第一章
少し涼しくなり、季節はすっかり秋を迎えていた。
創立五年目の私立八つ橋学園は、創設者の桐生慎一が、毎月馴染みの店から取り寄せるほどの大好物、京都銘菓の「八つ橋」から名を取ったという、ユニークな(いい加減な)由来を持っている。
他にもユニークなものは多いが、例えば一番大きな行事に、三日間かけて行われるオリエンテーリングがある。森の中で地図と磁石とナイフのみを持って、四人から五人のグループでゴールを目指す、サバイバル訓練も兼ねた過酷な行事だ。これをトップでクリアした者には、希望の地へ七泊八日の家族旅行プレゼント、という豪華特典が付いている。もちろん怪我人や棄権者が出ることもあるが、信頼が生まれたり壊れたりと、盛り上げる行事ではある。
さて、とりあえずそれはさておき。
そんな変わった行事があるこの学校にも、秋にはやはり文化祭がある。
本番を明日に控え、生徒たちは放課後、最後の準備を行っていた。
出し物は、模擬店や教室展示や劇といった、この学校にしてはありきたりなものである。まあ、一般の人も来るのだから、あまり変わったものはできないのだろう。
準備の方だが、模擬店や教室展示はともかく、劇をやるクラスは体育館のステージがひとつしかないので、三十分ずつ区切って本番を想定した練習を行っている。
四時半近くになると、三年生の練習も、クライマックスを迎えていた。内容はオリジナルの青春ドラマだが、所々にギャグを入れ、なかなか笑える。演技が少々ぎこちないが、高校生の劇なのだから、それも味である。
ステージの前では、順番が最後になった二年一組が、それを見ながら待機していた。
「へえ……、結構面白いね、洋一くん」
セミロングの美少女が、隣でステージを眺めている少年に言った。
彼女の名は真村由里。明るい性格で、男女共に人気は高い。
「ああ、うん。なかなかだね」
と原田洋一は曖昧に答えた。彼は劇を見ることに集中している。身長は百七十センチで、由里との差は十センチ差。顔立ちは整っている方だが、しかし、少々優柔不断そうなタイプである。
「ふっ……甘いな」
いきなり髪を掻き揚げ、眼鏡をかけた男子が二人の前に立った。一見理知的な印象を受けるが、彼の性格をよく知るようになると、とてもそうは思えなくなる。
「俺の書いたシナリオの方がよっぽど面白いぜ。あんなの目じゃないな、はっはっはっ」
「……堀川くん、前に立たれると邪魔なんだけど」
と冷たく由里が言った。
彼……堀川克彦は、二年一組が次にやる劇のシナリオを書いていた。だが、彼はその前に完全ギャグ物を目指し、オリジナルシナリオを書いてみせたのだが、皆の大反対を受けた上に、高校生の演じる劇には適さないとまで言われて却下されたのである。しかし彼以外シナリオを書けそうもないので、何とか説得してまともなのを書かせたのだ。それがこれから練習する『白雪姫』である。
「おい、堀川。そんなこと三年生に聞かれたら、ぼこぼこにされるぞ」
後ろから、神野将人がやってきた。彼は背が高く、ルックスも良い。クールな性格で友達は少ないが、勉強も運動もできる方なので、女子には割ともてる。
「ふっ……俺はその程度のこと気にはしない」
克彦は軽く肩をすくめた。
「それにそういう危険があれば、お前を盾にしてやる」
「それこそ甘すぎるな」
「何?」
二人が睨み合っていると、ふいに後頭部を、ぽんと叩かれた。
「うっ……、敵襲か?」
慌てて克彦が振り向くと、そこにいたのは、担任の萩原霞だった。彼女は二十三歳の新人教師である。髪はさらさらのロングで、文句の付けようのない美人。さらにユーモアがあり、授業もわかりやすくて人気が高い。
彼女の話では、大学時代に世界の各地を旅し、様々なジャンルの修行をしたらしい。だが、嘘じゃないかと疑われたので、彼女は証拠を見せた。瓦を十枚持ってくると、見事に割ってみせ、皆を驚かせたのである。それ以後、彼女の人気がますます上がったのと同時に、安易にナンパしようと考える男子がいなくなったのである。ひそかに思っていただけだが、実は克彦もその一人だった。
「敵とは失礼ね、克彦くん」
「か、霞先生っ、驚かさないでください」
「驚くようなことをしているのが悪い」
将人がぼそっと呟いた。
「お前なあ……」
「はいはい。二人とも、演劇中に騒いだら駄目よ。……といっても、もう終わったけどね」
「え?」
見ると、洋一と由里が拍手を送っており、三年生は道具の片付けを始めている。
「何だ、ようやく終わったのか。うまく時間が潰せたな」
「俺に取っては無駄な時間だったがな」
「いちいち突っ掛かるな、お前も」
「暇だからな」
「ほら、克彦くんも将人くんもおしゃべりしてないで、準備始めて。次はうちの番でしょ」
「準備しよう、洋一くん」
「うん」
由里が洋一の手を取り、ステージの方へ向かった。そして他の皆と協力し、道具を用意し始める。
「ほら、二人も早く」
「でも、俺も神野も照明係だし、特に準備することもないけど」
「確かに」
と将人も頷く。
「あのねえ、だったらみんなを手伝えばいいでしょ? それとも、私の鉄拳が欲しいのかしら。一瞬で星の彼方まで飛んでいけるわよ」
霞はにっこり笑顔で、拳を克彦の額に押し当てた。
「ううっ……わ、わかりました」
「まだ死にたくないですからね」
二人はステージへ走っていった。
そしてほっと胸を撫でおろす。
「やれやれ、冗談だとわかっていても、ついやられたときの像像をしてしまう」
「確かに、恐ろしい先生だ……」
克彦と将人は、冷や汗を拭った。
そしてしばらくして、
「先生、準備終わりましたよ」
ステージの上で、由里が手を振る。彼女は主役の白雪姫の役だった。衣装を使うのは明日に取って置き、今日の練習は制服のまま行うことになっている。
そして隣には洋一がいた。彼は王子様役である。
「はーい、じゃあ練習始めましょう」
霞の声が、体育館に響いた。
「それから由里ちゃん、クライマックスのキスシーンだけど、本当にしたら駄目よ。頭の固い先生に、後で私が色々言われるんだから」
「すっ、するわけないでしょっ」
由里は顔を赤らめた。
「それに、言うならあたしじゃなくて洋一くんの方じゃないの?」
白雪姫は眠っているのであって、キスをするのは王子様なのだ。
「だーって、洋一くんは人前じゃ絶対そういうことできないもの。するとしたら、キスに飢えていて、しかも興奮すると周りが見えなくなる、あなたの方。そうでしょ?」
「なっ……」
図星を指されて、由里は言い返せない。悔しいが、確かにその通りだった。
「何だ、お前ら。もしかして、まだキスもしてないのか?」
克彦が、にやにやして言った。
洋一と由里が交際していることは、クラスを問わず有名である。
「ひ、秘密よっ」
「そうか、やっぱりまだか……」
「だから、秘密だってばっ」
由里はそう言うが、この会話を聞いた者は、誰もが「まだだな」と思った。
「あまりしつこくするなよ、克彦」
洋一が言った。
「それより霞先生、僕が気を付けるから大丈夫ですよ」
「オッケー。じゃあ、始めるから幕下ろして」
霞の指示で、幕が下ろされ、いよいよ練習開始である。
幕が上がると、そこには女王がいた。彼女はいつものように鏡に訊ねる。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」
「それは、白雪姫です」
いつもの答とは違っていた。今日は白雪姫の十六歳の誕生日。鏡は女王より白雪姫の方が美しいと判断したのである。
怒った女王は、従者に白雪姫を森へ連れていき、殺してくるよう命令した。が、従者は殺すことができず、置き去りにして帰ったのだった。
森の中を一人で歩き回る白雪姫は、いつしか小さな家を見付けた。しかし、そこは小人の家だったのである。白雪姫は事情を話し、家事を手伝いながら、しばらく一緒に暮らすことになる。
一方、白雪姫が死んでいないことを知った女王は、魔女に化けて、自ら出かけていった。 そして白雪姫を見付け、毒の塗られたリンゴを渡そうとする。
「お嬢さん。このリンゴ、おいしそうだろう。食べたくないかい」
「私、お金を持っていないわ」
「なあに、お金なんていらないさ。お嬢さんには特別にプレゼントしよう」
「でも……それだと、お婆さんに悪いわ」
「私の気持ちだよ、気にしないでおくれ。ほら、こんなにおいしいよ」
と一口食べてみせる。もちろん毒の塗っていないものだ。
「一人で食べるより、二人で食べる方がおいしいと思わないかい」
「そ……そうですね。じゃあ、頂きます」
白雪姫はリンゴを受け取った。
「本当におししそう……」
と、一口食べる。途端に、彼女は倒れてしまった。死んだのを確認すると、女王は笑いながら去っていった。
倒れた白雪姫を発見した小人たちは、悲しみ、葬儀を行う。棺にはたくさんの花を入れ、彼女を美しく飾った。
そこを偶然、通り掛かった者がいた。乗馬をしていた隣国の王子だった。
毒リンゴのせいでこうなったのだと、彼は小人に聞かされた。
「気の毒に……」
王子は白雪姫のために祈った。
「神よ。この者が生まれ変わったときには、どうか幸多きことを願います」
そして、口付けをする。顔を上げると、白雪姫が目を開けた。
「おお、奇跡だ……」
「ありがとう、王子様。あなたのおかげで、毒が浄化されました」
「そんな。それより、私の願いを聞いてくれますか。どうか后になってください」
「はい……。私でよければ……」
「ありがとう」
王子は白雪姫を抱き締めた。
そして白雪姫は小人に別れを告げ、王子の国の城へと向かったのだった。
劇が終わり、ステージに幕が下ろされた。
「すごいすごい、もう完璧だわ」
霞が拍手を送った。
幕が上がり、生徒たちがステージに集まる。
「これで明日はばっちりね」
とVサインを向ける。
「霞先生、あたしキスしなかったからね」
由里が言う。
「そうみたいね。明日の本番もできればそうしてね」
「もう……すぐそういうこと言う……」
「ま、とにかく、みんな上手だったわ。今日はこれで終りだから、片付け始めて。それが済んだら帰っていいわよ」
「はーい」
生徒たちは、背景や小人の家などの道具を、ステージから下ろし、教室へ運んでいく。
「ああ、くそっ。俺は不満だぞ」
将人と一緒に、ステージから下りてきた克彦が、文句を言った。
「この白雪姫、ほとんどアレンジもない、そのままのストーリーじゃないか。面白くない。俺はこんなシナリオ書きたくなかったのに」
「仕方ないだろう」
と将人。
「お前がアレンジすると、ストーリーそっちのけで、笑えないギャグやしもネタのオンパレードだからな」
「そうよそうよ」
二人の会話を聞いた由里と洋一が、近付いてきた。
「堀川くんのアレンジしたシナリオって、小人に白雪姫のスカートをめくらせるとか、襲わせようとか、王子様とSMするとか、しょーもないことばっかしあるんだもん。小説なら好きに書けばいいでしょうけど、これは劇なのよ。しかも高校生の」
「まあ、確かに劇じゃできないね」
と洋一が言った。
「でもさ、一般受けはしないけど、あれはあれで面白さもあると思うし。今回のが不満なら、また次を書けばいいじゃないか。そしたらまた見せてもらうから」
「……わかったよ。しょうがないな」
克彦は頷いた。洋一に褒められてもたいして嬉しくないが、とりあえず彼の言う通りにはするつもりだ。
「しかし……何故俺のギャグが理解されないんだ?」
一番不満なのは、書きたいものを書くと皆に受けないことである。嫌々書いた白雪姫は好評だというのに。
「そうむくれるな。今回の話は、お前にしてはいい出来だ。ほめてやる」
偉そうにそう言ったのは将人だった。
「神野……その言い方、全然嬉しくないぞ」
「そうか。まあ、気にするな」
「気にするから言ってるんだが……」
「しつこいわよ、堀川くん。褒めてるんだから、素直に喜べばいいじゃない」
由里が笑顔で言い、洋一と腕を組んだ。
「少なくとも、あたしはまともな劇になってほっとしたわ。配役も最高だしね」
「……真村は洋一とキスシーンができるから嬉しいだけだろうが」
「失礼ねっ」
「まあまあ」
怒る由里を、洋一がなだめた。
「克彦も、怒らせるようなこと言うなよ」
「ああ。それはともかく、お前ら、あんまりべたべたするなよな。真村に交際断られた奴が、結構洋一のこと妬んでるんだぜ」
由里に言い寄る男子は多いのである。
「そんなの気にしないから大丈夫」
「あたしたち付き合ってんだから、ちょっと腕組むぐらい、いいと思うけど」
と洋一と由里は答えた。
「はいはい、仲がいいのは結構だけど、そういうのを羨ましがる人もいるってことよ」
霞が割り込んできた。
「……霞先生、どうして俺の方を見て言うんです?」
「別に深い意味はないわよ」
彼女はにっこり微笑んだ。
「克彦くんにもそのうちいい子が見付かるから、心配することないわ」
「俺は別に、彼女募集なんてしてませんっ」
「と口で言っても、顔に出てるんだよな。堀川の場合」
「あのなあ、神野……」
「ま、とにかく、いつまでも話してないで帰りましょ。もう残ってるのあなたたちだけなんだから」
「あ、ほんと。堀川くんに文句言ってたせいで、みんなに置いてかれちゃった」
「俺のせいにするな」
という克彦の言葉を無視し、由里は洋一の腕を引いた。
「帰ろう、洋一くん」
「うん」
「やれやれ」
と克彦と将人もその後に続く。
「洋一くん、明日は頑張ろうねー」
並んで歩きながら、霞が頭を撫でた。
「……先生。いつも言ってますけど、それはやめてくださいよ」
「だってかわいいんだもん」
「霞先生っ」
と由里が睨む。
「大丈夫、由里ちゃんもかわいいわよ」
霞は由里の頭も撫でた。彼女は生徒の頭を撫でるのが好きなのである。ただし、フケや整髪料の多い者は避けるが。
「そーいうことじゃなくてっ」
「ま、まあまあ、由里ちゃん」
と洋一がなだめる。
「やれやれ、原田は真村をなだめてばかりだな」
将人は肩をすくめた。
「言われてみれば、確かにそうかも……」
と洋一は考える。
「え? それって、もしかしてあたしのせい?」
由里は少し焦った。
「その通り」
にやりと笑い、克彦が言う。
「真村がすぐに怒るから、洋一がそれを押さえなきゃならない。ああ、大変な彼女を持ったもんだ」
「ううっ……」
「ちょっと、克彦くん。その喜んでひとに不安を与えたがる性格、直した方がいいと思うわよ」
ぱちん、と霞が克彦の額を、指で弾いた。
「あだっ」
と呻いて、克彦は額を押さえる。
「別に気にすることないわよ、由里ちゃん。あなたが怒るときといったら、ほとんど洋一くんに関することしかないんだから。男なら迷惑どころか、逆に喜ぶわよ。ねえ?」
「うん。別に気にしてないよ」
と洋一は言った。
「本当?」
「うん」
「ありがとう。霞先生も、元気づけるくれるなんて、たまにはいいことするんですね」
「たまに、は余計でしょ」
「だって、本当にたまにだもん」
由里は笑った。
「失礼ねー」
と言いながら、霞も笑う。
「ところで、ひとつ注意しておくが」
将人が言った。
「洋一はともかく、あんまり独占欲が強いと、嫌がる奴もいることを忘れないように」
「……あ、あのね。こういうときに言わなくてもいいでしょ」
「あたしはいいもん。洋一くんに好かれてさえいれば」
由里はしなだれかかる。
「て、照れるな」
と洋一は頭を掻いた。
「……それより原田。この後、一緒にバイトの面接に行く約束をしているが、覚えているか?」
「バイトの面接? そういえばそんな話聞いてたわね」
と由里。
「ああ、忘れてないよ。今五時で、面接は六時からだから、十分間に合うと思うけど」
洋一が腕時計を見て言う。
「よしよし」
と将人は満足そうに頷いた。
「洋一く〜ん、言っておくけど、怪しいバイトはだめだからね」
後ろから彼の首に腕を回し、霞が体重をかけて、胸を押し当ててきた。
「そ、そんなんじゃないですよ。新開店のファーストフードで、バイトを募集してるんです」
洋一は焦って答えた。
「ふ〜ん、それならいいけど」
「だから〜、霞先生、変なことしないでくださいっ」
由里が霞を引きはがした。
「けち……」
「けちじゃないでしょ。さっき自分で慰めたばかりなのに、またあたしをからかって」
彼女は生徒が好きなだけであって、悪気がないことはわかっているのだが。
由里も自覚しているが、やはり独占欲が強いらしい。
「まあ、それはともかく」
と体育館を出たところで、霞は立ち止まった。
「私は職員室に行くから、みんな気を付けて帰るのよ。洋一くんと将人くんは、面接頑張ってね」
「はい」
と洋一は頷く。
「まあ、なるようになりますよ」
と将人。
「じゃあ、また明日ね」
軽く手を振り、霞が階段を下りようとしたとき。
(見付けた……)
ふいに、洋一は他の四人とは違う、野太い男の声を聞いた気がした。
ぞくり、と寒気が襲う。
「う……」
とわずかに呻いて、彼は体を震わせる。
「何だ? どうした?」
将人が怪訝そうに訊ねた。
「どうかしたの?」
と霞も首を傾げ、戻ってくる。
「い、いや……今……」
洋一は困惑した表情で周囲を見回す。鳥肌が立っているのがわかった。
「不気味な、男の声が聞こえたんだが……」
「男の声? そんなの聞こえなかったぞ」
「それに、神野くんも堀川くんも、あたしだって何もしゃべってなかったけど」
と由里が説明する。
「しかし……」
聞こえたのは確かだった。
(見付けたぞ……ついに……)
再び同じ声。先程よりも近付いているのが、はっきりとわかる。
「また聞こえたっ」
洋一は苦しそうに耳を押さえた。体を締め付けられるような圧迫感があった。
「お、おい……大丈夫か?」
と心配になって将人が肩に手をやる。
「よ、洋一くんっ」
四人が彼の側に集まった。
「一体どうしたの?」
と霞が真剣な顔で問うが、洋一は答えない。
「な、何だ、あれは……」
荒い呼吸をしながら、彼は目を細め、遠くを見る。
「あれ……?」
視線を追っても、そこは廊下だ。
特におかしいものなど何もない。
「く、黒い何かが……こっちに近付いてくる……」
洋一の目には、黒いもやのようなものが見えていた。吸い込まれそうな、深い闇。
何故かはわからないが、極度の不安と恐怖が、彼の中を駆け巡っていた。
「黒いものなんて何もないわよっ、しっかりしてっ」
霞が目の前で叫ぶが、洋一には彼女の姿も声もわからなかった。
闇が大きく広がり、目の前に迫る。
「うわああっ」
闇に飲み込まれた洋一は、悲鳴を上げ、体を硬直させた。そして張り詰めた糸が切れたたように急に力が抜け、倒れ込むところを霞と将人が支え、静かに横にさせる。
「な……何、何なの? 洋一くん、どうしちゃったの?」
声と体を震わせ、由里が泣きそうな声で言った。
洋一は奇妙な感覚の中にいた。外界の全てのものを一切排除した、虚無の世界。気の遠くなるような、不思議な浮遊感。だが頭の隅では、自分の体が動かないことも何故かわかっていた。
「何なんだ、ここは……」
その呟きに答えるかのように、先程の声がした。
(私の名はラグナニード……覚えておくがいい……)
体中の毛穴を通って、内に入り込んでくるような嫌な感覚が襲う。姿は見えないが、声の圧力だけで押し潰されそうだ。
「ラ……ラグナニード……?」
洋一は呻くように声を出す。
(お前のような人間を探していたのだ……ずっと……遠い昔から……)
ラグナニードの声には、憂いと喜びが込められていた。
(さあ、来るのだ。私の世界へ……)
「な……何……?」
その圧倒的な力強さに、洋一の気力はどんどん吸い取られるようだった。体の力が抜けていく。
(来るのだ……)
その言葉が終わったとき、洋一は意識を失っていた。
「洋一くんっ、洋一くんっ、しっかりしてっ」
霞が大声で呼び掛けるが、洋一の体は何の反応も示さなかった。
「…………」
唇を噛み、彼女は仕方なく呼ぶのをあきらめる。
「どうなんですか、霞先生……」
由里が恐る恐る訊ねた。
「わからないわ……」
と霞は首を振る。
多少医学の心得がある彼女だが、原因は見当が付かなかった。呼吸は正常にしているから、大丈夫だとは思うのだが……。
「多少詳しいだけで、私は医者ではないもの。とにかく、病院に運んだ方がいいわね。さっきの洋一くんはかなり異常だったわ」
「よ、よし、俺、救急車を呼んでくる」
将人が立ち上がった。
「お願いね、将人くん」
「ったく、一体どうなってんだよ。こいつ、病気なんてしてるはずないのに……」
「洋一くん、早く起きてよ……」
克彦と由里は不安そうに洋一を見ている。 ふいに、彼を中心とした半径二メートルに、黒い円が浮かび上がった。
「えっ……」
と霞は声を漏らした。
突然起こった異様な出来事に、彼女にできたのはそれだけだった。
理解することはもちろん、対応することすらできずに、洋一、由里、克彦、霞の四人は、黒い円の中に落ちるように吸い込まれたのである。
「なっ……」
階段を下りようとしていた将人が、驚愕の声を上げた。突然何か強い力で体が引っ張られたのである。
一瞬だったが、確かに見た。洋一の周りに黒い円が浮かび、皆がその中に吸い込まれるのを。
体が引き寄せられ、黒い円に迫る。だが、将人がそれに触れようとする寸前に、黒い円は消えてしまった。
「ぐわっ」
何もなくなった床に、将人は倒れ込む。
痛みが走るが、それより。
「な、何が……どうなっている……」
目を見開き、将人は呆然とする。
四人が消えてしまった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
第二章
突如、視界が闇に覆われた。そして落下。バランス感覚が失われる。
「ひっ」
急激な状況変化に、由里は悲鳴も上げられなかった。出たのはしゃっくりのような声だ。 わけがわからないうちに、今度は激しく水が跳ねる音がして、由里は固いものに体を打ち付けた。そこが熱い湯の中だと理解できたのは、一瞬後である。
腰の辺りが痛かったが、それよりもまずは空気が欲しい。
「ぶはっ」
由里は湯の中から出た。
「こ、ここは……?」
髪を掻き揚げ、咳をしながら、由里は周囲に目を凝らした。湯気が多くてよく見えないが、どうやらどこかの広い浴槽のようだ。室内で電気もないらしく、暗い感じがする。
「どうしてあたし、こんなところへ……。それに洋一くんや、みんなは……」
姿が見えない。急に不安になってきた。
「誰か……誰かいないの?」
由里は湯気の向こうに声をかけた。
「その声……由里ちゃん?」
声が返ってきた。
「えっ……」
まさか返事があるとは思わなかった。しかもよく知っている声だ。
「か、霞先生?」
「ああ、やっぱり由里ちゃんね。無事でよかったわ。待ってて、今そっちに行くから」
そう言うと、ばしゃばしゃという水の音がこちらに近付いてくる。
由里は心底ほっとした。どうして自分がこんなところにいるのか知らないが、知り合いがいれば、とりあえずは安心できる。
「……ん?」
ふと、怪訝に思った。
近付いてくる水の音が、ひとつではなく複数なのだ。段々と迫ってくる。
「ど、どういうこと?」
由里は不安に駆られた。様々な怖い想像をしてしまったが、実際目の前に現れたのは、結構意外なものだった。
霞は当然として、他に克彦、そして見知らぬ二人の少女。染めたのか知らないが、彼女たちの髪は、赤と水色だった。
由里と同じく高校生くらいの二人の少女は、どうやら入浴中だったらしく、慌てて巻いてきたとわかるバスタオルが、今にもずり落ちそうになっている。
豊かな胸の谷間が強調されて、
「おおっ」
と克彦は目を釘付けにした。彼はここがどこだとか、彼女たちが何者かという疑問より先に、まずそっちに目がいってしまうようである。
そんな彼を抜かして、一同はしばらく沈黙していたが、やがて赤い髪の少女が声を荒げた。
「何をしている、無礼者っ。私たちは入浴中だぞっ。どこから入ったのか知らないが、早く出ていけっ」
「そうそう。せめて服くらい脱いで来なさいな」
とおっとりした感じで、水色の髪の少女が付け加えた。
「そういう問題じゃないでしょ、フレアっ」
赤い髪の少女が怒鳴る。
「やあね、アクアちゃん。冗談なんだから怒らないで」
フレアと呼ばれた少女は、笑顔を浮かべている。呑気な姉といった感じだ。
彼女たちの会話を聞き、由里は思った。
(フレアにアクア……? あだ名じゃなさそうだし、もしかして外人さん?)
よく見ると、瞳の色がそれぞれ髪と同じなのである。しかし、青い瞳はともかく、赤いのや、あんな髪の色の人種は見たことがない。しかも、肌の色だけは日本人と同じなのだ。
「由里ちゃん……もしかしてここ、地球じゃないかも知れないわよ」
霞が耳元で囁いた。
「えっ……」
驚いて彼女の顔を見るが、ふざけてはいないようである。
「そ、そんな……」
由里がショックを受けていると、
「ふふふ……」
腕を組んだ克彦が、不敵な笑みを浮かべて前に出た。
「ん……?」
と全員が注目する中、彼は自分の制服のブレザーに手をかけた。
「そちらのお嬢さんの希望通り……俺も服を脱ごうではないかっ」
「何考えてんのよっ」
由里は彼を横から突き飛ばし、湯に沈めた。
「まったく、こんなときに……」
まあ、彼なりに混乱しているのかも知れないが。
「…………」
フレアとアクアは、呆気に取られている。
「あ、あの、入浴を邪魔してごめんなさいね。私たち、すぐに出ていきますから」
霞が軽く頭を下げ、湯に沈んだ克彦を引っ張り上げた。さらに由里の手を取る。
「ほら、早く行きましょう」
「あ、は、はい」
霞を先頭に、三人はここを去ろうとするが、広すぎて出口がわからない。
「あの〜、出口はあちらですよ」
フレアが、彼らの行こうとするところの反対を指した。
「ど、どうも、ご親切に」
三人は愛想笑いを浮かべながら、そちらへ向かい、出口から出ていった。
「……な、何だったんだ、あいつらは……」
「見掛けない服装でしたわね」
アクアとフレアは顔を見合わせ、首を傾げた。
「……あら?」
ふいに後ろに何かを見付け、フレアは近寄ってみた。それは少年のようだった。浴槽の壁にもたれかかっている。
「この格好はさっきの人たちと同じ……。あの〜」
とフレアは声をかけてみたが、反応がない。 念の為に、口元に手を近付けてみたが、呼吸はしているようだ。
「もしかして、こいつも覗きに来たんじゃないの? 見付かったんで寝たふりをしているとか」
アクアが頬をつねったが、やはり反応がなかった。ふりではなさそうである。
「よくわからないけど、本当に意識がないみたいね。とりあえず、更衣室まで運びましょう。アクアちゃん、右の方お願い」
「仕方ないな……」
二人は肩を使って、少年を更衣室まで運び、床に寝かせた。そして顔を覗き込んでみる。「ふ〜ん……よく見ると結構かっこいいわね。アクアちゃんの好みじゃない?」
「ま、まあ、少しはね。でも、覗きする奴は最低だ」
「覗きじゃないと思うけど……」
二人が話していると、突然更衣室のドアが開かれ、黒髪の少女が慌てて入って来た。
「姫様、大丈夫ですかっ」
「あら、ユンファちゃん。慌ててどうしたの?」
とフレアが問う。
「え、えっと、その……あ、この人っ」
ユンファは床に寝ている少年に目を止めた。
「さっきの人たちの仲間じゃ……」
「さっきの人たちって、こいつと同じ格好をした奴らのことか?」
とアクア。
「知ってるんですか? ここから出て来るのを見たので、衛兵たちが追いかけていきましたけど……。あ、あの、何かされませんでしたか?」
「いいえ、何にも」
とフレアは微笑んだ。
「心配してくれてありがとう、ユンファちゃん」
「い、いえ、そんな。姫様のお世話係として、当然ですよ」
ユンファは顔を赤くして照れている。彼女にとって、フレアは憧れの存在なのだ。
「そ、それにしても、この人たち、一体どこから入り込んだのでしょう」
「それは、後で本人たちに訊くことにしましょう。それよりユンファちゃん、お願いがあるんですが」
「は、はい。何ですか?」
「大変だとは思いますけど、この人を客室に連れて行って、着替えさせてください」
「き、着替えさせる……んですか?」
ユンファは少年を見た。
「ええ。濡れたままの服では彼、風邪をひいてしまいますからね」
「わ……わかりました。私にお任せください」
「変な気起こすなよ、ユンファ」
アクアがからかった。
「そ、そんなことしませんよ。アクア様のいじわる……」
「あはは、赤くなってかわいい」
「じゃあ、ユンファちゃん。後で様子を見に行きますからお願いね」
「は、はい。フレア様」
「さあ、アクアちゃん。私たちは入り直しましょう」
「はいはい。湯冷めしそうだったからね」
フレアはアクアの手を取り、浴室に入って行った。
「さて……と」
ユンファは考えた。
「客室に運ぶにしても、私だけじゃこの人運べそうもないから……誰かに手伝ってもらわなきゃ」
とりあえず、ユンファは彼を更衣室の外まで引きずり、近くにいる衛兵に頼むことにした。
「まずは、状況を整理してみよう」
と克彦が口を開いた。
「状況と言ってもねえ……」
由里が深いため息を付く。
「とりあえず、元々の原因を思い出すところから始めましょう」
と霞が言った。
「確かあのとき……私たちは体育館を出たところで別れようとした。けど、急に洋一くんの様子がおかしくなった」
「そして、集まった俺たちの下に、黒い円……というか、闇だな、あれは。それに抵抗する間もなく、吸い込まれたわけだ」
「それで、気が付いたらどこかのお城のお風呂にいたってわけ? 何か、どこかの漫画やゲームみたいな展開じゃない」
由里は膝を抱えてうつむいた。
「それなのに、洋一くんと神野くんはどうしていないのよ……」
「洋一くんのことは、正直わからないけどね……」
と霞は思い出すように言った。
「将人くんは多分、こっちに来ていないわ。彼、離れたところにいたしね、吸い込まれなかったと思うの」
「ふ〜ん……。だとしたらラッキー、なのかな……」
克彦が呟き、腕時計を見た。針は変わらず秒針を刻んでいる。
「これが狂ってなければ、今六時……。バイトの面接時間だな」
「行かないでしょ、いくらなんでも。それより、私たちが闇に吸い込まれたなんて話しても、誰も信じてくれないでしょうし。きっと大変な目に会ってるわね」
「そう考えると、かわいそうかもな……」
「お父さんやお母さん、心配してるだろうな……。柚流お姉ちゃんは、きっと行方不明のあたしの捜索を始めるんだ……。でも手掛かりがなくて、あきらめるしかなくなって……」
由里が悲しそうに呟いた。
「ちょ、ちょっと、由里ちゃん。そう悲観的になっちゃ駄目よ。こういうときは明るく物事を考えなきゃ。ね?」
霞がなぐさめるが、あまり効果はなさそうだ。
「……そっか。真村の姉さんって、警察の人だったよな……。妹を見付けられなかったショックで、辞職するかも……」
「か、克彦くん、何でそう不安をあおるようなことを言うの」
霞が顔を引きつらせた。
「い、いや、悪気はないんだが……」
「別にいいよ……。それより、寒い……」
由里は身を縮こませる。
「ま、まあ、服は濡れたままだし、ここはこんな地下牢だしね……」
霞は困ったように頭を掻いた。
浴室を出た後、彼女たちは追いかけてきた衛兵にあっさり捕まり、石造りの壁に鉄格子されたこの牢に入れられたのである。
「霞先生、何でああいうときに得意の空手だか拳法だかを使わなかったんですか? そうすればこんなところ入れられずに済んだかもしれないのに……」
と克彦。
「あのねえ……」
霞はため息を付く。
「一人や二人ならともかく、剣を持った相手が十人以上いたのよ。抵抗したら私は大丈夫でも、きっとあなたたちが怪我していたわ。二人も守って戦えないもの」
「へえ……」
と克彦は感心した。
「そこまで考えてるわけか。さすが霞先生」
「克彦くんって、都合のいいときだけ褒めるわね。別にいいけど」
「ははは……。それより真村、寒いならいい方法があるぞ」
克彦が近付いて来た。
「な、何よ……」
嫌な予感がして、由里は後退る。
「まず、濡れた服は脱ぐ」
「えっ……」
「そして、人肌で温め合う。これが一番だ。俺が協力してやろう」
克彦は自分のブレザーのボタンに手をかけた。
「死んでも嫌っ」
由里は即座に逃げ出した。
「ちぇっ……」
と克彦は舌打ちする。
「あのねえ、克彦くん」
肩をすくめて、霞が言った。
「女の子に元気出してもらおうと思ったら、もうちょっと考えて行動した方がいいわよ。今のが洋一くんの言葉だったら、まだわからないけど」
「も、もう、霞先生っ。からかわないでっ」
「あら、少しは元気出たのかしら?」
「まあね……。でも、どうせなら他の方法で元気づけてほしかった……」
「……何か、俺って立場ない気がする……」
克彦がぶつぶつ言っていると、一人の衛兵が、両脇に服を抱えて、牢の前にやって来た。二十代半ばくらいの青年である。浴室で会った少女たちと違い、衛兵たちは髪や瞳の色など、日本人と変わらなかった。
「お前らに、服を持って来てやったぞ」
鉄格子の、わずかに腕が通るくらいの隙間から、服をひとつずつ丸めて、中に押し入れる。
「何だ、けちくさい。扉開けてくれないのか……。さては俺たちが怖いか?」
壁に寄り掛かった克彦が、挑発するように言う。
「ふん、そうじゃない。だが、万が一ということもある。警戒するに越したことはないからな」
「何だ、結局怖いんじゃないか」
「……何?」
と衛兵が睨む。
「ちょっとどいてて」
突然霞が、横から克彦を突き飛ばした。
「ぐえっ」
と倒れる彼を無視し、にこやかに礼を言う。
「わざわざ服を届けてくださるなんて、親切なお方ですね。ありがとうございます」
「いや、何」
と衛兵は思わず照れて頭を掻くが、ふと我に返る。
「ま、まあとにかく、しばらくしたら取り調べがあるからな。おとなしくしているんだぞ」「ああっ、待ってっ」
去ろうとする衛兵を、霞が慌てて引き止めた。
「な、何だ? 何か用か?」
衛兵は怪訝そうに振り返る。
「いくつか質問させてほしいんですけど、いいですか?」
「……言ってみろ」
「ここは、何という国なんですか?」
「……はあ? 一体何の冗談だ?」
衛兵があきれ顔になる。
「……実は私たち、ここに迷い込んでしまいまして……」
「迷い込んで、この城に入ったってわけか? しかも姫様たちが入浴中の浴室に?」
衛兵は不審そうな目を向けた。
「……う、疑ってるわね……」
「仕方ないわよ……」
と由里は疲れたように言った。
(あ〜あ、早く着替えないと、本当に風邪ひいちゃうよ……)
しかし、それができるまで、もう少し時間がかかりそうである。
「じゃあ、逆に訊かせてもらうが、お前らはどこの国の者だ?」
「え〜と……多分知らないでしょうけど、日本よ」
「ニッポン? 聞いたことがないな」
衛兵は首を傾げた。
「やっぱり……」
まあ、予想はしていたが。
「とにかく、俺はもういくからな。迎えに来るまで、着替えて待ってろよ」
衛兵が牢の前から去ろうとする。
「あ、ずるいっ。私の質問には答えないつもり?」
「教えてやるとは言っていないぞ」
ふう、と霞はため息を付いた。こうなれば、作戦を変えるしかない。
「……ねえ、衛兵さん。ちょっと私の前まで来てくれる?」
少しかがんで、濡れた服の胸元を強調してみせる。
「うっ……」
霞の色仕掛けに、彼はあっさり引き寄せられた。
「な、何だ?」
「うふふ……あなた、ここの牢の鍵は持ってます?」
「あ、ああ。だが、まだ開けるわけにはいかんぞ」
「わかってます」
霞は笑顔で衛兵を見据えたまま、鉄格子の隙間から左腕を伸ばし、彼の手をつかんだ。そしてその手を一気に引っ張る。
「うわっ」
驚いた衛兵が、バランスを崩し、よろめいた瞬間。霞は右の拳を、彼の腹にめり込ませていた。
「ぐっ……そ、そんな……」
まさか攻撃されるとは思わなかったのだろう。衛兵は牢に寄り掛かり、気を失った。
「やったね」
霞は後ろの二人に向けて、Vサインを作る。しかし、反応は冷たい。
「あ〜あ……。俺を突き飛ばして、何するかと思えば……」
「あたし、どうなっても知らないよ……」
克彦は手で顔を覆い、由里はため息を付いた。
「あのねえっ」
と霞が腕組みし、眉を吊り上げる。
「そんなこと言ってると、一緒に連れてってやらないから」
「あーっ、ごめんなさい、霞先生っ」
克彦が、慌てて謝った。
「いやあ、さすがです。何もかも、先生のおかげです。よっ、世界一っ」
「……わざとらしい褒め方ね。ま、いいけど……」
「ねえねえ、こうなったら急がないといけないんじゃない? 早くこの牢を開けないと」
由里が立ち上がって言った。
「そ、そうね」
霞は衛兵の服を漁り、鍵を取った。そしてすぐに牢を開ける。
「ふう……これで出られるな……」
克彦はほっと息を付く。
「由里ちゃん、自分の分の服持って、早く来て」
牢の外に出て、霞が手招きした。
「え? は、はい」
由里は先程衛兵が持ってきた服を手にし、牢の外に出た。そして克彦を中に閉じ込めたまま、霞は素早く鍵をかける。
「え……?」
と克彦は呆然とした。
「あ、あの……何故俺だけ出してくれないんでしょーか……?」
「安心して、後で出してあげるから。ただ、私たちが着替え終わるまでそこで待っててね」
「そっ、そーいうことだったのかっ」
がしっ、と克彦は鉄格子にしがみつく。
「先生っ、俺は覗いたりしませんっ。誓いますっ。だから着替えならここで一緒にしましょうっ」
「信用できません。さあ由里ちゃん、隣の牢にでも入りましょうか」
「はーい」
霞が由里の肩を押していく。牢は他に誰もいないので、克彦にさえ気を付ければ、安心である。
「鍵は掛かっていないわね」
霞は隣の牢の扉を開けた。誰もいないのだから、鍵を掛けないのも当然だが。
とにかく、二人は中に入った。
「く、くそっ……見えん……」
克彦は悔しげに歯を食いしばる。何とか隣の様子を見たいところだが、鉄格子が邪魔で無理だった。
「克彦く〜ん、想像するだけなら許すわよ〜ん」
霞のからかう声が聞こえた。
「そんなせこいことしませんっ」
想像ではなく、実際に目にしたいのである。しかし衣擦れの音は、なかなか本能を刺激してくれる。
「うう……俺が先に出てさえいれば……」
悔やみながら、克彦は鉄格子にしがみついていた。
「あら、克彦くん。着替えもしないで、まだそんなことやってるの?」
二人が隣の牢から出てきたときも、克彦はまだ同じ格好でいた。
「急ぐんだから、早く着替えなさい。私たちはここで見学していてあげるから」
霞は牢の前にしゃがみこんだ。
「な、何?」
「あ、あたしはあっち見てるから」
とそっぽを向く由里。
「いいじゃない。一緒に見ましょうよ、由里ちゃん」
「い、嫌よ」
霞にしがみつかれ、由里はもがく。
「おい……セクハラだぞ、お前ら……」
「あら、やあね。克彦くんがいつもやろうとしてることじゃない」
「か、霞先生……急ぐんでしょ。からかってる暇はないと思いますけど」
と由里が言う。
「……そうね。残念だけど……」
霞は牢の鍵を開けた。
「早くしてね、克彦くん。あなたの着替えが済み次第、ここを出るわよ」
「わかったけど……急に真面目なこと言われても、対応できないんだが……」
「まあまあ、気にしない。とにかく、急ぐのよ」
「へーい……」
そして、克彦はすぐに着替えを済ませ、牢から出てきたのだった。
ともかく、これで三人の着替えが終わった。
「色違いだけど、みんな同じデザインなのがちょっとやだな……」
と由里が不満そうに呟く。上着は白で、襟と袖口に赤のラインが引いてある。帯も赤で、ズボンは紺だ。
「まあ、この際贅沢は言わないことね。動きやすいし、私は気に入ったけど」
霞は薄紫の上着に黒のライン。ズボンも黒である。
「真村、いい解決方法がある。俺とペアルックだと思えばいいじゃないか」
と呑気に言う克彦。彼は黄緑に白のライン、茶色のズボンだった。
「……それだけは思いたくないわ」
由里は疲れたように首を振った。
「それより霞先生、制服はどうしましょうか?」
「そうね……。鞄も行方不明だし、置いていくしかないわね。邪魔になるし」
「ああ、やっぱり……」
「何なら俺がもらってやってもいいが?」
克彦がにやける。
「だったら捨てた方がましよ。とにかくだいぶ時間を食ったわ。急ぎましょう」
由里が牢屋の出口に向かって歩き出す。
「ところで、俺たちはどこに行けばいいんだ?」
「適当に町に入って、まずは情報を集めましょう」
と霞が克彦の疑問に答えた。
「……地道な作業だなあ」
「仕方ないでしょ」
そう言いながら三人が出口を抜けようとすると、いきなり走ってきた衛兵に克彦がぶつかってしまった。
「ぐへっ」
と悲鳴を上げ、二人は倒れ込む。
「あ、お前ら、どうやって抜け出した?」
その後ろに五人程集まっていた。
一瞬彼らを倒そうかどうか迷ったが、すぐに援軍が来ると思い、霞は抵抗しないことにした。
「あらら……運が悪いわね……」
と、肩をすくめてみせる。
「あ〜あ……」
隣で由里がため息を付いた。
「まったく、様子を見に行こうと思わなかったら危なかったぜ……」
三人は牢屋に連れ戻されてしまった。しかも、今度は二人の見張りが付いている
「ったく、面倒かけやがって……」
と彼らはぶつぶつ言っている。
「でも、よく考えてみたらさあ」
と霞が言った。
「町に行って話を聞くより、ここのお姫様に聞いた方が確かじゃない? 戻されてよかったかも」
「……霞先生……」
「今更言わないでくださいよ……」
由里と克彦が冷たい目で睨んだ。
「あのねえ、私だっていきなりこんなところに来て戸惑ってるんだから、仕方ないでしょ。いくら私が色々できるからって、万能じゃないんだから」
「まあ、そりゃそうですけどね……」
「先生一人のせいにするつもりはありませんけど……」
「とにかく、お呼びが来るまで待つことにして、それまで休んでましょう」
霞は壁にもたれかかった。
「お腹すいてきたでしょうけど、体力は温存しといた方がいいからね」
「はーい……」
と由里もその隣に座った。
「ううっ……それにしても、おなかすいた……」
腹を押さえ、克彦が恨めしげに呟く。
本当はもらえるはずだったのだが、霞が衛兵を殴って気絶させたせいで、食事は抜きになってしまったのである。
「私のせいじゃないからね」
「これは霞先生のせいです……」
呟いた克彦の腹が、ぐうと鳴った。
第三章
あれは期末テストが終わり、後は夏休みを待つだけという、ある日の朝のことだった。 洋一はいつものように登校し、一番に教室に入ったつもりだった。
だが、その日は既に他の生徒が来ていた。
「お、おはよう、原田くん。早いね」
真村由里だった。二年で同じクラスになってから、いつの間にかよく話すようになっていた。ちなみにこの頃は名字で呼ばれていた。
「おはよう、真村さんこそ早いね」
洋一は鞄を置き、自分の席に付く。
「ん? どうかしたの?」
由里の強い視線に気付き、洋一は訊いてみた。
「え? え〜と、その……」
彼女は慌てて視線をそらす。何だか緊張しているようで、急に大きく深呼吸を始めた。
「ど、どうしたの?」
「あ、あはは、これも運命かなーっと思って」
「……はあ?」
「ねえ、屋上行かない? ホームルームまでまだ時間あるでしょ」
「うん。構わないけど……」
二人は教室を出て、階段を上った。
「今日は来るのが早いけど、どうしたの?」
と洋一は訊いてみた。
「ちょっとね……。あんまり寝付けなかったもんだから」
「それはよくないね」
「うん、でも大丈夫。今日はその分たっぷり寝るから。原田くんこそいつも早いよね」
「まあ、僕はぎりぎりで来るのが嫌だから」
「ふ〜ん……そうなんだ」
話していると、すぐに屋上に着いた。
「う〜ん、空気がおいしい」
由里は伸びをして深呼吸をした。
「今日もいい天気だし、暑くなりそうね」
「そうだね」
と洋一も空気を吸う。
そんな彼を、由里はじっと見つめた。
「……ねえ、原田くんてさ……優しいよね」
「え? そ、そうかな……」
「そうだよ。あたしのことよく助けてくれるし……」
と由里は微笑む。
「……例えば?」
「え、と……あたしが階段につまづいて転びそうになったとき、咄嗟に手をつかんでくれたし、男の子にしつこく言い寄られたときも追い払ってくれたし……他にも色々と」
「それは……」
と洋一は困ったように頭を掻く。
「偶然近くにいて、助けられる状況にあったから……」
「でも、そういう状況にいても無視する人は一杯いるよ。堀川くんなんて、自分に利益があるか計算してから動くもん」
「そ、そんなことは、あんまりないと思うけど……」
「……だって彼、まあ時々だけど、偶然を装って女子の体に触ろうとするし」
「……ひ、否定できないなあ……」
友達である洋一は、苦笑するしかなかった。
「だからね、原田くんは優しいんだよ。決定〜」
「いや、勝手に決定されても……」
「いいの。それに、原田くんていざというとき頼りになるし。一年のときのオリエンテーリングで、困っていたあたしの班を助けてくれたもんね」
「ああ、そういえば……」
と洋一はそのときのことを思い出す。
洋一が班長をやっていて、同じ班に克彦、将人もいた。順調に進んでいた洋一たちは、道に迷った上に腹をすかせたらしい由里の班を見付けたのである。向こうは気付いていないようなので、このまま通り過ぎることもできる。どうしようかと洋一は相談した。
「放っておけ。危険なようなら、救助隊が助けてくれる」
「いや、助けるべきだ。こういうときに助けると、女の子のポイント大幅アップだぜ」
二人の意見とは違ったが、洋一は助けようと判断した。困っている人を見過ごすのは、やはり気が引ける。そして近付いて声をかけると、道を教え、苦労して捕まえた兎の肉の残りを渡したのだ。
「何てお人好しな奴」
と将人はあきれたが、由里たちからは大変感謝された。ちなみに、女の子の気を引こうとした克彦は、相手がそれどころではなかったこともあり、あっさり失敗した。
だがこのとき。優しく微笑む洋一に、由里はときめいたのである。
「あたし、あのときに初めて原田くんのこと知ったんだ。それから少し気になって……二年で同じクラスになって、ラッキーって思っちゃった」
「え? ……あ、ああ、そうなんだ」
洋一は納得したように頷いた。
「……もう、勝手に納得して終わらないでよ。鈍いわね」
由里は彼の手を取り、見上げた。
「お、思い切って言うけど……あたしは、原田くんが好きなの」
「えっ……」
洋一は目を丸くした。
「……今、何て?」
「原田くんが好き。だからあたしと付き合ってほしいの」
洋一は信じられなかった。
だから思わず訊いてしまった。
「……あの、本気で言ってるよね?」
「あ、当たり前じゃない。これ言おうかどうか悩んでたせいで、寝不足になっちゃったんだから」
由里の声は震えていた。
一瞬、からかわれているのかとも思ったが、こんな嘘が付ける程、彼女は器用ではないだろう。
それでも、洋一はいまいち信じられない。
「真村さん、もてるのに……」
「関係ないよ。あたしが好きなのは原田くんだけ。何度も言わせないで」
「……そっか。そうなんだ……」
洋一は嬉しくなってきた。
「原田くん、返事……聞かせてくれる?」
「うん。僕もね……真村さんのことは好きだよ。明るいし、かわいいし、女の人では一番かな。でも正直、付き合いたいとかは考えてなかったな」
「えっ?」
「いや、好きなことは好きなんだけど、付き合うのは面倒かなって思って……」
「面倒って……そんなの変だよ。好きなら付き合いたいって思わない?」
「それは人それぞれだと思うけど……。でも、君のこと好きなのは、本当だから。せっかく両思いなんだし、付き合ってみようか」
「う、嬉しい……んだけど、何かすっきりしないな……」
由里は複雑そうな顔をする。
「あ、ごめんごめん。付き合ってるうちに、面倒なんて思わなくなると思うから」
「……原田くん」
彼女は洋一を見上げる。
「好きって言って」
「え?」
「言って」
「う、うん……。好きだよ、真村さん」
「名前で……呼んで。あたしも洋一くんて呼ぶから」
「て、照れくさいよ……」
「それはあたしも同じ……。ね?」
「うん……。ゆ、由里……ちゃん」
「ちゃん?」
「あ、はは……いきなり呼び捨てにするのも抵抗あるし……」
「じゃあ、それでいいよ。洋一くん……」
「由里ちゃん……好きだよ」
「あたしも……大好き」
由里は目をつむり、かすかに唇を上げた。
「ちょっ、ちょっとっ」
洋一は焦った。
「そ、それは、いきなりすぎるんじゃ……」
「いいじゃない。今日は勇気出したし……ご褒美」
「……う、うん……」
洋一は思い切って、震える彼女の唇に、自分の唇を近付けた。
(あれ……?)
この辺から違和感があった。
(あの日、由里ちゃんとキスなんてしたっけ……?)
それ以前に、彼女とはまだキスをしていないはずである。ということは。
(そうか。これは夢か……)
残念だが、仕方がない。しかしせっかくこういう夢を見ているのだから、キスしないと損だ。洋一は由里と唇を重ねた。柔らかく、温かい感触が、唇を通して体の芯を熱くさせた。
(……え?)
ふと、我に返る。夢でそんな感触があるのだろうか。
洋一は唐突に目が覚めた。そして視界に入った長い黒髪に、愕然とする。相手の少女と目が合った。
「う……うわっ」
首を振って唇を離すと、彼女も慌てて体を起き上がらせた。そしてそのままふらふらと後ろに下がり、ぺたんと尻餅を付く。
「な、何で……どうして……」
上半身を起こして周りを見ると、自分がベッドにいることがわかった。見知らぬ部屋の中である。しかも何故か今、全然知らない少女と、本当にキスをしていたのだ。小柄で華奢な、清純そうなかわいい子である。その綺麗な黒い瞳には、涙が浮かんでいた。
「き、君は誰……?」
何となく罪悪感を感じながら、洋一は少女に訊ねた。
「ひどい……」
しばらく間があってから、ぽつり、と少女は言った。
「え?」
「あんまりです……いきなりキスするなんて……」
「ぼ、僕がやったの?」
「言い逃れする気ですか?」
と少女が睨む。
「そ、そんなつもりはないけど……ごめん」
洋一は頭を下げた。
「……も、もういいです」
少女は立ち上がり、自分の唇に指で触れた。
「あ〜あ……私、キスするの初めてだったのに……」
「僕だってそうだよ……」
「え?」
と少女は洋一を見る。
「あの……いくつか訊いていいかい?」
「あ……はい、どうぞ」
「ありがとう。まずは……僕はどうやって君にキスしたのかな? 僕はこのベッドに寝ていたみたいだし……」
「それは……え、と、そうですね。ついでですから、最初から順に説明します。あなたはまだ寝ていてください」
少女は、ベッドの脇に椅子を置き、そこに座った。
「う、うん」
と洋一は布団に入り、横になる。そしてふと気付いた。
「あれ? この服……」
確か制服を着ていたはずだが、ゆったりした感じの、水色の服になっている。
「あなたはお風呂で倒れていたんです。それで濡れたので、私が着替えさせました。着ていた服は後で乾かしてお返ししますから」
「あ、ありがとう……」
どうしてお風呂で倒れていたのかも疑問だが、着替えさせてもらったということは、裸を見られたということになる。こんなときだが、照れくさくなった。それは少女にも伝わったらしく、彼女は話題を変えてきた。
「あ、あの、名乗りましょうか。私はユンファ・ルーアといって、姫様の世話係をしている者です」
「ユ……ユンファ、さん? 外人さんですか? それに姫様って……?」
「……あなた、ここがどこだかわかってますか?」
ユンファが首を傾げて訊ねた。
「ど、どこでしょう?」
苦笑する洋一に、ユンファはため息を付いた。
「とんでもない人ですね。まあ、あなたのことは後で訊かせてもらうとして……。いいですか? ここは世界の中心と言われる程の最大の国、リファインのお城の一室なんですよ」
「リ、リファイン……の、お城の一室……?」
洋一は顔を引きつらせた。
「う、嘘でしょ……」
「嘘を付いてどうするんです。……あ、もしかしてあなた、記憶喪失なんですか?」
「い、いや、記憶はあるんだ。たしか……」
頭を押さえ、状況を思い出してみる。
「たしか……」
文化祭の劇の練習が終わり、由里たちと帰る途中だった。突然目の前に黒いもやが現れ、それに飲み込まれてしまったのだ。
「……だめだ……」
洋一は愕然とする。
「あの後が思い出せない……。僕はどうしてお城なんかにいるんだ……」
「……だ、大丈夫ですよ。私たちはあなたに害を与えるつもりはありませんから。思い出すまで、ゆっくりしていてください」
「あ、ああ……」
「そういえば……」
とユンファは思い出す。
「あなたの着ていた服……あれと同じ格好をしていた人たちがいましたけど、お知り合いですか?」
「えっ?」
洋一は思わず飛び起きた。
「そ、それって何人いた? 間違いない、僕の友達だ。どこにいる?」
「あ、あの……」
手を握って迫られ、ユンファは戸惑った。
「まあまあ、そんなに興奮しないで、落ち着いてくださいな」
ドアが開けられ、水色の髪の少女が入ってきた。その後ろには、ポニーテールの赤い髪の少女もいる。フレアとアクアだった。どちらかといえば地味な服装で、フレアはスカートを、アクアはズボンをはいている。
「姫様」
ユンファが振り返る。
「ご苦労様、ユンファちゃん」
フレアが微笑む。
「いえ、そんな」
照れるユンファ。
「ふ〜ん、ちゃんと着替えさせたわけだ」
とアクアがからかうように言う。
「えっ……」
「いやあ、偉い偉い」
彼女は真っ直ぐにベッドへ近付き、その上に腰を下ろした。そして洋一に顔を近付ける。
「あ、あの……」
「あたしの名はアクア・ラーゲル。あんたは?」
「は、原田洋一です」
「……ハラダ・ヨウイチ?」
アクアは怪訝そうに眉を寄せた。
「一体どこの国の名だ?」
「い、いや、その……」
「まあまあ、アクアちゃん。そのことについては、これからゆっくり話し合いましょう」
フレアが洋一の方へ歩み寄る。
「ユンファちゃん、椅子を用意してくれる?」
「はい」
ユンファは壁にあるふたつの椅子を、ベッドに脇に置いた。
「ありがとう」
と言って、フレアは腰かける。
「ユンファちゃんも座っていいわよ」
「はい」
「あたしはここでいい」
とアクアはベッドから動こうとしない。
「わがままね。まあ、とにかく自己紹介しましょう。私はフレア・ユース。アクアちゃんの従兄弟で、リファイン国の姫をしています」
「原田洋一です。……え〜と、洋一って呼んでくれればいいです」
「そうですか。では私もフレアと呼んでください」
「は、はい」
優しそうな人だな、と洋一は思った。
「じゃあ、そろそろお互い情報交換といきましょうか。まずは洋一のことから話してくれます?」
「お風呂で倒れていた理由もちゃんと話すんだぞ」
とアクアが言う。
「わ、わかってます」
洋一は頷き、事のいきさつを話し始めた。
「あの、信じられないかもしれませんが」
「構いませんよ。正直に言ってください」
「は、はい。僕は日本という国の学校に通っていて、そして友達と話しながら、家に帰ろうとしたんです。そのとき、突然黒いもやが現れ、吸い込まれたんです。見えたのは僕だけみたいでした。……それからは何も覚えていなくて、気が付いたらこのベッドの上……というわけです。たぶん……フレアさんたちから見れば、僕は異世界の人間ということになると思います」
「そうですか……」
「な、何なんだ、その黒いもやっていうのは?」
アクアが訊ねる。
「さあ……僕にもわからないです。ただ、声が聞こえて……」
「声……?」
「ええ。たしか、ラグナニードと名乗っていましたが……」
「ラ、ラグナニード?」
フレアたちの顔色が、洋一が驚くほどに急変した。
「洋一さん、本当にラグナニードの声が聞こえたんですか?」
「は、はい。間違いないと思います」
「どう思う、フレア?」
「……こちらのことを知らない洋一さんが、ラグナニードのことを知っているはすがないわ。ということは……」
「も、もしかして、体を取り戻そうとしているんでしょうか?」
不安そうにユンファが言う。
「……おそらくそうでしょうね。結界が封じているのは肉体のみ。精神が動き回っているのかも……」
「あ、あの」
急に深刻な雰囲気になった彼女たちに、洋一は声をかけにくそうに言った。
「どういうことなのか、説明してくれませんか?」
「ああ……そうですね。少し長くなりますが……」
フレアは複雑な表情をする。彼女の話は、この世界の創造から始まった。
「これは昔から言い伝えられていることですから、少し事実と違うかもしれませんが……」
と前置きしてから、フレアは話した。
「この世界に、どこからか神と悪魔がやってきました。神の名はドルジェ。悪魔の名はラグナニードといいます。二人はこの世界を創造する権利を巡って戦いました。そして勝利したのはドルジェでした。敗れて力を失ったラグナニードは、地底に封じられ、さらに四体の魔人によって結界が作られました。そしてドルジェは世界に変化を起こした後、どこかへ姿を消したといわれます。天上で見守っているのかもしれません。しかし、ラグナニードは死んだわけではなく、封じられて動けないだけなのです。……おそらく力が回復してきたので、結界を破ろうとしているのでしょう」
「そうですか……」
と洋一は頷いた。
「ラグナニードというのは、悪魔なんですね……」
「なあ、洋一。ラグナニードは他に何か言っていなかったのか?」
アクアが彼を見据えて訊ねる。
「いえ……。何か言っていたのかもしれませんが、そのとき僕は苦しくて……。ラグナニードと名乗ったところまでしか覚えていません」
「ったく、それくらい我慢して、しっかり聞いてろよ。あたしたちにとっては、重要な問題なんだぞ」
「すいません……」
「アクアちゃん、無理を言ってはいけないわ。ごめんなさいね、洋一さん」
「い、いえ」
と洋一は首を振る。
「でも、ラグナニードはどうして僕をこの世界に呼んだのでしょう? 僕なんかが何かできるとは思えませんし……」
「それはわかりませんが……とにかく、ラグナニードはあなたに興味を示したようですね。今後呼び掛けてくることがあったら、十分に注意して、彼に引き込まれないようにしてください」
「は、はい……。ところで、あの……僕の友達のことなんですが……」
「わかっています。後で食事をご馳走しますから、そのときに会わせましょう。それまで、もう少し休んでいてください」
フレアは立ち上がった。
「どうも、ありがとうございます」
洋一が礼を言うと、彼女は微笑んだ。
「いいんですよ。困ったときは助け合うものです。行きましょう、アクアちゃん」
「へいへい」
とアクアが面倒そうにベッドから降りる。
「それからユンファちゃんは、洋一さんに付いていてあげて。しばらくはここにいることになるのですから、この世界のことを色々教えてあげてください」
「はい、わかりました」
とユンファは頭を下げる。
「では、後でまた」
フレアはドアを開け、外に出た。そしてその後に続くアクアが、去り際に言う。
「ユンファに手を出すなよ」
「し、しませんよ、そんなこと」
先程のキスを思い出し、洋一は赤くなった。
「こんな冗談で、何赤くなってんだか……」
やれやれ、というふうに肩をすくめ、アクアは出て行った。
「アクアさんも冗談きついな……」
苦笑いし、洋一がユンファを見ると、彼女は恥ずかしそうに目をそむけた。
(うっ……何か気まずい……)
ユンファもキスのことを思い出したのだろう。部屋がしんとなり、何だか緊張してくる。
「え……え〜と、ユンファさん。この世界のこと、話してくれます?」
「は、はい。じゃあ、洋一さんは横になっていてください」
ユンファは洋一の体を押さえて寝かせると、布団をかぶせた。
「すいませんね」
「いいんですよ。それより何から話しましょうか。フレア様のお話しで、何か気になったことはありますか?」
「じゃあ、質問するけど」
と洋一は、いくつかの疑問を言った。
「この世界に神と悪魔がやってきたとき、既に人間はいたの? あと、ドルジェが世界に起こした変化っていうのは?」
「ああ、はい。じゃあ順番に」
とユンファは答える。
「まず、人間は先にいました。神と悪魔が来たのは、千年程前だと言われています」
「千年前? 割と最近なんだ……記録とか残ってないの?」
「ありません。必要ないですから」
「どうして?」
「これは昔から言い伝えられていることですし。それにいたという証拠ならありますから」
「証拠? 僕みたいに、声が聞こえるとか?」
「いいえ。声は聞こえませんが、色々ありますよ」
「例えば?」
「ドルジェが起こしたという、世界の変化です。こんな不思議なこと、神の力でなければ説明がつきませんよ」
「そ、そうなの?」
「はい、説明しますね。まずひとつ、魔人の管理者というものが生まれました。魔人のキィを預かるのが役目で、その中に魔人を収納できたり必要なときにそこから出して、自由に動かすことができるんです。でもキィがどういうものかは管理者しか知らないことですから、どうやってその中に魔人をしまうのかなんて、私にはわかりませんがけど。管理者は生まれつき定められているもので、特徴として、髪と瞳の色が、それぞれ赤、青、黄、緑と、各担当の魔人と同じなのです。ですが、資格があるのは善の心を持つ者のみ。悪の心を持つ者は自然に管理者の能力や特徴を失い、他の資格を持つ者に譲られるのです」
「あれ? ということは、もしかしてフレアさんとアクアさんって……」
フレアは水色だが、青には違いないし、アクアは完全に赤だった。
「はい、姫様たちは管理者です。他には王のラーディー・ラーゲル様と、隣の国ティフラムの王子、ハイディル・マドローク様がそうです」
「……管理者って、王族だけなわけ?」
「いいえ、今回はたまたま王族に集中しただけですよ。こういうことは今までなかったらしいんですけどね」
「へえ……」
「あと、もうひとつ。クラウズフォールと呼ばれる現象が起こるようになりました。年に一度、クラウズという、綿毛の付いた種が空から降るようになり、食べると誰でも、一定エネルギー量の不思議な術が使えるようになるんです。五種類あって色々便利ですし、種が降るときは空が真っ白になって、すごく綺麗なんですよ」
ユンファは思い出すように言った。
「クラウズフォール、か……」
たんぽぽの種みたいなのが降るのかな、と洋一は思った。そして青空の下で降る雪を想像する。
「本当に綺麗そうだね。見てみたいな」
「クラウズフォールが始まるのは、あと丁度一か月後です。しばらくいるのなら、きっと見れますよ」
「うん……そうだけど、帰る方法はないのかな……」
洋一はうつむいた。ここもそんなに悪いところではなさそうだが、やはり自分のいる世界が恋しい。
「……今まで異世界の人間が来たという例はありませんから、正直わかりませんけど……」 ユンファは精一杯慰めた。
「きっと何か方法はあります。いざとなったら、ラグナニードに責任を取ってもらいましょう」
「悪魔に責任って……ユンファちゃん」
洋一は苦笑する。そして気付いた。
「あ、慣れなれしくユンファちゃんって呼んじゃったけど……フレアさんの呼び方が移ったかな?」
「別に構いませんよ。私もあの呼ばれ方、結構好きなんです。フレア様のことも尊敬してますし」
「そうだね……。アクアさんの方は?」
「アクア様は……」
ユンファは困ったような顔をする。
「悪い人じゃないのはわかるんですが、私のことをすぐからかうんです……」
「きっと、かわいがられてるんだよ」
「……だといいんですけど。でもアクア様も人気があって、ファンクラブまであるくらいなんですよ。もちろんフレア様にも」
「ファンクラブ? い、いいのかな、そんなことで……」
「いいと思いますよ。昔は戦争もあったそうですが、今はこの国が統一して、平和そのものですし」
「な、なるほどね。平和か……」
平和なのはいいことだ。だが、ラグナニードが復活すれば、おそらく大変なことになるのだろう。
(あの黒いもやがラグナニードだとして……)
対抗できるのだろうか。あの圧倒的な力に。 情けないが、自信は全くなかった。
第四章
「洋一さん、起きてください」
ユンファに体を揺すられ、洋一は目が覚めた。
「あれ……? いつの間にか眠っちゃったのか……」
顔だけ向けて、目をこすりながら訊ねる。
「僕はどのくらい寝てたの?」
「一時間くらいですよ。それより、食事の用意ができました。お友達も待っていますよ」「そうかっ」
状況を思い出し、洋一はベッドから身を起こした。
「早く会いたいよ。どこにいるの?」
「そう慌てないで。私に付いてきてください」
「あ、うん」
ユンファがドアの外に出る。洋一は後に続いた。
「こっちです」
と彼女が左の廊下を進む。廊下は天井も高く、幅も広い。周りは綺麗な白い壁が続いており、たくさんのドアが付いている。
「へえ……すごいな。さすがはお城というだけあるね。迷いそうだよ」
「うふふ、実は私も最初にここへ来たとき、広すぎて迷ったんですよ」
「へえ……そうなんだ」
そんな会話をしながら、階段を降りた。途中にある窓から夕日が見える。
「えっ……?」
洋一は思わず立ち止まった。
「どうしたんです?」
「今……夕方なんだよね」
「はい。そうですが」
「僕の腕時計は今七時で、夜のはずなんだけど……こことは時間の差が違うのかな?」
「異世界なんですから、きっとそうなんですよ。それより、その腕にはめているもの、時計ですか? 随分小さいんですね」
「これかい? じゃあ、ここの時計はもっと大きいんだ」
「はい。でも、それくらい小さいと便利ですよね。いちいち見にいかなくても済みますし」「そうだね」
一瞬プレゼントしようかとも思ったが、それはやめておくことにした。いずれ電池が切れれば使えなくなるし、それに違う文化のものを渡すのはまずいと考えたからだ。
そして二人は階段を降りる。やがておいしそうな匂いがしてきて、ユンファは他より大きなドアの前で立ち止まった。
「ここです。ここにみんないますよ」
「そうか……」
少し緊張してきた。最初に何を言おうか。
「開けますよ」
「う、うん」
ユンファがドアをノックした。
「失礼します」
ドアを開けると、広い空間があった。中央に大きなテーブルがあり、様々な料理が並べられている。その席に付いていたのは、フレアにアクア。そして……。
「由里ちゃんっ」
洋一が笑顔で彼女の側へ走る。
「よ、洋一くん……」
じわっと涙を浮かべて、由里が立ち上がった。
「よかった……無事で」
と洋一が彼女の肩に手を置く。
「洋一くんこそ……」
由里は鼻をすすり、体を震わせながら、静かに彼の胸に飛び込んだ。
「あたし……すごく、すごく心配したんだから。いきなり倒れて闇に吸い込まれたと思ったら、近くにいなくて……」
「ごめん……もう大丈夫だから」
洋一はハンカチを取り出し、彼女の涙を拭った。
「あ〜あ、お前ら人前でよくやるな」
半分羨ましそうに、克彦が言った。
「まあ、いいじゃない。せっかく再会できたんだし。とにかくよかったわ」
霞が安心したように微笑む。
「先生……克彦も無事だったんですね」
由里を腕に抱きながら、洋一は二人に目をやる。
「まあね」
「お前こそ、あんまり心配させるなよ」
「ああ、ごめん。ところで将人は?」
「彼は来ていないわよ。向こうに残っていると思うわ」
「そうですか……」
一緒にバイトの面接に行く約束は、守れなくなってしまった。もっとも、将人も現場を見たのなら、面接などに行ったりしないだろうが。
「みなさん、挨拶はそのくらいにしませんか? 料理が冷めてしまいますよ」
「そうだそうだ、早く席に付け」
フレアとアクアが言った。
「ああ、すいません。座ろう、由里ちゃん」
「うん……」
洋一たちは席に付いた。テーブルの反対側にはフレアとアクアがいる。
「ユンファちゃんも一緒に食べましょう。隣に座って」
「は、はい。失礼します」
フレアが手招きするので、ユンファは彼女の隣の席に座った。
「……あの、気に障ったら謝りますけど……」
と洋一がためらいがちに言った。
「ユンファちゃん……もとい、ユンファさんって、ただのお世話係で、身分も高い方じゃないですよね。それなのにお姫様と同じ席に座れるんですか?」
「ま、確かにそれは疑問だな」
と克彦。
「いいんだよ、細かいことは」
アクアが腕を組み、不機嫌そうな顔をする。
「お前らの世界じゃどうか知らないけど、ここでは身分にこだわらないの」
「まあ、そういうことです」
フレアがにっこり笑う。
「そうですか……。ごめんね、ユンファちゃん」
「いいんですよ」
頭を下げる洋一に、ユンファは笑顔を向けた。
「それより、気にかけてくださってありがとうございます」
「えっ……? いや、礼を言われることじゃないと思うけど……」
「ね、ねえ、ちょっと」
隣にいる由里が、洋一を肘でつついた。
「な、何?」
「あの子と随分仲良さそうじゃない」
「え? そんなことないよ。僕が気を失っていたとき、世話してくれたぐらいで」
「ふ〜ん……」
「もう、由里ちゃんてば、嫉妬深いんだから」
霞が彼女の首を両手でつかみ、強引に正面を向かせた。
「い、いたたっ」
「おい、もう食べるぞ。じゃれあうのは後にしろよ」
待ちくたびれたように、アクアが手にしたグラスを揺らしている。
「ああ、すいません」
「うふふ……面白い人たちね。さあ、乾杯しましょう」
フレアがグラスを掲げる。中には透明の液体が入っており、さわやかな果実の香りが鼻孔を刺激する。
「これはアムセ・カリィという果実酒です。おししいだけじゃなく美容にもいいし、疲れもとってくれるんですよ」
「あの……お酒なんですか? 僕飲めないんですけど……」
洋一が困った顔をする。
「大丈夫です、アルコールは薄めてありますから。子供でも飲めますよ」
「洋一くん、甘酒くらい飲めるでしょ? あれと同じよ」
「ま、まあ甘酒なら好きですから……」
霞の言葉に、洋一は頷きつつグラスを持った。
「じゃ、いくぞ。かんぱーい」
アクアが音頭を取る。届かないので、皆でグラスを合わせるようにして口を付けた。
洋一は一口飲んで、おいしいと思った。果実の素直な甘さと酸っぱさがあり、喉越しもすっきりしていて口当たりも良い。酒という感じはしなかった。
「……何か、レモンジュースみたいね」
由里はそんな感想を持った。もっとも、今まで飲んだものと比べても、ずっとおいしいが。
「う〜ん……。おいしいにはおいしいんだけど……」
と霞が呟いた。
「本当にアルコール少ないわね。これじゃ酔えないわ」
「酔ってどうするんですか」
「……まあ、そうなんだけど」
「おかわり」
一気に飲み干した克彦が、グラスを差し出した。
「この瓶に入ってるんですよね。ついでいいですか?」
「い、いいですけど……あまりたくさん飲まない方がいいですよ」
とユンファが注意するが、アクアは面白そうに笑みを浮かべた。
「よし、飲め飲め。あたしがついでやるぞ」
「あ、どーも」
克彦のグラスはすぐに一杯になる。
(アムセ・カリィは飲み過ぎると、精が尽き過ぎちゃうんだよね〜)
どういう反応をするか楽しみだ。
克彦は二杯目を飲んだ。
「いやあ、こりゃうまいわ」
「トイレに行きたくなったら遠慮するなよ。案内してやるから」
「……はあ?」
と彼は首を傾げる。反応が出るのはもう少し先だろう。
「ま、いいからもう一杯」
とアクアはさらにアムセ・カリィをつぐ。
「アクア様ったら……」
とユンファがあきれる。
「みなさん、料理もどんどん食べてくださいね」
フレアが微笑む。
「はい。それで……あの、これは何ですか?」
と洋一が目の前の皿を指差す。そこには黒々としていて、粘液質のある液体を煮詰めたものの中に、小指ほどの大きさの芋虫のようなものがたくさん入っていた。
「芋虫に見えるんですけど……」
「そうですよ」
とフレアは平然と答える。
「ええっ」
洋一と由里は驚愕した。さらに、スープを飲んでいた克彦が、思わず口の中のものを皿に出してしまう。
「……戻すなよ、汚い……」
アクアが顔をしかめる。
「ま、まさかこのスープにも虫が?」
「入ってないよ」
「これはアベベという虫の幼虫です」
とフレアが解説する。
「食べられるのは幼虫のうちだけで、成虫は体長二十センチ程になり、硬い殻を覆うようになるんです。結構珍味なんですけど」
「ふ〜ん、じゃあ試しに」
霞がフォークでアベベを刺した。
「せ、先生、食べるんですか?」
と洋一が顔を引きつらせる。
「別に平気よ。修行の旅に出たとき、虫だって食べたんだから」
そう言いながら、アベベを口に入れる。
ごくっと唾を飲み込み、洋一と由里は彼女の反応をうかがった。
「ど、どうですか?」
「うん、柔らかくておいしいわよ。味は肉団子みたいな感じかな。二人も食べたら? 食わず嫌いはよくないわよ」
「そ、そんなこと言われても……ねえ、洋一くん」
「う、うん……虫は嫌いだし……」
「じゃあ克彦くんは? 特別に食べさせてあげるわよ」
「い、いや、せっかくだけど遠慮します」
克彦は、思い切り首を横に振った。
「……何だ、つまんない。力づくで食べさせちゃおうかな」
「そ、それは勘弁してください」
と顔を引きつらせたその後。
彼は、突然「うっ」と呻いた。
「何? どうしたの?」
「い、いや……ちょっと……」
人には言えない。特に女性には。
「何だ、意外に早かったな」
とアクアが言った。
「どういうこと?」
「別に」
訊ねる由里にそう答えて、彼女は立ち上がった。
「ほら、立ちなよ。約束通りトイレに連れてってやるぞ」
「え、遠慮します」
「我慢はよくないぞ」
アクアがにやける。
「……ううっ……」
仕方なく、克彦は立ち上がった。しかし。
「……ねえ、何で中腰なの?」
と由里が訊ねた。
「い、いや、それは、諸々の事情で……」
「いわゆる男の生理って奴よ」
焦る克彦の代わりに、霞が一言で答えた。
「そうよね、克彦くん?」
「そ、そうですよ。訊かないでください」
見透かされているのが、さらに恥ずかしさを誘った。
「ほーら、いこうか。中腰男くん」
「変な呼び方しないでくださいっ」
克彦はアクアに連れられ、ドアから出ていった。
「……おしっこかな? アムセ・カリィ三杯も飲んでたから」
由里が首を傾げる。
「そ、そうかもね」
と洋一は苦笑いをした。
食事を終えた洋一たちは、寝室に案内された。部屋はふたつ用意されており、日本に帰れる日まで使っていいそうだ。室内はランプが淡いオレンジ色の光を放っており、ゆらゆらと影が揺らめいている
「ふうっ……」
部屋に入るなり、洋一はベッドに倒れ込んだ。さすがに王の城だけあって、まるでホテルにいるようだ。ベッドは大きく、柔らかい。部屋も結構広い。
「何か、色々あって疲れたな……」
「ったく、あのお姫様にはまいったぜ」
隣のベッドに座り、克彦がぼやく。
「どうかしたのか?」
「どうもこうも……俺がトイレですることを見学させろって言うんだぜっ」
「……そ、それは大胆な……。で、見せたのか? 君のことだから、喜んで……」
「見せるわけないだろ、いくら何でも」
「そ、そりゃそうだな……」
苦笑して、洋一は天井を見上げた。ランプの光でオレンジ色になる、高い天井……。
「僕たち、帰れるのかな……」
「何弱きなこと言ってる」
突如克彦がベッドの上に立ち、洋一に向かってジャンプする。
「とうっ、フライングボディアターックっ」
「うわっ」
思わず防ごうとして出した洋一の足が、彼の急所にめり込んだ。
「うぐっ……」
克彦は股間を押えて崩れさる。
「あ……ごめん、大丈夫か?」
「だ、大丈夫じゃない……。せっかく元気づけてやろうとしたのに……」
「い、いや、本当にごめん」
「ようし、そう思ってるなら、協力しろ」
克彦は何とか立ち上がった。
「きょ、協力って……?」
「ふふふ……夜這いをかける」
「よ、夜這い?」
「そう。お姫様を襲うのはさすがにやばいから、目標は隣の二人だ。当然お前の相手は真村で、俺は霞先生。突然こんな異世界に来て不安だろうから、俺たちで寂しさを埋めてやろうじゃないか」
「……あ、あのなあ……」
洋一はあきれて頭を抱える。
「さあ、彼女たちの不安を取り除きにいこう」
克彦が手をつかんでドアに向かう。
「お、おいおい、本気なのか?」
「俺はいつだって本気さ」
そう言ってドアに手を伸ばそうとした瞬間。いきなりドアの方が先に開いた。
「な、何だ、自動ドアだったのか?」
「そんなわけないでしょ」
目の前には霞と由里が立っている。
「うっ……どうしてここに?」
「克彦くんこそ、どこへ行こうとしてたのかな? もしかして、夜這いかけようと思ってなかった?」
「ま、まさか。俺を見損なわないでくださいよ。はっはっはっ」
「ふ〜ん……でも喜んでいいわよ。私たちの方から夜這いに来てあげたから」
「えっ……」
呆然とする克彦を避けて、霞と由里は中に入りドアを閉める。
「よ、夜這いに来たということは……もしや」
克彦の頭の中に、様々な妄想が広がる。
「でも言っておくけど、お話しに来ただけだからね。変な期待しないように」
「だあっ」
肩透かしを食らい、彼は力尽きてこけた。
「洋一くん」
由里が嬉しそうに彼の隣に座り、腕を組む。
「どう、元気?」
と霞は頭を撫でる。
「は、はあ。まあそこそこ元気です」
「うん。とりあえず元気なのはいいことよ。ほら、克彦くんもいつまでもこけてないで」
「へ〜い」
「ねえ、洋一くん。この世界のことどう思う?」
と由里が訊ねる。
「どうって……悪いところじゃないと思うよ。フレアさんたちも親切にしてくれるし」
「そうよね……あたしもそう思うけど、やっぱり元の世界に帰りたいな……」
声と共に、表情が寂しげになる。
「由里ちゃん……」
「だから、そのためにも、何とかして戻る方法を見付けないと」
隣に座り、霞が言った。
「そ、そうですね……。でも、ラグナニードに呼ばれたということは、ラグナニードじゃないと戻せないんじゃ……」
「う〜ん……そいつと同等の力を持つ奴がいればいいんだけど……。ドルジェとかいう神様も、どこかへ行っちゃったらしいし」
「仮に帰れても、ラグナニードを何とかしないと、またここに連れて来られるんじゃない?」
と由里。
「それなのよね、問題は」
霞が唸る。
「洋一くん」
「はい?」
「ラグナニードはいずれ必ず、あなたに呼び掛けてくると思うの。だからそのときには、何とかして精神を支配されないうようにして」
「そ、そんなこと言われても……自信ないですよ。あのときだって、何の抵抗もできなかったんですから」
「そこを頑張ってよ。悪魔とはいえ、向こうは精神体。だからあなたの精神が勝てば、きっと何とかなるわ」
「そんな無茶な……」
「なあ、俺疑問に思うんだけどさ」
と克彦が言った。
「普通神とか悪魔とかってのは、精神体なんじゃないか? どうして肉体があるんだよ?」
「そ、そんなこと訊かれても……」
霞も洋一も困ってしまう。
「私、そういうのはよく知らないし……」
「僕も……」
「ったく、しょうがないな」
克彦は眼鏡を上げ、得意気に話した。
「俺の予想だと……ラグナニードは人間だな」
「人間? どうして」
「悪魔に肉体なんてないんだよ。だから、ラグナニードってのは犯罪者で、結界に閉じ込められるという罰を受けているんだ。結界や魔人てのも、どこかの高度な科学文明が作りだしたものに違いない」
「う〜ん……まあ、推理としては面白いけど……」
洋一は首を傾げた。
「ちょっと無理がないか?」
「無理なんてないっ。科学が発達すればそのくらい作れるっ」
「仮に作れるとして……その目的は? そんな大掛かりなもの作る必要なんてないだろう。この世界の人にも迷惑かけることになるし、それに精神だけで動いたり、魔法みたいのを使ったりできるなんて……信じられないな」
「だから、科学が発達すればだな……」
「はーい、きりがないから、それでおしまい」
ぱんぱん、と手を叩いて、霞が会話をやめさせた。
「克彦くんの推理がどうであれ、これからのことには関係ないわね。とりあえず、もう寝ましょう。私も眠くなってきたわ」
「そうね。じゃあ、おやすみ。洋一くん」
由里が立ち上がり、軽く手を振る。
「ああ、おやすみ」
洋一も手を振り返す。
「とりあえず、明日からはここのお手伝いでもしましょう。二人とも、おやすみ」
そう言って、霞は由里と部屋を出て行った。
「……手伝いか、仕方ないな。世話になるんだし……」
「うん。じゃあ、寝ようか」
克彦と洋一は布団に入った。ランプを消すと、部屋が真っ暗になり、何も見えなくなる。
「やれやれ、見たいテレビがあったんだけどな……」
「ぼやくなって」
やはり疲れていたのか、二人はほとんど会話を交わすことなく、眠りに付いた。
そうしてどれくらい時間が過ぎただろうか。 深い闇と静寂の中、遠くの方から何かが迫ってくるのがわかった。
息苦しさを感じて、洋一は目が覚めた。
(原田洋一……)
ラグナニードの声だった。
来た、と思ったが、金縛りにあったように体が動かない。
(迎えに来たぞ……)
野太い声が頭の中に響いた。
「……僕に、何をさせる気だ……」
洋一はわずかに、かすれたような声を出す。
(ふふふ……ここの姫に話を聞いただろう。私の目的は、封印された自分の体を取り戻すこと。そのためにお前の体を使わせてもらう)
「何故……僕を……」
(ようやく見付けたんだ、私と波長の合う人間を。もっとも、その際に用のない者まで連れて来てしまったが、おかげで寂しくはなかっただろう)
笑いを含んだ声が消え、全身に針を刺したような痛みが走った。じわじわと、体内に何かが入り込んでくる。もちろん、その正体はラグナニードだ。
「うぐっ……」
体がしびれる。嘔吐しそうで気持ちが悪い。抵抗しなくてはと思うが、力が全く入らなかった。
(無駄だ……)
痛みが芯にまで達した。その瞬間、全身を自分とは違うものが支配したのがわかった。 ふっと意識が遠くに浮き上がる。
「ふふふ……」
洋一が笑みを浮かべ、静かにベッドから起き上がった。だが、その体を操っているのはラグナニードだ。
(僕は……)
視点は自分のものなのに、体が別物になっているのがわかる。命令を受け付けなくなり、指先さえ動かすことができない。
(奪われたのか、体を……)
「そういうことだ」
とラグナニードが頭の中の洋一に向かって話す。
「原田洋一、やはりお前の体は私に合うようだな。他の者ならば、入り込んだ瞬間にショックで死んでしまうところだ」
(くそっ……)
やはりラグナニードには勝てなかった。最初から自信はなかったが、しかし悔しい。自分の体を他人に使われるのが、こんなに屈辱だとは思わなかった。
「安心しろ、用が済めばこの体は返してやる。そのためにお前の精神を残しているんだ」
「……おい、洋一……。何一人でぶつぶつ言ってるんだ……?」
隣のベッドで寝ていた克彦が、眠そうな目をこすりながら、上半身を起こした。
「何、ちょっと面白いことがあったものでな」
洋一は彼の方を見て、手の平を向けた。
(おい、まさかっ)
頭の中の洋一が叫ぶ。
「試してみるだけだ。手加減はする」
「よ、よくわからんが……その手は新しい芸でもやるのか?」
と克彦が首を傾げる。
「その通り、楽しんでくれ」
そう言うと、洋一の手から見えない何かが発せられた。激しい衝撃が克彦を襲う。
「ぐはっ」
体が吹き飛び、壁に打ち付けられた。口から血を吐き出し、床に倒れ込む。
(克彦っ)
洋一が絶叫した。彼の側に駆け寄りたかったが、体は動かなかった。
「そう騒ぐな、死んではいない」
とラグナニードは言う。
「とにかく、これで移動だけでなく攻撃もできることが確認できた。お前のおかげだ、感謝するよ」
(く、くそっ……)
見ていることしかできない自分がもどかしかった。
「さて、体も手に入ったことだ。行くか」
(ど、どこへ?)
「姫たちの部屋だ。まずはあの二人から、邪魔な魔人を操るキィを奪わせてもらう」
ラグナニードはドアを開けた。
(僕は……見ているだけしかできないのか……?)
洋一は力なく呟いた。
「ふふふ……せっかく同じ視点で見れるようにしてやったんだ。楽しんで見学していろ」
ラグナニードは、姫の部屋に向かって歩き出した。
第五章
何かがぶつかったような音が聞こえて、霞は目が覚めた。隣の部屋かららしい。
「何かしら……?」
気になって、霞は様子を見に行くことにした。ベッドから起き上がり、由里を起こさないよう静かにドアを開ける。
「……どこ行くんですか、霞先生?」
由里の声に、霞は焦って振り向く。
「あ、あら、起きてたの、由里ちゃん」
「まさかっ」
はっとした由里は飛び起き、霞に迫る。
「洋一くんに本当に夜這いかけようっていうんじゃ……」
「……違うってば」
霞はあきれたように首を振る。
「隣で何か物音がしたのが気になって、見にいこうと思っただけ」
「ふ〜ん……そういうことなら、あたしも行く。いいでしょ?」
「いいわよ」
そんなわけで、二人は廊下に出た。
「あ、洋一くん」
由里の声に、廊下を歩いていた彼は振り向いた。二人は走って側に寄る。
「どこ行くの?」
「もしかして、トイレ?」
「いや……」
と洋一は答えた。
「そう。あ、ところでさっき、あなたの部屋で大きな音がしたけど、何だったの?」
「音……? ああ、それなら……」
洋一は二人に手を向けた。
「え……? 何?」
由里は首を傾げる。
「よ、洋一くん……?」
霞の勘が、危険を告げていた。彼の様子が、いつもと違う。
洋一の手がわずかに動いた。霞は咄嗟に由里に飛び付き、押し倒す。しかし彼の放った衝撃波は、上になった霞を引き剥がした。
「きゃあっ」
悲鳴が静寂した廊下に響く。
「か、霞先生……?」
彼女は廊下に倒れ、腹を押さえて呻いている。
「な、何? 洋一くん、何をしたの……?」
由里は座ったまま震えている。
「何って……邪魔はされたくないからな」
洋一は今度は彼女に手を向けた。その表情には、いつもの優しさが感じられない。
「あっ……」
由里の頭の中に、あることが思い浮かんだ。
「まさか……ラグナニードが……」
「ほう、なかなか勘がいいな。ご褒美だ」
どん、という衝撃が彼女を襲い、壁に激突する。そのまま由里は気を失った。
「ふふ……なかなかいい調子だぞ、この体は」
彼は再び歩き出した。
(頼む……みんなを傷付けないでくれ……)
頭の中で、洋一がラグナニードに懇願する。
「そう心配するな。あの程度の怪我、クラウズの種を使えば、簡単に治る」
(そ、そういう問題じゃないっ……)
「あまりうるさくするな」
とラグナニードは低い声で言う。
「精神を閉じ込めて、二度と出られないようにするぞ」
(くっ……)
悔しいが、洋一はおとなしくするしかない。
「そうだ、それでいい」
笑みを浮かべ、彼は階段を上った。ここは二階で、姫の部屋は三階だと聞いている。部屋の場所まではわからないから、ひとつずつ探すしかない。それも面倒だと思っていたラグナニードだが、丁度視線の先に、他とは明らかに違う造りをしたドアがあることに気付いた。
長い廊下を進み、階段のすぐ前にある、一際大きなドア。取っ手をつかむと、鍵が掛けられていた。他の部屋には付いていないのだから、ここだけ厳重なのも怪しさを誘っている。
「ふっ……間違いないな」
ラグナニードは苦笑した。
「忍び込もうと思ったのだが……仕方ない」
壊すと物音で衛兵が駆け付けるだろうから、相手に入れてもらうことにした。
「お前が相手なら油断するだろうからな」
洋一に話しかけながら、ラグナニードは小さくノックをした。しばらくして、ドアに近付く気配がする。
「こんな夜中に誰……?」
眠そうなアクアの声だった。
「原田洋一です。少し話したいことがありまして」
「……悪いけど、明日にしてよ。あたし眠いんだから」
「でも、緊急なんですよ」
「……ったく、仕方ないな」
鍵が解除され、ドアが開く。
「ほら、早く入れ」
「どうも」
洋一は中に踏み入る。さすがに姫の部屋だけあって、ここには豪華な絨毯が敷かれていた。だが、それ以外はあまり他の部屋と変わらないようだ。
「何の用ですか?」
フレアがベッドに腰掛け、訊ねる。
「たいしたようではないんですけどね」
「だったら来るなよ」
とアクアが睨む。睡眠を邪魔されて、機嫌が悪いらしい。
「いえ、しかし緊急の用ではあるんですよ」
ちらり、と洋一はアクアの胸元を見た。首からネックレスが下げられている。その先に付いている、親指の先程の赤い玉を見て、小さく笑みを浮かべた。
「何だよ、早く用件言えよ」
「すぐ済みます」
洋一は笑みを消すと、アクアの胸元をつかみ上げた。そしてネックレスを一気に引き千切る。
「うわっ」
手を放され、アクアは尻餅を付く。
「何をするっ」
「ふふふ……」
洋一は彼女には目もくれず、赤い玉を見た。
「これだな、魔人が入っているキィは。随分小さいものだ」
「な、何故それを。キィがどういうものかは、管理者しか知らないはず……」
言いかけたフレアははっとした。
「まさか洋一さん、ラグナニードに……」
「ご名答。さすがはお姫様」
洋一は冷たい笑みを浮かべる。
「くっ」
「あのバカがっ」
フレアとアクアは、ベッドの脇に飛んで隠れた。
「さて、もうひとつのキィ、青い玉を頂きましょうか。そうすればおとなしく姿を消しますよ」
「誰が渡すかっ」
「あなたなどに渡しはしませんっ」
ベッドの脇から立ち上がったアクアとフレアの体は、それぞれ赤と緑に発光していた。
「ほう……クラウズの種を飲んだのか。確か赤は火の力、緑は風の力だったな」
「その通りっ」
「はあっ」
二人が向けた両の手から、赤い炎と強風が洋一に襲いかかる。だが、彼が手を横に払うと、目の前に見えない壁ができたかのように、炎と風を弾いた。
「そんなっ、全然通じてないのかっ?」
「ふふふ……こんなところで火を使うと火事になりますよ」
「くっ……」
アクアは唇を噛む。
「構わないわっ、キィを取られるよりはっ」
フレアが大声を出す。彼女の両手は、ばちばちと放電していた。風の力で雷を起こしたのだ。
「赤のキィと洋一さんの体を、返しなさいっ」
フレアは雷を洋一に向けた。激しい光に、部屋の中が眩しく輝く。
「うわっ」
思わずアクアは目をつむる。轟音が響いた。
「はあ……はあ……」
フレアの呼吸が荒くなる。エネルギーを一気に使い切ったせいで、彼女の体の発光は消えていた。
「ふふふ……見た目に比べて、随分強いお姫様だ」
絨毯が焦げて、嫌な臭いが漂う。シールドを張ったのか、洋一は怪我ひとつしていなかった。
「この騒ぎに気付いて、もうすぐ衛兵が集まってくる。まあ、とりあえず赤のキィは手に入ったことだし、ここはあなたに免じて、引くことにしましょう。と言っても、すぐにまた来ますが」
そう言うと、洋一の足元から黒いものが沸き出して渦を巻き、頭まで包んだ。そしてその瞬間、姿が消えてしまう。
「はあ……」
フレアが、がっくりと膝をついた。
「大変なことになったわね……」
「うん……」
アクアは静かに頷くだけだった。
その後、すぐにユンファと衛兵が駆け付けてきた。部屋の状況を見て、彼らは息を呑む。
「姫様、どうしたんです、大丈夫ですか?」
座り込んでいるフレアを、ユンファは心配そうに支える。
「私は大丈夫、少し疲れただけ……。ただ……」
その後を、まだ体が赤く発光しているアクアが続けた。
「洋一が……ラグナニードの奴に乗っ取られた」
「そ、そんなっ」
ユンファは愕然とする。
「それから……」
とアクアは悔しそうに拳を握り締めた。
「ラグナニードに、あたしのキィを奪われた……」
「えっ……ま、魔人のキィをですか?」
「そうだ。フレアのは無事だったけど、奴はすぐにまた来る……。くそっ」
「アクアちゃん、悔しがってばかりはいられないわ」
フレアが立ち上がった。
「ラグナニードがまた来る前に、対策を考えておかないと」
「あ、ああ、そうだけど、でも……」
あの力に、対抗することができるのだろうか。管理者がクラウズの種を飲むと、他の者が使うのに比べて、二倍の力を出すことができる。だが、それでも怪我ひとつ負わせることはできなかったのだ。
「とりあえず……」
とフレアは言った。
「ユンファちゃん、由里さんたちの様子を見に行ってくれますか。もし怪我をしているようなら治療して、それから広間に連れてきてください」
「は、はい」
ユンファは、由里たちのいる部屋へ向かって駆け出した。怪我していることを想定して、あらかじめクラウズの種を飲んでおくことにする。管理者でない普通の者は、種の効果を使えるようになるまで、飲んでから三分かかるのだ。ユンファは内ポケットから種を取り出し、その中の白い種を飲んだ。
彼女が階段を下りたのを見てから、フレアは言った。
「衛兵のみなさんには、城内の見張りをお願いします。何かあったら知らせてください」
「はいっ」
と衛兵たちは走りだし、持ち場に向かう。
「フレア……見張りなんて、無駄じゃないのか?」
「念の為です。さあ、私たちは広場で待っていましょう。……と、その前に、その赤い光は消しておいた方がいいわね」
「ん? ……ああ、そうか」
アクアはベッドの脇に行き、そこに置いておるクラウズの種が入った袋を取った。その中のひとつ、青い種を取り出して飲み込む。すると、赤い光が弱くなり、すぐに消えてしまった。クラウズの種は、違う種類のものを飲むと相殺されるのだ。
「じゃあ、行きましょう」
「うん」
二人は階段を下り、一階の広間へ向かった。
ユンファが二階の廊下に出ると、すぐに由里と霞が倒れているのがわかった。
「だ、大丈夫ですか?」
「ううっ……、な、何とか……」
霞が腹を押さえたまま、呻いた。何とか意識はあるようだ。由里の方は完全に気を失っている。
「でも……肋骨、折れてるみたい……。内臓もやばいかも……」
霞は脂汗をかいている。
「だ、大丈夫です、すぐに治療しますから」
そう言いながら、ユンファは早く体が発光するよう願った。こういうとき、管理者のようにすぐに使えたらと、もどかしく思う。
「あの……克彦さんは?」
「わからない……部屋にいると思うけど、たぶん彼も怪我してるでしょうね」
「そうですか……」
ユンファは由里の方を見た。彼女の怪我はたいしたことはない。克彦の具合を見に行こうかと迷ったとき、体が白く光った。
「あっ……よかった。霞さん、もう大丈夫ですよ」
ユンファは霞の体に両手を当てた。不思議なことに、痛みが引いて楽になる。
「へえ……便利なものね……」
「もう少し、動かないでください」
白い光が、霞の体内に送られる。やがて痛みが完全に消えた。
「ありがとう、助かったわ」
「いえ。それより、先に克彦さんの方を見てきます」
ユンファは部屋の中に入った。霞が後に続く。
「あっ……」
ベッドの横で、克彦が倒れていた。口からは血を吐いている。
「ユンファちゃん、早くっ」
「はいっ」
ユンファが彼の体に手を当てる。体の光が少し弱まるが、まだ大丈夫だ。何とか克彦を回復することができた。
「ん……?」
頭を掻きながら、克彦が起き上げる。
「おや、ユンファさんに霞先生……。どうしたんです?」
「どうしたって……覚えてないの?」
「いやあ、寝ぼけてて……。何か、洋一が面白い芸を見せてくれたような……」
「はあ?」
「と、とにかく、私は由里さんの治療をしてきます」
ユンファは部屋を出ていった。
「治療……? 真村の奴、どこか怪我したんですか?」
「もう……しっかりしなさいよ。あなただって怪我してたのよ」
「俺が……?」
「ほら、床にも血がこぼれてるし、口にも付いてる」
「え……?」
克彦は床の血を見ながら、口元を拭ってみた。手に乾いた血が付着する。
「……俺、血を吐いたのか……?」
「ええ、どうやらそこの壁に打ち付けられたみたいね。誰にやられたかは覚えてる?」
「……洋一、か……」
克彦の脳裏に、手から衝撃波のようなものを出した洋一の姿が思い浮かぶ。間違いなくあれに吹き飛ばされたのだが、洋一にあんなことができるはずがない。
「ということは、まさか……」
「ええ、ラグナニードに体を乗っ取られたみたいね」
「くそっ……」
と克彦が拳で自分の手を叩く。
「抵抗できなかったのかよっ……」
「それを言うのは酷かもね……。あいつの力は強いわ。私だって何もできずにやられたもの……」
「……霞先生でも、だめなのか……」
「悔しいけどね……」
二人はうつむいてしまう。
「あ、あの、霞さん、克彦さん、由里さんのこと見てくださいっ」
ユンファが慌てて部屋に駆け込んでくる。体の光は消えていた。
「意識は戻ったんですが、様子がおかしいんですっ」
「えっ……」
「あの子っ……」
霞が走る。その後に克彦も走った。
「洋一くん……」
由里は廊下に座って、小さく呟いていた。その瞳は焦点が合っていない。
「ちょっと、しっかりしなさいっ」
霞は両手で彼女の顔を挟み、強引に自分の方を向かせる。
「あ……霞先生……」
瞳に焦点が戻る。しかし代わりに涙があふれ、頬を伝ってこぼれた。
「由里ちゃん……あのときの洋一くんはね、ラグナニードに乗っ取られていたの。だから……」
「わかってる、元に戻すこともできるんでしょ……。でもね、あたし……洋一くんの顔、もうまともに見られない気がする……」
「……どうして?」
「だって……怖いんだもん。優しい洋一くんが、あんな冷たい顔をして、あたしを攻撃したのよ……。きっと……ううん、絶対そのこと思い出しちゃうよ。やっぱりまともに見れないよ……怖いよ……」
由里の涙は止まらなかった。
「由里ちゃん……」
「……何だよ、真村」
ふう、と息を吐き、克彦は言った。
「お前、洋一と別れるつもりか? 嫌いになったのか?」
「……嫌いになんか、なってないよ……。好きだけど、何か怖いの……」
「何だよ、怖いって? 付き合ってたら、色々あるに決まってるだろうが」
「……それは、そうだけど……」
由里はうつむく。
「お前ら、まだ喧嘩もしたことないだろ。ちょっと何かあったくらいで逃げるなよな」
「……そうね」
と霞が言う。
「彼を見て怖いことを思い出すなら、そうならないよう、たくさん彼の笑顔を見ればいいじゃない。彼の笑顔、好きなんでしょ?」
「そ、そりゃあ……」
「じゃあ、立ちなさい。あなたが呼び掛けて、彼の意識を取り戻すのよ」
「そうだそうだ。いつも洋一に助けてもらってるんだろ? たまにはお前が助けてやれよ」
「……二人とも、他人事だと思って、無茶ばっかり言うんだから……」
由里は袖で涙を拭うと、立ち上がった。そして笑顔を浮かべる。
「でも……ありがとう。今度はあたしが洋一くんを助けてみせる」
「由里ちゃん……」
霞はほっと息を付く。
「やれやれ、単純な奴」
克彦は肩をすくめた。
「あのねえ……。でも、ありがとう。堀川くんって、結構いいところあるんだ。元の世界に戻ったら、女子のみんなに宣伝してあげるよ」
「ふふふ……宣伝など必要ない。俺はもてるからな」
「無理しちゃって。顔がにやけてるわよ」
「ふっ……」
「あ、あの、とにかくよかったです」
ユンファが話しかけてきた。
「由里さんって、よっぽど洋一さんのことが好きなんですね」
「や、やあね。改めて言われると照れるじゃない」
「ついさっき泣いてた奴が、もう笑ってる……」
克彦はあきれた。
「いいじゃない」
霞がぽんと肩を叩く。
「とにかく元気になったことだし」
「まあね」
「みなさん、広間に来てください。何とかして洋一さんを助ける方法を考えましょう」
ユンファの言葉に、
「よし、やるか」
と克彦は気合いを入れた。
「みんなで日本に帰らないとね。将人くんも待ってることだし」
と霞は生徒二人の頭を撫でる。
「待っててね、洋一くん。きっとあなたを助けてみせるから」
由里は拳を握り締めた。
広間に着くと、フレアとアクア以外、誰もいなかった。
「さ、寂しいな……」
と克彦が呟く。
「いいから、こっちに来い」
アクアが手招きする。二人は窓から外を眺めていた。まだ深夜で、外は真っ暗だ。涼しい風が入ってくる。
「あの……他に誰かいないんですか?」
「いない。あたしたちだけだ」
「……そ、そうですか。まあ、この際それはいいとして……」
と克彦は言った。
「ここに来てからずっと疑問に思ってたんですけど、王様はどこにいるんですか? ラーディー・ラーゲルという管理者でもある王様は」
「旅行中だよ」
「りょ、旅行?」
「あらまあ」
と、霞も驚く。
「ふ〜ん、どうりで姿が見えないわけね。それで、いつ帰ってくるんですか?」
と由里。
「さあ」
アクアは首を振った。
「さあって……、ちょっと」
「いつ帰ってくるのかも知らなければ、どこへ行ったのかも知らないな」
「そ、それってかなり問題あるんじゃ……」
「大丈夫です」
振り返り、フレアが小さく微笑んだ。
「私たちがきちんと代わりを務めていますから」
「う、う〜ん……いいのかな……」
「とりあえず、その話は置いておきましょう。それより問題はラグナニードのことです」
「そ、そうね。何とかして洋一くんを助けないと」
「ええ、ですから、何か意見をください。体は洋一さんなんですから、弱点をつけば隙が生まれると思うんです」
「う〜ん……洋一の弱点ねえ……」
腕を組み、克彦は唸る。
「高い所や虫が嫌いなのは知ってるけど、弱点ってほどでもないしな……」
「洋一くんの弱点といえば、由里ちゃんに決まってるじゃない。彼も例に漏れず、好きな女の子にはすごく弱いわよ」
「や、やあね、霞先生ってば。そんな本当のことを……」
照れる由里。だが、フレアは悲しそうに首を振った。
「そういう弱点では無理でしょう。あなただって、彼に怪我をさせられたのではないんですか?」
「うっ……」
「まあ、確かにね……」
と霞は納得する。
「ふふふ……弱点ではないが、いい作戦を思い付いたぞ」
克彦が得意気に眼鏡を上げ、にやりと笑みを浮かべた。
「え?」
と他の四人が彼に注目する。
「名付けて、国民全員一斉攻撃作戦」
「あ……それ聞いただけで中身想像できた」
「か、霞先生、まだ説明していないのに、勝手に想像しないでください」
「そう言われても……」
わかりやすいネーミングなのが悪い。
「と、とにかく、作戦の内容はこうだ。まず、クラウズの種を国民全員に飲ませる。そしてラグナニードに向かって、一斉に攻撃を仕掛ける。一人ずつでは弱くても、大勢で掛かれば当然その力も強くなるはずだ」
「……なるほどね。いいんじゃない?」
と由里。
「おお、そうだろう、真村。いい作戦だろう。すごいだろう。俺って賢いだろう」
「そこまで褒めてないけど……」
「いいアイディアではありますけど、だめですね」
フレアはきっぱり言い切った。
「え、ええっ、どうしてですか?」
「ラグナニードが他へ移動してしまえばそれまででしょう? それに、国民のみなさんに危険な真似をさせるわけにはいきません」
「ううっ……た、確かに言われてみれば……」
克彦は納得するしかない。
「残念だったわね、克彦くん」
霞が頭を撫でる。
「……先生は何かないんですか?」
「ないわね」
「……そ、そうきっぱり言わなくても……」
「仕方ないでしょ」
「……やはり、ここは魔人を使うしかないようですね」
決心したように、フレアが言った。
「え……? 魔人って、結界を作っている魔人のこと?」
と首を傾げる由里。
「あれって、管理者のキィで動かせるんでしょう? もしかして、戦わせるつもり? そんなことできるの?」
「ええ。ですが力が強すぎるので、うまく操ることができるか少し不安なのですが……」
「それでも、互角に戦えるかわからない」
とアクアが言う。
「けどラグナニードだって、いくら洋一と相性がいいといっても、自分の体じゃないんだ。完全には力を使い切れないはずだ」
「……なるほどね」
「まあ、それが一番いいのかな」
「でも正直、私の魔人だけでは心細いんです」
フレアは困ったような笑いを浮かべる。
「同じ管理者である、叔父様とハイデイルくんが協力してくれると助かるんですが……。叔父様の行方はわかりませんし、ハイディルくんの方は今頃、おそらくキィを奪われているでしょう」
「ったく、何で肝心なときにいないんだよ……」
「仕方ないわよ、アクアちゃん。叔父様はこのことに気付いて、きっと駆け付けてくれる。そう信じましょう」
「……ったく……」
とアクアはため息を付く。
「あ、それから、これを」
フレアは、床に置いてあった小さな布袋を、霞に渡した。
「これは……?」
中を見てみると、何かの種がたくさん入っている。
「もしかして、クラウズの種?」
「そうです。ラグナニードと戦うことになったとき、少しでも抵抗できた方がいいでしょう。差し上げますから、三人で分けてください」
「……そうね。さっきみたいに、簡単にやられるのは癪だもの。ありがとう」
「いいんですよ。それより種の説明をしますね。気を付けて使わないと大変なことになりますから、よく聞いておいてください」
「わかったわ」
霞、由里、克彦は頷いた。
「では、まずは種の種類から。五種類あって、赤は火の力、青は水の力、緑は風の力、黄は大地の力がそれぞれ使えます。そして白い種は、病気や怪我を治す力があります。心の中でどういう風に使いたいのかを、よく念じてください。それがそのまま形になります」
「な、なるほど……」
「それは便利」
「それから、注意してほしいのですが」
とフレアは険しい顔付きになる。
「種を飲んだからといって、すぐに術が使えるわけではありません。種の成分が体に浸透するまでの時間に、三分必要です」
「さ、三分? それって、緊急時にはすごく困るんじゃ……」
克彦が顔をしかめる。
「ええ。もっとも、私たち管理者は特別で、すぐに使えるのですが……。あらかじめ、何を使うのかを決めて飲んでおくといいでしょう。飲んでから自然に効果が消えるまで、一時間の余裕がありますから」
「一時間か……。まあ、いつも飲んでいれば安心だけど……」
「数に限りはあるし、ラグナニードがいつ来るかもわからないしねえ……」
由里と霞が顔を見合わせる。
「いつも飲んでいる必要はありませんよ。あなたたちが戦うまでに、三分くらいの余裕は十分あるでしょう。それより注意がもうひとつあります。種は絶対に、ふたつ以上同時に飲まないでください。エネルギーに耐えられず、体の方が壊れてしまいます。効果が切れた後にふたつ目を飲むのなら構いませんが……。あと、違う種類のものを飲むと相殺されて、効果が消えます。説明は以上ですが、質問はありますか?」
「ないわよ。フレアさんて説明お上手」
霞がにっこり微笑む。
「ま、色々制約はあるが、便利な種というわけだ」
と克彦。
「そういうこと」
アクアが頷く。
「とりあえず、これで話し合いは終りだ。お前らも眠いだろう。部屋に戻ってゆっくり眠っていいぞ」
「そうですか? じゃあ、遠慮なく。行きましょう、由里ちゃん、克彦くん」
霞が二人の背中を押した。
「おやすみなさい」
と由里が軽く頭を下げる。
「おやすみなさい」
フレアは手を振った。
三人がドアを開けて出ていくのを見ると、アクアは体を伸ばし、壁にもたれかかった。
「ん〜……だめだ、あたしは完全に目が覚めた。あいつら、よく眠れるな」
時間は四時。朝にはまだ早い。
フレアは苦笑して言った。
「それじゃあ、アクアちゃん。一緒にお風呂でも入りましょうか」
「お、いいねえ。今日は異世界の人間が来たり、ラグナニードが復活しようとしてたりで、精神的に疲れたし。ユンファも入るか?」
「いいんですか?」
「もちろん、構わないわよ。行きましょう」
「はい」
三人は階段を下り、浴場に向かった。
第六章
リファインの隣にある国、ティフラム。リファインに次ぐ、世界で二番目の大国である。 リファインの城は町から離れているが、ここは町の中心に城が建てられている。
夜の闇の中、城の上空にさらに濃い闇が現れた。それは渦を巻き、人の形をとった。そして渦は足元から頭の方へ、一瞬で消えていく。現れたのは原田洋一だった。だが、その体を操っているのはラグナニードである。
「ふふふ……ここだな。管理者、ハイディル・マドロークがいるところは」
腕を組んで城を見下ろし、笑みを浮かべる。
(どうするつもりだ?)
頭の中で洋一が問い掛ける。
「もちろん、キィをもらいにいく。魔人はキィの中にいるからな。外に出して破壊しないと、結界も壊れることはない。お前はおとなしくしていろよ」
そう言うと、ラグナニードは城の方へ降下していく。
(ラグナニード……あんたは結界を壊して、何をするつもりなんだ?)
「ん?」
彼は空中で急停止した。
「何だ、いきなり?」
(答えてくれ)
「……そうだな。私はとりあえず、この世界の神になる。ここの神であるドルジェは、どこか別の世界に行っている。だから私が親切に代わってやろうというのだ」
(か、神に……?)
「そうだ。とりあえず最初にやるのは、クラウズフォールを消すことだな。あんなものは人間に必要ない」
(し、しかし……)
「何だ? お前もクラウズの種を使っていたいのか?」
「い、いや、そうじゃなくて……」
洋一は別のことが気になっていた。
(あんたは、悪魔なんじゃないのか? 神になるなんて、どうして……)
「違うっ」
ラグナニードは声を荒げた、
(えっ……)
「私だって神になれたのだっ。ドルジェとの勝負に負けなければなっ」
(ど、どういうことだ?)
「……私とドルジェは、元は神でも悪魔でもなかったということだ」
(……人間、なのか?)
克彦が予想したように、高度に発達した科学文明の世界から来たのだろうか。
「……さあな。話はここまでだ。そこまで答えてやる義理はない」
ラグナニードは再び降下を始めた。
(答えてくれっ、気になるじゃないかっ)
「黙ってろ。私はそんなにお人好しではない」
そう言い、彼は城内の庭に下りた。
「う、うわっ、何だっ?」
すぐ近くにいた衛兵が、驚きの声を上げる。ラグナニードが乗り移った洋一の体は、力も素早さも、常人のそれを遥かに越えていた。あっという間に彼に近付き、その首をつかみ上げる。
「があっ……」
「答えてもらおうか。ハイディル・マドロークの居場所を」
冷たい笑みを浮かべた洋一は、衛兵を地面に投げ捨てた。
「うぐっ」
「答えれば、これ以上手は出さない」
「く、くそっ、何者だ……」
喉を押さえて咳をしつつ、彼は立上がり、腰の剣を抜いた。
「やれやれ、大怪我をするぞ」
「くっ……」
衛兵は懐から小さな笛を取り出し、口にくわえようとした。仲間を呼ぶつもりだろう。だが、それより先に、洋一の手がその笛を奪っていた。
「手間を掛けさせないでほしいな」
にやりと笑い、洋一は笛を握りつぶした。
「あっ……」
衛兵は愕然とする。
「さあ、ハイディルの居場所を話してもらおうか」
彼に近付こうとする洋一だが、ふいに空気に熱を感じた。素早くそこから離れると、上から激しい炎が地面に降り注いでくる。
見ると、目の前の建物の屋根の上から、赤い光を体に纏った青年が見下ろしていた。
「ハイディル様っ」
衛兵が声を上げる。
「ハイディル……そうか」
緑色の髪と瞳は、管理者に間違いない。王子という身分にしてはラフな服装だが、腰に帯びている剣は、遠くから見ても立派なものだとわかる。
「眠れないから外の空気を吸おうと思ったのだが……まさか賊に出くわすとはな」
呟いて屋根から飛び下りると、青年は洋一を見据えた。
「貴様……この城に何の用だ。ここの財宝が欲しいのか」
「そんなものに興味はない。私が欲しいのは、管理者ハイディル・マドロークの持つ、魔人のキィだ」
「何っ……?」
ハイディルは眉をひそめる。
「キィを手に入れて、どうするつもりだ? あれは誰もが扱える代物ではないんだぞ。それに管理者以外が持っていることがわかれば、重い罰を食らう」
「私には必要なのだ。結界を消すためにはな」
「何だとっ……」
洋一の言葉に、思わずハイディルは声を上げた。
「貴様、自分が何を言っているのか、わかっているのか? 結界がなくなれば、封印された悪魔が蘇るんだぞっ」
「それこそが私の望みだ」
洋一は、彼に向かって駆け出した。
「ちぃっ」
仕方なくハイディルは剣を抜き、薙ぎ払う。確実に決まるはずの、力強い一閃だった。だが、洋一は剣が当たる前に両手を突き出し、そこから得意の衝撃波を出した。
「うおっ」
予想外の攻撃に、ハイディルはまともに腹に食らってしまった。吹き飛ばされて壁に激突する。剣も手から離れてしまう。
「ハイディル様っ」
衛兵が叫んだ。
「ぐっ……」
信じられないことだった。まさか、種も飲まずに術を使うとは。
「おっと」
倒れかける彼の顔に手を伸ばし、洋一は壁に押し付けた。そして視線を落とし、首筋で止まる。そこにはネックレスが下げられていた。
「やはりネックレスか。いつも身に付けているには、それが一番いいからな」
そう言ってネックレスを引き千切り、キィである緑の玉だけを手にした。
「これで残りはふたつだな」
「ふ、ふたつだと……?」
手を離されたハイディルが、腹を押さえながら問う。
「ふっ……」
洋一は笑みを浮かべ、赤い玉を彼に見せた。
「そ、それはっ……」
思わず彼は、取り戻そうと手を伸ばす。
しかし、洋一は闇を発生させ、それに包まれて姿を消した。
「アクアの……キィ……」
ハイディルは苦しげに呻いて膝をつく。
「ハイディル様……」
衛兵が彼を支えた。
「おい……父上に伝えておけ」
剣を拾って鞘にしまい、ハイディルは言った。
「え?」
「俺はリファインに行ったとな」
衛兵は驚いた。
「そんな、どうしてです、いきなり」
「どうやら、この世界にとって大変なことが起きているらしい。キィを奪われた責任もある。何とかしてそれを阻止しなくてはな」
そう言うと、ハイディルは青いクラウズの種を飲んだ。それで相殺され、体の赤い光が消える。それから今度は緑の種を飲み、体が発光したのを確認すると、風を起こして自分を包み込んだ。体が空中に持ち上がる。
「ハイディル様っ」
「じゃあな。きちんと伝えておけよ」
ハイディルは高く上昇し、リファインに向けて飛んで行ったのだった。
やがて空が白み始め、朝になった。
リファインの城では、二人の姫が、異世界から来た三人と一緒に、食事を取っている。
「みなさん、眠れましたか?」
紅茶を一口飲み、フレアが訊ねた。
「まあまあね」
とサラダを食べながら、霞は答える。
「由里さんは?」
「まだ少し眠いけど……一応眠りましたよ」
「ふっ……甘いな」
そう言うと、克彦はミルクを一気に飲み干した。
「ぷはっ……。俺なんかぐっすり眠ったぞ。それと、朝は何といってもミルクだ。すっきり目が覚める」
「……朝から元気ね……」
由里はあきれた。
「まあ、元気なのはいいことよ」
と霞もミルクを飲んで言う。
「由里ちゃんもミルク飲めば? 眠気覚ましにもいいわよ」
「あたし、ミルク好きじゃないから」
由里は紅茶を飲んでいる。フレアも同じ理由から紅茶にしていた。
「ミルクが嫌いなんて、由里もフレアもどうかしてるな。栄養もあるのに」
アクアは、ミルクとパンとを交互に食べている。
「そう言われても、あの後味がどうも苦手で……」
とフレアは困った顔をする。
「あのぅ、フレア様、アクア様」
給仕を手伝っていたユンファが、二人の側に駆けてきた。
「どうしたの?」
「はい。実は突然ハイディル様がやって来て、お二人に会いたいと言うんです」
「え? ハイディルくんが?」
「ぶっ」
思わずアクアは、飲みかけたミルクを吹き出した。何とか前に飛ばさずには済んだが、正面に座っている由里は身を引いていた。
「び、びっくりした……」
「おお、なかなか素早い動きだ」
克彦が拍手を送る。
「あのねえ……」
「でも、おかげで目が覚めただろう」
「………こんな目の覚まし方は嫌だった……」
由里はぶつぶつ文句を言う。
「ねえねえ、アクア姫はハイディル王子が苦手なの?」
霞が面白そうに訊ねた。
「照れてるだけなんです」
とフレアは笑顔を浮かべる。
「アクアちゃんは、ハイディルくんにプロポーズされているんですよ」
「おおっ」
三人は思わず感嘆の声を上げ、身を乗り出してアクアを見た。
「ち、違うっ、それはあいつが勝手にだなっ……」
慌てるアクアだが、突然ドアが開かれ、話題の張本人が入ってきた。
「食事中に失礼します」
「あら、ハイディルくん。いらっしゃい」
そう言って、フレアが手招きした。
「一緒に食事でもどう? 朝食はまだみたいだし、アクアちゃんの隣の席が開いてるわよ」
「そんな暇はないんだが……いや、いただきます」
ハイディルはご馳走になることにした。あれからラグナニードはここに来てはいないようだし、正直なところ疲れて腹もすいていた。それに何といっても、惚れているアクアの隣の席なのだ。
「しばらくだな、アクア」
ハイディルは彼女の隣に座った。
「ふ、ふん、この前会ったばかりじゃないか」
アクアはパンを口にして、そっぽを向いた。
「相変わらず照れ屋だな。かわいい奴」
「あのなあっ……」
怒鳴りかけたアクアだが、ふと呆然としている三人の視線に気が付く。
「お、お前ら、変な想像するなよ。こいつとは何でもないんだからな」
「この人たちは?」
ハイディルが訊ねる。
「ラグナニードに連れてこられた、異世界の人たちです」
「何いっ」
フレアの答えに、当然のごとくハイディルは驚愕した。
「ラ、ラグナニードが、何だって?」
「実は彼女たちの友人が、ラグナニードに体を乗っ取られたのです。それで強力な術が使えるようになり、アクアちゃんのキィを奪われてしまいした」
「な……何てことだ……」
すると、あの少年はラグナニードに乗っ取られた、異世界の人間ということなのか。
「あなたが突然やってきたのは、キィを奪われたからでしょう?」
「……ええ、そうです。それと、あいつが私に赤のキィを見せたので、二人のことが心配になりまして」
「ありがとう、私たちは無事ですよ」
「そのようですね、安心しました」
「何だよ、ハイディル。お前までキィを奪われるなんて、だらしないぞ」
とアクアが言う。
「ただの賊だと思って油断したんだ、仕方ないだろう。君だって俺のことは悪く言えないんじゃないのか?」
「むむっ……」
確かに、彼と同じくキィを取られたのだから、文句を言える立場ではない。
「しかし……ラグナニードがキィを奪ったということは、やはり結界を壊すためか……」
「ええ、そのようです」
答えながら、フレアは食事を進める。
「お待たせしました」
ユンファが料理の乗った皿を運んできて、ハイディルの前に並べた。
「ミルクと紅茶、どちらにします?」
「え? そうだな、紅茶……いや、ミルクを」
「はい」
ユンファはコップにミルクを注いだ。
「ごゆっくり」
と頭を下げて、彼女は去っていく。
「別にあたしに合わせることないのに」
ふう、とアクアがため息を付く。
「いずれは夫婦になるんだ。好みは同じ方がいいだろう? それに俺だってミルクが嫌いなわけじゃないし」
「あたしは承諾してないんだけど……」
「いずれ承諾させてみせる」
「あのねえ……」
あきれるアクアだが、ふいにハイディルは話題を変えた。
「ところで、随分のんびりしているようですが、いいんですか? ラグナニードが今にも襲ってくるかもしれないというのに」
「のんびりしているように見えます?」
フレアは首を傾げた。
「そ、そりゃあ見えますけど……あ、もしかして何か深い考えがあるとか?」
「深い考え? 今は食事をおいしく頂いているだけですよ」
「えええっ」
「うるさいぞ」
アクアが彼の頭を殴った。
「だっ、痛いじゃないかっ。いきなり未来の夫を殴るなんてっ」
「いい加減、その話から離れろ。ラグナニードのことはどうしたんだ?」
「うっ、そうだった」
「あのー、もしもし」
と霞が言った。
「な、何か?」
「私のいた世界ではね、こういうことわざがあるのよ。馬の耳に念仏ってね」
「は……?」
「違うでしょ、先生」
丁度飲み終えた紅茶を置き、由里は注意する。
「腹が減っては戦はできぬ。空腹では思うように活動できないっていう意味よ」
「おお、なるほど」
とハイディルは頷いた。
「ラグナニードと戦うために、体力をつけておくというわけか」
「まあ、そんなところかな。でも霞先生ってば、ことわざ間違えちゃって、恥ずかしい」
「やあね、由里ちゃんてば。ちょっとした冗談に決まってるじゃない」
「本当〜?」
「失礼よ、国語担当の先生に向かって」
「ついでに保健体育と家庭科も掛け持ちして担当しているところが、すごいというかあきれるというか……」
と克彦。三教科も担当しているのは、彼女くらいのものである。その代わりだが、担当クラスは少ない。
「すごいのよ」
霞は言う。
「私ってば博識の上に体力もあるから。それにこう見えても家庭的だし」
「自分で言わないでください」
「その家庭的ってのが、どうも信じられないのよね。まあ、授業受けるとき、色々やってすごいとは思うんだけど……」
「そうでしょそうでしょ」
得意気に頷く霞。
「あ、あの、話がよくわからない方向に行ってるようなんだが……」
恐る恐る言うハイディルの言葉に、
「あ、そうだったわね。つい……」
と霞は謝った。
「みなさん、食べ終わって退屈なんですね」
フレアが微笑む。
「外に出ましょうか。クラウズの種を使う練習をするといいですよ」
「そうですね。でも……」
と由里はハイディルを見る。後から来た彼だけは、まだ食べ終わっていない。
「ん? 俺のことなら気にしなくていいぞ。このくらいすぐに食べ終わる」
そう言うと、ハイディルはパンとサラダを一気に口に入れた。思わず感心するほどの、見事な食べっぷりだった。
「ごちそうさま」
「おお〜、一分で食べ終わった」
三人は拍手を送った。
「拍手するなよ。第一、王子のくせに食べ方が下品だ」
アクアが言う。
「君だって、姫のくせに言葉使いが悪いじゃないか」
「怒るぞ」
彼女はハイディルを睨む。
「どうぞ。俺は君の怒り顔が好きなんだ」
「ていっ」
「あだっ」
ハイディルは殴られた。
「暴力はなしだぞっ」
「うるさいっ、ほらお前らも行くぞっ」
アクアがドアから出て行く。
「あ、待ってくれ」
ハイディルは走って追いかけた。
「フレア姫、おの二人面白いわね」
笑いを堪えていた霞が話しかけた。
「ええ、会話を聞いているだけで、結構楽しいんですよ」
「お似合いのカップルかもね」
と由里は言った。
「甘いっ」
いきなり克彦が、立ち上がって主張する。
「な、何よ、堀川くん」
「いや、え〜と……甘いものが食べたいと思ってな」
彼は一瞬考えてから、頭を掻いて曖昧な笑みを浮かべた。
「克彦くん……何かギャグを言おうとして思い付かなかったわね?」
「ううっ……」
霞に見透かされていた。
「しょーもないわね」
由里はため息を付いた。
外に出ると、気持ちのいい青空が広がっていた。
「へえ〜、こっちへ来てから初めて外に出たけど、お城ってこうなってたんだ」
振り返って、由里が城を見上げる。あまり高さはないが、敷地がかなり広大だ。城というより、宮殿といった方が当てはまる気がする。壁が白く塗られていて綺麗だった。
大きな門を出ると、目の前に草原が広がっていた。大きな道は、その先に見える町にまで続いている。ここは小高い丘になっているようだ。
「綺麗ねえ……」
と霞は呟いた。
「うん……」
と由里は頷く。
「あ、遠くの方に大きな山脈が見えるぞ」
克彦が指を差した。
「あれはラウス山脈です。世界で一番高い山だと言われています」
フレアが説明した。彼女は風で髪がはねないよう、外に出る前に後ろで結んでいた。もっとも、今はほとんど無風状態だが。
「へえ……」
「おい、それよりクラウズの種を使う練習はしないのか? 早くコツをつかんだ方がいいぞ」
「そうね」
アクアの言葉に、由里は頷いた。ポケットからクラウズの種を取り出す。昨日フレアにもらってから、一人十粒ずつに分けたのだった。形はヒマワリの種に似ている。
「どれから試そうかな」
「最初は、赤い種と青い種が使いやすいと思いますよ」
「そう? じゃあ、青いのにしようっと」
フレアのアドバイスを聞いて、由里は青い種を飲んだ。
「私は赤い種にするわ」
と霞。
「ふふふ……俺は緑の種にするぞ」
克彦が笑みを浮かべる。
「いきなり緑の種はむずかしいぞ」
ハイディルが親切にそう言ったが、
「平気平気」
と彼はそれを飲んでしまった。あとは三分待つだけだ。
「ひとの忠告は素直に聞いた方がいいと思うがな」
「俺は天才だから大丈夫さ」
と髪を掻き揚げて、格好付けてみせる。
「天才……? どこらへんが?」
「あっちの方のあれが天才」
「……さっぱりわからん」
ハイディルは肩をすくめた。
ともかく、三分が過ぎ、三人の体が発光した。
「おおっ、こりゃ面白い」
「すごーいっ」
「ではみなさん、頭の中で術のイメージをしてみてください。最初は言葉に出した方がやりやすいですよ」
「はーい」
フレアの教えに、三人は頭の中で術を思い描いた。
「ん?」
上に向けた霞の手の平から、何かが沸き出し、空気が揺らめく。
「あ、もう少しです」
とフレアが言った。その言葉の終わりと同時に、赤い炎が勢いよく吹き上げた。
「わわっ」
驚いた霞が、思わず手を振り回す。
「う、うわっ、危ないっ」
「ちょっとぉっ」
隣にいた克彦と由里が慌てて逃げた。
「こら、落ち着けって」
アクアが叫ぶ。
霞は手を振るのを止めた。すると炎が消え、彼女は冷や汗を拭った。
「あー、びっくりした」
「こっちの方がびっくりしたわよ……」
由里は顔を引きつらせている。
「それと、先生。髪がちょっと焦げてますけど……」
「がーん、自慢の髪が……」
彼女は髪を押さえる。確かに一房焦げていた。
「自慢だったんですか?」
と克彦が訊ねる。
「そうよ。外国へ修行の旅に行ったとき持ち帰った、秘伝のシャンプーで洗ってるんだから」
「どういうシャンプーなんですか?」
「悪いけど、秘密。でもおかげでいつも艶がいいわよ」
「おい、お前ら。呑気に会話してないで、早く練習しろよ」
アクアが疲れたように言った。
「この世界の人間だって、何度も練習してやっと自在に操れるようになるんだ。真面目にやらないと使えないぞ」
「ごめんなさい」
と霞は素直に謝った。
「さあ、みんな。頑張って練習しましょう」
「はーい」
と由里と克彦は返事する。
「ふふふ……楽しそうだな」
突然低い笑い声と共に、克彦の目の前の空間が歪み、そこから闇が発生した。
「でええっ」
驚いた克彦は、慌ててそこから後退する。
「まさかっ」
一同は思わず身構え、同じくそこから下がった。
闇は人間の形を作り、闇を取り払う。その正体は予想通り、洋一の体を操るラグナニードだった。
第七章
「約束通り、青のキィをもらいに来ましたよ、お姫様」
洋一は笑みを浮かべる。そしてそこにいるハイディルに気付いた。
「おや、君はもう知らせに来ていたのか」
「ああ、まさか貴様がラグナニードだったとはな。予想もつかなかったぜ」
ハイディルは剣に手をかけ、彼を睨み付ける。
「それより、俺のキィを奪った後、今まで何をしていたんだ?」
「少しばかり休憩して、それからはラーディー・ラーゲルの居場所を探していた。彼は各地を旅行中らしいからな」
「父様の?」
アクアが怪訝そうに眉を寄せる。
「それで、見付かったのか?」
「いや……」
と彼は首を振る。
「私の術では、人探しはできんからな。残念ながら、見付からなかった」
「そうか」
アクアは少し安心した。彼女の父であるラーディー・ラーゲルは、身を隠すのが非常にうまい。小さい頃、一緒に隠れんぼをやったときも、一度も見付けたことがないのだ。以前の旅行のときも、部下が緊急の用で探したのだが、結局見付けることはできなかった。結構迷惑がられているが、こういうときには役に立つようだ。
「そ、それより、洋一を返せよっ」
克彦が霞の後ろに隠れて叫ぶ。
「あのねえ、克彦くん……。ともかく、洋一くんの体を返しなさいっ」
「返して……」
と由里が涙ぐんで言った。
「悪いが、まだ返すわけにはいかん。私が自分の体を取り戻すまではな」
「くそ……」
唇を噛み、克彦は霞の後ろから出てきた。
「こら、洋一っ、そんな奴に体取られて悔しくないのかっ。何とかしてそいつを追い出せっ」
だが、洋一の体には何の変化もない。
「くそっ、聞こえてないのか?」
「いや、聞こえている」
と彼は言った。
「意識がないわけではないからな。ただ、私の精神の方が強いから、体の支配からは逃れることはできん」
「ということは、逆に言うと洋一くんの精神が勝てば、あんたを追い出すことができるわけねっ」
「ああ、可能性はある」
霞の言葉に、洋一は頷いた。
「もっとも、普通の人間にそんなことは無理だろうがな」
「可能性があるなら、やるしかないわっ。ほら、由里ちゃん、呼び掛けてっ」
「え……?」
肩を叩かれ、由里は呆然とする。
「え? じゃなくて、洋一くんの意識を取り戻すのよ。昨日頑張るって言ったでしょ?」
「う、うん……。そうだけど……」
彼女はうつむいた。
「……何だよ、急にまた怖くなったとか言うんじゃないだろうな?」
克彦が冷たい視線で見る。
「そ、そうじゃないけど……自信なくって……」
「ったく、お前なあ……」
「……仕方ないわね」
克彦と霞がため息を付く。
「他人が言うことじゃないかもしれないけど、逃げてはだめよ、由里ちゃん」
「わかってる……」
昨日洋一を助けると決意したときは、自分の呼び掛けで彼が戻ってくる感動的な場面を想像していたのだが……。それは、前提としてお互いの深い愛がなくてはならない。愛していない者の呼び掛けになど、答えてはくれないだろうから。強い相手に打ち勝つ程の力は生まれないだろうから。
(洋一くんは、本当にあたしのことが好きなのかな……)
澄んだ瞳と優しい笑顔で「好き」とは言ってくれるが、それは彼の本心だろうか。嘘を付いているとは思いたくないが、昨日からどうもそういうことを考えてしまう。
彼が積極的になってくれないのは、照れているのではなく、あまり好きではないからではないのか。現に、告白したときも付き合うのが面倒だと言っていた。あのときの言葉が、急に気になってきてしまった。
「もういい、ここは戦うぞっ」
アクアが声を上げ、クラウズの種を飲んだ。体が赤く発光する。
「多少洋一を傷付けることになるが、後でちゃんと治してやるからっ」
「とにかく、キィを取り戻さないと」
フレアは青い種を飲み、そしてネックレスの青い玉を掲げた。
「出なさいっ、青の魔人カインライゲンっ」
青い玉から、青い光がほとばしった。小さな玉から、十メートルはある青い肌の巨人が飛び出してくる。
「うわわっ、すげえっ」
思わず克彦は声を上げる。
「ひえー」
と霞は呑気な顔で巨人を見上げた。
まるでアラビアンナイトに出てくるランプの精のようだ。上半身は丈の短いチョッキを着て、ぶかぶかのズボンと先の尖った靴をはいている。口許に髭を生やし、頭は三つ編みだ。しかも随分筋肉質である。
「お前らは危険だから下がっていろっ」
ハイディルは剣を抜いて構える。種を飲むのは相手の行動を見てからにするつもりだ。
「失礼ね、私たちは足手纏いだっていうのかしら」
「その通りかもしれんが、俺たちも洋一を助けたいんでね」
霞と克彦は微笑んでみせる。
「ふ〜ん、随分格好いいじゃない、克彦くん」
「俺は元々格好いいのさ」
彼は髪を掻き揚げた。
(あたし……何やってんだろ)
と由里は思った。皆が戦おうとしているのに、一人だけ逃げている。そんな自分が情けない気もするが、心の隅では傍観者でいることを望んでいる。皆がきっと何とかしてくれると信じて。
「なるほど、魔人を出してきたか」
洋一は笑みを浮かべる。
「もちろんわかっているだろうが、魔人を破壊されると結界も消える。その覚悟はしているようだな」
「そんなことはさせませんっ」
フレアが睨み付ける。
「ふふふ……戦うときは別人のようだ。全て集まってから一気に破壊しようと思ったが……まあいい」
洋一は赤と緑の玉を掲げた。
「いでよ、魔人」
小さく呟くと、彼の手の中から二体の魔人が現れた。姿は青の魔人と同じで、違うのは肌の色だけだ。二体の魔人は彼の隣に立った。
「あ、ずるいぞっ」
克彦が洋一を指差して言う。
「今、名前を呼ばずに魔人を出しただろうっ」
「…………」
しばらくの沈黙の後、ハイディルは教えてくれた。
「別に呼ばなくてもいいんだよ。出ろとだけ言えばな」
「じゃあ、フレア姫は何でさっき……」
「気分を高揚させるためだ」
「こ、高揚させて、一体何を……?」
克彦はいやらしい笑みを浮かべる。
「こんなときに何考えてんの」
「あだっ」
霞に頭を殴られた。
「戦うときは軽い興奮状態の方がいいんだよ。それくらいわかるだろうが」
「興奮……」
ハイディルの言葉に、克彦はまた妙な想像をしかけたが、霞に睨まれたのでやめることにした。
「そ、それはともかく、じゃあ魔人の本当の名前は?」
「赤の魔人はセバブランソル、緑の魔人はペインぺイヤストだ」
「……変な名前」
思わず克彦は呟いた。
「しかも覚えにくいし……」
と霞も言う。
「まあ、確かにそうかもしれんが……黄の魔人ほどではないぞ」
「じゃあ、どういうの?」
「そのうちな。それより今はラグナニードだ」
「そうそう。忘れられているのかと思ったよ」
洋一は安心したように言った。
「もっとも、忘れていたかったのかもしれないがな」
「お前こそ、体のことなんか忘れて、おとなしく眠っていればよかったんだよっ」
叫んだと同時に、アクアは手から巨大な炎の玉を出した。そして洋一に向かって投げ付ける。
「くらえっ」
だが、洋一は表情を変えずに、ただ右手を突き出しただけだった。炎の玉は、彼が生み出した見えない壁にぶつかり、四散する。
「無駄なことを……」
「くそっ」
「それより、お前たちは私を倒すつもりのようだが、いいのか? そんなことをしたら原田洋一も死んでしまうぞ」
「ふん、お前を倒したらすぐに治療してやるよ」
「そして力を失ったあなたは、また眠りに付くことになる。力を回復したときには洋一さんは寿命が尽きてもういない……。あなたと相性の合う人間はいなくなる」
もちろん、新たに生まれる可能性もあるわけだが、確率は低いはずである。
「それも、私を倒せたらの話だ」
洋一は笑みを浮かべる。
「倒してみせますっ」
フレアはキィを握り、一瞬祈るように目を閉じる。青の魔人が動いた。洋一に向かって、巨大な拳を勢いよく降り下ろす。
さすがに防げないと思ったのか、洋一は大きく下がった。魔人の拳は大地に激突し、穴を開けた。
「くっ」
衝撃でバランスを崩しながらも、アクアは牽制のために、もう一発炎の玉を放った。狙いは、この揺れで同じくバランスを崩したはずの、洋一の足元だ。
だが洋一も魔人を使ってきた。赤の魔人が手を出し、迫る炎を受け止め握り潰す。そして緑の魔人は、勢いよく腕を振り上げた。途端に、砂塵が巻き上がり、地面から生え出るように巨大な竜巻が起こった。
「うわあっ」
「きゃあっ」
一同は竜巻に飲み込まれ、体が浮き上がった。後ろに十メートルは吹き飛ばされ、地面に落下する。
「私にかなうはずがないのだよ。早くあきらめてキィを渡した方がいい。悪いようにはせん」
「信用できるかっ」
顔をしかめつつも何とか立ち上がり、アクアが叫んだ。そしてフレアも肩を押さえて立ち上がる。
「そうです、ここは神の作った世界。悪魔の好きなようにはさせませんっ」
「やれやれ」
と起き上がる彼女たちを見ながら、洋一は肩をすくめた。
「随分と嫌われたものだが……私がどんな世界を作ろうとしているか、知ってから言ってほしいな」
「あなたの作る世界など、必要ありません。私たちは今のままで満足しているんですっ」
「……クラウズの種があると、楽でいいだろう。工夫次第で、色々なことができる。病気や怪我まで治すことができる……」
「それがいけないと言うんですか?」
「いや……。だが、それに頼り過ぎているのが私は気にいらない。私が世界を作り直すときは、クラウズフォールをなくすつもりだ」
「何いっ」
ハイディルは思わず驚きの声を上げた。
「よせっ、そんなことは許さんぞっ」
「そうだ、この悪魔がっ。世界を作りたいなら他のところへ行けっ」
アクアの言葉に、洋一は一瞬顔を曇らせる。
「……それはできない。戦いに敗れた者が、担当世界以外への干渉をすることは、我々のルールで禁止されている」
「担当? ルール?」
「……まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、私の目的は体を取り戻すことだ」
洋一は空中へ上がり、赤の魔人の肩の上に乗った。
「それと、ひとつだけ言っておく。私は最初から悪魔だったわけではない。ドルジェとの戦いに敗れたせいで、そういう立場にさせられたのだ」
「は……?」
「……何を言っているんだ……?」
「ラグナニードが悪魔にさせられた……?」
アクアやハイディル、フレアは首を傾げるばかりだ。物心付いたときから、ラグナニードは悪魔だと教えられてきたのだ。本人がそれを否定するなど、信じられることではない。理解不能である。
「とにかく、素直にキィを渡すことだ。私が素晴らしい世界に作り替えてやるぞ」
洋一は笑みを浮かべ、魔人を操った。赤の魔人が口から炎を、緑の魔人が風を吹き出した。
「くっ」
このままでは皆が危ない。咄嗟にフレアは青の魔人で対抗した。両の手の間に大水を生み出し、二体の魔人に向けて放つ。
そして互いの術がぶつかろうとした瞬間、間に巨大な見えない壁ができた。相殺したのか、壁に吸い込まれたのか、魔人の放った術は消えてしまった。
「……な、何が起きたの……?」
静寂の中、誰にともなく由里が訊ねた。
「術が消えちゃったけど……」
霞も呆然としている。
「……そうか」
と洋一は納得したように言った。
「魔人を傷付けないためだな。魔人が破壊されれば、結界が消えてしまう」
「そうです」
とフレアが呼び掛ける。
「魔人同士で傷付け合うことはできない。だからキィを返してくださいっ」
「それはできんな」
洋一は乗っていた赤の魔人の肩から離れ、空中に静止した。そして右手を向ける。
「はあっ」
激しい衝撃が赤の魔人を襲った。巨大な体が吹き飛び、地面に仰向けに倒れる。
「な、何をっ……」
驚愕する一同。
「ちっ、さすがにこれくらいでは破壊できんか……」
洋一は舌打ちした。そしてフレアたちを見る。
「姫、魔人同士で傷付けられないなら、私が直接破壊するまでだ。今キィを渡すなら、もう少しだけ待っていてやってもいいぞ。この世界との別れを惜しむ時間くらいはな」
「くっ……」
フレアは唇を噛む。
「どうしたらいいんだ……」
とアクアが悔しそうに言う。
「どうするもこうするも、戦うしかないっ」
克彦は緑の種の力で風を起こし、全身に纏った。周りの音が風で遮断される。そのせいで、ハイディルの「待て」という慌てた声が聞こえなかった。
(よし、何とかうまくいきそうだ)
克彦は体を空中に持ち上げようとする。
はっきりいって、深い考えはない。とにかく洋一のところへ行き、文句を言いながら、一発くらい殴ってやりたいと思ったのだ。
「はあっ」
気合いを入れると、ふわり、とわずかに足が浮いた。
「おおっ、やったぜっ」
調子に乗って洋一のところへ行こうとしたが、力の入れ加減を間違えてしまった。バランスを崩してしまう。
「どええっ」
彼は仰向けになって、後ろ向きに飛んでいく。
「うわっ、ありゃ怖いわ」
思わず霞は、克彦の感覚を想像してしまう。そして彼は地面に背中を打ち、勢いで数メートルは引きずられる。
「いっ、いででえええっ」
克彦は背中を押さえて転がり回った。
「あいつは……自分でダメージ負ってどうするんだ……」
あきれるアクアの言葉に、一同は頷いた。
「まあとにかく、ここは頑張りましょうよ」
霞が手を叩いて皆を励ます。
「ラグナニードの言うことが本当かどうかはともかく、フレア姫たちは今の世界がいいんでしょ。だったら戦って、彼の行動を防がなきゃ」
「……そ、そうだな。勝てるかわからないが、やるだけやってみるか」
ハイディルは剣を抜き、緑の種を飲んだ。相手が空にいるのだから、こちらも空を飛んだ方がいいだろうと思ってのことだ。
「そうそう。前向きなのはいいことだわ」
霞は微笑む。
「それから、いい作戦を思い付いたから、みんな耳貸してくれる?」
「え……?」
疑問に思いながらも、一同は彼女の元に集まった。克彦も背中を押さえながら側に寄る。
「作戦会議か……? まあ、好きにするがいい」
洋一は笑みを浮かべ、体内に力を溜めた。一瞬、体が震える。
「もっとも、その間待っていてはやらんがな」
力を両手に集め、倒れたままの赤の魔人に向けて、放出する。
「はあっ」
どんっ、という衝撃が大地を揺らした。
「きゃあっ」
集まっていた霞たちが、またもバランスを崩して転んでしまう。
だが、魔人は破壊されてはいなかった。巨体が地面にめり込んだだけである。
「ちっ……これでも駄目なのか。ドルジェの奴、丈夫なものを作りやがって」
笑って余裕のあるふりをするが、しかし内心では、焦りを感じていた。
自分の体であれば問題はないはずだった。だが、いくら相性が合うとはいえ、今の体はただの人間のものなのだ。これ以上力を上げると、洋一の体が耐えられそうにない。仮に何とか耐えたとしても、体はぼろぼろになってしまうだろう。
「さて……どうするか」
と小さく呟く。目的は世界を作り替えることであり、誰かを殺すことではない。だから例えひとりでも、死人は出したくなかった。
(諦めないのか?)
頭の中で洋一が問う。
「ここで諦めてどうする。他にも手はあるさ」
(どんな手だ?)
「青の魔人を先に破壊する。一体くらいならこの体ももつだろう」
(一体だけを倒しても意味がないんじゃないのか?)
「ふふふ……そんなことはない。四体の魔人は地水火風を表しているが、あれはそれぞれ私の力を封じているのだ」
(何……?)
「つまり、一体でも破壊すれば、その分私の本来の力が回復するということだ。それに青の魔人を倒してしまえば、向こうに魔人はいなくなる。そしてこちらは、赤と緑の魔人で攻撃できるようになるわけだ」
(…………)
洋一は沈黙する。どう考えても、勝ち目はなさそうだ。
実は今ラグナニードが話したことは、霞の考えた作戦と同じであった。先に赤と緑の魔人を倒させて、力を消耗したところを、青の魔人で相手をしようという、大胆なものだ。だが魔人を倒して、逆に力が回復するというのなら、その作戦の失敗は明らかである。
「それにしても洋一。もう抵抗することはやめたのか?」
「あ、ああ……」
と洋一はためらいがちに答える。
「本当は諦めたくないんだが、あんたの支配からは、自力で逃れられそうにないからな……」
「そうか……」
ラグナニードは少し物足りなさを感じた。
「まあ、好きにするがいい」
第八章
「……というわけよ。みんな、わかった?」
「な、なるほど……」
霞の説明に、一同は頷いた。
「しかし……わざと魔人を破壊させるなど、危険すぎます……」
フレアは顔を曇らせる。
「そうだけど、このままじゃ決定的なダメージを与えることはできないわ」
「確かにな」
とハイディルは頷く。
「だが、やはり賛成はしかねる。もし失敗したら……」
「もちろん後はない。だけど、あたしは賛成だ」
「アクアちゃんっ」
フレアが声を上げる。
「いいじゃない、フレア。このままじゃ、奴を倒すチャンスさえ生まれない。それなら、そのチャンスに賭けてみよう」
「……わかったわ。アクアちゃんがそこまで言うなら、私は反対しません」
「ありがと、フレア」
アクアが微笑む。
「じゃあ、さっそく作戦開始といきましょう」
「おーっ」
一同は気合いを込めて、拳を突き上げる。
ふと、そのときだった。
「姫ーっ」
「アクア様っ、フレア様っ」
城の方から、二人を呼ぶ声が聞こえてくる。おそらく戦っていることに気付いたのだろう。正門だけでなく、壁の上からも、種で体を発光させた衛兵たちがこちらにやってくる。
「無事ですか、姫様っ」
エプロン姿のままの、ユンファまでがきていた。
「ど、どうしたんだ、お前ら?」
と驚いたアクアが訊ねる。
「何水くさいこと言ってるんですか」
衛兵の一人が言う。
「そうですよ、この世界が危機だっていうときに」
「……そうか。だが……」
嬉しさを我慢して、アクアは言った。
「お前らは城に戻れ」
「ええっ、どうしてですっ」
「そうですよ、我々だって力になれますっ」
当然不満の声が上がったが、アクアは首を振った。
「悪いが、帰ってくれ。ここは危険だ」
「それくらいわかってます」
「姫様だけを危険な目にあわせるわけにはいきません」
彼らには笑顔が浮かんでいた。
「お前ら……」
「せっかくですし、ここは協力してもらいましょうか」
フレアがアクアの肩を叩いた。
「そうだな。ったく、しょうがない奴らだ」
アクアは嬉しそうに笑っている。
「邪魔しないでほしいな」
全員の耳にはっきり聞こえるくらいの声で、洋一が言った。
「怪我をしたくなければ、早くそこから去れ」
「何をっ」
「この悪魔がっ、俺たちは今のこの世界が好きなんだよっ」
緑の種を飲んだ衛兵たちが、彼に向かって一斉に飛び上がっていく。
「あ、待てっ」
「危険ですっ」
彼らは姫たちの制止も聞かなかった。
「まったく、これ以上手間をかけさせないでほしいものだ」
洋一は迫ってくる衛兵たちに、手を向けた。
「離れろっ」
とアクアが叫ぶが、もう遅い。だが今回は衝撃波を使わず、強い風を起こした。彼らをここまで飛ばせている種の力よりも、ずっと強いものだ。
「ううっ……」
「ぐわああっ……」
衛兵たちは前に進めなくなった。逆に、徐々に後退させられていく。
「でえいっ」
突然洋一の真横に、炎の鞭のようなものが迫った。赤い種の術であり、使ったのは霞である。
「むっ」
気付いた洋一が、それを左手で受け止め、炎を消し去ってっしまう。
「あらら、奇襲失敗」
霞は風ではねる髪を押さえつつ、残念そうに舌を出す。今ので全エネルギーを使ったため、体の発光が消えていた。
「うまくいったと思ったんだけどなあ……」
「せこいですね、霞先生」
隣で克彦が言う。
「失礼ね、奇襲っていうのは、立派な戦法なのよ」
「それはわかってますけど……」
「うわああっ」
衛兵たちが地面に落ちた。やはりラグナニードの起こした風には勝てなかったようである。
「さてと」
洋一は呟く。これから青の魔人を破壊しようと思ったが、そのときである。
空気が唸りを上げ、周囲から何かが迫ってきた。
「また奇襲か?」
とにかく、念のために球状のシールドを作る。そこに大きな岩が張り付いた。
「何?」
誰も使っていなかったので、咄嗟に思い付かなかったが、これは黄の種の術である。岩がどんどん飛んできて、シールドの周りを覆い尽くす。
「あれ……誰がやってんの?」
霞が訊くが、誰も答える者はいなかった。フレアもアクアもハイディルも、首を横に振る。
「由里ちゃんでもないし、当然克彦くんのわけはないし」
「霞先生、失礼な……」
克彦が文句を言いかけたが、それを遮るように大きな笑い声が響き渡った。
「はーっはははははっ」
「な、何だ、この声は?」
克彦が周囲を見回す。
「まさかっ……」
アクアとフレアが、驚きの表情になる。
「叔父様ですか?」
「父様? どこ?」
二人は彼の姿を探した。
「ここだここだっ」
城の門の上から、彼は手を振っていた。
「な、何であんなところに……」
「わかったぞ」
と克彦が言う。
「きっと王様はひとを驚かすのが好きなんだ」
「まさか」
「いや、確かにそういうところはある。なかなか鋭い奴だ」
ハイディルは納得したように頷いた。
「ふっ、まあな」
という克彦はともかく、王のラーディー・ラーゲルは門から飛び降りて見事に着地し、こちらに走ってきた。
「元気な王様ね……」
と由里は呟く。
「父様、いつ帰ったんだ?」
「うむ。ついさっき着いたばかりだ」
とラーディーは嫌がる娘に頬ずりして答える。まだ四十歳くらいだろう。髭は生やしていないが、さすがに世界を統べる国の王だけあって、なかなか貫禄のある顔立ちをしている。
「大体の事情はユンファに聞いたぞ。わしが旅行に行っている間に、大変なことになっているようだな」
「それで、叔父様。私たちはこれからどうすればいいんでしょう。相手はラグナニード。強すぎます」
「おいおい、フレア。そんな弱気なことを言うな」
暗い表情の彼女にラーディーがそう慰めた途端、空から岩が落ちてきた。先程洋一にぶつけた奴である。やはり彼は無傷だった。
「ふふふ……そちらから来てくれたとはありがたい」
洋一は笑みを浮かべる。
「さあ、ラーディー・ラーゲル。お前も魔人を出せ。そうしないと私には勝てないぞ」
「…………」
ラーディーは懐からネックレスを取り出した。そして黄の魔人を呼び出す。
「出ろ、アバラスカホゲチャっ」
「ア、アバラスカホゲチャ?」
思わず克彦はこけた。
「一体どういうネーミングセンスなんだ……」
「昔の人が付けたものだからな……。あまり気にするな」
とハイディルが言った。彼もいい名前だとは思っていないようである。
ともかく、ラーディーの持つキィから、魔人が飛び出してきた。黄色の肌を持つその魔人、アバラスカホゲチャは、青い魔人の隣に足を下ろした。
「ついに全ての魔人が出揃ったか……」
洋一は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「この四体を破壊すれば結界は消え、私は元の体に戻れる……」
「悪いが、そうはさせんよ」
ラーディーが言った。そして黄の魔人を操り、彼に向かって殴りかかる。
「いけっ」
「ぬぅっ」
ふいの攻撃に、洋一は一瞬険しい顔つきになる。魔人で防ごうか迷ったが、その暇はない。彼は両手を突き出し、それを受け止めた。しかも、魔人の拳をつかんだまま、反対に押し返している。
「うぐっ……」
ラーディーが苦しげに唸った。キィに念を込めて力を上げようとするが、やはり魔人の方が押されてしまう。
「叔父様っ」
フレアが援護に入る。青の魔人の手の中で、十本の巨大な氷の矢を作り出した。それを黄の魔人の拳を防いでいる洋一へ飛ばす。
「よし、いいぞ、フレアっ」
アクアが歓声を上げた。
「やったか?」
とハイディルも目を見開く。この程度でやられるとは思えないが、少しでも傷を負わせられれば、儲けものだ。
「はあああっ」
洋一はさらに力を込め、黄の魔人の拳をつかんだ。当然まともに食らえば危ないが、要は防げばいいのである。
「でえいっ」
氷の矢が飛んできた方へ向けて、黄の魔人を投げ飛ばした。
「何いっ」
「そんなっ」
驚愕する一同。
氷の矢は黄の魔人との接触により相殺され、消えてしまった。
地響きを立てて、魔人は仰向けで倒れた。
「くそっ、これでもだめなのか」
アクアが悔しそうに唇を噛む。
「確かに強いな……想像以上だ……」
ラーディーが思わず呟きを漏らした。
「そんな、叔父様」
フレアは愕然とする。
「やれやれ、これでこの世界はラグナニードのものか」
「そんな簡単にあきらめてどうするっ」
あっさり肩をすくめる克彦に、ハイディルは叱咤した。
「その通りだ、物事を簡単にあきらめてはいかん」
ラーディーは笑みを浮かべていた。
「その笑み……もしかして、何か勝算が?」
アクアが期待に満ちた目で見る。
「ああ、ある」
彼女の頭を撫で、ラーディーは言った。
「おおっ」
「さすが王様だっ」
一同は思わず歓声を上げた。
「それで、一体どんな策が?」
フレアが訊ねる。
「うむ、さっきユンファに聞いたんだが、ラグナニードが乗り移った少年には、恋人がいるそうだな」
「え、ええ、由里さんですね」
一同の視線は由里に集中した。
「え?」
由里はどきっとして、思わず一歩後ずさった。
何だか嫌な予感がする。
「由里さん……」
ラーディーが近付いてきて、彼女の手を取った。
「な、何でしょうか……」
「彼をラグナニードから解放するには、あなたの力が必要だ。ぜひ協力してほしい」
「きょ、協力って、一体何をすれば……」
もちろん、助けられるのなら、何でもするつもりだ。それに、自分の気持ちもはっきりさせたい。
「ん?」
ふいに、背筋に寒気を感じた。
「はあああっ……」
洋一の周囲に闇が発生していた。魔人を破壊するために、力を溜めているのだ。
「作戦会議なら早く済ますんだな。のんびりしている暇はないぞ」
彼の手の中に、黒い塊が生まれ、どんどん大きくなっていく。
「いかん、手短に済まそう」
ラーディーは早口で説明した。
「作戦はこうだ。今のラグナニードは精神のみで動いており、封じられた肉体を取り戻すためにあの少年の体を乗っ取ったわけだ。そうして奴は強力な術が使えるようになったわけだが、しかし逆にいえば、肉体がなければ術が使えないということになる」
「そ、それで……?」
皆が彼の次の言葉を待っている。
「つまり、少年からラグナニードの精神を追い出せばいいのだっ」
「…………」
一同は沈黙し、がっくりと肩を落とす。
「な、何だ、どうしたんだ?」
「あのさ、父様は来たばかりで知らないだろうけど、そういうことならあたしたちも努力したの」
とアクアがため息混じりに言う。
「……そうなのか?」
「ええ。何度も呼びかけたりしましたが、だめでした」
とフレア。
「ちぇっ、期待して損したぜ」
舌打ちする克彦。
「いや、それならまだ望みはあるぞ」
ラーディーはにやりと笑みを浮かべる。
「え……?」
「はあっ」
突然洋一の声と共に、大地に激しい衝撃が走った。溜めた力を魔人にぶつけたのだろうと、すぐに理解できた。
「うわあっ」
「きゃああっ」
そこにいた人たちが吹き飛び、土煙は遙か上空まで吹き上がった。
「い、いたたた……」
お尻をさすりながら由里が立ち上がると、目の前にあったはずの草原が跡形もなく消えていた。その代わりに、まるでクレーターのような巨大な穴ができている。
「これは……」
「黄の魔人を消してやったのだ」
呆然とする由里に、空中にいる洋一が言った。笑みを浮かべてはいるが、息が荒く、かなりつらそうだ。
(洋一くん……)
由里は胸が痛んだ。
「くそっ……やられたか」
ラーディーが悔しそうに呻いた。皆、一応無事な姿で立っている。
「魔人のキィも消えてしまった……」
彼の手に、あったはずの黄色い宝珠はなかった。
「由里さん、もうあなたに頼るしかない。これを飲んでくれ」
ラーディーは、彼女にクラウズの種を五種類とも渡した。
「え?」
と皆は驚きの声を上げる。
当然だ。二つ飲んでも体が耐えられないというのに、五つである。しかも種類が違うと相殺されるはず。誰も彼の考えが読めなかった。
「あ、あの……王様?」
「これは極秘にされていたことだが、クラウズの種を全種類飲むと、精神体になることができるのだ」
「ええっ?」
「幽体離脱みたいなもんかしら?」
霞が首を傾げる。
「極秘にされていたということは、当然隠さなくてはいけない理由があったわけだな」 と克彦。
「もしかして何か副作用があって、一度使うと戻れなくなるとか?」
「副作用はない。ただ、普段の生活に必要ないからだ。それに悪用される恐れもある」
「まあ、そりゃそうだな」
精神体で動き回れれば、覗きも好き放題だ。
「ともかく由里さん。これであの少年の中に入り込み、彼と協力してラグナニードの精神を追い出してくれ。二人の愛の力は、きっと奴に勝つことができる。私は信じているぞ」
「あ、愛の力って……」
克彦は笑いをこらえていた。
「失礼でしょ」
と霞がその頭をひっぱたく。
「愛の力は偉大なんだから」
「うむうむ。その通り」
ラーディーはしきりに頷いている。
「……でも口にするのは恥ずかしいよな」
と呟くアクア。
「ふっ、照れ屋さんだな」
ハイディルが彼女の頭を撫でた。
「ていっ」
「ぐわっ」
すかさず彼はアッパーカットを食らった。
「と、とにかく由里さん。頑張ってください。あなたならきっと洋一さんを助け出せます」
「う、うん……」
フレアの言葉に、由里は緊張気味に頷く。
「と、ところで、ちゃんと元に戻れるんでしょうね?」
「心配は無用。安心して行って来い」
ラーディーは力強く頷く。
「そうそう。真村が精神体になっている間は、体をべたべたと触りまくってやるからな。だから安心……」
「できるわけないでしょっ」
当然のごとく、克彦は由里に殴られた。フレアやアクアにも冷たい目で見られる。
「お、俺はただ、気分をリラックスさせようとしてだな……」
「だからね、克彦くん」
霞が後ろから近付き、ヘッドロックを決めた。ちなみに、背中に彼女の胸が当たっている。
「く、苦しい……気持ちいい……」
なかなか複雑である。
「どうせなら、もう少しセンスのいいことをしましょうね」
「は、はいぃ〜っ」
「…………」
由里は呆れて顔をひきつらせる。が、すぐに表情を引き締めた。
「と、とにかく、あたしやるわっ」
「そうだ、いけ、由里っ」
「頑張れっ」
皆が彼女に声援を送る。
「ふん、そううまくいけばいいがな」
由里のすぐ後ろで、洋一の声が聞こえた。
思わず全員が息を呑む。
洋一は左腕を伸ばして彼女の首を締め、自分の胸元へ引き寄せた。
「うぐっ……」
由里は息ができない。
「ふふふ、なかなか面白い作戦のようだが、甘いな」
「何?」
「洋一の中に入り、私の精神を追い出すというアイディア自体は悪くない。しかし、実際に成功はしないだろう」
「な、何の根拠があってそんなことを言うっ」
「そうだ、本当は焦ってるんだろうっ」
とラーディーとアクア。
「根拠も何も……」
くくく、と洋一は笑いを押し殺している。
「ぐ、ぐっ……」
彼の腕の中で、由里が苦しげに呻いている。段々と顔が青ざめてきた。
「と、とにかくその子を離してっ。死んじゃうわっ」
霞が叫ぶ。
「……さて、どうするかな」
笑みを浮かべ、由里に顔を近付け、耳に息を吹きかける。彼女のことは離さない。
「ちっ」
ハイディルが剣を抜き、彼の元へ駆け出した。
「彼女を離せっ」
後ろに回り、背中から斬りかかろうとする。
「ふっ」
洋一は笑みを浮かべたまま、由里の背中を押し、紙一重でかわした。そして突っ込んできた彼の腹に蹴りを入れる。
「ぐはっ」
ハイディルは自分がやってきた方へ吹き飛ばされた。地面に背中を打ち、そのまま二回ほど後転する。
「ハイディルっ」
アクアは思わず叫んでいた。
「よくもっ」
手の中に十本の炎の矢を作り出し、洋一に向かって放つ。
だが、当然そんな攻撃が効くはずがない。
洋一は両手を突き出し、そこに黒い壁を作り出した。炎の矢はそこに吸い込まれたかと思うと、反射して返ってきた。
「くっ」
アクアにフレア、ラーディーが左右に分かれてそれをかわす。
「二人とも、こうなればやるだけやるぞっ」
「はいっ」
フレアは魔人を動かそうと、キィに念を込める。
「ふふ、なかなかあきらめが悪いな……」
洋一は余裕に構えていた。
「かはっ、げほっ……」
何とか洋一の腕から逃れた由里は、喉を押さえて咳き込んでいた。目には涙を、口からは唾液をこぼしている。
「由里ちゃん、しっかりっ」
アクアたちが洋一と戦っている隙に、霞が彼女の元に駆け付け、背中を撫でてやる。
「おい、真村。今の内だ、早く種を飲め」
同じく駆け付けた克彦が囁く。
「別に触りまくったりしないからさ」
「わ、わかってるわよ……」
由里は顔をしかめながら、堅く握っていた手を開く。
首を絞められても離さなかった五つの種がそこにはある。
由里はそれを一気に口の中に放り込んだ。
「んぐっ」
水がないのがつらかったが、何とか全部飲み込んだ。しかし。
「…………」
「…………」
「…………」
三人は沈黙する。由里に何の変化も起こらなかったからだ。
「もしかして……」
と霞は言った。
「これも他の種と同じで、三分立たないと効果がでないんじゃ……」
「そ、そうかも……」
「やれやれ、まいったな」
克彦は仕方なさそうに頭を掻いた。
すぐ側では、洋一とラーディーたちが戦っている。
「ぐわっ」
ラーディーが吹き飛ばされる。
「はああっ」
フレアが青の魔人で殴りかかるが、洋一には当たらない。
どう見ても、彼らの方が不利のようだ。
「……こうなったら、やるしかないか」
と克彦は言った。
「え?」
由里が首を傾げて見る。
「俺も戦ってくるから、お前はそこでじっとしてろってことだよ」
「ちょ、ちょっと、何無茶なこと言ってんのよ」
彼の口から飛び出した信じられない言葉に、由里は焦った。
「突然格好いいこと言ったって、似合わないんだから」
「失礼な奴だな……」
克彦は不満そうに唇を尖らせる。
「とにかく、お前が勝利をつかむための鍵なんだから、何としても三分時間稼がなきゃいけないんだ」
「ま、それまでは私たちが頑張らないとね」
霞が克彦の頭をぽんと叩いた。
「先生……」
「その代わり、必ず洋一くんを取り戻してくるのよ」
霞は今度は由里の頭を撫でる。
「うん……わかってる」
由里は決意を込めて頷いた。
「あああっ、危ないっ」
「避けてっ」
アクアとフレアの叫び声が聞こえた。
見ると、こちらに向かってファイヤーボールが飛んでくる。おそらく洋一に向けて放ったのが、外れてしまったのだろう。
「きゃあっ」
「でええっ」
悲鳴を上げる由里と克彦。このままでは確実にぶつかってしまう。だが、咄嗟に判断した霞に、頭を押さえつけられた。おかげで地面とキスするはめになってしまったが、
ファイヤーボールはかわすことができた。後ろの地面に当たり、爆発する。
「ああ、びっくりした」
と霞は息を付く。
「い、いたたっ」
と由里は涙ぐんで顔を押さえる。
「先生、は、鼻血が出たっ」
克彦の手には、鼻から垂れ落ちた血が付いている。
「あら」
と霞は首を傾げる。
「またエッチなことでも考えてたの?」
「違ーうっ」
叫ぶ克彦。その彼の頭の上に、ぽんと手が置かれた。
「にぎやかだな」
振り返る克彦に、洋一は笑みを向けた。
「げっ、いつの間にっ」
「ふふふ……」
洋一は彼の腕をつかみ、離そうとしない。見つめ合う二人。
「だあっ、俺は男と見つめ合う趣味はないぞっ」
「克彦くん、頭下げてっ」
霞の声が飛んでくる。
「げげっ」
攻撃してくることを予感した克彦は、咄嗟にそれに従おうとしたが、洋一が彼の体を軽々と持ち上げてしまった。
「んなっ……」
どかっ。
霞の強烈な蹴りが、克彦の背中に命中した。
「ぐぎゃっ」
「あっ……」
やばい、と思う霞。洋一が手を離してしまったので、克彦は衝撃で後ろへ飛んでいき、地面に激突する。
こほん、と霞は咳払いした。
「ま、まあ、今のは置いておくとして」
「置いておくなーっ」
しぶとく起き上がりながら、克彦が訴える。
「とにかくっ、あなたの好きにはさせないわっ」
「そうだ、俺たちを甘く見るなよっ」
ダメージを負いながらも、ハイディルがやってきて剣を向けた。
その後ろにはアクアにフレア、ラーディーもいる。
「ふむ……」
洋一は顎に手を当て、ゆっくりとした動作で、考えるような仕草をした。そして口の端をわずかにつり上げる。
「お前たちの相手をするのも飽きてきた。そろそろ決着を付けようじゃないか」
「なに?」
ハイディルは洋一を睨み付ける。本気を出せば簡単に倒すことができる、というような口調が癇に障ったのだ。しかし、次に言った洋一の言葉は、意外なものだった。
「お前たちの頼みの綱である少女……彼女と一対一の勝負をしようじゃないか。そうすれば、お前たちもあきらめが付くだろう」
「!?」
驚く一同。
丁度そのとき、突然由里が地面に倒れ伏せた。
「由里ちゃんっ」
「いや、大丈夫だ」
とラーディーが言う。
「ようやく効果が現れたらしい。彼女の精神は肉体から離れた」
「と、いうことは……」
期待にアクアが拳を握りしめる。
「うむ、チャンスだ。由里さん、彼の中へ入るのだ!」
ラーディーが洋一を指さす。
(そ、そんなこと言われても……)
肝心の由里は、困っていた。何とか精神体とやらになれたはいいが、どうすれば他人の精神の中に入れるのか、さっぱりわからない。
「私と体を重ねろ。それだけでいい。後は私が導いてやる」
洋一が自分を指して言う。当然、彼には精神体となった由里の姿が見えている。
(か、重ねるって……もしかして)
由里の頭の中に妄想が広がる。
「重ねるといっても、ただぶつかるだけだ。早くしろ」
(うっ……あたしとしたことが、堀川くんみたいなことを……)
思わず出てしまった自分の行動を、由里は心底後悔した。
(ま、真面目にやらなきゃっ。洋一くんを助けられるのはあたしだけなんだからっ)
由里は洋一の方へ移動した。精神体なので、念じるだけで進んでいく。
そして目の前まで来ると、由里は止まった。
「どうした?」
(こ、これ以上、近付けないわよ……)
恐いし、照れくさいし。
「ふっ、まあいい」
ぱちん、と洋一は指を鳴らした。途端に、彼の体から黒い炎のようなものが吹き出した。そしてそれは地面を這い、由里を囲むように円を描く。
「きゃっ」
思わず顔を覆う由里だが、熱くはない。
「安心しろ、これは結界だ。邪魔が入らないためのな」
「えっ……?」
いつの間にか、周囲は真っ暗になっていた。見えるものは洋一の姿だけだ。
「こ、ここは……?」
「ゆ、由里ちゃん……」
洋一が呟いた。
「え……?」
先程までとは様子が違う。
「よ、洋一くんなの?」
「そうだ」
と聞き覚えのない男の声が答える。
「だ、誰?」
「訊くまでもないだろう。私はラグナニードだ」
そう言うと、洋一の隣に人の形をしたものが浮かび上がる。すらりとした細身の体型で、外見は三十代くらいの男だった。なかなか渋い顔をしているが、彼こそが全ての元凶なのだ。
「ラグナニード……」
由里は唇を噛み、決意を新たにした。
第九章
「ラグナニード……」
由里は目の前に立つ男を見据えていた。
「そんなに睨まないでほしいな」
ラグナニードは余裕の笑みを浮かべている。
「ゆ、由里ちゃん……」
呟いた洋一の顔は、随分とやつれている。
「しっかりしてっ」
一応警戒しながら、由里は彼の側に寄り添った。
「洋一くんに何をしたのっ?」
「おいおい。彼がこうなったのは、君のせいなんだぞ」
「え……?」
「ひとつの肉体にみっつもの精神があるんだ。彼に負担がかからないはずはあるまい?」「うっ、そ、それは……」
言われなくてもわかっている。しかし、ほかに有効な手段がなかったのだ。
「もう少し我慢しててね、洋一くん。あたしがきっと助けてあげるから」
「由里ちゃん……」
「ふふふ、えらく自信があるようだな」
「……と、とにかく、洋一くんは返してもらうわよ」
由里は洋一を隠すように、彼の前に立った。
「もう何度も言ったが、そういうわけにはいかんのだよ」
ラグナニードは笑みを浮かべ、足を踏み出した。二人に近付いてくる。
「くっ……」
由里は唇を噛んだ。どうしようもない絶望感。攻撃されたらひとたまりもないのは、痛いほどわかっている。
(せっかく洋一くんに会えたのに、ここまでなの? あたし、どうしたら……)
結局は何もできないまま、ラグナニードは彼女のすぐ目の前までやってきた。そこで足を止める。
「まあ、そう睨むな。力ずくで奪うつもりはない」
「え……?」
「もしその気なら、わざわざこんなところへ呼んだりしないさ」
「じゃ、じゃあ、どうしようっていうの?」
「せっかく精神の中にいるんだ。精神で勝負しようじゃないか」
ぱちん、と彼は指を鳴らした。
すると、由里の周囲の景色が一新した。洋一とラグナニードの姿も消える。
「え……?」
そこは森の中だった。ジャージを着てリュックを背負い、周りには五人のクラスメートがいる。
「こ、これは……」
状況把握にしばらく時間がかかったが、去年の夏休み前に行われた、オリエンテーリングだ。間違いない。
「ど、どういうこと? あたしに何をさせる気?」
呼びかけても、ラグナニードは答えを返してはこなかった。
「……本当に、どうしろっていうのよ……」
由里はため息をつき、肩を落とした。
「あ、あの……真村さん?」
男子がおそるおそる話しかけてきた。
「どうしたの? いきなり叫んだりして……」
「え?」
由里ははっとした。同じグループの皆が、自分の方を不思議そうに見ている。
「あ、べ、別に何でもないのよ。気にしないで」
「そう……。ならいいけど」
「ま、由里がわけわかんない行動取りたくなるのもわかるわよ」
と勘違いした女子が言う。
「あたしたち、完全に迷っちゃったみたいだしね」
(あ……このときのか)
と由里は思った。
確か全三日行程の二日目の昼である。何故迷ってしまったのかというと、地図が間違っていたためだった。というのも、地図は自分たちで作るからだ。出発前に各班に地図が配られ、制限時間三分以内で書き写すのである。チェックポイントは全部で十個あり、各班はそのうち五つを通ることになる。各ポイントは先生が待機しており、スタンプをもらう。その際、サービスで何かアイテムもらうことができる。食料や水、替えの服、果物ナイフにタオルなど。他には地図を見せてもらうこともできる。由里のグループは、現在四つ目のチェックポイントへ向かう途中で止まっている。ここまで割と順調に進んでいたのに、四つ目のポイントがどうしても見つからないのだ。地図は全員が書き写していたが、全員途中から微妙に異なっており、どれを当てにすればよいのかわからない。
完全に行き詰まっている状態だ。
「どうする、これから?」
誰かがぼやくように言った。
「どうしようもないとは思うけど、ここでじっとしてるのもねえ……」
「あ〜あ、豪華優勝賞品、家族で海外旅行……あきらめるしかないか」
「それも残念だけど、とにかくおなかすいた……。昨日から木の実しか食べてないし」
「やっぱり肉が食いたいよな。でも動物なんか滅多にいねーし」
それ以前に、つかまえて料理することもできないのだが。
「みんな、大丈夫よ」
と由里は励ますように言った。
「きっともうすぐ助けが来ると思うから」
そう。洋一たちのグループが、助けてくれるはずなのだ。
「……助けって、誰が助けに来るのよ?」
「第一 、わざわざ助ける奇特な奴がいるのかねえ」
「棄権すれば、先生が助けに来てくれるけどね」
「え、え〜と……そ、そうね」
由里は困った顔で頭を掻いた。
(失敗失敗。余計なことは言わないでおこう)
未来を知っていても、あまりいいことはないものだ。
「ん?」
ふと、こちらにやってくるひとつのグループの姿が目に入った。
「あれは……」
間違いない。洋一たちのグループだ。
「ほら、みんな。助けが来たわよ」
「え?」
由里の言葉に、一同は振り返る。
「おーい」
克彦が先頭で、手を振っていた。
「ほ、本当に助けにきたのか?」
「俺たちから食料を奪おうってんじゃないだろうな」
「そんなもん何もないぞ」
「もう、みんな疑り深いわね。大丈夫だったら」
「由里の知り合いなの?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
この時点では、顔も知らないのである。下手なことはいえない。
ともかく。洋一たちと合流し、道に迷ったことと食料を分けてほしいことを話した。
豪華賞品のかかった、オリエンテーリングである。他人を蹴落としてでも優勝しようとするグループもあるというのに、洋一はにっこり笑い、地図を見せてくれて食料も分けてくれたのである。あまりの気前の良さに、逆に戸惑ってしまったぐらいだ。
「い、いいのか……?」
「困ったときはお互い様って言うじゃないか。遠慮せずにどうぞ」
グループリーダーである洋一がそう言うのだから、彼のメンバーも反対はしなかった。ついでにここで休憩することにしたらしい。現在は由里たちと同じく、四つ目のチェックポイントへ向かっているということだ。
「俺と洋一だけなら、今頃とっくにゴールに着いてるんだけどな」
と将人がぼやくように言う。
「こら将人。この克彦くんの存在を忘れてやしないか?」
「……お前はうるさいだけで役に立たん」
「なにぃっ」
「ま、まあまあ」
と洋一がなだめる。実際のところ、このグループがここまで迷いもせずに来られたのは、ほとんど将人のおかげだった。正確に地図を書き写し、方角を測り、小動物を捕らえて肉を調理する。洋一はそれを手伝ったくらいだが、十分役に立っている。克彦や他の女子は……何もしていないと言っていい。いや、強いていえば克彦はムードメーカーだろうか。将人にとってはうるさいだけだが。
「ほら、お腹すいてるんでしょ? 食べなよ」
洋一が由里の前にやってきて、銀紙を差し出した。その中には焼いた肉がくるまれている。
「あ、ありがとう」
由里は少し緊張気味に笑みを浮かべ、それを受け取った。髪型も体型もあまり変わらないはずなのだが、何だか新鮮に見える。
(結構かわいいかも)
くすっ、と由里は小さく笑った。
「ん? どうかした?」
洋一が不思議そうに首を傾げる。
「う、ううん、何でもない。それよりすごいね。ウサギ捕まえて、火をおこして、こうして調理できるんだから。あたしたちなんて、もう全然駄目で……」
「えっ……?」
洋一は驚きの声を上げる。
「よ、よく中身がウサギだってわかったね。まだ開けてもいないのに……」
「えっ、いや、その……に、匂いでね。あたし鼻いいから」
そうやってごまかそうとしたのだが。
「へえ……。匂いで何の肉かがわかるなんて、すごすぎるなあ。そんなにしょっちゅうウサギを食べてるの?」
「うっ……。た、食べたことないけどね……」
何だか墓穴を掘ってしまったようだ。
「ま、それはともかく、ちゃんとサバイバルの授業受けておけば、これくらい平気だと思うけどなあ」
「そうもいかないわよ。簡単に言うけど、ほとんどの人にとってはこういうの初めてなんだから。あたしも手が痛くなるまで練習したけど、いまだに火も起こせないし」
「まあ、一年生のうちはつらいかもね。先生がいってたけど、二年や三年になるとほとんどの人ができるようになるらしいよ」
「だといいけどね」
そんな風に話して十分程過ぎた頃。
「おい、洋一。そろそろ行こうぜ。あまり休んでると、他のグループに先を越されるぞ」
将人がせかすように言った。彼は優勝を狙っているのだ。
「うう〜ん、今回もナンパは失敗に終わったか……」
納得がいかないとでも言うように、克彦は首を傾げている。こんなときにナンパしようとすること自体が間違っている。
「それじゃ、僕たちは行くから、君たちも頑張ってね」
「あ、あの……あたし、真村由里っていうの。覚えておいてくれる?」
去ろうとする洋一に、由里は言った。
「う、うん。僕は原田洋一。じゃ、また会おうね」
手を振り、洋一たちは歩いていった。結果、彼らは今回のオリエンテーリングで二位となる。五つめのチェックポイントまではトップだったのだが、女子に体力がなかったため、スローペースで歩いていたら抜かれてしまっていたのだ。将人は悔しがっていたが、洋一はたいして気にしなかった。二位の賞品は、二、三万円のものが数点用意してあり、その中から好きなものを選んでもらえるという仕組みだ。海外旅行よりこっちの方がいいというのが本音である。
「ねえ、由里」
同じグループの女子が話しかけてきた。
「あんた、さっきの人知り合い? 随分親しそうに話してたけど……まさか彼氏だとか?」
「え、えええっ? ち、違うよぉ」
由里は慌てて首を振る。
「ホントに〜?」
「う、うん。ホントにさっき会ったばかりで……」
「ふ〜ん、まぁいいけど。気になるんなら、彼のこと調べて上げようか?」
「だから、違うってばぁ」
「そう。とにかく、あたしらもそろそろ出発しようか?」
「うん」
と頷きながら、由里は思う。
つい洋一と話し込んでしまったが、本当なら疲れていて一言か二言しか会話を交わしていないのだ。しかしその短い会話で何だか気になってしまって、彼女にクラスや名前を調べてもらったのである。そして実際に学校で見かけても、なかなか話しかけることはできなかった。
(でも、今なら気兼ねなく話しかけられるし、まさか付き合うことになるなんて、思いもしなかったなぁ)
「あれ? 君は確か……」
「え?」
後ろからした声に思わず振り向くと、すぐ目の前に洋一の顔があった。
「きゃあっ!」
「うわっ!」
由里の悲鳴に驚き、洋一はのけぞる。
「え、あれ? どうして?」
周りを見ると、ここは見慣れた学校の廊下である。
「な、何で洋一くんがここに?」
「何でって……見覚えのある子がいたから、声かけてみたんだけど。それより、君も僕のこと覚えていてくれたみたいだね。忘れられてたらどうしようかと思ったよ」
「え? あ……ああ!」
ようやく由里は状況を理解できた。おそらくオリエンテーリングが終わった後の、二学期でのことだろう。再会……というと大げさだが、あれから初めて洋一と会ったときのものだ。
「そ、そうね。あのときはありがとう。洋一くん」
「え、え〜と、あの、言いにくいんだけど……」
「なあに?」
「君の名前、何ていうんだっけ? 顔は覚えていたんだけど、忘れちゃって」
「がくっ」
と由里は思い切り肩を落とした。
「そ、そりゃないでしょ……」
「いや、悪気はないんだけど、ごたごたしてたし……。あ、それ以前に名乗ったっけ?」
「もう、教えたじゃない。しっかりしてよ」
ぶつぶつ文句を言いながらも、由里は名前を教えた。
「今度こそ忘れないでよ」
「ごめんごめん、もう大丈夫。じゃあ、また」
と彼は歩いていった。
(もう、洋一くんたら……あたしの名前を覚えてないなんて)
そこまで考えて、ふと思う。
(そういえば、元々は名乗ってなかったような……)
一言二言しか話していないのだから、名乗る暇などなかった。今のが先程の続きではなく、経験した過去のものなら、洋一が名前を知らないのも当然である。
(もしそうなら、悪いことしちゃったかな……)
しかし、それにしてもラグナニードは何を考えているのだろう。
(こんな、あたしに過去を繰り返させて、どんな意味が……)
「ゆーりちゃん」
いきなり知らない男子に、肩を叩かれた。
「え?」
驚いて振り向くと、また周囲の景色が変わっていた。
体育館へと続く廊下である。
(何で、あたしこんなところに……?)
目の前の男子も、見覚えがあるようなないような……。
「あ、あの、あたしに何か?」
後ろに一歩下がって訊ねると、その男子も一歩近付いてきて言った。
「あー、何か他人行儀だなぁ。俺と由里ちゃんの仲じゃない」
「は……?」
彼は一体何を言っているのだろう。さっぱりわけがわからない。
「あ、あの、あなた誰ですか?」
「ええっ? ひでえなぁ、俺のこと忘れたってわけ?」
「忘れるも何も、最初から知らないんですけど」
「ほら、思い出せないかなぁ? 俺だよ、俺」
「だから誰ですか?」
さっさと名前を出せばいいのに。と思った由里だが、ふと思い出す。
「ああ」
ぽんと手を打った。
「ん? 思い出した?」
「ええ。あなた、ナンパしてんでしょ」
「なっ……」
「図星でしょ?」
洋一と付き合ってからめっきり減ったので、本人も忘れていたのだが、由里はもてるのである。こういう風に、全然知らない男子から親しげに言い寄られることもしばしばあった。まあ、由里としては興味がないのと、好みの相手がいないせいもあり、すぐに断るのだが、中には彼のようにしつこい者もいる。記憶によると、洋一が助けに来てくれるはずなのだが……。
(洋一くん、どこかな?)
由里は周りを見たが、姿は見えない。
「なあ」
とその男子は由里を睨み、肩をつかんだ。
「ちょ、ちょっと、痛い」
「ナンパでも何でもいいじぇねえか。俺と付き合ってくれよ」
「そ、そんな脅しみたいなことされて、付き合うわけないでしょっ」
どうせ、彼の目当ては体だけなのだ。
(洋一くん、早く来てよ)
でないと、そろそろ身に危険が……。
「もしもし」
由里の後ろで声がした。ドキッ、と思わず胸が高鳴る。
「何だよ、邪魔すんなよ」
男子が睨む。
「そういうつもりはないけどね」
洋一はにっこり微笑んだ。
「駄目だよ、女の子に乱暴しちゃ。それと、もうすぐ授業始まるよ」
その言葉と同時に、予鈴が鳴る。
「……ちっ……」
彼はばつが悪そうに由里を離し、去っていった。
洋一もそのまま何事もないように去ろうとする。
「あ、あの、洋一くん」
由里が呼び止めた。
「どうもありがとう。助かったわ」
「うん? ああ、どういたしまして」
と彼は軽く手を振る。
(う〜ん、あのさり気なさ。洋一くん、格好いい)
助けるにしても、熱くならずに、ああいう大人の判断ができるところが彼のいいところである。
由里がしみじみとそのことを感じていると、ふいに涼風が通り抜けた。
「?」
気が付くと、そこは屋上だった。
「え、え〜と、あの、困ったな……」
隣には眉を寄せた洋一が、頭を掻いていた。
「何が困ったの?」
「いや、だって、いきなり付き合ってほしいなんて言われても……」
「え?」
「え……?」
一瞬の沈黙の後。
「……あ、そっか」
どうやらたった今、洋一に告白したところらしい。ラグナニードがころころと場所と時間を変えるから、混乱してしまう。
「ど、どうしたの?」
と洋一が訊ねる。
「ううん、何でもない。それより返事は?」
「え、え〜と、どうしようかな」
「……どうして悩むのよ? 嫌なの?」
「別に嫌なわけじゃないよ。真村さんのことも好きだし。ただ、付き合うとなるとちょっと面倒かなと思って」
「……何それ? 洋一くん、付き合うってこと、難しく考えすぎじゃない?」
「そうかな? まあ、学校の中で仲良くするぐらいの付き合いならいいけど。デートとか興味ないし」
「…………それじゃ、今までと変わらないじゃない。洋一くん、あたしのこと女として見てないんでしょ。将人くんや克彦くんと同じ感覚なんだわ」
「……そんなことないよ。真村さん可愛くてみんなにもてるし、僕も魅力的だと思うよ」
気恥ずかしいセリフを、洋一は照れもせずにはっきり言った。
(何か、交わしてる会話が記憶と違う気がする……)
由里は話していて思った。それが何故か、自分でもわかっている。悩んではっきりしない洋一に、今までの不満が思わず口をついて出たからだ。
「真村さん、さっきは変なこと言ってごめん。僕でよければ付き合うよ」
「……別に無理しなくていいよ。嫌なら断ればいいんだから」
「嫌じゃないから、言ってるんだよ。付き合っていれば、きっと面倒なんて思わなくなるだろうからさ」
「あたしのこと……好きなのよね?」
「うん。好きだよ」
真っ直ぐに由里を見据え、洋一は答える。
「…………」
そう言われても、由里にはいまいち納得できないものがあった。付き合い始めてからも、心の奥でずっと疑問に思っていた。彼は本当に自分のことが好きなのだろうか、と。
「なるほど。君は洋一が好きだが、洋一は君のことが本当に好きなのかわからない。それが不満なわけだな」
耳に聞こえた男の声に、由里ははっと顔を上げた。
「ラ、ラグナニード……」
ここは元の真っ暗な空間、洋一の精神の中だ。後ろに洋一を確かめてから、由里は声を荒げた。
「い、今まで……ずっと覗いていたのねっ。失礼だわ、一体何の目的でこんなことっ」
「覗くも何も、ここは精神の世界だ。強い想いは嫌でも伝わってくる。そこの洋一にもな」
「え?」
思わず振り返るが、洋一は疲れたように立ちつくしたままだ。
「もっとも、そう仕向けたのは私だから、言い訳に過ぎないか。しかし、どうだね洋一
? 彼女の想いを聞いて、何か言いたいことはないのか?」
ドキッとして由里は洋一を見つめた。
「…………」
洋一も顔を上げて由里を見る。
「僕は……好きだよ、由里ちゃんのこと。あのときはとまどってただけで……本当に面倒だと思ってるなら、付き合ったりしないよ」
「…………」
由里は呆然とした。
嬉しい、とすぐに思おうとした。しかし心の奥では、どうしてもその言葉を納得しきれない。
(あたし、嫌な子かな……)
素直に受け止められたらいいのに……。
「やはり、言葉だけではだめみたいだぞ、洋一」
ラグナニードが口を挟む。
「…………」
洋一はうなだれた。
「ちょ、ちょっとっ」
と由里は言った。
「これはあたしと洋一くんの問題で、あなたには関係ないじゃない。どういうつもりよっ」
「最初に言っただろう。これも勝負のうちだ」
「どこが?」
「いずれわかる。それより、今度は洋一の番だな。お前の知りたいことがわかるかもしれんぞ」
ぱちん、とラグナニードは指を鳴らした。
情景が変わり、周囲が明るくなった。
由里の中にイメージが流れてくる。
そこは、見知らぬ家の中だった。居間にあるソファーで、誰かが足を組みながら、一人新聞を広げて読んでいる。
(あ、洋一くん……)
それは洋一だった。行ったことがないのでわからないが、おそらくここは彼の家なのだろう。
(一体何が起きるの……?)
由里の胸は不安と緊張でどきどきしていた。
「お兄ちゃん、コーヒーできたわよ」
ふいにキッチンの方から、髪の長い少女が入ってきた。背が高く細身の体型で、顔立ちも美人系である。童顔の由里に比べて随分大人っぽい。
「ああ」
洋一は顔を上げ、新聞をたたむと、彼女の持ってきたカップを受け取った。
(誰……? 妹さん……?)
そういえば、由里は洋一の家族構成も知らない。今まであまり気にしなかったが、知らないことだらけである。
「どう?」
「うん、おいしい」
洋一は一口飲み、カップを目の前の小さなテーブルに置いた。
「よかった」
そう言うと彼女は、跳ねるようにしてソファーに腰を下ろした。その弾みを利用し、隣の洋一にしなだれかかる。
「おい、由美」
と洋一は注意するが、
「まあまあ」
彼女に気にした様子はない。
「それより、面白い噂を耳にしたんだけど。お兄ちゃんが、とっても可愛い女の子と付き合い始めたっていう……」
洋一はわずかに驚いたような視線を向ける。
「……そんな話、どこから……」
一つ年下の妹は、別の高校に通っていて、洋一の学校でのことなど知らないはずだ。
「ん〜とね、電話で克彦くんから。あの人あたしみたいな美人に弱いから、最近変わったことない? って訊いたら、そのこと話してくれたの」
「あのなあ……」
洋一は呆れてため息を付いた。そんなことをわざわざ訊く妹にも、ぺらぺらと話してしまう克彦にもだ。
「それで? 怒ってるわけ?」
「別に。お兄ちゃんが誰と付き合おうと、あたしは構わないわよ」
ちゅっ、と音を立てて、由美は洋一の頬にキスをした。
洋一は一瞬むずがゆそうな顔をしたが、抵抗はしない。
「その彼女とはどれくらい付き合ってるの?」
「つい最近だよ」
「ふ〜ん、じゃあキスもまだよね?」
「そうだな……デートもまだしてないよ」
「あらら。誘わないの?」
「何となく……。面倒だし」
「あーあ、彼女かわいそう」
そう言いながらも、由美は笑みを浮かべている。そして目を閉じ、顔を上げた。
「お兄ちゃん」
「…………」
わずかに間を置いてから、洋一は由美の唇に軽くキスをした。
「うふふ……、あたしたちがこういうことする仲だって知ったら、彼女どう思うかな」
「さあ……。やっぱり悲しむんじゃないか? 別に嫌われてもいいさ」
洋一は由美を引き寄せ、ソファーに押し倒した。
「あ、お兄ちゃん。嬉しいけどもうすぐ学校が……」
「まだ時間はある」
そう言うと、洋一はもう一度キスをした。
その光景が消えた後も、由里はしばらく声も出せずにいた。
「ふふふ、相当に驚いたようだな……」
思い通りの展開に、ラグナニードは笑みを浮かべている。
「違う、由里ちゃんっ。こんなのは違うっ」
洋一は思わず声を張り上げ、由里を後ろから抱きしめた。
はっ、と由里は息を呑む。
「騙されるなっ。これはラグナニードの作った幻だっ。僕には妹なんか……」
いないんだ、と続けようとしたが、洋一はその言葉を言い終えることができなかった。
「いっ……いやあああああっ」
由里は全てを拒否し、絶叫した。
そして洋一の精神の中にいることをも拒み、その姿がかき消える。
「由里ちゃんっ」
「ははははは、残念だったな、洋一。お前の恋人はお前を信じることもできんらしい」
「くっ……」
「これであきらめもついただろう。よかったな、無駄に希望を持たずに済む」
唇を噛む洋一の耳に、ラグナニードの笑い声が容赦なく響いた。
「……うぁぁぁあああっ」
その笑いを掻き消すように、洋一は叫んだ。消えかけていた力が彼の中から沸き起こり、どん、という衝撃がラグナニードを襲う。
「むっ」
一瞬顔をしかめるラグナニードだが、彼を吹き飛ばす程の力ではない。
「……驚いたな、こんな力があったとは。しかし、その程度では私を追い出すことはできんぞ」
唇の端に笑みを浮かべると、ラグナニードの体から煙のように闇が立ち上る。
「最後の勝負といこうか、洋一。勝手に出てこれないよう、意識の奥に閉じこめてやるぞ」
「お前の方こそ出ていけ、ラグナニードっ」
洋一が怒りの形相で睨み付ける。
そして、二人の意識がぶつかり合った。
由里は目を開け、体を起こした。
「由里ちゃんっ」
霞が声を上げ、皆が周りに集まってくる。
どうやら精神体から肉体に戻ったらしい。
「どう? うまくいったの?」
「こうして戻ってきたんだ。当然成功だよな?」
と無責任に克彦が言う。
だが、由里は座り込んだまま何も答えない。
「……おい、どうしたんだ?」
怪訝そうに首を傾げる。
「ねえ、ちょっと。洋一くん、まだ結界に包まれたままよ」
霞が黒い塊を指して言った。
「……失敗、したのか?」
「…………」
訊ねても、由里は答えなかった。
「おい、何とか言えよ」
「あたしには、無理だったのよ……」
「何が無理だよ。洋一をあのままにしておくのか?」
「じゃあ、堀川くんが行って。あたしにはもうできない……」
「何か、むかっとするな。そのいじけた態度……」
「まあまあ。ねえ由里ちゃん、何があったの?」
霞が優しく訊ねる。
「…………」
「黙っていたらわからないわよ。洋一くんと喧嘩でもしたの?」
「そうじゃないけど……。ただ、洋一くん、あたしのことなんかどうでもいいみたい」
「どうして? 洋一くんがそう言ったわけじゃないんでしょ?」
「……彼は否定してたけど、あたしはもう信じられない……」
「洋一くんのこと、好きじゃなくなったってこと?」
「……わかんない……」
「だああっ、うじうじしてんなよっ。らしくないぞっ。こっちがいらいらしてくるっ」
頭を掻きながら、克彦が怒鳴る。
「だって……」
「だってじゃない。第一、今は好きとかどうとか行ってる場合じゃないんだ。このままじゃ、洋一の体は乗っ取られたままなんだぞ。お前、そうやっていじけて見捨てる気か?」
「そ、そうじゃないけど、……あたしには、洋一くんを連れ戻す力はないよ」
「お前なあ……」
克彦は呆れ顔になり、ため息を付く。
「ま、まあまあ、克彦くん言い方きついわよ」
霞がなだめる。それから由里の方を向き、
「ねえ、由里ちゃんは洋一くんに好かれてないと思ってるの?」
「……洋一くん、あたしのこと、友達としか思ってないみたいなの……」
「……そう。だから、由里ちゃんは彼のこと好きじゃなくなったのね? 好かれてないと、嫌いになっちゃうのね?」
「違うよ……」
「……その様子からすると、まだはっきりしたわけじゃないんじゃない? だったらだめよ、行かなきゃ」
「そうかな……」
俯いていた由里が、ゆっくりと顔を上げた。
「うん」
と霞は頷く。
「あの、由里さん」
突然フレアが話しかけてきた。
「今は緊急事態です。ラグナニードは何故かまだ結界を作ったまま出て来ない。チャンスを逃すわけにはいきません。あなたが行かないのなら私が行きます。構いませんか?」
「べ、別に、あたしに断らなくてもいいよ……」
由里にはまだ、洋一に会う勇気はなかった。
「……そうですか」
フレアはクラウズの種を手にした。
「由里さん。洋一さんは、そんなに信じられない人なんですか?」
「え……?」
「私には、由里さんのことを大切にしているように見えました。でも照れていたようですから、わかりにくかったのかもしれませんね」
「…………」
「ともかく、彼が戻ってきたら、よく話し合ってくださいね。きっとすぐに分かり合えると思いますよ」
そう言うと、フレアは種を飲もうとした。
「あ……ま、待って」
由里は思わず手を伸ばした。
「行きますか?」
待っていたかのように、にっこり微笑むフレア。
「う……うん。行ってみる。洋一くんの口から本当なのか訊かないと」
「はい。頑張って」
フレアは種を渡した。
「うん、ありがと」
すぐに由里はその種を飲み込む。
しかし、それが効果を表すまで三分待たねばならない。
「うう〜、早く早く」
緊急事態であるから、その間、非常に苛立たしく、また暇で仕方ない。
「まあ、落ち着けよ。さっきまで落ち込んでたのに、変わり身の早い奴だ」
と克彦。
「放っておいて」
と由里は睨む。
念のために、フレアたちは洋一の周りを囲み、戦う準備をしている。
「早く、三分立って」
由里はじっと黒い結界を見つめていた。
早く真相を知りたい。早く洋一を助けたい。
(でも……)
心に引っかかることがある。
もし本当に、何とも思われていなかったらどうしよう。
(ううん、今は考えないでおこう)
まずはとにかく、話しをしなくては。
そして由里は、種の効果が出るのを待つ。が、一分が過ぎた辺りで、結界に変化が起きた。黒い塊が激しく震え出す。
「な、何だ!?」
身構える一同。
「ぐぁぁぁああああっ!」
結界の中から、洋一の絶叫が聞こえてくる。
と同時に、結界が弾け、生身の洋一が現れた。
「洋一っ!」
克彦が呼びかける。駆け寄りたいところだが、まだどうなっているのかわからないから危険だ。自力でラグナニードを追い出したのか、それとも逆に、意識を閉じこめられたのか。
「ぐううっ……」
その場で立ったまま、洋一は苦しげに呻いていた。その体には、黒い霧のようなものがまとわりついている。
「あれは……」
「もしかして、ラグナニードの精神体?」
霞と克彦が顔を見合わせる。
以前、洋一はラグナニードを見て、黒いもやのようなものだと言っていた。そのときは洋一にしか見ることはできなかったが、もしかしたらこれがそうなのかもしれない。
「あの黒いのがラグナニードなら……姿が見える今がチャンスですね」
とフレアが言う。この際、何故見えるようになったかはどうでもいい。
「もしかすると攻撃も通じるかもしれません」
「だめっ、そんなことしたら洋一くんまで大怪我するわっ」
由里が止めに入る。
「しかし……」
「あのな、今は話し合ってる暇はないんだよっ」
そう言って、ハイディルは手の中に風のエネルギーを溜め、攻撃を仕掛けようとする。
「あっ……」
と息を呑む由里だが、
「待ちなさいっ」
「ぐえっ」
アクアはハイディルを殴り、強引にそれを止めた。
「やれやれ、じゃあ続きどうそー」
とアクアは由里とフレアに手を振った。
「……あ、あのっ」
気を取り直して、由里は言った。
「あたしが……何とかするからっ。絶対何とかするからっ」
「…………」
フレアは彼女の真剣な目を見て、にっこり笑った。
「そうですね、あなたなら何とかしてくれるかも……」
「うむうむ、愛の力は偉大なのだっ」
突然ラーディーが口を挟んできた。
「お、王様……」
「さあ行きなさい、由里さん。今度こそ彼を取り戻すのだっ。君ならできるっ」
ばしっ、と力強く両肩を叩かれる。
「は、はいっ」
少し痛かったが、気合いが入った。
「そうだ、頑張れ真村っ」
「ラブラブパワーを爆発させるのよっ」
「うんっ」
克彦と霞に後押しされるように応援を受け、由里は走った。
第十章
洋一の精神世界では、洋一とラグナニードの、二人の意識がぶつかりあっていた。形としては、互いのエネルギーの奔流が、押し合っているように見える。二人は向かい合ったまま動かないが、情勢は何と、洋一の方が押していた。ラグナニードの顔に焦りの色が浮かぶ。
「ば、ばかな……何故お前にこんな力が……。この私が精神勝負で普通の人間に押されるなど……」
「お前が何者かなんて知らないけど、そんなことどうでもいい。今すぐ僕の中から出ていけっ」
洋一の怒りが、ラグナニードに勝っていた。
「くっ……」
圧力で押し潰されそうになり、これ以上は耐えられなかった。
(仕方ない、一旦出るしかないか)
もちろん、それであきらめるわけではない。今の洋一は限界以上の力を出している。その力を使い果たしたとき、再び入り込むのだ。
(意外だったが、もうこんなことはあるまい。今度は面倒がないよう意識を閉じ込めておくとしよう)
そう考えながら、ラグナニードは洋一の中から抜け出した。
「やった……」
と洋一は息をつく。自分の精神の中、つまり夢のようなものだが、どっと疲れた気がする。ともかく、これで一安心だ。
「早く、由里ちゃんの誤解を解かないと……」
しかし、誤解を招くような行動をしていたことも、思い返すと多々ある。
「今度から、もう少し何とかしよう……。いや、少しじゃだめだな。今まで友達のようにしか接してなかったんだから……」
ふと、そうだ、と思い付く。
「今まで三回しかデートしたことなかったから、僕の方から誘ってみよう」
そう決めると、早く由里に会いたくなってきた。
洋一はこの夢から覚めるため、意識を休めた。このときの彼は、由里のことばかり考えていて、ラグナニードの存在などすっかり忘れていた。目覚めた後に訪れるであろう、幸せな日々を信じて。
意識が外の空気に触れた瞬間だった。目覚めたばかりの体に、激痛が走った。
「ぐぁぁぁあああっ」
絶叫する洋一。
(ふふふ、油断したようだな)
ラグナニードの声が、頭の中に響いてくる。姿は見えない。いや、体に黒いもやがまとわりついていた。何度も見た、ラグナニードの精神体である。
「ぐぅっ……」
後悔しても遅かった。もうほとんど力は残っていないから、再び乗り移られるのも時間の問題だろう。
「せっかく……追い出したと思ったのに……」
段々と、体が浸食されていく。
もう助かる道はないのだろうか。
「……あっ……」
洋一は目を見開いた。
苦しみに耐える彼の視線に、希望の光が映し出されたのだ。
「ゆ……由里ちゃん……」
「洋一くんっ」
由里が、こちらに向かって走ってきていた。
一瞬、洋一の顔に喜びの表情が浮かんだが、今はそんな状況ではないことに気付いて叫んだ。
「だめだっ。由里ちゃん、来るなっ」
しかし、彼女は止まらなかった。
「ラグナニードがいるんだっ。危険だっ」
それでも、彼女は止まらなかった。
「由里ちゃんっ」
「大丈夫っ」
ついに目の前まで来た由里が、立ち止まって言った。
「ラグナニードならあたしにも見えてる……。大丈夫だから……あたしは洋一くんを助けにきたんだから……」
「由里ちゃん……」
(この女は……何を考えているんだ?)
ラグナニードは呆気にとられて、思わず動きを止めていた。彼女が何をしようと、助けられるはずがない。それなのに、妙に自信を持っている。
「む、無茶だ……どうやって助けるって言うんだ……」
洋一にも、由里が何を考えているのかわからなかった。
「その前に、質問に答えてくれる?」
「えっ?」
「さっき……あたしが洋一くんの精神の中に入ったよね。そのときに見た妹さんとのこと……あれは本当のこと?」
「違う。僕は一人っ子だから、妹なんていないんだ。あれはラグナニードが勝手に作ったことだ」
「……嘘じゃないよね?」
「ああ」
(……いや、そうでもないぞ)
突然太い男の声が割り込んできた。
「ラグナニード……」
と由里が呟く。どうやら彼女にも聞こえるようにしたらしい。
「何がそうでもないんだ?」
(あの映像は確かに私が作ったものだが、まるっきりの嘘でもないということだ。つまり、あれは洋一の心にある願望を引き出したものなのだ。そうだろう、洋一?)
「…………」
「そうなの、洋一くん?」
と表情を変えずに由里が訊ねる。
「そ、それは……男だったら誰でもあることじゃないか」
(くくく、開き直ったか)
ラグナニードが苦笑する。
「そうよね……洋一くんは男だもんね……」
「由里ちゃん……?」
由里は笑顔を浮かべていた。
「ねえ……洋一くん」
「え?」
「洋一くんは、あたしのこと好き?」
「えっ……あ、ああっ、好きだよっ」
洋一は力強く答えた。
「ありがとう。でも、言葉だけじゃ信用できないな」
「えっ……?」
「やっぱり、その、態度……で示してくれないと」
そう言うと由里は、自分の言葉に照れて顔を赤くした。
「た、た、態度っていうと……」
言うまでもない。キスすることだ。
洋一も顔を真っ赤にした。だが、いつまでもだらしなく突っ立ているわけにはいかない。ここで態度をお示さねば、由里は離れていってしまうだろう。男たる者、決めるときは決めねばならない。
「ゆ、由里ちゃん……」
洋一は彼女に近づこうと、一歩足を踏み出した。
「よ、洋一くん……」
由里も緊張に体を堅くする。
だが。
(……くだらん)
ラグナニードがため息を付いた。
「ぐわああああっ」
洋一の体に再び激痛が走る。
「洋一くんっ」
由里は声を上げた。だが、それ以上何もすることができない。
(全く、お前たちは状況というものがわかっていないようだな。悪いが、このまま洋一
の体は乗っ取らせてもらう)
「だ、だめぇっ」
思わず由里が駆け寄って来る。
(……バカが)
「きゃっ」
黒いもやに触れた途端、由里は弾き飛ばされた。
「ゆ、由里ちゃんっ」
身を乗り出す洋一だが、その場からは一歩も動けなかった。
(ふふ、あきらめるんだな)
ラグナニードが笑いを響かせながら、洋一の精神を飲み込もうとする。息苦しくなり、体が押し潰されるような感覚になった。
「うっ……ぐぐっ……」
洋一は膝をつき、胸を掻きむしった。喉の奥が乾いて熱い。
「洋一くん、しっかりしてっ。そんな奴に負けないで、あたしにキスしてっ」
由里が涙目になりながら、顔を真っ赤にして声を張り上げる。だが、そんな彼女をバカにするように、ラグナニードは笑った。
(……まだそんなことを言うとは、困った女だな、洋一。彼女はお前を助けるよりもキスがしたいらしいぞ)
「ぐぅっ……ゆ、由里ちゃん……」
洋一は歯を食いしばった。そして地面に足をつけ、懸命に立ち上がろうとする。
(お、おい、洋一……)
「頑張って、洋一くんっ。あたしはこっちよっ」
両手を広げ、由里は洋一が来るのを待っている。
(な……何なんだ、こいつらは……)
ラグナニードは驚きを隠せなかった。二人の行動は、彼の理解できるものではなかった。
「うぐぐっ……ぐっ……」
少しふらつきながらも、洋一は立ち上がった。体中を走る痛みは変わらないが、今はこれくらい耐えられそうな気がした。
洋一にも、自分が何故こんな行動をするのかわからなかった。ただ、由里にキスしたい、してあげたいと思っていることだけは確かだった。
「由里ちゃん……今行くからね……」
洋一はゆっくりと彼女に向かって歩き出した。
(くっ……そうはいかんぞっ)
焦りを感じたラグナニードは、全力を出して洋一の体を乗っ取りにかかった。
「ぐあっ」
突然増した力は、体内を巡る血を逆流させたかのようだった。体が硬直し、意識が吹き飛びそうになる。さすがに耐えきれず、洋一は地面に倒れ込んだ。
「洋一くんっ」
由里は悲鳴に近い叫びを上げた。
その声に、ラグナニードははっとした。
(しまった……思わず力を入れすぎたか……)
今のは、人間が耐えられる限界を越えていた。だから今まで我慢して力を抑えていたのに、これでは元も子もない。
(くそっ……私としたことが……)
やっとのことで見付けた貴重な存在を、自らの手で駄目にしてしまった。
ラグナニードはそうあきらめていたのだが……。
「洋一くんっ!」
由里が慌てて駆け寄ってきた。そして倒れた洋一の顔に手を触れ、何度も呼びかける。
「洋一くん、洋一くんっ。しっかりしてっ」
「ゆ、由里ちゃん……」
その声に反応して、洋一は目を開けた。
(ばかなっ……)
ラグナニードは驚愕した。
(何故動けるんだ? 信じられん……)
今の洋一は、死んでもおかしくない状態である。
それなのに何故? 何故?
ラグナニードの頭の中は疑問で一杯だった。
「大丈夫? 洋一くん」
「正直、あんまり大丈夫じゃないけど……」
洋一は苦笑しながら手を伸ばし、彼女の涙を拭ってやった。
「でも、君とキスするくらいの力は残ってるよ」
「もう、やだ……くさいセリフ……」
「何を今さら」
「それもそうね」
二人は静かに見つめ合う。
「……好きだよ、由里ちゃん」
「あたしも……」
惹かれるように、自然に唇が重なった。
(由里ちゃん……)
体の中を熱いものが駆け巡る。
それと、ほぼ同時だった。
「ん? んんーっ?」
由里の体が、力が抜けたようにもたれかかってきた。洋一は倒れたままなので、はっきりいって重い。しかもキスしたままなので苦しい。
「ぶはっ、ちょ、ちょっと由里ちゃん?」
何とか唇を離して呼びかけたが、返事はなかった。
「ゆ、由里ちゃん? どうしたの?」
(あ、あのー……洋一くん……)
控え目な声が頭の中で聞こえてきた。
「え? ゆ、由里ちゃん?」
(あはは……そういえばあたし、クラウズの種を飲んでたの忘れてたわ……。精神体になれる奴……今頃効果が出たみたい)
「そ、そっか。びっくりした」
(……驚いたのは私も同じだよ)
ラグナニードの声に、洋一は背筋がぞっとした。
(キスをしたいがためにそこまで強くなれるとはな……。全く、呆れた奴らだ)
(あ、あなたにはっ、その……愛というものがわからないのっ?)
多少恥ずかしそうにしながら、由里が問う。
(ふん、ばかばかしい。そんなに愛という言葉が好きなら、その愛とやらで洋一を守ってみせろ)
挑戦的にそう言うと、ラグナニードは洋一の体を乗っ取りにかかった。
「ぐああああっ」
ほとんど動けない状態の洋一に、またも激痛が遅う。
(洋一くんっ)
精神体の由里は、洋一にまとわりつく黒いもやを払おうと近付くが、肉体のときと同じように弾かれてしまった。
(きゃっ。ど、どうして……?)
(当然だ。いくら同じ精神体であろうと、力のないただの人間が、私に触れられるはずがないだろう)
(くっ……)
「ぐあ……あ……あ……」
洋一の声が段々と小さくなっていく。彼にはもう抵抗するだけの力が残っていなかった。
(よ、洋一くんっ)
何とかしたいと思いながらも、由里には何もできない。
(も、もうやめてよぉっ)
ラグナニードに懇願までしたが、彼が聞き入れるはずがなかった。
(ふふふ……もう忘れているかも知れないが、これはこの世界を賭けた勝負のはずだ。当然、負けるつもりはなかったがな)
(…………)
(しかし安心しろ。用が済んだらこの体は返してやる)
(ほ、本当に……?)
(ああ。ただし、そのときまでこの体が私の術に耐えられればの話だが)
ラグナニードは意地悪く笑う。
(……!)
(さて、話はここまでだ。お前はそこで見ているがいい)
.(……や、やめてぇっ)
由里の悲鳴が、朦朧とした洋一の意識の中に響いた。
(……ごめん、由里ちゃん……)
ここまで限界以上に頑張ってきたのだ。もう体も精神も疲れ切っていた。
(……くそっ)
悔しい。悔しいが、どうしようもなかった。
(……まだあきらめてはいけませんよ)
ふいに、聞き覚えのない女性の声がきこえてきた。
(だっ……誰だっ?)
(安心して……もう大丈夫だから……)
(……!)
もちろん洋一は不審に思った。こんなときに声が聞こえてくるなど、怪しいことこの上ない。だが、不思議と安心感はある。
(もう大丈夫……)
その声と共に、痛みがすうっと消えていった。
(だ、誰なんだ、一体……)
(私の名はドルジェ。この世界を創造した者です……)
(えっ?)
一瞬、言葉が理解できなかった。だが、ドルジェという名を思い出し、洋一は冷静を保って訊ねる。
(な、何故神様がここに……)
(お話は後です。今は彼を何とかしましょう)
ラグナニードが様子がおかしいことに気付いたのは、そのすぐ後だった。
(ど、どうなっている? 急に洋一の中に入り込めなくなるとは……)
いや、もうほとんど乗り移っていたのだ。それを、誰かの力で強引に戻されたように思える。
(ばかなっ……一体誰が私を押さえられるというのだっ)
「……私ですよ、ラグナニード……」
ラグナニードの前に、神話に出てくるような服を纏った、金髪の美女が現れた。
「えっ……?」
と、突然現れた彼女を見て、由里は驚きのまま固まってしまう。
だが、それ以上に驚いたのは、もちろんラグナニードの方だった。
(ま、まさかっ、ドルジェかっ? 何故お前がここにっ)
「お久しぶり……」
焦るラグナニードに、ドルジェは穏やかに微笑んで見せた。
克彦、霞、フレア、アクア、ハイディル、ラーディー、ユンファ、そしてリファインの兵士たち。彼らはずっと、様子を見守っていた。
由里が洋一とキスできたのはよかった。二人の愛を見せつけられた悪魔ラグナニードは、力を失って退散する。とラーディーは安易に考えていたのだが、そんなにうまく物事が運ぶものではないらしい。影響がなかったどころか、キスをするために洋一は力を使い果たしてしまったのだ。再びラグナニードに乗っ取りにかかられている。
見ているだけの彼らは、はっきりいって気が気じゃない。
「ね、ねえ、父様。愛の力はどうしたの……?」
アクアが沈黙しているラーディーに訊ねる。
「……う、う〜む……やはりまずかったかな……。単純に考えすぎたかも……」
「……………………」
その言葉に、辺りは完全な静寂に包まれた。
「……助けに、行くか」
とハイディルが言う。
「そうですね、急ぎましょう」
フレアはキィをかざし、魔人を動かそうとする。
と、そのときだ。
「ちょっと待ってくださいっ」
ユンファが叫び、指を差した。
「洋一さんの前に、誰かがっ……」
「えっ?」
全員の視線がそちらへ向かう。
「おおおっ。突然空中から謎の美女がっ」
拳を握って嬉しそうに声を上げたのは、もちろん克彦である。
「ほんとに謎ね……」
と呟く霞。あんな登場の仕方をするくらいだから、普通の人間であるはずがない。
「どうします、叔父様?」
「そうだな……」
ラーディーは顎に手をあて、考えた。
「……とりあえず、様子を見よう。状況を把握せなばならん」
「結局それかよ……」
克彦がため息を付いた。
どちらにしろ、やることは変わらない彼らだった。
「だ……誰なの?」
ラグナニードと対峙するドルジェを見て、由里が問いかける。
「彼女は……ドルジェ。この世界の神様らしい……」
洋一が立ち上がって言った。
「よ、洋一くん、大丈夫なの?」
「ああ、何とかね。彼女が回復させてくれたらしい」
「よかった……」
由里は心底ほっとする。
そんな二人には目もくれず、ラグナニードはドルジェを睨み付けていた。
(……ドルジェ。貴様、他の世界に行っていたのではなかったのか?)
「ええ、その通りですが、管理局から報告を受けましてね。急いで戻って来たというわけです。ラグナニード、あなたが起こした行動は、立派なルール違反ですよ」
彼女の優しい声の中には、鋭い厳しさが含まれていた。
(ふん……。私は、この世界の人間のために行動を起こしたのだ。お前の方こそこんな世界を作るとは、何を考えている。クラウズの種に頼り切っている彼らは、これ以上の進化もなく滅んでしまうぞ)
「いずれ滅ぶのは、自然の摂理。それに世界を自由にできるのは勝利した私の権利。あなたの関与することではありません」
(…………)
淡々と話すドルジェの言葉は正論である。悔しいが、ラグナニードは言い返すことができなかった。
「それより、勝負に敗れたあなたは、まだ目覚めを許されていないのですよ。それなのに強引に起きてこんなことをするなんて……わかっていますね? 処罰が待っていますよ」
(くっ……)
逃げられないのがわかっているラグナニードは、あきらめるしかなかった。
「そのままでいいわ。この中に入りなさい」
ドルジェが懐から手の平サイズの小さな透明の瓶を取り出すと、ラグナニードの精神体である黒いもやを吸い込んだ。蓋をすると、ドルジェは笑みを浮かべた。
「これでよし、と。私の仕事は終わったようなものね」
「あ、あの……」
洋一は思い切って話しかけた。
「はい?」
「い、今、何したんですか? ラグナニードはどうなったんです?」
「……彼の精神体はこの瓶の中です。私が開けるまで出ることはできませんから、もう安心していいですよ」
「そんな……あっさりと……」
こうも軽く言われると、あれだけ苦しめられていたのが、何だかバカらしくなってくる。
「あの、ラグナニードはどうなるんですか? まさか死刑?」
由里が心配そうに訊ねた。
「彼にどこまで聞かされたかは知りませんが……まあ、そこまではしませんよ」
「そうですか……」
嫌いな男だったが、死なれては寝覚めが悪いので、少しだけほっとした。
「さて……あなたたち異世界の方々には迷惑をかけてしまました。ラグナニードに代わってお詫びします」
「い、いや、それよりも元の世界に戻してくれれば……」
「もちろんです」
ドルジェは言った。
「さあ、まずは彼らのところへ行きましょう」
「は、はい」
洋一と由里は、歩き出した彼女に続き、克彦たちと合流した。
とりあえず、洋一と由里はラグナニードとドルジェについて説明した。
当然驚く一同だったが、戦いが終わったことには誰もがほっとした表情を見せていた。
「ま、まさかドルジェ様が来て助けてくださるとは……本当にありがとうございます」
ラーディーは礼を言った。さすがに神を目の前にして緊張しているようだ。
「いえ……私も彼の行動に目が届かず……申し訳なく思います」
「そ、そんな。結果的には皆無事だったわけですから」
「そうですね。それからひとつ注意しておきますが、私が皆の前に現れたことは今回が特別です。冷たいようですが、今後二度とないと思ってください」
「は、はい。わかっております」
「ありがとう。……では、最後に洋一さんたちを元の世界に戻す方法を教えます」
「方法? 直接戻してくれないのか?」
と克彦。彼は神様相手でも口調が変わらない。
「そうしてもいいのですが、あなたたちはこの世界を気に入ってくれたようですから。もう少しゆっくりしていってください。大丈夫、きちんと転移されたときの時間に戻してあげますから」
「まあ……それならいいけど……」
「では、方法を教えます。今から一ヶ月後のクラウズフォール。気を付けてください、この日を逃すとまた一年待たねばなりません」
「なるほど、クラウズフォールのときだけか。よかったわ、あれ見てみたかったのよね」
呑気な霞は、すでに観光気分だ。
「ええ、私もあれを見てほしいのです。それから、そのときに復活する黄の魔人を合わせた四つの魔人で目標を囲み、、願うのです。それだけでいいですが、ただし、この力は一回限りの特別なものとしますから、そのつもりで」
「すると、もう会うことはできないわけですね」
少し寂しそうにフレアが言った。
「ええ。しかし、ここに残りたいというのなら許可しましょう。後一ヶ月、よく考えてください」
こうして、ドルジェは説明を終えると、皆に別れを告げて姿を消した。
まるで夢のような出来事だった。
その日の夕食は、ラーディーの指示で豪華なものになった。世界を守れたことと、神様に会えたことの、ささやかなお祝いということらしい。
「……しかし、何か意外にあっさりと片が付いたな……」
物足りなさそうに、克彦が言った。
「堀川くんは見てるだけだったから楽でしょうけど、あたしと洋一くんは本当に大変だったんだから」
と由里。
「でもキスもできてよかっただろ?」
「うっ……そ、それはまあ……って、何言わせるのよっ」
「まあまあ、由里さん。とにかくこうして無事に済んだのですから、それだけでよかったですよ」
「そ、そうね」
「……しかし、あのドルジェも、ラグナニードも、一体何者だったんだろう……。やっぱりどこかの発展した文明から来た人間なのかな……」
「どうでもいいよ、そんなこと」
呟く洋一に、アクアが言った。
「ドルジェが何者だろうと、この世界にとっては神様なんだから」
「……そうだね」
「それより、お前らこれから一ヶ月どうするんだ? 観光するんなら、あたしが案内してやるぞ」
「そうだな。俺も王子としての務めがあるが、特別に付き合ってやろうじゃないか。感謝しろよ」
とハイディル。
「別に無理して来なくていいよ。忙しいんでしょ?」
アクアは冷たく断った。
「そんな……ひどいぞ、アクアっ。今のは建て前に決まってるじゃないかっ」
「あー、うるさいうるさい」
隣でハイディルが騒ぐので、アクアは両手で耳を塞いだ。
「それより、どうしますか? よければ私もご一緒したいのですが……」
とフレア。
「もちろん行くわ。みんなで一緒に行きましょう」
ぐっと力強く拳を握り、霞は答えた。
「せっかく来たんだから、色々見ておきたいしね」
「あのー、できれば私も行きたいんだが……」
おずおずとラーディーが申し出る。
しかし、アクアとフレアに冷たい目で見られてしまった。
「お父様は今まで旅行に行ってて、今日帰ってきたばかりでしょ?」
「……叔父様、私たちばかりに仕事を押しつけないでください」
「ううーっ、二人で攻めないでくれ」
結局、彼は残って仕事をすることになった。
「ユンファちゃんも一緒に行きましょうね」
フレアが食事を運ぶ彼女に声をかけた。
「え? わ、私も行っていいんですか?」
「ああ、そうだね。ユンファちゃんにはお世話になったし、僕は賛成だよ。君さえ迷惑じゃなければ一緒に行ってほしいな……」
「あ、あのっ……」
微笑んで言う洋一に、ユンファは顔を赤くしてうつむく。
その様子を見て、隣の由里がじろっと睨んだ。
「洋一くん……何か今の言葉意味ありげなんだけど……」
「えっ?」
「怪しいぞ、洋一」
と克彦がにやにやする。
「隣に彼女が座ってるっていうのに、女の子をナンパするなんて、結構いい度胸してるわね」
霞は感心した。
「うっ……」
そういえば、ユンファと最初に会ったときに間違ってキスをしてしまったことがあるが、あれは事故である。少しは意識したが、何も気まずい思いをすることはないのだ。
「べ、別に変な意味で言ったんじゃないよ。純粋にお礼の気持ちで言ったんだから、変な誤解しないでほしいな」
「まあ、いいけどね」
霞はからかい口調だ。
「浮気はばれなきゃいいんだから」
「せ、先生っ、変なこと言わないでくださいっ」
「冗談だって」
「あ、あの、私、ご一緒させてもらいますね」
ユンファは笑みをこぼしながら言った。
「大丈夫ですよ、洋一さんを誘惑したりなんてしませんから」
「おっ、なかなか言うようになったじゃないか。かわいいぞ」
アクアがぽんと彼女のお尻を叩く。
「きゃっ、やめてくださいアクア様」
「うーん、あたし思い切って女の子に走ろうかな」
やけにまじめな顔でユンファを見て、アクアが言った。
「なにいっ。それは駄目だ、アクアには俺がいるじゃないかっ」
「あんたはうるさいから嫌」
「そんな、あんまりだ……」
ちょっとかわいそうなハイディルだった。
「ねえ、アクアちゃん。さっきの本気?」
「やだ、冗談に決まってるじゃない」
心配そうなフレアに、アクアはあっけらかんと言った。
「な、何だ、そうか。よかった」
ほっとするハイディル。
おいしい食事を口に運びながら、旅行の話題で盛り上がる一同。
「いいなー……わしも行きたいなー……」
そんな中、ラーディーは一人いじけているのだった。
そんなわけで、洋一、由里、克彦、霞、フレア、アクア、ハイディル、ユンファの八人は、一ヶ月かけて世界各地を巡ることになった。
しかし、そんな楽しい日々はあっという間に過ぎてしまう。
クラウズフォールの時期が迫り、リファインに戻った一行は、当日まで城でくつろぐことにした。
「早かったなー……」
夜、ベッドに腰掛けながら、克彦が呟いた。
今は洋一と克彦の寝室に由里と霞がやってきて、四人で話し合っているところだ。
「ほんと、楽しいことはあっという間ね」
と霞も寂しそうに言う。
「結果的には、来てよかったよね。この世界に」
洋一にしなだれかかる由里。彼女は見ている方がうっとうしくなるくらい、ずっと洋一にべったりだった。洋一の方も悪い気分じゃないらしい。
「まあな……。特に真村は洋一とキスまでできるようになったしな」
と克彦。たまに、でもないが、皮肉のひとつも言いたくなる。
「堀川くん、それしつこいわよ」
「まあとにかく」
と、洋一が話題を戻した。
「いよいよ明日だな。クラウズフォールが起きて、僕たちは元の世界に帰る……」
「そうね……」
しばらくの沈黙。
ふと、洋一は思い出した。
「そういえば……帰ったら次の日は、もう文化祭じゃなかったっけ?」
「うっ……」
由里と克彦の表情が凍り付いた。
「ど、どうしよう、洋一くん。あたしセリフ覚えてないよ」
「あ、ああ、一瞬焦ったけど俺は裏方だった。よかったぜ……」
胸を撫で下ろす克彦。
「ずるーい」
由里は唇を尖らせる。
「平気よ、いざとなったら全部アドリブでやればいいわ」
「先生……そういうわけにもいかないでしょ?」
由里は気が重い。
「二人の愛さえあれば大丈夫よ」
「えっ……そ、そうかな……」
「んなわけないだろ。ったく、そういうのに弱いんだから、しょーがねえな」
とあきれる克彦。
「う、うっさいわね」
「由里ちゃん、帰ったら二人で練習しよう。台本見ればすぐに思い出すよ」
洋一が優しく言うと、由里は笑顔になった。
「う、うん、そうだね」
「やれやれ、暑苦しい奴らだな」
「本当はうらやましいんでしょ?」
霞が克彦の耳元で囁く。
「そ、そんなことないですよ」
「まあ、克彦くんにもそのうちいい人見つかるわよ」
「ほっといてください」
言いながら、ふと克彦は気付く。
「そういえば、先生には誰か相手いないんですか?」
「あ、それあたしも知りたい」
由里が割り込んでくる。
「う〜ん、そうね。まあ、秘密ってことにしといて」
「え〜っ、そんなのずるい」
「謎が簡単に解けたら面白くないでしょ?」
「何ですか、それは」
そんな話をしながら、この世界での最後の夜は更けていった。
そして翌日。一同は城の近くにある草原へと集まっていた。
洋一たちは借りていた服を返し、元の制服に着替えている。
「ねえ、クラウズフォールってまだなの?」
雲一つない青い空を見上げながら、由里が訊いた。
もう昼になるのに、まだクラウズの種は降ってこない。
「一日中種が降るわけではありませんからね」
苦笑いを浮かべてフレアが言う。
「でも、もうそろそろだと思いますよ。毎年お昼頃に降ってきますから」
「ふ〜ん、雲も出てないのに?」
「天気は関係ありませんよ」
「へえ〜」
由里は不思議そうに空を見上げている。
「でも……あと少しでお別れですね。寂しいです」
「うん……」
洋一も寂しいと思ったが、そういう雰囲気になっても悲しいだけなので、逆に笑顔で言った。
「確かにもう会うことはできないけどさ、元々僕たちは出会えるはずはなかったんだよね。それを考えると……まあ今だから言えるんだけど、ラグナニードに感謝するよ。普通の人には真似できない、すごくいい思い出ができたしね」
「……そう、ですね」
くすっ、とフレアも笑った。
「私も、みなさんに出会えてよかったです」
「おーい、二人で雰囲気作ってると真村に怒られるぞ」
からかうように克彦が言う。
しかし、意外に由里は冷静だった。
「別に怒らないわよ。浮気してるわけじゃないもの」
「……何だ、つまらん」
「彼女も色々と成長したみたいね」
と霞が隣にやってくる。
「克彦くんはどこか成長したのかしら?」
「ふふん、俺だって色々成長しましたよ」
「へえ、どこが?」
「…それは秘密」
「何よ、それ」
「いや、だから色々と……あ、そうだ」
何かを思い付いた克彦は、ぽんと手を叩いた。
「霞先生、この体験を元に小説にしてみたら面白いと思いませんか? 俺が書けばヒットは間違いなしだと思うんですが……」
「いいんじゃない? ちゃんと書いたら面白いかもね。……あ、でも」
「何です?」
「ファンタジー小説ってマンネリ気味だから、いくら本当にあったことでも受けるかどうか……」
「ふっ、霞先生。そこは俺の力でカバーしますよ」
「そうね。書き終えたら読ませてね」
「はい」
「おい、克彦」
ハイディルが話しかけてきた。
「ん?」
「餞別にこれをやろう。大事にしろよ」
彼が手渡したのは、十粒のクラウズの種だった。
「何だ、今からこれが降ってくるっていうのにもらってもなあ……」
「言っておくが、お前らに種を拾う暇はないぞ。クラウズフォールの起こる時間は短いんだ。もしものために転移の術はすぐに行う」
「ふ〜ん、そっか。じゃあ、もっとくれ」
「……お前は遠慮という言葉を知らないのか。第一もう種はない」
「……そうか、ありがとな。向こうに付いたらこれで見せ物でもやって一儲けするよ」
「貴重な種をくだらんことに使うなっ。もしものときのために、それは大事にとっておけっ」
「へいへい」
「おい、お前ら、そろそろ静かにしろ」
くだらなそうに様子を見ていたアクアが、急に真面目な顔になって言う。
「始まりましたね」
とフレアは空を見上げる。
青い空に変化が起こり、一同はざわめいた。
上空一帯に突然、まばらに白い雲のようなものが現れ、ゆっくりと下降してくる。柔らかい綿毛のようなそれは、見ているだけで気持ちのいい、不思議な気分になる。
「きれい……」
「あれがクラウズの種?」
「そうです。さあ、急いで転移の準備をしましょう。叔父様、キィは?」
「うむ。ちょうど今わしの手の中に戻ってきたぞ」
ラーディーの言葉にうなずくと、フレアは素早く指示を出した。
「洋一さんたちは中央に集まってください。私たちは魔人を呼び出します」
「よし」
四人の管理者は、それぞれキィに念を込める。
「赤の魔人、セバブランソル」
「青の魔人、カインライゲン」
「緑の魔人、ペインペイヤスト」
「黄の魔人、アバラスカホゲチャ」
洋一たちの四方を囲むように、四体の魔人が現れた。管理者たちもそれぞれの許に付く。
「では、いきます。みなさん、お元気で」
「達者でな」
フレアとラーディーが手を振る。
「いいか、克彦。クラウズの種を金儲けなんかに使うなよっ」
「あたしたちのこと、時々思い出せよな」
「洋一さん、由里さん、お幸せに」
ハイディルとアクア、ユンファが別れの言葉を言う。
「ハイディルこそ、ふられても落ち込むなよ!」
「お世話になりましたー」
「さようなら」
克彦、由里、霞が手を振り返す。
「…………」
しかし洋一は手を上げかけて、止まってしまった。言葉が思い浮かばなかったのだ。
「どうしたの、洋一くん?」
と由里が訊ねる。
「いや……何て言おうかと思って……」
「別に大層なことは言わなくていいのよ。さようなら、という言葉でも気持ちを込めればいいんだから」
「そうだね」
洋一は微笑み、大きく手を振った。
「ありがとうっ、楽しかったっ」
その言葉に、フレアたちも笑顔を返す。
そして、洋一たちの周りに光が粒子が浮かび始めた。
管理者たちは魔人の側で、目を閉じ懸命に願っている。その願いの力が、転移の術を起こさせるのだ。
「本当に、これで最後だな」
「うん……」
克彦の言葉に、由里は空を見上げる。ゆっくりと落ちてくるクラウズの種が、ようやく地上に届き、光の粒子と重なり合った。きらきらと輝いて、まるで黄金の花畑にいるようだ。
「きれい……」
「うん……」
「私たち、このきれいな世界をずっと忘れないでおこうね」
「うん……」
洋一は頷くだけだった。
やがて、光の粒子が視界を覆い尽くすほどになり、突然後ろに体が引っ張られた。
「うわっ」
そして今度は視界が真っ暗になり、胸が押しつけられるように息苦しい。だが、そんな時間はあっという間で、洋一たちは苦しさから解放された。
「痛っ」
硬い何かの上に落下する。
「…………」
ゆっくりと目を開けると、そこは床の上だった。見覚えのある、教室の床だ。
「あ……」
洋一は顔を上げた。その先には、腰を抜かした将人の姿があった。
「ま、将人っ」
思わず声を上げると、由里、克彦、霞も声を上げる。
「えっ? 神野くん?」
「おおっ、なつかしい神野だっ」
「よかった、ちゃんと帰れたのねっ」
四人は顔を見合わせると、歓声を上げて喜び合った。
「……お、お前ら、一体何がどうなって……」
いつものクールな将人からは考えられない慌てぶりで、彼は口をぱくぱくさせていた。
「ねえねえ、神野くんっ。あたしたちが消えてから戻ってくるまで、どのくらいたった?」
「……じゅ、十分くらいしかたってないよ」
「十分か、たいしてずれてないわね。これなら十分劇のセリフ覚えられるわ」
「いやあ、無事に帰って来られてよかったぜ。向こうもいいけど、やっぱりこっちが最高だよな」
「……あ、あのなあっ。お前らわけのわからないことばかり言ってないで、俺にも説明しろっ」
何とか立ち上がって、将人が怒鳴った。
「……あ、それもそうだね。まあ、色々あってさ」
「色々じゃわからないぞ、洋一」
「うーん、詳しいことは後で説明するとして、心配しただろ、将人?」
「……ああ、心配した。さっきも途方に暮れていたところだ」
「……悪かったな。でももう大丈夫だから」
「そうか……」
「おーい、男同士で見つめ合うなよ」
克彦がからかう。
「ほら、真村怒れ。洋一取られるぞ」
「あのね……。いいじゃないの、友情なんだから」
「そうよ、克彦くん。あなたも仲間に入れてほしいなら正直に言いなさい」
「霞先生、俺はそういうの嫌いなんだから」
「うふふ……。とにかく、今日はもう遅いわ。帰りましょ」
「そうね。セリフは家で覚えればいいし」
「将人くんには洋一くんから説明してあげてね」
「はい、そのつもりです」
と洋一は頷く。
「お、バッグはここにあったのか」
克彦は教室に落ちている自分のバッグを広い、肩にかけた。
「よし、帰るか。……と、その前に」
ポケットを漁り、将人にクラウズの種をいくつか手渡す。
「何だ、これは?」
「お土産だ、特別にやるよ。使い方は洋一に聞きな。それじゃ」
と克彦は教室を出ていく。
「素直じゃないわねー」
と霞は笑っていた。
「じゃあ、僕たちも」
「帰ります」
「先生、さようなら」
「はい、さようなら。黄を付けて帰るのよ。明日は頑張りましょう」
「はーい」
洋一、由里、将人も帰っていった。
「ふう……、やれやれ」
霞は息を付いた。
「大変だったけど、いい経験ができてよかったわ。それに、いい生徒たちにも恵まれて、私って最高に幸せね」
彼女は明るい笑顔を浮かべながら、歩き出した。
「さーて、帰ってお風呂に入って、おいしいもの食べて、ゆっくり寝よっと」
幸せを噛みしめる霞だった。
そして、翌日になった。
八つ橋学園の文化祭の日である。
現在体育館では、二年一組の劇「白雪姫」がクライマックスになっていた。
小人に囲まれる中、横たわって眠り続ける白雪姫。
「姫……」
王子が膝を付いて見つめる。いよいよキスシーンだ。
「ん?」
ふと、洋一は由里が小さく唇を動かしているのに気付いた。
「ゆ、由里ちゃん……」
意味はすぐにわかった。彼女は「キスして」と声に出さずに言ったのだ。
以前の二人なら絶対にやらなかっただろうが、心が通じ合った今は違う。
洋一は微笑むと、彼女のリクエストに応えて唇を重ねた。
「おおおっ」
と思わず歓声が沸く。
「あーあ、まさかとは思ったが、本当にやっちまったよ」
ステージの裏から見ていた克彦が、肩をすくめて隣の将人を見る。
「色々あったんだなあ……」
と彼はしみじみ呟いた。
「後で他の先生に文句言われるだろうけど……ま、青春青春」
霞はにこにこして見ていた。
「洋一くん、だーい好き」
「僕もだよ、由里ちゃん」
ステージの真ん中で、幕が下ろされるまで、白雪姫と王子は強く抱き合っていたのだった。
終
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