「プレリュード」 没原稿
「雨、降りそう......」
どんよりと曇った空を見上げながら、少女――夕月美夜は呟いた。その手には、いくつかの本を抱えている。
放課後の八つ橋小学校、図書室。こんな天気のせいなのか、普段ならもう少し人がいるこの場所も、今は誰もいない。
美夜は、ちらりとカウンターにある時計を見てみる。
もうすぐ貸し出し時間が終了するというのに、図書委員の姿もなかった。本の返却は返却ボックスに入れれば済むのだが、貸し出しは委員のスタンプが必要になる。このままでは本を借りることができない。
「今日、図書室お休みじゃないよね……」
そんなことはありえないはずだった。学校のある日は、例え始業式や終業式だろうと、図書室を利用できるようになっている。
「あと五分、あるはずなんだけど……」
貸し出しが終了したのなら、委員が図書室の鍵を閉めるはずだった。それが開いていたということは、閉め忘れたのだろうか。
とりあえず、美夜は近くの席に座ることにした。
もし閉め忘れならば、委員か司書の先生がすぐに来るだろうし、違っていても、しばらくはここで本を読むことができる。
美夜は、手にしていた数冊の本をテーブルに置いた。
文庫本から絵本、ハードカバーの本まで、種類は様々だが、タイトルはどれも共通のものがあった。『ボクとドラキュラくん』『放課後のヴァンパイア』『世界の妖怪話シリーズ〜吸血鬼編〜』等々、全て吸血鬼関連の本である。
「どれも違うんだよね……」
パラパラとページをめくりながら、美夜は呟いた。
世の中には、吸血鬼関連の本は大量に出回っている。だが、それぞれ微妙に解釈が違っていた。必ず共通しているのは、『吸血鬼は血を吸う』ということくらいだ。
「どれが本当なんだろう……」
う〜ん、と美夜は小さく首を傾げる。
本当も何も、吸血鬼とは空想上の存在である。そんなことは誰でも知っていることだが、彼女の目は至って真剣だった。
実は、美夜が本を借りようと思い立ったのは、昨日のことである。
以前から吸血鬼には関心があったのだが、より深く知るには本を読んだ方がいい、と幼馴染の少年にアドバイスされたのだ。
それで図書室に行こうと計画していたものの、ある事情で、当番の掃除に時間がかかってしまった。
明日にしようかとも思ったが、おそらく――いや、間違いなく、今週は毎日遅くなる。
だから今日、美夜は痛む身体を無理に動かしてまで、ここに来たのである。
――痛む身体。
そう。それこそが、彼女を苦しめる事柄の全ての元凶である。ある日突然始まったその痛みのせいで、美夜と、その周囲の人間たちとの関係は、がらりと変わってしまった。――悪い方向へと。
そんな状態が、既に一年近く続いている。
バンッ。
ふいに、乱暴にドアが開かれた。
「あ……」
顔を向けると、そこにはクラスメイトの姿があった。名前は鈴木沙奈。美夜とは逆に髪が短く、眉が少しつり上がった、気の強そうな少女である。
「……何だ、いたの夕月さん」
彼女は美夜のことを一瞥すると、不機嫌そうに言った。
「うん……」
頷き、美夜はパタン、と本を閉じる。
「図書室、閉めにきたんだけど」
沙奈は鍵をぶら下げて見せた。その先に、大きく「図書室」と書かれたプレートがついている。
「あ、あの……本、まだ借りれるよね……? 来たら誰もいなかったから、どうしようかと思っちゃって……」
「本借りる〜? 面倒だからダメ」
「…………」
沙奈の言葉に、美夜は絶句する。
時間が過ぎたから、という理由ならともかく、面倒だから、ではとても納得できない。
「でも鈴木さん……図書委員なんだよね……?」
「そう。さぼって帰ろうとしたら、先生に見つかっちゃって怒られてたの。ったく……」
ぶつぶつと不満を言いながら、彼女はカウンターの中に入る。
「図書委員なんて面倒なこと、やりたくなかったのにさ……」
「あ、あの……」
美夜は、本を持って立ち上がった。何とか、彼女を説得して借りようと思ったのだが――。
「それに、これ」
と沙奈は、カウンターの時計を指した。
「貸し出し時間、過ぎてる」
「…………」
固まる美夜。
彼女は、終了前にはここに来ていた。しかし、委員がいないため借りることができなかったのだ。時間が過ぎたから借りられない、というのであれば、その責任は沙奈の方にある。
だが、心の中に生まれたそんな不満を、美夜は口に出すことができない。
「……何よ、文句でも言いたげだけど」
「…………」
美夜は、黙って首を振った。
「大体さあ、本が借りたいならもっと早く来ればいいじゃない。こんな遅くに来てさ……」
「掃除当番……だったから……」
「掃除当番〜? 掃除がそんなにかかるわけ……あ、なるほどねぇ」
にやり、と沙奈は笑みを浮かべる。
「また一人でさせられてたってわけね」
「……うん……」
美夜は頷いた。
本来、掃除は班ごとに行うものである。そして今週は美夜の班だったのだが、みんな彼女に押し付けて帰ってしまったのだ。それはもう、今に始まったことではなく、何度班変えをしても、ずっと同じことが繰り返されている。
要するに――それは、いじめだった。
クラス全体での、いじめ。直接暴力を振るわれるわけではないが、掃除当番を始めとして、様々なことで仲間はずれにされている。
それを、美夜は黙って受け入れていた。
原因が自分にあることを、わかっていたからだ。
きっかけは、一年近く前の春――。
授業中、突然美夜が倒れ、救急車を呼ぶ騒ぎとなったことがあった。
病院で検査を受けた彼女だったが、結局異常は見つからず。しかし以降、美夜は時々体調を崩すようになる。最初の三ヶ月が月に一回のペースで起きたので、生理のせいだろうとクラスで噂され、自分でもそう思っていたのだが、違うようだった。というのも、体調不良は、生理と関係なく起こるのである。
原因がわからないため、自分は重い病気ではないかと悩む美夜。それはクラスメイトたちも同じで、最初は誰もが気を使っていた。だが、何の進展もないままそんな状態が続けば、段々疑わしくなってくる。
夕月美夜は、仮病じゃないのか――。
そんな疑問がクラスの中で生まれ始め、次第に、美夜に近づく者はいなくなっていった。
それはそれで、仕方ないと美夜は思う。皆が関わりたくないと考えるのは当然だし、気持ちもわかるからだ。もし自分が逆の立場でも、やはり疑ってしまうだろう。
しかし――。
何をするにも苦しそうに顔をしかめ、動作の遅い美夜の姿は、無関心でいた皆の気持ちを、いらつきに変えてしまったらしい。
最初に始めたのは誰だったか。
一人のちょっとした意地悪が、集団での意地悪になっていた。
その行為は、もうすぐ卒業というこの時期になっても続いている。
「ああ、そうだ」
ぽん、と沙奈は突然手を叩いた。
「夕月さん、手伝ってよ」
「え……?」
「そこにある本だけど」
と返却ボックスを指して言う。
「あたしの代わりに片付けて」
「…………」
「あたし、返却スタンプ押すから、夕月さんは棚に戻す係。終わったら、貸し出しスタンプ押してあげる。いわゆる、ギブアンドテイクって奴ね」
違う。
違うが――他に選択肢もなかった。
「うん……わかった……」
仕方なく、美夜は頷く。
「おっけー。それじゃ、よろしく」
沙奈は本を取り出すと、表紙をめくり、スタンプを押していった。適当な押し方で、枠からはみ出ているが、彼女は気にせずに続けていく。
そして、あっという間に終了し、約二十冊の本がカウンターに積み上げられた。
ここまで書いて没というのもつらいですが……(泣)。
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