4、ゾルゲ事件

ゾルゲ事件

1941年(昭和16年)10月15日、大東亜戦争開戦の2ヶ月前、近衛内閣のブレーンとして活躍した尾崎秀実がスパイ容疑で逮捕された。ゾルゲ事件の発覚である。その前日の閣議で、日米交渉についての意見が対立、16日に近衛内閣が総辞職し、東条内閣が発足した時である。このタイミングを見ると、近衛総辞職の決定打となった事件である事が明らかであろう。
 同時に逮捕されたのが同盟国ドイツの記者リヒァルト・ゾルゲである。ゾルゲはドイツ大使と極めて親しい友人でありながら、真実はソ連のスパイであった。彼のもたらすヨーロッパ情勢の分析は正確であり、日本のマスコミでも一定の評価を得ていた。

 この事件については三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由社が詳しい。この本に、岸信介は序文を載せているが、その一部を抜粋する。
 「シナ事変を長期化させ、日支和平の目を潰し、日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させ、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連の指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であったことが、実に赤裸々に描写されているではないか。近衛文麿・東条英機の両首相を始め、この私まで含めて、シナ事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うならばスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったと言うことになる」
 「しかし考えてみれば、右翼も左翼も共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。ここに疑問を解く鍵があるように思われる」

当にシナ事変から大東亜戦争までの流れを見ると、コミンテルンや尾崎の描いた筋書き通りに動いている。しかし尾崎一人の力で動いたと見るより、威勢の良い発言に付和雷同するマスコミの責任では無かろうか。特に朝日新聞には共産主義のシンパが多く、戦後の朝日新聞の論調を見れば明らかである。

 これは昭和始めの大恐慌により、数多くの人が共産主義にかぶれたことによると思われる。
近衛首相も大内兵衛に憧れ、東京帝大から、京都帝大へ転学している。
 又陸軍は二・二六事件で明らかなように、天皇制問題を除けば共産主義そのものであり、中でも東条を始めとする統制派軍人は、軍事の本分を逸脱して政治に関与していた。特に武藤章軍務局長は尾崎と親しく、部下の影佐禎昭軍務課長と共に日中和平工作を阻害したと疑われる。

農林省・内務省にも共産主義のシンパは多く、企画院事件を起こし、戦後の農地改革では、占領軍に先立ち農地改革案を提出し、占領軍を驚かせた。
 尚企画院事件とは昭和13年の判任官グループと昭和14年から15年4月迄に検挙された高等官グループの2つに分けられる、共産主義者弾圧事件であるが、高等官グループで逮捕された人の中には、稲葉秀三、和田博雄、勝間田精一等、戦後大活躍した人達が捕まっている。

 ゾルゲ諜報団そのものは、後述する如く、非常に小さな組織であり、ソ連にとって確実に貢献したと評価されるのは、1941年夏の南進論に決定した事の通報のみである。この通報により、日満国境にへばりついていた、ジューコフ率いる大軍団は、モスコーへとって返し、 12月のドイツ軍敗退に繋がった。もしゾルゲの通報がなかったら、モスコーは陥落し、歴史はどう変わったか、分からない。

ゾルゲとは

ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母との間に、1895年、当時ロシア領であったアゼルバイジャンのバクーで生まれた。3才の時ドイツに帰国、18歳の時第一次世界大戦の志願兵として従軍し、3度の受傷で除隊した。この後遺症で生涯片足が不自由になった。この治療期間に歴史や経済を勉強すると共に、大変優秀な看護婦とその父であり、医師である人の影響を受け、医学部志望から政治学・経済学志望に転向し、次第に共産主義に惹かれた。
 1919年ドイツ共産党に入党、その後ロシア共産党に移り、コミンテルンの一員となった。 更に諜報部門に移ると共に、コミンテルンからソビエト赤軍第4本部に移った。「この時点よりコミンテルンとは完全に一線を画され、連絡を禁じられた」と書いている。
 そして1929年より中国で諜報活動に従事することとなった。この時頼ったのがアグネス・スメドレーであつた。彼女についてはヨーロッパにいた時から知っていた。そこで彼女に中国人や外国人協力者の選定や、グループの設立に協力して貰った。その時紹介された中に尾崎秀実や川合貞吉が居た。
 1933年日本へ転勤、日本での諜報活動が始まった。翌年奈良に尾崎を呼び出し、日本での協力関係を確立した。
 ゾルゲは大変な勉強家で、逮捕時家には800冊から1000冊の蔵書があったとのことである。その中には日本書紀や古事記の英訳本、万葉集のドイツ語訳から、農地問題や、経済・政治に関する本、芸術関係等、多彩な分野に渉っていたとのことである。
 彼はゾルゲはドイツのフランクフルター・ツァイトングの通信員として日本に赴任するとすぐ、後に駐日大使となる駐在武官オットーと親しくなり、ドイツの情報を集め尾崎に流した。
更にオットーが大使になると、大使館の私設顧問に就任している。この正確なドイツ情報が又、尾崎に対する世評を増したであろう事は十分理解できる。
 

尾崎秀実とは

 
尾崎は1925年東大卒、26年朝日新聞入社、27年より32年まで中国に勤務した。この間にアグネス・スメドレーにより洗脳されたと言われる。同時にこの間にゾルゲとも知り合い、中国に於けるゾルゲ諜報団の一員となった。本社へ転勤により、一時ゾルゲと縁が切れたが、34年ゾルゲが日本に転勤となり、再び、その諜報員となった。

38年には朝日新聞の先輩であり、第一次近衛内閣の書記官長に就任した風見章の推薦で、近衛内閣嘱託となった。尾崎は極めて優秀なジャーナリストであると共に、人なつっこく世話好きな人だったらしく、誰にでも好かれ、朝飯会、昭和研究会等の世話役として活躍した。朝飯会とは近衛の政治幕僚会議であり、当初月2回、後には毎週会食しながら時事問題を討論した会である。又昭和研究会は蝋山政道、佐々弘雄、平貞蔵、風見章等が中心メンバーで、12の部会があり、多くの論客が集まったが、彼はシナ問題研究部会、東亜政治部会、民族部会の責任者となっている。
 
三田村武夫はこのグループについて、尾崎を中心としたコムニストと、企画院グループの革新官僚により構成され、革新国策の理念的裏付けを作り、大政翼賛会創設の推進力となったと書いている。

又ゾルゲは尾崎の情報源として、「近衛公爵を取り巻く一群の人であり、その中には風見章、西園寺公一、犬養健、後藤憲章の名を挙げている。しかし軍事面では一定した情報源は持っていなかったようだ。」と書いている。しかし三田村武夫は「風見章を内閣書記官長に推薦したのは、陸軍次官梅津の意を体した柴山軍務課長であり、軍部と特別の関係を持っていた犬養健、更に犬養と影佐禎昭、武藤章との関係に繋がっていった」と書いている。
 
尾崎は第一次近衛内閣の総辞職に伴い、内閣嘱託から満鉄調査部へ移籍するが、東京支社勤務として、日本の政策決定に大きな影響力を保持した。
 
この事件で忘れてはならないのは、西園寺公一の存在である。西園寺公一は西園寺公望の孫であり、近衛首相の側近中の側近秘書であった。26年アメリカ・カナダ出張の際、尾崎と同室となったことから親しくなり、近衛に尾崎を紹介した。後には毎日のように行き来するようになった。このゾルゲ事件で懲役1年6ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けている。戦後は共産党から参議院議員となったが、親中派として除名され、中国に亡命、死亡している。彼は尾崎の墓に
「尾崎秀実 英子之墓 
   一九四四年十一月十日
   一九七二年五月三十日卒 西園寺公一謹書」と書いている。
この西園寺を介しての近衛に対する、尾崎の影響力は大きかったと思われる。

ゾルゲ諜報団とは?

 
岩波文庫『ゾルゲ獄中手記』によると、メンバーは尾崎秀実、宮城与徳、クラウゼン、ヴケリッチ、ベルンハルトの5人に過ぎない。その中でクラウゼンは無線技師で諜報活動には参加していない。又ベルンハルトも初期の無線技師で1935年まで勤めただけである。ヴケリッチは主に外国通信員とフランス人から情報を集めていた。その他写真などの技術的な仕事に従事していた。つまり日本人からの情報収集は宮城と尾崎だけである。

宮城は沖縄出身の洋画家である。若くしてアメリカ留学、在学中に共産党に入党した。ゾルゲの東京赴任に伴い、日本に転勤を命じられ赴任した。彼は肖像画の作成に関連して、情報の蒐集を期待されたようである。
 
彼の情報源は宇垣大将の秘書をしていた旧友・矢部秀で、彼とは頻繁に会っていたようである。宇垣内閣問題等、宇垣関連の報告をよくした。その他田口右源太は北海道で漁業関係の仕事をしており、北海道・樺太方面の軍隊の動きを通報した。又小代好信は東京・宇都宮の師団やシベリア国境地帯の軍隊の生活条件や活動状況について情報を供給した。
 
結局ゾルゲ諜報団といっても、ゾルゲ・尾崎以外にはたいした活動は無かったように感じる。

尚この事件で諜報関係者として逮捕された人は

リヒャルト・ゾルゲ     死刑    
マックス・クラウゼン 無期、戦後釈放    
ブランコ・ド・ブケリッチ  無期、獄死 
アンナ・クラウゼン  ?      
尾崎秀実          死刑    
宮城与徳       獄死
北林トモ  45年2月釈放、2日後死亡
船越寿雄        獄死    
水野成夫        獄死    
河村好雄       獄死       
川合貞吉          10年
久津見房子    
秋山幸治                
山名正美    
田口右源太

情報提供者として逮捕された人
西園寺公一   1年半執行猶予2年
犬養 健       無罪

尾崎の考えていたこと

 
尾崎は一九四二年獄中手記を残しているが、三田村武夫によるその要約では(六一ページ)
1,コミンテルンの支持及びソ連邦の防衛
2.日本及びアジアの革命
3.第二次世界大戦を通じての全世界共産革命の完成
の三点に絞られる。

 そしてこの達成のために
1.シナ事変の長期化
2.独伊との提携により、日本を対英米戦に追い込む。
3.そして東南アジア諸国の独立を図り、米英と対抗する。
4.最後にソ連の力を借り、まずシナの社会主義国家への転換を図り、これとの関連において 日本自体の社会主義国家への転換を図る事を夢見ていた。以下この夢を如何に実現したかについて述べる。

  

1.シナ事変長期化の真相

 1937年10月近衛内閣はシナ事変の解決のため、列強に調停を依頼した。これに応じ たのが、ドイツの中国駐在大使トラウトマンだった事から、トラウトマン工作といわれる。 所が予想外に南京攻略が早く終わったため、陸軍の要求が強くなり、結局不成功に終わった。 しかしこの調停案に対し、参謀本部多田次長(総長は閑院宮)は受諾を主張したが、杉山陸相、廣田外相の強硬意見に屈した。(首相は近衛)
  
1938年3月、中国側から松本蔵次に接触があり、蒋介石と親しい茅野長友と孔祥煕行政院長との書面による和平工作が行われた。孔祥煕より

1.日華双方とも即時停戦すること
  2.日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
  3.日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的にはこれを承認するが、具体的には日華両国で協議すること
 
の内容の長文の手紙を貰い、茅野は政府と協議するため、5月6日上海発9日東京着で帰国した。東京に着くと現地軍からの連絡で知っていた影佐大佐に呼び出され、叱り付けられたり憲兵隊に呼び出され取り調べられたりしたが、板垣陸相、近衛首相と会談、この線で交渉を進めることで合意した。
 
上海に戻り仲介者に連絡したが、仲介者の都合が悪く、2−3日空費した。その間に同盟通信の上海支局長松本重治に会い、この話をした。そして仲介者・茅野長友・松本蔵次・和知大佐の4人は5月26日上海を発ち、5月29日香港に着き、漢口政府との交渉に入った。

6月12,3日頃居正夫人が孔祥煕の代理として出席、中国側の案を提出し、話は纏まった。この案を持ち、東京に戻ると板垣陸相の態度が全く変わっていた。板垣は「中国側に全然戦意無し。このまま押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」と言う。
   
そこで事情を調べると、この間に松本重治が国民政府の高宋武を連れてきて、「国民政府に全然戦意無し、無条件和平論が高まっており、その中心人物は汪兆銘だ」という。 この情報を中国側に上海から打電した所、高宋武から「日本側に戦意無し。中国があくまで抗戦すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という秘密電報が入っていることが分かった。
 
この松本重治と尾崎は極めて親しい間柄であり、これから高宋武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の汪兆銘引き出し工作に転じていったのである。

更に「1938年1月の蒋介石を相手にせずとの近衛声明は、既に新政権への期待を示したものであり、参謀本部今井大佐、軍務課長影佐大佐、犬養健、高宋武、梅恩平らが中心になって既に進められていたのである。この問題について尾崎はその手記で、「昭和13年春より松本重治と高宋武との間で和平工作がなされていた。高宋武は13年春には密かに来日し、松本重治等の斡旋により、近衛内閣も直接工作に携わり、犬養健、西園寺公一等も直接交渉の当事者となった」と書いているが、この工作の中心人物は尾崎だったと三田村は指摘している。
 
この後も汪兆銘引き出し工作は何回か繰り返され、シナ事変の長期化に結びついた。

2.独伊との提携により、日本を対英米戦に追い込む。

  
1940年7月第2次近衛内閣が発足し、松岡洋右が外相に就任した。松岡は外相就任と 同時に西園寺公一に政務嘱託就任を要請している。そして日独伊3国軍事同盟を締結し、反英米の旗幟を明らかにした。
  
その翌年の3月からの訪欧で、日独伊三国同盟を締結し、その帰途モスクワにより、4月 日ソ中立条約を締結した。6月の独ソ開戦に当たり、ソ連にとり後方の憂いを除き、独ソ戦 勝利に貢献した。この事に尾崎が関与していたかどうかは分からないが、西園寺公一が同行 していることは、注目すべき歴史的事実である。そしてこれと共に資源確保、援蒋ルートの 遮断を目的とした南進論が主流となった。
  
この南進論決定の報告を受けたゾルゲは、「日本における私の任務は終わった。帰国した い」と打電したとのことである。

3.尾崎は日米戦争についてどのように考えていたか。


三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』224ページより尾崎の手記を抜粋する。尚この手記は昭和17年2〜3月頃書かれたものである。

「これを最近の段階の現実に照応せしめて説くならば、日本は結局において英米との全面的衝突に立ち至ることは不可避であろうことを夙に予想し得たのであります。勿論日本はその際枢軸側のの一員として立つことも既定の事実でありました。この場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく、枢軸全体として決せられる事となるであろうと思います。
 
日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでありましょうが、その後の持久戦により、消耗がやがて致命的なものとなって現れてくるであろうと想像したのであります。しかもかかる場合において日本社会を破局から救って方向転換ないし原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されておらないと確信しているのであります。結局においては身を以て苦難に当たった大衆自体が、自らの手によって民族国家の再建を企図しなければならないであろうと思います。
 
ここにおいて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によって不必要な犠牲を払わされることなく立ち直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて日本社会経済の根本的立て直しを行い、社会主義国家としての日本を確固として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、しかも十分な自ずからの党的組織も持たないことのために、ソ連の力に待つ点は極めて多いと考えられるのであります。(以下略)
 
尾崎は日本の敗戦を予想し、その敗戦の混乱の中で、ソ連の援助の元での共産革命を夢見ていたのである。
 
尾崎は一ジャーナリストに過ぎない。しかし当時の不況に伴う共産主義思想の蔓延に加え、彼の構想力、人間味が、彼の回りに多くのファンを作り、大東亜戦争への道を開いた。

当に大東亜戦争は尾崎の目論み通り進んだのである。

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