第5回 1945−50年

ここで改まってこの間の出来事を、政治経済と社会史に分け、年代順に振り返ってみる。

政治経済

1945年(昭和20年)

8月15日日本はボツダム宣言を受諾し、降伏しました。同時に鈴木貫太郎内閣は総辞職しました。8月16日後継内閣首班として東久邇宮稔彦王が任命されました。東久邇宮の妃は明治天皇の9女であり、その長男盛厚王の妃は天皇陛下の長女という、最も天皇陛下に近い皇族でした。皇族を首相とすることにより、降伏に伴う混乱を最小限に押さえようとするものでした。又、王はよく言えば自由奔放、悪く言えばわがままで、陸軍大将にはなりましたが、軍の主流から外れた人だったことも選任の一因だったと思います。

8月30日マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、9月2日東京湾上戦艦ミズーリ号ので降伏の調印式が行われ、連合軍の占領下に入りました。マッカーサー元帥の父は第3代のフィリピン軍政長官で、少年時代マニラに住んだことがあり、更にフィリピンが1935年(昭和10年)自治政府が成立した時、当時米軍参謀本部長でしたが、1937年退職後フィリピン軍の創設を指導した人です。日米開戦と共に米軍の総司令官にカムバック、緒戦に敗れフィリピンを脱出するとき「I shall return」の声明を残しました。フィリピンには特別の思い入れのある人です。

戦後の混乱については先に述べましたが、最初に立ち上がったのは、徴用等で日本に連れてこられた中国人や朝鮮人でした。戦争末期には海上輸送の断絶、戦災による輸送手段の壊滅により、食糧配給機構が崩壊しました所があちこちに出てきました。そのような事業所でしわ寄せを食ったのが、中国人や朝鮮人だったのです。終戦の報を聞くと共に、彼らは一斉に蜂起しました。彼らの中には賃金も貰わずにさっさと帰国した人もいました。それが未払い賃金として、長く懸案事項として残りました。又朝鮮人の中には、「我々は戦勝国の人間だ」と称し、警察の指示に従わない人も出ました。彼らはそれまでは日本人でしたが、法的地位が決まるまで、日本人でもなく、外国人でもないことから、三国人と呼ばれ嫌われました。在日朝鮮人が三国人と呼ばれることを、差別用語として嫌う理由はここにあります。悪いことをした人は極めて少数と思いますが、怖いことですね。

先にも述べましたが、東久邇内閣は10月には早くも辞職に追い込まれ、幣原内閣に代わりました。幣原は1924年(大正13年)加藤内閣の外相を勤めてから、1931年満州事変が起きるまで外交の第1線にあり、英米協調路線の「幣原外交」として名を売った人です。

この時戦後の政治を背負って立った吉田茂が外相として入閣しました。彼は戦前外相、文相、農商務相として活躍した牧野伸顕の女婿です。尚牧野伸顕は大久保利通の次男です。吉田は天津、奉天総領事、外務次官等として幣原の軟弱外交に対し強硬路線を主張していました。しかし満州事変では国際連盟脱退に反対し、1932年から35年まで、待命となり第一線から退きました。1936年(昭和11年)から38年(13年)までイギリス大使としてロンドンに勤務しました。丁度支那事変が始まった頃ですが、戦争の沈静化に努力しますが、大した成果は上げていません。退職後も戦争の拡大防止に色々画策しました。大東亜戦争の雲行きがおかしくなった頃、小磯内閣打倒に向け画策し、憲兵隊に逮捕されたが拘留45日で釈放されました。貴族趣味の頑固親父でエピソードの多い人でした。

1946年(昭和21年)

幣原内閣は選挙法を改正し、45年末に衆議院を解散しましたが、GHQは選挙の延期を指令して、多くの人の公職追放をしました。これにより戦前の指導者は一掃されました。この選挙は4月に、大選挙区、制限連記制で実施されました。この制度は何人かの候補者の名を連記できるので、女性や新人に有利な制度でした。この結果、始めて参政権を得た女性は39人も当選できました。尚この制度は一回で終わり、次の選挙からは最近まで続いた中選挙区制になりました。この選挙で第一党になったのは鳩山一郎が率いる自由党でした。自由党は戦前の政友会系です。しかし過半数を制することが出来ず、第2党の幣原首相が率いる進歩党(旧民政党系)を中心に連立工作が行われましたが、上手く行きませんでした。所が5月に入ると鳩山が追放されたのです。そこで鳩山は幣原内閣の外相吉田茂に後任を託し、5月22日ようやく吉田を首班として、自由党と進歩党の連立内閣が発足しました。尚この内閣で農林大臣に就任したのは農政局長の和田博雄ですが、彼は進歩的な官僚として知られており、後に社会党左派の領袖となった人です。吉田総理はこちこちの保守派でしたが、進歩的な学者をこの後も閣僚に起用しています。

尚日本では共産党・社会党に近い考えを持った人を進歩的と称しましたが、その後の経過を見ますと何が保守で、何が革新か全く分かりません。

この年から翌年にかけ、憲法を始め、マッカーサー改革が最も進んだ時でした。11月に新憲法が公布され、農地解放、財閥解体、要人の追放、東京裁判の改訂等次々と改革の嵐が吹き荒れました。

1947年(昭和22年)

戦後共産党の復活、生活苦から労働運動は大変激化していましたが、2月1日を期して大規模なゼネストを敢行することになりました。その前日マッカーサーはゼネストの禁止を指令しました。それまでの政策の基本は、「日本が2度と戦争できないようにする」為、日本の経済力を弱めることでしたので、アメリカ政策の大きな転換でした。

4月には6.3制で新制中学が発足しました。因みに新制高校は翌48年、新制大学は翌々49年の発足です。但し日本女子大等一部の私立大学はこの年に発足しています。

5月3日の新憲法実施にあわせ、4月には各種選挙が実施されました。この選挙で第一党になったのは社会党でした。しかしやはり過半数に達しないため、民主党、国民協同党との連立内閣となりました。総理は社会党の片山哲でした。片山は敬虔なクリスチャンで、比較的穏健な右派のリーダーでした。民主党は進歩党がモデルチェンジしたもので、党首はやはり外交官OBの芦田均でした。国民協同党は後に総理となる三木武夫を中心とする弱小政党で衆議院議員31人にすぎません。

この年、前内閣の時設立された復興金融金庫の活動が始まり、大変なインフレになりました。給与が固定されているサラリーマンは大変な生活苦になりました。経済復興を優先する民主党と労働者の生活を優先する社会党の間で、片山内閣は大変苦労しました。社会党の政策で実施できたのは、厚生省から労働省の分離と、石炭の国家管理でしたが、石炭の国家管理は民主党や資本家の反対により、骨抜きにされました。翌年2月補正予算案の採決に左派社会党が反対し、予算案を通すことが出来ず、僅か8ヶ月で総辞職したのです。

1948年(昭和23年)

この年2月前述の経過で片山内閣が総辞職しました。後継内閣の首班は民主党の芦田均で、政党の組み合わせは変わりませんでした。芦田内閣は「経済再建には外資の導入が不可欠であり、その為には労働運動を押さえ、安定した社会秩序を保つことが重要である。」とし、成立早々から労働攻勢に対決姿勢をとりました。

この年はアメリカの占領政策が根本的に変わった年です。まず1月早々アメリカのロイヤル陸軍長官は、サンフランシスコで「日本の占領目的を、非軍事化から反共防壁に転換すべきだ」と演説しました。この影響は2月には早くも現れ、ストライク賠償調査団が来日し、「日本を強力な工業国にする方が、極東の平和と繁栄に対して危険が少ないとし、指定賠償工場の緩和を主張し、実現しました。6月には6000万ドルの対日綿花借款が実現しています。

この政策の転換は労働問題にも現れ、3月の全逓のストに対し、GHQはスト禁止を指令し、違反した労働者を逮捕し、軍事裁判に掛けるなど、弾圧したのです。又8月の東宝のストでは、戦車や飛行機までも動員し、組合を弾圧しました。これに先立つ7月には政令により、国家公務員の団体交渉権と争議権を否認したのです。

芦田内閣の破綻は極めて早く、10月に来ました。それは昭電疑獄事件です。復興金融金庫融資をめぐり、昭和電工(現在も存続する大手化学会社、化学肥料を作っていた)の日野原社長が、融資の見返りに、政官界に賄賂をばらまいたとされる事件です。農林次官の重政誠之、大蔵省主計局長福田赳夫(後の総理)、前蔵相来栖赳夫、別の収賄事件で辞職したばかりの前副総理西尾末広が相次いで逮捕され、芦田内閣は総辞職に追い込まれました。12月には芦田自身も逮捕されたのです。この事件の関係者は64人に及んでいます。所が4年間も続いた裁判の結果、有罪となったのは日野原社長と、来栖前蔵相だけで、他は無罪となりました。この事件の裏には、参謀2部のウィロビー少将と革新路線のリーダー・民政局次長のケーディスとの暗闘があったと言われています。

この総辞職の後、第2次吉田内閣が発足しました。民主自由党の少数内閣です。尚自由党は3月に民主党を飛び出した幣原グループの民主クラブを吸収し、民主自由党となっていました。この内閣で最初に行ったことは、7月に政令で実施された公務員のスト禁止を法令化することでした。社会党の反対の中、民主党の賛成を得て、11月30日国家公務員法を可決、公布しました。更に12月には公共企業体等労働関係法を成立させ、国鉄、専売公社等のストライキを禁止しました。これらの案件を処理した後、12月23日国会は解散されました。

尚この国会解散の日、東条元首相他A級戦犯7人が処刑されました。

1949年(昭和24年)

前年末の解散を受けて行われた総選挙では、民自党は地滑り的に大勝し、過半数を獲得しました。一方社会党は惨敗で、111から48と解散前の半数も取れませんでした。又この選挙の今ひとつの特徴は、官僚出身者が62人も当選したことで、この中には後に総理になる池田勇人、佐藤栄作などがいました。吉田総理は初当選にも拘わらず彼らを重用したので、党内に官僚派と党人派の対立が生じました。

この年は経済的には大変重要な年です。ドッジの指導による超緊縮財政、シャープの勧告による税制改革、円の単一レートの決定等です。これらの事は第1回にも述べました。

前年の解散直前GHQから本国からの命令として、インフレ克服のため、経済9原則を指示してきました、徹底的な緊縮財政です。2月にはデトロイト銀行頭取のドッジが来日し、来年度予算について徹底的な緊縮予算に修正させました。ドッジラインです。これは今まで踏んでいたアクセルから急ブレーキに切り替えたものです。その結果あれ程激しかったインフレは急激に沈静化しました。

なおGHQは企業倒産の激増対策として、オーバーローンを認めました。オーバーローンとは銀行が預金以上の貸し出しをすることです。この原資として、ガリオア・エロア資金で調達し、日本に売却した食料等の売り上げ金をアメリカに回収せず、その資金を銀行に貸し出し、銀行から企業に貸し出したのです。これを「見返り資金」と言います。

この財政均衡を至上命令とするドッジラインの中、如何に税収を上げ、日本の再建費用を確保するかが、大きな命題となりました。そこでGHQはコロンビア大学教授のシャープを団長とする税制調査団を派遣し、税制勧告案を提出しました。この時の税制改革の大綱は未だに引き継がれています。

この基本は所得に課税する直接税中心で、高所得者ほど税率を高くする制度が基本です。尚間接税とは売り上げにたいし課税する制度で、今の消費税がその代表です。又この勧告によりサラリーマン以外の人は自己申告制が採用されました。又高率の相続税が採用され、3代相続税を払うと財産はなくなると言われるようになりました。

ドルの単一レートとは、当時は品物によってレートが違っていたのです。即ち輸入品は必要なものを政府がすべて買い取り、国内で売れる値段で売りました。その輸入代金を支払うため政府は外国で売れそうなものを国内でその時の相場で買って外国へ輸出していたのです。即ち品物によってレートはすべて違っていたのです。これを政府は貿易資金特別会計で運用していたのですが、この会計が大赤字だったのです。そこでドッジは1ドル360円の単一レートで企業が自己責任で輸出入をさせることにしたのです。これにより企業は、損する危険と、もうけるチャンスを与えられ必死に努力するようになりました。この結果日本商品の競争力は次第に付いたのです。尚この頃の日本商品の国際評価は、安いが品質が悪いというもので、今日とは全く逆のイメージでした。繊維製品、玩具等が主な輸出品でした。

このような超緊縮政策は、同時に大きな社会不安をもたらしました。この事については既に最初の時間に述べましたが、下山事件、三鷹事件、松川事件等が起きたのです。この陰には共産党を排除しようとする、GHQの裏工作もささやかれています。

この年4月に団体等規制令を法令ではなく、GHQの命令としてボツダム政令で出しました。これは指定した団体の構成員の住所氏名を届け出させるものでした。この対象として共産党や左翼団体が指定されました。これに対し、共産党は敵に圧力をかけるためとして党員を届けたため、翌年のレッドパージで大打撃を受けました。

この年7月教育顧問イールズは新潟大学で共産主義教授の追放を声明し、9月には、この団体等規制令により、在日朝鮮人連盟等4団体に解散命令が出されました。このように次第に共産党への圧力は強くなりました。

民間でも東芝争議、他大きな争議が多発しました。しかし「このような事をしていたら、会社がつぶれる。それでは元も子もない」といった良識派も生まれ、闘争至上主義の共産党系組合幹部を馘首することにより、次第に沈静化しました。

尚6月にソ連からの引き揚げ船の第1船がようやく舞鶴に入港しました。ソ連は日ソ不可侵条約に違反して参戦、満州で降伏した多くの将兵をシベリアに移送し、4年間も酷使し、多大の病死者を出しようやく帰国が許されたのです。

11月1日アメリカの国務省当局は対日講和条約を検討中と言明しました。これにより、日本は政府の主張する単独講和論と、マスコミの主張する全面講和論に大きく割れました。政府は米ソの対立の厳しい中で、全面講和を言っていると、何時まで経っても講和できないので、アメリカ側とだけでも講和すべきだと言い、マスコミはソ連・中国を含めた講和をしないと、米ソが戦争になったとき、その戦争に巻き込まれるという意見でした。

1950年(昭和25年)

単独講和を主張する吉田総理は地盤を強化するため、民主党連立派に合同を呼びかけ、3月にこの勢力を吸収し、自由党となりました。勢力が半減した民主党野党派は国民協同党やその他の少数勢力を吸収し、国民民主党となりました。党首は苫米地義三です。

一方社会党は前年1月の総選挙で大敗してから、左右両派の抗争が激化していましたが、この年1月の大会で遂に分裂しました。しかし参議院議員選挙を前にした4月には一旦統一を回復しましたが、講和問題をめぐり、翌51年10月再分裂したのです。

米ソの対立が激化する中で、遂に6月マッカーサーは共産党中央委員24名の公職追放を指示し、翌日『アカハタ』編集関係者17名も追放されました。この措置により、その後官公庁やマスコミ、民間会社でも公然と共産党員の追放が始まったのです。これをレッドパージと言います。8月には全国労働組合連絡協議会(全労連)が団体等規制令によって解散命令を受け、その幹部12人は公職追放となりました。こうして50年中に12,000人追放となりました。言論の自由を保障した憲法が施行されて僅か3年で、同じ連合軍の手により崩壊したのです。地下に潜った共産党は極左冒険主義に走り、火炎瓶闘争をすすめ、国民の支持を急速に失いました。

一方先に追放された戦前の指導者は10月に1万人、翌51年8月には鳩山一郎等14,000人の追放が解除されました。

これらの一連の動きを逆コースと言いました。

この年6月朝鮮戦争が勃発し、日本経済は急激に回復しましたが、この事については別項で述べました。この朝鮮戦争勃発により、7月マッカーサーは吉田首相に75,000人の警察予備隊の新設と、海上保安隊要員の8,000人増員を指令しました。日本の再軍備の始まりです。これは朝鮮へ動員する米軍の穴埋めの為でした。集められた隊員は空き家になった米軍の宿舎に入り、アメリカ軍の武器や被服を貸与され、米軍により、訓練を受けたのです。

社会史

1945年(昭和20年)

戦後初の総理となった東久邇稔彦王は1990年、100才を超えるまで長生きされ、色々話題を作った人でした。1947年10月秩父、高松、三笠の3宮家を除き他の宮家は皇籍離脱が決められました。この時この宮様はなんと新宿西口のマーケット街に間口2間の食料品店を出したのです。『週刊朝日の戦後史』によれば、「店内の品物も少なく寒々とした印象を受けた。まあ言えば露天に毛が生えたくらいの乾物店で、これが宮様のお店かとちょっと驚いたほどだ」とあります。尚この時各宮様は退職金とも言える一時賜金を貰いましたが、財産税も大変でした。まさに激動の時代です。殆どの皇族は今日、我々平民並になったのではないでしょうか。今各地にプリンスホテルがありますが、その内これら皇族の屋敷跡に建てられたものがかなりあります。

松竹の戦後始めての映画は、レビューを扱った娯楽映画「そよ風」でした。この中で歌われた並木路子の「リンゴの唄」は大ヒットしました。又東宝の第1作は音楽喜劇「歌え太陽」です。戦後の大変な時代にただ一つ明るさをもたらしたのです。尚この頃はテレビはまだありません。最大の娯楽は映画とラジオでした。映画も白黒映画だったのです。

11月には大相撲が早くも復活しました。10日間でしたが、復員力士の坊主頭が目立つ場所でした。横綱土俵入りの太刀持ちの持つ太刀が意外に軽そうなので聞いてみると、本物はGHQに没収され、中身は竹光との事でした。

1946年(昭和21年)

この年の元旦天皇陛下の人間宣言が出されました。戦前は現人神とされていましたが、天皇も人間だと宣言したのです。そして全国巡幸に出られ、国民を激励されました。国民の熱狂的な大歓迎と共に国民は復興への大変な励ましとなりました。なんと半年の内67日も旅行されたのです。銚子では沖から帰ってきた漁師に大声で「どうだ、獲れたか」と声をかけられ、漁師は獲れた魚をかかげ、「うんと獲れましたよ」と答える、ほほえましい光景もありました。しかし巡幸を受け入れる地方の側に一種のお祭り騒ぎや、便乗等の弊害も出て参りました。1947年12月岡山県から兵庫県入りしたとき、沿道の小学生が日の丸の小旗で歓迎したことが、GHQのご機嫌を損ね、翌48年は中止させられました。

又天皇はこの年来日したアメリカの教育使節団の団長に依頼して、皇太子の家庭教師を紹介して貰いました。この要請により来日したのがヴァイニング女史で、この年の10月から4年も家庭教師を勤められました。尚皇太子は中学1年でした。

証証寺の狸囃子のメロディに乗り、「Come come eyery body …」で始まる英会話のラジオ番組は、2月に始まりましたが、堅い番組に珍しい人気番組になりました。

2月には戦後初の文化勲章が受賞されました。3月には日展、9月に芸術祭、11月に国民体育大会が始まり平和の喜びが次第に実感されるようになりました。

又この年の始め、「中央公論」「改造」が復刊され「世界」が創刊されました。活字に飢えていた国民は争って本や雑誌を買い、空前の出版ブームとなりました。それに伴いそれまで許されなかった、いかがわしい雑誌が次々発行されました。いかがわしいと言っても、それまでヌード写真など全く禁止されていた時代ですから、今から見ますとこのどこが問題なの?と言うくらいのものです。ストリップショーが始めて上演されたのは翌年の1月でした。額縁の中でちらと乳房を見せる程度のものです。又翻訳漫画ブロンディの連載が始まりました。(週刊朝日?)アメリカの夢みたいな家庭生活の豊かさに驚き、あこがれたものです。

NHKではのど自慢が始まり、リンゴの唄が大流行となりました。岡晴夫の「東京の花売り娘」「泣くな小鳩よ」、菊池章子の「星の流れに」。田端義男の「帰り船」等もこの年のヒット曲です。映画では戦時中上映禁止となっていた外国映画が輸入され始めました。グリア・ガースンの「キューリー夫人」チャップリンの「黄金狂時代」イングリッド・バークマンの「カサブランカ」ビング・クロスビーの「我が道を往く」等が次々と上映され、華麗な外国の生活にあこがれたものです。

プロ野球もこの年4月に再開され、苦しい生活ながら次第に彩りが出てきました。戦後最初の優勝は鶴岡(当時山本)が率いる南海でした。後に巨人に引き抜かれた別所投手が大活躍しました。

配給の酒では足らず、薬用アルコールが闇で出回り、それを水で割って飲む人も多数いました。所が悪い人がいるもので、その中に塗装や燃料用のメチルアルコールを混入しました。これを大量に飲むと死んだり、目がつぶれたりします。そのため、京都府だけで5ヶ月間に105人が中毒にかかり、85人が死んだそうです。このメチルアルコールの問題は京都だけではなく全国的な問題でした。(昭和世相史51頁)

煙草は紙不足から葉だけ配給されました。家庭では手巻きの道具を作り、自宅で煙草を巻きました。その紙は辞書の紙が薄くて良いと言われました。

この頃は電産スト、石炭ストで停電が続発しました。一般家庭も計画的に停電されました。そのため、蝋燭やランプが必需品でした。『週刊朝日の昭和史』には、蝋燭屋さんが成金になり、別荘、自家用車を買い、豪勢な暮らしをしている話が載っています。夕刊紙の「今夕の停電」欄には「一般用は昼間は全面停電、夜間が5時から8時までの内30分のみ送電、8時から翌朝5時までの内3時間送電」「夕5時から8時まで6分の5制電、8時から翌朝5時まで3分の2制電」と言う厳しい状態でした。

12月21日高知県、和歌山県に南海大地震が発生し、死者は1000人に及びました。

1947年(昭和22年)

1月に新興宗教の教祖「爾光尊」が金沢で逮捕されました。この信者に名横綱「双葉山」、囲碁界の巨峰「呉清源9段」がいて驚いたものです。

2月には埼玉県の高麗川で八高線の列車転覆事故で死傷者1000人余という大惨事を引き起こしています。

7月に連続放送劇「鐘の鳴る丘」がスタートしました。孤児院を舞台に、戦災孤児が多かった時代に、孤児たちが明るく、たくましく育つ姿、明るいテーマソング「…とんがり帽子の時計台…」で、大ヒットとなりました。

この暗い世相に希望を与えたのは、日大水泳部の古橋広之進でした。400メートル自由形で世界記録を出したのです。翌々49年(昭和24年)には全米水上選手権に招かれ、古橋広之進、橋爪四郎らが世界記録を4回も作り、水上日本の黄金時代を開きました。この後数年彼は400メートル、1500メートルの自由形に世界記録を連発し、続く橋爪選手はいつもわずかの差で古橋に破れましたが、やはり世界記録でした。オリンピックに出場を許可された52年(昭和27年)のヘルシンキオリンピックでは、最盛期を過ぎ、期待された成績を残せませんでした。

朝日新聞の連載小説「青い山脈」が終了しました。その後映画化され、その主題歌と共に大ヒットとなりました。又笠置シズ子の軽快なメロディにのった「東京ブキウキ」もこの年初演され、大ヒットとなりました。暗い歌より明るい歌が好まれたようです。平野愛子の「港が見える丘」、川田孝子の「みかんの花咲く丘」などもこの年のヒット曲です。「安城家の舞踏会」では没落する貴族の最後の夜の舞踏会で、そこに展開する家人や使用人のエゴイズムを描き出し、戦後思想をかいま見させました。洋画で記憶に残っているのは、ガーシュインの伝記「アメリカ交響曲」記憶喪失の元兵士を描いた「心の旅路」、ジョン・フォードの「荒野の決闘」等が思い出されます。ソ連製の「石の花」は民族童話の映画化ですが、戦後初の色彩映画として評判になりました。

1958年(昭和23年)

1月26日午後3時、都内の帝国銀行椎名町支店に区役所の腕章を巻いた40才くらいの男が訪れ、「このチフスの予防薬を飲むように」と薬を差し出しました。丁度外出中の支店長以外の17人の行員が素直に飲んだところ、なんとこれが青酸カリだったのです。たちまち一同昏倒、苦しみ始めました。死亡者は12人に達しました。この男は10数万円を盗み逃走しました。犯人として平沢貞道という、日展にも通ったことのある画家が逮捕され、死刑となりましたが、今ひとつ確たる証拠に欠けたため、歴代法務大臣は死刑執行の判を押さず、90才を超えるまで生存し、獄中で病死しました。

又この年から4年間、1951年(昭和26年)までサマータイムが実施されました。現在も欧米諸国で実施されていること、省エネ対策として今でも時々実施を求める声が上がっていますが、日本でもこの時期実施されていたのです。当時日本では農業や土建関係の労務者は日が暮れるまで働く習慣のため、労働強化になるとして、サンフランシスコ平和条約締結と共に廃止されました。当時私は高校生でしたが、夕方8時過ぎまでボールを追いかけていました。当時とは事情が変わってきていますので、再検討しても良いのではないでしょうか。

又歌謡界のスーパースター美空ひばりが、横浜国際劇場でデビューしたのもこの年で、小学校5年生・僅か11才でした。こまちゃくれて大人の歌を上手に歌い、人気となりました。49−50年(昭和24−25年)には「東京キッド」「越後獅子の唄」等自分の歌を持つ、一流歌手になりました。又映画の出演も相次ぎ、昭和25年度の所得は歌手の中では、笠置シズ子、岡晴夫、灰田勝彦、近江俊郎、二葉あき子につぐ第6位となったのです。

ソ連からの引き揚げ船の第1船がようやく函館に到着しました。日ソ不可侵条約を一方的に破り、無抵抗の日本兵を3年もシベリアに抑留し、強制労働で酷使したのですからひどいものです。51万人余りの抑留者中、この間亡くなった人は52,700人に及びます。(陸海軍事典)この悲痛を歌った「異国の丘」は帰国者が増えるにつれ、のど自慢では毎回必ず1人は歌う大ヒットになりました。ところが最初、作詞者、作曲者は全く分かりませんでした。NHKでこれを尋ねる放送をしたところ3人も名乗りをあげました。吉田氏の友人の日記が証拠となり、吉田正氏の作曲と認定されました。吉田氏によると、歌詞は最初は軍国調のものだったのが、いつの間にか捕虜の身をいとしむものになったとのことである。なお吉田正はその後数々の名曲を世に出して作曲界の大御所の1人になりました。

尚この年のヒット曲としては近江俊郎の「湯の町エレジー」、平野愛子の「君待てども」等があります。又映画では「酔いどれ天使」「手をつなぐ子ら」「我が生涯のかがやける日」などがあります。この年からはフランス映画、イギリス映画、ソ連映画等も数多く輸入されるようになりました。ジャン・コクトー脚本・演出の「美女と野獣」、「我らの生涯最良の年」、ソ連製バレー映画「眠れる美女」等が封切られました。

小説家太宰治が、井の頭公園付近の玉川上水で入水自殺しました。彼が戦後に書いた小説「斜陽」は「斜陽族」という流行語をうんだ人気作家でした。近年も彼を偲んで命日の6月19日には桜桃忌が開かれています。

6月28日福井を中心とした大地震が発生し、3000人も死亡しました。

この年両国で川開きが11年ぶりに再開されました。徐々に生活にゆとりが出てきた証でしょうか。

電球、万年筆など111品目の公定価格が廃止されました。

1949年(昭和24年)

4月に9年ぶりに野菜類が自由販売になりました。食糧不足もかなり改善されたようです。ビヤホールも6月に解禁になり各地で復活しました。

この年8月東海道線に特急が復活しました。東京ー大阪間が9時間です。現在は3時間くらいですから、随分早くなったものです。

この年の最も明るい話題は湯川秀樹のノーベル賞受賞です。日本人としての第1号であり、大変な勇気と希望を与えました。

この年10月サンフランシスコ・シールズが来日し、日米親善野球を行いました。シールズはマイナーリーグの3A級でしたが、日本のプロ野球は全く歯が立ちませんでした。その中で東京6大学選抜が法政の関根投手の大活躍で、破れはしましたが、1−0と大活躍したことが印象に残っています。

11月プロ野球はセントラルリーグとパシフィックリーグに分裂しました。毎日新聞がプロ野球に進出しようとしたことによるもので、毎日は阪神から若林監督、別当薫等有力選手を大量に引き抜き旗揚げしたものです。この翌年大毎(毎日)はパシフィックリーグで優勝し、松竹ロビンスと初の日本選手権を争い、優勝しました。

この年「青い山脈」が映画化され、藤山一郎・奈良三枝が歌う明るい主題歌と共に大ヒットしました。この年当たった映画には小津安二郎監督の「晩春」、板東妻三郎主演の「破れ太鼓」などがあります。歌謡曲では藤山一郎の「長崎の鐘」高峯秀子の「銀座かんかん娘」久保幸江の「とんこ節」などがあります。この年にはイタリア映画も輸入され、そのリアリズムが大きな話題となりました。この年話題となった洋画は、ルー・ゲーリックを描いた「打撃王」、ヴィヴィアン・リーの「哀愁」、総天然色で美しい「仔鹿物語」、ローレンス・オリヴィエの「ハムレット」等があります。

1950年(昭和25年)

6月イギリスのDHロレンスの翻訳本「チャタレー夫人の恋人」がわいせつ文書に指定され、発行禁止処分を受け、大きな問題になりました。現在では問題にもならないでしょう。

朝鮮戦争の勃発で軍需株を中心に、株価が暴騰し、この後の高度成長の第一歩となりました。

7月には後楽園で初のナイターが行われました。停電に悩んだ2−3年前が嘘のようです。

8月には黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演の「羅生門」が封切りれました。後にベニスの映画祭でグランプリをとり、日本映画を世界に認知させる快挙となりました。また映画スター相手にキッスの講習会が開かれ、話題となりました。それまで日本映画にはキスシーンはなく、これより前ハリウッドに視察旅行をした山口淑子は「アメリカで何を勉強してくるか」と問われ、「キスの仕方を教わってくる」と言い、外人に笑われた時代です。講師は東京ロケで来日中のフローンス・マリーというハリウッド女優、生徒は松竹の安部徹と高橋貞二だったとのことです。

アメリカ映画はこの年からカラーの時代に入りました。これまでも「子鹿物語」等何本かはカラーでしたが、この年は135本中22本がカラーとなったのです。ボップ・ホープの「腰抜け二丁拳銃」、エリザベス・テーラー等豪華キャストを揃えた美しいカラー映画「若草物語」、イギリスのバレー映画「赤い靴」、敗戦イタリアの現実を描いた「靴磨き」「自転車泥棒」、ベニス映画グランプリをとったフランス映画「情婦マノン」等懐かしく思い出されます。

9月にはジェーン台風が関西を襲い、死者225人、家屋の全半壊4万戸に達しました。尚この頃、アメリカ式に台風には女性の名が付けられていました。その年の1号からアルファベット順です。

この年のヒットソングは岡本敦郎の「白い花咲く頃」、二葉あき子の「水色のワルツ」、山口淑子の「夜来香」等です。映画では「羅生門」の他、「又逢う日まで」「帰郷」などです。「又逢う日まで」では岡田英二と久我美子のガラス越しのキスが話題となりました。

この記述を見ても1950年には貧しいながらほぼ正常な社会に回復してきたことが分かります。

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