この本に書いた要点を、雑誌「日本」の平成15年4月号から、7月号の4回に分けて連載した。この記事を転載する。
尚第5章の他との比較はページ数の関係上、省かれている。又4回目の戦後の韓国については新しい見解が追加されている。

1.日韓併合以前(『日本』平成15年4月号)

始めに

 今マスコミでは、北朝鮮による拉致事件に対し、「日本が植民地統治時代に行った数十万人の強制連行に比べると、大した問題ではない」との暴論を吐く輩がいる。

 これは日本の歴史学者・マスコミの永年に亘る歴史の歪曲により、彼らが「日本が数十万人の労働者を拉致し、強制労働に就かせた」と思い込んでいるからに他ならない。しかし歴史の事実は、そのような事実は全くなかったのである。

 日本は第二次世界大戦の激化により、労働力の不足を来した。彼らの強制連行の定義によれば、「日本人の青年は、戦場に強制連行された」その穴埋めのため、昭和一七年から地方役場が、朝鮮人労働者を積極的に軍需工場や鉱山に斡旋し、昭和一九年から徴用により労務動員したのである。徴用制、徴兵制は、世界のあらゆる国で採用されていた制度であり、決して拉致=強制連行ではない。

このような歴史的事実が歪曲されていては、歴史認識が一致するわけがなく、この事を曖昧にしたままでは、真の日韓親善が出来る訳がない。歴史を学ぶ目的は歴史に学び、過去の失敗を繰り返さないことである。事実を正しく伝え、ありのままの歴史を学ぶことは、韓国人にとっても極めて必要なことである。このような歴史事実の歪曲は余りにも多く、日韓親善を阻害している。

そこで「韓国併合前」「日本統治前期」「日本統治後期」「戦後」の四回に分け、歴史の歪曲を正す。

併合前の朝鮮の歴史で最大の歪曲は、当時の朝鮮民衆の悲惨さの秘匿である。この事実の認識なしでは再度の亡国は防げない。

閔妃暗殺事件

まずは閔妃暗殺事件である。

 李?根著『韓民族の閃光』には次のようなことが述べられている。「閔妃一族の横暴はひどく、売官は常識で、知事級は二万ー五万両、市長級は二万三千ー四万五千両、郡守、県令級は千ー二千両で売買された」

シャルル・ダレ著『朝鮮事情』では「官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと努め、その為に体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至るまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用してそれぞれの官吏は金を稼ぐ」。これでは民衆は堪ったものではない。

日本の三浦公使主導で暗殺されたと云われる閔妃は当時最大の実力者であり、ここで述べられているように、政治の紊乱の元凶であった。

日本が日清戦争に勝ち、朝鮮政治の主導権を手にしたと思ったのも束の間、三国干渉に屈した日本を見た朝鮮政府は、反日親露策に転じた。明治二八年一〇月、日本軍の指導のもとで育った訓練隊が解散を命じられた。この訓練隊の幹部が、閔妃の不倶戴天の敵・高宗の実父・大院君と結び、更にロシアに近づく閔妃の動向に危機感を抱いた、日本の三浦公使を巻き込んで起こしたクーデターが閔妃暗殺事件である。決してか弱い王妃を殺害したような暴挙ではないのである。

身分制度

 次は身分制度である。朝鮮では両班、常民、奴婢等の身分に分かれていたが、貴族階級に相当する両班の横暴はすさまじい。

ロシア大蔵省調査資料である『韓国誌』によれば「強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して、顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認するものは遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、これを払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人としてこれに信おく者なし。」

 両班は官吏以外の職に就くと、その後永久にその特権を失うので、彼らは失業しても決して他の仕事をしようとしなかった。このような両班は安政四年の法令改正により、両班の庶子も両班として認められるようになったため、急増していた。このように無為徒食する大量に養わなければならない常民の苦しみは大変なものであった。

奴隷制度、人身売買制度が廃止されたのは、日本の主導で始まった明治二七年の甲午改革である。日本統治の韓国に対する最大の貢献は、この身分制度の廃止と、法治主義の徹底である。

残酷な取り調べ、悲惨な監獄

 日本の韓国併合を痛烈に非難している、ロンドン・デイリーミラーの記者マッケンジーは、次のように日本を非難している。

「明治三九年夏、二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは一八人の男と一人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は六年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。

 次の監獄、宣川(平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている三人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。一人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの一人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」

 マッケンジーは監獄の改善が遅々として進まないと伊藤統監を非難しているが、この時期日本は少数の顧問を送り込んだだけで、内政は韓国に委ねられていたのである。伊藤に対する期待が大きすぎた故の非難と考えるべきであろう。

 天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形があり、日本時代が暗黒時代であったかのような印象を受ける。しかし日本は併合後このような厳しい拷問を止め、監獄を改善したのである。

 イザベラ・バードの結論

イギリスの旅行家イザベラ・バードは、朝鮮国内旅行に引き続き、ロシアとの国境部のロシア側を旅行し、次のように記している。

 「朝鮮にいたとき、私は朝鮮人というのは屑のような民族で、その状態は望みなしと考えていた。処が沿海州ではその考えを大いに修正しなければならなかった。自らを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から、勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げ出してきた飢えた人々であった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みを私に抱かせる。」 この彼女の結論は人民の幸・不幸は民族によるのではなく、為政者の質によることを明らかにしている。当時の朝鮮民衆の苦しみは、今日の金正日政権と匹敵するものだったのである。

 李完用

 併合に最も貢献した韓国人は併合時の韓国首相李完用である。彼はその剛直な人柄と高邁な学識で、高宗や伊藤博文の信頼を受け、良く閣内をまとめ、難局を処理した。しかし韓国では、日本に韓国を売り渡した五賊の筆頭として非難されている。彼の墓は戦後暴かれ、死体を切り刻まれた。又日本ではロシアの勢力が強いときは親露派で、日本の勢いが強くなると、親日派に転向したオポチュニストとして、必ずしも評価が高くない。しかし単なるオポチュニストでは、二回も家を焼かれ、刺客に襲われ重傷を負っても尚、内閣を率い、併合に導くことが出来たとは思えない。

李完用は安政五年(一八五八年)生まれで、明治一五年科挙に合格した。代理公使等として、アメリカで約三年勤務した。帰国後は親米派の官僚として活躍した。明治二七年年日本全権公使に任じられたが、喪を理由に拝辞した。

 李完用は積年の因縁により、アンチ大院君であった。明治二八年起きた閔妃殺害事件により、政権を握ったのは大院君である。その為身の危険を感じた李完用はアメリカ大使館に逃げ込み、この年任命されたばかりの学部大臣を罷免された。しかし明治二九年、皇帝が露館播遷に成功すると、直ちに呼び出され、外部大臣に任じられた。彼はアメリカ、イギリス、ロシア等、欧米の外交官や宣教師と韓国の政治家で結成した貞洞派のメンバーとして、日本とは一定の距離を置いていた。この会で長い亡命生活を終え、アメリカより帰国した徐戴弼と会ったことが縁となり、徐戴弼と共に独立協会を結成し、自主独立運動の中心人物として活躍した。

 翌年学部大臣に転じたが、ロシアからの軍事教師招聘その他ロシアの利権要求についてロシア公使ウェーベルと対立し、地方へ出された。明治三四年宮内府に召出されるや、新欧米派の領袖として、親日派を圧迫した。しかし日露戦争開始後学部大臣に就任すると、親日派の首脳となり、その変わり身の早さを非難されている。

この年十一月伊藤博文が来韓し、第二次日韓協約を締結した。この折りの閣議で、李完用は「昨日大使と会見の時、双方円満に妥協を見んとのことならば、字句等は多少修正の余地あるべしと承知したるによってなり」と述べ、条約調印の方向に閣議をリードした。 伊藤は此の言を入れ字句を修正し、条約調印に持ち込んだ。この保護条約調印の報が民衆に伝えられると、怒った民衆は、積極的にこの条約調印を主張した李完用、李址鎔、李根沢、権重顕、朴斉純、の五賊の家に放火したりして、圧迫した。

 明治四〇年五月内外情勢の緊迫にたいし、朴参政と意見が対立し、朴参政は辞表を提出した。伊藤統監は韓国政治の欠点として余りに頻繁な内閣交替を指摘し、慰留したが、辞意堅く承認せざるを得なかった。伊藤は現内閣から後継を選ぶ事にし、白羽の矢を李完用に宛てた。彼は「協約締結当時においても、各大臣に率先して断固たる決心を示し、これに賛成したものなり。由来彼は意思すこぶる強固にして、且つ韓皇に対する態度も韓人中稀にみる大胆にして又よく大勢を察する明あり」としている。 皇帝は李完用は経験、年齢とも浅いと難色を示したが、統監はハルバートに運動費を与え暗躍させていること等皇帝を非難し、改めて李完用の起用を求めたため、皇帝も認めざるを得なかった。

六月末ハーグ密使事件が発覚した。李完用は皇帝が内閣に一言の相談もなく、このような大事を為したことに激怒し、一進会の宋秉oと共に皇帝に譲位を迫り、譲位させた。しかしこの事が民衆から反発され、再び自宅に放火され全焼された。明治四二年には排日独立派の襲撃を受け重傷を負った。この時の傷は二カ所で、左肩の傷は深さ一〇センチ肋膜まで達し、腰からの傷は腎臓に達する重傷であった。しかしこのような反対派による圧迫にも屈せず、親日の所信を曲げなかった。明治四三年首相として韓国併合条約に調印した。その功により、伯爵に任じられ、大正九年には侯爵に任じられた。

 筆者は彼の心を次のように理解している。彼は明治二〇年代アメリカに赴任し、朝鮮との違いに驚嘆したことと思う。なんとか朝鮮も近代化しなければならない。所が朝鮮の政治は足の引っ張り合い、朝令暮改であり、自力での近代化は困難であり、どこかを頼らざるを得ない。ではどこを頼るかと考えた場合、当時の日本は日の出の勢いとは言え、欧米に比べ、まだ遅れており、国力も弱い。やはり欧米に頼るべきであろう。しかし日露戦争で日本の勝利が確実になるや、頼るところは日本しかない。そこで日露戦争後は一貫して、日本の指導の元に朝鮮の近代化、韓国併合への道をリードしたのであろう。これはこの道が正しいと信ずる非常に強い意志が無ければ、二度の焼き討ち、暗殺未遂や、激しい民衆の反対を押し切り、韓国政界をリードできなかったのでは無かろうか。

 ここで高宗について一言述べる。高宗は成年に達するまでは、実父の大院君、その後は后の閔妃に実権を握られ、全く権力を持てなかった。しかし閔妃と相次ぐ大院君の死亡により、否応なしに全責任を負わなければならなくなった。彼の発言は一貫性が無く、責任逃れと権力欲に終始した。明治三二年制定の韓国憲法は儒教の悪い面が強く出て、皇帝の権限が無限であることを強調していた。このような能力のない皇帝に、無限の権限を与えた結果を、歴史の教訓として学ぶべきであろう。