冷たい空気のかたまりが、ヒュウと俺の頬を撫でて通り過ぎた。道端に落ちていた空き缶が、派手な音を立てて転がっていく。
「うう〜、さむっ」
 俺はズボンのポケットに両手を入れたまま、身を縮こませた。
 十月に入ったとはいえ、暖かかった昨日とはえらい違いである。衣替えしたばかりの冬服が、今日はありがたく思えた。
「いま家の鍵を開けますから、ちょっと待ってくださいね」
 風でめくれそうなスカートを押さえながら、俺の隣で彼女――七宮さんが言う。八つ橋高校の制服はスカートが短めなので、「改造しなくていいからラクチン」と一部の女子には好評らしいが、こういうときには大変そうである。
「……あの、瀬名くん」
 カバンから鍵を出した七宮さんが、ふいに、わずかに眉をひそめて俺を見る。それから照れくさそうにうつむき、視線をはずした。
「……そ、そんなにお尻ばかり見ないでください」
「え? ……あ、ああ、ゴメン」
 俺は素直に謝った。
 そんなつもりはなかったのだが、ついつい見つめてしまっていたらしい。
「そりゃあ、わたしは胸もお尻もありませんから。不満なのはわかりますけど……」
「また七宮さんは、そうやっていじけて……」
 数日前。教室で他の男子と、雑誌のグラビアを見ながら言っていた、俺の「巨乳はいいなあ」というセリフを、彼女は聞いていたらしい。
 それ以来、七宮さんはときどきそんなことを言って、いじけてしまうのだ。
 まあ確かに、彼女は胸もお尻もないし、背も俺より頭ひとつぶんは小さい。転校して二ヶ月目になるというのに、いまだに敬語だし、同級生というよりも後輩のように思えてしまう。
 その代わり……というと変かもしれないが、容姿だけを見れば、彼女はそのへんのアイドルにも負けていなかった。肌はニキビもなく綺麗だし、髪もサラサラしていて艶がある。
 しかし何故か、髪型はいつも子供っぽいツインテールで、おまけにダサい黒ぶちメガネだった。その手の趣味の人にはたまらないらしいが、他の男子や女子から「もったいない」という意見をよく耳にする。
 俺もそう思って訊いてみたことがあるのだが、はぐらかされて、きちんと教えてはくれなかった。何やらこだわりがあるらしいことだけはわかったが……。
「ほ、ほら、とにかく早く入ろうぜ」
 俺はそう言って、彼女を促した。
 とにもかくにも、ここは寒い。早く風のあたらないところへ行きたかった。
「……わかりました」
 ちょっと不満そうに唇を尖らせながらも、七宮さんは門のところについている小さな装置に、鍵を差し込む。よくあるシリンダー製ではなく、何とプラスチック製の鍵だった。先のほうに小さな機械が埋め込まれており、それを読み込んで開く仕組みらしい。
『警備を解除します』
 機械的な音声が聞こえるのと同時に、俺の背よりも高い門が、ゆっくりと両脇に開いていく。
「おわっ……」
 思わずのけぞり、間抜けな声を出してしまう。
 ……自動で門が開く家って、初めて見た。
 すごいというよりも半ば呆れながら、俺は彼女に訊ねる。
「警備って……この家、何か作動してるのか?」
「はい。防犯用に、お父さんが色々と仕掛けを用意するんです。まあ、趣味というのもあるんですけど……」
「へえ……。趣味……なんだ」
「え、ええ。まあ……」
 照れくさそうに、七宮さんは答えた。自分でも、変な趣味の父親だと思っているのだろうか。
「あ、でも――」
 ふと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて、俺を見上げる。
「実は、結構役に立つんですよ? この間も、家に侵入しようとした泥棒を、レーザーで焼いて追い返しましたし」
「ぶっ!」
 俺は思わず吹き出した。
「れ、レーザーって……マジで?」
「マジです」
 七宮さんはにっこり笑う。
「瀬名くんも、無事に帰りたければ、わたしから離れないでくださいね?」
「あ、あはは……はは……。冗談……だよね?」
「さあ、どうでしょう?」
「…………」
 彼女の言葉に、俺は口端をひきつらせたまま、固まってしまう。
 一瞬、背筋が冷たく感じたのは……きっと寒さのせいではないだろう。
 ……無事に、帰れるよな……俺。
 一抹の不安を感じつつも、俺は彼女に促され、門の中へと足を踏み入れる。
 そこから見えた光景は……何というか、別世界だ。
 俺の家は一応二階建てだが、それが十軒くらいは余裕で入るスペースがあった。門が近代的なわりには建物は和風で、まるで武家屋敷のようだ。おまけに庭も広く、ここから建物まで三十メートルはある。
「はあ……。すごいね、金持ちは」
 俺は思わずため息をつく。
「そうですか?」
 本当に何でもないように、七宮さんは言った。
「まあ、大きいのは家だけですから……」
「…………」
 コメントは……しないでおこう。
 それから彼女は、門の内側にある装置に鍵を通し、警備システムを作動させた。
「……大変だね」
 俺は声をかける。
「安全第一ですから」
 と、カバンに鍵をしまいながら彼女は言った。
 まあ、俺には想像できないが……これだけ大きい家だ。狙われやすかったりするんだろうな。
「……って、あれ? 鍵、しまうのか? 玄関はどうするんだ?」
「あそこは網膜の照合か、音声認識で開きますから、必要ないんです」
「ふ、ふ〜ん……」
 俺はもう、それだけ答えるのが精一杯だった。
 そういうシステムが存在するというのは、聞いたことがあるが――何というか、まさに近未来。
 ……しかし建物とミスマッチすぎるのは、ちょっとどうかと思うが。
 これも彼女の父親の趣味なのだろうか。
 ともかく、俺は彼女と並び、石畳の上を歩いていく。地面には芝生が敷きつめられ、大きな池まで見えた。名前はわからないが、綺麗に手入れされた木々も、何十本と植えられている。
 ……七宮さんと結婚すれば、逆玉だな。
 一瞬、そんな考えが頭に浮かんで――俺は慌てて首を振った。
「どうしたんですか?」
 彼女が不思議そうに俺を見る。
「い、いや、何でもないよ。……ちょっと寒かっただけ」
 そう言って、少し身体を震わせてみせた。
「風邪でもひいたら大変ですね。急ぎましょう」
 七宮さんが、俺の手をとり引っ張っていく。彼女にしては珍しく、積極的な行動である。
 そして玄関の前まで着いたとき、ちらりとこちらを振り向いた。寒さのせいか、ちょっと顔が赤い。
「あ、あの……いま、家には誰もいないんですけど……。し、信用っ……してますから」
 信用、の部分だけ、妙に力が込められていた。唇を固く結び、やや緊張の色もうかがえる。
「あ、あはは。それは、どうも……」
 ちょっと反応に困った俺は、頬を掻き、笑ってごまかした。
 彼女は少し首を傾げたが、すぐに微笑んでみせる。顔のわかりにくい黒ぶちメガネの上からでも、十分に可愛いと思える笑顔だった。
 しかし七宮さんが緊張気味なのもわかる。
 何しろ、若い男女が家で二人きり。そして俺たちは、一応『彼氏』と『彼女』の関係だ。
 これはまさに、絶好のシチュエーションである。
 普通の恋人同士なら、何かしらの進展を期待してもおかしくないはずで――きっと七宮さんだって、少しは期待しているのだろう。
 だが……俺は、違っていた。 
 俺は彼女――付き合って二週間足らずの七宮由衣とは、今日、別れるつもりで来たのである。
 ……しかし。
 ちらり、と俺はいま通ってきた、門のほうを見る。そして、冗談とも本気ともつかない、先程の七宮さんの言葉。
『瀬名くんも、無事に帰りたければ、わたしから離れないでくださいね?』
 ……本当に無事に、帰れるんだろうか。
 少し――いや、かなり不安になってきていた。

 そもそも、俺が七宮さんと付き合うことになったのは、ちょっとした手違いなのである。
 きっかけは、先週の水曜日――今日が土曜日だから、十日前のことだ。
 その日の朝まで、俺にとって七宮さんは、クラスに転校してきたちょっと可愛い女子生徒――程度の認識でしかなかった。友人である沢村武が、バカな真似をするまでは……。

「というわけで、瀬名。お前の名前を使って、七宮さんにラブレターをだしておいた」
「……はっ?」
 一限目の授業中。前日の寝不足のせいと、退屈な内容のせいで、ウトウトし始めていた俺だったが――。
 隣の席に座る沢村の、思いもかけない言葉により、眠気が一気に吹っ飛んだ。
 勢いで立ち上がりかけて、静かな教室に椅子がこすれる音が響く。
 しまった、と思って周りを見るが、みんなノートをとるのに忙しいらしい。初老の生物教師も、ちらりとこちらを見ただけで、特に気にしていないようだ。
 ふう、と俺は小さくため息をつき、隣を見る。
 ムカつくことに、奴は――沢村武は、机に肘をつき、細い目をさらに細くして、わざとらしく笑みの形を作っていた。明らかに、俺の反応で楽しんでいる。
 ……ったく。
 俺は軽く頭をかきながら、仕方なく奴に訊ねた。
「それで、ラブレターをだしたって、どういうことだよ?」
 これまでの一年半の付き合いでわかったことだが、こいつは冗談を言わない奴だ。沢村がだしたというのなら、本当にだしたのだろう。面倒なことになりそうである。
「ああ……俺は――」
 沢村は机についていた肘を上げ、これまたわざとらしく髪をかき上げる。
「なんて、友達がいのある奴だろう」
「……おい」
 いきなり自画自賛してるし。
 第一、こいつのどこに友達がいなんて言葉が当てはまるのか。はなはだ疑問である。
「それより、本当に七宮さんにラブレターをだしたのか?」
「ああ」
 正面を向き、ペンをクルクルと回しながら、沢村は答えた。
「今朝一番に教室に来て、机の中に入れておいた。その証拠に……ほれ」
 と、回していたペンを止め、窓側のほうへと向ける。
 ここから、二つ離れた席。そこに……ツインテールの少女がいて、こちらを見ていた。
 七宮さんである。
「……あ。」
 お互いに、目が合う。
 七宮さんは慌てて前のほうを向いた。懸命にノートをとり、もうこちらを見ようとしない。
「……というわけだ」
 ポン、と沢村が軽く肩を叩く。
「よかったな。意識されているということは、多少なりとも見込みがあるぞ」
「お、お前なあ……」
 プルプルと、拳が震えてくるのがわかった。
 そりゃあまあ、七宮さんは可愛いし、よくは知らないが性格も悪くなさそうだし、全然好みじゃないとは言わない。……色々と足りない部分はあるけれど。
 しかし、問題はそれではない。
「何でそんな勝手なことを――」
「……楽しいそうだとは思わないか?」
 沢村はあごに手をあて、微笑んでみせる。
「彼女ができると、さ」
「…………」
 まあ、それは……わからなくもない。
 高校に入ったばかりの頃。俺が驚いたことの一つに、カップルの多さというのがある。中学の頃はやはり気恥ずかしいのか、男女が並んで歩くなんてほとんど見たことがなかったが、ここでは日常風景だ。
 正直に言えば、いつかは俺も――なんてことを、考えたことはある。だが現実はなかなか難しく……それ以前に相手すら見つかっていない。最近では、俺には恋愛なんて無縁のものなんだと、ある意味悟りの境地にいるくらいだ。
「なあ、瀬名」
 授業中だということを思い出したのか、沢村はペンを動かし、黒板の字を写し始める。
「お前……最近ずっと、つまんなそうな顔してるぞ?」
「……え?」
 少しだけ、ドキッとした。
 たまにだが……沢村は、鋭いことを言う。
「彼女ができるのを待つんじゃなくて、積極的に作ればいいじゃないか」
「いや、俺は別に彼女が欲しいわけでは――」
 ほんのちょっと、そういう関係に憧れたことがあるだけだ。
「それに、好きでもないのに付き合うってのもどうかと……」
「付き合ってみれば、好きになるかもしれないぞ?」
「うぐっ……」
 奴の言葉に、俺は口をつぐむ。
 確かに……それがないとは言わないが。


 
つづかない……。

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