余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて
曙覧の事蹟及び性行に関しては
人臭き 人に
何らの不平ぞ。何らの
彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳
橘曙覧の家にいたる詞
おのれにまさりて物しれる人は高き賤 きを選ばず常に逢 見て事尋ねとひ、あるは物語を聞 まほしくおもふを、けふは此 頃にはめづらしく日影あたたかに久堅 の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしと巳 の鼓 うつ頃より野遊 に出たりき、三橋といふ所にいたる、中根師質 あれこそ曙覧の家なれといへるを聞て、俄 にとはむとおもひなりぬ、ち ひ さ き 板 屋 の 浅 ま し げ に て か こ ひ も し め た ら ぬ に 、そ こ か し こ は ら ひ も せ ぬ に や 塵 ひ ぢ 山 を な せ り 、柴 の 門 も な く お ぼ つ か な く も 家 に い り ぬ 、師質心せきたるさまして参議君の御成 ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの膝 折ふせながらはひいでぬ、すこし広き所に入りてみれば壁 落 か か り 障 子 は や ぶ れ 畳 は き れ 雨 も る ば か り な れ ど も 、机 に 千文八百 ふ み う づ た か く の せ て 人丸 の御像 などもあやしき厨子 に入りてあり、お の れ き も の ぬ ぎ か へ て 賤 が 著 る つ づ り お り に 似 た る 衣 を き か へ た り 、此 時扇一握 を半井保 にたまひて曙覧にたびてよと仰せたり、おのれいへらく、みましの屋の名をわらやといへるはふさはしからず、橘のえにしあれば忍ぶの屋とけふよりあらためよといへり、屋 の き た な き こ と た と へ む に も の な し 、し ら み て ふ 虫 な ど も は ひ ぬ べ く お も ふ ば か り な り 、かたちはかく貧 くみゆれど其 心のみやびこそいといとしたはしけれ、おのれは富貴の身にして大厦 高堂に居て何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく心は寒く貧くして曙覧におとる事更に言をまたねば、お の づ か ら う し ろ め た く て 顔 あ か ら む 心 地 せ ら れ ぬ 、今より曙覧の歌のみならで其 心のみやびをもしたひ学 ばや、さらば常の心の汚 たるを洗ひ浮世の外 の月花を友とせむにつきつきしかるべしかし、かくいふは参議正四位上大蔵 大輔 源朝臣 慶永 元治二年衣更著 末のむゆか、館に帰りてしるす
曙覧が清貧に処して独り安んずるの様、はた春岳が高貴の身をもってよく士に下るの様はこの文を見てよく知るを得ん。この知己あり。曙覧地下に〔『日本』明治三十二年三月二十二日〕
曙覧が清貧の境涯はほぼこの文に見えたるも、彼の衣食住の有様、すなわち生活の程度いかんはその歌によって一層
人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、わらはしてとりにやりけるにもたせやりたる
山吹の みの一つだに 無き宿は かさも二つは もたぬなりけり
その貧乏さ加減、我らにも覚えのあることなり。
ひた土に筵 しきて、つねに机すゑおくちひさき伏屋 のうちに、竹生 いでて長うのびたりけるをそのままにしおきて
壁くぐる 竹に肩する 窓のうち みじろくたびに かれもえだ振る
膝いるる ばかりもあらぬ 草屋を 竹にとられて 身をすぼめをり
膝いるる ばかりもあらぬ 草屋を 竹にとられて 身をすぼめをり
明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べくもあらず。(「草屋」を「草の屋」と読ませ「草花」を「草の花」と読まする例、集中に少からず。漢語にはあらず)
銭乏しかりける時
米の泉 なほたらずけり 歌をよみ 文をつくりて 売りありけども
彼が米代を
ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのが庵 の壁の頽 れかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗人の入 たらん夜のここちしてうろたへつつ、かたへなるところに身をちひさくなしてこのをの子のありさま見をる、我ながらをかしさねんじあへて
あるじをも ここにかしこに 追たてて 壁ぬるをのこ 屋中塗りめぐる
家の狭さと、あるじの
おのがすみかあまたたび所うつりかへけれど、いづこもいづこも家に井なきところのみ、妻して水汲 みはこばする事もかきかぞふれば二十年あまりの年をぞへにきける、あはれ今はめもやうやう老 にたれば、いつまでかかくてあらすべきとて、貧き中にもおもひわづらはるるあまり、からうじて井ほらせけるにいときよき水あふれ出 づ、さくもてくみとらるべきばかりおほうあるぞいとうれしき、いつばかりなりけむ□「しほならであさなゆふなに汲む水もからき世なりとぬらす袖 かな」と、そぞろごといひけることのありしか、今はこのぬれける袖もたちまちかわきぬべう思はるれば、この新しき井の号を袖干井 とつけて
家に
「独楽唫」と題せる歌五十余首あり。歌としては秀逸ならねど彼の性質、生活、
たのしみは あき米櫃 に 米いでき 今一月は よしといふ時
たのしみは まれに魚烹 て 児等 皆が うましうましと いひて食ふ時
たのしみは まれに魚
など貧苦の様を詠みたるもあり。
文人の
〔『日本』明治三十二年三月二十三日〕
余は思う、曙覧の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきに
たのしみは 木芽 瀹 して 大きなる 饅頭 を一つ ほほばりしとき
たのしみは つねに好める 焼豆腐 うまく烹 たてて 食 せけるとき
たのしみは小豆 の飯の 冷 たるを 茶漬 てふ物に なしてくふ時
たのしみは つねに好める 焼豆腐 うまく
たのしみは
多言するを
安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虚飾あるべからず。余は更に進んで曙覧に一点の誇張、虚飾なきことを証せん。
たのしみは 銭なくなりて わびをるに 人の来 りて 銭くれし時
たのしみは 物をかかせて善 き価 惜 みげもなく 人のくれし時
たのしみは 物をかかせて
曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、あどけなくも彼は銭を
貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる
高山彦九郎正之
をりにふれてよみつづけける(録一)
独楽唫(録二)
たのしみは 戎夷 よろこぶ 世の中に 皇国 忘れぬ 人を見るとき
たのしみは鈴屋大人 の 後に生れ その御諭 を うくる思ふ時
たのしみは
国汚す 奴 あらばと 太刀抜 て 仇 にもあらぬ 壁に物いふ
極めて安心に極めて平和なる曙覧も一たび国体の上に想い到る時は
慶応四年春、浪華に
行幸あるに吾
宰相君 御供仕 たまへる御とも仕 まつりに、上月景光主 のめされてはるばるのぼりけるうまのはなむけに
行幸あるに
天皇の 御 さきつかへて たづがねの のどかにすらん 難波津に行
すめらぎの稀 の行幸 御供 する 君のさきはひ 我もよろこぶ
すめらぎの
天使のはろばろ下りたまへりける、あやしきしはぶるひ人 どもあつまりゐる中にうちまじりつつ御けしきをがみ見まつる
隠士も 市の大路に 匍匐 ならび をろがみ奉 る 雲の上人
天皇の大御使 と 聞くからに はるかにをがむ 膝をり伏せて
天皇の
勅使をさえかしこがりて
都にのぼりて
大行 天皇の御はふりの御わざはてにけるまたの日、泉涌寺 に詣 たりけるに、きのふの御わざのなごりなべて仏さまに物したまへる御ありさまにうち見奉られけるを畏 けれどうれはしく思ひまつりて
ゆゆしくも 仏の道に ひき入るる 大御車 の うしや世の中
曙覧は王政維新の名を聞きて、その実を見るに及ばざりしなり。
〔『日本』明治三十二年三月二十四日〕
社会の一貧民としての曙覧、日本国民の一人としての曙覧は、臆測ながらにほぼこれを尽せり。ここより歌人としての曙覧につきて少しく評するところあらんとす。
曙覧の歌は比較的に何集の歌に最も似たりやと問わば、我れも人も一斉に『万葉』に似たりと答えん。彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的
いつはりの たくみをいふな 誠だに さぐれば歌は やすからむもの
「いつはりのたくみ」『古今集』以下皆これなり。「誠」の一字は曙覧の本領にして、やがて『万葉』の本領なり。『万葉』の本領にして、やがて和歌の本領なり。我謂うところの「ありのままに写す」とはすなわち「誠」にほかならず。後世の歌人といえども、誠を詠め、ありのままを写せ、と空論はすれどその作るところのかえっていつわりのたくみを脱するあたわざるは誠、ありのまま、の意義を誤解せるによる。西行のごときは幾多の新材料を容れたるところあるいはこの意義を解する者に似たれど、実際その歌を見ば百中の九十九は皆いつわりのたくみなるを知らん。趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。
されば曙覧が歌の材料として取り
〔『日本』明治三十二年三月二十六日〕
『古今集』以後今日に至るまでの撰集、家集を見るに、いずれも四季の歌は集中の最要部分を占めて、少くも三分の一、多きは四分の三を占むるものさえあり。これに反して四季の歌少く、
日の光 いたらぬ山の 洞 のうちに 火ともし入 て かね掘出 す
赤裸 の 男子 むれゐて 鉱 の まろがり砕く 鎚 うち揮 て
さひづるや碓 たてて きらきらと ひかる塊 つきて粉 にする
筧 かけ とる谷水に うち浸し ゆれば白露 手にこぼれくる
黒けぶり群 りたたせ 手もすまに 吹鑠 かせば なだれ落 るかね
鑠 くれば 灰とわかれて きはやかに かたまり残る 白銀の玉
銀 の 玉をあまたに 筥 に収 れ 荷緒 かためて 馬馳 らする
しろがねの 荷負 る馬を 牽 たてて 御貢 つかふる 御世のみさかえ
さひづるや
黒けぶり
しろがねの 荷
採鉱溶鉱より運搬に至るまでの光景
余は断定を下していわん、曙覧の歌想は『万葉』より進みたるところあり、曙覧の歌調は『万葉』に及ばざるところありと。まず歌想につきて論ぜん。
〔『日本』明治三十二年三月二十八日〕
歌想に主観的なるものと客観的なるものとあり。『万葉』は主として主観的歌想を述べたるものにして客観的歌想は極めて少かりしが、『古今』以後、客観的歌想の歌、次第にその数を増加するの傾向を見る。
主観的歌想の中にて理屈めきたるはその品卑しく趣味薄くして取るに足らず。『古今』以後の歌には理屈めきたるが多けれど『万葉集』、『曙覧集』にはなし。理屈ならぬ主観的歌想は多く実地より出でたるものにして、古人も今人もさまで感情の変るべきにあらぬに、まして短歌のごとく短くして、複雑なる主観的歌想を現すあたわず、ただ簡単なる想をのみ主とするものは、観察の精細ならざりし古代も観察の精細に赴きし後世も差異はなはだ少きがごとし。ただ時代時代の風俗政治等々しからざるがために材料または題目の上には多少の差異なきにあらず。例えば万葉時代には実地より出でたる恋歌の著しく多きに引きかえ『曙覧集』には恋歌は全くなくして、親を
曙覧の歌、
きのふまで 吾 衣手 に とりすがり 父よ父よと いひてしものを
父の十七年忌に
今も世に いまされざらむ よはひにも あらざるものを あはれ親なし
髪しろく なりても親の ある人も おほかるものを われは親なし
髪しろく なりても親の ある人も おほかるものを われは親なし
母の三十七年忌に
はふ児にて わかれまつりし 身のうさは 面 だに母を 知らぬなりけり
古書を読みて
程すぎて 帰らぬ君と 夕占 とひ まつらむ妹に とく行 て逢へ
されど女を思うも子を思うも恋い思うとばかり詠む短歌にては、感情の切なるを感ずるほかなければ、いずれにても深き差異あるにあらず。この点におきて『万葉』と曙覧と強いて優劣するを要せず。しこうして客観的歌想に至りては曙覧やや進めり。
四季の題は多く客観的にして、『古今』以後客観的の歌は増加したれど、皆縁語または言語の虚飾を交えて、趣味を深くすることを解せざりしかば、絵画のごとく純客観的なるは極めて少かり。『新古今』は客観的叙述において
〔『日本』明治三十二年三月三十日〕
曙覧が客観的
ふくろふの 糊 すりおけと 呼ぶ声に 衣 ときはなち 妹は夜ふかす
こぼれ糸纚 につくりて 魚とると 二郎 太郎 三郎 川に日くらす
こぼれ糸
雨ふれば 泥踏 なづむ 大津道 我に馬あり めさね旅人
風まじり 雨ふる寺の 犬ふせぎ しぶきのぬれに うつるみあかし
寒灯
ともすれば 沈 灯火 かきかきて 苧 をうむ窓に 霰 うつ声
そとの浜 千 さとの目路 に 塵 をなみ すずしさ広き 砂上 の月
羽ならす 蜂あたたかに 見なさるる 窓をうづめて 咲くさうびかな
題しらず
雲ならで 通はぬ峰の 石陰 に 神世のにほひ 吐く草花
歌会の様よめる中に(録五)
人麻呂の 御像 のまへに 机すゑ灯 かかげ 御酒 そなへおく
設け題 よみてもてくる 歌どもを 神の御前に ならべもてゆく
ことごとく 歌よみいでし 顔を見て やをら晩食 の 折敷 ならぶる
汁食 と すすめめぐりて とぼしたる 火もきえぬべく 人突 あたる
戸をあけて 還る人々 雪しろく たまれりといひて わびわびぞ行
設け題 よみてもてくる 歌どもを 神の御前に ならべもてゆく
ことごとく 歌よみいでし 顔を見て やをら
汁
戸をあけて 還る人々 雪しろく たまれりといひて わびわびぞ
稲荷坂 見あぐる朱 の 大鳥居 ゆり動 して 人のぼり来る
「設け題」「探り題」「あき米櫃」「饅頭を頬ばる」「笑ひかたりて腹をよる」「畳かず狸のものの広さにて」「二郎太郎三郎」など思うに任せて新語新句をはばかり気もなく使いたるのみならず、「
曙覧は擬古の歌も詠み、
〔『日本』明治三十二年四月九日〕
世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用いず、『万葉』にありふれたる趣のほかは新しき趣を求めず、かくのごとくにして作り得たる陳腐なる歌を挙げ、自ら万葉調なりという、こは『万葉』の形を模して『万葉』の精神を失えるものなり。『万葉』の作者が歌を作るは用語に制限あるにあらず、趣向に定規あるにあらず、あらゆる語を用いて趣向を詠みたるものすなわち『万葉』なり。曙覧が新言語を用い新趣味を詠じ
曙覧の歌の調子につきて例を挙げて諭ぜんか。前に示したる鉱山の歌のごときは調子ほぼととのいたり、されどこれほどにととのいたるは集中多く見るべからず、ましてこれより勝りたるはほとんどあるなし。
からになる 蝶には大和 魂を 招きよすべき すべもあらじかし
結句字余りのところ『万葉』を学びたれど
この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」というような尋常の句法を用いて結ぶ方よろし。「見るは月影」と有形物をもって結びたるはなかなかに
煙
あないぶせ 銚子 かけて たく藁 の もゆとはなしに 煙のみたつ
「あないぶせ」とかように
赤
この歌は
よそありき しつつ帰れば さびしげに なりてひをけの すわりをる哉
句法のたるみたる様、西行の歌に似たり。「さびしげになりて」という続きも拙く「すわりをるかな」のたるみたるは論なし。「なりて」の語をやめて代りに「
かつふれて 巌 の角に 怒りたる おとなひすごき 山の滝つせ
この歌は滝の
妹が手に かはる甲 の 袖 まくら 寝られぬ耳に 聞くや夜嵐
上三句重く下二句軽く、
広き水 真砂のつらに 見る庭の ながめを曳 て 山も連なる
前の歌と同じ調子、同じ非難なり。
〔『日本』明治三十二年四月二十二日〕
酔人の 水にうちいるる 石つぶて かひなきわざに 臂 を張る哉
これも上三句重く下二句軽し。曙覧の歌は多くこの
秋の香を ひろげたてつる 松のかさ いただきまつる もろ手ささげて
これも前の歌と同じく下二句軽くして結び得ず。
これも頭重脚軽なり。この歌にては「背に負はれ」というが主眼なれば、この主眼を結句に置かざれば据わらざるべし。
ふくろふの 糊すりおけと 呼ぶ声に 衣 ときはなち 妹は夜ふかす
こぼれ糸纏 につくりて 魚とると 二郎太郎三郎 川に日くらす
こぼれ糸
この歌はいずれも趣向の複雑したる歌なれば結句に
曙覧の歌調を概論すれば第二句重く第四句軽く、結句は力弱くして全首を結ぶに足らざるもの最も多きに居る。『万葉』にこの頭重脚軽の病なきはもちろん、『古今』にもまたなし。徳川氏の末ようやく複雑なる趣向を取るに至りて多くは皆この病を免れず。曙覧また同じ。曙覧はほとんど歌調を解せず。歌詞を解せざるがために彼はついに歌人たるを得ずして終れり。
これを要するに曙覧の歌は『万葉』に実朝に及ばざること遠しといえども、
この稿を草する半 にして、曙覧翁 の令嗣 今滋 氏特に草廬 を敲 いて翁の伝記及び随筆等を示さる。因 って翁の小伝を掲げて読者の瀏覧 に供せんとす。歌と伝と相照し見ば曙覧翁眼前にあらん。
竹の里人付記
〔『日本』明治三十二年四月二十三日〕
〔「竹の里人付記」にある「翁の小伝」とは、「歌話」六の中の記述をさすと思われる〕底本:「子規選集第七巻 子規の短歌革新」増進出版社
2002(平成14)年4月12日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 第七卷 歌論 選歌」講談社
1975(昭和50)年7月18日第1刷発行
初出:新聞「日本」日本新聞社
1899(明治32)年3月22日
1899(明治32)年3月23日
1899(明治32)年3月24日
1899(明治32)年3月26日
1899(明治32)年3月28日
1899(明治32)年3月30日
1899(明治32)年4月9日
1899(明治32)年4月22日
1899(明治32)年4月23日