c r o q u i s □□
--表紙--







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--裏表紙1--




「まとめ読みご案内」

ホームページの最初から表紙を飾ってくれました

「太田さんの肖像」


--裏表紙2--





<b><font color="blue"><font size="6">あらすじ</font>
あらすじ

第一部まとめ読みご案内
第1章(No.1〜No.7) (18歳)絵の勉強をしてみようかと思い立ち美術研究所の門をたたいて見ました
第2章(No.8〜No.10) (18〜19歳)勉強もさほど身が入りませんでしたが下宿での仲間の発奮に何か引きずられるように・・
第3章(No.11〜No.14) (19〜22歳)美術研究所初期(T)・・・お友達も徐々に増えて絵を描くことも楽しくなりました
第4章(No.15〜No.16) (22〜23歳)美術研究所初期(U)・・・西鶴堂書店、柴村さんのこと・・・
第5章(No.17〜No.24) (23〜24歳)美術研究所初期(V)・・・展覧会(二人展)をしようよ・・・挫折

第二部まとめ読みご案内
第6章(No.25〜No.30) (〜24歳ころ)美術研究所中期(T)・・・希望(欲)が無いってこんなにも自由?・・・
第7章(No.31〜No.40) (24〜25歳)美術研究所中期(U)・・・陶芸との出会い・・市川美術研究所、山本所長とのこと・・
第8章(No.41〜No.51) (〜25歳)美術研究所中期(V)・・・三科展美術団体準会員推挙・・・・
第9章(No.52〜No.58) (〜25歳)美術研究所後期(T)・・・駒込林町、山谷家からの別れ・・・・
第10章(No.59〜No.62) (25歳ころ)美術研究所後期(U)・・・駒込林町、アトリエ付きの間借り・・・・

第三部まとめ読みご案内
第11章(No.63〜No.71) (25〜26歳)新たな出発(T)・・・第一回、個展に向けて・・・
第12章(No.72〜No.77) (〜26歳)新たな出発(U)・・・第二回個展を目指す・・・(1)そして転居
第13章(No.78〜No.86) (〜27歳)新たな出発(V)・・・〃・・・(2)アトリエ建設
第14章(No.87〜No.94) (27歳ころ)新たな出発(W)・・・〃・・・(3)絵画教室
第15章(No.95〜No.104) (27歳)新たな出発(V)・・・〃・・・(4)新しいアトリエ
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第四部まとめ読みご案内
第16章(No.105〜No.128) (〜28歳)第三回個展を目指す
第17章(No.129〜No.135) (〜28歳)青春へのけじめ・・・(1)第四回個展を目指す
第18章(No.136〜No.142) (28歳)  ・・・〃・・・・・・・・(2)日々の感動を新たに感じて
第19章(No.143〜No.157) (28歳)  ・・・〃・・・・・・・・(3)フィールドに喜びを見つけて
第20章(No.158〜No.179) (29歳)  ・・・〃・・・・・・・・(4)サイクリングxキャンプ
第21章(No.180〜No.192) (29歳)  ・・・〃・・・・・・・・(5)最後の個展として

第五部まとめ読みご案内

第22章(No.193〜No.203) (〜30歳)社会人として・・・
第23章(No.204〜No.216) (30歳)伴侶を得んと・・

あ と が き


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          第一部まとめ読みご案内
第1章(No.1〜No.7) (18歳)絵の勉強をしてみようかと思い立ち美術研究所の門をたたいて見ました
第2章(No.8〜No.10) (18〜19歳)勉強もさほど身が入りませんでしたが下宿での仲間の発奮に何か引きずられるように・・
第3章(No.11〜No.14) (19〜22歳)美術研究所初期(T)・・・お友達も徐々に増えて絵を描くことも楽しくなりました
第4章(No.15〜No.16) (22〜23歳)美術研究所初期(U)・・・西鶴堂書店、柴村さんのこと・・・
第5章(No.17〜No.24) (23〜24歳)美術研究所初期(V)・・・展覧会(二人展)をしようよ・・・挫折


第1章(No.1〜No.7)(18歳)絵の勉強をしてみようかと思い立ち美術研究所の門をたたいて見ました




(連載No.1)
 一人で好きな絵をボチボチ描いているのもヨシ!グループを作って皆で楽しくやるのもヨシ!
また、色々な表現方法を習得する為に学校や、研究所の門をたたくことも必要かもしれません。

 '60年代は今思い返すとあらゆる可能性があって、誰でもが自分の信じる方面に向かって
まっしぐらに突き進めました。生活の中にはパソコンも無い、テレビなんて無い、ラジオも無い(必要無い)
必要な情報は下宿屋の大家さんの見終わった2日後の新聞で十分でした。
 私の場合、入手情報不充分につき誘惑される事も無く気の向く方に、ただまい進するのみでした。

初め、某通信制の美術専門学校に首を突っ込んでみましたが、目的が比較的絞られていましたのですぐ、研究所に 切り替えることにしました・・・(続く)


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(連載No.2)
 最初に門をくぐった「駒込美術研究所」は会社からバス1本で通える場所にありました。
仕事が終わった後、まっしぐらにバス停まで走りバスに乗るとすぐに寝てしまった事を覚えています。

 ここの研究所の特徴はとにかく基礎技術の習得が主眼でした。冷たいコンクリートのたたきに、研究生は思い思いの方向にある 石膏像を描きます。自分のイーゼルの位置を床にテープで印し、幾日も掛けて描き続けました。
タマに年配の方も居ましたがほとんどは美術学校入試の為の予備校的感覚で来ている生徒がほとんどでした。

バスを降りて研究所までの途中、パン屋さんで食パンを1枚買っていきます。
木炭紙(デッサン用全紙)に木炭(柳の枝を焼いて作った木炭)を使って白黒だけで石膏像の形、バランス、ボリューム、質感、などの表現を勉強します。そして修正する時、食パンの柔らかい部分を良くつぶしたものを 消しゴム代わりに使うのです。2〜3時間のうちに消しゴムはあらかた無くなります。食パンの耳だけが残ります。
今、思い返えしただけでも胸にこみ上げるものがあります。ナントこの耳だけで夕飯を済ませた事が何回あったことか・・・(続く)




(連載No.3)
 文京区、駒込林町。ナントも古めかしい地名でしょうか、現在は千駄木町。昔、多くの文豪達が寄り集まっていたこの界隈に 駒込美術研究所はありました。
皆それぞれに住む場所を決定する為の何がしかの要因と言うものがあると思います。私は冒頭でも述べたように会社からバス1本と言う理由だけで この研究所の直ぐそばに引っ越してしまいました。
今振り返ると、なんと気持ちの向くままに直ぐ行動に移せるバイタリティーは我ながらすばらしいなと思いました。 そして、その棲家が私にとってそこで知り合った友達や、先輩、近所の人情あふれる人々との交流が大きな人生の宝になっていく と言う事も知りました。

 朝起きて、トイレに行った時、かつて経験した事もなかった激痛に襲われました。しかも何か内臓の一部が飛び出している。
これはキット死んでしまうかもしれないぞ。そして大変な恐怖に落ち込みました。
下宿屋のおばさん(当時は口も煩いが人情の厚いおばさんは沢山居た)に連れていってもらったのが都立駒込病院でした。
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「石膏デッサン」


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ここで手術、入院も経験しました。この時以来研究所の冷たいコンクリートの上に直に座る事はしなくなりました。(どこでもペッタンコと座るくせのお姉ちゃん、 いつか内臓が飛び出すよ)

駒込美研は約2年、ほとんどが石膏デッサンのみで終わりました。
そして週末には近くにある他の美術研究所に足を運び裸婦クロッキーを一生懸命描きました。太平洋美術研究所、春陽会研究所、 寛永寺坂美術研究所、将来すばらしい画家になろうとする人ばかりの仲に私一人だけ場違いな人間が居るような辛い日々でした・・・(続く)







(連載No.4)
 土曜の夜だけ通っていたいろんな美術研究所は当時通っていた駒込美術研究所の雰囲気とは比べ物にならないくらい大人の 世界でした。
「おっとり構えている人はいなかった」ツマリ自分の構えている前に他の人は入れさせない。モデルさんが「寝ポーズ」 しているのに頭と、胴体と、足がブツブツ切れてしまったんでは絵になりません。
そこにはナントも言えない暗黙の了解のうえに陣取り(場所取り)は行われています。
とに角、誰がボスということはありませんが、目と目が合った瞬間に「アッ」ここに新米の私がいてはいけないんだな。と言う事を察しないと研究所では生きていけません。
時には鶯谷駅前で配っている「養老の滝コップ酒券」を親分肌の兄貴に献上したり、自分が早く行った時には「場所、トッテオキマシタ」 とかいって隣に座らせてもらうことでした。

そうこうしている間に呑みに誘ってもらったり、先輩達の美術論議に遠巻きながらうなずいた振りをしている事によって、何時の間にか「オイ!幸三郎は?」 と、ナントも感激的な認められ方をされるようになりました。

普段、先輩達は小さな鉄鋼所、怪しげな化学会社、市場の荷の積み下ろし、などしながら、いつしか画壇に踊り出たいと願っている人達ばかりでした。
うす汚いアパートに誘われて振舞われるお酒も、ナンカアブネーなーとは思いつつも、仲間に入れてもらった感激が何故か優先されました。

そして遂に、次に入る研究所は「寛永寺坂美術研究所」と決めました・・・(続く)


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(連載No.5)
 夏の勢いもやや薄れたかな・・・・と、そうですちょうど今時分でしょうか。
走る電車の山手線から上野の山が流れていくのをぼんやりと眺めています。
と、突然「フワッ!」、そこだけ歯の抜けたように山が欠け、いきなりの西陽が電車の私の脳裏の奥に到達しました。まるで電車が急停車でもしたかのように駒送り の記憶が甦ります。


日暮里駅を出た京成電車が頭の上を交叉して上野公園駅に向けゆっくりとカーブを描いて昇っていきます。
その交叉点に真っ黒な古い木造校舎「寛永寺坂美術研究所」がありました、イエ有ったのです。
京成電車はあたかも真っ黒な校舎を切りぬいた透明なトンネルに入るように上野の山に吸いこまれていきました。
下を行き交う山手線、京浜東北線、高崎線、宇都宮線、東北本線などの引きも止まない騒音も何時の間にか心地よいリズム音です。
時折研究所の軒先をかすめて上野公園駅に向かう京成電車のきしむ金属音で目を覚ます事がありましたが多分その音の性ではなかったでしょう。
全身が汗でビッショリ・・・、何時の間にか昼寝してしまったようでした。
嗚呼、そんな青春期を過ごした舎「寛永寺坂美術研究所」・・・(続く)




(連載No.6)
 寛永寺坂美術研究所に入ったとき、私は22歳でした。
それまで居た駒込美研は美術学校進学の為の予備校的な性格上、二十歳過ぎの生徒はほとんど居なく、私は年長者扱いされていました。
Aさんがまだ描き掛け途中なのに、Bさんが動かしてしまったとか、Cさんはこっちからブルータスを描いているのにDさんのイーゼルの影で見えなく なってしまった・・・とか。
そんな仲裁もしなくてはなりませんでした。それもこれもAもB、C、D、もみんなおっとりし過ぎているからこんな事になるんです。
 しかし、今度は違うぞ。受験目的の生徒さんは居るのは居ましたが目付きもかなり違っていました。
どう違うのかって一言では言い表せませんが、山の手の研究所から下町の研究所に移った、とでも言っておきましょうか。
オジサンもかなり居て皆、真剣でした。
すでにいくつもの展覧会に作品を出品している人、学校の美術教師をしている人、大学で美術史を専攻していてなお技術の習得に 励んでいる人、市川市の方でご自分の美術研究所を開設しているにもかかわらず通ってきている方、秋葉原で大きな喫茶店を経営している 社長さん、上中里で本屋さんを営んでいるご主人、銀座にある大きな画廊主に見出されて画廊に住み込みで絵を描いている人、タクシーの運転
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をしながら余暇に全力を傾けている人、人差し指に真新しい包帯も痛々しい工場の従業員、由緒有る象牙細工師の家(根付細工職人)に生まれ 跡取となる為必死に勉強しに来る人、中学で数学を教えている女性教師、大きな商社で事務をしている女性、行動も、絵も難しくて 良くわかんない女性、数え始めたら限がありません・・・(続く)







(連載No.7)
 寛永寺坂美術研究所、私はここに移ってから大変後悔しました。
何故か、みんなから見られています。とても絵を描く気持ちになれません。私がモデルさんを見ている(観ている)のにナンカ反対です。
私が、モデルさんから観られています。(この子は今、私の何処を見てどう描いているんだろう・・・)私は観られていると思うと、もう 顔を上げることも出来なくなってしまいます。
ただひたすらパレットの絵の具を何色もこねくり返して上目ずかいから様子を探ります。
オカシイナ・・、服を着ていたときのモデルさんは私より小柄で、可愛かったのに裸になるとナンデこんなにお化けみたいにデッカインダ。
キャンバスから完全にはみ出しちゃって収まりがつかんぞ・・(オレのデッサンの技量からしたらこんな子悪魔、画面の中で おとなしくさせるくらいナンテコトハナイと思うのだが・・・)

「スッコーン」。ハッ!と、思ったとき力の抜けた指先から絵筆が床に落ち、間の抜けた音が緊張した画室の中に響きます。
一斉に皆が私の方を見ます。「・・・アー、イヤなところで絵を描かされている・・」
終了の時間が来て、モデルさんは帰ります。他の研究生はすばやく跡形付けをして帰ります。どうしても私は最後になりそうです。

でも、もう一人遅い人が居そーです。
真新しい包帯もかなりくたびれた工員さんです。最初に話しかけてくれたのも彼でした。私から見てもちょっと不器用な人かなと思った人からの初めての誘いです。
「急がなかったら養老の滝、チョット寄ってかない?」発音もさだかでない長崎弁でした。

この 松頭さんがもし居なかったら私はそう永く研究所に居なかったのではないでしょうか。


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騒音の鶯谷駅前からここ、閑静な駒込林町の下宿に帰る道は入り組んだ路地裏から日暮里のお墓の脇を抜けて更に路地裏を伝って 帰れました。そしてそこは本当に気の休まる下宿屋さんでした。
イエ、休まるはずでした・・・(続く)




第2章(No.8〜No.10)(18〜19歳)絵の勉強もさほど身が入りませんでしたが下宿の仲間の発奮に何か引きずられるように・・








(連載No.8)
日曜の午後でした。外出から帰った私はいつものように下宿のバアさんの部屋をチラッと覗いただけでミシミシ階段を 自分の部屋に掛けあがりました。
バアさんの部屋は私の部屋の真下ですがほとんど開けっぴろげの部屋ですからチラッと覗いただけで居るのかいないのかは直ぐ分かります。つまり居なかったわけです。
階段を上がった直ぐ脇に三畳間の小部屋がありました。ここも普段は障子戸ですがキチット締まっていたことはありません。
私の部屋とは襖戸で仕切られていただけです。ところが、「変だぞ !」と、直ぐ分かりました。
しかも、誰か居るような気配です。勿論、仕切りの襖も多少は隙間はあるもののピッタンコ閉めました、と言う感じです。

私の部屋は、カメラマン志望の「桂さん」と言う2年ほど先輩の人と二人で同居下宿していました。
何かにつけて物事の考え方や芸術についての観方は私よりさすが大人だナーと思わせる人でした。
同じ勤め先の美術部のメンバーではありましたがとっくに自分の進む方向をシッカリと見極めていましたのでその当時、東十条の駅のそばのDPEやさんで お手伝いしながら写真の基礎技術の習得に励んでいました。
実は私はいろんな事を教わりたかったし、第一お酒を呑んでいても話をしていても楽しく、一緒に住んでもらったと言うのが本音でした。
「ここに決めたから来てください。」私はそう思っていましたが、桂氏は無理やり連れてこられたと、今でも言っています。

そうこうしているうちに桂さんも帰ってきました。

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桂さんも何かいつもと違うぞ、と言う感じで部屋に入るなり私と顔を見合わせます。
ころあいを察したのでしょう襖の向こうから声が掛かりました。「ご挨拶させていただきたいのですが・・・」ウワ!物凄く礼儀正しい少年の声です。
「ハイ!どうぞー」二人あぐらをかいて迎えた襖が開き、丸坊主の14歳の子が正座をして「今日から隣にお邪魔します」・・・と。

ほんとうに邪魔だとも言えず、ただどうしてこんな子供が・・・と思うばかりでした。
タイミングも良く下宿屋のバーさんも帰ってきて、下の部屋でお茶する事になりました。
次々と、一階に住んでいる女性下宿人も帰って来てバーさんの部屋に顔を出し、久々勢ぞろいで賑わいました。
お茶菓子はきまって、未亡人のバーさんが勤めている上野「風冥堂」の壊れたせんべいです・・・(続く)







(連載No.9)
 少年の名は「古村万歳」。
子供には全く似合わないリッパナ名を名乗ります。なんでも少年の生家は山梨の在の、とあるお寺の次男坊であるが、兄は寺を継ぐのを嫌い 弟の彼に譲りたくてすし屋でナマグサ(少年の表現)をしているという。
なるほど、それで納得です。父親も善い名前をつけたものだ。将来は「万歳和尚」か、リッパナ名前である。

14才の少年がひとり東京で生活をする。家に居れば何不自由無く地元の高校に入学し、将来の進路も坊主になるべく補償されるのに。
余程の事情があろう事は察せられたが、私と桂さんは可愛そうで、そう根掘り葉掘り聞き出すわけにはいきません。
処が、この一階の下宿人である女どもときたら全く人を想いやる気持ちなんて持ち合わせません。
せんべいの欠けらが未だ口元にくっついたままで矢継ぎ早の質問です。

「ネエ、ネエ、ねー、どうして家を飛び出しちゃったのョ?」まったく退屈な女どもの格好の餌食にされそうである。
「ねー、でさー、お家から仕送りはしてもらえるんでしょ〜?」ばか女子短大生メ。俺達が援助の助け舟を出さないと、この子は 女どもに泣かされてしまいそうです。
すかさず私達も「馬鹿言え!! 男が家を出たらソンナモノ要求しねェんだよ!お前等みたいな腑抜けと出来が違うんだよー」


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バーさんも負けずに「まあ、マア、しーずかにー」「じゃー、働き口は決まってないの?、わたしのかよってる”風冥堂”に声で も掛けてみようかィ?」


少年は、まだ越してきたばかりで荷物の整理も終わっていません。
取りあえず、三帖間に布団を敷ける場所の確保もしなくてはなりません。この辺で、今日の我が家の家族会議もお開きです。
しかし今日のこの時から、私と桂さんはいままで女どもにやり込められっぱなしではありましたが、この少年を味方につける事に よって(3:3)の勢力拡大が望められそうです。
しかし、段段と分かってきた事ではこの古村少年が実は私達よりづーっと精神年齢的に上を行っていると言う事が分かるまでに 時間は掛かりませんでした。・・・(続く)







(連載No.10)
 文京区駒込林町の春は、山の手と言うには余りにも下町過ぎる風情が濃すぎます。
それはこのあたり戦火を浴びなかったと言う事が一番に上げられるかと思います。
通りは、昔で言えば人力車のすれ違いもどうか?と言うのが最大の特徴です。従って車の進入は先ず不可能ですし、隣家とは長屋に毛の生えたくらいの隙間しかありません。
どの家も猫のひたいくらいの庭は持っていましたがその三毛猫の額の茶の部分ほどの庭には申し合わせたように沈丁花を植え、その香りが辺りを包みます。
古村少年は直ぐ近くの文京区立向ヶ谷高校夜間部に入学が決まりました。
担任の先生は私達と同年くらいの若い先生で、気さくで兄貴みたいで、嬉しい事に私達と同じ感覚で接する事が出来そうだと喜んでいました。
しかし、私にとっては、それも喜ばしいのですが桂さんが、どうやら六本木にある有名な写真スタジオで働く事が決まったと言うのです。
桂さんは常々、いつかは自分の絵に対する感覚を写真に取りこんで写真家としての道を築きたいんだと、言っていました。
私は内心、この人はきっとそう決めた事を実行に移す人だとは思ってはいましたが、そんなに早く行動に移すとは予測もしていませんでした。
前の夏でしたか、東十条駅の上にある桂さんが修業中のDPE写真やさんにお邪魔した時でした。
「なすの油味噌」を作ってくれて、お酒を買うお金は無かったので梅酒を造る焼酎を買ってきました。
これを水で薄めて飲みながら腹いっぱい食べた事が忘れられません。

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そんな、仲間と思ってた人が六本木のスタジオなんて処で自分の才能で仕事をする。
トテツモナク遠いところに行ってしまいそうな寂しい気持ちがしましたが反面、とても嬉しく思いました。
私は、寛永寺坂美術研究所にも少しずつ慣れて来ました。絵を描くのが楽しくなってきたと言う事はありませんがお友達が少しできました。
最初の松頭さんとは一冬の間中、研究所が終わるとよく鶯谷駅前の養老の滝で呑んでは絵の話をしました。
彼は話をしながら怪我の治った左手を握ったり、開いたりするのが癖になったようでした。
そして決まって最後は「君も私のようにご本尊のお導きの言葉に耳を傾けられるようになれば迷わなくて済むのに・・」と言って酔いつぶれました。
その日も終わろうとした時でした。大きな商事会社で事務をしている女性の人が「今日も呑みにいらっしゃるんですか?」
と、まるで私の行動を知り尽くしたような言葉使いで話しかけてきました。「いえ、まだ約束してませんが・・」
と、私。「じゃ、一緒に帰りませんか?」・・・(続く)




第3章(No.11〜No.14)(19〜22歳)美術研究所初期(T)・・・お友達も徐々に増えて絵を描くことも楽しくなりました








(連載No.11)
 私は男ばかりの3人兄弟の末っ子で育ちました。
長野県の諏訪、戦前生まれですが、終戦の記憶はありません。
ただ戦争の記憶の断片でしょか、庭にある梨の木の脇に防空壕があって昼食時に一度だけ駆け込んだ記憶があります。
物音ひとつしない静かな田舎の夏、目の前に羽ばたくハエの羽音よりはるかに遠く高く天空の片隅に飛行機音がしましたがその機影も見極める事無く終わりました。
高校は工業に進み化学を専攻ました。
当時まだ男子校と言うイメージが強く女性は構内皆無でした。私は体格も小さく、小学校、中学校では同級生の大女にはいつも頭が上がらなく閉口していました。
しかし男の子同士とはいつもうまく行っていましたので男子校である工業の学校は大変魅力的ではありました。

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工業高校での3年間は私にとって、運動部と言う将来のための体力作りの基礎を授かった場として感謝しています。
そして、入社した色材の会社は私の絵の心と学校での知識をそのまま継続できる環境でありました。
「じゃ、一緒に帰りませんか?」・・・
当然、入社した会社も男子が圧倒的に多く、入った寮生活も男ばかりの世界です。
小、中校での女性に対するコンプレックスはありませんでしたが、女性から声を掛けられるなんていう事はまったく予期せぬ事でした。
兄弟や同級生から異性(女性と言う動物)に対する接し方は学べませんでしたが、駒込林町の下宿屋でそれとなくわかり始めたのかな、と思う程度でした。
下宿では彼女たちより私のほうが年上ですし、少しは大人びた事もいえるように成り掛けてはいました。
美術研究所に来る人の中で、その女性ほど今にして思えば「美術を極める事も身だしなみのうちのひとつ」として捉えていた人は居ませんでした。
年齢は不詳ですが年上だと思います。
髪の毛は肩の高さできっちり揃えています。大きな商事会社で事務をしているそうです。
中央線の向こう(中野だか三鷹の方)の人です。いつも黒っぽいスーツを着て黒いストッキングです。
私がいつも息せき切って研究所に駆け込む時間には、きまって余裕の待機で窓の下を走る電車を眺めています。
絵を描く場所は、いつも一番後ろ。つまり私の絵は彼女にいつも見られています。当然、松頭さんも見られているでしょう。
ですから、今日の彼とのやり取りから養老の滝には行かないんだろうと言う事はすでに察せられていたかも知れません。
実は、私と松頭さんは本当に貧乏で、そう毎日呑みに行くお金なんかありません。そして月末の特にこの一週間は、 お互いそういった話題は極力避けて、駅までの帰りも別々と言う事がままありました。

私と彼女は、松頭さんが先に帰ったのを見届けると言うほどでもありませんが、何となく後ろめたいような気もありましたので最後に研究所を出る事になりました。
外は日暮里から続く谷中の墓地に近いこのあたり裸電球の街灯の下以外は真っ暗です。
「これから養老の滝、いきません?」びっくりして彼女の顔を見ましたが、暗くてのっぺらぼうの白い顔がボーっと見えるだけでした。・・・(続く)







(連載No.12)
私は全くお金がなかったわけではありませんが、今日、彼女とお酒を飲みに行ったら後の三日間は無一文で過ごさなくてはなりません。

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幾ら何でも絶対に断らなくてはなりません。次の電柱の明かりまでの間に何とか断る理由を考えなくてはいけません。
その角を曲がるともう、言問い通りに出てしまいます。
と、「あなたのところはお給料日まだでしょ?」来た!「・・エエ、・・」「私のところは今日なのよ」
「私が連れてって、てお願いしたんだから出させていただきますわよ」「・・あぁ、そうですか・・」
道が暗いうちにお互い一番肝心なことの話がついてホっとした感じで明るい通りに出ました。
陸橋の上まで来ると鶯谷の繁華街の明かりの反射を受けて互いの顔を確認できるようになりました。私も少し安心してニコっと笑顔を作りました。
「なまえは・・シノさんで良いんですか?」
「ええ、先生はシノ・・って呼んでますが、東雲(シノノメ)と言います。」「でも、シノって呼んでください。」
「あー、そうだったんだー。」「あなたのことは幸三郎さんでいいんですョね?」「・・・エェ・・」

陸橋脇の急階段を降りると、もう鶯谷駅前に続く繁華街の入り口です。
小さな旅館と、小料理屋がひしめき合っています。
狭い路地の屋台をよけながら酔っ払いが彼女におちょっかいをしてすれ違います。
「・・シノさん、こんな所、嫌でしょう?」「へ、い、き、」
実に芯のしっかりした強い人だなーと思うと同時に、オトナの女性を見た感じがしました。

目指す養老の滝は鶯谷駅北口のはす向かいにあります。
私はなれた手つきで暖簾をよけ、彼女の髪の毛にあたらないように差し出しながらガラス戸を半開きにします。
途端にオヤジのすっとんきょうな声につかまります。
入り口の席に良く先生が来て、やってることがあるのでその確認をしただけでした。
「今日は先生、来てないや・・」「あら、先生とご一緒すること良くあるんですか?」
「えぇ、でもお互い自分の分しか払いませんよ。」「おもしろいのね」

私達は入り口のテーブルに決めて座りました。「先生がいらっしゃったら同じ席ですね。」
でも、私にとってはそんなことはどうでも良い事でした。とにかくこの下品な街で彼女の身に何か遭ったら、すぐに逃げ出せる場所に陣取りたかっただけです。

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「えっと・・僕はお酒、シノさんは?」「私もお、さ、け。」・・・(続く)







(連載No.13)
美術研究所のお正月休みが終わって、久しぶりに皆さんと顔をあわせます。

美術学校を受験する受験生は皆一様に新たな決意でデッサンの取り組みに励んでいます。
特にその頃エッチング(銅版画)で画壇から注目され始めた新進気鋭の若手作家を講師に招いていましたのでその教えを受験生は強く望んでいました。

同時に私や松頭さんなどは別の観点から、パリから帰ってきたばかりの山上画伯への関心に夢中でした。
彼は当時私たちの間で廻し読みしていた美術雑誌の記事の中で常に話題となる「放浪画家・・」の主人公でありました。
彼は私より6〜7歳年上でしたが銀座にあるあの有名な、よろい画廊の主人に見出されて絵描きの道に入りました。
彼と同年配で私の尊敬していた先輩画家、高住さんとは親友同士でありました。
研究所の終わる時間頃、その山上画伯が今日これから銀座にお気に入りの仲間と連れ立ってお茶しに行こうと言うのです。
しかも、「幸三郎は?」と声を掛けられたときには肝がすっ飛ぶくらい嬉しく胸が張り裂ける思いがしました。
結局、山上画伯、高住さん、彼らと同年輩の今市さん、それに私の4人で出掛ける事になりました。松頭さんには申し訳ないような気もしましたが 彼もニッコリ笑って送ってくれました。

さすがパリから帰ったばかりの山上画伯、あつらえた洋服は縁が丸みを帯びた素敵な背広です。
私の上司などサラリーマンの課長の着ている菜っ葉服とは比べ物になりません。触らせてもらうと、外套など必要も無いほど保温性に優れた純毛の厚手仕上げでした。
山上画伯の住んでいる銀座7丁目の、よろい画廊へ行くのかなと思っていたものの5丁目にある地下割烹「畑村」の階段を画伯はトントンと先に降り始めました。
私は300円のコーヒー代位は持っていましたがこの階段の先の支払能力まではありません。
しかし、躊躇する私を高住さんがあごで「いいから来い」に誘われて白木テーブルのカウンターに座ってしまいました。


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「シノさんの肖像」


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お酒の前に突き出しで江戸前のコハダ酢〆、お碗の汁が出てきました。
薄手の有田焼き徳利でしょうか程よいお燗のお酒が出て来る頃にはもうすっかり心配も頂点に達しました。山上画伯の後ろから手を伸ばし高住さんの上着の端を 引っ張り、さかんに「どうしよう」のサインを発しました。が、山上画伯も察したのでしょう「幸三郎さん今日は 大丈夫です、ぼくが持ちますから。」今市さんも高住さんもすかさず「いつもすいませーん」と、はじめて奢ってもらえる事が判りました。
山上画伯と高住さんはお酒が強くありません。今市さんと私は代わる代わる注がれるままに握りずしをほう張りながらお酒を頂き続けます。 美術雑誌の記事(社長宛の手記)の中です、

「・・・オヤジさん、今日も一日中パリの街をくたくたになるまで歩きましたが僕の 画材になる風景は見当たりませんでした。・・・これ以上ここにいても神経が減るだけでこのお化けみたいな パリは僕には消化し切れません・・・、はやく東京に帰ってオヤジさんの喜ぶような絵を毎日、毎日描きたいです・・・」

・・・・・聞いた事のある言葉の羅列が遠くで聞こえます。・・・・続く







(連載No.14)
寛永寺坂美術研究所のアトリエは天井も高く、寒い日が続くと暖房をしても底冷えが中々和らぎません。

石炭ストーブは火の勢いを保つためにはある程度の技術が無いととんでもない事になります。つまり、一度火が消えてしまったり 弱くなってしまってはすでに手遅れになります。
たかが火の当番、ですが誰でもが出来ると言うものではありません。裸のモデルさんが寒さでブルブル震えていたんでは描く方もおちおち絵も描いてはいられなくなります。 室温は最低でも20℃には保たせないといけませんが、そんな大役をいつしかこの私がするようになりました。

10分間のポーズ中火勢が最高になり、そして5分間の休み時間に燃料を補充して次の10分に備えると言うものです。
モデルさんもこの5分間にガウンを羽織り冷え切った体を温めにストーブのそばのいすに座ります。

休み時間をほとんどの研究生はボーとして過ごすか、バックの処理に手を尽くしていると言うのが一般的なすごし方です。
しかし私の場合はこの大役をすると同時にモデルさんと言葉を交わしたりしますが、絵を描く上でとても勉強になる会話もかなりあるわけです。

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ストーブで暖を取りながら何気なくその手を首筋に持っていったりする仕草の中で、今しているポーズで負担になっている腰の重心を首の位置でバランスを 取っているんだなー・・・「そうだ!、・・でしょう?」

意外と気がつかなかった絵のポイントを聞き出して見ることも出来るのです。
そんなわずかな会話も2週間続きますと、モデルさんとも少しは気心が通じ会えるようにもなれますし、絵を描くのが楽しくもなってくる自分を感じ始めました。


今日はこんなに沢山のお友達と研究所の帰りが一緒になるんだ。
言問い通りの鶯谷陸橋は暗い割には下の繁華街の光を受けて皆の顔がより一層生き生きと輝いて見えます。
しかも松頭さんは私のポッケに手を突っ込んで温めながら話をします。
私も負けずに自分の手をシノさんのポッケに思い切って入れてみました。
シノさんは怒るのかな?と思いましたが顔をねじり込ませるように私をいたずらっぽく見届けると、
「・・で、山上さんはもうパリには帰らないって言ってたの?」
「え?、ぇ〜、その辺から先が良く覚えてないんですよ・・」「ぅんま〜、しょうがない人ねー」と、シノさんも私のポッケに手を突っ込みます。

すぐ後ろを「・・若い人はうらやましーなー・・」と、本屋さん(西鶴堂書店)を経営している柴村さんも二重巻きにしたマフラーを鼻の上までたくし上げ、 ニコニコ笑いながらご一緒です。・・・・・・続く。





第4章(No.15〜No.16)(22〜23歳)美術研究所初期(U)・・・西鶴堂書店、柴村さんのこと・・・



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(連載No.15)
私は研究所から下宿まで歩くと約45分、途中で谷中の繁華街を通過しますのでなぜか2時間以上も掛かることが 時々ありました。

電車で田端まで行って暗い切り通しを抜けて動坂を登れば誘惑されるお店も無く30分で下宿まで帰れます。
第一、折角お友達も出来てきたにもかかわらず研究所の門を出てすぐ、私一人だけ真っ暗な谷中の墓地の方にお別れなんて耐えられませんでした。
少しでもお友達と一緒に居たかったし、話がしたかったものですからほとんど毎日電車で帰る事にしていました。

残念なことに松頭さんのお住まいは亀戸の方、つまり私たちとは鶯谷駅反対ホームでお別れです。
電車の来る間、私たちのホームは声高々に比べ、この時間帯松頭さんの居るホームは閑散として、話の内容も聞き取れないのに笑顔を作る仕草が寂しそうです。

東京、上野方面から来る電車は京浜東北線、山手線ですが私はどちらの電車でも田端に行けます。
しかしシノさんは山手線、柴村さんは京浜東北線とマタマタ分かれてしまいます。
ですから比較的空いていて酔っ払いの少ない山手線を待って乗ることにしていました。

よく皆さんと一緒に帰ってくる間、芸術論やいろんな楽しい話に花を咲かせている内に、私たちは時々柴村さんの独演会に迷い込んでしまうことに気が付きます。

本屋さんの屋号、西鶴堂と柴村さんの名前を掛け合わせると、ナントあの有名な講談師、「柴村西鶴」ではありませんか。
そして当時その一番弟子、今で言えば芸人タレントでしょうか、大げさな口髭をたくわえて黒の紋付き袴姿で異色の講談師として活躍していたのが「柴村一角」(仮名)でした。

そんなお弟子さんと一緒に食事したり生活をされていたんでしょう、柴村さんのお話も中々の講釈師と言った所です。
電車のホームであろうが又車内で他の酔客が聞いて居ようがお構いなしでした。あっという間に田端です。
私と柴村さんは山手線を降りてシノさんに手を振ってお別れします。お話は次の京浜東北線の電車が来る時まで続きます。

お友達、皆んなと別れて一人田端駅の階段を駆け上がるとすでに駅前は真っ暗、動坂方面に向かう切通しは街灯だけが縦横に滲んで 繋がって見えました。・・・・・続く


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(連載No.16)
立派な講談師の息子として育った柴村さんがなぜお父さんの後を継がずに本屋さんをしていたのかは今でも私の 未解決部分ではありました。(実は柴村さんは未だ40代前半の若さで自らの命を絶ってしまわれました)


「・・・・・幸三郎や、ぶどうの冷えたのがあるから柴村さんに差し上げてネー」と、私の母の言葉使いを真似て結婚式の祝辞の言葉に 我が家の実家に泊まったときの様子を披露してくれました。
私にとっては東京でお世話になっていた息子のお友達が折角泊まりに来てくれたのだから母としてはせめて何も無いけれどこんなものでもお友達に出してあげれば との思いがあり、普通のことだと思っていました。
しかし柴村さんにとってはそういった会話自体にとても感激し胸にこらえきれないものが有ったとのことでした。
柴村さんと私は翌日、碌山美術館を訪れ信州の初夏に将来の夢を語り合って希望を膨らませあいました。・・・・・

「西鶴堂書店」は本郷通りの終点、北区上中里古河庭園のはす向かいにありました。(後に古河庭園正面へ移転)
戦災の難を逃れたのが還って災いしたかのように古い木造家屋の本屋さんでした。
そんな本屋さんに招かれて行ったのは未だ柴村さんのことを私がよく知らないうちのことでした。
タクシーの仕事で時々しか研究所にこられなかった高住さんがちょうどご一緒したときのことでした。今日は家で鍋でもつついていきませんか・・と、 柴村さんに誘われました。
そのとき高住さんは柴村さんのすぐご近所にお住まいだったこともわかりました。

柴村さんのお宅は、通りに面した本屋さんですが夜分帯になると車の通りも無くなって本当に静かな住宅街に変わってしまいます。
お店の仕切り障子を開けるとすぐ居間でした。ご家族は大きな奥様、小学高学年のお姉ちゃん、低学年のお嬢ちゃん、お茶目な末娘のチーちゃんと、皆さん明るく迎えてくれました。

夜も遅くなり、そのとき初めて明かされた二人の気持ちを私は忘れることが出来ません。

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高住さんは一度、絵描きになることを決意し大学を中退してその道に進み、個展を開いて好評を得たにもかかわらず家庭の事情から中断せざるをえない境遇に有ること。
また柴村さんも、もろもろの事情から収入の道を選ばずにはならずそして家族も増えた今、夢を追う幸三郎さんが本当に羨ましいとも言っていました。

少々お酒も回ってきたのでしょうか、皆の声が少し高くなったので襖が少し空いてチーちゃんが暗い部屋から覗き見します。・・・・・・続く。





第5章(No.17〜No.24)(23〜24歳)美術研究所初期(V)・・・展覧会(二人展)をしようよ・・・挫折










(連載No.17)
放浪画家、山上さんがまるでシンデレラボーイのごとく報道されて記事になったときのことは私にとって すごい刺激になりました。
それは私ばかりではなく当然親友の松頭さんにも強い衝撃を与えたはずでした。

私たちは正規の美術学校で勉強しているわけではありません。ましてやたとえそれがチャンとしていたところであったとしても 中々絵描きの道に進めるチャンスなどあろうはずはありません。
まだお互いに絵の勉強の未熟さもわかっていないもの同士赤提灯で大きな希望だけ膨らませあっていました。

「俺たち展覧会してミネカ?」松頭さんが私に話しかけるとも無く、コップの中の残り酒に言い聞かせるようにつぶやきました。
「エ!?」当然二人の仲では繁華街の通りに自分たちの作品を並べて、しかもあわよくば何処かの画商さんに認められて・・と 柳の下のドジョウを狙っての発想ではありました。

そこまで松頭さんは思い詰めていたんでしょうか。そんなにも絵描きになる、なりたい、と現実の上にトレースする所まで夢を膨らませていたんでしょうか。


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ものを書き写す、と言う行為の中に自分なりの感動を表現し、絵を通じて見た人と私が同じ感動を共有できたら。
と言うのが私の絵を描く基本的な考えではありました。
この考え方は印象派以降偉大な画家たちの足跡が物語っています。

松頭さんは宗教家らしく、現世の現実を自分のろ過器を通して未来に再構築させた設計図こそ新しく望まれる芸術家の姿だ・・と、常々熱く私に語りかけていました。
この考え方も素晴らしく、洋の東西を問わず宗教画としてすばらしい境地を展開して見た人に宗教観(宗派とは異なる)を感じさせない理想郷を表現し、 感動させてくれます。

私たちはこんなやり取りの食い違いはいつも経験していましたので取り立てて結論を出す必要性はまったく感じていませんでした。 (私の中ではこのとき理解は出来ませんでしたが後、宗教感とは別に素直に共感することとなりました)

一杯サービス券のお酒と、僅か50円のコップ酒で私たちはとんでもない空想の世界にダイビング出来そうな気持ちになってしまいました。
そして春の受験生が居なくなった後、ここの研究所の門限まで3ヶ月で5枚ずつの絵を描いて二人の展覧会を決行しようときめました。・・・続く。







(連載No.18)
寝るときにも又、会社で仕事しているときにも何か頭の中に移植されてしまったかのような 松頭さんの言葉が離れません。

「俺たち展覧会してミネカ?」
言葉の意味はそれほど深くは無かったにせよ、求神者であり身近な先輩である彼の言葉の強烈な長崎弁とあいまって 「洗脳されてしまった」と言うのが、今思えば正確な表現ではなかったでしょうか。


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「松頭さん呑みすぎ」


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早速、松頭さんは50号の真新しいキャンパスを研究所に持ち込んできました。
研究生が帰った後、わずか2〜30分では有りますが自分の作品を制作する時間に宛てられそうです。
私も今度の給料日がきたらキャンパスを購入して始めることにすると約束しました。

研究所の門を出るのを待って、シノさんは私にたたみかけるように質問してきます。
「幸三郎さん、そんなに3ヶ月で5枚もの絵を描き上げる事ができるの?」
「何処でそんな展覧会をするつもりなの?」
「うーん、・・・」(もう、全くウルサイ女だなー、どうだっていいじゃネーカヨ!)言葉には出しませんでしたがそのときの私にとってはシノさんの 母親然とした言葉使いに腹を立てると同時に、私自身が自分の不安と彼女の心使いに対しても一緒に振り払いたい気持ちでいっぱいでした。

言問い通りの明るい歩道に出る頃には、私の膨れっ面もシノさんには気づかれなかった・・・と、平静を装っていた矢先、
「ごめんなさい・ネ」と、シノさんの言葉に私は慌てて笑顔を作ってみましたが、鶯谷陸橋の街明かりの中では深手を負うだけでした。

僅か二駅間の山手線、なんとなく話すことも無くボーっと流れる夜景をつり革にぶら下がって見ていると、明かりの消えた建設中の 西日暮里駅の暗闇の中にシノさんと私のブスくれた顔が電車の窓に映し出されます。

「さようなら、またー」と、田端駅でいつもの挨拶をして私は乗客をかき分ける様にして電車からホームに降りました。
その時、私はひょっとして本当に「さようなら・・」と言う事になるような気がして、歩きながら走り出した電車の窓を確かめました。

シノさんの顔も確認することができないスピードを増した電車の中、緑色のセーターの吊り輪の中から確かに振る手の平を感じました。
「僕の方こそごめんね・・・」・・・・続く







(連載No.19)
翌日、研究所にシノさんは来ていませんでした。お休みのようです。

もう4月だと言うのにアトリエの室温は薄ら寒く、モデルさんから「少し寒いですね・・」などと苦情も出ました。

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温度計は21度ですから真冬にストーブをガンガン焚いていたときと変わらない温度ではありました。
4月に入って3〜4日暖かな日が続いた後ですし、何故かシノさんに限らずお休みの人が多かった事に併せて、受験生も居なくなり、アトリエの人数が 急激に減ったこともありました。
ですから服をきている私でさえ「ナンカ薄ら寒いネ・・」と言った感じではありました。

ワンポーズ、モデルさんがポーズしている間、兎に角私は絵も描かずにストーブの火炊きに夢中でした。
火勢が増すのにそれ程の時間は掛かりませんが私の気付いたとき、アトリエの中は何故か緊張感も無くなって雰囲気が変です。

モデルさんがポーズしているのに真剣にモデルさんと対峙している研究生が居ないのです。
松頭さんはと言うと大きなキャンバスを広げてすでに自分のモチーフでの制作に取り掛かっているではありませんか。

今月から新しく入った研究生が二人ばかり、すでに2週間目に入った現在のポーズをあちらこちら場所を移動しながらのクロッキーをしているだけでした。

いきなり、モデルさんの「時間は、誰が見ていてくれてるんですか〜?」と言う甲高い声にぎく!!としました。
「しまった!」すでに休憩時間を4分も過ぎているではありませんか。
モデルさんもプロです、室内の雰囲気も十分察していましたし、時間の超過も明らかに読んでいました。

モデルさんを使って絵を描くと言うことは、画家一人がしゃにむになって頑張っても大した絵なんて描けません。ましてやモデルさんもです。
つまりすべては共同作業なんです。
お互い生身の人間同士、一度感情がもつれてしまうと中々大人同士でも気持ちの修復は難しいものです。

翌日になってもモデルさんは不機嫌そうな顔を直そうとしません。
私たちも「もういい加減にしてくれよ!」と声には出しませんでしたが、この絵はダメだな。と思いながら最後の仕上げを急ぎました。



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「裸婦クロッキー」


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永く感じた一週間もようやく終わり、土曜日はクロッキーデッサンの日です。
この日はよその研究所から出かけてくる人、いつも忙しくてこれなかった人もこの日の為に馳せ参じるので、大変にぎわって込み合います。

昨年銀座の画廊で個展を開いて美術雑誌をにぎわせた高住さんももちろん来ていました。
そこで私と松頭さんが展覧会をしたいんですと打ち明けてみました。・・・・続く







(連載No.20)
上野、寛永寺の桜も終わり、今とちょうど同じ時期でしょうか。
研究所のある上野桜木町は日暮れとともに急速に静かな、と言うよりも恐ろしいくらい静寂な街中に変わります。

季節もよく、桜木町から日暮里の谷中墓地まではほんの数分、しかもうす暗くなった日暮里から鶯谷駅間での途中、ここ桜木町はアベック達の格好の場所なんです。

皆が帰った時間より少し後に研究所の門を出ると、袋小路になっているこのあたり、とっさに身を隠すすべも無い彼達は彼女を電柱に化けさせようと ジッとしている以外の手立てを持ち合わせません。

わざと大きな咳払いをして私と松頭さんは何事も無かったかのように研究所の木戸を閉め、通りに出ます。
今週の初めから私も研究時間の終わった後、松頭さんとイーゼルを並べて二人の展覧会のための制作に取り掛かりました。

大きな絵を描くのは初めてです。50号、キャンバスの向こうが見えません。
題材はすでに書き溜めたたくさんのデッサンの中からその頃一番気に入ったテーマ「権力者」と言う題材に取り掛かりました。

3人の男、実力者とも思わせる人を中心に左に手下、反対には影のボスを配し、私としては何処の世界でも共通したテーマかと感じ取り上げました。

研究所は、時間に際限なく遅くまで制作できるわけではありません。

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若い研究生でここに下宿している研究生が一通りの跡形つけ、戸締りなど下の方から順番に私たちの制作場所までやってきます。

私たちも彼らに迷惑をかけないよう、又、彼らも私たちを急がせないよう、暗黙のうちに時間は9時半だね・・・、と、言った按配で配慮してくれます。
しかも今夜は、私たちのしていることに大変興味を持っていると言う女性の研究生、恵美さんが巡回してきました。

しばらく、パレットや絵筆の後方付けをしながらお互いが何者なのかの探りあいをした後に恵美さんは松頭さんの絵がとてもすばらしいと褒めちぎります。
事実、色彩と情緒あふれる画面構成は私も素晴らしいなーと、内心は思っていましたので多少シャクにさわる所ではありました。

いろいろと話しをしているうちにもう本当に帰らなくては成らない時間になってしまいました。
「こんど、一緒にお酒でも呑みに行かない?・・」
松頭さんの誘いに彼女は「ええ!いいわよ!」と、すごい返事が返ってきました。

駅までの短い時間、松頭さんがこんなに堂々と歩いているのを見たことがありません。
それは私のひがみ目が、そう見せたのかも知れません。
しかし、あの松頭さんが女性を酒呑みに誘うなんて信じられませんでした。
しかも、その女性は中学校で数学の先生をしていると言うではありませんか。・・・・続く





(連載No.21)
あっという間に一週間が過ぎました。
そして今日、土曜日はクロッキーの日なのです。

研究生は勿論、すでに毎日来られなくなった先輩研究生、また他の研究所に通っている人もこの日ばかりは大挙してやってきます。
私に限らず、先輩や皆さんの違った絵を見ることも出来ますし、当然今週中に描きかけの絵を引っ張り出して来ては先輩たちの意見を聞くことも出来るわけです。

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約2時間の静かな時間の後松頭さんは、待ってましたとばかりに描きかけの展覧会用の大作を引っ張り出してきました。

緊張したクロッキーの時間とは対照的に、皆さんはリラックスした気持ちで松頭さんの絵の周りに集まってきました。
モデルさんも着替えを済ませると、先輩たちの脇を潜り抜け最前列でしゃがみこみ、先輩たちの意見に聞き入ります。

モデルさんも美術学校の生徒さんだったりすることもありアルバイトとしては手っ取り早いことなんでしょう。

町工場で働く松頭さんはご自分の職場で一生懸命に働く人を大きく正面に配し、バックには向こうを向いて働いている人、その向こうには鉄を削る火花が光ります。
その輝きの逆光を正面の人の表情とうまく対比させた素晴らしい作品の進捗が伺えます。

ここの美術研究所では先生が居て、教えていただくと言う場ではありません。
すべて研究生が自分で研究テーマを決めてその結果を仲間同士で議論し結論は自分ひとりで心に仕舞い込む、と言うのが正しい解釈でしょうか。

ですから先輩の意見も、すべて納得するわけには行きませんし期待を裏切るような言葉も容赦なく浴びせ掛けられる事も多々見受けられる光景ではあります。

しかし、今日の作品を前にして先輩たちの評価はおおむね「このまま描き進むことが善い方向」と言うことに落ち着きそうでした。
松頭さんも大変満足したようであり、今後の仕上げに向かって拍車がかかりそうで羨ましく思いました。
「幸三郎は?」と、言う声があり、私は「イエ!!、まだ・・」と、批評を強く拒みました。

明日は日曜日でお休みです。
研究所をそれぞれ引き上げながら、どこそこでお茶して行こうとか、あしたの美術館めぐりの落ち合い場所を確認したりの賑わいの中、松頭さんの声が聞こえます。
「恵美さーん、これから養老の滝いきませんかー」


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私にも声をかけてくれましたが、今日はとてもそんな気にはなれません。
玄関の方、人の気配も薄らいだ頃私はやっと腰を上げ、帰る準備をしました。
若い下宿研究生が下から上がってきました。
「ねー、幸三郎さん、恵美さんは今日、松頭さん達と呑みにいったんですよ〜」と、信じられないような顔をして話します。
私も作り笑いをしながら「面白いネ〜」と空返事するのが精一杯でした。

それにしてもシノさんは一体どうしたんだろう、もう1ヶ月以上もお休みしています。・・・・(続く)




(連載No.22)
来る日も、来る日も雨続きです。未だ入梅の予報は発令していませんがどう見ても梅雨本番の気がします。
なぜかこの時期絵の具の渇きがずいぶんと遅く製作中の絵の仕上がりに支障をきたすほどの状況です。ついこの間の5月 末までは、昨日の描きかけが翌日にはすでに硬い皮膜となって塗り重ねの絵の具がシットリトなじまなくて往生していた ことを思うとまるで別世界の季節の変動です。
こうして期間を定めて松頭さんとの二人展をするということは遠い将来、もし絵描きになった時きっと役に立つ意識した 状況を経験している事なんだと自覚していました。つまり、必要な時期までに絵を仕上げると言うことです。それには アマチュアとして出来たところが仕上がりデハ無く、納期までに仕上げると言う意識です。
油絵の具は私のつたない知識から推察しても、画面に被幕を作るメカニズムは植物油の中で、空気中の酸素と「酸化重合」 という化学反応により皮膜を形成する性質のある「亜麻仁油」「ケシ油」などの油に、顔料と言う色剤を練り込んで作られた 「油絵の具」と言うものです。ですから非科学的に考えても空気の濃く感じる五月晴れの乾いた空気は絵の具の乾燥が ヨーロッパ発祥の地に良くあった絵の具と言えるかもしれません。

漠然と「路上二人展」をしようよ、と言ってた割にはさて、どこでと言う具体的な詰めはしていませんでした。先輩たちは 皆、50号もの大作を路上で並べることはほとんど不可能ではないか?と言うのが大方の意見でした。私と松頭さんは、 そんな不安を頭の中に残しながらも毎日製作に励みました。
今日も遅く研究所からの帰り道、西風に乗って本郷通りの方から催涙ガスの刺激臭が谷中の方まで漂ってきます。私たち と同じ世代の青年たちが大学にバリケードを築き、警官隊と揉めている様子です。
学生でなくてもナニカとその先々の不安は質の違いはあっても「本当に突き進んでもいいんだろうか・・?」先輩は 無理だと言っているし、学生たちの不安も解決の道は開かれていません。「そうだ!」松頭さんは大きく手のひらに こぶしを打って言いました。「公園がいい!公園だったら広いし、お店の入り口を邪魔する様な事もないしサー、」
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私も「そうかー!」と感嘆するほどそれが最高の解決策と思いました。いずれにしても心配になるのは空模様だけです。 それだってビニルシートを持っていって、いざと言うときは被せるだけで十分です。私たちは一気にもやもやしていた ものが取り払われた気持ちになりました。
上野公園、日比谷公園、いずれも大きすぎて私たちの路上展覧会(路地裏)的な気分からはかけ離れすぎています。二人は 暗黙のうちに「数寄屋橋公園」をその時すでにとっさに想定してしまいました。ある程度人通りも多くて、話題性も合って、 銀座の画廊街の並び・・と言うことは美術評論家や著名な画家も画廊めぐりをした後に駅に向かうはず、そして有楽町駅に 向かった人は必ずここ数寄屋橋公園脇を通るハズだ。・・・・続く




(連載No.23)
私の勤めていた会社の美術クラブ、ご近所に野山先生という方がお住まいで時々絵を見ていただく事がありました。 その先生は役所の外郭団体にお勤めでしたが私たちの展覧会のことを聞いてお手伝いして戴ける事になりました。

先生はもともと、絵を道路に並べて展覧会をしたい・・と知ったとき、そんなことはお止めなさいと先ず最初に反対しました。 道路で催し物をするときには警察の許可を得なくてはならないし、ましてや商店に限らず人の家の前で勝手なことをする事に は問題がありすぎると言うことでした。
公園でしたら広いし、それ位のパーフォーマンスも許せるんではないでしょうかとやや好意的に思ってくれました。
それに先生としてはどうやら、とある秘策があるようでした。

当初、道路で・・、の次にそれでは公園で、と気持ちを変えたときに先生は先ず「この若者達の夢がかなったらいいなー」と思い ご自分のお知り合いの人脈の中にこの夢を実現できそうな手ずるを見出したようでした。
少し、心配だったことは大きな上野公園や、日比谷公園、墨田公園などを想像していた先生にとって「数寄屋橋公園」 と知ったときには少し暗雲を感じましたが乗りかかった船と覚悟を決められた様でした。

すでに6月の終わり頃には4枚目の準備に入りましたし、雨続きの季節のお陰で気の散ることも無く集中して絵を描くことに 専念しました。私と松頭さんは、なにか頭の上から押さえつけられたものが一気に吹っ飛んだ気持ちになり、お互い制作には 拍車が掛かりました。
ある日、野山先生に呼びつけられてお伺いすると、封書入りの手紙を託されました。宛先には東京都緑地管理事務所主任 「・・・・」様となっています。これを見せれば私の後輩、何かと力になってくれると思いますのでと先生もすでに太鼓判 でも押したようでした。
翌日早速、松頭さんが都の緑地管理事務所に手紙を持って行ってくれると言うことになりました。

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松頭さんの話の様子ではその主任さんも、野山先生からのお手紙ということ、さっと文面を見た限りでそれ程大変そうな雰囲気 ではなかったとの想いから確信を得たようでした。
来週から7月、その頃までにお話の内容は通して措きますので月初めにもう一度いらっしてください。

研究所からの帰り、言問い通りの鶯谷陸橋を渡る私たちはすっかり有頂天で、まるでもう華々しいデビューでも飾ったような 気さえしてきました。陸橋脇の急階段を下りながら私は「ネー、案内状なんかドースルー?」とか、松頭さんは「俺が認められて 幸三郎だけ残されても、ウラムナヨー」と、好き勝手です・・・・(続く)




(連載No.24)
「こ、幸三郎!、話しがへんだぜ!!」

仕事を終えて一目散に通ってきた研究所の玄関の前、松頭さんは私を待ち構えていました。
鶯谷駅から言問い通りの急な階段を一気に駆け上がり研究所まで走ってきた私は彼の顔つきを見るなり「これはとんでもない 事になってしまったんだ・・」と察しました。汗が止めども無く流れ、上野公園行きの電車が目の脇を通り過ぎる音も 聞こえませんでした。

私は松頭さんに問い詰めます。「・・だって、あの時主任さんは『任せなさい!』と言う顔つきで・・」。更に松頭さんは 「そう、その主任さんは『・・いいよね、若いって事は一生懸命頑張りなさい・・』とまで言ってたのに」
その日私達は研究所の玄関から入る気もしませんでした。私と松頭さんはそのまま上野桜木町の京成陸橋を渡って真っ暗な 谷中墓地まで足を運びました。わずか5分ほどの道のり、ずいぶんと黙りこくって歩いた気がしました。

その日のお昼休みを利用して松頭さんは、東京都緑地管理事務所のある日比谷公園に出かけました。この糞暑い最中わざわざ スーツを着て公園事務所に向かったと言います。その窓越し、松頭さんを見届けるや食事中の主任さんがお弁当箱に蓋をして 表玄関にすっ飛んできたそうです。「スミマセン、すみません・・」の一点張りだったそうです。
何でも「催しもの届け」用紙に主任さんが記入して置いてくれたようでした。「数寄屋橋公園」は西銀座商店会のなにかしかの 催しは常に執り行ったり、数寄屋橋交番のイベントの拡大でもよく公園の利用は主任さんの「催しもの届け」記入を上司の 課長さんが判を押して実行してきました。今回もそんな手はずでした・・と。

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「この件に関しましては課長の許可印を戴くことがどうしても出来ませんでした。私からも再三趣旨をご説明しましたが・・・」

「・・・幸三郎、どうする?・・」暫らくして松頭さんの気の無い質問がいっそうみじめったらしく聞こえます。私は 返事をするのも億劫です。ナントカと言う不倫をして駆け落ち先で死んだ女の墓が横倒しになっています。そこに二人しばし腰掛けて ぼんやりと過ごす事にしました。真っ暗な墓地、私は目から涙があふれて止まりません。遠くなのにくっきりと「アサヒビール はあなたのビールです」真っ暗な墓石に宣伝しているかのようなネオンサインが唯一、輪郭を確認する手段です。
暫らくすると気持ちも落ち着いてきました。恐る恐るそっと松頭さんを見ると頬にはくっきりとネオンの光る緑色の泣き痕です。

『・・君たちは帰るところは有るのかイ?』突然の怒鳴り声にびくっとしました。でもお巡りさんと判ってほっとしました。 「ええ、そのうち・・」気の無い返事にお巡りさんも関わりたくなさそうです。・・・・(続く)




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               第二部まとめ読みご案内
第6章(No.25〜No.30) (〜24歳ころ)美術研究所中期(T)・・・希望(欲)が無いってこんなにも自由?・・・
第7章(No.31〜No.40) (24〜25歳)美術研究所中期(U)・・・陶芸との出会い・・市川美術研究所、山本所長とのこと・・
第8章(No.41〜No.51) (〜25歳)美術研究所中期(V)・・・三科展美術団体準会員推挙・・・・
第9章(No.52〜No.58) (〜25歳)美術研究所後期(T)・・・駒込林町、山谷家からの別れ・・・・
第10章(No.59〜No.62) (25歳ころ)美術研究所後期(U)・・・駒込林町、アトリエ付きの間借り・・・・



第6章(No.25〜No.30)(〜24歳ころ)美術研究所中期(T)・・・希望(欲)が無いってこんなにも自由?・・・





(連載No.25)
・・・・もう2週間も研究所を休みました。しばらく絵も描きたくありません。仲良しの友達にも会いたくありません。 もう少しこのまま休んでいると研究所も夏休みに入ります。(今で言う不登校ってやつかな?)

松頭さんはどうしているんだろう。マサカ平然として何事も無かったような顔をして絵を描いているんでしょうか?。シノさんは? あれから未だずうっと来ていないんでしょうか?。
えい!!、みんなすっ飛んで居なくなってしまえ。周りに居た人はみんな消えてしまってくれよー!!。

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文京区駒込林町の下宿屋です。
気の休まるはずの宿は気が休まりません。 先ず同室で生活している先輩、桂さんがどうも私に最近冷たい、なぜか判らない。襖を隔てた三畳間の住人、古村少年は青春に目覚め たのかしきりに女友達を連れてきてはヒッソリと襖を閉ざしている。階下の女子大生は最近、松頭さんと同じ宗教に夢中になったらしく 、今まで私なんかに話しかけても来なかったくせにイヤに馴れ馴れしく話しかけてくる。挙句の果てにはアノ、バーさんまでが得体の 知れない教祖様にぞっこん?!。もう、普通の家では完全な家庭崩壊です。ただもう一人の、真っ青な果実の女子大生と、傷心の青年 画家のみがまともでしたデショウカ?


故郷の諏訪を離れて6年、何時帰っても気の休まる両親の元です。
夏休みです、清々しい信州の駅に立ち、実家へ電話をしても繋がりません。やむなく、荷物を抱えてテクテクと歩くうち追い越し際に 父母の乗った軽自動車ダイハツ、スーパーデラックスワゴンが急停車します。「幸三郎!・・、父ちゃんと霧が峰に花を採りに行ってた んだよ」と、母の嬉しそうな声が弾みます。
父も母もすっかり日焼けしてすべすべの笑顔で迎えてくれました。・・・きれいな夫婦だ・・子供ながらに羨ましく、嬉しく思いました。

「夏、諏訪湖」、「夏の霧が峰」、「・・の白樺湖」、「・の八島湿原」、「・美ヶ原高原」・・
気持ちの洗われる日々、ここに戻って来さえすれば私は必ず立ち直れる。こんな素晴らしい田舎が私にはある。
何処に行って絵を描いても、すべての構図は自然体に構成でき、配色の極めも意のままです。それは他人(ひと)が感じるものではなく、 セザンヌのセントビクトアール山、ゴーギャンのタヒチの海岸、ユトリロのパリの街角・・・自分でしか感じられない共鳴体を自分が 持っていることを自覚できれば、こちらから発信して共鳴の反応を確認できます。

素晴らしい夏休みの体験を得ました。落ち込みが激しければ激しいほど這い上がる気持ちは一層高まります。・・・・(続く)




(連載No.26)
夏の時期、野山先生に誘われて先生の所属する美術団体「三科展美術協会」の勉強会に行くことになりました。 野山先生は私の勤めていた会社のご近所にお住まいです。会社の美術部では先生のご指導も仰ぎながら更に上を目指そう とする若い人達には積極的にその道付けにもご尽力いただいていました。

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その美術団体は毎年秋、上野の美術館で展覧会を催し多くの美術愛好家が絵を観に訪れます。この時期、協会の勉強会は出品作 に対するレベルアップや美術協会員としての質的向上を狙って毎年開催されていました。少なくとも私には当時、純粋に勉強会 と感じ、それなりの成果はありました。しかし、その一方でなんで勉強会を割烹で?と思いましたがそこはそれ、当然協会と言う サークルですから親睦もかなり必要なことであったのでは無いでしょうか。
そんな勉強会に「幸三郎さんも行ってみませんか?」と誘われたのは実にタイミングよく私にとって、願っても無いことで した。

今年の勉強会は埼玉県の奥座敷、長瀞町の老舗割烹旅館「瀞閑荘」という所で催されるとのことでした。なんでも、割烹 旅館のお嬢様がこの協会展に出品、懇意にしていることからこの年は長瀞での開催に決まったそうです。
西武鉄道を乗り継ぎ秩父鉄道から簡素な長瀞駅に着きました。すでに時間は10時を回り日差しも最高潮です。しかしここでの 爽やかさは格別なものがありました。
大きく開かれた木戸の奥、玄関まで気持ちよく打ち水された割烹は如何にも都会の奥座敷の名にふさわしく、私ごときが こんなところに入ってもいいものなんだろうかと一瞬身構えます。玄関ではお嬢様じきじきのお迎えを戴きました。私は 研究所で描いた30号、裸婦像の絵を抱え大汗をかいて野山先生の後に従います。

渡り廊下から庭に配された木々を眺めながらその先、かすかに聞こえて来る談笑の響きは私の気持ちを高ぶらせます。 廊下が中庭をめぐる角まで来たときにその先の離れに、いわゆる絵描きさんたちが大らかな笑みをたたえながら歓談している のが見渡せます。中庭の中央には季節はずれの鯉のぼりが荒川の川面を駆け上がった風を一気にはらんで悠然と泳いでいます。

とてつもなく広い離れに着いたとき一瞬、「あ!、皆、日本を代表する絵描きさん達ばかりだ・・!」
しかも野山先生ほどのご高齢の方が、ご自分の息子さん程の若い方々に深々とお辞儀してご挨拶している姿にも驚きました。 『この世界は年功序列ではない!、』とすぐさま思いました。しかしそこは和気あいあいのサークルです、一瞬の挨拶を除いては 長老を敬い、遠路の労をねぎらってのいたわりの言葉が続きます。
次は、金魚の糞の様にくっついてきた私の紹介です。皆、私の抱えている「絵」に視線は向かいます。 ・・・・(続く)


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「霧ヶ峰」


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(連載No.27)
野山先生は、主だった方々に個別の挨拶が一通り終わると私を直ぐ傍らに呼び寄せて皆さんの前で紹介して くれました。「彼は色材会社に勤めている傍ら・・・現在は美術研究所に通って一生懸命勉強しています。いずれはこの会の 立派な柱となる可能性もありますので暖かく見守ってやってください・・」私にとってはたいへん光栄なご紹介を戴きました。

この会の勉強会は、私のようにそれぞれの先生に連れられてきたいわゆるお弟子さんたちの作品を皆で指導し、研究することに 主眼がもたれているようです。勿論、そういったことを通して会の親睦と次世代の若い人を育てる場として運営されているようでした。 先輩たちや、先に待機していた若い人達の力作を見終わっていよいよ私の番がめぐってきました。
私は研究所で創意をこらして取り掛かった作品と、気持ちとしては抑えて習作のつもりで描いた2点の裸婦像を並べて出しました。 しかし先生たちは大勢として、習作に比較的高い評価をしてくれましたが、これはどーだと思って並べた作品にはそれ程の関心は示して くれませんでした。

「幸三郎さんが背伸びをして表現しようと思ったことは、こちらの習作の方が素直に無理なく滲み出てきます。こういった地道 ではありますがこの習作のような制作態度を続けて探求していけば、もっと広い世界が広がってきます。」「焦らなくても若いうちに そこのところをしっかりと踏まえて勉強していくことが大切ですよ・・・」
出鼻をくじかれた、そんな感じでした。「ホッホー、若いのに中々いい才能していますねー」そんな言葉を期待していた私はしばし 固まったまま身動きすることも出来ませんでした。
つまりプロの先生たちは『勉強しているんだったらもっとまじめに研究し身に着けるものをしっかりと 磨きなさい。今の若いうちしかそういった勉強は出来ませんよ』きっぱりと、おっしゃってくれました。

しかし、いい話が聞けてよかった。研究所では仲間同士「いい仕事してるねー」ナンテ、井の中の蛙そのものだったんだ。

離れ手前の大座敷から「宴会の準備が出来ましたよー」と言った声が掛かるとなぜか皆、海老が跳ねるようにあわただしく移動します。 野山先生は上座の席に長老たちとにこやかに陣取ります。私はというと、味噌クソにけなされた先輩弟子達と負け犬よろしくお互いの 傷を癒しあう格好で長老たちと対角線に位置します。
会長はじめ野山先生たちの挨拶の後、懇親会に移行しました。挨拶の内容は一様にこの会の隆盛は諸先輩たちの功績と、それを引き継ぐ 我々と、ことに「そちらに控える若き新鋭諸氏のこれからの活躍にゆだねられています・・。」

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少しお酒が回ってきた頃、先輩弟子から思わない言葉が私の耳に飛び込んできました。
「彼等の言ってることはもう一世紀も前の理想を俺たちに押し付けようとしているんだよ・・」「幸三郎さんとやら、まさか爺っさん達の 戯言を真に受けてはいねーだろーなー?」

秩父鉄道。帰りの電車、野山先生は軽いいびきをかいて気持ちよさそうです。
私はと言うと、頭の中がグチャグチャです。先生方の言うことは本当の意味で参考になりましたし、自分でも思い当たる節が幾つも 見渡せるからです。「もっとまじめな勉強を深めよう・・」と思ってた矢先でした、先輩弟子たちの言葉がアミーバーのように襲い 掛かってきたのです。

「何時の世もそうなんだよ!まったく年よりって奴は、 妬みだよ、ネタミ、」「幸三郎の表現をそのまま、もっとダイナミックに展開しろよ!、爺さん達をグーと言わせるように・・」 ・・・・(続く)




(連載No.28)
美術研究所は学校と違いますから、夏休みが終わったからといって特別なことはありません。相変わらずの青白い 神経質そうな面々が、また集まってきたといった按配です。加えて、美術学校の受験に失敗し、失望の淵からやっと我を取り戻した 浪人研究生が3〜4人増えたようです。「・・・来春こそは」と。
ただし、私の意気込みは自分でも「何時もと違うな!」と思えるほど意識改革されていました。あまりにも素直すぎる自分にも驚くばかりです。 三科会勉強会で指摘された「・・・若いうちしか出来ない勉強もあるんです。その時期をもっと大切に・・・・」と言う教えが頭を離れません。


それにしても全員の人数が増えた感じがしません。一番心配していた松頭さん、それ以前から休んでいたシノさんも出て来ていません。 松頭さんと仲のよかった恵美さんに聞いてみますととんでもない返事が返ってきました。
恵美さんの勤めは、千葉県内江戸川近くの市立中学校で数学の教師をしています。しかしいつからかは定かではありませんが、若い研究生 がしている様に、恵美さんもここの美術研究所に住み込みで暮らしています。ここから常磐線で通っているようですが以前、聴いたことがあります。 行きも帰りも電車はすいているし、結構本も読めるし、とても快適だ・・・と。なるほど皆の通勤電車とは逆だものネー。
彼女の話によると、私が休んで一週間後・・・つまり夏休みの一週間前の事だそうです。どうやら松頭さんがまた仕事で怪我をしたようです。 しかも、今度は以前ちょくちょく聞いた爪を剥いだ、すり切った、とは違って指の先端を潰してしまった・・様です。

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「うわ!!」私は思わずビックリして声を張り上げてしまいました。


久しぶりの研究所、余韻にしたっている間も無くモデルさんが支度を終えて出てきました。週の初め、これから二週間かけて勉強するモデルさんの ポーズを決定しなくてはなりません。
ポーズの決定は全て自分たちでモデルさんと相談の上、決めなくてはなりません。どうやら見渡したところ、私が司会をして皆の意見を集約 しながら自分の意見も・・・と、いう事を任されることになりました。
こういった雰囲気は常に暗黙のうちに「年長者が・・・」と言うよりも、今回は「幸三郎、やらないか?」という誰かの声で特に反対が無ければ 決まってしまいます。私は以前にもこういった場の司会はよく経験していましたので別に拒む必要も有りませんでした。


しかし、今週から私はある想いがあって、モデルさんのポーズは横臥した、いわゆる「寝ポーズ」を望んでいました。しかもモデルさんと 先ほど玄関ですれ違ったとき、一層その気持ちが強く「アッ、この人だったら寝ポーズを描いてみたい」と思っていました。
案の定、受験の為の研究生からは立位「立ちポーズ」と言う声が複数聞こえます。このまま多数決を採ろうとすれば当然「立ちポーズ」に 決まってしまいます。

私は、あえて「寝ポーズにしたいナ、」と異論を唱えました。そして提案者自身でモデルさんに短時間ポーズを作ってもらい、比較して 採決しようと持ちかけました。
若い研究生が苦労の末、モデルさんに体の重心、顔の向き、手の仕草を指示してポーズが完成しました。 皆、これに対してクロッキーで素早くスケッチをして確認します。
次は私の番です。床に横たわってもらい大きな骨盤を垂直に立ててもらいます。 下になった足のひざを曲げて上の足を伸ばす。上体は後ろの壁を見るように・・。ポーズは完成し、しばらくクロッキーの走り描きの音が 静かに響きます。

「では、採決してもいいでしょうか・・」私は、半分くらいの人はこちらについてくれるかなと望みをつなぎます。


と、その時壇上のモデルさんから声が掛かります。「アノ〜、この寝ポーズは、多分私、持たないかも知れませんが・・・」・・・・(続く)
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(連載No.29)
人間の体のバランスは実に不思議で魅力的です。特に体を動かし動作を伴った時のバランスの取りかたは モデルさんが意識して作り出したものではありません。人間と言う動物を創造した神様でもなく、何万年もかかって自ら進化を してきた人間自身が生み出した合理性の結晶だと思います。
その一瞬の美しさを絵に表現しようとしたとき、あまりにもその技術は奥が深く一朝一夕にして描けるものではありません。ただひたすら 巨大な山の、広大な裾野をとにかく一歩一歩、頂上を目指して足を運ぶようにして鍛錬習得する以外選択の余地はありません。


「アノ〜、この寝ポーズは、多分私、持たないかも知れませんが・・・」
思わぬ邪魔者が現れました。まだ山の麓、せっかく上を目指そうとする私の出端を挫くかのようなモデルさんの発言に二の句も出ません。

以前にも、今回のようにモデルさんから「無理です!」と言う理由から取りやめたことのあるポーズは幾度かありました。ですから 私としてもここで引き下がるのが一番、と諦めることにしました。


突然、向うの端から声が掛かりました。「チョット!、ちょっと待ってくださいよ・・!!」今まで黙って事の成り行きをうかがっていた宮原さんです。 彼は美術大学を出て現在は都内の小学校で美術教師をしていますがそれでも熱心に研究所に通って勉強を続けているのです。
「モデルさん、確かにこのポーズはチョットきついかも知れない・・と言うのは私にも察しはつきます。」「だからと言って、ハイ、そうですかで 片つけられてしまっては彼が可愛そうです。」「あなたもプロのモデルさんでしたら、彼の提案のポーズの何処を直せば続けられるポーズになるのか 提案してくれませんか。」


これは嬉しい!、言ってることも筋が通っている。私はいっぺんで宮原さんの事を頼もしく、好きになってしまいました。
モデルさんからはそれ程の反論も出ませんでした。結局、先ほどのポーズをもう一度再現してもらうことになりました。


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大きな骨盤を垂直に立て、下になった右足の膝を曲げ、上の左足は軽く伸ばします。上体は仰向けにし両手は半分バンザイ、顔は後ろの壁を見る ように反らせ髪の毛は右手に絡ませます。頭のいいモデルさんです。寸分狂わず再現されました。
宮原さんもチョット厳しく言い過ぎた反省からか前に出てきてモデルさんを気遣います。「どうですか?かなり厳しいでしょうか?」「呼吸は 無理なくできますよね?」「・・・!」暫らく沈黙が続き、他の人も先ほどのクロッキーより更に時間をかけたデッサンをしています。

「このポーズ、10分ではダメでしょうか!?」モデルさんが急にこんな発言を持ちかけました。
本来、2週間かけて描き続けるポーズの時間割は20分描いて10分休む。つまり2時間のうち正味80分しか描く時間はありません。しかし 10分描いて10分休みを取れば続けられるかも知れないと言うのです。


「なるほど!!」私は思わず拳を手の平に打ち付けました。「そういう事だったんだ!!?!!」

多くの画家たちが女性のリラックスした寝ポーズを描いていますが、アレは決してリラックスしているわけではないんだ。彼女たちは苦痛に 顔をゆがめてひたすら耐え忍んでいる姿なんだ。

私はことの流れが、次第に自分の想いの方に流れていく感じを快く受けながら議事を進めようと決めました。

「私から・・いいですか?」今度は千葉県の中学で数学を教えている恵美さん(松頭さんのお友達)が手を上げています・・・(続く)




(連載No.30)
私はモデルさんの「10分ポーズでしたら出来ます・・」と言う言葉に大いに満足し、皆に提案するつもりで居ました。 しかし、恵美さんが手を上げて発言を求めています。

「私から・・いいですか?」、松頭さんのお友達の恵美さんは、いつもしっかりした考えを皆の前で発言することが多々あります。
「幸三郎さんの提案のポーズは、私も描きたいと言う衝動に駆られます。でも、多分実際に描こうとする場所は かなりの人が集まりすぎると思います。」「今週の人数では全員が満足した方向から描こうとするのは無理ではないかしら?」

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そうなんです。私も多少無理があるかな・・とは感じていましたが、改めて指摘されると何となく意固地になりがちです。「はい!、 一応は、デッサンの段階で、それぞれの位置で描けそうか否かは結論が出ていると思います。」
「採決を採らせて貰います。いいですか?」

「エット・・!、」先ほど助っ人を出してくれた宮原さんです。
「幸三郎さん、このポーズは実にすばらしく、それで居てとても難しそうなので次の機会にどうでしょう。」「恵美さんの言う通り、この人数では 無理もあります。」「この先、幾等でも我々、少人数の機会は結構ありますから・・、どうでしょう?。」

・・・えー、宮原さん、それは無いでしょう・・??!!。私は思わず叫びそうになるのを押し止めました。
「ハイ、わっかりました!!」少しヤケッパチぎみの返事ですが今日のところは引き下がることにしました。
「では、今回の私の提案は取り下げます。先ほどの立ちポーズ以外のご提案はありますか?」しばし、沈黙が続きます。「じゃ、モデルさん、 先ほどの立ちポーズで今回はお願いいたします。」

思わぬ初日のつまずきで、今日の時間は一時間しか残りませんでした。そもそも、立ちポーズの作品と言うのは習作的要素がかなり濃く、画面構成 はもとより、頭から、肩、腰、足に至る重力に対する支えをしっかりと捕らえ、表現することに重きをおきます。ですから美術大学受験生に取っては この立ちポーズに対するテーマががキッチリと出来ることが求められるわけです。
私も初心に帰って、この2週間は美術学校を受験する気構えで立ちポーズに臨む決心をしました。


構図も決まり、色彩に対する大きな方向性も予感しながら今日は、下地になる色まで全体に施そうと考えていました。夏の終わりにしては 気候もからりとしています、明日からの色重ねを考えるとどうしても今日のうちに下色は決めておく必要があります。
時間が終わり、モデルさんも帰ります。研究生もあわただしく片付けを終えると潮が引くようにして研究所を後にします。この間まで松頭さんと 展覧会をする為に30分は余計に研究所で制作していたことを思い出し、その調子で作業を続けました。

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「横臥裸婦」


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ふと、我に返ったときは一人、古新聞紙に絵筆の絵の具を塗りつけて筆洗器ですすいでいる最中でした。既に宿直の研究生が下の階から見回りを終えて このフロアーに達したようです。聞き覚えのあるスリッパの足音・・「やァ!、恵美さん・・」「さっきは、ごめんね!」と、恵美さん。こんなに ストレートにお互い挨拶をしたのは初めてでしょうか。
私は更にパレットに残っている絵の具をパレットナイフでそぎ落としながら、恵美さんが窓に施錠したりカーテンを閉めたりする何時もの足音を 感じながら片付けを急ぎます。と、恵美さんが突然私の絵筆を取り上げて「洗ってあげるネ」と言うや否や流し台に行き、いつも私がしているように 筆洗油の付いた絵筆に石鹸をつけて水洗いし始めました。・・・(続く)



第7章(No.31〜No.40)(24〜25歳)美術研究所中期(U)・・・陶芸との出会い・・市川美術研究所、山本所長とのこと・・





(連載No.31)
市川美術研究所、東京と隣接する千葉県の江戸川を挟んだ対岸の高台にその研究所はありました。
以前に少し触れましたがそこの研究所を主宰する山本所長がここ寛永寺坂美術研究所に暫らく籍を置いていました。

私としては年配の方が研究生としてここに在籍していることに少しも抵抗は感じませんでした。むしろ、年配の方の生き様 に強い関心を持ち、果たして私がこのまま研究生活を続けていくことと照らし合わせて大変興味を持って観察する対象でもありました。
しかし、山本さんは私の研究生としての生活をたいへん気に掛けていたと、述懐しておられました。
山本さんの奥様の旧姓は私と同じ姓であったと言います。山本さんは私の姓からして出身地は奥様と同郷、長野県の諏訪ではないかと思って居たようです。
「幸三郎さん、こんど私のアトリエに一度遊びに来ませんか?」と、誘われたのは山本さんがここ寛永寺坂美術研究所に来て2週間もしないうちでした。

日大芸術学部出身の山本さんは千葉県市川市に居を構え、江戸川を見下ろす閑静な松林の中の一角にアトリエがあり、3軒ほど先の角にお住まいもありました。

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山本さんのアトリエを訪問したのは最初にお誘いいただいてから2ヶ月も経った11月の初め頃でした。
それ程興味も湧かなかったというのが実感でした。しかし、急に「お邪魔したい!」と思い始めたきっかけは、ある日私の絵を研究生が研究材料に 討論をしたことでした。
そのころ、私は沢山の絵の具を物量的に使って描写によるボリュウーム感以上に、絵の具をパレットナイフ等で盛り上げて絵を描いていました。
その行為について賛否両論あり、私自身大いに皆さんの意見が参考になりながらも自分の衝動をまったく否定はしませんでした。 そんな議論の中で、気にも留めなかった山本さんの言葉がありました。「単なる、欲求不満の消化では・・」

私は皆と研究所の門を出て、真っ暗闇の谷中の墓地続き、上野桜木町から言問い通りの明るい方に足早に向かいます。しかし更に早足で近づく 足音に気づき、後ろを振り向くと山本さんが追ってきます。
「幸三郎さんとちょっと話がしたくて・・」少し息遣いがせわしそうでしたが、重大な用件のようです。「ほかの研究生ではあまり立ち入りたくないん ですが、何故かあなたには放っておけないモノを感じまして・・」

鶯谷駅に足早に向かう仲間たちは、急に歩みを遅くした私に気遣いましたが「イェ!、ちょっと先に行ってください・・」と、山本さんの顔を まじまじと見ました。
11月初めにしてはここ、鶯谷駅を見下ろす言問い通りの陸橋の上はさすがに寒い風が吹き抜けます。
私から「先ほど、研究所でのご意見の件でしょう?」 「そうです!。ここでは何ですから・・どこか・・」「では、駅前の養老の滝に行きましょうか?」
「ゴメンナサイ!、私はお酒が呑めないものですから・・」「・・ェ!?」
「養老の滝のはす向かいに『ムンク』と言う喫茶店がありますが?」

お酒も呑まないで気難しい話などした事はありません。山本さんの顔色では恐らく私に関する「気難しい話」の様です。・・・(続く)




(連載No.32)
「幸三郎さんの制作態度を見ていると、絵を描くと言う行為のほかに彼の本質的な欲求を満たすための幼稚なオシャブリを 同時にしている・・。つまり、表現したと言う満足感を”絵の具を盛り上げた”と言う満足感で不満を消化したと自分に思い込ませているんです。」

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「厚塗りの絵」


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研究所での研究討論ではかなりひどい言葉も飛び交うこともよくありました。しかし、そこはそれ、同じ青二才同士ですから「・・そう言うお前こそ そのものだよ・・」と、内心で自分を慰め次の糧にすることも出来ます。


『ムンク』、名前からして陰気な感じの喫茶店に入りました。私の視線はというと正面に座った山本所長(以降、山本さん、と呼びます)と視線を合わせまいと 斜に構えます。
山本さんは自分にはコーヒーを注文し、私の為にビールを持ってくるようにお願いしていました。そんな気遣いに私も山本さんと正対する気持ちも出てきました。
「幸三郎さん、短い期間でしたが今週イッパイで寛永寺坂の研究所に暇をもらうつもりです。」「・・・、」
「私は、研究所の運営と言う勉強をする為に、あなたのような青年と真剣に研究した経験はたいへん貴重でした。」「私の研究所も、単なる美術大学の予備校的な 教室ではなく、今日の皆さんのように本来の美術研究を目指す若者の教室にしていきたいんです。」

山本さんは私にビールを注ぎながら更に続けます。「あなたが真剣だからこそ、放って置けなくて呼び止めてしまいました。ゴメンナサイ。」
「あなたに対して”欲求不満”と言ったのは実は、あなたから大きな反発を期待していった言葉なんです。でも、あなたは反発しなかった・・!」

実にお節介なおじさんもいたもんだ、それもダ、高級なビールまで飲ませて・・・。

「ひとつ、”盛りあげる”と言う仕事だけ分離してやって見ると、かなりあなたの研究もはかどると思いますが・・」 「オイ、オイ!、そんなものあるわけネーだろう・・?」と、私は心の中で叫びます。
更に山本さんは続けます。「ネンド・・って、触った事ありますよね?」「・・ネン・・土!?」と、私。 「そう、粘土ですよ。・・・あの陶芸の材料の・・!。私のトコロデ出来ますから一度いらっしゃいませんか?」

私はお酒を飲んで頭の中が混乱するようなゲコ(下戸)ではありません。ましてやこんな炭酸飲料でお茶なんか飲んでいる人から「どう・・?」くらいで「はい!!」 などとは言いません。
「ハイ、・・・・、今度、お伺いしても宜しいでしょうか・・?。私のことは幸三郎、と呼んでください!」

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山本さんの顔には少し安堵の気持ちが漂い、すっかり冷たくなったコーヒーを一気にすすり込みます。
「では、出ましょうか?」


鶯谷から日暮里駅までのひと駅間、私は今度の日曜日、10時頃お邪魔する約束をさせていただきました・・・(続く)




(連載No.33)
11月の第二日曜日、小春日和の暖かな休日です。日暮里駅から京成電車に乗り暫らくすると突然視界が開けて電車は江戸川を渡ります。
鉄橋を渡る電車の乾いた音と共に・・「アッ、都会から離れるんだ・・」と言う開放の想いが私の視線を車窓に馳せらせます。

江戸川を渡って二つ目の駅「市川真間」、教わったバスに乗り10分ほどで入り組んだ街中を抜けるとあたりはのどかな田園地帯です。
指定された「国分寺バス停」でバスを降り、向かいの松林の坂を上り詰めると、もはや都会の臭いなど微塵も感じられない住宅が点在する一角に到着します。
瀟洒な住宅の山本さんのお宅は坂を上り詰めた角地にあって、スグに見つけることが出来ました。

如何にも穏やかに、素直に育てられた感じのお嬢様が玄関に迎えてくれます。すぐ奥から声が掛かります。「や〜、ようこそ!、イラッシャイ!!」、 山本さんの足音が近づくまで、にこやかな笑顔で玄関で待っていてくれたお嬢さんの仕草に「あぁ、家族ぐるみで歓迎してくれているんだ・・」と、感じました。

「本当に、よく来られまして・・、もうスグ家内も戻りますから・・」「したの子が今日はNHK児童合唱団の練習があって迎えに行ってますので・・」
私は、「チョットこれは俺なんかとは別の世界の人達じゃないんだろうか・・・、」と不安になってきました。


お嬢さんの慣れない手つきで入れてくれたお茶・・、「幸せそうなご家族なんだろうナー」と、とっても苦いお茶を勧められながら思いました。
すると坂を昇る車の音が玄関前で停まり、車のドアーの激しく閉まる音と共に、「お兄ちゃん!、来た〜?」と可愛い声が響きます。

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いきなり部屋に飛び込んできた妹は少し恥じらいの仕草をしながらもキチンと笑顔を作って私を迎えてくれました。恐らく、彼女の思い描いた「お兄ちゃん」 とはかけ離れていたのでしょう。「ゴメン!」。

車を車庫に納めて、奥さんも登場しました。私は思いの他スラッとして気さくな美人の奥様なのには驚きました。「イラッシャイ、今日は幸三郎さんのいらっしゃるのを 子供たちは本当に楽しみにしていましたのヨ!」「・・・エヘ〜」下のお嬢ちゃんはまだテレ恥じらいをしています。
「よいしょ!!」奥さんは大きな紙袋をダイニングのサブテーブルに下ろしながら「マーちゃんが、お兄ちゃんにご馳走したいんだと言って・・こんなに・・」
お話を聞くと上のお嬢さんは中学2年生、下の子は小学5年生です。

奥様もお出かけ服を簡単に着替えてテーブルに着きました。「はじめまして、山本の家内です。」「幸三郎さんの事は主人から良く伺っています。」「きっと、 私の遠い親戚かも知れません・・ネ、」と、いたずらっぽく話しかけます。
「・・・ジャ!、幸三郎さんと私たちは親戚・・ナノ?!?」と、おネーちゃんの美那子ちゃんが素っ頓狂な裏声を発します。 皆、思わず大笑いです。

私の故郷の諏訪では東側の山に、「鉄平石」と言う平たい石を採掘する山があります。そこの採掘を手広く手掛ける家からここ、山本さんのところに嫁いで来た 彼女の旧姓は私と同じでありました。常々山本さんからは「家の女房はアンタと親戚なんですよ・・」と良く聞かされていました。
しかし、故郷の諏訪では同じ姓の人が nン万と居て、奥さんも私も親戚ではないことぐらいはとっくに承知済なんです。
私も、面白半分に更に続けます。
「夏休みに、諏訪に帰省している私を訪ねて友人が上諏訪駅の駅員に『・・幸三郎の家はどこ?』と聞いたそうです。駅員もバカバカしくて 相手にする気になれません。『駅の正面の家・・だと思いますから聞いてみてください・・』・・」と言う話をして皆、又大笑いです。
「ジャー、お兄ちゃんと親戚じゃ無かったの??」と、マーちゃんが更に皆の笑いを誘います。・・・・(続く)




(連載No.34)
いつの間にかリビングに入っていた美那子お姉ちゃんから「お母さん!、スパゲティーはこんな位でどうでしょう?」と声が掛かります。 立ち上がろうとする奥さんに続いてマーちゃんも「サラダは私が作るんだからさわらないでよ〜!」と、同時に居なくなってしまいました。

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メガネの奥で、山本さんの優しく家族を愛する眼差しが調理場の方に注がれます。「いいですネー、こんな家族。」私は思わず声に出してしまいました。
私とは違った山本さんの大らかさ・・とでも言いましょうか、同じ芸術家を目指している先輩がこれほどまでに大きな心を持つ・・・、そして家庭を 築き幸せに暮らしています。
私の仲間ではとても考えられませんでした。私の知る限りのお友達にはそこまで他人に心を許す人は皆無でした。もっとも、私はまだ結婚だの「彼女!」だの と言う世界は遠いよその国の出来事でした。ですからその頃は家族であっても「他人」と言う気持ちが私を強く支配していたように思っていました。
現にこの間までは、松頭さんと二人展をしようと頑張りながらも「大人の世界の決まりごと」からはじかれてしまったような「くやしさ・・」を味わったばかり でした。
同じ仲間同士でも、少しでも自分の為に「優位」になろうとする気持ちの向き方を反省しながらも、益々自分の孤独の殻を硬く強固にする私。
さみしい自立心、を貫き通す一徹な私の心の扉の鍵が少し、緩むのを感じた瞬間でした。


「幸三郎さん!!、どうしたんですか?」「冷めない内に・・美那子ちゃんのシーフードナポリタンで〜す。」
ハッ!!と、我に返ったとき、皆が私の顔を不思議そうに覗き込んでにこやかに見守っています。

「あら、そんなにタバスコかけて大丈夫ですか?」美那子ちゃんの問いかけに、場は一瞬固まりかけました。
すかさず山本さんが「幸三郎さんはとってもお酒が強くて、大人の間では”辛口”と、言うんだよ。」

マーちゃんは「じゃ、このサラダなんかもっとお塩を入れたほうが良かったかしら?」
また一同、大笑いしたお陰でやっと先ほどまでの明るい雰囲気を取り戻せました。

「やはり、私だけまだ浮いた存在だな・・・」

食事が終わり、紅茶が出てきました。小さなケーキ付です。マーちゃんが「お兄ちゃんはカラクチ・・ですよネ?」「これ、とっても甘いんです・」と、 上目使いで私の膝に手をおきます。

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「マ〜ちゃん!!。」すかさず奥さんの激が飛び、再び場は盛り上がります。
「エェ、せっかくのケーキですから半分だけ戴きます、チーちゃん半分取ってもいいよ」と、私。 「え〜?、チーちゃんだけー?」と、美那子ちゃんの発言にまたまたの大爆笑です。


「さて、幸三郎さん、まだ暖かいうちにアトリエの方にでも行ってみますか?」
「はい、おねがいします・・」と、私。チーちゃん、美那子ちゃんも一緒に行くといいます。
「じゃ、皆で片付けをしてから・・行こう。」と、山本さんは言います。

家族思いの山本さん、食器の後片付けも皆で・・・と奥さんにも優しい気持ちが自然とできる。この人は出来る人だ・・。


お昼過ぎ、小高い丘の上の玄関を出て静かな住宅街の路地、未だ陽ざしは小春日和の真っ最中です。
マーちゃん、美那子ちゃんが走って先の角を曲がったと同時に到着の様子です。鉄の透かし扉を開ける音が聞こえます。
中から若者らしい声が聞こえ、「ヤー、美那ちゃん、チーちゃん・・」と、にぎやかな声がここまで響きます。

「今日は、日曜日で生徒さんが多いんです・・。」と足早の山本さん。・・・・(続く)




(連載No.35)
鉄の透かし扉を開けると広い玄関先、煉瓦を並べただけのタタキ広間で陶芸の生徒さんは思い思いの制作に余念がありません。

私の今日の、本来の目的は「ここ・・」であったはずでしたが、素早く通り越してアトリエの中の研究生の作品に向かいました。あちらこちらの美術学校や 研究所、講習会など、何処に行っても先ず絵を研究している人の作品と制作態度には常に関心は向きます。6〜7人の研究生がキャンバスに向かい、 静物の写生の真っ最中です。

その時、「ふー!、」っと感じたことは「いい環境で楽しく自由に絵を描いている・・」と思いました。

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それは私が数年前、駒込美術研究所から寛永寺坂美術研究所に移ったときに感じた「山の手のアトリエから下町のアトリエに移った」と感じた感覚の また、裏返しの次元でした。
確かに絵画の技術的な面では恐らく私のほうが上だろうなー・・とは思えます。しかしそれ以前の表現に数式では表せない温もりを感じました。

「この人達はきっと育ちが良くて何不自由なく暮らしているひとたちなんだろうか・・・」と漠然と想像していました。
その時「ハッ!」と気が付いたのは、さっきまで無人の描きかけキャンバスの前にお休みかと思った研究生が静物と対峙しているのではないですか。
見覚えがあります。そう、先ほど玄関先で頭ほどもある粘土の塊を轆轤に乗せて大作に挑戦していた若者です。

「あれ!?、あなた・・先ほどまで轆轤を・・?」「イーヤ〜!、はい、花瓶に挑戦しましたが失敗して戻って来ました・・」
なんとも清々しい一言です。「・・失敗して戻って来ま・・?」そんな逃げ口があったんだ。


その時、「私のこれからの生きかた?」みたいなものを感じる瞬間を持った気がしました。
物事を研究し極めようとした時、誰しもが味う「挫折感」は多かれ少なかれ自分で乗り越えなくては事が進みません。その為には「大きな精神力を瞬時に使う」 こと、それが不可能な場合には「ジクジクと時間をかけて徐々にその壁を腐食させる」以外に手立てはないものと思っていました。

違いました。
彼等がしていたことは「壁のどこかに隙間があって、自由に出入りしている・・」ことに気が付きました。
それは「隙間ではなく堂々とした取っ手付きの扉なんです。」勿論、彼等がそこの扉を自由に行き来している意味など判ろうはずはありません。


「おに〜〜ちゃ〜ん」美那子ちゃんとマーちゃんの叫ぶような呼び声で思わず玄関タタキに飛び出しました。
頑丈な木製のテーブルに二人で作ったんでしょう粘土の「延し板」がソバ切前の延し板宜しく相撲の土俵のようにペタペタとされながら鎮座しています。 「・・デハー、これからいろんな形のクッキーを作ります・・。」「お兄ちゃんも自分の食べたい形に切り取ってネ?」

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nenndo、ネンド、粘土・・。「これが、粘土なんだ・・!」

冷たくひんやりした触感、ちぎると先ほどまでの一体感に未練を残すようなチギレ跡、指で押すと何時までもその形跡を保存し忘れようとしない・・・。
子供の頃に親しんだことのある粘土とはとてもかけ離れた粘土でした。でも、そんな粘土を覚えている気がする。何処がどう違ってきたのでしょう。

「・・#・・オニーチャン!!、はい、この釘で引っかいて切るのよ!!」おしゃまなマーちゃんの言葉に私は少し腹を立てます。
私はこの感触に、遠い過去の記憶(ひんやりした触感、未練を残すようなチギレ跡、・・を保存して忘れようとしない)と未来の憧れを同時に感じながらも
「何か自分の心のあり方・・の糧になる模索になるのかナ・・」・・・・(続く)




(連載No.36)
一週間のうち、日曜日だけのお休みは大変貴重でした。しかし、その貴重な一日を陶芸に奉げる事になりました。

もともと熱し易く醒め易い性格ですから、私としてもそう永くは続かないであろうとは感じていました。

しかし、日曜日の朝になるとどんなに疲れていても何故かいつもの朝より不思議と目覚めが早くなります。
こんなに、モノに取り付かれたように行動する自分にあきれてしまいます。下宿で女子大生の宗教家と議論したとき「あんた、モノに取り付かれ たようにみえるよ・・!」などと応酬しあった言葉を思い出します。
京成電車が日暮里を出て江戸川の鉄橋を渡るとき、わざと電車が意地悪してユックリ走っているように思えるレールの響きです。

市川美術研究所、今日も一番乗りは私でした。12月も押し迫り、小春日和の日はテラスで粘土も楽しいものがあります。しかし、今日のように うす曇で底冷えのする日は少し辛いものもあります。
殆んどの日を土練りと手捻りと言う成形方法での作陶が殆んどでした。まだ、ほかの研究生がしているような轆轤にはまだまだです。
研究生が、どしどし訪れる前に所長の山本さんが必ず見に来てくれてアドバイスしてくれます。

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私の練った粘土を紐で四方、八方に切り刻み、「幸三郎さん、ホラ、このような空間ができるような土練りはダメです。」
「この空間は空気の穴です。ですからこの空気を追い出すように練り上げるんです。」
「こうやって・・・、『菊練』と言うんですが手の平の淵で切り刻むように・・」
「手が粘土でベトベトですね。」
「ハア?。」
「粘土はネー、慣れてくると手を汚さないんですよ。私の手をごらんなさい。」
確かに、山本さんの手の平にはうっすらと白い粉に触った程度の土しか付いていません。私の手はというと既に乾いた粘土がひび割れて無残です。


午後一時を回ると研究生がワッと押し寄せてきます。私は退散するとして回りの跡形付けをします。
そう言えば周りに飛び散った粘土も半端ではないなー。


この年最後の市川美術研究所通いでした。
早いものです。もう着はじめて7回目です。今日はある秘策?をもって来ました。今までは、粘土に慣れ親しむつもりの気持ちが強かったんですが「もう 十分に慣れ親しんだ!」
体験入学は卒業だ!。これからは本格的に勉強してみよう・・・。

先ずは「土練り3年・・・」だ。
頭ほどの粘土の塊をちぎってはバラシ、纏めて菊練りをする。紐で切り刻んで気泡を確認する。中々無くならないものだ・・・。
それをまたちぎってはバラス。
12月最後の日曜日は今冬もっともの冷え込みでした。最初は腕まくりするのも怖じ蹴るほどでしたがこんなことを繰り返すうち何時しか身体の中から 熱いものが湧いて来て額にはうっすらと汗まで掻く様になりました。
「なるほど・・大きな山の麓に立った感じだな・・。」今まではその山すら見えなかったのに。

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ちぎってはバラシ・・・を繰り返すうちに山本さんの言葉が一つずつ想いだされてきます。
「・・ネンド・・・って触ったことありますよね?・・」。
「・・ひとつ、絵の具を盛り上げるという行為と、描くという行為を分離出来ればあなたの研究はもっとはかどると思いますが・・」

「オッウ!気泡がない!」「ついにやったか・・!」
その時、今日も山本さんが何時もの時間に見に来てくれます。「如何ですか?!」私のはじけるような言葉に山本さんも嬉しそうです。
「では・・」と、横切りしたサイノメにはまだ細かな気泡が部分的に集まっているのがわかります。・・・・(続く)




(連載No.37)
美術研究所のお正月休みは永い休みです。どちらかと言えば冬休み・・でしょうか。

寛永寺坂美術研究所も市川美術研究所もキッチリと一月一杯お休みしています。おそらく、月謝制ですから一月度は日割り計算 と言うのも面倒だ。一層のこと夏休みと同じ1ヶ月で区切ろうと言うのもうなずけます。
寛永寺坂の方はもうすでに3年も経ち、その辺の気持ちの持ち方は慣れてきました。しかし、折角慣れ親しんできたあの、 粘土の触感ともう少しのところまで来た「菊練り」のコツ、また一から出直さなければならないのかナー・・と言う不安が募ります。

2月の第一日曜日、はやる気持ちを抑えることもできず、何時もより早めの電車で江戸川を渡ります。
山本さんはと言うと、私のはやる気持ちを既に察しているんでしょう、
「幸三郎さん、今日は正月の残り物・・と言うのも何ですが、少し片付けを手伝っていってくれませんか?」
「ハア??!」と、私は鼻をつままれた按配です。

いつも、玄関先で声だけかけてアトリエの方に向かいますが、今日は「待ってました!」とばかりに家の中から声が掛かって足止めされました。
「今年初めてのご挨拶も済んでいませんし、幸三郎さんに少しお話も有りますから・・」「ハイ!、でも・・」

いつの間にか引きずり込まれるように山本さん宅のリビングに上げられてしまいました。
「きょうは、幸三郎さんは必ずお見えになる!、って、確信犯的予感がありましてネー。」

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「そうヨ!!、私もきっと。しかも、いつもより早めにいらっしゃるってネ!!」奥さんもダイニングから弾んだ声で話しかけます。
「え〜、残り物だなんて・・、すばらしい料理では・・!?」私はきょうは覚悟をしなくては・・と、思いました。

「私は最初の一杯だけ、ご挨拶程度ですが・・家内がお相手しますので。」山本さんは私の次に、自分でコップ半分までのビールを注ぎます。
「アンタも、手があきましたか?いらっしゃいナ!」奥さんには、なみなみと注ぎます。
「デハ、改めて本年も宜しくお願いします!。」と、山本さん。「ハイ!、こちらこそ宜しく・・シマス・・」と、私。
奥さんも、ホっとしたように一気近くまでビールを飲み干します。
「今日はネー、美那子は補習授業で夕方まで缶詰。マーちゃんは児童合唱団でスキーに行ってしまって・・静かでしょう?」
「これ一本終わりましたら、お酒をお燗しますから・・、主人も日本酒だとお猪口に4〜5杯はいけそーですよネ?」

これは今日は、私を帰さないつもりらしい・・と言うか、もう既にお酒も3合ほどは呑んでしまっています。時間的にも間も無く研究生たちが ドヤドヤっと押し寄せてくる時間です。覚悟を決めて沈没するとするか・・・。
ころあいを見て山本さんは話を切り出します。
「今日は、幸三郎さん、申し訳ないことをさせてしまってゴメンナサイ。あなたのはやる気持ちは十分知っての上で邪魔をしました。」
「ハあ?!」
「私の研究生で、あなたのように一生懸命、陶芸を志していた女性がいましてネー。」山本さんは、少し間を置いて、私の顔色も見ながら 話を続けます。
「残念なことに、辞めてしまったんです。」「ナンデも情熱が無くなってしまった・・と言って、自分で笑っていましたけどネー」
「だから・・、と言ってはナンですが、あなたがあまりにも熱心でしたので心配もあるんですよ。ハッハッハ」
奥さんも笑っては居ませんが「本当に他人事ではないんですよ」と言った顔つきです。

「分かりました。好きなこともホドホドに、永く楽しむようにしなさい・・って事ですね?」
「そう!!、これはあなたにとっては遊び、あくまでも遊びだと言うことを忘れないで欲しい。」
山本さんの目つきも少し緩んで、自分の言いたいことを「告げられた」と思ったんでしょう。呑めないと言いながら軽く一本は呑んでいる ようすです。

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すっかり暗くなり、山本さん宅においとまをして帰途に着きます。
ガラガラの京成電車が江戸川を渡る頃、ふと車窓に映る自分の顔がニタニタと笑っていることに気が付きました。「シマッタ!」
はす向かいのハッピ姿のおじさんが怪訝そうな顔をして私を観ています。・・・・(続く)




(連載No.38)
陶芸を習う・・、「幸三郎さん、これは遊びですよ!、あなたにとっては遊びですから・・、其処の所を 忘れないでくださいね!」

電車の車窓からの江戸川河川敷は、暖かな日差しを浴びた少年野球チームや、ダンボールをそり代わりに斜面を転がりまわる子供たちの 姿に私の緊張感もかなりほぐれる感じがします。
先週のはやる気持ちとは裏腹に、今日はやけに引いた気持ちで江戸川を渡り京成市川駅に到着します。
暖冬、と言う言葉の通り本当に温かな陽射しです。国分寺バス停に降り立つと研究所までの坂道の切通しの土手にはすっかり ノビルの新芽が群生しています。坂を上り詰める頃には額にうっすらと滲む汗も感じられます。


「ここで先週はつかまってしまったんだ・・」私は、何事もなかったかのように山本さんの玄関先で大きな声を掛けて立ち去ります。
「コーザブローで〜す。おねがいしま〜す。」
追っかけるように返事が聞こえます。「ごくろうさまで〜す・・」と、去年の続きがこの瞬間から継続します。
そのさきの角を曲がった所にあるアトリエには今日も私が一番乗り、広いタタキに頑丈な木製のテーブルを引っ張り出して準備します。

外回りの水道の蛇口から直接口を当てて水を飲んでいると後ろに人の気配がします。
「幸三郎さん、先週はすみませんでしたねー、邪魔なんかしてしまって・・」振り向くと山本さんが悪げもなくニコニコしながら立っていました。
「イエ!、こちらこそ、大変ご馳走になりっぱなしで・・有難うございました。」
「どちらかお出かけになるんですか?」山本さんの支度に私は尋ねました。
「ええ!、今日はNHKホールで真理子たち、児童合唱団の発表会があるというんで・・」
「そうですか、マーちゃんにも、美那子ちゃんにもすっかりご無沙汰しちゃって・・」

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「そんな訳でこれから出かけてきますが、後片付けは研究生がやってくれますから心配しないで下さい。」


私は、ある種の快感を覚えました。それは以前中学生の頃でしょうか、「今度の時間は自習をしてください・・」と同じような気持ちですが 「フッと」湧きました。
絵の勉強を志し、研究所の門をたたく事になって以来、その勉強は常に「自習」のほかありませんでした。しかし、陶芸をかじってみたい と思ったとき以来「教わる」と言う、受身でずっと過ごしてきていました。

「・・これは彼方にとって遊びですから・・ネ。」という言葉と、「・・自習・・」と言う気持ちが快く私には思えました。


暫らくの間、「土練り」を繰り返すうち他の研究生も三々五々集まってきました。以前、轆轤で大作に挑んでは失敗していた彼も見えました。
「やあ・・!、今日も大作に挑戦ですか?」私は思わず聞いてしまいました。
「ハイ、どうせ遊びですから・・」「エッ・・!!」びっくりしましたが、同時に彼に本当の親しみを感じました。

「・・幸三郎さん・・でしたよネ?、所長さんから伺っていましたが・・」「絵を随分と熱心にされていると聞いていました・・。」
「・・イエ、」「あなたのお名前は・・?、以前、デッサンの隅に”龍”って書いてありましたが・・」
「はい、龍司と申します。23歳です。幸三郎さんの方がお兄さんですヨね?」「ェエ、ちょっとだけ・・」

「これからも宜しくお願いします。」「こちらこそ色々教えてください・・」・・・(続く)




(連載No.39)
「幸三郎さん!、ほぼ完璧ですね!!」「気泡も抜け土が活き活きと・・」

春先のいい日に私の作った「手捻り」の茶碗を市川美術研究生が焼いてくれました。
私には、「週の半ばに窯だしをしますからどうかいらっしてください・・」とのお誘いもありました。

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私には未だその辺がしっくりとしていません。つまり、「焼き物」などどうでもいい事でした。私にとって大切だった事は 土を捏ねまわす事、土を手の中でもてあそぶ事、手の中で触感として形が作られる事、しか興味はありませんでした。


普段の日、寛永寺坂美術研究所でのテーマは「色価による平面からの脱却」。それぞれの色彩の持つ特性的エネルギーを 概念的な面積とどの程度の等価で置き換えることができるのでしょうか。「しかも、実在する”裸婦のモデル”を目の前に置いて」・・・。 実際には「花」や「静物」「風景」ではある程度自由に表現することはできそうでした。
しかも大作の30号キャンバスで悪戦苦闘している最中のことでした。仲間からは、「表現に幅が出てきたね・・」などと「お世辞?」 も冷やかしに戴ける頃でした。

「コーザブローで〜す。おねがいしま〜す。」

何時ものように日曜の早朝、山本さんの玄関で挨拶し、足早にアトリエに向かいます。
追っかけるように何時もの返事が聞こえます。「ごくろうさまで〜す・・」

アトリエを入った玄関続きにテーブルがあり、週半ばに窯だししたばかりの陶芸作品が並んでいます。明らかに素人っぽくて見るからに 「みすぼらしい」作品群が主のお迎えを待っているようでした。
その中に、見覚えのある「茶碗」、しかもナンデこんなに小さくミスボラシクなってしまったんでしょう。

思わず手提げのバッグに捻り込みたくなるような衝動に駆られ、仕舞い込んでしまいました。
しかし、私の茶碗を含めこのテーブルの上にある陶器は「陶芸??ナンテ物ではナイ!!」。余りにも品がなく、人の目に触れさせたくはない物 ばかりでした。こんな下品なものを作る為に私は「土練り三年」を目指していたんだろうか??。
そんな事はありません。確かに私の目指す陶芸の世界は展示会を見ても、出版図書を見ても、焼き物の里を訪れてみてもこんなガラクタとは 程遠いものでした。

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表に出て、やおら頑丈なテーブルを引っ張り出し、このうっ憤を晴らすかのように頭ほどもある粘土の塊を叩き付けます。
「クッソー!!」・・・。私は何故か粘土が仇の様に思え「捻りちぎり」「押さえつけ」「ひっくり返し」「引き伸ばし」を繰り返している内に 「手応えが・・・無くなる・・!!」瞬間を感じたのです。

「なぜ・・・???」
こんな硬い粘土の塊が・・わたしの手の中で・・ホラ、「為すがまま・・」。こんな快感があったんだ・・。

しばらく私は、「ぼーっ」と、していました。今、自分の手の中で何が起こったのかを確かめることに恐ろしさを感じました。
が、気を取り直して粘土に手を触れると、またしても以前と同じに硬く、わたしの手を拒絶する素振りを見せます。

こいつは「じゃじゃ馬な奴だゼ!」と、気が付いたときには、今日の朝からの仕草を三回も繰り返したときに判りました。
「強引な力に対しては反発していっそう硬くなる」「優しく扱おうとするといい気になって硬くなる」

「お前の本心は判ったぞ・・」「この位の力の出し入れで・・どうだ!!」・・・(続く)




(連載No.40)
粘土に対して力の入れ具合、突っ込み具合が手の平で実感する瞬間を把握したのでした。

初めは出きるだけ静かに・・、粘土が目覚めてきたら徐々にリズミカルに、そして手の平の淵で小気味良く刻んでいくと 粘土は抱えていた気泡を放出し、素直に形を自在に変えてくれるのです。

「山本さん、こういう事だったんですね?!」
「そうなんです。土が生き生きとしてるでしょ?」
「そうすると轆轤で大きなものを造っても中心がブレませんね!。」「これから、楽しみですよ。」
「しかも、ホラ!、粘土の塊は何処を切り崩しても気泡は抜け切っていますよね?。」

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「陶芸をする人たち」


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山本さんは両手に持った糸紐の端をピン!と張り、「スパ!、スパ!」と縦横に切り刻みます。
「糸紐も軽く抵抗なく動きます。轆轤の糸底では綺麗な糸模様ができますネ〜。」「幸三郎さん!、ほぼ完璧です!!」



そうこうしている内に研究生たちも三々五々集まってきました。
いくら、暖かな陽気とはいえ半袖Tシャツ姿の龍司さんも来ました。「幸三郎さん、こんにちは〜。この間はドーモ。」

「おや?!、龍司さん!、幸三郎さんともうお友達ですか?」
「若い人は羨ましいね、すぐにお友達になれて・・」山本さんに取ってはそんな事も自分のことのように嬉しそうでした。

何時もは私も帰り支度をする時間です。
でも、先ほど身に着けた会得したばかりの術を、もう一度確認もしたかった所ではありました。

龍司さんは今日の初っ端、何時ものように轆轤で先ず大作に挑戦するつもりです。
私も、山本さんの横にイスを並べて一先ず休憩観察することにしました。

体格もいい龍司さんは、相変わらず豪快な粘土の塊をもって出て来ました。陶芸に関しては先輩です。一つ動作にしても 無駄なく、手際もよさそうです。
あれよあれよという間に、もう轆轤に粘土を据えつけるようです。
轆轤の回転が上がり、粘土はまるで生き物のように身を捩じらせて立ち上がります。少し回転を弱め上から押さえつけます。土殺しです。 そんな動作を2〜3回の後、彼はヤオラ粘土に親指を立てて中心に大きな溝を造ります。
手には粘土の滑りを増す為に水をたっぷりと付け更に中心の溝を深めます。まるで分厚い淵の大振りな小鉢のようです。

あれよあれよという間に、粘土は高く引き上げられて土管のような円柱が造られました。
今度はいきなり右腕のひじまで粘土と水で滑りをつけます。その腕を土管の中に差し込んで今度は横に膨らませようと言う算段です。

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実に、手際よく作業は進みます。第一、ひじまで粘土を擦り付ける為にTシャツを着用して来たのもうなずけます。

と、「幸三郎さん、ちょっと・・」と言うなり山本さんはアトリエに向かいます。私はもう少しこのまま見ていたい気がしましたが導かれるままに 従うことにしました。
例の窯出しした作品の前に山本さんは待ち構えていました。
「彼はこの後、すぐ失敗しますからあの場に居ない方がいいでしょう。」
「エ!?」「・・でしたら、今行ってアドバイスしてくればどうなんでしょう?」
「もう、手遅れです。」
私は、やや興奮して、「テ、テオクレって・・!?」と、声を大きくしてしまいました。
すかさず山本さんは他の研究生に眼をやりながら「出きるだけ小声で・・」という仕草をしながら続けます。

「以前、私は幸三郎さんに言いましたよネ、”これは遊びです、遊びなんだから・・”って」「私もそのつもりで彼に接しています。」
「龍司さんは、全般が少しずつレベルアップしていけば楽しめる・・と、言う理解から満遍なくやってます。」 「このお茶碗もマアマア使えるじゃないですか?」「それが彼の流儀なんですから・・。」

「幸三郎さんは、ガンコですから基本の土練り・・です。」「それもあなたの楽しみ方ですから私は何も言いません。」
「しかし、この土練りに関しては龍司さんをとっくに超えました!!ネ」

突然、「いっやー、もう少しのところで今日も失敗しましたー!。」明るく龍司さんが手を拭きながら入ってきました。・・・・続く。
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第8章(No.41〜No.51)(〜25歳)美術研究所中期(V)・・・三科展美術団体準会員推挙・・・・







(連載No.41)
4月の季節は美術研究所にとっても新年度です。新しく入ってくる人、自分で卒業と決めて来なくなる人、様々 です。私も既に25歳、すでに研究所の中の平日の研究生では最長老です。

私も3年前のこの時期、駒込美術研究所からここ、寛永寺美術研究所に移ってきました。

所長の神谷先生はその時、中二階にあるご自分の机に私を招き、「特に、美術学校を目指しているわけでは無いんですね?」
「ハイ、私は出来れば画家になりたいんですが・・・」
「そうですか・・、今日のデッサンを見ていましたらお勉強は何処かでなさっていた様な・・」
「ハイ、駒込美術研究所の方で二年ほど・・」「そうでしたか・・」

しばしして
「・・幸三郎さん、折角ですがその画家になると言う夢はお止めになってはどうですか?」

「・・・?、無理でしょうか??。」
「こればかりは自分で決めても世間の人がが認めて、養ってもらえない限りは野垂れ死にします!」

「いまは、お仕事はどうなさっているんですか?」
「ハイ、化学会社ですが勤め始めてから4年ほどになります。」
「ホウ、それは善い。ぜひお仕事はお続けなさい。」
「私からこんなことを行ってはナンですが絵描きになって好きな絵を描いて、それで生活できる人はよほど恵まれた 環境の限られた人だけなんです。」

「先生は、研究生皆にそう、おっしゃっていらっしゃるんですか?」
「いや、受験生には言いません。目的の美術学校に入った暁に、そこで進路を決めればいいことですから。」
「少なくとも彼等は幸せですよ、親御さんがまだあと4〜5年は好きなことをさせて揚げようという環境ですから。」

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「実は、幸三郎さん、私もあなたの年齢の頃何とか絵描きになりたい。」「絵を描いて生活できたらどんなにか素晴らしいこと だろうかと夢見ていましたネ。」
「エ!!?、先生はもともと絵描きさんではなかったんですか?」

「幸三郎さんの想像したような”絵描き”では無かったんですが立派な絵描きとしての精神はズーッと貫いています。」
「・・・?」
「つまり、私も学校の教職という収入の道は定年になるまで貫き通しました。」「そして、誰にも束縛されない自由な絵を 描き続けてきました。」「売れるための絵ではなく描きたい為だけの絵しか描きませんでしたネ。」


・・・何か判るような気がしてきました。
私は以前、駒込美術研究所の先生と懇意にしていた五反田画廊という所に風呂敷に包んだ絵を持っていきました。

「先生には内緒でもって来ましたが・・」
「どれどれ、ウーン、随分大きい絵ですねー。」
「幸三郎さん、売れるっていう絵は6畳間とかリビングに飾れる大きさで無いとダメなんですよ。」
「ともかく、一年ほどお預かりしますけれど・・」


「・・・さん!、幸三郎さん、大丈夫ですか?」
「エ!?、はい!」

今思えば、このときの神谷先生の言葉は私の一生を左右した進路の道路交通標識でした。 また、友人や先輩との議論の中で皆の揺れ動く自身の進路に対比して、私はあまりにも平坦なことで不満の声もありました。 ・・・(続く)
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(連載No.42)
「売れるための絵ではなく描きたい為だけの絵しか描きませんでしたネ。」

神谷先生のこの言葉は私にとって崇高なものを求める気持ちでは絶対に必要な精神性と考えていました。
しかし、友人たちと語り合うときそこになにか甘え?の気持ちはなかったのでしょうか。・・と。

事実、研究所の友人松頭さんと二人展をしようと計画して挫折したとき、彼はその時人生を賭けていたと 私は感じたのです。ですから計画が挫折した時点で彼は絵を描くことを辞めました。
それでも私はのうのうとして絵を描き続けています。

人にはそれぞれの生き方や物事に対する考え方があって、しかもそれがそれぞれに違っていて当然と思います。私の生き方、 考え方に神谷先生の言葉がただ単にフィットしただけの事なんです。
松頭さんがもし、神谷先生から同じ言葉を聞いていたとすると「ペッ!!」っと、吐き捨てたことでしょう。


さて、たびたびご登場願っています。私の勤務先の美術クラブで常々ご指導を賜っている野山先生(No.23/26/27に登場) から先生の所属団体の展覧会に出品してみないかと誘われました。

野山先生は三科展美術協会の審査委員です。ですから野山先生が「どうでしょう・・」と言ってくれるのは、もしかして頑張れば あの、上野美術館に私の絵が展示してもらえるってことなんでしょうか?。

次々に浮かんでくる有名な作家の作品。その人達と同じ美術館に私の描いた絵が並べられる・・。とんでもないことです。


「先生、がんばって見ます。」「そうですか、まだ出品までには日にちもかなりありますから今から準備しておいてください。」 「わかりました。」

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普通の展覧会への出品は経験もありました。社内で開催されていたクラブの美術展、駒研時代の全日本学生美術展、勤労者美術展 などです。しかし、今度はプロの作家の展覧会ですから気持ちはかなり違ってきました。

松頭さんと二人展をしようよ、と言ったときは思いっきり背伸びをしたテーマ、画風を志しました。しかし、野山先生に連れて 行って頂いた勉強会で、大方のプロの先生方は「・・若いときこそ無理をせず自分で消化できるテーマと技術を・・」と 聞かされ続けています。
その会の先輩弟子たちはこぞって反発しています。そして私に口をそろえてがなりたてます。

(Memo) 「彼等の言ってることはもう一世紀も前の理想を俺たちに押し付けようとしているんだよ・・」「幸三郎さんとやら、まさか爺っさん達の 戯言を真に受けてはいねーだろーなー?」

「何時の世もそうなんだよ!まったく年よりって奴は、 妬みだよ、ネタミ、」「幸三郎の表現をそのまま、もっとダイナミックに展開しろよ!、爺さん達をグーと言わせるように・・」

何が真実だろうか?。何を信じたらいいんだろうか?。

生き方の違いなんだ!!。「・・爺さん達をグーと・・・」と全ての先輩弟子たちが言った訳ではなかったぞ?
発言はしなかったけれど眼の奥底で「・・幸三郎!、その流れは滝壺に・・」と言う先輩の眼差しもあった!!。・・・(続く)




(連載No.43)
「・・幸三郎!、その流れは滝壺に・・」と言う一部の先輩の眼差しは、私のような臆病者には救いの暗示でした。

「・・若いときこそ無理をせず自分で消化できるテーマと技術を・・」と言う野山先生。
「売れるための絵ではなく描きたい為だけの絵しか描きませんでしたネ。」と言う神谷先生、いずれにしても私の迷いは吹っ切れました。

新しい時代を作る若者たちの意見、それはそれ、当たって砕ければいいじゃないか!。私はそこまでして自分に無理難題を押し付けて
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新しい表現を切り開く為の時間なんて持ち合わせません。
むしろこの5年間、曲がりなりにも正当な道筋をじっくりと研究してきた自負はあります。そしてこの頃になって判ってきたのは、 近代絵画の転換期を築き上げた作家たちは、概ね地道な研究成果の結果に世間が「アッ!」と、驚いただけと言うことに過ぎなかったことです。

三科展の展覧会はよく見ていました。重鎮と言われる作家さんたちはこぞって私達の手の届かない領域の作品を制作し発表しています。
現実の世界に裸の女性が群舞していることなど絶対にありえません。どうしてこんな所にそんな楽園が存在するのでしょうか。 大御所の先生たちは言います。
「幸三郎さんは未だ子供だから分からないだけです。私達はこんな世界にあこがれて、信じている世界が絵の中で具現化するのです。」
益々分かりません、ナニカの宗教に取り付かれているみたいに見えます。

「富士山・・」あまりにも有名、あまりにもシンメトリックで絵にするのは難しい。しかし自分の画境を極めた大家たちはこぞって富士山の表現に はまり込んで飽くなき探究心を貫きます。でも、幼稚な子供はそこが描きやすい。構図もへちまもありません。ただ単に描きたいものを 真ん中に大きく表現することで自己完結型の安心感を作り出せるのです。

ついこの間まで、近代日本画壇を二分する大家の一人、安井曽太郎と言う画家が居ました。彼が描いた「外房風景」はあまりにも有名です。
事もあろうに私はあえてその風景画に挑戦してみる事にしました。展覧会に出品する作品は30号キャンバスときめてスケッチを元に制作に入りました。
描いた場所、大まかな構図はそっくりそのままです。見た人は「ア!、あそこの絵だ!」 と、明らかなこと甚だしいほどです。
違うところは大家、安井曽太郎と駆け出しの美術学生幸三郎の違いだけです。


作家と名の付く人は全ての作品に対するモチーフやテーマについて全責任を負う、と同時に独自の発想に伴う著作権をも有することが出来ます。
安井曽太郎の絵をそのまま写し取った絵を描いたとすれば「贋作」であることは間違いありません。

しかし、描いた場所、構図も大まか近似していると言うことは、その類似性を遥かに超える独創的な表現方法がない限り「まがい物」の謗りは 拭いきれません。

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野山先生は言います。
「幸三郎さん、これは”富士山”です。大家と言われる画家が描いても、幼い子供が描いても、描いた場所、大まかな構図はほぼ同じです。」
「幸三郎画伯が、安井曽太郎と同じものを同じ場所で描いたらこんな解釈、見方、表現方法、になるんだよ・・」
そんな気持ちで安井曽太郎の胸を借りることは今のあなたには許されます。


野山先生の言う「・・今のあなたには許される・・・」という言葉は本当に私を救ってくれる言葉でした。

子供は父親の背中を見て育つ・・、「子供であるからに父親の真似をしても許される」と言う事でしょう。
大家といわれる作家の画業の道筋は、いわば私にとって、まさしく父親の背中です・・・。

今だからこそ許されると言う根底は、ここに在ったんだと知ることが出来ます。
背伸びしなくても「あなたには許される自由空間」、羽化して羽がピンとするまでの間しっかりと次の試練に耐えるだけの力を養いなさい。
「・・・自分で消化できるテーマと技術・・」安井曽太郎がたどった海と崖と漁村の民家に外房の穏やかな空気を感じます。
私の感じた「外房」は荒々しく、吠える海、人を拒む崖、ヒッソリとつましくたたずむ民家、でした。

甘えることの出来るときには思う存分甘えた方がいい!。
噛み砕いてもらったものを「消化吸収しやすい形でふところの奥の大切な場所に蓄えておこう・・」

裏返すと「あと何年かすると”もう、あなたには許されないこと”・・」と、なるのでしょうか。・・・・(続く)




(連載No.44)
展覧会に出品する、と言うために絵を描くというのも何か割り切れないものを感じます。

「先生、どうして展覧会に出す絵は大きくなくては駄目なんでしょう?」

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野山先生は少し困ったような顔をして
「幸三郎さんは展覧会でお友達の作品をを見に行ったことはありますか?」
「ハイ、見るには見ていますが・・」「それと、どういった関係が・・?」

「あまり気が付かないかもしれませんが、有名な画家の作品は会場の一番善い場所に、しかも上にも下にもその作品の目障りになるような 作品は展示しません。左右もゆったりとゆとりを持った展示をします。」
「幸三郎さんの作品はもし、審査に通れば上野の美術館の展示場、とても高いところに展示される可能性があります。」

「なるほど・・、それほど気が付きませんでしたがそういわれれば、先輩の展示作品を探すのに一苦労したことがありました。」
「そうなんです、家ではかなりの大作・・と思って居た作品もいざ展示してみるとこんなに小さかったのか・・って。」
「ま、それやこれや、その他にもあなたのような若い方はいい勉強の機会だとおもいますよ。」


私の勤めていた会社には従業員の親睦目的で各種サークルがありました。
サークルの中の美術クラブには色彩関連化学メーカーにふさわしく、多くの先輩美術愛好家も在籍していました。とりわけ素晴らしいなと 思ったことは社内アトリエがあったことでした。
昼休みには食後大いに語り合うことも出来ましたし、せっせと絵を描いている人も居ました。そのアトリエで私も大作の制作を始めました。
しかも、ご近所にお住まいの野山先生はたびたび美術顧問として会社にもおいでいただいていました。

私の出品する展覧会の締め切りまでにはまだ間があります。とある休日、他の美術団体の展覧会を見に行きました。
「朔月会美術展」私の通っていた寛永寺坂美術研究所の土曜クロッキー研究生、佐藤真澄でこの展覧会出品者から頂いた入場券です。

「東京都立上野美術館」この煉瓦建ての古めかしいたたずまいは公園の中にあって私たち一般人の入場を拒むかのようでした。

(今思えば当時未だ噴水も無く、なだらかな丘にはか細い植木の植栽があるのみ、そんな中に入り口の13段の石造りの階段と大きな柱 の玄関は確かに威容を誇っていたようにも思えました。)

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「サクゲツ、・・サク・・、朔月会美術展覧会」の受付はありました。それにしてもおびただしい数の展覧会をしているものだ・・。
そういえばお隣の会場ではあの有名な「秋陽会美術展」もやっているんだ。そちらの方は別にお金を出さないと見ることは出来ません。

野山先生の行ってた通りだ!。第一室正面この会の重鎮、山田正宗の裸婦像の作品が堂々と展示してあります。
しかも他を圧倒するようにごちゃごちゃと縁取られた額縁は一層絵に迫力を与えています。

しばし見とれるとも無くこの作家の傲慢な作画態度に呆れているとき、耳元で「幸三郎さん・・」
「ハッ、ぁ、真澄さん!」
彼は左の手をわき腹に組むようにして右手で盛んに無精ひげをかきむしるようにしながら
「来てたんですネ?」とボソリとうめく様に返事をします。
「私は、今来たばかりでこれからユックリと見させていただきます。」
「真澄さんの絵はどの辺でしょうか?」

「・・・落選、しちまってサ。」・・・(続く)




(連載No.45)
朔月会美術協会を率いる山田正宗、一見古風で保守的な画風が特徴かなとは感じていましたが、友人の 佐藤真澄の作品が「落選」したと聞いたとき何か嫌な空気を感じました。

当時、朔月会と言えば飛ぶ鳥をも落とすような大家、重鎮が幾人も居て会の隆盛を誇っていました。しかし、私の感じる「若い風」がどうにも 乏しく思われて仕方がありませんでした。

それに比べ、私の出品しようとしている三科美術協会展は子供の学芸会のようなものです。出品者数も圧倒的に多く、展覧会々期中は連日 バカ騒ぎをして新聞をにぎわせている集団です。
親分はアノ有名な西郷剣菱、しかし、他の美術団体からどんな批判を受けようともその革新的な運営方針は常に若者向けです。そんな運営方針を いつも苦々しく想って気分を損ねているのが野山先生でした。

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私は佐藤真澄さんが可哀想でつい「こんな会に出品しないで、三科展に出しなおしましょうよ・・。」と水を向けました。
すると彼は、「幸三郎さん、・・・俺はそこまで落ち込んではいないんだよ。」
「この会に出品すると言うことは、この会の求めている画風に傾倒して憧れているんです。」

自分の作品の方向性を、これほどまでにはっきりと言い切った友人は今まで居ませんでした。
私はそのこと自体は素晴らしいことであり素直に「凄い!」と言わざるを得ませんでした。しかし、それに反して、心の中では 「真澄さん、どうして僕たちがそんなアカデミズムな作風にこだわり引き継がなければならないの?」

彼は振り返って、私に可哀想な人、と言う目線で
「幸三郎さん、地下の食堂に居ますから観終わったらお茶でも飲みませんか?」


薄暗い美術館食堂、よりによって佐藤真澄さんは西郷剣菱画伯の壁掛けの絵の下に陣取っていました。

「真澄さん、西郷が手招きしているよ」と、私はおどけるようにして彼の頭の上を指差しました。
「オイオイ、こんなのは絵とは言わないよ・・」

「幸三郎さん、出品作の制作は進んでいますか?」と、真澄さんは切り出します。
「ハイ、段々描き進むに従って見えなかったものが見えてきたり・・」
「迷いが出てきたと言うことですね?」「・・というか欲張りになってきちゃうんですよ。」

「多分、その欲張りは多かれ少なかれ誰もが遭遇し、道を外す一歩手前までは行くと思いますよ。」
「展覧会に落選した私がこう言うのもナニですが、私はその一歩を出てしまった・・かな。」

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「所詮、展覧会なんて学芸会みたいなものだから、探求し、研究した作品なんて喜ばれないんです。」
判ったような、判らないような取り止めのない話しになってしまいました。

「ところで幸三郎さん、隣の会場の『秋陽会美術展』でも観て行こうよ。」
「エ!、入場料なんかもって来ていないよ?・・300円もするんでしょ?」
「大丈夫!、俺について来な!」

彼は美術館食堂「精蓉軒」でアルバイトしていた頃に覚えたと言う秘密の通路を教えてくれました。
「今度来るときはここを通れば何処の会場でもタダだからね」
「これって、コソドロみたいですね?」
「馬鹿いっちゃーいけないよ、こんな絵に金払って観ろ、と言う方がドロボーだよ。ましてや我々みたいな貧乏画学生から。」
もっともだと思いながらも道順はしっかりと頭の中に叩き込んで行くと、彼は扉の前で立ち止まって
「秋陽会の事務所だ、堂々と通り過ぎれば問題ないから・・」とドアを開け先にたちます。

「・・お疲れさまで〜す。」私もすかさず「・・・ドーモー」と言葉になりません。・・・(続く)




(連載No.46)
「ド〜モー」と私が首を振った目の前に「秋陽会美術会」の親分、中川二政氏がテーブルに積み上げられた盛そばを ほう張っています。 四人ほどのご長老の皆さん、そばを食べながらメガネの淵の上から眼で話しかけてきます。
「・・ウゥ、お前ら飯は食ったか?、早く食わネーと、伸びちゃうゾー!」

真澄さんはすかさず、「ハイ!、今受け付けのほうで大至急のオヨビですので・・」 「そうか、ご苦労さん!!」

「真澄さん、スゴイデスネ?、まるで動物園の飼育係みたいですね。」
「ホント、彼等は猛獣ですよ。挨拶さえきちんとしておけば皆、自分の会の人かファンだと勘違いしておとなしいんですよ。」

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「真澄さん・・、ところで何処の会の展覧会でもこんな感じで入場できるんですか?」
「マッ!、概ねこんな感じですネ。ただ、小さな団体の会は御用聞きでやったほうが安心だネ、」
「エッ?!、失敗したことはあるんですか?」「イヤ!!、無いよ。」
「でも、ばれてるな・・って感じたことはあったネ。でも、相手の視線は『もっと旨くやれよ・・』って感じ・・」

「幸三郎さんもそうだけど・・、見た目は如何にも貧乏画学生だよネ。」「エッ!?、そんなことは無いでしょう?」
「イヤ、臭いんだよ!。」「まず、その絵を見る仕草だがね、口を半開きにして上目遣いでみている人は皆貧乏画学生なんだよ!」
「・・、デハ、真澄さんは?。」「俺は、身だしなみが・・洗濯もおぼつかないし・・、つまり、臭いんだ・・」

「この世界、皆下積みの経験をしている人ばかりなんですよ。」「ですから画学生には皆、大っぴらには言いませんがガンバレヨって。」
「だから、思いっきり甘えて善いんですよ、まだ髭が一本、二本と数えられるうちは・・」

私はついこの短期間に「今だから、許される」行為を、作家としても、社会人としても感じました。
その事が本当に許されるかどうかは判りませんが、この程度のことは髭が一本、二本と数えられるうちは許される行為と解釈しました。

朔月会の展覧会場から突然に秋陽会美術展に舞い降りた私はそのスケールの違いに驚きました。

あの、盛そばをほう張って食べていたこの会の会長にしてこんな繊細な表現の作品「憂愁、浅間山」が生まれること自体、奇跡の感じです。
このメインの展示室、私は口元を真一文字に結んでこの絵と対峙しました。

身なりは貧しいですが、気持ちは「ホウー、中川君も上手になったネー。」
今まで自分が絵を描いて来た中で、常に先輩画家達の作品は教科書であり絶対でありました。しかし、こうしてあそこの会の重鎮の絵やこちらの会の 大御所の作品を河原の石ころのように見比べる余裕すら見えてくるではないですか。

主だった作品の展示を見終わった頃、真澄さんが「幸三郎さん、もう一つ『国雅会展』も見ていかない?」と誘います。
私は「再犯を犯す」という事はこんなことだろうな・・と思いながら、私も「ハーイ、次、イコウー」と振舞います。

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真澄さんは一旦、食堂からやり直すかと思ってみていましたが何のことはありません。
なんと、警備員さんの座っている後ろの扉に向かって「ご苦労様です〜、近道させていただきます〜。」
警備員さんはサッと席を立って後ろのドアを開けて「暗いから気オつけて・・」と、気を使ってくれます。私もあわてて後につき「ご苦労様デース」

「真澄さん!、これって変ですよね!。」「イヤ、あの若い人は気がつかないだけ、おばさんの時は辞めたほうがいいよ。」
「・・つまり、食堂からやり直せってことですか?」「いや、事務所を覗いて顔ぶれが違っていたら堂々と・・後戻りでいいよ。」

いずれにしても後ろめたい気持ちが付きまといます。
「幸三郎さん、その如何にもビクビクとした仕草は辞めてくれないかな!」
真澄さんは薄暗い通路の中で胸を張れ!と、言わんばかりに歩幅を広めます。
「デハ、国雅会展の事務所前だよ・・」・・・(続く)




(連載No.47)
真澄さんはドアを開けると今度は先ほどと違い、いきなり大またで事務所を通り過ぎます。
「失礼しま〜す」続く私も「・・〜で〜す。」と、赤ら顔のじっさま方の話の腰を折らないように前をしっかり見据えて通過します。

事務所を通り抜けて会場に出ると真澄さんが尋ねます。「あの爺ちゃん分かる?」
「イエ!、」
「梅原虎三郎と源精一画伯だよ・・」
「エ!?!、ただの酔っ払いかと思って・・」

二人の画伯の名前と代表的な作品ぐらいはうっすらと記憶にあります。特に梅原虎三郎の有名な作品「北京秋天」は私の大好きな絵のうちの一つです。
この北京・・を描いた年代が私の生まれた年の作品と言うこともあって特に親しみを感じていました。

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また、源精一画伯は画学生にとって正統的な作画態度といい梅原とは違った勤勉派、と言う好印象の作家でもありました。
なんと、その二人が展覧会の会期中に事務所で高級スコッチウイスキーを飲みながらお互い鼻を赤くして熱く語り合っていたのです。

「真澄さん・・、たまらないですね〜。」「化石みたいな大家がごろごろしていますネー」
「そう、公募展と言う展覧会は彼等にとっても大切な収入源な分けですよ。」「だから、この催しはお祭りでもあるし大切な商売なんですよ。」

「商売ですか?」「そう!、公募展の二番目の目的は商売、つまり売り上げを含めた収支が肝心なんです。」
「ジャァ、一番の目的はナンなんでしょう・・。」「そこは各所同じく最高の目標を掲げながらも殆んど共通ですね。」

「元々、官展と言われた文部省の主催展覧会の中から、我れこそは新しい時代の芸術域を目指す美術団体ジャー。と言って分裂して出来た会なんです。」
「しかし、年が経つに従い第一目標はかなり薄れてきて第二目標のみが一人歩きしているのが現状です。」

「真澄さん、僕たちはなんでそんなところに剥きになって絵を審査してもらいに出品するんですか?」
「だから・・最初に言ったでしょう。私は朔月会の目指す作風に共感したからこそ、落とされても落とされても這い上がるんだって・・」

「絵描きになるって大変ですネ・・。」
「大変ではなく、不可能なんですよ。」

国雅会展の入り口まで来た私達は展覧会の公募出品状況を見ました。応募総数1057点、入選点数218点。
会員、会友・・つまり無審査での展示数は325点。
「幸三郎さん、わかるでしょう?、展覧会の展示費用は落選者が審査料として出した費用でまかなっているんです。」

「これって、どこかの宗教団体みたいなもんですね。」
「おおかれ、少なかれそうなんですネー、そうしないと組織化できないし、大きな展覧会も不可能・・、一般の人も中々観る機会に恵まれない。」

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「噴煙」かなり装飾化されては居ますがおそらく浅間山を題材にした絵です。梅原虎三郎、独特の金ぴか作品の発表であります。
「幸三郎さん、ひどいですね!!、私は彼が長生きしすぎたって感じるんですよ。」「せめて、六十代で逝っていてくれば良かったのに・・って。」
「マァ、僕もそんな気はしますが・・、もう一人反対に気になる画家が居て・・鯛原喜之助の晩年が貧弱で・・。」
「でも赤木繁なんかこれから期待されて・・と言うときの若さで逝ってしまって、実はこの方が幸せだったかも知れませんね。」

源精一の絵の前に着ました。「裸婦」、何処までも素直にしかも大胆な表現を目指して「う〜ん、好きだねー」
「上手いなー、こんな風にしてもチャント血の通った女性の肌が感じられるよネー。」

「この部屋からは一般公募で入選した作品だけなんだけど・・・」と真澄さんは眉をひそめます。
美術団体展は運営の第二目標到達の為「教祖」的な有名作家が幾人いるかが要です。その作家を目指した画風が審査員である作家の目に留まれば当然 この会にとって将来の「星」になってもらいたい・・。そんな意図がどうも強すぎます。


「幸三郎さん、今日は展覧会の三連チャンで疲れたでしょう?」
「ハイ、それよりも裏口のスリルの方が興味が強くて・・と言うか、生の絵描きさんに直に合えるんですね。」
「そう、でも美術を真剣に勉強している画学生と言うところをしっかりと自分で意識して先輩に対処していけばお金なんか払う必要はナイからね。」

真澄さんのある意味での純真さには納得、惹かれるところもありました。・・・(続く)

(*)当時、梅原虎三郎の晩年の作風にはマッタク理解できなかった自分に今では恥ずかしさを感じます。又数年後、銀座で個展を開いた時 源精一画伯が展示全ての作品を観てくれて素晴らしいアドバイスも頂きました。光り輝く言葉「対象には誠実に・・」




(連載No.48)
真澄さんとの展覧会3連チャン、大変疲れましたがとても刺激的でもありました。

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あれから既に一週間経とうとしているのにまだ絵を描く気がしてきません。魂が抜かれてしまったような、或いは自分のしようとしていた事が あまりにも貧弱すぎて嫌気が差してしまいました。


そんなおりしも野山先生が会社の美術部のアトリエにいらっしてくれました。
「幸三郎さん、どうですか進み具合は?」
「ハイ、だいぶ進みましたので先週、友人の展覧会を見に行ってきました。」
「ホウ、それは善かったですネ。」「それで、どうでしたか?」
「実は彼の出品した朔月会と、隣の秋陽会とその隣の国雅会と三つもハシゴをして来ました。」「すっかり気力を抜かれてしまいました。」

野山先生は、それは困ったことだと言わんばかりの顔をしながらも何故か顔はにこやかではありませんか。
「先生、やはりまずいことをして来たようですネ?」
「イヤ、そんなことはありませんよ。むしろ、何時かはそんな暴飲暴食もしておかないと、快適な腹八分目が判らないでしょう?」
「・・?」
「幸三郎さんは今まで消化吸収しやすいものだけを観て、理解して、身に着けてきました。」
「ところが、消化の悪いもの、体に悪いものまで目一杯食べてしまいました。」「ですから消化するまで待った方が良いようですネ。」


野山先生に言われて「ハッ!!」としました。そうです、その日私は少なくとも1500点以上の絵を観てしまったんです。
しかも、少なからず1500人もの作家さんが精魂こめて描き上げた作品をいとも簡単に流し目で葬り去ってしまったのです。

そんな観かたをされた作家の怨念がこんなにも後々まで亡霊のように追いかけてくるなんて夢にも思いませんでした。
わずか10秒、平均しての話です。中には5分、10分とその前にたたずむ作品もありましたから早ければ2〜3秒で次の作品を 追っていたことになるのでしょうか。
暴飲暴食・・ついでに噛まずに丸呑みまでしていたのでありました。

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会社美術部の教室も終わって美術部先輩と野山先生は近所の呑み屋さんに行くようです・・。
・・・行くようです、と言うのは実は先輩が私を気遣ってくれて、誘ったお陰で絵の仕上がりが間に合わなくなるといけません。

野山先生が「幸三郎さんも、ご一緒にどうですか?」
先輩、一同は「・・エッ !!」と、声を発するほど驚いた様子でした。

「大丈夫、幸三郎さんは未だ若いから、間に合わなければ又、来年にすればイインデスヨ・・」
「デモ、僕みたいな素人が見ても間に合うかどうか・・」と、先輩も余計なお節介をします。

「とにかく、彼は沢山の絵を噛まずに丸呑みしてしまったんです。お酒でも飲ませて吐かせてしまったほうがイイカモ知れません。」
野山先生もずいぶんと乱暴なことを平気でおっしゃるものだ。

それはそうと三科会展の作品搬入までは正味2週間を切っていました。
しかし実を言うと、マッタク野山先生の言うとおりです。そして、私がこのまま今の絵を描き続けることがイヤになってしまった事も 実は野山先生はお見通しだったわけでした。

会社の近くにある呑み屋さん「大暮れ」のご主人は地元の酒屋さんの二代目。弟さんに家業は譲って、ご夫婦で一杯呑み屋を開店しています。
先輩たちと同年代、私たちとも休みには一緒に写生旅行に行ったりの仲良しこよしなんです。

久しぶりに先輩や野山先生たちと楽しい写生旅行の計画など立てながら呑むお酒は美味しかったです。
カウンターの向こうからもあるじがニコニコしながら話に耳を立てています。

ご高齢の野山先生は一足お先に失礼するといって場を離れました。
私は暖簾の外まで先生を見送って、「本当に、スミマセンでした。来年は真剣にガンバリますから・・。」
でも野山先生はなぜかご機嫌の様子で、「幸三郎は若くて羨ましいな〜」と、頭の後ろで手をバイバイして立ち去りました。

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三日ほどしてからでしょうか、会社で仕事をしていると「幸三郎さんに外線です。」と電話交換からの呼び出しです。
「野山ですが!、幸三郎さん、おなかの調子戻ったようですね?」野山先生の声が電話の向こうで弾んでいます。
「ハイ、!、僕も何か吹っ切れたような・・」と言葉になりません。・・・・(続く)




(連載No.49)
それは確かあと12日で展覧会出品作品搬入〆切と言う時でした。私が展覧会の見過ぎですっかり自信をなくしたあと、 会社の美術部の先輩や野山先生と呑みに行った日からの出来事です。

あの晩、私は縄暖簾の外で野山先生を送ったあと自分でも意識がなくなるほどお酒を飲んだと先輩は言ってました。
当時未だ私はお酒を覚えて4〜5年くらいです。自分の感情と、お酒、との関係についてはまだまだ修行中と言うところでした。

どうやって、下宿まで帰ってきたかは殆んど記憶の外です。しかも下宿のバーさんの証言では午前2時半帰宅。
翌朝、バーさんの怒鳴り声一括で目覚め、「#!!、幸三郎サン!!、洗面所は自分で綺麗に、しッなッさッい!!」

相当激しく嘔吐したようでした。青い顔が更に青くなるほどキタネー下宿屋の洗面所は更に汚れていました。(思い出したくない!)
今思うと、若い!、と言うことはスゴイデスネ。ちゃんと、会社に出勤しているんです。昼休みには屋上でバスケットボールまで楽しんでいましたから。

つまり、吐くものは吐いた。発散するものは発散した。そんな2〜3日で、私はすっかり変わる(蘇る?)ことが出来てしまったのです。
あの時、野山先生は「・・吐いてしまった方が・・」と言ったけれど本当にその通りだったんでしょうか・・。40年経っても狐につままれたようです。

何となく描きかけの絵に筆を重ねようとしたのが昨日。そして、野山先生から電話があったのでした。

・・・・「野山ですが!、幸三郎さん、おなかの調子戻ったようですね?」野山先生の声が電話の向こうで弾んでいます。

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「ハイ、!、僕も何か吹っ切れたような・・」と言葉になりません。・・・・


会社のアトリエは当時、新築のプレハブ守衛所の二階にありました。隣の部屋は工場診療所、下には夜間、守衛さんが常駐しています。 そんな安心感から寝袋を持ち込んで、夜はそこで過ごすことにしました。

今、思うと恵まれていた・・、としか言いようもありません。昭和40年代初頭、未だ製造現場には木造トタン屋根の作業場がかしこにもある工場の中で こんな新築プレハブの綺麗な二階をアトリエとして使わせてくれた会社には本当に感謝しています。

===社内のアトリエ、実は私が入社して退職するまでの43年間、場所は工場内3ヶ所ほど移動はありましたが「アトリエ」は常に存在し続けました。 退職した後も、卓球部のお誘いもろもろで伺うたびに後輩美術部員がアトリエを管理していることを確認しています。<色材の総合メーカー>→<ハイテク&カラー> キャッチフレーズは変わっても色彩を操りたいと言う企業イメージは今も健在でしょうか。===

丁度インスタント食品のはしりです、「インスタントラーメン」なるものが市場に出始めました。
仕事を終えて、アトリエに入り、絵を描き、暫ししてこの時代の最先端食品に湯を注ぐ。待つことおよそ5分。この間、油絵の具の臭いとラーメンのにおいが えも知れない香りの合成をして「素晴らしい時間・・」を演出してくれました。

夜も10時を廻った頃でしょうか、工場内巡廻を終えた守衛さんが最後の’灯台元’の点検で二階のアトリエに顔を出してくれます。今日の当直守衛さんは 私と仲のいい年配の海老原さんです。
「幸三郎さん、夕飯の残りだが、女房の漬けたキューリのヌカ漬けでも、どう・・?」
お皿を持つ手の中指にお茶の土瓶までぶら下げて上がってきます。
『アッ、(ヤッ)ご苦労様でした・・』二人とも同じセリフでハモッタリして・・・、絵の前に座ります。
「ホッホー、今日はこんなところまで来ましたか・・。」海老原さんは未だ絵なんかろくに見ていませんのに。さっさとお茶を入れる用意を始めます。

「幸三郎さん、ここんとこ一週間ほどこなかったようだけど具合でも悪かったんケ?」

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「はい、少し頭の中が成長期の発熱で混乱していました・・が、もう、収まりました。」「たいした成長は望めませんが・・」
「そーかい、わしの倅も成長期の発熱だと言って毎晩’夜風にあたって来る’と言って、遅く帰ってくるんだけど、どーも違うナ?」
二人とも「ニッ!!、」と顔を合わせて笑います。

しばし私は海老原さんに父親のイメージを感じながら、又海老原さんは、息子さんとのママ成らぬ会話のうっ憤を私に重ね合わせているのでしょう、一服の「お茶」 でお互い、気持ちのいいひと時を過ごしました。
「オウッ、下で電話が鳴っとるわ・・」「ジャ!、頑張って、ナ」海老原さんは空になったお皿と土瓶を鷲づかみにして鉄階段をドンドンとけたたましく降りていきました。


仕事のあと工場の食堂で夕飯を終え、そのままアトリエに来て絵の制作をする。ナンの不満もありません。
毎日、5〜6時間はミッチリと絵の制作に没頭することが出来ました。
「これでよし!!」と思い、筆をおいたのはナント、出品締め切りの2日前でした。・・・・(続く)




(連載No.50)
展覧会出品日です。澄み渡った空の下、私の心も晴々としていました。

電車を降り、上野公園から東京都美術館前、小さな植木が取り払われて国立博物館までの広大な敷地はブルトーザーが忙しく行き来しています。
「噴水公園完成予想図」の看板の脇を左に折れ、美術館の正面玄関を更に回りこむと「作品搬入口」の張り紙が見えます。

半乾きの作品は、殆んど両手で空にかざして運んできたものですからもう、両のうではすっかり血の気が引いて、グッタリしています。
作品をコンクリートの床におろし、暫らく両腕をぐるぐると振り回していると向こうから野山先生の笑顔が近づいてくるのが見えました。

「やぁ!、幸三郎さんオハヨウ!!。」
「先生!、お早うございます。ずいぶん早くからいらっしていたんですか?。」
「イヤ、私は、幸三郎さんのように若くはありませんから、仲間の車に便乗させていただいたんですよ。」

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「・・今、チョット用足しに出てきました。私は受付の奥に居ますから終わりましたら寄ってください。」


私は取りあえず美術館地下にある額縁屋さんに行きました。
倉庫にはいろんな種類の額縁が並んでいます。ここでは事前に自分の作品に合った額縁を作ってもくれます。しかし、完成が締め切りギリギリで 間に合わなかった人や、私のようにとてもそんな金銭的余裕の無い人のために”貸し出し”もしていてくれます。

気に入った額縁が見つかりました。でも、想像した金額の倍以上もします。
「・・・では少し痛んではいますが・・、これでしたら1500円ですが。」
「あのー、1000円位になりませんか?」
「・・!、でしたら、最初から1000円の、って言って下さいよ。この展覧会のシーズン中は品不足ナンですから・・」

なんで、俺がお客さんなのに怒られなくちゃならないんだ・・。
額縁屋の主人は一番奥のアングルから如何にも安っぽい額縁を引っ張り出してきました。
角はアチラこちらにブツケタ痕がすっかり丸くなっていて、漆喰の彫刻の白い地肌にペンキで補修してあります。
それでも、1000円出せば一応は額縁です。同じ1000円でも木枠を寸法に切って打ち付けてもいいわけですが、やはり額縁はそれなりに 絵を引き立たせてくれます。
今日の、搬入日から展覧会の終わる日まで一応絵に衣装(馬子にも衣装)をつけることができました。


「一般搬入」の案内掲示の前にはすでに7〜8名の若い人が並んでいます。
私は弾んだ気持ちでその次に並びます。前の人は私があとに並んだことは判っているのに知らん顔です。
じゃ、その前の人は?、これもナニカ難しそうなしかめっ面をしてるではありませんか。とても話しかける気にはなれません。

次に来た人も私から目を離します。結局、その次に来た人は・・見覚えがあります。私に気が付いたようです。
「オ!?、どっかで・・」

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「ハイ!、幸三郎です。」「嵐山さんでしたっけ?」
「オウ、思い出した。元気そーじゃネーか!。」「寄居の料亭で三科会の勉強会・・以来だよね。」
「ハイ、僕もあの時、嵐山先輩から激を飛ばされて・・暫らく悩みましたよ・・。」

「エ!?、まさか真に受けてはいなかったんだろうね・・・?。酔いに任せて大きなことを言った覚えはあるけれど。」
「イエ!!、真に受けました!!。」
「・・・マサカ爺さん達の言うことを真に受けてはイネーダローナー幸三郎さんよ、って言ったのはタシカ嵐山先輩ですよ?」
「エエ??!!、それでマサカ、爺さまたちをギャフンと言わせるような絵を描いてきたって訳かい?。」

「ふっふ、実はとってもいいこ、良い子の絵を描いてきました。」「僕には未だそんな冒険は出来ません。」
「あー、ビックリした・・!」「いや、良かった。幸三郎さんもけっこう人を担いでくれるナー。」
大笑いで周りの陰気そうな雰囲気を二人でぶち壊しました。

受付が始まりました。
私の絵は係りに引き渡ります。その絵の裏にはチョークで受付ナンバーが大きな文字で乱暴に書かれます。
「あの〜、未だ良く乾いていませんので・・・。」「わかってます!!」


「・・・野山先生はいらっしゃいますか?」私は事務所のドアを半開きにして中を伺います。
野山先生は聞こえなかったらしく他の先生がドアのほうを指差して教えてくれました。

「ああ、幸三郎さん、お入りなさい。」そして、周りの先生にも「先日の勉強会では、まじめな作品を・・・」と、紹介してくれました。
野山先生はじめ他の先生方6〜7人、少しお酒が入っているようです。高級スコッチウィスキーがすでに半分ほどになっています。
「覚えていますよー、あの時の絵は。幸三郎さんもイッパイどうですか?」
「イエ!、私はウィスキーは呑んだことがありませんし・・、第一、生まれて初めて絵を手許から放したばかりなので・・」
「それは、いい機会だ。それに絵描きとは、そう言う運命にあるんです。手塩にかけた絵が人手に渡る・・・。」

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「ハイ!、水で割ってありますから・・」・・・・(続く)




(連載No.51)
週の半ば、仕事中に「幸三郎さん、電話です・・。」と、そっけない同僚の取次ぎです。

電話口に出ると、いきなり「幸三郎さん、おめでとう!野山ですが。入選ですよ!」
「エ!?、まだ通知を受け取っていませんが・・」「そうですよ、今未だ審査中なんですが休憩時間に電話しています。」

「取り合えず、確定したものですから、速くに知らせた方がいいと思いましてネ、頑張っていい作品に仕上げましたネ」
「そうでしたか、アリガトウございます。なにかこう、力が湧いてきそうな気持ちです・・。」


「それと、実はネ・・!」
「ハイ、なんでしょう・・・?」
「もう一つ、最終審査でね・・、受賞ってことになると、・・・マッ、兎に角候補にはなっていますから、又いずれわかります。」


これはえらい事になってしまったぞ・・、それに受賞候補だって?。

「え〜、突然の事・・、身に余る光栄に、お返しする言葉も見つかりませんが、身の引き締まる思いは人一倍かと・・」
「いやいや、違う。」
「・・私のような若輩者の絵をご評価していただき誠にありがとうございました。これからもより一層の研鑽と努力を・・」

「オイ!、幸三郎。何をボケッとしてるんだ!?。早くしないと課長の出張用のデーターが間に合わんぞナムシ!!」
ハッと我に返りましたが口元の緩んだ顔では同僚の反感を買うのみでした。

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その日の夕方です。会社の美術部の先輩、土山さんからタイミングよく「この間の”大暮れ”に行かない?」と誘われました。
「エッ、行く、行きます。」と弾けたような返事に土山さんも少し驚いたようでした。
「あれ?、今日は美術研究所に行かなくてもいいんですか?」
「えェ、今日はいいんです。それどころではないものですから・・・」
「ほー?、じゃ、向こうでユックリ伺いますから・・」「取り合えず、皆と先に向かって待ってますから・・」

仕事の片付けを済ませ、支度を終え外に出る頃は既に夕陽の残照でまだ空が明るいといった感じです。
呑み屋さんの”大暮れ”では前回はしこたま呑み過ぎて前後不覚、という醜態を演じてしまいました。
今日こそはしっかりとマイペースで大人らしいお酒の呑み方をしなくては・・と、歩を早めます。

”大暮れ”は曇りガラスの玄関ドアは開け広げで縄のれんの下からお店の中が丸見えと言う雰囲気でした。
しかし、それは夏の間だけ。今日はしっかりと玄関は締まって中は伺えません。
暖簾をくぐって引き戸をソロリと開けると大将の笑顔とばったり目が合います。皆も一斉に「や!、来たな」と席を開けてくれます。
もう、店内ビールを飲んでいる人は僅か、殆んどの人はお燗酒を頂いているようです。
「幸三郎さんもお燗で善いよネ。」土山さん、他2名、私を入れて4人と言うことです。「鳥ナベにしょうよ・・」で決定です。

「・・ところで、幸三郎さん、先ほどの『それどころではない』って言うのはナンだったの?」と土山さんは思い出したように聞きます。
他の先輩たちも「へ〜?、何かあったんですか?」と私を覗き込みます。

「はい!、昼休みの後に野山先生から電話で『入選しました』って、連絡がありました。」
「オイ!、そいつはすげーことだ。」「みんなで見に行かなくちゃ・・」
「取り合えず、乾杯だ、・・ソレソレソレっとと」
「はい、じゃ、幸三郎君、入選オメデトウ!、カンパーイ!!」
「ありがとうございます。やっと肩の荷が下りた感じです。」
「でも良く頑張ったよなー、ひと頃は今年は辞めるのかなーナンテ感じだったよなー」
ちょうどそんな盛り上がりの時でした。土山さんが私の頭越しに「野山先生!こちらです・・!」

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振り向くと、曇りガラスの引き戸を顔の分だけ開けて野山先生が中を伺っています。
野山先生は眼鏡が曇って何も見えないのに引き戸をイッパイに開けてこちらの方向に笑顔で手を上げます。
ようやく眼鏡も温まったのでしょうか先生は大変なご機嫌で「じゃ、先ずは・・・ゥぐい!」

「実は、今日全ての審査が終わりましてネ、幸三郎さんの作品は審査員全員が手を挙げてくれ入選が決まりました。」
「ホウ、全員ですか?」
「そうです。そのあと私から『・・候補・』と、手を挙げたんですヨ。」
「エッ!!、受賞候補・・って言う事ですか?」と土山さんは身を乗り出します。
「そう、作品の出来栄えもさることながら、協会研究会での作品から更に飛躍している。」
「大多数の審査の先生方の意見が一致したようでしたネ。」
「奨励賞、それに・・準会員推挙と言う事が先ほど決まりました。」・・・(続く)




第9章(No.52〜No.58)(〜25歳)美術研究所後期(T)・・・駒込林町、山谷家からの別れ・・・・







(連載No.52)
再び下宿屋、文京区駒込林町(現、千駄木町)山谷家の顛末についても書き留めておかなくてはなりません。

下宿屋、山谷家については以前 No.8〜No.10 でも少し触れました。改めて家族構成を確認しておきます。

主は未亡人の山谷美智子。上野にある有名なお菓子の老舗「風冥堂」に勤務していました。
何時も我々男共は「バーさん!」と呼んでいました。(しかし、今考えると現在の私より若かったかな・・。むごい呼び方をしたもんだ。)


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次の年長者は私より二つ年上の同部屋下宿人、写真家志望の桂勇造さん。もと私と同じ会社に勤めていて美術部にも所属していました。ものの考え方が極めてオトナ。 社会も良く観ていましたし独立心も旺盛、いずれは写真家として大成すると信じていました。そんな彼に憧れて一緒に住んでもらうことをお願いしました。 下宿を始めて間も無くです。高度な撮影技術と、対象に取り組む非凡な眼の才能を買われ、六本木にあるアートセンターで働き始めていました。 (写真家志望の若者の希望者が殺到する中で、これほどのレベル域に達する人は極めて少ないという事です・・・アートセンター所長談話)

その次は幸三郎。苗字は?と良く聞かれますが、宗次郎・・・アッ、シンセサイザー作曲・奏者の宗次郎サン。
そんな訳で氏名は幸三郎。「人生は誰にも一度だけあります」神様が喜ぶ味付けを施して戻って参ります。と言って人生の旅に出てきましたが・・。 (料理の素材には味の滲み込み易いものとそうでないものがある。もう一皮剥ければ・・)

短大生でしたが卒業し、専攻進路に沿って旅行代理店勤務となった星野眞理子女史。
小柄ですがチャキチャキの群馬県育ち、鼻っ柱が強くつねに我らに「ネェ、どうして、どうして・・」としつっこく纏わり付いてくる。
別に宗教家であってもかまわないんですが、どうもあんたの教団の考え方を其の侭代弁しているようでナニか話の真意が伝わってこない。 (あと10年したら私はもっと変わって素晴らしくなって見せるわ!・・そう言いながら女は段々ミニクク歳を取っていくんだよ)

笠間詩織さん、大学文学部4年生、茨城県出身。体格は大きく何となく頭がよさそうです。小柄な私は小学生の頃からこういう女性は苦手です。 挨拶はしますが私から話しかけたりはしません。でも、人は好き好きなんですね。あの桂さんは良く小まめにアタックしてましたよ。 (詩織さん、桂さんは大人ですよ。煮え切らない返事をするのはあまりにも可哀想です・・。って、いうか貴女の方がオトナだったの?)

最後に今年高校四年生になった古村万歳少年。少年・・にしては、話しぶりが既に実家家業の檀家にでも語らいかけるような口ぶりです。
良く4年間も昼中の仕事と、夜間の高校生活の両立を頑張りました。万歳クンの学友達も実に明るく、良い担任にも恵まれました。
(もう時効の話だけど。私と、万歳クン、学友、担任の先生と居酒屋で酒呑んだっけ、今だったら新聞に書かれて退学・・?。)

以上、それぞれ個性のある6人がこの木造二階家に住んでいました。しかもこの建物は戦前からの生き残り、両隣で支えあって倒壊を免れている ものの、二階に血気盛んな若者が三名も居て暴れたら階下の女性群もさぞかしハラハラしたことでしょう。

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バーさんの口癖は何時も決まっています。「もう少し、静かに階段を上り下りしてチョーダイ!!」と甲高い声が響き渡っていました。

最近特に気になり始めたことはこのバーさんの甲高い声が何故か弱々しく感じられてなりません。
悩み事もありそうです。つまりこの家族構成が段々と重荷になって来ているような節も感じられるのです。
バーさんのお気に入りは女性群、特に詩織さんでしょうか。星野眞理子もバーさんと同じ群馬県出身と言う事で気は許していますが同じ宗教家同志 でも系譜が違うようでバカバカしいところで交錯しているようです。

さて、厄介なのは男共です。しいて言えば最年小の万歳少年は先ず可愛いから・・。残る二人、桂さんと私に関してはミソクソ、「早く、ドッカにいって!!」 と言う感じでしょうか・・・。

そんな折の来春、取って置きのお気に入りの詩織さんが卒業です。そして万歳少年も卒業し、山梨の寺家業を継ぐべくして京都の花園大学に行くと決めた事もあります。・・・(続く)




(連載No.53)
山谷家の朝は6人もの全員が通学、出勤するにもかかわらず意外と静かです。
バーさんはそれほど早く出勤するわけでもないのにほぼ毎朝一番に起き出します。自分の寝起きする居間や 台所、の掃除を済ませ玄関や外回りまで意外と綺麗好きではあります。
天気のいい日はほぼ毎日、廊下や二階に上がる階段まで雑巾掛けをし、綺麗にしていきます。
階段の上がりきったところはL字型となっていて二部屋の入り口になっています。襖の開き戸を開けると私と桂さんの居る10畳間、 もう一方の障子の引き戸の部屋は万歳少年の居る3畳間と言う配置です。
バーさんの雑巾掛けは階段の下あたりからいつも決まってブツブツと独り言をいいながら登ってきます。最初は何事か良く判りませんが部屋の前辺りに来ると はっきりと我々に聞かせるように
「あんたたち!、おトイレはもうチョット綺麗に使って頂戴ね」「昨日なんか誰?、だれか靴下ナンカ落っことしたでしょう」「自分でかたつけてよネー!」

このバーさんのブツブツ戦術には恐らく二通りのパターンがあるかと思います。

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雑巾掛けのサッサ、サッサの音の中に混じって聞こえるブツブツ会話は何の毒もなく無害です。
しかし、雑巾がけの手を休めてはっきりと会話だけが聞こえる時は絶対に返事をしたり口答えをしてはいけません。

バーさんは、上州生まれ、言いたい事をいえばそれで気が済みます。その事によって後でグジュグジュ言う事は決して無いからです。
私はこのバーさんの雑巾掛けの時の話掛けの声で目が覚め起き上がりますが、こういう日はもう少し待った方がよさそうです。

隣でしっかり布団に包まって寝ている桂さんはマッタク感知していないようです。何時もは黒縁の眼鏡をかけている桂さんですが、寝ているときは当然眼鏡は外しています。
また、そのアクセントの無い顔が余計に「まだ、別の世界をさまよってる最中ダ・・。」と言わんばかりに間が抜けていて、私には羨ましく思えるのです。
もっとも、彼が幾時に起きて出掛けるのかは私の知る由もありません。

襖を隔てた古村万歳少年、彼はすでに声変わりもすっかり終わりました。会話中に声がひっくり返る事も無く安定した男の声になりました。
男は声が安定すると、気持ちも安定するようです。彼とてバーさんがその辺にウロウロしている時に起きた振りでもしようものならどうなる事かは充分検討済みです。
ともあれ、万歳少年も小さな製本工場勤務があります。そう長いこと寝たふりは時間的に無理なはずです。


ほとぼりの冷めるのにそう時間は要りません。暫し考えたり我等が動向を伺う事で「ウン、しっかり、聞いたな!?」と確信を得ると又、雑巾掛けをしながら階段を 後ずさりして降りていきます。
私はその様子がまるで手に取るように見えて、笑いをこらえるのに必死です。サッと布団をたたみ身支度をします。
隣の万歳少年も襖越しにモゾモゾと起き上がる気配がします。大きなあくびの中に「ヤレ、ヤレ!」と言う首を振る仕草まで伝わってきます。

枕元には昨晩、脱いだそのままな形のズボンと上着が横たわっています。手と足を通すと既にぴったりとフィットします。
私の朝食はいたって簡素。粉ミルクに湯を注ぎパンを漬けたヤツを口に放り込むだけです。5分としない朝食です。
出勤の仕度を終えて部屋を出ます。桂さんは依然として間の抜けた顔、障子窓の隙間から差し込む陽の光が顔に当たっているのに気が付きません。

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私のこの慌ただしい時間帯、他の女性下宿人たちは一体何をしているのでしょう。マッタク生活息が感じられません。
恐らくこんな早朝、桂さん同様にまだ別の世界をさ迷っているんでしょう。
もっとも、私の寝る12時過ぎあたり彼女たちはバーさんの寝ている枕元でセンベイ片手にまだ高笑いしていましたから起きられるはずがありません。

朝の7時、玄関を開けた道路は車も通れないはどの細い道です。この辺の人は勤め人でも30分あれば職場に着きます。ましてや学生でも東大まで歩いても 20分ほどの距離です。おそらくこの近所で一番に出勤するのは私くらいなものでしょう。
通りのこちらから向こうの鍵の手まで私一人、バス通りに急ぎます。・・・(続く)




(連載No.54)
夕方、私は仕事を終えると上野桜木町、寛永寺坂美術研究所に通います。

研究所を終え帰宅のとき、時々私と桂さんは日暮里駅で落ち合う事がありました。
携帯電話も無い頃、朝の打ち合わせもなくどうして時々落ち合う事ができたのか、未だにそこの部分だけが思い出せません。

しかも、まだ夜の9時頃と言えば普段の桂さんにとって、六本木のアートセンターでは仕事に一番油の乗った時間の頃だと思います。
ですから桂さんとしてもヤットの事で抜け出してくるような状況であったと思われます。その証拠にいつも待たされるのは私でした。

日暮里駅周辺は私達にとって庭先程の至近距離、谷中銀座はまさしく私達貧乏人の心休まる繁華街でした。
日暮里に掛かる弧線橋を境に下へ降りると東日暮里、私達とは無縁の知らない街です。
しかし、西側一帯は道灌山、千駄木、団子坂に通じる墓地、お寺、繁華街の入り混じった不思議な街を形成しています。

駅前の通りは50mほど先から石段の降り口、改札を出たすぐ左は谷中霊園の入り口という奇妙な風景です。
同じ駅前なのに東口のまばゆさと対照的な西口です。
私は霊園入り口の手すりに腰掛けて、桂さんを待つ時間、行きかう人達を観察します。

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石段のほうに向かうのは見るからにこれから一杯やる人たちのようです。
しかしこの時間、既に随分と寒いのに霊園の暗がりの中に、次々と消えていくカップルに目を見張る思いでした。


「お待たせー!」桂さんは手の平を真直ぐ挙げて何時ものポーズで改札を出てきます。
私達は元気良く石段の方に向かいます。この石段、誰が付けたかわかりませんが「ゆうやけだんだん」。

この通りは「御殿坂」右手は本行寺、経王寺、延命院。左手は天王寺、安立寺、朝倉文夫彫刻記念館、正面の石段の下が谷中銀座です。
「ゆうやけだんだん」は約40段ほどでしょうか。真ん中と両端に手すりがあり、しかも自転車を手押しで上り下りできるスロープも付いています。
この上から見下ろす夕日と谷中銀座の照明はどの店も暖かそうです。そして呑み屋さんの暖簾と提灯も風情いっぱいで迎えてくれるのです。
日中は陽も差して暖かかったようでした。既に夜分、階段を下りるときには西よりの冷たい風が身を刺すようです。
階段下には横に狭い路地が走っていて谷中歓楽街です。向かいの二軒目の暖簾をくぐります。
べつに打ち合わせたわけでは在りませんが、兎に角最初の一軒目は暗黙の内にここ、となったわけです。
熱燗を注文して袋をテーブルの下に押し込んでいる間、もう、徳利が大きな音を立ててテーブルに並びます。
ふたりとも同じ部屋に住んでいるのに久しぶりにあったような気がします。
お互いのぐい呑み茶碗に酒を注ぎます。「オットト、桂さん、眼鏡が曇ってて、見えてねーじゃん」
気性の荒いおかみさんが「注文は決まりましたか!?」と、今日は随分攻撃的です。
気立てのいい親爺さん、障子半分開けた奥に見えますが出てこようとはしません。「ハ、ハーン、今日は何かあったナ?」
こんな日にイヤイヤ焼き鳥を焼いてもらっても、まずいに決まってます。「煮込み、二っツー!」となりました。
桂さんは話題が豊富ですから、その中心は彼の独演会から始まります。
写真家として歩み始めた桂さんは、「自分がこの道で糧を得て生活していく上で何が一番大切なことか」とうとうと語ります。
大変理にかなった「なるほど・・」と思う内容で「苦労してるんだナー」と納得し、そして「うらやましー・・」と感じるわけです。
お銚子が一本空く頃には私の重い口も少しずつ動き始めます。
やおら私は彼に対する妬みから思いもかけない言葉を発し始めるのでした。
学生時代、私は大変なスポーツマンでした。でも、それが一流の・・とか、有望な・・とか言う形容詞の付かない愛好家でありました。

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どの程度の愛好家か?と言われれば先生曰く、「・・・幸三郎、スポーツで飯は喰えないぞ!!。その時間をもっと勉強に廻しなさい・・」
つまり、才能も無いのに無駄な努力をしている。その情熱を勉学に廻せたら将来は明るいものになる・・。と言うわけであります。
ただし、卒業年の組別校内駅伝大会の時、全校トップで襷を繋いだときの私に先生曰く、「幸三郎!、努力は報われる・・」と、大喜びだったよナ!!
以来、スポーツを続けてきた事により私は丈夫な体は備わりました。そして二つの言葉を身につけてしまいました。
「好きなことでは飯は喰えない」「努力は報われる」・・・(続く)




(連載No.55)
   好きな道でメシは食えない・・・、いや、食っている人もいる。努力は報われる・・・、いや、報われない人もいる。
桂さんの活躍の話を聞いているうち、次第に自分が惨めな気持ちに落ち込んでいくのがわかります。
「桂さんは、努力している!」「写真の好きな桂さんは、好きな写真を撮ってメシを食っている・・!」
「オレも努力している・・!」「オレは会社の仕事がスキでスキでたまらないんだぞ・・でもって、メシをくっている・・!」
「ドウダ!、いいだろ!!?」
「幸三郎!!、よその店に行こう!!」「お前の目つきは、今日はへんだぞ?」
桂さんは私がスネている時、必ずこんな回りくどい言い方で言いがかりをつけてくることを察していました。
「桂さん、チットは俺の事をかわいそ〜だとオモッテクレテンだー?」
「オレがサー、まだ薄暗いうちから起き出してヨー、会社でこき使われてヨー、絵描きにもなれない才能のために・・・ゥゥ!」
「幸三・・郎!、オマエ、何時から酒乱になったんだ?」 「しょうがないな、兎に角、他の所で飲みなおしと行こう!」
「ヤダネー、俺はこう言う重苦しい雰囲気の呑み屋が好きなんだ・・。」
「出しゃばりババーがヨオー、気立てのいい爺さんをやり込めてサー、まったく!!」「おかげで、焼き鳥まで食いはぐれちゃってヨー。」
「関係ねーだろ?、」
「俺もかわいそーだけど、爺さんなんかもっとかわいそーだよ!!」「ナー、爺さーん」
半開きの障子の向こう、爺さんはプイッといなくなってしまいました。
桂さんはもう勘定の催促です。女将さんに「今日はあいつ、ご機嫌がななめだから・・また来るね?」で、支払いが終わります。
羽振りのいいのはもちろん桂さんです。5回のうち4回は桂さんの支払いです。
私は桂さんから背中を押されてガラス張の引き戸の外に出されると、あまりのすがすがしい空気に心も軽くなります。

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「ババー、そういえばオメーンとこの猫は何処に行ったんだ?」「猫の顔もめーなかったゾー!」
「やめとけよ!」「聞こえるぞ!!」

「桂さん、今日の煮込みサー、何時もより旨くなかったケ〜?」「猫、どこいったんだろナ〜」
桂さんは早く、とばかりに私の手を強く引いて路地を出ます。
「ウーソ!、嘘だよ〜ん!!。」
私は明るい谷中銀座通りに出ると、桂さんにアッカンベーをして芝居だったと強調します。
「ヤイ!!、幸三郎!、もう二度とあそこのお店には立ち寄れないぞ。」
「あのババー、そんなに物覚え良いかい?、どうも今日のあそこの雰囲気じゃ俺も滅入ってしまうよ。」
私たち今度は少し明るい雰囲気の小料理屋さん「初音」の暖簾をくぐります。
ここの女将さんは桂さんのお好みです。どちらかというと「あまりバカなお客さんは来て欲しくナイ」
ナント言ったってこの裏にある池之端通りの向こうは文京区、東大の教授らしそうな人も好く来て呑んでいきます。
そんな教授とも話しを会わせることのできる女将さん、桂さんはそんな女将さんからも好かれるほどオツムが明晰な部類の存在なんです。
徳利も、放り投げたりなんかしません。それに、感激することは最初の一杯は静かぁに注いでくれるのです。 「どうぞ、ごゆっくりなさっていって下さい。」と言ってカウンターの中に入ります。
カウンターにいた教授風の先客も女将の戻るのを静かに待っているのです。
女将さんの注いでくれたお酒をあおっている時、桂さんは先程私が芝居だと言ったことが本当かどうか、まだ疑った目つきで見守ります。
「なんだよ!、大丈夫だよ、芝居だって言っただろー」
桂さんは判ったというしぐさをした上でいきなり別なことを聞き出します。
「ところで、幸三郎、土山さんは相変わらず元気でやってるんだろうね?」
「そんなに気を使ってくれなくても、大丈夫だよ!!」
桂さんは、せっかく話題を変えようとしたのにあっさり私に見破られて舌打ちします。
なおも「土山さんは、ど・う・な・ん・だ・・・?」と話しをかぶせます。
「ああ、先日も会社の美術部で呑み会があってサー、相変わらずの酒豪だったよ。桂さんの事も『元気でやってるかい?』って、よく聞かれるよ」
「そうかい・・・。」桂さんは嬉しそうに眼鏡の奥の目を細め「俺からもよろしく言ってたって伝えてくれヨ。」
そして「また、3人で房総の海に写生をしたりして遊びに行きたいね・・」

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「なんだー、桂さん。最先端の仕事をバリバリしている癖して、ホントウは寂しいんだろ?」「昔の会社のことナンカ持ち出して・・」
「ん、確かにそれはある。」
更に続けます。「幸三郎とはこうして馬鹿なことをやったり、芸術論を話したりしていても楽しいけれど、久しぶりに土山さんに逢っても 話なんか合わないかも知れないね。」
「そうかも知れないよ、土山さんは会社では現在課長をしているんだ。だから美術だ芸術だ・・なんて、もう言ってられないからネ。」
やがて、カウンターの教授風先輩が席を立ちます。「ママどうも、ご馳走さん」「イエ、またいらっしてください・・」
「幸三郎、おいらも帰るか?」「ウン!」
私たちの下宿は「初音」の裏手、都電の池之端通りを横切って道灌山の切通しを登り詰めれば15分ほどでしょうか。
どちらがよっか駆っているのか、お互いの肩に手を回し坂を昇ります。「息が苦しいーヨー」「酔いが回わっちゃうヨー」・・・(続く)




(連載No.56)
駒込林町、深夜の古い住宅街はシン!、と静まり返っていました。
車も通れない路地裏通り、私たちのよたよた歩きの足音と坂道を登ってきたせわしない息使いが響きます。
明日は休日と言うこともあって、それぞれの家は灯かりも見えて静かな夜長を楽しんでいるようでした。
「われらが御殿、お二階様のお帰りジャー!」私と桂さんは玄関っ端に崩れ落ちるように座り込みます。
と、玄関脇のばーさんの部屋のふすまの向こうから
「あんた達、ちょっとお話がありますから、こちらにいらっしゃいナ!!」
「オヤ?!、ばーさん、こんな時間までよ〜くガンバッテ起きてましたネー!」
「ギョ、ギョっと!?・・、この丁寧な命令形は、桂さん、ナニカ拙い事でも・・・?」
ゆっくりと靴を脱ぎながら私と桂さんは目を見合わせます。
桂さんはいつものように、オーバーなしぐさで首をすくめ両手を泳がせます。
ばーさんの部屋に足を踏み入れると「なーんだ、お前等もやり込められていたんだ?」
今夜は久しぶりに全員がばーさんの部屋に集結させられたってことでした。
大学生の詩織さんが私たちに熱いお茶を入れてくれます。
「やっぱ、気が効くのは詩織さんだよナー、桂さん。」「酔い覚めにはたまらないっすよねー!」
「いい、お嫁さんになるよ?きっと。ネー、桂さん。」

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ばーさんは無表情のまま、私たちがお茶を一口するのを待ち構えるようにして口を開きます。
「あんた達、みんなに集まってもらったのはね、他の人たちにはゆったんだけど・・」せんべいを勧めるしぐさをしながら続けます。
「この春でネ、詩織ちゃん、万歳君も卒業していなくなってしまいます。」
「・・・で、今度はネ、真理ちゃんもがこんど現地ホテル勤務が決まったらしいの・・・」
「そんなこともあって、わたしもネ、永年勤めていた上野の風瞑堂をこの春で辞めようと思っているのヨ。」
「つまり・・・、オレ達も出て行けって・・訳・ケ?」
「万歳君は4年も高校生をやったし、詩織ちゃんも留年する気はないよねー」私もなぜか哀願調です。
「でも、明日にでもすぐって言うことでは無いんだから、そんな気もちで考えていてほしいんだけど・・・。」
「判った!」桂さんは結論を出すのが実に早かった。
私はと言うと、実のところ頭の中は真っ白でありました。
一同、私の顔を真剣に覗き込みます。私もとっさのこと、見得でもはってこの場をしのごう・・と
「うーん、もうチョット早くそんな話があったんだったら、彼女と別れなければよかった・・。残念なことをした。」
「一緒に住もうよ、住もうよって引く手あまただったんだけど・・ナー。」
ばーさんも調子に乗りやがって「今からでも、よりを戻すことは出来ないんかネー。」と乗り出してきて皆、大笑いで馬鹿にされてしまいました。
「まっ、可愛いばーさんたちとも別れ別れになるカドデダー、桂さん、もう寝ようぜ!」
「ひと晩寝りゃ、ばーさんも気が変わってサ、お願いだから出て行かないで・・って!?」
私と、桂さん、その後を万歳少年もばーさんの部屋を後にして階段を二階へと引き上げました。・・・(続く)




(連載No.57)
私も桂さんもわずかな年始休みの後、すでに仕事が始まっています。
旅行代理店勤務の星野真理子女史は暮れ以来出張で帰ってきません。大学生の笠間詩織さんと高校4年生の古村万歳はまだ長いお休みで帰省中です。
桂さんはすでに正月明けから、ゴルフ用品メーカーのコマーシャル撮影のため連日深夜の帰宅です。
私の寛永寺坂美術研究所も冬休みと連動して一月一杯はお休みとなります。
私は会社が終わるとまっすぐに駒込林町の下宿に帰ってきます。
バーさんが迎えてくれます。「おや、幸三郎さん、随分と早いんだね?」「エー、研究所が一月一杯お休みなもんで・・」

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階段を3,4段上がり掛けた所で声が掛かります。「お茶でも飲んで、テレビでも見ていかんかネ?」
「みんな居ないと家の中、火が消えたようだね!?」「バーさん、寂しいんだろ?」
「そりゃー、ひとっ時は寂しーサ。だけどネー、何時かはみんな離れていってしまうんだから今が潮時ってところジャないの?」
「ところで幸三郎さん、この間の話でサ、別れた彼女って、もう、よりは戻せないんかい?」
「ヨセヨ!、いきなりバーさん何を言い出すんだか!」
「いえネー、桂さんは此処の後は行くところがありそうなんだけど、アンタだけが心配なのよ。」
「・・、心配だからって、別れた彼女のところに押し込もうったって、無理だよ。」
「そうかいネー、でも、『思い直したらやっぱ別れたくない』って、言って見たらどーかね?」
「バーさんだったら、そう言って帰ってきた男を受け入れるんデスカ?」
「それもそーネ、女々しい男なんてきっと後になって後悔するものネ。」「だろ?」
「じゃァ、幸三郎さんは今、彼女ナシなんだ?」
「別に、欲しいとも思わないサ。」
「オレ、実はまだ絵描きになる希望は捨てていないんだよ。」「それに、彼女って凄く気を使うから・・オレには向いてないよ。」
「元彼女って、幸三郎さんが絵描きになる事には賛成していたの?」
「ウン、とても良く理解してくれていた。それが俺にはとても重荷だったんだ。」
「どうしてなの?。男ってのはね、自分のことをとっても理解してくれている人と一緒になるのがいちばんだよ?」
「オレはネ、有難い事にこの道ではとっても沢山の先輩がいて忠告してくれるんですよ。」
「所詮、女は稼ぎの悪い男とは長続きはしない・・とか、男は若いときは持てても其の内、醜い爺さんになると見向きもされない・・とか」
「別に先輩達の言葉を鵜呑みにする訳ではないけれど、そんなに気を使って今のこの時期を『二人の為に』なんて考えられないよ。」
「そうか、幸三郎さん、『別れた!』って言ってたけど、『捨てられた・・』わけ?」
「そう、俺がこのまま彼女と、だらだらと生活力のめども無く過ごしていたら、お互いはもっと惨めな人生を歩む。」
「そこで、彼女が幸三郎さんのことを捨てられるように自分から仕掛けた・・って訳?」
「今思うとそうだったかも知れない。彼女に気持ちよく別れてもらえるように、俺のことを嫌いになってもらえるように・・。」
「一緒に過ごすって事は思いも同じ方向?相手のすることなすこと全てを受け入れなくてはいけない?今の俺にはそんな余裕なんかないよ。」
「ウン、おばさんにも良く分かるよ。主人が居たときはサー、そうは思わなかったんだけど、亡くなった後になって、もう、コリゴリって。」
「バーさんそれ以来、寡婦暮らしって訳なんだ。でも俺から見ても、傍目にはちょっと寂しソーに見えるよ。」

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「やっぱり、分かっちゃうかねー、そこが幸三郎さんと違うのよ。アンタみたいに前向きな姿勢ができないから寂しげになるのよ。」
「だから付き合う友だちもなぜか寡婦のひとがおおいのよ・・。」
「そうだ!、幸三郎さん!、私のお友達でいい人なんだよ!ご主人は早くに亡くなってしまってね!。」
「バーさん、なにを言い出すんだよ!!。俺はそんな女なんかいらねーツッタだろ?!」
「違うわよ!、そのお友達の家で空いている部屋が有りソーなんだよ。聴いてみっかね?!」バーさんは急にひらめいたようで嬉しそうです。
「なにか、気持ち悪そうだなー。夜中に言い寄ってきたりナンカしねーだろーなー?!。」
「バカなことを言うんじゃないよ!」「昔は気位の高い人だったんだから‥。」
「そういうのが、ホントウに危ねーって、先輩が言ってたぞ?」・・・(続く)





(連載No.58)
ずぼらな新年の挨拶をしているうちに一年の12分の1が終わろうとしています。
またまた本当に久しぶり、桂さんから「久しぶりに呑まねーか?」と連絡が入りました。
桂さんとはここ、正月明けからゆっくりお話もする機会がありませんでした。
実は、彼は今回のコマーシャル撮影でスポンサーさんからかなりの評価を得た、と同時に将来的にも保証されるような目途が立ったようです。
呑む場所も、日暮里は以前の後味の悪い印象もあったばかりなので上野にしようと決めました。
私は美術研究所の冬休み、会社を終えて王子駅から上野までは便利です。彼も仕事の六本木から地下鉄一本で到着です。
「嬉しいね、こんなに早くから酒が呑めるなんて‥」私はガード下、電車の音に負けないくらいの大声で桂さんに話しかけます。
アメ横通りからガード下をくぐりきったところのお店、もつ煮込みの「天竜」に入ります。
こんなに早い時間から席が一杯、初老のおじさんに席を替わっていただき割り込ませていただきました。
「あんたら、若くていいなー!」おじさんは話しかけるでもなく、独り言を言いながら左手を盛んに開いたり閉じたりします。
「お医者さんには?」と、私。「こんくれーで医者になんか行ってたら酒も飲めなくなっちまうでなー。」
注文の煮込みとお酒がテーブルに運ばれます。私と桂さんはお互いの盃に酒を注ぎ軽く乾杯します。
それが合図でもあったかのように、おじさんは此方との話の続きは無視して席を立っていきます。
「あのジッさん、左手だけじゃなく右も随分と震えながら酒?んでたよなー。」
桂さんは「俺たちの将来の姿を見たような印象だよな。手の震えた貧乏絵描きと、手振れで写真にならない老写真師の‥」
「でも、桂さんは将来的にも順風満帆って感じだよね。」
「幸三郎、茶化すのはやめてくれよ。お前が一番良く判っているはずだぞ?!」桂さんはご機嫌斜めです。
つまり、桂さんにとって今の仕事が増えれば増えるほど自分の撮りたい写真から遠ざかっていくジレンマを抑えきれません。
桂さんは更に話を続けます。
「しかし、このまま仕事を広げるようになると俺専用のスタジオを持たないとやっていけないんだよ・・。」
「つまり、高い家賃のビルを借りようって訳だね?」
「ウン、それにこの業界、請負の作業もあってネ、六本木と言う所でしかやっていけないんだよ・・。」
「昨晩遅くまで撮影したオレの写真は翌日の夕方までにデザイナーの手から印刷業者に回りプリントが手元に届く。」
「そうですか。金銭的には随分と過酷なというか、やりがいのある仕事だとは思うけどなー。」
「まあ、そんな気持ちで居るところにバーさんからの『退去命令』が出た、と言うわけさ。」
「ところで、幸三郎、行くところが決まったようだな。」
「エッ?!、まだ決まってないよ!!」
「オマエさんが会社に出かけた後、洗面所で顔を洗っているとバーさんが俺に言ったんだよ。」
〜〜〜「桂さん、幸三郎さんの引越し先だけどネ、私のお友達から今朝電話で2〜3年だったら預かっても良いって言うんだよ。」
〜〜〜「2〜3年って・・?」
〜〜〜「だいぶ古い家だから、2〜3年したら取り壊したいんだって・・・。それでも良いか、幸三郎さんに聞いてみてくれないかい?」
「そんなわけで、今日は会社に電話して『呑まねーか?』って、誘ったわけよ。」
「なんだ、そういう訳だったんだ。バーさんも結構俺に気ィ使ってくれるよな。おっぽり出すことに気が咎めてるんだ。」
「どうなんだ?」
「俺は当面、雨露しのげれば何処でもいいさ!。」
「じゃ、そこでも良いって言う訳だな?」
「桂さん、そこの家の未亡人ってさ、昔、すごく気位の高い人だってバーさんが言ってたけど怪しくねーかい?」
「少し・・!。植親覚羅浩の妹。元学習院学長の息子と結婚。インドの国王から日本貿易のルートを任された家柄。そして現在未亡人・・。かなり怪しい!」
「おれも波乱万丈の人生だけどサア、この若さでついに化け物の餌食になるのかヨ・・。」・・・(続く)

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第10章(No.59〜No.62)(25歳ころ)美術研究所後期(U)・・・駒込林町、アトリエ付きの間借り・・・・







(連載No.59)
私がこんどお世話になる住まいはナント同じ通り沿い、しかも距離にして11軒となりですから50m程しか離れていません。
しかもこの通りの奥行きは100mもありません。目と鼻の先・・と言うのはこう言う状況のことでしょう。
私は銭湯に行くとき、当然この家の前を通っていたにもかかわらず、全くの存在をも感じて居ませんでした。
櫻井泰子は老婆と言うには余りにも端正な顔立ち、何時も手入れの行き届いた着物を着て立ち居振る舞いは育ちの良さを物語っています。
それにしても何であんなガラッパチな山谷美智子バーさんと、ここの奥様とがお友達同士だナンテとても信じられません。
ただ単に寡婦同士だと言うにしては余りにも言葉使い、物腰に歴然たる差のあることは否めません。
しかしそんな事はどうでも良い事です、私はどうしてこんな近くの屋敷の存在すら気が付かなかったんでしょう。
言われてみると確かにそこには他を圧倒する敷地と家屋がありました。大きな木戸は開いていた様子を見たことはありません。開かずの扉でありました。
大家石を積んだ高い塀と大木戸、そして隣にある通用門をくぐった脇にはなにやら得体の知れない小屋まであります。
銭湯の行き返りにその屋敷の前を通る時、伺うくぐり戸の先は、飛び石の先うっそうと茂る木立の合間から人の居住の息遣いまでは感じませんでした。
まさか、そんな家が私の住むところになろうとは1〜2週間前までは露知らずで過ごしていました。
私が山谷バーさんに連れられてご挨拶に行った日です。
飛び石から植え込みを回りこむように玄関に向かうと、そこは洋風のがっしりした造りの館でした。
玄関から観る2階に上る階段の手すりはどこか東洋のエキゾチックな趣の彫り物のある曲線を描いています。
櫻井未亡人に案内された私の住まいは2階の6畳、和室です。古いとは言えそこは、和洋折衷の建物でありました。
その部屋は角部屋の為、2面の障子を開け放つとガラス戸張りの幅広い廊下が北と東にひらけ、まるで10畳間にでも居るような開放感があります。

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二階の和室は私の6畳のほか右隣に3畳、南奥の10畳と言う構成です。それらは何れも襖で仕切られ、そのほかに洋館の2階は廊下で繋がっています。
私の気配を察して隣部屋住人の”あるじ”がご挨拶をしに襖越しではなく廊下づたいにやってきます。
「ノッシ、ノッシ・・」古い館の二階家、大男の廊下を歩く音は家中に響く感じです。
「やあ!、はじめまして・・、『嵯峨』と申します。隣の襖越しに住んでおります。」「ハ!、・・幸三郎と申します・・ヨロシク・・」
櫻井泰子は、既にこの一見粗雑な大男とは気心が通じていると見えてお互い目を見交わせて私のほうをホホエンデ見ています。
奥さんがたたみ掛ける様に言います。
「嵯峨さんは”仏教研究家”の方で毎日勉学に励んでいます。・・幸三郎さんの様な静かで落ち着いた方でしたら喜んでお付き合いしたい・・と。」
「ハッ!、そうでしたか・・。ありがたいことです・・。」
「オイ!、バ、バ、バ、ババア〜!!、いったいどうなっているんだ〜?」危うく声に出すところでした。
そもそも得体の知れないオクサン?も気持ち悪いけど、おなじ二階の住人が居ることなんか知らなかったゾ!。しかもそのオッサン、若く見積もっても50歳は超えてるぜー。
オレはまだ25歳の紅顔の美少年ダゼ。襖の向こうには50歳ほどの独身ジーさんが住んで居る。しかも・・仏教研究家?。階下にはあの妖艶なババー・・。
人生には”絶体絶命”と言うことが3度有る!。と何処かで聴いたことがあった。既に25歳でそのうちの一つを体感するんだ・・、。
兎に角、私のこの動揺を見抜かれないためには、一刻も早くここから立ち去って気持ちの整理をつけなくては成りません。
「アッ!そうしたら、早く戻って今日からでも荷物の整理をはじめなくっちゃ・・。」
「幸三郎さん、そんなに急がなくっても、3日4日掛けながらでもやればいいのよ・・、こんなに近くなんだからサ。」
山谷バーさんは、如何にもテメエの”お荷物”の整理が出来たとばかりに気もそぞろです。
屋敷のくぐり戸の出なしに私は訪ねます。「バーさん、この小屋はなんだ・・?」
「あ〜、これは人力車の車夫が休む場所だよ。」
「ゲ!、今は昭和もまもなく半世紀にもなるってのに・・」
「バーさん、植親覚羅浩の妹って、ナニ??。」・・・(続く)




(連載No.60)
引越しも終わり、私はすべてをこの怪しげな館、櫻井邸に身を任すことになりました。

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先ほどまでの大嵐のような風は、私の引越しの終わるのを待つかのようにして今度はあたり一面真っ暗闇に変わります。
暫らくすると、春雷です。叩きつけるような激しい大粒の雨が廊下のガラス窓にあたり、ざわめく庭木が黒い影となって揺れ、私のことを歓迎してくれます。
畳の6帖間、廊下に面した障子を開け広げ、私は一人畳の上に座って廊下のガラス戸越しに嵐の闇夜、庭木の踊りに目を凝らしています。
「・・幸三郎さん・・」ビクッ!と、身を固め周囲に集中します。誰かがわたしを呼んだような気がしたからです。
気のせいでした。おどろおどろしているから余計に怖さが私の心を揺さぶって煽り立てるようです。
気が付くと廊下の一点から雨漏りの雫がトントントン・・と調子よく落ち始めました。
私が驚いてまごまごする間も無く、隣部屋のオジさんが飛び出してきて、手際よく受け止める容器を置いてくれました。
「幸三郎さんの部屋の中は大丈夫ですか?」
「ハイ、・・多分・・、サ、嵯峨さんのお部屋は・・?」
「はい、一番最初に一箇所雨漏りするんですよ・・。で、次は廊下のここ。ですから早めにさっき、呼んだんですが。」
「あっ!、そうでしたか、さっきそんな気もしたんですが、ついビビッていたもので・・・スミマセン」
「よろしかったらお茶でも入れますから、お飲みになりませんか?」
ザンギリ頭、裸足で廊下をノッシ、ノッシと歩くこの得体の知れない大柄な50男が茶を入れてくれると言う。
もし、この春の嵐さえなかったら恐らく一生「ハイ、それではヨロシク・・」などと彼を受け入る気は無かったのではないでしょうか。
襖越しの隣人、廊下を回った障子の「表玄関?」から彼の部屋に通されました。
10帖の和室、古いとは言え立派な床柱に贅を凝らしたと思われる床の間、そこには沢山の書物がぎっしり積み上げられています。
書物が崩れ落ちても安心な距離に文机を配し、先ほどまで読みかけの書物がヤヤ斜めになったまま置かれています。
机の書物には、谷中の墓地でよく見た卒塔婆の文字そっくりのミミズ文字が踊っています。
嵯峨さんの部屋も、私の部屋から回った廊下がグルリ取り囲むように巡らされ、やはり2面の障子を開け放つと14帖ほどの開放感にもなるのです。
その角に小さなちゃぶ台が置かれ、電気ポットの湯で抹茶を入れる準備をします。「オ、オッ!、」思わずゴックンと唾気が生じます。
「私はコチラにお世話になってから5年ほどになります。」嵯峨さんは私が訪ねた訳ではありませんが勝手にしゃべります。
「はじめは1〜2年でしたらどうぞ。と言われましたが、中々家を立て替える気配がありません。ついつい長居をすることになりました。」
「そうでしたか、私も1〜2年でしたら・・・って、言われましたが・・。」やっと二人、顔を見合わせて笑うことが出来ました。
「突然ですが嵯峨さん!、嵯峨さんは、植親覚羅浩ってご存知ですか?」

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嵯峨さんは、サッと顔色を変えたようなきつい表情になり、廊下の先に聞き耳を立てます。
突然にひそめくような低い声で私に聞き返します。「・・・幸三郎さんは、奥様から何かお聞きになりました?」」
「イエ!、何も・・。ただ、前に居た下宿のバーさんの話だと、クゲ・・とか公卿の出だかナンジャカ・・訳のわからない高貴な家柄の人だとか・・。」
「幸三郎さん、実は私、仏教の研究の傍らサンスクリット文字の研究をしていましてネ、ひょんな事から、インドがイギリスから独立した時の国王が、ある日本人に日印の貿易を任せた・・。 と言うことを知ったんです。」
「その、ある日本人、と言うのがあの奥様の旦那様、櫻井銀次郎・・って事がわかってしまったんですよ。」
「それは、すごいお金持ちだったって事ですよネ。・・今はこんなボロ屋だけど・・」
「私は、こう言うことを調べ始めると中々途中で止める事は出来ない性質でして・・。」
「その、櫻井銀次郎さんのお父様は、ナント、新学校制になった楽習院大学の初代院長さんと言うことでした。」
「当時、楽習院の生徒さんの多くは偉い軍人の子女、家柄の良い子女の通う名門中の名門校でした。」
「お父様は、当然自分の倅の嫁にはこう言った名門の子女の中からと思い、元公卿の名家、相浦実勝の4女、泰子に白羽の矢を立てたわけでした。」
「ホウ、申し分ない縁組ですよね。」
嵯峨さんはココまで話を進めると、更に険しい顔つきになり私に尋ねます。
「幸三郎さん、何年か前に伊豆の天城山中で楽習院生の男女の学生さん同士の心中事件があったことをご存知ですか?」
「はい!、えっと、・・ナントカ彗星・・、・・・ウエ、植親覚羅彗星でしたっけ?」

「そう、心中した植親覚羅彗星は満州国最後の皇帝、溥儀の実弟、植親覚羅薄傑の子供だったんです。」
「ハア、うっすらとそんな記憶で新聞記事を見たことがありました・・。」
「戦争前、日本軍は皇帝薄儀に跡継ぎが居ないことに目をつけてその弟、植親覚羅薄傑と相浦実勝の長女、浩との結婚を思いついたのです。」
「しかも、もし男の子が生まれれば日本と満州国の講和友好の架け橋になる・・・と日本中が沸き立ちました。」
「ゲ!、って事はやはりここの奥さんは植親覚羅浩の妹であったということでしたか。」
「しかし、薄儀と浩の間には”彗星”のあと2年後に次女、”こ生”が生まれましたがそのまま中国との戦争になり講和の道も閉ざされました。」
「彗星はここの奥さんの姪だったんですね?」
「そう言う訳です。幸三郎さん、ココまでは私が秘かに調べた系譜です。奥様はもちろん、他言は絶対無用ですヨ!。」
「フーム!、やはり、とんでもない家に来てしまったもんだ」・・・(続く)

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(連載No.61)
引越しも終わり既に一週間も過ぎました。この古めかしい下宿屋の6帖間、どう工夫しようにも荷物の隙間で布団を敷くスペースを確保するのが精一杯です。
あと整理の為、一旦荷物を廊下に引き出し並べ、再度部屋のなかの狙った場所に収納を試みます。幾度と無く挑戦しては挫折の連続です。
季節もいいころです。隣の部屋の嵯峨さんにお断りします。「今夜は廊下で寝ますので夜中に気おつけて通ってください・・」
50過ぎの独身おじさん、嵯峨さんも案外と気の弱い人です。私が廊下に寝て2日目、大奥の奥様に直訴したそうです。
「私は夜中に2度もトイレに行きます。その度、幸三郎さんの寝ている脇を通り抜けるのはたまりません・・」
つまり、狭い部屋でもいいから自分と幸三郎さんの部屋を交換していただけないでしょうか・・・と。
早速大奥がしぶしぶ上がってきました。「幸三郎さん、お若いのに随分と荷物が多いんですね!!?!」
「ハイ、でもこれでお仕舞いです。すべて運び込みましたから。」
「これではお寝になる場所も有りませんワネ?」
「エエ、でも今夜あたりは敷居の上くらいには寝ることが出来そうですが・・・。」
「実は、嵯峨さんからご相談を受けたときに、こうしていただけたら・・と、決めて来たんですが・・」
「幸三郎さんがこれほど絵をお描きになって、その荷物の殆んどが絵の道具だとは知りませんでした。」
「以前、向こうの洋間を使って絵の制作に励んでいた絵描きさんが居ました。山田満寿夫・・って、今は版画家として売れていますけど・・」
「ゲ!!、あの山田満寿夫???、洋間で?」
「幸三郎さん、もしお使いになるんでしたらそちらのお部屋でおやりになってはいかがでしょうか?お値段も同じ額で・・」
「それって・・!、アトリエ・・ですよね??」
「奥さん!、もう少し考えさせてください・・」
ナニを躊躇などすることがあるんでしょう。でも、そんな天から降ってきたような旨い話があるわけないじゃないですか??!!??
そう言えば以前、階段を上がった右側、私達の反対側の最初の洋間のドアが半開きになっていてその隙間から石膏像の壊れた一部が見えたことがありました。
「そうか・・、画家がアトリエとして、しかもあの若き日の山田満寿夫が使っていたことのあるアトリエ##」
私はすぐにでも飛びつきたい気持ちを抑えました。ウム・、我ながら実に、落ち着きのある対応をしたものだ、と自負したものです。
私はこの一週間でほぼ、この怪しい住まいの住人の財政状況が徐々にわかってきたのです。

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元ナニナニの関係のナニナニ様でした・・、すべてはとっくの昔、その昔の夢物語で在ったかのような現実です。
櫻井泰子家は既に破綻していました。少しでも収入の道があれば身売りも辞さない・・。
じつは、そんなところまで追い詰められていたようでした。私にアトリエとして・・と言うのも部屋代としての目論見が充分に見えるのです。
以前の山谷家では桂さんと折半ではありましたがその折半も、こちら櫻井家いずれの家賃も手取り収入の1/5〜1/4 、6〜7千円でした。
このまま「デハ、よろしく・・」といった時点から手取りの半分近くが部屋代と消える・・・・そんなバカな事は絶対に避けなくてはなりません。
「済みません、トッテモ魅力的なお話ですが私は美術研究所の共同アトリエで絵は描けます。とてもそんな余裕はありません・・」
「・・幸三郎さん、判りました。実は私どもも洗濯物の物干し場として洋間のベランダは使っていました・・・。
ですから私共もここを自由に通らせていただく・・と言うことで2千円でしたらどうでしょう??!!」
大成功の交渉でした。「お願いします!!」
奥さんに案内されて初めて足を踏み入れる階段を昇った反対の右側の建物です。
洋館造りのため曲がった先を更に二段の階段で高さを調節しています。この不思議な感じは何処かで体感した気もあります。
2mを超える高い造りのドアー、昔は手に入りにくかったはずのラワン材の硬い心材部分を張り巡らした廊下の壁板も重厚そのものです。
真鍮製のノブを回すと部屋は高い天井、西と北には重厚な木彫りの飾り窓、東面には広いベランダに出る扉がありました。
左隅の床に目線を転じると例の石膏像の一部、以前見たヤツ・・、闘士像の頭部が転がっていました。
一歩足を踏み入れた床がほのかな柔らかさを感じます・・・?。ナ、なんと床一面コルク材が貼り付けてあるのです。裸足にほのかな断熱を感じます。
広さは10畳余ほども在りそうです。ここで、絵が描ける・・!!私の気持ちは一気に膨らみます。
やはり高い造りのドアーを開くとベランダに出られるのです。
下から見ると如何にもお化け屋敷・・としか見えなかったこの館、中の様子が判るにしたがって不思議な空間に思えてきます。
南国風の植物と和様の植木がゴッチャと思っていた庭の不思議さも、ベランダから見るとナルホド・・と納得します。
奥さんは思惑よりもかなり値切られた・・と思ったでしょうか?。私はそうは思いません。
多分、損をしたとか、得をした・・と言うような育てられ方はされていなかったでしょう。むしろ私がこの家に住んでくれたことで現金収入は倍増したはずです。
お隣の部屋の嵯峨さんにも言われたように、この家は1〜2年で取り壊しますので・・と言われたのに未だにその気配も無い。
恐らく自分から物事の計画を立てて、よい協力者を見つけて・・と言うことが全く出来ない人なんだ。
チラッと盗み見するその端正な顔立ちは、すでに老涯に達しては居ますが張りのある額や目頭付近には未だ少女のおもむきさえ感じられるのです。

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「櫻井家のアトリエとベランダ」


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映画など歴史ものの作品の中に出てくる退廃した「公家」をおもいだし、私の眼はそんな育ちの可哀想な人・・と見るようになりました。
私は話をそらす為に聴きます。「この石膏像は山田満寿夫さんが使っていたものですか?」
「それは・・、判りません。そうかも知れませんし、他の絵描きさんの物だったかも・・・」・・・(続く)




(連載No.62)
暫らく私はアトリエの模様を決める為有頂天の日が続きました。
会社が終わると研究所はお休みしアトリエの配置やイーゼルの置き場など「あーでもない、こーでもない」迷うことが楽しくてしょうがありませんでした。
奥様もたまに顔を出し、「アラ、随分と生き返ったみたいです。」「若い人が住むとお部屋も活気があふれますネ。」と喜んでいます。
部屋の配置もようやく落ち着いた頃、私に電話・・と取次ぎです。
松戸市の中学の先生をしていて研究所で住み込みをしている恵美さんからです。
「・・幸三郎さん、暫らくお見えになっていませんが・・、お変わりないですか?。」
「ハイ、ご無沙汰しています・・。」
「訃報です・・。神谷先生が・・。」
「モシモシ・・!!、恵美さん!」
寛永寺坂美術研究所を主宰されていた神谷先生がお亡くなりになりました。
つい2週間ほど前、風邪をこじらせたといってご自宅に戻られてそのままと成ってしまいました。
私は、連載 No.41 でも書きました。学生であればスポーツも文武両道、社会人にあっては「仕事と趣味」の考えでこそ、純粋な芸術が追求できるんです。
楽しみを先取りしようとする私の若い気持ちを神谷先生は厳しく戒めました。
そんな先生が、私の引越しの先での顛末をお聞きになって自分のことのように喜んでくださいました。
「善かったネ!!、一升瓶でもぶら下げて、冷かしにでも行って見たいから案内してくださいヨ・・。」
メガネの奥で優しく微笑む姿がとてもいとおしく感じられます。
もう、神谷先生にお会いすることは出来ないんだ・・・。急に私の心の支えが無くなってしまった虚脱感に襲われました。
梅雨寒の京王線つつじヶ丘駅から歩いて10分、神谷先生の葬儀とは別に今後の寛永寺坂美術研究所をどう取り仕切って行くべきかの会合がもたれました。

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私は研究生代表として恵美さん共々ご親族の方々、ご家族のご相談役の方などと研究所の現状説明をした上でご判断を伺う話し合いに出席しました。
つまり、ご親族の方々は「・・出来れば、永く続けてきた美術研究所もこれを区切りに止めさせて頂きたい・・」と言うことのようです。
恵美さんは、この考え方に猛反発するかと思いましたが一種ある程度の覚悟もしていたようでした。
私はと言うと、今までこの寛永寺坂美術研究所の財務関係は全く知りませんでした。しかし、先生の私財でほぼ不足分を賄って来たと言う事を聞き愕然としました。
神谷先生は、この老朽化した木造校舎の維持管理を必死になって補っていたんだ・・。と言うことが明らかになりました。
しかも、戦前からの木造建築です。
眼下を京浜東北線、山手線が走り、日暮里を出た京成線が上野公園に向かう高架橋の交差点です。
木造校舎全体が崩れ落ちるなどまさかの事態を予測するとこれ以上維持して行く事は最早これまで、と思わざるを得ません。
私も全てについてうなずく以外に手立ては見つかりません。
話し合い・・と言うよりは、神谷先生ご家族のご意向をお聞きした、と言うことでしかありませんでした。
恵美さんと私はシトシトと降り続ける雨の中、真っ暗な道を駅目指してお互い無言です。
京王線つつじヶ丘駅から上野桜木町までは1時間半も掛かりました。神谷先生はこんな距離をよく通っておられたと感心しました。
そして恵美さんもよくこんな研究所で寝起きしながら松戸の中学に勤務されていたものだ・・と。
研究所の木戸をくぐると、真っ暗な木造校舎は今にも倒れ掛かってくるような錯覚の気配すら感じられます。
恵美さんは慣れた手つきで玄関を開け、しばらく休所となっていたアトリエの方へ向かいます。明かりのスイッチ場所は手馴れたものです。
私はアトリエの制作中のキャンバス置き場に向かいます。
制作中の絵は私の希望で取り入れたポーズの裸婦、横臥像。
下塗りとデッサン描線が幾度と無く交差し確かなものにしようと・・途中のまま絵の具はすっかり乾いています。
窓の下をひきも切らさず電車が乾いた音を残して行き違いしていきます。
不意に、「幸三郎さん、このあと・・絵の勉強は続けられます?」
私が余りにも永いこと黙りこくっていたので恵美さんから声を掛けられてしまいました。
「あ、・・実はその事をづーっと考えていたんですが・・。」
「ちょうど今、この絵は下絵の段階ですが迷ったまま止まっています。」
「この迷った絵を眺めていると・・いろんなことが思い起こされて・・・」

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「石膏像の首」


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「・・・そうネ。以前の幸三郎さんはここからは一気に攻め立てるように・・」恵美さんも私の迷いを感じたようです。
「恐らく、このテーマを自分なりに消化しようとすると更に1〜2年は掛かってしまいます。」
「では、何処か別の研究所にでも移られるんですか?」
「恵美さん、僕はココの研究所に来て6年目です。恐らくよその研究所で同じテーマに取り組むことなんか出来ないと思います。」
「それに、絵を描こうとする環境がかなり充実してきました。」
「そう、私も先生からお聞きしました・・、随分素敵なアトリエだって・・。」
「神谷先生も、幸三郎さんはもう研究所に来なくてもお一人で追求することを覚えられた・・って。言ってたわよ!」
「恵美さんはどうするんですか?」
「そうね、もうここには居られないから・・松戸の中学のそばでアパートでも探そうかと・・」
「・・絵は描けるの?」
「多分、無理でしょうね。でも、たまに幸三郎さんのアトリエにでも通おうかな・・?」と、イタズラっぽく上目遣いします。
「おー!、大歓迎だネ!。路地の入り口向かいが酒屋さんでーす。」
「まァ!、来る時はそこでお酒を買って来い・・って訳ね。」・・・(続く)




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               第三部まとめ読みご案内
第11章(No.63〜No.71) (25〜26歳)新たな出発(T)・・・第一回、個展に向けて・・・
第12章(No.72〜No.77) (〜26歳)新たな出発(U)・・・第二回個展を目指す・・・(1)そして転居
第13章(No.78〜No.86) (〜27歳)新たな出発(V)・・・〃・・・(2)アトリエ建設
第14章(No.87〜No.94) (27歳ころ)新たな出発(W)・・・〃・・・(3)絵画教室
第15章(No.95〜No.104) (27歳)新たな出発(V)・・・〃・・・(4)新しいアトリエ

第11章(No.63〜No.71)(25〜26歳)新たな出発(T)・・・第一回、個展に向けて・・・






(連載No.63)
梅雨が明けて一気に夏になりました。
長年通った「寛永寺坂美術研究所」は閉鎖が決定しました。お休みの日に来て各自、自分の道具や描きかけのキャンバスを引き取るようにと連絡がありました。
同じ研究生でも先日、神谷先生のお宅に伺った時の恵美さん以外はもう一ヶ月以上もお会いしていませんでした。
誰が言い出すともなく、我々だけで解散会をしようよ・・
恵美さんから、「実はこの研究所の取り壊しの日程まで決まりかけているらしいの・・」
「エッ!、じゃ、このアトリエも今日が最後なんだ・・」
「いっそ、ここで解散会をしようよ!!」「ウン!、そうしようヨ」
しかし、恵美さんは悲しそうな目つきで訴えます。「先生がお亡くなりになった後、ここの全てを奥様から任されてきました。」
「最後の最後に何か火事でも出すようなことになってしまってはいけません。どうか、お願い!!」

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結局、受験目的の予備校生たちはいずれにしてもお酒は呑まない、それよりも早く別の研究所をあたって勉強を続けないといけません。
「じゃ、残りの5人だけで養老の滝へでも行こうよ。」
「恵美さんはどうするの?」「行くわよ!、行くに決まってるじゃないの!!」「ハイ、ハイ!そうムキニならなくても・・」
梅雨明けの夕方とは言えまだ5時、鶯谷駅前の養老の滝には、よしずばりに西日が強烈にあたっています。通過する電車の熱気がもろに伝わってきます。
「オー、がら空きだ!!」素っ頓狂な声に促されてどやどやと一つのテーブルに着きます。
「ココのテーブルは神谷先生のお気に入りの定位置だよナ」
「あら、幸三郎さんはどうしてご存知なの?」
「だって、俺はココでバッタリってことが良くあって・・オレはあっちのテーブル。」
「で、づーっと、別のテーブルのままサ。」
「そう言えば、神谷先生と一緒に酒呑んだ人って、いるか?」
「私は何回も・・・」
「そりゃァ、恵美さんは別だよ。オレだってお金さえあれば何時でも誘って上げたいと思うだけだけど?」
「お待ちしていますわ!」
「恵美さん、幸三郎は貧乏だからいくら待っててもバーさんになちまうぜ!」
「そうか、神谷先生は俺たち我鬼共とはお酒呑まなかったんだ・・」
「おしい、実に惜しいことをした。」「どうしたんだい?」
「や、実はね先生が風邪をこじらせなかったら俺と一緒に酒を呑むつもりらしかったんだよ。」
「下宿のアトリエを使えるようになった時、『善かったネ!!、一升瓶でもぶら下げて、冷かしにでも行って見たいから案内してくださいヨ・・。』って。」
「そんな矢先だったのに・・。」
「神谷先生はキット、そんな約束をした手前ホンネはイヤで逝ってしまわれた・・」
「このやろー!、お前なんか殺してやる〜!」
「マッテ!!二人とも!、よっ君もすなおに幸三郎さんが羨ましいっていえないの?」
「よっ君よ、俺ら松戸の中学生以下だって。」「ネ、恵美センセ!」
「ところで、よっ君は研究所を辞めたらどうするの・・」恵美さんもすっかり先生言葉になってしまいました。

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「オレ、元々絵の才能なんかないんだよ、ただ女の裸が見れるからずーっと来てたんだけどサ。」
「こりゃダメだ、中学では指導不可能って奴だわ。教育現場ではこの先の指導はかなりのカウンセリングが必要だわ。」
「センセ!、それ、そのカウン・・してください・・。」
「正太郎君は勿論、家業の根付職人として、すでに実社会で収入を得ているわけですから将来は安泰ですよね。」
控えめで発言の少ない彼も言います。「亡くなった親父も言っていました。生涯、勉強してそれが無駄になることは決して無い!。僕は、別の研究所を探します。」
大学で美術史専攻の学生、熊谷はおもむろに口を開きます。「私も美術史を研究していくうちに『作家の心』が判らなければ繋がりも判りません。」
「私は作家の心・・つまり、自身が作家になってみないと今の学校での研究が進みません。ですから・・また、何処かをさがすのかな〜」
「じゃ、次、幸三郎君!」
「なんだよ!、これじゃぁ、中学のホームルームじゃねーかよ!」
「ごめんなさい!、幸三郎さん。」
「オレ、絵描きになるんだ!!」
ちょっと、みんなの箸を動かす手が止まりました。
「神谷先生は、絵を描くのは趣味でも善いではないか、と私に言い続けてきました。本当にそれで生涯悔いは残さないんだろうか。」
「人生60年として、すでに5分の2は終わりました。責めてあと5年、絵描きに成れるよう賭けてみたい!!。」
「今年は先ず、画壇に挨拶したい!!、個展を開きます。」
「ウオー、幸三郎がご乱心じゃー!!」
「よっ君!!。」恵美さんがまた制止の声を上げます。
「や!、それはすばらしい・・」熊谷も珍しく大きな声を張り上げます。
「俺は、ちょうど2年前に恵美さんや熊谷も知っての通り、松頭さんと二人展を開こうとして挫折した。」
「挫折した最大の理由は、お互いが、相手に頼りすぎた・・」
すかさず恵美さんが口を挟みます。
「あら、あの時は数寄屋橋公園の管理事務所の人が・・・マカセナサイ・・って言ってて実行しなかったんでしょ?」
「それもこれも、他人に頼った結果だから同じだね!」
「すべて一人でやる!!。誰にも頼らない!!。出来なければ死ぬ覚悟でやる!!。」
正太郎君も言います。「オヤジが最期に俺に言った言葉もそうでした。」

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「母や妹達をこれから養っていかなければならない・・。死ぬ覚悟でやれば結果はついてくるって。」
「今はオヤジの二代目・・と言うことで根付も売れて生活はナントカできる。しかし、正太郎の作品を世に出すためには死ぬ覚悟で今、勉強を続ける。」
「やっぱ、家族を養っている人は言葉の重みが全然違うよ。」
「さて、最後はセンセイの進路でも聞いてホームルームの締めくくりだね。」
「松頭さんには、研究所が閉鎖されるって、知らせてあげたんでしょ?」
「それが・・、連絡取れないの。」恵美さんは彼のことについてあまり触れたくないようでした。
彼女と、松頭さんとの間に何があったんでしょう。でも、恵美さんは松頭さんの”彼女”と私は思い続けてきました。
「デハ、恵美さんは?これからどうするんですか?」
「わたし、勤務先の松戸の中学のそばのアパートに越す事にしました。」
「ウン、それは前に聞いたけど・・。」
「未だ引越しは半分ですけど、子供達がいたずらするんですよ・・。」
「どんな?」
「窓に小石をぶつけて逃げるんですよ。」
「それで、窓を開けて何時もの地声で、コォ・リャァ〜!!、ってやりましたか?」
「幸三郎さん!、あなたの部屋には、もう一人寝る場所はありませんか?!」
「エッ!、ォィよっ君!!、お前のセンセイがご酩酊だ!。オツレモウセー!・・・ヒック!」・・・(続く)




(連載No.64)
東京・銀座には画廊と名の付くお店は大小合せて当時200軒以上は存在していました。
どこの画廊も普段から覗き回りはしていましたから、概ね私の個展を開くのにふさわしい画廊と言うのはある程度の的は絞っていました。
値段もピンからキリまで画商の経営する画廊や、純粋に場所の提供のみ、といった按配で千差万別です。
比較的値段が安く、広い壁面の提供が期待でき、しかも「画廊めぐり」のルートから離れていないところが好ましいわけです。
値段が安く・・と言うことは若い作家希望者には絶対な必要条件です。中の多くはその展示品が売れた場合、2割のリベートを要求するのが普通です。
私のように比較的大きな作品を描く場合、当然鑑賞するスペースも広いことが望まれます。

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そして、画廊めぐりのルートと言うのは近くに著名な作家の展覧会場があり、多くの方がそれを目当てに訪れる。
もし、その出口付近に私のような名も無い作家の展覧会場があればついでに覗いて見て行ってやろうか・・。と言うことにもなるわけです。
そんな条件のよい場所と言うのは、銀座中央通りを挟んで裏道2本まで、日本橋から京橋までの間に2軒ほどしかありません。
私は先ず最初、一番条件の良い「竹川画廊」の扉を開けました。
画廊の予約は、人気があればある画廊ほど「空き」が無く、希望の期間を確保する為に1年待ちはザラなことです。
さて、銀座6丁目と7丁目の中間、中央通の1本裏通り、資生堂本社の斜向かいです。通りに面した1〜2階はガラス張り。こんなスペースが空いているわけがありません。
「ゴメン・ください・・」
私は、画廊に伺う時、こんな挨拶をした事がありません。何時も「ヌッ!」と入って、むしろ受付嬢が軽い会釈で招き入れてくれます。
しかし、今回はこの会場の展示作品を鑑賞しに来たわけでは在りません。ですから、こんな挨拶になってしまいました。
画廊の受付嬢は殆んどアルバイトの方が多く、ここも例外ではなく美術学校の生徒さんが夕方から階段下の受付に陣取っています。
そんな事情まで承知の上で私は、同じ画学生のよしみで相談に乗ってもらえるものと踏んでいました。
「・・・お待ちください、スケジュール表を確認しますので。」
「今年一杯は、すべて埋められているようですが・・・ここ、この6日間の予定の方に斜線と?マークが・・」
私も思わずスケジュール表を覗き込みます。どうやら、キャンセルを検討しているような雰囲気の記録です。
「この方は毎年この時期に、昨年の内に申し込みをされている方なんですが・・・」
「ちょっと、オーナーに確認を取らないと・・私では判断が付きかねます。電話で確認をおとりします。」
受付嬢は話も終わらない内から目線を私に向け微笑んでいます。「了解しました。デハそのようにお伝えします。」
私は、気持ちの高鳴るのを抑え、彼女からの伝言を待ちます。
「やはり、キャンセルされたそうです。」「オーナーには画学生さんと伝えたところ、先の方からキャンセル料を戴いているのでその分、安くさせますって。」
「有難い!、どうも有難う!!。」
これだけ人気のある画廊です。画廊にとっても直前のキャンセルは大きな痛手です。ですから半年未満のキャンセル料は五割、二ヶ月未満は全額支払いです。
受付嬢から予約のキャンセルについての説明を受けます。12月12日から17日まで、あと5ヵ月余りです。

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目の前のモヤモヤが一気に散る思いがしました。そして、扉を開けて飛び出そうとする自分を抑えました。
今日のこの会場の作家さんにも会釈をし、改めて作品を鑑賞させてもらうことにしました。
私より年配のご様子、しかも少しお体がご不自由、見るからに絵を描くことに生涯を捧げていると言った風貌がヒシヒシと伝わってきます。
シッカリした筆使い、確かな構図、「ああ、もう少し明るい色使いが・・」それはこの方の生き様なのでしょう。
背中に、彼の鋭い視線を感じながらオープン階段を二階フロアーに上ります。「ああ、なんと言うフロアーの演出でしょう・・。」
まるで下に展示した絵をすべて覆すかのような伸びやかな線と色彩、その重なる面の隙間からしっかりしたデッサン力が感じ取れるのです。
「こんな演出の仕方も出来るんだ・・」
この一階と二階、この個展の作家の力量を余すことなく披瀝させています。しかも、驚いた観覧者は皆申し合わせたように階段の踊り場に一度戻って、 改めて一階フロアーを見渡した後、また階上のフロアーで思いにふけります。
「私もこんな個展をしたい!」残された時間は確かに厳しい。
改めて一連の作品を見直してみると、この作家の画風は今こうして見ていると、以前にもこの会場で見た記憶が沸き起こりました。
そうか、初めての個展でこれほどの演出を設える事が出来るものか。きっと彼にも最初は戸惑い、すがりつきたい気持ちを乗り越えてきたんだろう。
自問自答しながらしばしボンヤリしていると、作家が階段の手摺りに掴まりながら上がってきました。
わたしは、うろたえる気持ちを悟られないように、「いや、ありがとうございました。あまりにも感嘆して、身動きが出来ませんでした・・。」
「そうでしたか恥ずかしい限りです、ありがとうございます。」その言葉には何か自信のようなものさえ感じられるのでした。
階下に降り、几帳をします。「幸三郎さん、12月には今度はあなたの作品を見せてください。」
竹川画廊を後にして銀座の表通りに出ました。
大きな間口で画商の経営する「よろい画廊」の正面ウインドウ、有名な大家の作品が外からも見えます。
明るい歩道の光を背に、私の影がガラス戸に映ります。「・・何年かして、私の絵が海老原喜之助の横に掲げられる・・」・・・(続く)




(連載No.65)
今年の夏は例年になく暑く感じられます。しかし、気持ちの内から発する熱が快く感じられるのです。
充実感、とでも言う奴なんでしょうか。裸でキャンバスに向かって制作する胸の辺りをムズムズと汗が伝わって落ちます。
アトリエの窓は全部開け放たれていますが空気が風となって移動する気配がありません。
個展のための制作は先週、一点の完成を見て今、二作目に取り掛かったばかりです。

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このペースは私としては上々ではないでしょうか。つまり、このまま進めば20週で20点の作品が完成するはずです。
それは目標とする15作品を上回るからです。しかも、その中から選別する事も可能な状況になるわけであります。
まだ、そんな事を考える余裕はないはずですがこの先、どんなアクシデントが待ち受けているかもしれません。
今のところは描き溜めた多くのデッサンの中から「早く作品として完成させたい」というモチーフから取り掛かっています。
進捗状況のもどかしさ、それは強いて思えば梅雨明け以来湿度が高く、油絵の具の乾きが遅い、気ばかりあせるが中々作業が進まないと言った状況でしょうか。
気持ち的には絵の具の乾くのを待つことなく次の作品に手を掛けたい、そしてその次作の絵の具の乾きを待つ間に前作にまた手をつける。
そこまで気持ちが乗ってくれば同時進行ですから、ひと月4週間で4作品を同時に完成させる・・・ことも不可能ではありません。
むしろそこまで精神を集中させる事が出来れば、純粋にそのモチーフを追い求め完成させる事は難しくないと考えていました。
人間は訓練する事により、一度に7人もの人の話を聞き分けられると言うではありませんか。
それ程の偉人でなくとも少なくとも自分の養ったテーマに対するモチーフです、やって出来ない事はないはずだとの思いも強まります。
いつしかアトリエの中は3枚のキャンバスが立て掛けられました。50号、60号、100号、場所的にこの辺が限界のようです。
絵の制作は時間の際限がありません。夜中の11時頃、「今日はこの辺で一休み・・」と言う日もあります。
しかし、時間が何時までかかっても「どうしても思いの表現が今ひとつ出し切れて居ない・・」と感じると、とことん詰めて見たい気もします。
むしろどちらかと言うと後者の方が圧倒的に多いわけです。
私は勤めを持っています。会社でまともに仕事をする為には少なくとも、5時間の睡眠時間は欲しいものです。
幸いにも、私は8年間、夜間の美術研究所通いの内で既に時間を打ち切らせる術を備えていました。
いくら熱中していても研究所には門限があり道具を片つけて帰らなくてはなりません。毎日、片つけて門限までに退場するには何時止めなければ・・。
わたしは時折、そんなことなどどうでも善いような事を思い出しては時間を費やします。
それは決まって制作の進捗がママならない時、天からの声が聞こえるのです。しかもハッキリと「・・幸三郎、そんな場合ではないんだろう?・・」
あえてそんな制止を無視して、想いに導かれるように入り込んでいきます。
寛永寺坂美術研究所の今は亡き神谷先生です。先生は何時もそうでした。私たちが”もっと”と願うことはすべて否定されました。
私たち研究生が望む・・早く、・・沢山の、・・究極の、と言う希望はすべて受け入れてはくれませんでした。
この門限にしても神谷先生にしてみれば、恐らく断腸の思い、心を鬼にして決断し、実行させてきたのではないでしょうか。
若い研究生の殆んどは、昼間みな仕事をしています。仕事の内容もまちまち、炎天下肉体労働をしている人も、工場で汗を流している人もいます。

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少なくとも彼らに夜間、自由に時間を使わせる事をすればキット幾人かは取り返しもつかないほどの病に陥り、二度と還らない者になってしまう。
それでなくとも、私たちはたとえ短い人生であったとしても、充実した数年間があれば生まれて来た甲斐があった、と思えるほどの幸福感に浸っていれたのです。
神谷先生にはそれも、これも充分に判っているのです。判っているからこそ血気はやる私たちの出鼻をくじくのです。
先生には、幾人もの教え子達が戦場に駆り出されるのを見送らざるを得なかった無念さを、次の時代の若者達に捧げたいとの気持ちがありました。
また戦争の無い時代であっても、芸術家を目指す多くの若者が病に犯され、その才能の結実を見なくして還らぬ人となる例もよく見ています。
若いうちにこそ純粋な血を存分に燃やし清い汗とし、新しい感覚を世に問うて見なさい。そのことがあなたの産まれて来た価値なんですよ。
しかし、そこで燃え尽きてしまったら、あなたの感性がたとえ世に評価されたとしてもそれは可能性は残したかもしれませんが単なる「点」に過ぎません。
それは、80年以上も人間をやってきた神谷先生の親心として受け入れるべきか?。
いや、いや、すっかりもうろくして人生におけるメリハリも覇気もなくなった老人の戯言に過ぎないんだ。とも考えられます。
私は未だ26歳、でも神谷先生のおっしゃる言葉はよく理解できます。しかし、私は神谷先生の歳まで長生きできるとはとても思えません。
実は、健康面において多少の不安が無いわけではありません。毎日、襲ってくる腹部の激痛を緑色の粉薬を飲んでは抑えています。
医務の先生からはその都度、精密検査を進められます。判定は何時も同じです、十二指腸潰瘍並びに胃潰瘍の疑いがある。
暴飲暴食、刺激のあるもの、油の多いものなどの食事を控え、気持ちを落ち着かせ、ストレスを貯めず規則正しい生活を心がけてください。
お医者さんは私につまり何もせずボーっとして過ごしなさい、と進めるのです。
人生には波があり、才能を伸ばすにはその”時”を上手くとらえた方が効率的でしょう。私はその”時”は今なんだって強く信じているのです。
そうこうしている内に夜分、空腹を感じると共に脇腹から溝落ちにかけて、いつもの訪問者が訪れるのです。
始めはシクシク・・と、そのうちにジーン・・としてきます。何時もの事なので暫らくは無視していますと、しまいには頭の芯にある「痛み」の紐を強く引っ張るのです。
私はたまらず、茶碗に酒を注ぎその訪問者のためにそれを胃袋に流し込んでやるのです。
素人療法というか訪問者のご機嫌が直ったようで「痛み」の紐を強く引くのは止めてくれます。
痛みが頭の芯から退いていく・・と同時にその安心感から今度は睡魔が襲ってきます。
私は、その睡魔というお客さんのために、もう一杯の茶碗酒を振舞ってやら無くてはなりません。しかもお客さんのくせに「どうだ!、お前もやれよ!!」と。
人は多くの望みがあり、私には絵を描く場所が欲しい。これは叶いました。絵を描く時間が欲しい。これも努力次第で最小限は叶いました。

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あとは何がほしい!!?。「ここ、この辺にある腐った胃袋をえぐり取りたい!!」・・・(続く)




(連載No.66)
体の異常に気が付いたのは確か昨年の夏の終わり頃でした。たしか暑い夏が終わって秋風が吹き始めると同時くらいでした。
厳しい夏を乗り越えた安堵感もあったでしょう、本来なら心地よい乾いた風に気分爽快を満喫するはずですが大変不調でした。
お腹がシクシクと痛むのです。はじめは何か悪いものでも食べてしまったのかな・・くらいに思っていました。
しかし、一週間しても一ヶ月経ってもよくなる気配はありません。むしろ時々ひどい痛みも伴ってしばらくジッと収まるのを待つ事もしばしばありました。
それは会社で仕事をしていてもおなじです。職場の先輩も「幸三郎、ダイジョウブか?」。私は机に伏したまま「ハイ、」と頼りない返事をするのが精一杯でした。
しばらくして少し痛みが遠のいたのを見計らって、会社の守衛所脇にある診療所に駆け込みました。
ここは何時も先生は居ませんがかなり年配の看護婦さんが常駐していてくれました。
今でこそ正直に申します。看護婦の吉永(仮名)さん、こんなにも酷く醜い顔立ちで良く堂々としていられるものだ・・、本人もですが旦那さんも可愛そう過ぎる、と、本当に 思っていました。(ゴメンナサイ)
最初、薬を貰うや否や逃げ出すようにすぐさま職場に帰ってきたものでした。
そして、その与えられた緑色の粉末の薬は苦く不味くしかも、あの看護婦の吉永さんの面影とダブって中々飲み込むことが出来ません。目をつむってやっと飲み込んだものでした。
極楽浄土・・既に私にはその世界が見えたのです。薬がのどを通るときスッキリとした清涼感の跡に穏やかな痛みのない平穏な世界に入ることが出来たのです。
一週間分の薬は終わります。
「幸三郎さん!、もう一ヶ月近くにもなるのに、どうしていたんですか?!」いきなりあの顔で、私を叱り付けるのです。
それはとても恐ろしい事でした。上司や先輩でもなく、しかも吉永さんから見ればお客さんである私をです。
「言われたように、毎食後飲みなさい!」つまり食事の後必ず吉永さん、あんたの面影を思い出せって言うわけですか?
まあ、そんな状況が2〜3ヶ月続いたでしょうか、いつしか症状も落ち着きしばらく平穏な日々をすごしておりました。
光陰矢のごとし、また秋風が吹く本来なら快適なシーズン、つまり今年の秋口、しかも一番頑張りたいこの時期にそのお客さんはマタマタ登場するのでした。

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一年の間に腹痛のパターンが見えてきました。空腹のときに起き易い、多少の痛みのときは酒を呑んでも治る。激痛のときは我慢するしかない。そうなる前に酒を呑めば緩和される。
そうです、あっ!、またあの腹痛の季節がやって来たんだ・・・と言うのが実感でした。
案の定、会社で午前中の仕事をしていました。夕べの制作中に起きた腹痛は前触れだったんでしょう。
10時過ぎ、その激痛は始まりました。しばらく我慢の後医務室に電話します。「吉永さん・・ですね?」
「あら、幸三郎さん、しばらくね!、」味も素っ気もない応答です。
「また腹が痛くてどうしようもないんですが・・。」
「ハイ、幸三郎さん、またお薬を出しておきますからきちんと呑むんですよ!。」
「はい!!、それはもう良く判って居ますので・・」私はもう、痛みさえ治まればどうでも善い。苦みばしった看護婦の吉永さんに笑顔で挨拶できるほどまでにオトナになっていました。
一旦症状が出始めると2〜3ヶ月は続きます。私はそのたびに吉永さんに助けを求めます。
吉永さんは、大変心配な様子を見せます。「幸三郎さん、一度、レントゲンを見てもらいましょうヨ。」私はそのたびに「エエ、もう少し様子を見て・・」
時々、薬を飲んでも何の効果もないことがあります。机の中には3日前にもらったばかりの薬包紙入りの薬がまだ沢山入っています。
「まあ、薬が効かないって?、ダメヨ!!、一回分以上飲んでも痛みは治まりません!。」
「でも、もう3包も一緒に飲んでしまいましたが・・」
「幸三郎さん!、それは痛み止めの薬ではないんですから・・。」
「口の中一杯がもう緑色で気持ち悪いんですが・・」
「お薬の色のせいです。口の中をよく、水でクチュクチュすれば消えますから。」
休日の前です。「医務室から電話だよ。」同僚から電話を取り次いでもらいます。吉永さんからでした。
「幸三郎さん、どうですか?もう、お薬が終わるんじゃないですか?」「・・あっ、そうだ終わりそうです。」「夕方までに取りに来てくださいね。」
めっきり日が短くなって工場の建物の外はもう薄暗くなっていました。守衛所の隣の医務室は温かみのある明かりがすでに灯っています。
「吉永さん、助かりました。ありがとうございます。」「いえ、具合の方はどうかナ?って思ったら幸三郎さん、連休中にお薬が無くなるんじゃないかなって。」
「吉永さんって、本当は優しい人なんですね・・。」
「なにをバカなことを言うんですか。」「幸三郎さんには彼女という人はいるんですか?」

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「エッ?!、彼女っ?」
「そうね、幸三郎さん、あんたの体のことを心配してくれる人だとか、あんたが気に掛けて居る人のことヨ。」
「そんなの・・そう言われれば、居るような気もするし、別に気にもしなかったし・・。」
「しいていえば・・、吉永さん・・とか?」
「まあ、このボウヤったら!。何を言い出すかと思ったら!。」吉永さんの顔がパッと明るくなるのが判りました。本当に嬉しそうな顔でした。
「私だって幸三郎さんのような可愛い子が旦那だったら素敵だなって思うこともありますよ。」
と、まあとてつもなくオトナの会話も出来ているようでいて実は私、本心でした。
あの、人を捕って食おうかとも思われた看護婦の吉永さんですが、こうして打ち解けてくると決して悪い人ではありません。
そして、職務ではありますが、私の体のことも気遣ってくれる。大げさに言えば地獄で女神に出会った気持ちでしょうか。
吉永さんの旦那さんって、幸せな人なんだなーと漠然と思えるようになってきました。
「今日の夕飯は何を作るんですか?」「エッ!、突然そんなこと聞かれても未だ考えていませんよ。」
「なんで、そんなこと急に聞くんですか?」
「イエ、旦那さんはどんなものをおかずに晩酌するのかな・・?って思たものですから。」
「うちの旦那はお酒なんか呑みません!」「エッ!、きらいなんですか?」「イイエッ!!」と私から目をそらします。
やっぱり、吉永さんの旦那さんは不幸な人なんだろうか?。呑みたいお酒も飲ましてもらえないのかしら・・。
あっ、原稿用紙も残りが少なくなりました。たまには会社にいたときのことも書こうと思いましたが吉永さんの事で一杯になってしまいました。
そんな事もありながら帰宅後はせっせと個展のための制作に励んでいる事には変わりはありません。
人を見た目だけで判断してしまってはお互いが不幸です。そうかといって多くの出会いをそう簡単に作り出すのも難しい事です。
でも、人とのきっかけって思わぬところに転がっているような気がしてなりません・・・(続く)




(連載No.67)
個展の為の作品はすでに8点ほど出来上がりました。目標とする点数の半分を過ぎたところでなんとなくこのペースを守れば目途がつく確信を持ちました。
わき目も振らず一心不乱の時には先々のことも考えずにがむしゃらに描き続けていました。しかし、余裕ではありませんがふと振り返った時に気残りすることがあるのです。
それは、春から制作していた「浜辺の裸婦」が途中で投げ出しにされて筆が止まったままになっていたことでした。

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こうして順調に次々と作品が生まれてくる中で、あれだけが置いてけぼりとなっているのです。
別に個展のために描き始めた作品ではありませんでした。あの時はそろそろ研究所もやめて一人でみっちり作品に取り掛かろうかな・・と言う動機で描き始めたのです。
先生の急逝、研究所の閉鎖、いろんなことが重なりしかも気分的に描き進む気が失われてしまったと言うのがホンネです。
画面の大きさは畳み約4畳半ほどですが2枚のキャンバスを繋げて1枚にしている為、部屋の中には収まっています。しかし其の半分の1枚にしてもかなりの大きさです。
個展に出品する作品は50号、30号が主体です。描きかけの作品は500号、半分でも250号ですから制作中の作品の向こう側に何時も見えている状況なのです。
横たわった裸婦像の視線が縦置きのため、描きかけのキャンバスの上から覗き下ろしているような気がしてどうも落ち着かないのです。
「幸三郎さん、私をこのまま描き掛けにしたままで何時までほって置くのでしょう・・」実に執念深い女を描き始めてしまったもんだ。
この一月以上、その絵は裏返しにしておきましたが遂に決心しました。よし、この500号の絵を完成させてやろうじゃないか・・。
気晴らしをかねて久しぶりに銀座へ足を運びました。勿論、目指すは個展会場となる「竹川画廊」なのです。
資生堂本社のある落ち着いた裏通り、竹川画廊は間口全面がガラス張りのため少し照明の落ちた通りからは明るい室内が丸見えになる設計です。
うーん、実に感じがいい。私はそのまま画廊を通り過ぎながらじぶんの作品を外から見える壁面に展示を想像してみます。
暫らく行き過ぎてからまた戻って、反対から歩いて見ると・・「ヨシ!、この壁面にあの描きかけの絵を完成させて展示してみたい・・」やっと現実味を帯びてきました。
竹川画廊のドアを開けると今回の個展主催者の姿は見えません、出かけているのでしょう。美術学生アルバイトの受付嬢がにこやかに迎えてくれます。「お久しぶりです!」
「少しおやつれになったような気がしますが・・お具合でも?」「え!!?」そんな2〜3ヶ月の間にそんな事を言われるほどとは思いもしないことでした。
「少し胃腸の調子が良くないんですよ、でも体重は余り変わっていませんから・・」
「あっ!、すみません、余計なことを言ってしまって、チョット目のしたあたりに隈が・・」と自分の目の下を指で触れる仕草をします。
「あ、は、僕もいい大人ですから、子供の時のような顔も卒業したってわけですよ。」
「まあ、あまりご無理なさいませんようにしてくださいね。」
「ところで、ここの展覧会のあるじは?」
「今日はお休みです。一日おきには出てきますけれど、御用も有りそうなので・・」

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「そうですか実は今日は、壁面の寸法を確認したくて来たわけなんですよ、展示中なのに失礼かなと思って居ましたが。」
「計るくらいは別に問題は無いと思いますが・・、今ですと丁度お客さまもいらっしゃらないようですし、どうぞ。」
「ではこの紐・・・、結び目が縦位置、おしまいが横位置の絵の大きさなんですが収まるでしょうか?」
「すごく大きな作品そうですね!。」「じゃ、私が端を持っていますから、幸三郎さんがそちらで確認してください。」
「うん、横幅は大丈夫だぞ・・、縦は、ヨシヨシ床に直接置けば収まるじゃないですか!。」
「でも、幸三郎さん、入り口がどうでしょう?」「大丈夫!、キャンバス2枚つなぎだから別々に搬入すれば何とかなりそうです。ヨカッター」
「本当にこんなに大きな絵なんでしょうか?」
「ええ、でも展示できるかどうかが心配だったものですから、だめなら諦めようかと思ってたんですよ・・苦労の種がまた一つ増えちゃった感じですね。」
「それは、楽しみですわ!。」
「あぁ、そうですか展示できる可能性がある、と言うくらいにしておきましょう。」
「それで先ほどの続きですが、この絵を展示している作家さんって、すこし神経質っぽい感じの方ではないですか?」
「私からそんなことは申し上げられません、・・・でも随分と展示では細かなことにまでお気を付かれるようです。」
「そうですか、この絵なんか僕が見てもここまで描かないと気がすまないの?って思ってしまうんですが、キッチリした方なんだろうなって。」
「ハイ、そう言われればこの絵の展示の時ですけど構図の関係でこのまま真っ直ぐに展示すると傾いて見える感じがするんですよ。」
「なるほど。」
「それで、少しこう傾けて展示するとなんとなく真っ直ぐに展示したように見えるんですよ。」
「もっともですね。」
「でも、この方は床下から両方の絵の端の高さを測って距離を同じにしてホラ、虫ピンで固定されました。」
「それは面白い人だ、でもそれにしてはこうして離れて見ると曲がった感じは受けないけどねぇ。」
「このカーテンの紐、これもピンで留めてあるんですよ。動かすな!って。」
「わかった!!、このカーテン紐の傾斜が絵の傾いて見えるのを防いで見えるんだ!。アー、病気になりそーだよ。」
「その方、なんでも病院から通っているようですよ。」
「エッ!、この展覧会を開いているのはお医者さんですか?」
「そうでは有りません、ご病気で観て貰ってるようです。ですから一日おきに病院を抜け出してお見えになっています。」
「うわっ!それはきつい話だね・・じゃなくても大変すぎるよ。」

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暫らくすると画廊には来訪者がありました。わたしはそれを機に長居したことを詫びて席を立ちました。
彼女は出口で「幸三郎さん、余り無理なさらないように・・」と気遣って送り出してくれます。
宵の口の銀座裏通り、既に薄暗くなりましたが人通りはあります。ここを歩いている人達の多くは皆まだ仕事の最中で忙しそうです。
私は折角出てきた銀座です、一つ表の中央通りに足を向け明るいきらびやかな街を歩きます。驚いたことに通り一つ違っただけで道行く人の気配が全然違うのです。
銀座7丁目にある老舗の画廊、よろいや画廊のショーウィンドーの前に立ちます。「天才の放浪画家・山上画伯の新作、パリ風景・・」力強いマチエールに勇気と力を頂きます。
「よし!、また明日からバリバリと制作に励むぞ」・・・(続く)




(連載No.68)
秋も深まって来ると日の暮れるのが早くなります。会社を終えて帰宅する頃にはもうすっかりアトリエのある下宿は闇の中です。
個展準備の為の作品も進んでいます。今日も仕事を終えると、まっしぐらに帰宅の準備をします。同僚から夜遊びの誘いも随分と掛かります。私は健康の為にはじめた 昼休みの卓球以外、殆んど全くそう言った付き合いに顔を出すことはしませんでした。
足立区の荒川土手バス停から東京駅北口行きのバスはだいたい何時も座ることが出来ました。一日の仕事を終えた安堵感、昼休みのスポーツの心地よい疲れ、社内にあるお風呂上り、 それに社内食堂の夕飯も済ませています。そんな訳でバスに乗ると決まって直ぐに眠り込んでしまいます。
北区を縦断したバスが田端駅に到着すると、何時ものことで大勢の乗客の乗り降りがあります。私はその雰囲気で決まって目を覚まします。後4つ目が私の降りるバス停なのです。
にぎやかな街の中と言うのは上野公園から続く不忍通りまで、ここからバスは動坂を登って文京区に入ります。坂の上が駒込病院前、途端に通りは暗いバス通りに変わってしまいます。
その先の暗闇の中に、店明かりだけで照らされたバス停、「駒込林町」です。バス停の真ん前は雑貨用品店と呑み屋さん風おにぎり「ほてい」が軒を並べて客待ちします。
バス停から真っ暗な路地を鍵の手に進むと、以前棲んでいた下宿屋、その50m先が我が家のアトリエです。石塀に囲まれた屋敷の中の植木、北風が吹くとオバケ屋敷 そのものです。
外から見ると手入れの行き届かない大木、その木陰からアトリエに明かりのついているのが見えます。「また、未亡人の奥さんが消し忘れたんだ!。」
二階のベランダ>へはアトリエを通らないと物干しが出来ません。きっとそれを取り込んだ後、電気を消し忘れたようです。
かなりくたびれたとは言え立派なたたずまいの重い玄関ドアを開けます。オヤ?、見慣れないハイヒールが揃えてあります。「ただいまー」

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「お帰りなさい。幸三郎さん、お客さまですよ!、アトリエの方でお待ち戴いていますから・・。」
「あ、どうも済みませんでした。」私はお礼を言ったものの未亡人の鋭い気配を扉越しに何か感じるのです。
「・・・?、恵美さんかな??、イヤ、彼女は電話もせずにいきなり訪ねて来たりなんかしないよ。ジャ、誰なんだ!!?」
私は階段を上がると、アトリエではなく反対の廊下にある畳の部屋に手荷物を下ろします。ひとつ大きくため息をし、「さて、どうしたものか・・?」
取りあえず湯沸しポットを小脇に抱え、不揃いの湯飲み茶碗を二つ鷲掴みにしてアトリエのドアの前で咳払いします。
部屋の中から外の様子が手に取るように判るのか「フッフフ・・・」と、含み笑いの声も聞こえます。中学教師の「・・恵美さん、では無いようだ・・?。」
突然にアトリエの中から「幸三郎さん!、突然にお伺いしてしまいました。ゴメンナサイ。」
わたしはノブを廻してドアを足で押し広げると、視線を「ドッチだ?」。其処には戯っぽそうにキャンバスに顔半分を隠して笑いながら立っている女が居ました。
「あれ!?、えーっと、やえ・・?」
「八重洲!、八重洲まさみです。」「アッ、そ、そうでした、八重洲さんでした、ゴメン。でも、どうしてここが・・?」
「そんなこと、私が知ろうと思ったことは何でも判っちゃうの!」
「おや、おや、そうですか。でも研究所でここの場所を知っているのは恵美さんくらいしか居なかったはずですよ?」
「恵美さんに聞いたんでは有りません!。」「だいいち、どうして私がここに来たか知りたくありませんか?」
わたしはタジタジ・・ってこう言うことか?「とにかく、今お茶でも入れますから・・」
「私がお入れしますから、幸三郎さんは絵の続きでも描いていて下さい。」あっけにとられる私からポットを取り上げて部屋を出ていきます。
「なんでこーなるの?。」・・・何か私が悪いことでもしたんだろうか・・・?。・・・デモ、彼女は怒っている風では無さそうだし・・・・。
「あっ、コンセントはそこの隅にありますが・・」
「判っています。ですから幸三郎さんは絵を描いていて下さい。」
「でも、そんな事いわれても絵なんか描けるわけが無いでしょう。」
「そう言う事なんて無いでしょう?。研究所でだって、私が話しかけても余り乗ってくれないし、平気で絵を描いていたんじゃないですか?」
「・・それは、そんな事言われても・・、あそこは研究所ですし、別に八重洲さんの事、無視していたなんて事ありませんよ・・。」
「あら、わたしだって無視されたなんて思っていませんでしたよ。」「ただ、もう少し相手をしてくれても良かったんじゃないって、少し寂しかったの・・・。」
「さっきも、私の名前、直ぐに思い出せなかったでしょう?。私の事、余り呼んでくれないからよ。幸三郎さんから私に話しかけてくれたことって何回かありました?!」

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「ハイ、判りました。八重洲さん、八重洲さん、八重洲さん・・・、これで直ぐ出るようになりますから。」
「今更、八重洲なんて・・・・。ネェ、雅美って呼んでみてくれない?」
「ィヤダよ!!、」
「まさみサン、お湯、沸いているよ。」
「エ!、そうかー、”まさみさん”で我慢すっか!。これからずーっと、そう呼んでよね!」
「ところで幸三郎さん、ひどいんじゃないですか?、私はずーっと幸三郎さんのお友達だと思っていたのに。」
「いや、僕だってヤエ・・、まさみ・さんの事はステキなお友達だと思っていましたよ、いまでもそう思っていますが?。」
「ジャ、どうして引っ越ししたことも、個展を計画していることも話してくれなかったの?。どーして、恵美さんにだけ話して私には・・・・」
「だいたい幸三郎さんって、女の人の気持ちって考えたことあります?」
「・・・・気持ち?、それは・・・、まあ親切にして上げたり・・トカ、乱暴をしてはいけない・・とか?」
「もう、いいです!!。私がこれからテッテイテキに教育してあげますから!。」
「ハイ、よろしくお願いいたします。・・・ところで、まさみさんって、どちらにお住まいですか?」
「それよ、だいたい今頃になって、そんな事を尋ねるってこと自体が幸三郎さんの鈍感らしいってところよ、ネ?」
「私は市川よ、千葉県の市川市です。」
「ゲ!、」・・・俺って、松戸だの、市川だのってよくまあ千葉県の人に縁があるなー・・、恵美さんは松戸市、そう言えば陶芸を教わったのも市川の美術研究所だ・・・・。
「幸三郎さん、以前にわたしの職場に遊びに来てくれたこと有りましたよね。」
「ウン、行った、いった!。済まなかったね。仕事中なのに。」「もう思い出したくないんだよ。」
「いいえ、私は少しハズカシかったけれど、本当は嬉しかったの。」
「いや、いや、ゴメン。あの時はね、”よっ君”と上野で呑んでサ、よっ君が面白いもの見せてあげるよ・・って、12番線のホームに行ったんだ。」
「北口の鉄道弘済会売店でたばこ買ってきてよ、って言われて・・・、あれ以来よっ君をボコボコにやっつけて俺の家来にさせたんだ。」
(鉄道弘済会・駅売店=現在の Kiosk のことです)
「あら、じゃ私はよっ君に御礼でもしなくちゃいけないんだわ、お蔭でこうして幸三郎さんと親しくなれたんだから。」
「おまけに俺、かなり酔っ払ってたし・・何言ったか思い出せないし、思い出したくないんだ。勘弁してよ。」
「意外とちゃんとしていましたよ。あそこのホームのお客さんの中では好感の持てる部類でも上ランクよ。」

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「そんなこと言ったら、常磐線のお客さんに失礼だよ。」
「まさみさん、今日は尋ねてきてくれてありがとう。バス停まで送ります。」
「わたしこそ、突然にお仕事の邪魔しに来てしまって済みませんでした。一度は気持ちを伝えたかったものですから・・・。」
「バス停の前に”ほてい”って言うおにぎりやさんが有りますから、時間が有ったらお酒でも呑んでいきましょう?。」
「ええ!、嬉しいわ。幸三郎さんって、女の人の気持ちが少しは判るようになってきたようね。」
「え?!」・・・(続く)




(連載No.69)
朝から空は澄み渡っています。近くの杜に住むモズでしょうか、アトリエのある庭木の小高い梢に翔び移って、甲高い声で縄張りを主張しています。
絵を描いている私とはガラス窓越しに4〜5mしか離れていません。動けば私に気付いたモズはすぐに翔び去ってしまいそうです。
モズはほとんど警戒することなく、盛んに胸ぐらあたりに嘴を潜らせて身づくろいをしています。時折自分の激しさにビクッとした仕草はしますがお構い無しです。
私の不自然な動作に、一生懸命木版画を彫っていた八重洲雅美はその手を休めて私に話しかけようとします。
「シ!、」私の低い制止の合図は彼女ではなく、モズに伝わってしまいました。「鳥って、テレパシーみたいな感覚があるのかなー。」
「ごめんネ〜」彼女はまだ微かな揺れの残る小枝を目にして、やっと何事があったのか理解したようでした。
「いや、まさみさんのせいではないよ。それに、俺もジッとしているのがそろそろ限界に達していたんだ。ホント、助かったよ。」
上野駅12番線、常磐線ホームの売店に勤務している彼女は早番開けに時々私のアトリエに遊びに来るようになりました。
今朝は3時半起床、4時半の一番電車に乗って出勤し、5時から鉄道弘済会の売店を開けてラッシュアワー明けの9時までの4時間勤務だったそうです。
そんな時間割のあることをこのあいだ聞いた時、「この女の人はものすごく強い人なんだ・・」と思ったものでした。
それは、いつもの勤務がそうではなく、日中の時もあれば、いつか私が騙されて行った時のように酔っ払い相手の終電までの時もあるのです。
朝の勤務時間は短いのですが、その過酷な仕事は私にはとても真似が出来ないことです。ガムやタバコ、新聞雑誌など名前と、置いてある場所、値段までが頭の中に入っているのです。
そして尊敬さえしてしまうのは、発車のベルが鳴り急かせるお客さんに品物を渡し、お金を受け取って、お釣りを暗算で計算して返すのです。
「もうこんな仕事は6〜7年もやっているから馴れっこになっちゃってるのよ。」と彼女は平気な様子です。

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「岡山弁の雅美さん」


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「・・6〜7年・・?、・・・とすると、今、何歳なんだろう?・・・」
「なにか、聞きました?」
「イエ!、なにも・・」
「たまにこうして幸三郎さんのアトリエに遊びに来て、ボケーっと見ているだけでは詰らないから今度、私も何か始めてみるネ。」
それで、前回から持ち込んできたのが版画でした。
「わたしネ、毎年、年賀状は版画を彫ってお出ししているのよ。今度、幸三郎さんのところにも出してあげるからネ。」
「それは嬉しいね、でも、俺なんか忙しくって年賀状なんか書く暇もないし・・・第一、・・・」
「いいの、とにかく今は個展の作品を一生懸命描いていてくれれば、返事なんかいりませんから・・。」
モズの飛び去ったのを機会に、急にお互い我に帰ったように顔を見合わせます。
「まさみさん、腹へったね?」
「私なんか4時に朝飯食べたっきり、もう気が遠くなりそうなのよ。」
「パンならあるよ、それにお湯を沸かせば粉ミルクかコンソメスープ、どっちか・・・、両方にするか?」
彼女はいきなり陽気そうなふりをして、手提げ袋を手繰り寄せます。
「♪、ジャ、ジャジャ〜ン、幸三郎さん、ほら、おにぎりデスヨ〜。」
「おゥ、すっげー、うっまそうー、でっけー。」
「そうでしょう、今朝ネ、ごはんを2合も焚いて、朝飯の残りを全部、それで二つ握ったの。」
「それでこんなに大きくなってしまったんだ・・。」
「・・・、ちょっと、事情があるの・・・。”絵描きは眼がいのち”って言うでしょう?眼は大切だからビタミン強化の特製おにぎりよ。」
「こ、この、橙いろに滲んでる奴かい?」
「わたしネ、この時期毎年かぼちゃを良く煮るの。とっても栄養があるから幸三郎さんにもって、ネ。」
「それでこんな爆弾みたいなおにぎりになったんだ。冷静に眺めると、とてもゲイジュツカ志向の女性の作品とは思えないなー。」
「アラ、こんなにつぶれてしまう前にはホント、あのボッチェリーのビーナスの豊かな胸も”見劣り”って感じでしたよ。」
「嗚呼、美しいものはいづれ滅びる・・か。」
「いえ!、生まれ変わるのよ!。」
「だれに?」

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「こら!、幸三郎、わたしの顔なんか間近で見るんじゃない!。おにぎり、没収しちゃうぞ!!。」
「ゴメン!。・・・こうして純粋なゲイジュツカの審美眼は空腹に耐え切れず濁っていくのであった・・。」
「まだ、言ってるかー!。」
「イエ、感謝していただきます。」
「ハハ、カボチャのおにぎりって珍しいけどホント美味いね。」
「でしょう?、今日の私なんか朝食も、お昼もカボチャ、カボチャとご飯ってとこネ。」
「ああ、ビタミンが効いてきたぞー、眼が良く見えるゾー」
「ハイ、ハイ、よく分かりました。カボチャって、脳を萎縮させるのかしら?」
「あー、喰った喰った。まさみさん、美味しかったよ、さっそく食後の散歩にでも行こうよ。」
「あら、嬉しいわ!。でも制作の方はそんなにサボってしまって間に合うのかしら。」
「それ、そこが面白いもんでね、気分転換したほうが結局は遠回りはしたけれど早かったって事が意外と多いんだよ。」
「ここからバス停の方へはもう幾度も通っているから反対の方へ行って見ようよ。」
「ええ、いいわ。この間ここへの道順を迷った時、小さな美術研究所があってその前を通ったの。幸三郎さん、知ってましたか?」
「へー、よく気がついたね。駒込美術研究所って言うんだよ・・、実は僕が最初に通っていた美術研究所なんだ。」
「そーだったんだ。懐かしくなってよく訪ねたりなんかしませんか?。」
「全然!、遠い小学校みたいなものサ。ただ、そこに未だあるってだけで、安心はするけどね。」
「この界隈どこも道幅がこんなに狭くて車も通れないんだよ。道に迷ったりもするけれど、散歩するには絶好な場所だよね。面白い発見もあるし。」
「この千駄木小学校の角を右に曲がると、ホラ、”高村光太郎・居住跡”って柱が建っているよね。」
「あら、本当だー!。」
「こんな近くに高村光太郎と智恵子の住んでいたところがあったなんて・・、それにこんな静かで。」
「この先には森鴎外の記念館もあるし、ここから先、田端にかけて昔”田端文士村”なんて言ってたらしいよ。」
「ネェ!、ここにある石ってさ、その頃からあった石かな?」
「そんな事知らないよ。どうしたの?急にソワソワして息遣いが荒くなったようだけど・・。」
「ホラ、智恵子がこうやってここに座って空を見るの。『幸三郎!、ちがう、光太郎さん!、東京には本当の空が無い・・』って、こんなだったかしら。」
「バカバカしくて、そこに、ずーっと座っていなよ。」

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「幸三郎さんって、空想にたいする夢が無いのよ・・。普通の人だったら、若い芸術家のカップルの将来と重ね合わせて”そうかも知れないね”って、相槌を打ってくれるものよ。」
「そうかも知れないね!!、」
「わたし、何か気に障るようなことでも言った?。幸三郎さんったら、急に不機嫌そうな顔して・・・。」
「ぃや!、ただ高村光太郎も智恵子も、ある意味でお互いかわいそうな運命だったよね。」・・・(続く)




(連載No.70)
12月に入るとさすがに夜間の気温は下がります。こうして火の気の無いアトリエで、一人制作に励んでいると幾つも向こうの通りを行く夜鳴きそばの屋台の音も 妙に身近に感じられます。
個展の会期まであと2週間を割り込みました。作品の描き溜めも思ったより順調に進み、たとえ今描きかけの絵が未完成だとしても充分に間に合う計算ではあります。
それよりも気になりだした事があります。その第一に展覧会の案内状があります。今日はその写真撮影のために写真家の桂さんが来てくれる事になっていました。
桂さんは、六本木のアートセンターでの研修を終えて現在ではその近くに「桂スタジオ」を設け、すでに写真家として活躍中でした。
彼のような写真家の仕事の多くは商業写真、つまりコマーシャル写真が収入の源だと言っても過言ではありません。
しかも、商品に対する打ち合わせ、何を主体に宣伝したいのか、等々から始まって撮影した写真を即座に焼き付け処理して配達してもらったものを更に検討する。
そう言った一連の仕事は六本木と言う一つのコミューンの様な所で成り立っています。ですから仕事は夜遅くまで続きますし、すべての事務所がOKを出さない ことにはその日の仕事は終わらないのです。
そんな大忙しの桂さんが私のような売れもしない貧乏絵描きの個展のために写真を撮ってあげよう、と言ってくれたのですから私は有頂天になる思いでした。
同じ会社のとき美術部の先輩、そして山谷家での奇妙な下宿人としての二人暮らし・・、オレがしなくてはしょうがないだろう・・との想いかもしれません。
それにしても時間は、既に今日を通り越して明日に突入しています。果たして桂さんはこんなに遅くなってしまったのに来てくれるのでしょうか。不安がよぎります。
今日の撮影、と言う日取りは桂さんが仕事の都合と、残された日数から今日でないと間に合わない・・と言うギリギリの日程だったわけです。

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あたりはすっかり寝静まった文京区駒込林町、30メートル先の角をこちらに曲り、向かってくる革靴の足音が聞こえます。右と左の足音が微妙に違う彼の足音です。
わたしは、寒いベランダに出て二階から彼を迎えます。「今、下に降りて玄関を開けるからネ。」
大きく重そうなカメラ鞄を肩からさげた桂さんは、階段の手摺りに掴まるように私の後を登ってきます。
「イテ!!、」最後の段でつま先を躓かせたようです。
彼はアトリエに入るなり周りの作品群に目をやり、「幸三郎、よく頑張ったな!!」と先ずは感激の握手をしてくれました。
「どうだ?、想った作品が揃ったか?」「マッ、今回はこんなところで・・」桂さんのメガネは雲って目が見えませんが喜んでくれているようです。
「じゃ、早速、案内状に載せる絵の撮影から始めるか・・。」
桂さんは鞄から大きな蛇腹つきの写真機を取り出します。私は60号の作品「夏の終りに」を部屋の正面に立てかけます。
「ウーン、光の具合が良くないねー」「イーゼルの上に載せて、明かりが斜めから・・そう、そこの辺がよさそうだナ。」
私はと言えば、お医者さんに診察を任せて待つかのように何もするすべも無く見ているだけでありました。そして、何度かのシャッター音の後撮影は終わったようでした。
「さて、大仕事は幸三郎、お前の顔写真の撮影だ!。」
「えっ!、こんな髭づらでボロの服だよ?」
「そんなの、カンケーねー、そのままで善いから絵を描いていろ。」
「絵を描いているところを撮るの?」
「お前は絵描きだろ?、絵を描いているところの写真のほかに何を撮れば善いって言うんだ?」
桂さんは今度は別の小型カメラを取り出して、私の周りからアングルを探し始めました。
「どう?、写真になりそうかい?」
「オレはプロのカメラマンなんだよ、豚の写真を頼まれれば旨そうに撮らなくちゃおまんま食べて行けねーんだヨ。」
「つまり、さっきから随分撮ったけれど、数打ちゃ当たる式かい?」
「少しでも良く見せる為にはこうして何枚も要るんだよ。丁度いい具合の写真をとってもお前が目をつむっていたら台無しだろ?。」
「それに、待ったなし。今日の写真が失敗だったらもう写真は間に合わない。」
「オット!、それは困る。撮影に協力するからなんとかいい男に撮ってくれよ。」
「ヨシ!、終りだ!。」
「ほっ!、イヤイヤ、本当にご苦労様でした。」

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「これで明日現像して写真を選んでおくから何時取りに来てもOKじゃ。」
「ところで今何時だ?。幸三郎、まだ『ほてい』開いている時間だよな。」
「えー!、おれ、今、緊縮財政なんだよ。」
「だれが、ビンボー絵描きに呑み代払えって言った!。」
「しかし、オレも何でこんなビンボー人と付き合っているのかね?。」
「自腹で出張して、写真撮ってあげて、最後に酒まで呑ませてあげるなんて本当にお人よしだよな。」
「個展が終わったら好きな絵を持ってっても善いよ。」
「お断りだね!!。」・・・(続く)




(連載No.71)
いよいよ来週から個展が始まります。刷り上った案内状の束を見ながら何か人ごとの展覧会のような気がしてなりません。
ここに来て思わぬ事態も発生しています。案内状を発送する名簿のリストが出来ていません。更に、絵につける額縁の制作が思うように捗らなく遅れているのです。
案内状の発送は早すぎてもいけませんし、かと言って遅すぎるのも失礼ではないかと思います。しかし、1週間前ともなってしまっては早いの遅いのと言って いる段階は超えました。会期は12月12日(木)〜17日(火)までの6日間です。
よし、今日は徹夜してでも宛名を書いて明日発送すれば遅くとも今週の金曜日には届くはずです。
年賀状の中からぜひ観に来ていただきたい方をピックアップ。更にはお世話になっていた三科会美術協会の先生方、美術雑誌に評論家として名を連ねる先生方、 美術研究所や学生時代の名簿まで合わせて150人ほどのリストを挙げました。
なかでも是非とも・・と言う方には一筆書き添えることも必要でしょう。そういった方々の分は宛名書きのあとこちらに仕分けしておいて書き込みます。
夜も更けて、二時頃ともなると眠気も峠を越して頭の中も冴え渡ってきます。しかも、ようやく「アッ、俺の個展も間も無く始まるんだ・・」と実感してきました。
宛名書きも半分ほど過ぎた頃、もう外には働く人の気配も感じられ多少のあせりも出てきます。焦ると結構、書き損じも出てきて修正します。「まてまて、こんな 修正は失礼だろう・・!」自分に言い聞かせるように苦笑いもしてしまいます。
今度は失敗や書き損じが増えてくると、「ウン!、ここらで休憩だ。」と決め込んでコーヒーでも飲みます。先程から牛乳屋さんの自転車の瓶のこすれあう音が 近づいてきてアトリエの下を通過していきます。

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宛名書き150人分を書き終えたのは会社に出勤する20分前です。取り合えず、そのままポストに投函する分は束ねて出勤することにします。
早めにバス停に到着し、改めてポストの前で10枚くらいづつ点検しながら投函します。間も無くバスも来ましたが私の乗る時間帯は早朝、必ず座ることが出来ます。
一番後ろの隅の席に陣取ると、早速書き添え文の必要な案内状に書き込みをします。
「突然のお手紙で失礼いたします。初めての個展を開催します。ご多忙中とは存じますがぜひ、先生にご笑覧いただきたくご案内させていただきます。」
会社について食堂で朝食を食べながらも書きました。昼休みの食事後も書き、全てを終わらせることが出来ました。そして会社にあるポストに投函を終えました。
さて、次は銀座界隈にある約300軒ほどもある画廊にこの案内パンフレットを置かして貰わなくてはなりません。
仕事の終わった夕方、にパンフレットを鞄に銀座へ向かいます。バスに乗ると急に睡魔が襲いかかります。バスの行き先は東京駅北口行き、終点までゆっくり寝られます。
4〜50分は寝たでしょうかバスは東京駅に到着、運転手さんは車内に一人取り残された私に「大丈夫ですか?」と気を使ってくれます。
わたしは「スミマセン、すっかり寝込んでしまいました。ハイ大丈夫です、東京駅までの予定でした。」
先ずは駅の地下通路を通って日本橋へ向かいます。
月刊「美術手帳」の巻末には東京地区、大阪、名古屋など画廊の集まる界隈の月間個展案内と共に地図まで詳しく載せてあります。
12月号の「竹川画廊」にはもうすでに「藤森幸三郎・個展」と銘打って紹介されています。
歩きながら考えました。私のような健脚であっても、日本橋の画廊を見た後ついでに銀座7丁目まで足を向ける気になるでしょうか?
しかも、絵を観るということは大変疲れるということです。せいぜい多くても5〜6軒の画廊を巡った後はクタクタに疲れ果てるということです。
しからば日本橋まで行くのは止めにして、ここ京橋あたりからで充分だろう・・と思い始めます。
しかし、このあたりの画廊は超有名な大家の作品を売り買いし、まだ野に咲く雑草のような作家の作品を展示する雰囲気はありません。当然客層も絞られてきます。
そうなると京橋から銀座3丁目まで省いたとして、それでも4丁目から8丁目までだけでも200軒ほどもの画廊が存在します。
よし、手当たり次第のローラー作戦だ・・・。銀座中央通りを挟んで概ね3本の小路の画廊をくまなく廻ります。
驚いたことに「うちでは、そう言ったパンフレットは預からんよ!」と言うブッキラボウな画廊が意外と多いんです。
中には親切に、「おや!、来週じゃないか、だったらそこの受付けテーブルに積んでっても善いよ・・」と言う画廊もあります。
いやはや、それでも5〜60軒の画廊にパンフレットを置かして貰ったでしょうか。しかもそれらの画廊は私がよく出入りして雰囲気も良く把握していた と言うこともありました。

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「第一回個展案内」


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残念なのは銀座8丁目あたりまで来た時に、もう画廊の閉店時間があったりしたことです。でも預かってくれるお店は圧倒的に6〜8丁目には多く存在して助かりました。
急にお腹が空いていることに気がつきます。今日は疲れたのと寝不足で5丁目の「とり銀」に立ち寄る気力もありません。
数寄屋橋公園脇の屋台ラーメンでコップ酒、鼻水をこらえながら公園の手摺りに腰をかけラーメンををすすります。薄暗い小さな公園をボンヤリ見やっています。
そう言えばここの公園で、最初松頭さんと二人展をしようよ、と計画し挫折したのはついこの間のことのような気がします。「松頭さんは今頃、どうしているんだろう・・。」
不意に薄暗い藪が動きます。「なんだよ!、人だったのか・・」「別にお前らのことを見ていたわけじゃないよ・・」
有楽町、マッタク変な町です。気分が悪い・・、こんな所で何やってんだか。
遅くアトリエには戻りましたが何故か気分が落ち着きません。
作品に装填する額縁が思ったように組み立てられないのです。普段、上野の美術館あたりでの展覧会出品には地下にある額縁の貸し出し業者から借りています。
今回は、数が多く金額が思いのほか掛かりそう、同じかけるんだったら材料を買って組み立てれば毎年使える・・・と言う算段もありました。
しかし誤算。額縁の設計には強度に対する思い入れが全然無いままに製材屋さんに発注したものですから4隅を固定しただけでは全くの骨無し状態なのです。
こう言う場合8号や10号程度の大きさの作品では何の問題も無かったわけですが、50号、100号と大型作品群には通用しないことが今頃になって判ったのです。
日にちの余裕がありません。補強材としてどの程度の木材を継ぎ足したら善いんでしょう。固定する釘は?いや、木ネジでなくては持たないでしょう・・。
次の最後の休日までに全ての材料を調えて一気に作り直さなければならない覚悟を決めました。
運搬はどうする。このアトリエから上野美術館までは絵に戸車をつけて団子坂を降り、不忍の都電通りを交番のお巡りさんに手伝ってもらって渡れば済みました。
そうだ、レンタカーのトラックも借りなければならないのか・・。
今まで思っても見なかった難題が次々に重なって重圧となって襲い掛かります。・・・(続く)


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第12章(No.72〜No.77)(〜26歳)新たな出発(U)・・・第二回個展を目指す・・・(1)そして転居






(連載No.72)
12月11日水曜日、夜遅くなりましたが画廊には展示する予定の作品は全て展示が終了しました。
お手伝いいただいたお友達などとささやかな「ご苦労さん会」を有楽町の小さな酒場で行いました。
私は多少の疲れもありましたが気力も充分、しかも明日からの個展の開催にこぎつける事の出来た満足感で感激しまくっていました。
皆と別れて深夜の団子坂をひとりトボトボと登って帰途に着きます。こんな興奮状態で寝ることが出来るでしょうか・・。
12月12日木曜日、多少の朝寝坊はしましたが個展の会場開催は11時からです。8時に起床しても充分すぎる早さです。
軽く朝食を済ませて朝の銀座に向かいます。電車も既に通勤時間のピークも過ぎ、乗客のほとんどは物憂げな雰囲気の人ばかりです。
私のような若者がこんな時間帯に電車に乗っているのは何か罪悪感のようなものを感じながら有楽町駅に降り立ちます。
確かに銀座の中央通りは活気もあり、大東京の表向きの顔を装おって居ます。しかし、一本裏道に入るとこんなにも静かで落ち着いた街、 銀座7丁目の素顔も表通りと対照的で魅力的でした。
資生堂本社の裏通り、私のための個展会場は今、朝を迎えたばかりと言う顔をしています。
少し早めに画廊に着くと美術学生のアルバイトのお嬢さんはもう準備の為の床掃除や、窓拭きなど忙しそうに振舞っています。
「おはようございます。」と気持ちのよい挨拶、私の為にお茶まで入れてくれる用意を始めます。慌ててそれはお断りをして、私も 展示作品最後の見回りをする為に一階から二階、階段の踊り場から会場へと目を移します。
11時少し前、表通りには見慣れた顔もちらほら見えます。会場の開くのはまだ?とばかりに催促するようです。
受付嬢も気を利かせて、少し早めではありますが画廊の玄関を開けます。懐かしい顔が次々と入ってきます。普段、中々お会いする 機会にも恵まれない同級生など久しぶりに華やいだ会話も出来楽しいひと時が過ぎました。
午後を過ぎた頃カメラマンの桂さんも見えて、改めて祝福の握手をしていただきました。しばらくして知人、友人たちも三々五々 別れを告げてお帰りになり、一般の画廊めぐりのお客さんが主流として静かな雰囲気を取り戻しました。
私はこの機会に昼食を食べておこう、3、4軒先のお店ですよと、受付嬢に断って桂さんと近所の中華屋さんに行く事にしました。
さすがにこの時間、サラリーマンの方の昼食時間も過ぎて裏通りの活気も夕方に向け一休みの感があり落ち着いた雰囲気を取り戻しています。
私はお腹も空いて注文した野菜炒めライスを夢中でほうばり込みました。
しばらく、満腹の為気も遠のく気分、桂さんが盛んに私に向かって何か話しかけますが一向に意味がわかりません。どこか遠くで 話しているような不思議な気分です。

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画廊に戻ると私は意識がなくなる予感とともに、「吐血!」
どこかで救急車のサイレンの音も聞こえたような気もしました。
目の前を白いものがめまぐるしく動く記憶もありましたが、白衣のお医者さんだったか、看護婦さんだったか・・・。
眠りから覚めて気が付いたとき、時間が朝なのか夕方なのか・・白い天井と壁、「あぁ!、きっと病院にいるんだ・・」
「コウザブロウ・・、」差し出された白い指の方に首を向けると、八重洲雅美さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいます。
「やぁ、どうも・・」しかし、渇いたのどからは声も出ません。
「まだ、動いてはいけません。」雅美さんの手が口を覆い、まだ寝ていなさい・・・と。
そのまま頭上の点滴を一つ、二つと見ているうちに又暫らく遠い世界に引きずり込まれるように寝入ってしまいました。
「ハイ!、顔色もずいぶんとよくなりました。」「そうですね、若いですから回復も早いですよ。」「有難うございました。」
雅美さんと、回診の先生の会話の声で私は再び目を覚ましました。「腹が減った!!」
私の訴えは先生には無視されました。しかし、先ほどとは違って雅美さんの心配顔は明るい笑顔に変わっていました。
「よく、寝たわね〜!」いつもの雅美さんの笑顔と明るい声が響きます。
「・・個展って、まだやってるのかな〜」
「ダイジョウブですよ、まだやっていますよ!」
「幸三郎さん、先ほど画廊から連絡があってネ、評論家の先生と画家の原精一さんが伺いたいけれど何時が都合がよいかって。」
「エ!、今日は何時?、本当に来てくれるの?」
「でも、先生の許可が頂けないとお断りしなくてはいけないし・・。」
「マサミさん、俺はもうすっかり治って元気なんだよ。」「行かしてくれよ・・。」
「ハイ、ハイ、判りました。でも最後は先生がお決めになることですから。」
結局私は新橋の救急病院に丸4日間寝ていたことになります。
明日の夕方、個展会場へはタクシーで行く事、雅美さんが付き添っていく事、時間は1時間のみ、と言う条件で先生から外出許可がいただけました。
朝食に出されたお粥がこれほどまでに美味しく感じたことはありませんでした。
昼食の食事には少し固めのお粥、これもペロリと平らげるほど元気になりました。病気の診断結果は急性胃炎、吐血量も生命に影響を来たす 程ではなかった事が幸いしました。

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約束の時間を少し回った頃です。タクシーの止まる音がして美術評論家の山下正人先生、画家の原精一さんが画廊に入ってきました。
お二方とも大柄、特に原精一画伯は上野の美術館事務所でお見掛けしたときはウイスキーを飲んでいて酔っ払っていました。 今夜も、酔っているのでしょうか?と尋ねたくなるような容貌でした。(失礼!)
私の作品を30分ほど掛けて丁寧に見てくれました。既に両先生ともに私が病院から外出許可を得てここに来た事もご存知でした。
「幸三郎さん、お具合の方はいかがですか?」と、先ず気遣っても頂きました。
「若いときは、とかく作品にしても、体にしても思いっきり背伸びをしたくなるものです。」
「あなたは、あそこの小作品は”習作”と言っておられますが、私はああ言った作画態度に強い共感を得るんですよ。」・・・(続く)




(連載No.73)
 年の瀬、ドサクサまぎれで終わった感じの個展でした。体には大きな痛手も負いました。精神的に何か手ごたえ見たいなもの が全く感じられません。
夢だったのか・・、現実として捉えるにはあまりにも儚すぎました。一度、経験したんだからもういいんじゃないの・・ と言う声も聴きました。多くの人にもご迷惑をかけてしまいました。このまま打ちしがれてしまうには幸三郎があまりにも惨めです。
勤めの会社も年末年始のお休みです。わたしも郷里の諏訪に帰り久しぶりのゆったり気分を味わいながら英気を養います。
各集落に在る共同浴場、夜遅く大きな合鍵を持って入浴に行きます。この時間ともなると隣りの女風呂も人の気配はありません。 一人静かに湯船に浸かり耳を澄ませます。岩から溢れる湯の注ぐ音、その合間に川の流れもかすかに聞こえます。慌ただしかった1年。
これから先、何回こうして一年を振り返ることが在るでしょうか。恐らく何の実りも無かった年を思い出す ことが出来るでしょうか。
開け放たれた最上部の天窓に小さな満月が物凄いほどの光量を公共浴場の湯船を映します。はぐれた雲が一瞬月をかすめますが 何事も無かったかの平穏さです。・・・光陰矢のごとし・・内から湧き上がる力のようなものを感じるのです。
よし!、もう一度やり直そう・・。
天空の5円玉の穴ほどにしか感じられない小さな月、そのエネルギーが私を動かそうと働いたのです。「自分で納得できるまで何回で もやったらいいじゃねーか!」「1回目は失敗なんだよ!」次は・・それも失敗するかもしれません。
失敗した過程を検証してみましょう。それは、サラリーマンである事なのか、体力が弱かったからなのか、画廊の会場が 悪かったんだろうか、そして・・才能に欠陥があったためでしょうか。
「・・幸三郎さんは、あそこの小品は”習作”と言いますが、むしろそう言った作画態度に共感を得るんですよ・・」
こうして体力も回復して改めて個展の会場に見えられた"原 精一画伯”の言葉を思い出しています。

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「下着の裸婦像」


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「裸婦座像」


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そうなんだ、あの個展は大成功だったんだ。自分が背伸びして「どうですか?どうなんでしょうか?」と言う意味では失敗です。
しかし、多くの人の言葉やこれから自分を支えてくれる言葉の意味を理解できるとき、それが個展なんだ・・、と判って来たのです。
私は多くの帰省者が、また上京する渦の中に混じって中央線特急あずさに乗り込みました。
車窓から凍りの嶺々を連ねる八ヶ岳の連峰をめぐり、甲斐路に入ると凛としてそびえる甲斐駒ケ岳を見送るとき既に私の心は、新しい年に向かっての 覚悟のようなものが湧き上がってくるのでした。
新宿の雑踏を抜け、いつの間にか文京区駒込林町の閑静な住宅街に戻ってきました。
「幸三郎さん?、」私の帰りを待っていたかのように玄関ホールの向こうから声が掛かります。
「ハイ!、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします・・。」
「まあ、お元気そうに見えるわ。すっかり善くなられたようですね。」
「いま、お茶でもお入れしますから、どうぞこちらにいらっしてください。」
どうしたんだろう?今まで一度でもそんな言葉を耳にしたことはありませんでした。
いくら落ちぶれたとはいえ元々は公家育ちのお嬢様・・、わたしのような粗雑な人間にはよほどの理由が無い限り・・・
しかも、お茶を入れるから自分の部屋に来い・・、なるほどよほどの訳がありそうです。
暫らく、案内されたテーブルに座り、初めて目にする館の主の居所にキョロキョロとするばかりです。
話の順序に整理ついたんでしょう、奥さんはお茶の準備が出来ましたとばかりに振り向いて自分の席につきました。
みごとな九谷焼の急須、お茶を注ぎながら奥さんは目を伏せたまま話し始めました。
この家も老朽化が進んで補修する為には相当なお金が掛かる事、結婚して埼玉県の鶴ヶ島と言う町に住む息子さんが二番目の子が 授かったのを機会に家を新築購入したいこと、もし母が一緒に暮らす覚悟があればここの林町を処分して、計画より更に大きな土地と 家に変えたいがどうか・・と。
じつは私はここに入居するときに、既に言い渡されていた事でした。
「・・半年くらいで出て行ってもらわなくてはならないかも・・」ですから当然の覚悟は出来ていたはずです。
しかし、一向に計画が実現する気配も無くこうして2年も過ごしてしまいますと、あたかもこのまま居座ってしまっていい物だろうか と言う甘えの気持ちも芽生え始めてしまうものです。
「やあ、奥さんそれは良かったですね・・」
「いえ、ねー、私は生まれたときから町で暮らしてきたものですから今更、田舎に行って暮らせるものなのかどうか・・。」
「そんな事はありません、鶴ヶ島って、たしか大きな街だったはずですよ。それに、車だって玄関先まで入ってこられますから。」

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新年早々にとてつもなく大きな問題を抱え込んでしまいました。今年も波乱万丈の年明けだぞ・・・(続く)




(連載No.74)
 会社のサークルである美術部、ここに所属する人は一見、変わり者の集まりのような気がしました。もっとも、そう言う私のことも皆は同じように 思っているかもしれません。そんな変わり者同士の新年会がありました。
会社近くの歓楽街、東京とは名ばかり足立区の場末です。荒川で分断された東京の離れ小島、下沼田町の呑み屋さんです。
電車とは無縁のこのあたり、もっぱらの交通手段はバス、そしてここの中心は江北橋々下に在る「荒川土手」バス停でした。
この荒川土手バス停付近には一つの町を形作る要素は多少の規模での見劣りはしますが商店街としての形態は整っていました。
呑み屋さんも小さいのはいくつかありました。また宴会をするにしても一応「のんき屋」にするか「小暮酒蔵」にしようかと言う 選択肢もあり、それ程不便を感じないほどの離れ小島の感じがありました。
美術部の新年会は毎年盛大に行われていました。この年も例年に劣らずの人数が揃いました。人数・・、つまり部外者も来賓の方々も 参加されてそれはまさしく盛大でありました。
ご来賓の中には当然ではありますが三科展美術協会の野山先生、同じく会員の岩崎先生もいらっして下さっていました。
野山先生についてはNo.26 で既にご紹介していましたので岩崎先生のことも少し述べておきます。
岩崎先生の職業は「吾郎文具店」の店主をしています。若いだけあって絵画に憧憬が深く、描く事は勿論のことですが絵画理論にしても 豊富な知識と巧みな話術により私達を魅了させてきました。
ですから会社の美術部への指導は野山先生よりむしろ岩崎先生の方が人気があった・・と言っても過言ではありませんでした。
「吾郎文具店」は荒川土手バス停脇の土手下交番の真正面にありました。勤めが終わって終点でバスを降り多くの人がこの文房具店 の前を通って帰宅するわけであります。
ですからそこそこ真面目に商売熱心にやっていればかなりの繁盛が見込めたと言うわけであります。
・・・そんな中での新年会、お酒を注ぎながらご挨拶にまわります。
「やあ、幸三郎さん、昨年はご苦労様でした。すっかり元気になったようだね。」とねぎらいのお言葉もいただきました。
「ハイ今年も、もう一度個展に挑戦しますからよろしくお願いいたします。」
「それは素晴らしい、あまり無理しないように頑張りたまえ・・。」
「はい、とりあえず今年は先ず部屋探しから・・と思って居ます。」
「部屋探し?、どういうことかね?」

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「今、住んでいるところの家主ですが、老朽化した家をいよいよ解体したいって言い出しましてね・・」
「それは大変な事ですね。で、いつまでに出なくてはならないの?」
「エッ、それが今日、明日と言う訳ではありません。ただ決意をしたと言う事は今年イッパイには出て行って欲しいらしいです。」
「そうなんだ・・、心当たりが無いんだったら僕もそれとなく善い所がありそうだったら心に留めておいてあげるね。」
「はい、よろしくお願いします。」
そんな会話をしたことなどすっかり忘れていたある日の事です。会社の仕事を終えてバス停まで歩いてきました。
吾郎文房具店の前を通りかかると、岩崎先生の顔が店の奥に確認でき、先生も私に気が付いたようでした。
一瞬、今日は特に急いで帰ることも無いかな・・、と思って足を止めると先生も立ち上がって私を迎える仕草をしています。
「今日は、もうお忙しくないんですか?」私はお店のガラス戸を顔半分だけ開けて尋ねます。
「もうこの時間ではチョットしたものを買いに来るお客さんくらいのもんだね。」と、もう既にサントリーレッドを持ち出してきます。
そしてもう片方の手にはしっかりとグラスが二人分握られているではありませんか。
文房具店のお店としては表の通りに面して間口は3間半(約6m余)もあり手広い感じの店構えでありました。
ガラスの陳列ケースが小さな迷路のようになっていて、奥まったところがいわゆるお店番のスペースです。壁で仕切られたキッチンとは暖簾で出入りが可能です。
お店番のいすに座って首を伸ばすと陳列ケースの上からガラス戸越しに表通りも見渡すことも出来ますし、しゃがんで品定めするお客さんの仕草も手に取るように監視する ことも出来る按配なのです。
こんな狭いところに向かい合ってサントリーレッドの水割りをチビチビやりながら良く美術談義をするのです。
今日はかなり古ぼけたポスターの切れ端でしょうか、テーブルの下から引っ張り出して手でしわを伸ばします。
そこには青と緑と橙色で区切られた画家マチスの作品「ダンス」の絵柄がありました。・・・(続く)




(連載No.75)
  ここで岩崎先生のことをもう少し掘り下げてお話ししておく必要があります。前回にも書きましたが
「・・若いだけあって絵画に憧憬が深く、描く事は勿論のことですが絵画理論にしても豊富な知識と巧みな話術により私達を魅了させてきました。ですから会社の美術部 での指導は野山先生よりむしろ岩崎先生の方が人気があった・・」
しかし、中には先生の絵画に対する理論は必ずしも皆に受け入れられたわけではありません。独自な画法、あるいは自分の持つ「素朴さ・・」などを求める人にとって、 理論化された技法と言うのはかえって表現を萎縮させてしまうきらいがありました。

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岩崎先生の理論はそう難しいことを言っている訳ではありません。
平面に描かれた風景でも遠近や立体を表現しようとすることと同じように時間も表現しなさい・・・そのための手法を自分なりに編み出しなさいと言うのです。
それは今言った「時間」、もですが人物を描くにしても「内面を・・」、静物画では「自分の心を・・」、「高い山の表現は、山を高く描くのではなく手前の湖の 深さを求めることによって表現できないの?」あらゆる題材の中でそこを写真で撮ってきた切抜きのような絵ではつまらないですよ・・と言うのです。
先生はそんな事を解って貰うためにピカソはこんなことをしていたぞ、ブラックはこんな描き方をしているぞ・・と、その度に怪しげなポスターの切れ端を持ち出して きては一つの表現としての方法を考えさせてくれました。
そして今日はマチスの「ダンス」でした。私はこのとき初めてこの一見下手な絵・・誰が描いたいたずらなんだろうと思いました。
「実はこの絵はマチスが40歳ころに描いた絵なんです・・」「え!!、これをマチスが描いたんですか??」
しかしよく見ているうちに実に躍動感があって画面に広がりを感じさせることに驚きました。
こんな情景はフォークダンスでも解るように、ヨーロッパ人特有の大らかさと底抜けに明るい民族性からでた表現なんだろう・・と思いました。
既にこの時間、吾朗文具店の外はすっかり人通りも絶えて暗い夜道に店明かりだけが煌々と照っていました。
岩崎先生は少し酔ったようにヨロヨロと立ち上がってお店の戸締りと、カーテンをしめて戻ってきました。そして明かりは広い店内のここ一隅だけにすると やけに落ち着くのです。
「・・と、ついでにおトイレに行って来るね・・」と、また間が開きます。これは先生がよく私に質問したあと、十分時間をかけて考えさせてくれる為よく使う手です。
岩崎先生が戻ってきてまだ席に着かないうちから私はまくし立てます。
「先生、日本人のわたしには中々理解しがたい絵ですね?」
「・・・」先生はそれには何も答えずにまた階段を上って2階に何かを取りに行くようなそぶりです。
「それにしても不思議な絵だ。この力強い構成は画面の隅々まで施した神経がひとつの躍動的な塊として捕らえられている。そしてその躍動感のエネルギーの発端は 手前に大きく傾けた人物を配すること、左にのけぞった人はその力を余すことなく吸収し人の輪に大きな動きを与える機関車の動輪の働きを効果的にしている。」
先生は戻ってくると、もうそのポスターの事などどうでも善いと言わんばかりに片つけます。その目は「もう、解ったな?」と言わんばかりの目つきです。
「僕は、こんな日本独自の絵も好きでネ・・」と、2階から持ってきた画集から何かの絵を探しているようでした。「季刊、浮世絵」

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「先生くらいの年になればそう言った春画とか浮世絵にも興を惹かれるんでしょうネー?」
「ウン、そうなんだけど・・」
そう言って開いたページの絵はかなり古い時代の慶長期(1600年ころ)の浮世絵でした。
「幸三郎さん、この絵は誰が描いた絵かわからないんだけど日本人が描いた絵であることは確かですよ・・」
「エッ!!、マチスの絵に似てますね・・」
「違います!、マチスの絵がこの絵に似ているんです。このころの浮世絵には舞踏図としてかなりの画家がこう言った題材を手がけているんです。」
「その挙句には贋物までたくさん出回っていたと推察されるんです。」
「ひょっとして・・マチスはこう言った浮世絵からある種のヒントを得てこの”ダンス”を描いたんでしょうか・・?」
「それは解りません。ただし、1867年のパリ万博では日本から持ち出した浮世絵をはじめとして日本文化をはじめて知ったヨーロッパの人たちに 感銘を与えたことは確かでした。
「これをきっかけにパリの芸術家の間ではジャポニズム運動とまで言われた東洋思考の風潮もかなり吹き荒れました。」
「知ってます。ゴッホの描いた肖像画のバックにも浮世絵の掛け軸が掛かっているのもありました。」
「・・、ゴッホは写しただけですが、マチスは自分なりに消化して新しい、より強い運動性(ムーブマン)を作り出したと言う点では数段上ですネ。」
「しかし、思い切って草原と空の中を人間が自由に、まるで宇宙遊泳してますね・・。」
「そこです、浮世絵の特徴はその空間の”間”なんですねー。ヨーロッパの人たちは永いこと写実にガッチリ固められた表現しか知らなかったものだから、これほど 間を線と面で処理する東洋の不思議な魅力にさすがのマチスもがっくりしたんだろうね。」
「幸三郎さん、本来日本人はもっと大らかで楽天的なことを好み連携して踊りの輪に加わっていたんですよ。」
「そうでした。盆踊り、秋祭り、事あるごとに皆輪になって踊っていました。・・・踊らにゃそんそん・・って。」
「あれ、先生もうすぐ終バスの時間です。あまり楽しかったので時間の経つのも忘れてしまいました。」
「いやいや、幸三郎さん、私のほうこそ久しぶりに楽しい時間でしたよ・・、いっそうのこと我家に下宿すれば毎日こんな盛り上がった話が出来るのにね。」
「エッ!!、それって・・、アッ!またこの次にお話を伺います。デハどうも・・」・・・(続く)





(連載No.76)
  少し日にちに間を空けて岩崎先生の「吾朗文具店」を訪れました。
・・・『いやいや、幸三郎さん、私のほうこそ久しぶりに楽しい時間でしたよ・・、いっそうのこと我家に下宿すれば毎日こんな盛り上がった話が出来るのにね。』・・・

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岩崎先生は本当にそう思ったうえで言った言葉なんでしょうか、あるいはもしかして、「エッ!?、僕が酔っ払ってそんなことを言ったんですか?」なんて・・。
「やあ、どうも暫らくだったね・・。すっかり春らしくなってきて、おかげで今日は上着ナシですごせたよ。」
「どう?、急いでいなかったら少し一杯付き合っていかないかい?」
「あ、ハイ、それでは少しだけ・・」・・・どうやら岩崎先生はこの間の発言なんか全然覚えていないどころか気にもしていなさそうだ・・。
岩崎先生は何時ものように何事も無かったかのように片手にサントリーレッド、片手にグラス二つを持って器用に暖簾をかいくぐってお店の隅に陣取ります。
先生は自分のグラスに自分の分を注ぐと、其のままボトルを私に渡して「自分で好きなだけやってね・・」と言って水割りを作ります。
ひとくち、チビッと味を確かめるとわたしの飲み物の調整が終わるのを待って「じゃ、乾杯・・!」と、何時ものペースで始まります。
ちょうどそのとき、お店のガラス戸が空いて学生さんのお客さんが二人入ってきました。どうやらお店には顔なじみの高校生のようです。
岩崎先生はひとさし指でめがねを押し上げると直ぐに相好を崩して二人を向かいいれます。「今日はゴメンね、先生のお友達が来てくれたので一杯やってしまっているけど。」
「イエ、いいです。今晩は山内と申します。」実に礼儀正しい・・。
「あっ、僕は水口と言います。ひょっとして、あなたですか?今度から僕たちの教室に教えに来ていただける先生っていう方は?」
私はあわてましたが、岩崎先生のほうがもっとあわてたようです。
「こ、幸三郎さん、ちょっと待ってネ。キミたちは少しはやとちりしているんじゃないの?・・・僕はもし、そう言うことが出来ればお願いしてみるネって・・」
「幸三郎さん、実は彼らは近所の絵の好きな高校生なんですよ。毎週、ここの公民館で僕が絵を教えているんですが・・最近人数が増えました。」
「で、先日彼らには若い絵描きさんで、もし僕のうちに住んでもらえるようだったら少しお手伝いしていただけるかお願いしてみるネって。」
「あー、そう言うことだったんですか。」
少し遠回りでしたがお互いの想っていたことで話題が一つになってきたようでした。
「でも、先生のお宅は一階はお店ですし、あと二階は確か二部屋しかなかったような記憶でしたが・・まだおありでしたっけ?」
山内君が口を挟みます。「なんでしたら僕のうちは空いている部屋は二つ三つありますがどうでしょうか?」
「イエ!、そんなお願いは出来ません。」
「そうですか、僕のうちはお父さんが居ないのでお母さんとお姉ちゃんの言いなりになっているんです。もし、先生が来てくれれば二人ともおとなしく なってくれるかも・・と思って。」

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これには皆、思わず大爆笑になってしまいました。
話が落ち着いたところで、岩崎先生はこんなことを考えている・・と言って、スケッチブックに構想を描きはじめました。
どうやらここ吾朗文具店を横から見た断面図のようです。「先生は確か、早稲田の建築を出ていましたよね。」
山内君も水口君も「へー?。」と口をあけたまま覗き込んでいます。
「幸三郎さん、ここのお店の在る地形はこんな按配になっているんですよ。つまり、お店の玄関は実は構造上二階から出入りしていると言う訳なんです。」
「なるほど、私もトイレをお借りするときはここから地下に向かって階段を降りますから良くわかります。」
「わたしが設計した段階では階下のこの部分だけで16畳間の空間があります。ガラス戸で仕切れば大きな明かりは東側一杯に差し込みます。」
「ここは将来、僕が画室として手を加えて使えるようにと考えて、少しお金は掛かりましたが三方を鉄筋コンクリートで囲って、柱がありません。」
「うわ!、それって夢のようなお話ですね。」
「そう、本当に夢のような話なんだけど・・。」
「では、どうして先生がそこに手をつけて画室になさらないんですか?」
「そこなんです、将来にわたってここに住み続けられればそうしましたが、都市計画が策定されすでに閣議決定がされてしまったと聞きました。」
「もっとも、それに対する説明会は幾度と無く開かれ反対意見も陳情もしましたが徐々に寄り切られようとしているんです。」
「エッ!、それって僕どころの話ではないですよね・・、しかもお店は何処に移転しても成り立つとは限りませんし。」
「まあ・・ね。だけどこの話は決まったからと言って直ぐ着工するわけではないんですよ、未だこの先の方も用地の買収が済んでいないようです。」
「僕の予測ではあと10年はここが立ち退きになるようなことは無いようですよ。」
「幸三郎さん、僕の試算では材料費12万円で約1ヶ月、会社の帰りに少しずつ自分で作っていけば家賃は要りません。」
「えー!、12万円と言えば、今のおんぼろ下宿屋の1年分にも満たないですよ。それは、すっごく魅力的な話です。ゼヒ!!。」
「ヨシ!、じゃあ、決まった。乾杯だナ。」
「ところで、その都市計画とやらの内容は何なのですか?いよいよ、電車でも走るんでしょうか?」
「いえ、道路です。しかも高速道路です。今度は東北自動車道というものが作られて取り合えず宇都宮まで1時間で・・と聞きました。」
「そしてこの付近は首都高速中央環状線の江北ジャンクションになるそうです。このお店付近に荒川土手交番が移転、画室付近は直径3mの下水管が・・・」・・・続く。

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(連載No.77)
  遅く、文京区駒込林町の下宿に戻った後も岩崎先生のお誘いの言葉が耳について離れません。
やっとここのアトリエにも慣れて2年ほどですが、いざここを離れるとなると大変な愛着も湧いてきます。部屋の隅に転がっている 石膏像の闘士の首をスリッパのつま先で小突いて見ます。
何となく恨めしそうな目線を私に向けてしばらくギッタンバッタン揺れています。
想い返せばこの駒込林町に住んでから6年間、永いようでもあり短かったようにも感じます。大都会の真ん中に住んでいる割には 都会とはおよそかけ離れた集落と言う表現がピッタシです。そこだけが戦後の復興とは無関係に時を重ねてきたような不思議な空間でした。
また、そんなところに安らぎがあって住む人の連帯感もあって何となく居心地のいい思いをして過ごしてきました。
一方、岩崎先生のお住まいの地域はと言うと元々私の勤務する工場の近くです。従ってそれほどの違和感が在るわけではありません。
更には、職場での行事で呑み会で呑み屋さんの利用は殆んどがこの付近なのです。少なからずこの辺にお住まいの見覚えのある人々は およそ都会的なセンスなどこれっポッチも持ち合わせては居ませんがそれなりに素晴らしい方たちと言う想いはあります。
この先、自分の住む場所も無く岩崎先生に拾われるようにして移り住むであろう街に対して、そう悲観的な気持ちはありません。
しかし、その僅かな寂しさというのは華やかな都会から足立区の場末とまでは言わなくても都落ち・・と言う気持ちが少なからず 後ろ髪を引かれるという想いは残ります。
住まいの工事は春暖かくなったら始めましょう・・と言うことにしておきました。
2月はじめ、ことのほかキンキンに冷え込んだ日曜の朝です。ベランダの扉を開けておくと、晴れ渡った 空の朝陽がアトリエに15cmほど差し込む場所があります。
私はコーヒー茶碗を両手で抱えて小さな座布団を頼りに差し込む陽の恩恵に授かります。陽光を浴びて大粒の湯気がゆっくりと上昇して 消えていきます。静かでゆったりした時間の流れです。
大谷石でできた外塀の向こうを井上陽水の高音の歌声でラジカセが通っていきます。・・・と、門の前でいきなりスイッチが切れます。
私はベランダから顔を出して門のほうを見やります。真っ黒な服装で、いまモンゴルから帰ってきましたと言わんばかりの八重洲雅美の ブーツのつま先だけ見えるのです。
「やあ!、おはよう!、何処のバカがラジカセを聞きながら通るのかと思ったら、マサミさんだったんだ。」
「こんにちは、バカではありません。それに、おはよう・・なんて、もうお昼近くです。お馬鹿さん!。」
八重洲雅美はそのまま玄関から階段を一気に駆け上がってきて私にまくし立てます。
「わたしネ今朝は早番の仕事だったの、でもう、一仕事終わって来たんヨ。」「朝ごはん食べてもいいよね?常磐線の駅弁なンよ。」

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勤め先の鉄道弘済会の駅弁の売れ残りでも調達してきたんでしょうか、やけにゴボウの煮物の匂いがきつい弁当です。
「いいけど、一気に二つも食べるの?」
「あら!、随分とひがみっぽいのネ。一つはあんたんヨ。」
「ところで、マサミさん・・、お正月には田舎に帰ったの?」
「ウン、つい先週だったんだけど久しぶりだったンヨ。どうしてそんな事聞くん?。」
「いや・・・、何故か別人と話してるような感じがしたんだ・・・、アクセントも変だし・・。」
「かっ、かっ、かっ、バレてしまってはしょうがない。実はわたしネ、雅美の妹なのヨ。」
「え!、妹・・?、お姉さんの方じゃなかったの?」
「この、幸三郎の憎まれっ子メ!!。恩知らず!。そうやって女心を平気でぶっ壊すんだから・・。」
「ごめん、ごめん。個展のときの病院騒ぎでは本当にお世話になりました。有難うございました。」
「あら、何のことだかさっぱり判りませんが、お姉さんにはそう伝えておきますワ。ハッハッハッハ。」
「幸三郎さんの方こそアレから大丈夫でしたか?、わたしネ、田舎に行って来るとすぐに岡山弁に戻っちゃうの・・」
「でも、方言でしゃべると気分的に親しみが湧くよね。おかげで、もうすっかり元気になりました、有難う。」
「でも、今日だって私が来なかったら朝食は食べないつもりでしたの?。まず、不摂生を直さなくっちゃね。」
「ウ〜ン、だんだんにね。」
「ところで、マサミさん、ここのアトリエもいよいよ居られなくなってしまうんですよ。」
「エ!!?、こんなに素敵なところなのに・・、・・・そうだったの?。・・・で、何時までなの?」
私は、今年一杯でここの主が埼玉県の鶴ヶ島に越してしまうこと、私も会社の近くに引越ししなくてはならないこと、しかもその引越し先 は自分で工事をして住めるように作らなければいけないことなどを説明しました。
「まあ、男の人ってたいへんなのネ。女ではとてもそんな決心は付かないわよ。」
「うん、でもこれから少し暖かくなったら日曜日でも出かけていって工事をしなくちゃいけないんだ。」
「じゃあ、あの高村光太郎と智恵子の住居跡も見にこれなくなってしまうのね。」
「見納めに、もう一度行きましょうよ。」
「あぁ、構わないけど・・、そこに行っても、また虚勢を張り上げたりして変なことしないでくれよね。」
「え〜?、わたしはアーティストなの、感性で生きているんだからそんな事は約束できないワ。」
「サッ、行きましょうヨ!!」・・・(続く)

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第13章(No.78〜No.86)(〜27歳)新たな出発(V)・・・第二回個展を目指す・・・(2)アトリエ建設






(連載No.78)
  3月、新春とか、春先・・・、とは言え今日のような日はまた冬に逆戻りしたんじゃないかと言う日和です。
3月初めの日曜日、私は岩崎先生と約束しておいた通り会社に出勤する時間とおなじに荒川土手バス停に降り立ちました。
普段、平日のこの時間ですと荒川土手バス停は通勤で都心の官庁街に向かう乗車の人々、そしてこの早朝には付近の工場勤務で下車する労働者の往きかい でごった返すほどのにぎわいをしているはずなのです。
しかし今朝の休日の早朝、閑散としたバス停は障害物の無い北風がまともに荒川土手に沿ってバスから降りるや否や猛然と吹きさらします。
何か先日見たマカロニウェスタンの映画の主演カーボーイになった気分です。コートの短い襟を引っ張り上げて我慢します。
今日は、私のこれから暫らくの住まいとなる岩崎先生宅の半地下施設の工事を始めるために出かけてきたわけなんです。
「吾郎文具店」の表ガラス戸はカーテンが架かっています、…と言うことは・・案の定、ドアは鍵が掛かっていてまだお店には人の気配がありません。
ガラス戸をドンドン叩いて起こすことも可能ですが未だ寝ているんでしょうか。暫らく待つことにします。
わたしは再びバス停側にもどり背後の荒川の土手を登ります。土手の高さはどの家の二階の屋根よりも高く、見通しは良いですがその分風当たりも格別です。
そのまま河川敷に降りると意外です。あれほど吹き荒れていた北風も頭の上を越えて川面に吹き下りているんでしょう、陽だまりの温かさが格別です。
わたしはゆっくりとそのまま河川敷の先端、河っぷちまで進みふたたび風に身を任せます。
さざ波の立つ川面の先の対岸には去年までの巨大な工場、日産化学が移転してその跡地には大きな団地を作る準備が進められているのです。
荒川を隔てた対岸と言えどもこの近くに大勢の人が移り住むようになる・・・、そう想うだけでも気の休まる気持ちは湧いてきます。
しかし一方、こうして汚れに汚れきった荒川の河の流れを見ていると、こんなにも汚してしまった環境の真近に住まなければならない自分の運命の 先行きに哀れささえ感じてくるのです。
現に、上流からは明らかに近くの化学工場から先ほど排出されたばかりと言わんばかりの赤紫色の排水が帯をなして岸辺を伝って流れ下っていくのです。

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今まで住んでいた文京区駒込林町もここ暫く、学生運動も収まり催涙ガスの臭いもやっと遠のいて平和な環境が戻りつつあったばかりでした。
それは学生たちの日本の国の文化に対する転換期を求める戦いであったと感じるのです。でもそれはここより遠い都心の話・・。
この汚れ、よどんだ河の流れを見ているとこの工業地帯に住む人達は必死になって生産をし、その日の糧を上げようとする日銭を稼ぐ現実の社会を 目の当たりに感じないわけにはいきません。
この先、日本はどうなって行くんでしょう、この先安らかな生活ができるのでしょうか・・・?
私が数年前にこの近くの化学工場に就職したとき、先輩から聞かされました。「夏の昼休みには荒川で対岸までひと泳ぎしてきて仕事したものサ」
しかし、そんな話を聞いた時点でももはやこの河で泳ぐなんてことは及びもつかないほどの汚れようでありました。
そして今、さらに深刻化してきている死んだ河・・廃水大河、をみているとこの河の近くに住まなくてはならない自分に対して更なる哀れみを想うのです。
気がつくと朝の風も収まり穏やかな早春の日差しが土手の芝生を照らしそこからはほのかな温か味さえ感じてきます。
土手のふもとに腰を下ろすと芝を通して柔らかな地面のぬくもりが伝わってきます。
もう何年も忘れかけていた感触に再び巡り合った気がします。都会に住んでいては決して味わえなかった感触です。
そのまま体をのけぞらせてみます。まばゆい陽ざし、暖かな陽ざし、体を包んでくれる陽ざし・・やはり都会に住んでいては体感できなかったことでした。
私はこれからこの土手を友としてつらい時も苦しい時もここでこうして空を見上げていればなんとかなる・・・、そんな思いがふつふつと湧いてくる 気がしました。
わたしは再び土手に登って胸を張ります。ゆっくりと体を一回転させながら遠くまで見渡せる視力をいっぱいに使って気持ちを落ち着かせます。
あれは秩父連山、そして富士山、すぐ左は丹沢の山塊だ。東京湾、千葉方面は霞の中・・・、そしてくっきりと筑波山が孤高に見えます。
そうか、足元を見ていると本当にみじめな自分しか浮かび上がりません。こうして遠くを見ているとどこからか勇気みたいなものも湧いてくるんです。
目の前の荒川にかかる橋、木造の江北橋を東京駅北口行の空バスが砂埃を上げて通り過ぎます・・・そうか今日は日曜日なんだ。
江北橋の50mほど下流に新しい橋を造るための工事が始まっています。その鉄筋コンクリート製の橋が完成すると今後は左右で4車線の立派な橋に なると言う、私の住むであろう下沼田町もだんだんに開けてくるんだ。
再び河川敷に目を転じると改めてこの荒川土手の魅力も見出して来るのでした。
この土手のこちら側は現実の世界、そしてここの頂からこっちは自分の世界を見直せる世界・・・・なんだ・・。
土手の上から吾郎文具店の様子をうかがいます。すでにお店に架かっていたカーテンも開かれてお店は開店していることが うかがわれます。

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土手を駆け下りて吾郎文具店のガラス戸を勢いよくあけます。「おはようございます!」
「オウ!!、遅かったな!」・・・(続く)




(連載No.79)
「幸三郎さん、朝ごはんまだなんでしょう?」いきなり岩崎先生の言葉です。
「いえ!、あ〜、・・・」何と返事をしたものか迷っているうちに暖簾の向こうから奥さんの声がします。
「ハ〜イ、ご飯を、よそいましたよー。」と出鼻をくじかれたと言うかすっかり先生のペースにはまってしまいました。
朝食をご馳走になりながら私は岩崎先生が言うこれからの計画について説明を受けます。
「幸三郎さん、使う広さは8坪・・つまり16畳と言う訳です。」
「と言ううことは、私の今使っているアトリエの倍もあるということですね。」
「そうですが全部アトリエと言うわけにはいきません。ベッドや机、イスなども置かなくてはなりませんから・・」
「イヤ、それにしても広いですね。しかも建設費だって相当掛かるんではないでしょうか?」
「前にも説明しましたが、三面はコンクリートで出来ています。開いている一面を外からの採光と仕切りにガラス戸を4枚建てつけます。」
「随分大きな窓ですね。」
「そう、しかも値段がそのほうが安くて済みます。そして8坪にするための間仕切りと入口のドアーです。」
「床は確かすべて板張りにすると聞いていましたが・・」
「そうです、それらをすべて含めて12万円以内で収めたい・・と言うのが私の計画なんですよ。」
朝食が終わった後わたしと岩崎先生はすでに材料が運ばれてきている半地下の階段を降りて現物の確認をしました。
何にも無い半地下空間は思ったより広く、しかもまだ間仕切りも無く陽射しの届かない空間は表の通りから寒気を伴った風が階段を吹き降りて身も縮む思いです。
「先生、こんな寒いところで2時間も仕事をしていたら体の芯まで凍えてしまいそうですね。」
「そう、ですから仕事の順番を取り合えず間仕切りを最初に作って風の通り道だけは塞がないとキツソーですね。」
そう言って岩崎先生はあらかじめ計測しておいた基準点の印の延長を示しながら
「幸三郎さん、ここから天井まで骨組みを作ってこの石膏ボードをきっちり貼り付ける・・。」「どう?」
杉荒材の垂木板やそれを支える角材、石膏ボード、コンクリート釘、のこぎり、金槌、そして大中小の釘類もすべて揃えられていました。
もともと補強の為の計算など全く不要です。垂木を標線に沿ってコンクリート釘で打ちつけます。5cm角材を45cm間隔で床から天井まで垂直に立てる。

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昼食をはさんで3時頃には間仕切りの為の基礎工事は終わりました。
「ホー、随分と早かったねー。」と、岩崎先生も驚くほどの早さでした。
実は先生には言っておきませんでしたが私は子供の頃から木工工作が好きでした。
元々農家の父親と言うのは簡単な鶏や牛、ヤギ、羊など飼うにあたりそれらすべての小屋は自分で作れなければ勤まりません。
そんな親爺の手際や道具の扱いなど見よう見まねで自然と身についていました。ついでに言っておきますが田舎の家の前は川があり、田んぼで使う舟、 諏訪湖で漁をする舟、艪、櫂、竿に至るまで修理も自前でしたし、勿論わたしも水漏れ防止予防の方法や手順に至るまで教えられています。
ですから私にとってこんな楽な大工仕事など本当の朝飯前と言うくらい簡単な仕事でした。
「幸三郎さん、それでは今日の内に出入り口のドアの枠だけ造っておきましょうよ。」
そこまでしておけば来週の作業の前に建具屋さんにドアーを取り付けてもらっておいてくれると言うわけです。
「わかりました。では、この辺を出入り口に設定してこの柱を切ってドア幅に合わせて枠を造っておきます。」
こうして何と無く住まいの空間が現実味を帯びてくると昔の楽しかった想いがよみがえって来ます。
私の実家の間取りと言うのは昔、二階屋で養蚕もしていたことから二階の部屋はすべて大部屋間仕切りになっていました。
二人の兄達は一階の細長いつくりの6畳間を二つに分けてそれぞれの勉強机を備え傍から見ていても「あんな環境があれば俺ももっと勉強する気に成れるのに・・。」 と思っていました。
私も中学に入る頃から自分の机とその周辺を自分の好みにしたいと思っていました。でも、そんな適当な部屋なんかありませんでした。
母はわたしに二階の部屋に机を置いて勉強部屋にしなさいと言います。
もうその頃は養蚕などしていませんでしたから二階の部屋は何にも使われずただ大きな空間が残っているだけでした。
一番小さな部屋でも8畳間もあり、そんな部屋の片隅に机を置いて座ってみてもとても落ち着く気にはなれません。
私はいろいろと考えた末に「?@?、そうだ、間仕切りをしよう・・」と発想したのでした。
使っていない襖と障子を繋げこの部屋のコーナーに見事3畳間を作ったのでした。
背中になる襖には山本富士子や荻村伊知朗選手の写真を貼ったり、こちらの仕切りの障子には私の描いた油絵のボードやのり子さんからもらった手紙など飾りご満悦です。
窓の下は川が流れ、我が家の二艘の舟が並べて係留され風情も良く最高の環境が整いました。
こんな環境で勉強に励んでいればノーベル賞も夢ではない・・・
「オーイ!、幸三郎さーん、もう終わったようかい?、ボツボツ暗くなってきたから一杯やっていかないかい?」

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岩崎先生が上のほうから大声で催促します・・・(続く)




(連載No.80)
  階段を駆け上がって文具店のお店のフロアーにあがると温かいこと・・・。「ウワー!!、あったかい!」
「御苦労さん、夕方になると一段と冷え込んできたようだね、ここにきて温まりなさい。」
「ウワッ!、こんなにあったかいストーブは何と言うんですか?。」「うん、石油ストーブって言って新しいやつなんです。」
岩崎先生はいたずらっぽくストーブの上に水を張ったアルミの洗面器の湯加減を見ながら「きょうは久しぶりにお燗酒でもと思ってね・・」
2本の徳利にお酒を注いで洗面器に浮かべます。「いやー!、先生、トックリが気持ちよさそうですね。」
「そうです。お酒が気持ち良ければそれを戴くことはもっと気持ちいい筈ですからね。」
「これは贅沢な頂き方です。先生はそんなに曇った眼鏡で手元が見えるんですか?」
「ナニをバカなことを、見えるわけないでしょ!、こうして眼鏡の下の隙間からチャンと見えているんです!。」
「このくらいでどうかな?」「イエ!、私がまずお注ぎいたしますから・・」「そう?、では・・・」
「うーん、いいねー」
「近頃の飲み屋さんはネ、冷にしますか?、熱燗にしますか?・・なんて、白と黒しかないような口癖だけどだめだね!」
先生はわたしにお酒を注ぎながら「日本には昔から”一肌”って言う正しいお燗の道もあるんですよ。」「どぅお?」
確かに岩崎先生のおっしゃるようにお酒のほのかな香りが鼻をくすぐり、含んだ口の中いっぱいに豊潤な酵母の香りが広がっていきます。
「むせぶような熱いお酒を出すところナンテのはロクなお酒じゃないんだから・・」
「そうなんです、私も親父からよく言われました。お前の飲めるようなお酒は熱くしないと危ないって。」
「そう、昔はメチールの入っているのもあって熱燗にすると先に飛んじゃうからネ。アブナイお酒もずいぶんと出回っていましたよ。」
「でも、今はそんなもの出回っていないんでしょ?。」
「まあネ、一杯4〜50円ほど出していれば心配はないと思いますがね。」
「エッ!、私は一流の飲み屋さん、養老の滝で30円ですが?」「大丈夫ですよ・・」
「ところで先生、今日のこのペースで工事をしていくとやはり2ヶ月くらいで出来上がるんでしょうか?」
「いや!?、わたしはネ、幸三郎さんがこれほど大工仕事が出来るとは思っていなかったんですよ。」
岩崎先生は自分の予想がいい方に傾いた時にいつも見せる、笑顔で首を少し傾けて上目使いの目線でわたしに言います。
「うん、毎日会社の帰りに1〜2時間と、日曜日が、4〜5回位だね。」

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「エッ!!、そんなもんで出来てしまうんですか?」
「ボードの貼り付け、ガラスドアーのレール設置、床張りの作業、ドアや窓のセッティングにそれぞれ1日づつ・・」
「あの、先生!、来月4月から僕の会社は隔週ですが週休2日制になるんです。」
「ほー!、それはずいぶんと進んだ会社ですね。この近所の工場ではそんな会社は一つも聞いたことはないですよ。」
「はい、何でも作業時間短縮のためのカトキ?とかで、その代り仕事の終わる時間は4時半ではなく、以前と同じ5時になるんです。」
「なるほど・・?、つまりこの工事も毎日の作業時間は減るけれど集中した作業日が余計にできるわけだ・・。」
「まあ、僕としては会社の仕事もやりやすくなりますし、余暇の日も増えてうれしい限りです。」
「よかった、よかった・・。」
「まあ、僕はもうすでに美術研究所には行っていないから良いですが、同じように夜間の学校に通っている後輩たちはこの30分の 作業延長は通学に厳しいようですよ。」
「で先生、提案なんですが・・。」
「ほう!?」
「少し時間に余裕が出た所で、許可してもらえるんでしたら塗装も工事に入れたいんですが・・。」
「とそう・・?って、どこの?」
「最初は壁のコンクリート、打ちっ放しのままで十分と思っていました。でも間仕切りのボードの真白に対してやはり少しは・・なんて。」
「うん、それは出来ればその方が良いことは分かっていましたが、ひとつは工期、もう一つは材料費用です。」
「はい、塗装は増えた分の2日を充てるとして、材料ですが・・、仕事で使っているテスト塗料は現在使用後お金を支払って処分しています。」
「その内、以前から少しづつですがコンクリート塗装用で明るい色だけを石油缶に貯めていました。」
「なるほど、手回しがいいですね。」
「これは少しではありますが会社の経費削減にもなりますし、私の工事の得にも・・・って、混ぜると薄いグレーになりますが贅沢は言いません。」
「それはいい、早速工事予定に組み入れようじゃないか。」
「壁と天井のすべてですから二缶は必要だと思います。来週はもっと明るい色のテストが始まりますからそれを天井にしようと思います。」
「よし、わかった。床張り作業は天井の塗装が終わった後にしよう。」・・・(続く)




(連載No.81)
  私は会社で着色テストが終わって廃棄する予定の塗料の内、明るい色だけ混ぜ合わせた塗料を30kgほど集めて保管するための準備をしました。

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大部分の塗料はすべてに合格し着色剤の性能がきちんと発揮されたものがほとんどですが中には着色テストに失敗して塗料が発色しなかったり、 発色はしても様々な試験器で測定した数値が基準以下だったりと文字通りの寄せ集めの混ぜ合わせ塗料です。
しかしそれは着色材としての不満足はあるにしろ物を覆い隠すと言う本来の目的のひとつは確実に優れた性質の塗料ではあるんです。
わたしは会社の帰り道、二日に分けて一度は水曜日に塗料を工事現場である吾郎文具店に運び込みました。驚いたことに岩崎先生は最初に運び込んだ 塗料を
「・・わたしにも塗らせてもらえないかね・・」と、大変な興味を持っていただいたようでした。
私は同時に「ああ、先生も人の子だ・・、面白そうと思ったらやってみたくなるものなんだ・・」と思いました。
「先生それは構いませんが、実は次に持ってくる塗料と色が違っているんですよ。とにかく廃棄する寸前のテスト塗料のかき集めですから・・」
「・・そうか、天井の色が途中で変わってしまってはおかしいよね。」
「ハイ、ですから今度持ってくる廃塗料と混ぜ合わせて一つの色になってしまえば全然差しさわりがないんですが・・。」
岩崎先生は返す返すも残念で仕方がない・・と言う表情を隠しきれません。確かに絵のことについては岩崎先生が先生です。しかし、塗料の塗装と言う ことに関しては私の方が少しばかし先生なんです。
会社ではテストピースと言って金属やボード、そしてスレートや厚紙まで大きさ形は試験器にかけられるようにきっちりと揃えられています。しかし 塗料と素材の組み合わせにより塗装方法は2回塗りが好ましいとか一度塗りで済ますことができる性質かなども吟味できるのです。
しかし、後でわかったのですが岩崎先生はご自分で塗料を大きな壁面や天井に塗ってみたい・・と言う欲望は捨てませんでした。私は 「図られた・・!?」と思いましたがその事も実に楽しい思い出になりました。
二缶目の塗料は金曜日の夕方に会社の終わった後に持ち込みました。これで塗装用の塗料はすべて持ち込んだことになります。
岩崎先生は「さて、明日と明後日の二日間を工事に取り掛かることができるわけですね?取りあえず工事計画を練り直すとして・・・」
先生はもう話半分でお店から暖簾を肩で切って台所に向かいそちらからグラスを探し出す音が響いて聞こえてきます。
先生は私のグラスにサントリーレッドを注ぎながら確信めいた顔つきで切り出しました。
「幸三郎さん、天気予報ではここ暫くは温暖な気象状況が続く・・と言っているんですよ。」
「そうですか、それはありがたいことです。先週なんかとんでもなく寒かったですから作業もはかどりそうです・・。」
「うん、それでね!?、つまりコンクリートの工事をやっても凍らないってわけなんですよ。」
「はい、わたしもそのコンクリート工事は春の暖かくなってきた頃かな・・と思ってはいましたが・・」
「まあ、工事の段取りとしては外回りさえすべて終わらせておけば内装工事は天候に左右されませんから、どうですか?二日間で先にドアーレール の工事をしてしまいませんか?。」

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最初の工事計画ではこの半地下の部屋の採光のための仕切りは4枚のガラスドアーにしましょうと決めていました。従ってそのための高さ調節と レールを敷設する工事をすることが必要でそのためにコンクリートの混練りと型流し、半固まりのときにレールの敷設をしなくてはなりません。
「今週ですがね、建具屋さんが来て入口のドアーを取り付けて行ってくれたんですよ。ですから私としてはこの暖かいうちにコンクリート工事と あわせて石膏ボードを貼り付けてしまうことを提案したいんですよ。」
「あー、それはいいですね。ちょっと、ドアーを見てきましょうか。」
なんとも不思議な空間です。16帖に間仕切りされた仕切りには向こうがまだ見通せるのに、取り付けたドアーだけが入室を拒むように存在するのです。
そして先生は取り寄せた建設資材の中のセメントと砂、砂利の場所を確認しながら「これをすべて混ぜ合わせると1:2:3で最強のコンクリートに なるんですよ。」
「へー!!、セメントの量は意外と少ないんですね。」
「そうなんです、でも型に流したあと棒きれでよく捏ねてあげると仕上げはほとんどいらないくらいの滑らかな表面になるんですよ。」
「以前、先生にお聞きしました。上野駅公園口前の文化会館の壁はコンクリートの打ちっ放し工法だと・・」
「そう、あの建物が知れ渡るとあちらこちらで打ちっ放しの建物が流行りだしました。」
「仕上げの工事をしなくても十分美しいと感じられますよね。」
「まあ、幸三郎さん、きみの腕次第でしょうけどね。」
翌日の土曜日、わたしは朝早くバスに乗り荒川土手バス停に降りました。先週までこの土曜日は通勤で降りましたが一週間おきに休みです。近所の 工場にお勤めの人たちは相変わらず出勤の様子でバスの乗客の顔ぶれは依然と同じです。
岩崎先生も気合が入っているようで私の来るのを今や遅しと待っていてくれたようでした。
「幸三郎さん、今朝は納豆ですが力仕事ですからまず、しっかりと食べてから始めましょう・・。」
「はい、何時もどうもすみません。」
「いや、ぼくもまだこれからですから一緒に食べましょう。」
そう言いながら岩崎先生は大きな鉢に幾人分の納豆を入れたんでしょう。刻みネギもたっぷりでかき回す匂いが食欲をそそります。
わたしは言われたように味噌汁をそれぞれに盛り、ご飯をよそいます。
「おう!、今日の仕事ではそれぐらいは食べてもらわないと体も持ちませんからね。」
私としてはもっと食べれそうな気はしましたがそれでもやや控え目でよそったご飯の量でした。

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「先生、今日はまだお店は開かないんですか?」
「いや?!、今日はそれどころでは無いでしょう。お店はお休みにします。」
「え?!、それではあまりにも申し訳なさ過ぎて・・」
「幸三郎さんはセメンを捏ねるのは初めてなんでしょう?」
「私がしばらく付きっ切りで見ていてあげます。大丈夫、私は壁に塗料を塗りながら見ていますから・・。」・・・(続く)




(連載No.82)
  なるほど、そう言うことだったんだ。岩崎先生は自分で塗装をしてみようと言う気持ちは全然変えてはいませんでした。
そして私がコンクリートを捏ねている間に私から塗装の要点も聞きながら、つまりお互いの得意なことを教え合って事を進める段取りなわけです。
「幸三郎さん、大丈夫です。今日は”吾郎文具店”も久々の週休二日制なんですから。」
私は漠然と考えていました。ガラス戸は戸車用のレールを敷くとしてそのほかのことについては一向にその手筈も考えてはいませんでした。
しかし、岩崎先生の頭の中には段取りが刻まれていて先ずその説明を聞きます。
間口は3.8m、開口部の高さは1.85m、真中に硝子戸用の柱を立て、両脇にも柱を立てる、上部には凹凹加工された敷居を渡し、そこから下に 175cm測り、その標識点の高さまでコンクリートを流してレールを敷く・・という段取りです。
すると土台から継ぎ上げるコンクリートの高さは6cm、幅は9cm、長さは175cm。これを2セット作ると完成と言うことです。
鉄筋は入れる必要がありませんのでせいぜい4〜50kgのコンクリート打ちという計算です。
「とにかく先ず標線までこの板を使って囲いをしっかり作って下さい。」
「特にコンクリートを流し込んだ後、棒を使って突いて流動性を持たせます。結構圧力がかかりますからシッカリと止めてください。」
わたしも近所で土木工事があって工事屋さんが「・・こんな具合にやってたよなー・・」などを思い浮かべながらの作業でした。
「幸三郎さん、このバケツは借り物ですがこれを使って4回ほどセメントと砂と砂利を混ぜて、水を少しづつ注いで作って下さい。」
「コンクリーは水を入れる前に十分かき混ぜてくださいね。」
「うお!、結構力が要りますねー」
「そう、そう、本当は広い鉄板の上でやると混ぜやすいんですがこんな量ではね、我慢してください・・。」
そう言えば近所の土木工事でも人夫さんが向こうとこちらからサッサ、サッサとリズミカルにセメンを混ぜ合わせているのを思い浮かべます。
「先生、こう、なんて言うのかな・・なかなかサッサ、サッサと移動してくれませんね。」
「そう、特に水を入れる前は抵抗が大きいですから、でも慣れてくると先にセメントと砂を混ぜそして砂利を継ぎ足すと楽だって解ってきますよ。」

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「しかし、少ないからと言って手首で捏ねようとするとケッコウ効きますね。」
「だいたい理論的にはコンクリートの比重は2.3ほどあります。それから土やセメントは力を入れ過ぎると反抗して動かなくなります。」
「それ、それ、私の会社の仕事でもよく経験します。チクソトロピーとダイラタンシー・・」
「ですからセメントが気持ちのいい力加減で動かしてあげないと一人前の人夫さんにはなれませんね。」
「そろそろ良く混ざったころ合いだと思いますがどうでしょう?」
「そのようですね、デハ、少しずつ水を足していきましょう。・・こうして少しづつ・・、突然にジャブジャブってなりますからその直前で止めます。」
「ずいぶとセメントって気難しいんですね。」
「初めてにしてはいい具合に出来ました。型枠の隅の方から流し込んでください。」
「ウッヲ!、重いですね!、」
「次にも同じようにしますからバケツの中身は綺麗に掻きだすこと、標線ギリギリにコンクリートを注入してください。」
「ハイ、入れ終わったらこの鉄棒で隅々まで万遍なく突っついてください。」
「こんな具合ですか?」
「そう、そう、もっともっと!」
「先生、表面がジャブジャブになってきましたよ。」
「そうです、そうなった時に標線とコンクリーの面が合えばそこは完成・・・、この辺はもう少し継ぎ足してください・・。」
「ありがとうございます。次からはどうやら一人でできそうですから、先生はときどき見ていてくれるだけで結構です。」
「そうですか、デハ、私もこちらの方を始めるとしましょうかね。」
「幸三郎さんは、どんな手順で塗装をする予定でしたか?」
私はこの水性塗料はコンクリートに塗るとき一度塗りよりも面倒ではあるが二度塗りをした方が仕上がりが綺麗になること。また、下仕事として 汚れや、蜘蛛の巣などは箒で払おうとすると埃が立つので、ホースで水をかけた程度にしておくこと、それによりコンクリートの吸水性が安定し 塗装がし易くなることなどを提案しました。
先生はそんな程度の掃除では永いことほっておいた汚れは綺麗にならないでしょう、と言います。
「先生、多少の埃は一度目の塗装で塗料の中に封じ込めてしまいます。使う本人がそんな程度で・・と言ってるんですから大丈夫です。」
先生は放水した後でも壁に指をなすりつけて「・・ほら、大丈夫かい?」
「平気ですよ!」

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「では、この上に塗ってみますよ?」
「あ!、先生、この塗料は使う前に良く振って流動性を持たせて下さい。ハケさばきが良くなりますから・・。」
「難しいんだね、こっちはチクソトロピー・・だったっけ?」・・・(続く)




(連載No.83)
日中は暖かいほどにまで気温が上がりましたがお陽さまが西に傾くと途端に気温は低くなります。
岩崎先生はすでに一回目の塗装を終えて上のお店の奥にあるテーブルでくつろいでいます。
わたしのコンクリート作業も順調に進み片側のレール施設も思った通りに埋め込むことができました。そして柱を挟んだもう一方の作業もあとバケツ いっぱいで終わりそうです。
一方が終わった時点で先生はこちらに手を付けると途中でやめて翌日に・・と言うわけにはいきませんがどうするのか尋ねられました。
すでに昼過ぎではありましたが作業も慣れてこのまま取りかかった方が私としては効率的と判断し続けました。
うまい具合にセメンは少し残るくらいで型枠の中に収まりました敷居のレールは等間隔にセットされていて、固定のための繋ぎをコンクリートの溝の 中に落とし込み、その上から繋ぎを埋め込むようにセメントを乗せて慣らすと完成です。
「ウヲォ〜!!」

「幸三郎さん、どうにかしたのかい?」岩崎先生が驚いて降りてきました。
「イエ、すみません、完成したんでつい背伸びをしたら大きな声も出てしまいました・・。」
「どれどれ、ほーよく頑張りましたね。」
「ハイ、実はちょっと張り切りすぎました。でも私としては一番心配していた作業も終わってみるとあっけなかったようです。」
「ウン、気温もこの分ですと陽が落ちてから冷えてはきましたがセメンが凍結するようなことはないようで私も一安心です。」
「そうそう、そうでしたね、せっかく終わったのに凍結してしまってやり直しなんてのはまっぴらです。」
「まあ、余談ですがネ、冷え込みそうな時には汚れてはいますがこのシートをかけてやるんですよ。」
「念のためにかけておきましょうか?」
「随分と心配症なんですね。じゃ、そうしてください、上で一杯やっていますから終わったら来てください。」
私は洗った手を石油ストーブにかざしながら温めます。「やはりシートをかけておいて安心です。」
「そうですね、ハイ、ウイスキーは自分で割って下さいね。」岩崎先生は大きなサントリーレッドの瓶を私の方に押しやります。

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「ちょっと一口だけストレートで・・・・、」「プッハー!!」
「幸三郎さん、大丈夫ですかそんな呑み方をして、体に悪いですよ。」
「エエ!、冷え切った体がこうジーンっとあったまってくるんですよ。で先生、バスの時間ですので今日はこれで失礼します。」
「そうかい?ま、明日もあることだし今日は疲れたでしょうから早く帰ってお休みなさい。」


ばか陽気とは今日の朝のような天気でしょうか、日曜日で近所の音も静かなこともあってだいぶ寝坊をしてしまいました。
慣れない作業のため体も疲れていたんでしょう、おかげですっかり気力も回復しています。
もう8時を回っています。昨日のうち岩崎先生には今朝はゆっくり出かけます・・と言っておきましたので朝食の買い物に出ます。
近所のパン屋さんも店を開いていました。焼きたてのパンがおいしそうに並んでいます。
長いフランスパンを一本そのまま買って、牛乳も買って帰って来ました。
会社に行っている時は朝昼夕食すべて会社の食堂で食べていますからこうしてお休みの時には本当に食事が面倒です。
フランスパンは残しておいても堅くはなりますが牛乳に浸せば急いで食べることもできるし大変便利です。
パンは3分の1食べた所で朝食は終わりにし、支度をして建築現場に出発します。
あらら、しまった今日は日曜日なのでバスの本数が極端に少ないのです。朝晩は本数がありますがもう9時過ぎではすくないのです。
田端駅までのバスは20分に1本ほどありますが、東京駅北口発荒川土手行きは10時すぎないとありません。
駒込林町のバス停はお陽さまの向きが具合悪くこんな日陰でジッと待っているのもしゃくにさわります。
そうだ、田端まで歩いて街を散歩しよう・・と決めました。
今、工事中の部屋が完成すれば6年も慣れ親しみ住んだこの駒込林町とも別れなくてはなりません。
次のバス停は都立駒込病院・・・、ああこの病院にも痔の手術でお世話になったよな・・、相変わらずきたない建物だねー。
背中に陽の光をいっぱいに浴びて動坂を下ります。この坂の思い出は何と言ってもスキーです。冬には幾度も大雪の日があり、通行止めになった広い 通りはたちまちにしてスキー場でした。
幾度も滑ってせっかく雪を固めた頃にはトラックで来た都の職員さんが「さー、終わりですよー」と言って固めた雪を次々と運んで行きました。
追われた私たちは隣の道灌山に移動し、そして次には団子坂に移動し、ついには赤ちょうちんの玄関にスキー板を立てかけて一杯やったよなー。
動坂を下り切るとここは不忍通り、上野から護国寺までの都電通りです。上野の美術館に100号、120号などの絵を運ぶ時、絵の下に戸車を付けて 団子坂を下り、この不忍通りを横切る時、戸車が線路に挟まって「お巡りさ〜ん助けてー!」・・・(続く)

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(連載No.84)
  動坂を降り切って不忍の都電通りを突っ切ると文京区から北区に入ります。田端駅までの平坦な道の両側は商店街が続きすでにこのあたりから下町の 様子で沢山のお店が賑やかな活況を見せています。
最初の交差点谷田橋、角のスーパーの裏手に小さな粘土屋さんがありました。こんなところに・・と言うことですがなんとその商いは有名美術大学や 各学校の美術担当との間で全国からの粘土を教材として扱いやすく幅広く流通させていたお店なんです。
*注第7章の陶芸との出会い・・市川美術研究所時代に紹介していただいた粘土屋さんです。 その息子さんのうちのお一人が後年私の住む川口市に支店を開設、大変ありがたく永いお付き合いをさせていただいています。
ここまで来るともう田端駅は7〜8分と言ったところです、駅が近くなると当然と言っていいほど呑み屋さんの赤い提灯や紫の看板が目立つように なります。そんな華々しさもこんな昼近くに歩くと何か白々しく寂しくも見えます。
駅から一番近いパン屋さんの前まで来ました。お店の構えはとても最先端の食料品屋さんとは思えないほど地味で”田端ベーカリー”と言う看板が おいおい、もうちょっとマシな看板に出来ないの?と思わせるほどのお店です。
ちょうど豆腐屋さんが派手な看板を掲げてパンを売っている感じのお店なのです。
わたしは美術研究所の帰り道、田端駅から歩いて帰る時に必ずここのパン屋さんに立ち寄ってあのパンを買い、夕飯代わりにかじりながら帰りました。
あのパンの名前が思い出せません、15cmほどのスティック状で親指くらいの太さ、5本位入ったミルクパンの一種でした。
そして商店街が終わってバス通りはここから高い石垣で囲まれた切通しとなって田端駅までの間しばらく薄暗く寂しい通りに変身します。
その最後の商店が”動坂酒蔵”、大変名前ばかり立派なちゃちな呑み屋さんです。
しかし今日は白昼、それも賑やかな商店街を通り過ぎての道順です。とても文化的な商店街にとっては迷惑な感じがします。
逆ルートのちょっとこんな場面を想像してみてください。夜の10時少し前、田端で電車を降り駅の階段を上って小さな駅前ロータリーに立ちます。
右下の街は田端新町三丁目、ネオンも華やいでまだ喧噪の真っただ中です。私の住まいは左上、真っ暗な石垣の切通しを寂しくとぼとぼと家路に就きます、 その暗い切通しが終わって目の前がパッと明るくなる最初のお店が赤い提灯の”動坂酒蔵”と言うわけです。
これは大変控えめな表現をしてもこれこそ砂漠で遭遇したオアシス・・と言う感じがするのです。ポケットの中でお金を数えます。・・・4,5!、 500円もあれば十分です。
名物は何と言っても”ホルモン焼き”、わたしは最初これが何物であるか知らなかったんです。
肩を寄せ合って時々よっ掛かってくる鉢巻オヤジにそれとなく聞いてみた。トロンとした眼のオヤジがすんげー顔して
「ばかモン!、てめーみてーなガキの来るとこじゃねー!!、さっさとけーれ!」とぬかしやがった。

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まあ、私としては「聞くはいっときの恥、聞かざるは末代・・」と言うほどではなかったけれど、こういった雰囲気での会話は実に楽しかった。
そんな鉢巻オヤジも2〜3回顔を合わせるうちに大変親しく話し掛けてきたりしてくれる。
「おい、ボー、この黒いのは何だか知ってるか?、知らね〜だと?、バーカ、」
「これはナ、レバーって言ってなブタ公の肝臓なんだよ。元気なブタ公だからこんなにウンメー・・・」
「それに引き換えてオレんのはナ、医者が言うにはもう酒呑んじゃいけねー・・・ん、ん、・・」
「なんだよー、オヤジさん、泣き上戸かよ?シッカリしてくれよー!」


とうとう駅前まで歩いてきてしまいました。ロータリーの向かい側のバス停にはバス待ちのお客さんがすでに7〜8名並んでいますがバスの到着までは まだ10分以上時間がありそうです。
そのまま通り過ぎて田端陸橋の鼻先まで行きます。田端駅を出た下りの京浜東北線電車が山手線の下をトンネルで抜けていきます。
上りの京浜東北電車は大回りして山手線を迂回して田端駅に入ってきます。駅には山手線の外回り内回りを挟んで京浜東北線の上り下りがその外を挟んで ホームに入るのです。まるで不思議な模型電車の運行を見ているるようです。
それでもここから見る電車の量や種類は、美術研究所のある鶯谷駅近くとは全然違って寂しい限りです。
列車の東北本線や高崎線、宇都宮線、常磐線、京成線などは日暮里から別れてしまって、田端駅では山手線と京浜東北線しか通りません。
しかし、ここから上中里駅まで連なる広大な田端機関区の敷地には入線入れ替えのための貨車が模型のように観察できるのです。
ここから注意してバス停の方を見ているとバスが到着してから走って行っても十分に間に合う距離と人待ちの数です。
だいたいどうしてこんなに長いバス路線を設定したんでしょう。”東京駅北口発西新井行き”中央区、千代田区、文京区、北区、荒川区、足立区 25kmにも及ぶ路線です。時間どおりに運行できるわけがありません。
おや?!、時間通りにバスが到着したようです。今日は日曜日で道路も比較的空いていたんでしょう。
あらかたのお客さんは降りてしまい、改めて田端駅から乗車するお客さんで座席は埋まります。
定刻時間に発車、先ほどの田端陸橋を渡って本当の下町・・田端新町三丁目へと坂を下ります。この先に列車の通る尾久駅のガードと踏切を渡って 北区から荒川区・・小台の都電通りを過ぎて隅田川を渡り足立区です荒川の橋、江北橋を渡り終えると目的の荒川土手下バス停です。
工事中の吾郎文具店はバス停のはす向かい、私はそのまま文具店の向かいにある荒川土手派出所の交番の横から荒川土手に駆け上がります。
相変わらず異臭を放つ巨大な排水路と化した荒川の流れです。工事を始める前にもこの河川敷に降りてこんな汚い川のそばに暮らさなくてはならない 自分の運命と少なからずの寂しさを改めて感じました。
こんな汚い川のそばに住んでいる人たちは何も感じないのでしょうか。私の田舎の川や湖も綺麗なところです。今住んでいる文京区の下宿付近でも こんな臭いを発する事にはみんなで反対運動も起こしたりしています。

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*注昭和40年代、日本の復興期で環境的にも大都市を中心に最も汚染を源とする公害が最悪の 状態にまでなった時期だったと思います。
改めて土手の上から河川敷におりてみます。土手や河川敷には新しい草花の芽が出始めています。日中にはもうポカポカと陽光が降り注ぎほんとうに 暖かな春の陽気です。
それなのに河川敷を川面に近く歩を進めるたびに川からの異臭が生暖かい空気に混じって不快感となって歩みを止めます。
驚きました。こんな汚い河の岸辺近くに鴨が何かをついばんでいたんでしょうか、一斉に数羽が飛び立ちました。・・・(続く)




(連載No.85)
  ひとしきり荒川土手の川風にあたりながら改めて私は”この土地に住むんだ・・”と言う意を固めて土手を降りました。
もうお昼休みの時間は過ぎていますから吾郎文具店の主人である岩崎先生もひょっとして2回目の塗装を始めているかも知れません。
お店は日曜ですから当然お休みしてガラス戸は締まっています。お店の脇の入口から階段を降りるともう水性塗料の独特なにおいがしてきます。
「せんせー、遅くなりました〜」
「おー、ずいぶんゆっくりだったんだねー」
「ハイ、昨日のセメントの捏ねるのが少し体に響いていたもんですから、起きれませんでした。」
案の定、岩崎先生は朝から2回目の塗装を始めていたらしくすでに一番大変そうな天井部分はすでに終わっていて残りの壁も2面の内1面を残す ばかりにまで進んでいました。
「僕なんかの様に年をとるとね、変わった仕事をしてもそんなに翌日まで響かないんだよ。」
「おそらく、明日か明後日あたりになって上を向いていた疲れが首の辺にシコリになるんじゃないだろうか・・」
「先生、そんなに根を詰めないでくださいよ、なんか煽られちゃって・・」
「気にしなくていいよ、ところで幸三郎さんは今日は・・コンクリートの枠でも外そうか?」
「ええ、でも天井や壁がこんなに綺麗になってきたんですから石膏ボードの貼り付けを先にしてしまいます。」
「それはいいですね、ドアも付いていますからこの仕切りが完成すれば冷たい風も遮断されますから先の仕事もはかどりますよ。」
「先生、先ほどお店の脇から直接ここに降りてきましたが・・あそこにドアーを付ければ車の音もかなり静かになると思いますが。」
「それは前から考えていました、幸三郎さんはお店が休みのときはそこから直接出入り出来ますから・・」
「建具屋さんには頼んでありますから塗装をしてアトリエ入口としてのデザインも考えておいてください。」
「それは素晴らしいですね、なんか夢が急に現実味を帯びてきた感じです。」
「そうですね・・」

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私は石膏ボードの白い方を室内に向け最初に部屋の入口のドアーに打ちつけました。ボードは結構重く、しかも壊れやすいため扱いは慎重です。
計画では入口のドアーを挟んで奥に5枚、ガラス戸側に2枚貼り付けることにより一応ドアーの高さでの囲いができます。
たる木はしっかり45cm毎に正確に立ててありますから90cm幅の石膏ボードは寸分違わずキッチリ収まり仕事をしていても本当に 気持ちの良い限りです。
岩崎先生はと言うと相当なペースで壁の塗装を進めています。
「幸三郎さん、床板を張るのは後回しで正解でしたね、僕のようにこんなに塗料を垂らしてしまったら後の掃除が大変です。」
「ハイ、そのようですね、でも相当なハイペースの作業ですね。」
「そう、慣れでしょうね、それとやはりリズムに乗って進めるとホラッホラッホラッと・・」
「ああ先生!、その時に飛び散るんですね。」
「私の塗装屋としての経験ですとネ、この分では塗料は少し残りそうですね、まっ、とにかく安心ってところです。」
「幸三郎さん、来週のお休みは日曜日だけですよね。」
「ハイ、いまのところ隔週の土日休日ですから、来週は日曜日だけです。」
「ウン、じゃ来週来た時にはびっくりしますよ、ここのガラス戸が全部入りますからねー。」
「そうですか〜、急に部屋らしくなってきそうですね。」
「そうなるとここの間仕切りも今日中にキッチリ終わらせておいた方が気分がいいですね。」
「あー、その方が気分いいですね。」

私は夕方までの間に一枚物のボードの貼り付けはすべて終わり、天井までの隙間としての約60cm幅に石膏ボードをカッターナイフで分割し 張り付ける作業に入っていました。
石膏ボードの加工は最初慣れない時にはカッターナイフの刃が折れてしまったり切り込み個所以外の所が割れてしまったり苦労しました。しかし 慣れてくると、裏表にガイド的な切り込みを付けるだけで正確な分割ができるようになりました。
岩崎先生はすでにすべての塗装を終えて刷毛などの後始末で水洗いをしています。すべて順調に事が進んでいます。
「幸三郎さん、僕は上でお酒の用意をしていますから終わり次第上がってきてくださいね。」・・・(続く)


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(連載No.86)
  毎日会社の往き着にはバス停、荒川土手下で乗り降りしますので吾郎文具店のまえはいつも通りがけていました。
木曜日に会社の仕事を終えてバス停に向かうと吾郎文具店の脇、工事中の私の部屋に通じる道路からの入口に真新しいドアーが設置されていました。
”今日取り付けました”と言わんばかりに白木のベニヤ板を貼り付けたドアーです。・・・と言うことは建具屋さんが来てくれたんだ・・、そうすると 部屋のガラスドアーも既に入っているんだろうな〜。
入って見てみたい衝動が起きました、しかし私は出来るだけ我慢しました。もう3月も終わり頃です、今度の個展に向けた作品の制作もそれほどは かどって居る状況ではありません。
早く帰って制作中の作品に向かいあわなければなりません。それに時間に合わせて目がけてきたバス、乗り過ごすと30分は待たなくてはなりません。
始発のバスは定刻に出発します。バスが発車すると私は後部座席で深い眠りに入ります。
文京区駒込林町のアトリエのある我が家、バスの中でたっぷりと30分は熟睡したでしょうかすでに頭の中はすっきりとしています。
入浴も、夕飯もすべて会社で済ませてきています。あと残された時間はたっぷりと絵の制作に専念できる環境にありました。
描き掛けの絵、「建設」の前に 立ちます、 先ほどバスに乗る前に目にしてきた工事中の入口ドアーの真新しいベニヤの 平面が目に焼き付いていてはなれません。
あのドアーはベニヤ板の白木造り・・・、と言うことは雨風でメクレたり、日差しを受けて黄ばみから薄汚れていずれは朽ちてしまうのだろうか。
そう想うと真っ先にあのドアーの塗装をしなければ、と居ても立っても居られない心配が湧いてきます。
塗装は水性でも乾いてしまえば油性と強度的には変わりません。ただ無地の塗装をするのも気分が高揚しません、そうだデザインを決めよう。
わずか間口は畳一帖をタテにしただけの空間のドアーです、”この下にオレが住んでいる”・・それにふさわしいデザインにしよう。
あれこれ考えた末白地にグレーの縦ストライプ、上部にパレットをシルエット状にしかも黒で配置、主の”Kozaburo”を表札代りに記しました。
土曜日の夕方、会社の帰りに吾郎文具店に立ち寄ります。すでに会社で用意した塗料を持参し、岩崎先生にデザインを見てもらおうと思いました。
先生はデザインを見るや否や”強烈ですネー!”と一言いいました。「やはりそうですか・・」
この下町の最果ての地では彩色した建物など想像もつかない環境でした。しかしこの先にある私の勤務している工場は色材製造工場らしく煙突も 社屋もデザインされたフォルムで彩色され”新しい景観”と評価もされている事を思うとこの辺の商店街の憂鬱さが身にしみてきます。
岩崎先生は「いいよ、これからはネ、この街も新しい人が住むようになって新しい感覚の街になって行かないと・・」とわたしを弁護する気持ちです。
翌日日曜日にはもう朝一番のバスで工事現場の吾郎文具店に到着しました。夕べ話の途中で部屋のガラス戸の塩梅を見たのですがもう暗くてよく 見えませんでした。改めて朝の明るいところで見ると大変に立派に見えます。もう後は床を張れば立派な16畳間のアトリエです。

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「下町にそぐわないデザインのドアー」


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玄関ドアーの下地の白塗料を塗ります、一回塗り、二回塗りして乾くのを待ちます。もう顔馴染みなってきた近所の方が声をかけていきます、 「ヨウ、まっちろなドアーにするだな?」「・・あ、え〜・・」
縦じまのストライプを書きはじめます、「ヨウ、まるで葬式の幕ミテーダノ?」「・・あ、え〜・・」
私は途中で作業を止めて岩崎先生に相談します。
「先生、どうやらこのデザインはこの街では受け入れられそうもありません。」
「うーん、確かに近所の人は拒否反応しているようですね・・。」
「私は白と黒の配色は葬儀の色と言う感覚は全くないんですが無理があるんでしょうか・・?」
「幸三郎さん、このデザインを銀座の商店にそのまま持っていけばナンノ問題もなく新しい感覚として受け入れられると思います」
「足立区下沼田町商店街では無理でしょうか・・?」
「そんなことはありません、ゲンに若い人の意見も聞いてみなさい?、こういったデザインも街の環景と方向性を探る上で大切な一投石です」
私としては兎に角真白なベニヤ板に雨風をしのぐ塗装を優先したと言うことでしばらく状況を見ることで作業は遂行しました。
「幸三郎さん、今週の教室にくる若者達に感想を聞いてみようと思いますが立ち会いますか?」
「あー先生、それは嬉しいです。この間お会いした絵画教室の青年たちですよね」
「そう、彼等もね幸三郎さんがいつから講師として来てくれるか・・って待ち望んでいますよ」
「はー?、マジでそう想っていてくれるんですか?」

「当然ですよ、この間彼らの受けた幸三郎さんのイメージはかなり高くて感覚を直にあなたにぶつけてみたいようですよ」
「それは私も嬉しいところです・・、受けて立ちましょうではありませんか」
「そう、そしてこの街の次世代にすむ若者たちがこのドアーのデザインに対してどんな反応をするか討論してみましょう」
「先生もこの街に住む古い考えの商店主って感じはまったくしませんね」・・・(続く)


第14章(No.87〜No.94)(27歳ころ)新たな出発(W)・・・第二回個展を目指す・・・(3)絵画教室



(連載No.87)
  水曜日の夕方、わたしは会社の仕事を終えた後”吾郎文具店”に立ち寄りました。岩崎先生は今日の絵画教室の用意のために6時前なのにすでにお店は 閉店していました。

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わたしは新しく出来上がって塗装も施した私のアトリエ入口のドアーから入り、すぐ左わきの勝手ドアーからお店に入りました。
先生は私を見るなり「どうだい?、今日の画材の花は、やっといろんな華やかな色合いの花が出始めましたねー」と買ってきたばかりの花を私に見せます。
「いいですねー、わたしはこのキンセン花は大好きです!」
「デハ幸三郎さん、でかけましょうか」
「はい、でも先生せっかくですから私もその花を描かしてもらってもいいですか」
「いいですよ、道具は僕のを使っても構いませんから」
私は先生の勝手知っている絵の道具置き場からスケッチブックとクレパスを借りることにしました。そして私と岩崎先生はここから歩いて5〜6分の所 にある”下沼田子供文化センター”へ向かいました。
6時半からと言うことでしたのでまだ幾分時間に余裕があるかな・・、しかしすでに5人もの生徒さん達が待ち構えていました。
「やあ、山内くんと・・水口くんだったよね?こんにちは・・」
「あれ、幸三郎さん良く覚えていましたね」岩崎先生は名前まで覚えていたことに驚いた様子でした。
「ええ以前、先生の所で紹介していただいた時にとても礼儀正しい高校生だな・・と思っていましたから」
「いいえ、俺達けっこう仲間内ではワルの部類なんですよ」
岩崎先生も笑いながら「でも自分たちはワルだって自覚しているのとそうでないのとでは雲泥の差があると思うよ」
わたしも「そうそう、それに年上の私に”礼儀正しい”って印象させたと言うのはもうすでに社会の仕組みを知って実践していると言うことでとても すばらしいことだと思うよ」
すると最年少らしい中学生が「ぼくには難しい話でよくわかんないヤ」
岩崎先生は「ああ、そうだ先ず紹介してからにしましょう、こちらはチョイチョイ皆さんもこれからお世話になる”幸三郎先生”です」
「いえ、”幸三郎さん”と呼んでください、わたしも皆さんと一緒に絵の勉強に夢中なだけなんですから・・仲間と思って下さい」
「幸三郎先生は”ワル”ですか?」
皆一瞬顔を見つめあったのち大爆笑です「イエ、結構気心が知れてくると案外と皆さんより”ワル”かも知れませんヨ」
「じゃ、たっちゃんから自己紹介で順番にいこうよ」岩崎先生に促されて彼はモジモジしながら私と視線がかみ合いません。
「エット、江北中学2年生の小林達一郎です・・」
「ハイ、こちらこそ、達一郎さんですか僕より立派な名前ですね・・」

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「いやいや先生、”タッちゃん”でいいよな?タツ・・?」山内君は弟にでも話すような口ぶりです。
「あ、はい学校の先生も”タッちゃん”と呼んでいますから・・」
「僕等はもう紹介済みだから・・、あっ、二人とも荒川商業高校二年の同級生です。山内和則といいます」
「おなじく水口保夫です、成績は僕の方が少し善いです」
「ナニ言ってんだよ!、はじめて俺よりちょっと良かったくらいで有頂天になるなよ」
「エッ、二人で一、二番を争っているんですか?」
「いやー、多分半分以下です」
私はタッちゃんの眼を見て「タッちゃん、こう言ったことって諺があったよね?」とききます。
タッちゃんは私の眼をまっすぐに見据えて「・・ダソク?・・?、そうだ、”50歩100歩”だ!!」
みんな大笑いです。私もタッちゃんと見つめあえたことで一安心しました。
「今日は私、紅一点の中山梓です、豊島高校二年ですが江北中学で山内くんや水口くんと同級生でした。」
「中山さんって、お呼びするより梓さん・・って呼んでもいいですか?、どこかでお逢いしている気がします」
「先生!、バス停車庫まえの”中山金魚店”のカンバン娘ですよ、なのに金魚がコエーって」
「ナニヨ、水口!、それは小さい頃のこと!!、今じゃ手つかみだって平気なんだから」
「そうか、バスを待つ間何気なく向かいの金魚屋さんにいらっした梓さんを見ていたんだ・・」
「最後は僕ですが下沼田商店会の小塚乾物店の長男で帝京大学一年、多分お店の跡取りはしません」
「よろしくお願いします、学部はどちらですか?」
「ハイ、建築に進もうと思っています。将来を見据えると乾物屋よりも未来が開けそうで・・」
「幸三郎さん、小塚君はもうこの絵画教室には中学生の時からですから5年以上になりますよ」
「うわー、だったら私の方こそいろいろと教えてもらわなくては・・」・・・(続く)




(連載No.88)
  下沼田子供文化センターのすごいところは地域のコミュニティーとしての役割がしっかりしていて地元の人たちのつながりをキッチリとつかんでいることでした。
当初、岩崎先生に「行くところが無かったらここに住んでみたら・・?」と言われたとき、はっきり言ってこんな閉鎖された環境の橋向こうの離れ小島みたいな所に 住もうなんてこれっぽっちも思い浮かびませんでした。

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しかし、こうして子供文化センターの予定表を見て見ると子供たちの交流の場、青年たちの、主婦や商店主たちの交わり、年配と青年たちの・・、多彩な行事が 組まれ現に私たちが来場する少し前までは老人を主体とした俳諧の集いがあったようでした。
いかにも生き生きとした明るい笑顔の年配者たちとまだ働き手として活気のある俳句好きな青年商店主などの満足そうな顔とすれ違った時、ある種の感慨に したったものでした。
今まで東京の真ん中、文京区に住んではいましたがこう言った住民同士の交わりや世代を超えた交流の場なんていうのは考えられもしませんでした。
たしかに多くの人が暮らし目の前を人が往き来はしていましたが果たして人と人との心の通じ合いはあったのでしょうか・・、それはナシに等しいことでした。
私はもともと田舎者、人が恋しくてどうしようもない人間です。むしろ都会の中の大勢の中に居る孤独の方が耐えられない気持ちが強くなっていました。
いまこうして集まって来た若者たちも中学生を除いては日中、皆、荒川の向こうの東京という都会の中で活動しそれぞれの役目を果たし終わった夕方にこの地域 での交流を生きがいに集まって来ているんだ・・と思い始めてきました。
文化センターの物置の中は充分に整理されていてそれぞれの集会に必要な什器が何時でも必要な時にすぐに取り出せるようになっています。
恐らく婦人部のクラブで使うのでしょう、沢山の花瓶が一堂に見渡せるようにそろえてあります。岩崎先生はそのクラブとも話を付けてあって、今日の花を活けて 絵を描くための花瓶をすぐに取り出すことができました。
比較的背の低い花たちの写生には口が広く明るい感じの花瓶を選び出しました。大勢でしかもそれぞれの想いの方向から絵を描くのには「こんな方法が善いんだ ・・」と感心することしきりです。
岩崎先生は「今日の花のセットはこんな意味で活けてみました・・・、皆それぞれの捉え方で構いませんが”色彩の対比”を強調すると大胆な絵になるんではないか と想います。上手に仕上げようとするよりも対象の花に自分の想いを与える気持でのびのびと描いてください。」
皆はそれぞれの描く方向を探って写生する場所を決めたようです。
わたしもどこから絵を描いたものかとスイートピーとキンセンカの花束を活けた花瓶の周りをめぐって構想を練ってみました。
どうやらこの辺からがよさそうかな・・・、と場所を決めて座った所が”たっちゃん”のすぐ脇になってしまいました。
「え!!、先生は僕の描く向きがやはり一番善いと思ったんですか?」
「いや!、そう言う訳・・・というか、何となくリズミカルな感じがしたんだよね・・」
「じゃ、やっぱりココが一番善い場所だったんだ・・」
そんな会話を聞いていた他の皆も一斉に私のそばの方に持ち場を離れて集まってきてしまいました。

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岩崎先生も「各自、自分でこの花のどんな所に魅力を与えたいか・・、それは皆それぞれの個性ですから自分の気持ちを大切にして下さいネ」
う〜ん、さすが先生です、人それぞれの見方、感じ方・・すなわち個性を大事にしなさいと若者たちに伝えているのです。
皆、たっちゃんと私のそばから離れました。「・・それほど魅力ある場所では無かった・・ヨナ?」という声も聞こえました。
そうこうしている間にこの教室に男女合わせて3人の若者が次々と入室してきました。
彼等は私の存在を前から知らされていたようで何の違和感もなく笑顔でわたしの脇を通りぬけて岩崎先生の指示を仰いで歩み寄ります。
午後7時前ですから近くの工場で働いていた人たちと言った感じで身なりも質素、先生に対する態度もかなり大人びた感じがしました。
女性はどう見ても主婦のようですし男性もひとりは作業服、そしてもう一人は通勤用のスーツ姿・・、皆私より年配のように見えます。
岩崎先生は私に3人をそのままの姿勢で紹介してくれました。私も既に絵を描き始めていましたので後になったら改めて・・と言う風に会釈だけ交わしました。
壁の前のテーブルに置かれた花瓶を皆それぞれの方向から絵を描こうとするとちょうど扇型になって広がざるを得ません、そうなると現在の8名ですでに満杯です。
スーツ姿の男性は同僚が今日は残業でどうしても来られない旨を告げていましたので、毎回こんなに盛況で絵画教室は行われているのでしょう。
わたしと梓さんがクレパスで、たっちゃんと山内君、水口君は水彩絵の具、大学生の小塚さんはアクリル絵の具、二人の男性は物置にしまってある自分の 道具を持ちだしてきて油彩で4号、6号キャンバス、主婦の女性はこれまた豪華けんらんたる色数を並べた色鉛筆のふたを開いています。
静かな時間が流れます・・・、
とそのとき梓さんが手をあげて岩崎先生を呼びます。
「先生!、絵を描いているうちに花瓶が実際より小さすぎるような気がしてきたんですが・・」
水口くんがすかさずチャチを入れます、「バーカ、でっかく書き直せば善いじゃねーか」
「だって、そんなことしたら花瓶の下が変に切れちゃうもの〜!!」と、口を尖らせてスネています。
岩崎先生は梓さんの絵を覗き込みながら「そうですねー、チョット待っててくださいね」
予感・・・、的中!!、どうやら岩崎先生はわたしに意見を述べさせようと今まさに私を呼び寄せるしぐさです。
「エー?!!、そんなこと言われても・・」私はしぶしぶ梓さんの絵に近づきます。
「ふーん、確かにバランスから見ると小さすぎる感じはしますね」たっちゃんと水口くんが面白がって私の肩口から顔を出します。
私は梓さんに聞きます「梓さん、最初下描きのときは”小さい”っていう感じは無かったんですよね・・・?」・・・(続く)


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(連載No.89)
  梓さんはどうしたものか・・と、私の顔と岩崎先生の方もみくらべて訴えかけます。
私は梓さんにキッパリと言います。「あのね、僕だったら二通りの道がありますけど試してみますか?」
「はい!、試してみます・・」
「一つの方法はね、水口くんの言うように花瓶をデッカク書き直すこと・・」
「ホーラみな、イッタコッチャネーダロー?」水口くんは大満足です、そして梓さんは大いにむくれて岩崎先生にも目を泳がせます。
「でもそうすると梓さんが心配したようにおかしな所で花瓶が切れてしまいます。それをおかしくないように処理をする為にさらに難しい問題が 生まれてきてしまいます。」
「ですから一番簡単なようで次々と発生するバランスの問題を解決していかなくてはなりません。」
「えー、そんなに難しいんですか?」水口くんは自分の問題のように聞いてきます。
「梓さんの絵では花も花瓶もすべてをこのテーブルと花瓶の底辺で支える構図で描いています。ですから花瓶の底が無くなった絵はそのままでは 宙ぶらりんの頼りない絵になってしまいます。」
「水口くんの絵だってこうして花瓶の下を手で隠してみてごらん・・、何となく頼りない構図になるでしょう。」
「ほんとだ・・・、わ!オモシレー」
「つまり梓さんも、水口くんもゴッホのひまわりさんもみな花瓶の底辺で支えてしっかりした画面構成になっているんです。」
「ジャ、絶対に花瓶を途中から切ってはいけないんだ・・」こんどは山内君が半分しかない花瓶の絵を逆さにして振り回しています。
「いやいや、そこが絵の面白いところなんですよ。」私は話が長くなりそうなのでチラッと岩崎先生の方を見ます。
岩崎先生はニコニコしながら「幸三郎さん、彼等にはすこし衝撃的になっても構いませんから続けなさい・・」と油を注ぐような発言です。
「あのね、地球には重力があってそれを支える力点のバランスによって物事は安定して成り立っていると言う現実があります。」
「しかし、ゴッホやセザンヌさん達に衝撃的な絵として受け入れられた日本画のもろもろはそんな重力なんか”へ”でもないと扱ってきました。」
「つまり四角の紙の中でバランスが取れていればそれこそが素晴らしい装飾でありそうなるように工夫するのが芸術だって・・」
「そう、オレのは芸術だからね。」山内君の顔に笑顔が戻ります。
「ですから、そう、山内君はここから素晴らしい芸術作品になるか単なる駄作になるかの分儀点ですね。」
「やっぱ、駄作になるのかな・・」山内君もシュンとなります。
「私の知っている日本画でどんな絵が芸術なんですか」梓さんは聞きます。
「えーっと、例えば”風神、雷神”なんかどうですか?・・・ふたりとも力強い身なりなのに足元はしっかりした地面ではありません。」
「なるほど・・、そう言われれば雲に乗っていたりなんかして・・クモをつかむ様な難しい話ですね・・」

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「古来からの日本画や浮世絵には画面のバランスを保つための様々な工夫がなされ遂には大きな宇宙をも表現する広がりも感じさせます。」
「山内君の構図はそういった可能性をずいぶん持った作品になるのかなって期待しています。」
「わたし・・やっぱり難しそうなんでもう一つの方法をお聞きしてもいいですか?」
「そうですね、梓さんの絵の意図は最初から素直に重力に逆らわない絵ですからそのままの気持ちで仕上げていくことにしましょう。」
「素直かどうかはわかりませんがいつの間にか花瓶が小さくなってしまった・・・だけなんです。」
「そう、ですから最初お聞きしたのは下書きのときはこれ位の大きさでちょうど善いと思ったんですよね。」
「・・というか、気がつかなかっただけかもしれませんが・・」
「気がつかなかったと言うことはちゃんとバランスが取れていたんですよ、色を重ねてどんどん仕上げるに従って小さくなって来たことにはじめて 気がついたんですよ。」
「ハイ、たぶんそう言うことですが・・」
「梓さんもこれから高校を卒業して社会人になるといろんな洋服を自分で選んで着なくてはならなくなります。」
「そんなとき、一番気をつけなくてはならないこと・・それはそれぞれの色の持つ性質をよく知らなくてはいけません。」
「そうねー、今はピンクだとか水玉模様だとか・・」
「そうそう、この色は”可愛く見える色・・”って、ちゃんと自分で判って使いますよね。」
「それとこの花瓶とどんな関係があるんですか?」
「この花瓶に塗っている色は小さく見せよう”もっと小さく見せよう”とする性質を持った色なんです。」・・・(続く)




(連載No.90)
  もう時計の針は夜も9時間際です。岩崎先生はそれぞれの生徒さんの間を足繁くまわって細かなところの仕上げにかかるよう指示しています。
もうタッチャンはとっくに描き終えて山内、水口の両兄貴分生徒達の間を往ったり来たりして冷やかして歩き回っています
まるで仲のいい本当の兄弟のようです。でもさすがに梓さんの真剣さには少しちょっかいを出しづらく想っているようです。
今日の梓さんの画材はクレパスだったので私は洗面所から剃刀の刃の使い古したやつを見つけてきて
「・・梓さん、この刃をこうあててそぎ落とすと前の色はこんなに綺麗にはげ落ちてしまいますよ・・」と教えてあげた。
「ありがとうございます、良かった、このままでは余計に汚い花瓶になってしまうところでした・・。」
私は時間的にもう自分の絵を仕上げなくてはならなくなって続きの処理は岩崎先生にお願いしておきました。
岩崎先生は「梓さん、今度の色はとっても善いですよ、そうですね・・、それにもう少し立体的処理をすると完璧ですよ。」

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どうやら小さめに見えた花瓶の処理がいい方向に向かったようで、梓さんも気を良くして真剣です。
水口君や山口君もときどき合間に見にいって
「なるほど・・・、こんな手もあるんだ・・」
「幸三郎さん・・・、じゃなくて、ヤッパシ先生って呼んだ方がよさそうですね。」
「やめてください!」
「ハイ、では間もなく時間ですから片付けてください」岩崎先生の掛け声でガタゴトと騒がしくなりました。
「”もう少し”って言うところがありましたら2〜3日のうちに持ち帰った絵に手を加えて完成させて下さい。」
そうか、それで時々普段の日やお休みに岩崎先生のお店には絵を持参してくる教室の生徒さんがいるんだ。
タッチャンなど中学生、高校生は片付け終わると一斉にすっ飛ぶように帰ってしまいました。
大学生の小塚さんと大人だけが残りました。
岩崎先生は改めて私を皆さんに紹介してくれると言います。
「ちょっと、そこの椅子で円陣を組んで座りませんか」と、岩崎先生。
「今日は大人の人は二人お休みですが今日来てくれた人にはチョット幸三郎さんを紹介しておきます」
主婦をしているらしい人が給湯室へ行こうとします。「北林さん、今日はもう遅いですからお茶でしたら次の機会に・・」
北林さんと言われた女性は時計に目をやりながら「・・そうですね、」と言って席に着きます。
岩崎先生は皆の前で私の今住んでいるところ、勤めているところ、その会社の美術部で私と知り合ったこと、更に美術研究所に通って勉強していたこと、 そして間もなく先生の家の住人になることなどをかいつまんで紹介してくれました。
私は立ち上がって頭を下げて「幸三郎です、よろしくお願いいたします。え〜と・・、」
「幸三郎さん、座ったままでいいですよ」岩崎先生に促されて椅子に座ります。それだけで気持ちも落ち着きます。
「幸三郎さんの会社には家の主人も勤めているんですよ」北林さんが声をかけます。
「え!?、そうすると貴女はヒョッとして総務課の北林課長さんの奥様・・ですか?」
「ハイ、主人がいつもお世話になっています。夫婦ともどもこれから幸三郎さんのお世話になれそうですね」
「エー!!、きつい冗談を、岩崎先生!、とてもやっていられませんよ・・」
「まあ、まあ、幸三郎さん、そう興奮しなくてもいいですよ、皆さん大人ですから・・」
「そうですよ幸三郎さん、北林はあなたの会社の北林、そしてこの北林は絵画教室の生徒の北林です、なにも関係ありません」
「もっとも、親しみをこめてお話ししただけですのに言わなかった方が良かったでしょうか。」

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「それに、先ほど帰ってしまった子供達も幸三郎さんにはよく親しんでいるようですし、やり取りを聞いていただけで心も和みます・・」
通勤スーツを着た年配の方も声をかけてくれます。
「幸三郎さん、山田と申します。イヤー、先ほどの花瓶の処理の話ですけれど・・聞いていてナルホドと思うし、私達にも遠慮しないでもっと絵の事を 教えて下さいよ」・・・(続く)




(連載No.91)
  アトリエの建設作業もいよいよ床を張れば一応の荷物の運び込みとか電気工事、水道廻りの工事など一気に進む方向になってきました。
岩崎先生が発注しておいてくれた板の間の材料は予算的な面から最新のフローリング材は買うことが出来ません、
そうかと言って荒材のように表面が切りっぱなしではなく一応カンナ掛けは施してあり更にそれぞれ隣り合った板どうしの歪みが吸収し合えるように 凸凹の切り込みがしてありました。
先生の説明では”同一張り”仕様と言って本来は体育館や柔道場などの壁の下に張る腰板のための加工板だと言うことです。
実際に手に持って見ると薄っぺらでフニャフニャとしなって果たしてこれで広い板の間になるのだろうかと一抹の不安がよぎります。
もっとも頭の中をよぎったのは空手の武術家が構えから”えい!!”と繰り出した拳でこの板が木端微塵に砕け散る様でした。
「先生、こんな板ではとても持たないと思いますが・・」
「そう、普通の建物の構造ではこの板を床板にすることはできないでしょうネ」
「じゃ、傷んでしまったらつぎを当てたり補修が必要になったりする・・と言うことですか?」
「幸三郎さん、ここの工事費ですが第一に全体を12万円で終わらせなくてはなりません」
「ハイ、それは最初に先生の説明で了承したことです」
「それでこの板の間を最新のフローリング材で仕上げると倍近い工費になってしまうんです」
「普通、板の間の下の梁は45cm間隔なんですがここは25cm間隔で仕切って下さいとあなたにお願いしました」
「ええ、少し狭すぎないのかな・・・って内心思っていましたが・・」
「幸三郎さん、僕の計算ではこのひ弱そうな板でも同一張りと間隔の狭い釘打ちで十分な強度が出ると踏んだんですよ」
「ここは、僕の言うことを信じてやってみてください」
私は束ねた板の荷をほどき室内に運び入れました。この板はこんなに束ねてあっても大きくシナってユッサユッサと頼りなく揺れます。
「・・こんな板を使うくらいだったらもう少し工費のことなど言わなければ良かった・・」思わず後悔の気持ちで頭がいっぱいです。
私は半信半疑ながら長さ4m、幅20cmの加工板を梁材と交差するように並べて固定させる作業に入りました。

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「幸三郎さん、釘は20cm幅に3本、しかもその3本目は次の板の凸凹をしっかり組み合わせてから打つようにしてください」
先生は思い出したように階段の上から大きな声で指示を出します。
言われるように2枚目、3枚目まで張ってみました。そして、そっと足を乗せてみました。ビク!とも動いたりシナったりなどしません。
「せんせー!!、大変です、びくとも動かないしっかりしたゆかになりそーですー」私は思わず上の階にむかって怒鳴りました。
「どれどれ、ホー中々上手に張れそうではないですか」
「・・って、先生は果たして計算が大丈夫かどうか心配では無かったんですか?」
先生は履物を脱いで床に乗りながら「そんな心配は一切していません、ただこんなに丈夫になるとは少し計算違いでした」
「イイ感じですね、・・・1平米あたり180本か・・・」何やら先生はブツブツ独り言を言っているようです。
「幸三郎さん、釘の本数を3本から2本に減らしましょうか、そんなに打つ必要もなさそうですよ」
「そうですか、でも部屋の周囲とかは最初の計画通り打っておきます」
「それはおまかせします」
仕事がはかどるって言うのはこう言うことでしょうか、長い板を順繰りに敷き詰めていくと午前中の間にあらかたの空間が綺麗な板の間になりました。
午後には残る二辺の隅の板は細工をしながら敷き詰めていけば今日中に完成しそうです。
「コーザブローせんせー、居ますか〜」表通りで誰かが大きな声を張り上げています。
「ヨウ!、下で仕事しているようですから入って行ってみな〜」岩崎先生の声と・・中学生のタッちゃんの声が階段を下りてきます。
「こんにちは、お母さんが幸三郎先生に食べてもらいなさいってコレ、渡されました」
包みからは稲荷寿司の甘酸っぱさと紅ショウガの混じった独特の匂いが食欲をさそいます。
タッちゃんは私に包みを渡すと、靴を脱いで抜き足差し足・・そのうちに感極まって少し低い天井にとび跳ねたり大喜びです。
「ああ!!、タッちゃん!、ここは体育館ではないよ・・!」・・・(続く)




(連載No.92)
  仕事ってはかどると楽しくなって余計に事はスイスイと運びます。
予定通り玄関ドアーを開けたすぐに靴脱ぎ場を設定し、周囲の床を寸法に合わせて切り込みをしてはめ込みます。
今まで靴を履いての仕事でしたが今日の午後からは裸足になって床の上での作業に変わっています。
暗くなる前に最後の升目を張り終えることができました。

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私はしばらくの間白木板の感触を味わいながら部屋の中をあっちに行ったりこっちに来てみたり16畳一間を感慨深く散歩します。
このあたりにベッドを置いて・・、うーん、カーテンで仕切りぐらいは必要だろうなー・・とひとりニンマリします。
岩崎先生もトンカチの音が聞こえなくなったので私の作業も終わっただろうぐらいは気がつきます。
「よう、どうだい?音がしなくなったんでそろそろ終わったんじゃないかと・・」先生も下に降りてきます。
「ハイ、終わりました。どうぞ見てください、それにしても先生、板はもう少しで足りないところでしたよ」
「うん、大工さんですと使う量の一割くらいは余分に発注するんですがキッチリしか持ってこさせなかったからね」
「そうでしたか、4m物の板の半分が一枚残っただけですからほとんどピッタリでした」
「僕もねもし幸三郎さんが何処かで失敗すれば足りなくなるだろうなとは思っていました、でもよかったね」
先生は玄関の出来具合を吟味した後床を隅々までめぐって不具合がないか確認しているようです。
「まあまあの出来具合ですね、こうして出来上がってみると少し欲が出てきて・・ね」
「何処か不具合でもあるんですか?」
「イヤ、プロだったらね、板の継ぎ目は段違いに張り合わせるんですがまあ、素人らしくていいですよ」
「そうかー、今度作るときにはそうしますよ・・もう無いでしょうけど」
「いや、いや本当にがんばってよくできたね、お疲れさんでした」
「ところで来週中には照明と流しの工事を業者さんにお願いしておきますから・・」
「ワー、それが終わればもう引っ越しの準備もしなくてはなりませんね」
「ですから流し台の場所は決まっていますから問題ありませんが照明の位置だけ今日、決めておいてください」
「照明の蛍光灯はもちろん・・工場で使っているようなやつですよネ?」
「そうです、あくまでも安価で効率的なやつですよ、決まったら印をつけておいてください、今日は中締めの完成祝いだね」
「エ!、はい決まりましたら上にあがっていきますから・・」
「思いのほか早く終わりましたから少しゆっくりできそうですね」
「ホ!、先生、ウイスキーのお湯割りって結構効きますね」
「そう、僕は最近これですね、酔いも早くまわりますから幸三郎さんもこのほうが身体にはいいはずですよ」
「もう一人分の用意は・・どなたかいらっしゃるんですか?」
「少し前にね、乾物屋の小塚君がバスを降りて顔を出してね、家に鞄を置いてからすぐ来ますって」
「建築科に進むって言ってましたね、彼はもうお酒も飲めるんですか」

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「おー、噂をすればなんとやら、ずいぶんと早かったんだね」
「こんばんは、幸三郎さん先日はご苦労様でした。今日は少しお相手させてください」
「やー、嬉しいですね、ところで小塚さんはまだ二十歳にはなっていませんよね」
「大丈夫です、精神年齢はもうずっと上です・・、家ではオヤジの相手をして鍛えていますから」
「この佃煮ですが結構お酒の肴に合うんですよ」
「これ、売り物なんでしょう?」・・・(続く)




(連載No.93)



階段を下りるとアトリエの入口に真新しいプラスティック製の黒いスイッチがピッカピカに光って設置されています。
土曜日、会社の仕事を終えて吾郎文具店に立ち寄るともう電気工事も水道工事も終わっていると言うのです。
そのスイッチを押すとドアーの隙間からアトリエの中から光が洩れてきます、自分の部屋なのになにか他人の家を訪問しているような気がしてきます。
ノブを回してドアーを開けるとまばゆいばかりの明るい部屋、そしてフローリングの杉板の香りがいっそう新鮮さを感じさせてくれます。
「どーだい?」岩崎先生も暫くして階段を下りてきます。私はしばらくの間感極まって返事もできずにだだっ広いアトリエに立ちすくんでいました。
「先生!、ほんとうにこんな広い部屋をわたし一人で使っていいんですね・・?」
「そうですよ、だって幸三郎さんがご自分で苦労して作ったアトリエなんですから・・」
「ハア〜・・、でも夢のようなことで感激しっぱなしです」
「幸三郎さん、そんな感慨にふけっている暇はありませんよ・・もう4月です、個展まであと8ヶ月しかありませんよ」
「そうでした、明日の日曜日は引っ越しのための整理や荷造りをしっかりとして来週の連休には引っ越せるよう頑張ります」

「幸三郎〜、いつまで寝ているんですかー?」
遠くで誰かに呼ばれたような・・そうでもなかったような・・で目を覚ましました。
そうか、夕べは遅くまで引っ越しのための荷造りだのやっていたので就寝もだいぶ遅くなってしまいました。すっかり朝寝坊してしまいました。
文京区駒込林町で過ごす最後の日曜日の朝です、6帖の和室にガラス戸越しの朝の光が廊下に反射して障子に柔らかな日差しが届いています。
時折廊下のはす向かいにあるアトリエにしている8帖の洋間から時々ゴトン、とかザーとか異音も聞こえてくるのです。
わたしは布団の上に起き上がって声を出します「だれか、いるのー?」

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「あら!?、おねぼうサン、お目覚めですか・・?」
「その声は・・マ・サ・ミ・?、」<<参考 No.68,69,77>>
「その通り、まさみですよー、違った名前なんか呼んだらこのバケツの水、ぶっかけちゃうところだったのに・・」
「げっ!、凶暴な女だよな、もっともそんなドスの利いた声だすの、雅美しかいねーもんナー」
「ぶつぶつ言ってないで早く起きてきてお掃除、手伝ってください」
「まっ、起きるけどサ、どうして今日、荷造りしたり掃除したりするって知ってる訳?」
「あたしにはね、ボウヤにはわからない勘って言うのがあるんヨ!」
「チェッ!・・ったく、人をはぐらかす時きまって岡山弁でしゃべるんだから・・」
「ハイ、常磐線の駅弁の売れ残りですけど、あさごはんヨ、同じものは終わってしまったの大きい方を召し上がれ」
「どうも、ありがとう・・、こんな弁当食べながらまた房総のほうに行ってみたいね」
「チョットウ!、顔も洗わないで食べる気!?」
「大丈夫だよ、食べてから洗うから・・」
「幸三郎さん、アトリエが完成したそうでオメデトウ!」
「ありがとう、落ち着いたら遊びに来てよネ・・」
「・・いいえ!、もう今日でおわかれヨ!」
「おわかれ・・って、マタマタ・・俺のことを子供扱いしやがって・・。」
「ほら、ほらボクちゃん、ご飯がこぼれていますよ」
「わたしネ、岡山に帰って結婚することになったの・・・研究所の思い出、幸三郎さんとの楽しかったこと素晴らしい青春だったわ」・・・(続く)




(連載No.94)
  「おかやま・・か〜、岡山って遠いよねー」
「そう、遠いわよ。昔、悪いことをした人を島流しにしたでしょ?、東京からずーっと遠くに住んだ方が未練も残らなくて気が楽なの」
「その相手の人って素敵な人なの?」
「あのね!、素敵さで比べたら幸三郎さんの方がず〜っとステキですよ。でも将来子供を育てたり生活して行ったりすることを思った時、素敵さん ではなくて生活力・・のある人に気持ちが傾いていくの」
「こんなことはまだあなたには理解できない事かも知れないけれど、父や母のことを見ているとそんな気がしてきたの。つまりは私もしっかりオバサン の道をたどっている・・ってことかな」

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「・・わからない事もないけれど、俺だっていつかはこんな生活に見切りをつけてって思ったことはあるよ」
「だけど、今はまだこの馬鹿でっかい夢だけで充分気持ちが満たされてしまって自分の将来のことなどまだ計画出来やしない、ましてや雅美のことなんて までとても気を回す事もできなかった」
「いいの、そうでなくっちゃ!、私ネ、幸三郎さんが将来素晴らしい芸術家になれるとは思えないの。ゴメンネ、でもあなたの素敵なところは突き進んで 頑張って若いエネルギーを100%ぶつけて行くところの魅力ってすごいなって思うの」
「皆それぞれのスパンって持っていて無理やり押し付けると曲がった人生を歩んじゃうじゃないのかな」
「ましてや、若いころ遣り残したことがある・・人なんて可哀想だと思うわ」
「雅美さんはもう絵画の探求について思い残すことは無いんだ・・?」
「それは違うは、わたしの求める方向が創作することによってでは無くそこにもここにも生活の中に転がっているもので充分まかなえる気がしてきたの」
「・・・・・」
「幸三郎さん、さっきネ物置の隅にお酒の空き瓶がどっさり転がっているのを見て少し悲しくなったんよ」
「ぁ・・ホラ、また岡山弁で説教するのけー」
「違うの!、これは私の考えた芸術論の見地から言おうと思ってるの!」
「幸三郎さん、気がつかないかもしれないと思いますが街の中にはすごい芸術家がゴロゴロ存在するんです。彼らは彫刻を掘ったり絵を描いたりは しません、しかし個人差はありますが美しいもの、醜いものを自分なりの解釈を踏まえて空想で”想う”ことができるんです」
「想う事が出来るって、すごいよね!」
「本当にそう思うの?」
「だって、想いが無ければ創作にも結び付かないもの・・」
「創作・・・、と想いって密接な関係だと思うわ。でもそれを100%関連付けなければ承知しないのがあなただと思うの」
「でもわたしは想いだけで、とても満足できるようになったの」
「雅美んちって昔、祖先は貧乏な武士の出だったの?」
「・・・高楊枝って・・」
「ふざけないで!、つまり想いを高めるためにお酒が必要なんですか?その想いを創作に結びつけるのにお酒が必要なんですか?って言ってるの」
「ああ、それは誤解ですよ」

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「俺の純真な心はそんな覚せい剤で培養は出来ないよ、ただお酒は嗜好なだけだよ」
「そう?あなたが個展の時血を吐いて入院した時思ったの、幸三郎さんってお酒飲んで絵を描いているのかしらって・・」
「だって、雅美さんだって知ってるでしょ?うちに来たって呑みながら絵を描いている所なんか見たことないでしょ?」
「分ったわ、ただそれだけが心配だったの」
私の荷物もこうしてみると少ないものです、毎朝段ボールいっぱいづつ位を出勤途中にバスで運んで新しいアトリエに運び入れ、最後はベッドと イーゼルと、絵をトラックで運べば一週間で終わる計画です。
「雅美さん、ありがとう。すっかり片付いてしまったね・・、いよいよ今週でここともオサラバだ」
「そうね、そして幸三郎さんも私もそれぞれの道を行く・・」
「じゃ、雅美さんバス停まで送っていきます。ついでにバス停前の”ほてい”で俺の嗜好に少し付きあってよ」
「あなた本当にさっきの私の話、わかったの?」・・・(続く)


第15章(No.95〜No.104)(27歳)新たな出発(V)・・・〃・・・(4)新しいアトリエ



(連載No.95)
あっという間の一週間でした、僅か2年ほどの仮住まいとはいえ足かけ6年間の文京区駒込林町ともいよいよ別れる時が来ました。
先ずはそれまでやっかいになっていた山谷家へのご挨拶、今の櫻井家とは50mも離れていません。
「婆さん、俺もついに川向うに引っ越すことになってしまったよ」
「あらまー、幸三郎さん、何か新しい家を造っているとか聞いていたけど」
「ああ、一応新築だぜ!、婆さんもいつまでも達者で居てくれよ」
「まあ、皆偉くなってここから出て行ってしまったけれどいつかきっと有名な人になると思っているから・・元気でガンバッテね」
「俺なんかわかんねーけど、桂さんなんかはもう立派なカメラマンになってしまったし、万歳君だってそのうち何かしでかすかもね。」
「・・その万歳さんだけどね、せっかく入ったお坊さんになるための花園大学を辞めてしまったらしいんだよ・・」
「それはいい、あいつは坊主にさせておくのは実にもったいない・・、そのうち皆でまた遊びに来るから元気で居てよ!」
さて櫻井家だ、どうして俺はこんな後家さんの家ばかしを渡り歩いてるんだ。そりゃあ確かにいろいろな面で面倒見はいいし、優しいし、だけど いろんな事で随分とうさんくさい思いもした。

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つまり男になるためにはその女のねちねちした面倒見の良さがかえって息苦しくなることがずいぶんとあった、でも幸いなことに山谷家からは 家が古くて男がドタバタ生活すると壊れそうだから出て行ってくれ・・。
そしてこの怪しげな気位の高い後家婆さんもついにこの家を取り壊して息子夫婦のすむ鶴ヶ島市に行って隠居すると言う。いってみればこんなにきれいに 出て行ってくれ・・なんて言われると実に気持ちが清々する。
「奥さん・・いますか?」・・なんでここの婆さんを奥さん・・なんて呼び始めたんだ・・
「はい、幸三郎さんですか?、お入りください」・・このお入りください・・って言うのがなじめねーんだよ、
「今日は、長い間お世話になった御礼のご挨拶に伺いました・・」
「まあまあ、このたびは飛んだことでご迷惑をお掛けしてしまって本当にごめんなさい・・、どうぞお掛けになってください」
ここの椅子に座るのは3回目だけど、時代が一気に大正時代を通り過ぎて明治時代にいる錯覚がしてしまう。
「いま、お茶をお入れしますから・・」
「ハイ、いえ・・」・・オイ、幸三郎しっかりしろ!、なにをドギマギする必要があるんだ・・
「もう、お家の方の工事はお済みになったんですか?」
「ハイ、おかげさまで完成しました、明日の朝レンタカーのトラックを借りてきますので1回運べば全て終わります」
「えらいわねー、男の人って、何から何までみな自分でやってしまうんだから感心してしまいます」
「・・お!、このお茶碗はすごいですね・・、これは多分、伊万里だと思いますが・・」
「そうです、主人が元気なころは若い人を家に呼んで・・これが分らんのか?・・なんて」
「いや、僕も詳しくは分りませんが伊万里でも結構古いですよね」
「はい、鍋島と聞いていました。記念にお持ちになりますか?」
「いえ!、そ、それは勘弁してください。私みたいな粗雑な人間にはなじめません。」
「息子たちはこんなもの一向に興味も無くて話し相手にもならないんですよ」
「そのうち閃くように良さがわかってくると思うんですが」
「しかし、この家も当時としては相当な造りですよね、こんな家で過ごしたってことはとてもいい経験をしました」
「こちらの洋館の方はまだまだ持ちますが和室の造りはもう持たなくなってしまいました」
「そうですね、素人目に見てももう手の施しようがない・・て感じがしますネ」
「それでは今日が最後の晩になるんですね?」
「イエ、今夜は向こうに泊ってそのままレンタカー屋さんに寄りますので」・・・(続く)


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(連載No.96)
  板の間に寝袋一枚で寝ていたせいか背中あたりが石の上に長い事居たような違和感を感じます。そして私の寝ている斜め上方は主要地方道、浅草ー川口線です。
大きなトラックが通過するたびに地響きがもろに枕元に届きます。ただここは荒川土手バス停前、西新井大師に向かう T 字路の交差点に至近の為信号が赤でスタート する車のアクセル音は地下のためほとんど聞こえません。
この時期の数年間わたしはカメラで映像を残す事は一切していませんでした。勿論自分のカメラも所有していません。
状況を具体化させるため今回は当時の記憶を頼りに図面でアトリエの様子を描き表わしておきます。今後の文章の展開に判りやすいと思います。

1970年ころの荒川土手周辺の地図

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1970年ころの荒川土手周辺の地図

荒川土手周辺の地図-拡大図 アトリエ付近の断面図-1

荒川土手周辺の地図-拡大図

アトリエ付近の断面図-1

アトリエ付近の断面拡大図-2 アトリエの平面図

アトリエ付近の断面拡大図-2

アトリエの平面図




わたしはベッドを置く予定の一段と高いステージで寝ていましたが恐らくベッドを置いて寝ると枕の位置と車の距離は3mほどしか離れていない事になります。
多少設計を間違えたような気もしますがその他総合的に考えるとこの配置がベストなのだと納得しなくてはなりません。

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今日は会社の後輩で近くの寮に住んでいる力持ちが引っ越しの手伝いに来てくれると言うので彼が来るまでにレンタカー屋さんからトラックを借りてこなくてはなりません。
取りあえず着替えを済ませ顔だけ拭いてドアーをあけて階段を上ります。表の通りに面したドアーを開けると今まで住んでいた文京区の静かな環境と違っていきなり車の 行きかう街の中に放り出された感じがします。
途中で買ったパンをかじりながら2t積のトラックを交番の横の空き地に止めると、すぐにお巡りさんが出てきて職務質問をします。
「こんど向かいの文房具屋さんの地下に住む事になりましたのでヨロシク・・!」
「あ〜、あんたかね、あのドアーにケバケバシイ模様をつけたのは・・?」
「ハイ!・・・変ですか?」
「いや、別に変ではないけれど随分と目立つ模様だな、あんた絵描きさんか?」
「イエ!、まだ絵描きにはなっていませんが・・この先の”彩華工業”っていう会社に勤めています」
「ほー、でっかい会社だのー、あの会社の工場に塗ってある絵の方がもっとケバケバシイか・・?」
「あっ、引っ越しの手伝いをしてくれる友達が来てくれたから前居た家から荷物を運んできます」
「おっ、そうかそうか邪魔してしまったな」
「幸三郎さん、おはよう、ここで何して居るの・・?」
「いや、今不審者として職務質問を受けて居たんだ・・」・・・(続く)




(連載No.97)
  車の入れない場所、文京区駒込林町・・・こんなところに良くも6年間の永い歳月を過ごしたものです。私の父はいつも心配して居てくれました、「もし、辺りが火事にでも なったら兎に角一目散に逃げる判断をしなさい・・」と。
運が良かったんでしょう、こうして無事にこの街から抜け出す事が出来たのですから・・・、でもここに住む住民はこの後も営々としてこんな不便な所に住み続けるのでしょう。
それはそうとしてトラックはバス通りにおいたまま手仕事で荷物を運び出さなくてはなりません。距離にして250mはありますがひたすら運び出さなければならないのです。
作業を効率化するために私は先ず2階から下ろした荷物を狭い路地の石塀わきに兎に角並べました。生活用品のたぐいは大したことはありませんでしたが荷物の大半は キャンバスなどの絵がほとんどでした。
ですから向かいのお宅の塀もお借りしてあたかも路上展覧会のごとく歩行通路の左右は展覧会に出品した絵だとか習作の裸婦像などが並びました。

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物珍しそうにご近所のおじさんやおばさん達も出てきて絵を見ながら誉めたり眉をしかめたり・・・「スミマセン・・、すぐに片付けますのでしばし・・」
挙句の果てには最初の荷物を抱えてバス通りのトラックまで来るとお巡りさんが車の No. をメモったりしていて不穏な状況です。あわてて状況説明をして「どうか勘弁して・・ 」とお願いしました。「・・本当はまずいんだよ、・・・じゃあ出来るだけ早く済ませるようにしなさい・・」
人情家の街のお巡りさんも結構人情家で助かりました。
小一時間もすると全ての荷物はトラックに積み終わりました。下宿の奥さんにはゆっくりして居られない旨を告げ挨拶も早々にこの街を後にしました。
トラックを運転して動坂の坂を下り、そしてまた田端の坂を下り下町の雑踏を走るころにはもうきれいさっぱり今までの住まいに未練は残りませんでした。
お昼前にはトラックを荒川土手交番の横の空き地に止めちょっとお巡りさんに声をかけます。朝とは別なお巡りさんでしたが「やあ、あんたかい?引っ越してくる・・って 聞いていたんだが・・」。
下町でもお巡りさんは親切です、こうしてお願いしたり相談したりすれば快く対応してくれます。私ははす向かいの食堂で先ず腹ごしらえの為ここに車を置きっぱなしで 後輩と食事をしてくる事を告げ車番までお願いしてしまいました。
レンタカーのトラックを出来るだけ早く返すため兎に角整理は後回し、荷物はどんどんアトリエに運び入れます。
こうして運び入れた荷物が床に並べられるとあんなにも広かった空間も一気に狭くなってしまったような気になります。
どうやら3時前にはトラックを返せそうです。ベッドのような重いものだけ取りあえず後輩の力を借りてセットするとあとは時間をかけて一人で整理することができそうです。
「どうもありがとう、落ち着きましたら”アトリエ開き”でも計画しますので・・」
「そうですか、それは楽しみです。・・デハ、無理しないで励んでください」・・・(続く)




(連載No.98)
  めまぐるしい一日が終わりました。しばらくぼけーっと引っ越し荷物の荷もほどかずに僅かなスペースに椅子を引っ張り出してきて座りました。
まだカーテンも取り付けてない部屋のあかりが向かいの空き地の草むらに光を投げかけて幻想的に見えます。まるでこの空き地だけが下町の喧騒から忘れ去られたような 不思議さと静けさを持って存在していると言う感じです。
恐らくその空き地からこちらのアトリエを見ると表通りの賑わいとは裏腹の静かで暗いたたずまいの裏町風景の中、煌々と明かりをつけたこの部屋は異様と言うほど明るく 輝いて見えるはずです。

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とりあえずわたしは灯りをつけっぱなしのままアトリエを出て表通りからバス通りを曲がり更に細い路地を曲がってこの空き地に立ってみました。
ははーん、よく見える。部屋の隅々までしっかりと見渡せます、それほど不用心と言うか無防備な空間がしっかりと観察できるのです。これは一刻も早くカーテンを取り付け なくては安心して生活もできません。
再び部屋に戻るとまずどこから手をつけていいものやら計画を立てることにしました。この床に広がった荷物やキャンバスは立体格納することが先決です、そうすれば 空間ができ更に整理もはかどると言うものです。
明日は組み立ての鉄骨を買ってきて組み立てる事にしよう。今日はそのために正確な寸法取りと必要な部材をリストアップしよう。
どうやら計算では予定の棚置き場を3段にするとこの床に広がっている荷物の全てが収納できる事になります、残りはイーゼルと机と椅子だけがこの床の上に残るだけです。
方針が決まると途端に空腹になりもう9時も回っているようです、ひとまず近所の呑み屋さんにご挨拶がてら一杯やってこようと表に出ました。右にしようか・・左にしようか、 どちらにいっても幸か不幸か至近には呑み屋さんを含めお酒の呑めるお店が5〜6軒もあるんです。
通勤はここから徒歩5分、今までに比べると呆気ない時間です。わたしは通りではなく荒川土手に駆け上がって土手の上を通勤します。これは以前と同様バスを降りてから そうしていたように遠くから通ってくる人たちと同じように会社のまえから土手の階段を下りて門に入ります。
しかし今度近くに越してきた事を機会にある決心をしていました。それは通勤時間が無い分時間に余裕ができます、ですから少し早く会社について食堂で朝飯をきちんと 食べようと言うものでした。
暖かいみそ汁と炊きたてのご飯、納豆だってちゃんと薬味のネギも付いています。これだけでも私には大変なごちそうです。
良くも今まで朝食抜きで過ごしていたものだ・・、こうしてお盆をテーブルに載せる頃にはこの好きな納豆の匂いだけで本当に朝の食欲も湧いてきます。
そして仕事もはかどると言うものです。とにかく早く仕事を終えて住まいの環境だけは一日も早く整えたい気持ちでこころも高ぶります。
仕事を終えてホームセンターに行きます、鉄のアングルを寸法に合わせて組み合わせるための最低必要量のメモをもって品定めをします。この鉄のアングルは会社にいる ときにもよく扱っていて、職場の実験器具だとか試験資材置き場の整理などでよく利用していましたので扱いなれていました。
さっそくへやに帰って・・・と、岩崎先生から声が掛かります。「幸三郎さん、お母さんから荷物の届きものですよ・・」
母にお願いしてあったカーテンが届いたのです、手紙も入っています。「・・・お身体だけは大事に過ごすように・・」・・・(続く)


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(連載No.99)
  母からの手紙にはカーテンをもっと早くに届けたかったところでしたが、久しぶりの春先の野良仕事で体調がすぐれずに延び延びになってしまって・・・と書いてあった。 恐らく疲れていた上での夜なべ仕事で作ってくれたものだろう、すまない事を頼んでしまった・・と後悔した。
私は田舎にいた学生の頃は男だてらに裁縫なども好きで結構母のミシンを借りて袋や手提げを自分で作った事もあった、ですからミシンさえあればカーテンくらいは 自分で出来たかも知れなかったし、それも楽しかったかなと少し残念に思った。
ずっしりと厚手の薄緑色のカーテンはお願いした寸法通りでした。そして窓枠にセットすると蛍光灯の光はカーテンに反射して部屋の中は更に明るくなりました。
カーテンを吊ったあと暫くは母のことを思い、そして田舎の事を想いながらカーテンに見とれました。
一休みの後、今夜は購入してきたアングルの鉄骨を組み立てようと予定していましたからそれに取り掛かろうと思いました。
これからは何かにつけて工事をしたり修理をしたり・・と、工具や道具も揃えて行かないとなりません。この部屋の工事についても大工道具はすべて岩崎先生からお借り して出来たようなものです。今日のアングルの組み立てでもモンキースパナを借りてこなければ作業も出来ない始末です。
長辺のアングル、短辺のアングルを取りあえず展開図のように部屋に並べて組み立て始めます。部屋いっぱいに広がっている引っ越し後の荷物が邪魔をします。
ですから棚の最下段が出来た段階でもうそこに荷物を積み込んでしまいます。そして二段目の組み立てをして更に収納予定の物を整理しながら積み込みます。
作業は遅々として進まないようですが床面の空間は見る見る広がって作業性もアップしてきて大変満足する進捗度合いでした。
最大の荷物であるキャンバスのあらかたがアングルの中に収まると一気に片付いた気分になります。私は今まで引っ越し以来横に寝かせていたキャリヤー付きの イーゼルを起こしてフロアーの中をゴロゴロと移動してみました。
一通りの片つけが終わるころすでに外通りは車の音もまばらになり静かです、時計はもう11時を回っていました。
近所には食堂や呑み屋さんなど至近にかなりありますがこの時間では通りに出て3軒隣にあるスナック(連載NO.96近隣地図参照)は深夜まで営業している事はわかっています。
今日はこちらにもご挨拶かたがた立ち寄って見ようかと思いました。経営者は私と同年代か・・ちょっと先輩くらいかなと言う感じの方がやっていました。
「こんばんは、」「いらっしゃい〜!!」 でスナックのお店に入ります。
「こんばんは〜、幸三郎さんじゃないですか・・」 カウンターの端から声が掛かります。
「あれ?・・」 まだ目が慣れないせいか誰から声をかけられたのか定かではありません、しかもカウンターの明かりから逆光なのでシルエットしか判りません。
「オレだよおれ!、幸三郎さんの隣の職場の成田ですよ・・!」・・・(続く)


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(連載No.100)
  「あらあら・・、成田さんでしたか・・」
駒込林町にいたころは住まいの近所の呑み屋さんで会社の方にお会いする・・なんてことは全くの皆無でした。しかし、こうして新しく住むようになった地域では会社の 独身寮もあります、そして残業帰りの方も立ち寄りますのでこれからはチョイチョイこんな場面も想定される所です。
「幸三郎さんとこんな所でお会いできるなんて光栄です・・」。
「何をおっしゃいますか、あなたの写真の腕前も相当なものですよね、お隣に座ってもよろしいですか」
「こちらはスナックのマスター、もうすぐすると可愛い奥さんも出てこられますよ」
「ようこそいらっしゃいました。幸三郎さんですね、以前から吾郎文具店の下に越してこられるって、工事をしている所を見たり聞いたりしていましたので知っていました・・」
「そうでしたか、これからチョイチョイとまでは行かなくとも時々立ち寄らせていただきますので懇意にお願いいたします」
「幸三郎さんも新しい土地に馴染むのは大変でしょうが私どものお店はいつでもお待ちしておりますのでお出かけください」
「ありがとうございます。はす向かいの交番には挨拶は終わりました。次はいろんなお店の方の番ということで・・・、あっ、ウィスキーはダブルで水割りにしてください・・」
「承知しました、どういたしましょう、ボトルキープしていただけますと割安になりますが・・」
「ハイ、実は今度の住まいは部屋代がまったくのゼロなんです。今までの下宿代の事を想うと毎晩呑み歩いても余ります。実は岩崎先生にもクギを刺されています。 ここにいる間に家を買う頭金の資金を貯めなさい・・って」
「あれ?、先輩って実にしっかりした将来の生活設計って持ているんですね」
「何をおっしゃいますか、もともと私はちゃらんぽらんな性格ですから各先輩達も見ていてとてもミチャオレン・・て感じなんでしょう?」
「そうなんだ、オレの先輩達なんかそんな忠告をしてくれる人なんて皆無ですからね。目標に向かって後先考えずに突き進めって」
「多分、あなたの才能はそれに値するような原石を感じさせるんじゃないでしょうか、だからそれいけ、やれいけ・・って」
「オレなんか幸三郎先輩の事は入社した時からあこがれてみていました。あんな芸術家志望の先輩のようになりたいって」
「多分それって、隣の芝生的な見え方なのかもしれませんね」
「ずいぶんと禅問答的な話見たいですね」
「そうかもしれないけれど実は現実なんです。絵の道を選んでその世界に浸って見ると中途半端な才能の人がゴロゴロ、ウジャウジャしていて蜘蛛の糸の垂れてくるのを ひたすら待っている。そしてそれにつかまろうとする人を引きずり降ろしたり、蹴落とそうとしたり・・・」

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「・・・そうか、オレなんかそういう意味ではこの世界では”無害”ってところかな・・・、まだ自由に泳がせたり言いたい事も言わせておこうって」
「いえ、そう言う事ばかりではなく、その前に一人前の大人として認められるかどうか・・ってことも自分に問いかけても見るんですよ」
「その結果が貯金、チョキン、チョキン、貯金・・・ってことに繋がるわけですか?」・・・(続く)




(連載No.101)
  「そう貯金貯金ってバカにしないで下さいよ、私自身そんなものは女性じみた感覚でしかなかったんですから」
「その心境の変化って聞かせてくださいよ、オレも何かの参考になるかもしれないから」
「いや、そのね、こう言う事って多少の強制力によって縛られないと中々その気にならないもんですよ」
「わかります幸三郎さん、つまりコレですね?」
彼はおもむろに右手を裏返して小指を立ててわたしの鼻先に押しあてようとします。
「だといいんだけどね、実はいとこから勧められていてね、そのたび断わり続けていたんですよ」
「従弟さんって、銀行員さんですか?」
「いや、大手の建築会社さんに勤めていて営業の仕事をしているんですよ」
「積立コースによっては優先的に格安プランをご紹介・・・ってやつですか?」
「格安・・・なんてのは知りませんが、彼に言わせると僕の言う通りに当社の積み立てプランで確実に持家の計画を実現させますから・・って」
「それって、月々幾らくらいの積み立て計画なんですか」
「もっとも、積み立てたから、デハ建てましょう・・・というものではないんですよ、ある程度のレベルまで行けばこの人はローンを組んでも返済能力が有る、ということで 認められるわけですよ。ですから今までの家賃代分全部ですよ」
「そうなんだ、いえ幸三郎さんは今の所の家賃がただって聞いていたものですから羨ましがったんですが厳しい未来が待っているわけですね」
「そう思うと夢も希望も無くなるような気がするんですがそうは思いませんね」
「どうしてですか」
「通勤時間が無くなる分、絵を描く時間がもっと増えます。そして同時に会社の食堂を120%最大限に利用しようと思うんだ」
「朝昼、会社の食堂で食べると言う事ですね」
「いえ、夕食もです。お風呂も会社の風呂、夕飯も夜勤の方が利用する食事を予約しておきます」

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「それでは息苦しくないですか」
「全然そんな事おもいません、みんな会社の食堂の食事はマズイ・・なんてこぼしていますがオレなんか体質に合っているって言うか旨いんですよ」
「それではお金なんて要りませんね・・」
「そう、もともとパチンコも賭けごとも興味ないしお酒だってウチで呑んでいればたかが知れています」・・・(続く)




(連載No.102)
  約16畳ひと間ほどのアトリエの一角に3畳ほどの一段高くなった舞台のようなところにベッドを置き寝起きします。
今朝も7時過ぎ、ゆっくりの起床です。独身の若者の朝支度は実に質素です。今までですともうこの時点で「・・あ〜!、会社遅刻する〜・・」でしたが悠悠です。
私の勤める工場の始業時間は8時半、こんなに早く始業1時間も前に出勤してくるのは管理職の方と早出残業といって始業時間前に段取りをこなす職場の人ぐらい です。わたしの通勤時間はなんと徒歩のみの6〜7分に激減したのです。
わたしは守衛所の門をくぐると自分の職場はそのまま素通りしてはずれにある建物の最上階にある食堂にまっすぐ向かいます。
最後の階段を上り詰めるころいわゆる「あさげ・・」の匂いが言いようも知れない食欲の感情を呼び起こします。
今までの生活の中では朝食にこんな気持ちを感じた事はありませんでした。それはあわただしく硬いパンをかじりながら服を着かえ、そして呑みこめない食事を無理やり 冷たい牛乳で流し込んでバス停に走って行った・・・。
昼食時には満員になる大きな社員食堂も朝の利用者はほんの限られた人ばかりです。夜勤明けの人、早出の人などはもうすでに食事を終えて帰って行きます。
そして私と同じパターンの人は近くの独身寮に住んでいる人などですがナルホド・・・と思う先輩などもいて朝の食堂利用っていろんな人たちがいるんだなーって思いました。
幾人かの先輩で朝食利用の方は遠方からの通勤です。暗い内に起きて急いで朝食をとって満員電車に飛び乗る・・・大変な苦痛と言います。
朝食抜きで家を出る、その分早い電車に乗ることで座席も空いて座ってこれる、電車を降りてバスの運行も早い時間のため渋滞にはまる事もなく通勤時間が短縮できる。
そしてここでゆっくり食事して職場に向かえば余裕で仕事に取り掛かれると言うものです。
私にとっては今までの不規則な生活の反省と自分のからだは大切にしなくては・・と言う自覚もあって朝食抜きの生活からの脱却が出来た事は素晴らしいことでした。

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そしてもうひとつには食堂にはテレビも備えてあったため時事ニュースも食事しながら見ることができるメリットもありました。
先輩の中にはこの空いた食堂のテーブルひとつをを独占して新聞を大きく広げて読みながら食事している人も見受けられます。
いずれにしても私はこのアトリエに越してくる事によって生活のスタイルは大きく変わりつつある事となりました。
したがって会社の仕事にしても今までは”二足のわらじ”と言う気持ちが強く地に足のついた仕事が中々できませんでした、しかしこうして暫く日々を送るうちにいつの間にか 絵を描く事も更に充実することになるし段々に責任のある仕事を与えられるようになっても精神的に耐えられるようになってきました。
しっかり朝食をとり仕事をしっかりする、昼食後の昼休みも以前は昼寝・・でしたが好きな卓球を仲間とするようになる、とても考えられない事が展開しそうな気がしてきました。
当時私の体重は46kgくらいしかなかったものですからすぐにへこたれてしまう事がよくありました。もっとも昨年の吐血入院の最低の時期からはかなり回復したとはいえ まだまだ体力をつけなければと痛感していました。
昼寝していた時は午後の始業のサイレンでもボーっとしたまま仕事に就く事がよく有りました、しかし昼休みの運動はそのまま仕事に切り替えても気持ちの入り方が以前と 全然違うのです。
当時の職場では仕事時間、特に終業の時間は工場としては5時に決まっていました。しかし従業員の中には仕事でもなく何時までも職場に居残ったり際限なくサービス的 な仕事をする風潮が有りました。
私はここはきっぱりと割り切らないと自分の時間が持てない、と言う気持ちを強く持ち続けました。
そして普段の仕事の後は・・・(続く)




(連載No.103)
  新しいアトリエに移り住んでから会社を退けての時間帯は実に充実したものに変わりました。
遅くとも7時に帰宅した時にはすでに風呂も食事も終わっているのです。就寝時間の12時まで5時間はしっかりと絵を描く時間が取れます。そして興が乗れば更に 1〜2時間の延長が有ったとしても最低5〜6時間の睡眠時間が取れるのです。
さて、多少は回り道はしましたが年末に予定していた第2回目の個展準備は着々と進みました。
昨年とは違って作品を仕上げるペースに余裕が出た事、少し大きな作品でも下の絵の具が乾いて上に乗せる色をあせることなく待つ余裕が出来ました。広い作業場は 一旦その絵の作業を辞めて別の絵を描くことによってイライラが解消され精神的にも大変安定させてくれました。
第1回目は12月14日からの1週間でしたが、今年は11月29日からと早めました。
作品に装てんする額縁は昨年において作ったものをほとんどそのまま使える・・・と言うのも相当な負担減です。私は昨年当初この額縁はどうせ毎年使うものだから自分で 作ってしまえば相当な経費削減につながると考えました。

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絵を人様に見ていただく・・・からには最低限の絵の服装である額縁をつけると言う事は必須なのです。額縁は展覧会出品などの時何時も利用している上野美術館地下 にある”彩美堂”で借りることは可能でした。
しかし、大きな額縁14点分(100号2枚、50号10枚、30号2枚)借りるお金が有れば額縁幅にカットした材木が買えます、それを額縁のようにコーナーを定規で45度に して金具で固定すれば一応の額縁になるのです。
これは思った事はた易い事でしたがイザそれを作成する余裕を作りだす事は大変でした。でもそのおかげで2回目はその恩恵を充分に頂く事が出来るわけでした。
そして展覧会の案内状の作成も友人のカメラマンには早くからお願い出来た事、レイアウトや印刷の手配も昨年の手探りから脱して気分的にも相当な余裕が生まれました。
夏も終わり時々空にはすじ雲が見えるころになって私は親しい友人たちからの催促に応えなくては・・・と言う気が湧いてきました。
「新しいアトリエを作ってそちらに移り住んだ・・・と言う噂を聞いたがどんな所でどんな生活をしているんだい?」、と言うものでした。
それはもうアトリエの完成するころには「行って見てみたい・・」とか「そちらの近くに行く用が有るので立ち寄ってもいいだろうか?」と言うものでした。
しかし私にはその時点での余裕はありませんでした。「スミマセン・・・、まだ落ち着いていませんので・・・その内にご招待しますので・・」と断わり続けました。
作品のはかどり状態や諸々の状況から判断してこの際「アトリエ開き」と銘打って皆さんを一堂にご招待しようと考えました。
そして同時に転居のご挨拶も一緒に文面を考えることによってお近くで都合のつく方は立ち寄ってもらえるし遠くにお住まいの方は私の転居した事も判ってもらえる・・と思いました。
暑くもなく寒くもないそして個展までの時間的余裕を考えると10月はじめころ土曜日の夕方5時から日曜日の夕方まで24時間の計画を立てました。
来ていただくのに時間を決めてしまうと予定が合わずダメと言う人も「そうか、翌日の午前中なら行けそうだな・・」とか時間的幅に余裕が出ると考えました。
その反面、友達同志のなかでも当然幸三郎のアトリエで久しぶりに皆で逢って美術研究所時代の話に花でも咲かせようと思っていた人もすれ違いでお逢いする事が叶わなかった 人も出て反省した事もありました。
多くの人の感想は二つありました。「こんな大きな部屋で創作に励む事が出来て本当にうらやましい・・・」と言う若い人の言葉が有りました。
そして先輩や身うちに近い人からは「どう見ても、半地下だよな、幸三郎の健康の事を思うとあまり住まいとしてふさわしい状況ではないよな・・」と言うものでした。
最終日に最後の皆さんがお帰りになったのは実に10時過ぎ、なんと30時間もの破格のアトリエ開きが終わりました・・・(続く)


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(連載No.104)
  第一回目の個展に比べてその準備は驚くほど余裕を持って進めることが出来ました。先日のアトリエ開きのおりカメラマンの桂さんは年末にかけてお忙しいことはもう充分に わかっていましたので少し時間を割いて案内状のための写真撮影など済ませておいたのは実に大正解でした。
ほぼ完成した14点の作品はすべて額縁に装填しその上でなおかつ修正すべきところは筆を加えると言う余裕もありました。
絵と言うものは実に不思議です、キャンバスのままでその絵を見たときと額縁を装填して鑑賞した時、趣に大きな差が出るのです。そう言ったことは常々展覧会に出品 するため美術館の地下室で賃貸額縁に装填したときいつも感じることでした。
そんなときのためにわざわざ出品会場まで絵の道具を持ち込んで美術館の審査会場近くの受け付けで最後の仕上げをしている人もいるくらいですから多くの新人は そこまで最後の勝負と思っているわけです。
ですからすでに自分のアトリエで全ての作品に額装できるということはとても励みになる事なのです。
そうこうしている間に早くも案内状のゲラ刷りが届きました。本来ならカラー印刷をしたいところですが限られた予算の中で又今年は何かと入り用が重なったため昨年と 同様にモノクロによる印刷となりました。
カメラマンの桂さんは今年も私の顔を載せて表紙を飾る予定だと言います。昨年は制作中の私の顔をパレットの隙間から撮るというアングルで多くの人を驚かせましたが 今年はアトリエのそばの荒川土手で何枚か撮った写真はひとつも使わずに遠くから望遠で盗み撮りしたような写真でした。
ゲラ刷りにOKを出すともう二日後には全ての印刷が終わってアトリエにその案内状は届きました。
そして案内の扉を開くとその写真は自分でもびっくりするくらいのふてぶてしい面構えで映っているのでした。しかし肝心な作品 の方が少し貧弱に感じてしまうのは会場に来ていただいた折のお楽しみにして戴こうと思いました。
たとえば宛名書きもそうです、昨年一生懸命探して作り上げた差出人リストがあるから少しの変更と飛び入りで来ていただいた方をリストに加えることでたちまち用は 足りてしまうのです。でも手書きで書かなくてはならない事は皆そうでしたから大した苦にもならなかったようです。
個展の始まる前日、わたしはレンタカーを借りてアトリエ向かいの”荒川土手駐在所”横にその小型トラック止めます。お節介そうで少し顔なじみになったお巡りさんが さっそく職務質問します。

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車の周りを一回りして「レンタカーか・・、あれ?、お兄ちゃんもう引っ越すのかね?」
「違います!、明日から個展をするので今日の内に絵を銀座まで運搬するんです、車をここに止めておきますが良いですか?」
「や!?、ここはマズイよ、でも一晩中止めるんじゃないんだろう?、積み終わり次第さっさと出て行ってくれれば・・・まあ・・」
そんな訳で一旦積み込む絵はアトリエのドアーの外、道路っ端に並べて信号が青になる度一点づつ運ぶ算段でした。またお巡さんが交番の中から声を張り上げます、 「お〜い、兄ちゃん!、裸の絵は後ろ向きにしておいてくれないかナー」
11月29日、日曜日・・・、第二回の個展は開催されました。この一年間を振り返って見ると本当にいろいろな事が有りました、想えば第一回の個展開催の初日には すでに精魂使い果たした私がここにいた事でした。あれは本当にあった事なんだろうか・・・と改めて思い出します。
初日の第一陣のお客さんが来訪してくれて午後1時か2時ころでしょうか、この時間に昼食を食べておこうとして食事をして画廊に戻った時でした・・・、わたしは突然に 吐血し意識を失って救急車で新橋の病院へ運ばれました。気がついたのは真っ白なベッドの上でした。
あの悪夢のような昨年の様子に比べ今年はなんと穏やかに来訪のお客様と対応し体調もキチンとしている事でしょうか。身体が健康を取り戻して来ている幸せを感じながら 自分の作品の旅立ち・・・と言う気持ちで一生懸命お客さんに説明できるのです。
夕方になると初日の夕方は会場がごった返すほどのご来場の方々で埋まってしまいました。旧来からお付き合いのあった所属美術協会の先輩や美術研究所でお友達だった 方々が次々とお見えになってくれるのです。
そして私は改めて想うのでした「こうして私の作品の数々を前にして仲間から辛らつな批評を戴き、励ましをいただきながら又次のステップを踏み出したかった・・」
だって、昨年はそんな大切な場なのに私はこの場所に居なかったんですもの・・・(続く)

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「第2回個展案内」


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               第四部まとめ読みご案内

第16章(No.105〜No.128) (〜28歳)第三回個展を目指す
第17章(No.129〜No.135) (〜28歳)青春へのけじめ・・・(1)第四回個展を目指す
第18章(No.136〜No.142) (28歳)  ・・・〃・・・・・・・・(2)日々の感動を新たに感じて
第19章(No.143〜No.157) (28歳)  ・・・〃・・・・・・・・(3)フィールドに喜びを見つけて
第20章(No.158〜No.179) (29歳)  ・・・〃・・・・・・・・(4)サイクリングxキャンプ
第21章(No.180〜No.192) (29歳)  ・・・〃・・・・・・・・(5)最後の個展として
第16章(No.105〜No.128)(〜28歳)第三回個展を目指す




(連載No.105)
  第二回個展の期間は忙しい中にも充実した一週間でした。
歌でも演劇でもそうでしょうが自分が研鑚してきた表現を不特定多数の方に見ていただきそしてその方々から意見を聞いたり至らなかったものを反省するってとても大切 な事だと言う事が初めて実感としてわかったのです。
私はそんな中である事に対して真っ向対立する貴重な言葉を二つ、大事に自分の心の中にとどめる事としました。
「あなたの作品には値段が付いていないようですがお売りにはならんのですか」
私は驚きました。その衝撃はたとえば学芸会で歌を歌ったあと観客から「お金はいくら払えばいいんだー?」と似た感覚を味わったのです。

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当時、私の絵の仲間や先輩たちの個展で多くの方々は値段がついていてあたかも商品を売買するような気安い状況で開催しているのはよく目にしていました。
そう言った観点からすると私の個展の展示は全くの素人が学芸会をしているのと大して違わない行為であることは間違いありません。
「画家さんが己の作品に値段を付けその対価を受けるということは次の新しい自分を生み出すための大切な行為なんですよ」
「自分の作品に値段をつける・・と言う行為は自分の作品を第三者的にあるいはもっと冷徹な眼でその作品を評価できる事に繋がるのです。引いてはその事が次の作品 にもたらす効果は次第に大きくなるはずです」
綺麗な銀髪の老画家は私の勧めるウイスキーに手は出さず、受付嬢の出したお茶をいかにも美味しそうに飲んでいました。
「このお茶と、この指先でやっとつまめるような菓子、何処の世界にも居心地のいいバランスってものが存在するわけですよ・・」
私も年をとったら若者にこんな禅問答のような言葉を平然と言えるような人生を歩んで見たい・・・、と強く思いました。
三時を過ぎるころから画廊を訪れるお客さんの数は極端に減ります。そう言った間隙をぬって銀座の裏通りにある安サラリーマン用のどんぶり飯屋さんに出かけて 遅い昼食を取りに行きます。
受付嬢さんには予め戻ってくる時間を告げて出かけます。遠くからわざわざ来ていただいたお客様ががっかりしないようにとのことからでした。
予定の時間に帰ってきて旧知の懇親を深めることもあったりして自分の個展なのに外から帰ってきてドアーを開けるとき少なからず胸がキュン!となることもあるのです。
その日も私は歯に詰まった牛筋にスィー、ハーしながら戻ってくると受付嬢が「お客様がお二階のフロアーでお待ちしています・・」と怪訝な目つきで伝えてくれます。
吹き抜けの階段フロアーから下のやり取りはじゅうぶん二階まで筒抜けに聞こえるはずです、下の気配を察して椅子から立ちあがって階段わきまで移動する衣擦れの音が 手に取るように判るなか階段を駆け上がります。
着物姿です、こんな美しい人を見たこともありません。
道理でこの事を告げる時の受付嬢の顔つきが尋常ではなかった事がわかりました。対面して「何かの間違いでは・・・?」わたしの憶測とは関係ないと言った表情のお客人。
「こちらの展覧会の絵をお描きになられた幸三郎”先生”ですか」
「・・・セ、センセイではありませんが、幸三郎です・・・が?」
「わたくしは絵を見るのが好きでして、今日もこうして早目に出勤し、画廊巡りをしたあと職場に向かうつもりでお伺いしました」
ハンドバックから少し小ぶりの名刺を差し出し「麗子と申します」・・・中央区銀座7−5−○  Club 茜(あかね) 麗子・・・
じょ、冗談はやめてくれよ、はす向かいの高級クラブだろ〜・・・(続く)


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(連載No.106)
  わたしは声にこそ出さなかったもののあまりにも身分違いの感情から「何かの間違いでしょう・・・」と思いながら茫然として立ちすくみました。
受付嬢がお盆に載せたお茶を運んできながら「先生、お座り頂いてお話でも・・」と言われやっと我に帰る事が出来たくらいでした。
その御婦人の曰く、「昨日は表通りからガラス越しに拝見させていただきましたが、他を回った帰りでしたので時間がありませんでした、今日は直接お伺いして拝見させて いただきました」
「はあ、それは光栄なことです」私は目星をつけて又来てくれた事に感激し、少し心も和みました。
「色使いがとても気に入った事と画題の発想がとても新鮮に感じられました。わたくし、はっきり言って好きなタイプのお絵をお描きになっていると感じました」
「ああ、そうでしたか・・。そう言っていただける方が居るとわたしも励みになります。大変うれしい事です」
「どちらの絵もお値段が付いていませんが先生はお売りになる事はしませんでしょうか?」
やはりそういう話になるのかと多少ドギマギしながら
「はい、今は全く考えておりません。実は昨日、繁治郎画伯が立ち寄っていただきまして売ることも大切な勉強だよ・・とは言われたばかりでした」
「それで・・、お考えはお変わりなりましたか」
「・・・というか、そんな昨日や今日でそんな気に変わる事は先ず無いと思います、それに私のような大きな絵ばかりでは売れること自体が考えられない事です」
「わかりました、あまり無理強いはしません。でもわたくしもひとつの作品が欲しいと言うんでなしに、あれもこれも素敵だと感じているんです」
そう言う彼女はその気品さに似合わず周囲の作品に視線を泳がせながらヒョッと子供っぽい仕草も見せるのでした。
本当にうれしいことです、こうして作品を見てくれる人と気持ちが少しでも繋がってくれることに「ああ、絵を描いていてよかった・・」と幸せを感じるのでした。
「先生、今日は楽しいひと時をありがとうございました。まだ会期も残って居ますので出来るだけ立ち寄らせていただきます」
「いいえ、ご期待に添えずこちらこそ恐縮しています、ゴメンナサイ。これに懲りずにぜひまたいらっしてください」
「はい、今度は友達を連れてまた来させていただきますネ」どうしたんでしょう帰り際の挨拶はまるで高級クラブに勤めるホステスさんではなく、絵の友達と又の再会を約束 するような親近感が伝わるのです。
「よ〜う、あんたが幸三郎さんかね・・、やっと会えたな!」。

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「今年の絵は去年の絵よりもっと元気があっていいよー、若い絵描きさんはこうでなくっちゃイケンヨ!」
「ハイ!、・・・・それで先生のお名前は・・?」
「ハッハッハ、わしか?、わしは八丁目の鮨屋のげんすけって・・・、今度来たらご馳走してあげるよ」
「値段が付いていない、売るわけにはイカンって、よく自分で判って居て気分がいい。たしかにまだ未熟だよな、オレなんか金とって握れるようになったのはつい最近の事 だよ」
「あの、アメリカの大統領がお忍びで・・・って新聞で見た事のあるげんすけ・・さんですか?」
「若けーのに新聞なんかも読んでいるんだ、エレー!。俺なんざーこうして銀座でいつも絵を見ているとな、いい悪いじゃなくて鮮度で見分けるとおもしれーんだよ」 ・・・(続く)




(連載No.107)
  画廊には大小、それに経営方針など様々な形態がありますが概ねこの銀座界隈の画廊と言うのは美術作品の売買を目的として開いているところが主体を占めます。
そんな銀座の画廊の中にあって展示スペースのみを貸し出すことで経営している画廊はこの竹川画廊が一番なのです。
展示スペースも一階と二階、階段の踊り場まで含めると実に大手有名画廊の壁面以上に充実しているのです。しかも貸出しの料金もこの場所では破格の廉価なので 個展やグループ展を希望する若手の作家にとってまさに順番待ち・・・といった様相です。
私はこの第二回の個展を開催し実際に会場にいてお逢いする鑑賞者の方々とお話をして行くうちに「ヨシ!、来年もこの会場で第三回を目指して頑張ろう・・」と言う気が 沸々と湧いてくるのでした。
一週間の会期の半ば過ぎですがわたしは画廊のオーナーに来年の画廊使用の契約を申し入れました。
実は昨年初めての個展開催の期日についてはたまたま作家さんの経済的理由から私に巡り合ったため開催にこぎつける事が出来たのです。しかしその期間にここの 画廊を使用したという実績は次年度も優先してくれることになっていましたので躊躇わずこの第二回展は優先予約が取れたいきさつがあります。
同様に第三回の希望を申し入れたと言う事はその優先予約を先取りし自身来年一年間の励みとしての希望にもつなげられたと言う事です。
個展の会期も残すところあと一日・・という日になりました。
多くの方と作品を前にして大変有意義なお話がたくさん出来たことですっかり来年に向けての決意もしっかりと固まりました。今日も午後2時過ぎになってお客さんが急激に 空く時間を見計らって遅い昼食に向かおうとしました。
電話に出た受付嬢から取次です「・・麗子さん・・と言う方からこれから伺いたいけれど先生はイラッシャルかと・・?」

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わたしは実は驚きました。銀座の高級クラブ茜の麗子さんだと言う事はすぐに判りましたが普通誰でもがお別れの時には「また、お邪魔させていただきます・・」とは言います が本当に来るなんて思ってはいなかったからです。
しかも今回の個展は実に初めて接客して多くのユニークな方々のお話を聞けたりしたことで麗子さんのことなどすっかり忘れかけていた所でした。
「ハイ、先日はわざわざお越しいただいてありがとうございました。今から30分ほど食事してきますのでその頃でしたら・・・」
ああよかった、今日の昼食は西七番館路地にある安くて旨くて有名な餃子屋さんで食事するつもりでしたが残念ながら取りやめだ。
あんな美女が来てくれるんだから多少の我慢はしなくてはニンニクの臭いプンプンでは失礼だし・・・、さてどこにしたもんだろう。
結局、受付嬢に入れてもらったお茶でモンブランのドーナッツを食べておしまいにしてしまった。なにもそんなに興奮しなくってもよさそうなものなのに・・・。
そう言う事を平然とおっしゃる方は実は本当の美女と言う人に面と向かって話をした事の無い方だと私は想うのです。とにかくその方がまたお見えになると言うのです。
キッカリ2時半に麗子さんは画廊に来ました。私は今度は二階のフロアーで待つことにしました。二階から通りを見ていた時「あれ?、まさか・・?」
そのマサカの洋装で今日の麗子さんは画廊に来たのでした。すらっとした長身、毛皮のハーフコート、座ると膝が出そうなタイトスカート、そしてコートを膝に置くとこの冬なのに 七分袖に広い胸をはだけた薄着なのです。
私の目のやり場に困ったその顔のメイクも以前お逢いした時と比べて別人のような明るさです。やはり高級クラブに勤めている人と言うのはこんなにもあか抜けた人だったんだ とつくづく感心してしまいました。
「先生、今日はお願いがあってお話を御伺いさせて頂こうと思ってまいりました」
「え!?、はい・・・」
「先生の作品を期限付きでお貸しいただけないでしょうか・・・、勿論ですが御礼もさせていただいたうえで・・・」・・・(続く)




(連載No.108)
  「私の絵を借りたいって、・・・・?」わたしはあまりにも突拍子な麗子さんの申し出に私の理解したことがトンチンカンなのかな・・と自分を疑いました。
私のさ迷う視線を追っかけるようにして麗子さんはシッカリと捉えて更に続けます。「実は、わたくし、来年の早い内に今のお仕事を辞めようと思っているんです」
(エッ!、まさかそれまでの間にクラブ茜に遊びに来いって・・・言うんじゃないだろうね)
麗子さんは私の視線が停まったのを確認すると話を続けます。「こんどわたくし自分のお店を持つことに決めて春には開店のための準備で忙しくなるんです」

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「そこで先生の作品をぜひ飾りたいと考えた末の結論が”期間を決めて絵をお借りできないか・・”と言う事なんですが」
彼女は最初この画廊に来た時、絵を売ってくれないかと言っていました。わたしはそれは実に困ったことだ、売る用意は全くしていない・・とはね付けたのでした。
この美貌の麗子さんはどこかのパトロンから「店を出させてあげるからもうこんな大勢にサービスするのは止めてくれ・・」と言われて自分のお店を持つのかしら。
きっとそのパトロンは不細工な男だろう・・・、よくあるタイプだよな。どうしてこんな美人の女性に限ってよりによって不細工な男を好きになんかなるんだろう。
私はあらぬ想像をふくらませてしまって(ましてや、絵のことなど全く分からない不細工男が俺の絵の前で高級な酒を飲みながら麗子さんを口説いている・・)またもや 視線の焦点も定まらずに彼女を輪郭で追っていた。
彼女は私の疑い深い態度に少し業を煮やしたように小さな溜息を吐いてから少し身を乗り出して続けます。
「先生のお住まいは足立区ですよね、私の家は荒川区なのでかなりお近くだと思います」
「はぁ、ま、近いですね」
「実は私の家の通りに面した部分を改装して、弟夫婦がスナックを開きたいがどうか・・・・って話が持ち上がったの」
(エッ、パトロンだったんでは無かったんだ・・、それにしても荒川区に住んでいるなんてとてもそんな庶民的な暮らしとは思ってもみなかったことです・・・)
「それで、昼は弟がスナックをやりくりし、夕方から私といもうと(義妹)でバーを開くことにしたんです」
(・・・・と言う事は昼のお客さんも、夜のお客さんも俺の絵を見てくれるっていうわけか・・・)
「先生、だいたいお分かりになっていただけたでしょうか、そのお店に先生の絵を飾らさせて戴けないでしょうか」
そう言うスナックだったら自分でも出向いて行って絵を見ることができそうだし、何と言ってもこれを機会に麗子さんにもちょいちょい私から訪ねることも・・。
「あのー、以前から気になって居たんですが私のことを”先生”と呼ぶのは止めていただけませんか・・」
「あっ、そうでしたか、・・・では・・・?」
「幸三郎、幸三郎と呼んでくれるんでしたら・・・お話に乗ってもいいかなって感じはしますが」
「ああ、それは大変嬉しい事です、わたしもこの事については二日ほど真剣に考えさせていただいたものですから、先生・・・あ、幸三郎さんありがとうございます」

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「なにか私も嬉しくなってきました・・、こちらこそありがとうございます」
「早速ですが、最初のお作品はこちらの”三日月”など、どうでしょうか・・」
「えっ、そんな裸婦の絵でも良いんでしょうか、それに100号ですから場所も取りますよ・・」・・・(続く)




(連載No.109)
  二回目の個展は初めて自分が会場に居られたことによる嬉しさを第一に感じました。しかし会期を通して銀座の有名クラブ”茜”の美人ホステスが私の絵に興味を持って くれたこと、しかもそれを占有しようと思ってくれたことは大変な驚きと喜びでした。
結局私は個展の終わった翌年の早春、つまりクラブ”茜”を麗子さんが退職するという2週間前に「どうしても・・来て!」ということでナント高級クラブに行ったんだ!!!
当時、キャバレーっていうのは一度だけ京浜東北線王子駅前にあった雑居ビルの2階か3階にあったところに行ったことはあった。先輩に連れて行ってもらったのだが こんな薄暗い所でもオバケ見たいな女にしか見えない、しかもそんな奴のご機嫌を取りながら呑むお酒の味は「先輩の気が知れない・・・?」でした。
前もって言われていたことはフロントでご希望と言う名目でいろいろ聞かれますが「麗子の指名で来た!」と言ってくれれば大丈夫ですから・・・。
わたしは背広と言うものを一着持っていました。田舎に住む長男が結婚して以来、体形が変わってしまってもう着れなくなってしまったと言うのをお下がりで持っていました。
少し・・、かなり・・かな、ダブダブではありましたがそのライトブルーの背広にエンジ色のネクタイをキリリと締め出かけたんだナー。
高級クラブっていうのはもんのすごく明るいんです。わたしはキャバレーが少し高級になったくらい・・・と思って行きましたが大きな間違いでした。もし、そんな筈は無いと おっしゃる方がいたらそれは3流とまでは言いませんがせいぜい2,5流が精々です。私はこの目で見たんですから、どの女性も透き通るような素肌でキラキラしている のです。つまりそんなに明るくしても一向に差しさわりのない方達がもてなしてくれるのです。
麗子さんはそんな明るいフロアーのなかを実に見事に泳ぐようにして私の待つフロントにやってきました。
なんて美しいんでしょう、今までの通勤服でウットリしている場合ではありません。「センセー、お待ちしていました・・・」
わたしはあえて苦言は申しませんでした。だってフロントのオジサンの目は「なんでこんな青二才が売れっ子の”麗子”さんの逆指名なんだ・・」ってアリアリの顔なんだもの。
柱一本もない大きな明るいホールのしかも中心に近いラウンジが空けてあります。麗子さんはそこに私を案内すると対面では無くわたしのソファーの隣に腰掛けました。

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明るいホール、何処までも見渡せる空間、そして麗子さんとのほどよい距離間でソファーに深く沈んでみると緊張も少し和らいだ気がします。名も知れない香水の匂いも 麗子さんの清潔な美しさを引き立たせます。
「ごめんなさいね、幸三郎さん。”先生!”って言ってはいけないんですよね」
「あぁ、そうです、そうですよ!・・」
「でも、”先生”っておっしゃったらフロント主任もギャフン!・・って言ってましたね、あ〜面白かった・・」麗子さんは大きな瞳を固く閉じて笑いこけます。
「あぁ、ハイ、そうでしたね・・・」だんだんと気持ちも和んできました。そうなんだ1流って所はこうして硬く閉じこもっているお客をもみほぐすように穏やかにしてくれるんだ。
「幸三郎さんはお酒は何でも大体大丈夫って御伺いしていましたので取りあえず最初はシャンパンをご用意させて頂きました・・」
と、麗子さんの視線の先の方から大きなバケツ?に寝っ転がっている瓶をかかえた女性がこちらに向かってきます。
麗子さんは女性にお礼を言ってグラスを受け取り「幸三郎さん、栓を抜いてみませんか・・?」とちゃめっけたっぷりの顔つきです。
「いや、その、一升瓶の栓を開けるのはよくしますがシャンペンの栓は一度もしたことは無いんですが・・」
「ねえ、幸三郎さん、一升瓶の栓を開けるとき両手の親指で押し上げるようにするでしょ・・?。おんなじですからやって見てください?」
「えっ?!、そうなんだ。こうですね?」
「イヤッ!!、幸三郎さん、こっち向けないで!!」
「あっ、わっ、うわー・・」・・・(続く)




(連載No.110)
  シュppppッポーン!!、しっかりした栓はロケット弾のように飛んで天上に当たり絨毯の上を音も無く転げて行きました。
ボトルを包んでいた白い大きなナプキンにはあふれたシャンペンが心地よい泡となって流れ落ちて吸い込まれていきます。
麗子さんは大きな歓声と拍手、そして廻りのテーブルからも拍手と笑顔で祝福されるのです。
一瞬何事だろう・・・と思いましたがすぐにその場の雰囲気から「ああ、何かうれしい事があってそれを皆が祝福してくれたんだ・・・」と感じました。
はにかんだ感じの私も周囲の紳士、淑女にお礼の会釈を返します。中にはピースサインを送りながら元の姿勢に戻る人も居たりで和やかさが漂います。
先ず麗子さんに注いで上げます、「ありがとう、遠慮なくいただきます・・」そして麗子さんが私に注いでくれます。

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「う〜ん、これがシャンペンっていう飲み物なんだ・・・、こんな美味しいものを麗子さんは何時も呑んでいるんですか」
「いえ、わたしはいつもはお酒は戴きませんの・・、それに私も久しぶりに戴きましたのでとっても美味しいですね」
「えっ!?、そうなんですか。こう言うお仕事ですから毎日おいしいお酒を飲んでいるのかと思ってましたが・・」
「ここにいらっしゃるお客様の中にはお酒を飲まない方も結構多くの方がいらっしゃるの」。
「は〜、そうなんだ〜」

「皆さん多少はお酒をいただきながらも主に楽しい会話をして、気持ちよく帰っていただく方が多いんですよ」
「幸三郎さん、実は今日もう二方お呼びしていますのでお逢いになっていただきたいのですが」
「はい、結構ですよ」
「ああ、よかった!、実は先日少しお話しましたが私の家を今改装中で4月になればいよいよスナックが開店するんです」
「そうでしたね、そして間もなく出来上がるんでしょうか、楽しみですね」
「そこで当然なことですが幸三郎さんにはちょいちょいそこに遊びにいらっして頂きたいのは勿論ですが、きょうはその二人に逢っていただきたいのです」
「そう言う事でしたか、確か弟さんご夫妻・・とか言っていましたね」
「はい、弟は昼の間、軽食や喫茶を開くの。そして夕方からわたくしと義妹でスナックバーをって」
「すごいですね、一家あげて商売繁盛・・・になるといいですね」
その時先ほどのフロント主任がツカツカとやってきて麗子さんに何やら耳打ちしています。麗子さんはニコっと笑って「こちらにお通ししてください・・」
「幸三郎さん、今弟夫妻が到着したようなのでこちらにお通しさせますね」

背も大きくどちらかと言えば体育会系の好男子とお似合いのこれまた美しい奥さまです、まっすぐに私の前に立ってにっこりしながら
「先生!!、何時も姉がお世話になって居ます!」大きな声に周囲のお客さま方も私たちを振り返って見ます。・・・(続く)


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(連載No.111)
  3月3日、水曜日。ナンと事もあろうに会社で仕事中のわたしに職場の若い女性からつっけんどんな電話の取次がありました。「ジョセイの方でレイコ・・さんって言っています」
当時私の勤めていた会社ではママよくあることでした。先輩たちの中にはバーのマダムからのお誘いだとか、どら声の焼鳥屋のオバハンからツケの支払い催促だの、はたまた フッタとかハッタ?とかの取次まで職場の女性が取次電話でしてくれるのです・・・、、、、汗。仕事中の手を流しで洗って作業ズボンの尻で手を拭きながら私は電話を受け 取ります。
わたしは麗子さんに別に恋したわけではありませんが職場の女性から電話の取り次ぎをしてもらう事には少し抵抗がありました。「・・レイコ・・」の取次語で私の職場付近では 「幸三郎め女ができたか・・?」と言わなくとも、今想うとプライバシーの侵害だー!、と叫びたくなります。
受け取った電話は何事も無ければどなたもその場でメモを取ったり立ったままでもにこやかに応対し、上司からの叱咤には取次嬢にまで無意識に頭を下げてしまったり 職場の人生模様が少し見え隠れします。
私は思わず受話器を握ってしゃがみ込みます。「あっ!、ハイッ、幸三郎です。先日は大変ごちそうさまになりました、ありがとうございました・・・」
・・・・マズイよ、こんな所にしゃがみ込んでは、電話の取次嬢が咄嗟に驚いて足の向きを変えるのが判ります。私は机から少し顔を出して謝ります。
「幸三郎さん、間もなくスナックが完成するのよ・・・あの絵を飾る所が出来あがったの。何時飾って戴いてもいいんですが出来るだけ早く・・・」
「出来るだけ早く・・ですか?」それは麗子さんも嬉しいでしょうが私としてもとてもうれしい事です、その嬉しさはつい顔に出てしまいます。 「・・・幸三郎め相当深い関係の女ができたな・・・?」
「判りました、それは大変喜ばしい事です。では、早速今度の日曜日に搬入させて頂きたいと思いますが如何いたしましょうか・・」私は営業の経験はありません、咄嗟に そんな言葉をつなげても還って怪しまれるだけです。
「待てないの・・、明日の夕方にこちらからトラックを回しますが幸三郎さんのご都合のいい時間を指定して戴いて運ぶことはできないでしょうか・・」
「えっ!、明日の晩ですか・・・・?、イエ、不可能と言う事はありません・・デス・・・が」
「おい!、幸三郎!、俺が断わってやるから電話をよこせ・・・!」
「あっ、先輩!、違うんです。とっても嬉しいお誘いの電話なんで、勘違いしないでください。・・・それにしても盗み聞きするなんて・・」
「・・・・幸三郎もついに踏み切るつもりだな・・・?」
私の第二回個展の絵の中で麗子さんが一番に挙げた絵は裸婦像でした。題名は「レモンと三日月」、100号の大きな作品です。
このお話を麗子さんから伺った時すでに設計に従ってスナックの内装計画は決まっていたそうです。でもこの絵を飾るためにそのスペースと周囲の調和を再度変更して 今回の運びになったと言うのです。
改めて麗子さんの行動力の凄さに驚くと同時に女性として観た時の魅力を強く感じたのでした。
木曜日、私は仕事を終えると真直ぐに社内のお風呂に直行します。今までそれほど意識はしていませんでしたが何時のころからでしょうか麗子さんにお逢いする時は 必ずメシは食べなくてもお風呂には必ず入って清潔にしていきました。

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今日も職場から徒歩10分以内の私のアトリエについて今や遅し・・と迎えのトラックを待ちました。
間もなく私が指定した向かいの荒川土手派出所交番脇の空き地に麗子さんの弟さん賢治さん運転のトラックが到着しました。
「やあ、先日は大変お世話になりましたありがとうございます。はい、トラックはそこで大丈夫です、交番のお巡りさんには話は付けてありますから・・」
「あ、いえ、こちらこそ突然のご挨拶で申し訳ありませんでした。それに姉からきつく言われています、”幸三郎さん”と呼ばせて頂きます」
「じゃ、早速ですが玄関先に絵は置いてあります。信号が変わりましたら二人で運びましょう・・・」
「お〜い、幸三郎さんとやら、その裸の女性の絵はもっと向こうをむけるとか・・・そう、空の上を向けて・・・」「うるせえ、お巡りメ!!」・・・(続く)




(連載No.112)
  4月、冬の時期から比べると日の入りは大分伸びました。でも未だ吹き抜く風は冬の時期とさほど変わりません。
レンタカーのトラックの荷台で私は必死に100号の絵を捕まえて凸凹道の江北橋で荒川を渡るのを耐えます。この橋を渡る度に想うのです、ああ、東京に行くんだ・・って。
橋を渡り終えてすぐに下町の軒先をくぐり抜けると再び今度は隅田川に架かる小台橋に差し掛かります。渡り終えるとここは完全な下町ではありますが都会の臭いがするのです。
東京とはいえまだ都電なんていう古めかしい路面電車が走って居たりなんかしてそれはそれでこの付近の町にそぐわしいと感じるのです。当時もうすでにあちこちの路面電車は交通の妨げ になるという理由で廃止されていましたのでいずれはここも立派な幹線道路に生まれ変わるのかなという印象です。
この小台橋通りは都電通りを越えて車でほんの2〜3分ほどの場所に麗子さんのスナックはあると言います。なるほど私のアトリエからは10分にも満たない場所です。
バス通りを右に曲がってひとつ目の角を左に曲がった右の3軒目・・、閑静な住宅街の中にこの街にふさわしい新しいスナックが明るい照明で存在感を示しています。
ずうたいは小さいのにエンジン音だけ大きなトラックが静かな住宅街を騒がせます。スナックの前に来るとまだ内装工事が終わらないのでしょうか職人さんの動く気配が外から伺えます、 そして麗子さんと義妹の友紀子さんが勢いよく飛び出してきます。
「こんばんは、幸三郎さん、ご無理を言ってスミマセンでした・・」「いえー・・、想ったよりあまりにも近かったのでビックリしましたー」

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友紀子さんも初めて銀座のクラブでお逢いした時に比べるとこの辺の街のひと・・としてみるととても美しくステキな人に見えるのです。「先日は突然でしたがこれからも宜しくお願いいたします・・」
「はい、いえ、こちらこそなにか雲の上を歩いているようで実感がわかないんですけれどこれからも宜しくお付き合いをお願いたします」
さっそくトラックの荷台から絵を下ろします。「うわー、絵ってこんなに重いんでしたの・・?」友紀子さんは驚きの声を上げます。
「ああ・・、私の絵は描き進むうちにどんどん重くなっちゃって・・・、スミマセン・・」
「わたしはこんな感じが大好きなのよ、若さとそして絵から感じる重厚感と・・・ホラ、この壁色は想った通り絵にピッタシでしょ?」麗子さんは鬼の首でも取った様にハシャイでいます。
職人さんがその壁面にこのくらいのハンガーなら大丈夫という釣具を打ちつけてくれました。そこに絵を掛けると改めてみんな想わず後ろに下がって「お〜−、!」と声を上げます。
「ナンデ、この裸の女の人はコンナ灰色をしているんだ・・?」職人さんがわたしに問いかけます。
「エッ・・!、・・・」

すかさず友紀子さんがいいます「だって、三日月とレモンが黄いろなのに裸の人が黄色だったらバナナ見たいでしょ・・?」
麗子さんがいいます「ねえ、大工さん、そこじゃなくってこの辺まで離れてからもう一度見てみません?、そう、手前にあるこげ茶色のテーブルとその上にある白いナプキン立て・・そして・・ 絵の下にあるレモン、灰色の裸婦、そして上には夜空に輝く三日月の冴えた色・・・すっかり幻想の世界ですよね」
「はあ・・?、あっしは今日はこの辺で仕事もひと区切りですので又明日来させてもらいます、これにてお邪魔いたします・・」
そうだったんだ、麗子さんはそういう見方で絵を観ていたんだ。でもどうであれ絵というのはひとつの共鳴体・・、作家が幾らシグナルを発していても観る人がその波長に鈍感だったら 何も伝えることはできないのです。
どうじに感性の高い人がどう観ても感じるものが無ければただの駄作・・というほかないのでしょう。
レンタカーを返してきた賢治さんが戻ってきました。
麗子さんもすっかりオーナー気分です「もう間もなく開店ですわ今日は幸三郎さん、前祝いってどうかしら」・・・(続く)


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(連載No.113)
  4月15日土曜日、麗子さんのスナック”青い鳥”の開店です。そう言えばお店の名前なんて聞いていなかったものだから改めて看板を見て何か夢のありそうな・・と感じました。
丁度その日は土曜出勤日だったので仕事が終わってその足ですぐにバスに乗って出かけました。もうあたりは暗くなりかけていましたが住宅街の中にぽっかりと明かりが路地を照らすように して存在感を示していました。
バス通りから1本裏道と言うだけでこんなにも静かで落ち着いた住宅街なのです。窓からこぼれる明かりも少し暗すぎる周囲を少し明るくするくらい・・と中々落ち着いたいい感じだとおもいます。
玄関と言ってもいいほどなアットホーム的なお店の入り口に控えめな青い鳥のつもりなんだろうなーと思わせるキャラクターがお迎えしてくれます。
外から見る限り中々お客さん同士で盛り上がっているようですが不思議とその喧騒は店外まで漏れてくるようなことはありません。これですとこの地元にしっかり根の張ったスナック・バーとして 定着できるのかなと感じました。
そーっとドアーを押し広げます。お客様のほとんどはご近所の商店主や一般家庭のご家族のようです、もうお客さん同士で和気あいあいの雰囲気を醸し出していました。
友紀子さんが真っ先に私の入って来た事に気がついたようです「ママ!、ママー!!、幸三郎センセイですよ〜!」の声でお客さん達が一斉にこちらを注視します。
入り口でドギマギしている私を気遣って麗子さんがすぐに私のもとに駆けつけてくれました。「ゴメンナサイねー、友紀子さんには未だセンセイってお呼びしてはいけませんって言っていませんでした」
「あ、はいそうでしたか・・、でも今夜はだいぶ盛り上がっているようですので私はまた出直して来ます・・」
麗子さんはわざと大きな声を出します「何をおっしゃいますか、今日はここのご近所の方たちばかりです。先ほどからこの絵は誰が描いたんじゃ〜なんて、大騒ぎでしたの。ご紹介しながら 皆さんとぜひ和んで行って下さい・・」
「オイ、レイコちゃん、この絵を描いたのはこの若い先生かね・・?」如何にも地元の商店を長いこと商って来たと言わんばかりのほてい顔をした御主人です。
麗子さんは手を振りながらあわててほてい顔の所にすっ飛んで行きます、そして皆に「ダメ!、こちらの方は幸三郎さんっていいます。私が銀座に勤めていたころ一目ぼれした絵描きさんです。 これからも”幸三郎さん”って呼んであげてください」
私も続けて挨拶します「川向うの町工場で働いています。絵を描くことが好きで夢でもいいから銀座で個展をしたいと想っていた所、麗子さんが一本釣りしてくれました。未だまだ未熟でもっと 絵の勉強をしていきます、幸三郎ですヨロシクおねがいします」
「お〜・・う!」皆が一斉に拍手をしながら私をテーブルの中ほどに招き入れてくれます。私も思わず、アア、これでこの場に溶け込むことができそうだ・・と感じました。
友紀子さんがすかさずメニューを持ってきてくれながら「ごめんなさい、ママから叱られてしまいました。幸三郎さん、お飲み物はどれにいたしましょう?」

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「それではウィスキーをロックでください」それを聞いていたほてい顔の商店主さんが「ホー、幸三郎さんとやらいきなりずい分渋いものをお飲みになるんですね。ビール なんかはやらないんですか・・?」
「はい、ビールは私の胃にとってあまりよくないってお医者さんから・・・、本当は日本酒の方が好きですが」
「そうか、こんどからレイコちゃんに日本酒も置いておくように言っといてあげるよ」
「いえ、ここのお店で日本酒は合いそうもないですよね。ところでご主人のお店は何屋さんなんですか」
「わし?、そこのバス停の前のセトモノ屋だよ」
「知ってます、ごんだ陶器店。そうすると権田さん、と言うわけですね」
「よくご存じですね、幸三郎さんも知っていて下さるんじゃオレんところも相当な有名店だよな」
「はい、相当有名ですよ、私2年ほど前までは朝晩ここを通るバスで通勤していました。バス停でお客さんの乗り降りのあいだじゅうバスのガラス窓にこうして額をくっつけて 店内を飽きずに眺めまわしていましたから」
「ホウ、じゃ幸三郎さんはうちのお客さんなんだ・・」
「いえ、すみませんが一つも買ったものはありませんですが何年か前にお店の左棚に益子焼の大皿がありましたが、売れてしまったんですね」
「あれ!、そんな所まで御存じだなんて・・・常連のお客さんでもそこまでは知りませんよ、あれネ、うちのババアが落っことしやがって・・」
「あらら、それで捨てちゃったんですか・・・?」
「オレも随分と未練ったらしいんだがな、その破片をまだ捨てずに取ってあるんだよ」
「よかった。それ私に譲って戴けませんか・・」・・・(続く)




(連載No.114)
「なに?、幸三郎さん、あの絵皿の破片がほしいって・・・いったんですかい?」
「ハイ、べつに物を載せて使おうっていう訳ではないんですけど、くっつけて眺めたりして楽しむことはできるかと思うんですが」
「やぁ、やぁ、幸三郎さんも実に渋くて・・そう言う若い人の心情にふれるとワシャぁほんと嬉しくなっちゃうね〜」「ところがね、うちのババぁときた日にゃ、セトモノ屋の女房 のくせしてよ・・・、まだ俺がしまっておいたものでもすぐに棄てちまうんで・・・とってあるかな〜?」
「いえ、もう無ければけっこうです。ただ、バスの窓から見ていただけでも気持ち的に”イイナ〜・・って”想って見ていただけですから」
「チョイと待ってて下さいよ、・・・麗子ちゃん、電話を貸してもらうよ・・」
陶磁器ごんだ商店のご主人はなんだか上機嫌な様子でお店の電話のダイアルを回しています。

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「・・・あ、マチコちゃん?、俺だけどさ、お店にむかし十文字模様の益子焼の絵皿があったの覚えている?。なんだマチコちゃんったらみんな忘れちゃうんだ。マチコ ちゃんが落として割ってしまったお皿だよ・・」
わたしは電話のやり取りを聞いていておもわず”ギョッ!”っとしましたが、ほかの皆さんは平静に聞き流しているようでした。
「・・・え?、まだあそこにあるの、善かった。マチコちゃんもこのあいだお店を見に来ただろう?そこに掛かっている絵を描いた絵描きさんが来ていてさ、 あのお皿の破片でも良いから譲ってくれないかってゆうんだよ。マチコちゃんも来ないかい?、想っていたより好青年だから逢いにおいでよ」
権田さんは電話を切ると少し足元が頼りないようでしたがご機嫌で席に戻って来るなり
「幸三郎さん、善かったよまだあるっていうから差し上げましょう。権田商店のあるじが欠けた皿を後生大事にしているのもナンですから、可愛がってくれる方でしたら お皿も本望でしょう」
「そうですか、ありがとうございます。お皿はお嬢さんが割ってしまったんでしょ・・?」
「幸三郎さん、なにをおっしゃるんで・・、ウチのババァ以外に割る奴なんかいませんよ!」
「・・バ?、・・・マチコちゃん・・・は、奥さまでしたか・・・?」
ここで麗子さんもですがご近所のお客さん達も皆一斉に笑いをこらえきれずに大笑いしてしまいました。
麗子さんは「権田さんは、とてもすごい愛妻家なんですよ。でも外にいると何時も奥さまのことをあんな言い方でお話しするんですよ」
友紀子さんも引き継ぎます「でも奥さまが居る時と居ない時の話し方の落差と使い分けはさすが御商売人・・・って感心しますわ」
「オイ、オイ、俺のわるくちかい?」
「いえ、ほめことばです・・・」の友紀子さんの言葉でまた大爆笑するのでした。
そうこうしているうちに時間もだいぶ遅くなってきました。
「では、明日は早い時間に三浦半島の方へ会社の絵の仲間と写生会に行くんです。今日はこれで失礼いたします」
「あ、そうかね。お若いから行動力があるからいいね、お皿は今度麗子ちゃんと一緒にあんたのアトリエ訪問を兼ねてお届けしますよ」
「え!?、わたしのあばら家に・・・?、それじゃぁ”掃き溜めに鶴・・・”ですかね」
「おぅ、お若いのにウメーこといいますねー。なあ、麗子ちゃん、こんど幸三郎さんのアトリエでも訪問する計画でも立てようよ」
「えー!、幸三郎さんさえ御迷惑でなかったら、ぜひ!」
「あら、わたしもご一緒させて戴いても宜しいですか?」友紀子さんも”その船乗ったー”という言い回しです。
「もう賢治さんからお聞きになっているでしょうが、わたしのアトリエは半地下・・・表通りから直接階段を降りますから驚かないでくださいね」
「あら、素敵じゃないですか・・・・?、ハイ、幸三郎さん、タクシーが到着したようです」

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「エッ?、わたしは歩いて帰るつもりでしたが・・・、1時間ほどで着くんですよ」
「大丈夫ですよ、もう友紀子さんがお支払してくれたようですので、どうかまたごゆっくりと居らっして下さい」・・・(続く)




(連載No.115)
その後スナック”青い鳥”の麗子さんから職場へは時々電話をもらうことがありました。私も電話での対応は結構慣れてきた・・というかドギマギしなくなったようなこともあってごく自然に 受け答えすることができるようになってきました。
そのパターンも午後3時頃、私の仕事の小休止時間を目指してくれることが多いのです。でも大体の要件は以前私のアトリエを訪問したい・・と言う希望でしたがなかなか実現できない事情が あったのでその計画のすり合わせのための要件が多かったのです。
私は普段の日は会社に勤めていますし、会社が終わる時間の頃こんどは麗子さんのスナックでは仕込み準備や夜のための切り替えなどで大変忙しくなってしまうのです。
わたしも早々そんなスナックまで遊びに行ける訳がありませんのでついつい間が開きそうになるのです。ですからその度ごとに電話をして来てくれるのです。そのころは私の会社は隔週の 土日連休と言う時代でしたからそれでは土曜日に・・と言う計画も中々決められないのです。
そんなある日、大変都合のよい日が巡って来たのです。私の勤めている会社は化学品製造会社なので暦通りの休日にすると製造品に不都合が出たり作業能率が極端に悪くなってしまうので 週の半ばの祭日は出勤し、その代わり休日につなげて休みにする対策を頻繁に取っていたのです。
そんな事から麗子さんの私のアトリエ訪問は4月29日の代休日と決まったのです。しかも友紀子さんはじめセトモノの権田商店御夫妻、お隣の更科そば店主など総勢7名ほどが 押しかけて来るという驚いた展開になってしまいました。
麗子さんはできるだけわたしに面倒をかけないようにと飲み物やおつまみ、それに皆で軽い食事まで出来るように一切喝采は用意して行くので何もしないで・・と言うのです。
はじめは車2台に分乗して行きたいが駐車場はありますか・・・と言いましたが、お向かいの荒川土手交番の横には止められますがお酒を飲んだ後は帰りにくいですよ・・でバスに決定。
なにせ東京駅北口発荒川土手までの路線バスに乗れば荒川区小台から私の足立区にあるアトリエまでは一直線なのですから皆さんで荷物を手分けして運んでくると言うのです。
麗子さんは相当早起きして準備をして来られたと言うのですがもう時間は既にまもなく11時と言う到着でした。
明るい表通りからいきなり地下室に向かう階段を降りるロケーションに権田さんもびっくりです。
私は下から声を掛けます。「どうか足元に気お付けて階段を下りてください、目が慣れないうちは真っ暗に見えますから・・・」
賢治さんは以前一度来ていますのでもう先輩風を吹かせています。「ハイハイ、私の後に続いてくださいねー」

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「壊れて接着した皿」






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麗子さんも「大丈夫です、目が慣れましたから・・・でも不思議な空間ですね」
「ええ、そうなんですよ。このドアーを開けるとほら、静かな空き地と緑の芝生が目の前にあって・・・」
「幸三郎さん、表通りの喧騒も全く聞こえないし、一階から降りたらまた一階だったって言う本当に面白い作りですね」権田さんも驚いた様子です
「とにかく折角持って来た絵皿ですがお届けにあがりました・・・破片は全てそろっていますのでくっつければ見て楽しむ分には何とかなるでしょう・・」
「ありがとうございます、会社に行けばいろんな接着剤がありますので目立たないような修繕をして楽しませていただきます」
「幸三郎さん、お初にお目に掛かります・・・私はセトモノ屋に嫁いできましたのにおっちょこちょいなものですからつい、申し訳ありません・・」
「イエ奥さま、そのおかげでこうしてこんな素晴らしいお皿を戴けることになったんですからむしろ感謝しなくてはなりません・・・」
そんな会話をしながらも取りあえず腰かけていただきます。まだ皆さんはあたりをキョロキョロしたまま落ち着く様子はありません。
友紀子さんも「こんな大きな絵がたくさんあってすごい迫力ですね・・・」
お蕎麦屋さんも「こっちの重なっている方は”青い鳥”に飾ってある奴とおんなじ大きさだね」
「ハイ、規格では100号サイズって言ってますが上野美術館に出品するような作品は大体このくらいの大きさが普通で・・でも実際展示してみるとそんなに大きく感じないんですよ・・」
「じゃぁ、この後ろのもっと大きいのは・・・?」
「500号・・・です。実はそれは二枚繋げてひと作品なんです、大きさは四畳半の部屋より少し大きいサイズですよ」
「こりゃたまげた。だからこんなに広い部屋が必要なんだ、オレのお店でこれくらいあればもっとお客さん入れられるよなー」
「そうですか、ここは十六畳くらいの空間なんですが、二〜三枚の絵を同時に描いていくにはこれでも手狭で・・・」
「アラ?、幸三郎さん、このカーテンの向こうは・・・・?」
「あ″〜!、友紀子さん、そこは私のベッドが・・・」・・・(続く)




(連載No.116)
「へー・・!意外と綺麗にしているんですねー」、友紀子さんの大げさな表現に皆さん興味津津、わたしの制止も効かずに仕切りのカーテンまで開け放たれてしまいました。
「ねえ、ねえ、ネーちゃん!、幸三郎さんってこんなロッカー見たいなところたったこれだけが衣装ケースなんだね・・」。
「そうよ、賢ちゃん!、だいたいあんたは男のくせに着る物の為に余分な神経を使い過ぎるのよ・・」。
「そんなこと、ネーちゃんには言われたくないねー・・」。

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皆さん興味の尽きるまで私のアトリエを探索するつもりでしょうか。私もなぜかこうしている間に今まで思い描いていた憧れなのか崇高なのか意味不明なモヤモヤが綺麗に頭の中から拭い去られて 行く気持ちがはっきりとしてきました。
銀座の個展会場に初めて訪れてくれた時のあまりにも深遠であった麗子さん、そして二度目に再来訪された時のしっかりと自分の意思を伝える自立した麗子さん、そしてスナックの開店で みせる開かれた明るい麗子さん、今日の賢治さんとのやりとりでも近所によくいるお節介で仲間内には口うるさく、そして冷静になると少し美人なのかなと言うおねえさん・・・。
一方であれほどまでに憧れていた視線の上にいた麗人であるはずの麗子さんがこうして私の目線の延長線にごく自然にふるまっている事にとてつもない絶望感とそれよりももっと広い可能性 を感じさせてくれるのでした。
それは、そんなに大逸れたことではありません。単なる友達として人生を語ったり、それぞれの将来を評価してみたり何か対等な立場で意見交換して見ることはできそうだな・・と感じました。
「さあ、さあ、そろそろお料理でも広げますから皆さん場所を決めて座ってくださいねー」麗子さんと友紀子さんの声が所どころハモって皆を座らせます。
私のアトリエなのにすっかりこの女性群にこの場所を占拠されてしまった感じがします。セトモノ屋の権田さんはそんな声が聞こえたのかどうかも知らんぷりで私の絵を収納するアングルの棚から 勝手に引っ張り出しながらひとりうなずいています。
奥さまのマチコさんが「オットウさん・・聞こえましたか?」の声にハッと我に返ったようにして皆の車座の中に入ってきました。
友紀子さんが片膝を立てて料理の挨拶をします、「今日のお料理のほとんどは義姉(おねーさん)がすべてを作ってくれました、幸三郎さんに御無理を強いた事にせめての御恩に 報いるために作りたい・・と言って朝早くから作って来たものです」
とにかく綺麗です。私はこの時初めて感じたことでした、パーティー料理って絵と同じ・・言葉なんだな!、”食事ではあるけれどそれによって必須の栄養素を何カロリー摂ろうとか満腹感を 得ようとかではなくその食物を楽しく食べることによって多くの会話が広がり「人」として大切な連帯感を醸成させる”単なるその触媒になることもとてつもない栄養素なんだ・・と。
友紀子さんの「お寿司は私が握りました・・」で、みなお寿司に注目しますがとてもきれいな配列です。「でも、おねーさんが並べてくれると本当に美味しそうでしょ?」と締めくくります。
「ど〜もー、”はた織姫”みたいに未明から作ったのよー、途中から友紀子さんが手伝ってくれたので間に合いました」
「今日は私の勤めていたところでも良くお出ししたんですがお寿司を私の選んだワインで是非召し上がっていただきたいと思いました」
「わー!!、」権田さんご夫妻も蕎麦屋の更科さん、わたしまでもが一斉に声をあげました。
わたし自身、とにもかくにもワイン・・?なんてものは口にしたこともありませんでしたし、しかもお寿司のお酒として「マサカ・・」と一瞬思いました。

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賢治さんが何やら重そうに担いできたものがワインの入ったクーラーボックスだったことが判りました。
このアトリエにある食器の内、液体が入れば何でもいいと言って出した茶碗やグラスに名も知れないワインが注がれます。
「マズ!?、」ひと口目、それは私にとってのカルチャーショックでした。それが私のワインに対する第一印象、「フランス人はこんなに酢になったような古い酒を喜んで飲むのか・・」
でも、それほど苦痛でもありません。ふた口目むしろお酒や酢とおなじ醸造の香りがとても心地よいのです。三口目は自分で手芍です、「ナカナカ味わい深いササじゃのー・・」
そして辛口しろワインとともに戴いたお寿司とのコラボレーションは食にたいするわたしのこれからの味覚に大変な革命を起こさせてくれたと思っています。
見かけでは目線すら合わせる事も叶わないような深遠な彼女も心で通じ合うものがあれば何もためらうことはない・・、お寿司とワイン・・ニッポン男児、たとえフランス人の皇妃といえども なにも臆することはない・・・と改めて感じるのでした・・・(続く)




(連載No.117)
5月の連休が終わって暫くするともう梅雨の走りではないかと言うような日もあります。梅雨が終われば夏、そして秋までには個展の為の作品もおおむね出来あがって居なくてはなりません。
当時の私のアトリエは風が吹き抜けるという作りではありません、表の自動車道路からの熱気と騒音をシャットするためにはどうしても入り口のドアーはしっかりと閉じなくてはなりません。
昨年の夏も感じたのですが湿気の多い夏の時期は窓からの風だけが唯一涼気を運んでくれる手だてだけなのです。
休日の日中は窓を全開にして過ごす事も出来ますが夜間はいけません。幅2mほどの排水河川を挟んだ向かい側は空き地で普段は雑草が生い茂っているのですがここから夜の虫が明かりを めがけて飛び交って来るのです。
今想うによく網戸無しで生活していたとつくづく思うのです。
勤めていた会社でさえ当時は扇風機が頼りの時代です。それもロッカーの書類棚の上に置いて首を振らせて周囲7〜8人を潤す程度でした。
仕事柄記録を整理したり書類の作業時は机で扇風機の恩恵は受ける事ができるのですが実験台で試験中などの時には風は禁物、しかも熱源のある事もままありました。
私の会社ではクーラーのある部屋は工場唯一応接室くらい・・、工場長がやっと一人で扇風機を独占できる状況でした。
ですから夏の熱いのは当たり前、行水しながら裸で過ごす、そして右手から団扇は放せなかった、左手のそよ風ではとてもではないけれど我慢できなかったわけです。

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ほんとうに冗談では無しに立ってキャンバスにしばらく向かっていると足回りがびしょびしょになるほどです。裸の背中を虫が這っているのかと疑うように汗がむずむずと背中を流れます。
暫く我慢していてもそう長くは続きません。外に出て通りを突っ切ると荒川土手です、そして土手に登ると先ず先ずの爽やかさが味わえるのです。
当然ご近所のかたたちもこんな涼場をほって置く訳がありません。三々五々暫く涼しんだのち落ち着けばまたお勝手仕事だの夜なべ仕事に精を出しているのでしょう。
この土手の風情も昨年までとは一変しました。それまでは対岸に肥料を作る大きな化学工場があって昼夜を問わず化学薬品の臭気がこちらまで届いていました。
しかも夏の時期にはその風向きが澱んだ荒川の異臭と混ざり合ってこちらまで漂ってくるのです。昨年のようにとても涼しむどころでは無かった事を思えば大変な環境改善です。
東京都の知事がとても革新的な人に変わりいわゆる公害を発生させる企業には東京から出て行って下さい。ということで発生源を改善できない工場はよその地で新設備の工場建設を
余儀なくされたのです。
河川の汚染も例外ではありません。荒川は年々見る見る綺麗な流れを取り戻してきたのです。しかし一度汚れきった川が昔の清流を取り戻すにはまだまだ数十年の歳月が必要でしょう。
対岸の大きな化学工場には大勢の従業員がいてそしてその家族が近くで生活していたはずです。工場移転と共にその人たちも他県に移り住んだと聞きます。
ひるがえって私の勤めていた工場もそんな洗礼をまともに受けて経営者も従業員も真剣になってこの地で仕事が続けられるように頑張ったことは言うまでもありません。しかし同じ工場内 でも仕事の内容によっては設備改善よりは新天地で新工場での稼働が望ましい・・と結論した職場もありました。
私は特にこの地に住むようになりそして勤務地も歩いて5〜6分の所で仕事をしていましたので職場の環境がそのまま住居地の環境に密接にかかわり合っている事を痛感しました。
こうして夜目で顔もはっきりとはしませんでしたがご近所の方とこんな場での交流もできたことは本当に良かったと思えました。
「あんたは・・・、この近所の者かい・・?」「ハイ、吾郎文具店の地下に住んでいる幸三郎です・・」
「オーウ、そうだったかい・・・」「・・・御主人はどちらさんでしたっけ・・・?」「オメンとこの3軒となりの乾物屋だぜ・・」「あっ、奥さまは存じ上げているんですが・・・宜しくお願いします・・」
「こねーだ、裸の女のこんなでっけえ絵を運んでるとこ見たがあんなものばっか描いてるのか・・・?」・・・(続く)


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(連載No.118)
そんな厳しい夏を耐え忍んでいた頃、ニュースでは台風の接近が報じられたのです。
時々強い雨が降ったり向かいの空き地の草むらも風にあおられて白い葉裏を見せたりしていました。風向きの加減で私の部屋の方には吹き込まないようでした。
これは実に具合がいい、窓をいっぱいにあけて台風の余波の風を部屋の隅々までいきわたらせる事ができました。草むらに棲む虫たちもしっかりと茂みの安全な場所にしがみついているんでしょう 冒険を犯して飛来してくる心配もありませんでした。
個展の為の作品の進捗状況は今までの経験からいって決して遅れていると言う感じはありません。このままのペースで描き進めば11月頃には予定通りの点数も揃いそうでした。
しかし、今まで日本海に抜けそうな動きの気配だった台風がどういう気持ちの変化からか太平洋岸沿いにコースを変えてきたようです。この3日くらいの間に降る雨の量が急に多くなったようです。
風の向きも今までとは違って雨が部屋に吹き込むようになり閉め切ったガラス戸に激しく叩きつけるような降り方もするようになりました。それと同時に湿度もかなり高くなり部屋の蒸し暑さも 頂点を極めるほどになってきました。
ラジオのニュースではいよいよその台風も今夜半にも関東地方直撃という予報も出され会社に出勤してもその対策の処置が準備されるようになってきました。
会社では主に自衛消防隊組織が中心となってもしもの時の為に排水ポンプの点検とか低い地形の工場では大切な資材を一時高い場所に移動するなど真剣実を帯びてきました。
そう言えば私の住んでいる部屋だって裏の排水面からの高さは3m以上もあることだし、その排水を荒川に汲み出すポンプ場も直ぐ近くにありしかも新規に改修された能力は安心できるレベルに あると聞いていました。
会社での対策を終わって部屋に戻って来る頃には雨足も更に強まってきました。時おり部屋の窓ガラスに叩きつける様に降る雨が明かりを反射して白いペンキでもぶっかけられたように見える 事もありました。多分明日朝には台風一過の爽やかな空が見られる事でしょう、そして荒川土手に登って増水し河川敷いっぱいに悠悠と流れる荒川でも眺めようと思いました。
朝目覚めるとガラス戸に吹きあたる風や雨の音も聞こえません、どうやら台風は過ぎ去ったように静かな朝です。
私はまず最初にベッドのあるステージからカーテンを開けて部屋に降りようとしました、そして何時もと様子の違うことに気がつきました。私がステージから下の床を見たときに私ののぞき込む顔が 下の床に映って見えるのです。

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どうしよう・・・?、これは長靴がなければ降りられません。
それにしてもこの水は何処から来たんでしょう。窓ガラスのカーテンを開けて外の様子を見る必要があります、仕方なく裸足のままジャブジャブと水の中を窓辺まで進みます。水深は20cmも あります。
カーテンを開けてびっくりしました。青い空が広大な水面に映し出されて大きな湖畔にたたずんだ思いでした。
なんと床の上の水深の水面は向かいの排水抗を通り越して草むらも覆い隠して、その向こうの民家の床上浸水まで繋がっているのです。
どうやら排水抗の急激な増水が排水ポンプの能力を越えたに違いありません。それしか考えられません、とにかく階段を上って表通りの様子を見ようとしました。
いつも私の起床する時間には車の往来が激しくすでに騒音がするはずなのにシーンと静まり返っているのです。私の部屋の上の吾郎文具店は特段の影響も無く御主人はまだ就寝中の様子です。
この荒川土手バス停の付近だけ他の付近周囲とは違って地盤が高くなっているのです。しかしここに通ずる道の状況は私の部屋と同じレベルですので当然冠水道路で通行不能に なっていたのです。
私は更に河川の状況はどうなっているんだろうと荒川土手に登って様子を見る事にしました。下から見ると近所にお住まいのオジサンたちも三々五々集まって川の様子を見ているようです。
乾物屋の御主人も私を見つけて土手の上から声を掛けてくれます。「お〜い、幸三郎さんとやら、どうだったかい・・?」
「すっかり、やられてしまいました。床上20cmの被害です・・」真っ青な空のもと荒川の水は河川敷いっぱいに流れて迫力十分な眺めでした。そしてポンプ場の方を見るとうずたかく積まれた ゴミの山がここからでもよく見えるのです。
「どうやら、この台風の雨水はゴミに邪魔されてポンプも想うように働かなかったようだぜ・・」・・・(続く)




(連載No.119)
増水した付近一帯は台風の過ぎ去るのと同時に見る見る水が引いて余程の低地でない限りはまた元通りの姿に戻りました。
近くの配水場ポンプではゴミの除去作業もはかどって本来のポンプ機能がよみがえったせいでしょうか、それにしてもあっという間のことだったらしく如何にゴミのせいだとは言えまことに残念なことでした。
とりあえずわたしは会社に至近の場所に済んでいましたから部屋のことはともかくとして自分の職場の事も気になっていました。当時工場は平屋建ての工場棟が多く一番高い事務所棟でも 3階建てが一番高い建物でした。
わたしの職場は比較的新しい研究施設としての赤レンガ製の建物でした。しかし残念ながら職場そのものは1階であったため私の住まい以上の床上浸水に見舞われていました。
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水の引いた後の壁に残る水跡の高さは30cmを越えていました。幸いと言えば机や実験台の上、それに書類ロッカーの上部は全くの無事だったことが何よりでした。
一旦濡れてしまって処分せざるを得なかったもの、洗って乾かせば元通り使える物に分けて作業をすることになりました。職場の皆さんも三々五々出社してきていて共用部分については もう午後から水を撒いてデッキブラシで掃除できるようにまではかどりました。
工場自体がたくさんの水を使って製品を作る会社ですからイザ水洗い掃除・・・となると大量の水を勢いよく出しながらの仕事なのでそれはもう気持ちまでスッキリするほどの素早さでした。
会社の掃除も一息ついて部屋に帰ってきました。一歩足を踏み入れて改めて憤懣やるせない気持ちがこみ上げてきます。何と言ってもこの臭いは独特です、部屋の裏を流れる排水路は 言って見ればどぶ川ですからそれらの水が雨で多少希釈されたとはいえ基本的にはどぶ川の水が押し寄せた事には変わりありません。
床の上には水の引いた跡に残った泥が幾筋もすじを作って生々しく跡を残しています。冷静になって部屋の中を見渡すと鉄アングルを組んだ絵の置き場の最下部だけがそれでも10cmほど 水をかぶっただけ、その他は全てテーブルの脚まで、イーゼルの脚まで机の脚まで・・・といった塩梅でそれほど大騒ぎするほどでもないことが判りました。
とりあえずカーテンを開けて窓を開けて換気をしなくては・・・と、眼前に広がる空き地の光景に愕然とするのでした。
それほど広くない空き地は私の部屋より更に低地にある住宅の浸水被害のあった家の畳や家具類がうずたかく積まれていて呆然と見守る主の姿を見るだけで気の毒になる思いでした。
「あの人たちに比べれば私の所などまだまだ大助かりだった・・」と思わざるを得ませんでした。しかも幸いなことに寝所としてのベッドや夜具はこんなことを想定して高くする設計をしたわけでは 無かったのですが災難を最小限に免れたことにホッとしました。
部屋は二日も三日も床に水を掛けてはモップで掃除をしました。そして仕事を終えて帰ってきては部屋の臭気を確認しますが全然改善されないことにいい加減いらだってきました。

とにかく爽やかな乾いた空気を部屋いっぱいに流し込みたい。
それにしてもこの東京の腐り切ったような夏の気候はどんな新鮮なものでもひとたまりも無く腐らせてしまう。戸締りをして閉め切った部屋が真夏日の高温に曝されればそこに足を踏み入れただけで 病気になってしまいそうだ・・・と真剣に恐れるようになるのでした。
鉄アングル棚の下部にあって浸水にあった絵を一枚一枚丁寧に硬絞りの雑巾で拭いてあげます。しかしそれよりも乾いた空気で乾かしたい願望が強まります。しょせん何時までもジメジメした 環境に置くと絵までキャンバスから剥落するか、キャンバス自体が腐ってしまうのではないかと危惧されました。

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あれほどまでに天にでも昇る気持ちで待ち焦がれた自分の部屋としてのアトリエの所有でしたがこんな事でいっぺんに気持ちが沈んでいく自分を忌々しく感じるのでした。
こんな所に永く住むものではない。数年前、たまたま訪ねて来た建設会社勤務の従弟が勧めてくれた「マイホーム建設積み立て計画」がはっきりと現実味を帯びて感じられるようになりました。
従弟に勧められた時、彼のメンツを想って軽い気持ちで「じゃあ、アパートの部屋代・・」と始めたのでしたが、急遽『3倍コースに変更をして下さい・・』と変更を申し入れたのでした。
洪水による心の傷も癒えてきた頃、まだ夏の終わりにしては早すぎるうろこ雲が空の高さを感じさせる日がありました。
田舎に居る長兄からの電話です。「あしたの日曜日に幸三郎、おめぇの救援に上京するゾ!」短いぶっきらぼうな言葉ですが思わず涙がほうを伝って流れます。しかも軽トラックで来てくれると 言うのです、ああ・・・これでこの絵も救われる・・・(続く)




(連載No.120)
この年はまったく台風の当たり年なのでしょうか。台風の爪痕が次々と発生する台風にもその進路を教えていて、まるでなぞるようにして北上してくるのです。
ときどき強い雨を伴って来る時にはあの時の悪夢が頭をよぎって落ち着いて台風の通過を待つと言う気にはとてもなれないのです。
そして私の住む部屋は何度か・・・マサカ・・?、と言う危機はありましたが悲惨なのは私の勤める会社の工場の方でした。
敷地内の比較的新しく建てられた工場棟は比較的難を逃れましたが古くから存在する平屋建ての工場棟のほとんどはその都度浸水被害に遭ってしまう状況でした。
工場でも真剣に今後の総合的な防水対策を・・・と連日関係部署と方針の検討に入ったりしました。
私の住む地域や会社のある付近は東京都でも問題になっている地下水の汲み上げ過剰による地盤沈下が現実味を帯びてきていました。
しかしもともとここに工場を建設した当初の設計では大量に水を使って化学工業製品を製造するためには豊富な地下水脈があってふんだんにそれを活用できる事でありました。
豊かな水量を誇る荒川に接するこの地帯の地下には、河川に匹敵する豊富な地下水脈があったからでした。
事実、工場の敷地内には三つもの大きな井戸があって強力なポンプにより昼夜を問わず汲水し巨大プールに貯水し生産活動に使用していたのです。
東京都では遅まきながら地下水の汲水制限とそれに代わるべきこの地帯にも工業用水の導入を決定しやっと準備に入ったばかりでした。
私が入社した頃の工場北側は一面の稲作田んぼでしたが環状7号線が施設され、沿線を基に工場や事務所、商店や住家が次々と建設され遂には工場の塀際までにも民家が建てられました。

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それらの建設物は全て地盤のかさ上げの上に建てられましたのでイザ、増水したときには遊水機能を果していた地域(田んぼ)の激減は古くからの家並みや工場にとっては脅威でした。
このような状況下、またまた地域防災計画と共に一向に計画のみで進行が止まったままでいた”首都高速、東北道線”の工事推進の話題も頻繁に取りざたされるようになってきました。
既に工事の始まっていた東北自動車道も埼玉県北部や群馬県内での進捗状況は時々報じられてはいましたが首都高との連結工事は計画はあったものの何時の事やら・・・と言う私たち地元の 住民にとっては夢物語に過ぎなかったことでした。
私の近隣でも”立ちのき”や”移転依頼”の対象となる町工場や民家の玄関先には『首都高速道建設、断固反対!』などという看板もかなり目につき、実際に工事を進めることは実に大変な 事だと実感していました。
ただ私としてはもともとここに住まう条件として「首都高の道路計画の対象になっているので何時になるかわからないがそのつもりでしたらどうぞ・・」とは聞かされていた所です。
おおざっぱな計画案によると私の住むアトリエのあたりには現在の排水路が改修され直径2m位の大きな下水管が貫き地表には道路向かいにあった”荒川土手交番”と公衆トイレが並んで 建てられると言う話しは前から聞いていました。
近所の住民の間では早くそう言った計画は進めてほしいと言う意見が日ごとに強まっていました。
一方、反対派の住民間では「俺の目の球が黒い内は絶対そんな計画は許せない!」と一歩も引かない構えを見せ反対のビラも頻繁に配布して気勢を上げていました。
まあ、私の判断ではここ2〜3年で決まることはできないでしょう、かといって10年も更にそれ以上も持ち越す事は無いでしょう、いずれその覚悟は必要な事・・・と決めていました。
そんな矢先、首都高速道路公団は「中央環状道路構想と首都高速川口線」の接続計画を発表したのでした・・・(続く)




(連載No.121)
気がつくと荒川に掛かる江北橋、100mほど下流になりますが以前から橋脚を作る工事は進められていました。
東京都内でも多摩川や荒川にかかる橋のうち木造で残っているのはここ荒川土手という地名に掛かる江北橋が唯一では無かったでしょうか。
しかも木道に土をかぶせた道・・・舗装とは言わないでしょうが、日照りが続くと橋を渡るバスはモウモウと砂埃を上げて走るのです。
片側一車線のこの橋、木造であるために傷みもひどく何時でも片側を塞いで補修工事をしなくてはならずためにひっきりなしに朝晩は交通渋滞になっていたのです。
そんな折人知れず新しい江北橋建設工事は着々と進んでいてこの秋にはいよいよ橋桁が掛けられると言うニュースが飛び込んできたのです。

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その永久橋と並んで将来的には首都高速中央環状王子線の完成予想図も現実味を増してきました。
この年、私の絵に対する制作意欲は今までの内最高潮では無かったでしょうか。確かに絵の制作に対する阻害要素は実に多く存在しました。にもかかわらず作品にしたいテーマが次々に発生し 消化するのに優先順位をつけて取り組まなければならない事態でした。
当時仲間や知人からよく訊ねられました。あなたの絵は何派・・?って、そう聞かれるたびに苦慮しながらも応えた言葉は「絵日記なんですよ・・・」
あー、そうなんですか・・。と納得されてなお何かむなしさを感じていました。「絵日記のどこがいけないんだろう・・・」
そもそも絵を描くってどういう行為なんだろう。絵を描かずにはいられない衝動があってその心に浮かんだ心像(しんぞう)を表現する心象(しんしょう)であっても構わないんではないだろうか。

そう思うようになってから以来、絵を描くこと自体が面白くて面白くてたまらない時期でした。
思えばこの数カ月つらくみじめな事が多かった、しかしその分心の中の叫びも大きかったことは事実です。
そんな思いがスラスラとデッサンとなり絵の創作の為の下絵がドンドン湧くようにでてくるのでした。
個展も今回は3回目です、1回目は年も押し迫った12月12日〜17日でした。2回目は秋の開催にしようと頑張りましたが11月29日〜12月4日になりました。そして今年の開催は秋真っ盛りの 10月24日〜29日へと大幅に日程を替えました。
その分制作の日程は厳しくなりましたが感じたことは人間、逆境があればある程立ち向かう力が大きくなって思いのほかの仕事ができるんだと言うことでした。
事実、初回も2回目も思えばいっぱいいっぱいの感じで個展に作品が間にあった・・・と言うのが実感でした。
しかし今年の場合、自然災害やアクシデントがあった割にはもう9月の終わりにはあらかたの作品は出来あがってしまっていました。
あと1カ月です第3回の個展にこぎつけるのも間もなく・・・(続く)




(連載No.122)
思えばあっという間の一年間でした。正確には昨年の第二回個展が終わって10カ月足らずですが実に様々な出来事がありました。
衝撃的なことはその個展会期から麗子さんと知り合ったことでした。麗子さんはその個展会場にほど近い高級クラブ”茜”のホステスさんでしたが私の絵を大変高く評価してくれて作品を 譲ってくれとも言ってくれました。
結局麗子さんはクラブ茜を辞めた後、姉弟ではじめたスナックの新装に私の絵を飾るスペースをわざわざ設けて云わば強引に貸借という条件で展示してくれたのです。
せめて10号とか大きくても20号くらいの絵をお店に展示すると言う話はよく聴きますがいきなり100号の作品に合わせた壁面の設計を見せつけられたのには大変な驚きがありました。

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それ以来、月に2回ほどづつくらいではありましたが時おりはそのお店、スナック「青い鳥」にお邪魔して自分の作品と対面しそしてお店に来ているお客さん達の絵に対する評価も聞く事ができ 大変参考になりました。
とにかく私にとっては麗子さんをはじめとして「私の絵を好いてくれる人がいる・・」という実感はどれほど創作意欲の励みになることか身にしみて感じて来たことでしょう。

そしてその創作の方向づけが背伸びしない身近な題材・・・心象表現と言う形で自信をもって次々と作品を作ることができたことでした。
お客さんによっては私の絵に対する姿勢を幼すぎるとか芸術としての価値の低さを指摘する人もいました、お酒を呑む夜のスナックと言う場では素直なお客さんの意見も聞くことができるのです。
しかしそれらの言葉を聞くにつけ益々自分で確信を持って作品を作って行く意思がはっきりと決まって来ることが判って来たのでした。
そんなとき初めて知ることができたのです、それは「これでいいのだ!、生涯アマチュア画家でやって行けばいいんだ・・・」わたしは誰にも頼まれてお金をもらってお客さんの言いなりの絵を描いて いるのでは無い、自分の好きな事を好きなように自由に絵を描いて行けばいい。
そうして過ごしてきたこの数カ月ではありました。
そんな有頂天で絶好調な状況を襲った台風による浸水被害、本来でしたら絵を描き続けるどころでは無かったはずでした。
でも何故か不思議な無心さ・・・がわたしの精神状態を安定的に支配したのでした。何と言って表現したらいいのでしょう、たとえば動物にケ躓かれて崩れてしまったアリ塚の蟻たちは一瞬 大騒ぎはしますがすぐに全く何事も無かったかのように秩序正しくその塚の修復に取り掛かるのを目撃することがあります。
おそらくそんな状況での安易さが更に無心に制作にへと駆り立ててくれたのではないでしょうか。
10月の初め友人のカメラマンである桂さんがお忙しい中、写真撮影に来てくれました。
桂さんとは昨年の個展の時以来、大変なご無沙汰ではありましたが今回もその撮影は快く引き受けてくれました。
荒川土手のアトリエに移ってからと言うもの桂さんとはすっかり疎遠になってしまいました、今まではどちらからでも電車で行き来できる所に住んでいましたがこうして私の所へは延々とバスに乗って やとたどり着く・・と言う状況になってからはおいそれと落ち合う機会もすっかり減っていました。
更にその桂さんは今や六本木界隈で写真スタジオを持ち多方面に関わる活動を通してその写真は高い評価を得るようにまでなっていました。そんな忙しい日々の合間を縫って海外への取材旅行では ひたすら自己研鑽を積み新たな可能性を追求し続けているのです。
すっかりサラリーマンに定着し規則正しい生活をする私とはおおよそ時間的にも咬み合わせられない宿命的なギャップも生じてきていました。

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少し落ち着きを取り戻したアトリエで桂さんとは久しぶりにお酒を酌み交わし近況も語り合いました。そんな時でも桂さんは盛んに個展の案内状に載せる写真の構想を練っているのでしょう。
しげしげと酒を注いだ私の手作りの茶碗をながめながら「オイ、幸三郎、茶碗を手捻りしているところを写真にしよう」・・・(続く)




(連載No.123)
今までの個展の日程をふり返ると第1回は12月12日〜、第2回は11月29日〜、そして今回第3回は10月24日〜、お客さんにとっては今まで年末の何となく慌ただしい日程で有ったものが 落ち着いてじっくりと絵を鑑賞できる季節になった・・と言うことでした。
しかし私にとってどちらかと言うと一番脂の乗った制作時期に既に作品は仕上げておかなければならない・・、しかも水害に遭ったこの年に約1カ月の予定繰り上げは大変な足かせでありました。
桂さんから電話で個展案内に使う写真の選定が終わったので構成に回したい、しかもその案内文は私の自筆をそのままレイアウトしたいので大至急原稿を送ってよこせ・・と言うのです。
いずれのご案内・・と言うものは現代に置いてキチンとした印刷物であたりさわりのない文体をなしてどちらかと言うと無機質で簡潔に事の次第さえ伝わればいいと言う風潮でした。
ここで「自筆の文章をそのままレイアウト・・・」ということはどう言うことでしょう。確かに印刷業界に置いて写真製版がた易く取り扱えるようになったことも要因の一つではあったと思います。
それ以上に桂さん自身の仕事では業界誌への写真製版の技術をはじめとして依然として受け手側の意識ではしっかりとした製品の紹介はシッカリとした活字の文章以外信用できないという風潮 があって、桂さんはそういったものに意識的に逆らいたかったんでは無かったのでしょうか。
ただ私にはそんな事まで気が回りません「・・なんで、このクソ忙しい時に・・また変な事を考えやがって・・」、しかしそれ以上に桂さんだって更に忙しい中をこの愚友のために時間を割いて しかもただばたらきをしてくれるわけですから今もって頭が上がりません。
指定された文字数、指定された文字列数・・・初めての経験でした。そんななかに知人、友人たちに是非個展に行って観てみたい気持ちを引き出させようと・・・これは絵を描くより難しいぞ。

とにかく日にちがありません翌日会社の終わった後、ケント紙に書いた案内文を持って六本木にある桂さんの写真スタジオを訪問しました。もう時間は既に夜半の9時は過ぎていますがこの界隈の 雰囲気は異常です。
撮影スタジオの周囲には写真現像、製版やさん、印刷屋さん・・・つまり近所かいわいで一つの繋がりを持っていて自身の仕事が終わるとそれは軒先の別の職種の手によって出版物に なって行く・・・。

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それがあたかもこの辺一帯がまるで働き蜂の砦のように規律正しく信頼という意識のもとにスケジュールをこなし納品をし出版物が出来て行く社会なのです。
夜中の間もなく10時になろうとしているその時間帯、一帯はあたかもいま朝を迎えて一日が始動しはじめた・・と言うまさにそんな雰囲気なのです。
何時も私と酒を飲むときの桂さんの顔・・ときたらいつも目尻が下がっていて眼鏡が少しずり落ちていて、こんなひとがよく業界の最先端で仕事なんかやって行けるんだ・・と不思議に思っていました。
スタジオのカーテンをくぐって顔を出した桂さん、一瞬!、人違い・・・?と、思うほど桂さんの顔は引き締まり特にその目の鋭さはまさに戦闘中の目つきでした。
「ああ、アリガトウ・・、ごくろうさん」まるで愚友ではあるがわたしのような田舎者がわざわざこんな都会によく来てくれた・・・なんて顔はしてくれません。
「あっ、チョット待って!」

桂さんはカーテンの中にもう一度顔を引っ込めて「はーい!、じゃ10分ほど休憩を取りましょう〜」とスタジオの中のスタッフに声を掛けると私を事務机に座らせて立ったままで原稿を読み 始めました。
「・・・ヨシ!、このままでいこう・・・、幸三郎・・・おまえ身体の方は大事にしているのか・・?」はじめて優しい声を掛けてくれるなんて・・そして「ごめんな、きょうは手が離せなくって・・」
わたしだってこんな遅くにあわよくば桂さんと六本木の呑み屋さんにでも連れて行ってもらおうなんて思いもしなかったし早く帰って寝ないと会社に間に合いません。
スゴイ!!と思ったのは翌日、会社を終わってアトリエに戻ると”速達”が届いているのでした。差出人は「桂・写真スタジオ」・・・何かあったのでしょうか?
中には個展案内のゲラ刷りが出来あがっていました。二つ折りで表は例年通りの表記でしたが裏には 作品「雷雨」、案内文、そして私の写真が小気味よく配置された素晴らしいものでした。
私は早速桂さんに電話します、「素晴らしいです、このまま印刷をお願いします・・」
「そうか、明日中に印刷を済ませて送っておく・・」・・・スゴイ!・・・(続く)


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(連載No.124)
台風が猛威をふるったこの年の夏はいつにも増して残暑が厳しいのです。9月もあと一週間で終わると言うのに相変わらず日中の暑さは連日30度を超える日が続いています。
それでも季節は少しづつめぐってきます。何と言っても有難いことは朝晩めっきり涼しくなってきたことでした。特に最後の仕上げを急ぐ私にとって夕方から夜半に掛けての快適気候は制作の 仕事に身を入れる絶好期なのでした。
そして同時に味わなければならない事もめぐってきます。それは季節の変わり目を教えてくれる胃の痛みがまた襲ってくるのです。
気持ちを集中すればするほどその痛みは拍車をかけてくるのです。
もう何年もそんな苦痛に慣れてきている私にとってことのほか希望に満ちた苦しい季節・・・と言うのが実感なのです。みどり色をした粉薬・・・、こんなものを呑み続けて身体に悪くないのだろうか?
それでも呑んで暫くするとその痛みが徐々に遠のいていくのが判るのです。全くこんなものは麻薬だね、そしてそんな薬を処方してくれる会社の診療所にいる鬼のような女医さんもなぜか女神 様だね。

こんな生活はいつまで続けられるのでしょうか・・・。将来、自分は本当に絵描きとしてやっていくことができるのだろうか。それに値するだけの才能があったとすればいつ開花してくれるのだろうか、 身体の不安はわたし自身の人生の不安として大きな雲となって見通しが利かなくなるのです。
桂さんにお願いした個展の案内状が届きました。
もう3回目ともなるとご案内を差し上げる方々のリストも整っているので昨年から新たに・・と言う方を継ぎ足せば済むことです。
しかし、もうあと一カ月に迫っていますので気持ちとしては遠くの方に出来るだけ早く、既に予定の判っている友人知人には遅くなってしまってもしょうがないと言うことになってしまいます。
2回目の時は1回目の時の”御記名帖”をもとにして書き写していましたが今年から郵便のあて先には郵便番号を記入することが義務付けられました。
しかし折角の記名帖にはまだ皆さん郵便番号を書く習慣がないため新たに住所録、郵便番号対照表で調べ直さなければいけなくなってしまいました。
今でこそパソコンがありますからそれらの整理やあて名書きの作業はどうってことはありませんが当時は大変な作業でした。
ここは大変だけれど住所録の表を作成しておけば来年の時には更に便利になるはずだと思いました。
結局全ての方に案内状を出し終えたのはすでに10月に入り、会期の3週間前となってしまいました。
この頃からですが私の気持ち的には個展の最中に有給休暇とは言え連続して一週間も休暇を取ると言うことにかなりの罪悪感を感じ始めていました。

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私が休暇を取っている間はその穴埋めを先輩や同僚が手分けをして補ってくれるのです。
公官庁ではありません、一般企業ですから仕事をこなすには必要最小限の人員配置しかしていません、一人減ればそのしわ寄せは当然職場のそれぞれに負担となってくるのです。
ですから日頃は滅多な事がない限り有給休暇は使わずむしろ他の同僚が休みを取る時には率先してその手助けに心掛ける事もしてきました。
しかし、そんな事をしていてもいざまとめて私が休暇を取ろうと言う段になると何かと目に見えなくとも圧迫を感じるのです。
そんな矢先、営業を通じて私の出した分析結果と得意先の結果に差が出来た・・と、・・・(続く)




(連載No.125)
私の当時担当していた業務の中に自社で生産した工業用原材料の有効成分を調べて得意先にその結果を連絡する、というものが含まれていました。
そしてその有効成分を調べる方法は得意先との協定規格というもので規定しています。工業用原材料に使われる物質の有効成分はおおよそ20%前後ではありますがしかしそれは精密 化学によって生み出されるものですからたいへん高価なものなのです。
当然その分析結果の0.1%程度の誤差でも直接販売価格に影響も出ますし使用の効果にも多大な影響を与えます。生産して売る側と購入して使用する方それぞれで取り決めた分析方法 で確認合意のもとで売買が成立しラインに原料として投入することが求められる訳です。
この切羽詰まった時期に分析結果問題が発生すること自体寝耳に水・・というくらいな衝撃でありました。
こういった問題は単に幸三郎という個人と得意先会社の問題ではありません。当然私の会社と、得意先の会社間としての問題です。
国どうしの問題では外交官や外務担当部署が、会社では営業担当者が私の上司を通じてこの問題に対して見解を求められることになるのです。
こうした事を通じて上司は部下である幸三郎の立ち位置をどうするのかということも含めて問題の解決を迫られると言うものでしょう。
つまり私がこの問題に対して積極的に関与しのりこえる姿勢があるのか、あるいは尻をまくって投げ出してしまうのか・・・。自分自身でもこの事は将来にたいしても大きな”分岐”と位置づける ことなのだと感じるのでした。
確かに青少年期を好きな絵を描いて人生を豊かにしたいとの想いはそこそこの程度範囲内であればこその話です。
会社という営利を目的とする企業に勤めながら自分の趣味の為に我を通す事の至難な事は百も承知していたことなのに改めて大きな決断を強いられている気がするのです。
想えばわたしも20代後半、工業高校を卒業して現在の会社に勤め始めてから10年の歳月が流れました。
当時、日本の景気自体が上向きになり始め私たちの就職就業状況もだいぶ良くなり始めていました。しかしその労働条件もかなり過酷な場面もありました、そして就業意識もレベルとして まだかなり低いものでありました。

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この10年で同期入社者のうちすでに転職や家庭の事情で退職帰省した数は残っている人の数の二倍にも達するのです。つまり3人のうち残った人数はたったひとりというものでした。
当時会社には入ったものの更に向学心のあるものは夜間の大学入学を目指す人も多く、会社としてもむしろ多少なりとも奨励する気概もありました。
わたしもそんな気風の中で夜間の美術学校で絵の勉強を始めましたがどんなに頑張っても卒業・・・という段階に至らないのです。
この道は学位を極めた・・という単純な世界ではなかったのです。研究をし習得すればしただけ多くの課題も見えてくる・・・そしてその結果を試してみたくなる、世に問いたくなってくる。
世に問うた結果が響きを伴わない時、辞めるのかあるいは更に響きが還る方法を探るのか・・・、そうして私はとうとう10年も経ってしまったのかと想いを巡らすのでした。
見渡せば同期入社した仲間のうち、もう数名はすでに係長に昇進し先頭に立ってバリバリと仕事をこなしているひともいるのです。
私は・・・と言えばまだほんの人生の方針も見いだせない平社員です。
本気で絵描きに成る気でいるのだろうか、あるいはもっと仕事に意欲を持って取り組んでその結果社会人として家庭を持ち人並みの生活ができるようになりたいのか・・人生の分岐を迫られます。
そんな時わたし自身、分析結果と密接に関わる有る現象を前から見ていたのでした。・・・(続く)




(連載No.126)
化学薬品として製造された色材は化学反応式に従って生成され、微妙な反応温度や添加物質のタイミング等によっては基準に満たないものができる場合もあるのでした。
当時それらを厳しく見定めるのはやはり熟練した検査する人の眼に頼ることが一番早く正確でありました。
そんな時、導入され始めていたのが分光光度計という計測機器でした。これは光をプリズムに通すことにより正確な単一波長の光を取り出す事ができる機械でした。
取り出した正確な単一波長を化学物質に照射することでその物質特有の反射率を表し他の物質との特異性を明らかにする事が判っていたのです。
但しそんなことは理論的にそういう事・・・として具体的発展には至らず参考的に追跡する程度で今後の研究の為にデータを残しておこうという程度のものでした。
その測定器には専属のオペレーターをつけなければならない程微妙な調整が必要であり、扱いによっては予期せぬ結果を伴って捜査に混乱を招くほどの代物でありました。

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「雷雨」


「第3回個展案内」


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私は以前からこの測定器に興味を持っていましたのでよくそれをお借りしていました。そして自分の出す分析結果とこの測定器で求められる数値にある関連性のある事に気が付いていたのでした。
実は私の業務の中の「自社生産した工業用原材料の有効成分を分析し得意先にその結果を連絡する」という任務はやはり誰でもよいと言うものでもなく出来ればある限定した実務者が 同じ操作で求めた方が安定した結果が出る・・・というものでした。
ですから私の出した結果から自分で再度検定しても変わらない結果が出たことに安心はしましたがその裏づけをこの分光々度計で取れないものかと考えました。
「分析結果に差が出た・・」という営業担当者の言葉を聞いてから3日目には私から「再分析でも報告した値と変わりなし・・」という報告はしてありました。
更に添付するデータを整えることを理由に日曜日も含めて一週間で裏付けデータをまとめようと考えました。
重さ1トン以上も有するこの光学測定器はその重量に似合わず誠に繊細で扱いにくくおまけに何が不服なのか一向に安定した数値を示してくれないのです。
しかし測定器の一番感度の良い条件に試料の作成を調整すると比例的な数値が現れてきて予想した結果が求められることが判ったのです。
その数値を基点に問題のサンプルを測定すると見事に検量線の線上にプロットされた数値が分析結果に符合したのです。
個展まで後二週間という月曜日の朝です。意気揚々と出社した私に営業から連絡が入りました。
「得意先における再分析の結果において貴君の報告値との一致を見ました」
私にとっては安堵したという気持ちは確かに強く感じました。がそれ以上に今回のことはこんな程度のことで済んだからよいものの更に大きな問題があった時今までの気持ちで良いんだろうか。
そればかりではありません、職場内に置いてももし同僚にこのような問題が出た時果して自分から率先して手助けする気概が持てるだろうか。
ことにこうして個展の度、有給休暇とは言えまとめて休みを取ると言うことについて先輩や同僚にどれだけ迷惑を掛けているんだろうか。
むしろ今までそんなことにまで気をもむことはありませんでした。ただ一心に絵を描きたい、絵描きになりたいという執念だけで過ごしてきました。
このままではいけない、はっきりと期限をつけなくては。・・・(続く)




(連載No.127)
1971年10月24日、見事に晴れ渡った快晴の秋空の日曜日、私の第3回個展は開催される運びとなりました。
想えばこの一年、本当にいろいろな障害もありましたが喜びに満ちた充実した一年であったと感じるのでした。わたしも既に29歳、20代の終わりの年という大きな節目も感じているのでした。 まだ開店前の画廊のなか改めてじっくりと自分の作品を見渡します。

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ひとつひとつの作品にその制作時の感慨があらためてフツフツと湧いてくるのを覚えるのです。
おもえば生涯でこれほど惨めな屈辱を味わったことは無かったでしょう。この年幾度となく襲来した台風のうち付近の排水河川などの氾濫による浸水被害があった事でありました。
一時はもはやこの年の個展開催など不可能ではないだろうかと危ぶまれたほどでした。
しかし、地域住民のみんなが力を合わせて二度と排水河川の氾濫が起きないよう清掃しモラルを高めることによって綺麗な環境に戻りつつありました。
付近一帯は伝染病などの蔓延が無いよう最大限、足立区の支援もなされました。同時に河川氾濫の元凶ともなったポンプ排水場の機能強化策も打ち出されました。
そして何と言っても身内である兄達が支援に駆けつけてくれたことがどれほど立ち直ろうとする気持ちを支えてくれたか計りしれません。
大きな災害があったことで付近の設備の増強も素晴らしい事ですがなによりも目の前の荒川が以前に比べて大変綺麗になってきたことでした。
当然台風による大量の通水で水質の改善があったことは確かです。風の無い夜半にはいつも悩まされていた嫌な臭いも無くなりました。
そして木造のみすぼらしいヨレヨレだった江北橋も新しく永久橋として立派に完成し、交通もかなり良くなってきました。
そんな復興の掛け声とともに一気に盛り上がってきた計画の首都高速川口線の建設への実現性も具体化してきたのです。
わたしは当初からここに自費でアトリエ建設を計画した時点でその事は既に言い渡されていたことでした。「まだ何年先か判りませんがいずれこの場所は立ち退き移転を申しつけられる・・」 という期限不明瞭ななかでの住まいではありました。
そして忘れてはならない事、それはこの3回目の個展をしたい・・と願った最大の原動力は麗子さんという一人の女性からの篤い想いだったのではないでしょうか。
いってみれば彼女がもっと他の絵も観たい・・・というただそれだけの事の気持ちがあっただけでわたしは絵を描き続けることができたのだと思ったのでした。
水害の後、臭気の立ち込めるジメジメして乾き切らない蒸し暑いアトリエ、そして裸の背中をムズムズと流れる汗に堪えて絵を描き続けた原動力はただ一つ、麗子さんに「どれも素晴らしいですね・・・ 」って言われたいだけだったと言っても過言ではなかったでしょう。
そんな辛くもあり充実した一年をぼんやり思いながら二階のテーブルに頬杖をして出品作の「雷雨」の絵を眺めていました。
階下のフロアーで画廊の事務員さんが11時開店のために扉を開ける気配がします。
同時に華やいだはちきれんばかりの笑顔の麗子さんが大きな花束を抱えて一番に飛び込んできたのでした。・・・(続く)


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(連載No.128)
麗子さんを先頭に友紀子さんご夫婦はじめスナック”青い鳥”の皆さんが続々と詰め掛けました。セトモノのごんだ商店の権田さんご夫婦、蕎麦屋さん夫婦、みんなでワゴン車に 相乗りして来たと言います。
権田さんの御主人だけが今、駐車場を探して車を置いて直ぐに来ると言います。以前私のアトリエに遊びにいらっした方7人全員が来られたようです。さほど広くもない画廊はすぐに 満杯になってしまいました。
麗子さんはもう勝手知ったる自分の画廊と言わんばかりに事務のアルバイト女性に花瓶の場所を聴いて花を生ける準備をしながらあれこれと友紀子さん達に指示をしているのです。
一回目の時も二回目の時のオープン初日のしかも開場して直ぐにこれほどのお客さんがなだれ込んできたのは初めての経験でした。
私としてもじっくりとオープン会場にお客さんがちらほらと入場するまでその開場雰囲気をじっくりと味わいながらという心の準備も無しにもはや戦闘状態に陥ってしまいました。
しかもそのお客さんのほとんどは画廊に絵を見に来る事が初めて・・・と言う方がほとんどだった事も私を慌てさせることになりました。でもその分麗子さんが会場では他のお客さんもいますので 静粛にするようにとか取り仕切ってくれたおかげで大変助かりました。
とりあえずまだ時間も早かったことで小一時間もすると麗子さんは先頭立って「では、幸三郎さん、皆さん久しぶりの銀座ですのでお買い物などがありますので・・」といって皆に引き上げる様 伝えてくれて大助かりでした。
そして麗子さんは帰り際に「会期内にはもう一度ゆっくりお邪魔させていただきますから・・」と出て行きました。何となくその仕草がイタリア映画に出てくる女優さんのそれにあまりにも似ていたせいか ほかの入場者の方もしばし、その残像を追うように放心したような間が実に存在感があるなーと思いました。
こうして個展をしていて一番期待をし有難いと思うのは美術研究所以来の友人たちです。彼らとは四六時中絵に対する議論をしそして技術的に対しても切磋琢磨しあってきた仲間です。
素直なそして辛辣な批評も聞けますし反面、わたし自身でも気の付かなかった「・・・ここは更にもっと伸ばした方が善い・・」という言葉も聞く事ができるのです。
まあ、仲間と言うものは常にそうして本音を聞かせてくれるとは限りません。しかし、お互い会場を出ていったん有楽町ガード下の赤提灯の暖簾をくぐった途端にまだお燗酒が出てこない前から 堰を切ったかのように「・・幸三郎は、益々俺の思う方向とは真逆に進んでいくようだな・・」という言葉を聞くこともあるのです。
中日も過ぎて会場入り口受付テーブルに置いてある”ご記名帖”をパラパラとめくって見ます。
知り合いでもなくしかも名前しか書いていない人もいます。しかし、そんな中でも郵便番号や住所などしっかり書いて行ってくれる人も居ます。こう言う方はまた次に個展を開く時にはご案内を お出ししたいし少なからず好意を持ってくれているひとです、ということが判るのです。本当にありがたいことです。

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そう言えばあの有名なお鮨屋さん・・・なんて言ったっけな??、そう言えば今年はまだお見えになってくれません。もうわたしのことなんか忘れてしまったんでしょう・・・と記帳名簿を元通りに 戻しかけた時でした。
「よう!、幸三郎さん、今年も元気にガンバッテルな!、アッハッハ・・・」
「あっ、げんすけ鮨さん・・!」あれほど思い出そうとしていたのに顔と大きな声を聞くと直ぐに名前を思い出してしまいました。
銀座八丁目、かのアメリカ大統領がお忍びで堪能した日本のお寿司、げん助鮨のオーナーです。毎年私の個展に来ては勇気をいっぱい置いて行ってくれるお客さんです。
「じゃあ、まずひと通りぐるっと観させてもらいますね・・」といって周囲に目をやった後、おもむろに二階に上がって暫く二階の絵を眺めている様子です。階上の足音からすると一点一点、かなり 時間を掛けてご覧になっている様子です。
今度は階下に降りてきました。階下には比較的大きな作品が並んでいます。げん助さんはひと通り観終わるとテーブルの椅子に座りすっかり固くなっている私に「まあ、こちらに来て・・・」 と椅子をすすめてくれます。
「今年もよく頑張って善い絵を描きましたね!」「ハイ、ありがとうございます・・」
「ワシは去年も行ったかも知れんが、絵のことはよく判らんのじゃ、だけど鮮度の良し悪しは本当によく判るんだよ。まあ寿司屋のたわごとなんだけどさー」
「そう言った意味であんたが大変に苦労して絵を描かれている事が手に取るように判るんだよ。絵が上手になったと言う事と鮮度を保つことを同時にやろうとしてそれができるのがプロなんだよ」」
「どうだね、今日ここが終わったらウチで飯でも喰っていかねーか?」
「エー!、そんな高級鮨店で食べれる身分ではありません・・!」
「ハッハ、今日絵を見させてもらったお礼に御馳走したいんだけんどナ、うちは席が7つしかネーから一番端っ子に一つ予約席作っておくよ・・」
「・・・・デハ、お言葉に甘えてプロの鮮度の高い技を拝見させてください・・」・・・(続く)




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第17章(No.129〜No.135)(〜28歳)青春へのけじめ・・・(1)第四回個展を目指す




(連載No.129)
夕方7時も過ぎました、画廊の閉店時間なのにまだ多くのお客さんが残っていてくれました。特に今日は絵画教室で絵を教えていた生徒さん達も来ていました。
私としてはせっかく来ていただいた彼らにどこか銀座の裏通りでもいいから安くておいしいお店にでも寄って一緒に食事したい気持ちもありました。
しかし、日中のげん助鮨のオーナーのお誘いに「それではお伺いさせていただきます・・」と約束した後でしたし、ましてや彼らを伴ってということは許されません。
でもここは正直に「実は・・」ということで残念ながら皆と今日はこのままお別れすることを伝えました。展覧会が終わったらまたゆっくりとお話しましょうと・・
げん助さんから聞いていた道順で個展会場の竹川画廊の通りから僅か一本奥まった通りにその”げん助鮨”はありました。
銀座8丁目とは言えもうここは新橋駅から歩いても5分とかからない落ち着いた静かな通り、瀟洒なビル造りの料亭に挟まれるようにこぎれいな板張りのこじんまりしたお店がありました。
よくもまあこんな小さなお店をアメリカの大統領が見つけてきたものだ・・・、もっとも随員というか取り巻きの方が見つけたんでしょうが如何にも庶民的と見せるようなたたずまいはヒョットして とんでもないデザイナーさんの手による物かも知れないと思わせる日本的雰囲気なのです。
竹の植え込みと通りからほど良い距離の飛び石三つで格子戸の前に立ちました。「えっ!?」こんな所に本当に入ってもいいんだろうか・・急に不安がつのります。
なんだか急に新聞で見た写真の時のように今にでもご機嫌なアメリカ大統領が引き戸を開けて出てきそうなかんじがするのです。
あの時は大統領もネクタイではなく確かかなりラフな感じで写真にニコヤカに写っていたようでした。私だってネクタイはしていませんが「エイ!構うものか・・」
恐るおそる「こんばんは・・」。
「いよー!、幸三郎さん、善く来てくれました!!。ほんとうに来てくれるか心配しちゃったよ〜!」
お店にはまだ誰もお客さんは来ていないようでした。げん助さんの言うようにホントウにカウンターに向かって丸椅子が7つしかありません。
「ちょうど善かった、こんなに早い時間には空いているから幸三郎さんとじっくり話もできそうだね・・」
「はあ、でも少しお伺いしてもいいものかどうか迷ってしまいまして・・」

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「何を言ってるんですか、いや本当に来てくれてありがとう。ワシはね、あんたを見ているとワシの若い頃を想い出して嬉しくなるんだよ!、じゃ、そこの2番目に座ってくださいよ。もし混んできたら はじっこに詰めてもらうとして・・」

私は薄っぺらな絣模様の座布団付きの丸椅子に恐るおそる腰掛けました。「ウチはね、こんな商売だからまだこんな時間のうちはゆっくりして行ってもらって構わねえんだからネ」
「で、何にするかはワシに任せてもらうとして、なにをお飲みになります・・?」
「あっ、それではお酒・・・でも良いですか?」「ヘイ!、・・・・」「あのっ、暖かいお酒で・・」「よっござんす!」げん助さんは若い店員さんに目配せしながら何やら仕切りに手を動かしています。
「幸三郎さん、これは剣先イカのゲソ・・なんだけどね、ワシはイカ刺しよりこっちの方が好きなんだよ・・」
「うわっ、きれいですね・・・」「おうっ!、味より先に見た目を褒められちゃうと嬉しくなっちゃうね、板前をやっていて本当に良かった・・って思う瞬間をもらったね!」
若い店員さんもお燗の徳利を出してくれながらげん助さんとニッコリほほ笑みあっています。
「どう?、そのお酒・・?」「え??、・・どう?って・・わたしはそんな利き酒できるほど詳しくはありませんけど・・」
「まさか、マスミ・・・で・す・か・・?」
「おうよ!、そのまさかの真澄ですよ」・・・(続く)




(連載No.130)
「げん助さん、もしかして私が信州諏訪の出身ってご存じだったんですか・・?」
「そりゃ直ぐわかるわナ!」「あんたの言葉のイントネーションからきっと静岡か諏訪あたりかな・・て。それでアンタのパンフレットを見たら・・諏訪市って書いてあったもんな」
「そうでしたか、それでこのお酒を出して・・・どう・・?って聞いたんですね」
「まあ、ちょっと遊び心でさあ。大体アンタの姓名を聴けばもう90%の出身地は当たったようなもんさ」
「そうですね。4〜5年前の正月に帰省中の私の実家に遊びに来た友人がいましてナント駅から出て近くの家にフジモリと言う人の家を知りませんか・・って」
「そうだよなー、そのうちの人、言ったんだろ?、ハイ、私の家です・・って」
「はい、え・・!?、マサカげん助さんも・・・じゃないですよね」

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「わしか?、ワシの名字はその隣の家とおんなじだよ・・」
「となり・・・って、佐藤・・?でもなく・・田中・・?あ!、ミヤサカ・・宮坂さんですか?」
「ワッハッハ・・、とまあそう言う訳で一件落着だな」
「げん助さんはそうすると諏訪の出身・・・、エ?・・真澄の酒屋さんのお身内ですか・・?、たしか宮坂醸造さんですよね」
「おう、幸三郎さんも随分と推理するのが好きなようだね、もうずいぶんと昔の話さ・・・。で、この話はここまで・・としようや」
「まあ、何と言ってもワシはね、アンタを見ているとワシの若かったころにそっくりなんで気に入ってしまったわけさ・・」
「光栄です。私もこれから更に一生懸命勉強してげん助さんに”よく頑張ったな!”って言われるように努力します」
「幸三郎さん、お酒もう入ってないだろう・・?、お付けしますね。・・・ワシはね、そんな事を言ってるんじゃないんだよ」
「え・・?」
「はい、ワシが50年掛けてお客様にお出しできるようになった鮨盛りだよ、どうぞ召し上がってくださいナ」
「わ〜、すばらしいですね。そして実に綺麗ですね・・・」
「やあ、また褒められちゃったよ。幾つになっても人様に褒められるって嬉しいことだよな〜」
「幸三郎さん、鮨屋って言うのは人様に褒められただけではやっていけないのよ褒められるのは当たり前で、しかもそれをお出ししてお金をもらわなくちゃナンネー」
「ハイ、」
「あっ!、違うよ。これはワシが幸三郎さんにぜひ召し上がっていただきたいと勝手に造ったものだから・・そんな顔はおよしよ・・」
「はい、恐縮します」
「ワシがなんでこんな話を始めたかと言うとだね、アンタにはじめてお逢いした時に言ったと思うんだが”ワシは絵のことはよく判らないけれど、こうして毎日銀座で大勢の人の絵を見てくると 鮨屋の勘ってやつでナ、新鮮か腐っているかは直ぐに判るんじゃよ”って言ったけれど覚えているかい?」
「はい!シッカリ覚えています」
「そうかい、嬉しいね。それでワシはあんたの絵は新鮮だと感じて好きになった。しかし絵は新鮮なだけでは喰って行けんのじゃよ、鮨屋もそうなんだけどね・・」・・・(続く)




(連載No.131)
げん助鮨のあるじは私にとって生涯忘れる事の出来ない言葉を残してくれました。そしてわたしはその言葉によって将来への進路を大きく変更するきっかけとなりました。

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「幸三郎さん、アンタの展覧会を見て今回は想った事をそのまま言ってしまったけど記憶にあるかな・・」
「・・・たしか・・・鮮度を保ちながら・・・と、か・・」
「そう、アリガトウ!、肝心な事だけ覚えてくれてて・・」
「ワシは寿司屋の丁稚をしていた頃にだね、親方が今日は暇だからおめえ握って見るか・・?って。そんときゃーホント嬉しくって舞い上がりそうになったもんだわサ」
げん助さんは遠い昔を思い出すように目を細めながら実に楽しそうにその時のことを話し始めました。
時々後ろで下ごしらえをしている若いお兄さんにも目くばせするあたり、どうやら私だけでなくその修業中のお兄さんにも話して聞かせる・・・という風でした。
「ワシはいつかこんな機会があった時には・・・ってんで、いつも兄弟子たちの造りをシッカリ覚えて記憶して部屋に帰ればそれを絵に描いて勉強していたもんさ・・」
「そうか・・、元々げん助さんは絵心があったんですね・・?」
「アンタもそうだったんだろうけれどワシもね、子供の頃には絵が上手いって言われていたし・・・絵を描いてメシを喰っていければいいな〜くらいは想っていたサ」
げん助さんはいままで楽しそうに話して聞かせていましたがどうしたことでしょう、急に言葉を詰まらせるような表情を見せ始めます。
私もついそのときのげん助さんのこみ上げてくる感情が伝わってきておもわず息を呑んでしまいました。
「まあ、ワシら板前はサ、あらかじめ料理の仕上がりなんかを絵の一枚や二枚にする事くらいは当たり前なんだけどね・・」
「親方は、げん助、絵を出してみろヤ・・ってんでワシは得意になって出したんでサ・・・、そして親方はなぜかすぐに兄弟子の絵もならべたんだなー」
げん助さんはその時素直な感想として兄弟子の絵よりも自分の絵の方が数段に上手に描けていると内心ほくそ笑んでいたそうでした。
そしてその時親方はげん助さんに聞いたそうです「げん助、お前はこの二枚の絵を比べてどっちの鮨を注文して食べたいと思うかね・・?」
「えっ!!、・・・食べたいか??・・ですか?」げん助さんはそのときの親方の人を品定めするようなどんぐりまなこの大きな眼つきに圧倒されたと言います。
確かにどちらを食べたいかと比べると、兄弟子の方が幼稚な絵ではありますが魚も活き活きと感じられるし、恐らくそれを注文したお客様はそれにも増して本物のお造りの見事さに感嘆するでしょう。
「幸三郎さん、今年の作品は昨年までの作品に比べて技術的には格段の進歩が見て取れたんだよ。ただ残念なことにワシの感じた作品の鮮度は以前のように強烈に感じなかったんだよ」

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「・・ああ、それでそのあとに・・・鮮度を保ちながら上手に描くって難しいんだよな・・・って禅問答な様な事をおっしゃっていましたね・・」
「そう、そのあとに”上手に描くと言う事と鮮度を保つことを同時にやろうとしてそれが出来るのがプロなんだ・・”ってね」
「わたしにはそのプロになる資格は無いよ・・ってことなんですね」
「そういうことを言っているんじゃないんだよ、アンタの気持ち一つ実に簡単なことなんですよ」
「アンタはプロになる・・・、つまり絵描きになりたい・・って漠然と考えているようだけれど、さっきも言ったように人様に絵を売ってお金を頂くことに憧れているのか、はたまた自由に好きな 絵を描いてすごす事に憧れるのか・・・もう決めてもいいんじゃないのかね」
「それは・・・自由に好きな絵を描いていたい・・・ですね」
「そう、それが一番!、だから気楽にってこととは全く反対なんですよ、むしろもっと自分と向き合って絵にしようとする感動や鮮度を納得いくまで追求することが出来るんです」
「ハイ、人に見せるんではなく自分の内面に納得させる・・・なにか、こう・・別な力が湧いてきそうな気がします」
「ヨッシャー!そりゃァ善かった!、そう想っていただけただけでも今夜アンタに来ていただいた価値があったってもんサ。幸三郎さん、もう一本くらい行けそうですよね・・」
「アンタ、ところで会社に勤めていたんだっけネ。これからは大変だけどシッカリと二足のわらじを履いてどちらも抜かりなく・・・」・・・(続く)




(連載No.132)
「いやー、私も歳をとってしまったようだね。幸三郎さんの将来を想うばかりに余計な事を言ってしまったかな・・・」
「いえ!、余計な・・なんてそんな気持ちでげん助さんのお話をお聞きしたことはありません」
「そうかい、それならいいですが・・・」
「実は私が絵の勉強を進めるうちもっと刺激のあるところで研究したいと想って”寛永寺坂美術研究所”に移った時たしかその先生がそんなような事をおっしゃっていました」
「ほう?、先生がなんと・・?」
「私の持参した作品なんかは一応評価はしてくれましたが『あんたは、美術大学に入学したいのか・・、プロの絵描きを目指したいのかね・・』って先ず聞かれました」
「ですから私はためらわず出来ればプロの絵描きになりたいです・・・」
「そうかい、多分そんな時にはまだ幸三郎さんも『プロ』っていうものの実情がはっきり分かっていなかったんじゃないかい?」

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「そうだったんです。そして先ほどまでそんなムニャムニャした気持ちのままがむしゃらに歩んできたっていう気持ちですね」
「そして先生はその先については触れなかった・・・というわけだね」
「ええ、今はどうやって生計を立てているんだ?って聞かれたので『今は、会社に勤めています・・』って答えたんです」
「なるほど、そこで先生はワシが言った事とおんなじことを言ったって訳だね」
「そうです、今勤めている会社は止めないで頑張りなさい・・・、ただ、げん助さんのようにハッキリと”二足のわらじ”とは言ってくれなかったですがその時は私の理解力が無かったんですね」
「いや、無理もないことだよ、ただその頃はアンタもまだ若かったからそのくらいの気持ちでも良かったんじゃないかい?」
「そう思いますが気がつくのが遅過ぎましたね。”二足のわらじをはく”という意味のそれぞれに対する重みがかなりズッシリとしてきました」
「そう、この意味は自分の中にそれぞれの意志を持ったふたりの人間を養っていくということでどちらも腰かけでは無いという厳しさが出来てくるんだなー」
「なにか急に恥ずかしさを感じてきました。私は会社に入ってからもう10年になりますが私の同期の仲間はすでに係長になって部下を率いて前線で活躍する人も多くいます」
「それは無し!、幸三郎さん、アンタはいま多少なりとも生まれ変わったんですよ。よそ様とは違う生き方を決意したんだから決して比較しないことだね」
「よく判ります。私はわたし、そしてげん助さんの言う私にしか把握できない『新鮮さを求め続けたい・・』ということですね」
「そしてそれを自分で納得できるようになるまで時間が掛かってもいいから続けられる気力と体力を先ず作ることだね」
「体力ですか・・?」
「そう体力、幸三郎さん、アンタちゃんと食事しているの?今体重はどのくらいあるの・・・?」
「今少し、お腹の調子も悪くて・・・45kgってところでしょうか・・」
「ダメだな、目標を立ててそれを達成するためには先ず身体を丈夫にする。これにつきますよ、つまり規則正しい生活と食生活だな」
「げん助さんも相当厳しい事を言いますね」
「ワシがアンタの会社の上司だったら先ずそこをキチンと、でなかったらろくな仕事も任せられないでしょう?」
「壮大な計画になってきますね・・」
「幸三郎さん、そうですよ人生、目先の計画ではダメです。50年後、100年後の理想の自分の姿を想像した時、今何をするかがはっきりしてくるんです」・・・(続く)


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(連載No.133)
げん助鮨には1時間ほどお世話になったでしょうか。ちょうど二人連れのお客さんがお店に入ってきたことを機会にいとまをする事にしました。
「幸三郎さん、ちょうどのお勘定で頂きました、ありがとうございます。また遊びにお寄りください」
「・・エ!?、は、ハイ、どうも御馳走様でした、画廊の方にもまたお立ち寄りください」
げん助さんは新しく入ってきたお客さんの手前、私に勘定を気にせずお帰りなさい・・・と気を遣ってくれたのでした。
私はもう最寄りの駅は新橋に近いことはわかっていましたがそれほど時間も遅くなかったので元来た道を銀座7丁目の竹川画廊の前まで戻ってきました。
資生堂本社のある裏通りとは言え隣近所の周囲は今が稼ぎ時のスタンドバーや喫茶店に明かりが灯って結構にぎわっています。
もうそこだけ廃墟になったかのように明かりの消えた竹川画廊の外ガラスに額をくっつけて中に展示されている自分の絵を見渡しました。
画廊の中は明かりが消えていますが目を凝らすと通りの方からいろんな色の明かりをもらって改めて自分の絵を冷静に見ることが出来るような気がするのです。
「そうか・・・、げん助さんの言う通りだ。たしかに絵は上手になっているんだろう・・・」
「新鮮さはどうだ・・?、いや、確かにそれもある・・・しかし絵が上手くなった分新鮮さの発信力が隠れてしまっているんだろうな・・・」
「じゃあ、上手い絵はみんな新鮮さが無いのか・・?、そんな事は無い。するとそれを越えても未だあふれんばかりの新鮮さが必要なのか・・?」
「いや、待てよ。・・・そう言うことだ!、・・・俺は今まで何を勘違いしていたんだ、モノの形や色を上手く表現しようとしていたが・・・判ってきたぞ!」
「新鮮さや感動を”もっと表現する上手さ”を身につければいいんだ・・・!」
わたしは、思わず握った拳を外ガラスに向かってゴンゴンゴンと打ち鳴らしていたのでした。
こらー!、そこの、おまえー!!、何をしているんだー!!
「あへ・・?」
気がつくと私の後ろには2〜3人の人が怪訝そうな顔をして見守っていて、そのうちの一人がお巡りさんに手招きしているのです。
ドタバタと走ってきた屈強そうなお巡りさんふたりに両脇を固められた形になってしまいました。
ちょっと、そこの新橋署まで一緒に来なさい!
「あの、お巡りさん・・・ここの画廊の絵は・・・私が描いた絵なんですが・・」
あ〜ん?、あんた、お酒を呑んでるね!?、まあ、言いたいことがあったら署に行ってから聞いてやる!来なさい!」・・・(続く)


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(連載No.134)
そこを曲がれば先ほどまで居たげん助鮨と言う所を通り過ぎたすぐ先が交番になっているのです。
私が暴れたりしないと判ったお巡りさんは当初と打って変って静かに私の腕に手をまわしていると言った感じでした。
「お巡りさん、おれ15分ほど前までそこのげん助鮨のげん助さんと絵の話をしていて帰る途中だったんですよ」
「あ〜ん・・?、そんな高級鮨屋にあんたみたいなのが入れるのかな?」
「いえ、げん助さんが私の個展を見に来てくれてね、今夜御馳走するから来ないか・・って」
「じゃ、あそこのご主人とお知合いなんだ・・?」
「そうだよ!、もう3年来の知り合いなんだ」
「あんた、彼は有名な寿司屋さんなんだよ・・?」
「ああ、知っているよ!、嘘だと思ったらチョット顔を出して言ってもらえませんか?」
「あ〜?、まあいいよ。とにかく署でもう少し話してくれたまえ」
新橋派出署、外から見ると薄暗く陰気に見えましたが入って見ると意外と綺麗にしています。向かい合わせの机も可愛いクロスなんか掛かっていて意外と言う感じでした。
私が逃げたりしないことを感じたお巡りさん、ふたりでヒソヒソ話をし、若い方のお巡りさんが言います。
「いち応規則なんでねー、すこしいろいろと聴かせてください」
「ハイ、構いませんが・・、あの・・、前科とか何かつくんですか?」
年配のお巡りさんが私のまえにお茶碗をおいて急須を差しだしながら言います。
「いやいや、挙動不審なだけではそんなことはないですよ。ただこれから質問することで問題があれば別ですよ」
「はい、何でも素直にお答えします」
住所、氏名、生年月日、本籍地、勤務先・・・、「あの、会社には今日のこと連絡するんですか・・?」
「いや、特に何事もなければその必要は無いけれど、規則ですから聞いておきます」
「あ、そうですか、お願いしますよー」
「あんたねー、この展覧会の案内状にある名前と今聞いた名前と違うね!?」
「あ、済みません。みんな絵を描いたりする人はよくしていることです。先ほどの名前が本名です」
お巡りさんの職務質問ってこう言った些細なことからわたしの顔色の変化を見極めて更に追求することがあればと言う眼付を感じました。
暫くの間若いお巡りさんと展覧会の話や会社での仕事の話など付き合うことになりました。

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「本署から今日は帰って戴いても結構です・・って連絡がありました。どうも御苦労さんでした」
「はい、ありがとうございました」
「あんたまだ若いんだから、あまり人を驚かせるような事をしないでくださいね」
「そうでした、たしかに少し夢中だったものでしたから・・こんどから気お付けます」
「もう、遅いからまっすぐに帰るんですよ・・・」・・・(続く)




(連載No.135)
今回の個展は初っ端の日からいろんなことがあり過ぎました。おかげで翌日からの平穏な展覧会会期中がなんとなく味気ない気がしました。
個展を見に来てくれた友人やお客さんの既に顔馴染みの幾人かは今までよりよく描けている・・とか、随分とあか抜けて一皮むけた感じですね・・などと言ってくれる言葉がどうにも白々しく 聞こえてなりません。
それはげん助さんの言った言葉の重みと私の決意は他の人の評価の言葉との間にどんどんと大きな溝が出来て行くような感覚にとらわれるようになりました。
こうして一生懸命に絵を描いて個展をする事により、わたし自身が第三者的な目で自分の作品を評価し新しい方向付けを見出していく事が出来るいい機会だと感じ始めました。
展覧会の会期も終わりに近づく頃にはわたしはすでに確固としたある考えがまとまり始めたのです。

それは絵を描くことに対してもっと深い意義を感じなくてはならない・・・、そんな初歩的な当たり前のことが段々に後回しになって目先の技法や見てくれの良さに傾注してきた不快感を ぬぐいきれない状況と知るのです。
それにはどうしたらよいか、原点に戻るしかありません。原点はどこにあるの・・・、私の作画の原点は美の追求などと言った崇高なものではありません。ましてや政治や思想などを表現するための 道具としての作画でもありません。
わたしは毎度のことながらこの個展会期中、会社に一週間のお休みをいただいていわば自分を冷静に考え直すためのリフレッシュ休暇と考えていました。
そして真にそのリフレッシュと強く感じたのはこの第三回目の個展会期中でありました。
お客さんの少なくなる時間帯、極力自分の個展会場から離れ付近にある数十軒にも亘る他の画廊をめぐるのです。
様々な名のある有名な画家の個展会場もあり、そしてわたし同様に自分の才能を世に問おうという目的のために個展を開いている同輩もたくさんいるのです。

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そんな中でどうしても足を止めて鑑賞したくなる作品の作家さんとも出来るだけ交流してきました。
そして今まで自分には見えにくかったモヤモヤと霧に包まれていた事象がよその作家さんの絵を通してシッカリと伝わって来るのが感じられるのです。
「惜しい・・・、本当に残念だ!、こんなにも表現する技術があるのに何で私の心は共鳴してくれないんだ・・」
私の個展会場、竹川画廊からさほどの距離も無い”銀八画廊”です、改めて開場受付のテーブルにある作家さんのパンフレットに目をやります。
わたしより数年も年上の方で、しかも某国立芸大美術のご出身です。私などとても太刀打ちできるような相手ではありません、しかも何点かの作品は既に売約済の赤いマーカーが付けられて 居るのです。
まだ若く、これから大きな飛躍も期待されるこの時期に果してこの道はこの方にとって順風満帆と言えるのでしょうか。
ついこの間までの私にとってはこうした仲間達の道のりを羨ましく思い、そして私自身、早くそうなりたいと願っていたばかりでした。
私の個展も明日がいよいよ最終日、画廊を締めて出る前にここの事務員さんを通じて私は来年の個展開催を決意し開場の予約を申し入れました。
通常ですと作家さんの多くは毎年来年度のための会場として自分の個展会期中に次年度の予約をしておくのが一つの流れのようになっているのです。
ですからオーナーさんにしてみても新たな予約注文がこの会場にあったとしても例年の使用者の意向を確認しない限りその許可を出しきれない方針もあるのです。
私の連絡を受けてオーナーさんもホッとした様子が電話口から伝わってきます。明日にでも私に確認をしてみようと思っていた所だと言います。おそらく新規の作家さんから来年度の同じ時期での 会場の予約打診があったような口ぶりでした。
この時間ですと新橋のげん助鮨さんにはまだ余裕の時間帯だろうと思い、先日のお礼と来年の計画について報告かたがた立ち寄ることにしていました。
「おう、幸三郎さん、あの後にね、もう一度画廊に立ち寄ったんだがちょうどアンタ留守をしてたんで絵だけ見させてもらって帰って来たんだよ・・」
「あら!、そうでしたか、失礼しました。近くの画廊など勉強しに行っていた頃なのかな・・」
「ああ、事務員さんもそう言っていましたよ、私の来たことは言わなくてもいいってね。じゃあ、銀八画廊なんかも回ったんだね・・?」
「あれ、お見通しなんですね。このあいだげん助さんとお話しした後でしたのでよく判りました。銀八画廊は人気ありましたが私の望む路線ではありませんでした」
「幸三郎さん、すごいね」・・・(続く)

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第18章(No.136〜No.142)(28歳)   ・・・〃・・・・・・・・(2)日々の感動を新たに感じて">





(連載No.136)
第3回の個展も無事終わり気持ちの整理もつきました。思い起こせば第1回目の個展会期は12月12日から12月17日、そして第2回目は11月29日から12月4日、そして 今回は10月24日から10月29日。ということはまだ今年は2カ月も残っている・・・何か気持ちの余裕すら感じるのです。
私は個展が終わったら先ず二つのことを実行しようと目論んでいました。
それはげん助鮨のげん助さんと約束したうちの先ず第一、身体を丈夫にすることでした。元々大きくなれない身体ですが現在の45〜6kgでは話になりません。
最低でも50kgくらいには持っていく必要があります。その為には食事をきちんと、更にはその食事が血や肉になるように何と言ってもスポーツをする事です。
何か毎日続けることのできる運動をする事です、それにはひとりより楽しみながら相手が居て大人数でなくとも可能でしかも天候に左右されない・・・。
幸いにも私の勤めている会社には卓球台が常時備わっていて普段の昼休みには好きな人たちが結構楽しんでいました。
そして会社には卓球部という運動部があって仕事の終わった後にはその部員たちがまるで蝶でも舞うように華麗な卓球をして腕を磨いているのを目にしていました。
そこまでは着いて行けないでしょうし仕事の終わった後はアトリエに帰って絵も描きたいし・・と思案しました。
卓球は正式な手ほどきを受けたことはありませんでしたが子供の頃から近所の公民館備え付けの台で楽しんでいた記憶がよみがえります。
よし、とりあえずスポーツ用品店に行ってラケットを購入しようと決意しました。
季節は11月、気候もスポーツをするのに絶好の季節です。いよいよ私も卓球にデビューする日が来ました。
食事が終わって体育館に行くとこんなスポーツ日和です、6台ある卓球台はすでに全部ふさがっていて順番を待たなければ出来そうもありません。
しかもこの会社の昼休みの卓球台ルールがあって順番待ちする台は6番目の台と決まっているのです。


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そして順番が回ってきて1セットの試合で勝てば5番目の台にあがって続けて卓球が出来ますがもし負ければその6番目の台の順番待ちする最後尾に並ばなくてはいけません。
弱肉強食のルールは私のようにやっと意を決して卓球を始めようとする者にとって大変厳しいものでした。
昼休みに充分な運動が出来るためには6台目で勝って、更に5台目、4台目・・・と上り詰めることで満足いく卓球が出来るようになるのです。
さもなければ早く食事を終わらせて皆が来ないうちに1番目の台に居て次々と負けたとしても続けて5試合もできる計算になるのです。
この方法は私にとっては不可能です。先ず職場が食堂から遠くに離れていることです。つまり食堂に近い職場の人が絶対的に優位なのです。
そしていわゆる早食いが出来ない事です。もともと胃弱のため食事はゆっくりよく噛むことを習慣つけられていましたので二つの面で絶対的に不利でした。
そして冒頭、実行しようとしたもうひとつしかも一番大切な・・第二の目的がありました。
それは新鮮な絵を描くこと。つまり日々感動の少ない生活の中では絵の題材になるような感動的な事象に遭遇することは無いということです。
大した感動もないのにそれを絵にした所で結局そんなものは何の足しにもならない。げん助さんは私にその事を一番言いたかったはずでした。
私としてもそんな大切なことを気付かせてくれたげん助さんにはまことにもってお礼のしようがありません。
ここはその分岐点、次の第4回個展にはげん助さんに褒められるような新鮮さのある作品を並べたい。
その為には多くの感動を受けるような感受性を取り戻したい。少なくとも子供の頃絵を描くのが好きだったことを想えばそう難しいことではなさそうです。
何時の間にわたしはこんなにも感受性の乏しい人間になってしまったんだろう。
心の底から楽しいことをしていたか!?、貧乏なら貧乏なりの楽しみだって沢山あるはずだ!、そういう楽しみを創造できない者に感動のある作品も生まれるはずがない。
よし!、遊ぼう!。俺はもともと子供の頃は外で元気に遊んでいたんじゃなかったか?・・・(続く)




(連載No.137)
いつのころからでしょう・・・、放置自転車なんて言葉が巷に広まったのは。少なくとも私の青春期にはまだものを平気で捨てたり置きっ放しにしたりなどと言う風習はなかった。
きっと欲しい物は何時でも何でもお金さえ出せば買える時代に育った子供たちがごく普通にするようになったこととモノが安く大量に作られるようになってからでしょう。

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荒川土手のアトリエに住み始めて近所にも知り合いがポチポチでき始めました。
会社への出勤は徒歩で済みましたし、どこかに出かけるとしても必ずバスに乗って・・が定番でした。そんな時、金魚屋さんのお姉さんから自転車をもらってくれないか・・と。
はじめはどんな素晴らしい自転車なんだろうと想像しましたが、今でしたら廃品回収のオジサンでも断るようなポンコツ自転車でした。
お姉さんの父親がもう自転車にも乗れなくなってしまったし、どちらかというと処分を頼まれたという感じでした。
実家にいたときは我が家に一台、どっしりとした自転車があって父親の乗らない時には引っ張り出して乗り回していましたから10年以上乗っていなくても乗れるはずです。
さすがにあれから10年、実用自転車ではあってもかなり今風のデザインでしかもかなり軽量です。いかんせん、どのくらい物置に放置してあったんでしょう、またがって乗るには 程遠い代物になっていました。
いずれにしても品物は良さそうだから分解して磨いて油を差せばきっと素晴らしい自転車になるかもしれない・・と微かな希望を抱いて持ち帰りました。
さあて・・・アトリエのテーブルやイーゼルなど取りあえずみな隅っこによけて部屋の真ん中におんぼろ自転車が鎮座しました。
仕事の終わった後、会社の工務部門によって明日の朝お返ししますから・・と言ってハンマー、レンチ、ドライバーなどと一緒に潤滑油もいただいて帰ってきました。
結構気持ちもソワソワして高揚感がわいてきました。絵を描くこと以外に自分の気持ちがこんなにもワクワクするのに驚いてしまいました。
所がどっこい、ネジや締め付け部分が油を差したにもかかわらず動かない!。しかも借りてきた工具はどれもこれもフィットするものがどれ一つとして無いのです。
途方にくれながら暫くどうしたものかと考え込む時間ばかりがかさんでいきます。時間がたつとどうやらネジ部分が一か所偶然にも緩むところがありました。
そうか・・、油は差してから暫くしないと浸透してその威力を発揮してくれないんだ!。
会社の仕事の始まる前に工務課に行って事情を説明し別の道具がないか聞きました。すると自転車にはほとんどすべてが自転車専用工具と言うのがあってそんなものはここには無い と言われました。
あきらめかけていた後ろから「あまり勧められないけれど工具は使いようだな!」と、驚きの言葉をかけられました。
「幸三郎さん、わしは、あんたが自転車を分解したいと言うんでそれに必要な道具は揃えてあげたつもりなんだが・・頭は使ったんかい・・?」
「えっ!!、どういうことですか?」
「あんた、工務課の仕事って知ってるよな」「はい、僕らの実験室で手に負えない機械の修理をしてもらったり・・」

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「そうだよな、そんな機械の専用工具なんてオレら持ち合わせてなんか無いよナ」「そうか、手元の工具で工夫して直してもらってたんだ・・」
「そう!、あんた興味あるようだったら日曜日にここで自転車の分解実習でもするかい?」
「えっ!、ありますけれど・・日曜日は会社、お休みでしょう?」
「あんたたちはね!、しかしオレ達は皆の休んでいる間に修理したり調子を直したりやることがいっぱいあるんでね。いい勉強になるよ」
「あ・・、じゃ、お願いします」「オウっ!、いいともさ!。まあ、付きっきりではないけれどコツぐらいは教えられるよ。その代り休日出勤手当なんか出せねえぞ!?」
「ついでに、会社の食堂もお休みだから昼の弁当は忘れるなよ・・」・・・(続く)




(連載No.138)
日曜日の朝、私のアトリエから会社までは徒歩で約7分。今日までの間に遣っておくように言われた全てのネジや回転部分に油を指しておきました。
いざ、自転車を引いて出かけようとすると驚きました。さすが油の効果の素晴らしさをまざまざと体感することができました。
前輪は何とか動きはしていましたが後輪については金魚屋さんからアトリエまで運ぶ途中、まるで鍵のかかっている自転車を盗んでくるような錯覚さえ感じるほどでした。
今日は後輪も私の手綱さばきにおとなしく追従してくる感じで車輪が回転してくれて助かりました。今日も回ってくれなかったら絶対にお巡りさんから職務質問されそうでした。
なにせ、私のアトリエの道路を挟んだ真ん前は荒川土手交番の小屋があっていつでも何かと私に声をかけてくるのです。常駐のお巡りさんではないためいつもその度、答えるのです。
「ここの文房具屋さんの下は私のアトリエがあってそこに私は住んでいるんです!」
新入りのお巡りさんが派遣されてくる度にいちいち説明しないと出入の度にジロジロ観察の度がひどすぎるのです。
会社の工務課のドアーを開けるとまだ早い時間なのにもう溶接の火花が散っていたり、グラインダーで金属を削っている威勢のいい音が寝ぼけ眼をシャキ!とさせてくれます。
工務の先輩は溶接の保護面をはずして「おーぅ、来たな〜。ちょっとしたら手が空くからしばらくそこで待っててくれねーか」
「はーい、ちょっとあちこち見学させてもらってま〜す」
「あー、だけど溶接しているところを直接見てちゃいかんぞ〜!。目ぇ、つぶれても責任は負えんからなー」
改めて見回すと工務課の工作室は土間になっていて壁にはいろんな工具が整然と並んでいます。

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「自転車修理」


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私たちの工場や実験棟はレンガやコンクリート、粗末な建物でも大概はモルタルなどでできていてドアーにしても鉄の扉が主流なのです。
しかし工務の工作室は何故か先ほどの入り口ドアーもガタピシのガラス戸、床は土間、柱や天井の張りなどは細い丸太を針金で縛って組み立てた感じです。
周囲の壁や屋根はすべてトタンという建物なのにはじっくり眺めているとまさに質素そのものなのに感心してしまいました。
しかし、そこで作業している人ひとりひとりは自分たちが居てこそ、この工場全体がスムースに生産活動することができるんだという誇りを持って働いている人ばかりです。
身なりも油まみれだったりしていますがそれが却ってその誇りを象徴しているように見えて、一瞬羨ましさを感じさせるのです。
「よーし、終わった!」の掛け声で先輩の溶接していた機械は別の工作グループの人たちによって台車に乗せて運び出されるところでした。
「ちょっと、一服するから・・その間にここへ自転車を持ってきてまず外せるネジは全部外してみな・・」
いや、驚きです。あれほど頑固だったネジはどんどん回して外すことができるのです。外したネジはすべて油の入った洗面器に投入します。
「そう、外した泥除けは外に出して水で洗って置くんだな、その前にトンカチで固まった泥は叩き落としたほうが手っ取り早いよ・・・」
チェーンカバーはどこかにぶつけたんでしょうか肝心なところが回転に支障をきたしていることが判明しました。
そうこうしているうちに自転車はシンプルに、走るためにだけ残された部品で成り立っているようになりました。
車輪はこの軸から・・・そして後輪も・・・・、するとチェーンはいとも簡単に外せるのです。「そのチェーンも洗面器の中に入れて置きなさい・・」
サドルに掛けてあったカバーを取り外すと少し綺麗な座席が現れました。「これ、このままカバーの無い方がほうがいいよね・・」
「ホラッ、自転車はこのフレームの基本的な台座に車輪がついている訳ね・・この二箇所を緩めてあげるから後で自分の体格に合わせてハンドルの高さと座席の高さを決めるのね」
「ちょうどお昼だよ、油の中の部品はそのままにしておいて続きは午後からだね・・」・・・(続く)




(連載No.139)
私はこの会社に入社して以来もうすでに10年近くになるというのにこうした工場の裏方さん・・・のような方たちが休日にこんなに賑やかに働いているって知りませんでした。
そしてお昼休みです、私たち日常は会社の食堂の食事をしているのですが休日は全く違う風景です。
先輩は・・というと奥さんの作ってくれたお弁当でしょう。遠くから見てもしっかりと三色のお弁当、ご飯と卵焼きとホーレンソーのお浸し・・らしく見えるのです。
若い人たちは近所の食堂からの出前、強烈な旨みの匂いがあたりに立ち込めます。私はといえば途中のパン屋さんでコッペパンを縦割りにしてもらって片側にバター、反対側に いちごジャムを塗ってもらったものをほうばります。

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そしてみんな食べるのが実に早い!モノの10分もしないうちに食べ終わって将棋をする人、囲碁をする人、そして今まで座っていた長椅子にゴロンと横になって昼寝する人 ものの見事にもうすでに決まっていたかの様に分散して収まります。
私もオタオタしながら食べ終わり後かたつけをして少しウロウロしてみましたがどこに行っても除け者の感じです。
止むなく天井を向いた自転車のペダルを回してみたりしましたが少し変な音がするのです。勢いよく回してみると面白い音がしてなんだろうと幾度も繰り返していました。
そのうちにベンチで寝ていた先輩が片目を開けて怒鳴ります。「うっるせーぞー!」思わずヒヤッ!として外に飛び出しました。
あてどもなく会社の門を出て荒川土手の土手にのぼります。
いつも見ている荒川の河川敷です。12月ですがまだ厳寒期の様子はなく穏やかにのんびりとした土手には近所の若い夫婦でしょうか大きな伸びをしながら寝っ転がっています。
そうか・・休日には皆こうしてのんびりと過ごしているんだ・・・燦々と降り注ぐお陽様の光を浴びて河にはボート練習の舟が流れていきます。
私もそれに習って土手の上に寝転がってみます。秋に刈ったばかりの芝がチクチクと刺激して違和感がありましたがズルっと滑らせるとフワッとした感じが暖かく感じます。
工場の昼休みの終わる5分前に合図のサイレンが鳴ります。私もその音でウトウトした気持ちを切り替えて工務課の作業棟に戻りました。
するともう全員が安全靴を履きキリッとした作業の支度を整えてもう作業を始めているのです。「ハヤッ!」私が自転車のところに行くと先輩がペダルの芯のボックスを開けて 小さい玉を掻き出しているところでした。
「ほら・・、幸三郎、見てみれ?!」
この中には沢山の硬球が入っていてボロボロとこぼれるように落ちてくるのです。「こんなになってちゃーウルセー訳だよなー」
「これ、油の洗面器で洗って、まん丸のやつだけ選んで置いてくんねーかい」
ボロ切れで拭きながらより分けていると明らかに真球ではなくて欠けたような玉も混じっているのでした。
「よくわかりませんが1個だけ変なのがありました・・・」「そうか、あの箱からおんなじ玉を選んで来てくれよ・・・ヨシ!っと」
「この球1個のおかげでおかしかったんですか・・?」「まあ、それだけじゃないけれど・・この中はグリース油ってのが入っていなければいけないのが何故か抜けていたんだよ・・」
「この蝶番が外れて口が広がるペンチだと・・こう、噛ませると外れるだろう・・?」「そう、ほらやってごらん・・?」
言われるように反対側も同じようにして開けてみるとグリース油は空っぽでした。ベアリング球を洗ってグリースをたっぷり塗ってまたボックスを閉じました。

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シャリー・・・・、ペダルを勢いよく回すと気持ちの良い滑るような音がしてペダルが廻ります・・・いつまでも・・。
「うわー、凄いですね・・・!」
「じゃあ、あとはこの洗面器の油の中にあるチェーンやネジを全部ボロ切れで綺麗に拭いといてくんねーか」
言われるように錆はブラシでこすり落としながらほとんどの部品は2時間ほどで綺麗に拭き上がりました。「じゃあ、組み立てるか?」
「ちょっと待ってください、せっかくだからフレームなど綺麗に仕上げたいんですが・・・」「よく言った!!」・・・(続く)




(連載No.140)
この自転車、もともと頂いた時から何か変だ・・と思っていたのです。そもそも自転車自体には新車で買ったときにシートのカバーやフレームに巻きつけてあった保護テープなどが こんなおんぼろになってもまだ車体にへばりついているのです。
このフレームにもその塗装保護の為の紙テープが巻きつけてありますが破けてしまっているところ以外はまだそのテープがしっかりと健在しているのです。
もっとも付属品を取り外したことにより今の段階でテープをはがし取れば綺麗に外装テープは取り剥がせるというものでした。
案の定、テープの剥がれていなかった下にはまだ輝きを失っていない深緑の塗装がギラリ!と輝いています。そうかもともとこの自転車はこんなシックな塗装の自転車だったんだ。
工務課には機械の修繕や補修をしたあとには機掃用の研磨剤や保護ニスなども揃っています。フレームの汚い部分を研磨のクリームを塗って磨くとアララ・・シックな深緑が・・
そして全体を洗い油を湿らせたウェスで磨き上げるとゾクッ!とするようなフレームに変身しました。
「先輩〜い!、これで組立準備 OK!ですが・・」「よし!、ちょっと待ってくれ、こっちがもう少しで手が空くから・・」
「先輩、それまでの間に自分でできるところだけでも組み立て始めてもいいでしょうか・・・」
「ああ、構わねーぞ。だけどなー、締めつけはまだしないで置いてくれないかな〜。組立の順序が違うとまた二度手間になるからな・・」
そうでした、私としても前輪のフォークの組立はいいとしても後輪の軸では少し不安もあったりしました。
しかし、なんといっても外装品の泥除けや、チェーンカバー、そしてフロントラックなどは取り外してしまうことで組立もかなりシンプルになりそうでした。
まだサドルを取り付けたあたりで先輩がやって来てくれました。「こことここの締めつけはハンドルの高さと一体で調節して締め付けるから・・」
ハンドルを仮締めしたところで先輩は私を車輪のない自転車にまたがらせてサドルの高さと前後差、そして再度ハンドルの高さを調整しました。
「ここまではまだ仮締めだな。車輪をつけたら更に微調整をして締め付けるから・・」

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今度はおもむろに自転車はひっくり返されてサドルとハンドルを下にして面白い格好にさせられました。
「なるほど、こうすれば車輪やチェーンの調整も楽にできますね」
前輪は私の予想した通りいとも簡単に装着することができました。そして手を添えて勢いよく回すと「シャー・・・」と心地よい音と共に軽く回ります。
わたしも思わず「お〜・・」と声を上げます。ペダルに引き続きここも快適に動くようになったわけです。
汚れも取れて錆だらけだったチェーンも綺麗になっていますので折れ曲がりもスムースに動いて装着待ちです。
やはり見ているとさすがに後輪の取り付けはチェーンを組んでから・・など少し順序があるようですが私も次は自分でもできるようにとしっかり見学します。
チェーンをペダルギアーにかませて一回りさせると全てのギアーに噛まれて力は後輪に伝達されます。
そしてこの段階でも工務課の威力です。自転車のチェーンにはチェーン用の油もあるそうでそれを丁寧に全てに行き渡らせるように注ぎます。
「よし!、幸三郎、ペダルを逆回転にグルグル回してくれ・・」こうすることによって油はチェーンの隅々まで行き渡って良好になるといいます。
夕方までにはすっかりブレーキやスタンドなど完璧に完成させることができました。
「よーし、おい!、いきなりこれで道路に飛びだすなよ、一度構内をゆっくり一回りしてきな・・」・・・(続く)




(連載No.141)
会社の工場内、普段の日は荷役業務の車と守衛さんの急用連絡などの特別なこと以外は自転車であっても構内走行禁止になっています。
でも、今日は休日ですし試し乗りですから慎重運転で走る・・・ではなくゆっくり走行をしてみました。
思えば田舎から出てきて今日まで10年近くも自転車に乗っていません、しかし不思議なものです、あたかも昨日まで毎日乗っていたかのように自然に乗れるのです。
まだこの自転車の感覚が体に染み付いていないので多少はフラ付くものの2〜300mも走るともう全くの自分の手足のようです。
工場内の大きな建物をひと回りしてくると先輩は腕組みして私の戻ってくるのを待ち構えていました。
「ぜんぜん問題ありませんでした・・」「そうか、じゃ俺が最終点検にひと回りしてくるから・・・」
今度は先輩が自転車にまたがって力強く漕ぎ出しました・・・。しかしまだ建物の第一コーナーを回りきらないうちに反転して帰ってきます。
「おい!、なんだ〜?、まだサドルの締めつけが終わってねーじゃんか・・」
「それと、あとほかのところももう一度締めつけを確認しね〜とイカンな」
確かにそのとおりです、たとえ自転車といえどもそれに乗っている限り命を預かる乗り物です。ことに、ブレーキ関係やハンドルの効き具合など重要なことです。

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「荒川のボート練習」


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そんな基本的な気持ちのあり方までプロの指導を受けながら自転車の分解整備を教わった気がしました。この事がのちになって大いに役立つとことにはまだ気が付きませんでした。
まだ日が暮れるには時間が早すぎます。自転車は軽快に走ります、まずはともあれ金魚屋さんに立ち寄らなくてはなりません。
アトリエの前を通りすぎて西新井大師に向かう方面に曲がってスグ、よくこんな金魚屋なんていう商売でやっていけるもんだと感心しながら店をのぞきます。
お店の前は少し坂になっているので安定した場所を探して留めていると、ガラス戸が開いて金魚屋さんの看板娘のキクちゃんが大きな声を出します。
「あら〜!、幸三郎さん、これってあの自転車だったの・・?」
キクちゃんにとってはお店の隅でガラクタ同然で邪魔になっていたスクラップみたいな自転車でした。それがこうしてお店の前に燦然と輝く姿に接してただただ驚くばかりです。
「すごいでしょう?、どう?乗ってみますか?」
「あっは、幸三郎さん、お恥ずかしいことにわたし、自転車に乗れないんです・・・、ホントに不器用なんだから・・」
「たしか、これに乗っていたオヤジさんはもう乗れなくなったって言ってたよね・・」
「そうよ、だから幸三郎さんにもらってくれないかしら・・・って、でもこうして大事に乗ってもらえるなんて嬉しいわ・・」
「そうでしたか、デハ大事に乗らせていただきますね。それとこれから自転車屋さんに行って鍵だけは新しいのにします」
「そうね、ところでそのベルは鳴るんですか・・?」『チ・リ・リ・リ・リリ〜ン』「あら、可愛い音が・・・」
たしか翌年の春、キクちゃんはお嫁に行きました。私より三っつ上だったからちょうど30歳・・・(続く)




(連載No.142)
自分の自転車を持ったことで世界観まで変わったように感じられました。それは車の免許を取った時とは全然別のものでした。
しかも私の住まいにしているアトリエ付近は荒川土手下のため自転車を乗り回すのにとても具合が良かったのです。
その頃でも一般道はどちらかというと自動車優先でとても田舎者が街中を自転車で安全に乗り回せる環境ではなくなってしまっていました。
手入れの行き届かなかった荒川土手でしたが、自転車で走る人がいつの間にか狭い幅ではありましたが綺麗なワダチを自然に作っていてくれたのです。
休日には少し遠乗りでもしてみようと計画を立てました。バスや電車では行くことのできなかったルートもたやすく設定できるのも魅力でした。

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とにかく、地図上ではこの荒川を河に沿って下っていけば東京湾にたどり着くことは知っていました。
私の住む近くの土手の標識は「東京湾まで18km」と書いてあります。この距離なら日曜日の朝に出発すれば楽々戻ってこれるはずです。
路線バスはとなりの見知らない街までは楽に移動してくれます。しかしそれは私の興味の方向とは限らずあくまでも決められた街路を走るだけです。
今日はいよいよ自分の足でこの川沿いを下って東京湾を見てみたい・・・。小さな冒険心と期待に心がうき立ちます。
当日の天気は晴れ、江北橋近くの上空は青い空なのに目指す下流の方はどす黒いスモッグのかかった汚い空をしていました。
そのスモッグが人体に悪い影響をもたらすなんて薄々は知っていましたがそんなことよりこの下流の街の新しい文化に触れる喜びの方が大きかったのです。
当時、江北橋の次の下流の橋は西新井橋でした。大きく蛇行している河ではその下流の最初の橋すら目にすることができないくらい離れていました。
今でこそ、その間には首都高環状、扇大橋もできましたが東京湾までは9っの橋どころではなく電車など含めて倍以上の橋の数になっているのです。
土手の上の草むらの一本径を進むに従って大きくカーブした先に最初の西新井橋が間近に迫ってきました。木造の江北橋から比べれば立派な鉄骨でできた橋でした。
橋のたもとから横断歩道のある信号機を大きく迂回して橋むこうの土手を更に進むのですが密集した民家はどう見ても恐ろしいくらい川面より明らかに低地なのです。
うーむ、これが東京の街の実態なんだ・・・と深く感心して更に先へ進みます。3っ、4っの橋を過ぎて平井大橋あたりまで来ると荒川土手はコンクリートになるのでした。
そして普段の日にはここを車が走っていて自転車で走るのには危ないところだと知るのです。なるほど子供たちもここで遊んだりする大切な広場なんだとわかりました。

さらに進むと大きな立派な鉄の橋が見えてきました。どうやらこれが最後の橋、葛西橋だろうと思いました。しかし土手の道は既に無くなって堤防と河の間にある僅かな幅の通路しか なくなってしまったのです。
その道路もこの橋を最後にこの先に進むことは不可能になりました。橋の下でたむろする子供たちに道を聞きます。
「ここから先、東京湾に行ける道なんか無いよ」
確かにこの先はコンクリートのカミソリ堤防はあるものの干潮で現れた干潟を進むことはできそうもありませんでした。
まだ東京湾はこの先1〜2kmと言うところで断念することになってしまいました。その先に海らしいものが見えそうなのに・・・(続く)
この頃はまだ荒川湾岸橋(首都高湾岸線)も無く、葛西臨海公園もできていませんでした。河口は広大な埋め立て未整備地域だったのです。

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「橋脚の下で遊ぶ子供たち」


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第19章(No.143〜No.157)(28歳)   ・・・〃・・・・・・・・(3)フィールドに喜びを見つけて




(連載No.143)
銀座での個展で偶然知り合ったげん助鮨オーナーのげん助さんとの約束の土台は確実に私自身の喜びとして感じられるようになりました。
新鮮な絵を描くためには健康で丈夫な体を作ること、そして日々の生活の中に大きな刺激を取り入れて物事に対する感度を高めることでした。
健康作りで始めた卓球も軌道に乗り始めました。そして自転車を手に入れたことによりフィールドに放たれた精神の喜びを強く感じるようにもなりました。
以前にも少し触れましたが私の勤めていた事業所には美術クラブがあって私はそこにも所属していました。
私はどちらかというと他のクラブ員と違って少し絵を描くということについて前のめりになりすぎていました。
ですから実を言うとそんな中途半端なクラブ員とは少し距離を置いて過ごしてきた・・というのが本音でした。
もっとも彼らの楽しんで描く絵という態度ですらどことなく私自身が受け入れられない気持ちでいたことも事実でした。
仕事を終えて何気なくクラブの部室に立ち寄ったときのことでした。私より二つほど後輩にあたる山本君が若い部員に、ある計画の説明をしていました。
山本君はいわば万能選手的存在のクラブ員でどちらかというと絵を描くこととと同じくらいに詩を書き歌を歌いなんといっても屈強な山岳部の部員でもあるのです。
どうやら写生に出かける計画の話とは少し様子が違うようでしたので私も冷やかし半分にテーブルの端に座ってみました。
概ねの内容は自転車で遠くまで行ってそこで一晩過ごしたあとまた自転車で帰ってくる・・・というものでした。
若い部員たちの目はキラキラと輝いて山本部員の計画話を真剣に聞き入っているのです。
しかもみんなの自転車というのは今で言うサイクリング車とは程遠い通勤に使っているそのままの自転車で実行しようというものでした。

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そもそもその頃の私たち同年代の普段の休日に遊びをこう言った捉え方をする人は全く皆無でした。
いわゆる娯楽・・・というものはお金を使ってある程度の消費も伴ってそして終わったあとの何となくうら寂しい想いにとらわれる事の積み重ねでしかありませんでした。
ですから私が先日に自転車で荒川を下って海に向かった・・・その時の記憶とそれに対する充実感が蘇りました。
そしてなんといっても素晴らしいことは到着地ではどうやらキャンプ如きのことをしてテントを張ってみんなで寝るというものでした。
私のキャンプの記憶・・・そうか、テントこそ張りはしませんが遠い昔のかすかなキャンプの楽しさというものも蘇ってきました。
「それ!、俺も連れてってくれない・・?」思わず私も声を出してしまいました。
驚いたのは山本君の方でした。「別にいいけど、写生しに行くんじゃないよ・・」
「いや、そんなことはさっきから聞いていて知った上でのことだよ、それに俺もいよいよ自分の自転車を持ったし遠くにも行ってみたいし」
「じゃあ、ちょっと前からもう一度説明するから、一緒に行こうよ」・・・(続く)




(連載No.144)
当時私の会社の休日は隔週の二日制でしたが計画の内容は次の土曜日に自転車で秩父方面まで行ってキャンプをして泊まり翌日また自転車で帰ってくるというものでした。
参加者は私と山本君、そして未だ入部して間もない茂木、赤川、岡島の3人です。
距離はおおよそ片道70km、往復140kmの大冒険です。若い3人はそれでも毎日寮から会社まで自転車に乗って通っていますから比較的平気ではないでしょうか。
山本君は山岳部で鍛えていますから問題はないでしょう。私はといえば先日アトリエのある荒川土手から東京湾まで18km、往復36km走ったぐらいでしかありません。
しかしそれもそのあと数日は足の筋肉が痛んで仕方ない日がしばらく続いたことを思うとどうやら私が皆の足を引っ張りはしないかと不安が残ります。
テントは山岳部にある一番大きな8人用のテントを持っていくこととしました。当時このテントは生地も厚く丈夫でしたが何としても重いことが珠にキズでした。
このテントだけ積むのは分担ができませんので茂木くんの自転車に積んで彼の荷物をそれぞれが分担して荷物の調整をすることにしました。
そして山本君はこのテント張りの要領はわかっていますが一人で張ることはできません。皆で協力して張るためにはそのための訓練が必要です。
早速翌日の仕事の終わったあとに会社の前の荒川河川敷に行ってテント張り訓練を実施することにしました。

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重いテントとは聞いていましたが何やら丈夫な鉄製のペグというものが沢山有り、組立式の柱、それに何に使うのかスコップまでが補助袋に入っているのです。
若い茂木くんが一人で担いでみてもずっしりとしたものでした。全員が河川敷に揃うのを待ってテントを広げてみました。
8人用テントとは言っても5人が寝ればそれだけでもう余裕も感じられないほどの大きさなのです。
山本君の合図で両端の柱部分をそれぞれのロープで引っ張りながらテントの背骨を作ります。テントの裾部分を左右均等な引っ張り強度で張って鉄製のペグを地面に打ち込みます。
テント裾部分の中程には更に片側二本づつのペグを打ち付けて頑丈にします。風が強い時には更にそれぞれのペグの頭に大きな重しの石を見つけてきて置かなくてはいけないと言います。
そしてこの上にテントフライ・・と言うものを被せるわけです。これは雨が降った時にテントとのあいだに隙間を作ることにより雨漏りを防止できるといいます。
出発当日に天気予報を聞いて雨の心配がない様でしたらこれは置いていく・・ということにしました。できるだけ余分な荷は持っていかないに越したことはありません。
今回はテント張りの訓練ですから最後まできっちりと身につけておくことが寛容です。そしてスコップでテント周りに排水口も作ることを忘れません。
一応、テント張りの完成です。このテント、もう何年も前の年季物だけに出入り口はジッパー式ではなく編み上げなのです。
テントの中に入ると少しカビ臭さの残るものの五人が車座になって座ると鍋を囲んで煮炊きできるほどの広さがあって感動ものでした。
両端には紐を引くと空気の取替口のような窓もあって私たちはしばらく興奮したようにはしゃぎ回りました。
どこか子供の時の秘密基地を作って遊んだ感覚が呼び起こされてしまったようです。
網戸付きの窓から土手を散歩する人に思わず声をかけてしまいます。「お〜い!、」・・・(続く)




(連載No.145)
出発の日の朝、時間の早いこともありましたが夏の前のこの時期にしては少し涼しすぎるような気温でした。
天気予報では今日明日には一応天候も安定してところによりにわか雨があるかもしれないものの概ね「晴れ、時々曇り」というものでした。
会社の寮を6時には出発しよう・・という計画でしたので私と近所に住む山本君は5時半には寮に向かって出発しました。
朝の冷気を体に受けて自転車を走らせると体感温度もイヤという程に下がるのです。6時少し前には寮に着きましたが3人は既に準備をして待っていてくれました。

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山本君をリーダーに「それでは予定より少し早目ですがこれから出発します。全員、一列になってお互いの距離を保って走ってください」
先頭は道順をしっかり検討した茂木くん、その次は美術部では中堅の赤川くん、そして新人の岡島くん、その次が私、最後はリーダーの山本君という5人編隊での走行です。
自転車の荷物は予定通り茂木くんがテントを積んだため彼の荷物を全員が分担しました。わずか5kg位増えただけなのにやけにハンドルが取られてフラつきます。
それも自転車の荷重に対するペダルの負荷とのバランスなので少し走ると慣れも手伝ってそれほどフラつく事はなくなりました。
川口に架かる荒川大橋を渡って一旦、荒川土手の河川敷を走ります。できるだけ自動車の走る道は安全性を考慮して避けようとの配慮からです。
街なかの騒音から隔離されたような静かな河川敷の道路を走っていると私の後ろを走る山本リーダーの自転車のキシみ音がやけにうるさいのです。
当初ふたりで寮に向かう時にもわずかにそんな気配もありましたが気にするほどではありませんでした。
寮にいる3人の自転車はさすが毎日通勤で使っているだけあってなんともありません。私の自転車も分解整備も終わり会社の工務課お墨付き、いわば自信の自転車です。
肝心なリーダーの自転車のみ普段乗り付けていないツケが一気にここに来て出始めた感じです。まだ出発してから30分も経っていないのです。
リーダーの一旦停止、の合図が出ませんので私から「オーイ!、全員停車〜!」を告げて止まってもらいました。
「山本君、その自転車キツくね〜か〜?」「これ、音だけなんだよ。キツさは感じねーなー」「だけど俺なんかズーっとその音を聞いているとまいっちゃうぜ!」
「俺も結構気になっててさー」二番目の赤川君でさえどうやらこの音は気になっていたようでした。
「あの、まださー、土手の向こう側は板橋区か和光市あたりの市街地だから一旦、自転車屋を探して油でも差してもらおうよ」先頭の茂木くんが言います。
「だけどまだ7時前だぜ、こんなに早くから自転車屋なんて、店開けるかい・・?」私は半信半疑です。
「いやー、この時間だったら自転車通勤の人たち結構多いからそのトラブルに備えて結構開店してるぜ」通勤組の岡島くんも自転車屋行きを勧めます。
こうなるとリーダーも我を張っているわけにも行かずシブシブと皆に従う決意をしたようです。
河川敷から進路を変えて全員土手の上まで自転車を引っ張り上げます。騒音が一気に耳に飛び込んできて街は朝の活動が始まった様子を手に取るように一望できます。
「そうだ、この下でラジオ体操している鉄工所のおじさんに頼んで油差してもらおうよ・・・」(続く)

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(連載No.146)
5人が土手の上からいきなり降りてくるのを見て鉄工所のオジサンたちも怪訝そうな顔をして私たちを向い入れます。
「済みませんが、何の油でも構いませんが少しここに注油していただきたいんですが・・」
ラジオ体操をしていたオジサンたちも最後の深呼吸をしながら私たちのところに集まってきました。
山本君が脚立を立てて自転車に跨って漕ぐとその度にギーコ、ギーコ・・とうるさい音が出るのです。
「こりゃ、油と言うよりは・・この後の泥除けが随分と歪んでるなー」と言いながら別のオジサンが指摘しました。
なるほど、そのおかげで歪みがそのままチェンカバーを圧迫してこすれた音が出ているのがわかりました。
バールで歪みを反対側に大きくそらせて針金で結わえてみました。ホラ、これだけで音はしなくなっただろ?。
別のオジサンが油差しを持ってきてくれて「ホラ、ついでに滑らかにしてあげるよ」といってチェインにも油を注いでくれました。
「アンタたちもどうだ・・」「あっ、じゃあお言葉に甘えて・・・済みませんお願いします・・」で皆も油を差してもらいました。
「どうもありがとうございました・・」「いや、気を付けて行って来な・・ところで、どこに行くんだ?」「ハイ、今日中に秩父まで行く予定です」
おかげで随分と手っ取り早く問題も解決し再び土手の河川敷に戻って走行を始めました。なかなか快調の走りです。
10kmほど走ったころに土手の上り口から市街地を走ります。新座を過ぎて所沢の表示が出てきました。「この辺で一度休憩しておこうよ・・」
地図を広げた先頭の赤川君は「距離的にはもうすでに3分の1くらいまで来ている感じだけど・・」
するとリーダーの山本君がすかさず言います「いやいや、今日は上り坂が主体だから距離のことなんか頭で考えない方がいいよ」
私たちも赤川君の拡げている地図を覗き込みます。「確かに距離的にはって、直線的の話だね。この先の道は結構クネクネだから距離もロスが多そうだね」
「いずれにしてもまだ8時ころだからこの国道463号で飯能市まで行ってしまおうよ、そこで休憩をたっぷりとって勝負だね」
言うようにまだこの辺の市街地は走っていても信号で止まったりすることが多く結構休憩しながらの走行といった感じでそれほどの疲れも感じません。
間もなく入間市役所を過ぎて鍵の手を右に折れるといよいよ国道16号を突っ切って入間川を越えて飯能市に入ります。
結構下りの快適さが有ったりまた少しの丘を越えたりの起伏があってこの上り下りの連続が結構ボクシングのジャブのように足のだるさに拍車をかけて効いてきます。
木造の学校の校舎のような建物が見えてきました。校門の辺の看板を見ます、「おーい、なんだよ”飯能市役所”だって」
「と言うことはこの脇の道はいよいよ目指す国道299号ってことだね」
「エー!、いきなりここから坂道がずーっと・・・」(続く)

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(連載No.147)
「じゃここで少し休憩してこれからの上り道に備えようよ・・」山本君の指示のもと市役所前の土手にある植込松の木陰に皆ひっくり返りました。
「少し何か食べておいた方がいいよ・・」と言いますがまだみんなそれほどお腹も空いてはいませんでした。
しばらく山本君も躊躇していましたが「やっぱり、みんな何か食べておいてよ・・。途中で腹が減った時には多分手遅れになりそうだから」
彼の説明では自転車の場合意外と空腹が感じられてから食料を食べてもそれがエネルギーとなって力になるまで1時間以上かかるため早め早めに食べておかないと 時間のロスが大きすぎるのだと説明します。
「よし、それなら食べておこうか・・」私たちも食料の入ったバックからお握りや、パンを取り出します。「一度に食べなくても、小分けに何回にも食べた方が効率いいよ」
赤川君の地図では目的地までおおよそ直線で20km、道はくねくねとつづらおりだから恐らく道なりでは25kmくらいではないかと言います。
水分もたっぷりと補給し、いよいよ出発です。国道299号の鍵の手までの数100m位でもうすでに息が上がりそうです。
左に折れてやや上り坂ではありますが街が見下ろせる高台を道は伸びています。住宅街を抜ける西武電車の音がとぎれとぎれに響き、吹く風も心なしか涼しげです。
このあたりから道は思ったよりもジグザグになり、しかも折角上ったのに小川の橋を渡るため下り坂になり、また次のコーナーまで上りを強いられる・・の連続です。
結構昇ってきたのに電車はこの辺まで直線で昇ってきているんでしょうか、ところどころで出会う西武線を見ていると随分遠回りしている感じがします。
私もだんだんに風景を楽しんで走る余裕もなくなって前を走る茂木君の背中を見ながら漕ぐのがやっとです。一番後ろの山本君が声を出します。
「茂木君、あまり前と離れないように・・・、できるだけ繋がって走れよ・・!」
「前の奴ら必死漕いでいすぎるんじゃねー?、オ〜イ!、もう少しペースを下げろって言ってるぞ〜」
気が付いてその先を見ると確かに前の二人は繋がって茂木君との間はすでに200m近くも離れようかというくらい空いています。
わずか7km位の間にこんなにも離されてしまったのでした。「あいつ等まだ多分ペースの配分が判っちゃいねーんだよ!、恐らく最後まで持たねーと思うよ」
東吾野、郵便局・・、もう電車の線とはかなり離れ暫くして大きなカーブを登り切った時、前方に電車の音と警笛が聞こえてびっくりしました。
あらあら、電車の線はどこに行ったんだろうと思ったらトンネルをくぐって高い橋の上を真っ直ぐに走っているではないですか。
暫くそんな状況で国道299号はクネクネと蛇行するように走りそこを西武線電車が串刺し状に快適に昇って行くのです。

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私たちはと言うとその電車の線に串刺しされるたび損をした気持ちが次第に高まり気分的に体力がグングンと奪い去られる気分になるのです。
いくつかの串刺しを過ぎたころ前の二人のペースが随分と落ちてきました。「おーい!、大分遅くなったんじゃねーのか?」
「そんなんじゃないんだよ、アンタらのペースに合わせてあげてるだけなんだから」「そうかな〜・・?」
「その先の見晴らしの良さそうなカーブを出たとこで一休みしようか?」後からの山本君の声に「ヨッシャー」急に元気が出たように二人はまたピッチを上げ始めました。
「おーい!、駅だ〜、駅が見えるぞ〜」「そうか、キットそれは正丸駅だ・・」・・・(続く)




(連載No.148)
大きなカーブを曲がったところは山間の広くなった場所で、広い片流れの屋根の正丸駅が眼下に見えます。
先ほど電車は秩父方面に行ったばかりなのに駅前の大きな広場には人の気配がありません。
山本君の「どうしようか・・・駅まで行ってみるかい?」皆の声がありません。駅前に出るには折角上って来た坂道、わずか7〜8mですがそこに降りるのがもったいないと思うのです。
この先はトンネルがあるとしても坂道はさらに険しくなっていてもうこれ以上少しでも無駄に降りようとする気持ちは誰もありませんでした。
それにしてもこの辺り、休憩しようにもお天道様の光を遮る樹木も山の斜面にしかありません。
見下ろす正丸駅の先、西武線は駅舎を出ると直ぐにトンネルに吸い込まれてその線は消えているのです。
「恐らくこの直線的な坂を300mくらい上り詰めたところがこの道のトンネルだと思うけどね・・・」
皆しばらく顔を見合わせます。「ここじゃ兎に角、休憩にならんからトンネルの入口まで頑張るしかねーかー」
いったん山の斜面に持たれかけていた自転車を少しよたよたしながら皆起こしました。「しかし、中途半端な坂道だよなー」
自転車を押して昇るにはそれほどきつくもなく、かと言ってペダルに荷重をかけたところでスイスイ昇ってくれるほどの緩斜面でもありません。
最初のカーブを回ったところで電車の腺は足元の正丸トンネルに消えてしまいました。少し平坦になりかけたところに人家があります。
「・・・こんな所にも人が住んでいるんだ・・、坂元集落・・か」
「チョット、この辺で休んだらどうだい・・?」大した木陰ではありませんが綺麗な小川もすぐそばにあって気持ちよさそうです。
この辺のお婆さんが水辺で野菜を洗っています。「すみませーん、ここの水は飲んでも大丈夫ですか〜」
お婆さんは大仰そうに私たちの方を振り返って如何にも驚いた・・と言うふりを大げさな仕草でしながら「アンタたち、ここまで自転車で来たのけ・・?」と聞きます。
「ハ〜イ!、オレ達トンネルの先の横瀬まで行くんですよ・・」

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「この川は高麗川って言っての、もうこのわしらの上には棲んでいる人もいねーからデージョーブだな・・」
「じゃ、お邪魔してここで少し休ませてください」「ああ、いいともゆっくりしてお行き・・」
「お婆さん、ここからトンネルまではまだ大分ありそうですか・・」「いやー、そうじゃの、その先を曲がると二股に分かれていて左の橋の先にトンネルが見えるだね・・」
「あー、よかった、もうすぐだね・・。お婆さん、じゃ右に行くと正丸峠の頂上に行けるんですか・・?」
「さあ・・昔はともかく今はへえ道もねーと思うよ、苅場坂林道からすぐに険しくなっての、・・・だから一旦、都幾川に抜けていかねーと・・・」
「いえいえ・・、そんな大恐れたことをしようとは思いませんから」
「そこの分かれ道にの、馬頭尊さまの石碑があるでな左へ行ってくれよな・・・」・・・(続く)




(連載No.149)
「ところで・・いまいく時ころだい?」、高麗川の源流の川辺の石に腰かけながら私は尋ねました。
「ありゃ!、もう12時はとっくに過ぎちゃったよ・・」どうりでお腹が空いたと思ったらもうそんな時間でした。途中のの小休止で皆それぞれ食事は少しずつ食べていました。
「あと一息すれば下り坂だけだからもう食事は全部食べちゃっても構わないよ」山本君のことばにも安堵の気持ちが見られます。
「この分では2時半頃には目的地に着くよ、それからキャンプ地を探して設営して…3時半頃には買い物をして・・」
やっと苦労も終点のようで頑張ってきたかいがあったと思いました。どうやら天気も良さそうでキャンプも楽しみだな・・
15分もしないうちに茂木君が「おれ、ちょっと先に行ってトンネルの入口で待っているからね・・」ともう気持ちはすっかり到着寸前の気分のようです。
「なんだ、なんだ・・、だったら俺らももう出発しても構わないんだからチョット待てよ・・・」
結局、ここでは残りの弁当を食べ終わって直ぐに出発と言うことになりました。まあ私たちもここで長居の休憩をするよりも早めに到着してキャンプ準備をした方が楽しみだと思いました。
まだトンネルの入口は見えませんが正面に迫ってくる急峻な山塊を見るともうすぐそこにポッカリと見えても不思議ではないくらいまで近いことを感じました。
突然にトラックでしょうかトンネルの出口でクラクションを鳴らしたようでその音の響きからこのカーブを曲がれば見えそうです。坂道も何となくなだらかです。
カーブを曲がった先頭の岡島君が「おーい!、トンネルだ〜!」と先の方で大きな声で叫んでいます。


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私たちも最後の力を振り絞ってカーブを曲がります。「お〜!、トンネルだ・・!」手前の赤い欄干の小さな橋の先に立派なトンネルが大きな口を開けて待っています。
もうここまでくればあとは平坦なトンネルとその後は下り坂を残すだけです。思わず「よう、ここで一気に行かずに少し余韻を残そうぜ・・」
「いやだね〜!、そんな爺さんみたいなことやってられんね」相変わらず茂木君は押せ押せモードで一人で走りだす気のようです。
「ちょっと、トンネルの中は暗いし、車も通るから皆まとまって行ったほうが安全だよ・・」山本君のひとことで皆あらためて”安全”優先の意識を一つにしました。
結局、橋の上から谷底をのぞいたくらいで出発です。茂木君、岡島君、赤川君、私、山本君、川口を出発した時と同じ順列でトンネルに突入しました。
みんな明かりは点灯していますがまだ目が暗闇に慣れないせいで真っ暗な中を走っているようです。「おーい、先頭、どうしたんだ〜」
「真っ暗で何にも見えないからチョットゆっくり走らせてよ・・」そうです、私たちは先の相棒に灯りで確認できますが先頭は全く先が見えず、小石さえ踏んで驚く始末です。
だんだん目が慣れるにしたがってトンネルの中は真っ暗ではないことがわかってきました。そのうちに出口の明かりが前方に小さく見えてだんだん大きくなってきます。
ブォー!」突然にすぐ後ろからクラクションと大きな車の迫る音に驚きました。
「うわー、怖え〜よ〜・・」全員が震え上がりました。特に一番後ろの山本君は驚いたようでした。
「なんだー、まだ車はトンネルに入ったばかりだよ・・」でも驚きました、すぐ後ろに突然現れたような感覚だったものですから。難なくトラックをやり過ごすとまた静かになりました。
「眩しい・・!」トンネルを抜けると明るすぎる日差しと爽やかな風・・・(続く)




(連載No.150)
どうやらトンネルを出た先は来た道の急峻さに比べるとかなりなだらかな感じで道はほぼ真っ直ぐに下り坂になっています。
時々ブレーキをかけて自転車の速度を落とさないとなだらかなカーブでも大きく膨らんでしまいそうになります。
私も先ほどのカーブでかなりセンターラインよりに大きく寄ってしまったと思いましたが案の定、先ほどすれ違った軽トラは後ろの山本君にも大きくクラクションを鳴らして警戒していました。
左下に秩父鉄道のトンネルが見え暫くするとその先に芦ヶ久保駅の駅舎が見えてきました。私たちの自転車ではあと5分もしないうちに次の横瀬まで着きそうです。

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国道299号は少しクネクネして秩父鉄道との間を流れる横瀬川と交互に右左になりながらやがて山間部から広い裾野に出た感じになりました。
鉄道とも少し離れ皆も距離を縮めて声の届くくらいにまでまとまりました。「そろそろ横瀬役場があったらそこから間もなくだよ・・」山本君の案内で注意します。
「あった、あったよ〜、横瀬役場だー」岡島君の声で皆もいよいよ到着したことを感じました。
民家より少し大きなくらいの役場はすぐ見つかりました。木造の水色のペンキもかなりくたびれていますが看板は新しく「横瀬町役場」とシッカリ読めました。
「よーし、じゃあその先の橋は多分横瀬橋だ、渡り終わったらその川端の道を入ってくれー」
舗装道路から外れて横瀬川沿いのデコボコ道を少し進むと川は大きく左にカーブしてちょうどそこに正面から更に小さな川が横瀬川に注いでる部分につきました。
そしてその付近、河原も広く近所に民家もなく何となく静かないい感じの空き地に見えそうな場所につきました。
「よし、ここでテントを張って晩飯の用意にしよう」山本君の声で私たちは思わず「やったー!」と叫び声を上げました。
「それでは、この間練習したとおりに・・そうだな、こっち向きにテントを張っておいてよ。俺はこれから役場に行って今夜はここでキャンプファイヤーを焚くって言ってくるから・・」
そうです、山本君はもう知っていますがその先の看板にはたき火をするときは役場に届けるように・・と書いてあります。もちろんゴミの後かたずけなどの注意事項もあります。
どうやらここは横瀬町公認のキャンプ場のようです。山本君の所属する山岳部にはここ横瀬町出身者がいてその辺の事情はよく聞いてあるようでした。
私たちは4人で手際よくテントを張り会社で練習したとおり周囲にはもし雨が降った時のための排水溝まで掘って万全を期しました。
荷物をテントに入れると私は真っ先に半裸になって支流から流れてくる川の水で体を洗いました。みんなも思わず童心に帰って暫く水と戯れました。
飲んでもほとんど大丈夫そうな沢の清流ですっかり体もサッパリしてシャツも着替えることができました。
役場から山本君も戻ってきました。役場からは消防署に連絡してくれるそうでくれぐれも焚火は川原の中だけにしてください・・と言われた旨みんな了承しました。
「さて、じゃあ駅前の商店街まで行って食料の買い出しをしに行こう。」私たちはもう着替えも済ませてサッパリしています、山本君は着替えたり焚き木の流木を集めてもらおう。

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いやいや、私も残って一緒にキャンプファイヤーの準備をするから茂木、赤川、岡島の三人で買い物は任せることにしました。
予定の予算を茂木君に渡して一応食材は彼ら三人にお任せにしよう、と決まりました。その予算の中には明日の朝食も含まれていることなど確認をしあいました。
「じゃあ、行ってくるね!。」彼らは元気よく出発しました。急に思い出したように山本君がテントから飛び出して彼らの背中に怒鳴りました。
「お〜い!、絶対に肉なんか買っちゃーだめだぞー!、鯨!、ク・ジ・ラ!だぞ〜!」・・・(続く)




(連載No.151)
私と山本君はキャンプファイアーをするための材料をこの川原流域で探すことにしました。
しかし実際自分がキャンプファイヤーを一人でしようと思ってもその手順など全くわかりません。山本君からその一部始終を教わりながら次からは一人でできるようにしなくてはなりません。
一応、ロケットの打ち上げで言えば3段式ロケット発射を想定してみよう・・と言うのです。まずはマッチ一本で着火して火力はある程度まで出て親指くらいの2段目に燃え移せること。
もしそこで消えそうになっても決して火種をむやみに動かしたりせずそのままの状態でマッチや紙くずなどで火種を補うこと。すると意外と早く火勢が増すと言う・・
そして親指くらいの素材はある程度の量をそろえて、手首くらいの太さ4〜5本に燃えるのを助けられること。その上に小ぶりの丸太を組んでおいてそこに火が移ればもう後は大丈夫。
私は言われたとおりにまずは自分でやってみることにして山本君からはその都度アドバイスをもらう方式でやってみました。意外と簡単に次々と火勢は上がりました。
今日は天気も良く拾ってきた焚付け材料も初心者向けだと言います。山岳部では雨の日に濡れた素材で火をおこす訓練もすると言うことでした。
兎に角幸運ではありましたがこの基本的なことを守れば対外失敗はないと言うことでした。(我が家は現在、薪ストーブを今でも使っていますが3段式ロケット打ち上げ方式・・は守られ続けています)
三人組が買い物から戻るころには焚火もパチパチと大きな音を立てて勢いよく燃え盛るころでした。あたりはすっかり暗くなって火の周りだけの明かりで上気した皆の顔だけが光って見えました。
山本君はここで火勢は少し落ちますが主力の焚火をこっちに移そう・・と言うのです。そして川原の方に少し移動しました、この辺ですと相当な勢いになっても安心そして何かあっても 水の近くですから対応も早いと言うことです。

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でも、最初の焚火場所は料理の調理用の火としてちょうどいい具合の熾火ができているのです。早速ここでブロックで買って来たクジラ肉を串に立てて焼くことにしました。
野菜や豚バラ肉は大きな鍋に入れてトン汁風仕立てにすることにしました。一応準備が終わった段階でまずは無事到着を祝しての乾杯をすることにしました。
長兄の指名もありましたがここはリーダーの山本君あっての無事到着です、私の音頭は固辞して2本だけ買って来た缶ビールを5人のカップに均等に注ぎいれてリーダーによる乾杯。
「や〜、きつかったけれど楽しかったね・・」本当にその一言に尽きる思いでした。
クジラ肉の焼ける匂いがしてきました。「オレなんか生でも平気だからこれくらいでも良いよ・・」でも焼けた部分をかじってまた火にかざす・・そしてお酒を口にする・・・
歌の得意な赤川君がロシア民謡を歌い始めました。よく聞く彼の歌もこうして焚火の焔に揺れて歌いしれる雰囲気はとても素晴らしいものもありました。
私たちは何曲もアンコールを続け、そしてみんなも一緒に歌い始めました。・・・普段、歌なんか歌ったことのない私でもこうして皆と歌うと楽しさが出てきます。
「・・・ある〜日、森の中、熊さんにであ〜ぁった 花咲く森のみち〜 熊さんにでああった〜・・」。
そのうちにトン汁もフツフツと良い匂いで出来上がったようです。
食事も終わって楽しいひと時を続ける前に、取りあえず食器など片付けてあとはすぐ寝るだけ・・と言う状態にしてしまおうよと言うことにしました。
ご飯のカップは川辺のいけすにつけ置きでいいでしょう、カップやお皿は油でギタギタしています。「みんな、これは洗う前にティッシュでふき取って燃やしてしまおうよ・・」
こうすることで川も汚すことなく食器もきれいになる・・と言うものでした。
ひところ皆、片付けに余念がありませんが時間ももうかなり遅くになっているはずです。
駅の方には町明かりがボーっとしていましたがもう今ではその明かりもなくなって漆黒の静かな山間の趣です。そして夜の冷気が心地よく吹いていて火の温もりと調和します。
「オレ、テントを開けっぱなしにしてここで横になって話を聞いているからさ・・、あれ?、満天の星空だよ・・」・・・(続く)

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「秩父山村夕暮れ」



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(連載No.152)
時計を見るともうとっくに10時を回っています。山本君に言わせれば山での行動はすべからず何事も早め早めにことを済ませて明日に備える・・と言うものでした。
実際、山の天気は良い日でも午前中が勝負。午後になると風向きも変わるし雷雨になる心配もある、だから山頂を目指す場合は理想的には10時到着が望ましいと言うことです。
ですから、今日のこの天気は幸運中の幸運、しかも日中の暑さを想えば夕方に一雨あっても不思議ではない状況なのに降られませんでした。
兎に角私はもう疲れて眠くてしょうがありません、山本君も寝ると言うので二人テントに横になります。
こうして焚火があるせいで灯をめがけて飛んでくる虫がいないことも快適です。入口と出口の筒抜け型のテントですから裏側の出口も開けっぴろげて横になりました。
頭だけ出した頭上には満天の星が眩いばかりに輝いています。茂木君、赤川君、岡島君の若者たちも私たちが寝ると言うので会話のボリュームも絞っているせいでしょうかテントの反対側ではもはや聞き取ることもできません。
「やー、こうして星を眺めていると・・オレらって、本当に小さい存在だよな〜」と山本君がボソリっと言い始めます。
「そうだよな〜、オレも今まで絵描きになりたいと思って頑張ってきたけれどそろそろはっきりと自分の進路を決めないといけないって思い始めたんだけどね・・」
「え?、でも幸三郎さんは今年も個展を計画しているんでしょ?」
「うん、でもこれでお仕舞にしようと思っているんだ、1回から3回まではだいぶ背伸びをして絵を描いてきた気がするんだよ・・」
「そりゃまた、どうした風の吹き回しなんだろう・・?」
「オレはね、今年に入ってから卓球を始めたり、今日もこうして自転車で遠乗りなんかしたりしてさあ、遊んだり体を動かしていた方が生き生きした絵が描けるようになったんだ」
「・・・、等身大の自分の絵が描ける・・ってことなのかな・・?」
「そう、正しくその通りなんだ。そしてそういう絵は健全な日常生活をしていないと画題の発想も貧弱になってしまうんだよ」
「あ〜、何となくわかるような気がするね。じゃあ、これからもいっぱい外で遊びまくるってわけですね・・?」
「そう、だから今回の経験は本当にうれしかったよ、ありがとう。今度は一人で計画を立てて実行してみたくなったよ」
「それはいい、そんなことの手助けができたと思うとオレも嬉しいよ」
「じゃ、ぼちぼち寝るとしようか・・」
「・・・、オレ、実は・・結婚することにしたんだ・・」
「え!?、眠気が吹っ飛んじゃったよ!、だって、山本君いままでそんな素振りしなかったんじゃない」

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「ああ、っていうか・・今、決めたんだ」
「・・今って、こればかしは一人じゃ決められないし、まさか・・これから探すってわけじゃないよね?」
「オレの住んでいるアパートにね、気立てのいい娘がいてさあ・・、オレにいろいろ良くしてくれるんだよ」
「オイオイ、それってそう言う話はよくあるけれど思い過ごしじゃないの・・?」
「今朝、オレの持ってきたオニギリ・・見た?。あれは、彼女が朝早く起きて作ってくれたんだよ。帰ったら結婚を申し込もうと・・」・・・(続く)




(連載No.153)
キャンプファイアーを囲みながらしこたまお酒を飲んでしまった私の頭の中では先ほどの山本君の「オレ、結婚するんだ!」の言葉が激しく飛び交っています。
そう宣言した山本君はというと、もう自分の心の中に突っかかっていたものを吐き出してしまったようにケロッとして静かな寝息を立てています。
山本君は私より四つ年下、彼が高校を卒業して私の会社に入社、そしてこの美術部に入った時には私は相当な先輩風を吹かせて付き合ってきました。
そんな可愛い後輩に先を越された・・とも想い、それよりも私自身の心の中の幼さを改めて感じながら夜空に目を転じました。
私の遺伝子の中にはなにも考えなくとも当然いつかは結婚し子孫を残す・・という不文律が備わっていて、その道を外すことは人として一人前ではないと感じて疑っていませんでした。
自分は果たして人を愛することができるのだろうか、どこかに自分のことを想ってくれている人はいるのだろうか。
巡り会って来たさまざまな女性の姿がこれもまた先ほどの山本君の声の残響と共に頭の中で複雑に絡み合って交錯しあいます。握った手のひらにうっすらと汗もかきながら。
何時しか、日中の厳しかった自転車登坂の疲れが体を支配し深い眠りに落ち込んでしまいました。
パチ、パチ・・と枝葉が燃えてはじける音で眼をさましました。薄目を開けるともう高い小梢には朝日が当たってキラキラ輝いています。
私はというと、テントから頭だけ出してそのまま寝入ってしまっていたようでした。テントの中の若者たち3人、何時頃寝たのか定かではありませんがまだ爆睡中です。
と言うことは・・火を焚いているのは山本君なのか。私もテントから静かに抜け出しておもてぐちの方の焚火のそばに回りました。
「やあ、おはよう・・」お互い昨夜の話題なんか、とうの昔の話だったような気持ちで顔を見合わせました。
「お茶、沸かしてあるけど飲む?」
「ああ、それはありがたいね、なんか飲みすぎたせいで咽がカラカラに乾いちゃって。どうもありがとう」
「昨夜は、彼らはいく時ころまで起きていたんだろうね、オレが起きて来たときにはまだ火の子が随分残っていて火付けが随分楽だったけれど」
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「どうなんだろうね、オレも彼らがもぐりこんできた記憶が無いから相当遅かったんじゃない?」
「まあ、今日の朝は相当ゆっくりでもほとんど帰り道は下り坂だからもう少し寝かして起きましょう」
「それにしても、ご飯がこんなに残ってしまってて、これ、鍋に混ぜてオジヤの朝飯にしちゃおうか」
ここのテント場の脇を流れる横瀬川の支流、早朝の清流は呑んでも全く支障のないくらい・・・と想っていたのですが朝食後の散歩でこのすぐ斜面の上に豚小屋があって驚きました。
こんなところでも用心しないと自然はどこもかしこも蝕まれてきているのです。
こんな危ない目にあった経験もこれからの私のアウトドアー生活に対する教訓として鋭く胸に刻んで置くことになるのです。
帰路は始めトンネルまでの標高差130mの登坂はきつかったですが正丸トンネルの標高450m以降、予想した通り楽な下り坂の連続で、むしろブレーキを握るのがきつかった位だけでした。
無事帰宅して・・ある日の夜、アトリエの地主、吾郎文具店主とお店の片隅でサントリーレッドのお湯割りを飲みながら久方ぶりの雑談をしていました。
「そんなに自転車の旅って楽しいんだ・・」店主は私が絵を描くことよりそんな方に興味もあることに驚いた様子でした。そして、しかも
もう使わなくなった息子さんの使っていたサイクリング車を譲るから使うかい?って言うのです。・・・(続く)




(連載No.154)
「え!?、あのサイクリング自転車ですか・・?」わたしは思わず大声を出してしまいました。
確かに文房具店の物置にはすっかり埃をかぶってしまっているサイクリング車があることは知っていました。
私にとってはそう言ったたぐいの自転車はもはや欲しいとか乗ってみたいとかの希望の中には存在しない別の世界の乗り物だと言う気持ちがしていました。
そんな想いの気持ちの外からいきなり「もう使わなくなった息子の使っていたサイクリング車を譲るから使うかい?」って言われても驚いて声にもなりません。
もう使わない・・と言ってもそれなりの理由がありそうです。それはどうやら交通事故で危ない目にあっているのでした。
このころの日本の経済はめざましいほどに発展し世の中はかなり活発な社会的発展途上にありました。
産業も、そして公共的事業もわき目も振らずその目標達成のためにまい進していました。しかし、その歪としてそれらを支える道路整備や環境を思いやる事業は後回しになっていました。

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ですから、ひとたび玄関を出ると傍若無人な大型トラックが狭い小路でも猛スピードで通り抜ける光景はよく目にしていました。
道路交通法規にしてもその頃は「弱者保護、歩行者優先・・」なんて言葉の影すら見つからないほどのサバイバル道路であったことは言うまでもありません。
現に、先日の秩父方面のサイクリングでも縦列走行していた私たちの自転車を追い越したダンプカーが私の自転車のハンドルに微かに接触して走り去ったこともありました。
幸いにも大事には至らなかったもののひとたび間違えば惨事になりかねない状況も見過ごされません。
ですから父親として子供の自転車を禁じた裏には相当に危険な事態があったことは容易に想像されることでした。
まあ、そんな状況下ではありましたが思いがけず私に本格的なサイクリング車が転がり込んできたと言うところでした。
埃を払って・・というよりは、バケツの水と雑巾で汚れを洗い流しただけでまだ新しさの残っているサイクリング車でした。
残念ながら試乗するためのサドルの高さ調整など締め付け具は今まで見たこともなかった六角ナットなどを使っているようです。
これは、また会社に持っていって工務課の方のお世話になるしかないか・・、とも思いましたが一度、プロの自転車屋さんに見てもらった方がいいと判断しました。
私の住む荒川土手の車庫の並びにこの付近にある丸石自転車工場直営の自転車屋さんのあるのを思い出しました。
自転車屋さんの主は私が引いてきた自転車を一目見るなり「あんた、この自転車、どうして持っているの・・」
どうやら自転車屋さんはてっきり私がこの自転車をどこかからかっぱらって来たんではないかと疑っていたようでした。
自転車屋さんにしてもこんな自転車はそうそう扱ったとしても数が知れています。これは文房具屋の倅に親父が買ってあげた自転車だと言うことは直ぐにわかりました。
ですから、私は事の成り行きから自転車屋さんが納得するように説明しなくてはいけませんでした。
「おう、そう言うことだったのか・・、まあ自転車にしてもオラにしても大事に乗ってくれる人がいればそれが一番だよな」
「安全に乗ってもらうことが肝心なんだけどね、アッチコッチあんたの体に合わせて直せるところを調整しねーといけねーな」
「え!?、自転車ってそういうものなんですか・・?」
「そう、フレームの大きさはアンタの体格では少し大きすぎるけれど調整で・・どこまで合わせられるか・・だよな」
「それに、変速機はもっと滑らかに切り替わらないと往生しちゃうよな、アンタ、これの使い方わかるか?」
「エッ!?、まだいじったこともないですが・・」・・・(続く)

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(連載No.155)
自転車屋さんもどちらかと言うと久しぶりに扱ういわゆるサイクリング車をいじくるのが楽しそうな感じでした。
油を差したチェーンとギアの空転する何とも言えない心地よい響きに目を細めるようでした。
今度はそのチェーンを移動させる変速機の調整を始めました。ペダル軸に3枚のギアー、後輪軸には5枚のギアーがそれぞれ重なっている5X3=15段切り替えなのです。
最初は結構きつい切り替えのレバーでしたが、ワイヤーチューブにもたっぷりと油を差したのでこちらも気持ちよい音で切り替わるようになりました。
ペダルを手で回しながらペダル軸の1番ギアーにして後輪軸のギアーを順繰りに切り替えていきます。どうしても4番、5番のギアーに切り替わってくれません。
変則可動域をネジを緩めてみると4番ギアーに切り替わるようになりました。しかし依然として5番ギアーには切り替わってくれません。
「ねえ、お兄ちゃん・・この変速機はね、後輪の5番ギアーに切り替える前にペダル軸のギアーは2番にしておかないと入らないんだよ・・」
そう言いながら実際に操作をやってみました。たしかに2番ギアーに入れると後輪の5番ギアーには楽に入るのです。
「・・と言うことはだね、後輪の5番ギアーのままペダル軸の1番ギアーには入らないと言うことなんだ・・」
「そしてね、後輪の1番ギアーのままペダル軸の3番にも入らない・・・、ほらね?」
わたしはそれを見ながらこいつはとんでもなく難しい乗り物なんだと思いました。
「まあ、兎に角慣れることが肝心だよ!」
たしかに慣れなくては乗れそうもない代物だと言うことは見当もつきました。それよりもこのドロップハンドルの姿勢自体が異様なのです。
自転車のサドルの高さ、ハンドルの高さはいずれにしても一番下げたところでどうにか爪先立って止まれる高さにしかなりません。
「これって、高すぎませんかね・・」「いや、そんなことはないよ・・むしろそれくらいが漕いだ時に疲れにくい適正な態勢なんだけど」
「チョット、その辺を乗り回してみな・・」
「まったまった!、今までの自転車と違うんだから横乗りなんかしちゃあだめだよ、ブレーキを握って跨ってからペダルに足をかける・・」
「こんなですか・・?」「そう、最初はドロップ部分じゃなくてハンドルの肩に手をかぶせるように・・」
「随分と軽いですね・・、これは今までのこぐ力の半分くらいなんですね・・」
「それはローギアーだからな・・、一つ上げてみな・・」
「だめですよ。フラフラしちゃってハンドルから手なんか離せませんよ」
「わかった、わかった。暫くは中の段階のギア比にしておいてそれで慣れるまでギアーチェンジは先延ばしにしよう」
「一度止まってからギアーチェンジ・・ってのはどう」

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「バカなことを言いなさんな・・。そのうち慣れてくれば両手を離しても乗れるようになるから・・」
「えー?、本当にそうなれますかね」・・・(続く)




(連載No.156)
最初はほんとうにフラフラしてしまって自分としてもこれはとても乗り回せる代物ではないなと思っていました。
とにかく荒川の河川敷まで降りてそこでこの自転車に慣れようと思いました。
ここでは車も走らないしたまにマラソンランナーが練習のために走る程度の細い道ができていました。
それ程でこぼこ道でもありませんが水溜りが乾いたりして多少ゆるい起伏がところどころ出来ていて自転車で走ると結構スリリングでした。
しかも両脇は深い草むらです。たとえ倒れ込んだとしてもまあ怪我をすることはないという安心感はありました。
自転車ってよくできていたもので江北橋から鹿浜橋あたりまで乗ってくるともうあれ程フラフラしていた不安定感はほとんど無くなるほど慣れてきました。
ドロップハンドルの肩を握っていた手を恐る恐るグリップまで下げてみました。またフラフラします。
こちらの乗り方も鹿浜橋から折り返して江北橋までの中間くらいまでにはもう慣れてきてしまいました。それにしてもこの乗り方は首を思い切りあげないと前方が見えません。
あんまり楽な乗り物ではなさそうな気がしてきました。でもここで諦めてしまってはもう二度とこんな自転車に乗ろうと言う気にはならなくなるでしょう。
もっと乗ってもっと慣れよう。そうだ毎日ここで乗って練習すればいいんだ。
今日のところはもう少し乗ってギヤーチェンジが出来るくらいまで慣れておこう。
この自転車のギヤーチェンジレバーは三角の前支柱に取り付けられています。そして後輪のギヤーチェンジは左片手運転をしながら右手で操作する、前ギヤーはその逆・・
私には変な癖があって昔から片手運転は左手でしていたので右手の片手運転の時にはなぜかフラフラするのです。
これは恐らく傘を差して自転車に乗っていたときの癖から来ているのだと思います。
しかもドロップハンドルのグリップを右片手運転しながら左手で前ギアーのチェンジをするのが大いにふら付く原因です。
江北橋から鹿浜橋まではおおよそ2kmくらいあります。2往復しただけでかなりドロップハンドルのこの自転車に慣れてきた気がしました。
しかしそれにしても首がとても疲れる。これって体の老化が原因なんだろうか私も今まで絵のことばかりで体つくりには全く無関心だったことが今更のように後悔していました。

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まだ20代後半、頑張れば何とかなる・・・をモットーにしてきた人生、少しばかし自転車にのめり込んでみようかと言う気になってきました。
翌日の朝、はたして体中の節々に加えてこの首の痛さはどうだ!と言わんばかりのきつさです。
学生のころはスポーツ漬けの生活をしていました。その時の教訓では疲労痛は動かして直せ!が主流でした。
マッサージと筋肉を動かしてそのことによって暖まってきたら更に汗をかくまで続ける、と言うものです。
ですから身体が痛いと言って休んでしまっては元も子もありません。
会社が終わって帰って来ると早速自転車を河川敷に下ろして鹿浜橋までの2往復を日課にしようと決めました。
一週間もするとギヤーチェンジ操作が慣れてきたせいでしょうか普通走行も高速ギヤーで行えるようになると3往復、12kmは楽になってきました。
こんな調子では両手離しもいけそうです・・・わぉ〜!、もんどりうって草むらに投げ出されました。・・・(続く)




(連載No.157)
会社の美術クラブの部屋には昼食を終えたあとや夕方の仕事が終わった後には三々五々部員が集まってきてそれぞれに絵を描いたり粘土で作陶したりしていました。
前回、秩父まで自転車旅行をした仲間たちは次の計画はどうしようかとそれぞれの希望を語り合っていたりもしました。
当然私は今回の本格的なサイクリング車を入手したことや今、その習得に専念していることなども仲間に話していました。
そしてみんなで私の自転車を回し乗りしたりもしてこの変速機付きのサイクリング車に大変興味を持ったようでした。
数日してのことです、先日の秩父旅行で一番ひどい自転車で参加していた山本君が新しいサイクリング車を購入したと言うことでした。
これにはさすがに皆も驚きましたが私も最先端の自転車・・という自負の鼻先を折られたと言う気がしました。
値段の高さもですがその性能の凄さには感心することばかりでした。まず驚いたのはとても軽い・・と言うことです。
なんでもアルミで出来ていて錆びにくいからこれにした・・と言うのです。確かに彼の住まいでは自転車置き場は雨ざらしなので最適かもしれません。
そして先日の旅行でも途中の鉄工所での注油などのこともあって皆にそのことで迷惑をかけて・・と言うことも念頭にあったようでした。
私の知識では簡単な比較はできませんがおおむねアルミの比重は鉄の3分の1くらい、そしてその強度も3分の1という概念でした。
しかしアルミは合金にすることで軽さはそのままに、そして強度は倍以上にできることによるものだと自慢げな説明でした。
ただ、私が羨ましいと感じたことは自転車前後ギヤーのチェンジレバーがハンドルグリップのすぐそばにあってハンドルから手を離さなくても切り替えが可能と言うことでした。

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とにかくそんなこともあってこの美術部の部屋の話題も一気に自転車論議が高まって先日のメンバーは変な方向の士気が高まってしまったようでした。
夏になる前の暫く続く雨の季節でしたが私たちは相変わらずの気持ちは野山を駆け巡っていました。
会社では休日の仕組みがあって私たちの勤める製造工場では必ずしも暦通りの休日にしてしまうと生産効率が著しく低下すると言う問題があります。
従って週の途中に設定されている祝祭日は休日とせず出勤日になります。
その代りその分の休みは週末の休日と隣接させて連休にする、或いは長期に計画する休日計画に組み入れてしまう・・という考え方です。
ですから年末年始5月のゴールデンウィーク夏休み、そして旧盆の休みなどが大型連休に組み替えられる可能性が高いのです。
会社の従業員は私を含め地方出身者が多いので会社としてもそう言った期間にできるだけ帰省できる機会を作ろうと言う主旨もあるのです。
私のように田舎が比較的近距離の者は頻繁に帰省できますが北海道や九州などから上京している人にとってはまたとない機会となってこの休日計画を喜ばしいと感じているのです。
さて、私はと言うと当面は近々の夏休み・・です。

この乗り慣れてきたサイクリング車を使ってどこか遠くまで泊りがけで旅行をしてきたいと言う気持ちが高まってきたのです。
先日の秩父旅行は大変参考になりました。一日何キロ走ることができるのか、そして上り坂道ではどれほどしか進めないのか、或いは下りだったらこんなに走れるんだ・・と。
自転車に積めることの出来る荷物の量も気になる所です、先日では皆で荷物の分担をして均等に割り振ることで解決しました。
一人で・・となると相当な荷物を自転車に装備しなくてはなりません。・・・(続く)

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第20章(No.158〜No.179)(29歳)   ・・・〃・・・・・・・・(4)サイクリングxキャンプ




(連載No.158)
会社の夏休みはほぼ一週間ほどあります。昨年までこの休みはほとんどが会社の保養施設のある千葉の海岸に行くことがほとんどでした。
海で泳いだり、付近で絵を描いたり、そして岐阜の山奥から移築したと言う合掌造りの海の家の大広間で寝っ転がってお酒を呑んだり・・と過ごしていました。
でも今年はキャンプの楽しさも知ったし、新しい自転車も身近なものになった。ここはひとつ山岳地のほうにサイクリングとキャンプに出かける計画を立ててみようと思いました。
山岳地・・といっても私の知る方面は知れたものです。漠然と私の故郷まで自転車で行けないものだろうか・・?。
東京から信州諏訪まではおおよそ200km、往復400kmは平坦地なら4日あれば何とかなる距離だと考えました。しかも今回は8日も日程が許されるのです。
早速地図を広げてその所在を確認してみます。あらら・・意外なことを発見しました。私の故郷の諏訪、東京からは北にあると思っていたのにこうして見ると北・・と言うよりは西、正確には西北西の方角なんだ。
今まで地図を広げて自分の所在地と意図した方角との関連をこんなに身近に実感したことはありませんでした。「う〜む、実に面白い!」
それでは今まで南の海で過ごしていたと思っていた千葉の浜金谷はどうなんだ・・?。おぅ・・、こちらは東京からほぼ真南なんだ・・・。
それからと言いうもの毎日地図を広げては高まる気持ちを抑えるのが大変でした。
更によく見てみると昔の街道・・はよくしたもので実に地形をよくとらえて人々の往来が容易くできるようになっていたことが改めて判ってくるのです。
とかく、今まで私は諏訪まで行くのに甲州街道・・いわゆる国道20号、或いは列車では中央本線で新宿から甲府、そして小淵沢を経て諏訪に・・と言うルートしか頭にありませんでした。
しかし、地図を広げると中仙道と言うルートが初めて具体的に道筋として浮かんでくるのでした。確かに私が郷里の諏訪にいたとき中仙道の存在は知っていました。
よもや、その歴史的な旧道が自転車で故郷の諏訪まで・・と考えたとき改めて具体的にその道筋の魅力を感じたことに驚きを感じました。昔の人は実に素晴らしくその道筋を明確にとらえて旅をしていたんだ!
大体の構想は決まりかける前からもう美術部のみんなに言ってしまわないと気がすまなくなっていました。
ひょっとするとこう言うことについてはかなり経験を積んだ山本君あたりからアドバイスがもらえるかもしれない。それに、人に話すことによってますます自分の意志が固まっていく快感みたいなものが湧いてくるのです。
この間の秩父輪行でご一緒した皆はおおむねこれは面白そうだね・・。先のメンバーで岡島君と赤川君はこの休みはそれぞれ実家に帰省すると言う。

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山本君と茂木君はそれぞれになにやら計画は練っている最中だと言っています、そして山本君からは中仙道を登るのは甲州街道の比ではないし急登坂に丸一日かける気でいないととのアドバイスもありました。
そんな中から往きは4日と余裕を持って、復路は2日もあれば十分すぎる・・と言うことがわかりました。つまり途中の1日は故郷諏訪で休養もできると言うものです。
7月25日(日)東京出発、碓氷峠で一泊。26日(月)峠を登りきって軽井沢から丸子で2泊目。27日(火)和田峠で3泊目。28日(水)峠を登りきって霧ケ峰から諏訪へ。
29日(木)諏訪の実家でのんびり。30日(金)富士見高原まで登ってそこから一気に大月で泊。31日(土)東京に到着。それでも1日の余裕は取ってあるのです。
こうして少し具体的な計画を作っていくと茂木君から意見が、「この30日の予定って、もう少し時間的な計画がわかれば面白いね・・」
「実はオレの夏休みの計画って、富士五湖を巡って小淵沢から碓氷峠を抜けるんだ」
つまり、この日に時間調整すればわたしと茂木君はこの甲州街道のどこかですれ違うことができそうだと言うのです。
「・・・えっ!、そんなことって考えたこともなかったよ」第一、そんな約束をしておいてもしどちらかにアクシデントでもあったらどうするんでしょう。

「・・幸三郎さん、その時はその時。まあ、運がなかったと思ってそれぞれの計画通りにするしかないよ」と山本君が口を出します。
「ついでだけど、実は幸三郎さんが和田峠を登る日にオレ等、山岳部の連中と美ヶ原でキャンプしているんだけど」
「しかも・・恐らく直線で6〜7kmくらいしか離れていないあたりだと思うけど」・・・(続く)




(連載No.159)
夏休みの大雑把な計画は決まりましたが日程をもう少し行き当たりばったりではなく時間的な精度も必要になってきました。
私が28日の和田峠を登るころ山本君のいる美ヶ原高原へのルート変更をしてその夜は一緒に過ごせないだろうか。
そして帰りルートの30日には茂木君が甲州街道を甲府から小淵沢まで登ってきます。そして私はその同じルートの下り道です。どこかで会えないだろうか・・・
まずは往きのルートで丸子〜和田峠〜霧ケ峰を変更してみます。丸子〜美ヶ原〜霧ケ峰。距離的にはほとんど変わりません。
大きな違いと言えば前者は長い距離を結構上り詰めて霧ケ峰に着く。後者は丸子から急峻な須栗林道と言う道を一気に美ヶ原まで上り詰める。
そうすると美ヶ原から霧ケ峰までは尾根道ではありますが下り坂となり苦労した分やや楽ができそうです。

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もう一つの問題は前者はほぼ舗装道路なのに比べ後者は林道の砂利道と尾根ルートは一般登山道で未舗装だと言うことです。
そして出発を25日の朝ではなく前日の夕方にして20kmほど稼いで置くことで前半の行動は行けるのではないかと確信し始めました。
つぎに後半の茂木君との甲州街道での出会いは可能なのかと言うことです。
私の計画では甲州街道、諏訪を8時に出発すれば暫くは富士見町まで上り坂です。距離的には約30qと大したことはありませんがすべて上り坂。
11時ころには富士見駅まできます。ここから私はほぼ東京まで下り坂。
富士見から小淵沢までは10km、ここから茂木君とすれ違いできる笛吹川付近までの距離は50qしかありません。
この50qを私は時間にしておよそ1時間ちょっとで通り過ぎてしまいます。
最終の行動からしてこの日は大月、できれば高尾までは行っておきたいところです、すれ違いのためにあまり時間を遅らせたくありません。
ですからこの出会いの時刻は11時20分から12時半にすれ違いが可能な場合に可能だと言う結論です。
翌日、会社の美術部の部屋で早速この計画を山本君と茂木君に示しました。
それぞれがこの時間帯にうまく予定を組み入れることができるかは二人にゲタを預けたことになります。
以前の秩父に行ったときにはそれぞれが荷物の分担をして積んで行けました。
この計画では全ての荷物は一人で自転車に積んでいかなくてはなりません。
しかも全行程7泊のうち、野宿はつごう5泊、しかもテントを張って食事その他諸々をこなさなくてはなりません。
そしてそのテントですが山本君の所属する山岳部からお借りするには全てが大きすぎます。ここはひとつ新しいものを購入しておかなくてはなりません。
休日を利用して神田の山岳用品店に出かけました。その他の備品のほとんどは山岳部のものをお借りできたので今回はテントのみの購入です。
だいたい一人用・・といっても、常識的には3人用で一人くつろげる広さでしょうか。一人用ではじっとして寝られるのが精いっぱいです。
山岳部にあるような帆布製の重い生地のテントは手頃ですが少し値の張るビニロン製にしました。
予算が十分であればもっと薄手で丈夫なナイロン製のテントもありましたが驚くほど高価なので諦めました。
それと自転車の両脇に振り分けで装備できる帆布製のバックも購入しなくてはなりませんでした。
取りあえず走行性能を見るために想定できる荷物をすべて積み込んで固定してみました。あれ程軽快そうだった自転車も随分重装備車になってしまいました。
果たしてこれでどのくらい走れるのだろうか、アリャリャ、意外と自転車のハンドルがフラフラ・・・(続く)


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(連載No.160)
いつものことですがまだ先のこと・・・と思っていたのですがもう夏休みまで一週間しかありません。
実際の装備品を荷物として詰めていくうちに大きな問題が発覚しました。
一つは食器と炊飯など一つのセットで賄えるコッフェルと言うのがあります。アルミ製でできていて軽くて機能性に優れています。
その二としてこれは最重要品なのですがガソリンコンロ・・・ラジウスと言いますがこれも併せて山岳部のものをお借りすることになっていました。
山岳部のほとんどの山行では単独と言うことはありません。従って二人用以上の装備品についてはかなり道具はそろっていますが大は小を兼ねる的な装備になってしまうのです。
現にコッフェルは一番小さいものでも3人用しかありません、私の荷物の中でもそれだけでかなりの体積を有してしまいます。
ラジウスに至っては山本君たちが一番新しいコールマン製のものを持っていきますので私は予備装備品として残っていたものを整備して使うことになりました。
今でこそ、どこでもガス・ストーブが主流ですが、この時代ガソリンと言う厄介な燃料ストーブしかありませんでした。
ポンピングをするとガス漏れがしたり炎がそこに燃え移ったりすることがよくあって往生しましたが今回もテスト運用でそんなきらいがあるのです。
そしてこのラジウスについては何でも前科があって、あるとき4人の山岳部員がテントの中からススで真黒になった顔で飛び出して避難した話も聞いているのです。
ポンピングのパッキングはその後修理は済んでいると言いましたがそれでも燃焼口根元付近は何やら怪しい燃え方もしているのです。
これから先のことを見通した時、アウトドアー・・なんて言う言葉もなかった時代ですが果たして自分はこのさき屋外生活を人生の楽しみとして続けていけるだろうか。
もし、そうだとすれば将来のためにも自分用のものを買い揃えておいてもいいのではないか。
そして仮にこの気持ちが一時的であるならば多少の不便や危険性があっても耐え忍んで使うしかないだろう。
相当な気持ちの高揚感もあったんでしょう。私はこれで一気にどこにでも一人で単独行動のできる装備品がそろってしまったわけでした。
自転車の両脇に下げるバックも新調していましたから今度は実際に積んでいく実物の道具を前と同じ手順で積んでみました。
多少荷物がコンパクトになったこともあって自転車自体のバランスはかなりよくなったと感じました。
いよいよ明日の夕方、仕事が終わったら出発の予定です。
途中の往きではコース変更して美ヶ原経由にすることにしました。山本君の計画ではここに大きなテントがあるので山岳部と一緒に寝ましょう。
しかも嬉しいことには私の到着予定より先に着いているから食事も余分に作って置くと言うものでした。

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しかし、復路の茂木君との甲州街道での出会いはどうしても予定を合わせることは難しい・・・と残念な回答でした。
まあ、それはどうでもいいことです。それぞれが無理のない行動計画で途中でもし逢えることがあれば楽しいね・・くらいの気持ちでした。
前日の買物は食料品を主体に自分一人で買い揃えなくてはなりません。前回はそれぞれが手分けをして買い揃えたことを想うと単独行動は全て個人でしなくてはなりません。
都心の方にはスーパー・・とか言う商店があって一軒のお店ですべてのことが済むそうだと聞いていました。
当時、足立区のこの辺ではパンはパン屋さん、お米はお米屋さん、長持ちする佃煮などは乾物屋さん・・・、しかも一人分のこまごました買い物は本当に不便でした。
ましてやどこでも何時でも開いているコンビニなんかもない時代ですから肉も魚も日持ちする物に限られます。
前の日にはシッカリと睡眠時間を取って明日の出発に備えます。・・・(続く)




(連載No.161)
会社の夏休み前の仕事はかなり前から調整に調整を重ねて突発的な事態が起きないように進めてきました。
今までよく懸念されていたことですが、お得意様の関係筋には明日から幾日間の休業を予定しています・・と伝えておきますが往々にしてその直前になって相談を持ち込まれることがあるのです。
今日はそんなことのないことを祈りながら終業前の4時ころには自分の仕事は終らせて、休み明けに支障の無いように後かた付けとその準備に取り掛かりました。
無事、終業時間がきました。明日の土曜日から来週の日曜日までの9連休です。
いよいよ自転車での単独周回旅行を実施する段になりました。
はやる気持ちもありましたがここはひとつ冷静になってまずは燃料を満タンにしなくてはなりません。
真っ先に向かった先は会社の食堂です。ここの夕食は毎日利用していますが就業と同時に飛び込んだのは初めてではなかったでしょうか。
自転車での旅行は今までの経験から2時間で燃料補給、つまりガス欠になってから燃料の補給をしても手遅れになる。お腹が空く前に次のエネルギーになる食物を摂取していないと次の走りは不可能になるのです。
今日は特別にご飯は大盛り、いつも顔なじみの食堂のお母さんにも意気込みが伝わっています。今までにもう飽きるほど食べてきた鯨の竜田揚げもチョット多目に見えました。
この時間の食堂はまだ沈むにはかなり間のある西陽が容赦なく照り付けてそこにいただけで汗が噴き出すほどです。
夕飯の食事をする・・と言うよりも矢張り燃料補給・・満タン!、という感が否めません。全身汗びっしょりで食事を終えました。

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会社の正門を出るとかなり傾きかけた西日と相まって荒川を吹き抜ける川風が心地よく濡れた頬を撫でていきます。
私のアトリエまでは急ぎ足で約5分、しかしそれも私が自転車で出発する方向とはたとえ5分と言えども真逆の方向なので気持ちも少しはやります。
アトリエに到着してドアーを開けるともうすでに準備の整った自転車が待ちかまえています。
改めて自転車のサドルとハンドルに手をやって強く揺さぶってみます。・・・荷物の固定は万全です。
会社の門を出るときから反芻するように頭の中で唱えていた所持品のリスト、出発の衣服に着替えながらも続けていますがどこかから堂々巡りしているような気がするのです。
まあ、足りないものがあったらその時はその時、よし!、本当に出発だ!!。
すっかり重くなった自転車をシッカリ捕まえよろめきながらドアーを開けて表通りに出ました。
お向かいにある交番に立つ若いお巡りさんも不審な私の様子に早速気がつきます。持っていた警棒を手のひらに打ち付けながらシッカリ私の様子を見ています。
私は慎重にゆっくりと自転車にまたがり一旦、交番のおまわりさんに目をやりました。お巡りさんは大げさに全てを理解した・・と言うふりをして私に投げやりな敬礼を飛ばします。
私もすかさず笑顔とぎこちない敬礼で応酬してシッカリとペダルを踏み込みました。嬉しくも気持ちのいい見送りを受けての出発です。
骨組みの比較的しっかりしたツーリング用の自転車ですが荷重でフラフラします、慣れれば心配はないでしょう。
荒川土手沿いの道を走って川口、そして戸田を過ぎて明るいうちに照明のある国道に出なくてはなりません、暗闇の道で出発早々に車にはねられてはたまらないからです。
戸田の街で一旦自転車から降りて荷造りの点検と水分補給をします。まだ出発して10kmそこそこしか走っていません、気持ちも体力も全然心配ありません。
希望は9時まで3時間走ってどこまで行けるか・・。できれば50km走って熊谷あたりまで走れれば上々の滑り出しと言えるでしょう。
気を取り直してまたペダルを踏み込みます。出発した時に比べて自転車と私と荷物が一体感をともなって居るのがわかります、ハンドルもふら付かなくなったからです。
いよいよ、明るい国道17号に出ました。陽は暮れましたが歩道をともす街灯が気持ちよく並んでいます・・・(続く)

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(連載No.162)
先ほど国道17号の交差点前で止まって、荷物の緩みなど点検をした時、おそらく今夜は熱帯夜だろうなーと思いました。
自転車で走っていたときはあまり感じられませんでしたが止まった瞬間にドッと汗が噴き出しました。
しかし、再び自転車にまたがってスピードを上げるごとに今度はうっすらと濡れた頬に心地よい風が当たるのです。
大宮を過ぎて国道16号を横切りました。それまで広くて明るい国道17号もここからは車線も片側2車線になり、たよりの街灯も少しまばらになってきました。
それでも流石に国道という名のとおり比較的道路は綺麗で走りやすい感じでした。時間はまだ今日走る計画の半分、7時半ころのはずです。
この辺りまで来ると車の通る量もこの時間、極端に少なくなってきました。しかしそれに反して時折追い抜いていく車のスピードが半端ではなく感じられるのです。
そして圧巻なのはトラックなどでしょうか後ろの高いところから大きな光量で追い立てられるようにライトで照らしつけられると私と自転車のシルエットが歪むように見えるのです。
大きな風圧がワッと通りすぎたかと思うと今度は一瞬漆黒の暗闇の中を走っている感覚になるのです。しばらくして目が慣れてきてやっと平常運転という繰り返しです。
商店街もちらほら見えるようになって再び道路も走りやすく明るくなってきました。どうやらこの付近が上尾というところらしいな。
信号で止まると左に曲がると上尾駅という表示がありました。構わずにまっすぐ進みます、一段と明るい交差点に上尾市役所です。
という事はまもなく出発してから30kmは走った計算になります。今夜のうちにあと20kmは走っておきたいものです。
ものの500mも走らないうちにまた赤信号で止められました。また運の悪いところが上尾警察署前です。
ホラ・・来たよ。よほど暇なお巡りさんでしょう。「もしもし、どちらに行かれるんですか・・?」
ちょうど信号も変わって青になりましたのでそのまま「急ぐので・・」と言って走り去ってもいいのですが素直に広場でスタンドを立てます。
お巡りさんもどうやら職務質問するというふうな態度でもありません。
どちらかと言うと、口には出しませんが「暇なもんだから少し話していかないかい・・?」って感じでした。
こりゃタマラン、止まった途端に汗がどっと流れ落ちます。わたしは水をまず立て続けにふたくち程飲んで手の甲で汗をぬぐってお巡りさんを見ます。
「どちらへ・・って、言われても・・、旅行中なんですよ」「おやそうですか、それで今日はどこから来たんですか・・?」
「東京の足立区から・・、5時に仕事を終えて準備をして出発したばかりなんですよ」「そんな遅くに出てもうここまで来たんですか」
「ええ、・・あの、チョット、パンを噛じりながらでもいいですか・・?」「あ、ぁぁ、どうぞ邪魔しちゃったかな、ちょっと珍しかったもんで声をかけちゃったけど」
「いえ、すいません、夕飯は食べてきたんですがもうお腹が少し減っちゃって、今夜は熊谷まで行きたいんですよ・・」「おや、でもここから熊谷はまだ30km近くあるよ・・」

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「そうなんですよ、ですから後せめて20km、桶川と鴻巣は通過したいんです」「そうでしたか、じゃ、ま、気をつけて頑張りなさい」
暫く走ると北上尾駅入り口の表示信号。次の信号と青のペースが立て続けに幸先が良さそうです。
突然にその先の道路が片側一車線しかありません。え?、ここって一級国道でしょ?、歩道ももちろんありませんし頼りない路肩の白線があるだけです。
しかしまもなくまた道路は広くなり商店もあります桶川駅入り口も通過、商店街を抜けると道路がまた狭くなります。
しばらくすると国道沿いに大きな建物がつながっています。手前は真っ暗、学校でしょう、隣は明らかに消防署です。そうするとここはもう鴻巣の街に入ったことがわかります。
一応の計画は達成したことになります街を少し外れたところで今夜は自転車旅行の第一夜を過ごすことにします。
次の信号を田んぼの方へ曲がって・・おや、鴻巣警察署か・・・(続く)




(連載No.163)
鴻巣警察署の裏口に近い小さな空き地、田んぼに面していて静かな朝です。
大声ではないですが何やら人の話声で目を覚ましました。農家の方でしょうか多分田んぼの水の見回りに来て不思議なものを見かけたと言う感じです。
警察署の建物の日影になっているのでテントはまだひんやりとしていて真夏の暑さは感じられない心地よさです。
反射する日の光を受けたテントの感じではもう早朝はとっくに過ぎているようです。時計を見るとまもなく7時になろうかという時間です。
しまった、完璧な朝寝坊です。テントを開けて顔を出すと向かいのあぜ道で立ち話していたお百姓さんもこちらに気がついて興味ありげに近づいてきます。
「おう・・、よく寝むれたかい・・?」私は眩しさに顔をしかめながらも盛んに笑顔を作りますがぎこちありません。
ひとしきりの経過報告をするとお百姓さんも納得した様子でした。警察署のトイレの小窓に人の気配もしましたが特別出て来る気配もありません。
とにかくこの場所は田んぼに面しているとは言えれっきとした街中の一部です。
パンをかじりながらテントをたたみ自転車にくくりつけました。もう少し街はずれまで移動して今日の出発準備を整えなくてはと考えました。
今日の予定は軽井沢まで、約85kmと距離はありませんが最後の碓氷峠の8kmに十分な時間を取っておかないといけません。
3kmほどで市街地から外れ中学校前につきました。夏休み中なので校門前はシン!と静まり返っています。
ここから直角に曲がる大きなバイパス道の建設をしているようです。建設工事の看板には大きな完成予想図があり将来は熊谷市内の混雑を避ける17号の道路・・としてあります。

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中学校校門脇の小さな公園で朝の準備をしました。太陽の日差しも強くなり始め国道の道路状況もなんとなく慢性的な渋滞気味です。
30分もするとだんだんと市街地らしくなりこの付近では渋滞している車より完璧に自転車の方が速く走れて気分も乗ります。
古い町並みの中、気温もかなりきつくなってきました自転車は左・・とはいえこの街中の炎天下では日差しが家屋の影になる右側を走らせてもらうことにします。
熊谷はとても暑いところ・・と思っていましたがこうして自転車を走らせていると空気は乾いているしむしろ爽やかさを感じるのです。
10時前には深谷を通過、狭い国道ですが車の通りも少しまばらです。出発前に買っておいたパンももうわずかしか残っていません。
高崎についたら少し補充品の買い物もしないとその先ではあまり買い物はできないと思いました。
まだお腹はすいていませんが残りのパンを片手にしてほうばりながら走ります。
しばらく平坦な道を走っているといつの間にか列車の鉄道と並ぶように道路が寄っています。新町駅入り口、ということはもうわずか10kmくらいで高崎になるのです。
そして3kmほど走ると2,300mほどの上り坂。きっとこれは烏川の橋になるんだ、案の定まさしくここが埼玉県と群馬県の県境にかかる橋だったのです。
東京の空気とまるで違う別世界の風が吹き渡っていました。長い橋を渡り終えて眺める高崎の街は大きな都会でした。
ここから一旦国道を外れ街中へと自転車を走らせました。高崎線のガード下をくぐってほぼ碁盤の目状の街を北上すればいいので道は間違いません。
高崎市役所と駅の間の商店街に立ち寄ることにします。とりあえず市役所の自転車置き場に止めて少し路地を入りました。
すごいです、東京の足立区なんて比べ物にならないくらいのお店とお客さんで混み合っています。
ここでしっかりと買い物をしておかないとこの先、3日間は食料の補充はきかないと覚悟していました。まずは日持ちする洋風の固いパンを三つも買い込みました。
ただし買いすぎに注意しないと便利さと自転車の走行性は相反するものです。再び自転車にまたがり高崎城址を左に折れ再び烏川の長い橋を渡ります。
中学校を右に曲がって1kmほどで碓氷川の川原です。この川向こう側は国道18号が間近に見える松井田の山や後方の妙義山に向かって走っているはずです。
まだ時間は昼を過ぎたばかり、道の向きはしっかりと西に向かいます。おっと、もう上り坂に・・・?(続く)

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(連載No.164)
2〜3kmほどなだらかな坂道を走ったところで目印にしていた少林山達磨寺の森が左手に見えてきました。
お寺の深い樹に囲まれた丘を過ぎて間もなく碓氷川を渡ります。橋のたもとの欄干にはだるまさんが乗っていて迎えてくれます。
この橋を渡り切るともうすでにここは国道18号線。信号の角にはだるま屋さんの製造工場など大きな看板に見送られて碓氷川に沿った道沿いに進みます。
しばらくすると左手には巨大な軍艦が・・と思わせるような巨大な化学工場が迫ってきます。まるでひと山そのままを化学プラントにしたいでたちです。
小さな繁華街を過ぎると安中の街はあっという間に通り過ぎて上り坂も少しきつくなってきました。
信越線も碓氷川ともしばらく離れて結構長い坂道が続きます。国道18号はここからさらに急勾配の方向を示していますが平坦な旧道を選びます。
松井田駅入り口の標識を過ぎ西松井田駅入り口も通り過ぎると信越線を走る列車の音も聞こえます。
再び国道18号と合流するあたりで道は少し勾配を増して信越線を跨ぐ跨線橋を過ぎます。
五料茶屋本陣跡、ここまでくれば横川の駅はもう目の前です。しばらく信越本線と並行して列車とすれ違うのを楽しみにしながら坂を登ります。
あいにく松井田あたりで列車の音は聞こえましたがここではタンクを詰んだ貨物列車の長い列しかお目にかかれませんでした。
横川駅前はお土産屋さんと釜飯の大きなお店などで賑わっていて、さっそく釜飯を注文し食べることにしました。
時間的には間もなく2時半、軽井沢までの距離は地図上では10kmありません。しかしこれからの上り坂が正念場です。
横川を出て間もなく道路の工事現場、ここの看板には新しい碓氷バイパス建設中の完成予想図の絵も描いてありとても快適そうに見えます。
ここから真っ直ぐの直線坂道で昔の中山道の家並みのなかを2kmほど上り詰めると急に眼前に大きな山が衝立のように立ちはだかっています。
ここで一息入れて覚悟を決めます。出発前に調べた模様ではすぐ上にある灌漑よう貯水池の碓氷湖からは70曲がり以上ののつづら折りなのです。
坂道を登り始めて気がつきましたがここの国道18号は完璧な片側一車線が確保してありません。
大きなバスやトラックがこのカーブですれ違う時はいずれか一方の車は対向車の曲がり終わるのを待たなくてはなりません。
そしてそのカーブ自体の勾配がそこだけきつくなっていて自転車をこいでヨタヨタしては危険も伴います。
安全のためには車のいない時以外は必ず自転車から降りて押し上げなくてはなりません。実にそんな危ないカーブが70以上もあることを考えると気が遠くなりそうです。
でも無理をしなくとも自転車を全て押して登ったところで時間的には4時間見ていますから少し遅い夕飯ころには峠の頂上にたどり着くつもりです。
深い森の中、気が遠くなるほどの数のカーブをいくつ超えたのでしょう。気が付くと吹き渡る風の感じが高い山独特の渇いた風に変わっています。

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時々禿山のカーブを曲がるとき下を見通せる場所があります。休みがてらに覗き込むと松井田の街の家々の黒い屋根が反射して白く輝いて見えます。
横川までは水分補給に水を含んで呑み込むと同時に同じ量の汗がドッと流れ落ちましたがそんな不愉快なこともありません。
まだ6時前ではありますがジリジリのお日様はまだ天高くから照らし続けています。
深い森の途切れたあたりで少し仰ぎ見ます。・・・壁のように立ちはだかっていた衝立のような山も気のせいか少しなだらかになってきました。
その証拠に今まで小刻みにカーブを作っていた道路も次第に長く走ってはカーブになりまたしばらく走ってはカーブとなってそれも緩やかになってきました。
なにかもう少しで・・と思うと急に元気になった気がします。ペダルを踏む足にも力が加わり自転車の走りにも伝わります。
いきなり方向転換のように角を曲がると頭上に長野県という標識とその先は下り坂です・・・(続く)




(連載No.165)
とうとう国道18号、碓氷峠のてっぺんに立ちました。道路脇に自転車を止めて改めて登ってきた峠道を見下ろします。
群馬県側を見るとこの碓氷峠の地形は昔の人が道を作るとしたらここしかないだろうという想いがします。江戸時代の先人たちはここを籠に乗ったりして通ってきたんだ。
右側は恐らく碓氷川に落ち込むんでしょう、千尋の谷のなかは鬱蒼とした濃いみどりの険しい森林です。そして左側には浅間山の噴火で押し出された岩石が高い尾根山となって松井田の宿から見上げる刎石(はねいし)山でせき止められた地形なのです。
言わばその僅かな間隙に溶岩が流れ落ちて固まったような段々畑状で比較的なだらかに松井田町の坂本宿に落ち込んでいるのが手に取るようにわかるのです。
一時、見晴らしを堪能したあと今日の寝場所に決めた矢ヶ崎公園を探します。軽井沢駅の少し手前にあるはずです、なだらかな坂道を気持ちよく降りると右側に所在標識がありました。
碓氷峠から1kmほど下ったところの神社公園です、まだ夕方7時前ですが人っ子一人見当たらない静かな公園の隅にテントを張ることにしました。
夕暮れの夏とは思えない涼しく快適な風が吹き抜けていきます。ウイスキーをひとくち、口に含むと途端にめまいがするほどにそのエキスは体中を一気に駆け巡ります。
フランスパンと鯨の缶詰の食事ですが睡魔が食欲を急に上回ってきた感じがします。とにかく今日は早寝しよう・・
分厚いビニロン製のテントですが微かに朝の明るさが感じられます。それよりももっと以前から頭上の木の枝を飛び交う鳥の声が私の睡眠を徐々に目覚めさせていました。

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テントの扉の継ぎ目から急に朝日が差し込んできました。時計の針はまだ6時前です、それでも9時間以上はたっぷり寝てしまったようです。
起き上がってテントの外に出ると冷気でびっくりするくらいの涼しさです。一時長袖のジャンパーを羽織って湯を沸かしお茶を飲みました。
軽井沢にお住まいの方たちが時々私のテントを訝しげに見ながら散歩がてら神社での朝のお参りをしています。特に近づいてきて尋ねる人もいませんが傍の自転車を見ると概ねの方はそれだけで納得したようです。
朝食は昨夜の残りで済ませました。昨日の碓氷峠の上りに比べると今日の予定は下り道もあるし多少自転車の快適さも感じられる日程です。
今日は美ヶ原の麓、武石村まで走行距離は40kmそしていよいよ長野県の中に入ってきたのです。
軽井沢の街の中、国道18号はそれでも進行方向に平均すると下り道でしょうか途中、追分宿の小さな丘を越えるともったいないほどのスピードで降りていきます。
このまま駆け降りれば佐久の街まで一気に落ち込むんでしょうか。ここで一旦18号と分かれて別荘地の中を抜ける道をトラバースして小諸を抜けて東部町(後の東御市)を目指します。
樹間にまばらに別荘が点在する未舗装の道を快適に走ります。適度な湿り気を含み少しクッションも感じるこんな道がどこまでも続いてくれることを祈りながらの快適走行です。
少し上りがあったりして登りきったところから見通しのいい場所に出ました。眼下に小さな町の集落が見え、ゆったりと流れる川は・・いよいよ千曲川を超えるのです。
一旦国道18号を超える頃にはお日様も頭上にあることもですが軽井沢に比べてかなり標高は下がったでしょうか。また少し不快な汗が顔や体を濡らします。
丸子町の千曲川に注ぐ支流の依田川が目印です。信越線の踏切を渡り急坂を降りると橋のたもとから川辺に降りられます。自転車を橋の欄干にあずけて川原におります。
千曲川にかかる田中橋、橋の日陰に入ったところで川面を渡る風が気持ちいい。浅瀬を確認して服を着たまま川に入り水浴びだ!、体中のしょっぱい汗を心地よく洗い流しました。
今朝の寝起きにすがすがしい空気をかき消すように臭った自分の体の臭気が一気に千曲川の流れに清められた思いです。
ここからまた上り坂への挑戦が始まるのです。ずぶ濡れのシャツと短パンですが自転車をこぐと蒸発熱を奪う水分のおかげでかなり気持ちがいい。
地図と磁石を頼りの走行ですが前方に丸子町中心部と思われる学校や病院の建物が田んぼの向こうに現れてくるとひと安心します。三角形の一辺を近道した満足感に浸ります。
美ヶ原までの距離はここから25kmくらいしかありません。しかし最後の9kmは碓氷峠の勾配の比ではありません、さてこの先は少し慎重にルートを探さなければなりません。

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最初の計画では152号で諏訪までのルートでしたが美ヶ原に立ち寄るルート変更をしましたのでこの先5km付近の変則三叉路の美ヶ原ルートを見つけます。
腰越上あたりで松本方面の254号と別れ、地図では400mほど先の武石沖の交差点、その手前50mを右に・・、これを間違うとそのまま諏訪に向かってしまうのです。
地図に載っている丸子観光バス会社の前を通ったことで一安心です。ここから先はだいたい一本道、なだらかな登り道が延々と武石川に沿って登って行きます。
今日はこの先にある井出牧場というところまで登ります。そして翌日一気にここから美ヶ原直下の巣栗林道を登りきる予定なのです。
もう未舗装の凸凹道をどのくらい登ってきたんでしょう間もなく牧場の柵が見えてきました。・・・(続く)




(連載No.166)
時間はまだ日が暮れるまでには間のある4時ころです。昨日は軽井沢についたのが遅くて夕飯もろくに食べないうちに睡魔が襲ってきました。
それに比べると今日はこの夕暮れどきをたっぷり楽しみながら過ごすことができそうです。
ただ残念なことに丸子の街を過ぎて武石村あたりについたら村の雑貨屋さんで食料を追加しようと考えていました。
しかしこの街道沿いを気にしながら走ってきましたがそれらしいお店は皆無、やっと見つけたと思ったお店はガラス戸がしまっていて中からカーテンがかかっていました。
今夜とあすの食料は手持ちのもので間に合わせなくてはなりません。特に明日は完全な山の中の林道ですから絶対にお店があるとは考えられません。
明るいうちにテントを張り夕飯の支度にかかります。このあたり山の斜面のいたるところからきれいな水が滲み出していて助かります。
千曲川からここまではほぼ上り詰めでした。でもたいした標高でもなさそうですが吹きぬける沢の風が少し寒くも感じられるのです。
乾パンと魚の缶詰で簡単な食事が終わりました。まだ夕闇が訪れるまで小一時間はありそうです、そうだ今夜は焚き火でもしてみようか。
明日、登坂する林道の方を少し歩いて登ります。焚付になるような木の枝は随分豊富で直ぐに集まりました。
それにしても天気が安定していて助かります。遠くで雷鳴はするのですが近くに来ることはなさそうです。
夏の夜に焚き火で温まる・・なんか不思議な感じがします。昼はあんなに暑かったのに今はこうして焚き火にあたっていると心地よいのです。
カップにウイスキーを注ぎ岩から滲み出す冷たい水で割ってチビリチビリと喉に流し込みます。フクロウの鳴き声はわかりますがなんの鳥の声だろう・・
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錆びたブランコを揺するような陰気な鳴き声の鳥もいるもんだなー。そういえば急に肉が食べたくなった。
どうせ買える肉なんて鯨の肉くらいだけど、この間みんなで秩父に自転車旅行したときはこの焚き火で焼いて食べたあの鯨肉の味は最高だったよなー。
まあ、今回は我慢しよう・・。ウォ〜!すげ〜!なんだこの星空は!
月もない真っ暗な谷間の空が周囲の山の稜線がくっきり見えるほど星で埋め尽くされているのです。
しばらく仰向けにひっくり返って右から左の山の端に掛け渡された天の川に見入ります。
気が付くとひっきりなしに流れ星が行き交っています。焚き火の火ももう薄赤く余熱を発しているだけなので枝をくべるのは止めました。
ふっと寒さで目を覚ますとテントの入り口から上半身を出したまま寝てしまったようです。あわててテントのチャックを閉めて寝袋に入りました。
ンッモウ〜!、テントの外の小鳥たちの鳴き声がうるさくて寝ていられません。
昨夜の寝た時間がわかりませんが意外とすっきりした朝を迎えられたということは疲れを取るに必要な睡眠時間は取れたようでした。
さて、今日の食料のうち携帯性のあるものは途中で食べるとして朝はご飯を炊くことにしました。
ガソリンボンベのコッフェルで直ぐに炊けるのです。美味しそうな匂いがしてくると、あっ、納豆があれば良かったのに・・せめて味噌汁でも作ろうか。
玉ねぎを半分使って味噌汁、おかずは佃煮とキュウちゃんですが少し豪華な朝食。結局一合を一食で食べちゃった。
さて、今日はいよいよこの巣栗林道に挑戦です。
この林道の坂道は急登坂の距離は9km、そしてそこから先はほぼなだらかな高原起伏を5km、わずか14kmを一日かけて登るのです。
美ヶ原の中程に山本小屋という山荘があります。今日中にそういえば同じ名前の山本くん一行はその山小屋近所で今夜はテントを張って泊まる予定です。
わたしはそこまでになんとしてもたどり着かないと今夜の食事の用意がないのです。
荷造りを終えていよいよ出発です。300mほど直進の次のカーブでアレ?、タイヤが空転・・・(続く)




(連載No.167)
須栗林道は事前に調べておきましたが未舗装路、かなりの急坂とありました。
しかし、登り始めて直線の300mを曲がるといきなりの急登坂路になっています、朝一番はまだ元気がありますので力いっぱいペダルを踏むもタイヤが空転して進みません。
自転車はツーリング用、そしてタイヤは今回の山岳路を想定してラジアルタイヤを装着しているにも関わらずローギアーで進まないのです。

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「サイクリング・渡河」






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カーブは自転車を降りて押し上げます、カーブの終わったところからまたこぎ出して次のカーブでまた降りて押上をします。
オイ、オイ、するとなにか?300mヨタヨタこいではまた押し上げる・・の繰り返しで登るしかないのか?。
すがすがしい朝の出発だったのに30分もしないうちにもう汗まみれになってしまいました。
しかし僅か5〜6回のつづら折りをしただけなのに樹間から朝のキャンプ地を覗き込むとすでに高低差は2〜300mも登っているのです。
美ヶ原の頂上は標高およそ2000mです、今朝の出発地点800mからするとあと1000m昇る計算です。
単純計算すると4時間あれば登りきれる計算です。そう簡単な計算通りには決していかないでしょう、体力を使っている割には成果がついてこないから頭の中は妄想でいっぱいです。
この自転車ってやつは平坦地を走っている分には実に省エネで体力を使えばそれに見合った距離を走ってくれるものだ。
だけど、今日のこの自転車の奴め、普段の体力の3倍以上も使っているのに走ってくれる距離は5分の1ほどもない。
これから先のことさえ考えなかったらすぐにでもこんな自転車、ほっぽってサッサと歩いて登ればどれほど楽なんだろう・・なんてところまで想いを巡らしてしまいます。
案の定、先ほど追い抜いていった登山者の一団が道端で休憩しているところまでやっとの思いで追いつきました。
その休憩している登山者の目の前でまた自転車の車輪が空転するのです。休憩中の登山者も見ていられなくて声をかけます。
「このあたり結構急勾配ですからチョット押してあげましょうか・・?」
「ああ、こりゃ〜・・大丈夫です、いざとなったら自転車から降りますから・・」
「どちらまで・・?」「ハイ、今日は山頂の山本小屋付近まで・・友人がそこに待っててくれているんです・・」
「それじゃあ私たちとおんなじところまでですね、今私たちは地図で言いますとちょうど標高1500mくらいですよ、・・まあ、距離にしますとまだ3分の1くらいですかね・・」
「え〜?、まだそんなもんですかね?」「・・でもね、あと300mも登れば急になだらかになりますから頑張ってください」
「それでは、私たちはこれで・・、恐らく途中で貴方に抜かれると思いますよ・・」「そう願っています。どうぞお気をつけて・・」
せっかく取った休憩時間です。ここで食事をしておかないと少し体力が急激に減衰してきた気がするのです。
食料のカチカチパン、は最早あごの力を思いっきり使ってかじりつかないとちぎれないくらい硬くなってしまっています。
これは最後の食料、目的地の山小屋の前に登山中の山本君は果たしていてくれるんでしょうか。ちょっと不安な気持ちがよぎります。
登山客が教えてくれた水場はちょっと気がつかないところに音もなくコンコンと湧き出ていました。この山のいたるところにそんな水場がたくさんあるんでしょう。
食事をしてしばらくするとまた新たな力が沸いてきたような気がします。自転車も先程は空転していたのに地をしっかりグリップして登ってくれるのです。

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一時間ほど登ると林の中のヤブがクマザサに覆われるようになってきました。そして真っ黒な樹の中に白樺も混じる樹林帯に入ってきました。
どうやら急な登りの9kmを登りきったんでしょう。自転車のギアーを一段落としてセカンドにします。や〜、風が気持ちイイ〜!
緩い登り道ではありますが今までの事を思うとまるで坂道を下っているようにさえ思えるのです。
再び少しきつい坂を上ったとき思わず叫びたくなるような広大な高原風景が目に飛び込んできました。ここからは曲がりくねってはいますがほぼ平坦な高原の道です。
さらにその先の見渡せる場所まで来ると遥か先、先ほどの登山者の一団がテクテク歩いているのが見えます。
「ウ〜オ〜!、今に抜いてやる〜!」・・・(続く)




(連載No.168)
樹林帯を抜けて一面のほぼ平坦な草原には立ち枯れした潅木が所々に点在しゆったりした遊歩道のような登山道が続いています。
5〜600mほど前方を行く先ほどの登山者にはあっという間に追いついてしまいました。私に気がついた最後尾の集団のリーダーは皆に合図して道を開けてくれました。
「すみませ〜ん、おさきにしつれいしま〜す」皆に挨拶をして通り過ぎます。「オレたちも自転車で来ればよかったな〜」などと気持ちのいい妬みの言葉に送られました。
高原の入り口から目指す山本小屋までは2kmほどしかありません。遠くからでもその山小屋の存在は確認できますが果たして目指す山本君たちのテントは見えません。
見渡せる高原ですからこの近所にあればすぐ見つかるはずです。小屋の裏側に回ってみました。
少し窪地になって小川・・というほどのものではないあたりの辺にテントがあり焚き火の煙がうっすらと立ち上っています。「あれだ!」私はホッとして声をかけました。
「イエ〜イ!、到着したぞ!」「お〜い、幸三郎、着いたか〜?」山本君の声ではありませんが彼の所属する山岳部のリーダーをしている山田さんの声が帰ってきました。
山本君はほかの仲間と一緒に少し下の方まで焚き火の材料を探しに行っているがもうすぐ戻ってくるといいます。
「じゃ、さっそくこのテントの隣にオレのテントでも張る準備でもしようか」「イヤ!、そんな必要はないよ、今夜はオレ達のテントで一緒に騒ごうぜ!」
それもその筈、彼らは4人なのに6人用の大きなテントを張ってあるのです。

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「美ヶ原の電波塔群」


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「それじゃあ、そういうことにさせてもらいます」「ところで、夕飯の準備だけど・・」
私は一番肝心な話をまず切り出さなくてはならないと思いました。途中の買い出しができなかったこと、既に食料は尽きてしまったことなど。
「大丈夫!、オレたちはたっぷり持ってきているし幸三郎の歓迎会も予定しているから心配すんな!」
いやー、こんな嬉しいことはホント思ってもみなかった。そして間もなく山本君と島田くん堀口くんがどっさりと枯れ木を集めて戻ってきました。
まだ時間は4時を回った頃でしょうか、木陰を選んで涼しい風を満喫します。山本君はじめ山岳部のメンバーはそれぞれ慣れた仕事をするように食事の準備を始めました。
「幸三郎さん、体でも拭いてきたら・・?。あまり水量はないけれどそこの足場を少し降りたところに水が出てるから・・」
「それはありがたいね、そう言えば一昨日に千曲川を渡るとき服のままドンブリした時も気持ちよかったけど、今日も大汗かいたからそうさせてもらおう」
少し湿った岩場を慎重に降りるとそこにはホンノちょろちょろ・・ではありますが高原泥炭から滲み出した水が流れているのでした。
先は鬱蒼とした森林、この岩陰でしたら真っ裸になっても心配ありません。ついでに下着も全取っ替えして洗濯までしてしまいました。
冷たい清水・・というほどでもありませんがけっこう日陰で体を水拭きしていると全身が寒さで震えるほどになりました。
新しい下着に着替え洗濯物はテントのロープに吊るすと体も次第に温まってきました。焚き火の周りには夕陽に頬を赤く染めた皆さんが待ち構えていてくれます。
リーダーの山田さんが紙コップを手渡しながら「じゃあ、幸三郎、無事到着を祝して乾杯しよう!」
「く〜!、こりゃ、きついね!」大瓶のサントリーレッドですが多分これは今夜に呑みほしちゃうんだろうね。
山岳部の定番という大鍋料理ももう食べごろに煮立って焚き火から遠ざけました。豚肉がたっぷりと入った豚汁・・とでも申しましょうか、空きっ腹に旨い!。
今夜も綺麗な星空が楽しめそうな空模様です、あすの行動ですが彼らは松本まで下りて列車で帰るよていです。
私のあすの計画は今日、彼らがたどってきた車山からここ美ヶ原のルートを途中まで逆にたどって諏訪の実家までとなっているのです。
ですから今夜はそのルートの情報をしっかり聞いておく必要があるのです。やはり想像していた通りここから扉峠というところまで降りるのは大変そうです。
話の内容では上りに使った須栗林道の比ではなく乗って降りることは危険、むしろ捕まっている自転車を転落させないよう細心の注意をして一歩一歩慎重に降りることが肝心というのです。
そのあとは扉峠からちょっと急ではあるが自転車を押し上げて三峰山の頂上、そこから和田峠までは注意すれば自転車に乗っても安全な降りの登山道だと助言を聞きます。

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この先のルートの状況を知ると少し安心したのか眠気も急に襲ってきました。彼らも相当の距離を歩いたと見えて意気込みとは裏腹にもうコックリをする者もいました。
「じゃあ、もう寝るとしようか・・」
一日目は鴻巣警察の田んぼに面した裏で、二日目は軽井沢手前の神社で、昨日は武石村の山あいで、
そして今日は久々に安楽な夜です・・・(続く)




(連載No.169)
さすがに標高2000m近い高原の朝は夏といえども明け方には相当冷え込みました。
まだテントの外は朝の感じはしますが明るくありません。寝るときに火照った体で寝たせいで、はだけた寝袋をあちこちでつくろう音で目が覚めました。
わたしも出していた手を寝袋の中に収めチャックをしっかりしてまた目をつむりました。
冷えていたからだが暖かくなってまたいつしか寝入ってしまいました。
夢うつつにもこうしてゆっくりと朝寝坊する幸せを想いながらニッコリしているといきなりテントのチャックが開かれて元気な笑顔が叫びます。
シ、シマッタ!。私が二度寝している間に皆さんはもう起きて朝の用意をし終わっているのです。私の起きるのがあまりにも遅いので起こすか・・ということになったようでした。
もう食事の準備も進んでいるようなのでせめてテントのかた付けくらいは手伝わないといけない、と慌てました。
でも彼らは今日の出発はさほど急がない、そして朝から天気がいいのでテントは一度裏返して裏の湿気を乾かしてから収納するというのです。
朝食は昨夜の豚汁の残り汁にご飯を混ぜたおじや風です。今日の朝食のために用意しておいたんでしょうきゅうりと大根のぬかみそ漬けが食欲をそそります。
私の出発準備は整いました。私たちはまだ美ヶ原の頂きに立っていませんので彼らはこれからそこを経由して松本に降りるといいます。
私の今日の予定ではほとんどが下り坂。王ガ頭までは目と鼻の先でほとんどが平坦地です往復しても1時間くらいでしょう、行ってみることにしました。
どうせまたここまで戻ることになるので山本君たちにはここに荷物を置きっぱなしで行ってくる、と伝えて先に山頂に向かいました。
すぐ先には美しの塔、牧場を突っ切るように散策路が続き2km位の最後に少し上りがあってしかし自転車でも登れる頂きでした。
観光客の人々も「え!?、こんなところまで自転車できたんですか・・?」と驚きを隠しきれない様子が少しこそばゆい感じです。
遠くには重なり合う山の端の合間に松本や塩尻の街の屋根が朝の光を反射して見えます。間近の八ヶ岳の肩ごしから裾野は少しぼんやりと富士山頂はくっきりと眺められます。

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いよいよ霧が峰を目指して下山です。先ほどの途中、美しの塔までもどると山本君たちは写真を撮りあったりしていましたが最後の別れです。
「それではごきげんよう、休み明けにはまた元気で会社でお会いしましょう」
わたしは一旦キャンプ地跡に戻って自転車に荷物をくくりつけて急坂を降りることにします。扉峠までは距離は短いですが登山道はかなりの急峻です。
リーダーの山田さんからは無理して登山道を降りず、少し遠回りでも自動車道を降りたほうが安全だと忠告は頂いていました。
まずは登山道の入り口から下の様子を伺います。想定する危険性について考慮すると登山道そのものが乾燥しすぎていてこれまた運動靴では滑りやすい。
それに一旦自転車を転落させてしまうと登山道から大きく外れて復帰が困難と判断できるのです。
これは忠告に従って少し遠回りでも自動車道を降りようと決めました。いずれにしても下り道ですから時間的にむしろトラブルのないことのほうが時間的に早いと結論づけました。
自動車道路でもこれはかなりの急峻です。自転車にまたがって下ることはできますが前後輪完全ブレーキ状態でもズルズル滑り降りる感じです。
下の方から大きなエンジン音をふかして小型トラックが砂埃を上げて猛然と登ってくるのが見えます。私はすぐに自転車から降りて道路の脇に避けます。さすがにここは須栗林道の比ではありません。
幾度かのつづれ織りを降りて上を見上げるともうその落差は500m以上も下ってきたように見えます。あたりも少しシットリとしてきた感じです。間もなく扉峠の分岐点まできたようです。
T字路になってV字谷の底に到着したようです。左に行けば丸子・上田方面、右に行くと松本方面の標識があります。私はここで右に曲がってしかも1kmほど今度は登らなくてはなりません。
馬の背のようなところまで登りきるとここが正式な扉峠でしょう、綺麗な十文字の交差点です。美ヶ原に向かう登山道と和田峠に向かう登山道がこの扉峠で交差するのです。
意外とこの峠付近、工事の車やら何やら騒々しい様子です。真新しい看板には「ビーナスライン、建設工事に伴い・・」つまりここから霧ヶ峰、蓼科に向けての観光道路ができるというのです。
こんなに自然に恵まれた美しい森の中に人間のエゴによって環境破壊が進められていることに腹立たしさを感じるのでした。
馬の背から美ヶ原の反対側に目を転じると短い綺麗な笹竹に全山覆われたような美しい山の起伏が確認できます。私の進む登山道はこの山、三峰山の頂上を経て和田峠に降りるのです。
扉峠からは僅かに2.5km、この斜度の登山道は自転車を押し上げて登る、計画通りの道です。それにしてもよく手入れの行き届いた登山道、楽しくなってくるほどに快適な登りです。

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高度を稼ぐに従って視界もかなりの美しさに変わってきました。この山の肩あたりで小休止です、先ほど下り道で往生した美ヶ原の峯と相対するほどに登ってきました。
もう一息で三峰山頂上です。茶臼山や鉢伏山も手に取るように感じられます。斜度が急に少なくなりました。だだっ広い丘のようなところに三角点、頂上だ!。
ここからなだらかな斜度が和田峠を経て霧ヶ峰、蓼科方面の高原に広がっているのが見えます・・・(続く)




(連載No.170)
美ヶ原から見た三峰山はすぐ目の前の眼下、その頂に樹木はなく恐らく背の低い笹薮で覆われていると思われていました。
しかし、その三峰山の山頂に来るとその笹薮はまるで芝で覆われているんではないかと思わせるほど本当に短い笹で覆われてそして反対側のなだらかなスロープは一面に絨毯を敷いた様に美しい。
しばらくこの景色を堪能しそして小気味よい風に当たっていると体力の回復もかなり早くなりそうな気がしました。
この三峰山山頂から和田峠までの登山道は本当に整備が行き届いていて自転車にまたがってほとんどブレーキとハンドル操作だけで山を下ることができるのです。
そして扉峠から和田峠の間は観光道路のビーナスライン延伸工事が進んでいますが開通するまでには数年はかかるでしょう。
ですから和田峠や扉峠まで車で来た観光客の絶好のハイキングコースは大勢の人気コースであり遊歩道としての評価も高いと言えるのでしょう。
今日の行程は約20km、美ヶ原から実家のある上諏訪までの距離です。すでに母にはこの日に帰省することは伝えてありますが自転車で帰省するとは言ってません。
まだ午前11時なのに工程の半分、和田峠に到着しました。今まで大勢のハイカーとすれ違っていましたがこの峠には人っ子一人見当たりません。
下諏訪から登ってくる中仙道は今や車の時代、新しい道路の整備が進みそのハイカーの駐車場はこことはかけ離れているためわざわざ旧道の峠にはむしろ来にくい理由があるのです。
少し広めの馬の背の感じのする和田峠には江戸時代から綿々とした中仙道の苦渋の悲哀は残された道標が物語っているようです。
不思議な二本の石塔の中心に立つと、西の正面には木曽の御嶽山が、そして東に目を転じると関東の玄関口としての浅間山が往時の旅人を奮い立たせてきたことでしょう。
私はここで美ヶ原で別れた山本君たちから分けてもらった昼食用のお握り弁当を全て食べつくしました。
ここから実家まではわずか10km、しかもその大半は下り坂というお気楽な気分になるのも致し方のないことです。

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「八島湿原(霧ヶ峰)」


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ゆっくり昼食を取ったのち自動車道のビーナスラインを使って約2kmは、やや緩やかな上りが続きますが急に視界が広がって下り坂になります、八島湿原に到着したようです。
私の子供のころ霧ケ峰を裏庭のようにして遊んでいましたが流石にこの辺りには数回しか来たことがありませんでした。
昔は高山植物保護なんて風潮もありませんでしたので私たちは子供心にもお盆に飾る花の採取はここに来れば豊富にあることを知っていました。
八島湿原を巡る観光ビーナスラインは保全のロープや柵がシッカリ施されていて昔のように自由な往来はできなくなりました。
これだけ大勢の観光客が来るようになってしまってはしょうがないことでしょう。しかし当時を思い起こさせる豊富な花の競い咲きは特に自転車の速度では目を見張るばかりです。
八島湿原から沢渡までは下り坂なので何の苦労もありませんでした。私がスキーを始めたころ霧ケ峰で滑ることが多かったですが沢渡は一番最後に開発されたゲレンデです。
霧ケ峰一帯のスキー場は既に需要的にはこれ以上開発しても発展はしないだろうという時期で危惧はしていましたが数年でつぶれてしまいました。
立地としては霧ケ峰の主峰車山の北東斜面、雪質も良く滑走距離もほどほど、斜度的には中級者以上しか受け付けません。何故ならば自然に滑走の止まるスペースがないのです。
従って家族主体の他のゲレンデが賑わう半面、陽も当たらずひたすら滑走技術だけを磨く孤独な若者相手では採算が取れないと言うことでしょう。
そんな倒産したスキー場の錆びた鉄塔を横目で見ながら最後の坂を1kmほど上り詰めると霧ケ峰・強清水の丘に到着します。
この辺りは本当に子供のころの裏庭、春から夏秋冬・・と想い出が数多く残る高原です。
高原の突当りには八ヶ岳連峰がそびえ、そのすそ野のころあいのいい辺に何かあれば絶景だろうと言う位置にナント富士山がデーン!、と鎮座しているのです。
目を更に右に転じると、遠景には南アルプス、中央アルプス、そして北アルプスの峰々がパノラマのように連なっています。
そして近くには川筋を隔てるように伊那谷を囲む山々、木曽の谷筋を一層険しくする山々が幾重にも重なってジオラマは空気の届く限りリアルに展開するのです。
残りの水は全て飲みつくしてもここから我が家まで下り坂、しかも30分はかからないでしょう。
観光スペースからほんのわずかで牧場になります。私のまだ子供のころ実家には農作業に使う牛がいました。トラクターのない時代ですから春の田おこしは牛がいないと始まりません。
田植えも終わると、牛にとっては夏休みになります。秋になってまた重労働を頼むまで牛はこの牧場で草を好きなだけ食べてのんびりと過ごすのです。
そんな牛の楽しい夏休みの始まりは父と私でよく送り届けをしたものでした。でも秋が近くなって迎えに行くとイヤイヤをする目つきの牛の顔が可愛くって今でも想いだします。

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なだらかな牧場が終わって下り道の視界は急に平坦地に向かって開きます。諏訪湖も見えます懐かしい私の故郷、諏訪の街が眼下に手の届くところまできました。
「かあちゃん!、ただいま〜」「は〜い、おかえり〜」
「おいどうしたえ!?、後向きに入ってきたと思ったら顔が真黒だ、どうしたズラ?」・・・(続く)




(連載No.171)
私の実家は上諏訪、温泉地として古くからその観光地として知られていました。
温泉旅館や歓楽街としての賑わいは諏訪湖畔や駅周辺に限られていて少し離れた我が家付近は静かな住宅街です。
しかし、我が家の周辺の路地、小路あたりにはあちこちから温泉の源泉が湧き出ていて当然のことながら私も帰省の際には必ず温泉に入ることを楽しみにしているのです。
私の実家は田宿・・という小路にあってそのうちの50軒ほどで一つの源泉を共有管理しているのです。
近隣には弁天町、北小路、新小路、湯小路・・・などの小路がありますが私の実家のある田宿と言うのはどんな名前の由来があるのか全く知りません。
宿と言う言葉のつく地名のほとんどは江戸時代を通して栄えた宿場町であって当然その流れに従った地名の由来と考えますが近所にそれらしい名残の家は見当たりません。
この辺り、農家を主体に一般住宅が混在する住宅街です。その割に付近に田んぼも見当たらず農作業はわざわざ田んぼのある地まで出向いての仕事が特徴的です。
そしてそれぞれの家屋敷の区割りは昔のままのしきたりに乗っ取った、つまりどの家も間口はせいぜい4間ほどしかありませんが奥行に関しては12〜3間あるのが普通です。
日本の古い街並みはどこでも通りに面した間口の大きさで税金が決められていた・・名残でしょう。どの家も庭と言うものは裏庭というように居住家屋の裏にあります。
我が家は農家ですから庭には荷役や食肉としての家畜がいました。牛、羊、ヤギ、豚、犬、にわとり・・・全てが同時ではありませんでしたが・・それと家の中には猫まで。
当然ながら表の通りから裏庭まで抜けることのできる玄関はこのトラクター(牛など)・・が通れる広さが要求されるわけです。
家の前には今でも車のすれ違いも難しいほどの表通りがあって、道端は”衣の渡川”という川幅5mほどの掘割河川が諏訪湖までつながっています。

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歩いて5分ほどのところに高島城があって、この水路は当時から要害として、また田んぼにめぐらされた水路と共に水運を助けていました。
その家の前の河川には二艘の舟が舫っていて一艘は水運を利用して田んぼの荷役に使う作業舟、もう一艘は諏訪湖まで下って漁をするための快走舟でした。
水運作業船は車がなかった時代、田んぼの掘割から刈り取った稲や農作業機器を運んだりと当時は便利に思ったものでした。
父は農業の傍ら早朝に諏訪湖に出向いて投網などで漁業者としても働いていて相当な働き者であったと当時は感じていました。しかし、大人になってからそれは彼の趣味だったことに気が付いた。
ですから私としてはこの二艘の操船は子供のころから見よう見まねで習得し竿による操船では茨木の水郷に遊びに行ったときには女船頭さんは腕前を見て、潮来出身か?と思われたほど。
そして諏訪湖の水深は竿は届きませんから艪櫂を自由に使いこなします、千葉の太海に遊んだときはどこの船宿の出身か?とも尋ねられたほどです。
そうそう・・、小さな子供のころ私はこの川にかかる橋ではよく家から牛を連れだして私が欄干によじ登ってその背中に乗っては付近を散歩して遊んだものでした。
多分、牛にとっては相当な迷惑だったでしょう。自分より20分の1くらいしかない小僧でも怒らせると仕返しに鼻に唐辛子を塗られては堪りませんから従順にしておこうかと。
まあこうして実家に帰省するたび見るもの置いてきたものに想い出がぎっしり詰まっていたことに驚きます。
当時、私の父はまだ50歳代半ば、母にしても40代後半でしたがしばらく会わないうちに随分老けてしまった・・と感じるのです。
夕飯までのひと時、川向いにある共同浴場に入ってくるとします。まだお日様の高いこの時間では誰も入っていないでしょう、ひとりでゆっくり浸かれそうです。
そう言えば幾日もお風呂に入っていません。山では千曲川を渡るときの水浴び、武石村や美ヶ原の湧水で体をふいたのが精々でした。
「う〜ん!」、湯温はさほどでもないはずですが手足がすっかり日に焼けてこの温泉が実にピリピリと体に滲みるのです。元々この温泉は無色透明で刺激のないことは知っています。
しばらく我慢すると気持ちよさがやっと伝わって幸せな気分になれました。この温泉は昔からご飯の煮炊きはもちろんですが料理の湯漬しや洗濯など常に生活の中にありました。
温泉から出て橋を渡って我が家に戻る途中は1〜2分です。間もなく日も暮れようとする心地よい川風が信州の涼しさを感じます。
家の近くまで来ると何やら美味しそうな料理の匂いが外まで漂ってきます。恐らくこの匂いは・・、今日の私の帰省のためににわとりが一羽、天に召されたようです。

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我が家ではいつものことですがお客さんが泊まったり、私や次兄が帰省した時はあまり卵を産まなくなったにわとりから順繰りに召されるのです。もちろん、父が諏訪湖で大漁の時は当然魚料理にもなります。
召されるにわとりですが子供の時からその手順はよく目にしていました。その頃父の手順では当たり前と思っていましたが今では長兄の手際はに寄ると、にわとりさんも寝むるように静かに亡くなるから不思議です。
久しぶりの父母と長兄夫婦と楽しい夕餉です。積もる話も沢山ありました、私の東京から自転車で帰省したことは勿論大きな話題ではありました。
こうして話していると当初両親もかなり老けてしまったと感じた気持ちも失せて以前と変わらない感じになってくることも不思議でした。
親父も繁々近くで眺めるとお酒の入ったことで益々饒舌になり日に焼けた顔も益々艶もまし元気そのものにみえて幸せそうに感じるのでした。
時の経つのは早いものです、しかも楽しければなおのことです。もう明日の朝、私は次に向かう甲州街道から東京を目指さなくてはなりません。
久しぶりの実家での就寝、この自転車旅行にとっても途中でこんなにゆったりとした気持ちで布団の上で眠れる幸せも嬉しいことでした。
夜半、突然の大音響と強い揺れ!、・・ああ、幼少期からこんなことで目を覚ましたことはなかったのに。
深夜の貨物列車、我が家の庭先にある中央本線のカーブを上諏訪駅に向かってブレーキをかけながら進入するのです・・・(続く)




(連載No.172)
実家では久しぶりにくつろいで就寝することができました。
夜中に何度も貨物列車は通過しているはずですが驚いたのは最初だけ、子供のころから慣れている列車通過の振動も気になることはありませんでした。
実家ではもう少しゆっくり滞在したいところでしたが夏休みもあと3日、そして今日の日程では美術部員の茂木君とは国道20号のどこかですれ違うかも知れない予定なのです。
この休みに、私は高崎、軽井沢、諏訪、甲府そして東京に戻る計画に対して茂木君は富士五湖を巡って小淵沢、清里、佐久、軽井沢・・と私のほぼ逆に近いコースで自転車の旅をしているのです。
お互いの計算では甲府、小淵沢間の35kmの間で時間が合えばすれ違えるはずだね・・とは話し合っていました。
しかし私はその間、下りの坂道ですから時間にして一時間かかりません。この日彼が精進湖から甲府までの下りで予定より遅れればすれ違いは無理でしょう。
私はこの日のうちに甲府を過ぎて勝沼から盆地を取り囲む坂道を登り詰めて全長3kmもある笹子トンネルを通り抜けたいのです。
笹子トンネル自体がもう古くて路面は凸凹、トンネル幅は狭く灯りの設備も自転車の通行では心もとないのです。

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そんな多少の不安感もあって余計にのんびり出発と言う気になれないのです。朝食の最中でも母は心配事を口にしながら充分に気を付けるようにと促します。
7時半、まだしっとりと朝もやに包まれた実家を後にします。持っていくように言われた野菜のほとんどは置いてきました、そんな行商に行くほど持たされても困ります。
国道20号、甲州街道はほとんど中央線列車と並行しています。茅野駅、青柳駅、(すずらん駅はまだありません)富士見駅までは20km、その後半分は上り坂です。
諏訪から茅野駅を過ぎるまではほぼ平坦地、この辺は道路の舗装もきれいで何の支障もありません。
以前に中学2年の夏、諏訪から甲府まで自転車で行ってきたことがありました。往復140km、しかも自転車は昔のことで重い実用車での大冒険でした。
あのころは道路も未舗装、体力不足、帰りの途中でトラックに拾われて帰ってきた惨敗経験、そんな想いが頭をよぎります。
しかし、いまではその道もすべて舗装道路になり自転車もギアーの切り替えが付いて坂道を登るのに大変楽になりました。
まあ楽になったと言ってもテントや着替え、食料など最小限とは言え20kg近い荷物を積んでいますから当時の実用車で日帰りの苦役に相当する上り坂です。
諏訪の標高は760m、そして富士見駅は960m、200mの高さを稼ぎます。それまでシットリしていた空気感でしたが水滴が大きくなってきました。
雨合羽を着ようかどうしようか迷うところです。すでにこの10qの坂を攻め始めてまだ半分にもならないのに汗で衣服は濡れています。
青柳付近の見通しの利く場所から富士見の高原方面を見ますが雲にすっかり覆われて見えません。
今日は雨降りなのかなー、朝の天気予報ではそんなことはいっていなかったような気がする。でもその峠を越えるとまた別の天気予報区域ですから先のことは分かりません。
この辺まで来て国道は一旦下り坂になります。それはそれでありがたいことですが並行する列車の線路は随分高い所にあっていずれはこちらの上り坂がきつくなることを暗示するのです。
自転車にとって苦しい上りの時間は実に長くって、楽な下りはあっという間に終わってしまいます。
富士見までの最後の坂、あと2〜3kmの辛抱です。それを超えればその先50kmは下り坂、つまり極楽走行が楽しめるのです。
前方に峠らしき雰囲気が伺われ信号機の赤い灯が緑色に変わるのが確認できます。もう少し近ずくと左に曲がると富士見駅前の標識も見えます。
9時を少しすぎてしまいましたがほぼ予定の時間にこの峠に到着したわけです。ここから小淵沢までは2〜30分、茂木君とのスライド予想時間9時半からの時間には間に合います。

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少し休憩と持参した3個のおにぎりのうち1個を食べておきます。まだ温かみの残る母の出がけに握ってくれたおにぎりの味は何となくジーンとくるものがあります。
小粒ながらもどうやら雨に変わってきてしまいました。この旅行で初めての雨合羽を荷台の一番下から引っ張り出して着ました。衣服は濡れていますが体温を下げないためにも着なくてはなりません。
さてスタートです。これから50kmの下り坂です、時々ブレーキを強めに握って利き具合を確かめながら走行します。10分もしないうちに両手が冷たくなります。
ゆるやかな坂で片手を離し握ったり開いたりして手の運動をして温めます。何組かのサイクリング仲間とすれ違い、その度にピースサインを出して励まします。
幾つか急でうねった国道を降ります、もうここのあたりから国道と中央本線は離れ離れです。時々過ぎる集落も昔の宿場町の様子です。
9時半、予定時間に小淵沢、八ヶ岳小海線方面分岐点通過。雨はどうやら本降りになってきてしまいました、この分では茂木君も今日の予定を変更しているかもしれません。
国道は釜無川に添って長坂付近でしょうかいずれは富士川という大河になりますがまだこの当たりでは逆巻く急流です。
下り坂も時々少し緩くなって薄暗い宿場の集落が雨にけぶって国道に張り付いています。こんなに雨が強くなってきてしまってはブレーキを握る手も冷たく疲れました。
一旦、どこかの軒先で小降りになるのを少し待った方がいいのかな・・。
対向車線にはまた一人サイクリストがビショビショになり、あえぎながら坂道を登ってきます。
可愛そうにご苦労さん・・・、私は下りの余裕ですからチリンチリン・・とベルを鳴らしてピースサインを出します。
下向きになって必死こいてペダルを踏むその人は手のひらで顔の雨つゆをベロッ!とぬぐって苦し紛れの笑顔を作ってこちらに向けます。
「おーい!、茂木君じゃねーか〜?、俺が見えてるか〜・・・!?」・・・・・(続く)




(連載No.173)
まさかこの土砂降りに近い雨、私は茂木君もさすがに予定変更をして今日の日程はありえないだろうと彼とのすれ違いはもうあきらめてしまっていました。
そしてすでに忘れかけていただけにこんなシーンで茂木君に会うなんて本当にびっくりしました。
それよりも茂木君の方こそ今朝は富士五湖を出発する時からすでに雨、ですから私の方がきっと予定を延期するでしょうからと彼もあきらめていたところだったと言います。

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国道20号はこのあたり一旦釜無川から離れて甲斐駒ケ岳を源流とする尾白川のゆるやかな川沿いに並ぶ街道筋です。
街道の左右には古い昔の宿風の建物や豆大福、信玄餅を売る金精軒という茶菓子屋さん、はす向かいには造り酒屋さんの七賢などが軒を並べています。
取りあえずこんな雨降りの中、道端では話にもなりません。せめてこの茶菓子屋さんが開いていてくれればよかったんですがこの天気のせいでしょうかお休みしています。
でも大きなひさしのある立派な店構えです。店先ののきをお借りして自転車を止めました。古めかしいしっかりした格子戸の前でホッとしたところでした。
「まさかこの天気では茂木君も今日は予定変更だろうなと踏んでいたんだけど・・」
「いやいや、幸三郎さんこそ確か実家に泊まる・・って言ってたからこれではもう一日延期だろうなって思いましたよ」
「いずれにしてもお互い、これしきの天気にはそれほどへこたれないと言うことだね」
これは幸いなことですからお互いこの先の情報を交換することにします。
「この先、茂木君が向かう八ヶ岳方面への分岐点までは約5km、この宿場を過ぎて釜無川沿いの5kmはかなり急坂、時速7〜8kmで昇れば小一時間くらいだね」
「そうですか、幸三郎さんの向かうこの宿場の先ですが、すぐにこの尾白川と釜無川が合流して15kmくらいは結構急な下り坂です、気を付けてください」
「どうもありがとう。実は富士見からここまで12kmくらいはブレーキの掛けっぱなしでもう手が冷たくてマイッタよ」
「ブレーキが辛いなんて、よく贅沢を言うよ。オレなんか今日の到着予定地の野辺山までずーっと登りっ放しだからね」
「あとどれくらいの距離なの?」
「距離としては15kmくらいで大したことはないんだけど、この先の登りが結構辛そうですよ」
「そうか、この辺は600mくらいで、小淵沢までの5kmで250m以上の上りだね」
「そう、そして小淵沢から小海線沿いに最初の甲斐小泉まで更に250m、そして更に野辺山まで330mの登坂の連続ですよ」
「まあつまり標高差750mは登ると言うことだね、おれだって碓氷峠を一日で登りきったから・・まあ苦あればその先が楽そうだよ」
「そうあって欲しいもんだけどねー」
「それよりもオレはこのまま甲府盆地まで300も下って、そして今日中に420m登らなくてはならないんだよ」
「今日の宿泊はどこの予定ですか」
「笹子トンネルの出た先、しかもトンネルの長さは3kmもあって明かりも無い真っ暗トンネルだってことらしいぜ」

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「そうか、まだ今日のうちは苦労が絶えないってとこですね、でもこの先、気を付けて、元気に会社であいましょうよ」
「そうだね、お互いの無事を祈って、それじゃあ頑張ろう!」
わたしはこの自転車旅行の中で美術部員の山本君と美ヶ原で、そして茂木君とこの国道20号の長坂付近でスライドするという二つの目標は見事にクリヤーしました。
茂木君と別れて間もなく尾白川の橋を渡ると直ぐに釜無川と合流してまた急坂に差し掛かりました。
雨が強いのか自転車のスピードがあるせいか顔に当たる水滴が痛く、そして冷たいのです。
韮崎を過ぎると下り坂もかなり緩やかになってきました。ブレーキも時々掛ける程度なので快適です。右左交互に手を離してグーチョキしてリラックスできます。
そのあともかなりの距離、快適に緩やかな下り坂を今度は軽くペダルを踏みながらの走行になりました。
こうして快適な走行をほしいままにしているとこれから立ち向かう420mの標高差が恨めしく思えるのです。
雨はかなり小降りになりましたが、ジワッとまだ夏だと言うことを思い出させてくれるようなムシムシした感じがしだしました。
もう甲府盆地の真っただ中、竜王あたりで釜無川は右に、中央線の列車は左に分かれていよいよ甲府の街を突っ切ります。
石和温泉を過ぎると甲武信岳を源とする笛吹川の川を渡ります。さて、ここからイヨイヨ登り坂の始まりです。雨合羽も脱いでたたみます。
ここから約12km、標高差420mの登りになります。まだ時間は昼を過ぎたばかり食事、そして勝沼までの間にほぼ二日分の食料も購入しなくてはなりません。
出来れば自転車の軽いうちに登りきればいいんですがトンネル付近にはお店は望めそうにありません。・・・・・(続く)




(連載No.174)
笛吹川の橋を渡って国道は果樹園の中をバイパスとなって勝沼までほぼ直線で昇って行きます。
近道ではありますが食料の補充など買い物をする場所はほとんど皆無です。私は笛吹川の土手からこの川筋の支流になる日川沿いの土手に進みます。
5kmほど走ると前方の日川に架かる橋につきそれを渡って日川部落の商店街に入りました。郵便局の角を曲がると雑貨屋やパン食料品店を扱うお店も見えてきました。
この辺りは中央線の春日居町駅から2kmほど離れていますがなぜか駅近くよりこちらの部落周辺の方が賑わっているのです。
恐らくバイパスができる前にはこちらの通りが国道20号、はたまたそれ以前は甲州街道の街道筋の宿場町として永いことにぎわっていたと思うのです。

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食料は精々今夜の分と明日の朝、10時の腹ごしらえ分、そして昼食まであれば十分です。つまり今夜の野宿が今回の旅の最後の泊まりになるわけです。
パン屋さんと肉屋さん、そして酒屋さんにも寄りました。これから登り道だというのにこれくらいの買物の重さも少し気になるほどです。
日川高校は街並みのはずれです、川は見えないですが音が近くに聞こえこの街道は日川の川筋に沿って登って行くのでしょう。
川の音が一段と大きくなりそして坂道もローギヤー力いっぱいでも最低の速度しか出ません、すぐに汗が滝のように吹き出して目にはしょっぱいものが視界を遮ります。
暫くすると道は川と離れて少し登りも緩やかになってヤレヤレ・・といった感じになりました。わずかな平地の田んぼ道でしょうか気持ちもなごんできます。
しだいに街道筋の人家もポツポツと増えてきてもう隣町の勝沼の集落が近いのでしょう。勝沼中学校を過ぎると前方には右と左から山の迫ってくるのが見えます。
勝沼小学校を過ぎて勝沼氏館跡までの約1qがこの街の中心部、勝沼駅とはやはり離れていますが駅前よりこちらの方が賑わっています。
一気に人家も無くなって500mほど先から国道バイパスと合流します。山裾はすべてぶどう棚に覆われて国道は切通の道を進む景色です。
大善寺のお寺を過ぎると国道は日川を右下に見ながら急坂が続きます。左から迫る山は鬱蒼とし、川向うの中央高速も自動車のけたたましい唸り声が響いています。
国道20号、登り坂ではこれほどに車の往来が目障りなことはありません。下りや平坦地では自転車は直進しますがこの上りでは多少の蛇行も致し方ないのです。
左の斜面の山はさらに険しくなり右側を流れる日川は既に谷底を流れるほどに高低差が付いてしまいました。
すると中央高速がグッと国道の上にのしかかるようにせり出して来てそちら側からのトラックなどの喘ぐ音が間近に頭上から降り注ぐのです。
この付近では道路下の日川も山間部なのにその山裾を大きく削って蛇行します。一旦高速道の向こうに分かれた川も再び高速の下をくぐって国道沿いに流れます。
幾軒かの集落が見え坂道もすこし優しくなり今度は日川は国道の下を蛇行します。そして国道、日川、高速道・・と仲良く並んだところで高速道の車の音もフッと消えました。
恐らくその山影あたりが高速道の笹子トンネル入口なのでしょう。少し道が平坦になり人家も、そして勝沼からトンネルを出たばかりの列車の線路が今度は左に現れます。
小さな町、甲斐大和です駅前には大和小学校そして駅の向こう側の斜面には大和中学校、すぐに跨線橋で中央本線をまたぐときすぐ先の鉄路はもうトンネルに消えてしまいます。

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勝沼トンネルと、笹子トンネルに挟まれた僅か1kmくらいの平坦地の街にも別かれて再び国道と日川は並んで坂を登ります。
気が付くとこの国道、この辺りあまり車の通行量が多くなくそれゆえか再び川の音が大きく感じます。川筋も急流を緩和するため10mごとに堰を作って流れを緩めています。
少し川面に近くなるころ道は再びなだらかになり小さく耕された畑もあります。その先、国道は橋を渡って日川と別れるようです。
と言うことはこの丸林橋を渡って1qほど最後の坂を登り詰めるといよいよ国道は笹子トンネルに入るのです。
一旦橋のたもとに自転車を止めて一休みするとともに荷物の荷造り点検、そしてライトの点燈など確認します。橋の上は日川の流れに沿って風も上流から心地よく流れてきます。
オットト・・、どうしたことでしょう、もうすでにこの橋もかなりの傾斜で自転車のスタートが・・・。
橋を渡り終わると最後の直線登坂、ここもローギアーで踏ん張ります。まだ時間的には3時すぎくらいです、予定通り明るいうちにトンねるまで来れて良かったと歯を食いしばります。
いよいよ笹子トンネルに到着しました。数台の車が休憩し、静かな空間に時々思い出したようにトンネルから出てきた車の音が驚かせます。
トンネルの中を覗くとどうやらこの先は100mほど短いトンネルがあってそしてまた100mほど行くと今度は本格的なトンネルのようです。
先ずは手始めのトンネルに入ります。前方が眩しすぎて中の様子や路面状況が見えません。ときどき穴ぼこのように路面の荒れているところもあるようで注意が必要です。
出口に近づくにしたがって路面の状況は全く見えません。トンネルの道幅も単なる片側一車線の対面通行、特に自転車や徒歩のひとが通れるようにはなっていません。
この3kmのトンネルは平坦ではありますが私の重装備の自転車でライトの発電機を回しながらでは10分以上はかかりそうです。
今のうちは車がほとんど通っていません。もし車とすれ違ったり後ろから迫ってきたらもうほとんど命はあなた任せ・・、意を決して笹子トンネル突入です。
目が暗闇に慣れるまでまるでメクラ運転です、それでも自転車のライトはしっかりと数m先を照らしてくれているのはよくわかります。
しだいにその暗闇に目が慣れてきました。すると前方のはるか彼方に小さな明かりが見えるのです、驚きました、このトンネルは3km、直線で出来ているのです。
突然背後のすぐに轟音が響き渡って慌てふためいて後ろを振り返ります。なんだ、はるか後方に車がトンネルに入ってきた音なんだ。・・・・・(続く)


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(連載No.175)
後ろからの轟音からすると大型のトラックかと思いましたが追い越されざまに見ると普通の小型トラックではありませんか。
トンネル内に音が響き渡ってあたかも大型トラックだと思い緊張していましたが大したこともありませんでした。
しかし自転車の前照灯に比べて車のライトの明るいことと言ったらまったく羨ましい限りです。
そのトラックも前方のはるかに走り去って再び自転車の前は薄暗い貧弱な明かりを頼りに進むしかありません。
先ほどのトラックはもうトンネルを出るのでしょう、プッ!っと短い警笛音が聞こえて見えなくなりましたが代わりに対向車が前方から侵入してくるのです。
まだ距離は相当ありますがもうその進入してきた車のライトが眩しくってまたもやメクラ運転に近い状態になるのです。
相当近くまで来てその車は私の自転車の存在を確認したようです。何とか上向いていたライトは下向きに変えてはくれましたが焼け石に水状態です。
そして至近まで近づいた時親切にもライトはスモール点燈にしてくれたのです。すれ違いざまに運転手の顔がチラッと見えましたが手を振ってくれたようなしぐさが見えました。
再び静寂が訪れてひたすら前方のトンネル出口を目指してペダルをこぎ続けます。
後ろを振り向くと入ってきたトンネル入口の明かりが小さく見えます。そうか、前方と比較すると明らかに中間点は過ぎたようです。
今になって気が付いたんですがトンネルの中はほとんど風もありませんが随分とひんやりしています。トンネル口までの急坂で出た汗も何となく引っ込むほどに涼しいのです。
今度も後から複数の車がトンネルに進入してきたようです。車は複数と言うことは分かりますが先ほどの大きなアクセル音はなく比較的静かな運転のようです。
大分近くまで来ましたが相変わらず速度を上げるでもなく何となくゆっくり走っているようにも感じるのです。
私も少し余裕が出てチラッと後ろを振り向いてみましたがどうにもその車の行動すらわからないのです。
ひょっとして・・、トンネル入口の駐車場で作業用の小型トラック二台が休憩していて私が会釈して通過してきたオジサンたちではないでしょうか。
ですから休憩が終わって出発して間もなく私がまだトンネル内にいることを熟知していたうえでの後ろからの明かりの援助をしていてくれているのです。
もうトンネルの出口までは1kmもないはずですが二台のトラックはそのまま私の自転車を抜くことなくノロノロと走ってくれました。
わたしも少し勇気が出て・・そうすると、何となく別な力が湧いてきてペダルに力も入ります。
時速20km、私の自転車で出せる最大の速度のままもう間もなくトンネル出口も大きく見えてきました。

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ここでも後ろからの明かりのお蔭でトンネル出口のメクラ運転もなく大変に助かりました。とうとうトンネルを通過しました。
矢張り後ろから来ていた二台のトラックは入口の駐車場で休憩していた作業トラックでした。
私はお礼を言おうと自転車を脇に止めて降りようとしましたがその車はプッ!、プッ!、と短い警笛を鳴らして走り去ってしまいました。
案外とあのオジサンたちは親切なんだけどハニカミやさんだったんだなー・・と気持ちもほのぼのとしてきました。
時間はまだ4時前です。まだ空の高い所で太陽が光っています、そういえばトンネルの向こうでは天気は曇っていましたがこちら側は雨の降った形跡も見当たりません。
今日の私の泊まる最後の場所はこのすぐ下に昔の国道20号線・・つまり、トンネルができる前の昔の峠越え旧道があって今は全く車も通らない廃道があるはずです。
この笹子村の浄水になる小川もあるはずなので明るいうちにテントを張れそうです。
トンネルを出た右手に食堂が二軒ほどありそれを過ぎると左に大きくカーブして右の分かれ道が旧道の入口です。
いきなり入口に大きな岩石がどこからか落ちてきたのかわざわざ侵入を拒むために置いたものかちょっと不安になります。
案の定、これではあの岩石がなくともこれは普通の車では入れるような道ではありません。
舗装もしてありませんし路肩も定かではなく一抱えもある石が累々と転がっているのです。恐らくどこまで登ってもこんな状態でつながっているんでしょう。
私は自転車を押して一つつづらを曲がった国道を見下ろせる場所にテントを張ろうと決めました。水汲みは少し登ったところにありそうです。
日川のお店でクジラ肉を買いましたのでそれを焚火で焼いて食べようと思います。この自転車旅行最後の晩、少し贅沢にトリス・ウィスキーのポケット瓶もあります。
テントを張り終えて焚き木拾いでもというころ私と同じような重装備の自転車をこちらに向けて押し上げて来る青年がいます。
つづら折りの曲がり角でようやく私のいることに気が付きます・・・・・(続く)




(連載No.176)
国道20号から旧道の一つ目のつづら折りまで自転車を押し上げてきた青年は見晴らしの良いカーブにきて私がいることに気が付きました。
私を下から認めると軽く会釈をしてなおもこちらの方まで登ってくるようです。
あそこで引き返すようではどうせ話し相手になるような人ではないでしょう。
でも私にかまわず登ってくると言うことは人慣れた青年でしょう、今夜は焚火でも囲んで話し相手ができそうです。
私もここで彼が到着するのを待ち構えているというのはどうでしょう。焚火の準備で木の枯れ枝など周囲には豊富な材料があります。

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これはと思う木っ端を集めてしばらくするとその青年は私の止めた自転車に並べて私に声をかけます。
「今夜はご一緒にお邪魔しますが・・よろしいでしょうか」
「は〜い、どうぞどうぞ。一人淋しく過ごさなければと思っていましたがこれは嬉しいです」
私も一旦枯れ枝を集める手を休めて青年のいる場所に戻ってきました。彼の自転車には真新しい荷物が満載されています。
「今朝、東京を出てやっとここまでたどり着きました」
「お疲れさん、これからどちらに向かうんですか」
聞いてみると私が来たルートを彼は真逆に回って東京に戻る予定です。羨ましいのはその日程が私の1.5倍、11日間だと言います。
「じゃあ、学生さんですね。今夜は私からあちこちの道路状況のレポートをお伝えしますよ」
恐らく昔はこの近くに住んでいた方の畑か何かだったんでしょうそれほど広くもない平坦地の真ん中に焚火場所。
そして、それをはさんでお互いのテントを設置しました。私はすぐに設置し終わりましたが彼はどうしたことでしょう
「今まで二回ほどテント張の訓練はしてきたんですけど・・」
「そのロープの使い方って、逆ですよ。練習の時にはここのペグ打ちまでやってみたんですか・・?」
「いえ、我が家はマンションなのでそこまではしてないんです。地面に寝るのは今日が初めてです」
何だか楽しくなってきました。私も急にこの件に関しては彼の大先輩だと言うことに気が付きました。
これは、今夜は同じ仲間と言うよりもこれからの道中、少しは助言めいたことも話題に載せた方がいいのかな・・と思うのでした。
取りあえずテントの中にそれぞれの必要な道具は入れ終わって焚火しながら食事の準備です。
私は街で買って来たクジラ肉に塩を振って焼き始めました。彼は驚いてみています、「なんか西部劇の映画を見ているようですね」
彼はというと米を洗ってご飯を炊くようです。「あの僕ね、この旅行で毎回ご飯を炊くのを楽しみにしているんですよ」
人はそれぞれその旅ではどう過ごしたいかしっかりしているものだと思いました。そして彼には相当のこだわりがあってそれを実行しようとしているのでした。
「僕はこんな経験ができるのは恐らくこれが最後かもしれません。来年からは社会人ですから」
「え〜?、私は既に社会人ですが現にこうやってあなたと同じようなことをやっていますけど?」
「そうですね、でもかなり社会人として慣れてこないとそこまではできないんじゃないですか。今は早く社会人に慣れるのに精いっぱいやるだけです」
「一概に社会人といってもそれぞれの目指す社会人像って違いますからね」
「あの、そのテントに書いてある会社名と山岳部・・って、あなたの勤めている会社ですか」

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「そうですよ、ここに私は勤めていますが山岳部ではないです、山岳部に居る友達からこのテントお借りしているんですよ」
「私その会社を受けて内定の通知をいただいているんです。あなたは私の入る会社で先輩になる方ですね」
「え!?、それは奇遇ですね、で学部は・・?」「理工学部ですが・・・」
「それではいずれ同じ勤務先になる確率は随分高いです」・・・・・(続く)




(連載No.177)
お互いの自己紹介をしながら取りあえずは乾杯しましよう。「・・私は風間啓介、先週誕生日があったので25歳、一浪していましたので・・」
もうすっかり大人の手つきで自分の持ってきたウイスキーを注いで焚火の向かいに腰を下ろしました。
「わたしは幸三郎と言います、年は彼方より少し先輩ですがまだ社会人としての自覚が希薄な28歳です。あなたの修士論文はどんな分野ですか」
「ハイ、お酒が好きなもんですから発酵微生物やキノコ・・関係の・・」
「判った!、最近私の会社ではその生化学分野の研究室を立ち上げたんで今までの高分子や物理化学以外の変わった人材の入社に力を入れているんですよ」
「・・そうなんです。色材の会社なのに新しい分野の研究を立ち上げる・・って言う主旨でした」
「風間さん頑張ってください、私はこれからも今までの色材で一層の利潤を上げてあなたの研究費を捻出しますから・・」
「教授からは専門分野の上司がいないので研究の自由さはありますがその分の責任は重いぞ!・・って脅かされていました」
ここ笹子トンネルの出口付近はまだ山梨県ではありますが信州方面からきた私にはもう空気の湿り気は今までとは違っていました。
風間さんと私はすっかり酔ってしまっていつの間にか二人とも将来の製造部長と研究統括部長になって話が盛り上がってしまいました。
「さあ、わたしは明日はいよいよ東京へ突入。風間さんはこれから困難に立ち向かう旅人だ、寝ようか」
お互いのテントに分かれて私はテントに滑り込みました。今まで高原の爽やかな空気の中での就寝は快適でした、しかしまた東京では蒸し暑さの中で過ごさなくてはならない。
そして明後日からは会社での仕事が始まるんだ・・、製造部長もやっと正気を取り戻して本気で将来像を描かなくてはいけない。
私はこの自転車旅行をしながらそしていつも寝る前に自分の将来像を現実に照らし合わせて思いを巡らせてきました。
会社員として、そして絵を描くことへの執着心など幾度疑ってみてもこのまま人生を送ってもいいだろうかと言う懐疑心しか残らないのです。
同じ会社に入社した同期の仲間は既に課長になって先頭に立っている者もいます、そして少なくとも一般的には係長として職場の若者を牽引しています。
私は、絵を描いているから・・とそこは避けて通ってきました。個人的にはこのままの環境でずっと暮らせたらどんなにか幸せだろうか。

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しかし周りの環境が必ずしもそれを佳しとさせてくれなくなってきました。それは両親や誰に指摘されたとかでなく自分の肌で感じ始めていました。
今日も偶然ではありましたが私の会社に新しく入社する風間さんの心意気に触れました。
私より若い彼の方がずっと先を見据えている。そして何よりも自分の立ち向かう将来に対しての自由さと責任という自覚をもっている。
私には概ねの自由さは供えられている、しかし社会全体の中で年相応の責任感・・ってあるだろうか。
その責任感ってやつは何なんだ!、絵を描くことと社会に対して年相応の責任感をもって暮らすことの間に矛盾はないのだろうか。
絵画の世界でも印象派以来の画家たちは果たして社会の一員としての責任を果たしてきただろうか。
稀な人では芸術運動として社会に人間の可能性を問うことによる啓蒙を示すことにより重責を果たしてきた人もいます。
しかし、思想としてはその多くは奇人変人で片付けられて時代に合わないものとして扱われてきた。のちに社会の目が注がれたときにはその人は既に消滅している。
それはそれで後世の人は素晴らしい人生、と賛辞を贈るかもしれません。
そんな故人にあこがれて私を含め多くの若者が絵を描き将来の虚像に夢を馳せてきた。つまり多くの若者にとって画家になりたいというのはまさに幻の虚像に過ぎないのだろう。
私はそれでも画学生のころの仲間のうちでも28歳まで仕事と絵を描く・・という二足の草鞋を履くという頑張りを続けてきた。
お前は十分に若者の時代に青春の夢を叶えようと頑張ってきた、そして成長するに従い人生の社会に対する責任を感じ始めたんだ。
絵描きになれそうもない・・と悟ったのはつい昨年の個展の時ではなかったのか、そして最も大切な絵を描くという心の素材に苦し始めたのもその第3回個展の時だった。
子供の心を持ち続けていればどんな疑いも持たずに絵にして表現することは出来た。しかし成長して来るにしたがって、つまり普通の大人として成人してきたんだ。
絵が描けない・・と言うことは大人になってきたんだと言う証なんだ。
帰ったら恐らく今度が最後の個展になるでしょう暮れの第4回個展に向けて精いっぱいの努力をするのみです。
キョ・キョ・キョ・キョ・・さほど遠くないところで夜鷹が盛んに鳴いています・・・・・(続く)




(連載No.178)
冷たい空気がツーンと鼻から入ってきます。国道20号、笹子トンネル出口からかなり上に居るのに車の音がここまで響いてきます。
ときどき笹子駅方面からエンジン音を喘ぎらせて登ってくる貨物車などの騒音がトンネルに入ると同時にフッと消えてしまうのです。

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そしてトンネルから出てきた車は軽やかに坂を下って遠ざかっていく様子が音を聞いているだけで手に取るように判るのです。
さて、この自転車旅行の最後の朝だ。夕べ熱く語り合った風間さんはもう起きている気配がします。
時計を見ると6時、テントにはまだ陽がさしてはいませんが周囲の木々のうえには確実に日が差しているようで明るくテントに反射しています。
「やあ、おはよう。良く寝れましたか・・」「ハイ、まだテント生活が慣れないんでしょうか夜中に何度も目を覚ましちゃったりして・・」
「そうでしたか、ご愁傷様でしたね。まあそのうちに猿が木のうえで警戒の声を出して騒いでも平気で寝ているようになりますよ・・」
風間さんはどうやら朝食もちゃんとご飯を炊いて食べるんでしょう。盛んにコッフェルの蓋から漏れる蒸気の匂いを嗅ぎながら炊き具合に集中しています。
たしか彼は昨日、この自転車旅行では朝晩にはキチンとご飯を炊いて食事するんだ・・という目標を掲げていました。
「シッカリと目標通りにやっていますね・・」「ハイ、せめて先輩の目の届くうちだけでも・・・(笑)」
わたしはやおらテントの柱を先ず取り除いて少し先の日当たりのいいところに広げてきました。
「あ、先輩、さすがですね。そう、何をさておいてもテントの露は出発までに乾かしておきたいですね」
「そう、いや風間さん、あなたは今、赤子鳴いても中ぱっぱ・・」「なんですか・・それ?」
「いいよ判んなくても、今日はオレが干してあげるからご飯炊きに集中しててよ・・」「すみませ〜ん」
7時ころにはすっかり朝食の場には真夏の太陽がジリジリと照り付けるころになりました。
「さあ、私はこのサイクリング旅行の最後のゴールに向かって出発します。風間さんもこれからの山岳道路、大いに楽しんで良い思い出を作ってください」
「幸三郎先輩、昨夜は本当に楽しく素晴らしい初日でした。入社してお会いできましたら宜しくお願いします」
もうこの時間には二人とも流れる汗をぬぐいながらなの会話です。わたしも一刻も早く下り坂で爽快感を味わいたいという気持ちで気もそぞろです。
私の方が出発準備は先に整いました。「じゃ、風間さん、お元気で。またお会いしましょう、お先に失礼します」
ここから国道までは自転車を引いて降りなくてはなりません。ずるずると滑る砂利道の坂で最後の日に転倒したんでは洒落にもなりません。
国道の舗装に降りて自転車にまたがって上を見ると風間さんはまだこちらの見えるところまで出て見送ってくれていました。
「センパ〜イ!、どうぞご安全に〜」「お〜!、あんたも風邪ひかないようにな〜」
ここから暫くは完全な下り坂です少なくとも相模湖までの30kmは体力も時間も稼げそうです。
昨日も100km、そして今日の最終コースも100km強の道のりでしょうか。
笹子の駅前から酒屋の笹一酒造前を一気に走り抜けます。初狩、大月の商店街も10分とかからないスピードで通りすぎました。

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ここから更に下り勾配もきつくなります。国道20号線も暫くは鉄道と並走し猿橋、鳥沢、梁川、四方津、そして上野原あたりから視界も広がってきて渓谷の川の水量も増えてきます。
恐らくこの辺りでは笹子川、桂川、葛野川が合流していよいよ相模川になるあたりです。藤野を過ぎるともう満々と水をたたえたダム湖の相模湖が見えてきました。いかにも涼しげな水辺の風情は心もなごみます。
道も急に自動車の量が増えて街並みらしくなり相模湖駅前を通過しました。ここまで30kmを一時間足らずで駆け抜けてきてしまった勘定です。
街並みが切れるころになって自転車はときどき漕がないと進まなくなりました。ここから暫くは上り坂になります、今日初めて自転車のペダルを踏むところにやってきました。
街外れの相模原の千木良小学校を過ぎると家並みが途切れ本格的でかなり急な登り坂です。地図ではつづら折りの数も12〜3個、距離にしたってたかだか3〜4kmしかありません。
まだ時間は9時前、まあのんびりと一時間もかけて登ればいいや・・と気持ちにも余裕が出てきました。
深々とした樹の緑に覆われた坂道をゆっくりと自転車を進めます。そうか、この辺りの樹々は常緑樹が多いんだ。改めて樹木の種類が変わっていることに気が付くと同時にああ、東京ももう直ぐなんだ。
登り坂の曲がり角ではもう自転車を立ち漕ぎしなくてもいいほどに登り勾配も次第に緩く感じるようになりました。
先のカーブの向こうはこの坂の頂上でしょうか、空が広がっているのが見えます。今度はここからまた下り坂になります。
涼しい樹間を5kmほど下って高尾駐在所を過ぎると眼下には京王線高尾山口駅が・・・・・(続く)




(連載No.179)
京王高尾駅前の青信号も下り坂の為30km以上のスピードで駆け抜けてしまいました。およそ1kmほど下って中央本線のガード下をくぐるといよいよ国道20号も街の中を進みます。
国道の坂はJr高尾駅前でも自転車を走らせます。時々赤信号に引っかかりますがそれでもスタート時の負荷は楽ちんそのもので間もなく西八王子。
私の夏休みですが街のなかも間もなくお盆休みでしょう、車の量もかなり少なく感じます。予定では八王子には9時ころ通過するのでは無いかと言うことでしたがまだ8時半になっていません。
実にここまでの40kmを一時間で走ってしまいました。八王子駅から国道は多少アップダウンしながら中央本線から離れます。
時々登り坂はあってもそれでもまだ下りの方が優先されているようで気分的には上り下りの差引は得をした気分で走れました。
真夏の強い照り返しの中ペダルをこぎ続けましたが日野税務署あたりを過ぎると国道は更に坂を下ってそして相まって気持ちのいい川風に突入していきます。

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遂にここから東京です。多摩川の広い河川敷のうえを吹き渡る風がとても気持ちがいい。
今日の早ご飯はここで食べて行こうと土手を降りかけましたがどうやら川辺は立川側の方が至近な様子なので更に橋を渡って向こう側から降りることにしました。
この辺は本流も少し狭まっているんでしょうか流れを穏やかにするブロックに水がぶつかって涼しい風が吹き渡ります。
残念なことにこの水しぶきは洗濯機の中を覗いているように泡立っているのです。もうこの多摩川は死んでしまっているんでしょうか、嫌な臭いも混じっています。
それでも私の住んでいる荒川の方がさらに深刻な汚染の具合でまだ比較すると多摩川の方がましな感じもします。(この昭和47〜8年代は全国各地で公害が社会問題になっていました)
軽い昼食を済ませるころには汗もひと段落しました、ここからは更に40qほど走ると環七に進みます。
先ずは府中、調布、高井戸、ここまで日照りの道でした。高井戸からは鬱陶しさはあるものの首都高の高架下の日蔭を走れるお蔭で多少の涼しさを感じます。
そして永福まで来ると住居表示を示す看板に大原何丁目・・と出てきました、間もなく環七の大原交差点が近づいたようです。この40qは今までの走りに比べて少しつらかった・・
笹子トンネルの出口から100km弱、環七まで当初の下り坂で稼いだ分もあって5時間ほどで走り抜けてきました。
もうここからは環七を20数km走れば我が家に到着です。一時間少しあれば・・・気持ちは、はやりますがどっこい!、
この環七は自動車を走らせるための道路で必ずしも自転車に優しい訳ではありません。交差点で信号待ちしながら休憩して走らせてもらった方がどれだけ楽でしょう、それは幾つもの上り下りのためです。
最初の難関です、わずか1500mほど走ると高円寺陸橋を越えなければなりません。車道はビュンビュンと大型車が近くを走って危ないので歩道を登りますが実に狭い。
ヨロヨロ登りながら大汗を掻きます。すると今度は下りでせっかくのスピードは歩行者に危ないので車道に降ります、すかさず後ろから大きな警笛で自動車が抜いていきます。
その坂のスピードのまま今度は中央本線のガード下を走り抜けようとすると先の信号は赤!、全くついていない。
青の信号で出発するとまたしても既に上り坂です、次の大和陸橋に向かいます。この坂もかなりきつい、そして1km走ると今度は丸山陸橋。
この陸橋はゆるやかですが随分と長いこと登らされた感じがします。まあその分またしても長い下り坂なので許せるかな。
環七はこの練馬区から大きく曲がって東寄りに向かいます。人間にも帰趨本能があるんでしょうか何となく私の住処に向かっている気がしてきました。

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そして今度は豊玉陸橋・・もうこの辺りは練馬区でしょうか。気分的にもあと少し・・と言う気持ちも一層強まります。
上り下りのダメージが徐々に疲れとなって現れてきます。陸橋でなくてもこんな小さな河川のある上の根橋なんぞでもかなりエネルギーを消費します。
そして板橋中央陸橋、永い上り坂です。広い大きな道の上を越えるようです、歩道も広く頂上あたりで自転車を降りて下を見ます。もう板橋区・・川越街道でした。
これも少し長い坂を下ると環七は更に真東近くに向きを変えます。赤羽線(現在の埼京線)の橋の上を超えると環七は更に快適な下り坂になって京浜東北線の陸橋を下ります。
大分運がいいようで二つの信号は青でそのまま通過することができました。北区は一気に通り越せるようです。
王子神谷はもう隅田川の間近、この信号からの登り坂は隅田川を渡るための橋です。まだ陽は高くジリジリとしていますが時間はもう3時を回っています。
僅か20kmくらいの距離を1時間半も掛けてしまったわけです。どれほどこの環七の自転車道路としての不便さか身をもって体験してしまった感じです。
隅田川の丸い橋の頂上からおよそ1kmもない前方には最後の坂、荒川の鹿浜橋が見えています。
長くつらい距離を走り抜けたマラソン選手がゴールを目指して楽しみながら最後の力を振り絞る・・。
きっとそんな気持ちは今の私のように辛かったことも全てのことが走馬灯のように最後のラストスパートに向け新たな力を授けてくれるようです。
最後のひと漕ぎで平坦な鹿浜橋の端に登り着きました。橋の上からは荒川に面した私の勤める工場の怪しげな二本のオブジェのような煙突が迎えてくれています。
ただいま・・・・・(続く)

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第21章(No.180〜No.192)(29歳)   ・・・〃・・・・・・・・(5)最後の個展として




(連載No.180)
思えばこの夏休みまでの間、絵を描くことなど忘れてしまったかのようにして極力外に出っぱなしだた気がしました。
ひょっとして12月の暮れに予定していた個展(第4回)には作品など間に合わないかもしれません。しかもあと4ヵ月しかないのです。
私は前回の個展の後に、げん助鮨のげん助さんとある約束をしていました。その時の会話は今もって頭の中にしっかりと残っているのです。
そのげん助鮨のげん助さんは私にとって生涯忘れる事の出来ない言葉を残してくれたのでした。
・・・・
「幸三郎さん、アンタの展覧会を見て今回は想った事をそのまま言ってしまったけど記憶にあるかな・・」
「・・・たしか・・・鮮度を保ちながら・・・と、か・・」
「そう、アリガトウ!、肝心な事だけ覚えてくれてて・・」
「ワシは寿司屋の丁稚をしていた頃にだね、親方が今日は暇だからおめえ握って見るか・・?って。そんときゃーホント嬉しくって舞い上がりそうになったもんだわサ」
げん助さんは遠い昔を思い出すように目を細めながら実に楽しそうにその時のことを話し始めました。
時々後ろで下ごしらえをしている若いお兄さんにも目くばせするあたり、どうやら私だけでなくその修業中のお兄さんにも話して聞かせる・・・という風でした。
「ワシはいつかこんな機会があった時には・・・ってんで、いつも兄弟子たちの造りをシッカリ覚えて記憶して部屋に帰ればそれを絵に描いて勉強していたもんさ・・」
「そうか・・、元々げん助さんは絵心があったんですね・・?」
「アンタもそうだったんだろうけれどワシもね、子供の頃には絵が上手いって言われていたし・・・絵を描いてメシを喰っていければいいな〜くらいは想っていたサ」
げん助さんはいままで楽しそうに話して聞かせていましたがどうしたことでしょう、急に言葉を詰まらせるような表情を見せ始めます。
私もついそのときのげん助さんのこみ上げてくる感情が伝わってきておもわず息を呑んでしまいました。
「まあ、ワシら板前はサ、あらかじめ料理の仕上がりなんかを絵の一枚や二枚にする事くらいは当たり前なんだけどね・・」
「親方は、げん助、絵を出してみろヤ・・ってんでワシは得意になって出したんでサ・・・、そして親方はなぜかすぐに兄弟子の絵もならべたんだなー」
げん助さんはその時素直な感想として兄弟子の絵よりも自分の絵の方が数段に上手に描けていると内心ほくそ笑んでいたそうでした。
そしてその時親方はげん助さんに聞いたそうです「げん助、お前はこの二枚の絵を比べてどっちの鮨を注文して食べたいと思うかね・・?」

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「えっ!!、・・・食べたいか??・・ですか?」げん助さんはそのときの親方の人を品定めするようなどんぐりまなこの大きな眼つきに圧倒されたと言います。
確かにどちらを食べたいかと比べると、兄弟子の方が幼稚な絵ではありますが魚も活き活きと感じられるし、恐らくそれを注文したお客様はそれにも増して本物のお造りの見事さに感嘆するでしょう。
「幸三郎さん、今年の作品は昨年までの作品に比べて技術的には格段の進歩が見て取れたんだよ。ただ残念なことにワシの感じた作品の鮮度は以前のように強烈に感じなかったんだよ」
「・・ああ、それでそのあとに・・・鮮度を保ちながら上手に描くって難しいんだよな・・・って禅問答な様な事をおっしゃっていましたね・・」
「そう、そのあとに”上手に描くと言う事と鮮度を保つことを同時にやろうとしてそれが出来るのがプロなんだ・・”ってね」
「わたしにはそのプロになる資格は無いよ・・ってことなんですね」

「そういうことを言っているんじゃないんだよ、アンタの気持ち一つ実に簡単なことなんですよ」
「アンタはプロになる・・・、つまり絵描きになりたい・・って漠然と考えているようだけれど、さっきも言ったように人様に絵を売ってお金を頂くことに憧れているのか、はたまた自由に好きな 絵を描いてすごす事に憧れるのか・・・もう決めてもいいんじゃないのかね」
「それは・・・自由に好きな絵を描いていたい・・・ですね」
「そう、それが一番!、だから気楽にってこととは全く反対なんですよ、むしろもっと自分と向き合って絵にしようとする感動や鮮度を納得いくまで追求することが出来るんです」
「ハイ、人に見せるんではなく自分の内面に納得させる・・・ですね。なにか、こう・・別な力が湧いてきそうな気がします」
「ヨッシャー!そりゃァ善かった!、そう想っていただけただけでも今夜アンタに来ていただいた価値があったってもんサ。幸三郎さん、もう一本くらい行けそうですよね・・」
「アンタ、ところで会社に勤めていたんだっけネ。これからは大変だけどシッカリと二足のわらじを履いてどちらも抜かりなく・・・」・・・・。
もう4回目ともなると個展の準備と言っても問題はテーマをどこに絞りるか・・に限られます。
以前、それまで大変だったのはあれもこれも・・・とテーマが絞り切れなかったことです。
結局無駄な労力を割いて作った作品も直前になって出品を取りやめたり急遽作品のリストと展示方法を考慮した時新たな作品が急にほしくなったりしたことです。
今度はいつもと違うのは多くの作品のデッサンの中からかなり抽出するのが楽に感じました。
もう、背伸びする必要が無いのです。自分の納得した作品だけでいいのです。
そして何といってもこの個展を最後にしようと決めたことでした・・・・・(続く)

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(連載No.181)
長かった会社のお盆休み兼夏休みが終わりました。8月もあと10日を残すほど、個展まで4ヵ月。
私のアトリエ兼住まいは、造りが半地下なので強烈な陽ざしに伴う暑さには見舞われないものの風向きによっては蒸し暑い夜もあります。
連日、会社の仕事が終わった後はすぐに社員食堂で夕飯を食べ、会社のお風呂に入るので寝るまでの間は全て絵を描くことに専念できます。
通勤時間は徒歩10分、どこか街の歓楽街に行こうというにしてはあまりにも不便ですが絵を描くことに専念すると言うことではこれほどの環境はないと感じます。
ただその環境が還って絵を描くことの本質を損なっていたことも確かです。
新橋のげん助鮨の源助さんは今でこそ外国の国家首脳が楽しみにするほどのおもてなしとすし職人として大成した人です。
そこに至るまでの苦闘の中で体得した言葉の一つ一つにはそれなりの重みがあって、そしてそれは何にでも、仕事にも絵にも通じる気持ちのありようでした。
その言葉をもっと早くにに知っておけば最初の個展から前3回までの間の苦悶はそれなりにもっと早くに解消していたかも知れません。
同時に個展の意義ももっと自分の言葉として発することができたかも知れない。
もっともその言葉を知る意味でも3回の個展は無駄ではなかったともいえるのではないでしょうか。
絵を描くことを志す、私の多くの仲間の中でも自身の才能に限界を見てその道に進むことをあきらめた人も随分います。
これは絵に限った事ではありません、文学や演劇、歌手として目指した多くの若者がその自身の才能に限界を感じてやめてしまうと言うことは何なんでしょう。
たしかに将来の実生活への計画に対する挫折、それよりも現状の生活に対する困窮などいろんな要素もあると思います。
今のわたしの気持ちの中ではそれらの不安や揺らぎは確かに私自身のものでした。そしてそのほとんどは自身の甘えなのだと知ったのです。
本当に絵を描くことが好きで貫きたいのならやりなさいよ。人に認められなくともやり通した人も随分いました。
しかし、そこに生活設計などと言うものを取り入れてくるから困窮度に重きを置かなくてはならなくなるのです。
そんな矛盾を排除してくれたのがげん助さんの言葉、「鮮度」「自分の気持ちを納得させる」「二足のわらじは腰掛では勤まらない・・」
私が絵の勉強を始めたきっかけは何としても、「絵を描くことが好きだ」ということが第一番に上げられることでした。
上手く書けるようになってそれで絵を売って生活できたらいいな・・、ということを考えたとき第一番のきっかけはかなり薄まってしまうのです。
確かに就職して仕事をして給料を得て生活の足しにして自立した生活をする・・と言うことは並大抵な事ではありません。

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好きな仕事をして収入を得ると言うことはそれなりにとてつもなく努力と忍耐、才能と運に恵まれないとできることではありません。
兎角若いときには大した努力もせずに何とかなれるのではと思いがちでした。
詰まるところ自分の与えられた仕事も碌にできない人間に人を感動させるような作品が作れるわけが無い。
恐らく職人として極めた源助さんの一番私に言いたかった言葉であったような気がします。
そんな源助さんにしてもまだオレはもっと精進して境地を探してさ迷っているんだ・・と言わせしめているのです。
作品にしようとして選び出したデッサンは12点、しかもどの作品もその鮮度においては自分で納得のいく題材ばかりです。
まだ駆け出しの若造が自身の個展に人生の集大成!なんてつまらないことを考えず、今オレはこんなことに夢中なんだよ!
そんな感情を吐露する、それがこの第4回の個展のテーマです。そして暫くこの個展はお休みするのです。
その時の青年は幾年月を時代の堆積の中を浸透していって何時しかえも知れない伏流水となって生まれ変わってご挨拶したい。壮年になるかも、或いは老人になっているかもしれません。
そう、ありたいと思うのです。
同時に、勤めていた会社においても仕事の苦難は逃げない、人の嫌がることでも積極的に申し出る、そして組織の中でも後輩に慕われるような存在にまで自分を高めたい・・。
それは源助さんとの約束でもあり、わたしの決意でもありました。
つまり、仕事も絵を描くことも二足の草鞋を手を抜かず同時にしっかりと進める・・と言う気持ちでした。
そんなある晩、以前からお世話になっている大手建築会社に勤める従弟から電話が入りました・・・・・(続く)




(連載No.182)
この時、私の住むアトリエを兼ねた住居は独身でありながら16畳一間と言う広さを持っていました。
文京区の駒込林町(現在の千駄木町)での借り家は以前にも書きましたが家屋の老朽化と、家主さんの高齢化などで取り壊したい・・と言うものでした。
そこで何処かに移住しなくてはならなくなり苦慮していたところ相談に応じてくれたのがここ、足立区の吾郎文具店の主であり絵の先生であった岩崎さんでした。
鉄筋コンクリートの半地下部分はがらんどうになっていてここを自費と自作で部屋を作るんでしたら無償で貸与する・・と言うものでした。
但し、この辺一帯の住居は首都高の工事予定区域になっているので恐らく2〜3年くらいで立ち退かなくてはならないとも言われていました。
そんな顛末は第三部・第十三章で述べていますのでここでは省略します。

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結局この場所を首都高々速道の川口線が通る気配は全くなく計画もとん挫したのかなと思わせるほど気長に住み続けていました。
しかしその間、私はそこに住み始めた当初から密やかな希望をもって始めたことがありました。
就職し、会社の寮に入り・・それ以降の転居は7回にも及んでいました。その転居の労力は相当な無駄なエネルギーと感じていたのです。
もう次に転居する時は終の棲家にしようと決めていた矢先、大手建設会社に営業社員として勤める私の従弟からの連絡でした。(連載No.101)あたりです。
従弟の勤める大手建設会社では将来住居を持とうと思う若者に独自の積み立て計画でマイホーム建設を実現させようという計画だったのです。
私の将来の夢と建設会社の計画する積み立て制度はお互いの目標を同じくするものでした。
従弟に言わせると当時、大した説明もしないうちから話がトントン拍子に契約されて営業戦略の腕の見せ所もなく張り合いがなかったといいます。
私は無償で住んでいたところに毎月の家賃を支払うつもりで積み立て計画を契約しました。かなりの額でしたので相変わらずのピーピー生活であるのには変わりませんでした。
そしてそんな契約は給料引き落としに近い形での積み立てでしたので気にもしていなかったというのが実感でした。
いつものように会社から帰って絵画の制作に励んでいた時その従弟から電話が入ったのでした。
電話口の従弟は少し焦り気味というか上ずった言葉使いからでも察せられるように少し動揺していたようでした。
「幸三郎さん、今夜はもう遅いようですがどうしてもお話しておかなくてはならないことがありまして・・これから伺ってもよろしいですか・・」
彼のお住まいはこのアトリエとはそんなに離れていません、夜遅い時間と言うこともあって30分としないうちに到着しました。
そう言えばもう5年ぶり位のご無沙汰、そしてお互いのオジサンっぽくなりかけた風貌に改めて光陰矢の如しと感じるのでした。
従弟はというと彼の建設会社では既に係長待遇ということで営業職というのはこんな風貌だ・・と言う典型的な身なりになっていました。
「早速ですが・・、幸三郎さん、まだ確定はしていませんが恐らく日本の経済がものすごく不安定になりそうな雰囲気なんです」
「そうですか?、私も工場で仕事をしていますが今のところそんな気配は感じられないですが」
「実はこのことは社内の一部の情報として契約しているお客様にはまだ詳しいお話は控えるようにとの社内通達ではありますが・・」
「工業製品の流通ではまだそんな兆候はなさそうなんですが・・」
「・・そうですね、しかし住宅メーカーでは材木を取り扱っていますよね、一般の工業材料は製品化されるとすぐに市場に出ますから感じにくいんです」
「住宅メーカーは違うんでしょうか・・」
「そうなんです、住宅メーカーは材木を買ってすぐにそれを市場に流すことはできません。じっくりと寝かせて乾燥させてやっと加工できるのです・・」

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「なるほど、鉄やプラスティックなどと確かに原料から製品になるまでの時間が違いますね」
「・・もっと言えば、山師がその山の材木の取引をする段階から途方もない時間がかかって市場に出回ることになるんです」
「まるで先物取引みたいなものですね、私はオヤジからよく言われてきましたよ。株や賭け事はするな・・って、”絶対損をするから”が口癖でしたから」
「そうなんです、ですからそんな先物取引まがいなことをしている都合上、高性能のアンテナでしっかり見張らせ不穏な兆候を見逃さないようにしているのです」
「そうすると・・オレに何をしろ、と言うんですか」
「・・今から、いくら高額な借金をしてでも住宅の建設計画を早く進めてください・・」・・・・・(続く)




(連載No.183)
「幸三郎さん、建設会社の上層部で話し合っている中では今の木材の値上がりの動向は20年前の戦後の混乱期に似ているというのです」
「へ〜?、その頃って戦後の復興で随分活気があったころではなかったんですか」
「確かに活気はありました。しかしその活気を支える物資が乏しかったので需要と供給のバランスが大きく崩れてしまいましたね」
「その結果は・・?。いまと似ているというんですか」
「恐らくそれに似た物価の急激な上昇・・狂乱物価・・になりそうな兆候がこの木材産業の中に感じられるのです」
「オレは、経済の仕組みがどうなっているか皆目わからないけど、それとオレに何の関係があるんだろう」
「あのね、幸三郎さんはあまりにも平和ボケした生活しているからわからないだけですよ。つまり幸三郎さんと弊社で取り決めた積み立てによる持ち家計画が破たんするってことです」
「契約書・・って言うのはですね、最悪な場合でも弊社が莫大な損害を受けてまでお客様を守らなくてもいいようにできているんです」
「つまり・・・?」
「そう、つまりは・・急激な物価上昇など社会的状況の急変における・・って書いてあるようにこの計画は不履行になるってことです」
「そうですか、じゃあしょうがないですね。諦めるしか道はないっていうんでしょ」
「ちょっと待ってください、私の会社ではこれから計画を立てる人はともかく現在、この持ち家計画を契約していてなお相当なレベルに達しているお客様にだけは何とかしてあげたい」
「じゃあ、オレの場合・・、相当なレベルに達している・・?」
「いやー!、参ったね。残念ながら幸三郎さんの貯蓄レベルでは先ず足切り必至・・ってところですね。だけど従弟として見捨てる訳にはいかないでしょう!」

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「そうだろうね、俺としてはまあギリギリ最大限の貯蓄はしてきたと言ってもまだ6年だもんね・・」
「いえ、5年と3か月です!。・・・まだ弊社が必死で救済しようとするご家庭のレベルに半分も届きません」
「そんなオレにもまだ救済の余地はある・・というの」
「あるからこうして夜中にお願いに来ているんじゃないですか」
「お願い・・?って、契約不履行のお願いしか聞いていないよ」
「いえ!、これからしっかりお願いします。先ず、家を建てる土地を手に入れてください」
「じょ、冗談じゃないよ。先ずどこに住むかも決めてないし、第一そんなお金も持っていないよ」
「そうです、ですから土地はこれから探してください。できるだけ早く!。そして積立金を基にアッチコッチの銀行からお金を借りまくってください。私が支援します」
「土地さえ手に入れば私は会社の内部規定に抵触すれすれのところで建築費用を貸し出します」
「そんなことをしたらオレの生活はどうなっちゃうの?、借金まみれで自殺しなくちゃならなくなるよ」
「そんなことにはなりません、むしろお金なんかいくらあったってものを持っていた方が勝ちです。借金なんて屁ともなりません」
「じゃ、銀行だってお金なんか貸してくれないでしょう・・?」
「推察するところの幸三郎さんに必要なお金は・・まず総収入が低いですから書類審査で通らないと思います」
「ほら、やっぱり・・」
「ですから、私が支援すると言ってるじゃないですか。まずそんな書類の書き方から、そして貸してくれそうな銀行のリストです、つまり審査の甘い銀行です」
「それに、幸三郎さんの会社には従業員に対する融資制度ってありますか?、あと労働組合のための労金・・とか」
「会社の融資制度はまだ制度の案を模索中で運用できませんが・・そうだ、先輩たちはよく労金からの融資に頼っていると聞きます」
「それだ!、労金があれば・・あと銀行は二社、これだけ取り付ければ大船に乗ったつもりで行けそうですよ」
「それって、悪事・・じゃないの?」「幸三郎さんは何も知らなかった・・でいいじゃないの」
「とにかく、土地を決めてください、つまらない絵なんか描いて遊んでる暇はありませんよ」・・・・・(続く)




(連載No.184)
「・・・幸三郎さん、詰まらない絵なんか描いて遊んでいる場合ではないですよ・・」

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まあ、今までに何とはなしに周囲からの眼差しを受け止めてみるとそんな言葉を表立って発する人は居なかった訳ですが、それなりの気持ちは伝わるものです。
しかしこれほどまでに単刀直入、ズバリ・・と、しかも私より2歳年下の肉親ともいえる従弟からの言葉はグサリ!と驚きをもって目の当たりにしたのでした。
まるでそれは有頂天になって舞台で遊びまわっている子供があたかも母親の「さあ、帰りますよ!」の一言で現実に引き戻される心境とでも言いましょうか。
その夜はまだ残暑の残る熱帯夜も相まっていつまでも目がさえ切ってしまって眠られない時間を過ごした思いです。
翌日会社の昼休み、従弟から聞いた昨夜の衝撃的な言葉はまだ頭の中を駆け巡っていて食堂で昼食に食べた鯨の竜田揚げの未消化な気分と共にそのまま胃もたれしています。
ぼんやりと眺める職場の屋上からは美しい田んぼの中につい最近開通した鹿浜橋から続く環状七号線がそこから梅島方面に向け急ピッチで工事をしています。
その先には稲穂の美しい緑のうねりの風景が遠くの鳩ケ谷の街まで続きます。
「そうだ・・あの鳩ケ谷の付近だったらまだ土地の値段もそう高くはなさそうだよな・・」などと思うのでした。
工場のある東京都足立区、その大半はまだ緑の多い田園地帯でした。そして足立区のこの付近、埼玉県と接する境界にある鳩ケ谷市とはいわば目と鼻の先にある陸の孤島のような存在でした。
孤島・・と言うのにはそれなりの理由があるのです。政令市ではあるものの電車の駅の無い、交通手段はバスしかない実に不便な街なのです。
私のまわりの先輩たちの持ち家の実態はと言うと大概は京浜東北線沿線の浦和、大宮方面、もしくは東武伊勢崎線のある草加、越谷などが人気とするところでした。
つまりそんな電車も走らないようなところは住むに足りない、みな故郷から大志を抱いて都会に就職しながら敢えてそんな不便なところに棲む気になれないというのでしょう。
そんな想いで田んぼの先の鳩ケ谷という街を目を凝らして眺めるとどうやらこんもりとした森も見えるし、それになんとしたことでしょう小高い丘もぼんやりと見えるのです。
私は文京区からこの足立区に越して来てからあっというまの6年、気持ちのどこかにこのどこまでも平坦な土地に辟易している自分に気がついていました。
真っ直ぐな道でなくてもいい、生活には厳しいかもしれないが山あり谷ありの目に映る優しさのある街へのあこがれが芽生え始めていたのでした。
いずれ今度の個展が終わったら私は絵を描くことから暫く遠ざかるでしょう。そしてそれを再開するのはもし無事に定年まで勤められたらそれからのことでしょう。

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その為の住む場所は平坦なこんな無機質な街ではなく目にも心にも優しい起伏のある街並みだと次第に心の中で確信的に思い込むようになっていました。
よし今度の休みに一度、鳩ケ谷市と言うところに行って不動産屋さんにでも立ち寄ってみようじゃないか・・。
ちょっとした台風が関東地方をかすめたこともあって土曜日の朝はまるで台風一過を思わせる快適な天気になりました。
個展に向けた絵の制作もこの休みまでの間にまた一枚仕上がって気分転換したいことと重なって鳩ケ谷まで行くには絶好の機会となりました。
車で行ってもいいのですがこの秋空の元いつもぼんやり見えていた鳩ケ谷と言う方面もくっきりと至近に感じられるほど間近に見えます。
自転車で行くことにしましたが見た目以上にかなり距離はありそうです。田んぼ道の用水を迂回しながら走ることおよそ小一時間、鳩ケ谷街道と岩槻街道の交差する付近は昔の宿場町といった色合いの濃い街です。事実、日光お成り街道、鳩ケ谷宿というのがこの付近の正式名称のようです。
昭和橋という石組みの橋を渡ると登り坂、通りの左右にはいかにも老舗の川魚料理、和装服店、金物屋、など少し時代遅れの街並みがしかし整然と佇んでいます。
そんな街並みも坂を上りつめるまでの300mほどがこの街の中心地だったことがわかります。
その先には大きなバスの発着場があって如何にもこの街の交通手段はバスしかないんだという印象をまざまざと感じました。
そしてその先ははたして起伏に富んだ広大な植木畑がつながる丘陵地帯になっているのでした。
植木畑の周辺に点在する農家にはこれまた樹齢の計り知れない巨木が周囲を囲み更には竹林と繋がって心を和ませる風景が広がっているのでした。
そんなとある辻にはなにやら看板があって「武南丘陵自然公園」とあります。いわゆる武蔵野台地の県南地域として鳩ケ谷・川口を示しているのです。
何のことだろう・・、そもそも川口市って鋳物の街、キューポラのある街、どうしてそんな街が武蔵野台地と関係あるのだろうかと疑問が起きました。
その疑問はすぐに判明しました。赤土の丘陵を切り開いた新しいバイパス道路に出くわした時、その先の道路標識にはこの先は川口市であることを示しています。
益々頭の中は混乱しそうになりました。このバイパスは川口市から鳩ケ谷市を抜けて再び川口市、つまりこのバイパスは鳩ケ谷市を川口市が包み込む形で貫いているのでした。
植木の街・安行・・・と言うのは川口市だったんだ。今までイメージしていた川口市には鋳物の街のほかに植木の街という二面性を持っていたことに気がつきました。
そんな事は車で走ってしまえばどうでもよいことでやはり自転車できてジックリこの付近を探索できたことは新しい視野が開けた感じがしました。

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しかし不動産屋さんなんて果たしてこんな植木畑の中にある訳がありません・・・・・(続く)




(連載No.185)
わたしは自転車でしばらく植木畑や雑木林の小道を楽しみながらこの辺りの風景を楽しんでいましたが気がつくと腹が減っていました。
再び鳩ケ谷の300mほどしかない繁華街の食堂を探しました。表通りは暖簾の下がった立派な門構えの料理屋などはありますがいわゆる飯屋が無い。
なんだ、そういう街なんかい・・。いやまてよ、裏通りはどうなんだ?、おー、普通の町にあるようなそれほど上品では無いものの十分なお店がかなり軒を連ねています。
やはりこの裏通りも300mくらいしかありませんが間口が狭い分かなりのお店が混在しています。
ざっと通りすぎてみると不動産屋さんも二軒ほどあります。それを確認してまず腹ごしらえに食堂に入りました。
もうお昼時間は過ぎているのに土木関係者風の作業員さん達みたいな人が丁度終えて出るのと入れ違いに別の作業員さんが席に着くところでした。
お店は20人ぐらいしか席が無い為どうやらその人たちは申し合わせて時間差でここに来たようでした。
でも、何とかその隙間に潜り込むことができて助かりました。こんな田舎町で何の仕事をしているんでしょう、少し興味もわくところでした。
注文の料理を女将さんが尋ねてきました。早くできて安いものと思っていたので皆が注文している豚肉丼をお願いしました。
先ほど向かい席にいた監督風の親父さんが、女将に電話を貸してくれないかとお願いしていましたが何やら怒鳴っているのが聞こえます。
「・・・本当かい?、今日中にミキサー車あと5台着てくんないと仕事が繋がらないんだよ・・!」
どうやら今請け負っている仕事場に材料の届くのが遅くて業者に注文を付けているようでした。
新聞を見ている隣のオジサンに聞いてみました。「何か大きな工事でもしているんですか・・」
オジサンは新聞から目を離さないまま面倒くさそうに「・・ああ、県の事業でな・・でっけーアパートを作ってるところだ」と言います。
県の事業・・、アパート・・?、そう言えば職場で先輩たちがよく口にしていた住宅供給公社のことなんだろうな。へー、そんなものがこの近くで建設中なんだ。
つまり、人がたくさん住めばそこの近くはお店も学校もそして今まで不便だった交通手段まで格別によくなることを聞いていました。
たしか、隣の板橋区には荒れ地があって誰も住まないようなところでしたが格別大きな高島平団地というのができてから別天地になったと聞きました。
しかもそれ以来、電車も頻繁に通るようになったと聞きます。半面、その荒れ地だった周辺の地価も飛び跳ねることになったと聞きます。

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これは、私の知らない間に既に住宅関係の世の中の動きは不気味な挙動をしていたのかも知れません。
しょっぱい味噌汁と豚肉の味のする玉ねぎ汁のかかった丼を食べ終わるころにはもう作業員の影はありませんでした。
お茶のお代わりで沢庵をポリポリかじりながら今日聴いた話、そして従弟から聞いた世間情勢、などを総合して考えました。
・・・なるほど、世の中・・というか住宅関連では相当な緊迫感があって動いているようだな。
やおら、私は飯屋を出て不動産屋さんのあるはす向かいに進みました。透明な硝子戸には物件の紹介が規則正しく張り巡らされています。
昔、文京区駒込林町あたりの不動屋さんを巡った時もこんな塩梅でしたので取り立てて尻ごみすることもありません。
ただ、アパート・・だとか貸し間と言った物件はほんのわずかでほとんどが売地なのは驚きでした。
値段もまちまち・・・、そして宅地だけではなく地目に山林・・なんて書いてあるところもあります。
山林だとずいぶん安いようだけれどこういう所に山小屋を作れれば面白いなぁ・・なんてたわいのないことを思い浮かべたりしていました。
暫くガラスのドアーの隙間から事務所の中の叔父さんが外の私の様子を伺っていることに気がつき目があってしまいました。
まあ、別に悪いことをしているわけでは無し、そうかといって積極的に硝子戸をあけて説明してもらおう・・などと言う気にもならず物件をながめていました。
そんな中に日当たり良好南向き斜面・・、しかし地目は山林、なんて言うところに目が行って少し興味がわきました・・しかもかなり安い。
不意に硝子戸が開いて、いかにも人の良さそうな叔父さんが「どうですかね、ご興味のおありの物件でも目に止まりましたか・・、どうぞお茶でも飲んでいきませんか」
「あわわ・・、はあ、この鳩ケ谷ってところは初めて来てみたんですが・・」
「そうですか、どうぞお掛け下さい。お茶でも差し上げましょう」
私としては断って立ち去ろうかとも思いましたが先ほどの飯がしょっぱかったのでもう一杯お茶が欲しいところでした。
「あの、山林って、家を建てることができるんですか?」・・・・・(続く)




(連載No.186)
「・・それは、お住まい用の土地でもお探しなんでしょうか・・」
「鳩ケ谷不動産」のご主人は一応私の服装を見て品定めする風でしたがまあ、身なりはともかくまじめ腐った若者だろうな・・くらいは感じたようです。
私はどちらかというと曖昧な返事でそれほど緊迫もしてはいない・・といった気のない返事のつもりでこっくりしました。
「この辺は植木屋さんの多いところですし起伏があって田圃はほとんどありませんから地目は山林が多いんです」

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「のどかな田園風景」


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「では、その山林という地目の所に住宅は立てられないんですか」
「いえ、そんなことはありません。最近は山林・・と言うところに住宅建設の可能なように道路がきちんとつくられていると宅地に地目変更は可能ですね」
「・・そうですか、それで地目が山林の所は宅地向きに開発されていない場所と言うことで安いんですね」
「・・ああ、外の物件のことですね、ああいう所は業者さんが4〜5軒分ほどまとめて開発するには適していますが、個人でお買いになるには道路をご自分で引いたりすこし面倒ですね」
私はもう一軒の不動産屋さんの方ものぞいて見ようかと思っていましたところ、その叔父さんの方からこの先に武南開発という不動産屋さんならそう言った工事開発をしているからそちらの方がいいかもしれませんよ」と言ってくれます。
それでは・・といってお礼を述べて不動産屋さんを後にしようとしたとき「・・そこで気に入った物件が見つからなかったときはまたここへ戻ってきなさい。私も探してあげますよ・・」
「・・探すって、まだ何かおありなんでしょうか・・?」
「いえね、こういったお住まいになる場所を探すと言うことはその辺でシャツや靴下を買うのと違うと言うことです。一見気に行った風でもよくよく調査してみたら飛んでもない所だったっていう話もよく聞くんです」
「これも何かのご縁ですか、あなたの様な若い方の手助けになれれば・・と、思ったわけです。少なくともこの先の不動産屋さんも尋ねてみて見なさいな」
私は一旦言われるままに数軒先の武南開発という不動産屋さんに向かいました。
こちらの方が先ほどの不動産屋さんより少しは立派な店構えに見えますし店の名前もちょっと進んでいる感じがします。しゃれた店構えの硝子戸も独特の張り紙が少し多目に並んでいます。
張り紙の隙間から中の様子も見えます。中年の事務服を着た女性がいてお客さんと相談中でしょうか綴じたもののページを見比べながら談笑しているのが伺えます。
奥まったところに大きな机があって口髭を生やした若い経営者でしょうか、椅子にもたれてテレビに向かって大笑いしているのです。
とりあえず窓ガラスに貼られた物件を端から見ることにしました。こちらの方が宅地物件の数は多いようです。
しかし、どの物件も先ほどの不動産屋さんで少し高いな・・と思った物件より更に高価なものしか見当たりません。つまり坪単価と言うのを比較してもかなり開きがありそうです。
そのほとんどの特徴は「当社開発物件」と書かれていてその区画敷地面積も私の想像した以上に意外と小さいのです。
「・・♪、もしも わたしが 家を作るなら〜」少なくともせめて・・・先輩たちの話を聞いてみても30坪以上は欲しいと思っていたのでこれでは無理だなと感じ始めていました。

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時々貼り紙のすきまから中の様子を伺っては見ますが経営者風の男は私に気がついても一向に声をかけるでもなくトイレから戻ったと思ったら今度は足を机に上げてだらしありません。
中にいたお客さんも話が終わって店の外に出て行きましたが事務の女性もそのまま奥に引っ込んでしまいました。
私も特にこれ・・と言った興味ある物件も見つからないまま秋のつるべ落とし・・今日はもう暗くならないうちに帰ろう・・と思いました。
帰り方向の鳩ケ谷不動産まえで硝子戸越しにご主人に会釈して帰ろうとしたところ・・ツイ!っと叔父さんが出てきて話したいことがあるというのです。
「どうでしたか、こんな早い時間に帰って来るようでしたらお目当ての物件には巡り合えなかったようですね・・」
「よくそんなことがわかりますね」
「まあ、永いことこの商売をしていますとね。チョットあなたにお教えしておこうかと思いまして」
「そうですか、でもこうして少し探してみたんですがナンカ俺みたいな者には敷居が高いというか全然馴染めない気がするな〜」
まあ、話だけでもいいから聞いていきなさいと言うので再び鳩ケ谷不動産のガタピシ硝子戸をあけて事務所の椅子に腰を掛けました。
「私はこの鳩ケ谷不動産の皆上・・と申します」といって、名刺を手渡されました。
「あなたは恐らく、今日初めて不動産屋で土地を探すってことをしてみたんじゃありませんか」
「ええ、実はそうです」私はなんか素直になっている自分が不思議に感じられました。
「先ほども私は少し言い掛けましたが・・お住まいの土地を探すと言うことは自分のお仕事を探すよりも実は大変な仕事なんです」
「そうです、今日の感じではもうへこんじゃって暫く立ち上がれない気持ちですね」
「なんとか、お手伝いいたしましょう」・・・・・(続く)




(連載No.187)
「あなた、変なことお伺いしますが・・釣り・・なんてされたことあります?」
おや、この不動産屋さんは変てこりんなことを聞く人だな、と思いました。
まあ、私も先ほどからかなり素直にこの皆上と名乗る不動産屋さんが普通の親切なオジサン・・と言う印象になっていました。
「はい、子供のころよく田舎では近くの川や湖で釣りはして遊んだ思い出があります」
「そうですか、釣れなかったり、あたりのない所ですといろいろ場所を変えたりしますよね」
「まったくその通りです」

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「お探しの土地や、お部屋もそうですが気に行ったところがないときにはアッチコッチの不動産屋を同じように変えてみるのもいいですね」
「はあ・・」
「しかし、釣れなかったりあたりのなかったところでも魚の回遊する時期や食事をしたい時間にはそれなりに釣れるもんですよ」
「まったくその通りだと思います、以前よく釣れた場所だからと言ってそこに行けば必ず釣れたり楽しめる訳ではないですもんね」
「そこです、不動産屋で気に行った物件を探すというのは見つける場所と、時期をマッチングさせなければ不可能です」
「なるほど・・、よくわかります」
「あなたは既にお住まいになりたい場所・・と言うのはこの起伏に富んだ武南地区で探したい。あとは時期をマッチングさせられれば決められるのです」
「つまり、私がお手伝いしましょう・・と言うのは、あなたにこんな物件が新しく出ましたよ!ってことをお知らせするというわけです」
「もちろん、ここ鳩ケ谷で不動産屋をしていますと次から次へとこの付近に関するいろんな物件が取引されていますからね」
「それは心強い味方を得た心境になります、ぜひお願いします」
「お分かりいただけたようで私も嬉しいです。それではご連絡先などこちらにご記入していただけませんか」
それでも私としては名前や住所、それに電話番号まで書くことに少し抵抗もありました。出来れば勤めている会社やその電話番号も知りたいとは・・。
そんな私の気持ちを察したのか不動産屋の皆上さんは「こういった物件の情報をお知らせしたりする場合はお互いを信用しなければ親身にご相談に成れないっていうのが本音ですね」
「でも勤め先やそこの電話番号まで・・って、必要なんですか」

「あなた、折角大物の魚がいつもの釣り場所に来ているのにそんな時の情報は何時あなたにお知らせするんですか」
「あなたのように似たような物件をお探しの方、みなさんに私はすぐにお知らせするのですが、あとはお客さん次第と言うことになります」
「そう言うことですね、それでは書かせていただきます。宜しくお願いします」
「・・・幸三郎さん、あなたはまだ独身でお住まいも、お勤め先も私のお店から車では20分とかからない場所ですね。これはお互い探しやすい好条件ですよ」
もう、秋の陽もつるべ落とし・・、あたりは暗くなり始めています。しまった、この辺りは陽が沈むと真っ暗闇の世界なんだ。
不動産屋さんを出て新しく建設されている国道122号バイパスの諏訪山交差点までくると鳩ケ谷の町の先に川口の街並みの灯が足元から広がるように見渡せます。

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こうして今日一日を振り返ってみると私が住まいを建てる・・という漠然とした思いがいつの間にかものすごく身近な問題になってきたと実感するのです。
果たして私がたった一度訪れただけの不動産屋さんでこんな大それたことを相談に持ちかけてしまって大丈夫なのだろうか、という不安も付きまとうのです。
改めて私が永住の地としてこの付近に決めたことは後になって飛んでもない間違いだったと思うことはないのだろうか・・。
不安となる材料がどうしても頭の隅から離れません。いちばんの問題、ここは電車が通っていない。何しろ京浜東北線には今度、南浦和と言う駅が出来るそうだが歩くと1時間以上かかりそうだ。
そして文京区、駒込林町に住んでいたころ夏の水不足でこういった高台の住まいには給水制限の時、水が出ない・・・という問題もある。
将来、結婚して子供が出来たとしたら・・恐らく学校までは少なくとも20分以上はかかるかも知れない。
だいいち、私はアウトドアー派で暗闇でテント生活をしたり山坂のある風景には心の癒しも感じられるものの嫁さんになってくれる人が気に行ってくれるだろうか。
鳥や動物だって折角の住まいを気に入らないという理由で「プイッ!!」なんて映像をよく目にします。
でも、足立区に住んで水害に見舞われた時のことを思うと・・・・・(続く)




(連載No.188)
いちおう曲りなりにでも私は将来の住まい・・と言うことに関しては口火を切ることができたという興奮が頭の片隅に残りました。
何か少しではありますが気持ちの中にオトナ・・になろうとする自分を感じるのです。
たいへん複雑ではありますがはたしてこのキックオフは自分の中にどれだけの希望を抱かせるのか、はたまた大きな失望の種になるのか予測もつかないことをしてしまった感が強いのです。
もう個展の日程は決まっています、改めてカウントダウンしてみるまでもなく残すところの日程は2か月弱です。
遅くとも個展の案内状は期日の二週間前には届くようにしたい、そうして見ると作品の写真撮影と印刷などの行程を前倒しすると落ち着いて制作できるのは1か月しかないのです。
しかしそれ等は一人で頑張ればできると言うものではありません。友人ではありますがカメラマンの都合もあるでしょう、日程の打ち合わせもしなくてはなりません。
そして案内状の印刷についても別の友人のルートを通じてお願いするわけですから切羽詰まったお願いもできません。
全ての段取りはもう4回目ともなるとだいぶ慣れてきているとはいえかなりのプレッシャーとなるのです。

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今日もこうして会社の仕事を終えると真っ直ぐに家に帰って個展のための制作に没頭します。
わたしのアトリエ兼住まいは16畳一間、既に完成している作品は8点、あと制作の予定をしている作品は4点です。
30号から100号の大作まで全てが油彩画なので、絵を描き進めるためにはどうしても画肌がある程度乾燥して塗り重ねの作業を待たなくてはならない状況があるのです。
従って、既に下描きも終えている全ての4点は部屋いっぱいに広げて同時進行で制作しているのです。
そんな事は以前の個展でもしていたことですし第一、そんな技もできないようでは画家として大成しないよ・・という不良先輩の入れ知恵もあったことは確かです。
かくして私は4点の作品を部屋の四隅に配して真ん中に陣取りながら画肌の状態を確認しながら全く異なる感情の作品に筆を入れると言うあんばいでした。
そんな苦しい状況の中でも何となく自身に感じる満足感の満たされていくことを実感しているのです。
夕方会社の仕事が終わると私はそのまま社員風呂に直行します。会社の中には職場ごとのお風呂のある所もありますし、職場の違う社員同士が裸の付き合いのできる大風呂もあるのです。
この会社の中のお風呂というのも気分の切り替えに大変役立ちありがたいことだと思いました。
作業衣のままお風呂に行って、出てくるときには私服に着替えて出てきますから気分も更に一新しています。
そして極み付けはそのまま社員食堂で夕飯を食べるのです。私のいたころは昼食時に夕飯の予約をしておくと準備しておいてくれる方式でした。
ですから、5時に仕事が終わって約1時間の間に夕食も終えて荒川土手の上を雄大な夕景色をながめながらアトリエに到着するころには気分もすっきり切り替わっているのです。
ゆっくりと10分くらいの食後の散歩程度でアトリエにつきますからもういきなり絵画に没頭することができるのでした。
こうしてほぼ毎日6時間は絵の制作に時間を割くことができる環境ではありました。
夜1時に就寝、7時に起床してそのまま着替えて支度して出社します。この出勤時間も徒歩10分ですから軽い朝の散歩気分です。
そして一番先に向かう場所は職場ではなく社員食堂、つまり私は朝、昼、夕と一日三食を全て会社の食堂で過ごしているのです。
ですから一見、不規則な生活と思われそうですが実に規則正しく食事も一応三食バランスの取れた食事はしていたのです。
私は第一回の個展をしたときその会期中に吐血して倒れ、救急車で搬送された苦い経験があります。ですから以来、規則正しい生活と独身であるからこそのバランスの取れた食事には特に気をつけて過ごしていました。
おそらく私はこの個展を最後に・・と密やかに決意していました。それは以前にも記述しましたがわたしの一人前の人としての大きな方向転機を感じていたからです。

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あれほど自己表現の場を望み渇望して突き進んできた私は、絵を見ることをこよなく愛してきた”げん助鮨”の主、源助さんとの出会いによって人としての方向転換を決めたのでした。
それは、以前にも書きましたが絵描きとして絵を描くのではなく、これからは普段の生活をしているオトナが描いた絵・・を目指すのです。
それは普段の生活を絵にする、背伸びも誇大もないごく自然の行いを絵にするいわばオトナの絵日記でいいのです。
そしてこの4回目の個展はそのことを実践し、そして一番見てもらいたい源助さんの評価を聞きたい・・、源助さんも待ちかねていてくれると確信するのです・・・・・(続く)




(連載No.189)
絵画の制作が順調にはかどっているときはそれほど心配したことはありません。
会社の仕事のように時間が来たからそこで中断したりしても翌日にその続きに自信が持てるから安心して就寝につくことができるのです。
ところがなかなか思ったように進まない時には時間をかけてでも一区切りつくところまで頑張ろう、という意識が出てしまうのです。
主に精神状態の不安定さに起因すると思うのです。もう仕上がっている作品についても気になって修正したくなったりするのです。
私の性格では一応完成したと意識付けされたものはもう私の手を離れたもの・・という気持ちが働くのですがなかなか難しいようです。
結局、朝の起床では寝不足で出勤しなくてはならない事態になることもあります。
そう言う日に限って早朝に電話が来ることがあるのです。先日お世話になった鳩ケ谷の不動産屋さんの皆上さんからです。
時間を見ると、まだ6時です。昨夜も少し制作時間が伸びてしまって就寝は2時過ぎ、4時間しか寝ていません。
いつもは7時に起きますのでまだ1時間も早い、しかもこれから迎えに来るから出かける準備をしておいてくれ・・と言うのです。
「あなたからの希望に添えるような物件が出ましたので今日は会社の始まる前に見に行きましょう」
不動産屋さんの皆上さんには私の会社が幾時に始まって幾時に終わるのか・・、お休みは日曜日と祝祭日・・など必要最低限のことは伝えてあるのです。
ですから皆上さんにしてみれば私のアトリエまで迎えに来て、希望の物件を下見して会社まで私を送り届けるのに2時間半・・と言うのは決して無理ではないのです。
私にとってはありがたいことですがこの日のように寝不足とままならない制作の進捗で気が乗らない日もあるのです。
でも今朝も独身の私の朝食のために少し大きめなおにぎりとお茶まで用意して車で迎えに来てくれるのです。「まあ、わたしはプロの不動産屋ですから・・」
皆上さんのお店兼住宅から私のアトリエまでは車で15分くらい、そして私を会社まで送り届けてくれるのも15分くらい。

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たっぷり二時間は現地の物件を見て回ることができるのです。
二週間ほど前にもそんな早朝に「見に行きましょう・・」と言う連絡が入った時わたしはお断りをしてしまいました。
皆上さんはその日の夕方に改めて電話をくれて「幸三郎さん、わたしは貴方のご依頼には沿えそうもないので手を引かせてもらおうと・・」
そんなとき私は「ハッ!」と思ったのです。
「ごめんなさい、ついつい我がままを言ってしまいました」
「そうですか、わたしも仕事とはいえつい真剣になってしまう性質なものですから」
皆上さんによると恐らく10件の物件を見て回っても中々顧客の満足いく物件に巡り合うことは難しいと言います。
「あなたが住宅を建てたい・・と言う気持ちはあなた一人の努力では実現は難しいです、気持ちを一つにした仲間で探せば必ず見つかります」
「あなたが見つけたいという意欲があれば私はあらゆる努力を惜しみません」
「いくら気にいった物件があっても金銭的に無理なものは無理なんです」
「わたしは、この仕事を30年もしてきました。お客さんに損をさせたり騙したりの手口は見抜く力もあります」
「どうかわたしを信じて一緒になってあなたの気に行った物件を探し出しましょう」
迎えの車の中でわたしは勧められるままに申し訳なくおにぎりを食べ、魔法瓶のお茶をいただきました。
「ついこの間ですがね、あなたの会社に近いところで開発物件があったんです、田んぼだったんですがそう言う所は嫌だって聞いていましたので・・」
「はい、平坦地に住もという気持ちは全くありません。そこは変わっていませんので・・・、で値段はどうだったんでしょう・・?」
「おや?、ご興味でも、お値段が随分と手頃だったんですよ。人によっては切羽詰まるとそう言うものにも手を出したくなってしまうものです」
「でも、そんな物件を私に伝えてOKでも出ればあなたの仕事も一段落でしょうに・・」
「見くびっちゃあいけません、あなたの夢はしっかり叶えますから」・・・・・(続く)




(連載No.190)
不動産屋の皆上さんの運転で車は足立区の田んぼを突っ切って鳩ケ谷の丘陵地帯に差し掛かります。
「その先を左に曲がった雑木林の前です・・」わたしは慌てて最後のおにぎりをほおばって魔法瓶のお茶で流し込みました。
いつも感じるのですが平地から坂を上るに従って何とも言えない爽やかな空気感が堪らなくすっきりして来るのです。
空気のよどんだ感じが無く爽やかな朝の空気が流れているのです。
それは周囲の樹木が多いせいでしょうか、あるいは地形による空気の移動が爽やかな微風となって流れているせいなのでしょうか。

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「ここですよ・・」皆上さんの顎を突き出した方角にその物件がありました。
早速車から降りて現地の状況を見ることにしました。何の看板もありませんし、地面に境界を印す測量後もありません。
「幸三郎さんのちょうど立っているあたりから南に向いたなだらかな斜面なんですがね・・」
「素晴らしい立地ですね、その先の灌木の中を降りるとどこに繋がっているんでしょう」
「ああ、そこは小川が流れているんです」
「え!?、こんなところに小川が流れているんですか」
「こういう小川は所々にあって丘陵地特有なんでしょね、私のお店の近くの神社裏は渓谷みたいになってるでしょう。あそこに繋がっているんですよ」
「なんか遠い所に来てしまったような感覚ですね、まだこの辺り人家はありませんね」
「そうです、今のところは、恐らくいずれはこの道沿いに住宅は建つんでしょうね」
「ところでここの値段っていくらくらいなんですか」
「坪、9万円丁度です、しかも付帯工事無しでこのまま住宅が立てられるんです」
「安い!、そして私の希望する住環境にピッタシです。北側の雑木林もずーっとこのままだといいですね」
「ただし、・・今ここの総面積は70坪もあるんです。分割できないか交渉中なんですよ」
「分割?・・・、つまり35坪・・にですか?」
「本来ならこの付近の土地をまとめて分割できれば幸三郎さん希望の45坪は十分可能なんですがね」
「お隣はまだ良く手入れをされた畑ですよね、それは無理そうですね」
私の住宅地購入資金は住宅メーカーの従弟とも試算をして労働金庫と銀行からのダブル融資で返済能力を考えても500万円に抑えたい。
ただし、労働金庫分については会社の勤続年数などで手続きさえ行えば可能なことがわかったばかりでした。
問題は銀行でした。私の年収が少なすぎること、預金実績がないこと、勤務する会社が社会的に安心というイメージに程遠いことなどでまだ見つかっていない。
こういうことに詳しい従弟にしてみればそんなことは百も承知していてなお強気で他の銀行を当たれ・・と言うのです。
最初は地元銀行からと言うことでしたが既に武〇銀行と埼〇銀行の二行から融資を断られていました。従弟曰く、もっと大手の大銀行に当たろうよ・・とも言われていました。
そんな頃、幸いにも私の勤務する会社は業績も良くなってきて資本金の倍額増資は当を得て東証二部から一部上場を目指す企業になってきました。
不動産屋の皆上さんには大変気に入った物件ではありますが予算的には総額が私の希望を外れていた旨を伝えました。

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「武南風景(サギのねぐらへ帰還)」






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「幸三郎さん、それでいいんです。あなたは自分の希望を曲げることは絶対あってはいけません。私もこうしてあなたの希望が私の中で凝縮して来るんです」
その日の夕方、わたしは事の顛末を従弟に報告しておきました。
「まあ、金額については私の試算でもそれ以上は無理と感じていたので致し方ないですよね」
「それにしても私の希望分割が可能ならばもう少し検討したい・・とは伝えておきましたが」
「幸三郎さん、その物件ですが私にも見に行かせてください。あなたの理想住環境とやらを」
「だめです!、こんな場所では基礎工事費が掛かりすぎます」・・・・・(続く)




(連載No.191)
北側の道路からなだらかに傾斜した日当たりのいい南斜面、前方はその先ゆるやかに丘陵の小川に落ち込む地形です。
「幸三郎さん、別荘に家を建てるのと訳が違います。ここでは基礎工事にお金がかかりすぎます」
まあ、事情通の従弟にしては私の理想とする住環境の方向性は分かったとしてもここは少し手綱をしっかり締めなくてはと思ったでしょう。
そして大手建設会社に勤務する従弟とはすでにどのくらいの住宅資金でどの程度の家を建てられるかの試算は済んでいました。
先ずは私の今までの積み立て資金に彼の会社からの特別計らい融資を受けたとして総額は500万円。ですから基礎工事はしっかりした土地の上にコンクリート枠、そしてその上に箱を載せただけ。
屋根は雨つゆがしのげれば良し、と言うことでトタン葺き。「幸三郎邸新築工事・〇〇電建株式会社」という看板は建てない!。
そんな見すぼらしい建築をすること自体が会社の沽券にかかわるのでどこの建設会社か明らかにできないと言うものでした。
まあそれはそれで致し方のないことです。
従弟に言わせればこれらの資金は20年で返済できる。ですから私が50歳になるころには返済も終わって建て替えればいいと言うのです。
つまりいずれは建て替える訳だからそう費用のかかる部材も強度もギリギリのところで抑えなくてはいけない・・と言うのが本音なんです。
まあ、そんなこともあったりしてイメージが現実味を帯びてくるに従って週に一度くらいは不動産屋の皆上さんから声がかかっていたのに間が開くようになってきました。
条件が具体的になってくるとその物件も数ある中から次第に絞られてすでに不動産屋さんの時点でふるいにかけられて紹介される物件も減って来ると言うものです。
私としてはこれ幸いと個展のための制作に没頭できることで少しは時間的余裕も生まれるようになってきました。
もう作品は最後の二点が同時進行で左右の壁面に立てかけられています。この作品の完成を待って展覧会の案内状を作るには余裕がなくなってきていました。

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既に完成している作品の中から私がこれからの人生の中で描き進めていくであろう方向性のわかる作品を印刷しようと考えました。
早速いつも以前からお願いしていた写真家の桂さんにお願いすることにしようと依頼の電話をしました。
しかし、奥様の話によるとその桂さんがいま日本にいないと言うことがわかったのです。
以前にもそんな噂は聞いていましたがまさかこんな時に限ってその時期に重なっていることに焦りを覚えました。
桂さんは今まで六本木の写真スタジオ中心で仕事をしてきていました。ですからこちらからお会いして頼みごとをするにも全く心配がなかったのです。
彼自身もそう言った仕事がらみの写真から脱却して新たな自身の進路を切り開くべく模索している時期でもありました。
以前彼とお酒を飲みながらこれからの写真家としての方向性を模索するにあたって気持ちの整理も兼ねてインド旅行をしていることを聞いたことがありました。
今回もその一環としてやはりインドを旅していると言うのです。
そしてそのおよその予定を聞いてみると帰国するのはもう案内状を手にする時期というギリギリであることが判明しました。
こうなると彼が撮影した後印刷屋さんに回し色直し修正し本刷りをする段取りは私が先回りして行っておかなければなりません。
幸いにも私には今までの流れの端はしにいつも関心を持って携わっていましたので多少の順序が変わっても大きな流れでプロジュースできるようになっていました。
こうなっては先回りして印刷屋さんにも私のための日程をあらかじめ開けて待っていてくれるようお願いもしてきました。
そして順序は逆になりますが写真を載せる半面を片側に統一すれば案内状の案内部分だけ先に印刷しておくことも可能ですよ・・とのアドバイスも戴けました。
もうこうなってしまっては腹を据えてこのスケジュールで行くしかないと決めると気分も楽になりました。
何とか個展まであと一ヵ月、その日に向かって何もかもが収まっていく感じを快く感じました。
そんな時でした、あの新橋のげんすけ鮨さんから電話がありました。げん助さんの声ではありません。
げんすけ鮨で修行中の川村・・さんと名乗る方には二年前にげんすけ鮨でげん助さんにご馳走してもらったときにお会いしていました。
川村さんはその時、げん助さんがわたしにいろんなことを言い聞かせてくれたことがありましたがその言葉はよく覚えている・・と言います。
「だって、あの時の言葉は幸三郎さんに言い聞かせながら私に分からせようとしていたことも判っていたのですから」
そのげん助さんが先月に、亡くなられていた・・・・・(続く)

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(連載No.192)
思えば今年の夏はいつもより暑さが厳しかった気がする。げん助さんが亡くなったって信じられませんでした。
げん助さんはそんな夏から急激に秋めいた時、体調の急変があったと言います。しかしそんな時に限って大切なお客様が予約されていて無理が重なったことが原因でおもてなしの後に起き上がれなくなったと言います。
毎度のことですがいつも個展の案内をお出した後にこんな形で観に行かれなくなったと言う連絡の中で今回ほどショックを感じたのは私も初めてでした。
一番に観てほしかった方、しかも私の絵を描く気持ちを一番知っていたあのげん助さんが来てくれないなんて・・なんの意味があるんでしょう。
げん助さんが生涯かけて磨き上げてきた鮨職人としての心構えを素人の絵描きに最も近しい形で感銘を与えてくれて見守ってくれた人です。
もし二年前、げん助さんにお会いしてお話を聞くことがなかったとすれば恐らく今回の個展の後ものんべんたらりと5回目、6回目とつまらない絵を描いて個展を続けていたかも知れません。

そんな意味で私がこの個展を最後に一社会人として新たな出発点に立った姿をぜひ見てもらいたかった・・。
電話の先で川村さんは言いました。「げん助師匠は幸三郎さんからの個展の案内状を見ながら・・オイ、川村、ワシにはお前の他に絵描きの弟子も出来たぞ・・」って、喜んでいらっしゃいました。
・・・そんな逸話を聞いた時、私は次の言葉が出ませんでした。たとえ写真であったにしろげん助さんに観てもらえたんだ・・という嬉しさで一杯でした。
せめて案内状がげん助さんの眼のかすむうちに届いて喜んでもらえたことが一番の幸せと感じました。
一段と秋も深まった日があったかと思うと今日のように夏がぶり返したんじゃないかと思うほどの暑さの中私の4回目の個展が開催されました。
1回から今度の4回まで同じ画廊、銀座7丁目の資生堂の裏にある竹川画廊でした。

初日ではありましたが日曜日と言うことで開場して暫くは大勢の友人や知人が来場してくれて沢山の感想や言葉を聞くことができました。3時間ほどして入場者も疎らになってきたのを機会に昼食に出かけました。
3時ころに画廊に戻るころは暑さも控えめになりやっと涼しさを取り戻してきた感じがしました。
画廊のある通りはひとつ表の中央通りに比べかなりひっそりとしています。殊にこの画廊のある付近は何となく落ち着きすら感じられるほどに閑静なのです。
ちょうど画廊の入口が見える角を曲がった時、その出入り口の辺になにかしら華やいだ雰囲気がチラチラと見えるのです。

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だれか有名な女優さんでも気まぐれに訪れたのかな・・と思い近づいてみました。
大きなフリルのついたスカートが翻って彼女と顔が合いました。何時も見慣れた和装ではなく今日は大胆な洋装、しかも胸元の大きく開いた明るい色のワンピース姿です。
彼女は初めにお会いして以来、毎回こうして派手な格好で初日に来ていただく常連さんでした。
以前はついこの先の茜という高級クラブのホステスとして働いていた麗子さんでしたが、今はそこをやめて下町の荒川区でスナックを経営しているのです。
私は暫くの間その麗子さんのスナックの壁面に私の絵を展示させてもらっていたこともあり、大変お世話にもなっていました。
彼女はひところより落ち着いた感じになったとはいえやはりその華やかさは少しも失われていませんでした。
そして毎回この初日に大きな花束を花屋さんに持たせて彼女に輪をかけたほど美しいお姉さんといつも来てくれるのでした。
そんな大げさな彼女の振舞が前回あたりから急激にうっとうしくなってきた感じも否めません。
私もすっかりげん助さんの教え子のように麗子さんの望むような絵は描かなくなっていたのですから。
個展は6日間、金曜日に終わります。事前に私の個展が今回で最後になります・・と知っている人は皆無でした。
私はその都度、わたしとげん助さんとのいきさつを説明し、私の作画に対する素直な気持ちを皆さんにお伝えしました。
よく理解できない父母は何となく喜んでくれました。そして多くの友人は「よくわかった、またいつか再起を期待するよ・・」
私はこれからも絵は描き続けますがその前に、いち社会人としての表現をもっと自由な気持ちで・・・・・(続く)




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「雲」


「第4回個展案内」






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       第五部まとめ読みご案内

第22章(No.193〜No.203) (〜30歳)社会人として・・・
第23章(No.204〜No.216) (30歳)伴侶を得んと・・
第22章(No.193〜No.203)(〜30歳)社会人として・・・




(連載No.193)
  第四回の個展が終わった時、今まで感じたこともなかった充実感をおぼえました。
それは虚脱感とか脱力感などとは似ても似つかない・・言ってみればまさにその充実感に近い感覚でした。
そして個展の終わった次の最初の休日は房総千歳の海岸に出かけました。
思い返せば絵を描いてつまずき悩みそしてここでこうして過ごすうちにいつかわだかまりも失せて気持ち良く次のステップを歩むことができてきた。
しかし今度は同じ浜で寝そべってみると、いつも周囲に大きな壁を感じていたのにそんなものはすべて消えてなくなって解放感に満ち溢れているのです。
こうして改めて強く感じるのは今、自分にとっては正に人生の転換期を迎えているんだな・・。
ついその流れで住宅でも作ろうかな・・という漠然とした意識でしたがいずれ結婚もして家庭を持つんだ・・という想いがより一層強くなってきました。
そうか・・おれはもう30歳になっていたんだ。
職場での仕事は今までそつなくこなしてきたつもりでした。
しかしそれは機械的に対応してきたという表現しかできないほどの仕事ぶりでした。自分の仕事さえ終われば後は一切関係なし。
職場の組織の一員としての対応など一切かまわず、むしろ何かとそう言うかかわりを避けてきました。仕事が終わればわき目も振らずすぐに帰宅して絵を描いていた。

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自分の職場のメンバーとのお付き合いもことごとくシャットアウトして過ごして来てしまったのです。
今日は仕事の終わった後の休憩室に出向いたのです。「あれ?、幸三郎どうしたんだ・・?、具合でも悪いんじゃないのか・・?」
私はニッ!、と笑顔を見せて賽銭箱に200円を投げ入れると冷蔵庫の缶ビールを取ってテーブルに割り込みました。皆も「おう・・、そう言うことか」と気にもしません。
この職場ではこうして毎日っていうほど時間と暇のある人たちが集まって、しばし仕事の後の余韻を缶ビール片手に気楽に過ごす時間を設けているのです。
今日は丁度、毎年有志で行っている職場旅行の段取りの話題が上がっている最中でした。今年はどうやら伊豆方面に行くことになっているようです。
私はこれについても今まで参加したことはありませんでした。
計画ではバス一台を貸し切って課長以下の課員と関連する協力職場の方々で一泊旅行を毎年行っているのです。
そろそろ、その実施計画も2週間前と言うので人数の確認など最終的なつめをする時期でもありました。
わたしは「オレも、行きたいんだけど席はありそうですか・・」
「おぅ!?」幹事役の驚いたような声と共に職場の皆も「どうしちゃったんだ・・?」という風に私を見つめます。
「いや、バスは大型を頼んでいるから席は問題ねぇよ、それに一人でも多ければそれだけ割安すになるから歓迎だぜ」
そんな訳で先ず職場の一員としての仲間入りとしてのキッカケはすんなり認められることになりました。・・・・・(続く)




(連載No.194)
秋晴れの朝早く、私にとっての初体験となる職場旅行出発の日です。
入社して以来約10年間、私は職場を三つ体験していました。転職なのにそうではなく学校で言えば3度のクラス替えによる業務の変更をしたようなものでした。
最初は塗料関係、次は印刷インキ関係、そして繊維の着色関係などでした。最初の2か所は技術関係の助手、そして今回は最後まで続いた職場での初めての旅行と言うことになるのです。
同じ会社の中で色材の色んなことを学べたことは感謝しています。絵を描く者にとって色材の知識や製造法を知り実践できたことは美術学校では中々修学できないことでした。
それはそれとして一方、新しいクラスのメンバーとしての信頼関係や人間的お付き合いがまだ全然構築されていません。
果たして職場以外ではどういったお付き合いをしていけばいいんでしょう。未知に対する興味と不安を抱きながら会社の門をくぐりました。

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質素な製造会社には不釣り合いな派手で大きなバスがすでに守衛所脇に待機しています。幹事の方もバスの中での飲み物の積み込みなど車内宴会の準備が進んでいるようでした。
続々と集まる職場の人たちは普段見慣れた作業衣と違って遊びに行くんだ・・という気持ちの現れた服装で晴れやかです。
この繊維着色関係の職場では顔料と言う着色剤を水溶性の処理をして化学繊維の溶融原液を直接着色します。それを極めて細いノズルから噴出して着色繊維にする技術で製品を作るのです。
この方法は繊維の原液着色法と言って従来の白い布地にあと染する方法に比べてはるかに耐候性や摩擦、洗濯脱色などの面で優れた一面を持つのです。
着色剤は少量でも膨大繊維原料の着色を可能にするものでその得意先は日本の全ての大手繊維メーカーを網羅するのでした。
つまり少量の製品を作ることで多大な利益を生むことの一方、少量の着色剤に何らかの不備が生じたまま出荷されると。膨大な不良品が発生してしまう恐ろしさもあるのです。
塗料、インキの仕事ではそこで使用する溶剤はほとんどが人体に悪影響を及ぼします。そんな時私は、脱溶剤・・そして水性化の研究の一端を担って進めていました。
着色顔料の水性化に対する知識と経験があったのでこの職場への転出になんの不安もありませんでした。ただし製造現場と密接に組織の一員と言う気持ちには一抹の不安はありました。
いよいよバスは工場を出発すると新しくできたばかりの環七に乗ります。この道ができたおかげで都心を楽に迂回して東名高速に繋げることができるようになりました。
新しい快適な道路に乗ると早速幹事がマイクを握って今回の旅行の概要を改めて説明してくれました。
それが終わるともう早速コップが配られて楽しい旅の門出を祝って乾杯!をしました。手際よくつまみになる珍味などが配布されるのです。
この観光バスには大きなテーブルがついていてまるであたかも宴会専用に作られたような造りなのです。
そのテーブルにはもちろん全員がつくことはできません。幹事や課長をはじめ比較的お酒好きな人や宴会を盛り上げる事の好きな人が陣取ります。
私はいきなりそのテーブルにつくのは控えてせめて一番後ろの座席でお酒を飲みながら遠巻きに歓談していました。
バスが東名高速の入口につくころには何ともう宴たけなわと言う状態なのです。
高速に乗るとさすが快適なバスの走りっぷりに思わず口元に運ぶお酒のピッチもいつの間にか早まっていくのに気がつきません。
何といっても私にとってはこれほど上等で美味しいお酒に巡り合ったこともなかったのでそんなことにも私に可成りのスキがあったようでした。
案の定、途中の休憩所や観光見学や昼食下車などもパスせざるを得ない状況に陥ってしまいました。・・・・・(続く)


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(連載No.195)
稲取温泉の大きなホテルに到着して驚きました。大きな看板には「〇〇〇株式会社 御一行様」という大きな看板が出ていました。
そして女将はじめ仲居の皆さんが勢ぞろいしてお迎えしている前を通っただけでも緊張して足がすくみそうになりそうです。
社会人になって・・、つまり会社に入社した時が社会人の入口とするともう10年も経っているのに接待する側と客の立場を初めて経験したのでした。
職場の仲間は・・と見ると誰しもが堂々としていて中には女将や仲居さんにねぎらいの言葉をかけていたりします。
そういうことが自然とできなければいけないのだと改めて感じるのでした。
とかく私のように製造会社の工場勤務で温々として仕事をしていると営業職やサービス業職と違って人と接することがまったくありません。
せいぜい人間関係のストレスは仲間内や上司に対する物でしか経験していませんので言わば身内関係でしかありえないのです。
改めてこうした職場旅行ひとつとっても素晴らしい社会勉強になるとつくずく感じるのでした。
あらかじめ幹事さんの割り振りにそって決められた部屋に入りました。
幹事さんもよく考えたもので同じ所属内の職場旅行とはいえ実際には私も現場の方とはそれほど親密になって話したりしたことがないのです。
そんなことも考慮して上手い事組み合わせて部屋割を決めてくれているのでした。
そして学生時代以来の久しぶりの相部屋合宿になるのです。
もう宴会の時刻が決まっていますのでそれまでにお風呂に入っておくことになりました。
地下にある大浴場と言うのでなにか洞窟の中を想像していましたので余計に感動してしまいました。チョットした海に突き出た岩場の上の温泉という雰囲気なのです。
もう他の皆さんも三々五々お風呂が先・・と既に先着の仲間もいてすっぽりと裸の職場集会です。
お風呂から出て熱くなった体を海風にあてる仲間を見ていても本当にきもちよさそうです。
湯船につかりながら改めて職場の皆さんの裸姿を眺めて実に羨ましいほどの健康美と言うものを感じました。
何時も作業着を着ているとよくわかりませんでしたが現場で仕事をしている仲間たちの引き締まった体が実に美しいのです。
あのくらいの身体でないと200kgを越すドラム缶を軽々と扱うことなどできそうもない・・と納得するのです。
わたしもこんな身体でなかったらあの岩の上に仁王立ちになって潮風を心地よく浴びてみたいと強く思うのでした。
胃弱体質は相も変わらず、数年前には吐血して緊急搬送入院、そんなひ弱な私の体重も47kgしかなく、こんなでは恥ずかしくって岩の上に立てません。
大広間に40名近い皆さんがおそろいの浴衣を着てお膳の前に居並びました。初めての経験で何となくこんな景色も感動するのです。

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伊豆の海産物料理が美しく盛られたお膳に眼を見張ります。昼にはもうお酒は呑み過ぎたので美味しい料理に手をのばしました。
幹事や上司の挨拶も終わってそろそろと思ったころです、再び幹事が立ち上って「それではボツボツご当地の綺麗どころに盛り上げていただきます・・」
と、突然に襖が開くとまだ若そうな女性たちが大勢乱入。え!?、なんでオレの前に・・・・・(続く)




(連載No.196)
職場旅行の宴会・・、思わぬ人が思わぬ社交性を発揮したり、意外な芸達者の人がいたりして驚きました。
しかし引きかえ私は改めて自分が今まで10年近くの間そういったことに無関心で過ごしてきたことをまざまざと感じたのでした。
二日間の職場旅行が終わって月曜日、会社に出勤するとあれほど羽目を外していた仲間たちは何事もなかったように仕事に取り掛かります。
勿論それは私も変わりなく仕事に取り掛かりました。しかし、事務所に行ったり、現場にサンプリングに行ったりするたびに接触する同僚の態度が以前と違うと感じたのです。
要件の会話の端々にチクッと私の旅行中の失態に冗談っぽい言葉を挟んでくれたり・・、そんなことが実に嬉しく感じるのです。
「ああ、こう言ったことが仕事をする上での潤滑油になって行くんだ」・・と大切なノウハウを会得したと改めて感じるのでした。
そしてもう一つ、何としても体を鍛えよう。職場のみんなは昼休みの食事のあと、一斉に会社の前にある荒川河川敷に行ってソフトボールに興じる人が実に多かった。
私はと言うと職場のうす暗い所で囲碁をいつもの仲間と打っていてばかりでした。
つまりは会社から帰ると絵を描いて夜遅くに寝る、眠い目を抑えて会社に行って仕事をして休憩時間にはこんなことをしていて体に良い訳がありません。
「俺は今日限り囲碁をやめる!」と宣言したのです。まあ、いつも相手をしてくれていた友人は驚きもしましたが私の気持ちもわかってくれました。
しかし、ソフトボールをしていた大勢の仲間も雨続きの日にはいい加減うんざりして落胆する姿をよく目にしていました。
それに私は何故かソフトボール、野球のたぐいは観戦するのは好きですがゲームは得意ではありませんでした。それなりのことはできるのですがそれほど好きになることはなかった。
屋上のコートではバスケットボールやテニスも盛んにおこなわれていましたが体力的に仲間に入る気はしませんでした。
その点、卓球はかなりの愛好家もいて卓球台の数も多く、天気に関係なくほとんど毎日できる。多少腕にも自信があるし体力的にも続けられそうだと感じました。

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翌日から私は昼休みにマイラケット持参で卓球場に現れました。卓球は職場対抗戦でも職場の代表でいつも出ていましたので他の職場の卓球仲間の面識もレベルも概ねわかっていました。
卓球台は常時6台あって食事の終わった速い順から1番目の台、遅く来た人は6番目の台で勝負を始めて勝てば上の台に登り負ければ下の台に下がる方式です。
12人以上の時は6台目の台で負けると少し待たないと順番が回ってきません。勝ち続けると休み時間いっぱいはゲームをしっぱなしで出来ます。
当然上の台に居続けられるのは上手な人に限られますが私のレベルでは何とか6番目の台から落ちないくらいなのでそれは疲れますがいい運動になりました。
人の身体はよくしたものでこうして運動をするようになると昼休みの終わった後、囲碁をしていた時は仕事の出だしがグズグズでしたが運動の後はやる気満々、爽快な気分で仕事に掛かれます。
おのずと仕事の終わった後の食欲もありましたし、明日はもう少し強くなろう・・なんて、食道の帰りに卓球室で暫く夜間練習もしました。
そうなると当然ですが夜更かしは出来ません。もう11時には眠くて眠くてベッドに倒れ込みます、朝までぐっすり眠ることもできるようになりました。
暫くそんな平穏な日々が続くのかと思っていた矢先、鳩ケ谷の不動産屋さんの皆上さんから電話がありました。
「幸三郎さん、明日の朝お迎えに参ります。どうですか、朝6時には玄関前に出ていてください」
不動産屋さんの皆上さんはこうして物件を見に行くたびに私の朝ご飯のおにぎりまで用意して自家用車で迎えに来てくれるのです。そしてその後会社始業に間に合わせて送ってくれるのでした。
「植木畑の中のひと区画なんですけど出来るだけ急いで処分したいようです」・・・・・(続く)




(連載No.197)
不動産屋さんの皆上さんの用意してくれた朝食のおにぎりを食べながら車は早朝の国道122号を快適に走ります。
季節も巡って朝晩の気温も低くなり朝もやの立ちこめる中をヘッドライトを灯しながら鳩ケ谷の坂道を登り始めました。
「この物件はですね、話の出方が実に怪しかったんですよ」しかし、そんな話ぶりも何故か楽し気なのです。
話をしながら皆上さんは国道から左折して旧道をうねうねと走り続けます。
「実はこの物件ですが、幸三郎さんから土地探しの話を請け負う少し前ですがね、別の人が売りたい・・って言うんで、今の持ち主に仲介したばかりなんですよ」
「驚いたことに、まだ二年もしないうちに今度はできるだけ急いで処分したいと言って相談してきたんですよ。植木農家さんですからまだ植木も苗木なんですがね」

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「ということは、どういう所なんですか」「そう、地目は畑ですが平地で地盤がしっかりしている善い場所ですよ。地目は宅地変更出来ますから前のような心配はありません」
実は以前に紹介していただいたのもやはり植木畑でしたが地目は山林でした。私は環境的に実に気に入ったのです。しかし、建築会社の従弟に叱られました。
「幸三郎さん、しっかりしてください。別荘を作るんじゃあるまいし、こんな場所では基礎工事だけで予算がすっ飛びます」
私はそんな言葉も思い出しながらチョット植木畑・・という言葉だけ聞いて気持ちが落ち込みそうになりました。
「私もあなたの従弟さんからの言葉をしっかり受け止めていますのでしっかりした土地だと自負しているんです」皆上さんは自信満々で話します。
「大きな植木農家さんたちの間ではどうやら公にはできないような取引・・「バクチ・・」が流行っていて丁度手頃な物件が勝った負けたの取引にされるようです」
「普通の土地ですと転売されるたびに少しずつ値が上がっていくものですよ、しかしこう言った材料取引では急ぐことが多いので値が下がるんです」
「それで今回は急ぐ・・と言うことで比較的安価な物件と言うことなんですね」
国道からグニャグニャとのどかな植木畑の中の細い道を幾度か曲がったのですっかり方向も定かでなくなってしまいました。
かろうじて朝靄の晴れる時間なのでしょう、お日様が赤く見える方角からして東西南北は確認できました。
たしかバス道りから竹藪の脇の細い農道を左に曲がってわずかな勾配を登り詰めると、右の奥まった場所に藁ぶき屋根の大きな農家、そして隣り合わせてもう一軒のこれも大きな農家が朝日を浴びてゆったりと佇んでいます。
ちょうど農道を挟んで南側に一面の植木畑が広がり、その向こう遠くに2軒ほど農家が点在しています。このへん、更に周囲は雑木林に囲まれてここの地域だけポカっと別天地な感じです。
皆上さんはその植木畑の見渡せる農道の真ん中に車を止めると「この辺が売りに出ている物件です」といいます。何の標識も見当たたりません。
「この辺・・・って言われても・・・」わたしも車の脇に立ったまま植木畑を呆然として見渡しました。
皆上さんは藪の中にある人の歩いた形跡のある場所を差して「うん、ここだ!」そして歩幅で計測するように歩いて「ここまでですよ!」
やおら皆上さんは車の中から新聞紙を出して来てマジックで概ねの略図を描き始めました。「まっ四角ではないんですよ」と言いながら
「大よそなんですがこの農道の間口が四間、奥行きが二十八間、奥の幅が十間・・、ですから多少細長い扇型をしているんです」
「形がよければ五軒ほどの家が建てられるんですがねー、この地形では私道を随分取らないといけませんから三軒ってところでしょうね。その分、割増しになるのが難点です」

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植木をかき分けながら一番奥まで行ってみることに・・「そこにあるボケの樹の株の中心が境界点です」
「もっとも宅地にするときにはシッカリ測量は仕直して図面も作りますがね」・・・・・(続く)




(連載No.198)
これは大変なことになってしまったぞ。また気に入ってしまいました。
こんな閑静で広々とした地形、一番心配していたどんなことがあっても水害の被害に遭わないところ。
「あの畑の向こうに並んだ楢やクヌギの大きな樹の並んでいる所が斜面林になっていてその下には見沼用水が流れているんです」
「皆上さん、ここに決めましょうか。今度は絶対に良いところだと思うんですが」「いえ、何といっても貴方の従弟さんのOKが出ないと私は動きませんよ」
今度はやけに不動産屋さんの皆上さんの方が慎重発言をしましたのでびっくりしてしまいました。
「とりあえずは幸三郎さん、先ずはあなたからお従弟さんに連絡を取って早いうちにここを見てもらいましょうよ」
もうすっかり私の意見と言うよりも建築会社に勤務する従弟の方がこの件に関しては総合的な先験的見知を有しているかのようでした。
この日は皆上さんには私の気に入ったことは伝えて会社の始業前に送り届けてもらいました。早速昼休みに従弟の所に電話して今日の結果を伝えました。
「なに?!、幸三郎さん、本当にあんたっていう人は!、まだ値段も聞いてないんですか」
折り返し皆上さんにこちらの予定を知らせました。つまり今度の土曜日に従弟とじっくりとその場所を訪れて彼の意見を聞く。
「まだお値段のことは正式に伺っていませんが幾らくらいと伝えればいいんでしょうか」
「幸三郎さんがどのくらいの広さであそこをご希望になるかによります。三軒で私道負担となりますが平均的には坪〇万円くらいと申しておいてください」
また従弟に電話して値段を告げました。「幸三郎さんやっぱりじっくり見てからにしましょう、あまりにも安すぎます!」
土曜日はあいにく朝から冷たい雨が降っています。
従弟に言わせるとこういう日こそその土地の良し悪しを見極める絶好の日だというのです。
私の持っているスバル1000のポンコツで一緒に行こうと言ったのに黒塗りの新車、従弟の車で行くというのです。
案の定、バス通りはいいとしてもそこから入る畑道はもう泥んこの轍に水が溜まったりして結構悲惨です。
「ここを曲がってその泥んこ道を入るんですよ」
「この奥になるんですかね、でも水はけがいいんだね。雨水はどんどんバス通りの方に流れ出していくよ」

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藁ぶきの農家の前を通って桜の古木のあるところまでくると。未舗装の道でもしっかりしていてこの目の前に広がる売地の前です。
車を降りて傘を差しながら周囲を見て回ります。
「そうか、ここまでくると判ったよ。ここは電車の駅とは全く関係のない未開発地域だよね・・だから安いんだ」
「土地はしっかりしているし宅地としては問題ないよね。幸三郎さん、ここなら一番安価な基礎工事で家が建てられるよ」
いよいよこれで本決まりになるのかな・・と私も少し心が浮き立ちました。
「幸三郎さん、今度月曜日か火曜日の早い時期に市役所に行って都市計画の状況を調べてきてくれませんか」
「どうしてですか・・?」「やっぱり安すぎるのが気になってね、折角家を建てても都市計画で立ち退き・・もあるからね」
「それはどうでしょう、私の今住んでいるところだって首都高の工事は来年からかも・・なんて言ってもう6年も経ちますよ」
都市計画課「この地番の開発計画は10年先までありませんし道路予定も外れています」・・・・・(続く)




(連載No.199)
今度の候補地はいってみれば住宅地としてはみんなが見過ごしてきた疎遠地と言っても過言ではありません。
川口市の一般都市計画の中でも無視されるような場所でもあったわけです。
市の担当者の「この地番の開発計画は10年先までありませんし道路予定も外れています」という言葉通り畑以外の用途は見つからないというものです。
それでは人は住めないかと言うとそんなことはありません、現にこの場所からぐるっと見渡すと六軒の農家が見えます。
そのどの家も自宅の庭には井戸があって昔はそれを飲料や諸々の用途に使っていましたが今はちゃんとした上水道も来ているというので安心しました。
ただし、ご近所の農家さんに話を伺うとどちらの家でも排水溝が無い。
雨が降って出た水は全て地面の斜度に従って下方に流れていく。この付近ではごく当たり前のことで自分の家に降った雨でも自然流下でお隣に流れても法律なのです。
ただしトイレやふろ水、洗面水などの雑排水はどの家も吸い込み式処理によっていると言うものです。
これは市の住宅に関する建築基準にも合致しているというのです。地質は火山灰土の赤土なので家の庭の隅に幅1m、深さ7〜8mほどの穴を掘ってそこに流し込む。
底の部分は岩盤層になっていて流下した水はそこから地層に浸透していく・・。まあ、衝撃的ではありますが地下水脈の汚染は免れないというものです。

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人が住む・・と言うことはもうそれだけで環境には負の遺産となります。そのことは全国どこに行っても似たり寄ったりだとあきらめざるを得ません。
たとえ排水溝が完備されていたとしてもその行きつく先は河川や湖沼と言う地方はまだまだ多いのです。
公共下水道計画は市として進めてはいますがその計画にもこの地域は乗っていないというのが現状です。
いずれにせよ大手住宅メーカーの敏腕営業マンとして勤める従弟からOK!の承諾を得ることができました。
不動屋さんの皆上さんから連れてきてもらってからもう10日ほど経ってしまいました。
早速、皆上さんには従弟からの承諾を得た旨を伝えました。
「幸三郎さん、先客がすでに契約し決定しましたので、区画のどこでも・・と言うのは無くなっちゃいましたけれど」
「え!?、私は秘かに奥の南東角か南西角のいずれかにしようと思っていましたが・・」
「南東角が決まってしまいました」
「わかりました。それでは南西角は私が契約させていただきますので宜しくお願いします」
「そうですか、わかりました。しかし、幸三郎さんのご満足いただける場所が見つかって仕事のし甲斐があったと私も嬉しく思います」
「それはこちらの言うセリフです。よく辛抱して探していただきました、ありがとうございます」
「それでは、数日中に正確な測量を基に予定通り三軒の分譲で進めます。正確な総額は大差ないと思いますがその測量で決まります」
とにかく曲がりなりにも私が将来住もうとする土地が決まりました。多少変形地ですが敷地45坪、そして三軒共有の市道で我が家分約13坪。
予定していた総額の敷地分は計画内に収まることができました。
ローンは20年。三和銀行と労働金庫、住宅資金は従弟の会社の融資制度で宅地を担保に借り入れられることも決定しました。
このころは55歳が定年ですし20年先まで借金の返済を続けることがどれだけの不安材料だったのか想像することも困難でした。
ともあれ私の給料手取りの内、四分の三は返済分として毎月消えるのです。・・・・・(続く)




(連載No.200)
その日を境に私の目の前を何通の書類が通過しては事が進んでいったのか・・・今もってしっかりと記憶を呼び起こすことはできません。
ただ、心強かったのは信頼のおける経験豊かな従弟が傍にいてくれているという安心感しか記憶していません。
そして気が付いた時には給料の手取り四分の三は借入金の返済を約束する書類に判子を押してひと段落つきました。
もともと私は6年間近くも三食、朝昼晩の食事やお風呂も全て会社の施設の中で済ませていました。言ってみれば手取りが無くても生活はできたのです。

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給料の中の更に少ない手取りでわざわざ食事を摂るよりも三食、会社の補助がある食事にどれほど助けられたか計り知れません。
しかも曲りなりに栄養士が作ってくれる食事ですからそう偏食に偏ることもなかったし私自身の徳として食べ物の好き嫌いが無かったことも幸いしました。
そして書類のやり取りが終わったのちいよいよ我が家の設計をする運びになりました。
従弟の勤める大手住宅メーカーには”先生”と呼ばれている建築士さんが参画してくれるのです。
営業マンとしての従弟ですが私の要望を聞いて大雑把な間取り図を描くこともできそれを基に先生預かりで設計をしてもらう段取りです。
先生はただの箱を作るんでしたら別に何の支障もありませんが窓を付けたり、間取りを大きくすることで建物の強度計算が必要になるんです。
つまり私の要望する建物にはどうしてもアトリエになる広い空間が欲しかったのです。
それは間仕切りのない分、安くできそうな素人考えをはっきりと否定したわけです。
大きな箱の空間を作るためには材料の高い鉄骨も取り入れないとなりません。そこに掛けた費用はどこかを削って補充しなくてはならないのです。
言われてみればその通りです。建築資金は限られています。私の要望を全て取り入れると資金不足になります。
しからば・・、その補ってまでして大きな空間をぜひとも作りたいのか。或いは諦めて小さな間取りにすることで強度を保つのか・・。
暫く冷静になって塾考しましょう。先生の方でもその他の手で私の要望を叶えられる事が見つけられるか更に考えましょう。
そこには私と設計士さんとの丁々発止のやり取りがあるのですが営業担当の従弟はいとも涼しげな顔をして聞いているだけです。
彼にしてみればもう自分の仕事は終わってお互いの結果を待つのみ。つまり建築費は六百万円以内と決定しているのですから話し合いを待つだけです。
そして彼に従って提出した借入金も書類審査を通過し土地の購入資金がめどを立ち、それを担保に自社から建築資金を調達してくれた手腕は頭が下がる思いでした。
とてもそこまでのことを私一人でできることではありませんでした。
アトリエを作りたい・・、私の青春時代の希望は諦めよう。だって、もう既に私は画家になることは諦めて絵を描くことは趣味でやっていこうと決めたではないですか。
そして一社会人・・いや、会社人として現在の会社の仕事に真剣に取り組んでいこうと決意したばかりでした。
そんな時、先生から提案がありました。「屋根は瓦ではなくトタン葺きにする。天井は作らなくて梁などはむき出しにすることで予算に収める」
またまた私の心は揺れます。だって、画家になることは諦めたけど会社に勤めながら趣味として絵は描き続けていきたい。
それが可能だったら天井なんかいらないし、トタン葺きの家だっていいんじゃないか。
もう話はそこに落ち込むようにシナリオが出来てでもいるように一気に決着がついてしまいました。

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とにかく私は天下の独身者。私が楽しく棲むことのできる家の選択を自分の思うまま決めて何が問題でしょうか。
「先生、それではその方針で設計図を作っていただけないでしょうか」・・・・・(続く)




(連載No.201)
丁度この時、日本の経済成長率は9%ほどの高水準を維持していました。しかし同時に物価上昇も本格化し地価の高騰、建築資材の高騰と私にとってはマイホーム決断のリミットではありました。
私の勤務する会社はというといわゆる無から付加価値のある有を生み出す企業、化学会社ですから会社としてもかなり成長する波に乗っていたこともありました。
日本の企業各社の名目給与の伸びも加速してそれでも平均15%up・・の時代から25%up などと加速していました。
つまりこの段階で手取りの四分の三(75%)を借入金の返済計画にしていたのに半年もしないうちに五分の二(38%)に負担が減ってしまったのです。
めまぐるしく変わる経済動向の中でこの機を逃さなかった建築会社勤務の従弟の判断と私の決断と実行が功を奏したことになったと思います。
「幸三郎さん、前にもちょっとお話したんですが・・」従弟からの話かけにチョット訝かし気を感じましたが聞くことにしました。
「実はハッキリ言っておきたいんですが今回の新築現場に掲げる看板なんですが・・当社としては出せないことになってしまいました」
「新築の看板・・って、あの例えば≪幸三郎邸 新築工事・○○電建KK≫・・・って奴ですよね」
「そうなんです、今回の物件は設計の先生としてのメンツも会社としての誇りも丸つぶれなんですよ」
「ああ、そんなことですか、一向にかまいません」
「そうですか、幸三郎さんにとっては一大決心のことなのにお気持ちに添えなくて本当に申し訳ない」
「それより、こんなチャンスを作ってくれたことに本当に感謝しています」
自分の家を作る・・てことがこんなにも生きる活力になるなんて思いもしませんでした。
朝は陽ののぼる時間には起きて、車で15分もしない我が家の建築現場を訪れます。
もうすっかり通いなれた丘陵地帯の畑道ですが段々に家の形が出来てくるのを本当に楽しみにして眺めては会社に向かいました。
始業30分前には会社の食堂について先ずは朝食を摂ります。もうすっかりお腹も空いてありきたりの朝食ですが美味しくいただきます。
会社では好業績を反映して今年も多くの新入社員が入社して来ました。
私の職場にもそのうちの幾人かが配属されます。もう10年選手の私も新入社員の指導員として駆り出されます。
私も新入社員から見れば立派な先輩ですがタダの平社員です。しかし同期の仲間では殆どが係長などの役職に付いているし、ほかの事業所では課長になったものもいるという。

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オレも昇格試験に挑戦しなくてはいけないんだろうなあ・・とかすかな向上心も抱かざるを得なくなっているのです。
段階を踏んだ昇格試験に合格するたびに仕事の質も上げなくてはいけません。もっともそれに伴って給与も上がることには成るのです。
先ずは平社員の最上級、係長職への昇格試験に何年かかるか挑戦するという目標を立てよう。
我が家の建築進捗状況はほとんど毎日見に行っているのでこの分では予定通り今年中には完成しそうだと思いました。
今日も休日を利用して飽くことなく我が家の進捗を見るのを楽しみにしてやってきました。
大工さんは二人しかいませんが毎日コツコツと手順通りに作っているようです。棟梁は年配の方ですがもう一人の若い人は私と同じくらいでしょうか。
作業現場を見させてもらいながらいろんな将来の夢を共有することもできました。ふと見ると、床柱の加工をしています。手際よく寸法を取り寸分の狂いもなくはめ込みに成功しました。
「あ、その柱の切れ端、頂けませんか」・・・・・(続く)




(連載No.202)
丁度この日は我が家に一間しかない6畳の和室に取り掛かっていました。
設計の段階ではこの和室の柱もごく当たり前の角材で作る予定でいました。
建屋本体の柱などはあらかじめ工場で加工してきますが今日のような和室の床の間の柱などは概ねの柱を持ってきてその場で採寸してはめ込むようです。
工事が始まってからと言うものあれほど頻繁に連絡を取り合って付き添ってくれた従弟とも暫く疎遠になりかけていました。
そんなある日、今日の休日に私が建築現場に来ることを見越して3日ほど前に電話を戴きました。
「幸三郎さんに、私から気に入ってもらえるかどうかプレゼントさせていただきたいのですが」と、この時床柱を融通してくれることを確約していました。
そんなこともあってその和室の床柱の設置に立ち会うことに決めていたというわけです。
朝早くに現場に到着するともう大工さんは休日にもかかわらず作業に取り掛かっていました。
畳の間より3寸ほど高い段差の床も出来上がっていて天井とその床の間に太さ10cm程の丸太柱を組み込む算段の様です。
「・・この柱を使うんですか?。ちょっとデコボコしていて趣がありますね」
「この木は、ツゲの木ですね。高いですよ」若い大工さんはいかにもこれから高価な材料を使って特別な仕事を任せられたことに高揚しています。

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勿論のこと値段が張る材木で銘木だというのです。とても固いので櫛や将棋の駒、彫刻の材料になるんだそうです。
しかも成長が遅いのでこれぐらいの太さになるのには数十年もかかるんだそうです。その木は皮を剥いだそのままの丸太を床の間の飾り柱に加工するのです。
あらかじめその部分にあてがってみると何と加工の切れ込みなど作るとほぼピッタシの長さの材料なのです。
独りで持ちあげてみてもずっしりと重量感もありますが木の裏側には既に縦の切れ目が入っていました。これは通常ひび割れ対策としてどんな柱にも施すことだそうでした。
床のはめ込み穴にすっぽり入る切れ込みは寸分の狂いもなく入りそうです。天井部分の受け口にピッタリ合わせるためには幾度も幾度も少しずつ削りながら合わせていきます。
斜めになって合わせていた柱が大分垂直になってきましたがまだすっぽりと収まりそうにはありません。
この時点で若い大工さんは棟梁の所に行って相談しています。どうやら大詰めの状態なのでしょう。
棟梁が和室の状況を見て「よし!」と発声しました。
「コーン!」と少し大きめな木槌で宛がった木っ端を叩くと床柱は気持ちよく「スッコーン!」と垂直に収まりました。
床柱の切込み加工の端材ですが精々6p角くらいしかありません。ゴミの袋に放り込まれる前に「欲しい!」と言ったわけです。
今日のここまでくる間に私はいくつかの契約書に実印登録した三文判を使ってきました。この端材を使って自分でちゃんとした実印を彫ろうと考えました。
家は暮れには完成します。私はそれまでにこの端材を加工して実印を作って登録する。そして我が家の登記簿はその実印でしよう。
帰宅して従弟にを電話して御礼を言いました。
「床柱、大変気に入りました。ありがとうございました」
「喜んでもらって嬉しいです。こんなこといつでも右から左へとは行きませんが幸三郎さんは運がよかったと思ってください」
「・・って、大工さんの言うことには大変高価な材だと言いますよ。おいくら位だったんですか」
「私にも分からないんだけど、運がよかったんですよ」・・・・・(続く)




(連載No.203)
郷に入っては郷に従え・・という言葉がありますが我が家を持って諸々の社会活動をしていくうえで実印の無い生活は認めてもらえません。
西欧諸国ではそんなものは無くとも本人のサインさえあればどんな重要な書類も通せるという国の文化にあこがれてはいました。
しかしこの国では誰が押してもその印鑑が押してあれば有効な書面であるという政治、行政の流れは私一人が立ちはだかっても変わるものではありません。

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青春期に絵を描くことに夢中になりそしてその作品の仕上がりには「オレが描いた絵だ!」と洋の東西を問わずきっちりとサインをしてきました。
ただ洋の東西・・と言いましたが東洋ではサインの他に印鑑まで押す習慣は依然と残ったまま存在しました。
しかしそれはともかくそんなことも受け入れなくては社会人として認められないという風習は残ったまま存在していました。
床柱の破片で実印を自分の手で彫り上げる・・、とんでもない計画を立ててしまった物だと思いました。
そしてその第一回目の使用は我が家が完成して我が家として登記することに当ててみたい。
そうすることで私自身が社会の風習に馴れ親しむ・・と言う以上に積極的に大人の社会に入り込んでいくという意識付けにもなろうと考えました。
まだ我が家の完成までには2か月もあります、我が家を作ると言うことの中で大変多くの大人社会のルールを知ることになりました。
第一どんな印鑑でも本人の実印として市役所に登録してもらえるのかと言うとそう簡単なものではありません。
私の床柱の端材から頂いたツゲはごく一般的な印材の木製のものとしては良く使われているもの・・と伺っていました。
もっとも材質で先輩たちの印材のこだわりを聞いてみますと凄いひとでは象牙だとか水牛、白檀、黒檀、などと凝ったものを使っている人もいました。
そして開運を願って・・とかわけのわからないことをまじめ腐って説教する人もいるのです。
そういう話を聞くと私は何処かうさん臭い感じがして余計に反発したくなります。
そうして更には書体がどうのこうのと・・先輩たちの言うことはとても聞くに堪えません。
第一、印鑑を彫ったこともないのにいきなり作ることができるのでしょうか。彫刻刀で版画を彫ったり小さな彫刻を作ったことはありました。
先ずは作ってみることです。いきなりではまずいだろうから似たような印材の材木で加工してみました。
作れないほどの細かさではありませんが相当切れ味のいい専用の刃物が必要です。
そしてもう少し品のある書体も研究しないとこれでは子供の工作の様です。
印字も幾通りか書いてみて、試しに大きな版面で作ってみました。
何とか印鑑らしいのですがこのままの書体はどこにでもありそうで私らしさが出ません。
もう一工夫欲しい所です。
そしていよいよ本番です。練りに練った書体を直径15mm長さ55mmの印材に彫り始めました。
ツゲの樹はかなり堅い木ですが印鑑屋さんで教わった彫刻刀を使うとかなり思ったように彫れるのです。
もうかなり細かな彫り物にも慣れてきて想いのほかあっという間に彫り上がってしまいました。
さっそく市役所の住民課に出むいて印鑑登録をしました。「ご自分で彫られたんですか・・・?」

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「ハイ!」「材質は・・?」「ツゲです!」・・・・・(続く)




第23章(No.204〜No.216)(30歳)伴侶を得んと・・





(連載No.204)
今まで勝手気ままに人生を歩んできた気がしました。しかしそれなりに充実した青春期を過ごして悔いもありませんでした。
ですから無駄なことをしてきたとか、もっと頑張ればよかったとかの反省は全くありません。
美術研究所に入って絵を学ぼうと思った時、先生の言った言葉が今になって本当に大切な言葉だったんだと気がついたのです。もう10年も前のことです。
文京区の閑静な住宅街にあった駒込美術研究所を終了して上野にある寛永寺坂美術研究所に移った時でした。
確か1階がデッサン室、主に美術大学受験生が大勢いました。2階にはモデルさんを使って油絵を描いたり専門的な美術研究を目的としていました。
そんな階段で仕切られている中二階に小部屋があって先生が気になった生徒さんを呼んで個別に助言したり励ましたりすることがありました。
私は当時デッサンの教室から自由研究の部屋に移って毎日モデルさんを見ながら油絵に勤しんでいました。そんな時「幸三郎さん、手が空きましたら・・、ちょっと」
先生はちょいちょいそう言って生徒さんたちと意思疎通を図っているのです。決してみなのいる周知の中で直接助言したりとはしないのです。
もっとも私たちのように受験目的でない人には直接的な指導もなく本当に自由な研究ができたのでした。
そんな私に先生が直接助言をしたりするのかと内心動揺しながら階段途中にある中二階の先生の書斎に恐る恐る入りました。
比較的長身の先生にしてはあまりにも低い天井で先生は頭をかしげながら私を書斎にしている部屋に招き入れました。
1階や2階のアトリエ教室は山の手、京浜東北などの電車に面していて電車の通過するたびに大きな音がするんですがここは全然静かな部屋なのです。
あとで知ったのですが斜面にある校舎なので中二階は不思議な構造で地下にあると言います。こんな静かな部屋で先生と1対1で話を聞くと説得力も増すというものです。

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「幸三郎さん、研究室に移ってもう2ヵ月になりますが捗っていますか」
先生は二人掛けのソファーを私に勧めながらしかしご自分はご自身でお茶のセットを取り出してテーブルに並べながら聞きます。
「はい、私もようやく先輩たちになじめるようになったし、モデルさんと目が合っても怖気たりもしないで平常心で描いていられることが出来るようになってきました」
「それはよかったですね。中にはこれくらい経っても気の小さな人はしり込みして自分の研究どころではなくなってしまう人も多いんですよ」
「そうですか。今は白黒デッサンをしてきて失ってしまった彩色の感覚を取り戻そうともがいています」
当時私は駒込美術研究所を含めて2年間も石膏デッサンばかりしていたので白黒の質感や立体感は備わって来たものの色彩に置き換える表現に苦慮していました。
先生はお茶を私に勧めながらにこやかに自分のソファーに腰を下ろして改めて対面した形式を整えたという風でした。
「今日、こうして幸三郎さんをお呼びしたのは、ご自身の研究も進んでいるようなので老婆心ながらのご助言をしようと思いました」
「研究室にはあなたより何年も先輩の方々も大勢いらっしゃいます。このまま皆さんから刺激を受けながらご自分の研究を続けて欲しいと思います」
「幸三郎さんは絵の研究を続けて将来はどんな希望をお持ちなんでしょうか」
そんな事を聞かれても一瞬私は何と答えていいものかと考えてしまいました。「まあ、そこそこ思い描いた絵が描けるようになれば・・」
「私もそんな気持ちでいるんですがね、これが何年経っても納得いくものが自由に描けないんですよ」
「先生程になってもそういうものなんですか」
「そうなんです。ですからこの絵を描くということは一生の仕事です」
「そのためにはシッカリした仕事を続ける努力も同時にしてください」・・・・・(続く)




(連載No.205)
おや!?、これはどうしたことでしょう。先生はシッカリ努力をして・・将来は立派な絵描きさんになってください・・と言うのが普通じゃないの?
そうか、2ヵ月ほどアンタの絵の勉強の進み具合を見ているととても大画家に成れる見込みはないから精々、ほかのことで生活設計をしっかりしておくことが肝心だよ・・て言うのでしょうか。
「私はこんな話を皆さん、誰にでも言ってるわけではないんですよ。幸三郎さんはまだお若いし、ちゃんとした立派な会社にもお勤めとゆうらしいからお仕事の方もシッカリと申し上げているんです。」

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確かに私はまだ先輩たちに比べれば絵に対する考え方もあいまいで、芸術家の卵にしても一貫した考え方もなく先輩たちの匂いにただ憧れて尻を付け回っているに過ぎません。
「先ほど幸三郎さんは”そこそこ思い描けるような絵が描けるようになれば”とおっしゃいましたが、わたしもそう思って努力して来ながらこんな歳になってしまいました」
「人間の可能性を考えたとき異質の能力の質というのは絵のことをシッカリしている時は他のことはもうできないのかと私は若い時に思ったことがあるんです」
「でも、そうじゃなさそうだって思った時には取り返しがつかなくて、ズルズルとこの世界に埋もれてしまいましたよ、あなたの頃にそれに気が付いていれば良かった・・と」
確かに先輩たちを冷静になって観察してみると絵を描くためにあらゆる努力をしています。それは何しろ絵を描く前に生活していると言うことです。
腹が減っては豊かな発想も沸くはずがありません。絵を描くための材料費も掛かります。特別に大金持ちの息子として生まれてきたわけでもありません。
石膏デッサン室にいたとき彫刻家志望の研究生と親しくしていたことがありました。その彼がやはり今日のように先生の書斎からショゲテ帰ってきました。
以来彼はこの研究所に二度と戻ってくることはありませんでした。彼の実家の家業は八百屋の長男というだけで先生は即、彫刻家の志望は止めなさい!。と言ったらしいのでした。
彼の実家の経済力では彫刻家を目指すというにはあまりにも悲惨と言われたそうです。
「幸三郎さん、わたしはせっかく勉強したいと言っている若者に”お止めなさい”なんて野暮なことは言いたくないのです。でも可能性は引き出してやりたいんです」
「コップの水にスプーン山盛りの砂糖を溶かしてもコップの水は溢れないんですよ。若い人は仕事も頑張れるし絵も頑張れるそういった容量があるんです」
そんな大切な言葉は耳で聞いて、はい、そうですか解りました、とは中々実感しないものです。
でもどこかそんな言葉の断片って体の中に残っているのです。「・・・シッカリした仕事をする努力・・」と共に絵の先生の口から吐露された人生訓でしょう。
今では曲りなりにも我が家も建てられるめどがついて完成を待つまでになりました。

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まあ言ってみればそんなことも人生の中で大人としての責任を果たしていくひとつの序章かもしれません。
周囲に好意的に助言して導いてくれる人に巡り会ってからこそ実現してきたようなものです。
でもその中には自分で決断しなくてはならないことは次々にやってくることがあり、それらを乗り越えることに恐れをなしては出来えないことがたくさんあるのです。
今思えばそうでした、家をどこに建てようか。このことも大変な苦しみと努力があったからこそ見通しが立てられたのでした。
そして融通でした。どこでも必要な融資を得られるためにはそれに応えられる担保があるか、あるいはその人の信用度がどれくらいあるのかと言うことでしょう。
そこで一番力を発揮してくれたのは自分の勤めていた会社があって、その会社が社会的信用を得ていると言うことの一言に尽きるのです。
つまり絵の先生はそんな事でも私に「どんな辛いことがあっても会社の仕事もシッカリやってご自身が会社からの信用をシッカリ持たれるようにしておきなさい」と言ってくれたのでしょう。
かくして私は大きな借金で我が家を建設できることになりました。つまり社会人として25年の融資は私自身に対する信用度と言えましょう。勿論、生命保険付きですけれど。
このころの会社の先輩たちの多くはだいたい25〜27歳くらいで結婚している人がほとんどでした。
そんな意味で私はもうすでに30歳です。なのに手取り収入の4分の3は既に借金返済に充てられていてとても妻を得ようにもまず金銭的に無理と諦めていました。
でも先輩たちの話をよく聞くと異口同音に一人で生活するよりもふたりの方が金銭面で楽だ!・・と言うのです。
そんなバカな話があるのか?・・・・・(続く)




(連載No.206)
一人で生活して行くのが金銭的に苦しいのにどうして二人で生活した方が金銭的に楽なの?
これは先輩たちの持論を徹底的によく聞いておかなくてはならないと感じました。確かに友人と二人で下宿していた時期もあって解らなくないこともなかったのです。
でもそれは部屋代が半分になるってことだけでその他の財布の中身まで共有した話ではありません。
でも今でこそエンゲル係数・・なんて言葉こそ聞かれなくなりましたが当時の私にとっては食費の出費が一番のころです。
まあそれだけ収入が少なすぎたと言うことでしょう。ですから独身でいればこそ朝昼晩の三食を会社の安い食堂のお世話になってさえいれば飢えは凌げます。

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食生活って一つの生活習慣スタイルですから、食事ってそういうものだと思って慣れてしまえば三食会社の食堂で済ませることも苦痛ではありませんでした。
そして慣れきってしまうと生活スタイルさえ変えなければ全然問題ないと言う結論で大きな借金生活は過ごしてきました。
「先輩!、質問です。どうして二人の生活の方が金銭的にゆとりがあって楽になるの?」
職場にいる先輩たちは一つしか違わない先輩にしろ大先輩にしろみんな結婚しています。それどころか二つも三つも後輩で結婚している人もいて私は肩身が狭い。
この頃、何となく感じていたことは独身でいる私のような者は何かのことで発言しても、何となく現実味の無い意見としてみなされてしまうことも感じていました。
独身だから軽弾んだ考えだという先入観はありませんが先輩たちの中には面と向かって、おまえはまだ人生を語るには甘すぎるよ。
などと言う言葉も聞くことがあったりしました。まあそんなわけで実際結婚されている方たちの率直な意見を聞いてみたい。
中には大恋愛の末結婚した人もいます。実家に帰った折お見合いを進められて結婚した人もいます。みな口をそろえて少なくとも結婚して独身の時より豊かな生活ができるようになった。
中にはもう子供たちが高校大学への進学でてんやわんやと言う先輩はさておき、おおむね結婚して暫くは独身のみじめな生活から脱却したと言います。
そうか、私は気が付きませんでしたがいくら会社の食堂で一日三食、食べていると言ってもそれは外食するより安いと言うだけです。
貧しくても夫婦二人で食材を買ってきて料理して作ることができればもっと安くなる。そして独りで食べるより二人での食事はもっと美味しくなる・・。
と言う結論じみたものまで私の頭の中を支配するようになってきました。
しかし待てよ、どうして二人の食事がそんなに大したものでなくても美味しくなるんだ?。
そもそもオレは男ばかりの三人兄弟の末っ子、思春期の高校時代は男子校だった、そして会社に入ってみてもほとんど男ばかりの社会で過ごしてきました。
そんな人間にたとえ嫁さんになってくれる人がいたとしてもオレが二人で飯なんか喰って、しかも楽しく?果たして飯が喉を通るんだろうか。
益々不安は募ります。
そうか、まず結婚をしないと話は始まらないだろうな。みんなはどんな手順で結婚しているの?。
お見合いをするって・・まさかボケーっとしていると誰かが「こんな人どうだ?」なんて言ってきてくれるの?。
まさか、道を歩いているときにいきなり結婚してくれませんか?、なんてそんなことがあるわけもないだろうに。

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夏の暑さも最盛期を過ぎるころ新築の我が家も大きな山を越えて完成は12月の初めには引き渡しができますと言う。
そうなると私もいよいよ目の前に迫ってきた引っ越しの為の準備にかからないといけません。
家財道具はベッドと勉強机、そして小さなテーブルが一つ、何の心配もありません。
しかし、膨大な量の大小さまざまな絵が足組された鉄骨の上に渦高く積みあがっています・・・・・(続く)




(連載No.207)
暑さ寒さも彼岸まで‥のことわざ通り日中はともかく朝晩は随分凌ぎ易くなりました。
会社では私の所属する美術部の面々も食堂の後、昼休みには職場に帰る通路にあるこの部室に立ち寄って雑談することがよくあります。
もっともほとんどの人はこの部室で絵を描いたり、陶芸の轆轤を回しながらいろんなことを話題にして盛り上がっているのです。
写生旅行の計画や、キャンプ計画、自転車によるツーリング計画・・・、その殆どはこうした雑談の中からだんだんに方向性が定まってくるのです。
それは面白そうだね・・、とか、そこは是非試してみたいね・・・、そして実行責任者が決まって具体化することが多いのです。
そんな話の中に我が家新築の進捗具合について話題になったことがありました。我が家の完成まであと二か月足らずになってたときのことです。
「幸三郎さんの家ってどの辺に建てているの・・?」「それがさ〜、電車も通っていないし、バスでも行けそうもないんだけれど、ただ自転車だったら割と近くなんだよ」
「おっ!、それ、おもしれ〜な!」「今度みんなで自転車で行こうぜ」「このあいだ自転車で秩父方面に行った以来だよな・・」
そんなわけでトントン拍子に話がまとまることが多いのです。
じゃ、今度の日曜日の朝、幸三郎さんのうちの前に八時集合。近所にお店はないそうなので皆それぞれパンや食料は用意していくこと。
私の住処は、当時の荒川土手下交番(現在は江北交番)の真ん前なのです。当時の交番は鳩ケ谷街道と西新井大師参道の起点になる向かい側、そして我が家の入口はT字路の交差点内なのです。
信号機のすぐ下なので自転車に乗った皆さんが五人もここに立ち止まっていたらすぐにお巡りさんが出てきます。
「もしもし!、交通の妨げになるから・・#$&%*!!」
「今日は日曜日だからそれほどに問題視することもないよな。お巡りさんも暇だからね」
「いや、ひがんでいるんだよ。おれらはこれから楽しい所に行くんだろ〜な、ってわかるんだよ」
「おまたせ〜!」私がドアを開けて通りに出ると、お巡りさんも交番の中に引っ込みます。「あれ?、何かあったの・・?」「いや!、なんでもね〜」
今日はすっきりと晴れ渡って空気も少しキリリとしていました。絶好のサイクリング日和です。

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鳩ケ谷街道を北に向かって走り始めるとすぐに新しくできた環七通りにできた椿交差点に差し掛かります。
近所で飲食店を営む3〜4軒のお店は将来的な発展を期待して新しくできた環七周辺がこれからの商業繁華街へ発展すると考えてもう早々に移転してきたお店が目新しいのです。
そして交差点を過ぎるともう一面の田んぼで視界を遮るものがありません。(今となってはとても考えられない風景です)
振り返ると田んぼの中に環七のまばらな車の流れの先、わたしの会社の工場がたたずんでいるのが見えます。
距離にして10kmくらい、田んぼの先に黒々とした森の緑豊かな丘が見えてくる付近まで来ました。
「え〜!、この位走っただけでもう関東平野の末端まで来てしまったんだ」誰かが素っ頓狂な声を上げます。
「いや、この辺だけなぜか丘陵地帯が取り残されちゃったんじゃね〜か。これをドンドン行くとこの先また平野が続くんだよ」
「さあ、これから上り坂になるよ。暫く上ったり下ったりだよ」この辺りまで来るともう車の通りも亡くなって東京から大分遠くまで来てしまったと感じてしまいます。
ちょっと見晴らしの良い木陰で一休みすることにしました。「お〜、こんなところから東京タワーがよく見えるね」
「随分標高があるんだね」「いや、せいぜい20mくらいじゃねえの」「それにしても空気の味が違うね」
「確かに。オレもそんな気がするんだよ。まあ、気持ちの問題だけだけどさ」
「看板があるよ・・」武南公園丘陵地・・・・・(続く)




(連載No.208)
「しかし、わずかな距離を自転車で来ただけなのに不思議な景色だよね。だって東京の密集した家々がすぐそこに見えるのに」
「そうだよな、人間って集団で住んでいないと不安感があってついつい寄り添って住まいを造っちゃうのかな」
「ここら辺は林と植木畑と・・・、ところどころに農家さんがあるって感じだよね」
都会に暮らす元田舎者の若者たちも改めてそれぞれのご実家のある山河を一瞬脳裏に思い浮かべながら改めて都会の密集地は不自然と感じたようでした。
わたしは会社に入ってから12年目、先輩部員は既に有形顧問化してしまい、いつの間にか実質美術部の中で最年長になっていました。
ですからこうしてクラブの先輩である私の行動なり考え方は非常に刺激的で参考にしているであろう後輩部員の気持ちはよくわかります。
「じゃあ、ぼちぼち出発しようぜ!。あとここから十数分ってところかな」
「本当にオレン家の辺には店もないし食べ物は買えないし準備はいいのかな」
「おっと!」あわてて腹ごしらえをしたり水を飲んだりしてこの崖っぷちから出発です。

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「晩夏武蔵野田園」


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私は以前はじめてこの地を訪れて驚いたり感動したりした場所を巡っていこうと思いました。
アップダウンが頻繁に続く地形ですが皆さんの自転車の足取りは、近郊やついこの間の秩父あたりまでツーリングした仲間です。屁ともありません。
最初に、私が「いいな!」と思った場所に連れていきました。今もってその土地は売れたような気配はありません。
「実はね、ここは最初に欲しいな!って思った場所なんだよ」
私は不動産屋さんがすすめてくれたけれど従弟の専門家に「ダメ!!」と言われたところなのです。
「ここ、実にいいじゃないですか!」まだ3〜4年の新入部員が歓声を上げます。
そこはなだらかに南に傾斜した斜面でその先は樹木に覆われた渓流に似た川辺になっているのでした。
「やっぱりな・・、そこが夢と現実の境目・・・なんだよな」後輩はあっけにとられたような顔をしています。
「でも、いいじゃないですか。幸三郎さんはこんな場所で静かに絵を描いて暮らしていければ」
わたしは後輩に・・と言うよりは皆に夢と現実の狭間・・というよりは予算から実現可能かどうなのかという問いをしたのです。
「実はね、オレには建築のコンサルタントが付いていてくれてアドバイスしてくれたんだよ。この場所は基礎工事に金がかかりすぎるよって」
「そういう事か〜、問題は資金だけの問題ですね」
「俺たちだけに限らないけれどまずは資金が第一だね。そして今借りられる資金ってこの会社にいる従業員としての信用度だけが限度なんだよ」
「夢物語はこの位にして現実の実際を見てみよう」私たちは更に丘陵地帯の中まで進みました。
途中、そこには手つかずのなだらかな起伏の繋がる広大な空間が開けていました。「川口市の都市計画の説明では仮称、”川口ジャンクション”が作られるっていうんだよ」
「なに?、そのジャンクションって」
「いま、オレの住んでいる荒川土手の所から首都高って言う高速道路がまっすぐにこの辺まで伸びてきて更に東北自動車道っていう高速道路が建設されるというんだよ」
「それだけじゃなくて、今度はそれを完全にここを横切る形で東京外環自動車道路というこれも高速道路でそれが交わるのでジャンクション・・って言うらしいんだ」
私たちは何もない静かでなだらかな起伏の上に空飛ぶ道路を空想しながらまさかそんな夢物語が始まるのかしらと一笑に付したのでした。
そこを過ぎてしばらくすると広大な竹林が目に止まりました。・・・・・(続く)


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(連載No.209)
その竹林はよく手入れの生き届いた孟宗竹が広がっていました。
ですが私たちは自転車でよくあちこち走りながらそこそこの村はずれに点在する竹林はよく目にしていましたがこんな立派な竹は見たことがありません。
しかも竹林の中は気持ちよさそうな風が吹きわたっていてうっすら汗をかき始めた頬に心地よく当たるのです。
近くにしばし自転車を止めて竹林の中に足を踏み入れてみます。
何といっても見ごたえのある竹の太さですが両手の指では回しきれないほどもあるのです。
よく見かける竹林は時々傷んで折れたり倒れたままの竹が放置されて更に朽ちたりしていて見苦しいものが多かった。
これはきっとただの竹林ではなく、筍の畑なんだと思いました。それの証拠に地面の土がホコホコに柔らかいのです。
「これは、ちょっと入ってはイケなさそうだよ」
私たちはそこから出て竹林脇にある小道を一巡りしてくることにしました。
比較的平坦と思われた竹林の根元付近を見通すとこの先の空間が何となく開けている感じがしました。
小道は少し下りになって右にカーブしながら竹林の反対側に出たようでした。その先には三重塔の先端が見えのどかな畑の広がっているのが見えるのでした。
「こんな風景を見ているととんでもなく遠くまで来てしまったって気がしてくるよね」「さすがこの辺は武南公園・・って感じだよね」
「そうなんだよ、実はさっきオレが最初家をこの辺に建てられたらいいなって思ったところにある川だけど、上流のすぐ先には渓谷に似た場所もあるんだよ」
「さあ、この先も面白そうなところがあるけれど、今度家が完成したら我が家を拠点に巡ることにして自転車に戻ろうか」
「え〜!?、完成したらちょくちょく遊びに来てもいいんですか」
「もちろんだよ。そして食材を買って来てさ、みんなで家のアトリエで鍋なんかつつきながら酒を飲もうぜ」
「アトリエもあるんだ・・じゃあ、早くその宴会場・・になる所に案内してくださいよ」
「・・?、今なにか馬のいななき・・みたいなのが聞こえていなかった?」
「ああ、そこの馬場からだよね」「馬場ってあの競馬に出てくる馬のことですよね」
「そう、なにも馬だからって競馬に出ない馬だっているよ」「なんでこんなところに馬がいるんですか?、まさか農耕馬ってやつじゃないですよね」
「まさか、ここの馬は乗馬、つまり乗馬を趣味にしている人たちがここに通って世話をしたり乗り回したりしているんだよね」
「ってことはこの付近、馬に乗っている人が良く通るんですか?」「それはあまり見かけないから無さそうかな・・」
「この馬場の次が薬王寺というお寺さんですね。お寺さんの先を過ぎた所を左に曲がると我が家の入り口ですよ」

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「川口市野鳥の森・・・って看板がありますよ。え〜っと、何だって・・”この地域は野鳥類が生息、繁殖できるように野鳥の森として保護されているところです・・って」
「そうなんだけどね、昼間しか来たことないからあまりそんな気がしないんだよね。じゃ、ここを曲がるよ〜」
「おや、また竹林ですね」「どうなんだろう・・、さっきの所に比べると竹林っていうより竹藪って言った方が会っていそうだね」
「おっ!、いきなり藁ぶき屋根の農家ですよ。幸三郎さん、とんでもない所に来ちゃいましたね」
「そこの畑を通りすぎ緩い坂を登りつめたところですよ」
「桜の樹の並木ですね」「そう、左に完成間近の家が見えないか・・?」・・・・・(続く)




(連載No.210)
「・・有りました!。”幸三郎邸、新築工事”の看板が立っていますよ」「あれ!?、建築会社の名前が載っていませんね」
「そうなんだよ、さすがにこの設計だと建築会社も恥ずかしいらしくって・・業者名の公表だけは勘弁してくださいって・・」
「そんなこと出来るんですか?」「まあ、そういう約束で作ることにしたんだからね」
「でも、そんな感じではないですよ。材料も部材もシッカリしていそうですし」「それはそうだよ、ちゃんとした一流の建設会社だからね、ただ住宅のデザインでは相当に恥ずかしいようですよ」
もうこのころになると工事用のネットも外装から外されて建物の本体がほぼ見えるようになっていました。
さすがに住宅建築屋さんとしても恥じ入るような機能一点張りの真っ四角な二階建ての箱が植木畑の中に置かれた・・・と言えないこともない風情です。
周囲の植木畑や雑木林は晩秋の趣で真夏の華やかさはありません。そんな地味な風景の中に若草色のモルタル吹き付けの鮮やかな四角い箱が何となく違和感として見られます。
「もう、ほとんど出来上がっているんじゃないですか」「そうだね、12月の第二週には完成って聞いていたから間もなくだよね」
「来週にはもう少しずつ工事の邪魔にならないように荷物も運び入れても構わない・・って言われているんだ」
「それより、どっかその辺の草むらに昼飯でも食べれるように座ろうぜ」
私たちはそれぞれの自転車を私道の方に止めて植木畑と私道の境も定かでないところに車座になって陣取りました。
先ほどまで建物の中から大工さんの仕事の音が響いていましたがどうやら大工さんもお昼の休み時間になったようです。
そうなると、まったく音のしない静かな空間になってしまったようです。「ほんと、静かですね。かすかにそこの森から小鳥の鳴き声が聞こえるくらいですよ」

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「ここから見わたしたところであの藁ぶきの農家さんを含めて4軒しか家が無いですね」「いや、その雑木林に隠れていて見えないけれど近所には6軒はありますよ」
「でも近所と言っても畑向こう・・だったり、雑木林向こう・・ってことですよね」
「こんなところに住んで淋しくなるようなことってないんでしょうか」
「オイオイ、変なこと聞くね〜。俺ら自転車でキャンプしたりしながら旅していて淋しかったことってあったかい?」
「そう言われればそうだね。今まで東京の煩い街の中に住んでいてこんな静かなところって想像もついていなかったからね」
「そう言えば、幸三郎さん、この近所にはお店もないって言ってましたよね。勿論、呑み屋さんなんかも無いですよね」
「アッタリ前でしょう!。俺はこれからの人生、人が変わったように聖人的な人生を歩むつもりだぜ」
「え!?、って、もうお酒はやめるんですか?」「なにも止めなくったって家で呑めばいいでしょう」
「これからはね、この家に越してきたからには借金の返済に打ちひしがれた人生を過ごすことになるんだよ」
「あ、珍しくこんなところに車が入ってきましたよ」
「ああ、あの車はヨシエさんだよ」「え!?、会社の美術部にいる・・あのヨシエさんですか・・?」
「そう、このあいだ部室でさ、みんなで自転車でここに来ようかってガヤガヤ話し合ってたよな。その時彼女も部室にいたんだけどね」
「お昼頃でしたら・・わたしも行ってもいいでしょうか・・車ですけれど」「・・って話があって”どうぞ”って言っておいたんだよ」
会社内の美術部ではちょいちょい写生旅行やキャンプを兼ねた自転車旅行をしていましたが彼女は写生会にはよく参加していました。
私と同期入社の彼女のことはみな顔なじみでした。ですから写生会でもないところに彼女が来たことに皆驚きました。
「お〜い、みんな〜!こんにちは」・・・・・(続く)




(連載No.211)
「あれ?、あんなところに車を止めちゃっても大丈夫なの?」「多分大丈夫だよ。夕方にトラクターが通る位でしょう」
ヨシエさんはコンビニで買って来たらしいビニル袋を提げてみんなの食事しているところまで来ました。
「ほんとにこの辺、お店が無いのね。少しばかりですがジュースの差し入れです」
「おー、ありがとう。あんなメモ書きの地図で迷わなかったですか」「すぐわかったわよ。私の家はこの近くなんですよ」」
「そうだったんだ。でも俺たちここから帰れ!って言われてももう既にどっちへ走っていいか分からね〜よな」
「だいいち、目標にする建物が無いし、竹藪だ雑木林だ・・って言われてもどこもおんなじに見えるしさ」
「実はオレ、そこの竹やぶの前にバス停があることを発見したんだ。1時間に3本位だけれど川口駅行き・・っていうのが有るんだよ」

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「ヨシエさん」


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「それ、私も知ってるわよ。たまに乗ることはあるけれど、でも川口駅までは40分くらいかかりそうよ」
「え!?、ヨシエさんの家ってもっとこの先なんですか?」「そうよ、バス停で二つ先なんです。間もなく終点・・って言うところに近いかな?」
「40分ってすごい距離だね」「そうよ、この辺は電車で云うと川口、西川口、蕨、南浦和・・・に近いんだものね」
「じゃあ、その南浦和までのバス・・って無いの?」「そんなところまで行く道が無いのよ」
「ヨシエさんって、ずいぶんこの辺に詳しいんだね」「だから言ったでしょ!、私の家はこの近くなんです!」
「じゃ、会社まではどうやって通勤しているんですか」「ですから車通勤。ここから会社までは急がなくても車で20分で通えるの」
「そうなんだよ、オレもちょいちょいここまで車で来ているけれどまあ、普通に走っても会社までは15分だね」
「幸三郎さんの家って随分完成に近いんですね」「そうなんです、もう荷物もだんだんに運び入れてもいいって聞いているし」
「じゃあ、もうすぐじゃないですか」「いや、さっきまでみんなと話していたんだけど間もなく完成の引っ越し祝いを家でしようなんて相談してたんだよ、いらっしゃいますか?」
「いいわね〜。ぜひ寄らせていただきたいですわ」「お〜いみんな、ヨシエさんも来てくれることが決まったぜ!」
実は私がヨシエさんを誘ったりどこかに行こうよ・・って働きかけたことなどなかったような気がした。
当時、池袋のマンモススケート場にふたりで行ったこともあったけれど私にとってスケートが滑れるなんて何の自慢にもならないことでした。信州人など皆誰でも滑れることです。
会社の就業時間後に卓球はちょいちょい誘われて体育館でプレイしたこともありました。でも当時卓球の巧い奴は掃いて捨てるほど居たからこれも私から誘ったこともない。
当然会社は同期の入社でしたからそれ以来の顔馴染ではありました。第一、200名も入社した中のたった6名ほどの女子新入社員の同期だからと言って彼女たちのモテ方を見るにつけ自分の付け入るスキはない・・と観念していました。
ですから気にしていなかったことはなかったけれど写生会の計画などの連絡も部員の後輩に「お前、ちょっと知らせて来いよ」・・、といった塩梅でした。
「今日の俺って結構リーダーシップもあったし、ヨシエさんに対する誘い具合と言いなかなか良かったんじゃない」
男どものみんなと一緒に自転車に乗って帰りしな一人気分よく鼻歌混じりで帰ってきたものでした。
もうすっかり日の暮れるのが早くなって暗くならないうちにそれぞれの寮やアパートにつかなくてはいけなくなりましたが分かれる前に提案しました。
「再来週の日曜日に新築の我が家で鍋を囲んでパーティーとしようじゃないか」
「いいですね〜、じゃあまた自転車で行くんですね」「いや、今度はお酒を飲むからバスで来てもらおうか」

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「1時間に3本のバスですか・・?」「そう、時間を調べておくからそれで来るようにすれば待ち時間なしだよ」
「異議なし!」
「幸三郎さん、ヨシエさんへの連絡はまたオレが行くんですか?」「いや!!、オレが電話する」・・・・・(続く)




(連載No.212)
12月に入ってすぐに建築会社に勤める従弟から電話を受けました。
「幸三郎さん、いよいよ家が完成してお引き渡しをします」嗚呼、何という輝けるような素晴らしい言葉の電話だったんでしょう。
人の運命ってこういった繋がりの中から滲み出すように広がっていくんだな・・、としみじみ思いました。
思えば私が文京区の広い屋敷に下宿していましたがその広い屋敷も老朽化が進み私もそこに住み続けることができなくなりました。
止む無く住む場所を新たに探さなければなりませんでした。この時点で下宿をしていた大屋さんは「直ぐにとは言いませんが一年の内にお願いできないでしょうか」と言うものでした。
まあ、急ぐこともないとはいえ1年なんてあっと言う間に来てしまうことは頭の中に常にありました。
会社の美術部に来ていただいていた絵の先生はそんな私の事情を知っていてくれてとんでもない提案をしてくれたのでした。
「幸三郎さん、私の家は道路側から見れば単なる二階建てなんですが裏から見るとれっきとしたコンクリート造りの三階建てなんですよ」
つまり先生の言わんとすることはその一階部分をご自分でお金をかけて住めるようにするんだったら無料でお貸ししてもいい…、と言うものでした。
私はこれまでに5回の引っ越しを経験していましたがこんなお話はかつて聞いたこともありませんでした、ですからいきなりそんな提案を戴いても言葉に詰まりました。
よくよくお伺いすると先生の方にもある事情があって「ここに住み続けることは出来ない」と言うものでした。
それは東京都の計画では将来この場所に高速道路の建設を予定していていずれ立ち退かなくてはならない・・と言うものでした。
時の総理大臣の列島改造論のあと全国に高速道路網を敷いて、そのうちの東北道は首都高速と言う名の道路でつながる。先生のご自宅もその工事が始まるとここには住めなくなる。
しかしそれはまだ計画段階。短く見積もっても10年くらい先になりそうだ、だから永久に住み続けることはできないが10年以内だったら仮住まいに提供しても良い。
更に先生の試算によると敷地は8坪ほどあって自分で材料を買いそろえて造ればいい。恐らく材料費は12万円ほどで済むはずだというのです。
実は先生は高速道路の話が持ち上がらない前にこの場所を先生自身のアトリエに改装してご自分で使おうと材料の試算までしていた矢先のことだったというわけでした。

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「12万円ですか・・」当時の私の住居費・・つまり下宿代の3か月分のお金が必要と言うことです。
先生はその費用を立て替えることは出来るし3〜4か月で返してもらったらそれでいい。そしてそのあとには部屋代「ゼロ!」の生活が待っているというのです。
しかも8坪、と言うことは夢のような16畳間を使って絵を描くことができる。降って湧いたような素晴らしい計画に心が躍りました。
先生は学生時代に建築を学ばれていて実際にその知識を使ったことはないけれどそう外れたことでもないから安心してくださいと言います。
事実、すでにしっかりした鉄筋コンクリートの丈夫なガタイがあるわけですから建築強度に気を使う必要もない。
素人大工で十分に対応できる、しかし多少の器用さは必要というわけでした。基本的には土日を利用して2か月あれば立派な部屋の完成になるよ。
・・・・、そんなかんじで手始めは180cmのガラスドア―4枚を取り付ける為のドアーレールの設置から。コンクリート基礎の上に必要な高さまでセメントを捏ねて型枠に流します。
そして先生は工事の進捗を見ながら次の休日になる前に次の工事に必要な材料を発注手配しておいてくれる・・というものでした。
完成したのは結局3か月かかりましたがそのときの感動は今でも目の当たりに感じられるのです。昼夜通して「アトリエ開き!」と銘打って絵の友達を主体に大勢の方が完成祝いに駆けつけてくれて飲み明かしました。
もちろん、その後の絵画に対する取り組みも充実しましたし。第一、家賃ゼロと言うことで気持ちにも随分と余裕を感じていました。
またしてもここで運命の神様は私に大きな賭けを命じたのでした。
昔のことですから従弟という関係者はずいぶんいましたがマサカ私の移り住んだ近くに建設会社勤務の従弟が居ようなんて思ってもみなかったことでした。
彼は有名な建築会社の営業マン。「今度、わが社では積み立てによる個人住宅取得制度」を始めたので幸三郎さんも将来に向けてどうでしょう・・。
久しぶりで立派になられた従弟との東京での再会、そして多少先輩ズラした私は部屋代タダ・・を積み立てに回してやろう・・。
その顛末は以前に( 第三部 15章 付近をお読みください)述べた通りでした。
「ハイ!、工場長・秘書室です」「ヨシエさんですね?」・・・・・(続く)




(連載No.213)
同じ工場内の構内電話ですがめったに掛けることもない番号からいきなり「ハイ!、工場長・秘書室です」などと言われて一瞬ひるみました。
でも気を取り直すとその声の主は明らかにヨシエさんの声に間違いはありません。私は思わず一方的に先日決めた鍋パーティーを予定通りにすると決めたことを伝えました。

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「ハイ!、承知いたしました。詳しい内容はこちらから後に折り返しで確認させていただきます」・・・って、オイ、オイ随分冷ややかな対応じゃねえのかい?。
まあ、兎に角はなしの内容は伝わったようだし別に来るとも来ないとも言った反応ではなさそうなので気にしないことにしました。
昼休みの食堂からの帰りに美術部の部室を覗くとこの間のメンバーがほぼそろっていたので立ち寄りました。
「いよ!、この間はご苦労様でした」「いえ、いえこちらこそありがとうございました。そしてお家の完成、おめでとうございます」
「ありがとう。それで完成祝いは鍋をつつきながら・・って計画は予定通りでしますから段取りを決めておこうと思ってね」
「そう、それですよ。先ずバスの時間を調べてもらって川口駅前のお店で鍋にする材料を買っていった方が良いのかな〜って思っていたんだけど」
そんな時、ちょうどヨシエさんも部室の扉を開けて入ってきました。
「幸三郎さん、先ほどはお誘いの連絡いただきました、ありがとう。ちょうど工場長在室だったのでろくなご返事も出来ませんでした」
「やっぱりそうだったんだ。道理でよそっぽい返事だったんだよね」「は〜い、ごめんごめん・・・」
「そうだ、いまさぁ、丁度鍋の食材を手分けして買ってきてもらおうって話し合っていたんだ」
「大体人数は幾人分になるのかしら」「そうだね、今ここにいる6人と先日都合で参加できなかったけれど是非って山口君・・7名だね」
「そうか・・、7人分の鍋の材料って買って持ってくるのって大変よ」
「どうかな、私がそのぶん何時も行っているスーパーでまとめて買ってきてあげるよ。車で買い物するから大したことじゃないよ」
「それは助かるよな〜。オレは近所にある酒屋さんだけは知っているから酒の用意は任せてくれよ」
「それはそうと・・幸三郎さんの家にはそんな大勢で一緒に食べられる鍋なんてあるの」
「あっちゃ〜!。一番肝心なものが無いぞ。いっそうのことヨシエさんの家から借りられないかな・・」
「あ、うちはダメ。私と母の二人住まいだからそんなに大きな鍋なんかないわよ」
「そうか・・、山岳部だ。山本君の山岳部から鍋って借りられないかな?」
「いいけれど・・、あの真っ黒けのきたない鍋だったら何時でも借りられるよ。秋の行楽シーズンも過ぎちゃったから空いていると思うよ」
「ゲッ!、あの真黒な奴しかないの?」「そう、あれしかないよ。でもその都度衛生的には洗ってあるけどね」
「あ〜!、わたし何時だったかしら山岳部のお花見に行ったことあるけれど、あの時のお鍋かしら?」「そう!」
「わたし、全然平気ですよ。あのくらいのお鍋だといろんな具材を入れることができるから美味しいですよね」
こんなたわいのない会話の中で私はヨシエさんって言うひとの人柄がだんだんわかってきて興味も湧いてくることに気が付きました。
山岳部の行事にもちょいちょい同行しているようで意外と見た目によらずお茶目っぷりもあるようです。
でも、美術部の写生会に参加しているときはそんな気配や素振りも見せたことはなかったので意外に感じました。

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そして、どうやら彼女は母と二人暮らしと言うことは母一人娘一人の暮らしをしているんだな・・・・・(続く)




(連載No.214)
家の引き渡しも無事に終わって休日にはいよいよ会社の美術部メンバーが集まることになりました。
私はと言うと新しい家から会社まで自家用車で通勤することになりました。実に早い!、通勤時間は20分くらいでしょうか。(この頃はまだ車も少なく渋滞も無かった)
休日前には山岳部から大鍋を借りて家に運び込みました。そしてみんなには11時頃到着してもらえるバスの時刻も調べて連絡しました。
そうなるとお酒は私が買いそろえる、食材はヨシエさんが揃えてくれる、みんなは手ぶらで集まればいいと言うことで大助かりだと喜びました。
そして何と、ヨシエさんから電話があって食材を買った後早めに我が家に来て鍋料理の下ごしらえをしておこうよ・・と提案がありました。
下ごしらえ・・って言っても野菜を切りそろえたり、鶏肉など大きさを整えたりとそんなに大層なことをするわけではないから1時間前の10時頃伺ってもいいですかと連絡がありました。
おっと、これは休みだからと言ってゆっくり朝寝坊している暇はないぞ・・
ヨシエさんは10時きっかりに我が家に到着しました。
私も彼女の車から食材やらを下ろすお手伝いをしましたが7人分の食材ってこんなにあるの・・?って言うほどあるのです。
「野菜なんか多いように見えるけれど鍋に入れちゃうとホント、小さくなっちゃうんだから・・」
ヨシエさんは始めて我が家のキッチンに立ったわりには何も心配ないと言う風に仕事を始めるのです。やはりお勝手の仕事も慣れているようです。
私はと言うとどうもいつもと勝手が違うのでオドオドしているだけで何をどうしていいものかうろついているだけです。
そして会話らしいことでもしようと思っても何を話したらいいのかその話題も見つからずに居ました。
まあ、時々「ザルはどこにあるの・・?」などと聞かれて慌てて「さて、どこだったっけ・・?」
こうしてヨシエさんのキッチンでの料理っぷりを後ろで見ていると、何となくもしオレが結婚をして妻をめとらんとすればこんなシーンが毎日あるのだろうか・・・
実に平穏なほのぼのとしたかすかな憧れ・・、そんなことも漠然と頭の中に想像してみたりもしたりするのです。
「よし!、これで後は皆が来て鍋が熱くなれば完成だよ!」「それじゃあ、つまんないから一旦そこで火を止めちゃおうよ、キャツラもハイ、どうぞでは気乗りしないよね」
「バスの到着は幾時なの・・?」「まだ15分くらいありますよ・・」
「じゃあ、新築のお家の中を見させてもらってもいいかしら」「あ、どうぞ。まだ荷解きも終わっていなくてあちこち散らかっているけれど」

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「ひぃや〜!!、ここはなに!?」階段を上がった二階から大きな叫び声がしました。
私は階段の下に行って「どうしたの〜?」と聞くと「ここの大きな部屋はまるでアトリエの様ですよ、・・・天井も高いし」
「そうアトリエですよ、そこは男の遊ぶ部屋。暇な時にはそこで絵を描いて過ごすんです」
「あら、こっちの部屋からの景色は一面の植木畑と、雑木林の向こうは・・」「その先はこれから探検しないと分かりません」
「ピ〜ン、ポ〜ン!」「お〜い、ヨシエさ〜ん、みんなが到着したみたいですよ」
クラブ員の5人が次々と玄関に入ってきました。「お〜う、いい匂いがして来たぜ、宜しくお願いします」
「やあ、みなさんもこんな遠くまで大変だったでしょう」
「まったく、川口駅からバスに乗って延々とどこまで行くの・・?って感じだったよな」
「あら、皆さんいらっしゃい、ようこそ」・・・・・(続く)




(連載No.215)
「おや!?、ようこそ・・って、ヨシエさん、すっかり奥さんみたいだね」山本君が大げさに素っ頓狂な声を出します。
私もなんだかヨシエさんの後ろから「へへ・・」と挨拶にならないあいまいな返事でやり過ごしました。
「こりゃ、こりゃぁ・・何か収まる所に収まりそうな感じだぜ」岡島君は何時もの空気の読めない雰囲気そのままに納得した顔です。
「バカなこと言うなよ!」私もついに・・・火消ってこんな感じなんだろうな、放っておくに越したことはないと。
「それでは、みんな席についてください。今日は遠くまで来てくれてありがとう。」
「では、ビールを注ぎましょう。え!?、ヨシエさんは・・シマッタ!!。ジュースを買ってくるのを忘れてたぞ」
「イイノ、私はお茶の方が好きですから・・」私は改めてヨシエさんのことも少しはいろいろと知っていなくてはと大反省しました。
「まずは今日の鍋料理の下ごしらえは全てヨシエさんがしてくれました。まず御礼をお願いします」
皆一斉に「ありがとうございました」こうして楽しく呑んだり食べたりそしておしゃべりしているうちに時間の経つのは実に早い。
「幸三郎さん、帰るころのバスの時間って調べてありますか」
「はい、調べてありますよ。そうですねあまり遅くならないうちに・・・4時台は無い!、次は5時10分ですから5時にお開きにしよう」
「すると後30分くらいあるから俺たち、手分けして片付けてしまおうよ」
「そうしてくれると助かるよな〜」「あら、わたし片付けは慣れてるるし早いですよ」
「でも俺たちキャンプしたりしてもみんなで手分けして片付けていますから大丈夫ですよ」
彼らはバス停まで5分で到着しますから少し早めに我が家から帰りました。

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「ダイニングのヨシエさん」


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ヨシエさんには大変お世話になってしまったことのお礼を言ったついでに「また休みの日にでも暇を見て遊びに来てください」と。
「いいんですか?」、その顔色を見て私は驚きました。決してお世辞ではなく来てみたい・・という感じでしたから。
なるほど・・、彼女を見つけてお付き合いをして・・って、どこかにストーリーを描いていた道筋とはかけ離れている。
しかも、いつも身近にいて気にもしていなかったお互いはこんなことがきっかけで接近できるんだ。
会社の美術部に入部したのは私と彼女は同時期、そして写生会にはお互いよく参加していましたから少なくとも50回以上は一緒に行っています。
そして年に一回は泊りがけの写生会もあってここでもすでに6〜7回も逢っているはずでした。
しかし、今回の飲み物の失敗もそうですがお互いのことをそう深く想ったこともなかった気がしました。
そんな意味でも美術部の仲間との繋がりからごく自然にヨシエさんとの交流が増すことができて幸せに感じました。
それにしても何故、ヨシエさんはもう30歳というのにお嫁に行っていなかったんだろう。
そんな素朴な疑問も残りました。彼女と同期入社した女性社員は引く手あまたの求婚申し出でに瞬く間にいなくなってしまいました。
そして決して見た目では何不自由なく育って大切に育てられてそして高校を卒業して地元に近い我が社に入社した。
そこまでしか私の推測は進みません。ヨシエさんもそれ以上のことを語ることはしませんでしたから。しかし、そうか!
ヨシエさんは母親想いの一人っ子・・・・・(続く)




(連載No.216)
私のお正月休みは毎年のことながら諏訪の実家に帰って父母や兄弟家族のみんなと過ごします。
いつものことですが時間が遅くなると決まって長兄、次兄、私の3人だけがグタグタと何時までもお酒を飲んでいます。
父母はとっくに寝てしまいますが既に結婚している長兄や次兄の嫁さんたちも居残っていることもあります。
今日はそんな時なので三男の幸三郎がなんでまだ一人でいるんだ・・。という話の流れになってしまいました。
長兄は「誰か善い人がいないんだったらオレが面倒見てやってもいいんだが?」
次兄の嫁さんも「そうね、わたしには妹がいるけれど、当たってみようかしら・・」などと怪しげな風向きになってきました。
実は意中の人がいる、しかしそこにはかなり難しい事情がある、と言うことを説明したりもしました。
先ず長兄が笑い飛ばします「目先の問題を見過ごすことはできないが将来のことに焦点を合わせるとおのずと目先の問題は解決する」と言うものでした。
「まずそのヨシエさんとやらにプロポーズしろ!。そして二人で解決して見ろ」
「オレから見ると確かに二人にとっては厄介な問題に見えるかもしれないがそれは視点が近すぎるから解決できないんだ」

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「先決はおまえたちが結婚して子供を育て家庭を築けるかが一番大切に考えなくてはいけないことだ」
「幸三郎、お前はヨシエさんと結婚したいんだったら彼女の義母さんも引き取ったらどうだ」
「え!?、オレそんなに二人も養えるほど収入もないし、無理だよ」
「だからお前の視点は近すぎるって言ってるんだ。将来子供が生まれたりしたとき義母さんがそばにいてくれる・・なんて理想的じゃないのか?」
正月休みも終わって私はまた我が家に戻ってきました。まずヨシエさんにプロポーズしよう!!
もし嫌われたらどうしよう・・。まさかオレが先走っていただけでヨシエさんにはそんな気が全くなかったらと思うと気持ちも落ち込みます。
でも意を決して、今度私のアトリエに遊びに来てくれたらその時「プロポーズしよう!」
案の定、正月明けの休日にヨシエさんはアトリエで粘土遊びをしたいけれど行ってもいいかと電話してきました。
風の強い日でした。ストーブの火も強くして待っていました。
私の言葉にヨシエさんは顔を曇らせて「ダメなのよ!」と一言いったきり黙ってしまいました。

私は長兄から言われた言葉を暗記したようにただ並べたてることしかできませんでした。
するとヨシエさんは「ありがとう・・」と言ってくれました。しかし「でもこれは母に相談してからご返事させてください」
翌日「母から反対されました、しかし母の兄は私の相談にもよく乗ってくれていましたので夕飯を食べながら相談してくれる」といちるの灯は消えませんでした。
ヨシエさんのお母さんのお兄さん(伯父さん)という家族は川口駅西口近くで長男、次男で床屋さんを営んでいました。
ご家族はヨシエさんの家と違って7人もの大家族なのには驚きました。もう嫁いでしまったヨシエさんと幼馴染の二人も入れると凄い人数だったんです。
私は”相談に乗ってあげる・・”という伯父さんの優しい言葉に誘われて川口西口の床屋さんに出向きました。
長男ご夫婦と次男はまだ床屋さんのお店で接客中でしたがそれでもテーブルぐるりと大人数での夕食になりました。
伯父さんの結論は私の長兄の意見と全く同じ言葉で、義母を説得するから話を進めなさい。「さあ、夕飯だ折角のご飯が冷めないうちにお食べなさい」

「ゲ!!、」ヨシエさんの家系ではお酒も出さないでいきなり食事するの・・・・・(終わり)



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「結婚」


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          あ と が き      藤 森 幸 三 郎




最後までお読みいただきましてご苦労様、そしてありがとうございました。

2004年に書き始めたこの「青春切符」はちょうど16年になりました、書き始めたときにはいつどのような形で終わるのか想像もつきませんでした。

しかし昨年初めあたりからでしょうかこのままダラダラと書き留めていくよりは一度どこかこの辺で区切りをつけた方が良いのではないか、と思うようになりました。ではどこで止めようか・・。

人生、結婚がゴールではなくそこがスタートラインであるはずです。この後はもし気が向けばそこから再スタートさせればいいのだ、との思いから区切りを付けました。

月一度の更新・・と言う形で書き綴ってきましたが16年間の蓄積は思った以上に大きなものになってしまいました。(No.1〜No.216)

今回、わたしはこの文章を纏めるにあたって三度ほど読み返す機会がありました。しかし、それに費やす時間はどうしても一回10時間・・つまり生活していれば二日間の読書時間となるのです。



私は2004年に43年間勤めた会社を62歳で定年退職しました。嘱託としてもう少し後輩の手助けを・・と言われましたが私には退職後にどうしても遣りたいことがあるので・・とお断りしたのでした。

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18歳で長野県の岡谷工業高校の化学科を卒業し、選んだ会社は「色彩の総合メーカー」という着色剤を扱う会社でした。資本金は2千万円、東証二部に載ったばかりのいわゆる中小企業でした。

私は幼少のころから絵を描くことは好きでしたのでこんな会社は面白そう・・と言うのが入社したいと思った動機でした。つまり化学の知識を色彩の製造に生かせると考えました。

しかし当時のこの会社はまだ発展途上でしたから東京にある会社と言うにはあまりにも社屋や設備など他社から比べると見劣りのするものだったんでしょう。

先に東京の大きな電機メーカーに勤務していた私の次兄が工場まで見送ってきてくれましたがさぞかし驚いたことでしょう。

そんな私でしたが兄や家族の心配するのをよそにそんな事にはお構いなく楽しい色彩を扱う仕事をしながら益々また絵を描きたいと言う希望を持ち始めたのでした。

それ以降は本文に記載したことで成り行きはお分かりいただけたでしょうか。しかし

定年退職した後に遣りたいこと、それは先ずパソコンを買ってホームページとか言うものを立ち上げてみたいな。勿論、絵もたくさん描きたいな、陶芸ももっと深めたいな・・と言う気持ちが強かったのです。

つまり定年退職という機会をひとつの人生の転機と考え、かなり前から退職の準備と計画は進めていました。ですから退職日前日までに何が何でも問題を抱えたままで終わらせないとの想いから40日近くあった有給休暇は要らない、あとは嫌というほど休めるのだから・・と。

現在の政府が進める働き方改革とは真っ向する形で私はソフト・ランディングして空に飛び立ちました。

しかし私が退職するころには資本金も100億円を超え、東証第一部上場の中堅化学メーカーへと成長してきていたのです。会社のキャッチフレーズも「ハイテック&カラー」と称する精密化学メーカーとしての歩みを確実なものにしてきていました。



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私の会社は誕生日が定年退職。4月の誕生日でまずパソコンを買いに行きました、当然パソコンの指導書と「完成までたったの3日間でゼロからのホームページ作り」の本でした。

当時、会社には既にコンピュータは導入されていて扱っていましたがパーソナルコンピュータとしての概念や扱いはそう難しくなく習得できました。

しかし、ホームページ作りは今まで扱ったことのない言語でしたから固くなってしまった脳ミソに揺さぶりを掛けながら教科書を頼りに進める以外方法はありません。

実は、私は仕事で扱っていた色彩の測定器などで結果を求めるのに使うややこしい煩雑極まりない計算式に大変往生していた時期がありました。

昔から工業的にも色の出来具合は熟練した作業者の目で判定していましたが、次第に国際基準遵守の観点から第三者的判定として測定結果の数値化が求められていました。

わたしはとある見本市で測定と連動したコンピュータ付きの光学測定機器を見つけて・・これからはこう言ったものを使うべきだな・・・。で、買ってもらった。

でもそのコンピュータはプログラムを作って測定機器に命令させないと宝の持ち腐れになると知って驚いた。

まだ当時わたしの頭も多少は柔らかかったのでこれまた参考書を頼りに自分でプログラムを作っちゃった。長さ1mくらいのプログラム書を作成し組み込んであらゆる測定結果に備えたことで自信が付いた。

そんなこともあったのでホームページのプログラムなんて、しかも3日間で・・と言うんだから一週間もあればどうってことないよねと思っていました。



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ドッコイ!。やけに蒸し暑く汗みどろの深夜に気が付いたらもう夏真っ盛りではないでしょうか。とにかくどんな形で有れひとまずweb に up して見なくては始まらん。

そしてヨタヨタとホームページを立ち上げたのが定年退職の日から数えて3か月も経ってからでした。・・・何を書く?って言っても文章能力は幼稚そのものです。

なんせ本も読んだことのない人間にひとさまを説得できる文章が組み立てられる訳がありません。



方や妻は私と同じ年に同じ会社に入社した同期でした。以来偶然にも会社内の美術クラブにお互い在籍していたことで繋がりを持つことができていました。

妻との結婚生活では当然絵を描いたり展覧会を見に行ったり、陶芸の窯場を見学したりと共通した楽しみはありました。

しかし決定的な相違がありました。それは妻は大変な読書家であった一方、私は50年以上小説などの本は一切読まなかったことで通してきたという違いでした。

妻からは盛んに自分が読んで感銘を受けたりよかった本について私にも読んでみたら・・?とたびたび誘われてはいました。

つまり私はそのことについては妻と文学作品の心情を共有出来なかったわけでした。

やがて年月を経て子供たちが我が家からそれぞれ巣立ったあと、とりあえず我が家を二人で過ごしやすいように建て替えようと言うことになりました。




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暫く完成するまでの間近所のアパートで暮らすことになりました。妻にとっては生まれて初めてのアパート生活、私も久しぶりの窮屈な生活でした。

やっと我が家が完成して預けておいた荷物も運び入れて荷解きしながらこれから楽しい老後生活が始まるんだ・・とその矢先、妻が体の不調を訴えたのです。

こともあろうに一番恐れていた癌、しかもすでにステージ4だと言うのです。

手術が終わって、主治医がステンレスの皿に載せてとりだされた巣窟を見て愕然としました。「・・・この先は?」もうこれ以上先にあるものにメスは触れられないという。

宣告された通りその2年後、妻は65歳の生涯を終えてしまいました。まさかの独り身、だれを恨むことも出来ない怒りと悲しみの日々でした。このままいっそうのこと・・・とも思ったこともありました。

ふと目にしたのは生前、妻が私によく勧めてくれた本が目に止まったのです。そんな本を手にして見て「ああ、妻はこれを読んで何を想ったんでしょう」

そう言えばこの本もオレに進めていたよな・・、そしてボツボツではありますが淋しさを紛らわす本として読み始めました。

そうだ、読むはじから忘れてしまいそうだからどこかにメモっておこうか・・、パソコンに読後感想・・ナンチャッテ記録しておこう。

そのうち妻の路線から外れてひとり自分で探したものを読んでみようと本屋にも行くようになりました。しかし買った本はたとえ文庫本であっても溜まっていきます。邪魔です。

ちょうど100冊を超えたのを機会に段ボールに入れて市の環境センターに持ち込んで処分してもらいました。

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私もこのころから老眼鏡をしているにもかかわらず小さな文字に苦痛を感じ始めました。この頃、SONY から電子書籍を発売すると言うので飛びつきました。

記念すべき102冊目に戦前の作品ですが小林多喜二の「蟹工船」を初めて電子書籍で読んで、作品ではなく読みやすさに感動しました。(笑)

指を舐めなくてもページがめくれる、しかも文字の大きさが自由に変えることができる。そして旅に出るときなど5冊の本は持ち運びが苦痛でしたがそれもこの一冊の中で楽に収まってしまう快適さ。

すっかり電子書籍の虜になってしまいました。以来9年間読書の友をしてくれました。その書籍もついに昨年は新型2代目となって更に電子書籍の道を継いでくれました。

あれ程、本なんか読まね〜ぞ・・と言っていた私ですが気が付けば460冊ほど読んできたことになります。

一方でこの「青春切符」も時を同じくしながら書き続けてきたわけですが何か違う!。

書いている本人が違う、と感じるのですから歳をとったと言う理由以外の何かがあるのでしょう。延べ460人分のプロの作家さんたちの表現方法も私の骨格の一部として加勢してくれるのでしょうか。

2015年、お笑い芸人の又吉直樹さんがなんとあの芥川賞を受賞されました。彼の受賞の談話を聞いた時なるほど、と思いました。

彼もそうとうな読書家でした。そして当時35歳だった彼は今まで2000冊以上の本は読んでいたと思います・・と語っていました。つまり読書するようになってから三日に1冊は読んでいたと言うことです。

それに引き換え多少の本を読んだくらいでそう簡単に言葉一つ一つが輝きを増す表現方法が使いこなせるようになるとは思いません。しかも月に3冊くらいでは・・

しかしこうしてコツコツと書き足してまいりますこと16年と言うのは私にとって決して無駄なことではなかったと思われるのです。



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何といっても紙の上ではありませんがたとえパソコン上であったとしても日本語の文字で言葉を綴ってきたことが実に楽しかったことです。

そして「青春切符」はせめて第一部だけでもいいから手直しして書きなおそうとも考えました。しかし文章は稚拙ではあってもそれなりの表現者としての覇気も感じられるのです。

プロの作家ではそうはいかないでしょうがそのまま編集せずに掲載を決めました。絵も文章も全く同じ表現として捉えることができるのです。

本日、私は78歳の誕生日を迎えました。ひとつの形としてこの「青春切符」を小冊子にしておこうと思い立って製本屋さんに製本をお願いしたところでした。

さすがにプロの製本屋さんの仕事です。出版社からいま届いたと言わんばかりにキッラキラに輝いた冊子となりました。ありがとうございます。

ご希望の方には5冊しかありませんので差し上げることは出来ませんがお貸しすることは可能です、メールくだされば早い者勝ちです。

そして、わたしのパソコンで綴ってきた文章はご存じのように横書きで書かれています。まあ、横書きの文章は毎回程度でしたら読むことはできます。

しかしそれが(No.200)を超えるとなるとかなり苦痛になります。これを日本人に読みやすくさせるため縦書きや右から左のページ移りなどにするためにはまた書き換えなければなりません。

そこまでする労力はありませんが多くの問題は無料で使わせていただいたフリーソフトのお陰だと思います。この場をお借りして御礼申し上げます。

そして5冊しかない本です。みなさまには電子書籍化してより多くのお友達の目に触れていただけるような形にできたのも数々のフリーソフトがあってのおかげでした。ありがとうございます。

フリーソフトご提供各社(順不同)株式会社シメケンプリント 様。 i Love IMG 様。 tools PDF 24 様。 PDF Candy 様。 PDF R2L 様



2020 年  4 月 24日

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「樹上の家族」


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