正月ついたち、わらはども鶯鳴きつといへば、余も聞てむと窓あけ、しばらくうちまもりをりけれど、今一声だにせず。わらはども、おのれらは聞つる物を、あやにくなるものかなといひあへり。くちをしう思へどすべなし
春もまだ む月の中の うぐひすは 面えりしつつ 鳴にや有らむ (二四四)
柳弁春
そことなく 青む六田の 柳原 めにたつばかり 春もなりにき (二四五)
花参差
隙あらく 見し枝々も 花と花 からまりあひて 咲ぞうめける (二四六)
宝石山にゆきけるに、あるじよろこびて、ねもごろにもてなす
摘とりし 春の園生の にひ木芽 にひ試を われにさせける (二四七)
みさかなは なにはあらめど こゆるぎの 急ぎ搰きて 煮たるたかんな (二四八)
松田真信が、はじめて江門へ物するに
めづらしき 野山野山の 秋草に うひ旅衣 すりつつやゆく (二四九)
月前虫
身ひとつの 秋になしてや 蟋蟀 なきあかすらむ 月の夜な夜な (二五○)
雨中鹿
鹿の音の しをれがちにぞ 聞れける 在明の月や 雨に成けむ (二五一)
農
暇なの 田廬のしづの なりはひや 昼は茅かり 夜は綯索ひ (二五二)
二月十日、本保に物して、河野氏にやどりて有けるに、十二日より風ひきて、うち臥たりけるを、薬の事などあるじのあつかひ物しくれけるにより、からうじて十九日の朝、病床おき出たりけり。さるをりしも今歳は寒さはげしうて、鳴んものとも思はでありける鶯の、めづらしう二声三声しけるは、いつはあれどうれしうて
うぐひすも うかれや来つる 立そめて 我もうれしき 今朝の朝床 (二五三)
本保にて蛍のむらがれるを見て
花さそふ 風に吹るろ ここちして ほたるわけゆく 野路の川ぞひ (二五四)
水風凉
枕より あとより通ふ かぜのよさ 水ある宿の 竹のしたぶし (二五五)
やよひばかり、本保の河野氏にやどりをりけり。あるじ事しげしとてあらぬがちなるに、よそ人はたひとりだにとぶらひくるなく、おのれひとり宿もりしをりて、いとさうざうしう物しける時
世の人の 花見る春の すくなさに おもひくらぶる 我月日かな (二五六)
閑居時雨
曉も 待たでしぐれに なりにけり 窓もる月を さへしむら雲 (二五七)
古寺鐘
麓寺 かはらのいろも かつ消て 夕ぎりがくれ ひびく鐘の音 (二五八)
忠臣待旦
百しきや 御はしのうへの 朝霜を 人に後れて 踏し日もなし (二五九)
秋山路
朝かぜに ゆられて落る ささ栗に 小笠うたるる 秋のみ山路 (二六○)
市
なにひとつ うることもなく 空手にて 辰の市人 おほきなりけり (二六一)
赤
賤が家 這入せばめて 物ううる 畑のめぐりの ほほづきの色 (二六二)
山家床
土の牀 むしろの上に きしかたも 行末もなく いびきかくらむ (二六三)
をりにふれてよみつづけける
起臥も やすからなくに 花がたみ 目ならびいます 神の目おもへば (二六四)
吹風の 目にこそ見えね 神々は 此天地に かむづまります (二六五)
いかで我 きたなき心 さりさりて 神とも神と 身をなしとげむ (二六六)
亀
はひ出て 甲をぞならぶる 族の おほさくらべや 亀も始むる (二六七)
擣衣
槌をだに とる手たゆげに する子らも 衣うちならふ 里のならはし (二六八)
とほつ人 思ふ心を 手力の かぎりにこめて うつやさごろも (二六九)
烟艸
春野やく しわざおぼえて 艸燃す けぶりの靡き おもしろき哉 (二七○)
山家樋
うきふしは ぬけて見ゆれど 筧竹 猶よの中の 外は流れず (二七一)
納涼
口あそび いひあふ賤の 門すずみ 暑さわすれの すさびとはなし (二七二)
鹿声近
はしたなく しか鳴たてて 山里の 垣ねすぎゆく 此夜ごろはも (二七三)
暮山雪
墨ぞめの 夕の雲に まとはれて 白さあらはす 嶺のうすゆき (二七四)
閑庭霜
庭中に 来たつ狐の もの音を 枯生の霜に 聞く夜さむしも (二七五)
夏よみける謌の中に
遣水に 来てはひたれる 村鴉 こぼすはがひの しづく凉しも (二七六)
秋庭
秋の雨 一ふりかへて 庭のさま 見する紅葉の 今朝の色かな (二七七)
わらはの、朝いしつつなきいさちけるを、いたくさいなみ、うちたたきなどしける時
撫るより うつはめぐみの 力いり あつかる父の たなうらと知れ (二七八)
岡部君の江戸へゆき給ふによみてたてまつれる
み出たち つづく小笠の はるばると かくれゆくまで うちながめをり (二七九)
贈正三位正成公
一日生きば 一日こころを 大皇の 御ために尽す 吾家のかぜ (二八○)
藤原忠文卿
荒駒の 艸かむ音に 何がしの 宿直する夜と 人もしりけむ (二八一)
袈裟のまへ
夕霜に 身はさかるれど 鴛鴦の つま思ひ羽は あだに重ねず (二八二)
三月
おそかるも 此一月を せきにして ひとり桜の 時になしつる (二八三)
砂月凉
そとの浜 千さとの目路に 塵をなみ すずしさ広き 砂上の月 (二八四)
蓮含露
たたまりて 蘂まだ見せぬ 葩の ぬれ色きよし 蓮のあさ露 (二八五)
竹画
葦といひ 楊と見つつ 力いれし 心のたけを しらぬがちなり (二八六)
秋風
ともしびを かすめて過る 一かぜも 秋になりたる 閨のふしよさ (二八七)
新樹
ほととぎす 一鳴なきて くぐりつる 枝見るたびに なつかしの陰 (二八八)
閏八月ばかり、多田氏にさそはれて宝石山に行て、日くるるまであそびて
白雲は ゆふべの山に かへれども 立いでむとも 人はまだせず (二八九)
擣衣処々
さえわたる 星よりしげき 槌数に きぬうつ里の 多さをぞ知る (二九○)
辻春生、今日、歌の会ものすべきなりしを、にはかに江戸なる叔父みまかりけるにより、この会のぶべきよしいひおこす。やがて、もにこもらひをる、とぶらふついでに、今たびのまうけの題、古寺紅葉を、傷み歌になずらへてかく
見に来よと きのふいひける 山寺の もみぢちりぬと 聞くはまことか (二九一)
今とし、父の三十七年、母の五十年のみたままつりつかうまつる
顕はさむ 御名はかけても 及びなし 身の恥をだに 残さずもがな (二九二)
なにをして 白髪おひつつ 老けむと かひなき我を いかりたまはむ (二九三)
いひがひも なき身のうへを わび泣て 御墓のもとに うづくまるかな (二九四)
みいかりを なごめまつらむ すべなさを くりごとしつつ よよと泣くかな (二九五)
柞葉の かげに五十の 翁さび のこるかひなき 霜の下くさ (二九六)
富田礼彦がむすめのみまかりけるとぶらひに
墨をすり 木の芽を煮やし 朝夕に つかへし容儀 忘れかぬらむ (二九七)
日高万二満が筑前国にかへるに
君が今朝 門出につくる 雪の上の 跡だにしばし 残れとぞ思ふ (二九八)
雪朝遠樹
あけはつる 空にとぢめし 夜あらしの 行へしづけき 杉むらのゆき (二九九)
いまはなき人となりにたり。府中の山本の叔父が、おのれ本保の里にものすといひけるをり、かしこには吉野瀬の橋、いとあやふきところなりけり。いたく心づかひせよと、いひさとされけるを、此はしわたるたびごとに、老人のせちにいたはり給へりしこころのほど、身にしむばかりぞ思ひいださる。今日またここに来かかりて
こころせよと いひし一言 いつもいつも おもひぞわたる よしのせの橋 (三○○)
ここすぎて、道すこし行けるに、島崎土夫がおのが旅居とぶらひに、本保にとて来けるにあふ。土夫、よし翁おもふかたへ行け。我も今日一日のうちにはかへらであらるべきにあらず。いでここにて別れんといはる。しかせむもほいたがふわざなり。さらば本保まで来たまへ。おのれも立かへり通雄がりゆきて、しばしだにうちかたらひ、さて、ともかくもはからひたらんよからましと、道のかたへにたたずみつつ、いひをるあひだに
いざ来ませ 通雄が家は 酒もあり あるじにこひて 飲て別れむ (三○一)
ここにて相わかれ、おのれ府中のかたへ行けるが、途のほどにて、土夫主の福井さしてゆかれける。行へはるかにながめやりて
日は暮れぬ 山も見わかず なりにけり 別れし人は いづくゆくらむ (三○二)
妓院雪
庭の雪 たはれまろがす 少女ども 其手は誰に ぬくめさすらむ (三○三)
侠家雪
真荒男が 手どりにしつる 虎の血の たばしり赤し 門のしら雪 (三○四)
まれ人を 屋所にのこして 鳥うちに 我は出ゆく たそがれのゆき (三○五)
須賀原の三月三日初弓のいはひといふことものするに謌こはれて
弓といふ 物は男児の とるものと ちごも心の いさみてや見る (三○六)
飛騨国山崎弘泰みまかりけるよし、富田礼彦が告おこせける時、弘泰は荏名翁の教子にてぞある
おなじ枝に やどりて在し 友鴉 一つ失せたる ゆふべさびしも (三○七)
薔薇
羽ならす 蜂あたたかに 見なさるる 窓をうづめて 咲くさうびかな (三○八)
海棠
くれなゐの 唇いとど なまめきて 雨にしめれる 花のかほよさ (三○九)
楳子
雨つつみ 日を経て あみ戸あけ見れば 摽て梅あり その実三つ四つ (三一○)
篆刻をたくみにして、行脚をむねとしをる江戸人、轟松居が四十賀に歌こひければ
花にふれ 月にかたしく 旅ごろも かくて千とせも 重ね行らむ (三一一)
杣人
うつばりに とる木は無しと 杣といふ 杣に入る子も いひてなげきつ (三一二)
佐野君の婚姻
ちとせもと ちぎる夜床に うちかはす 妹脊の袖や 鶴の毛ごろも (三一三)
海辺夏月
ひたりくる 月のかげさへ ととのひて 波間すずしき 蜑の呼びごゑ (三一四)
月あかき夜ひとり夜ふかしをりて
浮雲の こころにかかる 空ならで 今よひばかりの 月を見まほし (三一五)
閑居秋
芽子すすき はかなき花を 折かこふ 籬にあまる 秋の色かな (三一六)
痩て咲く 垣の朝貌 見るにつけ 秋くれかかる 伏屋をぞ思ふ (三一七)
関鶏
逢坂の 杉の下みち まだ闇き 鶏の音ふみて こゆる旅人 (三一八)
橋蛍
ながれくる ほたるの影も あらだちて 水音すごし 兎道の川橋 (三一九)
江戸人高橋氏、本保に年ごろ居けるが、こたび、うからこぞりて江戸へかへるに
一日経ば 一日ちかづく 故さとの 空なつかしみ 道いそぐらむ (三二○)
同じ時そのむすこ直言に
小笠とり 杖たてまつり たらちねに 心をつくせ 岐蘇の山道 (三二一)
初尾花
旅びとの かち行野路の はつをばな はつはつ笠に 垂かかるなり (三二二)
出雲国人小川正海のその国へかへるに
をりもあらば 二たび君を 三保岬 羅摩の船の たよりもとめて (三二三)
秋ばかり杓谷にあそびて、酒のみ酔のまぎれに、かたはらにおほきやからなる石のあるに、戯れかきける
あかくなる 顔うちふりて 秋山の まだ酔ざるを あざ笑ふかな (三二四)
青牛翁の許とぶらひてありけるついで、ことさらにこひて、書画どもとり出させ見ける時
品さだめ いひこころみて 古びたる 物あまたに 見もてゆくかな (三二五)
古ものの 中に君をも すゑおきて 今の世ならぬ 品と見るかな (三二六)
川津君の、女郎花もらひに人おこせけるを、をしみてやらで、うたよみてつかはしける
さき出て まだいはけなき をみなへし いかでか君に まかせらるべき (三二七)
ひた土に莚しきて、つねに机すゑおく、ちひさき伏屋のうちに、竹生いでて、長うのびたりけるを、其ままにしおきて
壁くぐる 竹に肩する 窓のうち みじろぐたびに かれもえだ振る (三二八)
膝いるる ばかりもあらぬ 艸の屋を 竹にとられて 身をすぼめをり (三二九)
癸亥のとしの八月廿九日、はじめて歯一つおちけるを見て
ふけにける 吾身の秋を まだ知らで 落葉あやしむ 痴をの子かな (三三○)
上月景光君の都に在るに、よみておくりける、人より物ききたることなどもありて、いさめいはまほしう思ひををるころなりけり
故郷の 垣根の秋に 見かふるな みやこの花に 目はうつるとも (三三一)
明日香川 淵をあさすな 流れては 尽やすからむ せに心して (三三二)
中根君のかうじかうぶりて、こもりゐ給ふころ、ひとりごとによみつづけける
秋雨に うちしをれては 君が屋の あたりの空を ながめやるかな (三三三)
年魚とると 網うち提げ 川がりに 行ます時に なりけるものを (三三四)
秋の花 それもなにせむ 折とりて 見すべき君に 見せられもせず (三三五)
道とほく 隔てはせざる 月かげを へだたりて見る 此ごろの空 (三三六)
雁がねの 聞ゆるたびに 見やれども 玉章かけて 来たれるはなし (三三七)
十三夜
おくれたる 影とはなさぬ 心より 月を今宵の 空にまたれき (三三八)
鹿声遙
とほざかる かたちのみかは 声もしか ちひさくなりて 野べを行なり (三三九)
長月ばかり、府中の山本氏の女ども、これかれひきまとひきて、此庵にやどりたること有けり。着すべき夜の物など、かねて人のもとよりかりきて、其まうけしおきけるに、思ひかけざるをの子ひとりそひきて、それにきすべき物なし。日くれてなりければ、またかりに行んもびんあしきにより、ありあふ今滋がのをその男子に着せて、今滋はおのがふしどの中にいれて寐さす。わらはなりしほどこそさしてもあらるれ、今はおほきなるからだになりぬれば、ひとりひとりがみじろぐたびに、よるの物よりはづれて、肩さきあらはれ、ともすれば、こわき手足つきあてなどして寐まどふままに、かの柳沢淇園の、堪忍は執行せざれば身に感ぜざるゆゑに、よく忍ぶことなりがたし。予も堪忍を守ることを思ふに、乗合の舟ばかり、事になるるに便りよきことはなしと思へば、京より夜舟にて浪華にあそび、浪華よりも又舟にて京へのぼりつつ、ひたぶるに堪忍の稽古せり。人の世にある、乗あひて泊りしをりを思ひいづれば、いかほどの不自由も忍ぶに堪ざる事なかるべし。夜泊のせつなさ膝ををりて足を縮め、人の足を枕として押あひ、睡らむとすればゆすり起され、すこしまどろむと思へば、鼾に目さめて、起臥ともにまかせずと、雲萍雑誌といふものにいはれたることのあるを、げにもと思ひいでつつねどころの中にて
わびしかる 物の譬に ひくふねも かかるうき寐を しやはならへる (三四○)
府中の松井耕雪が、大きなる黒木もてつくりたるひをけくれけるを、膝のへにすゑおき、肱もたせ頬づゑつきて、朝夕の友とす
撫やまぬ 火桶のいろに ならひもて みがきをゆかむ うたの上をも (三四一)
よそありき しつつ帰れば さびしげに なりてひをけの すわりをる哉 (三四二)
旦暮に なづる火桶を 巌にて つきぬこと葉を おもひめぐらす (三四三)
見ありきし ひるの野山の 物がたり ひをけにいひて 夜を更すかな (三四四)
つれづれなるままに
一人だに 我とひとしき 心なる 人に遇得で 此世すぐらむ (三四五)
うまれつき 拙き人に まじらへば わかれて後も ここちあしきなり (三四六)
我がりきて 人あしくいふ 人はまた 人がり行て 我をそしるひと (三四七)
寒艸
枯のこる 茎うす赤き 𦱉の 腹ばふ庭に 霜ふりにける (三四八)
田家灯
賤どちの 夜もの語りの ありさまを 篁ごしに 見するともし火 (三四九)
本保の河野氏に、日ごろやどりをり、暁がた寐どころ中にて
朝出いそぐ 旅寐ならねば 鶏の 声も夜中に なして打きく (三五○)
銭乏しかりける時
米の泉 なほたらずけり 謌をよみ 文を作りて 売りありけども (三五一)
暮秋虫
聞く夜あり 聞ざる夜あり 秋のむし 鳴やむころに なりやしぬらむ (三五二)
咏剣
弱腰に なまもの着る 蝦夷人 我日本の 太刀拝み見よ (三五三)
七重にも 手もて曲げなば まがるらむ 蝦夷国の 太刀は剣かは (三五四)
社頭雨
古社 ありと知られで 見ゆる火の 影ものすごき 山ぞひの雨 (三五五)
水上月
掌に むすびあげたる 水の月 さてたもたるる よしの有れかし (三五六)
梅雨留客
子規 ならねど稀に 声ききし 君はかへさじ さみだれのそら (三五七)
山行伴鹿
日ごろ来る 我をば知りて 秋の山 鹿も袂に 角たれてよる (三五八)
雨中旅
艸まくら つかれて寐たる 宇都の山 うつ雨くるし 菅の古がさ (三五九)
落葉
柴門 しばしたたずむ 足もとを 木葉に埋む 一あらしかな (三六○)
池水鳥
津国の こやとかたみに 呼かはし 鳴かはすらむ 池の鴛鴦 (三六一)
辻氏の双松閑戸
紅藍の 塵を二樹の 松の葉に うづめさせたる 庭の山ざと (三六二)
花下会友
かはらけの 酒にも山の さくらにも 散るといふことを いとふ木の本 (三六三)
松岡幸山長遠、この九月十六日みまかりけるよし、聞てとぶらひに物しけるに、その妻なる者、わづらひて有けるほどに、ありとありし事ども、かき崩しいひいでて、いたう歎きけるありさま、いとあはれになん。長遠世にありし時、神世ながらの医道のはやう亡せて、古き医書といふ物の世に伝はれるが無きをいたく歎き、たらはぬながらに大同類聚方のただ一部、今も世にのこれるを、大綱にとりて、なほあだしもろもろの書どもにつきて、いささかも此道によしある事のあらんを取ひろひ、一つの医書著さんと思ひおこして、貧しき身ながら其事にかかづらふことだにいへば、得がたき書をも遠きさかひより、もとめ出しなど、おふなおふな力を尽して、今はその書、かねてのあらまし、なかばに過て綴り出けるものから、なほ全くはなしをへで有けるを、思ほへずうちわづらひて、はかなく成りにたる。妻なる者に、しかじかのふみいづこにかと、とひけるに、涙こぼしつつ文筺どもさぐりめぐりて、七册の文とり出だす。見もてゆくに、おのれは医のことしらねば、つくりざまのよしやあしやは見わかねど、薬名病名をはじめ、よろづいりほがなる事どもを、皆、皇国語もて仮字がきに物したるさま、皇国念ひの志のまめまめしさ、たふとしともたふとし。いつばかりにかありけん、ここに来けること有けるに、かつがつかきつづりたる物とり出し見せて、記ざまいかに思ひ給ふらん、などいひたりしことのありけるなど思ひ出られて、袖うちしぼらるるに、妻なる者また、かの人今といふきはにも此文のこといひ出て、今三巻ばかりになりにたるを、くちをしく書をへで、我は目ふたぐことよと、うちなげきつつ、やがてなくなりぬるにこそと、うちかへしうちかへし、語るをきくに、むねふたがるを、せめてねんじて謌をだにとて、霊代のまへにたむく
一部の 文かきをへむ 程をだに この長遠を 世には在らせで (三六四)
一ともに 満ちたらずとて なげかめや 世に無き文を かきし七巻 (三六五)
書き継む 人また有て 汝が功績 つひには全く ならむ行すゑ (三六六)
えみし唐土 きたなき国の 術からぬ くすしの書を 一人書出づ (三六七)
寒艸
うつりゆく 下葉いかにと 見けるまに 霜いただきつ 庭の萩原 (三六八)
松田信言が都へ出たつに、五月ばかりにまかへり来べういふ
待わぶる 心をくみて ほととぎす おのがさ月の をり違はすな (三六九)
其ところしり給ふ君よりたまはりたる牡丹の絵に、うちそへおくべき謌よみてくれよと、ある人のもとよりこひけるにより、よみてとらせける
みめぐみの 露余りある うれしさを 蘊み洩して 開らく葩 (三七○)
大きなる 花のうへにも おきあまる 恵の露の 色ふかみ草 (三七一)
伊藤千村主のみまかりけるに
青葉山 なく時きぬる ほととぎす 今歳は君に 聞せざりけり (三七二)
林美鷹がみまかりけるに
君ひとり また無くなりし 友の数 ふやして我を 泣かせつるかな (三七三)
覊中更衣
あらたむる 衣ひとつも なつこだち 若葉に慙る 旅すがたかな (三七四)
宰相君よりたまはりたる題、待雪
初雪の ふりなつかしく 見なされむ をりをはたさぬ 冬枯の庭 (三七五)
江樓流蛍
ながれては 水もほたるも 釣殿の 簀子の下を くぐりあひけり (三七六)
剣
水奔る 白蛇なして きらめける 焼太刀見れば 独えまれつ (三七七)
真宗寺君の男児うませけるに
獣みな 膝伏せさせむ 獅子の声 生れながらに 立つる児かな (三七八)
瀑布
茂りあふ 青葉々々を 吹ゆすり 伊吹吹かくる 水煙かな (三七九)
ある寺
何ごとも 時ぞと念ひ わきまへて みれど心に かかる世の中 (三八○)
忘むと 思へどしばし わすられぬ 歎きの中に 身ははてぬべし (三八一)
人のこひによりよめる三社のうた
伊勢大宮
神樹葉の 蔭ものふかき 五十鈴川 骨身にしみて 清し尊し (三八二)
石清水
男山 さかゆく御世を 常磐に 見そなはすらむ 峰の神墻 (三八三)
春日山
かすが山 ふもとの芝生 踏ありく しかのどかなる 神やしろかな (三八四)
大国主神
八十神に ひとりおくれて 負たまふ 帒にこもる 千のさきはひ (三八五)
事代主神
天地と ともに久しく 天皇の 御尾前つかへ 国まもる神 (三八六)
護摩堂といふところの蔦のもみぢ見に、人々とともに物したりけり。近きころ心なきものの苅はらひたりけるよしにて、蔦なくなり、巌のあたりいとさうざうしう見ゆ。さりとて、いたづらに帰らんもくちをしう思ひて、此山の石ほり出すことをなりはひとする男の子どものをる、ちひさきいほりにいり、酒あたため、かはらけとりめぐらしなどす。やうやうゑひごこちすすみゆくままに
もみぢ葉の 今は見られぬ 岩上も つたなしとせず 酔る顔ばせ (三八七)
寒樹交松
色あせぬ 松にまじりて からみあふ 枝ぶりむき 木がらしの杜 (三八八)
瀑布
かつふれて 巌の角に 怒りたる おとなひすごき 山の滝つせ (三八九)
源義家朝臣
年を経し 糸のみだれも 君が手に よりて治し 東の国 (三九○)
西行
心なき 身にもあはれと 泣すがる 児には涙の かからざりきや (三九一)
暁時雨
窓くらく にはかに成て 在明の 月をよこぎる 村しぐれかな (三九二)
島崎土夫主の、軍人の中にあるに
妹が手に かはる甲の 袖まくら 寐られぬ耳に 聞くや夜嵐 (三九三)
帰りこば 脚結の紐も とかぬまに 先顔見せよ 待つつあるぞ (三九四)
朝夕に あひて語らふ 君こねば さびしき庵に さびしくぞ居る (三九五)
上月君のとほき国にあるに
海中に 風にあへりと 聞からに 立さわがれつ 我こころさへ (三九六)
白雪の ふるにつけても ふる人の 遠き旅路に 在るをこそ思へ (三九七)
同じ時河津君の許に
浪華海 船出はなれぬと 聞しより 我も心の ただよひてのみ (三九八)
日数あまた 大海の上に ただよへる 心いかばかり わびしかるらむ (三九九)
佐野君のもとに
君はやく 帰れをとのみ 思はれつ み母のみ顔 見るたびごとに (四○○)
荒波に ただよひぬれど つつがなく 舟つきたりと 聞ぞうれしき (四○一)
佐々木久波紫主の許に
舟出すと 聞つる日より 難波の海 なには思はず 君をのみこそ (四○二)
年も今は 立かへり来と いふなるを 何時ばかりかは 君顔見する (四○三)
畑中君のもとに
大かたの 旅だにあるを いかにして とほき舟路に 君をやりけむ (四○四)
髪白き 翁にてます 父君を おきて行つる こころいかならむ (四○五)
宮北君の許に
黒駒に のりて行つる 後かげ 目にある君の いまはいづくに (四○六)
日に三たび 駒あゆませて 来かよへる 顔をば早く みやの北の君 (四○七)
松田真信主の府中に軍人の中に在るに
遠からぬ あたりには在れど 顔見ずて あれば千里を 隔るも同じ (四○八)
妹も子も まつ田の君を 草枕 旅路におくが うれたかりけり (四○九)
ある時
水車 ころも縫ふ世と なりにけり 岩根木根立 物言ひいでむ (四一○)
洛東岡崎の尚綱のもとより、都にのぼり来よと、あまたたびいひおくりける、かへりごとに
春たたば 谷のうぐひす 出たたむ 友を求むる 声をたよりに (四一一)
都に久しう物しをる佐藤誠がもとよりも、尚と同じさまに、おのれに都に上るべくいひさとせるかへりごとに
さそふらむ 水のまにまに 浮艸の 身は何所へも よすべかりけり (四一二)
辻春生主の今荘駅に軍人の中にあるに
夜昼と むらがる人を 呼たてて 声うちからし かけめぐるらむ (四一三)
吹あるる 嶺の夜あらし 火矢の音 寝ま有とも いかで寝れむ (四一四)
竹内篤主のいくさ人の中にあるに〔此ぬし妻を迎へて日かずいくばくもあらぬほどに出たちて行たるなりけり〕
太刀とりて いづこへ行し あひそめて まだ日もあらぬ 妹を打すて (四一五)
正月八日青牛翁御使にて
宰相君より煙艸賜りたりけり、御謌さへそへさせ給へりけり。その御謌は「安御代は竈の煙のみならでけぶりくゆらせ賤が伏屋に」とあそばしたりけり、いとかしこくいただきまつりて、かく
煙ぐさ 賤が伏屋に くゆらせて 君のめぐみに 咽ぶあさゆふ (四一六)
山口清香に筆かりて、返しにもて行たりけるに、途にておとしたりけん、かしこにいたりてふところ探れど筆見えず。いかにともすべきやうなくて、かく
うれしさを つつみ余れる 袖なれば 筆もたまらで すべり落にけむ (四一七)
辻春生主の、ことにめさげられたりけるいはひに
忠実ごころ つかへの道に 尽しけむ いさをのしるし 顕れにけり (四一八)
雨中新竹
風ふけば かよりかくより まろび落る 露もなまめく 雨の若竹 (四一九)
冬埜
倒れたる 薄くぐりて 行く水の 末もさびしき 野辺の冬がれ (四二○)
夜虫
つづりさせ いつまで呼て 此虫は 寝ること知らに 夜を明すらむ (四二一)
或日、多田氏の平生窟より人おこせて、おのが庵の壁の頽れかかれるをつくろはす。来つる男のこ、まめやかなる者にて、此わたりはさておけよかめりと、おのがいふところどころをも、ゆるしなう机もなにもうばひとりて、こなたかなたへうつしやる。おのれは盗人の入たらん夜のここちして、うろたへつつ、かたへなるところに身をちひさくなして、此をの子のありさま見をる。我ながらをかしさねんじあへで
あるじをも ここにかしこに 追たてて 壁ぬるをのこ 屋中塗りめぐる (四二二)
十五夜、れいよりもいとあかくて、窓に入るかげこよなき物から、誰ひとりとひ来る人もなく、なかなかにさうざうしう思ひ、よひよりうちふしけるが、寐どころの中にて
寐てあかす をしさはあれど 此月を いたづら人の 見ふかすもうし (四二三)
月
盞の かずもあまたに 成にけり 酣すぎて めぐる月かげ (四二四)
橋苔
目をわたす たよりばかりと 見られけり 苔になりたる 谷の古はし (四二五)
中根君の、開発といふ里にしるよしして、狩に行給へるみともにて、そこなる賤が家に入たりけり、あるじとおぼしきをの子、とく門の外にはしり出て、みむかへつかうまつりなどするさまを見て
めぐまるる 身のうれしさを あらはして 膝折伏する 賤が笑み顔 (四二六)
やがて瓶子もて出て、海山の物をつくしてけうす
みさかなは なによけむとて かはらけを 君のつづきに 我にさへくる (四二七)
夜ふけて帰り給ふに、物がたり打しつつみともつかうまつる
月かげを ふむふむ歩む 川ぞひの 道は帰さも いそぐものかは(四二八)
ひひなのかたに
少女子が 妹背の道の うひまなび つきづきしくも ならべもてゆく (四二九)
朝夏艸
暑き日に よれし草葉も 朝露の ひるま忘れて 起かへりつつ (四三○)
夏月透竹
なつの夜の 月の初霜 おきあかす 竹の下陰 さむくも有かな (四三一)
宮北君の、艸庵とぶらひきて、帰り給はんとする門送り物しけるに、そこに繋れてある馬の手綱とりて、こは近きころ得つるなるが、心にかなひておぼゆるなり。いかに見給ふやとの給へる。おのれさるすぢにはうときものから、すぐれてたくましげになん見なさるる。やがてうち乗りて、一足あゆませ給はんとする時
千里ゆく 陸奥馬を われ得つと 鬣なでて 笑るますらを (四三二)
林下幽閑
日たけても 檜杉のおくの 檜皮ぶき 枝うつりして ふくろふの来る (四三三)
加賀国打越村某寺のこひによりてよめる、
弓波山十勝
栞湖朝晴
ことの海 しらべ調ふ うら波に にほひあひたる 朝日かげかな (四三四)
千松湾雨声
浜づたひ 砂たたきて 降る雨に こずゑ鳴りくる 松の邨だち (四三五)
茗圃香風
朝ゆふの 風も木芽の 春の香に うちふく頃と なりにける哉 (四三六)
七曲逕行人
蟻よりも ちひさく見えて 行人を ながめめぐらす 七めぐりかな (四三七)
菅神祠桜花
ちはやふる 神の御まへに 匂ひあひて 斎垣桜 咲ぞ出にける (四三八)
矢田埜積雪
胸わけに 分なやみ来る かち人に 矢田野の雪の 高さをぞ知る (四三九)
鐘楼晩靄
夕がすみ かかるさびしき 鐘の音に 今日もくれゆく 山寺の庭 (四四○)
御幸橋羣蛍
ここをせと 聚りくらむ 光もて 蛍も橋を つくる夜な夜な (四四一)
翠眉山落月
おちかかる 山辺の月を をしみ余り 暁露に 立ぞぬれける (四四二)
牛鼻崖漁燈
牛の鼻 すがたをかしき 岩角を 夜目にも見せて 続く漁火 (四四三)
花
さくら花 かくていつまで 看をりとも 飽く世といふは あらぬ成べし (四四四)
峰のはな 咲出る見れば 梢にも 立つづかれぬ しら雲のいろ (四四五)
蕚を つけずしもあらで 山ざくら 綻び鈍る こころにくさは (四四六)
蘭画
山に生て 人きらふらん 花の絵を みかはやうども 書く世なりけり (四四七)
門柳
陽炎の もゆる岡辺に つくる屋の かどの青柳 かぜに枝ふる (四四八)
藁ぶきに 鶏さけぶ 賤が門 一もと柳 ひるしづかなり (四四九)
青柳風静
打のぼる 佐保路のやなぎ 靡く見て 吹らむ風に 心づくかな (四五○)
露をだに ゆりはこぼさぬ 春かぜを 小枝にもちて なびく青柳 (四五一)
雲雀
うち振ふ はねも心の すすむには おくるといひて ひばり鳴らむ (四五二)
人にしめす
眼前 いまも神代ぞ 神無くば 艸木も生じ 人もうまれじ (四五三)
底本:「新修橘曙覧全集」(株)桜楓社
1983(昭和58)年5月25日 初版発行