曙覧の歌

正岡子規


余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて俊頼としより集、文雄ふみお集、曙覧あけみ集を見よという。それかくいうは三家の集が尋常歌集に異なるところあるをもってなり。まずみなもとの俊頼の『散木弃歌集さんぼくきかしゅう』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。次に井上文雄の『調鶴ちょうかく集』を見てまた失望す。これも物語などにありて普通の歌に用いざる語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。最後にたちばなの曙覧の『志濃夫廼舎しのぶのや歌集』を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。その歌、『古今』『新古今』の陳套ちんとうちず真淵まぶち景樹かげき窠臼かきゅうに陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事さじ俗事を捕えきたりて縦横に馳駆ちくするところ、かえって高雅蒼老些そうろうさの俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆きょうおくくもの、もって識見高邁こうまい、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。
 曙覧の事蹟及び性行に関してはいまだこれを聞くを得ず。歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳まつだいらしゅんがく挙げて和歌の師とす、推奨もっともつとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋ろうおくの中に住んで世とれず。古書こしょ堆裏たいりひとり破几はきりていにしえかんがえ道をたのしむ。詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすのかたなく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気じんきを脱して世にびざるはこれがためなり。彼自ら詠じていわ

わが歌を よろこび涙 こぼすらむ 鬼のなく声 する夜の窓

灯火ともしびの もとに夜な夜な 来たれ鬼 わがひめ歌の 限りきかせむ

人臭き 人にきかする 歌ならず 鬼の夜ふけて ばつげもせむ

凡人ただひとの 耳にはいらじ 天地あめつちの こころを妙に らすわがうた

 何らの不平ぞ。何らの気焔きえんぞ。彼はこの歌に題して「戯れに」といいしといえども「戯れ」の戯れにあらざるはこれを読む者誰かこれを知らざらん。しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛ばんこく涕涙ているいたたうるを見るなり。ああこの不遇の人、不遇の歌。
 彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳自記じき』の文につまびらかなり。その文に曰く
橘曙覧の家にいたる詞
おのれにまさりて物しれる人は高きいやしきを選ばず常にあい見て事尋ねとひ、あるは物語をきかまほしくおもふを、けふはこの頃にはめづらしく日影あたたかに久堅ひさかたの空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしとつづみうつ頃より野遊のあそびに出たりき、三橋といふ所にいたる、中根師質なかねもろただあれこそ曙覧の家なれといへるを聞て、にわかにとはむとおもひなりぬ、、師質心せきたるさまして参議君の御成おなりぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじものひざ折ふせながらはひいでぬ、すこし広き所に入りてみればおち千文八百ちふみやお人丸ひとまろ御像みぞうなどもあやしき厨子ずしに入りてあり、しずこの時扇一握いちあく半井保なからいたもつにたまひて曙覧にたびてよと仰せたり、おのれいへらく、みましの屋の名をわらやといへるはふさはしからず、橘のえにしあれば忍ぶの屋とけふよりあらためよといへり、、かたちはかくまずしくみゆれどその心のみやびこそいといとしたはしけれ、おのれは富貴の身にして大厦たいか高堂に居て何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく心は寒く貧くして曙覧におとる事更に言をまたねば、、今より曙覧の歌のみならでその心のみやびをもしたひまなばばや、さらば常の心のよごれたるを洗ひ浮世のほかの月花を友とせむにつきつきしかるべしかし、かくいふは参議正四位上大蔵おおくら大輔たゆう朝臣あそん慶永よしなが元治二年衣更著きさらぎ末のむゆか、館に帰りてしるす
 曙覧が清貧に処して独り安んずるの様、はた春岳が高貴の身をもってよく士に下るの様はこの文を見てよく知るを得ん。この知己あり。曙覧地下にめいすべきなり。
〔『日本』明治三十二年三月二十二日〕

 曙覧が清貧の境涯はほぼこの文に見えたるも、彼の衣食住の有様、すなわち生活の程度いかんはその歌によって一層つまびらかに知ることをべし。その歌左に
人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる

山吹の みの一つだに 無き宿は かさも二つは もたぬなりけり

 その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。
ひた土にむしろしきて、つねに机すゑおくちひさき伏屋ふせやのうちに、竹いでて長うのびたりけるをそのままにしおきて
壁くぐる 竹に肩する 窓のうち みじろくたびに かれもえだ振る

膝いるる ばかりもあらぬ 草屋を 竹にとられて 身をすぼめをり

 明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べくもあらず。(「草屋」を「草の屋」と読ませ「草花」を「草の花」と読まする例、集中に少からず。漢語にはあらず)
銭乏しかりける時

米の泉 なほたらずけり 歌をよみ 文をつくりて 売りありけども

彼が米代をもうけ出す方法はこの歌によりてやや推すべし。(「泉」は「ぜに」と読むべし)
ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのがいおの壁のくずれかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗人のいりたらん夜のここちしてうろたへつつ、かたへなるところに身をちひさくなしてこのをの子のありさま見をる、我ながらをかしさねんじあへて

あるじをも ここにかしこに 追たてて 壁ぬるをのこ 屋中塗りめぐる

 家の狭さと、あるじの無頓着むとんちゃくさとはこの言葉書ことばがきの中にあらわれて、その人その光景目前に見るがごとし。
おのがすみかあまたたび所うつりかへけれど、いづこもいづこも家に井なきところのみ、妻して水みはこばする事もかきかぞふれば二十年あまりの年をぞへにきける、あはれ今はめもやうやうおいにたれば、いつまでかかくてあらすべきとて、貧き中にもおもひわづらはるるあまり、からうじて井ほらせけるにいときよき水あふれづ、さくもてくみとらるべきばかりおほうあるぞいとうれしき、いつばかりなりけむ□「しほならであさなゆふなに汲む水もからき世なりとぬらすそでかな」と、そぞろごといひけることのありしか、今はこのぬれける袖もたちまちかわきぬべう思はるれば、この新しき井の号を袖干井そでひのいとつけて

ぬらしこし 妹が袖干そでひの 井の水の 涌出わきいづるばかり うれしかりける

 家に婢僕ひぼくなく、最合井もあいい遠くして、雪の朝、雨の夕の小言こごとは我らも聞きれたり。
独楽唫どくらくぎん」と題せる歌五十余首あり。歌としては秀逸ならねど彼の性質、生活、嗜好しこうなどを知るにはもっとも便ある歌なり。その中に

たのしみは あき米櫃こめびつに 米いでき 今一月は よしといふ時

たのしみは まれに魚て 児等こら皆が うましうましと いひて食ふ時

など貧苦の様を詠みたるもあり。
 文人のひんるは普通のことにして、彼らがいくばくか誇張的にその貧を文字につづるもまた普通のことなり。しこうしてその文字の中には胸裏にわだかまる不平の反応として厭世えんせい的または嘲俗ちょうぞく的の語句を見るもまた普通のことなり。これ貧に安んずる者に非ずして貧にもだゆる者。曙覧はたして貧に悶ゆる者か否か。再びこれをその歌詠に徴せん。
〔『日本』明治三十二年三月二十三日〕

 余は思う、曙覧の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきにあらざるもその不平は国体の上における大不平にして衣食住に関する小不平に非ず。自己を保護せずしてかえって自己を棄てたる俗世俗人に対してすら、彼は時に一、二の罵言ばりを加うることなきにしもあらねど、多くはこれを一笑に付し去りて必ずしも争わざるがごとし。「独楽唫」の中に

たのしみは 木芽このめにやして 大きなる 饅頭まんじゅうを一つ ほほばりしとき

たのしみは つねに好める 焼豆腐 うまくたてて くわせけるとき

たのしみは 小豆あずきの飯の ひえたるを 茶づけてふ物に なしてくふ時

 多言するをもちいず、これらの歌が曙覧ならざる人の口よりで得べきか否かを考えみよ。陽に清貧をたのしんで陰に不平を蓄うるかの似而非えせ文人が「独楽唫」という題目の下にはたして饅頭、焼豆腐の味を思い出だすべきか。彼らは酒の池、肉の林と歌わずんば必ずや麦の飯、あかざあつものと歌わん。饅頭、焼豆腐を取ってわざわざこれを三十一文字につづる者、曙覧の安心ありて始めてこれあるべし。あら面白の饅頭、焼豆腐や。
 安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虚飾あるべからず。余は更に進んで曙覧に一点の誇張、虚飾なきことを証せん。似而非えせ文人は曰く、黄金百万緡ひゃくまんびんは門前のくろ(犬)の糞のごとしと。曙覧は曰く

たのしみは 銭なくなりて わびをるに 人のきたりて 銭くれし時

たのしみは 物をかかせて き価 惜おしみげもなく 人のくれし時

 曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、あどけなくも彼は銭をもらいし時のうれしさを歌い出だせり。なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢むく清浄、彼の歌や玲瀧れいろう透徹。
 貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳しゅんがくはこれをへいせんとして侍臣じしんをして命を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきをなげき、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋竹笋ちくしゅんの間よりたしむるあたわざりしもの何がゆえぞ。謙遜けんそんか、傲慢ごうまんか、はた彼の国体論はみだりに仕うるを欲せぎりしか。いずれにもせよ彼は依然として饅頭焼豆腐の境涯を離れざりしなり。慶応三年の夏、始めて秩禄ちつろくを受くるの人となりしもわずかに二年を経て明治二年の秋(?)彼は神の国に登りぬ。曙覧が古典を究め学問にふけりしことは別に説くを要せず。貧苦の中にありて「机に千文ちぶみ八百文やおぶみうずたかく載せ」たりという一事はこれを証して余りあるべし。その敬神尊王そんのうの主義を現したる歌の中に
高山彦九郎正之

大御門おおみかど そのかたむきて 橋上に 頂根うなねつきけむ 真心まごころたふと

をりにふれてよみつづけける(録一)

吹風ふくかぜの 目にこそ見えぬ 神々は この天地あめつちに かむづまります

独楽唫(録二)

たのしみは 戎夷えみしよろこぶ 世の中に 皇国みくに忘れぬ 人を見るとき

たのしみは 鈴屋大人すずのやうしの 後に生れ その御諭みさとしを うくる思ふ時

赤心報国せきしんもてくににむくゆ(録一)
国汚す やっこあらばと 太刀ぬきて あだにもあらぬ 壁に物いふ
示人ひとにしめす(録一)

天皇すめらぎは 神にしますぞ 天皇の ちょくとしいはば かしこみまつれ

 極めて安心に極めて平和なる曙覧も一たび国体の上に想い到る時は満腔まんこうの熱血をそそぎて敬神の歌を作り不平の吟をなす。慷慨淋漓こうがいりんり、筆、剣のごとし。また平日の貧曙覧に非ず。彼がわずかに王政維新の盛典にうを得たるはいかばかりうれしかりけむ。
慶応四年春、浪華に
行幸あるにわが
宰相君さいしょうのきみ御供仕おんともしたまへる御ともつこうまつりに、上月景光主こうづきかげみつぬしのめされてはるばるのぼりけるうまのはなむけに

天皇の さきつかへて たづがねの のどかにすらん 難波津にゆけ

すめらぎの まれ行幸いでまし 御供みともする 君のさきはひ 我もよろこぶ

天使のはろばろ下りたまへりける、あやしきしはぶるひびとどもあつまりゐる中にうちまじりつつ御けしきをがみ見まつる

隠士も 市の大路に 匍匐はい ならび をろがみまつる 雲の上人

天皇の 大御使おおみつかいと 聞くからに はるかにをがむ 膝をり伏せて

勅使をさえかしこがりて匍匐はらばいおろがむ彼をして、一たび二重橋下に鳳輦ほうれんを拝するを得せしめざりしは返すがえすも遺憾いかんのことなり。
都にのぼりて
大行たいこう天皇の御はふりの御わざはてにけるまたの日、泉涌寺せんにゅうじもうでたりけるに、きのふの御わざのなごりなべて仏さまに物したまへる御ありさまにうち見奉られけるをかしこけれどうれはしく思ひまつりて

ゆゆしくも 仏の道に ひき入るる 大御車おおみくるまの うしや世の中

 曙覧は王政維新の名を聞きて、その実を見るに及ばざりしなり。
〔『日本』明治三十二年三月二十四日〕

 社会の一貧民としての曙覧、日本国民の一人としての曙覧は、臆測ながらにほぼこれを尽せり。ここより歌人としての曙覧につきて少しく評するところあらんとす。
 曙覧の歌は比較的に何集の歌に最も似たりやと問わば、我れも人も一斉に『万葉』に似たりと答えん。彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的くこれを模し得たる伎倆ぎりょうはわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその極点に達したるを、真淵まぶちら一派古学をひらき『万葉』を解きようやく一縷いちるの生命をつなぎ得たり。されど真淵一派は『万葉』を解きて『万葉』を解かず、口には『万葉』をたたえながらおのが歌は『古今』以下の俗調を学ぶがごときトンチンカンを演出してわらいを後世にのこしたるのみ。『万葉』がはるかに他集にぬきんでたるは論を待たず。その抽んでたる所以ゆえんは、他集の歌がごうも作者の感情を現し得ざるに反し、『万葉』の歌は善くこれを現したるにあり。他集が感情を現し得ざるは感情をありのままに写さざるがためにして、『万葉』がこれを現し得たるはこれをありのままに写したるがためなり。曙覧の歌に曰く

いつはりの たくみをいふな 誠だに さぐれば歌は やすからむもの

「いつはりのたくみ」『古今集』以下皆これなり。「誠」の一字は曙覧の本領にして、やがて『万葉』の本領なり。『万葉』の本領にして、やがて和歌の本領なり。我謂うところの「ありのままに写す」とはすなわち「誠」にほかならず。後世の歌人といえども、誠を詠め、ありのままを写せ、と空論はすれどその作るところのかえっていつわりのたくみを脱するあたわざるは誠、ありのまま、の意義を誤解せるによる。西行のごときは幾多の新材料を容れたるところあるいはこの意義を解する者に似たれど、実際その歌を見ば百中の九十九は皆いつわりのたくみなるを知らん。趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。
 されば曙覧が歌の材料として取りきたるものは多く自己周囲の活人事かつじんじ活風光かつふうこうにして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎しのぶのや歌集』を見る者のまず感ずるところなるべし。彼は自己の貧苦を詠めり、彼は自己の主義を詠めり。亡き親を想いては、「親ある人もあるに」と詠み、亡き子を想いては、「きのふたもとにすがりし子の」と詠めり。行幸の供にまかる人を送りては、「聞くだにうれし」と詠み、雪の頃旅立つ人を送りては、「用心してなだれにふな」と詠めり。たのしみては「楽し」と詠み、腹立てては「腹立たし」と詠み、鳥けば「鳥啼く」と詠み、いなご飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香ににおふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、見もせぬに遠き名所を詠み、しこうして自然の美のおのが鼻のさきにぶらさがりたるをも知らぬ貫之つらゆき以下の歌よみが、何百年の間、数限りもなくはびこりたる中に、突然として曙覧の出でたるはむしろ不思議の感なきに非ず。彼は何にりてここに悟るところありしか。彼が見しこと聞きしこと時に触れ物に触れて、残さず余さずこれを歌にしたるは、杜甫とほが自己の経歴をつまびらかに詩に作りたるとあい似たり。古人が杜詩を詩史と称えし例に俲ならわば曙覧の歌を歌史ともいうべきか。余が歌集によりてその人の事蹟じせきと性行とを知り得たるもその歌史たるがためなり。しかれども彼が杜詩より得たるか否かは知るによしなし。ただ杜甫の経歴の変化多く波瀾はらん多きに反して、曙覧の事蹟ははなはだ平和にはなはだ狭隘きょうあいに、時は逢いがたき維新の前後にありながら、幾多の人事的好題目をその詩嚢しのう中に収め得ざりしこと実に千古の遺憾いかんなりとす。
〔『日本』明治三十二年三月二十六日〕

『古今集』以後今日に至るまでの撰集、家集を見るに、いずれも四季の歌は集中の最要部分を占めて、少くも三分の一、多きは四分の三を占むるものさえあり。これに反して四季の歌少く、ぞうの歌のいちじるしく多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以ゆえんなり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際よりづ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋の歌も全く題詠となり、雑の歌も十分の九は題詠となりおわりぬ。曙覧の歌すら四季のには題詠とおぼしきがあり、かつ善からぬが多し。題詠必ずしもしとに非ず、写実必ずしも善しとに非ず。されど今日までの歌界の実際を見るに題詠に善き歌少くして写実に俗なる歌少し。曙覧が実地に写したる歌の中に飛騨ひだの鉱山を詠めるがごときはことに珍しきものなり。

日の光 いたらぬ山の ほらのうちに 火ともしいりて かね掘出ほりいだ

赤裸まはだかの 男子おのこむれゐて あらがねの まろがり砕く つちうちふり

さひづるや からうすたてて きらきらと ひかるまろがり つきてにする

かけひかけ とる谷水に うち浸し ゆれば白露 手にこぼれくる

黒けぶり むらがりたたせ 手もすまに 吹鑠ふきとろかせば なだれおつるかね

とろくれば 灰とわかれて きはやかに かたまり残る 白銀の玉

しろがねの 玉をあまたに はこれ 荷緒にのおかためて 馬はしらする

しろがねの 荷おえる馬を ひきたてて 御貢みつぎつかふる 御世のみさかえ

 採鉱溶鉱より運搬に至るまでの光景仔細しさいに写しいだして目るがごとし。ただに題目の新奇なるのみならず、その叙述のたくみなる、実に『万葉』以後の手際なり。かの魚彦なひこがいたずらに『万葉』の語句を模して『万葉』の精神を失えるに比すれば、曙覧が語句をせずしてかえって『万葉』の精神を伝えたる伎倆は同日に語るべきにあらず。さわれ曙覧は徹頭徹尾『万葉』を擬せんと務めたるに非ず。むしろその思うままを詠みたるがおのずから『万葉』に近づきたるなり。しこうして彼の歌の『万葉』に似ざるところははたして『万葉』に優るところなりや否や、こはもっとも大切なる問題なり。
 余は断定を下していわん、曙覧の歌想は『万葉』より進みたるところあり、曙覧の歌調は『万葉』に及ばざるところありと。まず歌想につきて論ぜん。
〔『日本』明治三十二年三月二十八日〕

 歌想に主観的なるものと客観的なるものとあり。『万葉』は主として主観的歌想を述べたるものにして客観的歌想は極めて少かりしが、『古今』以後、客観的歌想の歌、次第にその数を増加するの傾向を見る。
 主観的歌想の中にて理屈めきたるはその品卑しく趣味薄くして取るに足らず。『古今』以後の歌には理屈めきたるが多けれど『万葉集』、『曙覧集』にはなし。理屈ならぬ主観的歌想は多く実地より出でたるものにして、古人も今人もさまで感情の変るべきにあらぬに、まして短歌のごとく短くして、複雑なる主観的歌想を現すあたわず、ただ簡単なる想をのみ主とするものは、観察の精細ならざりし古代も観察の精細に赴きし後世も差異はなはだ少きがごとし。ただ時代時代の風俗政治等々しからざるがために材料または題目の上には多少の差異なきにあらず。例えば万葉時代には実地より出でたる恋歌の著しく多きに引きかえ『曙覧集』には恋歌は全くなくして、親をおもい子を悼み時をなげくの歌などがかえって多きがごとし。
 曙覧の歌、よつになる女の子を失いて

きのふまで わが衣手ころもでに とりすがり 父よ父よと いひてしものを

 父の十七年忌に

今も世に いまされざらむ よはひにも あらざるものを あはれ親なし

髪しろく なりても親の ある人も おほかるものを われは親なし

 母の三十七年忌に

はふ児にて わかれまつりし 身のうさは おもだに母を 知らぬなりけり

 古書を読みて

真男鹿まおしかの 肩焼くうらに うらとひて 事あきらめし 神代をぞ思ふ

 筑紫人つくしびとのその国へかえるに

程すぎて 帰らぬ君と 夕占ゆうけとひ まつらむ妹に とくゆきて逢へ

 されど女を思うも子を思うも恋い思うとばかり詠む短歌にては、感情の切なるを感ずるほかなければ、いずれにても深き差異あるにあらず。この点におきて『万葉』と曙覧と強いて優劣するを要せず。しこうして客観的歌想に至りては曙覧やや進めり。
 四季の題は多く客観的にして、『古今』以後客観的の歌は増加したれど、皆縁語または言語の虚飾を交えて、趣味を深くすることを解せざりしかば、絵画のごとく純客観的なるは極めて少かり。『新古今』は客観的叙述においていちじるしく進歩しこの集の特色を成ししも、以後再び退歩して徳川時代に及ぶ。徳川時代にては俳句まず客観的叙述において空前の進歩をなし、和歌もまたようやくに同じ傾向を現ぜり。されども歌人皆頑陋がんろう偏狭へんきょうにして古習を破るあたわず、古人の用いきたりし普通の材料題目の中にてやや変化を試みしのみ。曙覧、徳川時代の最後に出でて、始めて濶眼かつがんを開き、なるべく多くの新材料、新題目を取りて歌に入れたる達見は、趣味を千年の昔に求めてこれを目睫もくしょうに失したる真淵、景樹を驚かすべく、進取の気ありて進み得ず逡巡ししょしゅんじゅんとして姑息こそくに陥りたる諸平もろひら文雄ふみおを圧するに足る。徳川時代の歌人がわずかに客観的趣味を解しながら深くその蘊奥うんおうに入るあたわざりしは、第一に「新言語新材料を入るるべからず」という従来の規定を脱却するあたわざりしにる。曙覧はまずこの第一の門戸を破りて、歌界改革の一歩を進めたり。
〔『日本』明治三十二年三月三十日〕

 曙覧が客観的景象けいしょうを詠ずるは、新材料を入れたることにおいて、新趣味を捉えしことにおいて、『万葉』より一歩を進めたるとともに、新言語新句法を用いしことにおいて、一般歌人よりは自在に言いこなすことを得たり。
秋田家あきのでんか

蚱蜢いなごまろ うるさくいでて とぶ秋の ひよりよろこび 人豆を打つ

とり詠十二時じゅうにじをよむの内)

夕貌ゆうがおの 花しらじらと 咲めぐる しず伏屋ふせやに 馬洗ひをり

松戸まつのとにて口よりいづるままに(録二)

ふくろふの のりすりおけと 呼ぶ声に きぬときはなち 妹は夜ふかす

こぼれ糸 さでにつくりて 魚とると 二郎じろう太郎たろう三郎さぶろう 川に日くらす

行路雨こうろのあめ

雨ふれば 泥ふみなづむ 大津道おおつみち 我に馬あり めさね旅人

古寺雨こじのあめ

風まじり 雨ふる寺の 犬ふせぎ しぶきのぬれに うつるみあかし

寒灯

ともすれば しずむ灯火ともしび かきかきて をうむ窓に あられうつ声

砂月涼さげつすずし

そとの浜 さとの目路めじに ちりをなみ すずしさ広き 砂上すなのうえの月

薔薇そうび

羽ならす 蜂あたたかに 見なさるる 窓をうづめて 咲くさうびかな

題しらず

雲ならで 通はぬ峰の 石陰いわかげに 神世のにほひ 吐く草花くさのはな

歌会の様よめる中に(録五)

人麻呂の 御像みかたのまへに 机すゑともしびかかげ 御酒みきそなへおく

設け題 よみてもてくる 歌どもを 神の御前に ならべもてゆく

ことごとく 歌よみいでし 顔を見て やをら晩食ゆうげの 折敷おしきならぶる

めせと すすめめぐりて とぼしたる 火もきえぬべく 人つきあたる

戸をあけて 還る人々 雪しろく たまれりといひて わびわびぞゆく

初午詣はつうまもうで

稲荷坂 見あぐるあけの 大鳥居 ゆりうごかして 人のぼり来る

「設け題」「探り題」「あき米櫃」「饅頭を頬ばる」「笑ひかたりて腹をよる」「畳かず狸のものの広さにて」「二郎太郎三郎」など思うに任せて新語新句をはばかり気もなく使いたるのみならず、「」「」「」などいうがごとく、詩または俳句には用うれど、歌にはいまだ用いざる新句法をも用いたるはその見識のぼんならぬを見るべし。「神代のにほひ吐く草の花」といえる歌は彼の神明的理想を現したるものにて、この種の思想が日本の歌人に乏しかりしは論をたず。(曙覧の理想も常にこの極処に触れしにあらず)一般に天然に対する歌人の観察は極めて皮相的にして花は「におう」と詠み、月は「清し」と詠み、鳥は「く」、とのみ詠むのほか、花のうつくしさ、月の清さ、鳥の啼く声をしみじみと身にしめて感じたる後に詠むということなければ、変化のなきのみか、その景象を明瞭に眼前にうかばしむることは絶えてあるなし。曙覧の叙景法を見るにしからず。例えば「赤きもみぢに霜ふりて」「霜の上に冬木の影をうす黒くうつして」と詠めるがごとき、「もみぢ」の上に「赤き」という形容語をかぶせ、「影」の下に「うす黒き」という形容語を添えて、ことさらに重複せしめたるは、霜の白さを強く現さんとの工夫なり。その成功はともかくも、その著眼ちゃくがんの高きことは争うべからず。
 曙覧は擬古の歌も詠み、新様しんようの歌も詠み、慷慨こうがい激烈の歌も詠み、和暢平遠わちょうへいえんの歌も詠み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎たかやまひこくろうをも詠み、御魚屋八兵衛おさかなやはちべえをも詠み、侠家きょうかの雪も詠み、妓院ぎいんの雪も詠み、ありも詠み、しらみも詠み、書中の胡蝶こちょうも詠み、窓外の鬼神も詠み、饅頭も詠み、杓子しゃくしも詠む。見るところ聞くところ触るるところことごとく三十一字中に収めざるなし。曙覧の歌想豊富なるは単調なる『万葉』の及ぶところにあらず。
〔『日本』明治三十二年四月九日〕

 世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用いず、『万葉』にありふれたる趣のほかは新しき趣を求めず、かくのごとくにして作り得たる陳腐なる歌を挙げ、自ら万葉調なりという、こは『万葉』の形を模して『万葉』の精神を失えるものなり。『万葉』の作者が歌を作るは用語に制限あるにあらず、趣向に定規あるにあらず、あらゆる語を用いて趣向を詠みたるものすなわち『万葉』なり。曙覧が新言語を用い新趣味を詠じごうも古格旧例に拘泥せざりしは、なかなかに『万葉』の精神を得たるものにして、『古今集』以下の自ら画して小区域に局促きょくそくたりしと同日に語るべきにあらず。ただ歌全体の調子において曙覧はついに『万葉』に及ばず、実朝に劣りたり。おしむべき彼は完全なる歌人たるあたわざりき。
 曙覧の歌の調子につきて例を挙げて諭ぜんか。前に示したる鉱山の歌のごときは調子ほぼととのいたり、されどこれほどにととのいたるは集中多く見るべからず、ましてこれより勝りたるはほとんどあるなし。
書中乾胡蝶しょちゅうのからこちょう

からになる 蝶には大和 魂を 招きよすべき すべもあらじかし

 結句字余りのところ『万葉』を学びたれどいきおい抜けて一首を結ぶに力弱し。『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌しょうじょうの差あり。
緇素月見しそつきをみる

しきみつみ たかすゑ道を かへゆけど 見るは一つの 野路の月影

 この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」というような尋常の句法を用いて結ぶ方よろし。「見るは月影」と有形物をもって結びたるはなかなかにいやしくいとわし。


あないぶせ 銚子さしなべかけて たくわらの もゆとはなしに 煙のみたつ

「あないぶせ」とかようにはじめに置くこと感情の順序にもとりて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべし。下二句の言い様も俗なり。


賤家しずがいえ 這入はいりせばめて 物ううる 畑のめぐりの ほほづきの色

 この歌は酸漿ほおずきを主として詠みし歌なれば一、二、三、四の句皆一気呵成かせい的にものせざるべからず。しかるにこの歌の上半は趣向も混雑しかつ「せばめて」などいう曲折せる語もあり、かたがたもって「ほほづきの色」という結句を弱からしむ。

よそありき しつつ帰れば さびしげに なりてひをけの すわりをるかな

 句法のたるみたる様、西行の歌に似たり。「さびしげになりて」という続きも拙く「すわりをるかな」のたるみたるは論なし。「なりて」の語をやめて代りに「火桶ひおけ」の形容詞など置くべく、結句は「火桶すわりをる」のごとき句法を用うるか、または「〇〇すわりをる」「すわり〇〇をる」のごとく結びて「哉」を除くべし。

かつふれて いわおの角に 怒りたる おとなひすごき 山の滝つせ

この歌は滝のいきおいを詠みたるものにて、言葉にては「怒りたる」が主眼なり。さるを第三句に主眼を置きしゆえ結末弱くなりて振わず。「怒り落つる滝」などと結ぶが善し。
島崎土天主しまざきつちおぬし軍人いくさびとの中にあるに

妹が手に かはるよろいの そでまくら 寝られぬ耳に 聞くや夜嵐よあらし

 上三句重く下二句軽く、ひさごさかしまにしたるの感あり。ことに第四句力弱し。
狛君こまぎみ別墅べっしょ二楽亭

広き水 真砂のつらに 見る庭の ながめをひきて 山も連なる

 前の歌と同じ調子、同じ非難なり。
〔『日本』明治三十二年四月二十二日〕


酔人の 水にうちいるる 石つぶて かひなきわざに ひじを張る哉

 これも上三句重く下二句軽し。曙覧の歌は多くこの頭重脚軽とうじゅうきゃくけいの病あり。
宰相君さいしょうのきみよりたけを賜はらせけるに

秋の香を ひろげたてつる 松のかさ いただきまつる もろ手ささげて

 これも前の歌と同じく下二句軽くして結び得ず。

羊腸つづらおり ありともしらで 人のせに おわれて秋の 山ふみをしつ

 これも頭重脚軽なり。この歌にては「背に負はれ」というが主眼なれば、この主眼を結句に置かざれば据わらざるべし。

ふくろふの 糊すりおけと 呼ぶ声に きぬときはなち 妹は夜ふかす
こぼれ糸 さでにつくりて 魚とると 二郎太郎三郎 川に日くらす

 この歌はいずれも趣向の複雑したる歌なれば結句に千鈞せんきんの力なかるべからず。しかるに二首ともに結句の力、上三句に比して弱きを覚ゆ。ことに第四句に「二郎太郎三郎」などいえるつまりたる語を用いなば、第五句はますます重く強きを要す。
 曙覧の歌調を概論すれば第二句重く第四句軽く、結句は力弱くして全首を結ぶに足らざるもの最も多きに居る。『万葉』にこの頭重脚軽の病なきはもちろん、『古今』にもまたなし。徳川氏の末ようやく複雑なる趣向を取るに至りて多くは皆この病を免れず。曙覧また同じ。曙覧はほとんど歌調を解せず。歌詞を解せざるがために彼はついに歌人たるを得ずして終れり。
 これを要するに曙覧の歌は『万葉』に実朝に及ばざること遠しといえども貫之つらゆき以下今日に至る幾百の歌人を圧倒し尽せり。新言語を用い新趣向を求めたる彼の卓見は歌学史上特筆して後に伝えざるべからず。彼は歌人として実朝以後ただ一人いちにんなり。真淵、景樹、諸平、文雄輩に比すれば彼は鶏群の孤鶴こかくなり。歌人として彼を賞賛するに千言万語を費すとも過賛にはあらざるべし。しかれども彼の和歌をもってこれを俳句に比せんか。彼ははとんど作家と称せらるるだけの価値をも有せざるべし。彼が新言語を用うるに先だつ百四、五十年前に芭蕉一派の俳人は、彼が用いしよりもはるかに多き新言語を用いたり。彼の歌想は他の歌想に比して進歩したるところありとこそいうべけれ、これを俳句の進歩に比すれば未だその門墻もんしょうをもうかがい得ざるところにあり。俳人の極めて幼稚なるものといえども、趣味の多様なることは曙覧の歌のわずかに新奇ならんとせしがごときに非ず。曙覧をして俳人ならしめば、ほとんどその名だに伝うるあたわざりしなるべし。いわんや彼は全く調子を解せざるをや。しかるにかくのごとき曙覧をも古来有数の歌人として賞せざるべからざる歌界の衰退は、あわれにも気の毒の次第とわざるべからず。余は曙覧を論ずるにあたりて実にその褒貶ほうへんに迷えり。もしそれ曙覧の人品性行に至りては磊々落々らいらいらくらく世間の名利に拘束せられず、正を守り義を取り俯仰ふぎょう天地にじざる、けだし絶無僅有きんゆうの人なり。

この稿を草するなかばにして、曙覧おう令嗣れいし今滋いましげ氏特に草廬そうろたたいて翁の伝記及び随筆等を示さる。って翁の小伝を掲げて読者の瀏覧りゅうらんに供せんとす。歌と伝と相照し見ば曙覧翁眼前にあらん。
竹の里人付記
〔『日本』明治三十二年四月二十三日〕
〔「竹の里人付記」にある「翁の小伝」とは、「歌話」六の中の記述をさすと思われる〕


底本:「子規選集第七巻 子規の短歌革新」増進出版社
   2002(平成14)年4月12日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 第七卷 歌論 選歌」講談社
   1975(昭和50)年7月18日第1刷発行
初出:新聞「日本」日本新聞社
   1899(明治32)年3月22日
   1899(明治32)年3月23日
   1899(明治32)年3月24日
   1899(明治32)年3月26日
   1899(明治32)年3月28日
   1899(明治32)年3月30日
   1899(明治32)年4月9日
   1899(明治32)年4月22日
   1899(明治32)年4月23日