カヤセが眠っている間に、今後のルートは既に決められていたらしい。とりあえず、しばらく休憩の後、すぐに出発することをヤクトは伝える。
「では、私は少し失礼します」
 イシェルが席を立つ。
「どこ行くんだ? 便所か?」
「お前な……」
 無神経なカヤセの言葉に、呆れるヤクト。
「……すぐ戻りますから」
彼女は家を出ていった。
「う〜ん……」
 とカヤセは困ったように眉を寄せ、頭を掻く。
「……怒らせたかな?」
「かもな。女性にそういうことを言うのは失礼だぞ、カヤセ」
「いや、わかってるけど……。イシェルさんの行動があまりに普通なんで、つい……」
「ま、確かに」
 とヤクトは頷く。相変わらず無表情な彼女ではあるが、この村に来てからというもの、一緒に食事をしたり眠ったりと、かなり人間らしい行動を見せるようになった。
「心を開いてくれたってことなのかな?」
「だといいけど」
 しかし、もしそうなら嬉しいことである。
 ヤクトは、先程一瞬思い描いたイシェルの笑顔を、いつか見られる日が来るのではないかという気がしてきていた。

 二人がそんな会話をしているとき。イシェルは少し離れた木の陰で、先程の食事を口から吐き出していた。
「ううっ……ごほっ」
 噛み砕いただけで、少しも消化されていない料理が出てくる。彼女はそれに土をかぶせて、誰にも気付かれないようにした。
「……やはり、私には普通の食事は合わないようだ」
 少し苦しげに息を吐き、口許を拭う。そしてジャケットの内ポケットから白い錠剤を取り出し、一粒だけ飲み込む。
 そう。彼女――つまり、ハンターの食事は、この錠剤のみである。他のものは一切、水さえも受け付けないのだ。この錠剤にはあらゆる栄養素や、ハンターの能力を引き出すためのエネルギー源が含まれており、唾液に溶けることで反応するのである。
しかし、何故食事が錠剤だけで済むのに、彼女はヤクトたちと料理を口にするのか。それは、同じ食事を取ることで、自分も彼らと同じだとアピールするためである。
 彼女のような特異な存在は、他人からすれば妬みの対象になりやすい。そしてあまりにかけ離れた能力は、時に他人を遠ざける。自分一人であれば例え奇異の目で見られようと気にしないが、今回の任務はヤクトと一緒でなくてはならない。彼に不信感を抱かせては困るのだ。
きっかけはカヤセだった。彼の信頼を得られなかったばかりに、ナカト村は多くの死者を出してしまった。同じようなことを、ヤクトにも起こされるわけにはいかないのだ。そのためのコミュニケーション手段である。
「……しかし、あまり長くは続けられないな……」
 体が拒否反応を起こすため、錠剤の効きが悪いのだ。今はいいが、ファルクスとの戦闘のときは危険である。戦いが近いときは、何とかごまかさなければならなかった。

 それから、三人はさっそく出発することにした。
 ナカト村が襲われてから既に三日が過ぎており、ファルクスとの距離は大分離れてしまっている。しかし、逆に離れたおかげで、ファルクスが次にどこへ向かっているのか特定することができた。ラグナス村やナカト村を含むこの国の首都、アスランの町である。
 やはり森の中を通るのだが、そこまではきちんとした道ができている。その道を進めば、無駄な体力を使うことなく、かなり早く着くことができるだろう。
「カヤセさん、これを」
 準備も整い、いよいよ村を出るときになって、イシェルが槍を差し出した。
「使えるものがないか探していたときに見付けたんです。刃先に毒を塗っておいたので、これでファルクスを殺すことができます」
「…………」
 カヤセは無言で受け取った。そしてしばらく見た後、ぽつりと呟く。
「……そうか。出来上がっていたんだな……」
「……もしかして、それお前の彼女が作ったものか?」
とヤクトが訊ねた。
「ああ。槍を使うのは村で俺だけだからな」
 カヤセは少し離れ、その槍を軽く振り回してみる。
そして小さく息を吐いた。
「……あの時これがあれば……レンを守れたかな……」
「…………」
 沈黙が降りた。
「あ、いや、悪い。今のは聞かなかったことにしてくれよ。あははは……」
 カヤセはさっさと歩きだす。
「さあ、行こう行こう」
「おい、行くのはそっちじゃないぞ」
 ヤクトが声をかける。
 彼は反対方向に向かっていた。
「さ、先に言えよ」
 恥ずかしそうに、慌てて戻ってくる。
「カラ元気も、程々にな。見え見えだぞ」
「ちぇっ……」
「とにかく、早く行きましょう。ファルクスはかなり遠くまで行っています」
 イシェルが顔だけ向けて言う。
「ああ、そうだな。ほら、カヤセ」
 ヤクトがぽんと彼の肩を叩いた。
「お、おう。……じゃ、行って来るよ、レン」
 カヤセは彼女の墓の方を見て、しばしの別れを告げる。
 そうして三人は、アスランの町を目指して歩き始めた。

 天気は快晴だった。周囲を木々に囲まれ、代わり映えのしない景色の中、三人はひたすら進んでいく。
 やがて暇なのか、カヤセが話しかけてきた。
「あのさあ……」
「ん?」
 ヤクトが顔を向ける。
「ファルクスって、人とか、とにかく肉を食うためにうろつき回ってるんだよな?」
「ええ。彼らの食料ですから」
とイシェルが答えた。
「……だよな。でもさ、このペースでいくと、そう時が立たない内に食料が尽きるんじゃないのか?」
「あ……そうだな。仮にそうなったとすると、ファルクスの奴等どうする気なんだろう?」
 ヤクトが首を傾げる。
「ファルクスに、考えなんてありませんよ」
 イシェルが言う。
「彼らは本能で動いているだけです。先のことまで考える知能なんてありません。……もっとも、彼らを率いているラオスが、どんな考えを持っているのかはわかりませんが」
「はあ……何か、大変そうだな……」
「そうですね。少なくとも、ファルクスは残り四十匹はいるはずですから」
「げっ……四十匹……」
 カヤセは顔を引きつらせた。
「……三人で割っても、一人約十三匹か……。結構つらいな……」
「私は数に入れないでください。私はサポートをするだけですから」
「え? な、何で?」
 とカヤセは驚いて言う。
「俺の村が襲われたときも、戦ってくれたんじゃないのか?」
「あのとき戦ったのは、ヤクトさんだけです」
「……カヤセ」
 ヤクトが彼の肩に手を置いた。
「彼女には、彼女の事情があるんだよ。直接戦わなくても、十分役に立ってくれるから」
「そ……そうか」
 どうやら納得したらしい。
「しかし、事情ってどんな事情なんだろう。気になるなぁ……」
「いずれ、話しますよ」
「本当?」
「はい。全てのファルクスを殺すことができたら……。約束します」
「……そうか。楽しみにしてるよ」
 そう言って笑みを作り、イシェルを見た時。ふと、彼女は足を止めた。
「どうした、イシェル?」
 ヤクトが訊ねる。
「……ファルクスの気配がします」
「何っ!?」
 ヤクトとカヤセは険しい顔つきになり、得物を構えて周囲を見渡した。
「どこだ、イシェル!?」
「……かすかな気配です。場所は……」
 彼女は目をつむり、ファルクスの位置を探った。
「こっちです」
 イシェルは駆け出した。
「よし」
 その後を二人が続く。
 そのまま一分程走った。
「おいおい、まだかよ。こんな遠くまで、本当によくわかるな」
 途中で、カヤセが半ば呆れたように言った。
「何言ってんだ。一時間以上離れた所だってわかってただろ」
 とヤクト。
「そりゃそうだけど……あの時は信じてなかったし……」
「ヤクトさん、カヤセさん、ここです」
 彼女は、一本の木の前で止まった。
「……おい、イシェル……。ファルクスなんて、いないじゃないか」
「イシェルさんの勘違いか?」
 二人が周りを見て怪訝そうに言う。
「この木の……枝の付け根を見てください」
「枝の付け根……?」
 二人は上を見上げた。
 そして、思わず「げっ」と顔を引きつらせる。
 そこには、大きな白い塊があった。薄い繭のようだが、中には子供の頭程の大きさのものが、二十個は透けて見えている。
「こ、これは……まさか、ファルクスの卵か……?」
 ヤクトが目を見開く。こんな卵は今まで見たことがない。
「そうです。ここを通ったとき、産み付けていったのでしょう」
 ヤクトは嫌な予感がした。
「もしかして……他にもこういう卵があるんじゃないのか!?」
「今のところ感じませんが……これからの可能性はあると思います」
「くそ……これ以上ファルクスが増えたら、まずいなんてものじゃないぞ……」
 それこそ数に押されて、手に負えなくなってしまう。
「……しかし、正直驚いたな……。あいつらにも、子供がいるのか……」
 今までのことがあるので、そういう想像はしていなかった。
「ま、生物には違いないしな……」
「いいえ、ヤクトさん。これは非常に珍しいことなんです」
 イシェルが説明する。
「以前に言いましたが、ファルクスというのは食欲だけの生物なんです。自分の食欲を満たすだけで精一杯で、子孫を残すことなど考えていません」
「……それって、何かおかしくないか?」
 自分の子孫を残すことは、生物にとって最も重要なことのはずである。
「ファルクスは普通の生物とは違いますから。一応生殖器官はありますので、食欲が満たされたときに限り、本能的に交尾を行うこともあるようです。といっても自分のことが最優先なのは変わりませんので、こうして子供ができても放っておくんです」
「はあ……なるほどね……」
 ヤクトはため息を付いた。
「お、おいっ、今、卵が動いたぞ!」
 慌てて声を上げるカヤセ。
「何?」
 見ると、一つにつられて、他の卵も一斉に震え始めている。
 そしてひびが入った。
「生まれるのか!?」
 カヤセが槍を構える。
 その槍にすっと手を伸ばし、イシェルが言った。
「少し……様子を見ましょう」
「え? どうして?」
 当然の疑問だが、答える前に、ファルクスが卵から出てきた。
 ひびの入った卵の隙間から、ぼとり、と肉塊が地面に落ちる。
「え……?」
 ヤクトとカヤセは、眉をひそめた。
「何だ、あれは?」
 ただの肉の塊にしか見えない。
「あれがファルクスの子供なんです」
 とイシェルは言った。彼女の視線の先には、もぞもぞと芋虫のようにうごめく肉塊がある。
「あれが……?」
 その姿に、ヤクトは見覚えがあった。ラグナス村で、初めて殺したファルクスである。あれは子供だったのだろうか。
「ファルクスというのは、その体を構成する細胞が異常な生物なんです。ですから、子供ができても親の持つ情報を正しく伝えることができず、ああいった不完全な姿になってしまうんです」
 彼女の説明が続く中、卵は次々と孵化し、ぼとりぼとりとファルクスの子供が地面に落ちてくる。
「……もっとも、まれに正しく伝わる場合もあるようですが」
 芋虫のようなファルクスたちの中にひとつだけ、かすかにカマキリの形をしたものがあった。それは、ナカト村を襲い、レンを殺したカマキリの子供に間違いなかった。
「なあ、早く始末しておかないと、人を襲いに行くんじゃないのか?」
 とカヤセが最もな意見を言う。
 どうやら彼は気付いていないようである。イシェルは一瞬伝えるべきか考えたが、わざわざ教える必要もないだろう。
「もう少し、見ていましょう。そろそろお腹がすき始めるころですから」
「……?」
首を傾げるカヤセ。
 すると突然、ファルクスの方から奇声のようなものが上がった。
「え?」
 見ると、ファルクスの子供たちが、一か所に固まって、もぞもぞと動いている。
「何をしてるんだ……?」
「共食いですよ」
「と……共食い?」
 二人は顔をしかめた。
「お腹がすけば、見境がなくなる。何でもいい、近くにあるものを食べようとします。子を生んだ親でさえ、食料がなければ、ためらいなくその子供を食べます」
「……ファルクスには、愛なんてわかんないんだろうな……」
 カヤセが呟いた。
 ふと、突然。
 ひゅん、と風が鳴った。
 ほぼ同時に、ファルクスの悲鳴が上がる。
「ヤクト……」
「ヤクトさん……」
 彼は弓を引き、矢を放った。
 またファルクスの悲鳴が上がる。
「イシェル、いいよ、こんなの見せなくて。こいつらは妹の仇だ。子供だからといって、俺はためらったりしない」
「……そうですね」
「ん? 何だ? 今のはファルクスの説明じゃなかったのか?」
 カヤセが不思議そうに二人を見回す。
「いや、その通りだ。俺はファルクスってのが、よくわかったよ」
「ふ〜ん……。ま、とにかく、こいつらを片付けちまおうぜ」
「ああ」
 二人はファルクスに武器を向けた。
 だが、最初のヤクトの攻撃で驚いたファルクスは、ばらばらに移動している。
「まずいぞ!」
 このままでは見失ってしまう。
「イシェル!」
 ヤクトが叫んだ。
 言われるまでもなく、彼女は行動を起こしていた。森の中へ逃げ込もうとするファルクスたちを、素早く追い付いて蹴り上げ、元の位置へと戻していく。
「ヤクトさん、今のうちです」
「よし。やるぞ、カヤセ」
「おう!」
 二人はそれぞれの武器を手に、ファルクスに向かって行った。

「ていっ!」
 カヤセの槍が、ファルクスを串刺しにする。そしてヤクトの放った矢が、動きの遅い肉塊を貫く。
「ふう……これで終わったかな」
 軽く息をつき、周りを見渡した。
「はい。もう反応はありません」
 イシェルが死体を回収しながら、彼の呟きに答える。
 全てを片付けるまで、五分とかからなかった。
 生まれたばかりで体が小さいため、狙いが付けにくく、反撃されて数か所怪我をしたが、たいしたことはない。
「ま、弱い物いじめみたいであまり気分のいいものじゃなかったけど、とにかくやったな」 と、カヤセはヤクトの肩を軽く叩いた。
「ああ、そうだな」
「……しかしこの槍……というか、槍に塗られた毒だけど、すごいな。ファルクスを簡単に倒すことができるんだからな」
 上に持ち上げたり、振り回したりして、カヤセはしきりに感心していた。
「くれぐれも言っておきますが、その毒はあまり量がありませんので。くれぐれも無駄遣いはしないでください」
「大丈夫、何度も聞いたって。イシェルさんも心配症だなぁ」
 と彼は微笑む。
 ここまでの道中、カヤセには以前にヤクトに渡した毒を、少し分けて渡してあった。戦闘の度に、毒の受け渡しをするわけにもいかないための措置だが、彼の性格を考えると多少不安である。
「……わかっているならいいのですが。それと、全てのファルクスを回収したら、返して頂きますので」
「……ま、それはしょうがないよな。ファルクスがいないのに、持っていても仕方ないし」「おい二人とも、あまり時間がないんだ。話なら歩きながらにしろよ」
 ヤクトが一人で前の方に行っていた。
「あ、待ってくれよ」
 カヤセとイシェルが走って追い付く。
(……ファルクスは普通の生物ではない、か……)
 ヤクトは、先程のイシェルの言葉を思い出していた。今まで彼は、ファルクスというのは彼女の来た世界に住む凶暴な生物のことだと思っていたが、どうも違うようである。自然に生まれてきた生物ではなさそうなのだ。
(イシェルはどんな世界にいたんだろう……?)
 歩きながら、ヤクトはそんなことを考える。高い文明なのは間違いなさそうだが、それ以上は想像が付かない。
(ま、全てが終わってからだよな)
 彼女もそのときに話すと言っている。気にはなるが、今考える必要はないだろう。
「さあ、急ごう」
 彼らは国の首都である、アスランの町に向けて歩みを進めた。

 第六章

 あれから二日後。
 三人は森を抜け、アスランの町に着いた。
 ファルクスの反応は町から離れたところにあるので、とりあえずは安心である。
「……しかし、にぎやかなところだな……」
 町の入口に立って周りを見回し、カヤセは言った。
「まるでお祭りみたいだ……」
 通りのあちこちに小さな店が並び、人があふれている。
「数年ぶりに来たけど、変わってないな」
 ヤクトも珍しそうに、店を覗いたりしている。
「……それにしても、ここはファルクスに襲われていないのでしょうか?」
 とイシェル。
「ここに来たのは間違いないのですが……」
彼女の能力で、ファルクスが町に着いたことはわかってはいた。だが、イシェルだけならともかく、三人一緒ではどうしても間に合うことはできない。そのため、悔しい思いをしながらも、急いでやって来たのである。
 しかし町の様子を見る限り、そんなことがあったとはとても思えない。
 平和そのものである。
「もしかして、気が変わってやめたとか?」
「まさか。そんなわけないだろう」
「そうですよ、カヤセさん」
「うう……冗談なのに、二人で攻めないでくれ……」
 などと話しながら歩いていると、
「ちょっとちょっと、そこのお兄さん」
 誰かに声をかけられた。
「俺?」
「そう。あんただよ」
 ヤクトが声の方を見ると、他と比べてみすぼらしい店があり、そこに汚い格好をした中年の男がいた。
 店の棚には、わずかに装飾品などが並べられている。
「……何か用ですか?」
「あんた、綺麗なお嬢さんを連れているじゃないか。どうだね、これをその子に買ってやっては?」
 男は棚から耳飾りを取り出し、ヤクトに見せた。
 小さな宝石が着いているが、随分と汚れているようだ。
「……何だ? その汚いものは?」
 カヤセが横から顔を出し、不満そうに言う。
「……おっさん、そんなもん買えって言うのか?」
「これは盗まれないよう、汚してあるだけだ。こう見えても、とっておきの掘り出し物なんだぞ」
「どうだか……」
「どれ、証拠を見せようか」
 男は布を取り、耳飾りを少し磨いてみた。すると、宝石が綺麗な輝きを見せた。ここまでのものは、あまり見たことがない。
「へえ……まんざら嘘でもないってわけね」
「そういうことだ。どうだね、お兄さん?」
 男がヤクトを見た。
「いいんじゃないか。買ってやれば?」
 とカヤセも言う。
「……私はいりませんよ」
「イシェルさん、そういうこと言うもんじゃないって」
「しかし……」
「せっかくくれるって言うんだから、素直にもらっとけばいいんだよ。なあ?」
 確かに、ヤクトは買ってやりたい衝動に駆られた。もしかしたら、彼女は喜んでくれるかも知れない。だが、そのために必要なものを、彼は持っていなかった。
「……悪いけど……俺、金ないんだ……」
「あらっ……」
 カヤセはこけた。
「……ま、まあ、俺だって持ってないけどさ……」
 村では金を使うことなど滅多にないのだから、それは仕方のないことである。
「うぅむ……残念だ。ぜひそのお嬢さんに付けてほしかったんだが……さすがにただで譲るわけにはいかんし……」
 男はため息を付き、もう一度「残念だ」と呟いた。
「……ごめん、イシェル」
「謝らないでください。気持ちだけで十分ですから」
 彼女は一瞬、かすかに笑みを浮かべた。
「あっ……」
「どうしました?」
 既にいつもの表情に戻っている。
「い、いや、何でもないよ」
 思わずそう言ってヤクトはごまかした。
 だが心の中では興奮していた。
(今、笑っていた。錯覚じゃない、確かに笑っていた。自分ではわからないみたいだけど、彼女にも感情はあるんだ)
 イシェルが無表情なのは、感情を表に出すことを知らないだけなのだろう。ということは、努力次第で普通に表情を出せるかも知れないということだ。
(よし、頑張ろう)
 何かきっかけを与えれば、今のように偶然にも感情がこぼれるかもしれない。しかしそれだけに、今耳飾りを買ってやれないのは残念である。
 ふう、とヤクトがため息を付いていると、
「これで足りるかい?」
 突然青年がやって来て、棚に金貨を置いた。長身で、人のよさそうな優しい笑顔を浮かべている。軽装だが、腰には剣を差していた。柄の部分には、立派な装飾が施されている。
 男は一瞬呆然としたが、
「え? ええ、確かに足りますが……」
「この耳飾り、この人に譲ってやりたいんだが……」
 青年はヤクトを見た。
「えっ?」
 とヤクトたちは驚く。
「ああ、そういうことですか。わかりました」
 男はにっこり笑い、布で宝石を磨いた。そして青年に耳飾りを渡す。
「どうも。ほら、君から彼女に渡してやりなよ」
「い、いや、しかし、見ず知らずの人にそんなものをもらうわけには……」
「いいから、遠慮せずに」
 青年は強引に、ヤクトの手に持たせた。
「……あ、ありがとう……」
「よし、渡せ渡せ! 愛の告白だ!」
 カヤセが冷やかすように言う。
「あ、あのなあ……」
 ヤクトはため息を付き、それからイシェルに耳飾りを差し出した。
「……あ、あの、イシェル。よかったら、付けてみてくれないかな……」
「だあっ、もう少し気の利いたこと言えないのか!?」
 自分のことは棚に上げ、カヤセがわめいている。
「う、うるさいぞ。……それよりイシェル、もらってくれるかい?」
「……はい。ありがとうございます」
 イシェルは耳飾りを受け取った。
「そ、そうか。よかった」
 彼女の表情は変わらなかったが、ヤクトには嬉しそうにしているように見えた。
「おお、よかったな、ヤクト。顔がにやけてるぞ」
「……さっきからうるさいぞ、カヤセ」
「嬉しいときは、素直に喜ぶもんだぜ。ひっひっひっ」
「……いやらしい笑い方するなよ……」
「まあとにかく、お嬢さん。せっかくだから付けてみせてくれんか」
「そうだな。俺も見てみたいぞ」
 男と青年が言った。
「……そうですね」
 イシェルは耳にかかった髪をかき上げ、耳飾りを付けた。
 日の光を受け、きらり、と宝石が光る。
「いやあ、よく似合うよ、イシェルさん」
「確かに。あんたに売ってよかった」
「どうせなら、似合う人に付けてほしいからな」
 男たちが手放しに褒めている。
「う、うん……似合ってるよ、イシェル」
 最後にヤクトが言った。
「……何だか……」
 イシェルはうつむいた。
「え? 気に入らなかった?」
「いえ、その……」
 言葉につまるイシェルを見て、青年はヤクトに言った。
「彼女は照れてるんだよ」
「照れてる……?」
 ヤクトよりも、イシェルが驚いた。
(感情がないはずの私が……?)
 正確に言うと、感情を表に出すことができないはずである。
 しかし、体がかっと熱くなり、思考が混乱したのは今まで経験がないことだ。
(この世界に来て、どこかおかしくなったのだろうか?)
 イシェルは不安を覚えた。
 いくらハンターとしての腕がよくても、欠陥があって直らないようなら、容赦なく捨てられるだろう。すなわち、死が待っているのだ。
以前は使えなくなったのなら仕方ないと思っていたが、今では何だか怖いもののように感じる。
(そんなことを考えるなど、やはり私は不良品なのか……?)
だが、それならそれでいい。
 今回の仕事が最後になろうとも、全力でやり遂げてみせる。ヤクトを始め、迷惑をかけたこの世界の人たちのためにも。
 イシェルはそう決意した。
「どうした? 大丈夫か、イシェル?」
 黙り込んだ彼女の顔を、ヤクトが心配そうに覗き込んだ。
「え? ……ええ、大丈夫です。何でもありません」
「……なら、いいけど。あまり心配させないでくれよ」
「はい……」
 答えたイシェルは、苦笑したい気分だった。他人に心配されるハンターなど、完全に失格だ。だがかえって安心して、全てを捨てられる気がする。
 そんな様子を見ていて、青年は笑顔で言った。
「はははは、初々しくていいなあ」
 彼は、二人を付き合い始めて意識している恋人同士とでも思ったのだろうが、実際はそんな単純なものではない。
「はははは……」
 説明するのも面倒なので、ヤクトは愛想笑いだけ浮かべていた。
「お、否定しないとは、やっと自分の気持ちを認めたか?」
 カヤセがからかい口調で言う。
「…………」
 ヤクトは無視した。
「はははは、楽しい人たちだ」
 青年はおかしそうに笑っていたが、ふいに「……さて」と呟き、表情を引き締めた。
「話は変わるが、君たちは旅の者なのかい?」
「ええ、まあ……」
 とヤクトが答える。
「なるほど。悪いんだが、少し話を聞きたいんだ。いいかな?」
「……か、構いませんが」
「じゃあ、向こうに行こうか」
 青年に連れられて、ヤクトたちは通りを出た。

 商店街を抜けると、急に静かになった。
 怖いくらいに、しんと静まり返っている。
「な、何なんだ、この差は?」
 カヤセが不安そうに周りを見た。
 ここは住宅街らしいが、ほとんど人を見かけない。いたとしても、力なく座り込んでいる。
「……ここからだとわからないが、もう少し行くと城が見えるんだ。とりあえず、そこまで行こう」
「……わかりました」
 ヤクトたちは黙って付いて行った。
 そして住宅街を抜けると、急に視界が広がった。
 辺り一面、大地が草原のように広がっており、正面に城が見える。
 城の周りには堀があって、太陽に反射してきらきらと光っていた。
 一見すると綺麗な景色である。
 だが――。
「……城が……半壊している……?」
 ヤクトとカヤセは目を見張った。
 正面の城はぼろぼろで、とても人の入れる所ではなくなっている。
「座らないか?」
 青年が草むらに腰を下ろして言った。
「あ……はい」
 ヤクトは彼の隣に座り、カヤセとイシェルはその側に座った。
「……そういえば、自己紹介はまだだったね。私はピステール。よろしく」
「あ、こちらこそ」
 と言って、ヤクトたちもそれぞれ名前を告げた。
「君たちは旅をしているということだが、途中で何か変わったことはなかったかい?」
 ピステールはそう訊ねてきた。
「……変わったこと?」
「そう。例えば、不気味な化け物は見なかったか?」
「……化け物……」
 三人の頭にファルクスが浮かんだが、とりあえず口には出さなかった。
「見なかったのかい? 君たち、いいものを持っているようだが……それは?」
 彼はヤクトの弓矢とカヤセの槍を見て言った。
「あ、これは……俺たち狩人ですから。でもここに来る途中、そんな化け物は見ていませんよ」
 咄嗟に嘘を付くヤクト。とりあえず、ファルクスのことはまだ伏せておいた方がいいだろう。
「そうか……。化け物と戦うためのものかと思ったのだが、勘違いだったな」
 いや、いい勘している。と三人は思った。
「しかし、ここまで無事に来れたとは……運がいいのか悪いか……」
 ピステールは唇を噛んだ。
「どういうことです?」
「ああ。実は昨日のことなんだが、急に見たこともない化け物の集団が襲ってきたんだ。でも襲われたのは城だけで、幸い……というのか、町の方には被害はなかったんだけどね。城にいた人間は随分死んだよ。私は何とか助かったのだが……友人は全員、食われてしまった……」
「……ピステールさんは、兵士なんですか?」
 ヤクトが訊ねた。
「ん? ああ、話していなかったね。私はこれでも一応、騎士をやっているんだ」
「ええ!?」
 それはすごい、とカヤセは声を上げた。騎士といえば、希望者は多いがなれるのはほんの一握りという、憧れの職業である。
「……そんなに驚かないでくれよ。いざというとき役に立たない騎士なんて、いても仕方がないさ」
「……けどそうすると、王様はどうしたんです?」
「王は無事だ。側近と共に、抜け道を使って町に脱出したからな」
「そうですか……」
「だが」
 とピステールは険しい顔つきになった。
「化け物は、まだ町の外にいる。いつ襲ってくるのかわからない上に、今外に出れば確実にやられるだろう」
 つまり、逃げることはできないのである。
「……だから、みんなで大袈裟にはしゃいだり、妙に気前がよかったりしたんですね。いつ死ぬかわからないから……」
「……何とかならないのかよ。みんなして死ぬのを待つなんて、あきらめがよすぎるぜ」 とカヤセ。
 ピステールはため息を付く。
「……何とかできるものなら、とっくに何とかしているさ。奴らはこっちがいくら剣で斬っても、すぐに傷が塞がってしまう。まあ、昨日は三匹の化け物が死んだんだが、それだって満腹になった奴らが、あやまって堀に落ちておぼれたんだ。そんな偶然でもない限り、俺たちの力ではとても倒せないよ」
「…………」
 しばらくの間、沈黙が落ちた。
「……と、すまない。愚痴っぽくなってしまったな。せっかく来たのに、こんな話をして怖がらせてしまった」
「いえ……。何も知らないより、予備知識があった方が、対処もしやすいですから。助かりました」
「ははは……。君たちは前向きでいいなぁ」
 笑みを浮かべて、ピステールは立ち上がった。
 ヤクトたちも立ち上がろうとしたが、彼は手で制した。
「いいかい。もし外に出るつもりなら、今はやめた方がいい。逃げるなら、化け物が襲ってきたときだ。奴らは町に集まるから、運がよければ助かる。わかったね?」
「はい」
 とヤクトは頷いた。
「よし。じゃあ私はもう行くが、気を付けて。無事を祈ってるよ」
 ピステールは軽く手を振り、歩き出した。
「耳飾り、ありがとうございました」
 とヤクトは彼の背中に向かって声をかける。
 ピステールは振り返ってもう一度手を振り、笑顔で去って行った。
「……何か、結構いい奴だったな」
 とカヤセ。
「そうだな」
 とヤクト。
 二人でしばらく見送っていると、イシェルが立ち上がった。
「どうした、イシェル?」
「ファルクスの死体を消します。堀の所まで行きましょう」
「あ、ああ、わかった」
 三人は堀に向かった。

 日光が反射して、堀の水はきらきらしていたが、よく見ると濁っていた。ピステールの話で、もしかしたら人間の死体が残っているかもと思ったが、それはもうないようだ。
堀の中をのぞくと、確かにファルクスの死体があった。動物型が三匹、水面に浮かび上がっている。
「助かりました」
 とイシェルは言う。
「もし水中にあれば、潜って薬を体内に埋め込まないといけないところでした」
「そうか」
「少し、待っていてください」
 と言って、彼女は堀に飛び下りた。
 死体に着地した瞬間、小瓶の液体を数滴垂らす。そして死体が消え始め、足場がなくなる前に次の死体へと飛び移り、今の動作を繰り返した。
「……しかし、イシェルさん。ぽんぽん飛び跳ねて、何か鳥とか虫みたいだな」
 彼女の動きを見て、カヤセが呟いた。
「……なあ、ヤクト」
「うん?」
「俺、前から不思議に思ってたんだけどさ。人間って……例え訓練したとしても、イシェルさんみたいなことができるもんなのかな?」
「えっ……?」
「俺は無理だと思う。でもイシェルさんにはできる。……彼女、本当に人間なのかな?」「……まさか」
 とヤクトは否定した。
 彼もその疑問を持たなかったわけではない。しかしその答えとして、彼女がいた世界の人間は、それくらいできるかも知れない、とおぼろげに考えいた。
 彼女以外にもハンターはいるようだし、ここよりも文明が発達しているらしいから、自分たちには想像できない、特別な訓練をしたのだろう。
 ヤクトはそう思うことにしていた。
「そうだよな」
 と言って、カヤセはいきなり笑い出した。
「彼女に触ることもできるんだし、幽霊のはずないよな」
「……ゆ、幽霊?」
 ヤクトは首を傾げた。
「……あ、そういえば、お前そういうのだめなんだっけ。小さい頃怖い話ばかり聞かされたから」
 道中の暇つぶしに聞いた、彼のそんな話を思い出す。
「そうそう、そうなんだよ。ま、疑問はあるけど、幽霊じゃなきゃいいさ。はっはっはっ」「……お気楽な奴だな……」
「何か楽しいことでもあったんですか?」
 一仕事を終えて、堀の中から出てきたイシェルが、二人に寄って来てそう訊ねた。
「いや、何でもないよ。それよりこれからどうする?」
「そうですね。とりあえず今日は休んで、行動は明日にしましょう」
「ファルクスは襲ってこないかな?」
「大丈夫だと思います。昨日はたっぷり食事して、蓄えもあるようですから」
「……ああ、そう……。たくさん殺されたわけね……」
 ヤクトは顔を引きつらせた。
「今近くにいるのに襲ってこないということは、おそらくそうだと思います。再びここに来るのはおそらく明日でしょう」
「……わかった。じゃあ明日に備えて今日は休もう」
「……まあ、それはいいんだが」
 とカヤセが言った。
「どこで休む? また野宿か? それに食べ物はどこから取ればいい? 町の中に落ちていそうにないぞ。金だってないし」
「い、いっぺんに訊くなよ。……まあ、いいじゃないか。ここで眠れば」
 ヤクトは草むらに横になった。
「ぽかぽかして暖かいぞ。それに食べ物なら、こんな時だ。頼めば誰かわけてくれるさ」
「……ヤクトも結構呑気だな」
 そう言いつつ、カヤセも横になった。
「ほら、イシェルさんも眠ろうよ」
「……そうですね」
 こうして三人は、草むらで眠りについた。
 ヤクトとカヤセはこの陽気と疲れからかすぐに眠ってしまったが、イシェルは寝たふりをしていた。二人には悪いが、今のうちに彼女の食事である錠剤を飲み込んでおく。これを飲んでおけば睡眠などほとんど必要ないのだが、せめてもの付き合いである。無理をして口にしていた普通の食事を、今は取らないようにしているからだ。あれは能力が落ちるため、戦闘前には致命的になってしまう恐れがある。
(私も少し眠ろうか……)
 彼女は食事の代わりに睡眠に付き合うことにしたのだ。ただし、ファルクスの気配を常に感じながらの浅い眠りである。

 数時間後。そろそろ日が沈み、空気も少し冷えてきた頃。
(そろそろ起こした方がいいだろうか)
 よほど疲れていたのか、ヤクトとカヤセはまだ寝ている。食事の準備もしなくてはならない。
 目を閉じたままそう考えていると、彼女は誰かが近付いてくる気配を感じた。
 (この気配は……)
 覚えがあった。
 気配の主は頭の方で止まった。顔を覗き込んでいるようだ。
「…………」
 イシェルは静かに目を開けた。
「あ、ごめん。起こしたかな?」
 と彼は照れたように言った。
「……ピステールさん……」
 昼に会った青年だった。
「どうしたんです?」
「いやね、もしかしたら君たちがまだここにいるんじゃないかと思ってね。気になって見に来たというわけさ」
「……食べ物を持って、ですか?」
 ピステールの腕の中には、パンや野菜や果物の入った袋があった。
「ははは、君たちお金も持っていないって言ってたから、困ってるんじゃないかと思ったんだ。ほら、あげるよ」
 突然、がばっとカヤセが起き上がった。
「食べ物の匂いがする……」
 カヤセが隣を見ると、ピステールと目があった。
「あ、あんたは確か……」
「ははは、カヤセくんだったけ。君は鼻がいいね。遠慮せずに食べていいよ」
「へえ、気前がいいな。おい、ヤクト、起きろよ。食べ物があるぞ」
 カヤセは寝ているヤクトを揺すった。
「ん……」
「お、起きたな」
「あれ? ピステールさん……」
「やあ、おはよう。起こして悪かったね」
「いえ……もうたっぷり眠りましたから……」
 とヤクトは欠伸をして目をこする。
「ははは、まぁお詫びに食べ物を持ってきたから食べてくれ」
「あ、ありがとうございます……」
 こうして、しばらく食事をすることになった。
「いやあ、それにしても……」
 ピステールがしみじみと言った。
「何です?」
「イシェルさんの寝顔はかわいかった……」
「んぐっ……!」
 ヤクトはパンを喉に詰まらせた。
「大丈夫ですか?」
 イシェルが背中をさする。
「彼女、普段は表情を変えないみたいだけど、ほんと、寝顔はかわいかったね」
「ちぇっ、いいなあ……。イシェルさん、いっつも俺たちより眠るのが遅いくせに起きるのが早いから、寝顔見たことないんだよな……」
「そうすると、私は運がよかったみたいだね」
「う〜む……うらやましい……。そうだ、イシェルさん、寝顔見せてよ」
「……嫌です」
 彼女はゆっくりと首を振った。
「ああ、そんなこと言わずに……」
 カヤセが身を乗り出してくる。
「おい、カヤセ、彼女恥ずかしがってるだろ」
「ふふふ、ヤクト……。イシェルさんのそういう態度、実は結構嬉しいんだろ?」
「うっ……」
 図星だった。
 無表情なのは代わらないイシェルだが、恥ずかしがったり照れたりと、そんな素振りを感じられる瞬間が、何だか嬉しいのである。
「ま、まあいいじゃないか。あははは……」
「笑ってごまかしてる」
「……あ、あまり突っ込むなよな……」
 そう言って、ヤクトは果物をかじった。
 さて、イシェルの方はというと、そんな自分に戸惑っていた。
 常に冷静でいるはずのハンターが、最近妙な感覚を覚えている。それがどうやら感情というものらしい。
(私は……本当に、どうしてしまったのだろう……)
 自分が不良品になってしまったのなら、仕方ないとは思った。だが、やはり経験したことのない精神状態は、不安なものがある。
(……ん?)
 ふと彼女の頭に、危険信号が発せられた。城の向こうの方からだ。
 かなりの数が、移動している。
 イシェルは立ち上がった。
「どうした、イシェル?」
「ファルクスです。ファルクスがこちらに向かって来ています」
「何!?」
 ヤクトとカヤセは食べるのを止め、一瞬呆然とした。
 夜の闇の中、月明りだけが彼らを照らしている。
 ただ一人、ピステールが緊張感のない声で言った。
「ファルクスって、何だ?」

 第七章

「……困ったな」
 ヤクトは呟き、唇を噛んだ。
 今はもう夜である。
 昼間と違って、明りは月の光だけ。
 雲がないからまだいいが、さすがに暗い。ファルクスと戦うというのに、これでは相手の動きがよく見えない。
「イシェル、ファルクスは明日来るはずじゃなかったのか?」
「確かに言いましたが……少し予想より早くなっただけです。こちらに向かってくる以上、食い止めないわけにはいかないでしょう」
「そうだな……。よし、やるか!」
 ヤクトは弓を手にし、立ち上がった。
「まあ夜といっても、ここは森と違って光を遮らないからな。月明かりで十分だ」
 カヤセが槍を持ち、にやりと笑った。
「お、おい、君たち、何をする気だ?」
 ピステールが不安そうに訊いてきた。
「あ、そういえばあんたもいたんだっけ。すっかり忘れてた。はははっ」
 カヤセは笑った。
 しかしピステールは険しい顔つきで訊ねる。
「……ファルクスって……もしかして、ここを襲った化け物のことなのか?」
「そうです」
 とイシェルが言った。
「隠していましたが、私たちはファルクスを倒すためにここに来ました」
「イシェル、いいのか、そんなこと話して?」
 ヤクトが囁く。
「構いません。ピステールさん、私たちは行きますが、あなたはどうします? 一緒に来ますか?」
「……昼にも言ったが、俺の友人はあの化け物に殺された。何としても仇を討ちたい……だが、勝てない! あの化け物は、剣で斬っても通じないんだ! それで戦いに行っても、死ににいくようなものだ!」
 ピステールは悔しそうに拳を震わせた。
「大丈夫です」
「……何を根拠に……」
「俺たちにはこれがありますから」
 そう言って、ヤクトは金属製のケースを取り出した。中にあるクリーム状のものは、ファルクスの体内に入ると、その細胞を殺していく毒である。
「この毒を使えば、ファルクスを倒すことができるんです」
「……まさか、あの化け物がそんな毒なんかで……」
 信じられないというように、ピステールは首を振る。
「疑り深い奴だな……。ともかく!」
 びしっ、と指を突き付けるカヤセ。
「実際俺たちはこの毒でファルクスを倒してきたんだ! ……ま、別にいいんだぜ。信じないならあんたには分けてやらん」
「おいおい……。お前はちょっと黙ってろ」
 ヤクトは彼を押し退けて、ピステールに言った。
「理屈なんて、どうでもいいじゃないですか。これを使えば、仇だって討てるんです。町の人たちも守れるんです。一緒に戦いましょう」
「……そうだな。このまま黙って殺されるわけにはいかないしな」
 ピステールは頷いた。
「わかった、私も行くよ」
「よし、そうと決まれば急ごう!」
 ヤクトたちは荷物を背負い、今のうちに自分たちの武器に毒を塗り込んでおく。ピステールにも少量だが渡しておいた。
(これであの化け物を倒せるとはね……)
 実はまだ完全に信じたわけではないが、こんなものを持っている彼らが何者なのか気になった。しかし、今気にしても仕方がないことだ。町を守れる可能性があるならそれに賭けてみるだけである。
「……ところでピステール」
とカヤセが話しかけた。
「さっきイシェルさんに一緒に来るか訊かれたとき、自分のこと“私”じゃなく“俺”って言ってなかったか?」
「……カ、カヤセくん……。君は意外と鋭いんだね……」
 ピステールは困ったような笑みを浮かべた。
「……意外ってところが気になるんだけど……」
「いや、気にしなくていいよ。……まあ、騎士っていうのは何かと礼儀を重んじるものだからね。色々苦労してるんだよ」
「な〜るほど」
 結構親しみやすい奴である。
「確か、奴らが来るのは町の裏側だったな。私が案内しよう」
 ピステールを先頭に、四人は走り始めた。

「……さてと」
 町の裏側に着いた。
 ここから先には湖と、その周りを囲むようにして森がある。おそらくファルクスはそこにいるのだろう。
「……ここで食い止めないと、町が襲われるってわけだな」
「そうなりますね」
「根性出して頑張らないとな」
 ヤクトたちが戦いの前に集中力を高めようとしている中、一人ピステールが不安そうにぶつぶつ言っている。
「……しかし、本当に大丈夫なのか? いくら斬ってもだめだったのに、毒くらいで倒せるのか……?」
「……あのな、ピステール」
 それに気付き、カヤセがあきれた顔をした。
「戦う前から負けることを考えてるなんて、騎士のくせにみっともないぞ」
「……み、みっともないって……。確かに一理あるかも知れないが、勝てないときの引き際を見極めるのも重要なんだよ」
「だあっ、今はそんなこと考えなくていいんだよ! 負けたら後がないんだからな!」
「そうですよ、ピステールさん」
 とイシェル。
「大丈夫ですから、私たちを信じてください」
「……そうだな。ごめん、つい悪い方へと考えてしまった。今は君たちを信じて戦うしかないんだからな」
 ピステールは微笑み、すっと剣を掲げた。
「騎士として誓おう! 私はこの剣で、君たちと共に町を守ってみせる!」
「……なあ……、やってて恥ずかしくないか?」
「……それは言わない約束だよ、カヤセくん……」
 ふっ、と彼は自嘲気味に笑った。
「……面白い奴だな」
「君の方こそ」
「ふふふ……」
「ふっふっふっ……」
 二人は不気味に笑い合った。
「……ま、まあ、場もなごんだことだし、湖の方に行こうじゃないか。ほら」
 ヤクトは引きつった笑みを浮かべながら、強引に二人を連れ出そうとした。
 だが、イシェルがそれを止める。
「待ってください、ファルクスが来ました」
「何!?」
 三人は正面を見据えた。
 暗くてよく見えないが、確かに湖の方から何かが迫ってくるのがわかる。
「数は……四十、ほぼ全部です」
「よ、四十!? 多すぎるぜ!」
 カヤセが顔を引きつらせた。
「イシェル、ほぼ……ということは、残りは?」
 ヤクトが訊ねる。
「町の外にいくつか反応があります。こちらはおそらく寝ているのでしょう。後回しにして大丈夫です」
「そうか……。しかし、一気に四十はきついな……」
「ええ。ですが、とにかくやってみましょう。私も精一杯サポートします」
「ああ、頼むよ」
 とヤクトは笑った。
「相手は数も多く、苦戦は必至……。だが騎士たる者、逃げるわけにはいかん!」
 ピステールは冷や汗を浮かべながら、剣を構えた。
「……本当は、ちょっと怖いんだけどさ……」
「ったく、せっかく決めてるのに、自分でオチをつけるかねぇ?」
 カヤセは肩をすくめてみせる。
「まあ、あんたらしいけどさ」
「ははは、カヤセくん、お互い頑張ろう」
 ピステールは笑顔を向けた。それから少し真面目な顔になって付け加える。
「……気を付けてな」
「ふふん、あんたよりたくさんやっつけてやるぜ。ほら、行くぞ、ヤクト!」
 カヤセとピステールは走り出した。
「お、おう! じゃあイシェル、援護、頼むよ」
 と言って、ヤクトも二人の後ろに付く。
「はい」
 イシェルは一人、その場に残った。
 彼らの前には、多くのファルクスが迫ってきている。
(三人で、うまくいけばいいけど……)
 さすがにそれは難しいだろうと思いながらも、イシェルはそう願うのだった。

「いやあ、こう大勢に立ちはだかれると、かえって壮快だなあ。思わず吐きそうだよ、はははは」
 とピステールが笑う。
 前後左右に、ずらりとファルクスが並んでいた。要するに囲まれたのである。
「呑気なこと言ってる場合かよ」
「カヤセくんが考えなしに走るから」
「人のせいにするな。おい、ヤクト! 何とかしてくれ!」
 カヤセは円の外に向かって叫んだ。
 遅れて走った彼は、囲まれてはいない。が、ファルクス五匹に行く手を阻まれている。
「何とかしろったって……無理だぞ、この状況じゃ……」
 焦りながらも、矢を放つ。
 鳥型のファルクスに当たりはしたが、何分数が多い。いくつか倒したところで、戦力は変わらない。
「もっと一気に倒せたら……」
 しかし、無理なことを言っても仕方がない。地道にやるしかないのだ。
「くそっ……ヤクトは無理だな……。俺たちでやるしかないか……」
「そのようだね。カヤセくん、そっちは頼むよ。私はこっち側のをやるから」
「……よし、任せた」
 二人は攻撃を仕掛けた。
「うおおおっ!」
 ピステールが剣を振り上げ、正面の、鹿に斬り付けた。一撃目は頭の角で防がれたものの、二撃目はその足をかすめる。
(よしっ!)
 少しでも斬れば、剣に塗った毒が体内を巡るはずである。ピステールは剣を構えたまま、後ろに下がった。だが、それに合わせて鹿が角を突きだしてくる。
「くっ」
 何とか剣で防ぐピステール。そして素早く次の攻撃に備えたが、どうやらそれが最後の攻撃だったらしい。鹿は突然体を震わせ、地面に座り込んでしまう。
(毒が効いたのか?)
 その通りだった。数秒後、鹿は硬直して死んでいた。周りのファルクスたちも、驚いたように動きを止める。
「倒せた……」
ぽつりと呟くピステール。驚いたのは彼も同じだった。
「本当に倒せるぞ。昨日は、全く歯が立たなかったあの化け物を」
 そうなると、後は自信が付く。
 集団の中から大きな虎が飛び出し、素早い攻撃を仕掛けてきたが、彼は今までに鍛えた技でそれを防ぐ。
「友の仇だ!」
 ピステールは虎を斬り裂いた。
「さすが、騎士だけのことはあるな」
 とカヤセは呟く。
「俺も負けてらないぜ」
 左右から、大きな蜂と蠅が向かってくる。足が長く、体内が透けていて、ますますグロテスクだ。
「うげっ、気持ち悪い……」
 と顔をしかめながら、カヤセは槍を薙払う。しかし二匹の動きは素早く、上に避けられてしまった。
「やばいっ!」
 後退るカヤセだが、地面につまづき転んでしまう。
「うげっ」
 その彼に向かって、二匹が迫った。
(う、嘘だろ!?)
 とんだどじを踏んでしまった。
 槍を動かす余裕はない。
 二匹は目の前だというのに。
「動くな!」
 突如ピステールの声がし、槍ごと胸を踏んづけられた。
「うっ!」
 思い切りだったらしく、これは痛かった。
「てぇいっ!」
 ピステールはカヤセの胸を足場にし、蜂と蠅を同時に剣で薙払った。
 二匹の胸部と腹部が離れて落ちる。
「早く起きろ!」
 とピステールはカヤセの手を取って立たせる。
「いやあ、はは、助かったぜ」
 二人は背中合わせで構える。
「……カヤセくん。君、もしかして……弱いんじゃないのかい?」
「なっ……、さ、さっきのは油断しただけだ!」
「強い者なら、決して油断などしないはずだが」
「お前、理屈っぽいぞ」
「まぁそういうなら、次からは油断しないでくれ。私がいなかったら、君は死んでいたぞ」「わかってる!」
 と思わず口調を強めたとき。
「カヤセさん、ピステールさん」
 上の方から声がした。
 と思った瞬間、二人の前にイシェルが立っていた。
「え!?」
「イシェルさん!?」
 驚く二人だが、イシェルはその間に行動を起こしていた。
手にした小さな黒い玉を、ファルクスたちの中心に向けて投げ付ける。
「伏せて」
「う、うわっ」
「何だ?」
 何が何だかわからないまま、二人は彼女に押し倒された。
 そして次の瞬間。
 ドンッ!
 爆発が起きた。
 衝撃で、付近のファルクスたちが吹き飛ばされる。
「おお、すごいぜ!」
 カヤセが声を上げた。
「…………」
 ピステールは驚きのあまり呆然としている。
 今のは、こういった大勢を相手にするときに使う爆弾である。といっても威力は大したことはなく、あくまで牽制用だ。
「二人とも、今のうちに攻撃を」
「え? しかし……」
 と躊躇するピステールを置いて、
「わかったぜ!」
 カヤセが駆け出した。
 そして倒れているファルクスを、次々と槍で突き刺す。
 ピステールも慌てて我に返り、彼に続いた。
「はっ!」
起き上がりかけた縞模様の猿に迫り、腰から肩へと斬り上げた。猿は悲鳴を上げて倒れる。彼はすぐさま次の目標を見付けようとするが、様子がおかしい。
「……何だ?」
 ファルクスが二人から離れて行く。
「お、おい、逃げるのかよ……」
 とカヤセも呆気に取られている。
 しかし、ファルクスは逃げたのではない。
「な、何!? こっちに……」
 数体を相手にしていたヤクトの方に、集団で向かってきた。
 とても一人では対処できない。
「ヤクトさん!」
 イシェルが瞬時に移動し、ヤクトの前に立った。
 しかし、ファルクスは二人を避けて、町の方へ進んで行く。どうやら町の人間を襲う方を優先させるつもりらしい。
「ま、まずいぞっ!」
 焦るヤクトたちだが、ファルクスはまだ三十匹以上いる。数体倒したところで、状況は変わらない。このままでは町の人たちが襲われ、多くの死者が出てしまう。
「イシェルさん、さっきのドカーンていう奴やってくれよ! 今なら間に合う!」
 カヤセの言葉に、彼女は首を振った。
「残念ですが、あれはもうないんです」
「そんな……」
「こうしていても仕方ない。とにかく奴らの後を追って、できるだけ被害が出ないようにするしかないだろう」
「そうだな……くそっ」
 ピステールの案に、悔しそうに頷くカヤセ。
「よし、行くぞ」
「待ってください」
追いかけようとする彼らを、イシェルは制止する。
「ど、どうしたんだ、イシェル?」
「みなさんが行っても、おそらく半分も倒すことはできないでしょう。逆にやられてしまう可能性の方が高いです」
「それは……」
自分たちでも内心思っていたことをつかれ、うつむいてしまう。
「で、でもイシェルさん! このまま黙って見過ごすわけにはいかないだろう!」
「ああ。私も騎士として町を守る義務がある」
「イシェル……俺も、これ以上人が殺されるのは見たくない。そのために俺たちはここに来たんだから」
 三人がそれぞれの決意を語る。
「……わかっています」
 そう。イシェルにはわかっていた。
「イシェル?」
何だか様子がおかしいことにヤクトは気付いた。
「……私が……」
 一瞬、悩んだような彼女だったが、決心したように言う。
「……私が、何とかします」
「えっ!?」
 思わず声を上げるヤクト。
「何? イシェルさんが!?」
 カヤセとピステールも驚く。
 イシェルは上司の命令で、直接ファルクスを殺すことはできないはずである。いや、それ以前にあの数をたった一人で相手にするというのだろうか。
「ひ、一人でなんて無茶だ、イシェル!」
「そ、そうだぜ、俺たちも一緒に……」
 そう言うヤクトとカヤセを、彼女はすっと手を出して押さえる。
「大丈夫です。私はファルクスハンターですから」
「イシェル……」
「ファルクスハンター……?」
 一人、事情を知らないピステールだけが、状況がよくわかっていない。
「では行きます。みなさんはここにいてください」
 数歩進み、彼らと距離を置く。そして背中を向けたまま立ち止まる。
「……イ、イシェル……?」
不安になってヤクトが声をかけようとした、次の瞬間。
「う、うああああああっ!」
 突然、彼女は苦しげに顔を歪め、絶叫した。
「なっ……!?」
 ヤクトは目を見開いて驚愕する。
 今まで、ほとんど声も上げなければ表情も変えなかった彼女の、この変化は何だ。
「うっ……くくっ……!」
 イシェルはぎりっと奥歯を噛み締め、全身に力を込める。
「でやぁぁぁっ!」
 そして苦しそうに叫びながら駆け出し、最後尾のファルクスに迫った。
 その速さは疾風のごとく。
 あっと言う間に追い付き、闇の中、彼女の抜いた小太刀が、月の光を受けて星のように輝いた。
 通り抜けた後には、肉をえぐられ、血を吹き出すファルクスたちが、力なく次々と地面に倒れていった。もちろん、彼女の小太刀にも毒が仕込まれてあるため、それらは間もなく死体となるだろう。
「はあっ、はあっ、はあっ」
 顔中に汗を浮かべ、荒い呼吸をしながら、イシェルは小太刀を一振りして刃に突いた血を落とす。そして柄に付いた突起を押すことで、刃に新たな毒液がにじみ出してくる。彼女の小太刀はこういう仕掛けなのだ。
 イシェルはそれを鞘に納めると、すっと息を止め、また疾風のように駆け出した。
 次の狙いは、先頭にいるファルクスだ。
「な……何がどうなってる……」
「イシェルさん……すごすぎ……」
 ピステールとカヤセは呆然としている。
「……イシェル……」
 そんな彼女を見て、ヤクトは心配そうに呟いた。

 町に向かったファルクスたちは、今まさに、中に入ろうとしているところだった。
 もう目と鼻の先にある。
 腹をすかせた彼らは、人間を見付けては口の中に放り込んでいくだろう。
 だが、そうはさせないとばかりに、上空からイシェルが現れた。
(これ以上、無関係の者を死なせるわけにはいかない!)
 彼女は走り来るファルクスの前に立ちはだかる。
「うおおおおおっ!」
 イシェルは向かって行く。
 小太刀が、弧を描いた。
 体の大きなものや小さなもの、軟体動物や甲殻類まで、彼女は確実に一撃で斬り裂いていく。
 この一瞬で、十匹のファルクスが死んだ。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
 イシェルはふらつきかけたが、何とかこらえた。
「……あと、二十か……」
 うつむきながら、数を確認する。
 ファルクスたちには、一体何が起こったのかわからなかった。
 ただ、異様な恐怖を本能で感じ取り、皆、動けないでいた。
 いや。鳥のファルクスたちが、慌てて町へ入ろうと飛んで行く。
「…………」
 イシェルはそれを見付けると、素早く辺りを見回し、手頃な石を探した。そして手にしたそれらを、鳥たちへ投げ付ける。
「グエッ!」
 先頭の二匹に当たり、悲鳴を上げて落ちてくる。そこを目掛けてイシェルは跳躍し、小太刀を振るった。
 二匹の頭が一瞬で消え、後続の鳥たちが焦って引き返す。
 イシェルはもう一度狙おうとしたが、ついに膝をついてしまった。
「うっ……ぐっ……」
 顔から吹き出す汗が、いくつも地面にこぼれ落ちた。
(や、やはり苦しい……! これ以上はもう……!)
 イシェルは今、体中に走る激痛に耐えていた。
 心臓が激しく波打ち、全身の血管がはちきれようとしている。さらに刃物で体中に穴を開けられ、切り刻まれているような感覚が襲う。
 何度も気が遠くなりそうになるが、必死で耐えていた。
 何故、そんな激痛が襲うのか。
 それは、彼女にかけられた保険だった。
 万が一にも、命令違反を起こさないようにと。
(しかし、あと二十……何とかしないと……)
 ふいに、新たなファルクスの反応を感じた。
 一体のみである。
 こちらに近付いて来た。
(この反応……もしや!?)
 見ると、翼のある黒い馬が飛んでいた。天馬である。
 異形だらけのファルクスの中で、その馬は美しかった。
 背中には、人間が乗っている。髪は短めで目付きの鋭い、二十代後半くらいの男だ。
「こいつが騒ぐので様子を見に来てみれば……。やはり追ってきたのか、ハンターが」
「……ラオス……」
 イシェルは立ち上がった。
「ようやく見付けた……」
「俺のファルクスたちをこんなに殺しやがって……だが、お前もふらふらのようだな」
「……おとなしく元の世界へ帰るんです。この世界の人たちに、これ以上迷惑をかけてはいけません」
「ふん……」
 とラオスは鼻で笑い、天馬を地面に降ろした。
「たかがハンターが、偉そうに」
「あなたのしていることは犯罪です」
「それがどうした。罪もないファルクスたちを殺すのが正しいとでも言うのか?」
「……それが法となった以上、仕方ありません」
「ふん……。やはりハンターなど、主人に忠実なだけの飼い犬だな。……と、そうだ。その飼い犬のお前に、いいことを教えてやろうか」
 くくく、とラオスはおかしそうに含み笑いをした。
「俺をこの世界へ送ったのは、誰だと思う?」
「……えっ?」
「ただの飼育係だった俺が、転送機の使い方など知るわけがない。ある人が手伝ってくれたのさ」
「……!」
「くくく……それはな」
 ラオスはにやりと笑った。
「ガリエルさ」
「……まさか?」
 イシェルは愕然とする。
「そう。ガリエルだ。大統領であり、転送機の直接の責任者、ガリエル」
「そんな……」
「ははは。愕然とするハンターなど、面白いものが見られたな。ま、今回は引いてやる。これ以上ファルクスを殺されるわけにはいかないからな」
 ラオスは天馬に後ろを向かせた。
「ま、待て!」
 イシェルは跳躍し、小太刀を振り下ろす。
「ちっ」
 舌打ちするラオスだが、天馬の方が先に反応し、空へとかわす。
「ははは、いいのか? お前の任務は俺を殺すことじゃないはずだぞ」
「くっ……」
 さすがにその命令まで違反するわけにはいかない。
 だが、このままではファルクスが逃げてしまう。
 まだ二十……いや、ここに来ていないものも含めれば、三十近くは残っているはずだ。 全部は無理としても、ここは少しでも数を減らしておきたい。
 イシェルは逃げるファルクスの後を追いかけた。
「でやぁぁぁぁぁっ!」
 全身を襲う激痛に耐えながら、イシェルが迫ってくる。
「ちっ……あのハンター、まだ来るか。しぶとい奴だ」
 そうはわかっていても、ラオスには逃げるよう指示するしかない。本気を出したハンターに、ファルクスがかなうはずがないからだ。
 後部で刃が舞い、悲鳴が飛び交った。
 一、二、三……。
 イシェルは次々と倒していく。
 しかし、もう限界だった。
 体が言うことを聞かない。
「ぐぅっ……!」
 走る勢いのついたまま、肩から倒れ込む。
「ははは、だらしないな。無理はするなよ」
 ラオスはファルクスを率い、笑いながら去って行った。
「くっ……」
 悔しそうに唇を噛み締めるイシェルだが、やはり無理をしすぎたのか、そのまま意識を失ってしまった。

 辺りは血の臭いが漂い、ファルクスの死体がいくつも転がっている。
「……こりゃ、すごいな……」
 鼻をつまんでカヤセが言った。
「まったくだ」
 とピステールは相槌を打つ。
「一人でここまでやるとはね……。あのイシェルって子は何者なんだ?」
「……イシェル……どこだ?」
 ヤクトは彼女を探した。
 ようやくここまで追い付いたと思ったら、この有様だったのだ。
 どうやらファルクスは、町に入らずに立ち去ったらしいが、肝心の彼女が見付からない。
「イシェルーっ!」
 呼び掛けても、返事はなかった。
「くそ……どこへ行ったんだよ……」
「こう暗いと、見付けるのは難しいな……」
 とピステール。
「イシェル……」
 ヤクトは不安そうに呟く。
 それでも三人は探し続けた。その間、彼女も死んでしまったのではないか、という悪い考えがずっとよぎっていた。
「あ……ヤクトくん、あれじゃないのか?」
 ピステールが指を差す。
 ファルクスたちの死体の中で、一人、人間が倒れていた。
「間違いない……イシェルだ!」
 ヤクトは慌てて駆け寄った。
「おいっ、しっかりしろ!」
 一瞬、死んでいるかもと焦ったが、どうやら大丈夫のようだ。
 しかし彼女の表情は、苦しそうに歪んでいる。
「イシェル……」
 ヤクトは彼女の顔を撫で、優しく微笑んだ。
「ありがとう。君のおかげで町は助かったよ」
 戦い疲れた少女の顔を、月明かりが静かに照らしていた。

 第八章

 次の日の朝。
 イシェルは目を覚ました。
(ここは……)
 見知らぬ天井。見知らぬ部屋。
 自分はベッドの中にいる。
 ふと、話し声と共にドアの開く音がし、やがてこの部屋のドアも開けられた。
「あ、起きたのか。まだ寝ててもよかったのに」
 ピステールだった。手には食べ物を乗せた盆を持っている。
「ここは私の家だから、安心していいよ」
「何? イシェルさん、もう起きたのか?」
 カヤセも入ってきた。
「おい、ヤクト、イシェルさんが目を覚ましたぞ」
「ほ、本当か?」
 遅れてヤクトがやってくる。
 そして彼女の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろし、
「よかった……」
 と嬉しそうに呟いた。
「……みなさん、心配してくれたんですね」
「当たり前さ」
 とカヤセが言う。
「でも、一番心配してたのはヤクトだけどな」
「お、お前、言うなよっ」
「ははは、いいじゃないか」
「ま、とりあえず、目覚めに紅茶でもどうだい?」
 ピステールが盆の上のカップを取り、差し出した。
「……ありがとうございます」
 イシェルは受け取り、そして訊ねた。
「ところで、私はどのくらい眠っていたのですか?」
「え……と、半日くらいだね」
「その間、ファルクスは?」
「動きはないよ」
「死体はそのままですか?」
「あ、ああ。とても片付けなんてできないよ」
「……わかりました」
 イシェルは二口ほど紅茶を飲んでから立ち上がった。
「少し出かけてきます」
「ファルクスを消しに行くのか? まだ寝ていた方がいいんじゃないか?」
 と心配そうにヤクトが言う。
「もう大丈夫です。ピステールさん、紅茶おいしかったです」
「どういたしまして」
「では、すぐに戻りますので」
 イシェルは部屋を出て行った。
「……やれやれ。仕事熱心な子だな」
 ピステールが呆れたように呟いた。
「お、おい、待ってくれ」
 ヤクトがはっとして、彼女の後を追う。
「イシェル!」
「何です?」
 玄関を出てすぐのところにいた。
「本当に、休んでなくて大丈夫なのか? 昨日の戦いのときだって、あんなに苦しそうにしてたのに……」
「大丈夫です」
 とイシェルは言った。
「昨日のは私が命令違反をして戦ってしまったからです。それに休んでだおかげで、もう何ともありません」
「……そ、そうなの……」
「はい。それに、町の人たちに見付かる前に回収しないと、騒ぎになりますから。では、行って来ます」
 イシェルは町の外へと歩いて行った。
「…………」
 ヤクトはしばし呆然としてから、部屋に戻った。
「おい、ヤクト」
 カヤセがにやにやと不気味な笑みを浮かべて言う。
「うまくできたか? 愛の告白は?」
「……何か、誤解してないか?」
「何だ、やっぱりできなかったのか」
 カヤセは肩をすくめる。
「でもよかったな、念願のイシェルさんの寝顔が見られて」
「べ、別に……」
「照れちゃって。かわいかっただろ?」
「…………」
「……ま、それは置いといて。俺たちはすることがないから、食事にしよう。これ、もらいっ」
 カヤセはテーブルに置いてあるパンを取って、素早く口に入れた。
「あっ、それは……私の大好物のあんパン……人気商品で一個しか買えなかったのに……」
 ピステールが愕然とする。
「へへっ、早いもの勝ちさ。う〜ん、こりゃうまい」
「くっ……だ、だが、私にはまだクリームパンが……」
「これももらいっ」
 ピステールの手にしたそのパンを、カヤセは奪い取った。
「取るなぁっ!」
「ま、まあまあ。騎士様が、せこいこと言うなって」
「……騎士は関係ないと思うが」
「まあまあ。俺の村には菓子パンなんてないんだから、譲ってくれよ」
「……君は自分の分を選んだじゃないか。サンドイッチを」
「やっぱり菓子パンが食べたてみたくなったんだ。ほら、ヤクトも食べろよ」
 カヤセはクリームパンを彼に渡した。
「あ、ああ」
「……まあいい。ところで話は変わるが、彼女、イシェルさんは何者なんだ?」
「え? 昨日の戦いの後も説明しただろ? ファルクスハンターだって」
「……昨日はゴタゴタしていたから訊かなかったが、それだけでは納得できないな。いくら訓練したとしても、人間にあんなことができてたまるか」
「そんなこと俺に言われてもな。俺だって疑問に思ってることは結構あるし……」
 カヤセはヤクトを見た。
「イシェルさんと一番長くいるのはヤクトだろ? 何か知らないのか?」
「……俺も知らないよ」
「本当か? 隠してない?」
「隠してないって。それに、彼女も言ってただろ? 全てが終わったら説明するって」
 知りたいのはヤクトも同じである。
「それにピステールさん。彼女は昨日、あんなに苦しい思いをしながら、町を守るために頑張ってくれたんです。それだけで、信用するには十分じゃないですか?」
「……ふぅむ……」
 とピステールは大きくため息を付いた。
 確かに自分たちの力だけでは、町を守ることはできなかっただろう。彼女がいなければ、こうしてのんびりと朝食を取ることもできなかったかもしれない。その点では大変感謝しているが、しかし。
「そんな楽天的に考えていいのだろうか……」
 やはりあの運動能力は異常である。雰囲気も、自分たちとはどこか違うように思える。
「別にいいんじゃない? 何かあったら、その時はその時さ」
 そう言ってカヤセは、ピステールが手にしようとしたチョコパンを先に取り、素早く口に入れた。
「あ、また君は! 何故私が食べようとしたものばかり取るんだ!? 他にもあるじゃないか!」
「偶然だって。……ピステールって、甘いものが好きだったんだな」
「ごまかすな」
「ところで、ピステールって何歳?」
「……二十四だが……それがどうした」
「……まだ独身?」
「はあ?」
「彼女もなし?」
「……し、失礼な奴だな、君は」
「じゃあいるのか?」
「……い、いないが……」
「ふ〜ん、俺はいたぜ。すんごく美人の彼女が。ファルクスに殺されたけど」
「……何が言いたいんだ?」
「ちょっとした自慢と、同情を誘ってパンを全部もらおうかと……」
「……そう言うなら、私だって友人が殺されてるんだぞ」
「……俺も妹を殺された……」
 とヤクト。
「……みんな、大事な人を殺されたってわけか……」
 しん、と空気が沈み込んだ。
「……これ以上、誰かが死ぬのは嫌だよな……」
 カヤセが呟く。
「そうだな」
 とピステール。
「そのためにも、イシェルと協力しないと」
「わかってるよ、ヤクト。イシェルさん、美人だからな」
「……あ、あのなあ、カヤセ……」
「カヤセくん、他人の恋路を邪魔してはいけないよ」
「……ピステールさんまで……」
 ヤクトは困ったように頭を掻く。
(そういうのとは、ちょっと違うと思うんだけどな……)
 だが、実際のところはよくわからない。
 彼女の謎めいた部分に興味を抱いているだけなのか、女性として好きなのか。
 もっとも、人間としての彼女に好意を持っているのは確かなのだが。

 まだ少し、体の節々が痛んでいた。ピステールの家を出てから錠剤を飲んだが、その痛みは消えなかった。
(命令違反の後遺症か)
 といっても、戦闘に影響が出るほどではなく、大したことではない。それよりも気になるのが、昨日のラオスの言葉だ。
 彼は言っていた。自分をこの世界に送り込んだのはガリエルだと。しかし、そのラオスを連れ戻すように命令をしたのもまたガリエルである。
 それが本当だとしたら、ガリエルの意図はどこにあるのだろうか。
(私が考えるべきことではないのだが……)
 イシェルはカード型通信機を取り出した。これを使ったのは、まだラグナス村での一度だけである。そろそろ次の報告をした方がいいだろう。
 だが、スイッチを押し、通信を開きかけてから、彼女は思い止まった。
(……やめておくか)
 何故なら通信を開いたとき、同時に体調チェックもされてしまうからである。すなわち、命令違反を行ったことが知られてしまうのだ。そうなると、この仕事を途中で降ろされる可能性が出てくる。それは避けたかった。
(こういうのが感情的な行動、なのだろうか?)
 相変わらず無表情のまま、イシェルは考える。
彼女は、自分の変化に気付いていた。特に昨日のように、人命を優先して行動するなど、今までの自分からはありえないことだ。
 おそらくは、いや間違いなく、ヤクトたちの影響なのだろう。過去、ロボットのようにしか扱われなかったイシェルを、彼らは人間として扱った。そんな優しさに触れたための、ちょっとした変化。それが命令違反という行動を引き起こしたに違いない。
(間違いなく、これが私の最後の仕事になるだろうな)
 とイシェルは確信していた。
 命令を守れないハンターなど、必要とされるはずがなかった。それだけではない。この世界で最後のファルクスの命を絶ったとき、ファルクスハンターの存在意義はなくなるのである。
(ともかく、町の人たちが気付く前に死体を片づけなくては)
 イシェルは町の外へと急いだ。

 イシェルが戻って来たのは、それから十分後だった。
「早かったね」
 とヤクトは声をかける。
「もう死体は全部消したのかい?」
「はい。みなさんは食事は済んだのですか?」
「ああ。今は休んでいるところだ」
「そうですか」
「イシェルさん、食事まだだろ? ちゃんと残してあるから食べなよ」
 カヤセがテーブルの上のパンを差して言う。
「いえ。私は結構ですから」
「えっ、でも何も食べてないだろ? 体によくないぜ」
「そうだな。朝食はきちんと取った方がいい」
 とピステールも賛同する。
「…………」
 イシェルは困った。今食事を取れば、逆に体調不良になってしまう。いつも一口二口でごまかしているが、今日はそういうわけにもいかないのだ。
 そんなとき、ヤクトが助け船を出した。
「まあ、いいじゃないか。彼女は食べない方が調子いいみたいだし」
「いや、でもなあ……」
「カヤセさん、私は大丈夫ですから」
「そ、そう? 何か納得いかないけど……」
 と彼はうーんと首をひねる。
「私のことはともかく。それよりファルクスのところへ行きましょう。彼らは森の中で腹をすかせているはずです」
「……森の中か……」
「そろそろ、最後にしたいよな」
「しかし、また数で来られたらどうする?」
「残りのファルクスは三十程度です。一度に相手にすることはできませんから、私が引き付けてばらばらにします。そうすればかなり楽になると思います」
「なるほど……。しかし、そんな作戦、ラオスとか言う奴にすぐに気付かれるのでは?」 とピステール。
「昨日のイシェルさんの力があれば、楽なんだけど……」
「カヤセ」
 ヤクトが睨む。
 あのときのイシェルが、どんなに苦しそうだったか。
 あんな姿は見たくはない。
「わ、わかってるって。言ってみただけだよ」
「……昨日のは、すぐに動けなくなってしまいますから、安易には使えません」
 とイシェル。
 彼女にしても、あの時の苦しみを思い出すだけで、全身に寒気を感じる。
 あくまで、あれは最後の手段だ。
「ファルクスの好きな匂いというのがあります。新鮮な血の匂いですが……私がそれを出しますから、彼らはすぐに飛び付いてくるはずです」
「なるほど。それなら大丈夫だろう」
 顎に手をやり、ピステールは頷く。
「しかし、血の匂いをどうやって出す? かなりの量がいるんじゃないか?」
「これがあります」
 イシェルは小さなカプセルを見せた。
「何だ、それ?」
 もちろん、カヤセたちはそんなもの見たことはない。
「この中には血の臭いが凝縮されて入っています。ファルクスをおびき寄せるためのものです」
「はあ……ハンターの道具って奴か……」
「はい。私がこれを森のあちこちに置いていくというわけです」
「よし、その作戦で決まりだな」
 ヤクトが弓矢を持って立ち上がる。
「行こう!」
 彼の言葉に、カヤセとピステールは頷いた。
 そしてヤクトたちは、アスランの町の商店街を抜け、森の中を進んで行った。

 歩きながら、イシェルがファルクスの反応を探る。
「……近いですね。私たちが食い止めなければ、今日中に町の人たちは食べられてしまうでしょう」
「……緊張するようなこと言わないでくれよ……」
 とカヤセ。
「では、みなさんはここにいてください。これ以上近付くと、ファルクスに気付かれてしまいます」
「ああ、わかった。お互い気を付けよう」
「はい」
 イシェルは一人、森の奥へ走って行った。
 そして程無くして、血の匂いがここまで漂ってきた。
「……あ、あまりいい匂いじゃないな……」
 カヤセが顔をしかめる。
「当たり前だろう」
 とピステール。
「ともかく、そろそろファルクスが移動するはずだ。その時の足音を合図にしてこっちも動くぞ」
「おう」
 三人は、静かに待った。
 目を閉じ、耳を澄ます。
 かすかに、音が響いてきた。
 森全体に広がっていくようだ。
「……動いたな」
 とヤクトが言った。
「右の方が音が小さいな。こっちに行こう」
 三人は進み始める。
 そしてしばらくして。
「見えたぞ!」
 血の匂いに集まったはいいが、何もなくて混乱しているファルクスたちの姿が。
 さっそくヤクトが矢を放った。
 一番端にいたファルクス、ナメクジに当たり、体を痙攣させた。他のファルクスは気付かないのか、それどころではないのか、構わずに血の元を探している。
「よっしゃあ、俺が止めを刺してやる!」
 カヤセが苦しんでいるナメクジに突進し、槍を突き刺した。しかし、それでもまだ死なない。
 ナメクジは、口から緑色の液体を吐き出してきた。
「う、うわっ」
 何とか避けたからいいが、地面に落ちた液体は、不気味な煙を吹き出している。
「な、何だ、これ!?」
「カヤセくん、さがれ! 触れると体が溶けるぞ!」
 ピステールは同じようなことをするファルクスを、城で見たことがあった。
「何いっ!?」
 カヤセは慌てて逃げる。
「はぁっ!」
 代わりにピステールが飛び出し、剣で斬り裂いた。ナメクジの体は二つに分かれた。
 まだぴくぴくと動いているが、それも時間の問題だろう。
「よし、まずは一匹だ」
 ヤクトがほっと息を付く。
 だが、今ので他のファルクスに完全に気付かれてしまった。
「……休んでいる暇はないな。早くこいつらを片付けないと」
「そうはいかないな」
 ふいに声がし、黒い影が見えた。
 風が吹き、空中に翼のある黒い馬が現れる。その背には男が乗っていた。
「だ……誰だ!?」
 カヤセが槍を向け、問いかける。
「あのハンターから聞いていないか? 俺の名はラオスだ」
「ラオス……!? するとお前が!?」
 三人は武器を構えて、男を睨み付けた。
「まあ、待て」
 とラオスは手で制す。
 そして天馬に乗ったまま地面に下り、ファルクスにも待機するよう合図をした。
「少し話し合おうじゃないか」
「話し合うだと……!? お前がファルクスを連れてきたおかげで、こっちはえらく迷惑しているんだ! 犠牲者も大勢出ている!」
 ピステールが怒鳴った。
「それは済まなかったな。だが、俺の方にも事情があってね」
「事情? ファルクスが殺されるからか!?」
「……そうだ。私はファルクスが好きなんだよ。それをいらなくなったから殺すなんて、理不尽だろう」
 ラオスは天馬の頭を優しく撫でてやる。
「だから俺はこいつらを連れ、ここに移住することにしたのだ」
「勝手なことを……!」
 ヤクトは怒りに奥歯を噛み締める。
「……勝手か……。だが、勝手に振り回されたのは、俺もファルクスも同じだ」
「……?」
「……ファルクスは、元から醜い姿だったのではない。人間の勝手で変えられたのだ」
「な、何? 何を言っている?」
「……説明したところで、お前たちに理解はできんだろう。まあ、まれにこの馬のように美しいものも生まれるようだが、大半はあんなだ」
 と、後ろのファルクスたちを見る。
「この森にもいたはずだぞ。ファルクスと似た姿を持つ動物が。ファルクスの元の姿はあれだ」
「……まさか……」
「何をすればあんなになるって言うんだ!?」
「……安心しろ。ここではそうならないだろう。……しばらくはな」
「その、何かを含んだ言い方やめろよ! 言うならはっきり言え!」
 いらついて、カヤセが声を上げる。
「…………」
 ラオスは顔を森の奥の方に向け、言った。
「……もうすぐここに、全てのファルクスが集まる」
「!?」
「あのハンターが血の匂いを出しておびき寄せたらしいが、そこには何もない。腹をすかせたファルクスたちは感覚を研ぎ澄まし、お前たちのこともすぐに見付け出すはずだ。俺と呑気に話していていいのか?」
「ちっ……」
 カヤセは舌打ちするが、にやりと笑い、
「ファルクスを率いているのはお前だろう。ならお前を倒せば、奴等は統制がとれなくなる! ヤクト!」
「おう!」
 ヤクトが矢を射る。
 だが天馬は素早くかわし、三人に向かってきた。
「うわっ!」
 思った以上の速さだ。
 攻撃をする暇などなく、地に伏せるだけで精一杯だった。
 天馬は彼らのすぐ上を通り抜け、高く舞い上がった。
「くっ……」
「ははは、いい馬だろう」
 空中で止まり、ラオスが笑いを上げる。
「悪いが、ファルクスの食料になってもらうぞ」
「誰が、食料なんかに!」
 三人は武器を構える。
 だが彼らの周りには、目を光らせたファルクスたちがいた。囲まれたのだ。
「くくく……終りだな。第一、俺を倒すといったところで、こいつの速さに付いてはこれまい?」
「いいえ、それくらいなら何とか」
 ラオスの耳元で、突如声がした。
「な、何!?」
 振り向いた彼の目には、ファルクスハンター、イシェルの顔が映っていた。この高さまで、彼女は飛び上がってきたのである。
 そして、ラオスを目掛けて小太刀を振り下ろす。しかし当てるつもりはない。殺すのが目的ではないため、これはあくまで牽制のための攻撃である。
 だが、ラオスの方は完全に不意を突かれていた。
「くっ!」
硬直したまま、刃を避けることができない。
(当たる!?)
 イシェルは攻撃を止めるべきか迷ったが、彼の馬の反応が速いことに気付いた。天馬は彼女が迫る気配を感じ、咄嗟に体が動いて避けたのだ。イシェルは安心してかわされたふりをし、そのまま小太刀を振り下ろす。
「……はっ、はあっ、はあっ……危なかった……」
 距離を取ってから、ラオスは冷や汗を拭った。しかし、すぐにあることに気付く。
「いや、しかし今のは……?」
「馬に助けられましたか……」
 彼をちらりと見てから、イシェルは小太刀を納め、地面に着地した。
「イシェル!」
 ヤクトたちが彼女の側に駆け寄る。
「どうしたんだ、こんな所へ来て? 気付かれたのか?」
「ええ。それと、ラオスの馬がヤクトさんたちに近付く反応があったので、戻ってきました。ファルクスもすぐそこまで来ています」
「おい、ハンター」
 ラオスが問い掛ける。
「何故、お前は直接戦えない? ここの連中を協力させるより、お前一人で戦った方が効率がいいはずだぞ」
 そう。彼は先程のイシェルが、わざと攻撃を外したことに気付いたのである。捕らえるのが目的であれば、多少の怪我をさせるのは当然のはずだ。しかしそれさえもしないとは、何か他に目的があるに違いない。
「……そ、そうなの?」
 とカヤセがイシェルを見る。
「お前に命令を出した奴の目的は何だ!?」
「……私は何も知りません。ただ命令を実行しているだけです」
「……ちっ……融通の効かん奴め……」
 ラオスは天馬と共に空へ舞い上がった。
「お、おい、イシェル……」
「来ますよ、全てのファルクスが」
 ラオスの質問の意味を訊こうとしたヤクトに、イシェルはそう言って制した。
 答えたくないようだ。
 それなら無理に訊くつもりはない。
「あ……足音が聞こえてくる……」
 森の奥を見て、カヤセが言う。
 まるで地鳴りのようだ。
 ここにいたファルクスたちも、ヤクトたちに襲いかかろうと、一歩ずつ迫ってくる。
「くっそー……結局大勢を相手にするのか……」
「今更言っても仕方がない。やるぞ!」
 武器を構え、相手に向ける。
 ラオスはその様子を上空で眺めているだけだ。
「来たぞ!」
 ヤクトが声を上げる。
 とうとう全てのファルクスが姿を見せた。その息は荒く、涎が垂れ、目は血走っている。
「な、何か今日のあいつら、迫力あるな……」
 カヤセが顔を引きつらせる。
「腹をすかせているからですよ」
 とイシェル。
「みなさん、気を付けて」
「気を付けてと言われても……」
「集中しろ、カヤセくん! やられてしまうぞ!」
「わ、わかってるよ!」
 だが、ファルクスたちは彼らではなく、別のものに興味を向けている様子だった。数匹が一カ所に集まり、もぞもぞとうごめいている。
「な、何をしている?」
「……どうやら、ヤクトさんたちの倒したファルクスの死体を食べているようですね」
「何?」
 三人は目を見開く。
「……見境ないのかよ……」
 とカヤセが顔をしかめた。
 そして思い出す。森の中で、ファルクスの子供たちが共食いをしていたことを。
 同じ光景を再び目にし、彼は怒りとも悲しみとも、何とも言えない気分だった。
 もうなくなってしまったのか、ファルクスたちは今度はヤクトたちに狙いを定めた。
「……ちょっと危険かな……」
 ヤクトは一瞬、寒気を感じた。腹をすかせた動物は、普段よりずっと手強くなる。彼は狩りの経験から、そのことをよく知っていた。
「みんな、一旦後退しよう!」
「えっ?」
「な、何言ってんだ、ヤクト! 逃げてどうするんだよ!」
 ヤクトの指示に、カヤセは怒りの声を上げる。
「そうじゃない! この数を一気に相手にはできないだろう! だから後退しつつ、追いかけてくるファルクスを順番に倒していくんだ!」
「あ、ああ……なるほど。そういうことか」
「それが一番いいだろうな。賛成だ」
 とピステールが頷く。
「よし。そうと決まれば実行だ。行こう!」
 ヤクトが先頭になり、森の中を進んでいく。その後をイシェルが続いた。
「お、おう!」
 と返事をし、カヤセとピステールも慌てて移動するが、そこをファルクスが飛び掛かってきた。それも一斉にだ。
「うわっ!」
「ひええっ!」
 二人とも武器を向けるが、この数ではとても相手になどできない。
それに気付いたイシェルが、急いで引き返した。そして先頭にいる五匹のファルクスたちを、小太刀ではなく素手で殴り付ける。
 ドドドッ、と地鳴りを上げて、ファルクスたちが倒れ込む。
 その間わずか一瞬。まさに目にも止まらぬ速さだ。
「…………」
「す、すげえ……」
ピステールとカヤセは呆気に取られながら、先程のラオスの言葉を思い出していた。
 自分たちを協力させるより、彼女一人の方が効率がいい、と。
 こんなものを見せられたら、その言葉が嘘ではないことが信じられる。
「二人とも、伏せてろ!」
 ヤクトの声に、二人ははっとして地に伏せた。
 その頭の上を、いくつもの風が切られていく。
 ヒュンッ! ヒュンッ!
 そして沸き上がる悲鳴。イシェルが倒したファルクスたちに向け、ヤクトが連続で矢を放ったのだった。もちろん全て命中し、五匹の命は時間の問題となった。
「ふうっ……危ない危ない……」
 起き上がり、息を付くカヤセ。
「……しかし、これはまずいぞ。相手が凶暴化している上に、この数が相手では後退するのも難しい」
 どうしたものか、とピステールが唇を噛む。
「彼女にばかり頼るわけにもいかないしな……」
 とヤクトはイシェルを見る。このままでは、また昨日のようなことが起こりかねない。
「はははは、どうやらお前たちはハンターの力を借りないと、何もできないようだな」
 ラオスがいやらしく笑った。
「そのハンターも、昨日の後遺症でいつまで持つかわからんぞ。さっさと観念して……そして、おとなしく食料になれ!」
「勝手なことを……!」
 彼に向け、ヤクトは矢を放つ。
「当たるものか」
 余裕の表情のラオスだが、彼の天馬は急に体を反転させた。
「なっ、何!?」
 ラオスが落ちる。
 天馬はそれを追い、彼を捕まえた。
 口を開け、鋭い牙の生えた歯で。
 彼の喉を噛み締める。
 ゴキッ、と骨の砕ける音がした。

 第九章

「なっ……!?」
 ヤクトたちは目を剥いた。
 何が起きたのか、すぐには理解することができなかった。
「しまった……」
 イシェルも呆然としてしまう。予想できないことではなかったのに、そこまで考えが回らなかった。
 黒い天馬は、口にラオスをくわえ、地面に降りた。彼の首は不自然に曲がっており、体は痙攣を起こしている。
 天馬はラオスを下ろして足で押さえると、首を食い千切った。
 ぶしゅうっ、と血が噴水のように吹き出す。
「うわっ……」
 カヤセは思わず目を覆う。
「あの馬、何であんなことを……」
「空腹に、我慢ができなかったんでしょう」
 とイシェルが言った。
「美しい姿をしていても、ファルクスには違いがありませんから」
 他のファルクスたちも、動かなくなったラオスに群がり、彼の肉を食べ始めている。
「まさか、自分が食事にされるとはな……」
 憎むべき相手だが、ピステールは彼に同情した。こんな死に方をするとは、夢にも思わなかったことだろう。
「くそっ!」
 突然ヤクトは声を上げ、ファルクスたちの方へ走り出した。
「ヤクトくん!?」
「おい、よせ!」
 驚き、止めようとするピステールとカヤセだが、ヤクトは彼らの手をすり抜けた。
「やめろぉぉっ!」
 叫びながら、ラオスに群がるファルクスに矢を放つ。
「そいつはお前たちの主人だろうがっ! かわいがってもらったんだろうがっ!」
 それだけではない。
 元はと言えば、彼らを助けるために、ラオスはここまで逃げてきたのだ。その恩に報いるどころか、殺して食料にしてしまうとは。
 ファルクスには本能しかない。
 そうイシェルに聞かされた時には、彼らが生きるために必要なことなのだろうと思っていた。しかし、ヤクトは今初めて、心から怒りを覚えた。
 生きるためにラオスを利用し、生きるためにラオスを食べる。彼らにとっては当たり前のことかもしれないが、それではラオスがあんまりすぎる。
 ラオスも許せなかったが、ファルクスも許せなかった。
「でえいっ!」
 残り少なくなった矢を、怒りに任せ、次々と放つ。
 食事に夢中のファルクスは避けようともせず、面白いように命中したが、それでも食べるのを止めようとしなかった。
「くそっ……そんなに、殺されるより食べていたいのかよ……」
 何だか、悲しくなってきた。
「危ない! ヤクト!」
 カヤセの声に、彼ははっと顔を上げた。
 大きなファルクス三匹が、すごい速さでヤクトに向かって来る。
(しまった!)
 今の体勢では、同時に三匹は倒せない。周りに気を配っていれば、それを防げたはずなのに。
「くっ!」
 仕方なく、中央のファルクスを狙って矢を放つ。これで隙ができれば、まだ助かることはできるはずだ。だが、中央の獅子型のファルクスは、空中に飛び上がって避けた。
「なっ……!?」
 そのまま来れば、ヤクトを押さえ付けることができる。
(もうだめか!?)
 そう思った時。
 ヒュッ、と短く風が唸り、その獅子の首が宙を舞った。後を追うように血が吹き出す。
 それと同時に、両脇にいた二匹のファルクスの首も飛んでいた。
 ヤクトが驚いていると、ふいに体が浮き上がった。
「う、うわっ」
「ヤクトさん、無茶はしないでください」
 イシェルが顔をしかめつつ、彼を支えるようにして空中へ持ち上げていた。
「イ、イシェル……」
 どうやら、やったのは彼女のようだ。
 長い滞空時間の後、イシェルはカヤセとピステールの所へ降り立った。
 ヤクトを離すと、彼女は思わずよろめいた。
「イシェル!」
 慌ててヤクトは彼女を支えた。
「すいません……」
「お、俺の方こそごめん……。ついカッとなって……」
 そのせいで、また彼女に無理をさせてしまった。
「おいおい、今は後悔している場合じゃないだろ?」
 とカヤセが言う。
 見ると、ラオスと思われるものはすっかり骨になり、しかもばらばらに砕かれていた。そしてファルクスたちは、今イシェルが首をはねた三匹のファルクスの死体に群がっているが、半分はこちらを見つめている。
「来るか……?」
 ピステールは剣を構えて睨み付ける。
 いや。来なかった。
 先程から肉を口にできなかったファルクスが、とうとう我慢も限界にきたのか、別の一体に噛み付いた。
 そのまま食い千切り、うまそうに噛み始める。だが、食われた方も食い返す。
 悲鳴を上げながらも、彼らは互いの肉を食べていた。
 それに触発されたのか、他のファルクスたちも、近くのファルクスを襲い出した。
 完全に、見境がなくなっていた。
「こ……こんなのって、ありか……?」
「同じ種族なのに、死体だけでなく、生きていても食いつくとは……」
 カヤセとピステールは呆然としている。
「共食い、か……」
 ヤクトは意外と冷静に、その光景を見ていた。
「イシェル……。何なんだろうな、ファルクスって……。ラオスは人間の勝手で生まれたって言っていたけど……」
「……その話は後にしましょう。まだファルクスは残っています。全てを消せば、もう大事な人が殺されることはありません」
「そ、そうだったな」
 とカヤセは我に返った。
「もう残りは少ないんだ。早く片付けちまおうぜ」
「よし、行こう、カヤセくん」
 ピステールは彼と二人で、ファルクスに向かって行った。
「私たちも行きましょう、ヤクトさん」
「ああ」
 とヤクトは頷いた。
「……俺にはよくわからないけど、ファルクスって悲しい生き物だな……」
 そう呟いてイシェルを見ると、何だか、彼女まで悲しそうな顔をしている気がした。

「でやっ!」
 ピステールがトカゲを斬り裂いた。
「残りは……五匹か!」
 息を荒くしながら、彼は言った。
 あの黒い馬と巨大なカニ、それとウサギと蝶と猪だ。
「へへへ……俺たち、強いぜ!」
 とカヤセは笑みを浮かべる。
「もう少しだな……」
 ヤクトが呟く。
 三人はうまく連携を取り、共食いで死んだものを抜かしても、十匹近くを倒していた。 多少怪我はしたが、こんな時だ。大して痛みは感じない。
「イシェル、もう少しだぞ」
「はい、頑張りましょう」
 側にいる彼女の顔を見て、ヤクトは蝶に狙いを定めた。
 イシェルは先程の直接攻撃のせいでつらくなったらしく、危険な状態になったときしか行動しなかった。だが、声をかけてくれるだけでも十分だった。
 それだけで何だか調子がよくなる。
「はっ!」
 見事、彼の矢は蝶を貫いた。
「いいぞ、ヤクトくん」
 とピステール。
「いいよなあ、ヤクトは。イシェルさんが側にいて」
 カヤセが羨ましそうに言う。
「お、おい、来たぞ、カヤセ!」
「え?」
 ヤクトの声に前を見ると、ウサギが向かって来ていた。
「よし、任せろ!」
 カヤセは槍を振り上げる。
 しかし槍が届く距離になって、ウサギは走るのを止め、飛び上がった。と思ったが違った。足は地面に付けたままで、胴を人間並に伸ばしたのだ。そして一瞬で、頭のある位置まで体を縮める。
 変わった飛び上がり方だが、その高さはカヤセの頭と同じ位置である。
 槍を降り下ろすには、丁度いい高さだ。
「はっ!」
 切っ先がウサギの脳天に当たり、そのまま地面に叩き付けられた。
 槍を離すと、割れた頭から脳みそが飛び出してくる。
「うげっ!」
 自分でやったとはいえ、これは少し残酷だったかもしれない。
「と、ともかく、あと三匹だ!」
 とカヤセが指を三本立てて言った時。
「でぇいっ!」
 ピステールが、突進してきた猪をかわして、横から斬り上げた。
 腹を半分斬られ、倒れ込んだ猪を、剣で突き刺して止めを刺した。
「おお、あと二匹!」
 カヤセは指を二本立てる。だが、その二体は他と比べても強そうだ。
 ラオスを乗せていた黒い天馬と、巨大なカニ。
「こいつらさえ倒せば……!」
 ファルクスはいなくなり、安心した生活ができる。
 そう考えた時、ヤクトははっとした。
(イシェルも、帰ってしまう……?)
 そうだ。ファルクスがいないのだから、ここにいる意味はないはずだ。
 ヤクトは弓を構えたまま、一瞬躊躇してしまった。
「ヤクトさん」
 イシェルの声が聞こえた。
「今は彼らを倒すことだけ考えてください」
「……イシェル……」
 迷いが読めたらしい。
(……そうだ。あいつらを倒さなければ、元も子もないじゃないか)
 それからのことは、それから考えればいい。ヤクトはカニに矢を放った。
 だが、カニは二つのハサミで防御する。
 矢はわずかに傷を付けた程度だった。
「なっ……」
「……思ったより殻が固いようですね」
 とイシェル。
「よし、カヤセくん、後ろに回ろう。カニは横にしか動けないし、正面はハサミがあるからな」
「わかったぜ」
 二人は同時に走った。
「あ、待ってください」
 とイシェルが止めるのも聞かずに。
 カニは、横ではなく、縦に向かってきた。
「えっ!?」
「うわっ!?」
 二人は慌てて、それぞれ左右に避ける。
 しかし、カニは横歩きもした。
 カヤセの方に突っ込んでくる。
「な、何で俺の方に!」
 彼は後ろへ回り込もうとするが、カニは素早く正面を向き、行かせてくれない。
 だが。
「いいぞ、カヤセくん!」
 カニは、反対側にいるピステールに後ろを向けていた。
「やあっ!」
 ピステールは甲羅の上を駆け上がった。
 そして剣で両目を潰す。
 カニは暴れ回り、ピステールは振り落とされた。
「いてて……。だが、チャンスだぞ」
「両目潰すなんて……ピステールって、結構ひどいことするな」
 冗談っぽく笑いながら言うカヤセ。
「そんなこと言っている場合じゃないだろう。やるぞ、カヤセくん!」
「やれやれ」
 二人は苦しんでいるカニの正面に回った。無茶苦茶にハサミが振り回されるが、狙いが上を向いているので、近付くのは簡単だった。
「でやあっ!」
「はあっ!」
 二人でハサミを付け根から斬り落とした。そして口の中に、剣と槍を突き刺した。
 二つの刃は、背中の甲羅まで貫く。
「……今更ながら、俺も結構ひどい殺し方してるな」
 とカヤセは言った。
「そんなことより、最後のあの馬は!?」
 ピステールは空を探した。
 つられてカヤセも上を見る。
 その彼らの後頭部に、突然衝撃があった。思い切り殴られたような痛みが走る。
「ぐわっ!」
「だあっ!」
 二人は地面に叩き付けられ、頭を押さえてうずくまった。
「う、くく……何だ、今のは?」
 顔を上げると、黒い影が通り過ぎるのが見えた。
「大丈夫か!?」
 二人の所に、ヤクトとイシェルが駆け寄ってくる。
「あ、ああ」
「大丈夫」
 カヤセとピステールは起き上がった。
「くそっ、あの馬、速くて矢が当たらないんだ」
 とヤクトが唇を噛む。弓には自信があっただけに、悔しかった。
「まずいですね。あの馬、このまま町へ行ってしまうかもしれません」
 とイシェル。
 天馬はこの上空を旋回して、様子を見ているようだった。
 邪魔者は消すか、それとも放っておくか、判断しようとしているのだろう。
「……よし、イシェル。地上から矢を当てるのが無理なら、あの馬に飛び移って直接攻撃する。君ならできるだろう? 手伝ってくれ」
「また無茶なことを……」
 とカヤセが呆れる。
「でも、いいんじゃないか? ほら、この剣を使うといいよ」
「ありがとう」
 ヤクトはピステールから剣を受け取った。代わりに弓を預ける。
「さあ、頼むよ。イシェル」
「……危険ですが、仕方ありませんね」
 彼女は後ろから、ヤクトの腰に手を回した。体がしっかりと密着される。
「変な気起こすなよ」
 ぼそっとカヤセが言った。
「あ、あのなあ、こんな時に……」
 一瞬意識してしまったのは事実だが。
 ともかく、二人は丁度こちらに飛んでくる天馬に、狙いを定めた。
「よし、今だ!」
「行きます!」
 イシェルは飛んだ。
 そして風の速さで、天馬の背に乗り移る。
「ヤクトさん、しっかりつかまって!」
「うぐっ……!」
 風の抵抗にあおられながらも、ヤクトは懸命にしがみついた。
 右手に剣を持っているので、左手を馬の首に回す。
「イシェル!」
 強い風で目を開けていられないので、きつく閉じながら、ヤクトは後ろの彼女に叫んだ。「こいつは俺がやる! 大丈夫だから、任せてくれ!」
「……わかりました、気を付けて」
 イシェルは天馬につかまる手を放し、風の流れに乗ってそこから降りた。
 戦闘中はヤクトに付いているという命令があるが、イシェルは彼の気持ちを尊重して、激痛に耐えることにした。
「イシェルさん!」
「どうしたんです!?」
 地面に着地した彼女に、カヤセとピステールが駆け寄ってくる。
「ヤクトさんに任せました。見守りましょう」
 と脂汗をかきながら、無表情に言う。
「……ったく、あいつは」
「まあ、さっき随分怒っていたからね。気持ちはわからないでもないけど」
 三人は空を見上げた。
 天馬はヤクトを振り落とそうと、体を震わせ、速さに緩急をつけ、上下左右に移動したが、彼は懸命にしがみついて離れない。
「ぐぅっ……いい加減、おとなしくしろよ……」
 腕がしびれてきた。もうあまり持ちそうにない。
 ヤクトは顔をしかめながら、剣の鞘を抜いた。鞘は地面へ落ちていく。
 風が強くて剣を振ることはできないので、流れに乗せて差し込むようにする。
 狙いが定まると、翼の辺りから体の中心へ、一気に剣を突き刺した。
 天馬が悲鳴を上げ、その場で暴れ回る。
「で……やあっ!」
 それでも何とか力を込め、ヤクトは剣を柄まで突き入れた。
 天馬は悲鳴と共に口から血を吐き、地面に墜落していく。
「ぐはっ!」
 ついにヤクトの腕から力が抜け、彼は空中に放り出された。
「あっ!」
「ヤクトくん!」
 カヤセとピステールが声を上げる。
 瞬時にイシェルは走っていた。
 ヤクトの落ちる位置の見当を付け、空中へ飛び上がる。
「ヤクトさんっ」
 彼女はしっかりとヤクトを受け止めた。
 それとほぼ同時に、馬は落ち、地面に叩き付けられた。その衝撃で傷口が開き、内臓が飛び出す。即死だった。
 それを見届けながら、イシェルはヤクトを腕に抱き、しっかりと着地した。
「た、助かったよ」
 ヤクトは彼女から離れ、礼を言った。
「イシェル……これで、終わったんだよな」
「ええ、終わりました」
「……はは、とりあえず、これで一安心だ」
 ヤクトは大の字に寝転がった。
 もう全身疲れ切ってしまい、早く休みたかった。
「おーい、ヤクト!」
「よくやったぞ!」
 カヤセとピステールが走ってくる。
 そして寝ているヤクトの顔をぺちぺちと叩いた。
「い、痛い! やめろよ!」
 だが、彼らは笑顔でなおも叩いてくる。
「ははははっ」
「よくやったよくやった」
 喜びの表現らしいが、やられる方は痛いだけである。
「だあっ!」
 耐えられず、ヤクトは起き上がった。
 一瞬、しんとなるが、
「はは……はははははっ」
 ヤクトが笑った。
「やったな、みんな!」
 と二人に抱き付く。
「げっ、俺はそういう趣味はないぞ!」
「いいじゃないか。こういう時は全身で喜びを表現しよう!」
 ピステールも抱き付く。
「……そういうことなら。イシェルさんもおいでよ!」
「え? しかし……」
「来ないなら、こっちからいっちゃうよ〜。ひっひっひっ」
 カヤセはいやらしく笑った。
「それじゃ変態だろうが」
 彼はヤクトとピステールから叩かれた。
 ともかく。
 彼らは大声で笑い合った。
 そんな様子を見て、
(よかった)
 とイシェルは思った。
 ラオスを連れ帰るという命令は果たせなかったが、この世界の人たちを守れただけでも満足だ。
(さて……)
 イシェルはファルクスの死体を片付けた後の、次の行動を考えた。

 とりあえず、イシェルがファルクスの死体を消したのを見届けてから、ヤクトたちはピステールの家で休むことにした。
 ただしピステールは王へ報告に行ったため、他の者は傷の手当をしながら留守番である。
「ああ、腹減った……」
テーブルに突っ伏したまま、カヤセが呟く。
緊張感が続いたため気にならなかったが、今は昼食時だった。
「飯はまだか〜……」
「もうすぐ来るよ」
 とヤクトがたしなめる。報告を終えた後に、ピステールが食料の買い出しをしてくるはずだった。
そんな話をしていると、
「ただいま」
 ドアを開けて、ピステールが帰ってきた。手には食料を詰めた袋を抱えている。
「王も喜んでいたよ。化け物がいなくなったことは、すぐに町の人たちに伝えられるそうだ」
「よかったですね」
「君たちのおかげだよ」
 ヤクトの笑顔に、ピステールも笑顔で返す。
 これで町の人々も、見せかけではない、本当の明るさを取り戻すだろう。
「ピステぇルぅ〜……」
 とカヤセは死人のような顔で、彼に詰め寄った。
「そんなことより、食べ物は買ってきたのか……?」
「あ、ああ。たくさん買ってきたぞ」
 ピステールは袋を見せた。
「あ、また菓子パンがある」
「……いいじゃないか、好きなんだから。今度は取らないでくれよ」
「と、言ってる間に、も〜らい」
「あ、こらっ」
「はははは」
 とヤクトは笑った。
「ピステールさん、俺にもくださいよ」
「あ、ああ。どうぞ、イシェルさんも」
「いえ。私は結構です」
「……またかい?」
 とピステールは首を傾げる。
「いくら何でも、食べなさすぎじゃないのかい?」
「大丈夫です。……必要なときには食べますから」
「……そ、そう……」
納得はいかないが、実際食べなくともあれだけの動きをするのだから、不思議である。
「ところでみなさん。これからどうしますか?」
 イシェルが訊ねた。
「これからって……」
 カヤセはパンを食べながら、う〜んと上を向いた。
「俺の村はなくなったも同然だし……そうだ、ヤクトの村に行かなきゃな。レムスとクスナが待ってるんだ」
「……私は騎士だから、当然ここに残ることになるが」
「そうか。考えてみれば、ピステールともお別れだな」
「寂しくなるな、カヤセくん」
「じゃあ記念にそのパンをくれ」
「やらない」
「……冷たい奴だな」
「それとこれとは別だよ」
「ふっ……」
「ふっふっふっ……」
 二人は笑い合った。
 まあ、彼らは置いておいて。
「俺も村に帰るしかないけど……でも、イシェル。どうしてそんなこと訊くんだ?」
 とヤクト。
「……みなさん、私のことを知りたかったのではないんですか?」
「え……?」
「……いや、それはもういいよ、イシェルさん」
 とカヤセが言った。
「確かに気になるといえば気になるけど、イシェルさんがどんな人でも、関係ないからね」「そうだね。いやあ、カヤセくんも結構いいこと言うじゃないか」
 とピステール。
「ははは、まあな」
「君はすぐ調子に乗る。しかし、イシェルさんのことはともかく、私は今回の事件が起きた、そもそもの原因を知りたいな。あのファルクスというのは何だったのか。どうやって生まれたのか。……君の国がどうなっているのか知らないが、また似たようなことが起こって、儀牲者が出ないとも限らない」
「…………」
「それで、イシェルさんの方はどうするつもりなんだい?」
「私はヤクトさんと一緒に行きます。まだ、仕事は終わっていませんから」
「え……?」
 とカヤセとピステールはイシェルを見た。
「ファルクスを倒したんだから、もう終りなんじゃないの?」
「ああ、わかった。報告を終えるまでは終わっていないってことだね。さすが、真面目だな」
「……少し、違います」
「ん?」
「ヤクトさんの村の近くに、私の国につながる道があります。本来ならヤクトさんだけを連れていく予定でしたが、カヤセさんとピステールさんも協力して頂いたことですし、来てみますか?」
「イシェルさんの国に?」
「入り口まで、になるかもしれませんが。私の上司の話を聞けると思います」
「いいのか、イシェル?」
 と不安そうにヤクトが言った。
 命令にないことをして、怒られないか心配なのだ。
「大丈夫です。あまり細かいことまで命令されていませんから」
「ふ〜ん……まあ、俺は村に行くついでだし……」
「私も興味があるな。しばらくは休暇をもらって、行くことにしよう」
「わかりました」
 こうして、彼らは食事の後、さっそく出発することにした。

 第十章

 ヤクトたちは、ラグナス村へと向かっていた。出発したときと違い急ぎではないので、のんびりとした旅を楽しんでいる。
「……しかし、すごい森だな」
 道の両脇に広がる、どこまでも続いているかに思える森を見て、ピステールは呟いた。
この森の存在は知っているものの、普段は町にいるため珍しいのだ。
「君たち、この森の中を通ってきたんだろう? よく来れたな。私だけでは迷ってしまいそうだ」
「まあ……それは、イシェルがファルクスの反応を探ることができたおかげなんだけど」 とヤクトは苦笑しつつ言う。
「ふっふっふっ……俺は自分の村の近くを歩いていたつもりが、迷って全然違う所へ行ってしまったことがあるぞ」
 カヤセが自慢気に言った。
「あのなあ、カヤセ……」
 ヤクトが呆れる。
「まあ、そのおかげでヤクトやイシェルさんや、ついでにピステールに会えたわけだから、少しは運がよかったのかな」
「……私はついでか?」
「ま、その辺りは気にしないように」
 ともかく、四人は森の中を進んでいく。
 そうして二日ほど過ぎた所で、
「カヤセさん」
 イシェルが振り向いて言った。
「もうすぐナカト村の辺りですが、寄って行きますか?」
「ん?」
 行ったところで、何もないはずだが……。
 いや、墓がある。大切な人の墓が。
 イシェルは気遣ってくれたのだろう。
「……ああ、いいよ。墓参りにはまだ早いし」
「わかりました」
 カヤセがそう言うので村には寄らず、先に進むことにした。
 しばらくすると、ようやく川が見えてきた。
「少し休憩しようか」
 ヤクトの言葉に皆は賛成し、しばらく休むことになった。
 とりあえず、なくなった水の補給をしておく。
「う〜ん、何か少し前のことなのに、懐かしく感じるな」
 とカヤセが言った。
「確か、ここからもう少し行った辺りで、初めてヤクトと会ったんだよな」
「そうだったな。カヤセは道に迷っていて……」
「ほほう。その辺のこと、詳しく聞きたいな」
「あ、ピステール。そういうこと言って、俺をからかうつもりだな?」
「さあ?」
 しかし、彼の顔は思い切り笑顔だ。
「教えなくていいぞ、ヤクト」
「ヤクトくん、ぜひ教えてくれ」
「いや、あの……」
 二人に詰め寄られ、彼は困っていた。

(ようやくここまできた)
 イシェルは軽く息を付いた。
 ふと、この世界に来る前のことを思い出してみる。
「ヤクトのサポートに付き、ファルクスを倒させるんだ。間違ってもお前は直接手を出すな。そしてそれが終われば、ヤクトを連れて井戸まで戻ってこい」
 それがガリエルの出した命令だった。他にもラオスを捕らえてくるようにと言われたが、どちらかというと、それはついでのような言い方だった。
 考えてみれば、奇妙な命令である。
 何故他の世界の住人のことを調べて、その者を危険な目に合わせるのか。効率もかなり悪いはずなのに。
 それに、ラオスの言っていた言葉も気になる。
 彼をここへ送り込む手伝いをしたのは、大統領のガリエルだとか。
 それが真実だとするならば、一体どういうことなのか。
 上司が言わないことをハンターが訊いてはいけないのだが、疑問があって仕方がない。(一体、ヤクトさんに何をさせようというのだろう)
 命令とは関係のない者も連れているが、大丈夫だろうか。
 少し心配になってきた。
 危険がなければよいのだが。

さらに三日程過ぎ、一行は小高い丘に着いた。
 ここからだとラグナス村がよく見える。
「へえ……」
 とヤクトは目を見張った。
 ほとんどの家が壊れたというのに、もう新しいものがいくつか建てられようとしている。堀っ建て小屋のようなものも多いが、何とかやっているようだ。
「ふ〜ん、ここがヤクトの村か。レムスとクスナは元気かな?」
 カヤセは爪先立ちをして、覗くようにしている。しかし、姿は見えない。
「う〜ん、残念」
「私も後で寄らせてもらうつもりだが、しかし、今はその井戸のところへ急ごう」
「そうだな」
 ピステールの言葉に、皆は頷いた。

「え……と、確か、この辺だったかな……」
 森の奥へ入り、ヤクトがきょろきょろと周囲を見回す。
 既にここは、立ち入り禁止区域となっているところだ。今はほとんど霧がないため、視界はいい。
「こちらです」
 イシェルは真っ直ぐに進んでいった。
「いやあ、イシェルさんは記憶力がいい。それに比べて、ヤクトは……」
 カヤセがにやにやしてヤクトを見る。
「う、うるさいな」
「まあ、仕方ないよ。こんな広い森、誰だって迷うさ。立ち入り禁止にするわけだ」
 とピステール。
「ありました」
 イシェルが言った。
「え?」
 とカヤセは一瞬、何だかわからない。
 しかし、彼女の視線を追うと、少し開けた場所があり、そこに井戸が見えた。
「……な、何あれ? 井戸があるだけだけど……。イシェルさんの国につながる道を探してたんじゃなかったのか……?」
 カヤセは首を傾げた。
「よし、行こう」
 ヤクトが進んだ。
「ほら、カヤセくん、行くよ。わからないことは考えるより直接見て答えを出そう」
 ピステールがカヤセの服の襟をつかむ。
「い、いてっ、離せよっ」
「はっはっはっ」
「笑ってごまかすなっ」
 ともかく、四人は井戸の前に立った。
 あの時のまま、蓋は取られてある。
「……あの、イシェルさん。質問があるんだけど……」
 とカヤセは言った。
「イシェルさんの国って、この中にあるの?」
 井戸の中を指で差す。
「そうです」
 イシェルは答えた。
「ふ〜ん、そうか。この井戸の中にイシェルさんの国が……」
 うんうんと頷いていたカヤセだが、ふと思考を中断させた。
「って、ちょっと待ってよ。俺、冗談で言ったんだぜ? ……あ、そうか。イシェルさんも冗談を言ったのか。ははは、何だ、つい本気にしちゃったぜ……」
 と笑いながら彼女を見ると、どうも冗談を言っている様子ではない。いや、それ以前に、彼女は冗談を言わない。
「……あ、あれ?」
「カヤセ……」
 ヤクトはぽんと彼の肩を叩いた。
「信じられないだろうが、どうやら本当にこの中にあるらしい」
「……へ?」
 カヤセは眉を寄せた。
 理解できていない顔だ。
「ヤクトくん、どういうことだい?」
 ピステールが訊ねる。
「いや、俺も詳しくは知らないんだけど……」
 とヤクトはイシェルを見る。すると、
ピーーッ。
 突然、甲高い音が響いた。
「うわっ」
「何の音だっ」
慌てて周囲を見回すヤクトたち。
「すみません。今のはこれの音です」
 イシェルが黒いカードを見せた。
「それは……?」
「通信機といって、離れた人とも会話ができるものです。今、私の上司に連絡を入れましたので、もうすぐ迎えが来ます」
 といっても会話をしたわけではなく、ここに到着したことを知らせる信号を送ったのだ。
「え? く、来るって、この井戸の中から?」
「はい」
 カヤセの問いに、イシェルは頷いた。
「……い、井戸の中から来るっていうと、幽霊を連想してしまうんだが……」
「まあ、落ち着いて」
 ぽんぽん、とヤクトが彼の肩を叩いて言う。
「ところで上司って、やっぱりあのアムセっていう人かい?」
「はい。あ、来ました」
 イシェルが言うと、井戸の中から眩しい光があふれだした。
 そしてその中から、ゆっくりと姿を現す。
 ヤクトが前に見たときと同じ、きらびやかな衣装を着けた長い髪の美女、アムセだ。
 光が消えると、彼女は言った。
「お帰りなさい、イシェルにヤクト。……と、あら、その二人は?」
 アムセは見知らぬ二人に目をやった。
 カヤセとピステールは、腰を抜かして驚いている。
「私が連れてきました。彼らにも協力してもらったものですから。すみません、勝手なことをして」
「……まあ、協力させたら駄目とは言わなかったからね。二人くらいならいいでしょう。それより、あなたたち、いつまで座っているのかしら?」
「あ……」
 カヤセが震える手で、彼女の足元を指差した。
「う、浮いてる……」
「え?」
 アムセは思わず自分の足を見た。
 確かに、井戸の中心、何もない所に立っているのだから、間違いなく浮いている。
 アムセは口元に手を当て、笑った。
「うふふふ、安心して。私は幽霊じゃないわよ」
「え?」
「私は、女神です」
 アムセはにっこり笑って言った。
「…………」
 カヤセは一瞬呆然としたが、いきなり立ち上がった。
「そ、そうだったのか! お会いできて光栄です! 女神様!」
「……あ、あら、単純な子ね」
 アムセの方が驚いている。
「……よせよ、カヤセ」
 ヤクトがため息を付いて言った。
「この女は女神なんかじゃない。嘘を付いているんだ」
「え……?」
「何も知らない俺たちをだまして楽しんでいる、とんでもない奴なんだよ」
「……そう。イシェルから聞いたのね」
予想していたのか、アムセは笑みを浮かべたままだった。
「そのことについては否定しないし、謝るわ。女神のふりをして楽しんだし、それにあのときは、どうしてもあなたに行ってもらう必要があったから」
「……何だ、嘘なのか」
 カヤセはがっくりする。
「ふふ、ごめんなさいね」
「ということは、じゃあ……やっぱり幽霊!?」
「カヤセ……ちょっと黙っててくれ。話が進まない」
 彼はヤクトに押し退けられた。
「アムセ、俺たちは全てのファルクスを殺したぞ!」
「そのようね。こちらでもファルクスの反応が消えたのを確認したわ。ありがとう」
「……そんな言葉で、犠牲者は返ってこないぞ」
「……そうね。私の方も、まだあなたに用事があるし」
「あの、アムセ様」
 イシェルが言った。
「ん? なあに?」
「ラオスを捕らえろということでしたが、彼は飢えたファルクスに食べられ、死にました。命令を果たすことができず、申し訳ありません」
「……そう、死んだのね。でもいいわ、彼のことは。それより」
 とアムセは彼女を見つめた。
「随分彼らと仲良くなったみたいね、イシェル」
「…………」
「予想より帰りが早いから、もしかしてと思ったけど、あなたが直接手を出したのね。それも二回も。どういうことかしら?」
「…………」
 わかってはいたが、やはり命令違反はばれていたようだ。
「イ、イシェルさんは悪くないぞっ!」
「そうだ。彼女は我々のために無理をしてまで戦ってくれたんだ」
 カヤセとピステールがそれぞれに彼女をかばう。
「……ハンターにそういう感情が生まれること自体、おかしいんだけど……」
 彼らの言葉は聞き流し、アムセは首を傾げながらイシェルを見ていた。
 ここを出たときと変わらず、無表情な顔。だがその両耳には、小さな宝石が輝いている。
(ふふ、あれのせいかもね……)
 ハンターは常に冷静な判断を下すために、感情を強制的に生まれないようにされている。前例がないことだが、強制力を破るのは、案外そんなきっかけかもしれない。
「……まあ、いいでしょう。命令を守らなかったのは問題だけど、最後に面白い結果がみれたから」
「……最後?」
 ヤクトが聞き返す。
「そうよ。ファルクスがいなくなったんだから、当然ファルクスハンターの存在意義はなくなるわね」
「イシェルをどうする気だ……?」
「それは、あなたには関係ないことだわ」
「くっ……」
唇を噛み締めるヤクト。
 確かに関係ないと言われれば関係ないが、イシェルは今まで共に戦ってきた仲間なのだ。もし彼女に何かあるようなら、黙っていることはできないだろう。
そんな思いでアムセを睨み付けていると、
「ヤクトさん、私は大丈夫ですから」
イシェルが静かに言った。自分が必要ないと言われたのに、彼女は変わらず落ち着いている。
「…………」
そして、ヤクトはふと気付いた。これが最後の仕事だと、彼女もわかっていたはずである。だからこそ、無理をしてまで戦ってくれたのではないだろうか。
「まあ、とりあえずイシェルのことは置いておきましょう」
アムセの声で、ヤクトは考えを中断する。
「本題に入るわね。……ヤクト、あなたに来てほしいの。私たちの世界に」
「……どういうことだ?」
「あなた、お父さんの記憶ないわよね?」
「!?」
 ヤクトは目を見開いた。
「何で、そのことを……」
 母からは、父はヤイカがお腹にいる時に死んだと聞かされている。その時ヤクトは一歳だったのだから、覚えがないのも当然なのだが……。
「来れば、それに関することがわかるわ」
「…………」
 どうする? とヤクトは考えた。
 確かに気になることではある。だが、安易に誘いに乗って平気なのだろうか。
 一抹の不安がよぎる。
 ふと、横目でイシェルを見てみた。が、それに気付いたアムセがすかさず言う。
「イシェルに訊いても無駄よ。彼女は何も知らないわ」
「…………」
「いいじゃないか。行くべきだよ、ヤクトくん」
 ぽん、とピステールが彼の肩を叩いた。
「ピステールさん……」
「そうだぜ、ヤクト」
 とカヤセも言う。
「父親の手掛かりがあるんだろ? 行かないと一生後悔すると思うぜ」
「…………」
「行きましょう、ヤクトさん」
 イシェルが彼の顔を見つめた。
「……わかった。行くよ」
 とヤクトは答えた。
 何が待っていようと、ここまで来たのだ。逃げ出すわけにはいかない。
「そう、よかったわ」
 とアムセは微笑んだ。
「まあ、例え嫌だと言っても、強引に連れていったけどね」
 その言い方に、ヤクトはむっとして睨んだ。
「それより、カヤセとピステールも連れていっていいんだろうな?」
「……その二人には用はないんだけど、まあいいわ。それじゃ、さっそく井戸の側に来て」 アムセの指示により、ヤクトたちは井戸に近付いた。
「も、もしかして……この中に入るのか?」
 カヤセが不安そうに言う。
「そうよ」
 とアムセ。
「大丈夫、別に危険はないわ。ファルクスもここを通ってきたんだから」
「そいつらと一緒にしないでほしいけど……」
 カヤセがぶつぶつ言っていると、
「静かに。移動するわよ。眩しいから、目はつむった方がいいわ」
「え?」
 と、ヤクトたちが一瞬ぼうっとしていると、突然井戸の中から強い光があふれた。
「うわっ!」
 思わず目をつむる。だが、それでも目の奥に光が残っているようだ。
 そして、やがて光が和らいでくると、ヤクトは何か異質な空気を感じた。
 目が開けられるようになってくる。
「何だ、ここは……!?」
 ヤクトは驚き、周囲を見回した。
 どこかの広い部屋らしいことはわかった。継ぎ目のない綺麗な平面が続いていて、壁には白い光沢がある。
 窓はないが、その代わりに天井が発光していて、明るさには不自由していない。
「こ、ここがイシェルさんの国か?」
「あの一瞬で、移動を?」
 カヤセとピステールも呆然としている。
「そうよ。すごいでしょ?」
 急に部屋のドアが開いて、一人の女姓が入ってきた。彼女が中に入ると、ドアは勝手に閉まる。
 ドアにも女性にも驚いて、三人は目を丸くした。
 背中まである髪、薄い水色のブラウスに、ミニスカート。
 ヤクトたちからすれば太ももが見えるだけで大胆な格好だが、それより、顔とその声に覚えがあった。容姿が少し違っているが、面影はある。
「アムセ……か……?」
「そうよ」
 彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。
「ど、どういうことなんだ?」
 井戸の上に立っていた時とは、服も髪の長さも、容姿までもが違う。
「あれは、立体映像よ。容姿も服も、自在に変えることができるわ。管理人の私が直接行くわけにはいかないからね」
「は……?」
 ヤクトたちはぽかんと口を開けた。
「アムセ様」
 とイシェルが言う。
「……そうだったわね。面倒だわ、文化が違うって」
 アムセは軽くため息を付き、
「ともかく、あれは私であって私じゃないの。でもそんなことどうでもいいわ。ヤクトに会いたいという人が来ているのよ。今は部屋の外で待っているわ」
「……誰なんだ、そいつは? 俺にどんな用があるっていうんだ?」
「私も詳しくは聞いていないわ。ま、とにかく入ってもらいましょう」
 彼女の言葉が終わるのと同時に、ドアが開かれた。
 現れたのは、スーツを来た長身で痩せ気味の男だ。年齢は四十代前半くらい。
「ガリエル、こちらがヤクトよ」
 とアムセが紹介した。
「……なるほど、お前か」
 男は顎に手を当て、言った。
「どうやら私にはあまり似なかったようだな」
「何……?」
「ふふ、そう睨むな。感動の親子の対面ではないか」
「……お、親子……? えっ……?」
 ヤクトは自分の頭の中が混乱するのがわかった。
 戸惑っている彼に、アムセが説明した。
「ヤクト、この人の名はガリエルといって、あなたの父親よ。今はこの世界の大統領をしているわ」
 だが、彼らには大統領制がわからないと気付き、すぐに言い直す。
「要するに、この世界で一番偉い人なの」
 しかし、そんなことはヤクトにはどうでもいいことだ。
「何で……あんたが俺の父さんなんだ!?」
「そ、そうだぜ! ヤクトとは全然住んでる所が違うじゃないか!」
 興奮して言うカヤセを、ガリエルは睨み付けた。
「……馬鹿か、お前は? それならそこに行けばすむことだろうが。それから、せっかく来たのに悪いが、お前には関係ないことだ。黙っていてもらおう」
「くっ……」
 カヤセは悔しそうに唇を噛む。
「さて、ヤクト。いきなり父親と言われても信じられないだろうから、説明してやろう」 ガリエルは話し始めた。
「今から二十年前になるな。その時の私は、調査員という仕事をしていた。私は新人だったからな、こんな誰でもできる仕事を任されたわけだ。そして、調査の対象はお前たちのいる世界になった」
「何!? そんなことを調べて、どうしようというんだ!?」
 とヤクトが問う。
(まさか――)
 イシェルにはそれが何かわかった。
(アムセ様は知っていて……?)
 ちらり、と彼女を見てみる。
 アムセはかすかに笑みを浮かべていた。
「お前たちには想像できんだろうが、我々の住むこの世界では、科学が発達し、人間が爆発的に増加している。そうなると、当然食料や住む所がなくなり、この星だけではあふれてしまうわけだ。だから付近の人の住めそうな星を探したが、それはほんのわずかでしかない。そこで考え、作り出されたのが、次元転送機、お前たちも使ったこの部屋というわけだ」
「こ、この部屋……!?」
 ヤクトたちは周りを見回した。
 どう見ても、そんな大それたものがあるような部屋には見えない。
 いや、今まで気付かなかったが、よく見ると、この部屋には何もない。
 ただ、空間があるだけなのである。
「つまりね」
 とアムセが言った。
「この部屋に入ったものは、何でも送ることができるわけよ。例えばファルクスとかね。まあ、移動できる場所は、空間の歪みが生じた所っていう制限はあるんだけど」
「そう。これを使えば、どんなに遠くの星でも行くことができる。転送機はここ以外にも設置はできるから、大きな機材を運ぶこともできる。もうわかったか?」
 とガリエルは訊いた。
「…………」
 ヤクトは黙っている。
「……まあいい、答えを言ってやろう。我々は、転送機を使った移住を行っている。そして、いくつかある移住予定地には、お前たちの住む世界も入っている」
「何いっ!?」
 これはヤクトたちにも理解できた。
「俺たちの世界を乗っ取るつもりか!?」
 思わずピステールが怒鳴った。
「ふっ……」
 とガリエルは笑みを浮かべる。
「……アムセ様は知っていたのですか?」
 イシェルが訊いた。
「ええ。でも、いいじゃない。私たちの技術があれば、未発達な文化しか持たない彼らには、いいことだらけだわ」
「いや、そうでもないな」
「……え?」
 ガリエルの言葉が、アムセには何のことかっわからなかった。
「あの地には、良質の資源が豊富にある。だからお前たちの代わりに、我々が有効利用してやろうというのだ」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ」
 アムセは驚いた。
「それじゃあ、本当に乗っ取るみたいじゃないの。私、そんなこと聞いてないわよっ」
「……アムセ。我々には資源がもうほとんど残っていないんだ。まだ決定事項ではないが、ほぼ決まりだろう」
「な、何言ってるのよ? そこに住んでいる人たちはどうするつもり?」
「邪魔だから、消えてもらう」
「なっ……! 何てこと……!」
 アムセは拳を震わせた。自分はとんだ勘違いをしていたのだ。
 彼女が望んでいるのは、平和的共存である。自分たちの都合で、そこに住む人を消すなど、許せないと思った。
 その手を、イシェルがそっと近付き、そっと包んだ。
「イシェル……?」
「…………」
 彼女は無言でいるが、アムセにはその気持ちがわかった。
 今は押さえろということだろう。
(仕方ないわね……)
 アムセは拳を引っ込めた。
「とにかく、そういうわけだ」
 とガリエル。
「お前たちの住む世界は、我々が使わせてもらう」
「な……何勝手なこと言ってやがるっ!」
 カヤセは怒りのあまり顔を引きつらせている。
 ガリエルは彼をあっさり無視して、
「……と、そうそう。私が父親だという説明を飛ばしてしまったな。私は調査をしていたんだ。似たような環境であっても、生物の体質の違いがあったり、我々の知らない有害物質があったりするからな。以前にそれで死んだをいう例もある。で、その際に私は一人の女に会ったんだ。なかなかの美女だったんで、気まぐれで口説いて、しばらく付き合うことになった。しかし、私も仕事がある。だから帰る時に記憶操作して、私は死んだことにしてもらった。後で調べたところ、子が生まれたらしいとわかった。それがお前だな、ヤクト。父親のことを訊いたことはあるだろう? 何て答えた?」
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」
 と戸惑うヤクト。
「確かに、母さんに訊いてもまともに答えてくれたことはなかったけど……俺には妹がいるんだ。ファルクスに殺されたけど……」
「……そうか。だが、妹など知らんな。他に父親がいたんじゃないのか? 今いないということは、死んだか?」
「…………」
 黙り込むヤクトを見て、ガリエルはふっと笑った。
「まあ、今更どうでもいいことだな。私も今は妻のある身だ」
「……一つ訊きたい。何で俺にファルクスを倒させたんだ? ラオスが、俺たち三人でやるより、ハンター一人の方が効率がいいって言っていたぞ」
「ラオスか……。おい、イシェル」
「はい」
「あいつ、他に何か言っていなかったか? 構わんから、正直に話せ」
「はい……」
 ガリエルに言われ、イシェルはその時のことを思い出してみる。
 あれは確か、アスランの町を襲おうとするファルクスと、戦った時だったか。
「彼は言っていました。自分を向こうへ送る手伝いをしたのは、ガリエル様だと……」
「何ですって!?」
 思わずアムセは声を上げた。
「本当なの、ガリエル!?」
「ああ、本当だ」
 とガリエルは言った。
「どうして、そんなことを……」
 アムセは驚くばかりだ。
「イシェル、こっちに来い」
「はい」
 近付くイシェルに、ガリエルはふと違和感を感じた。
「……ん? お前、その耳飾りは……」
 手を伸ばし、それに触れてみる。
「ふっ……誰かに贈られたのか? 誰だ?」
「ヤクトさんです」
「……ヤクト……?」
 ガリエルはおかしそうに吹き出し、ヤクトを見た。
「はははは、お前、まさかこんな奴に惚れたのか? こいつは人間の玩具として作られた、人工生命体に過ぎないんだぞ」
「えっ……?」
 ヤクトたちは一瞬、呆然となった。

 第十一章

「……玩具として、作られた……?」
 恐る恐る、ヤクトは聞き返した。
 心臓の鼓動が早くなっているのが、自分でもわかった。
「何だ、聞いていなかったのか?」
 とガリエルはおかしそうに言う。
「お前たちも少しは見たんじゃないのか? こいつの能力を。普通の人間に、あんなことができるわけないだろう」
「しかし、彼女はハンターなら誰でもできることだと……」
「だから」
 とガリエルは諭すように言った。
「ハンターそのものが、人工的に作られた存在なんだよ。当然、母もいなければ父もいない。……まあ、いるとしたら、この能力を生み出すために集められた遺伝子の持ち主かな。もっとも、ほとんど人間ではないから、こいつも正確には人間とは呼べないな」
 と彼は笑みを浮かべながら、イシェルを指す。
「……な、何がおかしいんだっ!」
ガリエルは、彼女を人間として扱っていない。そんな態度に、ヤクトは怒りを覚えた。
「人間じゃないったって……ハンターたちのおかげでファルクスの驚異から助かったんだろう!? だったら感謝すべきじゃないのか!?」
「……驚異……? ……感謝……?」
ガリエルは意外そうに目を丸めた。そしてこらえきれなくなり笑いをこぼす。
「くっ、くくく……お前は勘違いをしているよ」
「何……?」
「最初に言ったように、ハンターは……いや、人工人間たちは、玩具として生まれたんだ。お前たちも、武術を競ったりすることがあるだろう? 我々はそれを人工人間にやらせて鑑賞を楽しんだんだ」
「…………」
「そしてしばらくしてファルクスが生まれた。我々にとってそいつらを殺すのは造作もないことだったが、ただ殺すのではつまらんからな。一部の人工人間をハンターとして、その殺戮ぶりを楽しんだというわけだ。今では飽きられたがな」
「そんな……」
 ヤクトは愕然とした。
 ファルクスハンターとは、人を守るためのものではなかったのか。ファルクスを殺すのも、被害を防ぐためではなく、娯楽に過ぎなかったというのか。
「……本当なのか、イシェル?」
 と彼女に訊いてみる。
「本当です」
 とイシェルは答えた。
「嘘だろ……」
「信じられん……」
 カヤセとピステールも、呆然としたままだ。
「そう。つまり、こいつらは人間の欲を満たすための奴隷に過ぎない。そして人間に服従するよう遺伝子にプログラムし、さらに万が一のため、脳に機械を埋め込んである。逆らおうと考えると、激しい痛みが起きるよう信号を出させるものだ」
 ガリエルは自分の頭を指でつつきながら説明した。
「ま、そのせいもあってか、感情を出すことができなくなったようだが」
「……あんた、生命を何だと思ってるんだ……。そんな、無理やり服従させるなんて……」 ヤクトは低い声を出してガリエルを睨んだ。怒りがふつふつと込み上げてくる。
 カヤセとピステールも、同じ気持ちだった。
「おいおい、何も私が始めたわけじゃない。もう何十年も昔からのことなんだ」
 さも当然のように言う。
「……そんな昔から……」
 ますます許せないと思った。
 ガリエルを殴ってやりたい衝動を我慢しながら、ヤクトは訊ねた。
「ラオスが言っていたんだが……ファルクスは人間の勝手で生まれたって、元は普通の動物だったって……どういうことだ?」
「ほう……。あいつ、そんなことを言っていたのか。確かに勝手かもしれんが、仕方のないことだ」
「……仕方のない……?」
「そう。原因は科学汚染とかだったかな。実験の失敗やら、廃棄物やらのせいで突然変異したらしい。これも人間の発展のためだ。それに人間には影響がないようにしているから、たいした問題でもあるまい」
「なっ……何を言っている!」
 ヤクトは思わず怒鳴った。
「はっきり言って俺にはよく理解できなかったが、人間さえよければ他はどうでもいいなんて、本当に勝手すぎる! 動物だって生きてるんだ!」
「ふん、お前もラオスと同じ考えか」
 ガリエルはつまらなそうに言った。
「ね、ねえ、ガリエル」
 とアムセが声をかけた。
「ん?」
「私知らなかったんだけど、どうしてラオスを逃がす手伝いをしたの?」
「……わからんのか?」
 ガリエルはあきれたように言う。
「え、ええ」
 答えが聞きたいので、彼女はそう答えた。
「全く……。いいか? 移住の際にその地の人間を消すのはいいが、それには金と手間がかかる。だから代わりにファルクスに殺させようと思ったんだ。どうせファルクスも消さないといけないところだったから、丁度いいだろう」
「……そう」
 アムスは小さく微笑んだ。
(そんな考え、おかしいわよガリエル……)
 今まで身近にいて、気付かなかったことが恥ずかしく思える。
「さて、ヤクト。お前をここへ呼んだわけを教えてやろうか?」
 そう言いながら、ガリエルは手を伸ばし、イシェルの耳に触れた。そして耳飾りを外す。「…………」
 イシェルはそれには触れてほしくなかったが、絶対服従であるため、抵抗はできない。
「な、何のつもりだ!?」
 ヤクトが叫ぶ。
 彼の父親だという男は、笑みを浮かべて、耳飾りをもてあそんでいる。
「私がお前にファルクスを倒させたのは、お前の能力がどの程度のものか、調べるためだ」「何……?」
「お前のいた世界の人間は全て消す予定だが、お前は私の子でもある。場合によっては特別に生かしておいてやろうと思ってな」
「……それは俺だけ、か?」
「当然だ。他の者に用はない」
「……なら」
 ヤクトはゆっくりと弓を構え、そして矢をつがえた。
「俺は、お前を殺す。父親だろうが何だろうが関係ない。お前たちの勝手で、俺たちの大事なものを消されてたまるか!」
「よく言ったぜ、ヤクト!」
 カヤセが嬉しそうに声を上げる。
「そうだな。せっかく会えたのに悪いが、こんな奴は父親失格……いや、人間として失格だ」
 ピステールも剣を鞘から抜いて構えた。
「……ふん、せっかく思い出してやったというのに」
 ガリエルは耳飾りを床に放り捨てた。
「あっ……」
「まあいい。お前を生かしてやろうと思ったのはついでに過ぎないからな。本来の目的であるデータ収集は十分にできた。あそこは我々の移住には、何の問題もない」
 にやり、とガリエルはいやらしく笑う。
「近々、準備に取り掛からないとな」
「てめえっ!」
 カヤセが槍を向け、怒りでぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
「私を殺したところで、問題は解決はせんぞ」
 やれやれ、というように、ガリエルはため息を付いた。
「まあ、やりたいようにやるがいい」
 そして殺気だっているヤクトたちを横目で見ながら、彼はイシェルの髪を掻き上げ、その首筋に小さな白い棒を押し付けた。
「ガリエル、それはっ……」
アムセが止める間もなかった。
 プシュッ、と小さな音がすると、途端にイシェルの瞳は虚ろになる。
そんな彼女に、ガリエルはにやりと笑って言った。
「イシェルに命令する。あの三人を始末しろ」
「なっ……!?」
 思わずヤクトたちは声を上げる。
(ガリエル……何もそこまで……)
 とアムセは不快そうに眉をひそめた。
 耳飾りをもらうくらいだから、少しは交流があっただろうに。人工人間とはいえ、まるきり感情がないわけではないことをアムセは知っている。その彼らを殺すよう命令するなど、残酷というか、悪趣味というか。人間として、許せないものがある。
「ちょっと、ガリエル……」
 見兼ねて止めようと思ったアムセだが、それより早く、
「わかりました」
 とイシェルは答えてしまった。

「嘘だろ……」
 ヤクトは呆然とイシェルを見つめていた。彼女はこちらに視線を向けている。
「や、やめてくれよ、イシェルさん!」
 カヤセの叫びも、むなしく響くのみだ。
「くそっ……命令には逆らえないっていうのか……」
 ピステールが唇を噛む。
「ふふふ……さて、どうする? お前たちはこいつのことを気に入っているようだしな」 腕を組み、ガリエルは見物気分である。
「言っておくが、こいつがまた命令違反をするのを期待しても無駄だぞ。薬を打って意識を封じ込めたからな。今のこいつは命令に忠実なだけの人形だ」
「くっ……」
「何て事を……」
 悔しそうに拳を震わせるヤクトたち。
 もしガリエルの言うことが本当なら、彼女を止めるには力尽くしかないだろう。だが、それが不可能であることは十分すぎるほどわかっていた。何しろファルクスと戦っていたとき、その圧倒的なパワーとスピードを何度も見せ付けられてきたのだから。まともに戦える相手ではないのだ。
(どうする……?)
 必死に考えを巡らすヤクトだが、焦るばかりで何も浮かんではこない。
 しん、と静まる部屋の中、突然靴音が響いた。アムセが彼らの間に入ってくる。
「ん? 何のつもりだ?」
「…………」
 ガリエルの問いには答えず、アムセは床に落ちた耳飾りを拾い、彼に言った。
「ガリエル、もうやめてよ。イシェルもヤクトたちも、かわいそうじゃない」
「かわいそう……? 何を言ってるんだ、お前は?」
 ガリエルは不思議そうに首を傾げた。
「こんな奴ら相手に、そんなことを思う価値もないだろう」
「……!」
 思い切り、むかっときた。
「くだらんことを考えていないで、そこをどいてろ」
「…………」
 アムセはその場を動かなかった。
「……ったく、逆らいおって……。構わん、いけ、イシェル」
「はい……」
 イシェルは歩を進める。
「やめなさい、イシェル! そんな命令聞くことないのよ!」
「うっ……」
 一瞬、彼女は苦しそうに顔をしかめる。
「イシェル!」
 だが、アムセの呼び掛けでも止めることはできなかった。基本的に人間には忠実な彼女だが、直接の主人はガリエルなのである。
 イシェルはヤクトたちの方へ、ゆっくりと歩いていく。
「く、くそっ」
「やるしかないのか……」
 カヤセは槍を、ピステールは剣を、それぞれためらいがちに構える。
「待ってくれ、二人とも!」
 ヤクトが彼らの前に立って制した。
「ヤクト……」
「……気持ちはわかるが、このままでは俺たちが殺されてしまうんだぞ」
「俺が……説得してみせる!」
 彼は決意に満ちた顔で言った。
「え?」
「ヤクトくん……」
 彼はイシェルの前に立った。
 イシェルも彼の前で止まる。
「はははは、外見だけでなく、頭の中身まで私に似なかったようだな、ヤクト」
 ガリエルが笑った。
「説得などできるか。先程も言っただろう。そいつは命令に逆らうことができないんだ」
「……俺はイシェルを信じる」
 そう、信じるしかない。短い期間だが、彼女は共に戦ってきた仲間なのだ。心を通わせてきた仲間なのだ。人の心は命令では動かない。だから――。
「俺は、イシェルに心があると信じている」
「ヤクト……」
「ヤクトくん……」
 カヤセとピステールは、そんな彼の姿に感動した。
「そうだぜ、ヤクト! イシェルさんは俺たちの仲間なんだ!」
「ああ! 私たちも彼女を信じる! 全ては君に任せた!」
「……ありがとう」
ヤクトは顔だけ彼らに向けて微笑んだ。
「……面白い。説得できるかどうか、やってみるがいい。アムセも黙って見ていろ」
「わかったわ……」
 ガリエルとアムセも静観することにし、一同はヤクトに注目した。
「……イシェル」
 ヤクトはイシェルの目を見つめた。だが、その瞳に光はなく、反応もしない。
 一瞬不安を感じながらも、彼は続けた。
「本当に、俺を殺すのか?」
「…………」
やはり答えは返ってこない。
 そんな様子に、ヤクトはふと出会った頃を思い出した。
「……俺さ、最初イシェルのこと苦手だと思ってたんだよ。無表情で、何考えてるのかわからなかったし。でも一緒に旅をしながら思ったんだ。何でこいつは感情を出さないんだろうって。そんなとき……多分お前は気付いていないだろうけど、一瞬笑顔を見せたことがあったんだ。……もしかしたら、それは俺の想像でしかなかったのかもしれない。でもそれから気になって……どうしたらもっと笑顔が見れるだろうって、戦いの合間に結構考えてたんだ。おかしいだろ? 自分たちの世界がやばいってときにさ」
「…………」
「それで、ある日気付いたんだ。この感情に――」
こんなことがなければ、言うことはなかったかもしれない。女は苦手だからと、臆病なままだったかもしれない。だが、この絶体絶命の状況だからこそ、ヤクトは賭けてみたかったのだ。
「……俺は!」
 がしっ、と彼女の肩をつかみ、ヤクトは顔を近付けて絞り出すように叫んだ。
「お前が好きなんだ! ずっと一緒にいたいと思ってる!」
「……!」
 びくん、とイシェルの体が痙攣した。
「イシェル!」
 ヤクトは彼女を抱き締めた。
「お前が作られた人間であるとか、関係ないよ。一緒に旅してきて、お前のいい所をたくさん見付けた。一瞬見せた笑顔がかわいいと思った。イシェル……俺のこと嫌いじゃないなら、少しでも好きなら――頼む! 答えてくれ!」
「わ、私…………う、うぐっ!」
 イシェルはヤクトにしがみつき、苦しげに呻いた。
「イシェル!?」
 ヤクトははっとした。
(そうか、命令に逆らおうとしているんだ!)
 この苦しみ方は、ファルクスと戦った時に一度見たことがある。
「イシェル、しっかりしろ! 君は人形じゃないだろ!?」
「ヤクトさん……」
 イシェルは顔をしかめながら、ヤクトの顔を見上げた。
「大丈夫……耐えてみせます……。私も、ヤクトさんと、一緒にいたいから……」
 彼女はかすかに微笑んだ。そう、確かに微笑んだのだ。
「イ……、イシェル!」
 ヤクトは彼女を強く抱き締めた。
「や……やったぜっ!」
 カヤセが興奮して叫んだ。
「くぅ〜っ! どさくさにまぎれて、うまいことやりやがって!」
「はははは! 愛の勝利だよ、カヤセくん!」
 ピステールがカヤセに抱き付いた。
「げっ! おい、やめろよ!」
 とにかく、彼らは笑顔で喜び合った
(やれやれ……)
 アムセが笑顔でため息を付く。
(冷や冷やしたけど、良かったわ。こういうこともあるのね)
 いくら体に強制しても、心までは動かせないという証明だった。人工人間の奴隷扱いに内心批判的だったアムセとしては、嬉しい結果である。
 しかし、そんな浮かれた雰囲気が許せないのは、ガリエルである。
「……何をしている、イシェル! 私はヤクトを殺せと命じたんだぞ! 誰がくだらんラブロマンスをやれと言った!」
 彼はすっかり頭に血が上ってしまっていた。
「ちっ……まだあいつが残ってたか……」
 カヤセが舌打ちする。
「……ガリエル、もういいじゃない」
 アムセが彼の前に立ち塞がった。ヤクトたちを見て、彼女も決心したのだ。
「な、何?」
「もうやめてよ。ヤクトくんたちは向こうで幸せに暮らしているの。それを壊す権利は私たちにはないわ」
「……そうはいかんのだ」
 ガリエルは言った。
「人間があふれ、ここはパンク寸前だ。早急に移住できる世界を探さなくてはならない」「だったら、まだ人が住んでいない所にすればいいじゃないの」
「それが見付からんから、私は言っているのだ!」
「探せばいいじゃない!」
「探した! だが人の住める所など限られているし、あっても我々の体質に合わない! しかしヤクトの所は全ての条件を満たしているんだ!」
「……探し足りないのよ」
 アムセは言った。
「見付かるまで、探すしかないでしょう。他人の死体の上で暮らすなんて、少なくとも私はごめんだわ」
「……ったく、頑固者め」
「それはお互い様でしょ」
「……ふん」
 ガリエルは顔を背けた。
「さて……あなたたち、そろそろ元の世界へ返してあげるわ」
 アムセがヤクトたちに近付いてきた。
「え? ……いや、しかし……」
 ヤクトはちらり、とガリエルを見る。
「ああ、いいのよ。私が何とか説得してみせるから。……妻としてね」
「妻!?」
「……てことは、このおっさんの奥さん!?」
「誰がおっさんだ、誰が!」
 ガリエルがカヤセに怒鳴る。しかし二人は二十歳は離れているように見えるので、意外であった。
「まあ、こっちの世界では年の離れた夫婦も珍しくないから」
「……今日はアムセに免じて見逃してやるが、私は諦めたわけではないからな」
「ガリエルはちょっと黙ってて」
 アムセは振り返って彼を睨むと、ヤクトたちに言った。
「彼もね、責任ある立場として焦ってたのよ。許してほしいとは言わないけど、ほんの少しでいいから、わかってあげて。……それに私も、身近にいながら気付かなくて……本当にごめんなさい」
「え? あ、いや……その……」
何だか意外な展開で、とまどうヤクトたち。
「残念だけど、もうお別れね。ヤクト、イシェルのこと、よろしく頼むわね」
「……い、いいんですか?」
「だって、愛し合う二人を引き離すことはできないもの」
「えっ……」
言われて、ヤクトはイシェルと抱き合ったままなのに気付き、照れくさそうに少し離れた。
「気にしなくていいのに。あ、これ返すわね」
 アムセは彼女の耳に、先程ガリエルが外した耳飾りを取り付けた。
「大事にするのよ」
「はい……ありがとうございます……」
 とイシェルは頷く。
「……それと、あなたにこれを渡しておくわ」
 アムセが小さな小瓶を彼女に渡す。中には数十粒の丸薬があった。
「まだ開発中のサンプルだけど……これはあなたの強制力を解除する薬よ。あなたの能力を消すことはできないけど、一日一錠ずつ、全部飲み終える頃には普通の生活ができるようになるはずよ。食事もできるし、感情だって出せるようになるわ」
「……感情が……」
「よかったな、イシェル」
ヤクトが微笑む。
「はい……」
と彼女は頷いた。どうもそんな自分を想像できないらしい。
「それじゃ、元気でやるのよ」
 アムセはイシェルの頬に、そっとキスをした。
「アムセ様……」
「イシェルもヤクトも、そしてみんなも幸せになれることを祈っているわ」
 そしてアムセは、仏頂面のガリエルを連れて部屋の外へと出ていった。
「バイバイ」
 最後に手を振り、ドアを閉める。
「……な、何なんだろう、あの人は……」
「よくわからない人だな……」
 カヤセとピステールが呟く。
「イシェル……」
 ヤクトは彼女の肩を抱き寄せた。
「俺たち、もう大丈夫なんだよな。平和な世界で、一緒に暮らせるんだよな」
「はい……」
 と返事をするイシェル。
 まだ無表情の彼女だが、これから感情豊かになっていくに違いない。そう思うと、ヤクトは嬉しくて仕方がなかった。
「おいおい。いくら嬉しいからって、そんなにベタベタされると目のやり場に困るんだがなあ……」
「……まったくだ。俺たちがいること忘れてないか?」
 ピステールとカヤセがにやにや笑ってからかう。
「あっ……」
 言われて気付き、ヤクトは慌ててイシェルの肩から手を離した。
「遠慮しなくていいぜ。俺たちは見物してるから、もっとくっついていてくれよ。ひっひっひっ」
いやらしく笑うカヤセ。
「うむ。積極的なのは悪いことではないぞ」
と経験者ぶった言い方するピステール。
「あのなあ、いい加減に……」
 とヤクトが疲れた顔で言いかけた時、部屋全体が発光し、視界が真っ白になった。
「うわっ……」
 と声を上げる間もなく、体がふわっと浮き上がる感覚になる。
 そして、再び周囲が見えるようになると、そこは森の中だった。
 目の前に井戸がある。
「……戻ってきたのか……?」
 ヤクトが呟くと、
「はい」
 とすぐ下から声がした。
「イっ、イシェルっ……?」
 ヤクトの声が裏返った。
 彼はイシェルの上になって、抱き付いていたのだ。しかもしっかりと。
 二人の視線が合う。
「イ、イシェル……」
 ヤクトはつい意識してしまった。
 考えてみれば、随分大胆なことをしたものである。皆の前で、彼女に好きだと言ってしまったのだから。
 心臓がドキドキしてくる。
 イシェルも視線を外さない。
「あ、あの……」
「おいおい、いつまで見つめ合ってんだよ」
 いきなりカヤセに突き飛ばされた。
「な、何をする」
「はっはっはっ、いいじゃないか。それより、無事に戻って来れたんだ。もっと喜ぼうぜ」
「そうだな。とりあえず、私たちは助かったんだから」
 とピステールがカヤセに抱き付く。
「げっ! 何でピステールはいつも俺に抱き付くんだ! そういう趣味なのか!?」
「仕方ないだろう。ヤクトとイシェルさんに抱き付くわけにはいかないから、残り物で我慢するしか……」
「あのなあ!」
 と二人が言い合う中、ヤクトが訊ねた。
「……なあ、イシェル。井戸はこのままでいいのかな?」
「このまま……といいますと?」
「ここと向こうの世界はこの井戸で繋がっているんだろう? だったらまたここを使って来る可能性もあるんじゃないか?」
 とりあえず、アムセのおかげであの場は収まったが、解決はしていないのである。ガリエルがまた何か仕掛けてくる可能性は十分にあった。
「……確かにそうですね。しかし、重要なのはあくまで場所ですから、例え井戸を壊しても通路を断つことはできません」
「それじゃあ、どうしたら……」
 と焦りの表情を浮かべるヤクト。カヤセとピステールも、緊張気味に二人の会話を聞いている。
「信じましょう」
 イシェルは真っ直ぐに見つめて言った。
「アムセ様ならきっと説得できるはずです。……それがもし失敗したとしても、そのときは私が止めてみせます」
「……そうか」
 ヤクトは笑みを浮かべた。
「わかった。そのときは俺も戦うから」
「あ、俺ももちろん戦うぞ!」
「私もな」
 カヤセとピステールが慌てて付け加える。口調は軽いが、彼らの瞳には強い意志が感じれた。
「ああ。じゃあ、二人とも」
 とヤクトは呼び掛ける。
「行こうか、俺の村に」
「おう」
 と二人は元気良く手を突き上げた。
 そして、ヤクトはさりげなくイシェルの手をつないだ。
 すぐにカヤセにからかわれたが、手は離さなかった。

 それから、一週間が過ぎた。
 ラグナス村では、死者を埋葬した後、皆で壊れた家を直していた。
 ピステールも数日は手伝っていたが、騎士の仕事もあるので、また来ると言って、アスランの町へ帰って行った。
 カヤセはここに住むことを皆に許され、一緒に家を直している。
 ここに預けられたレムスとクスナの兄妹には、前以上に懐かれて、一日中べったりだった。
「なあ……二人も乗っかられると、重いんだけど……」
 前にクスナ、後ろにレムスが、落ちないよう見事にしがみついている。
 通り掛かる人には、暖かい視線で見られていた。
「あたし、レンちゃんの代わりに、カヤセくんのお嫁さんになるの!」
「僕は愛人になるんだ!」
 二人が目を輝かせて言う。
「……あのなあ……。特にレムス、お前男だろうが……」
 呆れ顔のカヤセだが、別に悪い気分ではない。
「やれやれ……ん?」
 いつの間にか、目の前に一人の少女がいた。初めて見る顔である。おとなしそうで、結構かわいい。
「カヤセさん……ですよね? 子供に人気あるんですね」
「え? ……ま、まあね」
「村を襲った化け物をヤクトさんたちと倒したんですってね。すごいわ」
「い、いやあ、そんな。ところで君の名は?」
 照れながら、カヤセは訊いてみた。
「私、ルルといいます。これからもよろしくお願いしますね」
 彼女は手を振り、去って行った。
「う、う〜む。レンには及ばないが、結構かわいいな……」
 彼女の後ろ姿をぼーっと見ていると、両方の頬をつねられてしまった。
「カヤセくんは、あたしと結婚するの!」
「僕以外に、浮気しないでよ!」
「い、痛い……」
 顔が変形してしまう。
「言っておくけど、俺はレン一筋なんだからな……」
 だが、二人は同時にカヤセの頬にキスをした。彼の話など聞いていないようだ。
(……まあいいか。楽しいし……)
 それにしても、羨ましいのはヤクトである。
(イシェルさんとうまくやってるみたいだしな……)

 さて、そのヤクトはというと、家で料理をする母親と話していた。
「ヤクトも、案外隅に置けないね。目が覚めた時、旅に出たって聞いて、ヤイカに続いてヤクトまで……って気が気じゃなかったけど、こんないい子を見付けてくるなんて。いずれは結婚するんでしょ?」
「か、母さん……」
 ヤクトは照れている。
 料理を手伝うイシェルも、照れてうつむいた。
 ヤクトの母は、ファルクスに襲われて右足を失っている。旅から帰ってきたときには傷は塞がっていたが、歩くのに苦労していた。そこへイシェルが木で義足を作り、母に与えたことをきっかけに、彼女はすっかり気に入られていたのである。
「美人で働き者で、よく気も利くし、私はもう言うことないね。ほら、ここはいいから、二人でカヤセくんたち呼んできてよ。もう料理はできるから」
「え……?」
「気を利かせてるんだよ。早く行ってきな」
「あ、ああ。行こう、イシェル」
「はい」
 二人は家を出た。
「は、はは、母さんも変な気を利かせるんだから」
 ヤクトは照れ笑いを向けた。
 イシェルは黙って微笑んでいる。
「でも、やっぱり訊けないな、母さんには。ヤイカの父親は誰だったのかなんて」
「気になりますか?」
「そりゃあ、ね。でもいいさ。母さんも結構かわいそうな目にあってるんだ。思い出させるのも悪いし」
 と気の利かない自分に苦笑する。
「……それはそうと、あれからアムセはどうしたのかな。井戸にも全然反応がないけど、うまくガリエルを説得できたのかな」
「ヤクトさん。実は、先程アムセ様から連絡があったんです」
「本当か?」
「はい」
 頷くイシェル。料理の準備中、彼女の通信機にメッセージが贈られてきたのである。そこには一言だけあった。
「新しい移住先が見付かったそうです」
「……そうか。よかった」
ヤクトは安堵のため息を付く。これでこの世界を奪われる危険はなくなった。だが、同時に思う。あともう少し早くその移住先が見付かっていれば、無駄に犠牲者が出ることはなかったのにと。
しかし、それは過ぎたことである。もしもなどはありえない。今の状況を認め、そこから如何にして発展させていくかが大事なことだと彼は思った。
「しかしイシェル……」
 ヤクトは彼女の顔を見詰めた。
「本当に、表情が増えたよな」
「私も、何だか変な気分です。今まで心にあった感情が、素直に出せるんですから」
「ははは、いいことだよ」
 と彼女の頭を優しく撫でる。
 イシェルの変化は、アムセにもらった薬のおかげだった。心配だった副作用もなく、今ではすっかり普通の生活ができるようになっていた。
「イシェル……これからも、ずっと一緒にいような」
「はい……」
「お、お〜い……」
 いい雰囲気の二人に、呼吸の荒い、呻いた声がかけられた。
「カ、カヤセ……何してんだ?」
 レムスとクスナに前後に抱き付かれたまま、ゆっくりと歩いてくる。
「あっ」
 カヤセはつまずき、転んでしまった。
「ぎゃっ」
 レムスが地面に落ち、クスナが下敷きになる。二人は泣き出した。
「うわあ〜んっ!」
「痛いよお〜っ!」
「俺も痛いーっ!」
 と、これはカヤセ。
「……何やってんだか……」
 ヤクトは頭を抱えた。
「大丈夫ですか?」
 とイシェルが助けに行く。
「こら、ヤクトも助けに来い!」
 カヤセが文句を言う。
「へいへい……」
 と肩をすくめつつも、ヤクトは微笑んでいた。
「何か、毎日が楽しいな……」
「おい、ひとが痛がってるのに、何笑ってんだ!」
 カヤセがわめいている。
「……ったく、文句の多い奴……」
 ヤクトは笑顔で彼の所へ行った。

 終

 

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