虚像

大下宇陀児




遙かなる思出



 あたしのことをほめてくれる人は、世界じゅうをさがしても、そうたくさんにはいないのだろう。
「あれは女じゃない。人間ですらない。悪魔の化身だ」
 とののしる人があったにしても、あたしはべつに驚かない。
 あたし自身、あたしを善良な人間だなどとは考えないし、そもそもあたしは子供のころから、お友だちや世間のひと、それから学校の先生などにも、ずいぶんと悪口を言われたことがあり、また憎まれきらわれた記憶があるのだ。
 それにつきあたしは、中学の三年の時、学校へ、キャムベルさんという、アメリカの老婦人がきた時のことを思いだす。
 キャムベルさんは、ワシントンの郊外に住む、たいそうお金持の未亡人だということだったが、教育には熱心で、その方面でのすぐれな研究や著書があり、日本の中学校のあり方を視察にきたのだったが、なにか行き違いがあったのだろう、学校へはキャムベルさんがその日にくるということを、あらかじめ知らせてなく、だから学校では、準備が少しもしてなくて、すっかりあわててしまったものだった。
 学校では、英語のH教師が、ひとりだけ英語が上手だった。
 ところがH教師は、お尻にねぶつをこしらえて学校を休んでいるし、ほかの教師は、教科書で生徒に英語を教えることができても、外人相手の会話となると、まるっきりできない。
「いやだな。おれ、女の外人ての、とくに苦手にがてだからな」
「ぼくも、ごめんこうむりたいね。Hがいれば、安心だけれど」
 と、Kという教師、Sという教師が、頭をかいて困っている。
 あたしはその時、教員室へ行っていた。
 クラスで出している「緑蔭」という新聞へ、ある先生の教え方について、こうして欲しいという希望を書いたら、それが先生を非難したことになった。そのために教員室へ呼び出され、担任の先生から、お叱りをうけていたのである。
 キャムベルさんのほうは、学校の玄関で待たせたままにしてあるらしい。KとSが、うろうろまごまごしているのを見ると、あたしは性分だから、黙っていられなくなった。キャムベルさんの御案内を、あたくしがしましょうか、とつい、言出してしまった。
 KもSも、びっくりしてあたしを見たが。すぐにふたりで、目ぶたをパチパチさせ、二度ほどあごをうなずかせてから、
「うん、そうか。生徒の案内のほうが、かえって気に入るかも知れないな」
 といったのは、生徒だったら、なにか間違いがあったところで、あとで学校としての面目は立つ、と考えたからのことであろう。とりあえず、キャムベルさんには、あたしがついて学校の中を見てまわり、そのあいだに、H教師を自宅まで迎いにやるということになった。
 眼鏡を三種類も持っている、そして背が高くて、男のように骨っぽい感じのキャムベルさんを、あたしは教室へつれて行ったり、生徒の手芸品や絵画について説明したり、また標本室へ案内したりした。そうしてキャムベルさんはあたしのことを。
「英語が上手で、可愛くて、ベリ、ベリ、ワンダフル・ガールだ」
 といって、ほめてくれた。あとにもさきにも、あたしがそんなにほめられたことはない。それにキャムベルさんは。お世辞でそういったのではなくて、心からほめてくれたのである。それには、証拠がある。のちに、会話の得意なH教師がきてから、あたしの案内役は終ったのだけれど、校長室でキャムベルさんを囲んでの懇談会となった時に、キャムベルさんは、とくにあたしに、もういちど会いたいといった。そうして、小使さんに呼ばれて行ったあたしに、大きくなったら、アメリカへ勉強に来なさいといい、また美しい絵のある植物の本を一冊くれたし、堅く堅く、お別れの握手をしてくれたのだった。
 ほめられたから、どんなにあたしは嬉しかったか知れない。
 でも、キャムベルさんが帰ってしまったあと、教員室では。あたしの話が出たのだそうだ。そしてM教師――それが、クラス新聞の「緑蔭」へあたしが書いた社会科の教師だ――は、
「しかし、大谷千春は、キャムベル夫人のしゃべることはわからないんだよ。かってに自分の言いたいことを言ってるんだ。それにその英語が、パン助と同じ英語だったからね。聞いていて、こっちはハラハラしたよ」
 といったし、またクラスの担任A教師は、
「大谷千春は、一口にいうと、無類の強心臓だね。成績はいいな。絵と音楽をのぞいては不得手なものはひとつもない。ところが気まりが悪いとか恥ずかしがるとか、そういう感情が全然ないからね。クラスの友だちは、出しゃばりだっていっている。何かあると、すぐまっさきに飛びだしてくる。思ったことは、ズバズバいう。誰にも遠慮しない。だから、クラスじゃ憎まれていてね、お友だちができないんだよ」
 とあたしを批評したのだそうだ。
 これはその席へ、お紅茶を出しに行っていた、小使さんの小母さんが、あとであたしに話してくれたことである。
 あたしは、口惜くやしくて、身体がブルブルするほどだったが、泣かずにこらえた。
 なるほどあたしの英語は、
「ユー、トゲザ、ミイ、アップステア、ゴー。ゼア、ジャパニーズ、マット・ルーム。フォア、ガール、スチューデンツ」
 といったあんばいだったのだから、パン助英語だと言われてもしかたがないけれど、せっかくおいでになったキャムベルさんを、玄関でお待たせしたまま、モジモジと尻込みをしているよりはいいではないか。それに、出しゃばりだの、強心臓だのというのもあんまりだ。あたしはただ、その場の様子を見るに見かねて、案内役を買って出ただけのことである。
 もっとも、この担任教師の批評も、反省してみると、あながち間違っている、とばかりは言えないものがあることを、あたしはちゃんと知っていた。
 クラス中での憎まれもので、仲良しができなかったというのは、ほんとうだ。
 クラスのお当番でお掃除をする時、雑巾ぞうきんがけを嫌う子がある。社会科の調査で、自分は何もせず、ひとの集めた資料を盗む子がある。みんなが腹を立て、陰でそのずるい子の悪口をいうが、あたしはそういう時に容赦ようしゃしない。直接にその狡い子をつかまえて、悪かったといってあやまるまで、責めつけてやる。ほかのひとたちは、それを聞いていて、いかにも胸がせいせいしたという顔になるのだが、さてそのあとは、誰もあたしを敬遠するようになったのである。「緑蔭」へM教師のことを書いたのも、同じ一つの例だった。クラス中のものが、無味乾燥な数字ばかし並べるM教師のお話には、困りきっているくせにそのことを口へ出さない。あたしは、みんなに代って言ったつもりだったのに、結果は、教員室へ呼びつけられるようなことになったのである。
 あたしを、議論好きで、岩の頭へでも理屈をつけるのだ、といった人があった。
 女の子にしては、実行力に富むといった人もあるが、そのあとへ、しかし少々やりすぎる子だ、とつけ加えるのを忘れなかった。
 あたしは、そういう非難や悪口には、だんだんと慣れっこになってしまったし、しまいには、他人から何を言われようと、それを気にしないでいることにきめたのだけれど、いちおう弁解するならば、あたしのこの性質は、亡くなった父からの譲りものだから、しかたがないのだとも言えるだろう。父は、あたしにとって、最大の影響力をもった人間だった。そして、たいそう強情っぱりで、け嫌いで、悪くいうと、ずいぶん押しの強い人物だったのである。
 父は名前を大谷正明といった。
 もと海軍軍人であり、昭和二十年の終戦当時は中佐だった。
 江田島の海軍兵学校時代は、まれに見る秀才として知られたそうだし、近代科学兵器、とくに潜水艦については、海軍部内にあっても有数な、精密かつ該博がいはくな知識の所有者だったということだが、江田島の同期出身者は、のちにたいてい大佐になっているのに、父だけがおくれて、中佐まで進んだだけだというのも、父の性質がわざわいして、先輩や同僚の気受けがよくなかったせいだ、と聞かされたことがある。
 父は、相手が、先輩であろうが上官であろうが、間違いに対しては、遠慮えしゃくなく、やっつけたのだそうだ。弁が立ち、理論闘争もうまかったのだという。あだなを土佐犬と言われた。その綽名あだなは、もう郷里の中学時代からのことだったらしい。もちろん、喧嘩好きで、相手を選ばず、みつくという意味であろう。たいていの人から、父は嫌われものであり、敬遠主義をとられた。しかも父は、そういう損な性質を、自分でもよく知っていながら、改める気持にはなかなかなれなかったのだとあたしは思う。
 そうしてあたしは、その父に、そっくりそのまま、似た性格の女として生れついてしまったのだ。


 父は、世にうとまれるような性質の持主ではあったが、それにしても本質的には、正義感に強く、少なくとも、決して悪人ではなかったということを、あたしは父のために、断っておかねばならない。あたしは、そういう父を、常に尊敬し信頼していた。
 父も、よくあたしを愛してくれた。
 この父と、ひとりきりの子供だったあたしとのあいだの愛情は、世の常のものではないほどだったかもしれない。
 幼いころ、父は軍艦に乗っていて家にいることが少なく、演習や航海から帰ってくると、あたしは父に甘えほうだい甘えた。家へは、部下の若い士官だの兵曹へいそうだのが出入りし、からかってあたしを、お嫁さんに貰うなどという。あたしは、
「いやよ。お父さまみたいなひとのところでないと、お嫁さんに行ってあげないわ」
 といって、まだ生きていた母を笑わせたことがある。そうしてその母が病死してからは、父とあたしとふたりだけの生活が、三年間ほどつづいたから、この間に、父とあたしとの愛情は、ますます深まさった、といってもよいのであろう。
 父の、がっしりした肩、左の耳のわきのほくろ、うしろ向きだと、お尻が大きく聊か短く、大地へ根が生えたように見えた姿など、すべてはっきり目の底に残っている。
 ――強盗に殺された、あの恐ろしい夜のことは別にしておいて、その父への思出の数々は、甘く悲しく、またおかしかったりするのである。
 家は雑司ヶ谷の墓地近く、ともいえるし、有名な鬼子母神さまからも遠くないところにあった。平家建ての、玄関の三畳まで加えて、五部屋しかない、小ぢんまりした家だったが、庭は広くて、百坪近くはあったのだろう。庭には、カヤの巨木があり、ざくろがあり、また八ツ手の株が、よく茂っていた。
 思えば、この庭がひろく、樹木が繁茂していたということも、必然的に、父が殺された夜のまわしい記憶とつながりがあるものだけれど、いまはその話をよしておこう。この庭では、父があたしを相手に、お正月の追羽根をついてくれたことがあるし、あんたがたどこさ、肥後さ、熊本さ、せんば山には狸がおってさ……いっしょに、まりをついてくれたこともある。父は、
「せんば山じゃない。せんば川っていわなくちゃいかん」
 といった。
「だって、みんな、せんば山よ。山でなけりゃ、狸はいないんでしょう」
 と、あたしも敗けずに抗議した。
 同じ庭で、父は小学校へはいって間もなくのあたしに、自転車を習わせたものだった。父は、自転車のサドルのところをおさえていて、あたしがドッコイショ、とまたがると、いきなりグイとうしろからつきはなす。運動神経がにぶいのだろう。あたしはなかなかおぼえられなくて、立木へ自転車をぶつけたり、おちてころんで、膝っこぞをすりむいたりしたが、そのころは母がまだ生きていた。赤チンを持ってきて、あたしの傷口へりながら、
「よして下さいよ、あなた、千春ちゃんは女の子ですもの。自転車なんか乗れなくってもよござんす。顔でも怪我させたら、親でも子供に、申訳が立たないんですよ」
 と苦情を申し立て、すると父は、
「ばか言え。女でも自転車ぐらい乗れないと、あとで困ることになるぞ。アメリカとの戦争はな、どっちみち、日本が敗けるのだ。悪くすると、この東京のどまん中へ、艦砲射撃のたまが、ヒュルヒュル、ドンととびこんでくるし、アメ公の兵隊が、チュウインガムかみながら、機関銃かついで上陸してくる。その時にゃ、私はもう戦死しちまっているだろうな。お母さんと千春とが、歩いて逃げるなんてたいへんだろう。自家用車持っていると都合がいいが、とてもそうはいかない。いいか。千春はその時、荷物台へお母さんを乗っけて、自転車で逃げるんだ。行く先きは、信州の軽井沢か鎌倉がいい。昔から外人が多くいたところへ行く。そうすりゃ、きっと助かるよ」
 冗談のようにしていって、軽く母の苦情を一蹴いっしゅうしてしまったし、そのすぐあとでも、自転車へようやくあたしが乗れるようになると、さて自転車は。輪が回っているとなぜ倒れないか、ということを説明してくれたが、なんでもそれは、コマが倒れずに回るのと同じ理屈だそうで、ジャイロスコープの理論だという。あたしには、むずかしくてチンプンカンプン。また母が口を出して、
「あなた、むりですよ、そんなお話は。千春ちゃんには、まだお伽話おとぎばなしのほうがいいんですもの。今夜はあたくしが、ハムレットのお話をしてあげる約束になってますし……」
 といったが、これに対し父は、
「うん、お伽話はけっこう。ハムレットも悪くないな。しかし、おれの話だって、千春の頭を、ジャイロスコープと同じことで、常に一定の方向へ回転させ、わき道へそれさせないという効目ききめがあるのだ。話がわかってもわからなくてもかまわない。千春の頭へ、一つの印象を与えておく、というだけで、後にきっと役に立つことがあるのだ」
 そういってあたしの頭を、その大きな手のひらで、ゆっくりでてくれるのであった。
 母は、父が言いだしたら、きかないことを知っている。
 それは、長いうちそうだった。
 母もそれ以上には何も言わなかったが、とにかく、母に劣らず父もあたしを深く愛し、あたしというものについては、遠い将来までを見通して、常に心を配っていてくれたことは確かなのである。
 やさしい母は、あたしが小学校五年の春、病没した。
 美しくて、匂いを含む白い玉のようだった母――。
 そうして、ある意味では、暴君と同じだった父に仕えて、その生涯を閉じた気の毒な――母。
 母のことは、あとでどうせ書かねばならないのだろう。母の死を、父はマニラにいて知ったということだった。死後二カ月ほどしてひどくせ、目が鋭く光るようになって帰ってきた父は、位牌いはいに変った母の前へ、軍服のまま、膝をキチンと折ってすわった。
 ばあやのお霜さんというのがいた。
「旦那さま! 奥さまは、旦那さまがお帰りになった時のお召しかえのシャツが、箪笥たんすの三番目にはいっているということまで、わたしにおっしゃってから、お亡くなりになりました。それから、お嬢さまのことを……」
 敷居のところへきて、ゲクゲク泣きながらいうと、
「わかった。あとで聞く。向うへ行け!」
 叱るようにいったが、それっきり、首をたれ、両のこぶしを両膝の上で結んだまま、身動きもしない。あたしは、父の涙が、ポト……ポト……ポトポトポトと、音を立てて畳におちるのを眺めた。父が泣くのを見たのは、その時がはじめてである。そうしてその時から、父の性質は、少しずつ、変ってきたようであった。
 それは、母と父とのあいだに、あたしの知らない何かがあったということを、十分に推察させるようなものでもあった。
 父は、かどが取れてきた。
 世間では相変らず父を、土佐犬だと思っていたのかも知れない。けれどもほんとうはもう、そうではなかったのである。母が丹精していた万年青おもとの鉢を、生前は見向きもしなかったのに、庭先きでしゃがんで、母がしたのと同じに、筆で洗ってやっている。そのうしろ姿を見ているだけで、父が変ったのだということを、あたしは鋭く感じたくらいであった。それ以来は、父の任務が、海上でもなく外地でもなく、自宅から毎日海軍省へ通うことになったが、おそらく終戦を迎えるまでのあいだ、父が誰かと議論したり、押しが強くて人に迷惑をかけたりしたなどということは。いっぺんもなかったのではないだろうか。
 戦局は、次第に悪化していた。
 ずっと前の自転車の時の父の予言が、どうやらそのままになってきた。
 母の死を、悲しんでいるだけの、心のゆとりもないほどだった。
 父は、軍人にだけ配給されたらしい、銀紙に包んだ羊かんなどを、お菓子にえているあたしのため、そっと軍服のポケットに入れて、持ってきてくれたりなどしたが、やがて東京には空襲があるようになった。
 夜空のB29を、サーチライトがとらえた時あたしは宝石のように美しいと思い、そんなに空襲を怖がらなかったが、父は、防空壕を改築するのだと言いだした。
「庭へとびだして、それから防空壕へはいるのじゃ、めんどうだからね。家の中から、すぐ防空壕へ行けるように、茶の間から横穴をほるのさ」
 と説明したが、それは本来は、父のたったひとりきりの親友、橋本泰治がいたからのことであるらしい。
 この人物のことを、実はあたしは、名前を呼び捨てにしたのでは、相済まない、ということになるのだろう。小父さま、とあたしは呼んでいた。小父さまは、以前から、しょっちゅう家へきていた。のちに、あたしを引取って、あたしの養父代りになった人物である。
 防空壕の改築は、その小父さまが、父にすすめてそうさせたのであった。ああ、またしても、そのことが、父が殺された夜のことに密接な関係をもっていたのである。
 昭和二十年の一月末、まっ白に霜の降った朝、その改築工事は、はじまった。
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その前兆



 数年ののちに、あたしはあの時の防空壕工事のことを、できるだけこまかく思いうかべる必要を生じた。
 だから、それをいま、大体は間違いなく書き述べることができる。
 父は、休日で家にいた。
 雪になりそうだった空が、頼んでおいたとびのかしらがきてくれたころに美しく晴れ、それから一時間ばかりたった時に、庭のほうへ誰かきたような気がしたから、少し風邪気味で家の中にひっこんでいたあたしが出てみると、それは橋本の小父さまと、ほかに三人の学生だった。
 小父さまは、そのころM大学の教授だったが、三人の学生を、それぞれ。山岸節夫、田代守、今村元一、と父に紹介した。彼らはみなよごれた角帽をかぶり制服を着て、脚には、ゲートルを巻いていた。小父さまの家へ来合せていたのを、工事の手伝いにつれてきた、というのであった。
 父は、穴から出てきたところで、ショベルの土を、お茶碗のかけたのでこそげおとしながら、
「やア、それはどうも。学生諸君の救援隊とはありかたいね。なに、町内のかしらにきてもらってね。いま、穴を横へ半分ほども掘るってしまったところだよ」
 といい、橋本の小父さまは、
「海軍中佐がもぐらもちの真似しなくってもいいだろう。遠慮なく、手伝わせるさ。いや、実はね、この諸君は、わたしのところへ相談にきた。陸軍へ行こうか、海軍へいこうか。どっちがいいかと迷っている。君の判断を聞かせてもらおうと思ってきたわけだよ」
 と答えた。
 一億一心、かばねを越えて進め、といわれた時である。学生は特攻隊にはいろうとしていたわけだった。
 父はショベルを片手について顔を仰向あおむけ、青い空を深々と眺めた。
 しばらく黙って考えていて、それから縁側へ行って腰をかけた。
「君たちは、軍人になり、国家に一身を捧げようというわけだね」
「は、そうです」
 と、中でもいちばん痩せっぽちの、青い顔をした山岸という学生が、まるでもう軍人になったように、直立不動の姿勢で答えた。
「ふん。それでその決心は、誰かにそうしろとすすめられてつけたのかい。それとも、自分だけの気持で、そうなったのかね」
「大体は、自分だけです。まだこのことは、両親にも話してありません」
「なるほどね。それで、あとのふたりの諸君も同じかね」
 顔を見られると、田代という学生も、今村という学生も、やはり直立不動の姿勢をとったが、子供心にもあたしは、その田代という学生の、切れ長に澄んだひとみときりっと結んだ唇のあたりを、美しいと思った。
「わたしたちも自発的にです。べつに、誰にも、すすめられたのではありません」
「そうかい」
 父は、うなずいたが、顔に微笑がうかんできた。
「とすると、自分でそう考えたのだったら、自分で、そんなこと、よそうと考えることだって、できるわけだね」
「はア……」
「わからないかい? つまり、もういっぺん考えろということさ。わたしは、優秀な若いもんか、少しぐらい、次の時代の日本に、生き残らなくちゃ困る、と思っているんだよ。だから、海軍にしろ陸軍にしろ、そうむやみにわたしはすすめたくないな。第一、せっかく軍人になったものに、竹槍持たせるわけにゃ、いかないよ。アハハハ……竹槍の話は、ますます、わからんだろう。まアいい。もぐらもちは一休みだ。みんなでお茶を飲もう」
 あたしにも、竹槍の話は、なんのことだかわからなかった。
 しかし、父はそのあとで、橋本の小父さまを加えての四人に、戦争の段階を、かなり詳しく話して聞かせたようである。普通には、誰もそれを話せない時期だった。そしてそれは、軍艦マーチづきの報道とは、まるっきり違った話だった。その話のために、三人の学生が、戦争に行く決心を捨てたことは確かである。ずっとのちの終戦後、この三人は父のところへきた。その時に父の話がなかったら特攻隊へはいっていたかも知れない。父のおかげでそれを避けた。命拾いしたというので父に感謝したわけである。
 かしらが、穴から出てきた。
「いけませんや。土台石のとこが、あぶねえんです。もいっぺん、左へ穴を曲げたほうがいいと思うんですが」
「そうか。よし、わたしが見る」
 父が答えた時、あのいやなサイレンが鳴りだした。
 警戒警報だった。
「千春は、防空頭巾、かぶっていろよ」
 と父はいっておいて、かしらといっしょに穴へはいり、それから学生たちも、工事のお手伝いをしはじめた。
 警報は、思ったより早くとけたし、それからあとは、あたしの気持が、なんとなくはしゃいだようにおぼえている。
 掘り出された赤土を、庭のほうの壕の口へ盛りあげて、今村という学生が、
「そら、できたぞ。ライオンが入口で頑張ってるんだ」
 というと、山岸が、
「なんだ、ライオンじゃねえな。こいつは河馬だよ」
 と笑った。田代が、口笛を吹いて、裏へ回って行ったと思ったら、それっきりなかなか戻ってこない。今村が、あとから行って、田代を引っぱってきた。
「ずるいぜ、こいつ。炭俵出して日なたぼっこして小説読んでいやがる」
「違わい。小説じゃねえや」
「ふん。じゃ、なんだい、あの小さな本は」
「詩だよ。お前らにはわからん。――それよりも、少し腹がったな」
 あたしは、お霜さんが、台所でさつま芋をふかしているのを知っていた。
 詩を読んでいた田代さんに、そのお芋を、すぐ持ってきてあげたいと思った。
 工事は、かしらが、玄関のとなりの茶の間へ、家の中からの入口を作るところまで進んだ。かしらは、畳をあげ、床板をはずし、そこから中へもぐりこんだ。
 橋本の小父さまがいった。
「家ではね、お勝手からはいるようにしたんだ。そこも少し広くとって、漬物なんか置けるようにしたよ」
「簡易地下室だね。ぼくんとこも、そうするかな」
「できりゃ、そうしたほうがいいぜ。――ただし、この式の防空壕は、泥棒には不用心だ。庭のほうの入口からだと、ぞうさなく、家の中まではいってこられる」
「かまわん。泥的がきても、盗まれるものなんか、ありゃしない」
 父は、笑い顔でいったが、のちに、ほんとうにその地下道から賊は侵入した。しかも、その賊が父を殺したのである。
 午後のが薄れたころ、また警報が発令されたが、もう壕の工事は終っていたか、それとも、あとはかしらひとりですむようになっていたか、そのどちらかだったろう。
「やれやれ、これでいいや。おれは、どっちでもいいんだが、千春というものがいるのだからな」
 と父が、手足を洗い、座敷へ上がってからいったのを、おぼえている。
 学生と橋本の小父さまとが帰ろうとしていたのを、
「まア待てよ。とっときのものがあるぞ。ゆっくりして行け」
 引きとめて父が持ちだしたのは、押入れにしまってあったウイスキイの角びんだった。そうしてそのあとは、あたしの大きらいなお酒の席になった。酒を飲むと、父はじきに歌いだす。その歌が、ツンツンレロレロ、ツンレーロという文句ではじまる、とても下品な歌だった。海軍で歌いはじめたものらしい。ラバウルでも、フィリッピンでも、硫黄島でも、それを歌ったのにちがいない。果して、その時も父は、肩を横にふり、手を打って、ツンツンレロレロをはじめた。学生にもおぼえろといって歌わせた。ひとり、田代だけが、知らぬ顔して障子のところへよりかかっている。あたしは、いくども、田代のボーッと桜色に染まってきた横顔を、ぬすみ見していた。
「おい、橋本。きさま、この家へきて、どんなことをいつも考えるのか、おれにはわかっているつもりだぞ。今夜は、うんと飲めよ」
 とつぜん父は橋本の小父さまのコップへ、ウイスキイをつぎながらいったが、小父さまは、にらむようにして父を見て、 
「ばかなことをいうもんじゃないよ。昔より君は愚劣になったな。さア、よし、ぼくも飲む。君は、やけになっちゃいかん。軍人も人間だってこと、忘れないほうが賢明だな」
 とやりかえしただけだった。
 山岸がいちばん酔い、ツンツンレロレロ、お前とおれとは……といっしょうけんめい、くりかえしていた。


 誰も知るように、空襲はますますはげしくなり、東京の全域がほとんど焦土しょうどと化した。
 ところが、あたしの家の近くだけは、奇跡的にも戦災をうけず、だからその意味ではあの防空壕が、まったく役に立たなかったのだから、まことに皮肉だといってもいいだろう。
 やがて昭和二十年の八月十五日……。
 終戦になるとその年の暮れまで、父は少しも家におちつかず、あの当時の地獄列車に乗って旅行ばかりしていた。そうしてその旅行もひどく長く、時には二週間あまりもかかって、あげくにげっそりと痩せて帰ってくるようなことがあったから、
「お父さま。もうよそへ行かず、家にいてちょうだい。千春、淋しいのよ。それに心配ですもの」
 といってみたが、それだけは父も昔のように頑固で、あたしの言葉など、耳に入れてはくれなかった。父は、部下のうちの戦死者遺族を、北海道から九州まで訪ね歩いて、お詫びを述べてきたのである。肥っていた父は、見るかげもなく痩せた。そうしてその遺族訪問の仕事が一段落つくと、ぐったり疲れて、虚脱の状態におちいってしまった。
 あたしは、まだ子供だったから、そんなに深く考えることはなかったけれど、それはひどい昏迷こんめいと動揺との時期だった。父は、現役の軍人だっただけに、木から落ちた猿みたいなもので、前途に対する目論見もくろみも立たず、ただ茫然として、世の中の移り変りを見ているよりほかなかったのだろう。それでも、元気を出そうとして、あせっていたのにはちがいない。ある日あたしが学校から帰ると、父はさびしそうにしていった。
「どうだ千春。お前は東京と田舎と、どっちがいいと思うね」
「さア、どっちでしょうか。東京も、楽しいとこ、なくなっちゃったのね。だけど田舎だって、同じじゃないのかしら」
「実はね、橋本の小父さんが来たよ。そしてね、大学の先生をやめて、本屋さんをはじめるのだって、話して行った……」
「あら、あら、どうしてですの。本屋さんなんかより、大学の先生のほうがりっぱだわ」
「うん、お前には、よくわからないことさ。アメリカの役人と喧嘩をしたのだそうだ。あの男は、気が弱くてね。それでいて喧嘩したっていうのだから、よっぽどのことがあったのだろう。そのあと、学校がいやになったというわけだ。古本屋だろうと思うが」
「古本屋は、もうかるのですか」
「それはわからない。歴史の先生が急に商人になったって、そううまくは行かないだろう。しかし、お父さんも考えた。いつまでもぼんやりしてはいられない。だから、田舎へ帰って、お百姓にでもなったら、と思ってみたのだ。千春は、お百姓、嫌いかい」
「ええ、それは、好きじゃありませんわ。学校の菜園作ると、指の爪へ、泥がまっ黒にはいってしまうんですもの」
「そうか、そうか。千春がいやだというなら、お百姓よそうね。お百姓だと、田の草とりなんかやらなきゃならない。田んぼには、大きなひるがいてね」
「怖いわ。血を吸うんでしょう」
「そうだよ。アハハハ……蛭は、お父さんも大きらいさ」
 あたしの気を引いてみただけのことで終ったけれど、父としては、さしずめの暮らしのことでも、頭を悩ましていたわけだろう。父は、田舎の中程度富裕な農家のひとり息子だった。農業を嫌って軍人になったものである。その田舎に、少しばかりの山林があり、戦後の木材の値上がりで、それが一時のうち、父とあたしの生活をささえた。でも、山林は、じきに売りつくしたらしい。次第に暮らしは苦しくなってきていた。ついでにいうと、そのころに、ばあやのお霜さんがひまをとっている。お霜さんの息子が名前を山崎哲男といって、これはもと町の与太もんみたいな男だったそうだが、どうかした拍子で堅気かたぎになり、母親を引取ることになったわけである。父は、お霜さんがいなくなっても、代りの女中など雇わなかった。家計のことを考えたのだろう。家の中は、完全に父と子とのふたりだけになった。炊事やお掃除を、父もしてくれた。父のく御飯は、いつもげたり、しんがあったりした。冬のうちのお洗濯で、あたしの手には、しもやけができてしまった。
 ――終戦翌年の春、あたしは中学へはいっている。
 この中学で、いちばんはじめに述べたキャムベルさんのことがあったのだけれど、それ以前に、父とあたしとについて、もっともっと大きな事件が起ったことを、ここではとくに詳しく言いておかねばなるまい。
 六月の入梅になってから間もなくだった。
 父が、だしぬけに、言出した。
「ねえ千春。お父さんも、やっと決心がきまったよ。事業をはじめる。金融会社だ」
「金融会社って?」
「早くいえば金貸しさ。実はね、去年のお正月だった。わたしんとこへ二三度きたことがあるから、千春だって知ってるだろう。川口さんていうひと」
「ええ、知ってるわ。頭の禿げた、目の大きなひとね。カッパみたいな顔してるから、おかしかったわ」
「あれはね、海軍報道部へ出入していた男だ。まじめなやつだが、子供が多くて貧乏している。私に金を貸してくれといってきたのでね。ちょうど、お父さんもまだ余裕があったから、二万円だけ貸してやったわけだ。ところが、こないだやってきて、今度いい新聞社へ勤めることになったし、生活も楽になったのだといって、貸した二万円を返してくれたし、そのほかに、利子だといって、五千円もおいて行ったのさ。期間は一年をちょっと越しているけれど、二割以上の利子なんだ。銀行だと、とてもそんな利子はつけてくれない。ところが、聞いてみると、今はそういう金の利子はとても高い。トイチってのもあるそうだよ」
 父が、そんなにたくさんの利子は受取れないというと、川口さんは、トイチの利子の話をしたのだそうだ。それに比べると、一年で五千円ぐらい、ただみたいなものだといい、それを押しつけるようにして帰って行った。しかし父は、そのことから、高利貸しをしようと思い立ったわけである。トイチというのは、十日に一割の利子がつくということで、それだと、元金いくらでいくら儲かる、ということを、父はちゃんと計算してみたというのであった。
「どうだ、いい商売じゃないか」
「そうね。お金儲けはなすったほうがいいと思うの。だけど、お父さまに、そんなことおできになる?」
「できるさ。問題は資本金を作ることだ。見ていろ、今年の暮れまでに、百万円も一千万円も儲けてみせるぞ」
「わア、すごい! それだったら、とってもいいわ。千春に、新しい自転車を買ってね。いまんの、じきにもうだめになるわ」
「よしきた。そんなもの、わけない」
 合法的にではなく、もぐりでやるつもりだったのだろう。海軍の忠誠なる軍人だったものが、そんなことをやるについては、父も良心的にはやましいものがあったのにちがいなく、しかしあたしの前では、わざと元気な顔をしていた。あたしのほうは、べつに悪いことだと思わない。世の中のすべてが、裏街道ばかりだった。父に仕事ができ、しかもお金儲けだから、とても結構だと思った。
 父は、金策にかかった。
 家と土地がある。
 それで五十万円もできることになった。
 次に、友人知己ちき、親戚をかけずり回った。
 新聞記者の川口貞雄さんが、一万五千円、出資した。
 父の従弟いとこで、下谷の食料品店をやっていた友野乙也という男が、たいそう乗気になって二十万円出した。
 橋本の小父さまが、これは本屋の商売があまりうまく行かず、また、
「ばかだな。高利貸しなんて、みっともないよ。そんなこと、よせよ」
 といって父に反対したが、昔から父は、この小父さまに対しては、とくに押しが強かったのだという。強引に小父さまをき伏せた。そうして小父さまは、工面したお金を三万円出資した。
 合計で、七十四万五千円だった。
 父は、資金が百万円欲しかったのだそうで、しかし、それだけをこしらえるのがせいいっぱいだった。六月からかかって、七月の終りごろに、それもやっと、まとまったのであった。
 八月一日、月曜日のことである。
 あたしは、暑中休暇になって家にいたが、この日の昼少しすぎ、アロハを着た、いやな目つきの男が、やってきた。
 玄関で、
「ちわア。こんちはア……」
 と、御用聞きのような言いかたで、案内を乞う声がしたから、はじめにあたしが出てみると、いきなりその男は、
「だしぬけにあがって、失礼さんですが、お宅に、うちのおふくろがきているでしょう。おふくろに、会わせておくんなさい」
 扇子せんすで顔をあおぎながらいった。
 唇のはしに、傷のあとがあり、それでいて日灼ひやけした顔に、青いサングラスの眼鏡をかけている。
「あの、どなたのことでしょう。おふくろさんて……」
「私は、お宅で御厄介になっていたお霜のせがれですよ。山綺哲男っていうんですが」
 と、その男は、家の中をのぞきこむようにしていった。
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鏡の中の賊



「ああ、ばあやさんなら、ずっと前に、もう暇をとったんですよ」
「それは知ってますがね。おとついから、わたしんとこにいなくなったんですよ」
「でも、家へきたことありませんわ。ばあやさん、たっしゃだったんですか」
「たっしゃか、たっしゃでねえか。顔見たら、わかってるはずだと思うね。出して下さいよ。伜が、おふくろに、詫びを言いにきたんだといってくださりゃいい」
 あたしと押問答の末に、山崎哲男は、
「ちょッ! おふくろをかばい立てするならしてもいい。しかし、ばかにするな!」
 すごんでいって、上がり口へ腰をかけてしまった。
 このお霜さんの息子が、堅気になったというのは嘘だったらしい。お霜さんは、息子のところを飛び出した。うちでかくまっていると、見込みをつけて、山崎は押しかけてきたのである。
 あたしが腹を立てながらも、ばあやさんがきていないことを話していると、父が玄関へ出てきた。
 父は、悠然として、男の前であぐらをかいた。黙って、じっと顔を見ているだけで、口をきかない。
 喧嘩になるのではないかと心配したが、そこは海軍中佐だっただけの貫禄かんろくだろう。男のほうが、だんだん困ったような目つきになり、改めて、ペコリと頭を下げ、それからお霜さんのことを言出した。ずいぶん、長くしゃべった。親子でしょっちゅう口争いをしたのだという。自分が酒を飲むから悪い。今後は禁酒して親孝行になる。だから、母親をつれて帰らせてくれ、というのであった。さんざんにしゃべらせてから、父は、
「さア、もうわかったよ。君のお母さんは、きていないのだ。疑うのだったら、家へあがって見てもいいさ。帰ってもらおう」
 にべもなくいったが、それには男も、ムッとした顔つきになり、そのくせ、しかたなしに立上がった。それから、
「お邪魔さんでした。図星と思ってきたんですが、きていねえってんじゃ、諦めますよ。――もし、あとできたら、わたしが詫びをいいにきたってことを、おふくろに話しておくんなさいよ」
 疑っている口調でいってから、いったん、そとへ出ておいて、また玄関まで引返すと、
「おふくろが、話していました。庭に防空壕があるんだそうですね。大きい防空壕だっていうことだが、中を見せてもらってもいいでしょうか」
 といったのは、そこにお霜さんがかくれているとでも思ったのだろう。よくよく、執念しゅうねん深く、また疑い深い男だった。まだ当時のままにしてあった防空壕へ、庭の口からはいり、しばらくごそごそしていたようだが、出てから彼は、あの河馬に似たライオンの盛土のところでノッソリとつっ立ち、何か考えるようにしてこっちを眺めてから、さて未練そうに帰って行ったのであった。
「ばあやも、とんだ息子を持ったものだな。ばあやは、お給金をためていたんだよ。息子に、せびりとられるのだろう。たまらなくなって飛び出したというわけだ。間違いをしでかしてくれなけりゃいいが」
 あとで父はいったが、それだけでそのことはすんだ形になったから、あたしも深くはさきのことを考えなかった。そうしてその日の夜になってから、父はあたしに、たくさんの紙幣の束を出して見せた。
「どうだ。これで七十四万五千円だよ」
 と、父は、茶の間のちゃぶ台へ、自慢そうにして、その紙幣の束をつみあげたが、そのころは千円札もまだ出なかった。全部が百円札だったから、ある程度それはかさ高なものだった。
「わア、すごいな。このお金……」
「こいつはね、あっち、こっちの銀行へ、ちびちびと預けておいたんだけれど、きのう、橋本のやつが、へんなこといやがった。あいつは、三万円出したきりだろう。だのに、ほかの出資が集まったというのは、嘘じゃないかっていうんだよ。つまり、お父さんが、いい加減なことをいって、橋本の金を三万円、借りたのじゃないかって、疑ってる、しゃくだからね。来い、全額を現金で見せてやるっていって来た。あすの朝、来るだろう。だからこうやって、揃えといたわけだよ」
「でも、銀行の通帳見せてあげれば、よかったんじゃない」
「うん、それはそうだ。しかし、ほんとのこというとね、お父さんも、七十四万五千円の現金というものは見たかったのさ。お父さんも、子供みたいだね。こんなにたくさんの札束を見るなんて、生れてからはじめてだよ」
 たしかにその時、あたしの頭の中では、ある不吉な予感が、チラリとひらめいたのである。それを、なぜ口へ出さなかったのかと、あとでは後悔したが追いつかない。逃れられぬ運命というものの作用だったのだろうか。半生へいぜいなら、思ったことを、さしひかえて黙っているあたしではない。父は、
「これがね、一年後――いや、一年じゃ無理かな。少なくとも二年後には、一千万円になる金さ。やり方は、十分に研究した。元金も利子も、取りはぐれなくやれるのだから、大丈夫だ。つまり、これは一千万円だと思ってもいいんだよ。一千万円になれば、そいつをまたフルに回すと、その二年後には一億円だろう。これだけの札が、一億円だと思ってもいい。今夜はこいつをわたしは、おがんで寝るよ。アハハハ……」
 とたいそう機嫌がいい。あたしは、ついに何も言わなかったわけである。
 その夜あたしは、わりにおそくまで起きていた。学校の図書から借りてきた翻訳小説が面白く、十二時近くまで、それに読みふけった。
 父も、同じころまで起きていた。
 寝るのは、父が奥の八畳で、あたしが、茶の間と父の部屋とにはさまれた六畳だったが、間の唐紙からかみは、夏のことだから、あけっぱなしだった。
 あたしが、父の床をとってあげたが、父は枕もとへ、さっきの札束を、唐草模様のある青い風呂敷へ包んで特ってきておいた。
「あら、あら、そんなとこへおくんですか」
「うん。枕にして寝たいところだよ。――そしてね、血も涙もない高利貸しになる。日歩五十銭にしようという話がきまった。トイチにゃならない。十日で五分の利息だが、こういうことをしていいか悪いか、お父さんは、もういっぺん考えてみたいと思ってね」
 そういったのが、父の最後の言葉になったわけである。
 あたしは、蚊帳かやがきらいで、蚊とり線香をたくだけで寝たが、父は、蚊帳がないと眠られないという。その蚊帳は、結婚当時に母が里から持ってきたものだそうで、本麻のたいそう旧式な重たい蚊帳だった。少し黒ずんだ緑色だが、すそのほうに、色があせて、黄色くなったところがあり、吊手つりての紐が切れたのを、父は前線から持ってきた。パラシュートの絹紐でつないである。なんだか不気味で、いやな蚊帳だった。それを、あたしも手伝って、つってあげて、さてあたしたちは寝たのであった。
 二時間してから、賊がはいった。


 夢と現実との境が明瞭でない。
 なにか重苦しいものが、あたしを追いかけるようでもあり、また、上からのしかかってくるようでもあった。
 あたしは、赤いしまのはいったタオル地のパジャマを着ていた。不思議にも、最初のハッキリした知覚としては、そのパジャマのどこかが、ベリッと音を立てて引裂けたことであった。
 その前に、賊は、あたしの手を逆にねじあげ、あたしをうつ伏せにし、どっかとあたしの背に踏みまたがっていたのである。賊が、たいそう手早かったのか、でなくば、あたしが他愛なく熟睡しきっていたのだろう。次にあたしは、賊のはいていた黒い靴が、あたしの腕の下へもぐりこみ、爪先きがあたしのおとがいの下へ出ているのを見た。また同時に、お蒲団の横の畳の上に、短刀が一本、グサとつき立てられているのを見た。その短刀は、つかのところが、青く光っていた。おそらく、金属、もしくは螺鈿らでん細工のついた柄だったろう。螺鈿細工だとすると、白い木の柄がついた日本式の短刀とはちがうもので、洋風の大ぶりなナイフ、ということになるのかもしれない。
 背中にいる賊の顔を、ついに見ておくだけのゆとりがなかった。
「騷ぐな! 騷ぐと殺すぞ」
 と賊は、低くおさえつけた強い声でいった。それは、いつかどこかで、聞いたことがあるというかすかな記憶が。残っているような声でもあり、またまるっきり聞きおぼえのないような声でもあった。
 あたしのほうは、そんなこと言われなくても、畳の短刀を見たのだから、助けを呼ぶこともできない。声でも立てたら、ほんとうに殺されるのだということを、身体じゅうで知っていた。どうにもならない。されるままになるよりはかないと、口惜しいが、諦めてしまっていた。
 こんな場合にはよくあることだそうだが、子供だったにしろあたしは女で、その女の身体からだへ、それ以上のはずかしめを受けなかったのは、せめてもの幸いだったのだろう。その辱めの代りに、賊はあたしの手と足とを、なにかの紐でギュウギュウしばった。そしてあたしは目かくしをされ、口には、そばへぬいでおいたスリップをつめこまれ、声も立てぬようにされてから、ゴロリとそこへ寝かされていた。
 勝気だったからあたしは、目かくしの下で口惜し涙が出た。
 が、じきに気になりだしたのは、父のことである。
 父の声も聞えず、また目かくしのため、父の部屋のほうを見ることもできない。そのうちに、箪笥のかんが、カチカチと鳴りだした。賊が引出しを一つ一つ、あけてみていたのである。それに賊は、ずいぶん長い時間をかけていた。それから、ちょっとのうち、靴でゴトリゴトリ、廊下を歩く気配けはいもした。
 あたしは、じっとしていて、そういう物音に耳を傾けたが、賊がもうあたしのそばにはいないのだとわかると、身を横にねじ向け、枕の角のところへ、顔をこすりつけた。
 あたしも父も、枕は、陶枕という瀬戸の枕を使っていた。ずっと以前からそうだった。父が、そういう枕が頭のためにいいのだと聞いてきて、あたしにもそれをさせたのである。堅いけれど、美しい形をしていて、つめたく気持のいい枕だった。あたしは、その陶枕の堅さを利用し、目かくしをはずそうと試みたのである。それは耳のうしろでしばってあり、なかなか思うようにならない。おでこやこめかみのあたりが、すりむけて痛かった。一心こめてやっていると、やっとこさ目かくしがずれてきた。そうして、右の目のところだけ、首を曲げおとがいをぐっと引くと、そこらが部分的に見えるようになった。
 はじめに、父の部屋の電灯がついているのがわかった。父もあたしも、電灯は消して寝た。賊がつけたものである。
 次に、すぐ目についたのは、父の部屋の気味の悪い蚊帳で、それは床の間へ向った右手の隅が、一カ所だけ、吊手の紐を引きちぎってある。だからその部分が、ダラリと低く垂れ下がり、ちょうど父の顔のあたりへ、おおいかぶさっているようだった。ヒェッと、胸がふるえる気がしたのは、その蚊帳に、赤黒くねばねばしたものが、しみついていることだった。それはまぎれもなく血だった。すでにその時父は、賊のため、どこかを斬られるか刺されるかしていたのである。
 父が生きているか死んでいるか、わからない。
 何かかすかな音がし、蚊帳がゆらゆらと動いたが、それは賊が、蚊帳の向う側の、押入れの前あたりにいたからである。押入れをあけ、中を捜しているのだとわかった。
 あたしは、って行ってでも、賊の顔を見てやりたかった。
 一方では、父の安否を気づかい、ドキンドキンと、自分の心臓の鳴るのが聞えるほどだった。
 その時、とつぜんあたしの視線は、あたしの部屋の、廊下へ出る障子のそばにおいてあった鏡台をとらえた。それは、母の形見の鏡台だった。いつもだと、御所車の模様がある友禅ゆうぜんのカバーがかけてあるのだけれど。賊が歩き回る時にでもさわったのだろう。その友禅は半分ほどはずれかかっていて、その部分に何か動くものが映っている。角度が、ちょうどに、蚊帳の向うの押入れのほうへ向いていた。光線が十分でなくて定かではない。しかし、その鏡の中で動くものは、押入れと蚊帳とのあいだに立っている賊のうしろ姿であった。
 部屋の広さに対比して、ひどくそれは、遠くはなれた場所のように感じられた。なにかしら、不協和な映像だった。そうしてあたしは、怖いから目を閉じたくなり、それをこらえて、いっしょけんめい鏡をのぞいていた。
 賊は、形はハッキリしないけれど、とにかく黒い帽子をかぶっている。中肉中背の男に見えた。そして、バンドのついたレインコートを着ていたのではなかったろうか。顔には、かぶった帽子ぐるみ頬かむりをしていて、その頬かむりは、タオルでない日本式の手拭いであった。手拭いには、ローマ字か何か染め出してあった。その字は青い色で。数カ所並んでいるらしく、手拭の皺でゆがんではいるけれど、そのうちのCIOという三字だけがはっきり見えた。でも、背中が鏡に映っているのだから、見たいと思った顔はやはり見えない。
 鏡の中で、まっ黒に見える部分は、あけたままにしてある押入れだ、とあたしは考えてから、わかった。賊は、その押入れの中を、背伸びしてのぞき、両腕をさし入れてかき回し、またしゃがんで下段をのぞいてから、ちょっとのうち、何か考えているような姿勢になった。思うに賊はその時まで、押入れだの箪笥だのを捜すことにのみ気を奪われ、実は七十四万五千円の札束が、風呂敷に包んだだけのことで、父のすぐ枕もとにおいてあることを、知らなかったのではあるまいか。あるいは、はじめに父を刺した時、その風呂敷包みを、見たには見ている。けれども、注意しなかった。何かつまらない本か器具の包みだと思いこんだ。そうして、ほかを捜していた、というようなところかも知れない。
 ふいに賊は、ピクンと、虫のようにおどりあがった。
 そしてすぐ、蚊帳のうちを、のぞきこむ姿勢になった。
 その時父が身動きをした。それに賊は驚いたのである。おそらく父は、最初の一撃をうけていたが、まだ死んでいたわけではなく、ことに気丈なたちだったから、賊が油断しているのを見すまして、蚊帳のうちを逃げ出すとか、または助けを呼ぶとか、するつもりだったのだろう。賊のほうでは、殺してしまったつもりのものが、まだ生きていたのだと知ると、急に敏捷びんしょうな行動を起した。
 念のために断っておこう。
 それからのことを、あたしは、わずかに視界のひらけた右の目の隅で、それも鏡の中で見ていたのである。賊の動き、父の動きを、じかにこまかく見たのではない。部分的に鏡の底に映っただけのものを、頭の中でつなぎ合せて、その場の全部の光景が、そうであったと想像しただけのことである。ただし、深く印象に残り、それだけははっきり見えたのが、賊の手にどこから出したか、さっきはあたしの枕もとにつき刺してあった短刀が、刃をむきだしにして、握られていたことだった。その短刀を握る手つきが、どうしてだか、ぶきっちょな、不自然な形に見えた。これはまことに重大なことである。実は、ぶきっちょでもなんでもなく、鏡というものの奇妙な作用で、そのような印象が、あたしの物を見る知覚の一カ所へ、ひょいっと、ひっかかっただけのものかも知れない。鏡の中で、刃はにぶく光った。そうして賊は、蚊帳の裾をまくりあげて、中へおどりこんだ。
 蚊帳が、だぶん、だぶん、大きくゆれた。
 天井からぶらさがっていた電灯もグラグラ動き、同時に、ズシンズシンと、家中に響きわたる音がした。
 父は、柔道を三段までとったというのが自慢だった。だから、はじめの傷をうけてはいたが、その時、死力をふりしぼって、賊に抵抗したのである。
 もう鏡には、ゆれうごく蚊帳が映っているだけだった。あたしは、父に加勢し、賊にみついてやりたかったが、どうにもならなかった。そうして最後に、父の片足が蚊帳のそとへニュッとつき出され、その時に、父の叫び声がした。
 その叫び声のことを、とくにここでは、大書しておかねばならないだろう。それは。
「あッ、貴様! チクショウ……」
 というのであった。声は低く押しひしゃがれたようで。発音がたいそう不明瞭だった。誰でもが、そんな場合には、そう叫ぶのかも知れない。しかし、その叫びの語勢というか語韻ごいんというかには、とくべつな感じがこめられていた。それは賊の顔を見て、それが誰だがわかったから、その名前を口に出そうとしたものだった。たしかにあたしは、そう聞いた。しかも、それ以上には、父ももう、口がきけなかったらしい。すぐに、二度とは聞きたくない、ギャアッ! というような悲鳴が起った。賊の手の短刀が、父の急所を刺し、ついに父は死んだのである。
 はげしい格闘で、賊も疲れたのだろう。
 せいせいいう息づかいが、あたしのところまで聞えてきた。
 やがて、また鏡に映ったのは、蚊帳から出てきた賊の横向きの姿である。今度は賊は、気がついたらしい。あの風呂敷包みを、片手に持っていた。蚊帳を出たばかりの時、それを足もとにおき、頬かむりをしなおした。格闘で頬かむりがゆるみ、その時父に、顔を見られたのにちがいない。頬かむりをしなおすと、賊は、部屋を去ったが、直後に、台所で水道の音がした。血を洗い、また水を飲んだのであろう。あたしのほうは、怖さに圧倒され、身をちぢかめていただけであった。
[#改段]

つむじ曲り



 朝になって、八時を少し過ぎたころだったろう。橋本の小父さまが家へいらした。
 あたしは、その時まで。手足をくくられたままで寝かされていて、玄関から小父さまの案内を乞う声が聞えると、ああ、これで助かったのだと思いながら、なにしろ口のところをきつくしばられているから、返事もできない。でも、くくられた両脚をつっぱり、お尻をもちあげ、ころげ出した廊下のところで、ドシンバタン、あばれて音を立ててやった。
 その音で小父さまは、家の中の様子が、どうもへんだわい、と気がついたのだそうだ。そして玄関は、内側から戸締りがしてあってあかないからお台所へ回ると、こっちはガラス戸が、大きくあいたままになっていたのだという。
「おやおや、どうしたんだい。不用心だな」
 という小父さまの声をあたしは聞いた。それから小父さまははいってきて、その場の血みどろの光景に、びっくり仰天ぎょうてんしたという順序になるのである。
 小父さまが、どんな顔で、どんなふうにしてびっくりなすったのか、あたしは見ていない。あとで聞くと、
「いや、わたしはね、気の弱いたちだよ。どうかした拍子で、変死人など見ると、とても気持が悪くて、あとは御飯もろくに咽喉のどを通らない。それが、あの有様だったのだから、まるでもう、目まいがしてきたみたいだった。いきなり、逃げだしたくなったよ。それをまアやっとこらえた。千春ちゃんは、死んでいるんじゃなくて、生きているのだとわかったからね」
 とおっしゃったが、あたしのほうは、そうやって小父さまがびっくり仰天、ウロウロマゴマゴしている間を、たいへん長く感じ、待っているのが、なんだかじれったくなったものである。
 はじめに小父さまは、あたしの目かくしをほどき、口の中へつめこんであったものを、とってくだすった。しかし、足や手をくくってある紐をとく時には、あわてていたのだろう、結び目を逆に堅くしめたりなんかして、なかなかとけない。やりかたが、へんにのろのろしているみたいで、
「そんなとこ、切ってしまってよ。お鏡台の引出しにはさみがはいっていますわ」
 あたしは、泣きながら、癇癪かんしゃくを起しそうになって叫んだことをおぼえている。紐がとれても、あたしは身体じゅうがしびれていた。口の中の唾液だえきがなくなり、かさかさだった。すぐには足も腰も立たなかった。
 とりあえず、小父さまが、警察へお知らせになった。
 すると、おどろいたことには、所轄目白署と警視庁から、いっぺんに何十人という、私服や制服の警官が乗りこんできたから、狭い家の中は、たちまち人でいっぱいになり、そこらじゅう、ひっくりかえしたような騒ぎになってしまったが、それからのちの取調べの情況は、そう事細かに書くにもあたるまいと思う。
 小父さまは、
「わたしは、橋本泰治といいます。殺された大谷とは、少年時代からの友人です。今朝、わたしが大谷を訪ねる、という約束になっていました。しかし、来て見たら、この有様でして……」
 と、惨劇発見の顛末てんまつを話した。たずねる約束だった、というのは、あたしも知っている。父がそういっていた。資金の全額を、現金で見せてやるという約束だった。しかし、その金は賊が持って行ってしまったのである。
 あたしのほうは、むろん、いろいろ訊かれた。二人も三人もの刑事が、また刑事より上役らしい係官が、何回でもくりかえして同じようなことを訊く。怖さと悲しさとで、身も心ももみくちゃになっているから、あたしにはその反復される質問が、苦痛であり、腹立たしかった。父のそばへ行き、泣いている、というだけのゆとりもありはしない。たいそう暑い日たった。身体が汗でベトベトだった。お湯殿へ行き、はだかになって汗をふきたいと思う。でもそのお湯殿にまで刑事が行って、指紋でも捜すのだろう。何かゴソゴソしている。新聞社がきて、あたしの写真をとらせてくれといった。
「いやです!」
 とあたしはことわった。しまいには、警察の人にも、ろくな答えをしてやらず、癇癪を起していることを、むきだしにするような素振りを、わざとしてやった。きっと感情を害しただろう。でも、しかたがなかったのである。あたしの申立てたことは、いくどくりかえしても同じこと。つづめると、次のようなものだった。
「父は、金融会社をはじめるのだといって、その資金を七十四万五千円こしらえました。昨夜、その金をあたしにも見せて、風呂敷包みにし、枕もとへおいて寝たのです。資金を出した人は、橋本の小父さまをはじめ、二三人です。それは、橋本の小父さまが、あたしより詳しく知っていらっしゃるから、小父さまに尋ねて下さい。
 賊がはいってきたのは二時ごろだったのじゃないでしょうか。その賊はひとりきりでした。顔を見せないように手拭いで頬かむりをしていて、中肉中背の男でした。手拭いには青くローマ字が染め出してあり、その中に、CIOという字があったと思います。服装は、バンドのついたレインコートです。帽子は黒い帽子で、でも、頬かむりの手拭いがその上からかかっていて、形がわかりませんでした。はいていた靴も黒でした。その爪先きはたいそうとんがっていたように思います。
 はじめに賊は家の中を、あちらこちら捜し回っていましたが、それで見ると賊は、家の中の勝手に明るく、また、お金がたくさんあって、それをどこかにしまってある、と知っていたのじゃないでしょうか。それから父は、賊の顔を、見知っていたのだと思います。その名前を、叫んであたしに知らせようとしました。でも、それを言えないうちに、死んでしまったのです――」
 あたしのこの申立ての中で、賊が屋内の勝手を知っていて、父と顔見知りであろうといった推測は、ほかの点から考えてみても、まず間違いのないところだとされたらしい。
 お台所の戸が、あけはなしになっていたから、賊がそこから出て行ったことはわかっている。
 しかし、侵入口は、あの防空壕からだと誰もすぐに断定した。茶の間の、壕へおりる口の畳が、下から押し上げられたままの裏返しになっていたのである。といって、壕の内部には、べつだん誰の足跡もなかったのだそうだが、それは壕の中に、板がしいてある。もう古くて、湿気のために腐れかかっていたけれども、とにかく賊は、その板の上を歩いたからのことであろう。一つか二つ、ぼんやりしたかかとのあとはついていたのだという。とにかくこれで見ると、賊は、防空壕からなら、屋内へ侵入できることを知っていたわけで、従って、深くか浅くか、屋内の勝手をわきまえていた者、ということになるのであった。
 刑事が、あたしにまた訊いた。
 その刑事は、唇が厚く、獰猛どうもうな顔つきをしていて、あたしを呼ぶのに「おねえちゃん」といって下品な呼び方をするし、そのほかでも、ことのほか礼儀知らずで、乱暴な言葉づかいをするひとだった。
「どうかね。この防空壕は、戦時中に作ったんだね」
「きまってますわ。戦争が終ってから防空壕作ったのなんて、聞いたことありませんわ」
「おっと、そうか。やられたな。しかし、おねえちゃん、その時以来この防空壕へは、多勢人がはいっただろうな」
「それは、はいっていますわ。警報が鳴ると、しょっちゅう、はいりました」
「いや最近だよ。最近に誰かはいったものがいねえのかね」
 ありていはあたしは、そんなことを言われなくても、ちゃんと気がついていたことがある。最近も最近、父が殺されるよりたった十二時間前だった。お霜さんの息子がきて、壕の中をのぞいて行っている。それをあたしは、その時まで、わざとだまっていてやった。ほんとは、言っていいか悪いか、わからなかったのである。
「ええ、それは、ないとは言えませんけれど――」
「ふーん、誰だねそれは?」
「言いたくないんです。言ったら、きっとそのひとが、疑われると思いますから」
「いいじゃないか。疑われるのは、疑われるだけのことがあるからだよ。おねえちゃんが、言いたくねえってのは、おかしいね。おねえちゃんは、子供だと思ったけれど、ませているね。誰か好きな人があってその人が……」
「失礼ね。そんな下品なこと、言わないで下さい。そのひとは、とってもいやなひとです。いやだけれど、そのひとじゃないっていう気がするんです。つい、きのう、そのひとは家へ来て、壕の中をのぞいて行きました」
「ナ、ナニ……きのうだって!」
 刑事は、眼玉をギロリとさせた。
 そして、とうとうあたしは、山崎哲男のことを話させられてしまった。見たばかりでも、ならず者らしいということ。母親のお霜さんのこと。父が出て追い返したということ、それらをありのままに話してしまった。
「なるほどね。お父さんがそいつを追い返したってんなら、顔知ってたはずだな。うん、しかし、へんじゃねえかヨ、おねえちゃんは。その山崎ってやつ、それだけのことがあるのに、まるでおねえちゃん、かばいだてしているみたいだね」
「かばうのじゃありません。でも、父を殺したのは、きっとほかのひとだったと思うのです」
「ますますおかしいぜ。どうしてだい。どうしてそんなことが言えるんだい」
「あたくしは、鏡の中で、賊のうしろ姿を見ました。それは、お霜さんの息子のごろつきとは、まるっきり違った感じでした。どこがどう違うかってことは、口で言えません。けれども違います。あたしに、騒ぐと殺すぞ……って言いました。その声も、どこかで聞いたことのある声で、でも、あのごろつきとは違うって気がします」
「わからんな、気がするとか感じがするとか、そんなものは、あてになられえよ」
「そうですか。じゃ、しかたがありません」
 あたしは、まだもっと言いたいことがある気がしたが、それ以上には何も言えなかった。具体的に並べ立てて、人を納得させるだけの根拠がべつにない。そのくせ、山崎哲男が怪しいにしても、あの賊ではないという、確信に似たものが、あたしの胸のどこかにわだかまっていて、それをうまく口へ出せなかったのである。
 刑事は、
「まアいいや。おねえちゃんに、迷惑はかからねえようにしてやるよ。しかし、おねえちゃんは、つむじ曲りだね。おどろいたよ」
 といった。そして、それから間もなくして警察は、山崎哲男逮捕の手配にとりかかった。無理もない。ほかの誰よりも、疑われていい立場に彼はいたわけだった。


 橋本の小父さまから知らせてやって、小父さまと同じく、金融会社の出資者である友野乙也、並びに川口貞雄、このふたりが呼び迎えられてきたのは、その日の午後になってからのことだったろう。
 ふたりのうち友野は、前にいったように、下谷で食料品店を経営していて、あたしの父とは従兄弟いとこ同志だったから、顔を見ればあたしは、やはり小父さまと呼んでいたひとである。ところが、このひとは、いわゆる血も涙もない人間で、欲のかたまりのようなひとだった。
 多分、友野の小父さまにとっては、元海軍中佐であり、自分の従兄いとこだった大谷正明が、賊のため殺されたということよりは、それと同時に、会社の資金を全額盗まれたということのほうが、はるかに重大だったのだろう。この男は、あたしを、まだ中学二年生の子供だとあなどってか、父の死に対し、ろくにおくやみも言わなかった。それどころか、現金が風呂敷包みにしてあったのだと知ると、
あきれて、物が言えないね。まるでそれじゃ強盗に、盗んでくれっていっているようなものだよ。当節は物騒な世の中ですよ。七十四万五千円もありゃ、誰だって目をつけますよ。橋本さんも橋本さんだ。出資金の全額を見せてもらいたいなんて、とんでもないことを言出したもんだ。え、なに? べつに現金で見たかったわけじゃないんだって、へえ、そうですか。大谷の馬鹿が、現金で揃えといて見せるっていったんですね。そうでしょう。わたしとはいとこだったが、そういうやつでしたよあいつは。ああいう馬鹿なところがあったから、海軍にいても、ろくに出世しなかったんだ。とにかく、わたしは大損害だ。強盗がつかまったところで、金のほうは戻りっこがない。どうせそれまでにゃ、使ってしまう金ですよ」
 と愚痴だらだら、父を馬鹿だといってののしる始末。
 金のことでは、たいそうあっさりしていたのが、新聞記者の川口さんだった。もっとも出資金はこのひとがいちばん少なく、たった一万五千円だったのだけれど、友野食料品店で出した二十万円にくらべたら、ずいぶん辛い金だったのかも知れない。でも。「諦めますよ。どっちみち、わたしは金運のない男でしてね。それが大谷さんから、高利貸しをやるって聞いたものだから、一口乗せてくれって、実はわたしのほうから言出したんですよ。写真機を売って金をこしらえた。しかし、自分はよそで懐手ふところでしていて、大谷さんに儲けさしてもらおうって考えたのが、もともと虫のいい考えだったんですよ。金は、戻らなくてもしかたがない。それよりかわたしは、大新聞毎朝ニウスの記者ともあろうものが、欲の深い高利貸しをやろうとしてたってこと、世間へ知られるのが気まりが悪いですよ」
 といって、その禿げた頭をかいているのであった。
 ふたりにくらべると、橋本の小父さまの言分け、その中間といったところだろう。
「いや、わたしはね、大谷が金融会社をやるといった時、大いに反対したのでね。それが大谷は、昔からの気質で、言い出したらきかない。結局、むりやり賛成させられたが、わたしの分の出資金三万円というのも、こしらえるのはずいぶん苦しかったわけだ。はじめた古本屋がどうにかこうにか、食えるだけだ。これじゃ、やっぱりわたしは学校の先生していたほうが、よかったんじゃないかと後悔していたところで、それを大谷は十万円出せという、ま、あやまって三万円だけ出したんだが、欲をいえば、犯人が早くつかまって、半分だけでも、金が戻ればいいと思うね。半分戻れば、わたしとしては、ずいぶん助かることになるからね」
 といっている。
 父の死体は、解剖のため、大学へ運ばれて行った。
 警察の人たちが、まだたくさん家の中にいて、巻尺でそこらの寸法をはかったり、写真をとり見取図を作り、それから、防空壕の中を調べたりしていた。
 あたしのほうは、父を失った悲しみのほかに、友野の小父さまやなんかとちがって、出資金がどうのこうのどころではない。父とあたしのふたりきりの暮しだった。あたしは、ひとりきりで残された。まだ子供であり、これからどうしたらいいのかわからない。
 友野の小父さまがいった。
「やれやれ、千春ちゃんも困ったことになったな。ここは、家も地所も、君のお父さんが、担保に入れてしまったんだよ。ところが、金を盗まれちゃったのだから、担保流れだ。この家で住んでるってわけにゃいかなくなる。学校はまだ卒業していなかったね。どこかで千春ちゃんを、子守にでも雇ってくれるとこがあると、いいんだけどな……」
 薄情な男である。親戚としては、いちばん近い。ほんとは、しんみになってあたしのことを心配しなくちゃならない立場にいるのに、それは厄介だから、子守にでもやろうといっているのである。あたしは、腹の中で軽蔑し、フンと鼻の先きで笑ってやった。
「いいわよ、小父さま。千春は、小父さまに御厄介かけないわ。映画会社で少女俳優を募集しているのを、こないだの広告で見といたの。そこへ行って雇ってもらうわ」
 そんなこと考えたのじゃない。口から出まかせだったけれど、口惜しいから、そういって毒づいてやった。
 川口さんが、いちばん本気になって、あたしのことを心配してくれたらしい。
 川口さんは、橋本の小父さまをつかまえて、長いうち何か話しこんでいた。そしてそのあげくに、橋本の小父さまがあたしを茶の間へ呼んだ。
「今ね、川口さんからも話があったし、わたしは、もともと、そう思っていたのだよ。千春ちゃんを、私の家へ行ってもらったらどうか、ということになったのさ。どうだい、行く気があるかね。わたしは、お父さんと仲良しだった。赤ん坊の時から、千春ちゃんを知っている。これからは、わたしが千春ちゃんのお父さん代りになるわけだ。わたしんとこには千春ちゃんより二つ年上のみどりがいる。行けば、千春ちゃんは、みどりの妹になるわけだね。みどりは高校へはいったばかりでね。きっと、妹ができるのを喜ぶよ。いっしょに学校へ通い、お勉強すればよい。いいだろ。行くことにしようね」
 あたしは、涙が出てきた。
 涙のうちで、うん、うんと、おとがいをうなずかせた。
 いいも悪いもない。そうするよりほかにないことだった。
 小父さまは、
「泣かなくてもいい。かわいそうにな」
 とあたしの頭をなでて下さった。
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新しい姉



 あたしは、その日の夜、もうすぐに橋本の小父さまのところへ引取られて行った。
 小娘のあたしが、血みどろな殺人事件の起った家で、たとえ一晩でも、眠ることなんかできやしない。それを考えてのことである。
 それは昭和二十二年八月二日、あたしが中学二年生の夏休み中のことであった。
 それからもう何年になるだろうか。
 実はその何年間かに起ったことがらを、かくさず、誰にもわかってもらえるように、こまかく書きとめるのが、このあたしの手記の主要目的である。内容は、ずいぶん、書きにくいことばかりのような気がする。書きぬくためには大きな勇気を持たねばならぬのであろう。息を吸いこみ、心をおちつけ、いざ、あたしはそれを書き綴ってみよう――。
 そのころ小父さまの家は、国電高田馬場の駅から、歩いて五分ほどのところにあった。
 じきのちに、都電が通じた表通りに面していて、敬文堂書店という、へたくそな字で書いた看板が出してあったが、古本を並べてある店構えは、うす汚れたような、やわな木の棚をめぐらしてあるだけのことで、本の数もそうぎっしりとはなく、まことにみすぼらしいものだった。店から奥へはいったとっつきが、これはわりに広いけれど、ろくな家具もおいてない茶の間で、となりあって狭っくるしいお勝手があり、お勝手からギシギシいう階段をあがると、無理して作りだした天井裏みたいな中二階が、それでも、四畳半と三畳との二部屋になっている。見ただけでも、小父さまの家計がそうゆたかでないことは子供心のあたしにも、よくわかったのであった。
 セイラー服を着て、右手には学校の本やノートを入れたズックのカバンをぶらさげ、背中にはそのころはそれでおかしくなかったリュックサックに、服や下着類や、それからあの瀬戸物の重たい枕を入れたのを背負って、あたしは、はじめてこの敬文堂書店のお店のほうからはいった。
 とりあえず小父さまが、小母さまとみどりお姉さまとにあたしを引合せたが、小母さまは、名前を糸子といった。名のように細面の、やさしい顔立ちのひとてある。ただし、そういっては悪いけれど、元大学教授の奥さんだったにしては、まるで下町のおかみさんのようにおしゃべりで、小父さまが、あたしの父の殺されたてんまつを、あらましそこで話して聞かせ、あたしをれてきたわけも説明すると、
「よござんすよ。子供を、かわいそうですものね。いくら貧乏でも、そのうちになんとかなるでしょうもの。大谷さんが殺されたことについては、もう夕刊に出てますよ。みどりちゃんとふたりで読んで、恐ろしいことだと思っていたところですわ。ほんとに、千春ちゃんはどんなにか怖かったことでしょうね。あなたは、怪我もさせられないで助かっただけ、まだよかったのよ。強盗の顔は見なかったって? そう、それでかえって助かったのかも知れないわ。新聞にはね、犯人の目星がもうついているって書いてあるの。むろんすぐにつかまるにきまっててよ。つかまれば、お父さまが亡くなったという取返しはつかないにしても、仇討あだうちだけはできることになるわけだわ。ほんとに、近ごろは、なんということでしょうね。戦争のあとで人の命なんか、どうでもいいっていう、荒っぽい世の中になっちゃったのよ。ぬすっとが、はいったうちで、必ずといってもいいくらいに、人殺しをするんでしょう。たまらないわ。こんなこと、昔はありませんでしたよ。強盗は強盗で、その道の専門家がいたんですものね。専門家は人殺しなんかしなかったのに、これじゃまるっきり戦国時代の斬取り強盗よ。それとも、白井権八かしら。白井権八は、今でいうとアプレの不良よ。専門家じゃないから、鼠小僧みたいにうまくやれず、人を殺しては金を取ったんだわ。――まアね、千春ちゃんは、これからは、うちの子になってちょうだい。ちっとも遠慮はいらないのよ。うちの娘になったつもりでいればいいでしょう。そうね、あたしたちを、お父さまお母さまって呼んでもよくてよ。でも、いきなりとそれじゃへんだから、小父さま小母さまっていいなさいね。みどりちゃんのほうは、どうかな、お姉さまっていえる? そのほうがいいでしょうね。うちのみどりちゃんは、あなたんとこと同じでひとり娘で、弟か妹が欲しいってこと、しょっちゅういってたのよ。あなたがきたから、どんなに嬉しいか知れないわ。ねえ、そうだわね、みどりちゃん。あなたには、千春ちゃんという新しい妹ができたのだから、とても心丈夫でしょ。よく慰めて、そして、可愛がってやるんですよ」
 一息にしゃべりつづけてから、さてやっとおしまいの言葉を、お姉さまのほうへ向けていったが、するとお姉さまは、待ちかねていたようにして、
「ええ、ええ、あたしは千春ちゃんを大歓迎よ。ふたりで仲よくしましょうね」
 にっとあたしに笑顔を見せたものである。そうしてあたしは、ただ黙って、おじぎをしたのであった。
 みどりお姉さまは、じっとどこかを見つめているような瞳を蔽ったまつ毛が、まるでつけまつ毛のように長くて黒くて、お母さま似の細面をしていた。
 また口もとに、も言われぬやさしさのあるのも特徴だったろう。とてもきれいで、そのきれいさが、まだ高校の一年生だから、十分に成熟してはいなかったけれど、それまでにあたしが知っていた女の子……学校のクラスのひとたちの誰をつれてきても、とてもかなわないな、と思われたほどだった。それに、もひとつ、ついでにいっておくと、あたしははじめて会ったばかりだから、はっきりそうだとわかったのではないけれど、性格的にお姉さまは、あたしには持つことのできない、あるとくべつなものを持っているひとのようであった。どうしてだかあたしは、このひとの顔を見たとたんに、心のうちのどこかがうろたえた。胸の中で、何か波立つものがあるのを感じた。同時に、このお姉さまと、仲よくすることができるかどうか、かすかながらそれをあやぶむ気持がいたのであった。
 お夕飯が、小母さまとお姉さまとはすんでいて、小父さまとあたしだけでいただいた。
 そのあいだに、お店へは散歩がてらのお客さんがきて、するとすぐお姉さまか小母さまが立って行った。店員もおいてないらしく、
「店の本を、しょっちゅう万引されてね。ゆだんもすきもありゃしないよ。こないだは、源氏物語全四巻、ゴッソリ持って行かれちまった。損ばかりしているよ」
 と小父さまはいい、小母さまは、おしんこにおしたじをかけながら、
「千春ちゃんも、れたらお店を手つだってちょうだいね。みどりちゃんは、学校のある時でも、お勉強のすきを見てお店へ出るのよ。本の値段は、符牒ふちょうでおしまいの頁に書いてあるから、すぐわかるわ。値段をまけてくれというお客さまがあっても、まけてはだめ。うちの店は、手堅くやるのがモットウですからね。仕入れは、本を売りにくるお客さんがあったら、小父さまにお話しすればいいの。もっとも、その小父さまも、ゾッキに出ている安い本を、新刊だと思って、ゾッキより高く買いこんだりなんかして、失敗ばかりなさるけれどもね」
 例の調子であたしにいった。
 店の手つだいなら、あたしは喜んでできるつもりだった。本は好きだった。それを飽きるほど読むことができるのであろう。店中の本を、片っぱしから、読んでしまってやろうなどと思った。
「さアもう、千春ちゃんは疲れているんでしょう。お二階で、みどりちゃんといっしょに寝たほうがいいわ。みどりちゃん……よく、世話を見てあげて……」
 小母さまに言われたから、お姉さまはあたしを二階へっれて行ったが、そこは畳がなくて、板敷に薄べりをしいた部屋だった。不恰好な窓の下には、塗りのはげたのを、青い羅紗らしゃの蔽いでかくしてある机があった。机の上には、ガーベラの花をさした益子焼きのびんがあったが、それがお姉さまの勉強するところらしかった。ベニヤ板の壁に、どこかスイスあたりの白く雪をかむった高山の写真が、びょうでとめてある。反対の壁には、せまい棚をとりつけて、コケシ人形と箱根細工の寄木の箱がのせてあり、その横に、楕円形の小さな鏡が、青いリボンで結んでぶらさげてある。粗末な部屋を、お姉さまの手で、できるだけ居心地よく、きちんとさせてあるのだ、とあたしにはわかった。
 お姉さまは、押入れをあけると上段の隅から、まだ作りかけのフランス人形を出して見せたが、それはこの夏休みのうちに作りあげておいて、秋になると学校の記念祭で、バザーがあるそうだから、その時に出品するつもりだと話した。また机の下の、渋茶色をした木の箱を出すと、
「これね、ほんとうはカステラの箱だったのよ。いただいて、鎌倉彫りにこしらえたわ。簡単にすぐできちゃった」
 と説明しながら、中からいろいろのレースや刺繍ししゅうをとりだして見せたが、それはみなお姉さまの手芸品だった。レースは店で買っても相当高価なテーブル・クロスになっていた。刺繍は、花や魚や鳥を、美しく色糸で描きだしてあった。
「あたしは、いま学校で、お茶のお点前を習っているのよ。むつかしいけれど面白いわ。それからね、ほんとは、お三味線のお稽古をしたいと思っているの。千春ちゃんは、何かお稽古をしている?」
 訊かれた時、あたしは窓の外を見ていた。
 そこは、隣家のひさしがつきだしていて、ほんのわずかしか空が見えなかったが、その夜の空には、アンドロメダらしい星雲が見え、あたりの星が、宝石箱のようにチカチカしていた。じっと見ていて、あたしは悲しくなった。父が、そういう星のことも、よくあたしに話してくれたことを思いだしたのである。声を立てて泣きたいほどだった。この世の中であたしは実に孤独だと感じた。お三味線だのテーブル・クロスだの、そんなもの、どうでもよいと思った。
 あたしが、黙りこくっていて返事をしなかったから、お姉さまは気がついた。
「あら、あなた、泣いてるんじゃない? いけなかったわね。恐ろしいことがあったあとだから、ほかのこと話して、気をまぎらせてあげたらと思ったんだけれど……」
「いいんです、お姉さま。千春は、泣いてやしません。ただ、考えごとしてたから……」
「悪かったわ。察しが足りなかったのね。ごめんなさい」
「いいったら、いいんです。お姉さまは悪くないんです。悪くないのに、あやまることないと思うわ。――お願い。千春を、ひとりきりでここにおいて下さい」
 あたしは強くいった。
 そして、空の星屑を見つめたきり、お姉さまをふりむきもしなかった。
 お姉さまは困ったのだろう。
 何か言おうとして言えなくて、それからお部屋を出て行った。
 しばらくして階下から小母さまの、
「なんですねえ。あなたが泣くことはないじゃないの。いいえ、あの子も、無理はないのよ。気が立っていて、そんなお人形やなんかの話、聞く気にはなれないでしょうよ。さアさア、あなたはお姉さまですよ。もっとお姉さまらしくしなくっちゃ……」
 という声が聞えてきた。


 容疑者としてにらまれた山崎哲男が逮捕され、それにつきあたしが小父さまにつきそわれて、警視庁へ出頭したのは、事件後五日目のことだった。
 警視庁には、あの唇の厚い、言葉の乱暴な刑事がいて、まずあたしは、奇妙な部屋へつれられて行った。
「いいかい。その部屋にはね、隣室とのあいだにガラスの仕切りがあるんだ。このガラスは、向うの部屋から見ると、ふつうの鏡になってるけど、こっちからだと、鏡じゃなくてあたりめえの窓だ。つまり、向うじゃ、気がつかねえでいるけれど、こっちからだけ、向うにいる人間を、よく見えるようになってるわけだよ。いま、向うの部屋へ、山崎哲男を入れる。それをこっちから見て、あの晩の犯人かどうか、確かめてもらいてえんでね。もっとも、顔は見なかったそうだね。そいから、おねえちゃん、山崎が犯人じゃねえだろうっていったね。けれども、よく見るんだぜ。バンドつきのレインコートを着せてある。帽子の上から頬かむりもさせる。それを君が見て、犯人と似てるかどうか、きめてくれりゃいいからね」
 前もって刑事からそう説明されたけれど、さてその部屋の、仕掛けつきガラス窓をすかして見た山崎哲男の姿というのは、あたしとしては、犯人に似ているともいないとも言えず、甚だ不確かなものだった。
 警察で、顔見知りの者に顔を見せるのを、面通めんとおしというのだそうだ。
 それは一種の面通しであり、しかし、顔を見るのでなく、レインコートを着たうしろ姿や横向きの姿を見るだけだったが、あの時は蚊帳の向う側にいたのだったし、鏡に映るのを見たのだから、光線のたっぷりある部屋の中で見るのでは、まるっきり感じが違う。あとで別の室へきてから、あたしが刑事に、
「わかりません。犯人か犯人でないか、言えなくなった気がします」
 というと、刑事は苦笑して次のように説明した。
「弱ったな。実はね、あいつは逃げ回っていたんだ。おふくろのお霜さんというのが、息子にいじめられて飛びだした。このほうが先きにわかったが、山形へ行っていたのでね。お霜さんの妹が、そこの農家に片付いていて、お霜さんは行くところはなし、そこを頼って行ったというわけらしい。こっちは、先回りしてそこを張っていて、ま、どうやらその山形でやつをつかまえたんだよ。明らかに、やつはサツの手配を知っていて、どこかへ高飛びしようとしていた形跡がある。おふくろのところへは、その旅費の無心をしに行ったのだという言分だ。つれてきて調べた。ところが、わかったのは、こないだ実は高円寺に、殺しにゃならなかったけれど自動車強盗があり、その強盗の件だったのだよ。こっちにも手ぬかりがあったが、その強盗も山崎のやったことだとわかった。やつの申立てが、その件でよく事実と符合する。だから、自動車強盗の件は、思いがけずこれでホシが割れたということになったのだが、さて、おねえちゃんのお父さんの件がわからなくなってしまやがった。このほうになると、やつは、頑強に否認しやがってね。どうしても泥を吐かねえ。高飛びは、自動車強盗の件でヤバいような気がしたからだ、という。第一、それだったら、何十万円かの金を盗んでいる。おふくろのところへ、旅費の無心になんか行くはずがねえじゃねえかっていやがって、逆にこっちへ、食ってかかる始末だよ。金は、どこかに、かくしてあると思うんだが……」
 あたしは、それについて、べつに意見を述べることができない。
 そばにいた橋本の小父さまが、たいそう熱心な眼つきだった。
「なるほどね。どうもこりゃ複雑なことになりましたな。事件としては、面白い事件とでもいうのでしょうな」
「面白くなんかねえですよ。困ってるんです。物的証拠が出てこねえ。とすると、起訴は自動車強盗一件だけになりやがるんです」
「警察も骨が折れますね。わたしなんかが見るところだと、犯人はもうこの男以外にないという気がするんですが」
「気がするのは、こっちだって同じでさ。しかし、裏付けが不足だから、黒だときめてしまうわけにいかねえ。まア、ホシというものは、逮捕されると、軽い罪のほうだけを自白して、それだけで刑を受けちまおうとするもんですよ。山崎の場合も、だいたいはそれだと見ているのですが」
「悪いやつらしいですね。母親がいっしょにおれなくて、山形へんまで逃げて行ったというくらいだから」
「たいへんなやつですよ。おふくろのへそくり貯金をとろうとして、おふくろを足蹴あしげにしたというやつです。自動車強盗じゃ、たった七百円とって、もすこしで、運転手の首を絞め殺そうとしやがった。性格的に見て、心証は十分に黒ですよ」
「ほかに余罪はないのですか」
「それですよ。むろん、まだやってやがる。そいつを、根こそぎ洗うつもりです。そのうちにゃ、今度の殺しだって、かならず割れてくると見込んでいます」
 容疑はまだ十分にある。ただ、決定ができないという段階らしい。
 あたしたちが出頭したことは、結局それだけの話ですんだのだから、捜査の上では、プラスにもならず、マイナスにもならなかったのだろう。でも刑事は、「御苦労さま」といって礼をいった。そしてあたしたちは、その時はそれだけで、警視庁を引取ったのであった。
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火と水



 あたしは、だんだんに、あたしの新しい環境に慣れて行った。
 店番をする時、どこの棚にどんな本があるかということを、二週間もすると、ほとんど呑みこんでしまったので、お客さんがきて、小説の何々があるか、法律の何々があるかと訊くようなことがあっても、ありさえしたら、すぐにその本を出してあげることができるようになった。今まで知らなかった種類の本の、発行所や著者の名前もたくさんにおぼえた。戦争前にはあって今はない本――たとえば帝国文庫などという本は、背革でいかめしい恰好をしていたから、古い日本の何か学問の本かと思ったが、実は八犬伝や弓張月やそういう昔の小説全集だということを知った。読むと、作り話が多くてばかばかしい。でもそれは、その年の暮れまでには、みんな読んでしまった。
 ところで、家族の一員に加えられてみて、いささか奇異な感じがしたのは、この家で最もしっかりしているのは小母さまで、旦那さまである小父さまのほうは、ねっからどうも優柔不断で、一家の主導権は小母さまの手にあり、大げさにいうと小父さまは、小母さまの尻の下に敷かれている、ということだった。
 これは、あたしの父母の揚合とくらべて逆だった。
 父は、母が生きているうち、あのとおり強情で頑固で、時に暴君ですらもあったから、母はただ柔順にしとやかに、その一生を父に捧げて死んだのだと、少なくもあたしは見ていたが、この家ではかなり様子が違う。といって、小母さまも、とくに意地っ張りだとかやかましやだとかいうのではないけれど、店の経営につき家事一般につき、いつも先に意見を出したり、またそれを決定するのは小母さまで、小父さまのほうは、おとなしく小母さまの考えに同調するというふうだった。土地の顔役らしい男が、お祭りの神輿みこしの件でやってきた。小父さまが店にいたが、いくら寄付したらいいのかきまらない。小母さまが奥から出て、あっさり五百円ときめてしまった。そんな例はたくさんにある。みどりお姉さまの進学の件についても同じだった。それはあたしが行く前から、夫婦のあいだで話になっていたことらしい。ある時、お姉さまは留守で、あたしが店番していると、茶の間から、議論するのが聞えてきた。
「それは違いますよ。みどりは、気が弱い代りには、頭のほうも、やはりあなたに似たんですわね。成績はとてもいいんですから、大学まで進ませろって、先生もおっしゃっていますよ」
「うん、それは知ってるさ。しかし事情が事情だ。学資が相当のものだぜ」
「いいえ、そんなこと。やる気があればやれますよ。いったいがあなたは消極的ね。いつも悲観論者ですわ。そしてカゲ弁慶で……」
「オイ、オイ、そう亭主をこきおろすな。どこが私がカゲ弁慶だい」
「カゲ弁慶よ。人の前じゃ、自分が正しいと思うことでも、堂々と議論もけないで、家へ帰ってらっしゃってから、口惜しがったり、腹を立ててばかりいらっしゃるんでしょう。……いえ、そんなこと、どっちでもいいんです。とにかくみどりは、大学までやりますからね。まだそれまでには二年ありますよ。そのあいだには、店ももっとうまく行くようになるんですから」
「どうかなア。わたしは、せっかく始めた古本屋も、前途大いに多難だと思うが」
「だめですよ。自分でそうきめてたんじゃ。だいじょぶ。なんとかなりますってば。学資も、官立だったら、少なくてすみますからね。みどりちゃんには、そのつもりで、もうぼつぼつ勉強させなくちゃいけませんわ。さア、きめましたよ。あなたは、異議を申立てないで下さいましね」
 小母さまは、まだ滔々とうとうと論じた。元来がおしゃべりで、そのおしゃべりにまくし立てられるから、結局小父さまが沈黙するというわけだったが、一口にいうと小父さまは、小母さまのいう、消極的な性格だったのだろう。悪くいえば卑屈でもあった。父を見慣れてきたあたしには、そういう小父さまが、たいそう物足りなく。歯痒はがゆく思えることがしょっちゅうであった。
 このふたりのあいだに生れたみどりお姉さまは、どっちによけい似ていたのだろう。
 お姉さまは、新しい妹のあたしが、手芸だのお稽古ごとだのには、まるっきり趣味をもたず、暇さえあると本を読んでいたので、ずいぶん失望したにちがいなかった。それでも自分で工夫して染めたり縫取りしたりしたハンケチを、幾枚も目の先きに並べて、
「どれでもいいのよ。あなたの好きなの、お取りなさい」
 といったり、かわいいお扇子も一本わけてくれたし、あたしの髪の毛を、前が長すぎるから、もっと短くしたほうがいいと注意したり、前にはお姉さまのだったお古のワンピースを、小母さまが出してあたしに着せようとすると、
「あらあら、だめよそれは、色がげちゃっているところがあるの。ね、お母さま。こないだのあたしのの、千春ちゃんに着せてあげて……」
 といったりして、たいそうやさしくしてくれた。
「お姉さま。とっても千春に親切ね」
「うん。千春ちゃんはあたしの妹だもの。それにあんたのこと、気の毒だと思ってるのよ」
「そうぉ。どうも、ありがと」
 お礼をいってはおいたけれど、ほんとはあたしは、自分が気の毒がられるということがどうもあんまり好きではなかった。自分は父も母もない孤児で、悪くすると乞食かパン助にでもなるところだったのを、小父さま小母さまに救われたのだと知っている。けれどもその意識は、逆にあたしにはねかえってきていた。それはあまのじゃくでもあるのだろう。しかし、とくにお姉さまに同情されるのは辛かった。そうしていっしょけんめいに虚勢を張り、そんなハンケチやお扇子など、もらっても一向嬉しくない顔をしていようと心にきめた。
 はじめての晩に、あたしはお姉さまを泣かせている。
 もっともあれはお姉さまが、自分で勝手に泣いたようなものでもあるけれど、それからわずか十日ほどたつと、またあたしはお姉さまと衝突した。
 あたしは翻訳本の「ホワイト・ファング」というのをお店から見つけてきて読んでいた。ジャック・ロンドンという作家の、犬のことを書いた小説でとても面白かった。ところがお姉さまが、しきりに話しかけるのであった。
「ねえ、きょうはとても暑いわね。こんな暑い夏って、ありゃしないわ。じっとしていても汗でじとじとよ。ねえ、千春ちゃん」
「そうね、暑いわね」
「あたしは、夏が大きらいなの。いちばん好きなのは秋だわ。千春ちゃんは、夏と冬とどっちが好き?」
「どっちも同じよ」
「ああら、そう。あたしはね、お母さま似で夏がきらい。どこかにお別荘でもあるといいんだけどな。千春ちゃんは、水泳できる?」
「できませんわ」
「あたしは、少しできるのよ。クロールなんかだめだけれど、平泳なら学校のプールで習ったのよ。あなたも、少しは習ったほうがいいわね」
「そうでしょうか」
「夏は、なんといっても、水のあるところよ。山もいいけどね。このお部屋は、頭の上がトタン張りの屋根ですもの。ほんとうにこれじゃたまらないわ。あなたは、よく平気で本を読んでいられるのね、暑さに平気だってのは羨ましいわ。きっときょうは、三十四度を越してるわね。どこか涼しいところへ行きたいな。……ああ、そうそう、今夜は盆踊りがあるんですって、千春ちゃん、いっしょに行ってみない?」
 ほんとうに、暑い日にはちがいなかった。しかし、本を面白く読んでいるのに、邪魔になってならない。とうとう、あたしは癇癪かんしゃくを起した。
「お姉さま、お願い。――黙っていてくださらない?」
「え……」
「暑いのはわかってるわ。でも、いくら暑いってこと話しても、涼しくなんかならないでしょう」
「ええ、それはそうだけれど……」
「夏が好きでもきらいでも、夏は毎年あるにきまってるわ」
「…………」
「暑くても、あたしが平気でいるかどうかわからないはずよ。だまって、がまんしているだけなのかも知れないじゃないの。それに、盆踊りなんて大きらい。あんなの、趣味が低いと思うわ。お姉さま、ひとりでいらっしゃいな!」
 そうしてあたしは、クルリとお姉さまに背を向けてしまった。
 お姉さまは、それっきり何も言えない。壁のほうへ行って、何かしていたかと思うと、また急に部屋を出て行く気配だったから、そっとあたしは横目で見てやった。どうも、目に涙をためていたらしい。そんな泣虫、泣いたって平気だ、とあたしは思った。どうやら、お姉さまとあたしとでは、性格が火と水のように違っていたらしい。はじめからして反発し合うものがあった。といってその当時のあたしは、ことさらにお姉さまに対し、意地悪をしようと思ったのでもない。そのくせ、何かがあると、自然にそういう結果になったのであった。
 ――やがて九月になった。
 女の名前の台風がきて、各地に水害が起ったが、あたしは中学へ、前と同じように通うことができたし、お姉さまは、小石川にある高等学校のほうへ通いはじめた。
 そうして、それから間もなくすると、例の山崎哲男が、あたしの父を殺したのだ、と自白した。
 そのことは、警察から知らせがあったのでなくて、もう夕方だったが、新聞記者の川口貞雄さんから、呼出し電話をつかって、橋本の小父さまへ知らせてくれたのである。小父さまは、電話を借りたとなりの乾物屋から帰ってくると、たいそう張切っていた。
「どうだい。これからいっしょに新聞社へ行き、詳しいことを聞いてこようじゃないか」
 とあたしにおっしゃった。


 川口さんは、社会部でなくて、論説のほうの記者だということだった。だから、あたしたちが行くと、社会部の雪村さんというひとをつれてきてくだすった。そしてその雪村さんが、詳しい……といっても、実はあらましの話をしてくだすったのである。
 なんでも、山崎の自白があったのは、その日の午後になってからだという。雪村さんがそれを、他社に先んじてさぐり知った。そのために、新聞へ面白い記事が書ける。ことに、あたしが社へ行ったのはありがたい。遺族としての感想を聞かせてもらおう。写真も欲しい。ということで、今度はあたしもいやだと言えない。しょてっぺんに、写真をとった。それから、主として小父さま相手に話がはじまった。
「山崎は、洗えば洗うほど、したたかなやつだとわかったんですね。はじめに高円寺の件が出ただけだが、ほかに荒川のほうで、運転手の殺された事件があり、これもやつの仕業しわざだと割れました。それだけのことがあるから、ヤバイという気がすると、あわてて高飛びをしかけたんでしょう。見込みは狂わないと見た。連日連夜、責め立てた。とうとう、自白したというわけですよ」
「警視庁でそういってました。根こそぎ洗えば、きっと出てくるって……」
「知らぬ存ぜぬで頑張っている。そいつを根気ずくでやって、とうとう参らせたんですよ。今、デカ連中が、ホッとしているところでしょう。大体は、自白の内容が、事実と合うのだそうです。ただし、まだ二つ三つ、へんなことがありますが」
「なんですか。そのへんなことってのは?」
「第一に、盗んだ金のことですよ。金はまだ使いきるはずがなかった。どうしたかと訊くと、盗むだけは盗んだが、山形へ行く汽車の中で、棚の上へおいたのを、誰かにとられちゃった、というんですね。これじゃ、まぬけすぎておかしい。信用できないから、どこかにかくしてあるとか、預けてあるとか、その場所を言わせようとしたが、えへへへ……御想像におまかせしやす、といって薄笑いをしている。金の点が、まだ明瞭でないようですな」
「それで、そのほかは?」
「凶器についてですよ。自白では、凶器が大工用のノミだといったり切出しだといってみたり、またヤッパだという。ヤッパってのは、与太もんの言葉で、ドスともいうし、短刀のことですな。まア、被害者の傷口から見て、ヤッパが正しいのでしょうけれど、白さやの白い木のつかがついたヤッパだといいましてね。これが、娘さんの証言……千春ちゃんてんだね。君のことだよ。君の見たのは、洋式の大ぶりなナイフだったっていったろ。この証言と一致しないから、へんだということになる。やつは、そのヤッパを、山形へ行く途中の利根川へ投げこんだといったそうです。あそこを川ざらいするか、潜水夫でも入れて捜し出さないと、自白の正否を判定できなくなっています。ところが、こないだの台風で利根川は大増水でしてね。そんなもの、どこへ流されちまったかわかりゃしない。ちょっとその点で、サツも頭かいているんですが、どうなの、千春ちゃん。君の見たのは、ほんとうに西洋式のナイフだった?」
 あたしは、畳へつきさしてあったのが、やはりどうも、柄の青く光っている、金属か螺鈿らでん細工の、洋式短刀だった、ということを、ここでも繰返して話した。
「ふーん。だとしたら、なるほどそいつは、日本刀式のヤッパなんかじゃ、ないってことになりそうだな。山崎のやつ、どうせ自白したのなら、みんなありていにしゃべっちまやいいのに、こういう、へんなことを言出すから、話がこじれるわけですよ。要するに、自白はいちおうしたけれど、その自白に基いての裏付けが、まだ不十分だというところです。だから実は、捜査の連中は、まだこのこと、発表したくないんだっていってましてね」
「慎重にしなくちゃ、いけないのでしょうな」
「新聞にも、自白した、ということだけで、黒ときめたかどうかは、書くなという注文でした。むろん、黒いときめている。しかし、ここでとことんまで裏付けをやっとかないと、裁判の時に、証拠不十分になりますからね。これは、しょっちゅうあることです。山崎が、ヤッパのことだの金のことだの、そのほか殺しの手順などでも、何かと曖昧あいまいなことをいっている。これは、裁判になってからの証拠不十分を狙ってのことだと見ていいのでしょう。まアしかし、自白まで漕ぎつけたのだから、あとはじきに決定しますよ。千春ちゃんは、お父さんの仇が討てたことになるわけだね」
 あたしは、最初に、山崎じゃない、という気がしたが、こうなっては、べつに弁駁べんぱくもできないし、する必要もない。捜査のひとたちが、そこまで調べたというのだから、では、やはり山崎だったのかと思い直し、それについては、ばあやのお霜さんのことを、可哀そうだと考えていた。橋本の小父さまのほうは、
「よかった。ほんとによかった。さアこれで千春ちゃんも、あの恐ろしい晩のことは、あまり深く思い出さないようにするといいな。いやなことは、なるべく早く忘れるのが賢明だ。山崎に対しては、法律が十分に制裁を加えてくれるよ」
 といって、御機嫌である。
 新聞社の帰りに小父さまは、久しぶりだから、といって銀座を歩いた。
 そして、大きなきれいな喫茶店へ寄り、あたしに、アイスクリームをとってくれた。
「千春ちゃんも、小父さんとこへきてから、もう一カ月を越したね」
「ええ……」
「お父さんのこと、忘れられないだろうね」
「ええ……」
「お母さんは早く亡くなった。お母さんのことは?」
「やはり、時々、思いだします」
「そうだろね。千春ちゃんは、だんだんお母さまに似てくるよ。美しいひとだったな。もしかすると、千春ちゃんは、お母さん以上に美しくなるかも知れないね」
 あたしは、アイスクリームがおいしくて、できるだけ長持ちするように、少しずつすくって口へ入れていたが、気がつくと小父さまは、じっとあたしの顔を見つめていて、アイスクリームがけるのも忘れている。その小父さまの目つきは、あたしを見てはいるけれど、どこか遠いところを眺めている目つきでもあった。あたしは、しばらくのうち、まっすぐにその小父さまのひとみを見上げていたものである。
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心のシミ



 小父さまは、顔を、あたしに見上げられているのだと気がつくと、一瞬ちょっと照れ臭そうだったが、さて、やっとアイスクリームのほうへ手をのばすと、
「うん、おいしいね。もひとつ食べるかい」
 と、さり気なくあたしにいい、あたしは、
「いいえ、たくさん。それより、早くお家へ帰ったほうがいいわ。だって、お夕飯がまだでしたもの」
 といったから、
「ああ、お腹がすいているのかい。あははは……よしきた。それじゃ、もう帰ることにしようね。あははは……」
 と笑いだした。
 銀座は、物資がまだ十分にないころだったが、どの店もきらびやかに飾られていて、ひっきりなしに人が歩いている。小父さまは、だまりこくってその人の波を分けて歩き、あたしはコチョコチョとあとをついて行った。そうして、数寄屋橋の手前へさしかかった時だった。ゴーストップで、電車通りのこちら側に待っていると、
「あッ、先生!」
 という声がする。
 ふりむいて見て、胸がドキンと鳴った。
 そこに立っていたのは、ずっと前の戦争中に、あの防空壕の改築で、橋本の小父さまが、お手伝いだといってつれてきた三人の大学生のうちのひとり、田代守だった。
 上衣うわぎなしの開襟かいきんシャツだが、折目のまっすぐについたズボンをはき、真新しい革のカバンを腕にかかえていて、見るからにバリッとした青年紳士だった。あの時は学生だったけれど、どうやらもう学校は卒業しているらしい。そばに、友人らしい男がふたりいたが、これも同窓なのだろう。三人が、そろって小父さまに、帽子をぬいで頭を下げたから、小父さまも嬉しそうだった。
「やア久しぶりだったね」
「ごぶさたしていました。先生は相変らずお元気ですね」
「まアね、ボツボツやっとろか……うん、そうだったなア。田代君は大谷を知っとったんだなア……」
「はア」
 田代は当惑し、あわてたみたいだった。
 そうして、言いにくそうに答えた。
「新聞で読みましたよ。先生のお名前も、記事の中に出てましたね」
「ああ、どうもね……」
「終戦の直後に、大谷さんのところへは、御礼に上がりました。あの時に、大谷さんがおられなかったら、ぼくら、特攻隊へはいって死んじゃったのですから、言わば命の恩人で、そのお礼を言いに行ったんです。ところが、どうも、とんだことで……」
「うん。ひどいことになっちまったよ」
「九州へ旅行していまして、汽車ん中で新聞を読んだんです。すぐおくやみに上からなくちゃならんところでしたけれど、一週間以上も帰れませんでしたから、つい、そのままになってしまいました。大谷さんに対しては、なんとも申訳がないと思っているのですが」
「そんなことはいいさ。ああいう変事の際だからね、すっかりゴタゴタして、おとむらいの通知も、ろくにしなかったんだよ。――しかし、いいあんばいに、犯人はわりに早くつかまったからね」
「へえ、犯人というと?」
「これも、新聞に出てたろ。山崎ってやつだ。山崎が、きょう自白したんだ」
「ああ、そうでしたか。そりゃよかった」
 小父さまはそれを話したかったのらしい。立ち話しで、長い話はできなかったが、それを今知っているのは自分だけだと言い、かいつまんで、山崎の自白の話をした。そして、そのあとであたしのこと、実は事件以来引取って世話しているのだ、と紹介した。
「なんだ、忘れてた。ええと、千春ちゃんていうんだったね」
 存在をまるっきり無視されていた形だから――そう言われてあたしは、少し腹が立ちそうになり、でも、がまんした。かえって、わざとニッコリおじぎをしてやった。
「先生は、これから、どちらへ?」
「帰るところだよ」
「そうですか。ぼくは、ちょっと用事がありまして……」
「ああ、そう。――私は、知ってのとおり、学校やめて商人になっているよ。小っぽけな店だけれど、やってきてくれたまえ。高田馬場の大通りで、敬文堂書店というのだ」
「は、おぼえときます。近いうちに、きっとお伺いしますよ。ごぶさたのしどおしです、すまないと思っているのですから」
 そしてあたしたちは別れたが、そのあとあたしは、田代の顔が目についてはなれず、あの時田代が、父のとっときだったウイスキイに酔い、障子によりかかっていた姿までを、ついきのうのことのように思いだしていた。中学二年の小娘だったあたしは、年に似合わずませていたと言われてもしかたがない。その偶然の邂逅かいこうは、あたしに何か後味を残した。そしてその後味は、胸のうちを、ほのかにときめかせ、熱くするようなものだった。
「あの男は秀才だったよ」と小父さまは、歩きながらいった。「それに、よく勉強したし、まじめでね」
「防空壕を作る時、裏で日なたぼっこして、詩の本を読んでいらしたのよ」
「ふうん、そんなことあったのかい、文学趣味のほうはどうか知らないが、面白いことに手品が好きでね。学校の会などでトランプの奇術をやって見せたことがある。しかし、とにかく前途有望の青年だよ。若くて元気いっぱいだな。羨ましいくらいのもんだ。――ただし防空壕はよくなかったね。あれを作る時にはわたしも田代も、それから田代と同じクラスの今村も山岸も、みんなでお手伝いしたっけ。その防空壕があったために、千春ちゃんのお父さんが殺されたんだからな。山崎なんて、とんでもないやつが出てきてしまった。あんなやつにゃかなわない」
「家へきた時、あたしはひっぱたいてやりたかったくらいです」
「ふうん? 家へきた時って……」
「ばあやのお霜さんのこと、訊きにきた時のことなの。とってもいやな目つきをしていました。玄関へ坐りこんであたしをおどかし、ばあやなんかきていないって、いくどあたしがいっても疑っていて」
「それから、防空壕の中を、のぞいて見て行ったというわけだったね。その時に、防空壕からなら、家の中へ忍びこめるってことがわかったんだよ。家の中が千春ちゃんとお父さんのふたりだけで、人が少ないということも見て行ったのだろう。とにかく、しぶとくて悪いやつさ。自白させるまでにゃ、警察もずいぶん骨を折ったらしいね」
 話が、また山崎のことに、戻ってしまっている。
 アメリカ軍専用の、そのころは、日本に珍しかった大型のバスが、青や赤の標識灯をいっぱいにつけ、有楽町のガードをくぐりぬけてきた。
 それには、はでな色の服を来た女や子供も乗っていて、みんなたいそう幸せそうに見えた。
 バスが銀座のほうへ行くのを、あたしは目で追いながら、ふっと、何か考えなくてはならぬことがあるような気がしたが、なんだかそれはわからないものだった。ただ、頭の中にある脳髄のどこかへ、ある不安定な形の斑点はんてん、もしくはシミのようなものがポツンと浮いて出たのにすぎなかった。
 有楽町の駅へつくと、おびただしい乗客の混雑で、小父さまと同じ電車に乗るのも命がけだった。そしてシミのことは、それ以上には考えず忘れてしまった。
 実は、忘れたきりになってしまったら、そのほうがどんなによかったかも知れない、憎らしく忌まわしいシミだったのに――。


 憎い心のシミが、あたしを苦しめ責めさいなみ、あの恐ろしい地獄のうちへあたしを追いこんだのは、それからずっと後のことである。
 その時までに、このあたしの手記としては、とくに書きとめねばならぬほど大切なことが、そうたくさんには起らなかった気がするけれど、中でただひとつ、絶対書き落せないのは、そのころ橋本の小父さまの一家の生計が、めきめきゆたかになり、俗っぽい言い方をすると、小父さまがたいそうお金持になった、ということである。
 山崎哲男が罪状を自白し、そのことが新聞にも発表されてから間もなく――多分、二週間とはたたぬうちのことだったろう。
 ある日、お店の奥の茶の間で、一家四人そろってお夕食をすましたあと、とつぜん小父さまは、身をねじって手をのばし、茶箪笥の上のラジオをとめておしまいになった。
「あら、しつれいしちゃうの、お父さまったら。じきに長唄がはじまるのよ。お母さまのお好きな子持山姥やまうば。みどりも聞こうと思って楽しみにしていたのに」
 と、みどりお姉さまが第一に不服そうで、すぐスイッチを入れに立ちかかったが、
「まア、お待ち。話したいことがある。みんな揃った時に話したいと思っていた。大切なことでね。それに、いい話だよ」
 といって小父さまは二コニコしている。
「おや、おや、珍しいわね。お父さまから、改まってお話があるなんてのは!」
 小母さまが茶化した調子でいって、
「なんですねえ、千春ちゃん。あなたも夕刊なんか読んでいなくて、ちゃんとこっちへお向きなさいよ」
 とあたしをお叱りになったが、
「ああ、そうだ。これは千春にも関係がないことじゃないぞ。実はな……」
 と、もうそのころは、「ちゃん」づけでなくてあたしを呼ぶようになっていた小父さまは、相変らず機嫌のよい顔つきで、さて、あたかも咳一咳という調子でやりだした。
「わたしは大いに決意した。よって、敬文堂書店の経営に大変革大改造を加える」
「あら、それはたいへんだ!」
 とさっそく小母さまが、うちわで蚊を追いながら、抗議を申立てる。
「ねえ。大変革なんての、ごめんですよ。また、棚の上の書物、全部並べなおしってことになるんでしょう。あなたときたら、自分で言出すくせに、なんにもなさらない。途中で、考古学だの、なんとか幕府の系譜だの、古くさいへんな本見つけて読みだして、読みだしたら最後、棚の上のほこり一つ、払ってくださらない。あたしは、大改革大反対ですね。それに、ここのお店は、どうやらもうお得意さんがちゃんとできましたし……」
「いや、まア、聞いてくれ。棚の並べなおしも必要だろうな。が、それはべつに根本問題じゃないのだよ。根本的にいうと敬文堂は、古本屋じゃないことになる」
「へえ……」
「つまり、古本屋から貸本屋へ変るのだ。長いこと、わたしはそれを考えていた。途中でうっかり話をすると、お前が第一に反対する。だから十分に考案して計画を立てた。これは、誰がなんといっても実行するよ」
「それは、あなた……」
「だまって聴けというのに。いいか、その組織はもうできちまった。貸本屋のチェーン・ストアだ。ほかに三軒ほど、加盟する店をこしらえた。その加盟店の手前も、もう中止することはできなくなっている。加盟店は互いに店の本を交流し合う、すると店には、常に目先の変った本があることになって、お客さんが、絶えず本を借りにくるという仕組だ。新刊書もどしどし買いこむ。――それで、普通は貸本屋というものは、貸した本に対して保証金をとることになっているが、わたしの店ではそれをやらない。せいぜいのところ、米穀通帳でも見せてもらって信用貸しをやるわけだ。いま、本は高いからね。保証金不要で、買わずに読めるとなったら、いくらでもお客さんはやってくるよ。成算は歴々だ。わかってる、お母さん。今度だけは、わたしの思うようにやらせておくれ。ねえ、頼むよ」
 いつもふんぎりのつかない小父さまとしては、実に破天荒はてんこうなことだった。この大変革を、自分で思いつき自分で目論見を立て、あちらこちら奔走して、もうあすからでも、その貸本屋のチェーン・ストアを、発足できるだけの段取りがついているのだ、という説明だった。
 例によって例の如く、まず小母さまが、いろいろと難癖をつけ、その計画をこっぴどくくさした。
 店は、今のままでも、どうにかやって行けそうだ。いまさらみみっちい貸本屋などしなくてもよい。そもそも貸本の保証金をとらないというのは、大損害になるにきまっている。それでなくても、万引に本を盗まれてばかりいるではないか、といった調子である。小父さまは、いつもだとそのへんでへこまされてしまう。小母さまにはかなわないはずだけれど、その時は意外に強く主張を押しとおした。新刊書を定価で買い、一日いくらで貸し出すと、どれだけの利益になるかということを、ちゃんと克明に計算してあって、人件費その他の経費までも、手帳の中へ表にして書きこんであり、それを詳しく説明するというふうで、これには小母さまも勝てなかったらしい。ついに小父さまの主張は、家族会議の可決を得るところまで漕ぎつけてしまった。
「わが敬文堂の経営は、これで万全だと思うよ。大学教授だったわたしが商人になった。士族の商法だといって笑われた。ところが、見ていてごらん。今度こそ大成功だよ。――成功したら、心配していたみどりの学費なんてもの、平ちゃらになるにきまってる。それから千春もだ。千春だって、読書が好きなくらいだから、大学まで行きたいだろう。行くがいいね。さっき、千春にも関係がある話たといったのはこのことさ。お父さんが、あんなことになってしまった。親友だったわたしとしては責任を感じる。引取って世話をするからには、千春も幸せになってもらいたい。どうだね千春、うれしいかい」
 小父さまは、最後にそういって、あたしの顔をのぞくようにしたが、ここであたしは、ほんとうのことをいっておこう。
 ほんとうは……あたしは、うれしくもなんともなかった。
 小父さまの商法なんて、あてにならない。そんな貸本屋が儲かるか儲からないか、一向わからなかった、という点もあるにはあるが、実はそういう小父さまの親切な言葉を、あたしとしては、素直にそのまま聞けなかったのである。
 親譲りの強情っぱりでけん気が強くて、その上に、この家へきて世話になっているという、ひがみがあったせいだろう。それはなんだか、恩に着せたような言分に聞えた。実の親が実の子に対しての場合でも、お前のためにわたしは苦労するとか、お前の幸せのためにわたしはどんながまんでもするとか、同じように言って聞かせることがよくあるようだが、そんな時子供のほうでは、どう思うのだろうか。とにかくあたしは、少しいやな気がした。いつか友野の小父さまに、世話になんかならない、映画俳優になるといって毒づいてやったことがあるが、その時ほどではないにしても、腹のずっと奥のほうから、ムクムクと反抗心がこみ上げてきて、まさかその場で小父さまに、失礼なこと言いはしない。しかし、返事はしないで、小父さまの顔、じろりと下から見てやった。それから、反抗の意思表示として、小父さま小母さまに、くるりとお尻を向け、さっき読みかけていた夕刊の、九州に大水害があったという記事を、いっしょうけんめい読むふりをしてやった。小父さまは、へんに思ったか知れないが、どうもあたしとしては、しかたがなかったのである。
 敬文堂書店は、それからじきに貸本屋になった。
 お店の模様替えがあり、書籍もほとんど全部入れかえられ、ベストセラーの小説や流行雑誌が、たくさん買いこまれた。
 それには、ずいぶん費用がかかったのだと思う。
 家計がある程度苦し気だったのに、そんな費用をどうして工面したのかと、あたしは少し不審に思いながらも、だまって見ていた。そうして、お店がうまく行こうが行くまいが、我関せずの顔をしていようと、意地の悪い決心をしていた。
 ところが、おどろくべきことに、小父さまの計画は図に当った。お店はたいへん繁盛はんじょうしたのである。
 チェーン式で、いっしょに貸本屋をはじめた他の店は、あまり成績はよくなかったという。けれども敬文堂は場所もよかったのだろう。お店はいつも客がいっぱいで、といっても、はじめは漫画の本を借りる子供たちが圧倒的に多かったが、とうていもう、お姉さまやあたしがお手伝いするくらいでは、客のさばきがつかなくなった。
 一年たつうちに、店は二倍以上に拡張され、店員も雇い入れたし、裏の住居も建て増しをし、付近でも目を見張るほどの発展ぶりで、堂々たる商店になってしまった。
 商店なんて、そんなものだろう。
 当ったら、儲けはふくれる一方である。
 あたしは、びっくりしてそれを眺めていたのであった。
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一匹の虫



 よくしたもので小父さまは、店が繁昌はんじょうするようになると、どことなし顔が油ぎってきたり、身体もでっぷりと肥ってきて、いかにも大店の旦那らしい風貌をそなえるようになった。
 無理もない。
 自分の発案でやりだした貸本屋が大成功だったのだから、商人としての自信もついたのだろうし、家の中や店で、ただじっとしているだけでも、大いに威望が加わったという感じである。おもしろいのは小母さまだ。小母さまは、貸本屋のほうが古本屋より、一段と格の下がった商売のように考えていた。そのくせお店の収益がびっくりするくらい増したので、目玉をパチクリさせていた。そうしてその時以来旦那さまに、どうやら一目おく、というところが出てきたようだった。
 あたしは、中学三年になり、やがて高等学校へ進むことになった。
 この間に父を失った悲しみは次第に薄らぎ、ただ一つ気がかりだったのは、例の山崎哲男の件だったが、これというのも山崎は、公判になった時にそれまでの彼の自白をくつがえしたからのことである。
 話が少し前後するけれど、その第一回公判があったのは、敬文堂のお店が大いに発展しだした、その初期のころのことである。裁判を小父さまが忙しい店のすきを見て、ひとりで傍聴に行ってくれた。そうして、帰ってきてからの話だと、それはなかなか波乱に富んだ劇的な法廷だったらしい。
 山崎はほんとうに悪いやつだった。
 詐欺さぎ脅迫きょうはく、またイカサマ博奕ばくちなどのほかに、例の自動車強盗が三件もあって、うち一件は、運転手を殺してまでいる。そうしてこれらの件は、検事の論告どおり、わりにあっさりと罪状を認めた。
 ところが、元海軍中佐大谷正明殺害被疑事件になると、俄然がぜん態度を変えている。自白は嘘だった。警視庁で拷問同様のきびしい取調べをうけた。苦痛に耐えかねたから、犯行手順などは、係官が教えてくれたとおりに申し立てて、嘘の自白をしたのだと、肩をいからせて言い出したのである。
 弁護士が立った。
 被告山崎の申立中、大谷家から盗み出したことになっている金融会社資金七十四万五千円の処理、および凶器の点が、まことに曖昧あいまいである。また事件発生時に、その現場に居合せた大谷千春の証言と、被告の犯行手順についての供述と照らし合せてみて、いくつかの食い違いがある。この二点だけによってみても、被告が公判以前になした自白は、嘘の自白であることが明らかであろうと指摘した。
 検事はおちついていた。
 前もってその予想があったのだろう。
 まず本件に関し係官が、犯行手順を被告に教えて、自白を強要したというような事実は全くないのだ、と声をはげましていい、さらに被告の供述と大谷千春の証言と、食い違う点があるにしても、完全に一致する部分も相当に多く、かかる一致は、犯人ならぬ者ではあり得ないことである。すなわちそのことだけによってみても、被告が犯人たることは十分明らかなのだと弁駁べんぱくした。
 すぐに判事から被告に、大谷千春の証言と被告の供述とが、事実上よく一致している点につき尋ねたが、被告は、はじめに新聞で事件を知った。それは自分の母親が世話になっていた家の事件であるし、ことにその直前、自分はその家をたずねて行っていて、被害者大谷正明と面談し、また問題の防空壕ものぞいてきている、興味を強くひかれたから、新聞記事を詳しく読み、したがって内容もよくおぼえていたから、嘘の自白の際には、その記録に基いての供述をでっちあげたのだ、とよどみがちではあったが、いちおう筋の通る弁明をしたのだそうである。
 小父さまは、つけ加えて話した。
「まだ審理は繰返してあるだろう。判決の言渡しまでには時間がかかる。それにしぶといやつだからね。言渡しがあっても、素直に服罪はしないな。控訴こうそに控訴を重ねるだろうから、裁判はずいぶん長引くわけだ。山崎も弁護士も、アリバイのことなんか、くどく言い出してね」
「アリバイがあったんですか」
 とあたしが訊くと、小父さまははげしく首を横にふった。
「ありゃしないよ。単なる言いぬけにすぎないけれど、やつは、事件発生の当夜、つまり八月一日の夜は。早目に自分の家へ帰って寝てしまったといっているんだ」
「自分の家って、ばあやさんの……」
「そうだよ。お霜さんていうんだったね。やつは母親とふたりで、新宿の近くに間借りしていた。そこへ帰ったというんだけれど、その証拠はべつにない。というのが、母親のお霜さんは、息子にいじめられて飛び出して山形へ行ってしまっている。その晩に息子が、どこでどんなことをしていたか、まるっきり知りませんという証言をしたわけだ。――法廷へは、そのお霜さんがきていたよ。やっぱり親心だな。心配して山形から上京したのだそうだ」
「かわいそうだわ。ばあやには罪がないのでしょう。正直でいいばあやだったの」
「あとで、わたしのところへきたんだよ。わたしも気の毒だった。お嬢さまによろしくっていってね。息子がとんでもないことをしでかしたから、もう、もう、顔向けができない。申訳がないといって泣きだした。わたしは、ちょっともてあましたよ」
「慰めてあげたい気がするわ。行けば、あたしも会えたんですね」
「うん。まア、会わないほうがいいだろな。お霜さんの口ぶりで見ても、息子のやったことだと思っているらしい。会っても、ただ泣かれるだけのことだからね」
「ほかに、誰か知っているひと、きていませんでした?」
「いたよ。毎朝ニウスから、川口君と雪村君とふたりきていた。公判後いっしょに食堂でコーヒー飲んできた。ふたりともに、新聞記者の目で見ても、結局山崎は黒だろうっていっていたよ」
「小父さまは?」
「わたしか。わたしも同じだよ。ほかに犯人があるはずはないだろう」
「友野の小父さまはいませんでした?」
「ええと……気がつかなかったな。きていなかったのだろう。どうして、そんなこと訊くんだい」
「あの小父さま、大きらい! もしかしたらあの小父さまが、犯人だったのじゃないでしょうか」
 だしぬけに、その考えは、あたしの頭の中へいたものである。
 橋本の小父さまは、いとも簡単にきめてしまって、山崎のほかに犯人はないはずだという。
 けれども、そうとばかりは限るまい。
 父があのように無残に殺されたことに対して、友野の小父さまは実に冷酷だった。子供のあたしに、同情してもくれなかった。ただただ、出資金の二十万円がフイになったのを口惜しがってばかりいたようだが、さて、裏には裏があるのかも知れない。ほんとは、自分で七十四万五千円を盗んでおいて、上っ面の顔だけ、二十万円が惜しかったというふうに見せかけることだってありうる。もちろんそう疑ってみたところで、根拠は……と訊かれたら、あたしは困る。しかし、いちおうは疑ってみてもいいのではないか、そう思いついたのであった。
「ばかだな、千春は……」
 と橋本の小父さまは笑った。
「そんなこと、うかつに口へ出すもんじゃないよ。犯人は山崎だときまっている。だのに千春が、ここでそんなこと言出しても、誰も取上げやしない。第一、いらんこといって、ひとに憎まれるだけじゃないか」
「そうね。じゃ、取消すわ」
「思ったことを、かくさずにすぐ口へ出すのは、千春の癖だね。――悪いことじゃないかも知れない。わたしは少年のころから引込み思案でね。そういうことができないから、ずいぶん今までに損をしてきた。それにくらべると、千春はいいとこがあるということになるわけだけれど、事と次第によりけりだからな。まア、よろし。店はどうだった?」
「とってもたいへん。小母さまもあたしもてんてこまい。みどりお姉さまだけがお茶のお稽古――」
「店が忙しいのに呑気のんきなやつだな。よしきた。帳簿を……仕入れのだヨ。ここへ持ってきておくれ」
 小父さまの頭は、もう商売のほうへ行ってしまっている。
 あたしは、なぜだったか、頭の中が曖昧模糊としていた。割り切れないものがどこかにある。しかし、何を割り切ろうとしているのかもわからなかった。じきに店へ出て、漫画の本を借りにきた子供たちの相手をしはじめた。


 中学三年の末期に、あたしはみっちりとお勉強をした。
 好きな小説も読まず、お姉さまから映画に誘われても行かず、夜も遅くまで起きている日がいく週間かつづいた。
 小父さま小母さまの好意で、あたしも大学までやっていただくことになり、それにはまず高等学校だったが、ではどこの高校がいいかとなると、あたしは、一も二もなく、お姉さまと同じ学校を選んだのである。それは、都内でも有名な学校だった。したがって入学試験が、他のどこよりもきびしいとされていたが、お姉さまは難なく入学したのだと聞かされている。あたしのおなかの中には、いつも一匹の虫が住んでいて、その虫はけることが大きらいだった。だからあたしは、あとにもさきにも、あんなにすごく勉強したことはない。そうしてその甲斐はあって、昭和二十四年の春、あたしもうまくそこの入学試験をパスしたのであった。
 名前は文教学院といった。
 もとは女学校だったせいだろう。表向きは男女共学制になっていたけれど、男の子なんかほとんどいない女の子ばかりの学校で、入学して間もなく、あたしはクラスの自治会委員に選ばれ、それから全校委員が集合しての第一回総会が開かれると、そこであたしはちょっぴりとやりすぎた。
 みどりお姉さまが、やはり三年のクラス委員として、その席へ出ていた。
 はじめにおどろいたのは、お姉さまが校内では、絶対の人気者だということである。まず、委員長をきめた。するとほとんど全員の投票でお姉さまを選挙してしまった。おとなしいお姉さまは、当惑して赤い顔になって、そんなことは自分にはできないという。しかし、ほかのものがきかない。ほとんど押しつけで、お姉さまを委員長にしてしまったのである。
 が、そこまではいい。
 その直後に、委員長であるお姉さまが同時に議長となって、二三の議事を進めだすと、あたしはがまんができなくなった。
 議題が、自治会とクラブ活動との連絡についての時だった。
 お姉さまは、委員たちの意見がまとまってくると、それにつき学院主事の意見をいちおう求める。同じ席に主事が傍聴にきているのだったが、さてそうやってから、最後の採決にかかるのである。
「議長!」
 とあたしは立った。
 みんなの目がいっせいにあたしのほうへ向けられ、お姉さまは、「あらッ!」といったふうだった。
「はア、なんですか」
「あたくし、議事の進行について、異議があるのです」
「それは、どんな点についてでしょうか」
「議長が、事ごとに主事先生の意見をお求めになるのは、委員会としての採決がすんでからのことにしていただきたいと思います」
「なぜですの。その理由をおっしゃいな」
「理由はあります。が、理由を申上げる前に一つ質問したいのです。この自治会は学院の先生方がお作りになったのでしょうか。それとも、生徒のために生徒が作ったものでしょうか」
「ええ、それは、この学院の美しい伝統ですわ。すべてを生徒自身の力でやるように、生徒自身のために、生徒自身が作ったものですわ」
「ああ、そうですか。では自治会は、あくまでもあたくしたち生徒の意志によって、運営されるべきだと考えます。言いかえると、あたくしたちの考えだけで、事を決定するのが、その本来の主旨ではないのでしょうか。おいでになっている主事先生は、単なる傍聴人でしかありません。その傍聴人の意志が、自治会の議決の中へ含まれてくるのは、間違っています」
 ひろいお教室がしーんとした。
 主事先生が、椅子から腰をもち上げ、何か言いたそうにしたけれど、それを見るとあたしは、たたみかけていった。
「主事先生は、も少し、お聞になっていらして下さい。傍聴人は傍聴人としての立場にいらしていただきたいと存じます。議長にお尋ねしましょう。採決に先立ち、主事先生の意見をお求めになるのは、委員会がはじめからそうしようという考えを持っていて、その考えに基いてなさることですか」
「ええ、それは……そうだと思いますが……」
「議長! 議長はそんな曖昧な、思いますなどという、推測をおっしゃっては困ります。委員会が、主事先生の御意見を参照して、そのあと採決にはいるということをあらかじめ決定してあるのなら、議長の処置は悪くありません。でも、事実上はそんな予めの決定はないのでしょう」
「それは、そうです。ありません」
「でしたら議長! あなたはこの自治会を、生徒自身のものでなくて、わざわざ主事先生の干渉かんしょうをうけるような、封建的自治会に変化させていらっしゃるんです。自治会は、先生の干渉を極力避けるべきではないでしょうか。美しい伝統だとおっしゃいました。けれども、その伝統は壊れてしまいます。こんなやり方でしたら、議長としての職責がつくせないことになりはしませんか」
「議長!」
 たまりかねたのだろう。お姉さまと同級の神尾さんというひとが、手をあげて叫んだ。
「あたくし、いまの一年級委員のおっしゃったこと、不穏当ふおんとうだと思います。議長を非難なさいました。妹さんでも許せません。その言葉を取消していただきませんと……」
「あら、どうしてですか。どこが不穏当でしょうか」
 あたしは、おちつきはらって向き直り、神尾さんが、口をとがらせて、
「自治会の議事は前からこのようにしてやってるのです。あなたのお姉さま……議長の処置は間違っていないの。主事先生の御意見を伺うのは当然だわ。それを伺ってからでないと、せっかく議決したものも、学校の都合で実行不可能になることがあるんですよ。あなたはまだ入学なすったばかりだから……」
 上級生の貫禄を見せるようにしていったから、すぐにまたやりかえした。
「そうですか。ではこういうやり方は、習慣だとおっしゃるのですね。習慣だったら、悪い習慣です。すぐにこれはやめていただきたいと思います。議決が、学校の都合で、実行不可能になるのでしたら、その時に自治会としては、改めて次善の案につき協議するのが正しいやり方でしょう」
「でも、そんなことしたら、決定までに時間がかかって困ることになるのよ」
「いいえ、生徒の自治権を守るためには、時間がかかってもいいのです。それに、そんなに時間をつぶさない方法だってあるのではないでしょうか」
「あるもんですか。あるなら、おっしゃってみて……」
「委員会へ議題を出す前に、学院当局と十分打合せを遂げておけばいいではありませんか。そうすれば、学院当局と衝突するような案につき、あたくしたちが、むだな議論をする必要がなくなるのですもの」
 とうとう神尾さんもだまってしまい、お姉さまは議長席で立往生の形になった。
 あたしは、そんなにまでやっつけるつもりではなく、ただ、正しいと思うことをいっているうちに、結果としては、全委員の感情をこわばらせ、また同席された主事先生にも、いやな思いをさせたことになるのである。
 お姉さまは、それからしばらく、家にいる時でも、あたしに口をきかなかった。
 あたしも「ごめんなさい」と一言いえばいいとわかっていて、やはりつーんとすましていた。
 三日ほどしてからだろう。お姉さまが、お友だちのお兄さまからいただいた後楽園の入場券を、だまってあたしの机の上においた。
「すみません。野球なら見に行くわ」
 とあたしは、やっとお姉さまに頭を下げた。
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一つの挿話



 時々あたしも、反省はした。
 少なくもそのころのあたしはそうだった。
 お姉さまは、学院内の全人望を一身に集めていたくらいで、たしかにいいひとだった。
 美しくてやさしくて、こまやかな感情の持主だった。
 お母さまに似て、いくらかおしゃべりだったり、少し泣き虫すぎたりしたけれど、そんなことは場合により、女の性格のアクセサリーになるものだ。言い換えるとお姉さまは、常識的な意味において何一つ欠点のない女性だったのだろう。
 そういうお姉さまに対して、ともすればあたしが、理屈をこねまわし、たてをつき、お姉さまをいじめる形になったのは、あたしの性格のどこかにコツンとしたかどがあるせいだから、なるべくあたしも女らしくして、そのかどを取らなければいけない、などと考えたものである。
 でも、事実上は、なかなかそれがうまく行かない。
 それどころか、のちになるとあたしは、お姉さまにとって、この世でいちばん憎い人間になったというのが、思えば一つの宿命とでもいったようなものではあるまいか。
 ――話を、そこへすぐ飛躍させては、筋が通らなくなる恐れがある。
 そんなわけであたしは、はじめからお姉さまにとって、可愛らしい妹ではなかったのだと言える。そして、そのようにいつも反抗し、たてをついた、そのも一つの例として、後の事件とも関係があるし、船越尚子という子のことを、ここに挿話的に書きつけておこう。
 あたしは、学院のクラブ活動では、演劇部と音楽部とに籍をおいた。
 演劇部はともかくとして、音楽はあたしのいちばん不得意なものだったのに、なぜそれをやったかというと、不得手なればこそ、女であるあたしには、そういう面の素養も、身につけておく必要があると思ったのだし、それからも一つには、お姉さまがそのころ、幼い時分からの望みを達し、お三味線のお稽古をはじめていた。一週に二回、敬文堂の裏の二階の、これも普請ふしんをしなおして、めっきりとりっぱになったお姉さまの部屋へ、杵屋きねやなにがしという若い男がきて、ふたりさし向いにチントンシャンとやりはじめる。
「よしきた。お姉さまがお三味線なら……」
 とあたしはヴァイオリンを、好きでもないのに習う気になったのであった。
 実は、このヴァイオリンには閉口した。
 教師がたいへんな詰込み主義で、しょてっぺんから、むずかしい曲目ばかり教えた。
 ザイツのロンドだの、ヴィヴァルディの協奏曲卜短調だのである。
 あたしは譜だけは楽に読め、弓もそうトチらずに動かせるようになっても、いい音を出すことができない。ギュッギュ、ギーコギーコという音ばかりで、ヴァイオリンに特有な、あのむせぶが如く泣くが如く、また訴えるが如く……といったような音律がどうしても出せない。
 意志の強いつもりのあたしでも、さすがにいやになった。
 ある日、お稽古のあと、教室を出てくると、船越尚子が話しかけた。
「ヴァイオリンて、思ったよりもむずかしいわね。いくどもよそうかと思うけれど、ほかにやることないから、やってるのよ。どう、大谷さん。これから、いいとこへ行かない?」
 その子は、あたしより一年上級で、やはりヴァイオリンがうまくない。同じ曲目を何回でも繰返して習わせられる、オンチ仲間のひとりだった。
「いいとこって?」
「映画の特別試写会の切符があるの。テクニカラーで、とってもきれい。誰でもうっとりしちゃうんですって」
「見たいな」
「いらっしゃいよ。それにね、B・F紹介してあげてもいいわ」
「なアに、B・Fっての」
「あら、いやだ。御存じないの。流行語よ。こっそりはやっているわ。ボーイ・フレンドの頭文字よ。だから、ガール・フレンドはG・Fってわけ」
 温泉マークの旅館が、目に見えてふえてきたころだった。
 セイラー服の女の子が、ダンスホールへ行ってチータ・ダンスしたり、男の子とアベックで夕暮れの街を歩くのが、平気だったりしている。尚子は、そのお父さんが堅苦しい刑法学をやっていて、ある程度名を知られた人物だと聞いていた。しかし尚子自身は、いわゆるアプレの、かなり悪い子になっていたのである。
 その時はあたしは、敬文堂へ学校から電話して小母さまに。帰りが遅れるからとことわっておいてから、日比谷まで行ったのだし、映画を見た以外には、何も変ったことはなかったけれど、その後はかなり急速に、このズベ公尚子と親しくなって行ったのである。
 いち早く、それに気づいたのが、お姉さまだった。
 ある晩、九時ごろになってあたしが敬文堂へ帰ると、ひとりきりお夕飯をすまして二階へ上がったところへ、お姉さまがきた。
「ねえ、千春ちゃん。きょうはどこへ行ってきたの」
「どこへも行きはしないわ。学校にいたわ」
「あら、そう。何をして?」
「臨時でヴァイオリンのお稽古があったの。このごろ、生徒がふえてきて、順番が回ってくるのがたいへんなの。お腹がすいたけど、がまんして待っていたわ」
 あたしは、嘘が上手ではない。
 顔色をごまかすため、わざとすまして、机の上の辞書の位置をかえたり、ノートをあけて見たりしていたが、お姉さまは、あたしの嘘を承知していて、そのくせそれ以上にはつっこまず、かえって遠慮がちな口調でいった。
「あたしね、こないだから、いっときたいと思っていたのよ。千春ちゃんは、船越さんてひと、よく知らないんでしょう」
「あら、おどろいた。尚子さんのことね。尚子さんが、どうかしたんですか」
「あたしは、千春ちゃんより一年前から、あのひとを知っているのよ。自治会の風紀部で二度も問題になったことがあるわ。あのひととあなた、仲良くしているわね」
「ちょっと待って。仲良くなんかしていないのよ」
「そうオ。でも……」
「ふたりで、話し合うことはあるの。けれども、話し合うのは、必ずしも仲が良いってことにはならないでしょう」
「え、ええ。それはそうだわね」
「誤解しないでいただきたいわ。お姉さまは千春を、馬鹿だと思って……」
「いいえ、いいえ、あたしはそんな……」
「尚子さんが、どんなひとだか、知ってるのよ。毎月のお小づかいをたくさん使って、パーマをデコデコにかけて、ボーイ・フレンドだってあるでしょう。だけど、ほんとうは気の毒なひとね。みんながあのひとのこと悪くいうから。学校でお友だちができないわ。淋しくなって、やけっぱちなことしようとするのよ。あたし、それを思って、あのひとの相手になってあげるの」
 あたしは、悪い子になりかけていた。
 お姉さまが心配していさめようとしたのを、勝手な言草いいぐさをならべたあげくに、
「ともかく、尚子さんの悪口をいうのは、もうよしましょうね。あのひとに、直接そういってあげて忠告するのだったらよろしいわ。でなかったら、陰口いうだけのことで、千春はそういう陰口、大きらい。そんなこと、とても卑怯ですもの」
 そう逆襲的にいって、お姉さまの口を封じてしまった。
 この結果が、よくないことになっている。
 それからのちもあたしは、誘われるのを幸い、ヴァイオリンの日は、ほとんど必ずエスケイプして、映画を見に行った。
 それから、女の子がふたりだけで喫茶店へ行くことをおぼえ、そこでは尚子の、男の子についての話を聞いた。話を聞いただけではない。冬の寒い日だった。尚子はあたしを、お好み焼きへつれて行った。ところがそこには男の学生が、ふたりもあたしたちを待っていたのである。


 お好み焼きの店は、神田の裏通りの狭い路次のうちにあった。
 尚子は、
「こちら、大谷千春さんよ」
 と、あたしをさきに紹介してから、その男の子たちを、
「S大の三宅敏夫さん――それから同じくS大の市村仙吉さん……」
 と教えてくれたが、ふたりとも大学の制服など着ていない。オーバーのえりから、赤い色のはでなマフラーをのぞかせ、頭には男のくせにパーマをかけているし、顔にはニキビが出ているという、典型的な不良たちであった。
 もっとも学生であるだけはたしからしく、はじめのうちそのふたりは、学校のアイスホッケーの話などしていた。スケートがうまいということを、あたしの前で誇示するつもりだったのだろう。あたしのほうは、そのふたりの顔を見たとたん、ふっと山崎哲男のことを思いだしていた。
 山崎といえば、あの後の裁判が、橋本の小父さまの予測したとおりに進んでいて、第一審は有罪で死刑の判決があり、それを控訴したから、いま彼は引き続き未決にはいっているのだ、ということをあたしは聞いている。ふたりの学生が、顔は少しも似ていないが、物腰とかしゃべり方とか、その身のぐるりから発散する何かが、あの与太もんの山崎と、一脈相通ずるものがあったのにちがいない。
 あたしは、こんなチンピラの不良など、てんから軽蔑してかかる気持があり、これはへんなことになったけれど、まんざら面白くないでもない、しばらく様子を見ていようとばかり、大胆不敵にかまえていた。
 うどん粉をまぶした肉や野菜、それから中華そばなどを、あたしたちは鉄板の上でこねて焼いた。
 生れてはじめての風変りな食べもの――というよりは、その風変りな食べ方が、けっこうあたしには気に入った。
 スケートの話のあとが、おきまりの映画の噂になり、またダンスのことになって、あたしにも、ダンスはやったほうがいいと、しつこく三人ですすめたが、そのお好み焼きにいたのは、一時間ちょっとであろう。お勘定はワリカンのつもりで、学校帰りのまま持ってきていたカバンから、あたしも蟇口がまぐちを出そうとすると、
「いいのよ。きょうは大谷さんはお客さま。三宅さんがオゴルっていったわね」
 と尚子が横目をつかっていい、
「オーケーだ。きょうはおれ、ゲルピンじゃないさ」
 その三宅という学生が、ひどく気負った調子で答えた。
 何かまだこのあとにたくらみがあるのだ、という気がしたのに、あたしはやはり、たかをくくっていた。
 外へ出ると、すっかり夜になっていて、おまけに雪が降りだしている。大きなぼたん雪で、もう何センチかつもっている。
「あら、あら、たいへんだ。あたし、都電で帰るわ」
「そうオ。送って行ってあげましょうか」
「だいじょうぶ……」
 向うに、明るく光があふれ、都電の走っている通りが見えていたのに、その時尚子が、
「こっちよ。こっちのほうが近いわ」
 そういって先きに立ち、都電とは反対の方角へ歩きだしたので、あたしもうっかりあとをついて行ったが、すると人影の一つもない淋しい通りの、大きな倉庫風のビルがあるところまで出ると、尚子と市村仙吉とが、やにわに抱き合ってキスをした。
 それは、そういう手はずになっていて、あたしを誘惑してしまおうということを、前もって打合わせてあったものにちがいない。
 実に異様な感じだった。
 雪の中で尚子は、両腕をしっかりと男の首にからませ、顔を少し横向けにして、目を閉じ、唇を深く合わせている。
 あたしは、目まいがするようで、思わずそこに立止ったままでいたが、その時、
「あれッ、うまいことしやがる。見せつけられちゃ、たまらねえや」
 あたしのうしろにいた三宅がいうと、ふいに彼の手がのびてきて、あたしを抱きすくめる恰好かっこうになった。
「なにするのよ、バカ!」
 あたしは、かろうじて、カバンを持っていないほうの手で、三宅の頬ぺたをピシャリとやるだけの余裕があった。
 尚子は、ちゃんとこちらを見ていたのだろう。あたしが、身をひるがえして向うの曲り角のほうへ逃げだすと、
「あら、だめよ、大谷さん。待ってよ。そんなの、ないわ」
 あたしを叱るようにして叫んだが、じきに三宅は追いついてきて、今度はあたしの腕を、力にまかせてつかんでしまった。
「ねえ君。いいじゃないか。ぼくは君のこと好きだったのだよ。ずっと前からだ。いっぺんでいい。キスさせてくれよ」
 男というものは、大人でも、子供でも、そういう時に、同じことをいうのである。
 鼻が低くて、顔色がいやに白い三宅は、荒々しい息をし、片手をあたしの肩へ回して、じりじり唇を近づけてくる。頬があたしのおでこへさわった。何か汚いものがべたりとついた感じだった。精かぎり根かぎりあたしは抵抗して、やっとこさ三宅をふりはなしたが、そのあとじきに雪に足をとられて倒れたから、彼はすぐとそこへ追いせまってきた。
 もうだめだ、と思った時に、向うからジープが二台走ってきたのは、あたしにとっての救いの神だったわけである。
 ジープには、アメリカのGIでも乗っていたのだろう。そうして実は、何も気づかずにそこを通りすぎてしまった。
 しかし、三宅は、そして尚子も市村も、ジープを見て逃げた。でなかったら、あたしはどんなことになったかわからない。
 その夜あたしは、服も裂け手袋も片方なくし、雪でぐちょぐちょにれて、敬文堂へ帰った。
 どうにかこうにか身を守り、誘惑をしりぞけてはきたのだけれど、お姉さまからの諌めがあったにもかかわらず、尚子とつきあっていたために、あのようなあさましい目にったのだと思うと、さすがにあたしも顔向けがならない。雪のせいで都電が脱線し、歩いてくる途中、すべってころんだのだという口実を思いついていた。そうして、誰にも顔を見られないようにして、あたしは寝てしまった。
 雪に濡れ、無理をしたせいだろう。
 この翌日から、あたしははげしく発熱し、学校も休まねばならなくなった。
 小母さまとお姉さまとが心配してくれ、医者が呼び迎えられてくると、症状としてはやや悪性の感冒だが、少し肺を悪くしていて、入院治療の必要があるのだと知らされた。
 ほんとうにあたしは厄介やっかいをかけている。
 小父さま小母さま、そうしてお姉さまは三人で相談したのだそうだ。
 あたしは、西武沿線にある竹早という病院へ入院し、ここで翌年の初夏まで十分に治療をうけた。そのころでは、そうざらにある薬ではなく、また高価であったストレプトマイシンの注射をうけ、小父さま小母さまとしては、実の娘に劣らぬだけの手当をしてくれたから、めきめきあたしは快方に向かった。
 この間に、敬文堂のほうは相変らず順調で、おまけに小父さまは株を買い、その株が大当りしたということだったし、お姉さまは、高校から大学へ進み、それも官立の大学の入試を、今度もたやすくパスしたのだと聞かされたが、それについてはあたしも、前の時のような競争心がわかず、病院へ見舞いにきてくれたお姉さまに、心から進学のお祝いを言えたというのが、実は船越尚子の件で、はっきり自分が悪かったという、心のひけ目があったせいだろう。
 思いがけぬところに、あたしを地獄へつきおとす、二つの動機がかくされていた。
 その一つ――
 もうじき退院できそうになった四月下旬のことだった。
 あたしは食欲が進み、ことに果物が大好きだったが、病院へお姉さまが、見舞いにきて下すった。
 ところが、それがひとりではない。
 いっしょに、田代守がきた。
 銀座で小父さまと立ち話しをし、あたしの心に深い印象を残した田代である。
「果物籠がとても重かったのよ。田代さんにお願いして、いっしょにきていただいたわ。田代さんがおっしゃった。千春ちゃんなら、ずっと子供の時から、知ってらっしゃるんだって。ねえ、そうでしょう」
 とお姉さまは、まぶし気に、あのまつ毛の長い美しい目で、田代を見上げていった。
[#改段]

恋ごころ



 あたしは嬉しかった。
 田代は、青味のまさったグレイの服にチョッキなしで、まっ白なワイシャツの胸へ、服と共色のネクタイをれ、手首には、グリーンゴールドの腕時計をはめていたが、銀座で見た時よりも、一段とりっぱな風采ふうさいだった。何かのスポーツの選手のように、キリッとひきしまった恰幅かっぷくといい、少し陽やけした額に、パラリと髪の毛がかかった具合といい、この時ほど、彼が美男子に見えたことはないのである。
「千春ちゃんも、ずいぶん大きくなっちゃったんだな。それに元気で、まるで病人のような顔、していないじゃないですか」
「とてもよくなったんですもの。もう、熱もほとんど出ませんし……」
「病気なんか、自分の気持でふっとばしてしまうんですよ。ぼくなんかは、たまには病院へでもはいって、ゆっくり寝ていてみたいと思うくらいだな。人間は、病気で寝ている時、いちばん利口になるのだって、何かの随筆に書いてあったが、……ああ、こりゃ、啄木ですね。啄木、好きですか」
「好きってほどではありませんけれど、病気が同じだったのですから」
「あははは……じょうだんじゃない。啄木と千春ちゃんとじゃ、病気の程度がちがいますよ。センチになっちゃいけませんね」
 そうして、ベッドの上においた啄木の本を取上げて、パラパラと頁をめくっている。
 あたしは、田代が、あの防空壕工事の時、ずるけて日なたぼっこして、詩の本を読んでいたことを思いだし、そのことを言った。田代は、頭をかき、明るく笑いながら、近ごろはもう詩なんか読むひまもない、すっかり俗っぽくなってしまったと答えた。
「いっしょにお手つだいにきて下すった今村さんて方と、それから、あとで酔って、ツンツンレロレロをお歌いになった方。あれは、忘れましたわ。なんておっしゃったかしら」
「うん、山岸のことですね。よくそんなことまでおぼえている。あの時は千春ちゃんは、まだ小学校へ行っていたんじゃないかな」
「ええ、それはそう。だけど、ついこないだのことのような気もするんですの。今村さんや山岸さん、今はどうなすっていらっしゃる」
「今村は頑健ですよ。北海道へ行って、炭坑の親方になっています。山岸のほうは、時々ぼくのところへきますがね。あいつはどうも、困ったやつで」
 何か迷惑させられていることでもあるのだろう、山岸については、顔をしかめながら、あまり好意を抱いてないという口ぶりだったが、そんなことはあたしには問題ではない。
 思えば田代とは、あの時からもう知合っていて、まだ直接に口をきき合ったことはないのである。
 あたしは田代となら、二時間でも三時間でも、話していたい気がし、けれどもそのあとは、二十分ほど、お姉さまもまじえて、むだ話をしただけだった。その中で、お姉さまが説明したところによると、田代はここ二三カ月ほど前から、ちょくちょくと、敬文堂へ顔を見せるようになったのだという。
「いや、高田馬場へ、ちょっと用があって行きましてね。そしたら、敬文堂のネオンサインが目についたんですよ。橋本先生に、お訪ねするといっといて、それっきりになっていたでしょう。だから、夜だったけれど、お寄りしたんでしてね」
 と田代はいい、
「お父さまは、とてもお喜びだったんですの。それに、お父さまったら、またお金儲けで、印刷会社かなにかをはじめたいんですって。田代さんがお見えになると、いい相談相手になすっていらっしゃるわ」
 とつけ加えてお姉さまはいった。
 ふたりが帰る時、あたしは病室の窓から見送った。
 お姉さまは、春向きの薄地ウールのブラウスに、こまかいチェックの上品なスカート。腰には、そこだけくっきりと目立つ、赤い細い革のベルトをしめていたが、そのころはやりだしたショルダーバッグを、軽く片手におさえつけながら歩いて行くうしろ姿が、すっかりともう成熟した女の形に見えた。一度ふりむいてあたしの窓を見上げ、手をふって別れの挨拶をしたが、病院の前庭の植込みをぬって行く時には、ふたりで肩をよせ合わせるようにしている。それはまるで、新婚の夫婦のようにも見えるのであった。
 白いつつじの咲いている病院の門のわきに、芝生がある。
 そこでちょっと立ちどまると、田代が花をんでその花を、お姉さまのベレエ帽にさしてやり、それから何かいって笑い合って門を出たが、右へ行けば駅へまっすぐなのに、逆に左へ曲ってふたりは行ってしまった。
 暖かく、天気のよい日だった。
 すぐには家へ帰らず、林や丘や畑のあるその郊外を、ゆっくりと散歩したことにちがいない。
 その晩、あたしはよく眠れなかった。
 胸のうちが苦しくなってきていた。
 眠れないから、小机の上のスタンドをつけて、読みかけの詩集をひろげて見たけれど、心が少しもおちつかず、ただただ、田代とお姉さまのことばかり考え続けた。
 そのせいだろう。翌日はいつもより発熱している。回診の医師がきた時、検温表を手にとってみて、どうしてこんな熱が出たのかと、首をかしげて不思議がった。あたしは、本を読みすぎたせいですわ、と何気ない顔で答えておいたが、その実は我ながらおどろいていた。田代がお姉さまとふたりできてくれたことは、あたしにとって、そんなにも深いショックだったのである。
 入院中、せめてもう一度は、田代が見舞いにきてくれるのではないかと、あたしはだれにも言わず心待ちしたが、ついにそれっきり彼は姿を見せなかった。
 退院したのは六月になってからである。
 その時、敬文堂へ戻ってみておどろいたのは、あたしに与えられていたお勉強の部屋が、階下に移されていたことだった。
 入院前までは、あたしの部屋の三畳とお姉さまの四畳半とが、二階に北向きで並んでいた。ところが今度は、あたしの部屋だけが下に変っている。小母さまが、
「千春ちゃんにはね、病気のあとだし、北向きの部屋じゃ、いけないってことになったのよ。これからは、ここをお使いなさいね。前より広くていいでしょ。二階じゃなくっても、風通しはいいし、朝のうちの陽がよくはいるのよ。第一ここなら、もうきちんとしたお座敷ですものね」
 といったが、なるほどそこは六畳で、山水の軸がかかった浅い床の間もついているし、庭へ向いた小っちゃな濡れ縁まであるくらいで、高校生の小娘が、ひとりで使うのにしてはもったいないくらいの部屋である。
「千春、もうだいじょぶ。こんなに心配していただかなくても、よかったんですのに」
 あたしは、ちょっと嬉しくなり、も少しで感謝の涙をこぼしそうになったが、だんだん日がたつにつれ、この部屋替えの意味がわかってきた。
 田代が、一週間にいっぺんぐらいくる。
 なんでも彼は、高円寺のあたりで映画館を経営していて、大学を出たての若者にしては、めったにないくらい羽振りがよく、事業的才幹さいかんがあるのだそうだ。
 人は見かけによらぬものだけれど、小父さまのほうは、敬文堂の利益があがっているし、印刷会社に手を出す気になったから、その事業的才幹を見込み、田代を相談相手にしているのだという。しかし田代は、小父さまとの話がすんだあと、二階のお姉さまの部屋へ行って、ほとんど小一時間も話しこんでいたことがあった。
 あらかじめ、そういう時のことが考えられたのにちがいない。あたしが以前と同じく二階の部屋にいたのでは、ふたりの邪魔になるのであった。
 そうと気がついて、あたしは身体じゅうがメラメラと燃え上がる気がした。
 小父さま小母さま、そうしてお姉さまからも、こよなく親切にしていただいて、その点だったら、口で礼を言いきれぬほどのものがあるのだろう。
 ところがあたしは、敵の中にいるのと同じだと思った。
 病気で寝ていて、進級の遅れたせいもあるが、あたしはまだやっと高校の一年生で、つまり少女の域を脱していない。
 しかしその時に、はっきりとあたしは、あたしが田代をあの子供のころから、恋していたと知ったのであった。


 当人の田代も、それは知らなかったろう。
 またほかの誰も、あたしの思いを、気づいてはくれなかった。
 あたしにとっても、これはほかのこととはちがっていた。
 子供のあたしが恋をしている――ことにもう、れっきとした社会人で、それも映画館まで経営していると聞く、敏腕家の田代を恋しているなどということは、いくら強心臓だといわれたあたしでも、そうあっさりと口へ出すことができなかったからである。
 表向きは、やはり無邪気な高校生らしく振舞わねばならぬあたしだった。
 そうして、それだけに当時は、胸のうちがよけいに切なく苦しかった。
 しかも、またわかってきたことがある。
 それは、小父さまと小母さまとが、ともすれば田代の噂話をすることがあり、その時のふたりの言葉のはしはしから、あたしがいち早く推察したのであったが、どうやら小父さま小母さまの意中では、もうずっと前から、お姉さまと田代とを、結婚させたいと考えていたものらしい。それだけは、思い切ってあたしも言ってみた。
「ねえ小母さま。お姉さまと田代さんとは、とっても仲がいいのね。千春も、気がついたことがあるわ」
「へえ、何を?」
「小父さまが印刷会社をやるなんての、きっと嘘ね」
「おやおや、へんなこと言いだすわね、それ、どういう意味?」
「ちがってたら、ごめんなさい。小父さまは印刷会社をやるっておっしゃっても、ほんとはそれは口実でしょ? 田代さんを相談相手だということにして、しょっちゅうきていただくのは、お姉さまと接近するチャンスを、うんとたくさん作ってあげようっていうわけなんじゃない?」
 小母さまは目をまるくした。
 それから、わざとふざけて、あたしの推察が「そのものズバリだ」と、そのころはやりだした言葉でいった。
「おどろいた子ね、千春ちゃんも。ほんとはね、これはあたしが思いついて、それから小父さまも大乗気になっちゃったのよ。ふたりは似合いの夫婦だと思うわ。どう。千春ちゃんもそう思わない?」
「え、ええ……そうね……」
「実は、あたしから、ふたりの気持を聞いてあるのよ。そしたら、みどりが真赤まっかになっちゃって、お母さま、すみませんていって、泣いてるんですもの。あたしったら、おかしかったり、やっぱり泣けてきたりしてね。あの子、胸の中のことを、半分も言えない子ですからね。あたしも、いじらしくなってしまって」
「田代さんのほうは、どうおっしゃって?」
「こっちは、はっきり、みどりが大好きだっていうのよ。ぐじぐじしてないでいいと思ったわ。そしてね、なにしろみどりがまだ学生だから、卒業してからの結婚ということにして、それまでにお互に清らかな交際を続けようという約束なのよ」
「じゃ、つまり、もうフィアンセね」
「そうですよ。ほんとは、みどりがうちのひとり娘ですからね。世間並みにいうと、こちらへ養子にきてもらうところだけれど、そんなこと、どうでもいいって小父さまもおっしゃってるわ。来てくれるなり、向うへ行くなりね。どっちみち、理想的な若夫婦ができてもらいたいのよ」
 もう、そこまで話は進んでいる。
 あたしは、部屋へ戻ってから、気持をおししずめるのに努力した。
 そして、狂おしくいきどおろしい心の底から、やっとこさ一つの結論に達した。
 これこそは、あたしの出る幕ではない。もうだめだ! いさぎよく、わが煩悩ぼんのうを断ち切らねばならないのだと。
 弁解するためにいうのではない。
 それがいちばん賢明であり、お姉さまのためにもあたしのためにも、幸せになる道なのだと、しっかりあたしは自分の心に言い聞かせ、それからその決心を、実行に移すべく努めたのである。
 お姉さまも、思い当って下さるだろう。
 田代は、自分の館で上映する映画選択のため、試写会へよく行くことがあり、するとあたしも、いっしょに行かないかと誘われた。
 しかしあたしは、
「残念だな。お宿題がどっさりあるのよ。お姉さまとだけ、行ってらっしゃいな」
 そういって、自分の部屋へ引っこんだ。
 彼がくると、三度に一度は、夕食をいっしょにということになり、その時に、ラジオや新聞記事からの話題がもとで、いろいろと雑談がはじまる。
 ところが、お姉さまとあたしとでは、いつも奇態に意見が反対になった。
 そして、議論となれば、きまってあたしが勝ちになった。
「引揚者ってのは。まるっきり共産党になっちゃってるのね。そんなだったら、日本へなんか帰らせないほうがいいじゃないの」とお姉さまがいう。
「そんなのないわ。共産党も合法的な存在だわ。日本へ帰らせないってのは乱暴よ。それに、待っている留守家族の気持ちんであげなくっちゃ」とあたしが横槍を入れる。
「お米の配給なんて無意味わ。闇米がうんとあって、買いたいだけ買えるんじゃないの。いっそ自由販売にすればいいわ」
 とお姉さま。そこであたしが言う。
「自由販売は、断然反対よ。そうなると、お米はまだ足りないのだから、きっと誰かが買い占めちゃうわ。それも日本人じゃなくて、第三国人でも買い占めたら、どうなるのよ。日本人の主食が、そしてつまりは生活全体が、その第三国人に握られてしまうんじゃない?」
 それは前にあったことである。
 田代が現われてから、ことに彼のいるところでは、あたしは自分の考えや主張を、ゴクンと咽喉のどの奥へ呑みこんでしまった。それはお姉さまをやりこめることになる、そうしてはいけないのだと考えた。
 田代は野球が好きだった。
 ある時、その野球へあたしを誘った。
 お姉さまは、食わず嫌いで、野球の選手が九人だということすら知っていない。
「お姉さま、行ってらっしゃいよ。見れば面白くなるにきまってるから」
 と、例のようにしてあたしはいったが、お姉さまがその時は、あたしもいっしょならと言出して、結局三人で行くことになった。
 それは、プロ野球のダブルヘッダーで、あたしたらはあとのほうの試合を見たのである。少し遅れて後楽園球場についた時に、もう試合が始まっている。ホームランが出たのだろう。秋空をどよめかして、ワーッという喊声かんせいが上がっていた。
 あの高い壁体の下まで行くと、入口で、
「オイ、田代――」
 と呼ぶ声がした。
 そして無帽で、髪の毛をバサバサにのばし、目を神経質にぎょろつかせた男が、ひょろひょろと横から近づいてきた。
 服の、上着にもズボンにも泥がついている。顔に皺がよりせていて、あたしには、誰だかわからなかったくらいである。
 田代は、軽く舌打ちをした。
 それから、あたしたちに、待っているようにいっておいて、わきへその男をつれて行ったが、見ていると、ごく短いうち何か立話をしてから、田代がポケットの財布を出し、三枚か四枚かの紙幣を、その男に与えたようである。
 田代は戻ってきて、
「千春ちゃんは、あの男を、おぼえていないかなア……」
 というから、あたしが首をかしげたら、
「あれは、山岸節夫ですよ。防空壕工事の時に、いっしょに行って、ツンツンレロレロをやったやつです。友人を訪ね歩いて金をねだるんです。ここへ来いっていっといたんだけれど……」
 と説明した。
 あれが、あの時の大学生山岸節夫だったとは、いかにも思いがけぬことだったが、その時に、また球場からどよめきが起った。
「さア、はいろう!」
 と田代は、明るい声に戻っていった。
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脱獄者



 あたしたら三人は、ネット裏へ行った。
 そして、田代をまん中にはさみ、その右側へお姉さま、左側にあたし、というぐあいで席をしめた。
 白いたまが、光を反射して、外野へ飛ぶ。
 ランナーが、果敢な盗塁に成功して、やんやと観衆の喝采かっさいを浴びる。ツーストライク・スリーボール、――力いっぱい巻き上げられたピッチャーのサウス・ポウ。そして左翼スタンドにうちこまれたしいファウル――。
 田代はルールをお姉さまに説明しながら、自分も、中学から高校へかけては学校の選手で、三塁手と遊撃とをやったのだ、と自慢そうに話した。
 お姉さまは、いっしょうけんめい野球をおぼえようとして、盛んに珍問愚問を連発した。ランナーがひとり二塁にいる時、三塁手がとったゴロを、なぜあんなに遠い一塁まで投げねばならぬのかが呑みこめない。また、ピッチャーが九つもたまを投げたのに、それをフォア・ボールにするのもわからない。
 ラッキー・セヴンの裏が、二死満塁になってしまった。
 ピンチヒッターが出ると、俄然がぜん第一球をカーンと飛ばした。
 そのたまはぐんぐんとのびて、右翼の頭上をはるかにぬいた。
 その時に、昂奮していたあたしは、たまの行方を見定めるために、思わず身を乗りだすと、右の手が田代の膝へかかってしまったらしい。田代もまた緊張のせいだろう、そのあたしの手をギュッと握りしめた。
 記録すべきこの大フライは、スタンド後方までぶちこまれた、実に堂々たるホームランになった。
 球場全体がワーンとうなりを上げている中で、ランナーは相次いでホームへはいったが、
「すごいでしょう、お姉さま。形勢はまったく逆転だわ。今んのが待望のホームランよ!」
 あたしがいった時、お姉さまは、返事をしないでこっちを見ている。そうしてあたしは、まだ田代に、手を握られたままでいるのに気がついた。
 ドキッと、あわてた。
 顔があかくなったかも知れない。
 そうして、田代の手をふりはなすのが、どんなに惜しかったことだろう。
 しかも、その直後にあたしはお姉さまにいった。
「ねえ、お席を変えて下さらない?」
「どうしてよ」
「あたしんとこ、光線の具合でまぶしいのよ。田代さんがここへいらっしゃるといいわ。そして、お姉さまのところへ、あたしをすわらせてちょうだい」
 まぶしくなんかなかった。
 そうすれば、お姉さまがまん中になり、あたしは田代のそばを、はなれると思ってのことだった。田代への思慕を、そぶりにでも見せてはならぬ。それによってお姉さまの幸せを、傷つけることがあってはならぬと、やはりその時も、決心していたあたしなのであった。
 ――この期間、たしかにお姉さまは、幸福だったのだと思う。
 あたしは、歯を食い縛り自戒し、じっとそれから後の約一年間を、同じ状態のうちですごすことができた。
 いま考えてみて。それがなお長く続くのがよかったかどうかということは、簡単に答えられぬ問題になっているけれども、少なくともあたしとしては、このようにして秘められた恋のゆえに、ひたすらにわが思いを耐え忍び、ひたすらにわが心を、石の如く堅く閉じ切ろうと試みた恋のゆえに、のちになっての反動は、かえって強くはげしく、無残な結果となったといってもよいのであろう。
 昭和二十六年、二月半ばのある日。
 朝の食事の時に、新聞をひろげていたお姉さまが、
「あらッ! 山崎が脱獄したわ。そして死んでしまったと書いてあるわ」
 とつぜん大きな声でいった。
 小父さまも小母さまも、えッといっておどろいたが、その記事は「死刑囚の脱獄」という見出しになっていて、横に「電車にはねられ自ら死刑」と小見出しがふってあり、内容は次ぎのようなものだった。
 山崎哲男は、公判で、あたしの父を殺したことを否認したばかりか、後には、第一審の際素直にその罪状を認めた運転手殺しの件までも、実は嘘の自白であり、冤罪えんざいであると言出していたものらしい。
 これに対して、当局の信念はゆるがなかった。
 ことに、罪状明白な運転手殺しまでを否認したのは、心証をますます害したことになるのだろう。ゴルサコフ氏病というのがあって、これはむやみに嘘を言う病気だそうである。山崎には、その症状があるのだという説も出た。
 一般世論も、次第に当局と同調し、誰ももう山崎の罪状を疑わない。死刑は確定的だと見られていたが、拘置所にいるあいだの彼は、所内の規則などに思いのほか従順で、これがまさか破獄を企てるなどとは、全然予想されなかったらしい。
 差入れを、お霜さんが、細々と続けた。
 ほかにもうひとり、山崎の情婦というのが出てきて、最近になってから、四五回の差入れをした。
 その情婦の手で差入れられた雑誌の背とじに、金鋸かねのこの短いのがかくしてあったわけである。山崎は、獄舎の鉄棒を切った。それから屋根を伝わり、塀を越して逃げた。ところが、その直後に看守が気づいている。警報が鳴り響き、オートバイで追跡した。逃げ場を失った山崎は、鉄道線路に追い上がったが、折から驀進ばくしんしてきた貨物電車にはねられ、その場で即死してしまったのである。
 その新聞には、金鋸の差入れをした情婦が追求されているのだと誌してあった。
 そして同じ日の夕刊は、早くもその女が、八王子で逮捕されたのだと知らせた。
 女の申立てだと、山崎が拘置所で知合った男がある。
 その男は微罪であり、のちにきわめて短い刑期で出獄したのであったが、山崎はその男に向い、ある秘密の場所に、大谷殺しで盗み出した大金がかくしてあり、自分が死刑になったら、その金が地に埋もれたままになるのだと語った。その時に、ふたりのあいだで、機会を見て山崎を脱獄させようという計画を立てたのであろう。出獄した男が、山崎の情婦と連絡をとり、金鋸の差入れをさせた。契約では、かくした金を山崎が取り出してから、分け合うことになっている。しかし、その山崎が死んでしまったのでは、せっかくの金のかくし場所も、わからないことになったのだと、女はいったのだそうである。
 記事では、山崎の破獄を、事前に防止できなかった係員側の怠慢を責めてあり、つけ加えて、山崎逮捕当時の捜査首脳部談を、次のように記載してあった。
「しかし、これで山崎が黒だというのは、ますますはっきりしたのだから、われわれとしてはその点で面目が立ちますよ。当時、盗みだした七十四万五千円の行方が曖昧でした。山形へ行く汽車の中で盗まれたといったが、むろん、どこかにかくしたものと見ていました。そのとおりだったわけです。山崎は、運転手殺し一件だけだったら、死刑にはならないと見込んでいた。出獄してからその金を取出すつもりだったのが、形勢が悪い。死刑らしい。娑婆しゃばへ出る日はなさそうだから、やけくそで脱獄したものですよ」
 誰しもそう見るのが当然だったのだろう。
 小父さまは、
「さア、これでよかったね。千春も胸の中がさっぱりしただろう。昔風に言うと、お父さんの仇が、ここではっきりてたわけだからな。新聞が書いたとおりさ。法の制裁としての死刑じゃなかったけれど、自分で死刑になっちまった。つまり、これも昔の言葉だが、天の配剤というところだ。残るところは、かくした金の問題だけだけれどね」
 とおっしゃったが、あたしも同感でないことはない。
 お金のことはかまわない。しかし、あの恐ろしい事件も、これで完全にけりがついてしまった。もうそれを再び考えなくてもすむ、とどうやら安心したみたいな気持になれたのであった。
 ひとつだけ、いかにも心外に感じたのは、友野の小父さまのことである。
 このひとは、山崎が死んでから、三日目に、ひょっくりと敬文堂へやってきた。
 あの時以来、ほとんど顔も見たことがない。しかしおどろいたことには、すっかりと身なりもおとろえて、汗くさく貧乏たらしくなっている。
 あまり見すぼらしいから、店の客の手前もあり、茶の間へ通すとこの小父さまは、すぐあたしと橋本の小父さまの前へ手をついていった。
「千春ちゃんにもね、御不沙汰してしまってすまないと思っている。わたしは、悪いものに手を出した。競輪で、よそうよそうと思ってるうちに、こてんこてんにやられちゃった。店もやってられなくなって、今じゃ、食うのがやっとでね、――しかし、新聞を見て、あの時のことを思いだしたわけだ。わたしの出資は二十万。これが戻りゃ、一家が死なずにすむと考えてね。どうだろう、山崎ってやつ、あの金にゃ手をつけず、どこかへかくしておいたらしいね。だから、捜し出せば、金はそっくり出資者へ戻るのだろう。警察だって、捜してくれないわけじゃないと思う。そこでだ、出てきたら、千春ちゃんは、お父さんの出資の五十万円、わたしのほうは二十万というところだが、ここでお願いがあるんですよ。いや、千春ちゃんじゃ、無理だ。橋本さんに言ってるんですよ。あなたも三万円の出資でしたね。私はさしあたっての金が入用だ。二十万、丸ごと取れなくてよろしい。このうちのいくらかでもいいのだから、ここで拝借はいしゃくするわけにはいかないでしょうか。五万か十万、いや三万でもけっこうですよ、それだけ貸してもらえたら、山崎のかくした金が出てきた時でも、わたしは権利を放棄していいんですから」
 図々しいにもほどがある、山崎の件を口実にして、金を借りにきたのであった。


 橋本の小父さまはあたしと顔を見合せた。
 それから、山崎がかくした金などは、出てくるかこないかわからない。いや、おそらくは出ないだろう。だから、そんなものはあてにならないのだといって、ともかく友野の小父さまの申出は、ことわってしまった。
「そうですか。わたしは、お願いしたら、ぜったいだと思って伺ったわけですがね。あなたも、話のわからないひとじゃないと思っていたもんですから」
「どうも、迷惑ですよ。わたしにしても、あの時の出資金は、まるまる損をしているのですから……」
「なるほどね。損はお互というわけですか。そうして、すぎてしまったことは、もうどうでもよいというわけでしょうね」
 だんだん、厭昧いやみったらしい口調になってきていた。そして友野の小父さまは、じろじろと、そこらを見回してから、ぺちょんと舌を嗚らした。
「わたしはね、いつも思っていたことがあるんでしてね」
「ほう……」
「思っていても、口へは出さずにいたんですよ。へたなことをいうと、あなたが迷惑するだろうと思いましてね」
「へんなことをいいなさる。いったいそれはどういうことですか」
「いってよければいいますよ。千春ちゃんの前だが千春ちゃんは、お父さんが殺された原因てものを、よく考えたことがあるのかね」
 あたしは、ムカムカしていた。
 お店には、男の店員だっている。それをいうひまがなかったけれど、店の組織は変ってきていて、今は店へくる客を待つだけでなく、地域的に貸本を配達する仕組みになっていたから、こんなゴロツキ同然の小父さまぐらいは、その配達員の力を借りて、外へつまみ出すことだってできないではない。気が立っているあたしは、向うが何を言出すかおかまいなしで、
「友野の小父さま。あたくしは、小父さまのお話、聞きたくありませんわ。どう? もうお帰りになって下さらない? お店のひとたちは、若くて気の荒いひとたちですから」
 といってやったが、フンと鼻で笑っただけである。
「面白いね。千春ちゃんが、このわたしを追い払おうっていうのかい。――いや、わかった。帰るよ。帰るともさ。それだけ言われりゃ、たくさんだからね。ただ一つだけいっとこうかな。わたしは、仮りにも親戚だよ。そうして、お前さんを可哀そうだと思っているんだ」
「御同情は辞退しますわ。さア、もう……」
「ハハハハ……いやに、せき立てるね。まるでわたしを、親のかたきかなんぞのようににらんでいるじゃないか。うん、こうなると、やっぱり言わなくちゃならない。ほんとの敵はわたしじゃないよ。山崎のことは別にしてだ。実はそこにいる橋本さんが、千春ちゃんのお父さんを殺させたことになるんだよ。ウフ、ウフ、ウフフフ、どうだね。そのとおりだろ。ねえ、橋本さん。わたしがこういうのは、口から出まかせじゃありませんよ。曰く因縁、故事来歴がついている。説明しなくても、胸でおわかりと思いますがね」
 橋本の小父さまも、ムッとしたのだろうけれど、こういう時になると、きつくそれを言い返すことのできないたちだから、見ているとたいそう歯がゆい。友野の小父さまのほうは、やっとそこで腰を上げた。上げたと思ったら、すいかけて灰皿のかどにのせてあった短いたばこを、汚ならしくもみ消してポケットにしまい、それからいった。
「わたしは、その時に、言おうと思ってよしたんだ。大谷が現金を枕もとに置いて寝た。だから山崎がそいつを盗み出した。ところが大谷にそんなことをさせたのが、橋本さん、あなただからね。大谷も馬鹿だった。何もそんなことしなくてよかった。しかし、もとはそれをさせたのが、あんただからね。つまり、人殺しの起ったもとは、あんただということになる。あんたは、気がとがめるから、大谷への申訳で、娘を引取って世話をした。娘は、世話になって有難いと思っているか知れないけれど、それくらいのことは責任上当然だね。責任といや、わたしからもそれは言えますよ。お互のまるまる損てことにならない。あんたが、馬鹿なこと大谷にさせたから、わたしの出資が煙になった。どうですね。その責任を感じたら、ここでわたしに、少しぐらい融通してくれたっていいじゃないですか。三万でなくてもいい。一万円でもね」
 これは、捨てぜりふのいやがらせだった。
 あたしとても、一度や二度、思ってみなかったわけではない。でも、それだけは、口へ出さずにきたことだった。
 それで橋本の小父さまを責めても、しかたがないのである。すべては父の悪運だった。今さらそんなことを言出すのだったら、父が高利貸しをやろうとした、それが事件の遠因だったともいえるし、それだと、父の死は自業自得じごうじとくだという結論にもなる。あたしは、友野の小父さまが憎かった。いつか、このひとが父を殺したのではないかと、不用意に言出して、橋本の小父さまに、たしなめられたことがあるが、それを、もういっぺんここで、いってみたくなったくらいである。
 小母さまが、廊下に立って聞いていた。
 それから出てきて、いくらかの包み金を渡してやり、やっと友野の小父さまを帰らせることができた。
「金なんぞ、ビタ一文、やらなくてもよかったんだよ」
「知ってますよ。でも、相手が相手で、みっともないですからね」
「不愉快だよ。わたしはね――」
 たしかに不愉快だったのにはちがいない。
 あたしにとっても、決して愉快なことではなく、しかしこれは、事件が落ち着いた際の、一つのとばっちりみたいなものでもある。前からきらいたった友野の小父さまのことなどは、そう気にしなくともいいのだと思ったものである。
 果してそれが、単なるとばっちりだけのことですんだのであろうか。
 同じ年の六月、日曜日の午後だった。
 お姉さまと小母さまは、田代といっしょで、歌舞伎を見に行っていた。
 あたしは、お店をちょっと手つだい、それから奥へはいると、庭にいた小父さまから声をかけられた。
「ああ千春かい。ここへきて、板をおさえていてくれないかな」
 庭といっても狭いが、植木鉢の棚がおいてある。釘がゆるんだところを小父さまが修理しているのだった。
 かえでらんと梅の鉢が、いちばん上の棚から地べたにおろしてあった。
「そこんとこだ。動かないようにしていてくれ、菊を踏まないようにな」
 そういって小父さまは、釘を金槌かなづちでトントンとぶちこむ。
 はじめ気がつかない。
 しかし、見ているうちに、金槌をにぎる小父さまの手から、あたしは口をはなせなくなってしまった。
[#改段]

左ギッチョ



 小父さまは、毛糸のセイターにこんのズボンで、足は下駄ばきだった。
 が、実はそんなことはどうでもよい。
 問題は、手だった。
 釘をうつのに右の手で釘をおさえている。だから、金槌のほうは、左の手へ握っているのであった。
 それを見ているあたしの胸へ、ふっと記憶がよみがえってきたのは、あの古い、母の形見になった鏡台のことである。
 父と子と、ふたりきりで暮した雑司ヶ谷の、しかも血みどろの惨劇が起ったあの家の、障子のこっちにおいてあった鏡台――。
 その鏡には、蚊帳かやと押入れとのあいだに立つ、賊のうしろ姿が映っていた。そして賊は、死んだと思っていた父が身動きしたのにおどろき、短刀を握りなおして、蚊帳のうちへおどりこんで行った。
 ところが、その時の賊の身がまえ――詳しく言えば、そうやって短刀を握りなおした恰好が、どことなしぶきっちょに見え、不自然に感じられたということを、あたしはだしぬけに思いだしていたのである。
「おい、これ、千春! 何をしている。ボンヤリしてないで、もっと力を入れておくれ。板がそりかえっているんだからね」
 と小父さまが、釘箱から二本目の釘を取りながらいったので、
「はい――」
 とあたしは答えたが、目の前にはやはり小父さまの、金槌を握りしめている左の手がある。その左の手をふりあげて、トントン、トントン、トントントン、わりに器用に小父さまは釘をぶちこんだ。
 脳髄の奥が、しーんと、凍りつきでもしたようだった。
 鏡に映っていた賊の姿が、もう四年も前のことなのに、ありありと目の先きに浮かんできた。
 その恰好が、ぶきっちょに見えたのは、短刀が左の手で握られていたせいではなかったか、と改めていま、思い当ったのである。あたしは、陶枕のかどへこすりつけてはずした目かくしのはしから、わずかに鏡の中をのぞいていた。そしてその光景は、身も魂も消えるほどに恐ろしいものだった。あたしとしては、短刀を握る賊の手が、左であるか右であるか、見定めておくだけの落ち着きはなく、しかし、いまになって考えてみると、どうやらそれは、左手だったらしいという、新しい発見にたどりついたのであった。
 小父さまは、長い釘を三本、板のいちばんはしにうちこみ、なお、そのまん中あたりへ、二本うってから、片手で、植木棚をゆすぶってみている。
 ゆすぶる時は、はじめ右手で、また左手を使った。
「うん、これでしっかりしたぞ」
 といって、金槌を棚の上から二番目の板の上におき、前からそこにおいたピースの箱を手にとったが、セイターのポケットをさぐってみて、
「あっと、マッチがなかったな」
 といっている。
 あたしが縁側から茶の間へあがり。マッチを取ってきてあげると、小父さまは火のつかないたばこを口にくわえたまま、地べたにおろしてあった梅や楓の鉢を、棚の上へ並べなおしているところだった。
「千春は、謡曲の鉢の木を知ってたかな」
「え……ええ……」
「あれは、佐野源左衛門常世が、最明寺入道時頼のために、可愛がって育てた鉢の木をく話だよ」
「そうでしたわね……」
「わたしは学校の先生だったころ、宝生流を少し習ったよ。あの中に、常世が、梅をまず切ろうか、それとも桜からか松からかと、愛惜あいせきの念に堪えかねつつ、思い悩むところがあってね。わたしはあそこが大好きだったな。雪打ちはらいて見れば面白や、いかにせん、先ず冬木より咲きそむる、窓の梅の地面な……」
 小父さまは、まだたばこに火をつけず、たいそう御機嫌でうたいだしている。
 あたしは、じっとがまんしていた。
 そして、へたくそなお謡が、やっと切れ目になったところで、訊いてみた。
「ねえ、小父さま……」
「なんだい?」
「小父さまが大工さんの真似をなさるの、千春は、はじめて見たわ。小父さまは、金槌なんか持つ時、いつも左手なんですか」
「うん、どうもね、子供の時分から、癖がついちまったのだ。生爪なまづめをはがしたことがあって、それから左ギッチョになったのさ」
「そういうこと、よくあるんですね」
「なおせって言われた。みっともないってね。だから、字を書くのなんか右手になった。でも、ピンポンしたり、力仕事するとなると、やっぱり左手のほうがいいんだな。――どうしたんだい。いやに、真剣な目つきをしているじゃないか」
 あたしはあわてて、
「いいえ、なんでもないんです。――小父さまが左ギッチョだってこと、千春は、いままで、ちっとも気がつかなかったものですから。ついでに、植木に水やっときましょうか」
 と答えておいたが、頭の中では、
 ――左ギッチョ、左ギッチョ、左ギッチョ、小父さまは左ギッチョ。そうしてあの時の賊も左ギッチョ――
 という誰かの声が、とどろと鳴り響く思いだったのである。
 小母さまたちが行った歌舞伎は昼の部だったから、それから間もなくして、小母さまとお姉さまがタクシーで帰ってきた。
 田代は姿を見せず、用事があるのだといって、芝居の途中から、席を立ってしまったのだという。
 いつものことだが、小父さまも加わって、すぐにお芝居の話がはじまった。
「お母さま、ボロボロにお泣きになるから、みどりは気まりが悪かったわ」
「ばかな子ね。お芝居を見て、泣かないくらいだったら、つまらないじゃないの。あの寺子屋っての、とくべつに泣かせるようにできているんですものね。とっても上手に作ってあるわ。やっぱり近松門左衛門てえらいひとだったのよ」
「これこれ、お母さん、ちがうよ。あれは近松じゃない。竹田出雲とか並木千柳とか、四人の作者の合作だよ」
「そうですか。でも、なんでも、よござんすよ。いったい近ごろの若い人ときたら、あんなの見て、ろくすっぽ泣かないのだから」
「いや、若い人はべつなところで感動をうけるんだよ。寺子屋を見て泣かないからって、非難しちゃいけない。わたしも、お母さんが泣くのにゃ閉口だな。子役なんか出ると、悲しい場面へこないうちに、お母さんは泣きだしている……」
「ほんとよ。お父さまのおっしゃるとおり。みどり、お父さまを見直したわ」
 いかにもむつまじい一家団欒いっかだんらんの光景だったが、あたしは、ちょっとのうち、わきでそれを聞いていただけで、お店のほうへ出てしまった。そして、お店でも、書棚のかどへ身をよせたまま、じっと考えつづけた。
 元海軍中佐大谷正明の殺害犯人は、自動車強盗並びに殺人の余罪がある山崎哲男だったと、警察でも裁判でも、すでに確定してしまっていた。
 けれども、そもそも事件発生の直後に、あたしは、あの下品な、言葉の乱暴な刑事に尋ねられて、どうも犯人は、山崎ではない気がすると答えた。なるほどすべての情況からして、山崎が怪しくないことはない。が、賊は山崎とは違うという、奇妙な信念が、かすかにいてきていたのであった。
 その信念は、のちにだんだんとぼけてきて、一旦はあたしの身のうちでもくずれ去ってしまった。
 当局が、しゃにむに、山崎を追究した。
 それから山崎は自白し、法廷では自白をくつがえしたが、さらに獄中では、大谷正明殺害で盗み出した七十四万五千円を、どこかにかくしてあるのだといい、それを取り出すための脱獄を、同囚の男に相談しかけた。結果として、脱獄したものの、電車にはねられて死んでしまっている。
 ああしかし、この一巡の事件のうちに、どこかで、間違ったものが、まぎれこんでいたのではなかったろうか。
 チリリリリと、お店の電話が鳴りだした。
 店員が出て、
「田代さんからです」
 といい、すぐあたしが奥へ、
「お姉さま、お電話よ。田代さんから」
 と呼んでやった。


 その時の電話は吉報だった。
 田代が自家用車を買うことになり、それをお姉さまに知らせてよこしたものである。多分田代は、映画館の経営その他の事業がうまく行き、たいそう金回りがよかったのであろう。
 お姉さまは、店から奥へ飛びこむと、早速その話をしたらしい。
「いえ、ほんとは、こないだからなのよ。買うってこといってらしたし、あたしを乗せてきて、びっくりさせるつもりだったんだわ。――嬉しいから、だまっていられなくなっちゃったのね。みどりにも、運転を習わせるんですって。すてきよ。箱根へでもどこへでも、好きな時にドライヴできるわ」
 息をはずませ、張切ってしゃべるお姉さまの声が、お店まで聞えてきたが、あたしのほうは歯をギリギリとんだ。
 心がひどく波立っている。
 そして、ちょっとのうち、田代とお姉さまとのことを考えていると、また一つ、あたしは思いだしてしまった。
 それはやはりずっと前、山崎が最初の自白をして、そのことにつき新聞社へ、小父さまとあたしとがいっしょに行き、さて帰りに、数寄屋橋のこちらで、田代に会った時のことだった。
 もういっぺん、その時のことを、ここへ書きぬいてみよう。
 田代と別れたあとで小父さまは、歩きながらあたしに、犯人山崎哲男は事件直前に防空壕をのぞいたから、その時に犯意を起したのだろうと話した。ところがあたしは、そういう小父さまの言葉からして、急に何か考えなくてはならぬことができたような気がして、しかもそれが、どんなことかわからぬまま、やがて忘れてしまっていたのであった。
 そのわからぬものを、「心のシミ」とあたしはこの手記のうちで、呼んでおいたはずである。
 とうとう、その「心のシミ」の正体がはっきりしてきた。
 それは、防空壕のことを知っていたのは、決して山崎がひとりだけではない。あの改築工事に関係した者、つまり町内のとびのかしらも、お手伝いをした田代も山岸も今村も、そして橋本の小父さまも、穴がどこからはいってどこへぬけるか、ちゃんと知っていたはずだ、ということだった。
 言いかえると犯人は「防空壕からだと、屋内へたやすく侵入できることを知っていた者のうちにある」という条件が、一つだけだったとしたならば、これらの人々は、すべてその条件にあてはまるのである。
 山崎はあれだけの悪いやつだった。
 だから、一も二もなく犯人だと睨まれ、すると、もう一本道になってしまった。ほかにも、防空壕のことを知っているものがあるかどうかということは、全然問題にされなかった。けれども、それはほんとうに、問題にしなくてもよいことだったろうか。
 ここへ来て、あたしの推理は、ある特定のひとり、すなわち橋本の小父さまについて、その焦点を合わせてみることになる。
 そもそもあの防空壕を、家の中から連絡をつけるように、改築工事をすすめたのが、ほかならぬ橋本の小父さまだった。小父さまに言われたから、父は改築する気になったのである。そうして小父さまは、壕の一部へ地下室代用の漬物置場を作ったほうがいいなどと、指図をしたほどだった。してみれば、最も詳しく壕のことを知っていたのは、小父さまだったということになる。しかもその時に小父さまは、この防空壕からだったら屋内へ侵入するのが便利だということを、冗談めかしてではあったが、口に出していったのではなかったか。
 ああ、まだある……まだある。
 犯人は、家の中の勝手をよく知っていたらしい。そして父は、死の際に、その犯人の顔を見て、
「ああ、貴様! チクショウ……」
 と叫び、犯人の名前を呼びそうにした。
 ところが橋本の小父さまだったら、父と子供のころからの親友で、あたしがまだ赤ん坊だったころから、しょっちゅう互に、訪れたり訪ねられたりしていたにちがいないのだ。
 それから……。
 あのいやな友野の小父さまですらが、指摘したことである。
 父が、金融会社出資金の全額を手もとに揃えておいたのは、橋本の小父さまからの要求があったせいであり、したがってあの晩、家の中にその金があることは、父とあたしとをのぞいたら、ほかには橋本の小父さまがひとりだけ、それを知っていたということになる。出資金額を、銀行通帳でなく、現金で揃えておいたのは、必ずしも小父さまからの要請でなく、父の発意だったのかも知れないが、父はその時たしかにいった。橋本のやつがしゃくだから、来い、現金で見せてやる、といっといたのだと。そうして現金で七十四万五千円もあるのだとしたら、人は、どんな恐ろしい決心をするかわからないのである。
 ――あたしはまだお店の隅で、書棚によりかかったままでいた。
 気がつくと小父さまは、いつの間にか店の表へ出て、通りかかった金魚屋をつかまえている。
「こいつは、ランチュウの子ですよ。たちのいいランチュウでしてね」
「こっちの、頭にこぶのあるやつは?」
「シシガシラでさ。お安くしときますよ」
「飼い方がむずかしいのじゃないのかな」
「だいじょうぶ。餌をやりすぎないようにして下さい。それから水道の水は、カルキがはいっていて、あぶないですね。井戸はありませんか」
「ないね」
「だったら、水道の水を汲みおきにして、日にあててから、コップ一杯ほど、かえてやって下さい」
 金魚を飼うつもりになったらしい。父と同年配だったのだから、もう頭には白いものもチラホラ見えている。もとは大学の歴史の先生だったが、いまは貸本屋敬文堂の主人。でっぷりしているが柔和な目つきで、見たところはまったくの好人物、落語に出てくる横丁の隠居然としたところさえある。
「いけないな、あたしという人間は。いくらなんでも、この小父さまを疑うなんて……」
 それをあたしはよく意識している。
 けれども、あとからあとからと、まるでそれは頭の中へ、一つずつあかりがついて行くように、その当時からのことが、はっきりと思い出されてくるのであった。
 事件発生の翌朝――。
 惨劇の最初の発見者は小父さまだった。
 小父さまは、はじめに玄関で声をかけ、それから勝手口へ回って家の中へはいってきたが、手足をくくられていたあたしを助け起すまでのあいだが、かなり長くかかったことをおぼえている。
 単にそれは気のせいだったろうか。
 いや、そうとばかりはいえない気がする。
 小父さまは、のろのろと、手間どっていたようである。もっとも、二分か三分、もしかしたら一分とはたたぬほどのうちだったかも知れないが、犯人だったらその間に、自分の犯行のあとを、ぐるりと見回すことができたのだろう。たばこの燃えさしを拾う、指紋を消す、何か遺留品はなかったかと確かめる。その余裕はあったはずである。それをあたしは、目かくしされていて見ることができず、ひどくもどかしく思って、待っていたということにはならないのか。
 次に、そうだった。
 山崎について小父さまは、しょてっぺんからして山崎が黒だと主張し、山崎よりほかに犯人があるはずがないとまでいった。そうして、山崎の自白があった時は、たいそう張切って機嫌がよくて、このあたしに向っても、これで事件のきまりはついた、もう何も考えるな。といった。
 山崎以外に真犯人がいたとしよう。
 真犯人は、極力山崎を黒にしたかったにちがいない。そして、狙いどおり山崎が自白したのだったから、おどり上がって喜んだのにちがいない。
「でも、早まったらたいへんだわ。犯人は左ギッチョだったとしよう。山崎が、左ギッチョだったかどうか、まずそれをたしかめてみなければ!」
 とあたしは、からくも気がついていた。
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ジャイロスコープ



 養父も同然な、あたしにとっては大恩のある橋本の小父さま。
 この小父さまがいなかったら、あたしはどこかの家へ、子守にでもやられてしまうところだった。
 だのに、父大谷正明を殺したのが、小父さまではなかったかという疑いが、ひそかにあたしの胸に巣くうようになり、しかもその疑いは、あたしの頭の中にある物を考える力を、根こそぎそちらへ引っぱりつけてしまうだけの、強い力をもっていたわけである。
 子供のころのあたしに、父は自転車を習わせ、その時、ジャイロスコープの話をした。
 ジャイロスコープは、回転軸の方向を、いつまでも持続するのだという。あたしの疑惑は、執拗しつようにあたしをつかまえてはなさない。それはジャイロスコープと同じに、ひたすら一定の方向を目ざして、まわりはじめたわけだった。
 ある日あたしは学校の帰り、小父さまにもお姉さまにもないしょで警視庁へ行った。そして、あの唇の厚い獰猛どうもうな顔つきの刑事に会ってみた。刑事は、捜査課の部屋で、おやつでも食べたあとだろう。爪楊子つまようじで汚い歯をほじくっていた。
「やア、これは珍しいな。おねえちゃん、なんの用だい」
 馬鹿にしている。まだ相変らず「おねえちゃん」だ。あたしは、わざとしおらしく、大人っぽいしゃべり方をした。
「お願いがあって上がりましたの。いつか見せていただいた鏡のある妙なお部屋を、もういっぺん、見せていただけません?」
「ああ、そうか。お安い御用だが、どういうわけだい」
「学校の雑誌へ、警視庁のこと、小説にして書きたいんですの。あのお部屋の様子、面白かったのですけれど、はっきりとおぼえておりませんから」
 ききたいことの要点は、ほかにある。
 しかし、小父さまの左ギッチョについて、疑いを持っていることを、誰にも知られたくなかったから、そんな嘘をついたのである。
 鏡の部屋を、大いに丹念に見回し、ノートへもメモを取るふりをした。
「よろしいですわ。もうすみました」
「そうかい。山崎のやつも、とうとう死んじまやがってね」
「でも、おかげさまでしたわ。あたくし、ホッとしたんですの。警察の皆さんが、父のかたきを討って下すったのと同じですもの。感謝しております」
「うん。そういってくれりゃ、デカ長のおいらも張合いがあらあ。はじめにおねえちゃんは、犯人が山崎じゃねえだろうっていったっけ」
「ええ、それは、子供でしたから、そんな気がしただけですの。――ああ、そうだった。山崎を、ここのお部屋で見せられた時、のぞいていたらあのひとの左の手、少し、へんな恰好していたようでしたわね」
「へえ、そんなことあったのかい。知らなかったなア」
「左ギッチョじゃないかって思ったんですのよ。ほんとは山崎はどうだったのですか」
「左ギッチョって……いや、そんなこたねえね。与太もん仲間で、指をつめられたことがあるっていって、左手の薬指が短くなっていた。使うほうの手の指をつめることは、まずねえだろう。ちゃんと、あたりめえさ。どうして、左ギッチョだなんて思ったんだい」
 あたしは、出まかせをいったのだから、あとをごまかすのに骨が折れたが、これで肝心なことはわかった。山崎は決して左ギッチョではなかった。としたら、小父さまを疑う根拠は、これで一歩前進したことになるのである。
 次に問題は、山崎哲男が獄中で、盗み出した金を、どこかにかくしてあると語った点についてであった。
 これは、彼を真犯人だと認定する上においては、最も有力な心証を与えている。
 ほんとうに彼がその金のことを知っていたとしたら、つまり、真実彼がそれを盗み出したとしたならば、あたしとても、彼を真犯人と認めなければならない。小父さまを疑うなんて、とんでもない話だけれど、わたしには別の考えがあった。そして、警視庁へ行ってから四日目の日曜日に、実はもう絶交状態になっていた、あの悪い子の船越尚子の家を訪ねることにした。
 そこは目黒の奥の不便なところだった。
 古くくすんだ庭のある家で、ガラスのはまった玄関へ立った時、卒然そつぜんとして胸の内へは、父と暮した雑司ヶ谷の家のことが、悲しく懐かしく思い出されたけれど、それはとにかく船越尚子は、あたしの顔を見てギックリしたらしい。
「あなたがくるなんて、思わなかったわ。何よ。何を言いにきたのよ」
「心配しないでちょうだい。お父さまはいらっしゃる?」
「うん、いるわ。だけど……」
「お父さまにあたしを紹介して。ね」
「へえ」
「お父さまは刑法学者でしょう。刑務所にいる囚人の心理ってもの、よく御存じだと思うわ。少し教えていただきたいことがあって上がったのよ」
「びっくりさせるわね。あなたっていうひと、きらいだわ」
 家では、うまく猫をかむっているにちがいない尚子は、「いいッ!」とあたしにいやな顔をしたけれど、かまわない。あたしは強引に上がりこみ、お父さんに会わせてもらった。お父さんは、名前を船越忠といい、もう六十歳以上の、気むつかしそうな老人に見えた。書籍のギッシリつまった書斎で、あたしはその船越忠氏とさしむかいの椅子へ腰かけた。
「だしぬけですけれど、囚人というものは、いつもどんなことを考えているのですか」
「いろいろです。うまいものを腹いっぱい食べたいと思う。出獄したら、今度は改心しようと思う。男の囚人は女のことを、女の囚人は、男のことを考える」
「そのほかに自由のことは?」
「もちろんですね。自由はいつでもほしい。そして誰でもですよ」
「囚人が自由になるためには、どんな手段でもとるのじゃないでしょうか。たとえば脱獄の見込みがあるとしたら、あらゆる知能を働かして……」
「それは刑期によるね。刑期が短いと、脱獄などという危険は避ける。無事につとめ上げたほうが、得策だと知っています」
「わかりました。実は今年の二月にあった事件ですの。山崎という殺人犯が脱獄しましたが、その脱獄を、あたくし、へんだと思ったものですから」
 ここでも、橋本の小父さまを疑っているなどということは、おくびにも出すまいと決心していた。だから、話はしにくかったが、かいつまんであたしは前後の事情を説明し、どうも犯人は山崎でないという気がする、したがって彼が獄中で、金をかくした話をしたのは、わけのわからないことだと述べた。
「いや、その事件なら、わたしも知らぬではない。ただし、断っておくが、わたしは刑事訴訟法が専門であって、心理学者ではありません。囚人の心理など、的確な返事はできないが、山崎の脱獄については、あなたがいうように、もしかして彼が真犯人でなかったとすると、これは一つの特別な事例になりますね」
「いっしょけんめいで、考えてみたんですの。山崎は、あたしの父を殺したのではないにしても、ほかに殺人があるし、どっちみち死刑か無期はまぬがれないと思い、そこで、いっそ脱獄しようと考えたのだと思います。そんなこと、ありません?」
「あるでしょうな。可能性のある考え方ですよ」
「ところが山崎は、ひとりでは脱獄できませんので、協力者としての合棒が必要だったのですわ。合棒を作るために、金をかくしてある話を持ち出し、ほんとは金はないのだけれど、それを餌にして、脱獄の手助け――つまり、金鋸かねのこを差入れさせたということにはならないのでしょうか」
「すると、それは単に嘘をいっただけだということになるが……」
「そうじゃないか、と思うんですの。山崎は大谷殺しで、七十四万五千円を盗み出したことになっています。法廷では否認しても、仲間には、ほんとうだと話したら、信用されるのでしょう。だから……」
「なるほどね。それもやはり、大いに可能性があることですよ。よくそこまでお考えになった。参考としてお話をすると、囚人というものは、へんな虚栄心を持つことがありましてね」
「どんなことでしょうか」
「自分のやった犯罪が大きい、ということで自慢するのです。法廷では別だが、仲間の囚人のところへ戻ると、自分の犯行を誇大に話して、顔をよくしようというんですね。いや、捨鉢すてばちになった場合には、法廷でも同じになりましてね。時には、他人のやった殺人まで、自分がやったことだと言出して、囚人としての自分を、一種の英雄にしたがる。山崎が、その心理で、あなたのお父さんを殺したということを、合棒に誇示したということだって、考えられないじゃありませんね」
「ありがとうございました。あたくしは、自分で思ってみただけではあやふやで、先生にうかがってみてから、確かめたいと思ったものですから。可能性の問題だけでよろしいのですわ」
 自信がついてきた。
 今のところ、可能性だけだったにしても、山崎が必ずしも真犯人ではないのだとしたら、小父さまが真犯人であるという可能性は、それだけ強くなってくる。
 あたしの心の中のジャイロスコープは、さらに新しく、グルグルギリギリ、音を立てて回転しはじめたのであった。


 お姉さまは、あたしが何を考えているか、むろん知っているはずがない。
 そのころは、田代をた喜びに、ほとんど酔いしれているように見えた。そして、
「あのひとったら、事業欲でいっぱいらしいわ。映画館をまだ三つも四つも作りたいんですって。それから、映画館だけじゃ物足りないのね。そのうちにドレメの学校を建てるんだっていってるわ」
 といったり、
「とっても食いしんぼうなのよ。おどろいちゃった。銀座でいっしょにランチを食べたのよ。そしたら、マカロニグラタンとビフテキと、そのあとで、もうひとつグラタンを食べちゃうんですもの」
 などと、遠慮なしにあたしをつかまえて、田代の話をするようになっていた。
 田代のほうは、旅行していたり、仕事が忙しかったりすると、ちょっとのうち顔を見せずにいることもあったけれど、それでも、十日に一度のわりぐらいでやってきただろう。くる時は、ボディをピカピカにみがきたてた、自慢のシボレーを自分で運転してきて。店の前へ横づけにした。そうして、お姉さまへのお土産だといって、フランス製の優雅な手袋だの、銀座のどこそこの店で見つけたという、可愛らしいブローチやイヤリングを買ってきたり、小父さまや小母さまのためには、気のいたお料理の折などを持ってきたりしたものだった。
「田代さんて、すてきねえ。千春は、お姉さまが羨ましいみたいだわ」
 とあたしは、わざといってやった。
「お姉さまと田代さんとふたりのとき、どんなお話をなさるのかしら。そばにいて、聞いていたいようよ」
「それはね、いろんなことよ。こんど、いっしょにいてもいいのよ」
「わア、やだア! 千春、きっとあてられちゃうんだもの。――でも、田代さんて、お姉さまに対しては、とってもこまかく気を使っているところが見えるわね。青年事業家だとはいうけれど、学生のころには、詩の本なんか読んでいらしたくらいよ。それだけどこかデリケイトで、単なる事業家ではないってところがあると思うわ。お姉さまと詩の話なんかすることあって?」
「ええ、それはあるわ。詩のほかに、小説や劇の話もね。劇だと、あたしはお母さまに仕込まれたから、歌舞伎や新派ばかり見てるでしょう。だけどあのひと、新劇も見たほうがいいっていうのよ。新劇だとせりふを暗記しているのもあるくらいなの。これから毎月いっぺんは、いっしょに見に行くっていう約束をしたわ」
「お金儲けが上手だけれど、しんは文学青年だというわけね。お姉さまにとって、すっかり理想的な男性ということになるわ。……そのくせ、千春はちゃんと見てるんだけれど、とっても子供っぽいところもあるんでしょ。自動車買って、大喜びで乗りまわして……」
「ほんとよ。ずいぶん無邪気なのよ。自動車はあたしにも習えっていうの。あたし、怖いからいやだっていったら怒ったわ。あたしのこと、引っこみ思案だからいけないっていうのよ。ところがあたし、泣きそうになってしまったから、そうするとあのひと、いっしょけんめいで、あたしの御機嫌取りをしはじめたもんよ。そして、犬を飼う話をしたわ。それから奇術の話なんかもね」
「ああ、そうだ。いつか小父さまも、いってらしたわ。田代さんは奇術がとても好きなんですって」
「うん、そう。トランプの奇術がお得意らしいわ。いつか家へきて、大魔奇術の公開をするんですって。あたしには、ハンケチの手品を見せたことがあるの。とっても上手。やり方を教えてちょうだいっていっても教えなくて、月謝払えって言出したわ」
 相手になっていてやると、あたしがじっとこらえているのだとは知らないから、あのおとなしいお姉さまが、切りもなく田代のことを話しつづける。
 あたしは、お姉さまの顔を、引っいてでもやりたかった。
 小父さまへのあの疑いが、しっかりと心に爪をかけている。
 その疑いと嫉妬とがからみあって、あさましく苦しく胸のうちへ燃えてくるのが、天地をも呪うような小父さまへの憤りと、あわせてお姉さまへの憎しみであった。
 あれからのちも、新しく気がついていたことがないではない。
 敬文堂書店が、事件後になると、なぜ急にあのような発展をしたか、という点についてである。
 士族の商法だといわれた小父さまの商売。
 ずいぶん店構えも貧弱だった。
 中二階のお部屋は、ベニヤ板の壁を張り、天井が低くて、畳さえも入れてなかった。
 そのころは、小父さまと小母さまとが、お姉さまを大学までやることにつき、学資が続くかどうかを、心配していたほどではなかったのか。
 ところが、組織を改めて貸本屋になったからとはいえ、店がすっかりと見違えるようになったのは、あの事件の直後なのである。そもそもは、大工を入れ左官を入れて、店を貸本屋向きに模様替えした時にだって、相当の資金が必要だったはずで、それも実は小父さまの手に、あの七十四万五千円があったとしたら、なんのぞうさもないことだったにちがいない。つまり、敬文堂発展の基礎は小父さまの名案が成功したというのではなく、あの風呂敷包みの中の金にあったということになるのではないか。父を殺して奪った金からして、敬文堂の繁栄と、並びに橋本一家の幸福が、築き上げられてきたのである。
 左ギッチョからはじまって、小父さまを疑うべき根拠は、ずいぶんたくさん出てきてしまった。
 それらの根拠を積み重ねてみて、あたしの父を殺したのは、山崎哲男でなくて小父さまだということが、もうはっきりとあたしには呑みこめた。いや、正しく言えば、それは写真にうつしたことのように、はっきりした事実だと、あたしは心の咽喉のどをせいいっぱいにおしひろげて叫んだ。
 この家へ引き取られてきてから、ともすれば反抗的になったあたしの心――。
 それは、意識しないで、あたしが実は憎むべき仇敵きゅうてきの中にいたからのことであろう。今こそあたしは、ただひとり、仇敵のうちに閉じこめられたあわれな小娘になったのであった。この憎らしい人間の一群――橋本一家の人々を、そのまま平和に安穏に、繁栄と幸福とのうちに、酔いしれさせておくわけにはいかない。
 あたしは、うわべには何事もなかったような顔をして、時には、今までよりもずっとしおらしく愛想よくしていて、さてひそかに、復讐の爪をとぎはじめた。
 ――七月七日、七夕祭りの夜のことを、ここへ書きつけておこう。七夕の夜に、あたしは一つの試みを実行したのである。
[#改段]

復讐ふくしゅうの鬼



 敬文堂ではその日の夕方になると、庭の隅の、例の植木鉢の棚の横へ、青い葉のついた笹を一本立てた。
 これは七夕たなばたの夜の、古くからあるしきたりだそうである。
 東京では、もうめったにそんなことをしなくなっているだろうが、小父さまと小母さまは、毎年それをやることにしている。笹の小枝には、青や赤や黄の、短冊たんざく型に切った紙をたくさんに結びつけ、その五色の短冊の一枚ごとに、和歌や俳句や金言や、また「天の川」とか「織姫と牽牛星けんぎゅうせい」とか、好き勝手な文句を、毛筆で書きつける。小父さまも小母さまもお姉さまも、そして店の人たちも、いっしょになって短冊を書いた。小父さまは、あたしが書いたのを読んでみて、
「なあんだい、これは? 疑いはたのし、それを解く日の来るが故にって……」
 と、へんな顔をしている。
「べつに、大した意味じゃないんでしょう。小説の中にあった文句ですけれど」
 あたしは、狡猾こうかつに笑って答えて、さっさとその次ののを、
 ――およそ、あかしのあらざるはなし、いつの日か、証しは火の如く明らかならん――
 と書いてやった。
 意味を訊かれたら、こんどは聖書の中の文句だと答えてやるつもりで、ことさらに小父さまの膝の前へそれをつきだしたけれど、あいにくと小父さまは、もうあたしのを気にしていない。そして、筆をとりなおし、得意そうに、
 ――感時花濺涙、恨別鳥驚心――
 というむつかしい文句を書いた。
「漢詩ね。どういうことですか」
 とあたしが逆に訊く。
「これかい。杜甫とほの詩だよ。国は破れて山河あり、城は春にして草木深しという、有名な句のあとへ続くのだ。時に感じては花涙をそそぎ、別れを恨みては鳥心をおどろかす。いいねえ、この詩は……」
 そうして小父さまは、何か感懐のありそうな、しーんとした目つきになっている。
 チラリとあたしの胸へは、老いてもなお青年の如き感激家に見えるこの小父さまを、疑っていいかどうかという、不安が湧きかけ、しかし、なんだい、この偽善者め! と強く自分の心を叱りつけておいた。
 お店は六時から、お休みになった。
 そして奥の茶の間とその次の部屋を二つぶちぬき、店員もいっしょで、ささやかな七夕の夜の祝宴という段取りになったが、実はそれは田代が招かれていて、今年はいつもより盛大に七夕祭りをやることになっていたからである。
 その田代が、なかなかこないから、
「おそいわね、あのひと。二度もそいっといたのよ。六時までにはきてちょうだいって」
 お姉さまが、いたり立ったり、待ちあぐねているのを、そばで小母さまがなだめて、
「きっと、いそがしんですよ。そのうちにきますとも。おやおや、あなたの帯紐、少しうつりが悪いようだわ。お正月の時の、萌黄色もえぎいろのに替えなさいよ」
 などと、着物の着こなしを注意している。あたしは、自分でいちばん気に入りの、そして夏のよそ行きとしてはそれ一枚しかなかった、こまかい青のしまのワンピースを着ていた。フロントが白いカットレースになっていて、青い紐状のボウがついている。足には短かいソックスをはき、そっと鏡の前へ行って立って見ると、胸の二つの隆起がたいそう目立った。顔も、頬紅とパフとで、わずかにお化粧したが、すると自信が十分に湧いてきた。お姉さまは、この夏の宵を、御苦労さまにもおふり袖の着物で、背中には大きなお太鼓の帯をしょっている。やさしく美しいにはちがいない。でもあたしのほうが、ずっと生き生きしてみえるのだと、ひそかに胸のうちで考えた。
 七時十五分前、やっとこさ田代がきた。
 いつもと同じ車だったが、見れば大きなジュラルミン製のトランクを、いっしょに車にのせて持ってきている。
「すみません。遅くなっちゃいました。実はぼく、余興に奇術をやろうということを思いついたものだから、その準備に手間取ってしまったんです」
 彼は、汗をふきながら遅刻の申訳をしていたが、トランクには、その奇術の道具がはいっていたのである。
 小父さまも、小母さまも、そしてとくにお姉さまは、すっかりと御満悦ごまんえつだった。
 田代がひとり加わっただけで、その場の雰囲気は、何かひどく充実したもののようになっている。
 少しのうち、しゃべったり御馳走を食べたり、小父さまと田代と男の店員はビールで、あたしたちは、ジュースやコカコラを飲んだが、それからめいめいのかくし芸ということになると、小父さまはおきまりで謡曲だった。お姉さまが三味線で松の緑。その次、あたしが店員のお仲間になってジェスチュアをやって、さていよいよ待望の大奇術、田代の出演ということになった。
 みんなが茶の間のほうへ座を移して、そこから田代の奇術を見た。
 あのトランクから、組立式のテーブルやシルクハットや、びろうどのテーブルクロスやいろいろなものが出てくる。
「まず、小手しらべといたしまして……」
 田代は、はじめトランプを手のうちで消したり出したり、それから真鍮しんちゅうらしい五つの輪を、つないだりバラバラにするのをやってみせたが、なるほど手つきもあざやかで、どうやらこの奇術には、かなりの年季を入れたのだということがよくわかる。すぐにやんやと一同の喝采がわいた。
「カード奇術は、欧米では、紳士のたしなみの一つになるくらいです。相手に一枚を選ばせて、それをあてるというのだけでも、やり方が何百種類とあるでしょう。ぼくは、ほんとうはそのほうが得意ですが、今夜はとくに、カードでない、パッとしたのだけ、やることにします」
 途中で田代はいったが、そのパッとしたののうちで、何もありそうにない布の下から、金魚のおよいでいるガラスの鉢を出すという奇術には、小父さまも目を丸くしてしまった。しかし、それはいちばんおしまいのことである。それより前、燃やした紙を、生きている鳩に変えるという奇術では、
「ええと、種仕掛けございません。この帽子をどなたかに……そうだな。千春さんにお願いしよう。ここへきて持っていて下さい」
 といったので、あたしはすぐに出て行って助手をつとめることになった。
 実は、胸に一物だった。
 あたしは、渡されたシルクハットを、田代がいったような恰好に持たず、わざとぶきっちょに、帽子の底が見えるような持方をしたのである。
「紙は、新聞の中の折込み広告です。これは火をつければ燃えることになっています」
 田代はいってから気がつき、
「だめだな、それじゃ。もっと水平に……」
 そばへよってきて、あたしの持方をなおそうとする。
 ふいに、田代の手を、ギュッとあたしは握りしめてやった。
 思いをこめ、息を詰めて握ったのであったから、ほかの人たちにはわからなかったにしても、田代はハッとしたにちがいない。
 視線がまともにからみ合い、そしてあたしは、たじろがずその視線を動かさなかった。
「……そ、そう。それでいいですよ。いや、もっと上へ……そ、そうです……」
 田代の声に震えがあるのを、あたしはしっかりと耳の底へ残した。
 そればかりか田代は、その時の奇術を途中で失敗し、はじめからもういっぺん、やりなおさればならなかった。
 だいじょうぶ! お姉さまから田代を取ることができる!
 血があたしの身うちをかけめぐるようだった。
 復讐の手はじめは、まずお姉さまに向けられていたのである。


 あたしは、何事も、割り切って考えないと承知できないたちであった。
 その「割り切る」ということについては、ちょうど、前に述べたようなことがあったのと前後して、文教学院へ招かれてきた、Hという評論家の講演を思いだす――
 評論家Hは、いま若い人たちが、戦前の人たちにくらべて、著しく物事を割り切って考えるようになっていて、それが一つの特質でもあるといい、さてそのあとへ、面白い寓話ぐうわを持ち出した。
 あるアラビア人が、死ぬ時に、三人の息子に向って遺言をした。
 自分の遺産を、長男にはその二分の一を、次男には三分の一を、そして三男には、九分の一を与える、というのであった。
 父の死後三人の子供が調べてみると、その問題の遺産というのは、生きている十七頭の羊であったから、さて子供たちは、たいそう困ってしまった。
 十七頭は、二分の一にも三分の一にもまた九分の一にも分けようがない。しいて遺言のとおりに分けるとなったら、少なくとも一匹の羊を殺して、血を出さなければならぬのである。三人は思案に暮れたあげくに、ふと思いついたから、隣家へ行って一頭の羊を借りてきた。
 借りた羊を加えると、こんどは羊の数が十八頭になる。
 だから、長男の二分の一というのが九頭、次男の三分の一が六頭、三男は九分の一の二頭ということになったが、数えてみると、その合計は十七頭になっている。つまり、めいめいの分け前をとったあとに、借りてきた一頭の羊が、傷もつかずに残っている。そこで三人の子供たらは、借りた羊を、元のとおりに隣家へ返却することができたし、自分たちは親の遺言どおりに、羊を分配することができて、めでたしめでたしになった、というのである。
 つけ加えて評論家Hは、若い人たちの割り切ったものの考え方は、それ自体としては正しい方法であるが、さてしかし実際の場合では、世の中がそううまく割り切れないようにできている。したがって、無理に割り切ると争いを起し、血を流すような結果を招くのであって、その代りにうまくそれを工夫したら十七頭の羊のように、円満な解決がつくのだといって話を結んだが、聞いていてあたしが思ったのは、「なんだ、大人ってものはずるいじゃないか」ということであった。
 十七頭の羊の二分の一は、断じて九頭ではなくて、八頭と二分の一頭である。三分の一もまた六頭ではないし、九分の一も、同じく断じて二頭ではない。
 三人の子供は、それで満足したのかも知れないけれど、実はだまされていることになる。つまりそれは、妥協しただけのことだった。Hはあたしたちに妥協とか方便とかいうものの効用を教えたにすぎない、とあたしは思ったのである。
 小父さまが真犯人であるという考えのもとに、あたしはできるだけ、それに応じての割り切った行動がとりたかったし、ついてはまず警察当局へ出向いて、そのことを告発するのが、正しいやり方だろうと考えたけれど、それは決して容易なことではないのだとわかっていた。
 警視庁も検察庁も、そして裁判ですら、真犯人は与太もんの山崎哲男であるということを、すでに決定してしまった。
 いまさら、別の犯人がいたなどと申し出たところで、当局としては、メンツの上からでも、それを取上げてくれるはずがない。どうしても取上げてもらいたいのだったら、少なくともその申出と同時に、小父さまを真犯人だとするキメ手、すなわち動かすべからざる物的証拠を、えて提出しなければならないのであろう。ところが、あたしの手には、まだ何一つ、そんな物的証拠は握られていなかった。あるものはただ、あたしの推理やら臆測おくそくやらによって生まれた、状況的なものだけだった。これでは当局は、多分、ふり向いてもくれないのであろう。せいぜいのところ山崎が、必ずしも真犯人ではなかったという、あの可能性を認めさせることができるかも知れないが、と同時に、小父さまについては、犯人であるという、やはり可能性があるだけだと言われてもしかたがない。おそらくあたしは、大恩うけた小父さまを、単に誹謗ひぼうしただけのことになってしまうのだろう。
「何か物的証拠を!」
 とあたしは一時血まなこになった。
 事件発生当時をふりかえってみて、頭の中へ、最も強く印象されていたのは、あの螺鈿らでん細工のつかがついた洋式短刀のことだった。また賊の覆面の手拭いも、ちゃんと見覚えておいた。手拭いには青いローマ字が染め出してあって、そのうちの三字をあたしは「CIO」と読んだ。どちらでもいい、その一つをでも、この橋本家のうちで発見したら、あたしの言分は、どこへ持ち出しても、堂々と認められるはずだったのである。
 実は手拭いと短刀とを、最後にあたしは見つけてしまった――。
 しかし、それはずっと後のことであって、その説明はまだ早すぎるのだろう。
 あたしは、小父さま小母さま、そして店の人の目を盗み、そっとこの敬文堂書店のうちの家捜やさがしをした。好きでもない手芸の人形造りをやるのだといって、押入れの奥の旧式な柳行李やなぎごおりをあけさせてもらい、古い布地を捜すふりをした。また学校のお料理で習った果実の塩漬けを作るという口実で、台所の棚のいちばん上の、ほこりまみれな瀬戸のかめを、脚立きゃたつまで運んでおろしてみた。
 下駄箱の奥、縁側の下、ガラクタしかはいっていない物置、そして天井裏までものぞいて見ている。
 が、結局は何もない。
 どこからも、キメ手とするに足る、物的証拠は出てこなかった。
 同じ屋根の下に起臥きがしていて、うわべは何食わぬ顔をしながら、なお一心に、小父さまを罪におとすための、恐ろしい秘密を探ろうとしていたあたしの立場は、たいそう微妙なものであるとともに、ずいぶん陰険だと言われてもしかたがなかったろう。
 ある時、あたしは、いっしょに食事をしていながら、いっしょけんめいで考えごとをしていたものだから、
「へんね、千春ちゃんは。さっきからトンチンカンなお返事ばかりしているじゃないの。どうしたのよ。気分でも悪い?」
 と小母さまから顔をのぞかれて、あわてたみたいになったことがあった。
 また、外出先から戻った小父さまが、
「おや、誰かこの本箱のひきだしをかきまわしたね。困るじゃないか。ゴチャゴチャになっている。――お母さん。あんたが捜しものでもしたのかい」
 と小母さまに言っているのを聞き、いそいでお店のほうへ逃げだしたこともあった。それは、むろん、あたしのしたことだった。しかもそのひきだしには、やはり何もなかった。小父さまの日記、また備忘録でもあったらと思ったけれど、残念ながらそれもないのであった。
 小父さまの左ギッチョに気づいてから、かつはまた、あの心のシミを再び思いだしてから、あたしは地獄へおちていたのである。
 ――それから、しばらくの日が過ぎた。
 湿気の多い夏がやってきて、お姉さまもあたしも、学校は暑中休暇にはいったが、その時あたしは小母さまにおねだりして、信州の高原へ、予定一週間のキャンピングに行くことを許してもらった。
 キャンピングは、学校でやる年中行事の一つだった。あたしは前の年に病気をした関係もあり、ほんとうはそんなことをしたくない。でも、急に思い立ったことがあった。とくにその一行に加えてもらったのであった。
 新宿からの夜行で出発し、翌日の夕方には上高地にある落葉松からまつ林のそばへ、小さなテントを張ることができた。
 目を上げれば、巨大な雪の屏風びょうぶのように、肩をいからして立ち並ぶ日本アルプス。
 清冽せいれつな水が音を立てて流れ、空気は冷たく澄みわたり、土や草や樹木の匂いが、香ぐわしくあたりに漂っている。
 あたしたちは、焚火たきびをし、御飯をたき、罐詰をあけてとっかえっこをし、それから、おしゃべりをしたり、スクェア・ダンスをしたりした。健康なその楽しさは、ほかのことをすべて忘れさせるほどであったけれど、そこにあたしは二泊しただけである。
 三日目の朝、嘘を一つ言いこしらえた。
 病気の疲れがまだあるらしい。どうも少し熱っぽいようだから、ここから松本へ引返して、身体を休めたいのだといった。
 松本へ行くということが、あたしとしてはこのキャンピングに加わった、最大の目的であった。
 松本というところは、あたしの父と母、そして橋本の小父さまの出身地である。
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青春の秘密



 今まで、それにふれるひまがなかった。
 しかし、亡くなった父大谷正明は、松本の南方、あの高原の平野がつきるところの山裾やますそにある、Sという農村の出身だったし、橋本の小父さまのほうは、それより少し東へ回ってやはり山裾のK村出身。そうして、ともに中学は松本だったと聞いている。
 加うるに、あたしの母も、同じこの土地の生れだった。
 そこは松本にいちばん近い。浅間、山辺という二つの温泉地があるが、母の生家は山辺のほうで、今はもうなくなっているけれど、昔はそこにある温泉宿のうちの一軒だったそうである。
 三人ともに、この高原の地に生をうけた。ことに父と小父さまとは、その幼少時代が中学の同級生だった。あたしにとってはこの土地が、いわば父祖の地ともいうべきもので、その中心地にあたる松本を、一度はよく見ておきたいというのが、前からのあたしの考えでもあったし、実はその松本で例の問題につき、とくべつに調べたいことが、その時できてきていたのであった。
 話を、もういっぺん、あの防空壕工事のことに引戻さればならないのだろう。
 貸本屋敬文堂の主人とはいえ、もとはとにかく、M大の歴史学講座を担任していた橋本の小父さま。
 そうして、仕入帳を前にパチパチとそろばんをはじき、横町の隠居然たる風貌ふうぼうになっているにはしても、ある時、杜甫の詩に深く感懐をもよおし、また鉢の木に出てくる源左衛門常世の心境に、暖かく思いやりを寄せることのできる小父さま。
 このひとが、いかになんでも、父大谷正明を殺害したのであったならば、それはただに金銭ずくや欲得ずくのことではなくて、ほかにもっと何か複雑な、そしてつきつめた動機があったのだとしなければ、どうにも納得なっとくのできかねるものがある。
 あたしには、その点を究明したいという意欲が、強く動いていたわけだが、さてそこで忘れずにいたのは、あの防空壕工事が終ったあとで、父と小父さまとのあいだに、何かしら意昧ありげな、きびしい言葉のやりとりがあったことについてである。
 父が、とっておきのウイスキイを、その席へ持ちだした。
 それから、コップを橋本の小父さまにつきつけて、
「おい、飲め! きさまがこの家へきて、何を考えるか、おれにはわかっているぞ」
 といい、小父さまのほうは、
「愚劣なことをいうな!」
 とやりかえして、父を睨むようにしたものだった。
 学生の山岸節夫が、いい気になって、ツンツンレロレロを歌っていた。
 あたしは幼くて、何もわからなかったのだけれど、その幼いあたしの頭にさえ、それはある異様な印象を刻みこんだ。やりとりした言葉のほかに、父と小父さまとのあいだでは、心と心との、はげしい火花が散ったようであった。目には見えない。しかし、ふたりのあいだには、たしかに何かの、こだわりがあったのだと考えては悪いだろうか。そうして次に、そのこだわりのもとはといえば、すでに亡くなっていた母よりほかにはない、という気がするのであった。
 母とあたしとの愛情は、世の常のものと変りはしない。
 が、もしかしたらあたしは、世間でいうお父さん子に近かったろう。
 恐ろしい事件があったせいもあるけれど、あれからのちあたしは、亡き父と母とのうちで、父のことを想う日のほうが多かったように思う。改めてここで、生前の母への回想を、あたしはできるだけ詳しくたどってみなければならなくなった。
 といって――。
 橋本の小父さまというものを、その回想のうちへ割りこませるとなれば、はじめは、とくにどうというものも出てこない。小父さまが、父にとってほとんどひとりきりの、それも幼少時代からの親友だったということを、あたしは母からの話で知ったのだと記憶する。けれども、あの雑司ヶ谷の小さな家へ、しょっちゅう小父さまがやってきた、それはあたしが生れる前からのことだったのか、それともずっと後になって、そういう往来が始まったのか、それすらもあたしには、はっきりしないのである。
 定かならぬ幼い記憶をまさぐってみて、それでも、おぼろげにその記憶のうちへ浮かんできたのが、まだあの戦争も、それほどひどい段階には立ち到らず、したがってあたしは小学校の三年生ぐらい、つまり、母が死ぬ前々年あたりのことだったのだろう。
 それは寒い冬の日の、夕方間近だった。
 母は、戦地への慰問袋を作りながら、ラジオに耳を傾けていて、あたしはそのそばにくっついていると、とつぜん玄関の戸へ、人のぶつかるような音がし、それから案内を乞う呼びりんが、荒々しく鳴り響いた。
 母がすぐ立った。
 玄関をあけると、そこにいたのは橋本の小父さまだった。
 あとにもさきにも、そんな小父さまを見たことはないが、その時の小父さまはたいそう酔っていて、ドタドタと家の中へよろけこんだし、脚がまるっきりふらついている。玄関の上がりがまちへ、どうにかくずれるようにして腰をおろすと、片手の鞄を、だらしなくそこの土間へおっことした。
 今からでは、もうたっぷりと、十年近くも前のことになる。
 小父さまがどんなことをしゃべり、母がそれにどう答えたかを、ここであたしは、正確に書き記すことはできない。
 しかし小父さまは、
「大谷に話があってきた。どうしてもいわなくてはならないのだ」
 という意味のことを、酒臭い息とともに、ひどくいきまいた口調でいい、母のほうは、
「だめです。大谷は留守です。三日前から潜水艦に乗っています」
 と答えたもののように思う。
 母が当惑していることは、子供心のあたしにもわかった。
 そして小父さまは、父が留守だと知ると、急に失望した様子で、まるで酔いがさめたみたいになった。ぬぎかけていた靴の紐を、もがもがと、ずいぶん手間をとって結びなおしたが、土間の鞄もちゃんと拾って、さて怒ったように出て行ってしまった。そしてそのあと母は、あわてて下駄をはいて門まで出て、小父さまのうしろ姿を、長いうち見送っていたのである。
 母は家の中へ戻り、さっきの慰問袋を取り上げたが、もう口を縫い合わせるだけになっていた針が、少しも進まない。袋は、膝からおちた。何も言わず立ち上がって、またすわった。糸を引き、目から涙があふれ出た母の姿を、いまあたしは、目の先きに見るような気がするのである。
 小父さまは、父に向って、何を言おうとしたのか。
 そして母は、何を泣いたのであろうか。
 前述の七夕の夜のことがあってから数日のち――。
 あたしは、ふと考えつき、あたしの本箱のいちばん隅にあった、古いアルバムを取りだしてみた。
 表紙は、手ずれがし、色変りしている。
 それはあたしが、橋本家へ引きとられてきた時、リュックへいっしょに入れてきたものだけれど、中にはあたしの赤ちゃんだったころからの写真があり、そのほか、父や母のものもりつけてある。
 ごく古いのでは、母の小学生時代と女学生時代のものが合せて三枚あって、父のもむろん、小学、中学、江田島時代と収めてあったが、その中学時代では、いっしょに橋本の小父さまも、並んで映っているのが多い。中にはふたりが、肩を組み合せているのなどもあって、なるほどふたりは、そのころから大の仲好しだったということが、よくうなずけるのであったが、さて、父と母との結婚記念の写真までくると、とうとう一つの発見をした。
 それは新郎新婦ふたりだけのでなくて、式につらなった親戚知己が、仲人まで加えて、いっしょに映っている写真だった。
 親戚のひとりとして、友野の小父さまが、気取ってモーニングの胸をそらしていた。
 ところが、橋本の小父さまの姿が、どうさがしても、ないのである。
 親友の結婚式へ、小父さまは列席しなかった!
 病気、旅行、などのせいだろうか。
 いやいや、そうではあるまい。
 ほかにもっと深刻な理由があったのにちがいない。そうしてその理由が、母を中心にしての、父と小父さまとのこだわりなのであろう。行きすぎた臆測だとは思えなかった。ただし、なお明瞭にそれを確かめておく必要はある。それは、父と小父さまとの青春時代にあったことだった。松本でなら、もしかすると、それをわからせることができる、とあたしは考えたのであった。


 松本は昔の城下町で、厚い白壁や黒壁の土蔵造りになった商家や銀行がたくさん目につく、おちついた感じの小都会だった。
 市の中央に、当時修理中だった国宝指定の天守閣があり、その石垣の下のお堀では、青くの浮いた水面をピクッとはねて、大きなこいのおどりあがる姿が見えたりしたが、ここで第一にあたしが尋ねたのは、土地でいちばん古くからある中学校だった。名前はもう中学でなくて、新制高校になっていたけれど、もう明治の初年からの歴史をもつ学校だということを、それは父も小父さまも、自慢そうに話したことがある。なだらかな丘の中腹にあるその学校で、あたしは、同窓会発行の卒業生名簿を見せてもらった。
 頁をくると、橋本泰治という小父さまの名前が出てくる。
 職業欄が、まだ前のままで、M大教授としてあったが、父大谷正明のほうは、同じクラスだったのが、中退して江田島の海軍兵学校へはいったのだとわかった。誰かが気がついて記入したのであろう。名前の上に、鉛筆で書いた死亡の印の黒丸が、ちゃんとつけてある。あたしは、このクラスの名前のうちから、学校の事務員にも尋ねた上で、松本在住の人物をとりあえず三人ほど選んだ。
 三人ともに、あたしにとっては、まったく未知の人物である。
 しかし、父や小父さまと、昔はいっしょになって遊んだり勉強したりした仲間だから、聞けば何か話してくれるのだろう。だしぬけに尋ねたら、あたしのことを、ずいぶん厚かましい娘だと思うかもしれず、でもこれは犯罪についての捜査たった。刑事や探偵だったら、こんな場合には、同じようなことをするにちがいない。かまわず、行ってみようと決心したのであった。
 三人のうちのひとりはお医者さんだったが、どこか遠くへ往診中だとのことで、会えなかった。二番目のひとは、大きな洋品店の御主人で、すぐ会ってはくれたけれど、あたしの参考になるようなことは案外知らず、ただ父や小父さまが、その時クラスの秀才だったと話してくれただけだった。
 三人目が市役所のお役人であり、この人はたいそう親切にしてくれて、ある工業学校の校長さんで、Eという人物を紹介してくれた。そのE校長が、当時は父と小父さまと、三人組の仲良しだったのだし、後に父と小父さまとのあいだに、何かはげしいごたごたが起り、それを仲裁したことがあるはずだ、というのであった。
「そうですか。大谷君と橋本君とのことだったら、E――君がいいですね。E――君がいちばん詳しく知っているし、ほかにはそれを、誰も知らないといってもいいんじゃないかと思いますよ。行ってごらんなさい。浅間に住んでいるのですよ。わたしから、そのことを伝言しておいてもよろしい。ま、夜になってから行ったほうがいいですね。夜なら、きっと家にいますよ。酒好きで晩酌やっているかも知れないが、磊落らいらくな男で、きっと話してくれますよ。ええと、そうだな。あなたは今夜浅間へ泊まるのだったら、宿もわたしがお世話しましょうか。学生向きの、堅い家がありますよ」
 もう夕方に近かった。
 あたしは、礼をいって市役所を出て、ともかく教えてもらった浅間の宿へ行き、汗を流し夕食をとって、気持をおちつけることに努めた。
 いざや、父と小父さま、および亡き母についての、昔の秘密にふれるのである。心構えをしなければならない。小娘のあたしには、胸がドキドキするほどの大仕事だった。宿の窓から、まゆへのしかかるようにして、けわしい岩の山肌が見える。また西のほうはるかに、暮れ行く紫色の日本アルプスが、どっしりおちつきはらって息づいている。あたしは、深呼吸をくりかえした。そして宿を出た。
 E――校長さんは、かやぶきの農家を少しばかり改築した、庭に大きな柿のある家に住んでいた。
 なるほどお酒は好きらしい。
 縁側にあぐらをかき、いい機嫌で顔を赤くしていたが、市役所の人からは、もうちゃんと知らせがあったのだといい、ほとんどもう前置きもなしで、父と小父さまとの若いころの、すごい喧嘩のことを話してくれた。
「いや、あれはたいへんでしたよ。今から思うとおかしいけれど、大谷君も橋本君も笑いごとじゃなかった。ふたりで、古風な話だが、決闘をやろうという騒ぎになったんですからね。私は小学校の教員をしていたが、ふたりでやってきて、双方の介添人かいぞえにんになれっていうんですよ。場所は、城山というところがある。その山の上でやろうっていっていた。わたしは、百方苦心してふたりをなだめましてね。まアどうやら、そんな野蛮なことはさせずにすんだわけですけれど」
「原因はいったいなんですか」
「どうもね、あなたにどこまで話していいかわからんが、要するに問題は恋愛だね。あなたのお母さんは、ええと、名前はどういうんだったか……」
「春江です」
「ああ、そうそう、春江さんだ。春江さんは山辺の温泉宿の娘さんさ。評判の美人だったな。家はもうなくなっている。しかしその春江さんが、ありさきという女学校へ通っていてね。中学の上級の不良たちが、春江さんの登校の途中ですれちがうだけのために、毎朝自分の登校時間より、二十分前に家を出かけたっていう話もあるくらいですよ。――まア、それはどうでもよいことだが、はじめは橋本君と春江さんとのあいだに、これは昔からのやり方で、正式に親同士で話をきめて、許婚いいなずけの約束ができていたわけだ。ところが大谷君が、横合いから出て春江さんを取ってしまったということになる。娘さんの前だが、あなたのお父さんは、いささか乱暴でやりすぎるところがあった。土佐犬っていった。お父さんやお母さんから、そういう話は、聞いたことがありませんか」
綽名あだなの土佐犬ってのは、聞いています。でもそのほかのことは……」
「そうでしょう。いくらなんでも、娘さんにゃ話せなかったにちがいない。いったいが大谷君にゃ、誰でも手こずることがあった。意地っ張りで喧嘩早くて、思い立つとなんでも猪突ちょとつ盲進でしたからね。実は、微に入り細をうがっての話は、わたしでもやりにくい。が、大谷君は、当時江田島の兵学校へ行っていたのが、休暇で帰省すると、春江さんの宿へ泊まりこんで、どうやら得意の猪突主義で、春江さんを自分のものにしてしまった、ということになるのでしょう。春江さんの家が、温泉宿だったというのも、一つの原因にはなる。橋本君のほうは、高等師範へ行っていて、松本にはいなかった。春江さんが、泣く泣く橋本君へ、びの手紙を出したから、さア橋本君も飛んで帰ってきて、あげくが決闘ということになったわけです。わたしは、どちらかというと、橋本君に同情した。そして、心配したものですよ。決闘なんかしたら、絶対橋本君に勝目はないと見たものですから」
「父は、乱暴者で腕力家だったのでしょう」
「それもあります。柔道をやってました。がそれよりも橋本君が弱気です。議論なんかでも、いつだって敗けている。それでいて、平生は仲好しだが、性格的に圧倒されていたんでしょう。まるではたで見ていて、歯痒はがゆいくらいのもんでしたね。ともかく、やらせちゃならない、とわたしは思いましたから……いや、どうも、少し話しすぎたかな……」
 最後に校長さんは、気まりが悪そうにして頭をかいた。そしてなお昔の思出話をしてくれたが、もうあたしは、あとを聞く気にはなれなかった。
 ついに目的を達したことになる。
 小父さまの犯行には、あの金を奪うということのほかに、胸の古傷のようにして秘められていた、動機もあったとわかったのであった。
[#改段]

奇計



 頭にモヤモヤとつまっていた霧を、風がきてサッと吹き払ってくれた感じである。
 べつに何も物的証拠が出たのではない。
 しかし、専門用語の真似をすると、小父さまに対しての心証は、絶対に黒だということになった。松本から帰る汽車の中で、あたしはあたしに、
「さア、もう、何もためらうことはないのだぞ。心証だけだと、法律では制裁が加えられないのだろう。だから、法律を代行して、お前が制裁を加えればよいのだ!」
 くりかえし、言いきかせたものである。
 どんな順序で、どんな形の制裁を加えたらよいのであろうか。
 その手段や方法は、あたしを法律上の罪人にするものであってはならず、しかも小父さまに対しては、手痛い打撃であるというようなものが望ましい。
 いくつものことを、いっしょにやってしまいたい気がして、なんだか気持があせったけれど、まず第一には、この平和で幸福で、悲しみや苦しみというものと、まるっきり絶縁されているみたいな橋本一家に、一つの波乱をまき起してやろうということを、ひそかにあたしは思いついていた。
 ある晩の真夜中、あたしはあたしの部屋のうちで、電灯を消して寝ていたが、部屋の外の廊下を、お手洗いに起きて行く小父さまの足音を聞きつけたので、この時とばかりそっと立ち、部屋の入口を開けておいた。
 気の毒な小父さまは、何も知らずに戻ってくる。
 とつぜんあたしは、
「ああ、誰かきて下さアい! いけません、いけません……誰かきてえ!」
 叫ぶとともに、そこへ来かかった小父さまの胸へ、武者ぶりついて行った。
 小父さまは、びっくりしただろうし、何がなんだかわからなかったにちがいない。
 うしろへよろけながら踏みとどまると、
「どうしたのだ。え、これ、千春?」
 といって、あたしを抱きささえるようにしたが。その直後に小母さまのほうは。廊下をへだて、はすっかいで向かい合わせになったお部屋の唐紙をあけ、やはりびっくりして顔を出した。
 あたしは、寝巻のすそを乱し。胸もはだけ、しどけない格好をしている。
 小母さまは、そういうあたしが、小父さまの腕のうちを、すりぬけようとして身もがきし、そして最後には、小父さまの胸を力いっぱい押しのげるようにして、部屋のうちへ走りこむ姿を、はっきりと見ていたことになるのである。
 ずいぶん卑劣でいやらしいやり方を、よくも考えついたものだと、いまのあたしは、思ってみただけで恥ずかしくなる。
 入口をしめきり、あたしは泣くふりをしながら、実は耳をすましていた。
 向こうのお部屋へ戻ってから、小父さまが何かしきりにしゃべっている。その言葉は十分にわからなかったが、それはあたしがだしぬけにそこへ飛びだしてきたもので、何か寝ぼけたのだろう、というようなことをいったものにちがいない。それに対して、小母さまの声が一つも聞えず、また直接あたしのところへ、何も尋ねに来なかったというのが、たしかにある程度の効果があった証拠だとあたしは考えた。
 翌朝起きてから学校へ行ってくるまで、ことさらあたしは、小母さまにも小父さまにも顔をそむけ、口もきかないようにしていた。そしてお夕飯がすみ、お姉さまが二階のお部屋へ行ってしまったあとで、
「昨晩は、あたくし、すみませんでした。夢を見て、うなされたのですわ。それ以上のことは、どうかもう、あたくしに聞かないでください」
 泣声になっていうと、そのまま二人の前を立ってしまった。
 賢夫人型の小母さまは、世間ていを重んじるから、大きな声で騒ぎ立てるとか、小父さまと取っくみ合いの喧嘩をするとか、そんなことはなさらない。また、小父さまときたらこういう場合に、自分の立場を正当だとするところの、強い決定的な主張をすることが、まことにへたな人である。むろん、一度はあたしも、小父さまと小母さまとの前へ呼ばれた。そして小父さまから、
「ねえ千春。あたしは、たいへんな迷惑をしているのだよ。小母さまに、へんな誤解をされてしまった。いったいあの時は、どんな夢を見たのだね。そして、なぜ廊下へ飛びだしたのだね。そのことを、小母さまの前で、はっきりと話してもらいたいな」
 顔をのぞくようにして言われたが、あたしは顔を伏せ、手を膝においたきりで、なかなか返事をしない。それから、やっとこさ、
「あたくし、それは申せないのです。……聞かずにおいてくださいってこと、あの時にも申し上げたはずですわ。いいえ、あの時のことは、小母さまも小父さまも、忘れてしまっていただきたいのですわ」
 そう答えただけである。
 小母さまは、はじめから表情をこわばらせていたが、その時唇をみしめ、小父さまをきつい目でにらんだ。そして小父さまは、 
「なんだ! 千春……それじゃ困るよ。そんな馬鹿な……」
 といったがあとが言えない。
「あなた。もうよしましょう。千春ちゃんはまだ子供ですよ。その千春ちゃんのいうとおりに、このことは、忘れてしまったほうがよろしいんですわ。あなたは、千春ちゃんが心配してくれている、そのことにむしろ感謝すべきですよ」
 小母さまが、ピシャリと小父さまにいうのであった。
 あたしのいやらしい奇計は成功した。
 見る見る、この安穏でむつまじい一家のうちに、とげとげしく重苦しいいやな気分がかもし出されてきたのを、あたしはほくそ笑んで眺めていたが、悪い時には悪いことが重なる。そのころ敬文堂には、あたしとは無関係なことで、もう一つのちょっとしたいやなことが持ち上がった。
 八月も末になってのある日の午後、お店へはひょっくりと山岸節夫がやってきた。
 野球場で姿を見た時以来の彼だったが、見れば服装も顔つきも、あの時よりずっとよくなっている。
 田代と同じに、この男も昔は小父さまに教えられたことがあり、小父さまを「先生」と呼んでいたが、たずねてきた用件は、次のようなものであった。
「御迷惑なお願いに上がったんです。田代が関西旅行に出かけました。ところが、田代のふり出しておいた約束手形の期間がきているのに、おとすことができません。実は田代も、このところやりすぎまして、映画館担保で借金しているような始末ですから、どうにも動きがとれません。旅行もその金策のためですけれど、ここで手形がおちないとなったら、信用は全然なくなるし、留守を預ったぼくとしては、どうにも閉口しているんです。……いえ、ぼくは、前にはヒロポンなどやりまして、田代に迷惑をかけたことがあり、しかしいまは、すっかり更生しまして、田代の事業を手伝っているわけです。……ともかく、旅行先へ電報をうって問い合わせましたが、するとその返事では、敬文堂へ行って……つまり、先生のところへですよ。先生にお願いして急場をしのいでおけ、といってきたんです。いかがでしょう。現金ででも小切手ででも、二十万円ほど都合していただけないでしょうか。むろん、田代が帰京すれば、ぼくからもいって、すぐに返済させます。金策は見込みが十分だといってきていますから、その点は心配ありません。お願いです。どうか田代を救ってやって下さい!」
 あんなに景気のいいはずの田代が、そのような状態になっているというのは、いかにも意外なことだったが、この時小父さまは、手もなく山岸の言葉を信用した。
 小切手をすぐに書いて彼に渡した。
 ところが、五日後に田代がやってくると、それは詐欺さぎだったとわかったのである。


「あきれたな。山岸が詐欺をやるとは思わなかった。わたしは、君の困った立場を救ってあげたいと思ったものだからね」
 と、小父さまは憮然ぶぜんとした顔で田代にいい、すると小母さまは、
「あなたがぼんやりなすってるからですよ。愚にもつかない、ほかのことばかり考えてらっしゃると、頭にすきができますからね」
 いや味たっぷり、小父さまの顔を見ておいてから、
「でもねえ、田代さん。これはどういうことになるんでしょうか。こちらの損害は、あなたが埋め合わせて下さらないと……」
 心配そうにしていったが、田代は、そばにいたお姉さまとあたしのほうを気にしながら、頭をかいた。
「弱りましたね。山岸もとんでもないこと、しやがった。期限のきた約束手形もありましたけれど、これは旅行前に、ちゃんと始末しておいたんです。あいつは金が欲しかったから、機会を狙っていやがったんですよ」
「こちらわね、山岸さんがあなたの事業を手伝っているといったし、それに、M大時代からのお友達だと知っていたから、信用してしまったんですよ」
「それはそうでしょう。まア、手伝いというほどでなくても、あいつにゃ仕事をさせています。しかし、ここまでやるとは思いませんでした。……ですが、この詐欺については、ぼく自身、責任がないと思うんです……」
「あら、どうしてでしょう。あなたのことについて、あなたの仕事をしている人間が、わたしたちに迷惑をかけたんじゃありませんか」
「ええ……しかし、ぼくがほんとうに、こちらへ金策をお願いしたかどうか、それを確かめることができたはずだと思いますね。山岸がそんな話を持ちこんできた。だったら山岸に、旅行先でのぼくの宿所でも尋ねてみて、電話ででも、直接ぼくに、それを問い合わせることができたんじゃないですか」
「おやおや……そうすると、詐欺にかかったのはこちらの手落ちだ、全然わたしたちのやりそこないだとてもおっしゃるの?」
「まア、そうだろう、と思います。ぼくとしては、理論の上で責任が持てません。それに実は、山岸も、ある程度ほんとうのことをいっていますよ。現段階においてぼくは、相当な苦境に追いこまれています。二十万円ぐらいは、小さな金だと思いますが、こちらに責任があるものを、代ってぼくが埋め合わせるというだけの余裕がないんです。がまんしといて下さい。山岸はぼくが叱ります。そして使い残しがあったら、せめてその分だけでも、取戻すようにしますから……」
 あたしですらが、何かがっくりと、力抜けがしたみたいだった。
 それに、金のこととなると、どうして人間は、こんなにもいやしっぽくなるのか。
 田代がその二十万円の損害を、自分で負担すると言わないから、小母さまも小父さまもたいそう不服そうであり、したがってその場の双方の感情が、かなり険悪にもっれてきてしまった。
 最後に田代は、
「実はこのことは、こちらへきて、話そうか話すまいか、ぼくも心のうちで迷っていたわけです。打ち明けて話したら、みどりさんに心配させる。だから、きょうまでは言えなかったのですが、事業なんてもの、常に激しい浮沈があるのです。……こないだは、自動車を買いました。いかにも景気がよさそうですけれども、あれは信用維持のための非常手段だったのです。事実上は、高利の金を借りて、一時は絶体絶命のどたん場まで行きそうでした。それは、どうにか切り抜けましたし、今度の旅行も大成功で、あとはすべて順調に進むだけの自信ができています。絶対この難関はパスします。だから、安心して見ていていただきたいのですが、ここのところが苦しいために、心ならず、いまはお気に入るようなことが申せないわけです。どうかぼくのことを、悪く思わないで下さい」
 そう弁解するようにいってから、さすがに悄然しょうぜんとして敬文堂を立ち去ったが、さてこの小さな事件での衝撃は、むろん、小父さまたちに対してよりも、みどりお姉さまにとって、最も手ひどいものだったにちがいない。
 意地悪くそれを観察しながら、表向きあたしはお姉さまを慰めた。
「ねえ、お姉さま。今度の田代さんのこと、どう思っていらっしゃる?」
「あたしはつらいのよ。たまらないわ。目の先がまっくらになったような気がするの」
「千春はね、お姉さまがこの事件を、少し重大に考えすぎてるんじゃないかと思うな。事件は事件よ。お姉さまは、やっぱり、田代さんのこと好きなんでしょう?」
「え……ええ……それはそう……」
「かくすことはないわ。それでいいのよ。いったい今度の事件では、事業に失敗した田代さんよりも、小父さまや小母さまのほうが悪いと思うわ。なぜかっていえば、二十万円ぐらいのお金、いま敬文堂にとっては、そんなに大したお金じゃないはずよ。としたら、最愛の娘のお婿むこさんのために、それっぽっちのお金を損したって、痛くもかゆくもないんじゃない。だのに、何よ。それを田代さんに埋め合わせろなんていって」
「でも、詐欺でやられたから腹が立ったんだと思うわ。それに、事業の失敗のこと、あたしも知らないでいたくらいだから……」
「詐欺は、山岸がやったんだわ。それから事業の失敗は、かくしているのが当り前じゃない。苦しくても顔へは出さない。そして、挽回ばんかいするまではがまんしぬいて平気な顔している。それが男というもんじゃない。事業の失敗は、男としてそんなに大きな恥じゃないでしょう。そして、田代さんなら、いつかきっと盛り返すことができるのよ。千春は、むしろ田代さんに同情するな」
 これは、半分はあたしも、田代にひい気している本心をいったことになるのだろうけれど、一方であたしは、例の如くで胸に一物。こうしてお姉さまの田代に対する思慕の情を、より以上強くあおぎ立てておいたら、のちになって田代をあたしが取った時、その効果はより以上高められると思ったのであった。
 田代は、九月になってから三度ほどきた。
 その二度目になると、前のように手土産をもってきたし、あとで小父さまたちが、わりに機嫌がよくなっていたから、詐欺でやられた金のことも、なんとか話がついたのだろうし、また田代の事業面も、ようやく好転したというようなことがあったのかも知れない。
 秋になり、東京の街路樹は、黄色くしぼんだ葉を落しはじめた。
 ある日、小父さまのいない時を見て、あたしは茶の間へ行き、ピタリとすわった。
「小母さまに、お願いがあります」
「おや、どうしたの。たいそうあらたまって」
「あたくし、ここの家を出していただきたいのです」
「だしぬけね。おどろいたわ。どういうわけなのよ」
「わけは、言わせないで下さい。千春は、いてはいけないのです。……いつかの晩、あたくしは騒ぎ立てて、御心配をかけました。小母さまにも……小父さま……にもです。あんなことが、二度も三度も起ったら、とても悪いのではないでしょうか。それには、あたくしというものが、この家にいなくなるのが、いちばんよいのだと気がつきました。……小母さま、千春を、許して下さい!………」
 おしまいの言葉をふるわせていい、そして、小母さまの膝に顔をうずめてしまった。
 ちゃんと、あたしは計算がしてある。
 こういったら小母さまが、あたしの言わずにいる言葉の意味を、どんなふうに受取るだろうかを。しかもまたその時には、ほかのこともすべて計算済みだったのである。
 実は、敬文堂を出てからの行先は、銀座の桐壺という酒場にきめてあった。それは、いわゆるアルバイト・サロンだ。女子学生や女事務員が、時間ぎめで行ってバイトする。あの不良の船越尚子が、その話をしたことがある。あたしは、もういっぺん尚子を訪ねて、桐壺を紹介してもらい、話をもうきめておいた。もとよりして、そこに長くいるつもりはない。でも、田代に対しての作戦だと、ひとまずサロンの女になっているのが。一番の近道だと気がついたのであった。
 賢夫人の小母さまは、狡猾なあたしの背中をで、すぐに泣声になっていた。
「千春ちゃん、ありがとう。小母さまも苦しかったのよ。知っていて黙っていたのよ。あたしがあなたに、許してもらいたいわ。いつか、きっとよくなると思うの。ちょっとのうち、しんぼうしていてちょうだいね」
 そして、横の茶箪笥の引出しから、出してくれたのが一冊の銀行通帳と判こだった。
「お金は、これを使ってちょうだい。いいのよ。かまわないのよ。へそくりだから」
 あたしは、まんまと小母さまをだました。
 そして敬文堂を出ることになったのである。
[#改ページ]

霧の夜



 ついにあたしの記録は、あたしにとって、最もやりきれない部分にまで、書き進めて来てしまった――。
 恥多きことのみがありすぎる。
 それは、前に述べたようにして、小父さまとの戦闘を開始したあたり、また小母さままで騙して敬文堂を飛び出した、そのあたりからはじまる事どもについてである。
 いまのあたしは、それらのすべてを省略してしまって、すぐ結末へ話を飛ばせたい気がしきりにしている。それだったら、恥もそれほどに目立たずにすむのだけれど、さてそれも許されることではないのだろう。
 アルバイト・サロン桐壺は、女の子が三十人以上もいたし、ひとかどのりっぱな店構えで、あたしは「三十番さん」という番号をもらった。
 嘘かほんとかわからないが、女子大生だというひと、音楽学校の生徒だというひと、また某官庁のタイピストだというひとたちがいて、名前はかくし、番号で呼ぶことになっているのである。常連の客がくると、入口にいる金モール服のボーイが「何番さアん!」と呼び立て、その何番さんは、家にいてお父さんから呼ばれた時のように「はーい」と間のぬけた返事をする。こんなことも魅力の一つだったらしい。店はよく繁昌した。バイトの学生だという手前、かんばんが早くて夜の十時だったが、そのかんばんまで、客はひっきりなしにやってきた。
 店のマダムはあたしを、正真正銘まだ高校在学中の生娘きむすめだというので、ほかのひとたちよりは大切にしてくれたように思う。あたしはセイラー服でいたほうがいいと言われた。またほかのひとは、ほとんどかよいのひとばかりだったが、あたしだけ、店の二階に寝泊りすることを許してくれた。その部屋は、広さが一坪とはないのだろう。隣には、腕に刺青いれずみのあるコックさんとその女とが寝る三畳があった。三日目の晩、淫奔いんぽんな目つきのそのコックさんの女は、何か思い違いしたらしい。
「ねえ、ちょいと……仕切りをあけといたらどう? 見たいのなら、見せてあげるわ!」
 と唐紙越しであたしを叱りつけた。あたしは逃げ出して、お店の椅子へきて寝た。その女は、店へ出ると十七番さんで、ある短期大学の生徒だといっていた。
 長くいたら、きっとあたしは、たいへんなあばずれになったのだろう。
 じきに、あたしを名指しで呼ぶお客さんができた。
 某ガラス会社の上級社員だというキザッぽい男。第三国人で、むしょうに顔の輻が広い男。それから一見しては紳士風だが、その実はどこかのえらい親分の舎弟だそうで、金歯を光らせている伊川真平などである。
 この伊川真平は、
「ねえおい、おれは君がとっても好きになったぜ。おれのスケにならねえか。可愛がってやるぜ。どうせこのアルサロへきてたんじゃろくなことにゃなりっこねえね。――名前だけでも、おれのスケだってことになっていると、誰にも手は出せねえぜ」
 といって、露骨にあたしに言い寄った。あたしは、名前だけなら、それもいいと思ったことさえある。ずいぶん馬鹿だったけれど、いまから思うと、いっそ伊川のスケになってしまったほうが、かえってよかったかも知れないのである。
 学校は無断で欠席を続けた。
 そして髪にはパーマをかけ、唇を薄く塗って、イヤリングをぶらさげた。
 怖いから伊川には、
「そんな話、きらいだわ。あたしを、子供のままでおいといてよ」
 といって逃げを張り、ほかの客には、むりにお酒を飲んで酔っぱらって、わがままいっぱいのおしゃべりをしていると、それがかえって気に入られるということを覚えた。
 しかし、ここの店にあたしは、二週間あまりいただけである。
 その二週問で、あたしは女が男を、どうしたらうまく操縦できるか、よくわかってしまったつもりだった。そして、ころ合いがいいと思ったから、予定に従って田代のところへ、
「あたしを救いだして下さい。あたしはいけない女になりかかっています」
 そう書いた手紙を出した。
 不思議な回り合せである。
 田代がくるという晩に、伊川真平がひどく真剣になってあたしにせまった。
「どうだ。今夜、おれといいとこへ行こう」
「だしぬけね。どういう意味よ、それは……」
「わからねえ顔をするもんじゃねえよ。おれはね、君のこと、あぶなくって見ていられねえんだ。おとついの晩、どこへ行った?」
「お芝居よ。お客さんといっしょ。演舞場へつれて行ってもらったんです」
「知ってらい。そのお客野郎は、ガラス会社の課長だろう」
「あら、御存じだったら、それでいいじゃありません。あのひと、とっても親切なのよ」
「親切が聞いて呆れら。泊らずに帰ったことは帰ったな」
「ええ、そうよ。マダムに聞いてみて……」
「ちゃんと聞いたよ。ハンドバッグを買ってもらったってな」
「それも、そのとおりですわ。とってもすごいハンドバッグ。持ってきて見せましょうか」
「チェッ、ばかにしてやがる。まアいい。ハイボールくれ!」
 これであたしに、いやらしいことをいうのは、諦めたかと思ったが諦めない。
「おれはネ、年はもう四十さ。……けどもヨ、ひとりもんだぜ」
「そうオ……」
「きまったスケってもな、これでも持ってねえんだ。女房だけは、キチンとしたのがいいと思ってね。ふたりで正式に仲人立てて結婚してもいいさ。そうするかな」
「いやよ、結婚なんて。あたくしにも、お酒を飲ませて下さらない?」
「うん、飲めよ。まったく君は可愛いな。おれは、夜も眠らずに、君のことを考えているんだぜ」
 目がすわってきていた。腰へ回そうとする腕をスルリとぬけて、
「ハイボール、願います!」
 とあたしは叫んだ。
 こんな時は、酔ったふりをするに限る。
 そしてあたしは、ふりをするつもりだったのが、ハイボールニつ、そのあとジンフィズまでガブッとやったから、頭もぐらぐら、客と客とのあいだを、何かにつかまらないと、バアテンさんのところへも、行けないほどになってしまった。
 こういう時に、田代の顔が、店の入口に見えたのである。
 いっしょに山岸節夫がきた。
 山岸は、田代の肩のうしろから、目だけのぞかせていた。
 お酒であたしは、泣き上戸じょうごだったのだろうか。
「ああ、田代さんだ。とうとう、あのひとがきてくれた!」
 と思ったとたん、身も心も浮くばかりの涙が溢れ出て、その涙のまま、
「待っていたんです。死ぬっくらいだったのよ。死んでもいいの。ほんとうだわ。……嬉しい、嬉しい。とっても嬉しい……千春は、待っていたのだもの。二年も三年もよ……ずっと、子供の時からだったわ……」
 と田代の胸へ倒れこんで行った。
 田代は山岸とふたりがかりであたしを抱きとめてくれたが、その拍子に、そばにあったらんの鉢が、ガチャンと落らてこわれたようだし、まだ何かが音を立てた。そうしてあたしは、何がどうなろうとかまいはしない。
「いやよ、お姉さまなんか! お願い……あたしをとってよ。つかまえて、しっかりはなさないでちょうだい! 千春には、田代さんが要るの………田代さんも、ほんとは、千春のほうが好きなはずだわ。そうでしょ。そうだっていって……」
 なお、田代の胸のうちで叫び続けた。
 あとで知ったが、その時に伊川真平が、ぬっと立ってそこへきたのだそうである。
 山岸が、前へ出てさえぎると、伊川は山岸の胸ぐらをつかみよせ、腕をふりあげたけれど、殴らない。急に、フンと笑って腕をおろし、ポケットから名刺を出した。
「お名前を、聞かしといてもらいましょう。私のほうは、こういうもんです」
 西北商事株式会社取締役伊川真平の名前を見ても、山岸には、わけがわからなかったにちがいない。むを得ないから、やはり名刺を出したが、それには田代の事務所の番地や電話が刷りこんであった。
「さいですか。いずれ、改めてわたしから、お伺いしますから」
 と伊川は、低い凄味すごみの利いた声でいったのだという。
 あたしは、何も気がついていなかった。
 マダムとの話は簡単についた。
 あたしは田代の自動車の運転台へ乗せられた。霧の深い夜で、車の窓の外を、光が波になって流れる。あたしはあたしの幸せを、酔った頭のうちで、いっしょけんめい、確かめようとしていた。
 この夜、ではない、次の日の朝が白むころ、あたしの恋は成就した――。


 窓のはしから、朝の光線が忍び入るのを見てから、ぐっすり眠ったらしい。
 目ざめて、ベッドの上でカーテンをあけると、低い丘や林や畑の、静かな郊外の風物が目にはいった。衝立ついたての向うで、
「多摩川がすぐ近くらしいね。事務所へ行こうかと思ったけれど、やっぱりここへきてよかったよ」
 もう服を着ていた田代が、あたしの目ざめたのに気づいていった。
「わかったわ。じゃ、このうちはホテルね」
割烹かっぽう旅館さ。気に入らないのかな」
「いいえ……とてもすてきよ」
 そう答えたきり、話すことがたくさんあるのに、話しにくい気がする。昨夜酔っていたのが、気まりが悪いのかしら。いいえ、そうではない。酔わなければ言えないことが、あの時は言えたのである。
「あたしのこと、おばかさんだと思う?」
 間をおいて、やはり衝立のこちらから、いってみた。
「少しばかりね。――しかし、そんなことはどっちでもいいよ。風呂がわいてるっていったぜ。君は、はいってきたら……」
「ええ、そうするわ、あたしのこと、見ないでいてちょうだい」
 そうしてあたしは風呂場へおりて行った。
 ひとりきりになり、水蒸気がしまになってたゆとう湯の中で、じっくりと、これまでにあったことを思い返してみた。
 だんだんに、心のうちが、とぎすまされたようになった。でも後悔することは一つもない。ついに、お姉さまに勝ってしまった。これでよいのであったし、ほかにも、間違ったことはしていなかった。お姉さまは泣くだろうけれど、泣いたって、もう駄目! 小父さまも、きっと腹を立てる。しかし、口に出していうのだとしたら、あたしは小父さまを、ぺしゃんこにさせることだって、できるのである。あたしのしたことは正しいのだと、あたしは改めて心に言いきかせた。
 湯の中で、あたしの体は、美しく充実して見えた。
 その腕や胸の皮膚の下へは、なにかの勇気みたいなもの、また新しい喜びみたいなものが、生き生きと盛り上がってきた。
 ゆっくり入浴し、脱衣場へ出ると鏡の前に、クリームやポマードやブラッシや、一通りの化粧道具が揃えてある。あたしはその時まで高校生らしく、おでこの髪をまゆまでのお下げにし、うしろをえりまでの株っ切りしていたけれど、それをみんなうしろへかき上げて、リボンがないから代用に、ハンケチを裂いて束ねてみた。ハンケチが紫色でよくうつった。顔がすっかりと大人びて見える。自信がつき、そうしてお部屋へ戻った。
 田代がいいつけたのだろう。トーストとベーコンと目玉焼きとが、ちゃんとそこへ運ばれてきていた。
「あら、早いのねえ」
「うん。ぼくはもう腹ぺこだよ」
 田代は、そういってまぶしそうに笑った。
「あたしね、考えてきたわ。ハッキリさせときたいことが二つあるのよ」
「ふーん」
「一つは、お姉さまのこと。わかるでしょ」
「そうか。うん、むろんわかる。あの話は解消させるさ」
「そうよ。それはいいけれど、解消を向うへ知らせるのにはどうするつもり?」
「ちょっと、めんどうだね。手紙を出すか」
「そのことなの。手紙じゃだめ。直接に行って話したほうがいいわ。そして、それにはあたしもいっしょについて行くわ」
「ふたりで行くのかい。そいつはどうも……」
「頭かくことはないのよ。あたしには、そういうふうにするだけの理由があるわ。お店の前まで、あの車へあたしを乗せて行ってちょうだい。行けば、話はあたしがします。とっても簡単だと思うな。みどりお姉さまの代りに、千春が結婚したんだってこといって、上がらなくていいわ。それだけで、プイッと帰ってきてしまえばいいんですもの」
 田代は困っていたが、それだけは、どうしてもやらねばならぬ、とあたしはきめてしまっていた。それをしたら、復讐の半分が、成し遂げられた気さえするのである。
「あの人たちの顔見るのが辛いよ。――が、バサッとやるか。どっち道、ぼくは悪い奴だと思われるね。山岸が迷惑かけた金も、ほんとはまだ片がついちゃいないんだよ」
「かまわなくてよ、あんな二十万円ぽっち。こうなると、ほっといてもいい理由が、やっぱりあるわ」
「へーえ、おかしいこというね。なぜだい」
「いつか、説明ができると思うの。それよりも、今の話で思いだしたわ。桐壺へどうして山岸さんなんか、つれていらしたの」
「ああ、あれはね、君からきた手紙を、山岸に見られちゃった。いっしょに行くっていうから、しかたがなかったんだ」
「山岸さんは好かないわ。まだお仕事を手伝わさせているのですか」
「あいつは、ほかへ行ったら、どうにもならない男さ。ぼくといれば、役に立つこともあるし、今後は迷惑かけないってことを、厳重に誓わせたのだよ」
「そう。それだったら、それでいいのよ。あのひとのことは問題じゃないわ。次に第二の問題……これは、教えていただきたいの。あたしってもの、これからは、どうしたらいいんですか」
「これからって、学校やなんかのことかい」
「ううん、ちがう。学校はどうでもいいの。もう行きたくありません。でも、桐壺へは帰らないし、といって、敬文堂へも行けやしないでしょう?」
「あはははは、そうか。そんなことか……」
 田代は笑いだしていた。
 そうして、せても枯れても男一匹、あたしを困らせるようなことは、絶対しないのだといって見得みえを切り、さて実は、例の財政上の破綻が今こそは、ほんとうに切り抜けられるところへきているのだ、と説明した。
「あと三日、いや、ゆとりを見て、五日としておこうか。五日たつと、ぼくは現金で何千万円か持ってるよ。神戸へいくどか行ってきた。それが実を結んだわけだ。だから、家を一軒買い、そこへふたりで住むことにしよう。今のところは、事務所で寝泊りしてるんだ。山岸とふたりで、学生時代みたいに万年床で、あんな殺風景なところへ、君をつれちゃ行けないだろう。まア君は、心配しないで、長くて五日、ここに宿をとっていればいい、家を買う時には、いっしょに行って見ようね」
 と彼は、自信に満ちていうのであった。
 気がかりなものが、一気に吹き飛んだ。
 あたしは、青年実業家田代守の面目を、惚れ惚れとして見上げる思いだった。
 ――しばらくしてから、田代へ、あたしの知らない人から、電話がかかってきた。
 それは長い電話だったが、すんでから田代は、元気な目であたしをふりむいた。
「成功したよ。もう大丈夫だ。その代り、また神戸へ行かなくちゃならない、飛行機で行くんだ。どう? いっしょに行く……」
「わア、すごい! 飛行機は乗ったことがないのよ。つれて行ってエ」
「よしきた。それじゃきまった。出発はあすの朝だけどね、君の服やなんか、すぐ買いに行こうよ。敬文堂は、あとのことにしてね」
 あたしは田代にかじりついてキスした。
 まるでこれは、お伽話のようだと思った。
 その直後にまた電話があって、それは山岸からだったが、事務所へ伊川真平がきたのだという。
「平気よ。ほっとけばいいわ」
 とあたしはいって、もういっぺん、田代の首にかじりついた。
[#改段]

魔法の王子



 神戸へ、田代とともに行った五日間の旅は、あたしのこれまでの生涯での、最大の幸せをこめたものでもあったろうし、一面からいうと、あたしの頭をすっかりと幸せボケにしてしまった、たいそう愚劣な旅だった、とも言えるのだろう。
 その愚劣な旅については、要点以外、せめてできるだけ省略しておきたい。
 はじめの夜、神戸のどまん中の、あまりパッとしない旅館へ泊った。
 着いてから次の日まで、田代はほとんど宿におちつかず、取引きが多忙だとのことだったが、ろくにあたしと話をするひまもなかった。それから、
「事業上ではね、時に、カミソリの刃を渡るような場合もあるのだ。君などに話したら、ハラハラするばかりだろう。まア、のんびりと、知らぬ顔をしていたほうがいいよ」
 といって、その事業の内容へ、あたしがタッチすることを封じてしまった形である。
 二日目の夜に、喜色満面、宿へ戻ってきた彼は、手に重たそうな買物の包みをぶらさげている。
「疲れたよ。――しかし、とうとうやった。これで東京へ帰れば、とりあえず二千万円がとこは手にはいるのだ。さア、こんなボロくそな宿にいられやしないね。これからすぐ、京都へでも行こうぜ」
 そうして、その買物の包みは、さもたいせつそうに、壁の根へおいてみたり、ちゃちな軸物のかかっている床の間へ、ずしんと音を立てておきなおしてみたり、
「神戸肉のかす漬けさ。みんな罐詰になっている。世話になっている人へのお土産だよ。とってもうまいんだ」
 といったが、実はこの神戸肉の罐詰のうちに、麻薬の原料がはいっていたことを、あたしは少しも知らなかったのである。
 それはどれも、ある有名な百貨店の包装紙に包み、青いビニールの紐がかけてあった。早い夕食をすませたあとで、田代は気になったのだろう、そのうちの一つだけをとって包装の紙をといて見せたが、かなりの大きさがある四角なブリキの罐で、なるほど、名産神戸肉かす漬け、というレッテルが貼ってある。罐の数は合計八つで、そのうちの二つか三つが神戸肉であり、あとは別のものだったのにちがいない。あたしが持ってみて、
「ずいぶん重たいのね。こんなもの、荷作りして、東京へ送ったほうがよくない?」
 というと、
「なアに、いっしょに持って行くよ。たいして邪魔になりゃしない」
 と答えたが、あとでは、駅で赤帽がいないとどうにもならず、また汽車の棚にのせるだけでもたいへんで、かなり。荷厄介になったものである。それをあたしは、べつにへんだとも思わなかった。けっきょく、幸せボケだったというよりほかはない。
 京都へ行き、次に奈良へ回った。
 どちらもよかったが、奈良はとくにあたしの気に入った。
 鹿のいる芝生を歩きながら、
「あたしね、お姉さまのこと、くやしくてたまらなかったのよ。病院へ、お姉さまとふたりで見舞いにきて下さったわね。あの晩は眠れなかったわ。そして熱を出しちゃったのよ」
 と話したり、また、
「あたしのこと、どう思っていらっしゃる?……お姉さまから、あなたを横取りしちやったでしょう。とってもいけない女だと思わない?」
 と聞いてみたが、田代は、
「そうだな。一口にいうと、君はすばらしく野蛮な女さ。原始的……いや、自然児だっていったら、怒らないだろう。野蛮性が、ぼくをとりこにしちゃったんだよ」
 といって笑った。
 野蛮だなんて、ひどいわ、とあたしはいったけれど、少しばかり嬉しくないこともない。ふたりきりの何をしてもいい自由な時がきた時、それは旅の問も、また東京へ戻ってからも、のちに事件が起った時まで、あたしは田代に対してその野蛮性を、ふんだんに発揮したということになるのであろう。
 旅をいつまでも続けたかったが、そうはいかない。
 東京へは、飛行機でなく、特急で帰った。
 新しい家を買う予定だったが、さしあたり、あの多摩川の近くの「金の星」というホテルへあたしは泊っていることになった。
 そして、帰京してから三日目、田代はホテルへ、新しい鞄を抱き、大威張りで帰ってきたが、鞄には錠前がかけてあって、それをパチンパチンと音させて開くと、中には、千円札の束が、ごっそりはいっていたのである。彼は、
「これで、借金の一部を払ってしまう。あとは全部、君が使ってもいいんだよ」
 そういって、その夜のあたしを、また一段と野蛮な女にしてしまった。
 この翌日、田代はあたしをつれだして銀座へ行き、オメガの精巧な腕時計と、本ものの翡翠ひすいがはいったブローチを買ってくれた。そのあと、毛皮屋へもよって、あたしの冬のオーバーを買おうとしたが、気に入ったのがなくて、これはよした。
「まるであたし、どこかの王子さまと結婚したみたいね。あなたはいったい、どこの国の王子さまでしょう?」
「さア、どこにするか。案外、地獄の国の王子じゃないのかな」
「ばかね。そんなこというもんじゃなくてよ。ああ、そうだ。きっと、魔法の国の王子さまよ。あなたは、大魔奇術の博士だもの」
「うん、よかろう。金も宝石も腕時計も、片っぱしから魔法で作りだしてしまう。そして将来は大魔王になる……」
 歩きながらいった田代のこの言葉に、かすかながら自嘲的な、へんな響きがあったのを、あたしは少し気にして顔を見上げたが、折から警官を満載した二台の自動車が、あわただしく電車通りを走ってきた。田代は、立ちどまって、じっとそれを見送っている。
「どうかした?」
「いや……」
「事件が何か起ったのね」
「事件とすると、かなり大がかりな手入れだよ。しかし、そうじゃないだろう……」
「あたし、警官てもの、好きじゃないわ。警視庁に、とても乱暴な口をく刑事がいるのよ。あたしのこと、まだ、おねえちゃんていうかしら」
 ふいにあたしは、父を殺したのが橋本の小父さまだということを話したくなり、でも、まだその時期ではないと思ったから、話すのはやめにしてしまった。
 そのあと、自動車に乗り、田代があたしをつれて行ってくれたのは、彼の事務所へである。そこを、まだあたしは、いっぺんも見たことがない。
 事務所は、新宿駅の近く、柏木というところにあった。
 粗末なバラック建てにペンキを塗っただけの、それでも二階家だったが、机を三つほど並べたところに、ゴマ塩頭の男と、やせこけて狐のような顔をした女がいた。それが事務員だろう。その奥に、山岸がいる。山岸は、椅子にお尻をおとし、足を机の上へ投げあげ、雑誌を読んでいるところだった。
「なんだ、きたのか。君は、こないほうがいいっていっといたのに」
 山岸は、雑誌をいけぞんざいに投げ出してから、さてたばこに火をつけた。
「つい、一時間ほど前にも、電話がかかってきたんだぜ。泊っているところを教えろっていうんだ」
「ふーん、なかなか熱心なんだな。――しかし、かまわない。平気さ」
「旅行先きからまだ帰らない、連絡もまだないんだって、いっといた。けどね、伊川ってやつ、子分が多ぜいあるんだろ。子分をよこして、この近くへでも張りこませておくと、君がきたこと、すぐとやつにはわかっちまうぜ」
「いいだろう。わかったら、わかった時のことだ。逃げずに、会ってやるよ」
「その覚悟ならいいけどね、会ってからどうする?」
「金で話がつくだろう。心配しなさんな」
 聞いていて、伊川真平がまだあたしを、追いまわしているのだと知った。
 ずいぶん、しつこい。
 でも田代は、ふりむいてあたしに、
「君も、気にしなくていいんだよ。ぼくは魔法の王子さ。街の親分のひとりやふたり、どうにでも料理しちまうよ」
 とニッコリ、笑った。


 田代にあたしは、敬文堂へふたりで行くことを約束させてあった。
 ところが、そののち彼は、なんのかんのといって、行きしぶっている。
「いやだな、どうも。あの人たちにだけは、ぼくも合せる顔がないんだからな」
「だめよ。気が弱いのね。そんなじゃ、大事業なんかできなくてよ」
「ばか! 事業とこいつとは別問題じゃないか。これだけはかんべんしといてくれ」
「男らしくないのね。いっしょに行くっておっしゃったくせに」
「うん、すまない。しかしね……」
 というぐあいで、けっきょくはいつまで待っても腰を上げそうにない。
 どうやら、めんどうくさくなった。
 ついにある日、みどりお姉さまがいそうな時を見はからって、あたしはひとりきりで敬文堂へ行くことにしたのである。
 行く前に、そのことを田代に話したら、彼は大喜びだった。どこからか、例の神戸肉の罐詰を持出してきて、それを手土産にしろといったし、べつに、大ぶりな封筒に入れた二十万円を出して、これは小父さまに渡してもらいたいのだという。あたしとしては、そんな金を返すことはないと思っている。
「ええ、いいわ」
 とはいったが、その金の一部をそっとハンド・バッグに入れ、あとはホテルの帳場へ預けておいたものである。
 意気ヨウヨウ、あたしは敬文堂の店先きからはいった。
「ごめんなさい。上がらせていただくわ」
 あたしは、視線を下へ向けて、自分の鼻の頭を見るようにすると、ツンと澄ました顔になるのを知っている。かまわず上がってみると、茶の間には、小母さまだけがいた。
「あら、千春ちゃん……」
「ごぶさたしましたわ。これ、あの時のお金、お返ししときますから」
 すぐにあたしは、あの銀行通帳の金だけを小母さまの膝の前へ出し、それから罐詰を、
「これは主人からですの。神戸へいっしょに行ってきたものですから」
 そういって長火鉢の横へさしおいた。主人――という言葉を、ことさら異様に響かせるつもりでいったのである。小母さまの目の色を、楽しんであたしは眺めながら、
「今日は、お話があって伺いましたわ。あたくし、結婚したのです。そして、小父さまとお姉さまと、みなさんお揃いのところで、そのことを報告させていただきたいんですの」
 矢つぎばやに、切口上でいった。
 ――二階からお三味線が聞えてきていた。それにまじって、調子外れな小父さまの声もする。小父さまは、お姉さま相手で、小唄の稽古をやりだしていたのである。相も変らず春風駘蕩しゅんぷうたいとうたるもので、全然何も知らずにいたらしい。
 三人が茶の間にそろったところで、
「いま、千春ちゃんの話で、びっくりしたところですよ。千春ちゃんが結婚したっていうんですけれど……」
 と小母さまは不安そうにいい、その時あたしは、お腹の底に力を入れ、正面切って三人の顔を見た。
「わざとお知らせをしませんでした。お知らせしないほうが、いいと思ったものですから」
「待て。それはしかし、どういう意味だね。知らせずにおいたほうがいいなんて」
 と小父さまが、まず少し詰問的になってくる。あたしは、それを尻目にかけていった。
「わけは、申しません。でもさっき、小母さまには申しました。主人と旅行してきたのだって。それは新婚旅行でしたの」
「ふうん。意外だね。相手はどういう人物?」
「ええ、それは田代ですの。あたくしは、田代守と結婚いたしました」
「えっ!」
 青天の霹靂へきれきというのがこれだろう。
 三人の顔に浮いた驚きの色を、あたしはどう表現していいのかわからない。とくにあたしは、お姉さまに注目した。その目は、ひきつったように大きくなった。息をのんだまま、口がきけなかった。一瞬にして顔が青くなった。そして膝の上の手がブルブルとふるえたした。
「おい! これ、千春!………いったい、ど、どうしたというのだ。え? ばかな……じょ、じょうだんはよせよ。こんな、お前……」
「いえ、小父さま。じょうだんをいっているのではありません。ほんとうですの。田代も実はいっしょにくることになっていまして、でも、忙しいから、参れませんでした。田代からは、お姉さまとの話を、この際はっきりと解消するということ、あたくしから、申してくるようにと言われてきました」
「ちょっと、千春ちゃん! これは、いくらなんでも、あんまりよ。よくもあなた、この家へきてそんなことをぬけぬけと……」
「ええ、小母さまも、きっとお腹立ちだってこと、わかっていました。でも、事実は事実ですから、已むを得ませんわ。コソコソと、だまっているよりはいいのでしょう。改めて申します。田代はあたくしの良人おっとです。そうして、あたくしは田代の妻です。今後、そういうことに御承知願いたいのですわ」
 泣くかと思ったお姉さまが泣かない。
 その代り、何か化物をでも見るような目つきであたしを見つめ、あたしはまた、いとも平然として、そのお姉さまを見返した。
 胸のうちが、スッとした。
 これ以上、何もいうことがなかった。
 あたしは、もうそれだけで引揚げていいのだし、あとは。なるべく口をきかないことにしようと、腹をきめていたのだけれど、ついに小父さまも、怒りをおさえ切れない顔になっていたし、いっしょにお姉さまですらが、
「千春ちゃん! あなたが……あなたが、そんなひとだとは思わなかったわ。これでは、まるであなた、人間じゃないみたい……」
 と、すさまじく、あたしに噛みつきたいほどのけんまくになってしまった。
 小母さまが、あたしのことを、
「ほんとだわ。あきれて物が言えないってのはこのことだわ。――いいえ、千春ちゃん! あなたのしたことは、みどりもいっているとおりだわ。まるっきり、人の道というものにはずれているのよ!」
 というから、
「ちがいますわ。そんなことないでしょう。あたくしはちゃんと人間で、これは、やっぱり人間のしたことですわ。好いた同士が夫婦になれば、なぜ人の道じゃないんですか。田代もあたしを、好きだっていっています。とってもあのひと、やさしいんですから」
 あたしは、ゆっくり、一語ずつ分けるようにしていい、さてまた、
「ごめんなさいね、お姉さま。御衷情お察し申しあげますわ。でもね、思いきってこういうふうにあたしがしたのは、別に理由もあることですよ。その理由はいま申せませんの。いずれ、わかる時がきますからね」
 最後のつもりで、そういってから、座を立ってしまった。
 十分に沈着で平静で、できるだけ非情にふるまおうと考えていたのに、帰る時は、靴の左と右とをとりちがえたり、レースの手袋を土間へおとしたりしただけ、やはりあたしも、気が張りすぎていたのだろう。
 お店の本棚の間をぬけてくる時、
「わアー」
 とお姉さまのはげしい泣声が起った。
 それから小父さまが、
「こら、待て。わたしは貴様に、いうことがあるぞ!」
 足袋のままで奥から飛び出し、新刊書の並んだ本棚のところで、うしろからあたしの肩を引きすえた。あたしは、
「およしになって下さいませ。田代があたくしの良人ですわ。乱暴なことなすったら、あとでお困りになりません?」
 それをふりむいて見てから、おちつきはらい、表の通りへ出てしまった。
 夕方の空に、敬文堂のネオンサインが、毒々しく緑に輝いている。
「そのうちに、このネオンサインも、消してしまってやる」
 心で叫んだが、ふっと何か泣き出したい気持もしてきている。
 田代のところへ戻ってから、あたしは泣いた。それは、わけがわからず、ただ泣けてきたのであった。
[#改段]

脅迫状



 張りつめた気が、なにかふわりと、ゆるみかけたようでもあった。
 とうとうあたしは、やろうときめたことのうち、半分まで成しとげたのである。
 残る半分は、小父さまに対しての証拠さがしであり、それとても忘れたわけではないけれど、なにしろ前の半分、田代をお姉さまから横取りするということが、あたしにとっての大事業だった。この大事業が成功したのだから、喜びは大きく胸のうちでふくれあがり、ために小父さまへの証拠捜しは、それから一時のうち、いささかなおざりにされた傾きがないでもない。
 前にもいったが、田代にさえ、何もまだ話してない始末だった。
 彼に協力してもらったら、ということを考えないではなく、でも彼は小父さまに対し、おかしいくらいに面目ながっている。あたしはためらった。いっそもう少しあと、時期を見て話したほうがよさそうだった。ひとつには、いまの喜びだけの日を、あとしばらく、長続きさせたい気持もあったわけである。
 ――ついでに、ここでいっておくと、あたしが敬文堂へ行ってきてから五日ほどのち、思いがけず新宿柏木の田代の事務所へは、橋本の小母さまがやってきたのだという。むろん泣寝入りではがまんがならない。田代に直接会ってみて、あたしとのことの実否を確かめるため、また事実だとしたら、田代をこっぴどく詰問しようとしてのことだったにちがいない。それについては、あとで、田代からも山岸からも、あたしは聞いた。
「滑稽だったな。田代ときたら、事務所の裏口から、逃げ出したんですよ。しかたがないでしょう。ぼくが会って事情を話しました。どうもやりきれなかった。あの奥さんが、腹を立ててしゃべりまくるとなったら、まるで噴火山みたいですよ。あははは……」
 山岸は面白がって笑ったし、田代は、
「よせよ。もうその話は……」
 といって、まるで怒ったような顔をしている。小母さまに来られて、閉口した田代の顔が見えるようだった。そしてあたしは、これでもって問題は、ともかくいちおうのけりがついた、と考えたのであった。
 秋は深まり、もうじきに十二月だった。
 それまでのうちにあったことで、多少あたしに気がかりだったのは、例のゴロツキ伊川真平の件である。
 伊川は、まだあたしを追い回していた。
 事務所のほうへ二度もきたが、それはあたしの居所を、知らせぬようにしていたからである。二度目に、田代がとうとうつかまり、そこで田代が、ある程度の金を出して話をつけようとすると、その金には見向きもしないで押し戻して、どうしてもあたしに会わせてくれといったのだそうだ。それはできぬ、と田代がつっぱねたから、そうですか、しかたがありませんといって、たいそう悄気しょげて帰ったということで、執念深いのにはおどろいたが、どうやらこれも、かたがついた形になっている――。
 あたしは、まだやはり、ホテル「金の星」に泊っていた。
 平穏に……いや、幸せに、日は過ぎて行くように見えた。
 田代は、至極景気がよさそうであって、高円寺の映画館は担保流れになったそうだが、貿易商会を作ったという言分で、かたわら銀座に、外人相手のキャバレーを作る計画を進めているのだという。キャバレーだったら、桐壺でのあたしの経験が、まんざら役に立たぬでもない。経営者をあたしの名義にし、あたしをそこのマダムにしようかなどと、くったくのない顔をして笑って見せた。
 ふいにある日、
「また、神戸へ行くよ」
 と言いだしたから、
「いいわね。今度はあたし、大阪ってとこ、見てみたいわ」
 といったが、彼は首をふっている。
「だめなんだ。君をつれて行きたいけれど、どうもそういきそうもない。神戸だけじゃなくて、場合によると、九州まで行かなくちゃならんかもしれない。ギリギリの日程でね。君と遊んでいるひまがありそうにないよ」
 というから、不服でもあたしは、いっしょに行けない。
「つまんないわ。千春は、ひとりきりでいたらたいくつだもん。本なんか読むの、このごろはきちゃっているのよ」
 鼻を鳴らし、わざとふくれているあたしをつかまえ、田代ははげしい愛撫の夜を、二日すごした。そしてその出発の前夜、あたしたちは赤坂の、野鳥料理が自慢の某料亭へ行き、楽しく夕食をとろうということになったが、そこへ行ってみて意外だったのは、あたしたちより一足先きで、山岸節夫がきていたことである。
 彼は自分だけでお銚子を運ばせ、照り焼きになった小鳥の皿を前にして、もう赤い顔をしていた。顔を見たとたんに、なぜこんなところへ彼をこさせたのかと、あたしは大いに不服だったが、
「やアどうも。お邪魔だろうから、ぼくはじきに退散しますがね」
 と彼は、幇間ほうかんみたいに下卑た調子でいった。そして田代とのあいだには、かくべつ重要な用件もないらしく、はじめのうち、ありきたりの世間話をしたり、もう狩猟の時期だが鉄砲を習おうかといってみたり、いやそれよりは近頃のはやりで、小唄の稽古をはじめようかなどと話し合った。
「山岸さんは、ずっと前に、ツンツンレロレロをお唄いになったわね」
「そうだったかな。ずっと前って?」
「あたしが小学生だった時よ。防空壕工事のお手伝いに、大学の服を着て三人でいらして……」
「ううん。そんなこともありましたね。あの時の小っちゃなあなたが、いまはれっきとした田代夫人になってるのだから……」
 さもさも山岸は感慨ぶかげで、チラリと田代を見たけれど、その何気ない視線のうちには、一つのとくべつな意味がひそんでいたことを、不覚にもあたしは気がつかない。
「まア、昔の話は、よしましょう」
 山岸が、手酌でぐいと酒をあおった時、田代はお手洗いのふりで席を立ち、すると続けて山岸も、
「ええと、関東のつれしょんべん……」
 下品な照れがくしをいって、あとを追うようにしてそこを出て行ったから、はじめてあたしは、へんな気がしてきた。
 ふたりのあいだだけの、何か、かくしごとがあるのだとわかった。
 腹が立ってきそうであった。
 あたしも手酌で、ちょこ三ばいほど、立てつづけにやったが、ふたりは戻らない。
 ついに、そっと立って廊下へ出て行くと、あいている宴会用の広間の片隅で、手あぶりも座ぶとんもなく、ふたりきりさし向いになっているのを、すばやくあたしは見つけた。
 こっちのことは知らずにいた。
 田代が、ポケットの財布を出した。
 そして、山岸に金を渡してやると、
「うむ、よし!」
 といったふうで山岸がうなずいた。
 そのあと、だまってあたしは、前の席へ戻っていると、すぐに田代がひとりきりできた。
「山岸のやつ、よろしくいってたぜ」
「あら、帰ったのね。――ほんとは、知ってるわ、見てたのよ」
「え? 何をさ」
「あなたが山岸さんに、お金を出してやるところをよ。後楽園へ、お姉さまと三人で野球見に行った時も、同じだったわね」
「あ、ああ……そうか。そうだったな」
「なぜよ。どうしてあたしにかくしたりなんかして、あのひとにお金をやるんですか」
「うん……」
 田代は、当惑した目の色だった。そしていつになく、歯切れの悪い口調で答えた。
「……べつに、君に、かくしたってわけじゃないんだけどね……」
「そうかしら? あたしにかくすのでないのだったら、ふたりきりになって、コソコソと話をなさる必要はなかったんじゃない?」
「いや……それがね。どうも。説明がしにくいな。ええと……つまりだよ……ぼくはべつにかまやしない。けども……山岸のやつが、気まり悪がっているんだよ。そうだな。いっちゃおうか……あいつ、女をこしらえやがった。妊娠したっていう。金が欲しいわけだ。その金を、君の前では、ねだりにくいっていうんだよ」
「おかしなひとね。そんなに内気な性分でもなさそうなのに」
「なに、わりに、内気ではにかみ屋さんだよ。――まアいい。あいつがきてちゃ、ぼくも面白くなかった。これからゆっくりやろうぜ」
 まだ納得しかねる気持が残ったけれど、どうやらあたしは、言いくるめられてしまった形でもある。
 田代は、いつもより、機嫌がよくなった。
「どうだ。たまにはホテルでないのもいいだろう。今夜はこれから、どこか変った家に行ってみようか」
「ええ、いいわ!」
 田代は、ギュッとあたしを引寄せた。
 そして、この次の日に神戸へ立った。
 留守のうちの二日目、山岸はだしぬけに、ホテル「金の星」へやってきたのである。


 山岸はあたしの部屋へはいると、立ったままでそこいらを見まわし、とくに、さっきあたしがぬけ出したままにしておいたベッドを見ると、目尻にニヤニヤしわをよせた。
 こういう人間が、内気ではにかみ屋さんだなんて、お義理にも思えない。
「きらいだわ。そんなにジロジロするものじゃありませんわ。どういう御用?」
 とあたしは、できるだけ不愛想にしてやった。
「田代は、ホテルへ来ちゃいけないっていいましてね、しかし、来なくちゃ、ならなかったんですよ。旅先きから、何かいってきましたか」
「まだよ。きっと、忙しがっているんでしょう。事務所へは?」
「同じですよ。しかし、田代からじゃなく、伊川真平からの手紙がきました。子分が、今朝持ってきやがったんです。あなたに届けろっていうんでしてね。届けないと、その分にゃおかねえぞという、おどし文句がついているんです」
「おやおや、御親切ね。それをわざわざ持ってきてくだすったというわけですか」
 皮肉のつもりだったが、彼は平気である。服の内ポケットから、分厚い封書をとりだした。見れば、所書きもなくて「千春さま」とだけしてある。
 あたしは、軽い気持で、封を切った。
 そして、読んでみて、おどろいた。
 単なるゴロツキの親分だと考えて、頭から軽蔑けいべつしていた男だが、伊川はたいそう字がうまい。それに文章もそうばかにならない。おもな内容は、一種のラヴレターらしいものになっている。その恋を訴える部分では、ちょっと吹きだしたくなるような、バカらしいことも書いてあるけれど、誰かの知恵を借りたらしく、なかなか名文の羅列られつだし、それに大切なのは、最後のほうの部分だった。田代について、まことに意外なことを知らせてきた。

×     ×     ×

 千春さま――。
 小生はあなたに、お詫びとお願いを申上げます。桐壺で小生は、いろいろと無礼をはたらき、御迷惑をかけたことでしょう。その点、まずお許し下さい。
 小生はあなたが桐壺にいなくなってしまってから、すなわち。田代守君につれ去られて以来、はじめて気がついたことがありましたが、それは小生がどのくらい本気になって、あなたのことを思っていたのか、ということです。分別盛りの四十男、だらしがないと友人に言われ、身うちも忠告しますけれど、どうにもしかたがありません。
 よく理解してもらうためには、小生の過去のことも、申したほうがよいのでしょう。
 御承知のごとく小生は、いまのところ、街のダニと言われる人間のうちのひとりらしい。無理もないです。傷害や恐喝きょうかい賭博とばくなどの前科があり、臭い飯も食ってきているし、その代りにはどうやら、いっぱしの親分として立てられている人間です。ところが昔は、どうだったのでしょうか。二十年前となれば小生とても、神田の夜学校へ通って、いっしょけんめい法律や経済を勉強している、まっとうな学生でした。学校の卒業間際に、家庭的な事情がありました。小生は、次第に自暴自棄になり、やがて不良の仲間入りをすると、腕っぷしがあるとか、度胸どきょうがすわっているとか、掛合い事がうまいとか、おだてられているうちに、すっかりと身は持ちくずしたし、世間の裏街道での修業も積んで、いつの間にか、レッキとした札つきの人間になってしまったというわけです。
 どうも、愚痴話になってしまって、すみません。
 この経歴をもつ小生は、いつか足を洗い、本来の伊川真平に立戻ろうと心がけていながら、さてそれはなかなかできません。それには、ふんぎりをつけるための、力が必要なのでしょう。いま、あなたがいる。あなたならば、その力になるのです。伊川真平が更生のためには、ぜったい、あなたが必要だと小生にはわかりました。
 小生は、女に頭を下げてものを頼んだなどということは、いままでにいっぺんもありませんが、今度だけは違います。どうか小生を助けて下さい。
 小生は、あなたが小生を、嫌っているのではないということを知っています。これは小生の信念です。だから、小生がこれだけの熱意をこめてお願いしたら、必ずや小生を助けにきてくれるのだという、大なる希望のもとに、この手紙を書くことができるのです。あなたがいたら、小生の新しい人生が開かれるでしょう。そうすることを、また誓いもします。それによって、あなたを幸せにすることができるし、小生もまた明るく幸せになれるのです。
 最後に小生は、あなたのため、田代守君といっしょにいたら、それは非常な危険と不幸のもとだということを警告しておきます。
 これは小生の子分が、田代君の行動を監視していたため、偶然に発見したことですが、田代君は麻薬の密造密売をやっているようですね。あなたはそれを御存じか。いや、多分もう御存じでしょう。これはしかし、実に危険なことですよ。
 金は十分に儲かるが、いずれ田代君も手錠つきでサツへ持って行かれるのでしょう。小生にも、麻薬を動かせという話がいくどか持ちかけられ、それを断ってきています。田代君がやっているのは、実に大規模なものらしく、小生も呆れているくらいですが、それを小生は知っていながら、あなたのために、沈黙を守っているわけです。場合によると、田代君について活殺自在な鍵を握っているのが小生だと申してもよいのでしょう。田代君は、関西から、神戸牛の罐詰のていさいで、麻薬を運んできています。そこまでを小生は、完全につきとめているのですから。
 これらの点を、あわせて十分に考えて、賢明なる行動にいでられんことを望みます。詳細はお目にかかって話したい。あなたがひとりきりで来ていただきたい。考慮の余裕も必要でしょうから、その日までを一週間として、来週金曜の夜八時、上野駅改札口までお出向き願いたいと思います。
 念のため申添えておきますが、小生はがまんにがまんをしぬいてきています。しかも仲間うちでは、かなり気の短い人間だと言われていることを、ぜったいお忘れなきよう。
 では、これにて啓白。

×     ×     ×

 吹きだしそうになったのは、あたしが彼を嫌ってはいないのだと、自分で勝手にきめてしまっている部分であるが、さて、おしまいの警告云々へくると、吹きだすどころではなくなった。あたしはあたしの立っている床が足の下から、音もなく崩れ去って行く思いだった。
 山岸が、
「長い手紙ですね。何か書いてありますか」
 とのぞきこみそうにした。
「見たければ、見てもいいわよ」
 むぞうさにあたしは、それを山岸の膝の上へ投げてやった。
 けじめに、例のバカにした顔で読みだした山岸も、最後の部分で、ハッとばかり息を呑んでいる。
 その顔色であたしにはわかった。麻薬の件は、伊川のでたらめではなくて、真実である。おそらく山岸は、田代と共謀でそれをやっているのであろう。思い当ったのは、小鳥料理でのふたりの密談だった。その時に推測したとおり、ふたりの間には、あたしには話せなかったかくし事があったのであった。
 気持をおちつけねばならぬ、とあたしは努力した。
「ねえ、山岸さん、その中に書いてあること、どう思う?」
「どう思うかって……これは、どうも……」
「麻薬のことが、うそかほんとうかなんて、きいてるんじゃないのよ」
「うそですよ……あきれた。これは、単なる出まかせの言いがかりだから……」
「そう。じゃ、出まかせだとしておくわ。ただね。神戸肉の罐詰は、あたしもへんだと思ったことだけ、いっとくわ。いいのよ。ともかくあたしは、あのひとにすぐ東京へ戻ってきてもらいたいわ」
「しかし……」
「いいえ、だめ! 緊急よ。神戸での居所、山岸さんには連絡があるんでしょ」
「ええ、それは……」
「あたしには、どこへ泊るか、いってないのよ。あなたから電報をうってちょうだい。ふたりだけのあいだの暗号文かなんかあるんじゃなくて? 形勢が悪化した、あぶない、すぐ帰京しろって、いってやればいいのよ!」
 そうして山岸には、追いだすようにして帰ってもらった。
 あとで思えばその時に、あたしはもっときびしく山岸を問い詰め、彼らのあいだにあるかくし事を、全部詳細に語らせるべきだったかも知れない。けれどもおちつけなかった。恐ろしくもあった。与えられた機会を、あたしは失ったことになるのである。


 伊川の手紙を、あとで二度も三度も読みかえしてみた。
 だんだんわかったのは、これがほんとうはラヴレターでなくて、脅迫状だということであった。
 まことに巧妙である。いかにもラヴレターらしく見せかけてあるが、この形式でだったら、田代が巨額な金を出して妥協を申込む、という結果にもなるだろうし、場合により秘密がばれて、当局の手にかかるというようなことになっても、伊川としては、脅迫したのではないといって頑張り、事件の渦中から抜けだしてしまうこともできるのである。
 田代は、余裕が一週間しかないのに、なかなか帰京しなかった。
 山岸がすぐに処置をとらなかったのだとあたしは見ぬき、やっきになって催促したが、やっとこさ、飛行機で帰ると知らせてきたのが、期限の日の前日、次の週の木曜日になった。
 羽田へは、山岸も行こうというのを、もしかすると事務所へ出る山岸に、伊川の子分の目が光っているかも知れぬと考えたから、あたしはひとりきりで迎えに行った。
 もう夕方だった。
 タラップをおりてくる田代の顔に、西日が赤く射していたが、あたしの視線は、目ざとく彼の右手にそそがれた。
 前の時よりもかさは少なく、しかしやはりずっしりした土産物に見せかけた手荷物の包みを、黄色い革手袋をはめた手にぶらさげている。どの程度に彼はこちらの情勢を知っていたのだろうか。山岸からの連絡はあったにしても、平気であの危険な土産物を持ってきたところをみると、事態をそれほどには重大視していないのかも知れない。
「お帰りなさい」
「ああ、遅くなっちゃってね。山岸は?」
「来させなかったんです。タクシーが待たせてあってよ。さいしょにどこへ行く?」
「そうだな。ホテルにしよう。腹がへってるんだぜ。すぐどこかで飯だけ食べて……」
「いけないわ。まっすぐ行くのよ」
 田代よりも、あたしのほうがいそいで車に乗った。土産物の包みを、そこまではさも軽そうにして持ってきた田代が、車ではシートの上へ、やれやれ重かったぞ、という顔でおいて、さもさも不平そうに、
「ひでえことになるな。せっかく帰ってきた亭主に、飯も食べさせないのかい」
 といったが、あたしは受けつけない。
「また、神戸肉の罐詰を持ってらっしゃったのね」
「うん……評判がいいんだ。やった先きで喜ばれてね」
「あたしは、御馳走にならなかったわ。でも、けっこうなの。もう知ってるのよ」
「何をさ」
「罐詰の中身が何かっていうことをよ」
 返事がなかった。
 しかし、ジロリとあたしを見た視線は、びっくりするほど大胆であり、また平静で冷酷でもあった。
「君はぼくに、どういうことをいおうとしているんだね」
「山岸さんから、旅行先きのあなたへ、連絡があったはずだと思うけれど……」
「そうか。それなら、あった」
「きっと、詳しく知らせなかったのね。もう、かくさないでちょうだい。麻薬のことはあたしも知ってるわ。山岸さんは、そういうことを、いってやらなかったのですか」
 田代の目つきが、けわしくなった。
 数秒間、だまっていたが、うなずくように太いため息をした。
「山岸からはね、伊川のことを知らせてきただけだよ。あいつは、馬鹿だな。君にもこの話をしたのかい」
「ううん、ちがう」
「じゃ、どうしたんだい。山岸は、伊川がぎつけた、といってよこした。そして、なるべく早く帰れってね」
「この手紙をごらんなさい。見ればわかってよ。形勢重大だわ」
 ハンドバッグから、あたしは伊川の手紙を出してやった。
 あたしの胸のうちでは、一つの決心ができてきていた。
 田代の顔を見たとたんに、その決心はきまったのである。
 もうあたしは、田代からはなれられない。
 お姉さまから横取りしたこの男は、俊敏な少壮実業家とはちがったもので、伊川の言葉を借りると、世間の裏街道を行く、ならず者のひとりだった。新聞によく出るアプレ青年以上のものではなかった。そうだったとしたところで、どうなるのだろう。あたしは……あたしは……お姉さまから、橋本の小父さまから、それ見たことか、と言われたくない。石にかじりついてでも、あたしは田代といて幸福だということを、見せなければならないのである。これからは、もう田代にこんなことはさせまい。そしていまは、とにかく彼の身にかかる危険を防がねばならない……。
 タクシーが、凸凹のはげしい道ではねあがり、あたしは、麻薬の包みがすべりおちないように、しっかりと手でおさえていた。
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崩壊



 運転手がうしろへ聞耳を立てているような気がしてタクシーの中ではろくに話もできなかったが、ホテル「金の星」へもどるやいなや、あたしは田代を。
「いったい、どうしたってことなのよ。山岸さんにお金をやったり、コソコソ話をしたりして、へんだと思っても、知らなかったわ。ねえ、あたしは、あなたがこんなことをしているのだと知っていたら、もっとほかに、やることがあったのよ。――あたしが、バカだったということになるのかしら。そうよ。バカよ、バカよ、大バカよ。あなたは敬文堂の小父さまや、そしてみどりお姉さまをだましていただけじゃなくて、あたしまでも騙していたんだわ。こんなひどいことって、ありゃしないわ。このつぐないを、あなたはどんなふうにしてつけて下さるつもり?………いいえ、いいえ、償いなんかはあとの話だわ。さしせまってあなたは、どうなさるのよ。麻薬の密売者として、あなたはもうお尋ね者ね。れっきとした犯罪人だわ。この危険な立場を、あなたはどうやって切り抜けるのよ。切り抜けていただきたいわ。絶対にこの場は切り抜けてちょうだい。でなくて、警察へつかまって、麻薬の密売者として世間へ知られて、いっしょにあたしの名前まで新聞へ出るのだったら、みどりお姉さまが、手を叩いて喜ぶわよ。そんなこと、あたしは、がまんできない。死んじゃってやるわ。ここで、すぐ死ぬことだってできるのよ……」
 たたきつけるようにいってきめつけ、情ないやら心配やらで、自分で自分のいっている言葉が、まるっきり筋道の立たない、あわてふためいたものになっているのを、一向に気づかぬくらいだった。
 田代もさすがに閉口していた。
 その言訳も、しどろもどろだった。
「許しておくれよ。ぼくは君を愛しているんだ。愛する君に、迷惑をかけぬうち、この仕事から、手を引く決心をしていて、でも、君を幸せにするには金がいるからね。結局、どうにもならなかったのだよ。もとは、ボロ株を買ったり競馬やったり、イカサマ賭博にひっかかったりしたのが悪かった。映画館の担保で借りたのが高利の金さ。一挙に挽回ばんかいしようと考えたから、麻薬取引のあぶない橋を渡る気になった。うん。君がくる前からだったが、君がきたら、よけいにそれをやる必要があるような気がした。むろん、君のせいじゃないね。ぼくが見栄みえを張って、金のある顔をしたかったから、いけないのさ。君を苦しませるなんて、とんでもないことだよ。――が、いいよ。心配御無用だよ。これは。うまく処置できる。君は、何も知らなかった顔をしていればいいんだからね」
「あたしは、あたしのことだけを考えているんじゃないのよ。あなたが、街のやくざなんかにつけこまれる、そんな弱点のある人間だとは思わなかったわ。あなたを、心のうちでは自慢してたの。りっぱな少壮実業家で、どこの世間へ押し出したって、引けをとることのない人間だと思って……」
「わかった、わかった! もう言わないでくれ。すべてぼくの失敗だ。責任はぼくにあって君にはない。ただ、ぼくは、いつか君に言ったっけ。ぼくは魔王だってことをだよ」
「ああ、あれは……」
「麻薬の魔王だという意味さ。君はとりちがえて、魔法の国の王子さまだっていった。けど、ぼくは恥ずかしかったぜ。早く金を作ってしまい、こんどこそ、押しも押されもせぬ少壮実業家になりたいと思った。いや、これからは、そうなるのさ。断言しておく。足を洗うよ。そして、真面目な仕事にとりかかるのだ。どうだ。聞いておきたいね。君はぼくに、あいそがつきたかい。それとも、まだぼくを愛しているのかい?」
 考えると口惜しい。
 その時でもあたしは、田代への愛情がさめていたのでは決してない。
「ずるいわ。そんなこと、聞かなくてもいいのよ。あたしは心配しているのよ。あなたを愛していなかったら……」
「そうか。ありがとう。だったら、ぼくも元気を出すよ。キスしておくれ!」
 あたしは、魔王の腕の中へとびこんだ。
 魔王というのが、麻薬の魔王という意味だけだったのか、それともまだほかの意味があったのか、それを、やはりせんさくして考える余地もなかったのである。
 その夜をあたしたちは、かえっていつもより昂奮し、いつもより熱烈に過した。
 そしてこの翌日になると、最後の恐ろしい驚きが、あたしを徹底的に打ちのめしてしまった。
 朝のうち、あたしたちは相談した。
「どうだろうね。今度持ってきた罐詰は、前よりずっと少ないんだ。しかし、金に換えるだけのことはしておこうね」
「危険な気がするな。そうしなくちゃならないんですか」
「神戸へ持って帰ったら、それこそ危険さ。といって、このままにしておくこともできないだろう」
「それもそうね。捨てに行くのだって安全じゃないし、だとしたら、どうなさる?」
「足を洗う前の一仕事だと思うな。売渡しの段取りはつけておいた。むしろ、金に換えるのが安全だね。――それに、金もあったほうがいいじゃないか。頼むよ。この最後の一回だけ、前と同じに処置することを、許しておくれよ」
「毒くらわば皿まで、といった感じね。だいじょうぶ?」
「魔王は魔王らしく、うまくかたをつけちまうさ。君は、この一回だけ、魔王のきさきだな。美しくて、高慢で、冷血動物みたいに、そ知らぬ顔をしていればいい。それだけで、万事は終ってしまう」
「そうなればいいと思うの。――いいわ。やってしまってよ。スリルだけは、たっぷりとあるわね」
 そして彼は、洋服箪笥の奥にしまいこんであった例の罐詰を持出し、ひとりきりで車を運転して出かけて行ったが、それから三時間ほどして帰った時は、やはり、千円札の束がごっそりはいった鞄をぶらさげてきていて、しかし山岸節夫とふたりだった。
「あら、あら……」
 あたしは露骨にいやな顔をして見せた。
 すぐに田代を、ホテルの廊下へつれだし、多摩川が見えるバルコニーの上へ出た。
「山岸さんなんかを、どうしてつれていらしたのよ。あのひと、きらいだわ」
「知っている。しかし、例の取引きで、あいつをけ者にするわけにゃいかないんだ」
「足を洗うにしても、山岸さんには、まだ尻尾しっぽをつかまれているということになるわけだわね。でも、それにしても、ここへは、あたしはきてもらいたくなかったわ」
「よしきた。今後は来させない。が、取引き以外に、伊川のことも、三人で相談したかったからね」
「伊川は、あたしは、平気になっちゃったな。麻薬のことなんか、そんなことないんだっていって、頑張ればいいじゃないの。こないだは怖い気がしたけれど、あたし、行ってみようかって思ってるのよ。なんとか、ごまかしてきてしまえてよ」
「そういきゃいいが、甘く見たらたいへんだぜ。ま、ともかく、相談をしよう」
 気の進まないあたしを、田代はひっぱるようにして部屋へ戻ったが、見れば山岸は、あたしたちの神聖なベッドへもぐりこみ、腹んいになってたばこをふかしている。
 あたしは、カッとなった。
「山岸さん!」
「へえ、なんですか……」
 首だけをねじむけた山岸は、あたしと田代の顔を見くらべ、さてあたしが、腹を立てているのだとわかったらしい。ア、ア、アーンと欠伸あくびをし、のびをしてから、ずるずるとベッドをはいおりてきたが、それは一種の奇妙な瞬間だった。
 田代の表情が、あたしに、がまんしろ、といっていた。
 だからあたしも、口まで出かかっていたののしりの言葉を、そのままゴクンと、舌の奥へのみこんでしまったようなものだけれど、ふっと気になったことがないではない。それは山岸節夫というこの男が、いかに学生時代からの友人とはいえ、また、麻薬売買での相棒とはいえ、田代に対し、なぜこのように無遠慮で図々しくて、あたしにまで、こんな無礼なふるまいをすることができるか、という点についてである。
 まったく、不愉快な存在だった。
 前には敬文堂へきて、二十万円をかたり取った。あたしとしては、小父さまへの反抗心があったから、却って小父さまを、いい気味だと思ったくらいのものだけれど、それにつき田代が山岸を、叱ったのかどうかわからないという気がする。実際は、そのまま許してしまったのだろうし、のみならず、まだその後も彼に金を与えている。いかにもそれは寛容であり、しかし、寛容すぎるのではあるまいか。田代は、なぜこの男に対し、もっときびしい態度をとれないのであろうか。あたしは不服であり心外であり、と同時に、割り切れずに残る不可解なものが、急に胸のうちへいてきて、それがムクムクと曖昧あいまいに、ふくれ上がる気持がするのであった。
 田代は山岸に、ウイスキーのびんとコップを出してやり、それから対伊川問題の相談になったが、その相談はわりに簡単にすんだ。
 手紙では、その夜の八時、あたしがひとりきりで、上野駅の改札口まで出向くようにと指示してある。
 しかし、田代も山岸も、それは危険だという意見だった。
「伊川のやつ、金が目あてだからね。どうだろう、五十万円もくれてやったら、話はつくんじゃないかな」
 と田代はいい、山岸もすぐに賛成した。
「おれもそう思うね。そのくらいが相場だろう。機先を制して、こっちからそれを持って行ったほうが、話はうまく運ぶぜ」
「かも、知れないね。だとしたら。君とぼくと、夜まで待っていないで、すぐにこれから行ったらどうだ?」
「よかろう。ちょっとおれは、寄道しなくちやならないけれど、ま、時間はかからない。うん、行ったほうがいいね。場所もわかっている。池袋の平和ビル内、西北商事ってんだ。どうせ見せかけだけの会社だろうが……」
「よし。では、出かけよう」
 ということになった。


 あたしには伊川を、甘く見るなといった田代だったが、その実は彼も、甘く見すぎていたということにはならないだろうか。
 ふたりが出て行ったあと、あたしは少し退屈だった。
 入浴し、スタイル・ブックを眺め、それにも飽きたから、多摩川のあたりを散歩してきたりなどしたが、日の暮れるまでふたりは帰らず、その代りには、実に意外な訪問者がひとりあった。
 それは、みどりお姉さまだった。
 話の途中でわかったが、お姉さまは私立探偵まで依頼して、あたしの居所を見つけたものらしい。私立探偵は、もっぱら田代や山岸のあとを追いまわした。折も折、さっきあたしはホテルのバルコニーへ出て、山岸への苦情を田代にいった。ホテルの外には、ホテルまで山岸をつけてきた探偵が見張っていて、ついにあたしの姿を見た。すぐ敬文堂へ知らせが行くと、ちょうど学校から帰ったお姉さまが、学校の服のまま、あたしのところへやってきたという順序になるのであろう。
 ホテルの女中に、ドアの外まで案内させ、
「千春ちゃん。あたしよ……」
 そういってお姉さまが部屋へはいってきた時、あたしは、あまりに思いがけぬことで、ほとんど息の根がとまるほどだった。そしてお姉さまは、あんなに気の弱いひとだったのに、しっかりした目であたしを見すえて、
「お話があってうかがったのよ。あなたがひとりだけなのね。椅子をお借りするわ」
 おちついて、壁のそばの椅子へ腰をおろした。
 田代を横取りにしたことにより、完全にあたしは勝利者だったはずである。それにお姉さまをいつも軽蔑していて、少しも恐れたことのないあたしである。だのに、あたしの心はふるえおののき狼狽ろうばいしていた。あのまつ毛の長い、特徴のあるお姉さまの瞳をまっすぐには見ていられないほどの気持だった。
「お珍しいのね、お姉さま。お話というのは田代のこと?」
「いいえ、いいのよ、あのひとのことは」
「へええ。どうして?………」
「あたしたちは、みんな苦しんだわ。けれども、結論が出てきたのよ。千春ちゃんのために、あたしは傷をうけた。でも、その傷は取返しのつかない傷じゃなかったってこと」
「それ、どういう意味ですか」
「あたしが結婚しても、そのあとであのひとは、あなたとのあいだに、トラブルを起すひとだったわね。今度のやり方でそれがわかったのよ。その場合には、あたしの受ける傷は取返しがつかないでしょう。そうならないで、あなたにあのひとをあげてしまったのは、よかったわ。お互に、このほうがよかったんじゃなくて。そして、そう考えると、もうあたしは、あのひとのこと、話したくないの」
 あたしは返事ができなかった。
 お姉さまの顔色といい口調といい、負け惜しみでそういっているのだとは思えない。お姉さまのほうが、ちゃんと割り切って考えていた。なるほどそれはそうかもしれない。却ってあたしは、何かで足をすくわれたような気がした。ことに田代は、麻薬売買の犯罪人で、街のやくざと同じ人間だったではないか。
「だからね千春ちゃん。どうしてもあたしがあなたに会いたかったのは、お父さまについてのことなのよ。お父さまを、みどりは尊敬していてよ。貸本屋の主人でも、りっぱな人格者だと思っているわ。ところが千春ちゃんは、そのお父さまに、とんでもない言いがかりをつけたわね。あれは、根も葉もない言いがかりだったということを、千春ちゃんの口から言ってもらいたいのよ」
「でも、それはお姉さま……」
「お父さまが、あたしは可哀そうなのよ。お父さまだけじゃなくて、お母さまもだわ。決心して、千春ちゃんに会う気になったというわけなの。お願いだから、ほんとのことを話してちょうだい。ねえ、そうでしょう。あんなことは、言いがかりだったのね」
「…………」
「あたしには、だんだんわかったわ。千春ちゃんには、きっと何か理由があって、そのために、わざと意地悪くあのひととの無断結婚をしたり、またお父さまを、いじめたのだっていうふうによ。それはあたしの考え違いじゃないと思うわ。でなかったら、あなたのしたことは、どうしても理解ができなくなるの。よかったら、その理由もあたしに話してちょうだい。あたしはおぼえている。考えてみて思いだしたのよ。あなたがそれをいったはずだわ。結婚の報告をしにきた時、お母さまがあなたのことを、人間の道にはずれているのだっておっしゃったら、あなたは、これには理由のあることで、それはいま言えない。あとでわかる時がくるのだってね。どうなのよ。その理由ってのは、言えないの?」
「ええ、それは……やはり……言えません」
「言ったら、千春ちゃんが、困ることなの」
「違うわ。困りなんか、ぜったいにしなくてよ。困るのは、そうね、逆に小父さまじゃないかしら。そしてお姉さまも小母さまも、その理由がはっきりした時、あたしの前へきて、頭を下げてあやまらなくちゃならなくなるわ……」
 あたしは、せいいっぱいに気を張り、お姉さまに対抗していた。
 腹の底に、一つの切札がある。
 それは小父さまが、あたしの父を殺した犯人だ、ということである。
 それをいったら、定めし形勢は逆転し、またお姉さまを泣かせることができるのであろう。実は、もうそれを言いたくてたまらない。ところが、素早く頭の中を、ヒヤリとした恐怖が走りぬけた。ここであの事件の話をむし返したら、結局は警察が関係してくる。あたしのところへ、取調べがくるのだろう。くりかえし、訊問が行われる。その警察があたしは怖かった。あの罐詰のことが、とばっちりで暴露しそうな気がした。それこそは、是が非でも避けなければならない。も少しのうち……ほんとうにこちらが優位な体制をととのえるまで、やはりそれは、口へ出してはならぬことである――。
 お姉さまは、一時間ほどもいたろうか。
 どうしてだかあたしは、そのおとなしい泣虫のお姉さまに、長くそうやって向き合っていたら、精神的に敗けてしまいそうであった。その場に公平な第三者がいたとしたら事実上あたしはみじめであり、はるかにお姉さまのほうが、誠実な信念に満ち溢れていて、あたしを圧倒していたことを、敏感に見ぬいたにちがいない。しまいにあたしはやりきれなくなった。いっそ、酒でも飲んで見せてあばれてやるかとか、痛烈な啖呵たんかでも切ってやるとかしたくなった。あとで思えば、それこそはすべてのことが明瞭になる、そしてまたすべてのことが崩壊する、そのたった一瞬前のことだったけれど、愚劣なあたしは何も知らない。ただそれは田代について、心の引け目があるせいだと考え、辛くもがまんをしぬいたのであった。
 お姉さまが帰ったあと、あたしは身も心も空虚な気がしてえられなかった。
 新聞を隅から隅まで読んだが面白くない。
 しかたがなくて、ホテルのお帳揚へ電話で頼み、カクテルをこしらえてきてもらったが、ひどくそれは甘ったるく、そのくせに頭の痛くなるような匂いがした。
 何もかも気にいらない。
 夜の九時になろうとしていた。
 ふいに、誰かの足音がした。
 その足音は、重くよろめき、引きずるような響きを伴い、そして、ゆっくりと階段を、上がってきた。
 ドアへ、どさりと、人のよりかかる気はいがした。
 あたしは鏡台にむかい、髪のセットをはじめていたところだったが、ふりむいて見て立ち上がり、部屋の電灯を全部つけた。
 次に、ドアをあけると、人間がそこへ倒れこんできた。
 山岸節夫であった。
 彼はグレイの服を着ていて、オーバーをどこかへぬいできていた。そのグレイの服のズボンにたくさんの血がついている。また、手のひらなども、気味悪く血で汚れていた。そして、倒れた姿勢から、ひじをつき、上半身をもちあげると、
「金だ! 札束を出してくれ。――あいつは、おれがもって行く……」
 息切れがしているようだったが、はっきりとそういった。


 札束というのは、むろん、麻薬の金のことである。その金は、洋服箪笥の底板をはね、その下にトランクに入れてしまってある。
 そんな金を、あたしは惜しくなかった。
 出せというなら、みんな出してやってもよい。けれども、実にだしぬけでわけがわからなかった。山岸が怪我をしてきた。その怪我もそう軽くはなさそうだった。いったい何が起ったというのか。
 山岸は、テーブルの脚を掴みよせ、それを力に立ち上がろうとしたが立上がれない。すぐずるずると床へすべりおち、からくもそこへあぐらをかいた。あたしのほうは、大きらいなやつだけど、怪我をしているのではほうっておけない。なんとかしてやろうと思ってうろうろしていると、彼は不敵な面がまえであたしをにらむようにし、
「斬られたんだよ。伊川の子分にだ!」
 といって、息を荒くいた。
 不安が頭の中を渦を巻く。
「あのひと、どうして?」
 とあたしはすぐ田代のことをきいた。
「ああ……あいつはね……逃げたよ」
 逃げたとしたら、無事で怪我もなかったのであろうか。
「逃げても、こ、こ、ここへは、すぐにゃ、こられないだろう……」
「わからないわ。じゃ、いまどこにいるの」
「あとでいう。金だ! か、かねを……持ってきてくれといったからね」
「はっきりしてちょうだい! どこかで待ち合せることになっているんですか」
「そ……そうだ……」
「そして、伊川との話は、うまくいかなかったのね」
「うん……失敗した……伊川のやつ、怒りやがった。それから……喧嘩になって、やられたんだ。みんなあとでわかるだろう……金だよ。金が要る……早く出してくれ……」
「お金はあげてよ。でも、あたしもいっしょに行くわ!」
「おっとっと……そ……それは、よしたほうがいい……」
「おかしいことをいうのね。なぜよ。なぜよしたほうがいいのよ」
「なぜでもだ。行ってもだめだ!………ばからしい。実にばからしい……田代のこと、君はそんなに気になるのかい?」
「もちろんだわ。どうして、いっしょにここへこなかったのよ!」
「こられないわけがあったからだよ。ばかだな。あきれるな……君は、田代のことばかり心配している。そんなことは、とっても滑稽だぞ……あ、いててて……いてえヨ!」
 血が、じくじくとズボンの膝へしみ出してきていた。よほど深く斬られたのであろう。田代は、もしかしたら、もっとひどい怪我をしているのではないだろうか。
ももを斬られているのね。医者にきてもらわなくてもいいの?」
「いいんだ。そんなひまはない。おれは……すぐ行くんだ……うん……そうだったな。千春さん……いや、田代の奥さん……君にゃ、一つだけここで、言っとこうかな……」
 そうして彼は目を上げたが、その目には、皮肉な薄笑いがただよっていた。
「田代のことだよ。……田代守っていう男を、君はどんな人間だと思っている?」
 とつぜん、へんなことを言われたから、あたしは返事ができなかった。山岸が、もういっぺん、口のはたを痙攣けいれんさせるようにして笑った。
「君のお父さんが殺された時のこと、おれはよくおぼえているぜ。新聞に出たな、君が、そばでそれを見ていたってね。わからなかったんだな。お父さんにゃ、わかったんだけどね……」
 やはりあたしは口がきけない。
 この男はいったい何をいうのか?
「田代が、話したよ……君のお父さんに、顔を見られたんだってね……お父さんが、あ、貴様、タシロ……っていったんだそうだよ。田代が、君のお父さんを殺した時にだ!」
 あたしは気を失いそうになった。
 頭の中を何かで引っかきまわされるようだった。
「たいへんなやつさ、あいつはね。もう、かくしとくところはなくなったよ……おれは、よくそのことを知っている。しかも、証拠をちゃんとおさえといたんだ……証拠をおれが持ってるから……アハ、アハ、アハハハ……あいつは、どうにもしかたがなかった……いけね。血がとまらねえ。なにか、しばるものを見つけてくれ……」
 それは、地軸をも引裂く雷霆らいていのように、あたしを打ちのめす言葉だった。
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スペイドのクヰーン



 山岸の出血は、かなり多量らしかった。
 さっきより目に見えて顔色も青ざめてきていた。
 あたしは、せめて繃帯ほうたいだけでもしてやりたかったがそれはなく、有合せでシーツのはしをひき裂いてやると、彼はそれで太股ふとももの上部をきつくしばり、痛そうに顔をしかめてから、またあの皮肉な目をあたしに向けた。
「ど……どうだね。びっくりしたかい」
「おどろいたわ。どういっていいか、わからないわ……」
「無理やねというところだ。……けどね、わかるはずだよ。田代のやつ、おれからの要求は、なんでもきいたよ。断ることはできなかったな……金をよこせといや、金をよこした……橋本先生をだまして、二十万円とってきた時も、少し顔をしかめただけでね……」
「そう……そうらしかったわね……」
「つまりは、証拠をおれに、おさえられていたからだ……ああ、いてエ……たまらねえ……もう行かなくちゃね。金を出してもらいてえな」
「お金はあげてよ。待っていてちょうだい」
 あたしは思いだしていた。
 父は死のきわに叫び声をあげた。
 その叫び声をあたしは、「あ、貴様、チクショウ……」と聞いたつもりだった。ところがそれは、田代の名前を叫んだのだという山岸の説明だった。
 なるほど、ほんとうに田代が犯人だったとしたならば、父は田代の顔を見おぼえていたことでもあろうし、そうだった、賊は蚊帳から最後に出てきた時、風呂敷包みを下において、ゆるんだ頬かむりをしなおした。それをあたしは、鏡の中で見た。父は賊の顔を見て、それが田代だとわかったのである。そして実は「タシロ!」と叫んだのを、断末魔のかすれた苦しい声だったから、こちらは「チクショウ!」と聞き違えたのであったかも知れない。いいえ、その上に、まだある。あの防空壕の改築工事は、三人の学生がきて手伝って、田代はその学生のひとりだった。橋本の小父さまだけではない。壕のことは、田代もよく知っていたということになるではないか。
 お金を入れた小型トランクを、あたしは洋服箪笥の下から出してきた。
 山岸は、目を輝かしてそれを受取ると、さっきと同じテーブルの脚にしがみつき、さてこんどは、どうやら立上がることができた。そして、びっこを引きながらも、ドアのところまでフラフラと歩いた。
「だめよ。いけないわ。まだ行かせないわ」
「なんだい。用があるのかい?」
「これは、あたくしにとって、たいへんなことよ。でたらめを言わないでちょうだい。ほんとうに、あたしの父を殺したのは、あのひと……田代ですか」
「くどいな。さっきから言ってるじゃないか。嘘だっていうなら、その証拠を見せてやりてえね」
「そのことよ。証拠というのは、どんなものですか」
「ここにはないよ。しかし、行って見ればわかる。ちゃんとある場所にかくしてあるんだから……」
「見るわ。行くわ。その場所を教えといてちょうだい」
「事務所だよ。柏木のね。こないだ、そこへ移したんだ。田代に見つけられねえように、用心していた。床下でね。油紙に包んで、土の中へ埋めといたよ。奥におれの机がある。ちょうどその下だ」
「それは、誰が見ても証拠だってことが、はっきりわかるものなの?」
「もちろんさ。田代はね、奇術が好きだったよ。学生時代からだ。アマチュア・マジッシアン・クラブというのの会員でね。いつか、橋本先生の家で、その奇術をして見せたってこと、自慢して話していたぜ。――そのことと、証拠品とを、照らし合せてみりゃわかるんだよ。ともかく、床下を掘り起すことだ。深くはねえ。かんたんに掘りだすことができるはずだ。そうして、油紙をひろげて見りゃ、おれが嘘をいったんじゃねえってことがわかるだろう。じゃ、さよなら……田代守君の奥さん……」
「待ってよ。もう一つだけ。あのひとのほかに、あなたはどうだったのよ!」
 行きかける山岸の腕を、あたしはしっかりとつかまえていて、はなさなかった。
「おれが、田代といっしょで、君のお父さんを殺したんだっていうのかい?」
「ええ、そうよ!」
 鋭く目のうちをのぞいてやったが、彼は平気だった。
「じょうだんいうなよ。おれはね、こう見えても、人殺しはやらないさ」
「だとしたら、どうして田代のしたことだって、知っていたのよ」
「めんどうくさいね……よしきた……話してやるよ。おれはね、当時田代といっしょで、早稲田の近くにあるアパートの一室を借りていたんだ。君の家は雑司ヶ谷で、歩いても、そう遠いところじゃなかったな。日も忘れねえぜ。昭和二十二年八月二日さ。その日の朝っぱら、まだ夜も明けねえうちに、前の晩の宵の口から、奇術の会があるのだといって、どこかへ行ってしまっていた田代が、まるで泥棒のようにして、こっそりとアパートの部屋へ帰ってきやがった。――ところが、すぐにわかったね。あいつは、昂奮してやがって、風呂敷包みをぶらさげていたんだ。その包みの中に、七十四万五千円という、大金がはいっていやがったからな。その風呂敷ってのは、唐草模様からくさもようのある青い色の風呂敷だったがね……」
 あたしは息を呑んだ。
 言われれば、それも思いだす。
 あの時の風呂敷は、たしかに唐草模様のものだった。もう間違いはない。山岸の話は、嘘やでたらめではないのであった。
「おれは、眠っているふりをしながら、あいつが風呂敷包みの中身をちょっとしらべてみて、それから押入れにしまいこもうとするところを、見ていてやった……それから、結局あいつに、どんなことをやってきたのか、ピンからきりまで、話させたというわけだよ。ふたりとも、金が欲しくてね。どうもつまらねえ。いっそのこと、ぬすっとでもやろうかってこと、本気じゃなくても、よく話したもんだ。まア、やっぱり、アプレっていうわけだろうね。その時に、君の家だったら、防空壕からぞうさなくはいれるってこと話したんだけれど、まさか、と思ったのに、田代のやつ、ほんとうにやりやがったのさ。君の家は、庭が広かったろ。あいつは、はじめのうち、その庭で、八ツ手のやぶんとこかなんかに、しゃがんでいたのだそうだ。蚊に食われてね。それから気がついて、防空壕へはいっていたほうがいいかも知れない、そうすりゃ、家の中の様子もわかるのだ、と思ったそうだ。その壕へはいって行った時に、まだ、君や君のお父さんは起きていたらしいね。そしてふたりで、高利貸しの会社の話をしたんじゃなかったのかい。その話を、田代は、茶の間の下の壕にいて、大体聞いてしまったんだよ。つまり、七十四万五千円もの金が、この家のどこかにあるとわかったのだ。――やつは、いった。嘘じゃねえだろう。その時までは、ぬすっとしようってこと、はっきり決心していたんじゃねえのだってね。現金がそんなにたくさんあるとわかったから、とうとう度胸をきめてしまった。そして、頭の上で、いびきの声が聞えてくるまで、じっと時期を待っていたっていうんだよ」
 ひしひしと思いあたることばかりだった。
 あたしは、あたしの頭や身体を、鋭く大きな刃のある何かの機械で、ずたずたに切りさいなまれる心地だった。
「やつはおれに、五万円だけくれたよ。そして、一生涯口外しないという誓約をさせた。おれのほうは、話を聞いただけで、ガチガチとふるえがきだけどね。ともかく、五万円はありがたかった。それから、証拠の湮滅いんめつを手つだってやることになって、そいつを、実はおさえといたから、いつでもおれは、やつへの切札を持っていたということになるわけだ。あいつは、うまくやりやがった。金が手にはいると、宝くじまでがあたりやがったからね。一時は、映画館買って、羽振りがよかった……が、さア、もういいだろ。これで、おれの話は、おしまいだよ」
「でも、もう一つだけ……」
「もう一つが、いくつもあるね。なんだい?」
「それで……あのひとは、いまどこにいるんですか」
「う……うん……そうだな。ついでだ。話しちまおうか。もうあいつ、生きちゃいねえかも知れないね」
「やっぱり、怪我をしたのですか」
「怪我どころじゃねえよ。おれを斬ったのは子分のほうだが、あいつは、伊川がやった。金は五百万以下じゃだめだという。そいから、君のからだを渡せっていうんだよ。こっちはたかをくくってせせら笑ってやった。しかし伊川は、ほんとに君に惚れていたんだぜ。金はなくてもいい。君を欲しいのだなんていやがった。いじらしいくらいのもんだと思ったな。君に惚れているのだとわかったから、たかをくくる気持にもなったのだが、そこで喧嘩になっちまった。気の短いやつだ。あきれたよ。いきなり、ドスをぬきやがって、田代のどてっ腹を刺したからね……」
「お互に、すばらしいお友達よ。殺されたのを見て、あなたは逃げ出して……」
「おれのこと、不人情だと思うのかい。フン思いたきゃ、どう思ってもいいけどね。あいつも、人情のないやつだったよ。最後に見捨てて逃げるくらいは、あたりまえさ」
「あなたを、叱ってるのじゃないのよ。あのひとが殺されても、あたしは悲しくなんかならないでいられるわ。ただ、口惜しいのよ」
「うん、そうだろう。もっと口惜しがらせてやろうか。はじめあいつは、君のお父さんに名前を呼ばれたから、君にそれを聞かれたんじゃないかって、気にしていた。あわてたから、そのまま逃げてきたけれど、君もいっそ、殺してくりゃよかったって、いやがったよ。君が少しも気づかずにいるってことが、あとでわかって安心した。それから、桐壺から君をつれてくると、君のこと、面白い女だ、殺さなくて、拾いものしたっていって笑ってね。アハ、アハ、アハハハ……」
 どこかで、自動車が笛を長く鳴らした。
 二度も三度もくりかえした。
 ホテルの表かららしい。
「いけねえ。おれは、逃げてきて、タクシーを待たせてあるんだ。じゃ、こんどこさ、あばよだ。バイバイ……おれは、当分のうち、どこかへ身をかくすからね……」
 彼はあたしをつきはなした。
 ひどい怪我なのに、金を持つと元気が出たのだろう。ドタ、ドタ、ドタッと音をさせ、階段をおりていってしまった。


 思考力がどこかへ飛んで行ってしまい、全神経がバラバラになったみたいだった。
 それでも気を取りなおして身支度をし、頼んでもらったハイヤーで、ホテルをあたしが出かけたのは、それから三十分ほどの後である。
 黒い森のかたまりが向うに見えた。
 大きな学校のような建物があり、ネオンサインが見えてきて、それから車は都内にはいった。
 田代が伊川に殺されたという。あたりまえなら、そのことを訴えるため、警察へでも行くところだろう。しかし、あたしは池袋の近く、雑司ヶ谷を目ざして車を飛ばせた。そこは、父とあたしが暮した土地である。いまはもうなくなっているのだけれど、あの恐ろしい事件の起った家があった。あたしは、その家へ行こうとしたのではない。防空壕工事の時は、町内のかしらを頼んだ。かしらの家をおぼえている。そこへ行ったのである。
 かしらは、もう戸をしめて寝ていた。
 かまわず、それをたたき起した。
 名前を音さんというひとで、あたしの顔をすっかりと見忘れていたようだけれど、これからすぐ、新宿の柏木まで行ってちょうだいと頼んだ。
 とんでもないことだ、という顔だった。
 夜だし、あすの朝の仕事が早いといってしぶるのを、
「お願いだわ。どうしても、すぐにしなくちゃならないことがあるのよ。お礼はいくらでもします。ほかに、そういう仕事をしてくれるひとを知らないから、小父さんを思いだしてきたんだわ。ね、いっしょに行ってちょうだい。お礼はここで出しときます。床をひっぺがして、その下のところ、ちょっと掘るだけのことですから」
 あたしはおがむようにして、やっとこさその音さんを、車へ乗せることができた。
 柏木の事務所までは近かった。
 ついてみると、前にきた時にもいたゴマ塩頭の事務員が、ここに寝泊りしているのだろう、これはまだ起きていて、男のくせに、毛糸の編物をしていた。
 とつぜんのあたしの顔を見て、たいそうびっくりしたようだったが、すぐと音さんが、持ってきた道具で事務所の床をこわしはじめた時は、なおのことびっくりしたらしい。
「いいのよ。あなたは口出しをしないでいらっしゃい。あたくしの責任でやるのですわ」
 おどおどと、いじけたようなその事務員の顔を見ると、あたしは無性にいらいらして、はげしく叱りつけた。
 音さんが、ギイ、バリバリ、と音を立て、苦もなく床板をひっぺがし、次に土の中から、油紙の包みを掘りだしてくれた。
 何が出るか、あたしは自分がひとりきりで見たかったから、音さんにはそれだけで帰ってもらい、事務員にも、
「すみません。今夜はどこか、よそへ行って泊ってきてくださいね」
 そういってお金を与えた。
 包みは、細い紐でくくってある。
 見まわすと山岸の机の上に、安全剃刃の刃をつけたナイフがあった。
 ふるえる手で、あたしは紐を切った。
 とうとう、物的証拠が出る。
 しかもそれは、橋本の小父さまのところで見つけたのではなくて、この、田代守の事務所から出るのである。
 目を閉じ、何かに祈る気持になり、さて息をつめて、包みをひらいた。
 その中にあったのは、一本の短刀と、そして折りたたんだ手拭いであった。
 短刀には、革製のさやがついていたが、中身をぬいて見るまでもなく、あの時にあたしが見た短刀だとわかった。
 つかびていたけれど金属製で、全体として青味がかっている。それに、小さな貝殻がちりばめてある。螺鈿らでん細工だった。賊があたしの顔の横で、畳につき刺しておいた短刀だった。刃のほうには、古い血のあとがこびりついているのかも知れない。そしてこの螺鈿細工の柄は、一種異様な形をしていた。それは重大な――最も重大なことである。その中ほどに、奇妙な突起が二つもついていた。刀でいう目くぎとは違うものである。その突起のために、柄はあたりまえの手つきだと、握りにくい感じになっているのであった。
 手拭いのほうには、明らかに血痕けっこんがある。
 とびとびに、黒い斑点はんてんになっていた。
 そして、ひろげると、青いローマ字が染め出しになっているのである。
 そのローマ字は“AMATEUR MAGICIAN CLUB”というのであった。
 短刀と手拭いとを、見つめているうち、あたしの頭は、氷のように透明になり、それからすべてのことがわかってきた。
 まず、手拭いである。
 ローマ字は、訳せばいうまでもなく「素人奇術倶楽部」ということにでもなるのであろう。ところがあの時あたしは、賊が頬かむりしていた手拭いのうちに「CIO」というローマ字があるのを読み取った。いま目の前にある手拭いには、その「CIO」という綴りはない。けれども、まん中に「GIC」という綴りがあった。文字は、飾りのないきちょうめんな、寸法の揃った大文字をならべたものだった。賊の手拭いは、しわがよっていたのだろう。しわのために「G」の下部がかくれて[C]に見え「C」のほうは、はしのはなれた部分がつながって「O」になったのにちがいない。あたしは「GIC」を「CIO」と読んだのであった。
 山岸の話だと、田代は、昭和二十二年八月二日の前の夜、奇術の会があるといって出かけたのだという。
 してみれば田代は、その奇術の会へ行く時に、この手拭いを持って行ったか、もしくは会場で、それをもらったかしたものと思われる。短刀についても、だいたい同じことが言える。形からして、これは奇術用の、何かとくべつな使い方をする短刀だとわかるのである。そうしてこの特異な柄の形が、たいへんな意味を持っていたのであった。
 賊は父が身動きしたのにおどろき、再び蚊帳へはいって父を刺した。
 その時、短刀を握りなおした賊の手つきが、あたしにはなんとなくぶきっちょうに見えた。
 それなればこそ、橋本の小父さまが左ギッチョで釘をぶつのを見ると、直ちにそれは賊の手つきがぶきっちょうだったという観念に結びつき、そこから小父さまをあたしは疑いはじめた。
 みんな違っていた!
 握りにくい二つの突起があったために、賊の手……いや、田代の手は、ぶきっちょに見えたのである。
 それから、左ギッチョという気がしたのはなぜだろうか。
 鏡に映る時計の時刻が、ウカとすると、十二時前と十二時後と、とりちがえることがあるのをあたしは思いうかべた。
 また、鏡にむかってのお化粧や髪のセットで、左手と右手の区別を意識していると、手の使いわけでまごつくことがあるのを、思いだした。
 鏡の中にある映像を、実体であると仮定したら、その映像は対照の位置において、左手が右手になり、右手が左手になってしまう。
 そうだった。
 鏡の中の映像は実体ではない。それは虚のものである。あたしは目かくしのはずれから、その鏡に映った虚のものを見ていた。そして賊は、左ギッチョだったときめてしまったのである。
 どうしたらよいのであろう。
 あたしは山岸の机の上へ身を投げて泣いた。声を、かみしめることができなかった。声を立て、泣きに泣き、それでも泣ききれなかった。
 とんでもないことをしてしまった。
 たったひとつ、山崎哲男が犯人ではなかったという、そのことだけが間違いではなかった。けれども、友野の小父さまも、犯人ではない。ましてや橋本の小父さまはそうでない。ほかならぬあたしの良人、田代守が、あたしの父を殺した男だった。
 すみませんでした。橋本の小父さま!
 すみません。すみません。なんとも申訳がございません


 あたしは、田代がほんとうに殺されたのか生きているのか、それをもう知りたくなかった。また、二度と再び、ホテルへも戻る気がしなかった。
 翌朝早く東京を立ち、父と母と小父さまとの若い時代のことを松本で調べた時、厄介になったあの浅間の温泉の静かな宿へ逃れて行き、そこで気持を落ち着けることに努めた。
 数日間というもの、不思議なくらい、世間は騒ぎ立てなかった。
 それにしてもどうしたのかと、気になりだした時に新聞は、東京港の桟橋に、身もと不明の若い男の死体が、漂いついたことを知らせた。
 記事では、寒さのせいだろう、その死体がそれほど形も崩れずにいたが、死後数日を経ていると説明した。また腹部に深さ数センチの傷がある他殺死体で、オーバーや上衣はなく、ワイシャツの胸のイニシャルも切り取ってあったが、耳のうしろに縦にならんだ小さなほくろが三つあり。ズボンのポケットにはトランプのカード、スペイドのクヰーンが、色もはげおち、一枚だけはいっていたのだと知らせていた。
 山岸のほうは、あの負傷だったし、もしかするとホテルを出てから、死んだのかも知れぬと思ったが、消息がないところを見ると、どうにかうまく、身をかくしたものらしい。あたしには、東京港の死体が田代であると、すぐにわかった。耳のうしろの、目立たないほくろを、知っていた。それに彼は、トランプの奇術が得意だったから、カードをよく持ち歩き、時々それをポケットの中で手さぐりしては、持っただけでカードが何枚あるかわかるように、指の知覚を練磨していることがあった。そのカードの一枚が、ズボンから出たのにちがいない。もちろん山岸がいったように、彼は伊川に殺されたのである。そして伊川が、犯行をくらますために、海へ持ち出して死体を処分したのである。所持品をつけておかぬようにし、縫取りのイニシャルまで切り取ったが、一枚だけトランプのカードが残った。それがスペイドのクヰーンでなくて、もしかしてエースだったら、話はも少し神秘的になったことだろう。
 あたしは、警察へ行って事情を申立てるべきか、それとも、いっそのことすべてを、そ知らぬ顔のままにしておくのがよいか、千々に心を迷わせた。
 が、きまりをつけねばならなかった。
 世間の非難は避けられない。いさぎよくその非難をうけてしまおうと決心した。
 あたしは、警視庁の高い石段を上がった。そして、あの失礼な刑事に会った。
 刑事は、今度はあたしを、「おねえちゃん」とは呼ばなかった。そのかわりに、事情を話してしまったら、
「なるほどねえ。こんなのはめったにねえことだよ、するとつまりおめえさんは、親の仇のおかみさんになっていたということになるじゃねえか」
 と、ため息をついていったが、そのあとはしんみりと、
「でも、気持はわかるなあ。よく話しにきてくれたね。ありがとう。お礼をいっとくよ。あとの調べはこっちでするよ。伊川はひっくくる。山岸もつかまえて、麻薬関係を洗っちゃう。事実が話のとおりだったとしたら、おめえさんにはべつに罪はねえと思うね。――いや、悪いといや、こっちのほうが悪かったのさ。山崎を犯人にでっちあげてしまった。おめえさんは、しょてっぺんから、山崎じゃねえらしいってこと、いってくれたのにね。面目ねえが、こいつはサツの黒星だな。――ええと、しかしおめえさんは、しっかりした気性のようだが、考えすぎて、間違ったことしやしねえだろうね。それがどうも心配だよ。いいかい。気持をしゃんとさせて、自分てもの大切にして、りっぱに生きて行こうってことを思うんだぜ。なアに世間じゃ、こんな事件は、じきに忘れてしまうもんだよ……」
 あたしを、自分の娘でも眺めるような、やさしい目つきになっていってくれた。
 まだしのこされていたことは、橋本の小父さま、みどりお姉さま、そして小母さまに、謝まるということだけである。
 謝まってもお許しにはならないだろう。
 でしたら、どうかお叱り下さい。
 千春は、ひれ伏してむちをうけます。
 そして、ただ一つ、ごろつきで殺人者の田代守と、美しくて高雅なお姉さまとの結婚を、あたしが邪魔したことだけは、せめてお姉さまの幸せだったと思って下さい。
 これで千春は、この手記を終ることにします。





底本:「昭和国民文学全集 20 大下宇陀児・高木彬光集」筑摩書房
   1974(昭和49)年2月25日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年3月25日第増補新版第1刷発行
底本の親本:「書名」出版社名
   YYYY(GGYY)年MM月DD日初版発行
初出:「サンデー毎日」毎日新聞出版
   1955(昭和30)年8月〜12月
入力:kompass
校正:
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード