情獄

大下宇陀児




 到頭、最後の時が来たようだ。
 牧田君――。
 僕は今日の新聞によって、※(二の字点、1-2-22)いよいよ当局の捜査手配が、この信州の高原にも伸びて来たのを知ったのだ。鋭い、ひょうのような眼をした刑事達が、この平和と静寂とに恵まれた温泉場へ、やがて僕を追って来るのも遠くはあるまい。
 それ前に僕は、何もかも準備が出来たのを嬉しく思う。遺産のこと、未発表論文の後始末のこと、凡ては手落なく別な遺書へ書いた積りだ。たった一つ、幼い、あまりにも幼い浩一郎のことだけが心残りだけれど、それもこうして君という人を思い付いて見れば、そう大して苦にする程のこともなくなってしまった。僕はね、君に浩一郎の将来を特にお願いして置こうと思うのだ。そして、それには僕が死を決するに至った詳しい経路を、君にだけ全部語り残して置こうと思うのだ。実をいうと、僕はこのことを、浩一郎が成人してからでも読めるように、彼への遺書の中に書き込んで置こうかなどとも思ったのだが、考えて見ると、それは非常に残酷なことであるのに気が付いたのだ。これから書き続けて行く事柄を、君がじっくりと読んで呉れゝば解るだろう。浩一郎には、何としても簡単な遺書を残すより他にはない。――僕は浩一郎が、やがてすく/\と成人した暁に於て、彼の本当の父親井神浩太郎いがみこうたろうの血を、そのままぐであろうことをのみ望んでいる。どんなにか濶達かったつな、どんなにか情味のある、どんなにか好ましい人間に彼を仕立てゝやりたいのだ。彼の素直であるべき性質を悲惨な一家の歴史によって、不必要に傷つけたりゆがませたりしたくはない。何年かの月日が経った時、彼が彼の父親そっくりの人間になれたら、あゝ、それこそはどんなに素晴しいことであろうか。
 思って見れば、僕がこの浅間の温泉へのがれて来てから、今日で恰度ちょうど一週間になる。こゝは、僕の少年期から青年期へかけての、悩ましくあわただしい時代をはぐくんで呉れた、あの古めかしい松本の街からは程近い所だ。僕があそこの城跡しろあとにある、緑色の濠に囲まれたM中学の出身だったという事を、たしか君には話したね。――あの恐ろしい出来事のあとで、僕は母の懐をしたう小児のように、ひたぶるにこゝへやって来たのだ。そして、倖せと誰にもき乱されることなく、今日が日までを静かに考えることが出来たのだ。今は夜の八時を少し過ぎたばかりだけれど、雪がどん/\と降っているせいか、常にも増してこゝは静かだ、女のく三味線の音が、つい先刻まで隣りの宿から物淋しく聞えていたが、それももうんで了ったし、耳を澄ますと、階下したの浴槽からは、深い――地の底からたぎり出る湧湯いでゆの音が、非常に静かに、まるで僕の胸へしーんとみ込むように聞えて来る。こんなにも僕の心が落着いたのは、殆んど何年ぶりのことであろうか。――あゝ、ではこのなごやかな気分の失せないうちに、僕は言うだけのことを言って了った方がいゝのだろう。気の毒な淑子刀自を初めとして、浩一郎の母親の潤子と、更に又、井神浩太郎とこの僕とが、四人共に揃いも揃って、非業ひごうな最後をげたのだ。その経緯いきさつをさえ語って了えば、僕はもう、何時刑事に踏み込まれても困りはしない。
 書きたいことは、何しろあまりに沢山有り過ぎる。それで僕は、いくら落着いているとはいっても、それを順序正しく徹底するようには書けぬかも知れぬ。牧田君、どうかその点は、君の明快な洞察力によって、充分に判読をして呉れ給えね。――出来るだけ納得をして貰うために、そうだ、僕はに角、僕が井神浩太郎と初めて相識った時のことから始めて行こう。
 それは、忘れもしない、僕があのM中学の四年生になった時なのだ。
 何でも、四月の新しい学年が始まってから、ほんの二、三日過ぎた或る日のこと、僕は朝の一時間目の授業が始まる間際に教室へ入って行って、すぐと彼を見付けたのだった。その時彼は、教壇に一番近い列の、窓に喰付くっついた席に着いていて、片肘かたひじをこうぐいと机の上にせ、ボンヤリと庭の方を眺めていたように思う。近いうちに東京のK中学から転校した男が来るという噂は聞いていたので、僕はその時、ハハン、この男がその転校生だナとはすぐに思ったが、それと同時に、一寸あての外れたような気持にもなったものだ。何故といって、当時僕はその転校生が、きっと色の白い肌理きめの細かい、そしてせ型のスラリとした美少年だろうと予想していた。都の中学生というだけのことで、すぐにそんなことを考えたのだが、そこで、見るとまるっきり予想したのとは正反対。色が黒くてクリクリ坊主で、ひどく恰幅かっぷくのいゝ男だったからなのだ。
「あれかい、東京から来たというのは?」
「うん、そうだってさ。ひどく頑強な奴らしいぜ。」
「東京にも、随分でかい奴がいるもんだね。」
真個まったくだ。どえらくビッグな奴が来たもんだよ。」
 じきに教師が入って来て、英語だったか数学だったかの授業が始まったが、僕は隣席の男とこんなことをささやかわしたものだ。要するに、これが彼の僕に与えた初印象というべきであろう。当時僕は四年級全体の首席を占めていた。従ってそのクラスの幹事をやっていた。それで、その時間が終るとすぐにこの大きな男の名前をきに行ったものだが、すると彼はやや改まった口調で、しかしハッキリと答えたのだった。
「僕は井神浩太郎です。井戸の神様の浩然の気の浩太郎です。僕は去年の夏日本アルプスへ登って、その時にこゝの中学にいる人達はとてもいゝなアと思いました。それで今度、口実を作って転校させて貰ったんです。」
 彼が、このひなびた中学へ移って来たのは、つまりそこに理由があったのだ。その頃は、松本にはまだ高等学校というものがなかった。有れば、無論そこへ入学する手段を選んだに違いないが、せめて中学の間だけでも、松本にいて見たいというわけなのだった。少しく気障きざな言方をすれば、「高原にあこがれて来た男」とそういっても勿論いゝのであろう。牧田君、君は井神のつ素質の一つを、そこにもうハッキリと見極めることが出来はしないか。

 途中から舞い込んで来たこの突飛な男が、それから後はどんな風にしてクラスの者に馴染なじんで行ったか、その管々くだくだしいことは全部省略するとして、兎に角彼は、クラス中の気受けが大変に好かった。中には、井神が東京から来たのにもかかわらず、少しく野蛮だというものなどもあったようだが、それにしても彼には、富裕ゆうふくな育ちのよい若者にのみ特有な、どこか上品で、そしてゆったりとしたところがあった。日が経つに連れて、誰も彼も井神を好むようになり、そのうちでも僕と彼とは、たった一カ月も経たぬ間に、目立って親密になったものだ。僕は生来、田舎者に似合わず華奢きゃしゃな体格をっていたが、それに対して井神は、飽くまでも立派な肩や広い胸を有った男だった。この二人がどうしてそんなに親しくなったのか、考えると少しく妙に思わぬでもないが、少くともそれを僕の方からいって見ると、僕は井神が、この野蛮とさえ見える挙措きょその蔭に、意外に情熱的なところがあるのに気が付いて、その点でも彼にき付けられて行ったのだった。それにつけても思い出すことが一つある。というのは、当時は藤村詩集というものが、僕達の胸にこの上もない感激を与えていた頃だったのだ。僕達の使った黄色い和綴わとじの国文教科書にも、その中の一篇「常磐樹ときわぎ」というのが載っていたことであるが、あの詩を君だって多分愛誦したことかあるだろう。あれは何でも、冬の広い広い原っぱに、たった一本きり立っている常磐樹の悲壮な美を唱ったものだと思う。井神が或る日、教室でそれを読み上げた時のことを、僕は今に至るまで覚えているのだ。
あな、雄々しきかないたましきかな
かの常磐木ときわぎの落ちず枯れざる
常磐木の枯れざるは
百千ももちの草の落つるより
傷ましきかな
 と、こんなような文句だった。教師に当てられた井神は、大きな手に教科書を確乎しっかりとつかんで、朗々とそれを読んで行ったのだ。読むというよりは、唱うという方に近かったかも知れない。その声は、次第に微かなふるえをびて行って、泣いているようにさえ思われたものだ。彼が浅黒い顔を上向きにして、切々とその一篇を読み終った時、僕等も教師も、一様にホッという溜息ためいきらした位だ。僕が女であったら、僕はそのことだけでも、きっと井神にれて了ったに違いあるまい。
 で、兎に角そんな工合にして、井神と僕とは※(二の字点、1-2-22)ますます親密の度を増して行ったわけだ。そうして、その年の冬が近づいて来て、槍も乗鞍も常念も、あの峻厳な一続きの峰々に、又新しく銀色の雪が降って来た頃には、僕等二人は、もうお互に家庭の事情などを、すっかり知り合ってしまう程の仲になったのだ。
 僕は、僕が貧乏な田舎の小料理店のせがれであって、たまたま小学校の成績が図抜けていたため、中学へまでは進んだものゝ、実はその学資さえかつ/\の身の上だということを話した。
 これに反して、彼は又、莫大ばくだいな財産を有する井神貿易商会の一人息子であるということや、それから今は、母親の淑子刀自と、親一人子一人の間柄であることなどを話した。
 ついでにこゝでいって置くが、井神は父親を極く幼い時に失って了って、だからそれから後は、浩一郎のためには祖母に当る、淑子刀自の手によって育てられたのだった。井神のはなしでは、この淑子刀自が一種女傑肌の人物で、良人を失った後は、その遺児の浩太郎を育てる傍ら、前からやっていたささやかな貿易商の手を充分に伸ばし、未亡人ではありながら、店の男達に勝手な口一つかせず、たちまち財産を百万近くにふやしたということだった。――もっとも、これだけの女丈夫でも、井神がこちらへ転校することについては、最初は仲々承知しなかったらしい。
「でもお前、信州へそんなに行きたいのなら、休暇にでも行ったらいゝじゃないか。」
 と、こんな風にいって、井神のその思い付きをひるがえさせようとしたのだそうだ。多分、一人っきりの子供を、片時も傍から離したくはなかったのだろう。そうして、それでも到頭井神が自分の我儘わがままを押し通した後は、時々刀自が、激しい店の方の暇をぬすんでは、この松本へやって来たものだった。来るとすぐに、その時寄宿舎にいた井神のところへ電話がかゝり、すると彼は、流石さすがに嬉しそうにしてこの浅間の西石閣せいせきかくという温泉旅館へ駈け付けるのが常だった。(僕も今、その西石閣の一室にいるわけだが、当時は、これが淑子刀自の常宿になっていたのだ。)
「お袋だ、お袋だ、お袋が来たんだ!」
 わざとらしく、彼は「お袋」などという言葉をつかっていたが、そんな風に叫びながら、彼が中学校の正門前から、特にそんな時だけ、豪奢ごうしゃにも黒塗りの馬車を呼んで乗って行く姿を、僕は幾度見送ったことであろう。時には彼が、その馬車へ僕を乗っけて行って呉れることもあって、だから僕は、もうその頃から刀自を知っていたわけであるが、それはいかにも井神浩太郎のお母さんらしい、肉づきのいい、ゆったりとした老婦人であった。
 実は僕は会う前に、一般女丈夫と言われる婦人の一種骨ばった型を想像したが、会って見ると、まるでその予想が外れていたので、前に井神自身を予想した時と同様に、一寸吃驚びっくりさせられたものだった。
「しっかりしていて優しくて、君はほんとうにいゝお母さんを持ってるね。」
 と、僕がお世辞ではなしにこういうと、井神は嬉しそうにして答えたものだ。
「うん、僕にはね、仲々いゝお袋なんだ。僕が生れてから、一年ばかりつと親父が死んで、それに第一僕はお袋がいい加減お婆さんになった時、ひょくりと生れた子供だろ? だから、お袋は僕をとても可愛がっているらしいのだ。あれで、八ヶ間敷い時にア、とてもたまらないこともあるんだけれど――」
 寄宿舎中の生徒へといって、その淑子刀自が時々素晴らしい菓子の包みを送り届けることなどもあった。恐らくは、井神が眼に入れても痛くない程の、大切な、大切な子供であったのに違いないのだ。

 牧田君。僕は今こゝまで書いて来たところを読み返して見て、僕が無闇にあの当時の追憶ばかりしているように思って了った。何故か少しく気持が苛々いらいらして来て、早く、肝腎かんじんなところを書いて了わねばならぬとも思う。が、それにしてもこゝは出来るだけ詳しく書き度い。そうしないと、後になって、僕の犯した恐ろしい所業しわざが、充分に説明することが出来なくなる。一寸待って呉れ給え。気を落着けるために、僕は一風呂だけ浴びて来よう。

 さて、何処まで書いて来たのだったけ。そう、淑子刀自がどんなに井神を大切にしていたかということだったね。兎に角それは、最後になって充分思い当ることが有る筈だから、こゝで特に詳しく書いて置いた積りなのだが、そこで一方井神は、そんな風にして二カ年の歳月を過ごしたのだった。その間に彼は、冬にはM中学を取巻いていたおほりでスケートを習い、時には諏訪湖までも出掛けて行ったし、やがて高原にも春が来て、四囲あたりの山々がそれまで雪におおわれていた紫色の肌を現わす頃になると、今度はそうした山々を手当り次第に登って歩いていたものだ。――そうして遂に、あと一、二カ月すれば、僕等の感傷的な中学時代が終りを告げようという時になったのだった。
 牧田君、君も無論記憶していることだろう。当時はたしか、中学の四年から上の学校へ行くという制度が、まだ出来たか出来ないかの頃だったね。
 そのために、自然僕等もべん/\として五カ年の課程を終えたわけだが、そこでしかし、愈※(二の字点、1-2-22)卒業の時期が来たとなると、これだけは今も同様に、僕等は皆んな自分の前途に対して、いろいろの迷いや不安を感じ始めたものだった。そしてそれは、貧乏な家に育った者にとって、一入ひとしお味気ない時期でもあるのだったが、僕も矢張りその味気ない仲間の一人であった。いや、或は僕がその味気ない仲間の筆頭であったかも知れない。僕の本当の気持からいえば、無論僕は高等学校から帝大へ進みたくて仕方がなかった。けれども、それにはどう考えても学資の方が無理だったのだ。仕方なしに、僕はどこか官費でやって呉れる所をと思って探した揚句あげく、それでもどうやら高等師範の給費生になろうとまで決心したが、それがひどく残念に思えてたまらなかったのだ。今ではそうも思わないのに、なにしろ当時は帝大万能という時代だった。一生を中学の教師として過さればならぬというのが、考えると気が狭い、涙の出るほど切なかったのだ。僕より席順の下の男が、仙台の高等学校へ無試験入学を推薦された、いや、されるそうだというような噂もあって、そんなことにも僕は堪らなく不愉快になった。数年ののちの、僕とその男との社会上の位置などを対比して見て、どんなに悩んだり口惜くやしがったりしたか知れない。
 来る日も来る日も、灰色の真暗な日ばかりが続くように思えて、卒業試験を受けるのさえ、何だか一向に気が乗らなくなって了ったのだが、するとその時だ。僕は井神の手で、思い掛けず、その暗い気持から救われることになったのだった。
 あれはなんでも、お濠に死んだこいが浮んで来る頃だったから、多分卒業式を目前にひかえた、三月初旬であったのだろう。その時僕は、中学のグラウンドの隅にある天守閣の根っこで、石垣にりかゝって、薄い春の陽射しをボンヤリと見詰めていたように思う。石垣の下にはお濠があったが、そこは冬中厚い氷が張り詰めていて、いつも春先きの暖い風が二、三日その高原の上を吹き廻すと、たちまち氷がけて行ったものだった。そしてその時になると、黄色くぬるんで来た水の面に、今いった通り、幾匹かの死んだ鯉が、白い腹を見せてポカリ/\と浮いて来たものだった。死んだ鯉は天守閣の影が濠へ斜めに落ちた境目のところで、三つも四つも重なり合い、静かに波で揺られている。見るともなしにそこへ眼をやっていた僕は、ふと、跫音あしおとを耳にして振り向いたのだ。
「あ、梶村君」
 という声がして、石垣の角を廻りながら、大きな井神の姿が現われたのだった。その時彼が、肩には写真機の箱をぶら下げ、そしていつもにも似ず、気まりの悪そうな顔をしていたのを、僕は何かしら、不審に思ったものだった。が、彼は実は僕を散々探していたのだそうで、珍らしくおずおずした口調で次のようにいった。
「君、君はねえ、高等師範へ行くといっていたようだが――」
 あゝ、そうなんだよ、と僕が負け惜しみにも似た元気よさで答えると、彼はしかし、余計に困った顔になったものだ。
「そう、それはいいね。教師になるということだって、きっといいことに違いないと思うんだ。――でしかし、君は本心から高等師範へ行きいと思ってるのか知ら。」
「あゝ、まあ本心からそうなのだ。けれど、それについて何か君は――」
 言いかけた時、僕は既に、井神の言い度いと思っていることを充分に看抜みぬいて、それでもわざと空とぼける程の卑屈さをっていたのだった。井神はいった。
「いや、別にどうしようっていうんじゃないんだけれど――そう、僕はね、とても口が下手へただもんだからいけないんだ。ほんとをいうと、僕は君が師範学校へなんか行くよりは、高等学校へ行った方が、はるかにいゝと思っているんだ。君のような頭の持主が、帝大へ行かないのは嘘だと思う。教師になるなら、大学の教師になったっていいわけだ。――あゝそれにね、怒って呉れちゃア困るんだよ。僕は君が給費生志願だってことも聞いているし、それやこれやで、昨日お袋が来たもんだから、ひょっとその話が出て了ったんだよ。そしてね、そいつを僕がいったんじゃないんだぜ、お袋がいって見ろっていっているんだ。しその気さえあるなら、何も心配することはないんだから、高等学校へ行くようにして、僕と一緒に受験したらどうだろうって、お袋がそういっているんだよ。」
 境遇から来る僕のひがんだ根性こんじょうを傷つけまいとして、井神は言い訳のようにしていうのだった。後に分ったところでは、無論井神は、自分からそのことを刀自に頼んで、僕の学資を心配して呉れたのだが、彼は、僕の自尊心を傷つけやしないかとそればかりを心配していたらしい。そして僕は、だん/\とそれを聞いているうちに、ケチな自尊心などは一気に何処かへ吹き飛ばしたくなった。
「有難う。兎に角、僕は考えて見よう。」
 卑劣にも、こんなことをいってその場だけは過したが、間もなく僕は、井神のその好意に、ようやく甘えるような態度をとり始めたのだ。
 その時の僕が、内心ではどんなに有頂天になっていたことか。兎に角僕は、そうして井神の恩義をこうむることになったのだった。
 牧田君。この好意ある善良な恩人を、この僕が遂に殺すようなことになったとは!
 そのことを。僕は今日が日まで他の誰にも話さずに隠して来た。恐らくは、僕の行方を探している、当局の人達でさえそれは知るまい。――僕は今、急に思い切り泣き度くなった。泣いたとて、あのよき友は帰って来ない。あゝ、けれども、小児こどものようにオイ/\と声を立てゝ泣くことが出来たら――。
 僕が一度入学試験のために上京し、それから又、改めて愈※(二の字点、1-2-22)東京での学生生活を送るようになったのは、そんな訳でその年の九月のことであった。
 井神も勿論松本を引揚げて了った。井神は一高の一部、(今の文科或は法科に当る)へ入学したし、僕は二部乙(今の理科だ)へ志望通りに入学したのだ。僕本来の志望は文科にあったが、これからの文学というものが、少くとも根柢こんていには科学的素養が非常に必要であるというように考えて、そこで僕はわざと理科へ入ったのだった。当時は専門学校以上の新学年が九月からで、それはまだ残暑の激しい頃であったが、僕等はあの殺風景な一高の門を、実に意気揚々として潜ったものであった。余計なことだが、その頃の僕が持っていたプライドというものは、今の人達から考えると、随分滑稽なものであったのだろう。
 で、この一高へ入学してから、牧田君、君と僕とは知合ったのだ。だから僕は、こゝで僕の一高時代を詳しく語る必要もあるまいと思う。君は更に、僕が一高から大学へ進み、それからは講師から助教授へと、とん/\拍子に進んで行って、最近では博士論文も無事に通ったことまで知っている筈だ。僕はただ、その間も井神とは最も親密にしていたということ、それから一高の時は寮にいたが、大学へ入ってから後、井神の麻布にある邸宅から、彼と一緒に通学していたことだけを断って置こう。当時僕は知識慾に渇えていて、今から考えると、痛ましい程の勉強をした。元来それ程には強くない身体からだが、よくもあれに持ち耐えたものだ。
「そんなに無茶をやると死ぬぞ死ぬぞ。」井神が時々こんなことを言ったものだが、それでまあ、大体は君の知っている通りなのだ。君に宛てゝ書き遺そうと思うのは、僕が助教授になるその前後からのことであって、しかも、これからが僕の最も語り辛いところなのだ。最初には先ず、当時の井神家、それがどうなっていたかを話して置こう。

 僕が井神を識ったのが、あのM中学の四年の時で、それからはもう十年という月日が経っていたのだ。その間には井神家にも当然何等かの変化が起らねばならない。その変化のうちで最も痛ましいことは、あの淑子刀自が生れも付かぬ癈疾者はいしつしゃになったことだった。
 あの老いたる婦人のことを考えると、僕は胸がキリ/\と痛む!
 世の中にはあんなにも善良な、あんなにも気の毒な婦人があるであろうか。あの老婦人こそは、僕を井神同様に庇護ひごして呉れた人だった。そして又僕も、母或いは母以上に慕っていた人だったから。(僕は、※(二の字点、1-2-22)ますます済まないことをしたことになる)その善良な淑子刀自に、いったいどうしてあんな不幸が降りかゝったのだろう。それは僕等が大学の二年を終ろうとしていた頃であったと思うが、彼女には最初軽い中風ちゅうぶの発作が起った。そうしてそれが、だん/\に悪くなって行ったのだった。それも、普通の程度の中風であったらまだよかったものを、そうして次第に病気が重なって行った時、彼女は根が気性だけは確平しっかりしていた人なのだから、或る時附添いの看護婦の眼を偸んで、無理矢理一人歩きをした揚句、縁鼻から泉水の中へ、ドッとばかりにち込んだのだった。中風患者にとって正にこれは致命的なものなのだ。じきに女中が見付けて助けたため、命だけは辛くも取止めたものゝ、このことは急激に病状を進ませる基となった。俗に女の中風は右半身、男は左半身などといっているようだが、この場合彼女は、忽ち全身不随になって了ったのだ。
 それは、井神家を見舞った最初の大きな不幸だといえる。同時に又、どうすることも出来なかったことだといえる。あれだけ男まさりであった女丈夫が文字通り、生けるしかばねに変ったのだった。中風から来た痳痺まひのために、咽喉のども舌も、カラ/\に乾いた軍隊靴のように固まって了って、一口もしゃべれなくなって了ったのだった。
「何という可哀想なお母さんだ! 一生涯を働き通して、老後の楽しみというものを見ないうちに、あんな身体からだになって了うとは!」
 井神は、愚痴のようにして、それを僕に言い言いしたものだった。そして僕も刀自が気の毒で堪らなかった。僕は自分の部屋で(断るのを忘れたが、刀自が全く癈疾者になった頃、僕等はもう大学を卒業していた。そして僕は、もう充分に自活出来るようになっていた。が、それにも拘らず、まだずる/\べったりに井神家へ寄食していたのである。そこがもう、まるっきり自分の家のような気もしていたので。)何か読書でもしている時、刀自が輪のついた肘突ひじつき椅子へ載せられて、邸内の長い廊下を静かに押されて行くところなどを見たものだが、そんな時に僕はふと、それを人間ではないような気がして仕方がなかった。食物の工合で、全身へむくみの来た時などは殊にそうだった。あおく土気色にふくらんだ顔の中に、ドンヨリした小さな眼が、僅かに生きていることだけを示すように、ッと一つ所を見詰めていて、せい/″\のところ不細工に出来た人形か、或いは又、椅子の上へドサリと置かれた、荷包みのようにしか思われなかった。
 井神が、椅子の上から刀自の方へかぶさるようにして。
「お母さん、歌舞伎の新しいレコードを買って来ましたよ。一つかけて見ましょうか。」
 などといって見たり、或いは又、ラジオの演芸放送などを掛けてやったり、そんな場合に僕等はこの生きた屍のあらゆる表情を読み取ろうとして苦心したものだった。残酷なようではあるけれど、鏡に日光を反射さして、それで刀自の顔を照らしたこともあった。何か考えるだけの力はあるのか、いや、それよりも眼と耳だけは役に立つのか、それを確かめようと思ったのだった。そうして、だが悲しいことには、それすら更に分らないのだった。刀自は眠る時にはまぶたを閉じた。そして医者は、視力はまだ有るらしいといった、けれども、いつもその視線がボンヤリしていて、少しも動いては呉れないのだった。
 井神の気質が元来は非常にこまやかであるということが、それで余計にいけなかったのだが、彼はだん/\に濶達なところを失い始めた。母親が自分の嘆きを、少しも訴えることが出来なくて、只凝ッと自分一人の胸の中にしまっているのではあるまいかと、そう考えるのが彼には一番堪らない風であった。
「思考力が全然無くなっていると分っておればいゝのだけれど――」
 と彼はいった。そして、時には長い時間に渡って、母親と二人きりじっと一室に閉じこもり、何かの反応を試しているようなことがあった。しかも、その度に失望し切ってその部屋を出て来るのだった。
 井神家は、次第に重苦しく暗くなって行くように見えた。危く、ポウの「アッシャア家」にも似た陰鬱さが襲いかゝった。
 そうしてこの時、井神にふと結婚の話が持上って来た。それが、あゝ、何よりも大切なことであったのだ!

 牧田君。――僕は君が、井神の結婚披露式にたしか出席したと記憶している。それで、あの結婚については、外面的に表れたようなことは、なるべく話すのを止して置いて、こゝにはむしろそれ前のことを少し話した方がいゝと思うが。元来これはこうして淑子刀自がまだ全くの癈疾者にならぬ前にも、一度起った問題なのだった。
 中風にかかった刀自が、そうなって見ると、急に井神家の行末のことが気になったり、又は孫でも生れたら、病気の退屈さが幾分かまぎれるなどと思ったのだろう。刀自は、その頃は、まだ不自由ながらしゃべれる口で、そのことを井神に勧めたのだった。そうして、けれども井神は、この時はまだ大学を出たか出ないかという時であったし、それに対しては殆んど全く無頓着だった。それで話はすぐに立消えになったものだった。刀自が癈疾者になった後は、今度は僕が二、三度勧めたこともある。が、矢張り同じ結果になっていたのであった。
 それを、或る日ふいに彼の方からいい出したのだった。
「君、僕は結婚しようかと思うのだがね。」
 と彼がいった。
 そして僕は、思わず「ほう!」といった。「珍らしいことをいうじゃないか。いゝね、結構だね。ナニかい。気に入った人でも見付かったのかい。」
「まアそうだ。一寸他所よそから勧められてね。」
 彼は明るくニコ/\した。そして一枚の写真を取り出して見せた。
「一つ、遠慮のない批評をして見て呉れよ。これがその候補者なんだ。」
 僕はその時、愈※(二の字点、1-2-22)そうなったとすると、僕もこゝを立退かなくてはならなくなるぞ、とそんな風に冗談をいった。そうして、彼の手から受取った写真を、巻莨まきたばこかしながら眺め入った。それが、僕も初めて潤子の顔を識った時なのだ。
 写真で見ても、それは惚れ惚れするくらい美しい潤子なのだった。いくらかせ型ではあったけれど、右上からの光線が彼女のなま/\とした輪廓を、黒い背景から夕闇に咲く花のように浮ばせて、ぼかしたような美しい眉毛と、その下に見開いた蠱惑こわく的な瞳と、更に耳から頸筋くびすじへかけての微かに息づいているようになめらかな線と、それはどうしてこんな美しいものがあるのかと思われる位、不思議に美しい潤子なのだった。
「どうだい、羨ましいだろ。」と井神がいった。
「うん、とても羨ましいよ。」と僕が答えた。
 無論僕は、それを出来るだけ冗談めかしていったのだった。井神も矢張り冗談の積りで聞いたのだった。常にこうしたことは起り勝ちなのに、最初の大切な瞬間に於て、誰もそれを意識しないというのは、いったい、何というり性のない人間なのだろう。既にその時、僕はチラリと嫉妬しっとの念を感じながら、殊更に嫉妬ではないと思ったのだった。井神がそれを、気にさえ留めなかったのは是非もない。彼はそれから後、どし/\と話を進行させた。そして間もなく潤子を迎えた。――井神家へは、こうして凡ての恐ろしいことの根源が、ひょいと乗り込んで来たわけなのだった。
 我々は、最初それに殆んど気付かずにいた。前にいった通り、危くポウの「アッシャア家」になろうとしていた井神家が急に明るく美しい「アッシャア家」になったことも、兎に角事実であって否むことは出来ない。一年半の後に、浩一郎が生れてからは猶更なおさらだったが、結婚当座も井神は非常に幸福だった。潤子は面と向って見ると、写真よりも一層立ち優って美しかったし、それに高尚で聡明そうめいだった。少くとも僕にはそう見えた。殊には、結婚してから一週間ばかり経った時、井神が嬉しそうにしていったことがある。
「君、意外なことが起った。この結婚のためにね、母が確かに幾分か元気付いたのだ。――つい昨日になって発見したが、あれがね、僕と一緒に母の前へ立った、母の眼に、今まで見たこともないような輝きが現われたのだ。――可哀想に、全く無意識じアなかったんだ。そして、淋しく思っていたに違いないんだ。が、それにしても母は喜んでいる。母の笑顔を見るなどということは、もう全く望みのないことだと思っていた。それが、こうして潤子が来て呉れたばかりに、母を喜ばせることが出来たのだ!」
 僕は、淑子刀自の表情の変化を、そう注意してはいなかったせいか、それをハッキリと認めることも出来なかった。が、実際井神は、そのことで余計に幸福であったらしい。そうして僕も(こゝでこんなことをいうのは、いかにも弁解めいて見えるかも知れない)矢張り幸福だった。最初に感じたあの嫉妬を、まだそれ程ひどいものだとは思わなかったし、何よりも家の中が明るくなったので嬉しかった。只一ついけなかったことといえば、それは僕が、相変らず井神家に寄寓きぐうしていたことでもあろうか。自分では引揚げようと思ったのだが、井神がどうしてもそれを承知しなかった。そして僕を、彼等の楽しい団欒だんらんの中へ、いつもいつも招待していた。誘われゝば僕も断われなかった。団欒の席では、彼女がもすれば文学の話を持ち出した。それに対して、主として対手になるのは僕だった。分るだろうが、その頃井神は貿易の方を自分一人の肩に背負っていた。それは傍で見ていても、非常に忙しい仕事であった。そのため彼は自然文学などとは次第に縁が薄くなり、只、僕と彼女との会話を、ニコ/\して聞いているようになった。彼女がピアノで新しい作家のものをく時などにも、その批評が出来るのは僕であった。
 僕は楽しかった。そうしてその楽しみの蔭に、徐々によこしまな恋が成長して行ったのだった。
 一月の後であったか、それとも半年位も経った時であったか、僕はふと、いつも僕が彼女のことばかり考えているのに気が付いた。これはいけない、と思わぬではなかった。が、それでも猶、彼女の幻は執念深く僕の頭にこびりついた。時として、終夜僕を眠らせないようなこともあった。
 それが一番ひどかったのは、彼女が身重になった頃だと思う。恥かしいことだが打明けて置く。その頃僕は、ひどい不眠症を幾日か経験した。寝床の中で夜っぴて輾転てんてん反側した。彼女の姿態を、或いはその悩ましい断片を、無残に頭の中でひねくり廻し、暁方になって漸く不愉快な眠りに陥ちた。
 その時僕は、一方では心から彼等の結婚を祝福する、仲の好い友達であったのだった!

 牧田君。――僕は今、こゝで当時の僕がどんなに苦しんだかということや、それから潤子が浩一郎を生み落して後、何か知ら、少しばかり様子の変って来たことなどについて、猶詳しく説明する必要があるように思う。
 が、実は今、急に又気が落着かなくなって困っているのだ。
 というのは、僕はね、前のところまで書きかけて置いて、廊下の外れにある二階の便所へ行って来たのだ。宿はもうすっかり寝しずまっているし、四囲あたりは非常に静かなのだが、(恰度午前二時になっている)すると僕は、その便所の窓から何気なしに外を覗いてギクリとした。そこは、もう雪がんで了って月が出ていた。そうしてその月明りの下で、二人の男が宿の裏手にたゝずんで、じっとこちらを眺めている様子なのだ。
 別に、何でもないかも知れない。が、或いはという気持もある。
 何しろ、時間がもう遅いのだし、変だといえば変なのだ。刑事達が、何かの手蔓てづるで僕のこゝにいることをぎ付けて、見張りをしているのではないだろうか。そして僕を強暴な一般殺人者並に取扱って、あるいは何かの画策をしているのではないだろうか。
 兎に角僕は、ペンがふるえて仕方がない。僕は、僕が井神を殺すようになった時まで、非常に煩悶はんもんをしていたのだし、しかも、それは決して前々から計画したものではなかったということを、呉々も書いて置きたいのだが、何だか、ゆっくりとそうしている暇がなさそうなのだ。
 あの刑事達が、今にもこゝへ踏み込んで来たら――。

 大丈夫だ、牧田君。――今僕はもう一度行って見て来たが、恰度あの二人が、電車線路の方へ肩を並べて立去るのを見て来た。
 そうだ、僕は偽名をしているのだし、こゝへ来てからは、宿の人間以外、滅多には人に顔を見せない。同じ中学の出身者が、この附近では、小学校の校長などにもなっているが、誰にだってまだ気付かれてはいない筈だ!
 乱筆になるかもしれないけれど、兎に角先きを書いて行こう。
 苦しんで――いけない、どうも胸がおどって困る――それから、まアだん/\にそんな恐ろしい機運がかもされて行ったわけなのだ。
 今いった通り、殺そうなどとは、少しも考えていなかったのだが、そこで、浩一郎が生れてから三月ばかり経った時だと思う。その時、僕等は箱根へ遊びに行くことになったのだった。最初は、僕が一人きりで行く積りだったが、すると井神が一緒に行こうといい出した。同時に潤子が、その時はもう産後がすっかり健康になって、以前と同じように美しくなっていたが、自分も矢張り一緒に行くといい出した。
 いったい、二人が先きにそれを言い出したのなら、僕は無理にでもその同行を断ったのだ。が、それがこの場合、さかさであったのが何よりいけない。まだ紅葉には少し早い秋だった。――三人は、僕がそれをいい出した日の午後すぐに出掛けて、この日の夕方、兎も角小湧谷こわくだにまで行って泊ったのだった。
 この小湧谷へ泊った夜のことも、実は少し書きたいように思う。宿は美河屋ホテルで、僕等は、二階の、眼の下にはホテルの広い庭から続いて、深い谷をずっと瞰下みおろせる、一番隅っこの部屋へ陣取った。そうして、そこで、一晩を明かす間に、確かに僕は、潤子に或る変った挙動のあるのに感付いたのだ。が、こゝではそのことを省略して置いて、すぐ翌日のことに移ろう。美河屋から朝の十時頃、ゆっくりと歩き出した僕等は、わざと自動車を避けてあしの湯から元箱根へ行った。そして芦の湖を渡って湖尻うみじりへ出、それから大湧谷おおわくだにへ行く途中、日が暮れても了ったのだし、急に霧が巻いて来て、天候もひどく怪しいので、尼子温泉の春明館へ泊ることになった。
 その春明館へ着く前に、僕等三人の間には、ふと、非常に愉快な明るい気分がいて来たことを覚えている。あそこは、湖尻から始まって非常に急な坂道だ。暗い杉の間を抜けて、湿った狭い道を歩くのだ。ところが、井神は背も高かったがその頃もう重役タイプに肥って了って、その坂を登るのがあんまり楽ではなかったようだ。それで彼は、途中から、「ヨイショ、ホラ、ヨイショ」と掛声を始めた。すると、先頭に立っていた洋装の潤子が、それを面白そうに真似をして、「ヨイショ、ホラ、ヨイショ」といった。到頭僕までもその仲間になって、三人が交る交る、ヨイショ、ヨイショ、といって進んだものだ。
「意気地のない肥っちょさん、あたし、あとから一つ押したげましょうか。」
 潤子はそんな風にいって井神をからかったりなどした。その間だけ、僕は非常に愉快で、彼等の最もよい友人のような気がしていたのだった。
 そこで、あの春明館という温泉宿は、君も泊ったことがあるかも知れない、位置が不便なため、泊り客はいったいに少いらしいが、何もかもが非常に古風で、大変にいゝ宿屋なのだ。未だに、黒光りのする台ランプなどを使っていて、それに宿の人達も純朴だ。温泉の質が硫酸アルミニウムか何かを含んでいて、それが大変に眼の病気に利くというので、宿へは眼の療治に来ている人が沢山ある。この人達は、自炊でもやっているのか、妙に汚ならしくて不愉快だが、その他は箱根で第一等の温泉だと思う。僕等はそこへ着いてから、取敢とりあえず一風呂浴びて、それからしばらく雑談をした。食事はあまり上等ではなかったが、おなかいていたため充分に食べた。方々の温泉の比較論が出たり碁をやったり、それから潤子は、麻布の家へ乳母に預けて来た浩一郎のことを、流石さすがに初めての母親らしく、一寸口へ出したりなどした。
 やがて、そこへは背の低い色の黒い男が例の台ランプを運んで来て、ついでに床をべて行った。
「あたし、障子の傍へ寝るのは厭よ!」
 するとその時、潤子がひょっとそういったのである。僕も気が利かなかったのだが、三人の寝床は同じ部屋の中に並べてあった。僕は、寝床が出来ると同時に、すぐにもう一番端の、壁の傍のところへ潜り込んでいた。
 潤子が障子の傍が厭だとすれば、彼女の位置は自然僕と井神との真中になる。
「どこだって構やしないや。勝手なところへ寝るとするさ。」
「じアあたし、こゝにするわ。あなた、障子の方へ寝ていてね。――霧が巻いていて、何だか怖いわ。」
「怖いことなんかありゃしないさ。まア一つ寝転んでから、話しながら眠っちまおうよ。」
 実際、その夜の霧はひどかったらしい。廊下の硝子戸を透して見ると、例の眼病の湯治客がいる別棟の方は、たった五、六間しか離れてはいないのに、その燈火が、正体もわからずボッとしていた。
 隣室にも一組の客がいて、これはじきに眠ったらしい。間もなく僕等は、井神のいったようにして、ランプのしんを細くし、何かと思い出すまゝに、ポツリ/\と話し始めたのだった。
 ――今、犬がしきりに吠えている。待っていて呉れ給え。一寸見て来てから書き続けるから。

 別に何事も無かったようだ。自分ながら滑稽だね。僕は現在、刑事などをそう恐れている積りはないのだが、妙に気になって仕方がないのだ。犬もしかし、もう吠えなくなった。では、あの恐ろしい夜のことを聞いて貰おう。

 で、そんな工合にして寝床の中で無駄話を始めてから、最初にすこやかな鼾声いびきを立て始めたのが井神であった。
 続いて、潤子もスヤ/\と眠った。只一人、僕だけがどうしても眠れずにいたのだった。
 潤子の、規則正しい息使いが、軽く僕の顔まで伝わって来た。そして、二度三度、つばみ込むように、微かに唇を動かす音がした。
 たったそれだけのことでもって、既にもう僕は、あえぎ喘ぎのたうったのだった。僕の体内にあるあらゆる血潮は野獣のようにたけり狂い、凡ての破廉恥、凡ての狂暴さに乾き切って了った。妄想もうそうがあとから/\と湧いて来て、僕は泥に酔いしれたようになって了った。
 それだのに、あゝそれだのに、やがて彼女は寝返りを打った。そしてその拍子に、暖かいなめらかな足を、つと布団の端から覗かせた。その足頸あしくびの重味が――いや、重味などはなかったのだろう。只、僕がそう感じただけに過ぎなかったのだろう――その重味が、僕の着ている布団の端へしっとりとかゝった。
 僕は、汗ばんで来て、胸が痛くなって了った。頭の中では、絞め殺すようにその足頸を抱きしめていた。声を立てられる恐れがなかったなら、僕は武者振りついて行ったかも知れない。実際、僕は井神と潤子との寝息をうかがいながら、布団の中で身体を醜怪な生物のように折り曲げて行った。
 その時である。僕は突然ガバと跳ね起き、衣桁いこうにかけてあった手拭いをつかみ、狂人のようにして廊下へ出た。その廊下は曲り角毎に台ランプが置いてあって、中央の階段をはしり下ると、庭を横切る渡り廊下へ出、それから湯治客のいる部屋の前を通って、主な建物とは別棟になっている、浴槽まで続いていた。僕は、夢中でふら/\しながら、その長い廊下を通り抜け、いきなり、浴槽の中へ飛び込んだのだった。
 その浴槽は、大体三つの仕切りから成立っていた。一つは前に特別貸切り風呂にしていたという、厚い石の壁をめぐらした浴槽で、他の二つはその横に並んで、一方が岩ばかりでたたんであり、一方が浴槽の縁だけを木造にしてあった。
 僕の飛び込んだのは、そのうちの岩で畳んだ奴であって、水晶のように澄み切った湯で、一寸見たところでは浅そうだったが、実は充分に首のとこまで深さがあり、泳ぐことも自由に出来た。前面には、赤味を帯びた大きな岩がのしかゝるように突き出していて、その岩の中途から、美しい湧湯いでゆしたたり落ちている。ドブン、とその中へつかるや否や、僕は激しく頭を振った。そして我武者らに暴れ廻った。幸か不幸か、その時誰も他には入浴者がない。あゝ、それが又、猶更いけないことであったのだ!
「あ、矢張りこゝへ来ていたのか。」
 背後うしろから、突然にそう声を掛けて、井神がのっそりとそこへ入って来たのは、それからものゝ七、八分経った時である。
「うん、急に眼が覚めたものだからね。」と、僕はハッとしながらり気なく答えた。
 その間に、井神はガバ/\と湯を鳴らせながら同じ浴槽の中へ首まで浸った。
「いゝ湯だね。――僕もね、今ひょいと眼が覚めて了ったんだ。あいつ、ぐっすり眠ってるもんだから、そっと抜け出して来たんだよ。」
 だが、僕は何か訊かなくてはならないように思って、しかし何も訊けなかった。
 そして僕等は、温泉のほんとの気分は深夜に限るなどと話し合ったり、狭いところを泳いだりした。
 その浴槽と、前にいった木造の浴槽との間には、水面の上だけが板張りで、水面下は厚い石で築いた間仕切まじきりがあった。その間仕切りには四角な穴が明いていて、二つの浴槽の湯を連絡している。次第に気の落着いて行った僕は。やがてその穴を潜って隣りの浴槽へ泳ぎ出して見た。
 これはほんの面白半分でやったことだが、井神は大変に吃驚びっくりしたらしい。
「や、君アいったい、どこからそっちへ行ったんだい。」
 と彼がいった。彼は、水面下の間仕切りに、そうした穴が隠されているのを知らないのだった。壁越しに僕が答えた。
「穴があるんだ。湯の中へ潜って見給え、こゝだ/\。ほら、僕の手が出ているだろう。待っていたまえ。僕が今、潜ってって見せる。」
 僕はそこで、一度井神のいる浴槽へ移り、それから又、ずーんとその穴を潜って見せた。実に愉快な遊戯であった。
「へえゝ、面白い穴があるんだねえ。」
「先刻こゝへ着いた時にね、子供がこいつをやっていたんだ。」
 又しても壁越しにこういっていると、その時僕は、井神がボショボションと音を立てゝ、湯の中へ潜ったのを知った。
「来るのかね。」と僕はいった。が、その返事は無論無かった。そしてすぐに僕の脚下へ、透明な湯をき分けて、井神の首がニュッと出た。
 その首は、最初確かに顔を下に向けていた。従って僕の眼には、彼の毛の生えた後頭部とたくましいくびや肩だけが見えた。勿論それが水面下である。そして又、透明な湯の中である。僕は、それを妙に面白い観物みもののように思って見ていたのだが、そのうちに漸く気が付いた。
 最初には、その下へ向けた井神の首の根っこから、耳の両側を抜けて、ブク/\と泡が浮いたのだった。そして、井神の首がじり/\と上へじ向けられたのだった。――そして何しろ、時間が長くかゝり過ぎたのだった。
「いけない!」と僕は思った。
 僕には易々と通り抜けられる穴であっても、肥大な井神には、穴の幅が足りないのだった。
 その時、井神は辛くも顔を半分だけ上に向けていた。そして大きい泡が、四つも五つも浮いて来ていた。
 恰度ランプがその間仕切りの真上にかけてあって、そのために、井神の顔はよく見えた。眼を大きくみはり、頬を歪めて、唇をパク/\と動かした。
 助けを呼ぶ積りであったのだった。そして、それは決して声にはならないのだった。
「待て! 待て! 確乎しっかりしろ!」
 僕はすぐに手を出した。少くとも、押し戻すか引摺ひきずり出しさえすれば、助けることが出来ると思った。
 だが、人間にはどうしてこんな危急な場合に、他のことをほんのチラリとても考えるだけの余裕があるのだろう。
 僕は、そうして手を出した瞬間に、この浴槽には今誰も他にはいないことや、潤子が何も知らずに眠っていることや、いろ/\のことを電光のように思い出したのだった。
「確乎りしろ!」と、もう一度僕は叫んだ。けれども、これと一緒に、一旦湯の中へ突込まれて、既に井神の肩まで届いた僕の手は、殆んど悪魔のような意地の悪さで、そろり、そろりと引込められて了ったのだ!
 それから後に起った事柄は、思い出しても僕はゾッとする。声のない悲鳴を挙げている井神の顔を、あゝ僕は、とても自分の口からは語り得ない。恐ろしい僕だった。残酷な僕だった。
 最後の泡が、ポツリと小さく浮んで来ても、僕は身動きも出来ずに眺めていたのだ。眼を見開いたま犬歯をき出したまゝ、井神が静まり返って了った時、僕は漸く我に返った。
「到頭やった!」
 わざと落着き払ってそういって見た。気が付いて見ると、手拭は岩風呂の方へ置いて来てある。大急ぎで外から廻ってそちらへ行き、石段の上にあった手拭も碌々ろくろく絞らず、盲滅法に身体を拭った。湯の中に、こちら側からは、井神の下半身が、巨大な水底の虫のように、妙に白々と沈んで見えた。僕は狼狽あわてゝ眼を外らし、それから褞袍どてらを引っ掛けて廊下へ出た。更に又、気が付いて特別風呂の方も覗いて見た。
 そこには矢張り誰もいなかった。そして、自分達の部屋へ帰る廊下でも、一人も出会でくわしたものがなかった。
 部屋では、そっと障子を開けて見ると、潤子が軽くいびきを立てている。そのまゝ、僕は大胆にも寝床へ潜り込んだ。
 面白半分に始めたことが、何という奇怪な遊戯に終ったのだろう。そして、なんという恐ろしいことを僕はして退けたのであろう。助けなかったということゝ、殺して了ったということと、その二つの言葉の間に、いったいどれだけの違いがあるというのだ!
 牧田君。――話はまだそればかりでは決してない。一旦自分の寝床へ潜り込んだ僕は、しかし、それから間もなく、突然むっくりと起きあがったのだ。それは、まるで物にかれたような気持だった。そうせずにはいられないのだった。その時潤子が、井神の非業ひごうな死を知らずにいたことは、たった一つだけ彼女のために弁明してもいゝ。が、それにしても意外だった。彼女は、最初眼を覚ました瞬間だけ、ハッと驚いた風だった。
 僕は一言も口を利けなかった。彼女もまた無言だった。
 窓が白々と明るくなって来た時、宿では初めてガヤ/\と騒ぎ始めた。
 湯治客の一人が、井神の死体を発見したのだ――。

 それからの騒ぎは、これは当時の新聞にも出ていたし、君もよく覚えていることだろうが、大体に於て、これは新聞の記事通りだったといってもよい。
 要するに、僕は、出張して来た警官に向って、少しもそれを知らずにいたなどゝ答えたものだ。一晩中ぐっすりと眠っていて、井神が寝床から出て行った時のことさえ覚えがない、とこんな風にいったものだ。潤子も、僕と同じように申立てたものだったが、そこで現場には少しも他殺の形跡などないのであった。それで、結局は誰もいない所で井神が面白半分に穴を潜って見て、そのまゝ死んだのだろうということになったのだった。
「危険な穴だナこれは――。誰でも一寸やって見たくなるて。」
 警官は最後に、湯を掻い出したあとの穴をのぞいて見て、感心したようにいっていた。そして、何もかも無事に済んで了ったのだ。
 が、そこで一方、この時の僕の潤子に対する考えは、到底簡単には述べ尽されぬものがあったのだった。彼女と僕との間にかもしだされた危険極まる秘密と、それから井神の突発的な災難とが、非常に微妙な複雑な関係をっていたのだ。彼女がその夜、僕の浴槽へ行ったことを、少しも気付かずに眠っていたのは、後にも話す通り事実だった。けれども、僕としてはそれを第一に不安に思わずにいられない。少くとも、僕が浴槽で井神と一緒だったことは隠さねばならぬし、それにまた二人が共に世間へは嘘をいっているということゝ、僕自身彼女へは特別の嘘を吐いているということゝ、この二つをハッキリと区別して置かねばならないのだった。
 僕は潤子に向って、僕が井神の寝床の空になっているのを知ったのは、潤子が眼をさます、ほんの少しばかり前のことだったといって置いた。が、その僕の言葉が例えば嘘ではなかったにしろ、二人は、少くとも、そうして潤子が眼をさまして了ってからは、当然井神が寝床を空にしているのを、確かに知っていた筈なのだった。それを世間へは、宿の方で騒ぎ立てるまでは、二人共にぐっすり眠っていたように見せかけたのだった。
 それをハッキリと頭の中で区別して置かないと、何だか錯覚を起しそうで、一言でも言いそこなったが最後、少くとも潤子からは忽ち看破みやぶられて了うように思った。そしていっそ潤子だけには打明けようか、とも思った。が、仮令たとい二人の間にいかなる秘密が生れたにしても、これだけは打明けるわけに行かなかった。その日からかけて一週間ばかり、僕等は人の多勢いるところでは極めて何気ない風を装っていたが、どうかして潤子と僕との二人だけになると、共に押し黙ったまゝ当惑していた。そして、出来るだけ、そうした機会を避けるようにしていた。視線のカチ合うのが、奇体に恐ろしく思えたのだった。
 で、検屍けんしを無事に済ましてから、井神を急病の体にして麻布の本邸まで連れ戻ったのがその日の夜だった。そうして葬式は二日の後に行われたのだった。
 その時、一番問題になったのは、あの気の毒な淑子刀自にどうしてこれを知らせるかということだった。集った親戚なども、皆刀自に深い同情を寄せていて、見るに忍びないというものが多かった。が、そこでいろ/\に頭をひねった揚句あげく、これは何も知らせない方がよいということになったのだった。刀自には、何も分るまいというのだった。若し意識が有るにしたところで、誰もそれを認めることが出来なかったし、それにはまた、親戚の一人が次のようなことを考え出した。つまり、刀自の手前だけを、井神が急な用件で外国へ行ったことにするのであった。これには誰も彼も賛成して、聞えるか聞えないかは分らないながらも、刀自の耳に口を寄せて、そのことを潤子が大声に告げて見たりなどした。それがこの際最良のやり方のように見えたのだった。たしかその時には君も見舞に来ていて呉れて、二人で、痛ましいことだと話し合ったように覚えているが――。
 兎にも角にも、それで刀自のことが一段落付いて了うと、次は遺産のことや浩一郎のことなのであった。君も知っての通り、こんな場合に実は非常にゴタ/\して来るのがこの問題なのだ。それについて僕は非常に心配したが、案外面倒なく片付いたというのは、親戚のうちに物の解る人が多かったせいだと思う。即ち、財産は凡て潤子と浩一郎とに与えられることになったのだった。浩一郎が当然嗣子だったからなのだ。それが決ると、今度は※(二の字点、1-2-22)いよいよ僕の番だったが、僕は遠慮してすぐに井神家を引払った。そして約一ヵ年の間、別な家に起居していた。その期間に於て、僕が死者狂いの勉強をし、論文をいくつも書いたことを君も知っていよう。それは、僕が自分のしたことを忘れようとして、科学に全身をぶち込んだときなのだ。苦しかったけれども、どうにかそれは忘れることが出来そうなのだった。
 罪のことばかりではない。実際僕は、潤子のことも殆んど思い出すことがなくて、そうして一年余りを過したのだが、するとその時、再び僕の気持がぐらつき出して了ったというのは、何という意気地のないことだったろうか。
 それは後で訊いて見ると、潤子の方から切り出したというのであった。が、兎に角、突然に僕を浩一郎の後見人にしようという話が持上ったのだった。親戚の間に相談があって、その結果故人の親友を井神家へ入れようというのであった。しかもそれには、潤子の財産と浩一郎の財産とをハッキリ区別して置いて、その上で僕と潤子とを結婚させるという条件があったのだった。
 牧田君。君は僕の気持が非常に不明瞭なのを焦躁もどかしく思うだろう。
 だが正直にいう。僕はそういう話が持上って来ると、忽ちもう、その方へ引摺られて了った。折角、学究の途へ進みかけたのが、一遍にその気持をくつがえされて了った。悪運が強いのだナ、よし、悪魔のお弟子になってやれ、とそういう腹を決めたのだった。
 僕は大胆不敵にも、こうして再び井神家へ乗り込んだのだ。潤子は矢張り、いや、前よりも美しくなっていた。そして、情慾で身を火照ほてらしていた。
 牧田君。――僕はこうして恋と財産とを一緒に掴むことが出来たのだった。悪漢だ、言語道断だ。そこに、もう一つの恐るべき破局が待ち構えていたのは、むしろ因果応報というべきだろう。あゝ、僕は漸くにしてそれを語ることが出来るのだ。――が、そうだ、その前に一寸見て来ねばならない。
 今、宿の玄関では、何か人声がしているのだ。
 いけない! 確かにそうだ! 階段を誰か人が昇って来る! 牧田君。――来た。到頭来た。刑事が二人やって来た。
 そいつらが、各室の泊り客を調べに来たのだった。幸にして僕は、ひげり落していたせいであろう。気付かれずに済んで了った。田舎の刑事は、案外甘いもんじゃあないか。
 では、先を書き続けることにして、しかし危険だから少し急ごう。電燈を消して、寝たような風を装って、射し込んで来る月明りで書いて行くんだ。刑事の奴、漸く帰って行ってしまったらしいよ。
 で、そういう訳だったんだ。

 僕は全く図々しく構えて、浩一郎のパパちゃんになって了ったんだ。が、そこでふと、一つだけ新しい恐怖を発見した。
 井神家へ乗り込んでからじきであったが、僕は、図らずも淑子刀自が僕等の秘密を気付いているのではないかと考えた。
 理由はなかった。刀自があまりにも無表情だったので、その瞳を覗くことが怖かったのだ。その生きた屍をじっと眺めていると何か知ら、ゾク/\と身に迫るものがあったのだ。親子というものは争われない。生気を失って、奇妙にふくらんだ刀自の顔に、僕はあの井神が水の中で苦悶していた、死の刹那せつなむごい表情さえ思い出したのだった。潤子にも無論これは話さず、僕の胸一つに蔵って置いたが、理由のない恐怖であるだけに、又動かない凝視であったが故に、それは余計に僕をおびえさせたのだった。
 恐ろしかった。実際それは恐ろしかった。逃げ出したいことが幾度かあったよ。
 いけないナ。どうもいけないナ。すぐにも又刑事が引返して来そうな気がするのだ。
 牧田君。――飛ばすよ、うんと飛ばすよ。

 それで、そうしているうちにだ、僕は一方に於て、潤子が思いもよらぬ妖婦であることを知ったんだ。
 彼女が、井神のまだ生きていた頃から、僕に対して特別な感情をっていたらしいことは、君にももう大体は分ってるだろう。多分彼女は、井神をも愛していたのかも知れなかったが、同時に僕をも愛していたのだった。――いや、そういってはいけない。愛していたのではなかった。彼女は好奇心を有っていた、とこういった方が当っているのだ。
 小湧谷の美河屋へ泊った晩にもそうであったし、春明館では殊更にそうであった。そして、僕が彼女のそうした性格を漸くハッキリと知ったのは、僕等が公に結婚してから。一年ばかりった後だった。
 僕の家へは、僕が学校へ出ている関係から、若い人達が沢山出入していた。それが彼女の好奇心をあおったのだった。
 簡単にいうが、彼女は、それが純潔な青年であると知ったが最後、たちまちその青年の心をとらえて、いろ/\にもてあそんでは楽しんだのだ。それがどの程度まで進んだのか明白ではない。けれども、少くとも日本の家庭として許すべからざるところまでは確かに行った。学生を三人も四人も連れて芝居へ行ったり、その帰りには、酒場バーへ寄ったといって赤い顔などをして帰った。僕に隠れて、ダンスホールなどへも行ったようだ。
 自然僕等は、そのことについて幾度も言い争わねばならなかったんだ。女中や書生の耳があるので、箱根のことは滅多に口へは出さなかったけれど、時にはそのことまで言い出した。――すると、彼女は奇体にピタリと黙り込んで、荒々しく僕の傍を離れて行き、やがて又、面当てのようにして酒を飲んでは帰って来たが。
 どうかした時に、彼女のポケッ卜を探って見ると、見知らぬ新しい男の名刺が、いつも一枚や二枚は発見された。そうして、これらの男達は、僕が学校へ行っている間に、潤子を訪ねて来てはカルタや麻雀マージャンをやったものだった。僕が帰宅する頃には、それでも潤子が彼等をコッソリと立去らせて了っていたが、一度応接室にチマが落ちていたのを見付けて、僕がそれを詰問したことがあった。すると、彼女は最初それを否定していたが、突然ふて/″\しく向き直り、たばこかしながら次のようにいった。
「えゝ、あなたの仰有おっしゃる通りなのよ。確かに麻雀をやっていたのよ。だけど、それがいったいどうしたというのよ!」
 僕の腕の筋肉はメリ/\と鳴った。髪を掴んで、家中の廊下を引摺り廻してやり度くなった。若し、折よく知人の訪問がなかったなら、僕はきっとその通りのことをやったのだろう。
 僕はだん/\に酒を飲むようになり、一方には初めて罪の呵責かしゃくを感じ出した。そして、そうなって見ると一番可哀想なのは淑子刀自だった。前にいった恐怖以外に、僕は猶更刀自の傍へ近付けなくなった。しかも、それでいて、潤子には強いこと一つ言えず、怒りを常に抑えていた。潤子の放埒ほうらつと僕の煩悶と、そしてその間に流れる険悪な空気と、そこには戦慄すべき結末が、加速度的に押し寄せて来たのであった。そうしてそれは、浩一郎が五歳になるまで、辛くも危険な平衡状態を保ったのだった。
 浩一郎が五歳になった時というのは、それこそ、つい十日ばかり前のことだというのを、君は早くも推察していて呉れるだろう。
 そうだ。その時だ。正確にいうと、今日からはもう九日前の夜に当る。その時浩一郎がもう寝て了っていたのは何よりだったが、正月の二日、僕と潤子とは最後の恐ろしい衝突をやったのだ。
 原因を詳しくは語るまい。要するにそれは、潤子が例の通り酒に酔って帰って来た、同時に僕も酔っていた、その揚句のことなのだった。
「何だ、いったい正月早々!」と僕がいった。
「お正月だから余計いゝじゃないの!」と彼女が答えた。
「よくいった。今夜は許さん、こっちへ来い!」
「行きますよ。どこへでも行って上げますよ!」
 僕は彼女の襟頸えりくびを捕えて、いきなり自分の書斎へ連れて来た。すると彼女は、何思ったか女中を呼んで、淑子刀自をそこへはこばせて来た。そして女中の去るのを待って、彼女は憎々しく僕の顔を見据えたのだ。
「さア仰有い。何なりとも仰有い。お母様の前で仰有って見なさい!」
「いうとも! 誰の前でゝもいってやるぞ。お前はいったい、この私を何だと思う!」
 すると、この時彼女の顔には、ふるえ上がるような微笑が浮んだ。
「あなたをどう思っているかって、ホヽヽヽ、ホヽヽヽ、そんなことハッキリ決っているじゃないの。人殺しよ。恐ろしいあなたは人殺しよ!」
 僕の咽喉のどからは不思議な叫びがほとばしり出た。そして、狼狽あわてゝ彼女の口を押えようとした。だが彼女は、確乎しっかりと淑子刀自の椅子に獅噛しがみついて、狂犬のようにわめいたのだ。
「いうんだ、いうんだ、何もかもいってやるんだ! お母様、この人はね、あなたの子供を殺した人です。そして、私の良人を殺した人です。――その時は私、知らなかったんです。でも、すぐにその翌日気付いたんです。私、井神が風呂へ行った時、ほんとうは一寸眼を覚ましたんです――」
「黙れ、黙れ、嘘をけ!」と僕が叫んだ。で彼女は、激しくかぶりを振った。
「えゝ、えゝ、あなたにはそれをいいませんでしたよ。何も知らないような顔をしていましたよ。ホ丶丶丶、ホ丶丶丶、ね、そうだったんですよ。私、あなたが矢張り風呂へ行ったというのは、それこそ、あの呼び覚まされる時まで知らなかったのよ。けれど、ホヽヽ丶、それだって何もいいじゃないの! 私ね、井神が風呂へ行った時、ひょっと眼を覚ましたんだわ、そして一寸見ていたんだわ。そしたら井神は、衣桁にかけてあった、私のガーゼ手拭を持って行ったんだわ。」
 荒々しく、僕は彼女の言葉をさえぎろうとした。が、彼女は刀自の首玉へかじり付いて、猶も言って言って言い続けるのだった。
「黙るもんか、決して私黙るもんか。ね、よくって、そのガーゼ手拭を井神が持って行ったのに、朝になって見ると、それがちゃんと衣桁に掛けてあったんだわ。そして、あの人の死んでいた湯殿には、あなたが美河屋で使っていた、地の青い普通の手拭があったじゃないの。あなたよ、誰が何といったってあなたなのよ。」彼女はそこで刀自の方へ向いた。「ね、ね、お母様、分ったでしょう。この人よ、この人があなたの大切な子供を殺したのよ。自分の持って行った手拭と、あの人が持って行った手拭とを、帰る時にすっかり間違えて持って来たのよ。そうして、風呂へは行かなかったなどといってとぼけていて、ホヽヽヽ、可笑おかしいわ。滑稽だわ。あの人の持って行ったガーゼ手拭を、誰が風呂から持って来たというのよ。そうして、あなたの青い手拭を、誰が風呂へ運んだのよ。――ね、お母さん、この人、自分の親友を殺したのよ。あなたの子供を殺したのよ。そうしてその癖に、私のことを、どうとかこうとかいっているのよ!」
 牧田君。――僕は彼女のこの言葉を、耳へ弾丸を撃ち込まれるような気持で聞いたのだ。彼女は知っていながら黙っていたのだ。しかも、その僕を甘んじて浩一郎の後見人とし、甘んじて第二の良人に選んだのだ。
 僕自身、少しでも立派な口のける人間でないことは知っている。だが僕は、カッと逆上した。そして、思わず握りしめていた椅子を振りかぶった。
 椅子がバラ/\にこわれて了うまで、滅多無性に叩いたり殴ったりしていたのだ。
 不思議な気持だった。僕はそうしていながら、オイ/\と泣いていたのだった。
 が、あゝ、牧田君!――いけない、いけない、窓から透かして見ると、宿の向うの渡り廊下に人がじっと立っている。先刻の刑事が立っている! 気付いたんだ。いや、先刻来た時にもう看破って了って、それから新しく手配をしてやって来たんだ。
 彼奴あいつ、動かずにいる! 何時こゝへ踏み込んで来る積りなのか?
 あゝ、だが書くよ牧田君。――で、そこでそのうちにだ。僕は、遂に潤子がぐったりとなって倒れているのに気付いたのだ。血が大変に美しく流れていたが、しかしそれよりも僕は又、淑子刀自の方を眺めた時、心臓をギクリと凍り付かせて了ったんだ。
 それまでは一度も気が付かなかった。が、その時見ると、淑子刀自のひとみが、微かに微かに動いていたんだ。
 人殺しの僕を非難する瞳なんだ。同時に、それを口に出せないで、もだえに悶えている瞳なんだ。
 そんなことをいっては、筋が少し違うだろうか。――いや、いや、僕はそうは思わない。――僕は、この哀れな婦人をもむしろ殺してやろうと決心したんだ。
 生かして置いて、この悲惨な真相を、誰にも訴えることが出来ずに、胸の中だけで悲しませるのが、あまりにも残酷だと思ったんだ。
 牧田君。
 ――刑事が一人数を増したよ。
 来るんだ。愈※(二の字点、1-2-22)来るんだ。よし、出来るだけ書いて置こう。
 ――だから僕は、その次に老刀自を手にかけたんだ。
 間違っていたかも知れない。けれども、それが一番いゝように思ったんだ。殺す前に、僕が泣いていたら、それはほんとうだ、刀自の眼からも、微かに涙がにじんで来たのだ。
 刀自は、すぐに息が絶えた。
 そして僕は逃げ出した。新聞には、梶村教授の発狂と書いてあったね。
 あゝ、刑事が腹んいになって歩き出したよ。
 可笑おかしいね、牧田君。――静かに静かにやって来るよ。では、では、これで筆をこう。浩一郎のことを頼む。
 潤子の気性が伝わらないように。――あゝ、それはしかし、僕から神様にお願いすることにしようか。
 でも、出来るだけ、あの濶達ななさけのある、父親に似た人間に育てゝ呉れ。
 僕は今、ピストルに弾をめている。
 ほら、ほら、又一人刑事が出たぞ。
 そして三人共に、渡り廊下を渡り切ったぞ。
 月が非常に高い所で光っている。綺麗きれいだ、とても綺麗だ。
 たゞ、M中学の天守閣が見えない。
 あゝ、では左様なら!
 無邪気な、可哀想な浩一郎よ!





底本:「昭和国民文学全集 20 大下宇陀児・高木彬光集」筑摩書房
   1974(昭和49)年2月25日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年3月25日第増補新版第1刷発行
底本の親本:「書名」出版社名
   YYYY(GGYY)年MM月DD日初版発行
初出:「雑誌名、新聞紙名」発行所名
   YYYY(GGYY)年MM月DD日号
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