石の下の記録

大下宇陀児





青い石



 その石は、公園にあるベンチほどの大きさがあり、形もベンチに似ていて、人が二人ならんで腰かけられるほどのものだった。
 庭石としては、わりに上等とされる伊予いよの青石だったから、昔でもかなり多額な金を出して、この庭のうちに引かせたものだったのだろう。庭の広さや、所々に残っている基礎工事のコンクリートの配置などで、戦災前はこの家が、かなりりっぱな和洋折衷式せっちゅうしきの屋敷であったということが、うなずかれる。石はその屋敷の焼け跡の、半分は附近の人の手でたがやされた家庭菜園になっている庭のうちの、枯れて黒くなった桜の木のそばに、どっしりすえてあった。
 表面には、ほこりをかぶっているし、陽が射して乾いている時は、見向く気もしないほど白茶けた汚い石に見えるけれど、雨がふって濡れて、ほこりが洗い流されたときに見ると、肌の緑色が濃く鮮やかに深味をまし、小さなヒダの間に、白い石英の縞が刻まれていたり、伊予石としてもよほど特別なものなのだろう、こまかい無数の赤い条紋じょうもんが、あちらこちらに現われてきたりするので、なるほどこれは、かなり値打ちのある庭石だということがわかるのであった。
 戦災を蒙る前のこの家には、附近の人の話によると、上品な一人の老人と、その老人の一人息子である音楽好きの青年と、青年の妻である若い女とが住んでいて、召使いの者も二人ほどいたということであった。
 石の上には、その上品な老人がきて腰をおろして、庭のうちの木や草や土の色をじっと眺めながら、過ぎ去った永い年月のうちに起った事がらを、それからそれへと思い出していた日もあったろうし、月の美しいある夜、老人の息子とその妻とが、そっとよりそって腰をかけて、たのしく睦じく、時の移るのを忘れて、語り合ったこともあるだろうと思われる。石は、老人の心を知り若い夫婦の語らいを聞いた。そうして時がいつしか過ぎた。老人が死んだのは、戦争の終るより二年前である。老人の死後一年ほどして息子は出征し、南方前線で戦病死したとの公報が、終戦の年の秋に来たが、その時はもうこの家が焼けてしまっている。残された妻は、病院にいて良人が死んだという知らせをうけた。そうして同じ年の冬、良人の遺愛のヴァイオリンを枕もとへ飾ってもらい、良人はまだ生きているのだから、その良人のもとへ自分は行くのだといって、嬉しげに微笑したまま死んでしまった。
 屋敷跡は、庭は、そして石は、誰がこの所有者であるかわからないほどになった。
 庭の木は、全部黒くこげて焼けたけれど、根株の生きていた百日紅さるすべりとツゲと青桐と山吹が、細い芽をふき出し、蘭や万年青おもともだんだん生きかえった。
 そうして、石のところへは、雀がきていたり、陽の暖かい時に、猫がきて眼を細め、香箱をつくったりしていることのほかに、今年の春頃からして、奇妙な一群の人々がきて、腰かけたり、そばに立っていたり、しかもあまり長くそこにいるということはない、じきに立ち去ってしまうのだけれど、その石を、特別な奇妙な目的で、利用し合うようになった。
 奇妙な一群の人々というのは、年齢十七八歳から二十二三歳までの、青少年男女である。
 そして、石を利用するのは、石の地べたに接している面が、となりにあるやはり庭石の根府川ねぶかわ石と重なり合うようになっていて、その部分に、手をさし入れることのできるほどの穴ができていたからである。
 穴は、すぐ目に立つというほどのものでなく、しかも、雨も、風も、中へははいらなかった。それで少年や少女たちは、穴を、郵便のポストに使った。甲から乙へ、手紙を書いてきて穴のうちへ入れておく。すると、乙は、都合のいい日に学校をエスケイプし、何か用があるような顔をしてそこへやってきて、誰も怪しむものがないということを見きわめてから、穴のうちへ手をさしこみ、甲からの手紙を発見することができる。つまりこれは、ポストよりもっと時間がかかるけれども、ある場合にはまたポストよりもっと有用であって、彼等のための私設郵便局の役目を果しているのであった。
 この郵便局を経由してくる書信は、親や兄弟や教師のために検閲されるという心配がぜったいにない。
 仲間たちは、女のことでも会合のことでも金のことでも、安心して手紙のうちへ書いた。父親がとてもがんこなおやじで、金があるくせ小づかいをくれないから、こんな父親は早く死んでくれた方がいいというグチを書いた。銀座の喫茶店のレジをやっている女を紹介してもらえてありがたかった、そのお礼には、今度田舎の叔父の家の娘が、洋裁を習うために上京してくるから、その娘を君に紹介する、という約束をした。君に金を借りたまま返せないでいるが、自分の姉が嫁入っている家へこないだ遊びに行って、ナルダンの十七石入りを、うまく持出してきた、どこか、時計を文句なしで買ってくれるところを教えてくれ、そうすればすぐに金を返すことができるから、という取引の手紙を書き、いっしょにその手紙の中へ、ほかのグループの若い連中ばかりでやっているダンスパアテーへの招待券を同封したりした――。
 彼等は、時として、石のところへ二人づれできたりしたが、そういう時は石の上へ、腰をかけあぐらをかき、何か重大な相談でもあるらしく、三十分も一時間も話しこんでいて、煙草をむやみにぷかぷかとふかしつづけるのであったが、その時取交す会話のうちには、日本語でもなく英語でもないわけのわからない単語が、いくつか混っていることがあった。
 それらの言葉は、隠語いんごである。
 警察をサツと呼び、刑務所をヨセバといっている。ハヤノリは拐帯横領かいたいおうりょう、ハイクルは自転車、グニヤが質屋でズヤが故買者けいずかい、そうして、たばこをモク、酒をキスなどというのである。
「オイ、今日はね、ぼくが会計引きうけるぜ」
「ありがてえな。何かハクイことでもあったのかい」
「ぼくの財布だって、いつもヤクとは限らないよ。ケーチャン売ったんだ。ヤリマンがとこ持ってるぜ」
 隠語が上手ではないし、いつもそのようにしてしゃべるのではないが、彼等はスゴムことが好きであり、スゴムと、そういう風な言葉づかいになるのである。
 スゴムわりに彼等は、見かけたところ普通の青年男女と一向に変りがなく、イヤ、もしかしたら普通以上に、上品だったりおとなしそうであったりしたが、それは彼等のうちに数名、中流以上の家庭の子供がいたからであった。
 知名な宗教家の二男坊がいた。
 ある銀行支店長の娘がいた。
 ついこないだまで爵位をもっていて、その爵位は失ったが、財産はまだ十分ある某会社重役の息子もいるというぐあいだった。
 だから、この仲間は、気がつかずにいたら、不良でもなく与太もんでもないと思われたにちがいない。必要な場合に、彼等はいくらでも礼儀正しくしていることができたし、いくらでもユーモラスに明朗に理智的な顔つきをしていることができた。身なりはいつもきちんとしていて、学生服のほかに、背広服も持っているし、その服のポケットには、アイロンをかけたハンケチと、服のほこりを払うための小型なブラッシまで、ちゃんと入れている。親戚知人の家へ、客の一員として呼ばれて行った時は、会話にも態度にもソツがなく、末頼もしき少年に見え青年に見え、所望に応じて、ピアノを叩くことのできる少年もいるのであった。
 ――青い石は、彼等が何を話すか何をするか、一から十まで知っている。しかも、だまって彼等を眺めている。
 そうして、もう一年近くも、彼等はこの石を、利用しつづけてきたのであった。


「山岸さん! 山岸さアん! 山岸さんはいないの?」
 奥の部屋から、女中を呼びたてる貴美子きみこ夫人の、美しく澄んだ声がした。
 世の中が変ったのだから、女中でも、名前を呼び捨てにするのはよくない、といって注意すると、はじめはすこし不服だったらしいが、結局慣れて、さんづけになった。そうしてふみやが山岸さんに変った代りに、貴美子夫人が、自由気ままに男の友達をこしらえて、ダンスホールへ出かけたり、競馬に熱中するようになってしまった。
 二階の書斎にいる藤井有太ふじいゆうたは、明後日あさっての国会本会議でするはずになっている質問演説の原稿をこしらえながら、想念が一向にまとまらない。政府は、労働争議に対しての処置に窮している、それを論難攻撃しさえすればよいのだが、自分が大臣になっていても、今度の争議では手の下しようがないという気がするし、だとすれば非難すべきものは闘争委員会であって政府ではないと考えるから、議論の鉾先ほこさきがにぶってしまうのである。
 原稿紙へ、代議士は、『政府の無策なるは、すなわちこれ国民に対しての一大罪悪である』と書き、この文句はなかなかいいと気に入って、野党からの大拍手があるに違いないという自信が湧いたが、次に『普通一般の罪悪については、これを法律によって刑罰に処するの道があるけれども、かくの如くにして政府の行う罪悪につきては、哀れむべきかな国民は、これを処罰するの手段を知らないのである』とまで書いてみて、あとの文句が出て来なくなってしまった。
 彼は、原稿紙の余白へ落書をはじめた。
 最近に友人のある画家から習った象の絵であるが、頭を描き鼻を描いたあと、耳と目をつける位置が狂って、どうもこれでは豚の方に似ているなと思い、苦笑した。一度動物園へ行って象を見てくる方がよいのであろう。しかし、上野の動物園では、戦時中に猛獣を全部殺してしまったはずであり、象も今はいるかいないかわからない。そういえば、家でも戦時下の食糧難時代に、飼犬のグレートデンが、一日に一升の御飯を食べるので、仕方なしに青酸加里で毒殺したが、その時は実に可哀そうであったと思い出す。犬はベアと呼んでいた。ベアは、主人の庭へ下りた姿を見て、尾をふり、かけてきて頭をすりつけた。そうして、主人の手にある毒入りの肉片でいつものようにワウワウと吠えたりグルグルと三べん廻る芸をしてみせた。その頃はまだ元気でいた節子せつこが、窓から眺めて泣き出して、「あなた、よして下さい。あたし、なんとでもしてベアの食べるもの工夫しますから」といったが、そんな工夫のできない世の中であった。家中のものが、見るのはいやだと言い、主人自身も逃げるようにして茶の間へ入ってしまってから、二十分後にふみやが青い顔をして、ガレージの横でベアの死んでいることを告げにきたものだったが、その晩に節子が、「あんなむごいことをして、いいむくいはあるはずがありませんよ」といった言葉は、不幸にして節子自身の運命を予言している。二週間ほどのちに空襲があった。節子は外出していた。そうしてその外出先で節子は爆弾の破片にやられたのである。
 ふいに、孤独な淋しい感じが、身体中に浸みわたってきた。
 代議士は、鍵を出し、重要書類の抽斗ひきだしをあけて、その底にしまってある節子夫人の写真を出して見ようとして、しかし、すぐに元のとおり、抽斗をしめ、鍵をかけ、鍵は手文庫の中へポトリと落してしまった。
 懐古的な考えは避けなければならない。すべてが前進的であるように要求されている。社会も道徳も憲法も新しくなった。これに対応しての希望を持たねばならない。希望がなかったらそれは人生の喪失であり生命の壊滅である。殊に政治家たるものは、つねに青年と同じき活気に充ちて、希望の多き前途を見つめ、勇往邁進するところがなければ、遂にこれ国家全体の壊滅を招くということになる。
 彼は、椅子をはなれ、つめたい夜の空気を吸おうと思って、窓をあけた。
 数日間天気がつづいていて、そのために貯水池の水は激減し、時間給水になるかも知れぬと新聞に出ていたが、明日もまた天気らしく、空には星がいっぱいに輝いている。星を見ることは、節子が好きであったと思い出したが、またそれを考えるのはいけないことだと気がついて、五六ぺんつづけて深呼吸をしてみた。両手を頭上へあげながら息を吸い、を描いてそれをおろしながら、息を吐く。星が高いところで、尾を曳いて飛んだようだった。あの星の破片は、どこへ、どんな風にして消えて行ったのだろうか。科学者の話では、星一つの直径が太陽系全体の直径に等しいものがあると聞いたが、さて今の星の破片も、もしかしたら、そういう巨大な星であったかも知れない――。
 代議士は、そうだ、科学の振興に関する政府の施策を、なお検討する必要があると思いついた。労働争議についての質問よりも、この方が重大な問題であるとも思う。政権にかかずらっての攻撃演説などは面白くない。よし、明日あすは委員会に出てこの点を力説しよう。第一、政党のうちに、科学の研究に関しての調査機関が、形に於ても実質に於ても皆無だというのがしからぬ話である。こんな状態だから、議会が国民の信用を失うのではないか。
 彼は、元気が出てきた。
 机に戻ろうとして、もう一度、空の星を見上げたが、その時、庭のうちで何か音がした。そうして、黒い人影が、スルスルと内玄関の方へ走って行ったようだった。
「ああ、有吉ゆうきちだ。あいつが帰ってきたのだ」
 そうして代議士は、せっかく湧いた清新の気が、たちまちどこかへ消え失せて、鉛のように気が重くなるのであった。
 家庭のうちの紛糾ふんきゅうに、心を煩わされていては際限がないとわきまえているが、そのくせどんな小さなことにでも、無関心でいられるたちではない。ことに有吉については、父親たる自分にこそ全責任があるのではないかという不安がある。彼はいて机に向い、演説の草稿を書きすすめようとしたが、今度はもう落書すらできなくなってしまった。
 奥の部屋の客は、まだ帰らぬのであろう、書斎を出て階段をおりてくると、にぎやかな話声と笑声とが聞えてきた。妻は有吉の帰宅を知らずにいるのかも知れない。また、知っていても、それを気にするような女ではない。怒りがこみ上げて来そうになるのを、イヤ、これは、妻よりも自分に責任があったのだと思い返して怒りをおさえた。そうして、有吉に与えてある勉強部屋へ行こうとすると、とつぜん、足がすくんだ。
 内玄関を上った畳の上に、点々として赤い血が落ちている。血は、それほど多量ではなく、しかしひどく鮮明で、あの不気味な色をしていた。代議士は、血を見ることが生れつき嫌いだった。血の色が眼に入ると、顔が青くなり、寒気がし、時には嘔吐をもよおしたりする。大の男が血を見ただけでそんな状態になることを恥かしく思い、他人にはそれを知られぬようにつとめてきたが、それは生理的に恐怖を感じるのである。いまも、畳の上の血を見ると、自分の背中や顔にジワジワと汗がわいた。口のうちに生唾なまつばがたまり、視界がドンヨリと暗くなって、めまいでも起しそうな気持だった。一方では、そのくせに、血が畳の上だけでなくて、玄関のタタキにも、廊下の板じきにも、ポタリポタリと落ちているのをハッキリ見ている。そうして、誰がなぜこんなに血を流したのかと不安に思い、また女中を呼び、早く始末させなくては、と考えている。すると。
「ああ、先生――」
 廊下から、ぬっと現われてきて、友杉成人ともすぎなりとが声をかけた。
「ここにいらっしゃったんですか。お知らせにいこうと思ったんですが、有吉君が帰ってきました」
「ウム」
「怪我をしているんです。腕から血が流れていまして、大したことじゃないけれど、医者に見てもらった方がいいと思いますし――」
「どうして怪我をしたのかね」
「まだ、詳しくわけを訊いてみるひまがありませんが、ゴロマイたのだといっています。ゴロマクってのは、喧嘩のことでしょう」
「喧嘩でやられて、家へ逃げて帰ったというわけか……」
「だいたい、そんなところでしょう。私の顔を見ると、昂奮していて泣き出しましたが、お父さんには黙っていてくれと言いました。先生は知らぬ顔をしていて下すった方がよいと思います」
「……親父おやじには……だまってろってじゃない、会うのがいやだといったんじゃないかい。え?」
「……はア、実は……有吉君には、あとで私から、ゆっくり話します。いま、叱言こごとをおっしゃっても、むだだ、と思いますし……」
 父親は、腹立たしくなり、しかしすぐに、みじめな目つきに変った。幼少の頃の有吉に、似たようなことがいく度かあった。元気がよくて利口な子だったが、某師範の附属小学校へ通っていて、友達に意地の悪い強い子があったから、時々いじめられて帰ってくると、父親の顔を見て急にワーンと声を立てて泣きそうになり、男の子が、なんだ、涙なんか出してみっともないというと、父の服の袖へ顔をなすりつけて涙をふきかくし、それがまた可愛ゆくてたまらなかったから、あとではきっとねだられて、双眼鏡やローラースケートや闘球盤とうきゅうばんを買わされたものだった。節子が、あなた、そんなに有ちゃんを甘やかしたらいけませんわ、と文句を言い、イヤ、甘やかせるんじゃないさ、前から買ってやる約束だったよ、と嘘をいったこともある。が、ああその子は、いま友杉を見て泣いたというのに、父に会うことをいやがっている。それは、父の叱言をこわがっているのではなくて、父を憎んでいるからなのである。
 友杉成人は、気の毒そうにして、代議士の顔を眺めていた。
 そして、ともかく、医者へつれて行って手当をさせます、ナニ、大した怪我ではありませんから、それほど心配しなくてもよいですが、まア私に全部まかせておいて下さい、といってから有吉の部屋に引返して行った。
 ふみやが顔を出し、オドオドとこちらを見ている。
「血をふいておけ!」
 はげしくいって代議士は、逃げるように二階の書斎へ行こうとし、しかし、階段をのぼりかけてから、またもどってきた。
「玄関のタタキも、水を流して洗っとくんだ。――それから、奥さんには、何も言わなくてよいのだからな。いいか」


 友杉成人は眉毛が濃く、額や頬に特徴のある深い皺があって、年よりはひどく老けて見えたが、今年三十二歳だった。前線で貫通銃創をうけたため、健康がまだ十分でなく、しかし真面目な性質の男だったので、同郷の先輩藤井代議士に信頼された。健康を回復するまで世話を見てやろうというので、復員後ずっとここの家へきて起臥きがしているのであった。
 居候であり、書生であり、秘書であると同時に下男でもあり、一方では有吉のために家庭教師でもある。彼は応召前、製薬会社の技手をしていた。苦学してある工業大学の夜学部を卒業していたから、数学や物理が得意だった。その点で有吉が、友杉には一目おいているのである。近頃では有吉は、父親よりも友杉に対して親密であり、従順なところがあった。父親とは、話をするのもいやな風で、しかし友杉の言葉には、ちゃんと耳を傾けている。かげでは、友達同士の話で友杉のことを、家にいる居候の若年寄りだ、などと悪口をついたが、実際は友杉をある程度尊敬し、ある程度怖がっている。友杉のかぶっている帽子が垢と汗とで穴があいた。有吉が押入をさがし、父親の使い古しのソフトをもってきて、友杉の部屋の釘へ、黙ってかけて行ったことなどもあった。
 ――かかりつけの病院がじき近くにある。
 友杉がそこへつれて行くと、傷は、左の腕を安全剃刀かみそりの刃で斬られたものであり、手術は簡単だったけれども、出血がわりに多量だったし化膿の恐れもないではなく、二三日のうち入院した方がよいということになった。
 その手術のとき、ワイシャツをぬがせようとしたら有吉は、シャツの下に何かかくしているものがあった。
 それは一冊のノートであり、腕を繃帯で首へ吊ると、そのノートの処置に困ったらしく、病室のベッドへきて寝る時になると、それを枕の下へおいてみたり、毛布の間へ押しこんだり、結局どこへも置く場所がなくて困っているという風であった。友杉は、電話で藤井代議士に入院のことを話し、自分がつきそっているからと断わっておいて、病室へ戻ってきたとき、有吉がノートのことをひどく苦に病んでいるのに気がついた。
「有吉君、どうしたんですか、その手帳は?」
「ううん、べつに、なんでもないんです」
「大切な手帳らしいですね。私があずかっておいてあげましょうか」
 返事をせずに有吉は、顔を少し赤くした。
 それからノートを、ベッドの敷布の下へ入れようとして、とちゅうで、気が変ったようだった。ちょっとのうち、窓のカーテンのあたりに目をやって考えこみ、とつぜんノートを友杉の方へさし出してよこした。
「そうだ、友杉さんなら、中を読まれてもかまわないんです。だけど、書いてあることはぼくの秘密です。誰にもしゃべらないという約束をして下さい」
 何かを思いつめた必死の色が、眼のうちに輝いている。友杉は両親もなく兄弟もない。ふいに胸の内に熱いものを感じて、この十八歳の少年を抱きしめてやりたい気がした。
 もう十一時に近かったが、病院へは、交通事故で怪我をしたという患者がかつぎこまれてきて、医師や看護婦のせわしげに廊下をあるく音がした。
「手術のあと、痛まない?」
「それほどじゃありません」
「じゃいいや。眠ったらどう? ……」
「ええ……」
 窓の方を向いて眠ろうとしてから、何を考えたのか、
「しかし、友杉さんは、バカだとぼくは思うなア」
 だしぬけにいったので、
「え、なんだって? どうしてさ」
 と訊いたが、ちょっと間をおいて、
「うん、そのことは、またいつか話しますよ。本当はぼくの方がバカかも知れない」
 そういったきり、あとは口もきかず、身動きもしなくなってしまった。
 ノートが、肩の下からはみ出してる。
 渋い茶色の表紙にペン画で眼鏡の絵がかいてあり、中はわりに上質の紙のものである。
 そっとぬき取って開いてみると、第一頁に『青い石の歴史』としてあったが、次の頁からは、通信文がいくつか書きならべてあった。手紙をこのノートへ書いて送ると、先方が同じノートへ返事を書いてよこし、更にそのノートへ次の手紙を書いて出すというやり方らしい。長かったり短かったり、また日附があったりなかったりで、差出人の名前も、秘密を保つためだろう、ぜんぜん書いてなかったが、筆蹟からみて差出人の一人は、有吉であることがすぐにわかった。そうして、その相手は女である。女は有吉より字がうまく、しかし、誤字をところどころつかっている。友杉は、スタンドの光をこちらへ向けて、この奇異なる記録を読みはじめたのであった。

×    ×

 金曜日・二月十三日――風が五日も六日も吹きつづけている。荒廃した東京は、空が土ほこりに充たされて、その土ほこりの空気を吸うから、人間もますます荒廃してしまうのだ。ヒュウヒュウと鳴る風の音を聞いていると、ぼくはその音の中に、人間の笑ったり号泣ごうきゅうしたり、また狂人のように罵り合う声が聞えるような気がしてしかたがない。
 しかし、ぼくは風の吹く街が大きらいだから、じっと家の中にひっこんでいた。そうして、いつも君のことを考えていた。君の顔を見ないで君のことを考えるのはよいことなのだ。顔を見たら、駄目になってしまう。見ないで考えていても、どうかするとぼくは、いけないことばかり空想するのだが、そばに君がいないから、そのうちに気がおちついてくる。ただ困ることには、そうやっておちついて考えていると、いつかまたいろいろの心配や不安がわいてきて、じっとしてはいられない、何かしなけりゃならぬと思うが、さて何をしたらいいのかわからないし、酒でも飲んで、そこらをあばれ廻ってやりたいような気がしてくることがあるのだけれど。
 笠原かさはらさんから君が借りた金は、ぼくが返した。笠原さんが何か言ったら、ぼくがやっつけてやる。安心したまえ。
 では第一信は、これでおしまいにする。今度君に会う前に、君からの第一信をもらえると嬉しいね。さよなら。

×    ×

 二月十九日――とてもすてきな思いつきでしたわね、青い石の歴史は。二人でやりとりした手紙が、そのままいっしょになって残るのだから、ほんとにあたしたちの記念すべき歴史になるわ。
 さいしょに、お礼。
 笠原さんのこと、ありがたいわ。でも、あんまり無理しないでね。無理したら、あなたが今度は笠原さんと同じになりゃしないかと心配するの。笠原さんは、もうすっかり悪漢ね。何をしているかわかりゃしない。あんなの大学生だなんて、おかしいわ。こないだM子さんに会ったら、M子さんは笠原さんに夢中になって、とても笠原さんをほめている。だけど、M子さんは笠原さんと温泉へ行ってきたんだっていう話よ。あきれたわ。
 あたし、とてもあなたに会いたくてたまらずにいます。あなたは、あたしを見ないであたしのことを考えるのが好きだっていうけれど、あたしは、そうじゃありません。毎日毎時間毎分、あなたに会っていたいと思うのよ。顔を見たら駄目になるっての、どういうことかわからないわ。ちっとも駄目じゃない。ある小説家の書いた本を読んだらそのことが書いてありました。責任さえ持てば、あたしたち若いものは、何をしたっていいんですって。パパがその本見つけて、こんな本読んではいけないって言って、取りあげちゃった。だけど、パパは自分じゃ面白がってその本読むにちがいないから、ずるいのよ。あたしは、べつにもう一冊買ってきました。今度あなたに持って行ってあげる。それを読めば、あなたも、あたしに会うと駄目になるなんて言わなくなるわ。
 今度は、二十五日に会えます。
 その日は、バザーのお手つだいで出かけられるんです。午前十時、いつものところで待っていますから。

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 二週間ぶりで、ぼくは家へ帰った。ぼくは、麻雀マージャンやってれば、絶対間違いはないのに、山ちゃんがぼくを誘ってオイチョをやった。オイチョじゃかなわない。麻雀のヨロクをすっかり取られて金がなくなってしまったのだ。
 家へ帰ってみたら、ぼくは、なんだかとても疲れていることに気がついた。頭の芯がボヤケていて、何をするのもめんどうくさい。こんな時、君に会ったら、元気が出るのじゃないかと思うけれど、――。
 今日はこれでおしまい。さよなら。

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 三月四日――きのうは、お雛さまの節句。そしてあたしは、昔の型通りのお嬢さんになって長いおふり袖を着て、一日中とても神妙にしていました。だって、この頃はあたし、パパやママの信用ゼロなの。パパやママは、気がついていることがあるのかも知れない。あたしが外へ出るのをなかなか許さないから、当分の内、信用回復のためママたちの気に入るようにしていなくちゃならないんです。
 ママと言えば、あなたはあなたのママについて、一度もお話をしてくれたことがなかったでしょう。今度会ったとき、あなたのママのこと話してちょうだい。
 あたしのママは、悪い人じゃないけれど、いいえ、悪いどころじゃない。とってもいい人だけれど、いつもあたしのこと、お嫁さんにやるまで、何々をしちゃならないとか、何々をしなくちゃならないとかいっている。あたしにできるだけ沢山の値打ちをつけようとしているのだけれど、それじゃあたしお嫁さんという商品になるために生れて来たみたいだから、バカらしくなってあたしは、わざとママの喜ばないことを言ったりして、ママを泣かせたり怒らせたりしちゃう。――そのくせ、そういう時にはあたしだって、悲しいみたいで泣きたくなり、ママ可哀そうだ、あたしの方がほんとはとても悪い子になっているんじゃないかな、と思ってしまうんだから、ちっともわけがわからない。
 でも、ママは、あたしをよい商品にするために、四月から洋裁学校へ通うことをゆるしてくれました。
 だから、四月からは、たくさん自由に外出できるのです。それまで、あたしのこと忘れないで愛していてね。

×    ×

 手紙は、まだ数通あった。
 そうしてその手紙の中で、有吉と有吉の相手の少女とは、喜びや楽しさを語ると共に、不安や懐疑に苦しめられつつ、心の中にからみついているものを、何かしきりに訴えようとしているのであった。
 友杉は、ため息をつき、もう眠ってしまった有吉の横顔を眺めた。
 それから、またノートを読みつづけたが、そのうちにドキッと胸をうたれる気がした。有吉が、次のように書いていたのである。

×    ×

 僕は昨夜君に、ずいぶんと迷惑をかけてしまった。ダンスホールを出てから、いやがる君を、むりやりとカストリ屋へ引っぱって行った。そうして、酔っぱらって、大声で歌い出して、もしあの時にやって来た警官の姿を見なかったら、まだまだどんな狂態を演じたかわからないのだ。
 君は、ベソかいていたね。腹を立て、ぼくにあいそがつきたという顔をしていたね。ぼくは、ちゃんとそれがわかっていたのだけれど。
 まったくすまない。ごめん。
 が、ただ頭を下げてあやまるだけじゃ、君は気が強くてゆるしてくれないだろうと思うから、ぼくのあの狂態の理由を、ハッキリ君に話しておこう。実はダンスホールで、見てはならないものを見てしまった。あそこへ、笠原さんが来ているのを、君もぼくもいっしょに気がついたね。笠原さんがいるから、ぼくは面白くなくなり、もう帰ってしまおうかと思ったり、また逆に、笠原さんの前で、君とうんと仲良く踊って見せようかなんて考えていた。ところが、問題は、そんな簡単なものじゃなかったのだ。
 笠原さんは、ぼくたちには、ニヤッと笑っただけで、ぼくたちを無視していたね。そして少し遅れてやってきた一人の女と、あのすばらしいステップで踊り出したね。
 ぼくは、それを見ていると、血が頭の中でゴーッと音を立てて逆流する気がした。君は、笠原さんの相手をした女を知らない。だから平気だったろうけれど、僕は、あまりにもよく知り過ぎている。ほんとのことをぼくは言っちまおう。あれは、ぼくの家にいる女だ。ぼくの母だ。ぼくの母と呼ばれている、ぼくのお父さんの妻なのだ。
 とても美しい。
 とても聡明だ。
 しかし、ぼくのお母さんなんだよ。
 ぼくは、その時に、自分の腕の肉をつかんだ。ドスを持っていなくて倖せだった。持っていたら、斬りつけたに違いない。ぼくは人殺しをやったかも知れないのだ。
 苦しくなって、僕はホールから出てしまった。それからカストリ屋へ行ったのだ。君に迷惑をかけたのは、こういうわけだったのだから、わかってくれるね。
 笠原さん――さんなんて、さんづけにして呼ぶのは、もうよそう。あいつは悪漢笠原でたくさんだ。悪漢笠原は、ぼくを辱しめ、ぼくの父を辱しめる。しかもあいつは恐ろしいやつだ。どんな風にしてだか知らないが、狙った獲物へはすぐ接近してしまう術を知っている。大胆で智慧があって美貌で、学校だって怠けているくせに、いつも試験は首席だというのだ。ぼくはあいつを殺したいと思う。殺してしまったら、さぞかし胸のうちがサッパリすることだろう。
 まだ、書きたいことがうんとあるが、この先は、何を書くかわからない気がする。また会った時に、話すかも知れないし、話さないかも知れない。では、さよなら。

×    ×

 友杉はノートをバタリと閉じた。
 そしてウームとうなり声を立て、腕組みをして考えこんでしまった。


眉目秀麗な鬼



 新学期のはじまった明るい四月の午後二時である。
 S大学法文科教室E号の教室へは、男の学生が十四人と、女の学生が三人、ノートや書籍や雑誌を腕にかかえ、または、グラウンドでテニスやキャッチボールをやったあとなのだろう、上衣うわぎをぬいで肩にかけて、汗をふきふきあつまってきた。
 この法文科教室には、問題が一つ持上っている。前学期の半ばごろから持上った問題であって、三月の休暇を持ちこしたが、まだ解決にならないから、今日はどうしても解決してしまわなくてはならない。その問題というのは、教授R博士の醜聞についてであった。
 R博士は、今年五十八歳だった。そして、まことに謹厳寡黙かもくな人格者として知られてきたが、学内で、ふしぎな噂がひろがりはじめた。教授は、毎週一回、木曜日とか金曜日とかの晩に、若い女をつれてホテルへ行くというのである。女は、肥っていたりやせていたり美しかったり美しくなかったりだったが、街の女や喫茶店の女給や、また洋裁下請の未亡人などだということで、それを誰がいつ発見したのかわからない。しかし教室では、だんだんにそれが評判になった。ついに教授会へは、無名の投書が数通とどいて、R博士を辞職せしむべきであるという意見が高まってきたようであるが、さて教授会がどんな処置をとるのだろうかと、学生たちが興味をもって眺めていると、実際は何一つ変ったことが起らない。R教授は、あい変らず教壇に現われた。若い頃欧洲へ留学し、その時ウインで買ったという自まんの鞄が、もうすっかりとすり切れたのを、色の違った革で修繕し、それを、講義のたびに、ドサリと机の上においた。それからハンケチで鼻をかみ、唇をいっぺんモグモグとうごかしてみてから、ひくい単調な声で、権利や義務や法人や個人や、法則や公式の話をはじめる。学生たちが、たまらなくなった。そうして委員会を結成したのである――。
 一人の学生は、たばこをすって、なにか愉快そうな笑い声をたてた。
 他の一人は、腰かけではない机の角へ尻をのせ、足がいてえんだよ、といって靴をぬいだが、ぬいだ靴をさかさまにしてふると、ポロリと小石が二つこぼれておちた。
 女の学生だけが、さすがにつつましやかに教室の窓のところへ行って、一かたまりになり、ミシンの針が安く買えるという話をしている。
 とつぜん、色の黒い下品な眼つきをした学生が、ほかの委員をおしのけるようにして教壇へあがって行くと、黒板へチョークで絵を描きだしたが、それは、なかなか器用なもので、女が一人寝台に寝ていて、そばの床に博士がひざまずき、なにか女に謝まっているというような形の絵になった。
 学生たちは、どっと声を立てて笑った。
 それからしかし、年少な一人の学生が、バカ! とどなってとびだして、
「なんだ! 下等なことをするのはよせ! 神聖な教室の黒板は、カストリ雑誌の口絵や共同便所の壁とは違うんだぞ。うん、喧嘩するなら、誰にでもぼくは相手になる!」
 腹を立てながらその絵をふき消したので、急に一同、し−んとした顔つきになってしまった。
「ああ、来た来た」
 と誰かが叫び、学生中での最年長者で、戦時中は衛生兵としてビルマへ行っていた住吉すみよしという学生が、眼をしょぼつかせ、なにか、困ったことがあるという風で、教室の入口に顔を見せると、ようやくその場の空気に、一つのまとまりがついたようである。
 さっきの下品な落書をした学生が、
「オイ、待ってたぞ、委員長。結果はどうだった?」
 とせっかちな口調で訊き、さて住吉委員長は、やはりしょぼついた眼つきのまま壇上に立って、彼がいま学校当局の意向を問いただしに行ってきた、その報告をしはじめた。
 報告によると、学校では、教授会も事務局も、R博士の醜聞をまったく問題にしていないようである。噂は噂だけのことであって、教授の閲歴えつれき人格などから考えてみても、教授がそんな非常識な行動をとるはずはないのだとしている。これは誰かが博士を中傷するために言い出したことであろう。イヤ、或は誰かR教授に似た人物があって、その人物が女をつれてホテルへ行くのを、見まちがえたというぐらいのことではあるまいか。学校当局としては、事実を明細に調査したわけではないが、博士に直接その話をしてみたところ、博士がハッキリと噂を否定したから、問題はもう終ったことにしてしまった。学生諸君も見苦しく騒ぎ立てることなど、よしたらどうか。教授会では、事件の性質が性質だけに、慎重審議を重ねたが、けっきょく、事件は一笑に附する、ということにして、従って学生に対しても、正面からこの問題についての弁明をするというような処置はとらぬことになった。悪くすると、新聞などにも記事が出るようになり、R教授のみならず、学校全体が世間の笑いものにされる危険がある。願わくは学生諸君も、よく自重して行動をあやまらず、諸君自身の名誉をも傷つけぬよう、十分に注意してほしい……というのである。
 事件は竜頭蛇尾で、つまらないものになってしまったらしい。
 報告が終ると、学生たちの一部は、やれやれ、これでめんどうがなくなったというような、ホッとした顔つきになり、しかし他の一部は、せっかくの意気込みをくじかれて拍子ぬけがし、しかし明らかにこの報告では不服だった。彼らは強硬派である。そうして教授の醜行については大憤慨をし、今日は、辞職勧告の決議文を作るつもりだったのである。報告をそのまま受入れるものとすると、もう決議文の必要もないだろう。事件にはこれでピリオドがうたれ、でも、その代りには、騒ぎ立てた自分たちが軽率だったと非難され面目を失い、校内での物笑いにされるということもないではない。
 住吉委員長は、手帳をくって、報告に落ちがあったかどうかと調べてみて、
「で、ぼくらは、態度を決定しなくちゃならんと思うのだ。ぼくらはR博士排撃の目的で立ち上がった。が、どうやら排撃は不可能らしい。それについて、意見を述べてくれたまえ」
 そういって一同を見まわしている。
 委員たちの間では、ガヤガヤと私語の声が起った。そうして、情勢がもうここへ来たのでは、我々のR教授排撃も、ここらで中止にした方が賢明だろうというものが、半分以上はあるようで、しかし強硬派がそれではおさまらない。強硬派は、いきり立って意見をのべた。
「委員長! ぼくは、教授会の態度があいまいだと思うのだ。事実を調査しないでおいて単にR博士が噂を否定したという、それだけで、事件を片づけようというのは、表面糊塗ことの卑劣な手段だ!」
「そうだ。そういうやり方は、古い軍閥と官僚との常套手段だったのだ。自分たちに都合が悪いと、すぐ臭いものに蓋をする。事なかれ主義以外の何者でもないのだ」
「ぼくらに自重しろという。しかし、黙って引っこんでいることだけが自重じゃないぞ」
「然り! われわれは、大学の名誉を尊重する、そしてその故にこそ、なお徹底的に事実を究明しなくちゃならない!」
 熱烈な口調である。また、たしかにある程度正しい言い分だという気がする。
 しかし、その時まだ大部分の学生が、あいまいな眼つきで顔を見合せたり、小声で何か囁き合ったりしていて、この強硬派の意見にすぐと賛成しなかったのは、やはり彼らが教授会を恐れていたからであろう。教授会に反対し、教授たちに睨まれるのは、あまりよいことでないにきまっている。こういうことは程度問題で、進みすぎてはよろしくない。まかりまちがうと、卒業期の就職問題にも影響がある。R教授も一通り弁明が立っているというのだから、ここらでこっちは手を引いた方がよいのではないか――。
「委員長。採決だ!」
 と穏和派らしい背の高い学生がどなった。そしてつづけてその学生は、排撃運動を中止するか否か記名投票で決定しろという動議を出した。
 住吉委員長は、当惑している。
 投票だったら、ことに記名投票だったら、穏和派が勝つにきまっている。しかし学校当局は、ことにR教授は、委員長であるこの自分を、排撃運動の指導者だったと見なしているにちがいない。だとしたら、これからの自分の立場は、ひどくまずいことになってしまうだろう……。
 ふと目を上げると委員長は、教壇からいちばん遠くはなれた席に、ポツンと、一人きりで英文の雑誌らしいものを読んでいる学生に気がついた。その学生は、黒いつやつやした髪の毛をしていて、白い額と品のよい鼻や唇が、映画俳優のように、整った感じを与えるのである。彼は、秀才として学内では評判の青年だった。しかも今日は、はじめから今まで、一言も口をきかずにいるのであった。
「笠原君!」と委員長は呼んだ。「君の意見はどうなんだい。君もかなり強硬な排撃者だったと思うんだが……」
 ふいに名を呼ばれて笠原のぼる、少しびっくりしたようでもあり、しかし、雑誌を惜しそうにして閉じて、ゆっくり答えた。
「ああ、ぼくの考えですか。ぼくは、少しばかり諸君の意見と違うのだが――」
「結構だよ。要するところは、排撃を中止するのかしないのか」
「イヤ、中止にはぜったい反対。しかし趣意がぼくは違うのです。ぼくはR教授の醜聞が事実か否かを問題にしない。むしろぼくは、博士のあの臆病な性質にかんがみて、また、あるいは、大学教授の俸給と、いまのインフレ物価とを対比してみて、パンパンをつれてホテルへ行くなどということは、博士にはできないことだと思っている。だから、その点で事実を究明しようなどというのは愚劣であって、しかし、排撃はあくまでやり通す必要があるんじゃないですか」
「というと、君の意図する排撃の理由は?」
「むろん、理由はあるのです。ぼくはR博士がこの教壇に、立つだけの値打ちがない人物だと認めている。博士の頭脳は平凡です。新知識を吸収するだけの力がなく、また新しい研究や発見もしていない。そうして毎学期毎学年、一行一句違わぬ文句をしゃべっているだけの機械じゃないですか。ぼくらは、あの講義を直接博士の口から聞かなくてもよい。去年のノート、一昨年のノート、十年前の先輩のノートを借りてくるか、でなくば古本屋から、博士の著書をほんの二三冊買ってきて読めば、それで事は足りるのです。こういう教授がいるのでは、われわれは学校の授業料と、授業料よりもっと貴重なわれわれの若い時とを、毎日浪費していることになるのだと、ぼくは思う。ぼくらの仲間のある者は、はげしい肉体的バイトで学資を獲ている。しかも、たった二日で読んでしまえる著書の内容を、週に三時間ずつ、一年かかって聞かされるのです。イヤ、いったいぼくは、古くてみにくくて動かないということ、それがすでに許せないのだ。若くて美しくて生き生きしているものは、それだけでも讃美するだけの価値があるし、たとえ何かの過失があったにしても、そういう若さや美しさはその過失を償うことができるのに反し、古くて醜いものこそは、ぜったいに償いがないのです」
 強硬派も穏和派も、しーんとして耳をかたむけていた。おちついた顔で、静かな口調でしゃべるのであったが、この青年の弁舌は人をひきつける力を持っている。反対したら、手ひどくやりかえされるような気もするし、聞いていて、なにか酔ったような気持になるのであった。
「いいですか。博士は停年間近であり、停年までは、この名誉ある大学の講座にしがみついていたいのです。教授会はというと、もえずるもかるるも同じ野辺の草でしょう。教授会はそういう博士の心境に共鳴し同情しているのであって、それは教授仲間の友情であるとも言えるし、その友情をぼくは悪いとはいわない。しかし、彼らの友情のかげに、ぼくらの犠牲が要求されるのです。古い醜いものへの友情のために、なぜぼくらの若さが犠牲にされるのですか。犠牲を脱出するために、われわれは断乎博士を排撃するのです。この際この時、虚妄きょもうであったにしても、醜行の噂が出たのは幸いだったとぼくは思う。噂だけでも、博士が見かけだおしの劣等人格者だったかも知れないという論拠にはなる。われわれは、この疑惑に包まれた博士について、そろってその聴講を拒否すればよろしい。元来は諸君も、博士の講義には不満があった。その不満をおさえていたところへ、たまたま醜聞があったので、ついに爆発して排撃運動をはじめてしまった。どうです、これが諸君の本音ではなかったのですか。翻って思うに、一つの真に欲することをそのまま実行にうつすということ、これがわれわれの若さの特権でしょう。躊躇しているのは滑稽です。ぼくらは、ただまっしぐらに進みさえすればよいのです!」
 一人が拍手すると、ほかの者もつりこまれて感動の拍手をおくってしまった。
 もうこれでいざこざはない。言われると、なるほどそうかという気がするから、みんな迷いはなくなって、満足した顔つきになっている。委員会は、態度を決定できるのであった。
 決議文起草委員を選任しろと叫ぶものがあった。
 直ちに学生大会を開き、そこへは新聞記者にも来てもらった方がいいという意見が出たり、決議文が受けつけられなかったら長期同盟休校だと、どなったりした。
 しかし、委員会がまだ終らぬうちに、笠原昇は席を外し、青葉のもえ出た校庭を、少しいそぎ足になって歩いている――。
 彼は、いくつかの時間を約束してあった。そうしてその第一番目に、田代光雄たしろみつおという牧師の家を訪ねることになっていた。
 一時間と五分の後、その郊外にある牧師の家の、キリスト像とマリアの絵のほかは、ほとんどなんの飾りもないような、質素で小さな応接間では、次のような会話がとりかわされていたのである。


「イヤ、よく来て下すったですな。私は深く感謝しますよ。もしかしたらあなたは来てくれないのじゃないかと私は考えた。来てくれないようだったら、話はたいへんこんぐらかるし、困ったことになると思いましてね」
「お手紙に葛江かつえさんのことが書いてあり、重大事件だというのですから、ともかくお訪ねしたのです。葛江さんは、今日は見えないのですか」
「ええ、葛江は今日はおりません。いないようにしておいたのです。ええと、そうですね、はじめにお知らせしておきましょうか。手紙にはそのことを書きませんでした。しかし、葛江は自殺しようとしましてね」
「ああ、そうですか。いつの事ですか」
「十日ほど前です。催眠剤をのみました。分量が多過ぎたので助かったのですが、父親の私としてはたいへんびっくりしましてね、娘がそんなことをする理由が少しもわからないのです。世間ていも悪いし、ことに教会の信徒の方々に知られては面白くありませんから、医者にたのんで、秘密にしてはもらいましたが、さて娘にわけを聞いてみても泣くばかりで、ほとほと私も手を焼きました。けっきょく、娘の居間を探してみて、娘の愛読している歌集の中から、あなたへあてて書いた娘の手紙を発見し、それで大体のことは想像がついたというわけですよ」
「手紙を、まだ僕は読んでませんね。見せてもらえるでしょうか」
「そうですね、場合によっては、お見せした方がいいかも知れません。しかし、その前にハッキリさせておきたいことがあるのです。第一、手紙など見ないでも、あなたとしてはたいてい事情がわかるはずだと思うのですが……」
「さア、どうでしょうか。案外ぼくには、わからないのじゃないか、とも思うんです。――イヤ、待って下さい。そう急に腹を立てたような顔をなすっても、ぼくとしては迷惑なんです。ぼくと葛江さんとの間に、どんなことがあったかというと、具体的な事実だけについて言ったら、多分、葛江さんの手紙をお読みになったお父さんのあなたとしては、ほとんど御推察どおりのことがあったと考えて下すってかまわないでしょう。しかしぼくは、葛江さんが自殺を企てたという、その心理状態までを、詳しく知ることはできないのですから……」
 会話が、ハ夕とそこで途切れたのは、牧師田代光雄のやせた細い顔の、額にたれ下った白髪の下に青い怒りの筋がさっと現われ、牧師はその怒りをおさえるため、しばらくのうちギュッと唇を噛んでいなければならなかったからである。
 ペンキのはげた窓のかまちに、花が二つ咲いたパンジーの鉢がおいてあった。
 学生笠原昇は、チラリとその花の鉢をながめたが、すぐに、まっすぐな視線を牧師の顔にうつした。そして、今度は自分の番ではない、葛江の父がしゃべる番だということをハッキリきめているように、たじろがぬ眼つきでこの哀れな牧師を見つめていた。
 ついに牧師が、むりに口のへんに微笑を刻んだ。
「ああ、どうも昂奮するからいけませんね。ま、手紙のことは、あとでまた、話しましょう。実は私は、あなたに会う前に、祈りをささげておきました。あなたに対し、敵意を抱くことは許されない。それから葛江に過失を許すとともに、あなたをも、許さねばならない。許すどころか、あなたを愛さねばならぬということを考えましてね」
「まるで、ぼくが罪人みたいですね」
「え?」
「過失だの許すだのって、そういう言葉は、罪人に対して使うのじゃないんですか。ぼくがどんな罪を犯したのでしょうか」
「…………」
「牧師さんが言いたいと思っていらっしゃることは、ぜんぜんわからないのじゃありませんよ。それに、葛江さんだけについて言えば、葛江さんは、過ちを犯したことになるかを知れませんね。なぜなら葛江さんは、ぼくという人間を誤解していました。葛江さんは、ぼくが葛江さんの肉体に一つの新しいしるしをつけた。だからぼくが永久に葛江さんを愛さねばならぬのだと、一人で勝手にきめてしまったのです。明らかにこれは、葛江さんの過失でしょう。そうしてそれは、お父さんであるあなたが許してあげるのはよいことです。ぼくも、あなたの立場だったら、許すでしょう。但し、あなたがぼくを、許すとか許さないとか、そういうことを言う権利はないはずのものだとぼくは思いますね。ぼくは、盗賊のようなことをしたんじゃありませんよ。また葛江さんの手足を縛っておき、自由を奪っておいたのでもありません。それどころか、葛江さんは、その晩、とても倖せそうに見え、また自分でも、あたしは世界一幸福な女だって言ったんです。ぼくの膝の上でそう言ったことを、むろん忘れてはいないでしょう。事実、そう思ったにちがいありません。してみればぼくは、葛江さんの身体と同時に意志をも拘束していないのですからね。加うるに葛江さんは、もう子供じゃなくて、立派に成熟した女性です。教養も乏しくはない。自分というものに対して、責任を持っているはずです。ぼくを非難しようとするのは、どういう点についてですか」
 再び牧師は沈黙し、膝の上においた手を、こまかくぶるぶるとふるわせていた。
 牧師という神聖な職業についていなかったら、ありとあらゆる汚い言葉を使って、この眉目秀麗な青年を罵り辱しめ、顔に青痰を吐きかけてやりたかったのであろう。また腕力を許されるのであったら、四肢を掴みよせて、ふりまわし、たたきつけ、唇を引き裂きたいと思ったのであろう。老牧師は、青年の顔を見るのが恐ろしくて眼をとじた。それから手をあげて胸に十字を描き、もし一日に七度なんじに罪を犯し、七度悔いあらためてなんじに帰らばこれを許せ、と口のうちでくりかえし唱えた。
「笠原さん。私はね、ある偶然な機会からして、三人の酒に酔った若者たちが、勝手ほうだいなおしゃべりをしているのを、そばで黙って聞いていたことがありますよ。その若者たちは、学問もあまりないらしく、まア小学校を卒業しただけのように思われました。そして動作が乱暴で下等で、でも自分たちは、それを得意に思っているらしいのです。まちの与太者たちでしょう。彼等は、笑って騷いで、女や賭博や、もっと悪いことについて、盛んにしゃべっておりました。ところが、そのうちに戦争の頃の話になると、三人ともに戦地へ行って来たんですね。戦地での体験談をめいめい話し、戦争なんて、もうこりごりしたといっているのでしたが、その時私は、ハッとして気がついたことがありましたよ。戦争の体験を語る時には、その若者たちの顔色が、純真な子供のように熱っぽく輝き、眼つきがとても、真剣になっているのです。こういう変化は、なぜ起ったのかわかりますか」
「さア……」
「戦争というものに、今の日本人が憧れを持つはずはありませんね。与太者たちも、こりごりしたといっています。しかし、ただ一つあの頃を思い出して、急に気持を真面目にさせたり、また何か懐しいような感じを起させるのは、当時の若者たちにハッキリした目的があったということなんですよ。その目的はまちがった目的でした。みんなでだまされて、その目的に向って突進しました。しかし、まちがっているにせよ騙されたにせよ、目的があったということは、生きる張合いを感じさせることで、だから与太者でも、その頃を思い出すと、我知らず顔色が輝いてくるというわけなのです。終戦後、日本はひどく変りました。それから、若い人たちは、生きることの目的がわからなくなったのじゃないでしょうか。目的がわからないから、その日その日の動物的な本能だけで生きつづけている、これが若い人たちの生態だと私は思うのでしてね、私は若い人たちに同情をしているのですよ。決して若い人を憎みません。復員兵の強盗や殺人犯でも、真に憎むべきものは、極めて少数だろうと思うのです。まちがった目的を与えておき、最後に急に何を目的にしたらよいかわからないような日本にしてしまった。そういう指導こそ真の責任があったのであって、だから今の迷っている青年たちは可哀そうなものだと私は考えるのです。それについてあなたは同じように思ってみたことはないでしょうか」
「青年の立場を理解し、青年に同情するとおっしゃるんですね。ぼくは、そういう現代の青年の一人として、いちおう感謝の意を表明しておきましょう。まるでこれは、ぼくが刑務所へ入っていて、その刑務所おかかえの教誨師きょうかいしから、ありがたいお説教を聞かされているようなものです。ただし、断わっておきますが、ぼくはそういう街の与太者とは、まったく別の種類の人間ですからね……」
「ああ、もちろん私は、あなたを与太者だなどといったのじゃない……」
「同時にぼくは、あなたが観察するような目的がわからなくなった人間でもないんです。ぼくは、目的を掴んでいます。生きて行くことそれ自身が目的ですからね、問題は非常に簡単になってくるんじゃないでしょうか。いったい、生きていなかったら、何があるというのですか。屁理窟や空想はよしときましょう。それに、死んでも名前が残るなんてのは、ひどいごまかしに過ぎませんね。死んだ人の名前は、生き残った人に都合がいい場合にだけ、残すようになっているんです。死んだ当人にしてみれば、自分の名前なんか、お線香の煙より早く消えてしまっても、残念だなんて思わないのでしょう。――イヤ、ぼくは、議論をしに来たのじゃなかったんです。葛江さんのお父さんからのお手紙で、いっぺんはお目にかからなくちゃならんし、敬意を表しようと思って来たのでした。実は、約束があって、時間がもうありません。けっきょくのところ、葛江さんが自殺をしかけた。それでぼくは何をすればよいのでしょうか」
 牧師は、眼鏡をはずし、つぎのあるハンケチで、いくども玉をふきなおした。
 何か、しゃべれば、怒りが爆発しそうである。心を平静にしていた方がいいのだろう。こんな男に会ったことはない。この男は、私の住む世界とは次元じげんを全く異にした世界の男なのであろうか。
 バサッと何か軽い物のおちるような音がこの室の外で起ったので、牧師は、顔を上げてドアの方をふりむき、それから室を出て行った。
「ああ、葛江か。――いつ帰ってきたのだね?」
「すみません、お父様!」
「泣くことはない。もう、泣かなくてもよいのだ。お前、会ってみるか、私も、いろいろと話をしてみたが……」
「聞いていました。そしてお父様に、とてもすまないことをしたと思いました。――あたし、もう永久に会いたくないのです」
「うむ」
「葛江、バカだったのよ、これからはもっと利口になる!」
 若い女の泣く声がし、父親がそれをなだめているはいだったが、笠原昇はトントンとたばこの切口を机の角でたたいた。そして、うまそうに煙を吸い、天井のしみやマリアの絵を、興味のない眼つきで眺めている。
 牧師は、娘を奥の部屋へやってから、応接室へもどってきた。
「葛江さんが泣いていたようですね」
「違います。泣きはしません。その代り、あなたがどんな人間だか、ハッキリと知ったようですよ。私も、実はあなたに来てもらったのは、葛江との結婚について相談したいと思ったのですが、それはもう相談しない方がいいとわかりましたし……」
「結構でしたね。こういう問題は、智能のすぐれた者の間だったら、きわめて単純に解決されるはずだと、ぼくも思っていたのです。時間をむだにしないだけでも助かりますよ。では、これでぼくは……」
 牧師の顔には、最後のはげしい怒りが現われ、しかし何も言わなかった。
 そうして笠原昇は、すぐ玄関へ出て靴をはいてしまった。
 二時間ののち――。
 笠原昇の姿が現われたのは、銀座のダンスホール赤い星である。
 彼は、学生服ではなく、仕立の上等な背広を着ていて、その自信のある態度や容貌は、一分のすきもない青年紳士に見えた。
 タンゴやクイックのいくつかの曲目が終ったあとで、ホールへ入ってきた一人の女が、まっすぐに笠原昇のところへ歩いてきたが、何か親しげに笑い合って話をしたあとで、二人はワルツを踊りだした。
 その踊りぶりは、ホールの中でも、目立って美しくて、優雅でリズミカルである。
 ホールの支配人が、病気で休んでいるオーケストラの楽士をつかまえて訊いた。
「あの女、すばらしいね。いつもうちのホールへ来ているのかい」
「いいえ、この頃来はじめたんですよ」
「そうかい。あとで紹介してもらわなくちゃならん。女優……でもなさそうだが、どういう女だか知っているかい」
 楽士は、この好色家の支配人を、軽蔑するように目で笑って、
「知ってますよ、しかし、気をつけた方がいいでしょうね。藤井有太という代議士がいるでしょう。その代議士の奥さんだそうですから――」
 ネクタイをなおしながら答えた。


危険な時期



 朝から曇っていたし、空気は、水がまじっているかと思われるくらい、湿度の高い日だった。
 少年藤井有吉は、今日で四日間も家へ戻らずにいる。そうして、ズボンにシャツ一つで、女の子といっしょに、映画館ひばり座を出てきた。
 女の子は、スカートに青い横の縞が二本はいった女学校の制服を着ているが、コスモスの花をぬいとりした絹のハンケチで、鼻の頭やおでこの汗をおさえた。それから、新宿の街を歩きだしながら、心配そうな目つきで、有吉の顔をのぞいた。
「ねえ、どうしたっていうのよ」
「うん、何がさ?」
「映画、とてもよかったわよ。あたし、涙が出てきてたまんなかったの。だのに、急に途中で出てきてしまうんですもの」
 有吉は、べつに、返事をしない。
 だまって、まっすぐに向うへ顔をむけて、人の波をかきわけて行くのが、まるで何か怒っているようにも見えるし、女の子の言うことを、フン、何をバカなことをいっているんだと、軽蔑しているようにも見える。
 夕方までには、まだ十分に時間があり、街にはいっぱいに人が溢れていた。女の子が、有吉と腕を組んで歩いて行くのが、骨が折れる。ふいに有吉は、すれちがった三人組の学生に、ドシンと横腹をつかれてよろよろした。腹が立ち、歯を喰いしばったがどうにもならない。女の子をつれて歩いているのが悪いのである。嫉妬されるのがあたりまえだろう。三人組の学生は、行きすぎてからふり向いて、バカ野郎と怒鳴って行った。
「暑いわね。アイスクリーム、たべたいわ」
「うん」
 そのくせに、軒なみといっていいほど並んでいる喫茶店には、はいる気がしなかった。小さくて汚くて、客の少ない店をやっと見つけて、その隅っこのテーブルへ腰をおろし、女の子は、またハンケチで汗をふき、有吉のために、赤い色の可愛い扇子を、出してやった。
「ねえ、何か怒ってるの?」
「ううん」
 首をふって、ズボンのポケットからたばこの箱をつかみだしたが、たばこはもう一本もない。箱をつかみつぶして、床へなげた。
「怒ってなんか、いやしないよ」
「そう。それならいいけど、あたし、心配だわ」
「さっき話した川上のことだろう」
「ええ、それもあるわね。川上さんは、あなたといちばん仲好しだったでしょ。その川上さんが警察へつかまったというのは……」
「いった通りさ。チャリンコの仲間へはいったからだよ。あいつ、金づかいが荒いと思ってたら、チャリンコやったんだね。省線で、鞄を切ったところをつかまった。バカだよ。まるで川上は……」
 女の子は、アイスクリームを口へはこびながら、疑わしそうに、有吉の目をのぞいている。有吉は、視線をわきへそらし、壁にはってある劇場のポスターをながめた。
「スリラー劇って、面白そうだね」
「え?」
「そこにポスターが出ているぜ。今度の時、見に行こうか」
 有吉は、無理に笑い顔をして見せている。新しく、子供をつれた女の客がはいってきて、ソーダ水を註文した。
「芝居もいいわね。だけど、ほんとうはあたし、川上さんと同じことを、あなたがやりはしないかと思って心配しているのよ」
 と女の子は、思い切った風でいった。
「じょうだんじゃない!」
「いいえ、じょうだんでなくないと思うの。あなた、今日は暑いから上衣をぬいで来たっていった。だけど、上衣を売って来たのだってこと、あたしは知ってるのよ。だれでも、お金に困ると無理をするわ。お願いだから、川上さんのようなことしないでね」
「もちろんさ。川上はバカだってぼくいったじゃないか」
「ええ、そうね。それはあなたは、川上さんなんかより、ずっと利口だとあたしも思ってるわ。だけど……」
 あとの言葉につまった時、店の給仕がアイスクリームの皿を取りにきたので、つめたいコーヒーを二つと註文した。そしてその金は女の子が払った。
「あたしね、この頃は考えるのよ」
「何をだい」
「あたしたち、とてもまちがったことしてるんじゃないかって。本読んだら、書いてあったわ。解放された行動には責任が伴わなくちゃならないっていうのよ。ところがあたしたち、ずいぶんお金をつかっている。アイスクリームや映画なんかいいとしても、映画の前にあなたと行ったところ、あそこは一時間部屋を借りただけで三百円もとられるでしょう。それをあたし、あなたにばっかし払わせてきたわ。この頃は、一週間に三度。四度のこともあるわね。四度としたら、それだけで一週間に千二百円になるでしょう。一月を四週間と見て四千八百円……いいえ、それだけじゃ、たりない、もっともっとかかるわね」
 ちょうど店へは、新しい客が二組もはいってきて、その一組は、有吉のすぐ隣りの席についたから、それ以上の話はできなくなった。
 有吉は、救われたような顔をしている。
 コーヒーを、ガブリと飲みほして、壁の時計を見上げた。
「ああ、いけないや。少し、おそくなっちゃった」
「これからどこかへ行くの」
「うん、約束してある。麻雀することになってるんだ」
「勝つといいわね。あたし。お祈りしているわ……それから、さっきのこと忘れないでね。川上さんのようなことしたら、あたし死んじゃうから」
 最後を女の子はわざと悲しくならぬように笑っていった。
 そうして喫茶店を出て二人は別れた。
 有吉は、しばらくのうち、駅の方へ行く女の子のうしろ姿を見おくり、ため息をついたが、やがて大人ぶった様子で電車道を横ぎり、大木戸の方へ向って歩いて行った。
 街の人通りは、次第に少なくなり、それにつれて家並みもまばらになってくる。
 とつぜん彼は、街の前後を、見すかした。
 それから、誰も彼の行動を注意していないと見きわめてから、細い横町のうちへ入って行って、なるほど麻雀クラブの看板が出ている貧弱なバラック建ての二階家へはいろうとした。
 実は、ここのクラブで、今日は、重大な相談をすることになっている。それは、仲間の者たちが、有吉ばかりではなく、ひどく近頃は金につまってきていた。両親の品物を持出したり、親戚をだましたりするだけでは、とうていもうやりきれない。そこへ川上がチャリンコでサツへつかまったのは、彼等のための訓戒にならず、かえって刺戟になってしまった。いっそもっと大胆にやろうという話が出た。仲間に加入しない良家の子弟があり、そういう友人の家へ遊びに行くことがあるから、家の中の勝手もわかっている。人に憎まれるような手段で、ぼろい儲けをしている家だけでいいから、それを一つ狙ってみようということになっていたのであった。
 仲間は、すでに集まっているのであろう。
 有吉が、合図の口笛を三度鳴らすと、家の中からも、ちょっと間をおいてから、同じ口笛が聞えてきた。
 有吉は、曇りガラスのはいった格子戸へ手をかける前に、もう一ぺんあたりを見まわし、誰も人はいないと確かめたはずだったが、ガラスの格子戸を半分ほどあけると、
「有吉君!」
 ふいに、うしろから名を呼ばれた。
 そして、ふりむいて見て、ギョッとした目つきになった。
 彼にとってはいちばん苦手の人物、家庭教師で書生で居候で父親の秘書の友杉成人が、そこに立っているのである。
「ヤレヤレ、やっと君をつかまえたぞ」
 友杉成人は、人の好い笑いを口のはたへきざみ、しかし、大股に近づいてきて、有吉の腕をつかんだ。
「昨日は二時間。今日は、べんとう持ってきて、朝から頑張っていたんですからね。さア、有吉君、ぼくといっしょに帰りましょう」
 いやだ、という代りに、有吉は肩をねじまげ、友杉の手をふりはなそうとしたが、友杉は、有吉の全身を抱きよせるようにしてしまった。
 仲間が、家の中から顔を出してのぞいていたので、有吉は恥かしくなり、友杉なんぞなんでもない、下らない奴だという顔をして見せたかったが、友杉は、
「ああ、君たち。ぼくは有吉君を、家から迎えにきたんだ。今日は、いっしょに帰るからね」
 仲間に笑い顔でいっておいて、外から格子戸をしめてしまった。
「ぼくがいる限り、君を、困るようなことにはさせませんよ。ともかく、そこらを歩きましょう」
「でも……」
「お父さんが怒ってるから、ぼくが迎いに来たんじゃない。ぼくはぼくだけの考えで君を迎いにきたんです。なアに、ここの麻雀クラブへ君が来るってこと、笠原君から聞いたもんですからね」
「えッ」
「笠原君を、君は嫌いだったね。しかし、笠原君を君のお母さんが家へつれて来たから、君のことを聞いてみたら、ここのクラブを教えてくれたんです。まア、笠原君のことは、あとで話すとして、家へ帰った方がいいと思うな」
 有吉は、抵抗できなくなった。そうして、いっしょに歩きだした。


 代議士藤井有太の邸は、牛込の高台の、焼け残った地区にある。
 そこへ帰るのには、都電が便利だけれども、二人は歩いて市ヶ谷のお濠ばたへ出た。濠では、子供たちが列をつくって釣りをしていた。
「釣りは、ぼくは名人ですよ、もう長いこと出かけないが……」
 友杉がいって立ちどまったので、有吉も自然にそこへ足をとめ、それから岸の芝生に腰をおろした。
 空気はやはり湿っていて、しかし、夕方間近の薄い陽がさしてきた。
 友杉は、釣りの話をしはじめ、鮒にはヘラ鮒や真鮒まぶながあるということや、鯉は芋で釣るなどと話したが、有吉は、少しも面白いという顔をしない。
「有吉君も、釣りをやるとか、山登りをするとか、何かスポーツやるといいと思うんですがね」
「ええ、それは、ぼくも思うんです。だけど、やってみたってつまらないという気がするものだから」
「やらぬうちに、そう考えるのがいけないんですよ。やれば、きっと面白くなる」
「そうか知ら……」
 有吉は、気のない返事をして草の葉を引き抜き、指の先きで、小さく引き裂いて捨ててしまった。そして、
「笠原のやつ、そんなにしょっちゅう家へ来るんですか」
 と、だしぬけに真剣な目つきになった。
「ああ、笠原君のことですか。――イヤ、そう、しょっちゅうじゃありませんね。二度来ただけでしょう」
「ぼくが家をとび出してから――」
「そうですよ」
「じゃ、まるで、しょっちゅうだ!」
 怒りが血管の中を駈けまわっているのが友杉にはわかり、友杉は、急いで話題を変えねばならぬと気がついた。
「笠原君は、来ても、長くいるんじゃないからいいでしょう――。そうだ、それよりかぼくは有吉君に、訊くのを忘れていたことがあるんだけど……」
「どういうことですか」
「君が怪我をして病院へ入った晩だった。君はぼくのことつかまえて、バカだと思うっていったでしょう。あれはどういう意味のことだったんですか」
 首をかしげて考えてみて、有吉はやっとその時のことを思い出したらしい。彼は、気まりの悪そうな顔をしたが、とたんにニッと笑ったので、右の頬にえくぼができた。
「ううん、あれは……ぼくは……友杉さんのこと、悪口のつもりでいったのじゃないんです」
「そう。わかってますよ。そのすぐあとで君は、君自身の方がバカかも知れないって言いなおしたんだから」
「そうです、ほんとに、ぼく、そういう風に、いつも思ってみるんです。あの時、友杉さんをバカだといったのは、友杉さんがとても真面目だから……うん、どんな説明をしたらいいのかわかんないな。ともかく友杉さん、世間の人とはまるで変ってるでしょう」
「ぼくが馬鹿正直だっていうのですか」
「馬鹿正直――っていうのじゃないけどさ。世間には、友杉さんみたいな人は少ないですね。お父さんから月給いくらもらってるの」
「月給なんてありませんよ。電車賃や湯銭もらうだけですね。でも、腹の減ることはないんだし、読書の時間はたくさんあるし、ぼくは不服に思わない」
「だからです。だからバカじゃないかっていったんです。世間で、女と遊んだり酒飲んだり、ぜいたくしている奴は、たいてい友杉さんより学問のない、つまらない男ばっかりです。友杉さんは、そういうことをしたいと思わないんですか」
「したくないことはありませんよ。ただ、今のぼくは、それをしなくても、生きて行けるからいいんです」
「じゃ、のちになって、何かで金を儲けてから、するんですか」
「イヤ、のちのことは、わからないでしょう。してもいいようになった時に、ぼくがそれをしたかったらするのです。したくなかったら、やはり、しません」
 少年有吉は、人の生きることを、酒や女の享楽のためのみだと思いこんでいるらしい。この思想は、誰が植えつけたものだろうと考えてみて、ふいに友杉の胸の中へは、憤りに似た感情がたぎり立ったが、それといっしょに有吉には、どんな話をしたらいいのかわからなくなり、絶望を感じた。とにかく、お説教ではだめである。また古い訓話や修養の書籍を、百冊読ませても千冊読ませても役に立たない。いいのは、清新な、今までとはまったく別な方向の興味を持つようなものをあたえることである。感情家で意志が弱くて、そうして子供らしさをまだすっかりと失いきっていない有吉には、どんな清新な興味をもたせたらよいのであろうか。
 話をせずに、友杉は、この十八歳の少年の横顔を、しばらく眺めた。
 少年は、上衣もなく、帽子もなく、町の与太者と同じにノータイで、胸が露出しそうになっているが、やはりどこかに良家の子弟らしい上品さをそなえている。
「今日は、あそこのクラブで、麻雀やるつもりだったんですね」
「え、ええ……」
 と有吉は、疑いの目を友杉に向けた。
「麻雀は、ぼくもやるんですよ。兵隊に行っていて覚えた」
「ほんとですか」
「ほんとですとも。それに、めったに負けたことはないんです。隊に、とても上手な奴がいましてね。そいつは、摸牌モーパイを、テーブルへ伏せて手もとへ引いてくるだけで、百発百中という奴でした。こっちのテンパイは、すぐと奴にわかってしまう。そいつに仕込まれたのですからね。――そうだ、いつか、有吉君とやってみるかな」
 ワアッと、向うで子供たちが騒ぎだしたのは、大きな鮒がかかって、それが上げられないからである。その子供の竿は輪になって大きくたわみ、道糸がピーンと張りきっていて、鮒が抵抗しながら水中を逃げまわるうちに、ほかの子供の糸とからみ合ったから、ますます騒ぎは大きくなった。
 友杉は、はねおきて、走って行った。
「だめだい、こんなおまつりにしちゃっちゃ、ばらしてしまうよ」
 そうして、手ぎわよく、鮒を釣り上げてやった。
「さア、帰ろうかね。有吉君。お父さんが、とても君のこと、心配しているんですよ」
「そうですか、お父さんは、ぼくのことを話すことがあるのですか」
「あるともさ。いつだって、君を可愛がり、君のことを考えているにきまっているよ。――ただ、近頃お父さんも、政治がたいへんに忙しくてね、中正党の代議士たちと大喧嘩はじめたようだけれど……」
 喧嘩という言葉を聞いて、有吉は、少しく興味を感じたようである。それは、どういう喧嘩かと尋ねるので、友杉は、現内閣の最大与党中正党に不正事件がある模様で、それを有吉の父が糾弾するのだといって運動を起したから、近いうちに議会も大紛乱におちいるのだろうと、簡単に説明して聞かせた。
 しかしながら――。
 やがて彼等が家へ帰りついた時、そこへはちょうどに、今の話にも出てきた中正党の代議士諸内達也もろうちたつやが、訪問してきていたのである。
 もちろん、その訪問は、政治的な意味をもつものだった。
 玄関へ、山岸ふみやが出て、只今旦那様は会社の御用で外出なすっておられますが、というと、諸内代議士は、そのごま塩頭になって五十歳を越した剛愎ごうふくな顔に、チラリと失望の色をうかべ、しかし、では止むを得ない、許されるなら奥さんにでもお目にかかりたいのだ、といった。
 ふみやが、その取次で、奥へ引っこんだ時に、友杉と有吉とが帰ったのである。
 今度は、ふみやに代って友杉が出て、諸内代議士を、玄関脇の洋風応接室へ案内した。
 それから、貴美子夫人が、ゆっくり和服に着かえてそこへ出てきて、出てくるといっしょに、
「友杉さん、暑いわね。窓をみんなあけてちょうだい。扇風機かけて……それから山岸さんにそういって、何かつめたいお飲物を……」
 と言いつけた。
 応接室は、ピアノのある窓の向うが、モッコクやサルスベリやカエデの木のもっさりとしげった植込みになっていて、石燈籠が一基すえてある。
 有吉は、父がいなかったのでホッとして、はじめに湯殿へ行き水浴をした。それから身体をふいてから自分の部屋へ入ったが、気がおちつかず庭へ出ると、とつぜん思いついて、応接室の外の植込みのうちへもぐりこんだ。
 そこからは、来客と、来客に応対している若い美しい母の顔が、ハッキリ見える。そうして、話していることも、ほとんど全部聴取ききとることができるのであった。


 藤井代議士の若い妻である貴美子は、もと、江田島出身したての海軍士官と結婚したことがあった。
 すでに亡くなった父親は、ある程度名を売ったことのある政治家で、その妾腹の子として生れたが、生れるとすぐ父親のいる本宅へ引取られて育ったから、教養はまず申し分のない娘であった。戦時中の昂奮で、眉目秀麗な若い海軍少尉と結婚すると、その新婚生活をわずかに三日間すごしただけで、良人は潜水艦に乗りこんで出動し、それから数ヵ月のちに、良人の遺髪と写真とのはいった白木の箱が残された若い妻のもとへ戻ってきたのであった。
 彼女は涙をこぼしたが、黒い喪服を着て焼香台に立ち、水晶の念珠をつまぐっている姿が、祭壇にそなえられたどんな花よりも、美しく生々として見え、葬儀に列した親戚や知人や友人のうちの男たちは、思わず息をつめ目を見はり、そして苦しくなったほどだった。
 終戦後、藤井代議士が、先妻の節子をなくしたあとであり、貴美子の父親であった政治家の後輩であるという関係から、貴美子の幼少時代から知っていたので、三、四の曲折を経たのちに、めでたく結婚することができた。
 この結婚で、一時ではあったが藤井代議士は、人生がすっかり新しくなったほどに元気づき幸福を感じ野心が大きくなり、関係事業の方面はもちろん、政治的な活動でも、その郷里を地盤とした選挙では最高点の栄誉を占めたほどである。
 しかし、公平に観察してみると、貴美子夫人は、古い道徳観によるにしろ新しい眼で見るにしろ、簡単に批判しきれぬいろいろな面を持っていた。
 藤井有太と結婚する時、あたくし、ぜいたくとわがままは、ふんだんにさせていただくわ、といった。そして、事実ぜいたくでありわがままであった。ところが、息子の有吉は、この若い母親を、非常に聡明であるといっている。男の友達を次から次へとつくり、ダンスホールなどへ出入りするが、それでいて、どの男の友達とも、ある線以上のつきあいはしないようであるし、一方にはそれが彼女の利口さであって、たとえどんなことがあったにしても、他人の前でぼろを出したり、弱点をおさえられるようなことは、いっさいしないのだという見方もないではない。最も親しいと思われるAやBという男の友達との間柄が、いったいどこまで進んでいるのか、AB以外の男たちには、ぜんぜんわからないというようなわけであった。
 いま、諸内代議士を迎えて、彼女は大きい深い椅子に、少しはすっかいに腰をおろして、時々パチリと目ばたきをし、まっすぐに客の目をのぞくようにしている――。
 諸内代議士は、まぶしそうであった。
 扇風機の風があたり、もう涼しいのに、たえずハンケチで、汗をふいた。
「……で、そんなわけですから、政治家たるものとしては、政治の威信を保つためにも、ここで藤井君と我々とがいがみ合っているようなことは、ぜったいに回避せなきゃいかんということになるのでして……」
 諸内代議士は、そういって、甲に荒い毛が生えポッテリふくらんでいる右の手で、ポケットの葉巻をぬき出した。
「まア、つまり、党派のためとか政権とか、そういうケチな根性じゃぜったいないですよ。要するところは、政界がいつまでも紛糾していておちつかんと、産業が一向に振興しない。結果は明白、日本はいつまでも再建できぬことになるのだから、わが党としても総裁以下、その点で意見がまとまった。藤井君にも、心機一転、大乗的見地からして、国民大衆のため、わが党へ入党していただきたいというわけです」
「と、おっしゃると、妥協じゃない、という風に聞えますわね」
 ニッコリ笑っていったが、その笑いは、冷たく皮肉に澄んでいたので、代議士は、少しうろたえてまた汗をふき、しかしすぐに立ち直った。
「ええ、そうですよ。もちろん妥協じゃありません。御主人が、妥協嫌いな竹を割ったような御性格だということは、議員仲間で誰でも知っていることですからな。主義主張に多少の差違はある。しかし、実はわれわれは御主人の手腕識見に惚れています。それに、入党されたら、将来の幹事長は疑いのないところでしょう。かたがた雨降って地固まるの譬えで、この際藤井君を一枚わが陣営に加えれば、党の威信も倍加しますし、藤井君としても、損のない取引だということにはならんでしょうか。イヤ、すでに大体は藤井君にも、この党全体としての意志は諒解してもらったつもりであり、あとはただの一押し、ここで奥さんにお目にかかれたのが倖せでした。奥さんから、ぜひ御主人に、勧請かんじょうしていただきたいのですよ」
「わかりましたわ。話すだけは話します。でも主人は、取引とか損とか、そういうことは経営している会社の方だけの言葉であって、政治家としての行動については、そういう言葉はないはずだということを、いつか申したことがございますの。お話を伺っておりますと、主人が中正党へ参るとしますと、それを主人に申さなくてはならぬことのような気がしますが」
「ああ、イヤ……」
 と代議士は、さっきより目に見えてうろたえて、照れがくしに、アハハハと笑った。
「それは、奥さん、――皮肉をおっしゃるものじゃありませんよ。むろん、これはここだけの話で、奥さんから、そこをうまく、懇請していただければよいのですから。アッハハハ……」
 貴美子夫人も、声は立てないが、目だけ笑わせている。それは、この客を軽蔑しているような笑いでもあるし、また単に客といっしょになって、面白がっている笑いのようにも見える。
「でも、ほんとに、皮肉のつもりじゃございませんのよ」
「ああ、そうでしたか」
「あたくし、主人の好きな政治について、今までにこんなお役目、申しつけられたことありませんわ。政治の話は面白いんですけど、避けていた方があたしは損しませんもの」
「ほ、ほう」
「いえ、そんなこと申しても、おわかりにはなりませんわね。ただあたくし、政治のことには、なるべく口を入れないようにしているってことを申したんですのよ。――ですから、主人の藤井を中正党に入れるお手伝いなんて、とてもあたくしには苦手ですわ。たとえば、あなた様の真似をして、主人にそれを勧めるとなると、党利党略のためというのと、国民大衆のためというのと、二つがごっちゃになってしまって、どっちがどっちだか、わからなくなってしまうんじゃないかと思いますの。あなた様のお話を聞いているうちだけでも、あたくし、ハッキリとそこが呑みこめないくらいですものね」
 良人がどんな立場にいるかは、よく見ぬいている。まだ入党の諒解など、ついているはずがなく、それで貴美子夫人は、政党の総務であり、政務次官にもなったことのあるこの代議士を、からかい半分で、皮肉をいっているのであった。
 諸内代議士は、それでも、根気づよく粘りつづけた。
 目まいがするほど美しいだけでなく、思いもよらず頭の鋭い女だったが、女を相手にして腹を立てても下らない。それに次期政権が廻ってくると、自分は大臣になるということもある。それを思えば、ここで事態を円満に解決するため、この場だけの恥や外聞は捨ててしまって、所期の目的を貫徹するの要がある。イヤ、この女に会ってみたのは面白かった。芸妓のように柔軟なところがあるし、貴族のように高ぶっているところもある。この女に会うだけのために、まだいくどでも訪問するだけの価値があるな、としまいには図々しくなって考えはじめた。
 ついに、中正党入党のことは、良人が帰宅した時に、夫人から勧めてみるという約束だけできた。
 諸内代議士は、椅子をはなれ、玄関へ出たが、その時に、
「奥さん、ちょっとお待ち下さい」
 といっておいて、門外に待たせてあった自動車の運転手に声をかけ、オーイ、あれを持って来い、と言いつけると、学生服の運転手が、りっぱな大きなかさばった果物の籠をはこんできた。
「これは、手土産ですが……」
「あら、そんな御心配を……」
「イヤ、心配というほどのものではありませんが、どうか受取っておいて下さい。……それから、もしかすると、中に腐ったやつがあるかも知れませんから、女中さんなどでなく、奥さん御自身で、中身をあらためていただいた方がよろしいですな」
 意味ありげな微笑とともにいっておいて、
「じゃ、失礼しました。奥さんを信頼しますからね、すべてよろしく願いますよ」
 代議士は、ほとんど逃げるようにして出て行ってしまった。
 果物の籠が、上に包装紙がかかったまま、そこに残されている。
 ふみやが、出て来ていて、それを奥へはこぶつもりで手をかけると、
「お待ち。山岸さん――」
 ふりむいて、夫人が友杉にいった。
「これはね、問題だわよ。十万か二十万、もしかすると百万円ぐらいの札束がはいっていると思うの。手をつけたらいけないでしょ。先生のお書斎へ持ってっとくのね」
 誰も気づかなかったが、庭の植込みを出た有吉が、玄関の、半開きになったドアのかげへ来ていた。
 そうして、友杉は、言われた通り、果物籠を、二階の代議士の書斎へ、運んだのであった。


群盗



 その同じ晩――。
 というのは、代議士藤井有太の留守宅へ、中正党代議士の諸内達也が訪ねてきて、バカバカしいほど大きな果物の籠を、手土産としておいて行った晩に、不良少年有吉の仲間は、午後八時キッカリ、省線池袋駅前のパチンコ屋でせいぞろいした。
 彼らは、その日四谷の麻雀クラブへあつまって打合せをすました。ちょうどそこへ友杉がやってきて、有吉だけをつれ去ったが、あとに五人の仲間がのこった。そうしてこの五人で相談して、ともかく『あれ』を、思い立った今夜のうちに、決行しようということになったのである。『あれ』というのは、隠語で言えば、トントンとか、タタキとか、言うのであろう。強盗をやるということを、さすがに彼らは、そのまま口へ出していうのが恐ろしく、こういうあいまいな代名詞で、間に合わしていたわけだった。それに『あれ』は、もし何か都合のよいことが起って、しないでもすむようなぐあいになるのだったら、やっぱり、しない方がよいのだということを、めいめいが心のどこかで考えていながら、しかし、もう今となってはしないですむわけには行きそうもなかった。なぜかと言えば、仲間の一人でS大学専門部法科一年に籍をおく今年十九歳の少年園江新六そのえしんろくというのが、ちゃんとアテをつけてきていたからである。それはある銀行の支店長で高須由雄たかすよしおという人物が住んでいる家だった。支店長は、地位を利用し行金を秘密に貸しつけて獲た高額な利子を、数百万円も自分の懐中へ流しこんでいた。ところが、支店長の息子は、園江新六と同じS大専門部の優等学生である。園江は、二度ほど支店長の家へ遊びに行き、家の中の間取りをよくおぼえてきた。だから、『あれ』をやる手はじめに、そこへ行ってみようということになったのであった。
 仲間のうちには、地方の官立病院長の息子の高橋勇という少年がいた。
 小西ていというのは神田の某書店の三男坊で、平川洋一郎という画家の息子もいる。最年少が、十七歳で、しかし自分より四つも年上の女を情婦にもっている南条真なんじょうまことという子で、その母は、戦前に有名だったある政治家の妾だということであった。
 彼等は、学生風に見られないために、背広を着たり、わざと汚いカーキ色のズボンをはいたりして、また、人相をかくすための、色眼鏡や防寒マスクや頬冠りの風呂敷や、つけ髯まで、用意してきたものがあった。目的の家へ行ってからのめいめいの役割りもきめてある。計画は綿密で、玄人くろうとのタタキでも、これ以上にはやるまいというまでに考えてあった――。
 パチンコ屋を出るとすぐに、道路を横切り制服の巡査が二人、ツカツカこっちへ来るのが見えたので、ドキンとして五人は立ちすくみそうになったが、巡査は、何も知らず五人のそばを通りすぎてしまった。
 駅前の雑沓。
 三角くじとデン助。焼そばや肉まんじゅうの屋台店。そうしてひどく明るいくせに客が一人もいない果物の店。
 彼らは、通行人の視線が、いじわるく自分の方へ向けられるように感じ、すると、顔の筋肉がこわばり、ひどく不愉快で、そのくせに歩きながら、わざとはしゃいで笑い声を立てたり、水泳や野球の選手のことを話したりした。そして、ようやく駅前の賑やかなところをはなれると、大通りから暗い横町へはいってしばらく行って、とつぜん、案内役の園江新六が、
「おい、あの家だぞ」
 低く押し殺した声でいったので、みんな、何かの宣告を聞いたような気持で、そこに足をとめた。
 それは、家庭菜園や草の生えた空地にとりかこまれた、あまり大きくはないが、キチンとした平家建ての家である。支店長が不正な利得の一部分で作ったものだろう、まだ新しくて、使った板や柱の材木の色が白く夜の空気の中に浮いて見える。むし暑い晩なので、庭へ向いた座敷が、障子をすっかり開け放ってある風だった。灯の明るみが外へ流れ出し、ラジオをかけてあるらしい。庭木がまばらに植えてあった。物置らしい小屋も一つ附属していた。彼らは、だまってたたずんでそれを眺めて、思ったことは五人ともに同じである。ああ、あの家へ自分たちが、麻雀をやるとか音楽の練習会をやるとかで、客として招かれたのだったら、どんなによいだろう。もう見ただけでたくさんだ。このまま帰ってしまいたい。いったいあの家へ、盗賊になって押し入って、家人を縛ったり嚇したり、そうして金を奪ってくるということが、ほんとうに可能なのであろうか。イヤ、それは、現実に起り得ることであろうか。
「電燈がついているよ。まだ家の人が起きてんだね」
 と、わかりきったことを、尻ごみした眼つきで、二十一歳の情婦をもつ南条真がいったので、強がり屋の高橋勇が、ニキビを爪でつぶしながら答えた。
「うん、まだ九時前だからな。しかし、早い方がいいんだ。帰る頃に道で怪しまれずにすむよ。さア、やっちまおうじゃないか」
「でもなア、園江……」
 と、主謀者格の画家の息子が、うしろから園江の肩を叩いた。
「お前、家の人は、少いといったろう。それに間違いはないだろうな」
「だいじょうぶさ。おやじは、お妾こしらえて、お妾んとこへ泊るから、めったに家へは帰りっこない。だから、いるのは、病気で寝ているおふくろと、あとは息子と娘きりさ。ヤッパ(匕首あいくち)でおどかしゃ、それだけで気を失うような連中だよ」
「非常ベルや電話や、そんなものはないんだろうな」
「電話はないよ。非常ベルは知らないが、きっとだいじょうぶだと思うね。第一、起きてるとこへ行くんだから、ベルなんか、あったって鳴らさせないようにすればいい」
「それもそうか。じゃ、やっつけようぜ。みんな、顔をかくせ、バンタチ(見張)は、ゆだんなくやる。それから、足がついてヤバイようなものは、なるベく手をつけないことにしろ、コカスのに都合のいいものだけを選ぼうぜ。オシン(現金)が一番いいよ。一人あたり、ヤリマン(一万円)がとこあれば、ちょっと息がつけるからな」
 その時でもまだ誰かが、いやになったから中止しようと言い出したら、中止になったのかも知れず、しかし、思ってもそれは口へ出せなかった。そうして五人は、息をつめ、足がガクガクする思いで、支店長の家へ近づいた。もう考えたってだめだった。これから何が起るにしても、その起ることを、できるだけ手ぎわよく終らせるということに頭を使った方がいい。それに、こんなことは、自分たちがはじめてやるのではなかった。学生の集団強盗は、ほかにたくさんあった。そういう奴は、盗むだけじゃなくて、お婆さんを殺したり、赤ん坊を蒲団まきにして窒息させた。自分たちは、殺しだけはやるまい、という約束がしてある。またこの後同じことを重ねてやる場合でも、不正な富だけを狙おうと申合せた。これは、りっぱなことではないか。政府の役人でも悪いことをしている。悪事が露見した奴が運がないのだと言われる。ナニ、かまわない、やっつけてしまえ……。
 小西貞が、友人の与太もんから、ハジキを借りてきている。
 それで、小西貞が、いちばん先に玄関から入り、ハジキをつきつけたら、ほかのものがどっとはいって、家人を縛り上げ、口に猿轡さるぐつわをかませることにしてあった。
「いいか。ドジふむな、ブルカムだと、ふるえてしくじるぞ。おちつけ!」
 玄関前で、園江が注意し、平川洋一郎が、声を変えるため、片手を筒形にして口にあて、
「こんばんは……高須さん……電報ですよ……高須さん……』
 と怒鳴った。
 警察だの防犯協会だのから、こういう賊の手口については、再三の注意がしてあるけれども、電報だと言われると、やはり戸を開けて、顔を出さねばならぬようにできている日本の住宅だから、しかたがない。
 家の中から「はーい」と女の声がした。
 そうして、玄関の締りをはずし、園江の友人の、S大専門部模範生の高須行夫が顔を出したが、呼吸を一つしないうちに、その顔色が青くなってしまった。
 黒い拳銃が胸につきつけられている。
 顔をかくした男たちが、鋭く身がまえして暗がりのうちに立っている。
「君たちは、何をするのだ!」
 と行夫は辛うじていったが、すぐに園江がそのうしろへまわって、行夫の着ていたセイターを腰から逆にまくり上げたので、行夫は腕がうごかなくなり、物を見ることもできなくなった。
 どうやら、予期した以上に、手ぎわよくいきそうである。
 バンタチの南条だけを家の外にのこしておいて、四人は靴のままズカズカと家へあがった。
 みな大胆になり、頭が鋭く立ちはたらいた。
 ラジオが農村のゆうべをやっている。スイッチを切ろうかと考えたが、手をかけただけでそれはよした。頭をお下げにした少女が、茶の間と次の間の敷居の上で、読みかけの雑誌を手にしたまま、恐怖の瞳をいっぱいにひらき、身うごきもできずこっちを見ている。電燈が明るすぎると五人は感じた。しかし、ヤッパ(匕首)を出して見せて、ほとんど気を失わんばかりになったその女の両腕を、ギリギリ巻きにしてしまった。
 園江新六の偵察に、まちがいはない。
 支店長の妻は、奥の部屋に病みおとろえて寝ていて、すべてを眼の前に見ながら、何もすることができなかった。そして支店長は、今夜もやはり、家へ帰ってきていないのであった。


「まだ雨が降ってるのね。いつになったら止むのかしら」
 女は、時間がきたので、服を着るために、ベッドを出たところであった。純白の柔かい絹のシュミーズを、椅子の背からとって手にもっただけで、窓のカーテンのすきまから、雨の降る街を見おろしている。街は、午後のラッシュアワだった。ここらは会社の少ないところだったが、それでも、人通りが多くなってきていた。男が、小さな、汚れた緑色の女のアンブレラをさして、都電の停留所へ急いで行く。若い女の事務員が、黄色く透きとおるレインコートを着て、水溜りをどっちがわへよけて越そうかと思案している。あぶない! 満員のバスが走ってきた。河の中を行くように、水しぶきをはねかけて通りすぎた。お向うの食料品店の前で、晩のおそうざいを買って帰るらしい勤人が、雨の中に立ちどまり、長いうち動かない。あぶらげ一枚六円、鮭のすずこ五十匁百五円。多分、鯨のベーコンでも買うか、でなくば、思案しただけで、何も買わずに行くのであろう。
「ラジオ、聞かなかったのですか。雨は明日の朝まで降りつづくっていいましたよ」
 ベッドの中にいて、女を眺めながら答えたのは笠原昇である。
「そう。そいじゃ、予想があたってるのね。よかったわ。野球見に行かなくて」
 そうして女は、まだ裸のまま、壁にかけた小さな鏡で自分の顔をのぞき、そのあと、ふいにふりむいて笑いかけた。
「帰るの、いやになっちゃった。まだ三十分は、だいじょうぶだわ」
 ぼんやり湿った光線の中で、女の肩や胸は白く輝いている。水にぬれたおっとせいのようだった。そして、シュミーズを手からはなし、笠原昇のそばへ来て、
「ねえ……」
 といいながら、ドスンと身をなげつけてしまった。
 女は、最近に笠原昇と知り合った、ある会社員の妻である。名前は矢島加津子やじまかつここといった。どんなぐあいで笠原が誘惑したのかわからない。しかし、昇が借りているこの部屋へ、もう三回も通ってきた。年齢は、昇より二つか三つ上であろう。野球が好きで、選手の名前は、大学リーグも職業野球も都市対抗もみな知っている。ふしぎに、ダンスだけが、まだおぼえたばかりであった。
 ――しばらくしてから、枕もとに投げだしてある銀の女の腕時計を見ると、もう五時を指そうとしている。
「おそくなっちゃったわ……」
 と女はいったが、とつぜん、探るような眼で昇の顔をのぞいた。
「あたし、忘れていたことがあったわ」
「なんです」
「あなたのこと、知ってる人がいるのよ。その人、気をつけろっていったの」
「忠告ですか」
「そうね。ほんとは、やきもちかも知れないけれど……」
 笠原昇は、たばこの煙を、細く長くうまそうに吐きだした。
「忠告は、だれでも、したがるものですよ。忠告聞いて、どう思ったんですか」
「どう思ったかって……」
「つまり、嬉しかったか、ありがたかったかというのですよ」
「ちがうわ。まるで嬉しくなんかありゃしない」
「じゃ、いいじゃないですか。ぼくは、人間は不安なんかあっちゃいけないっていうことを、いつも考えています。それには、その時その時の行動を、常に肯定して行くんですよ。不安を感じて生きてるんじゃつまらない。自分の欲求に対してはよぶんな方向をふりむかないで、まっすぐに歩いている。そうすると、世の中は愉快になります」
「わかったわ。だから、忠告が嬉しくなかったら、そんな忠告を気にしないでいいっていうのだわね。――だけど、その人はあなたのことを、あれは白い鬼だからっていってたのよ」
「そうですか。白い鬼――」
 昇は、ふーんと感心したような眼つきをしたが、すぐにその眼つきは、何かすばらしい冗談を思いついたような明るい色に変った。
「白い鬼、というのじゃいけないな。ぼくだったら、もっと別の表現をする」
「まア、どんな?」
金色こんじきの鬼っていうんです。ぼくは、金色の鬼って言われるんだったら、喜びはしないが、感心してやってもいい」
「自分で自分のあだ名つけるのね。どういう意味なの。その金色の鬼っての」
「イヤ、平凡ですよ。ミイちゃんも知っている。金色夜叉こんじきやしゃという小説がありましたね。貫一とお宮が出てくるでしょう。あの小説と同じようなものです」
「まア、そう……」
 返事はしたが女には、昇の言葉が何を説明したのか、ハッキリわからなかったのかも知れない。そうして二人の話は、それでおしまいになってしまった。
 その時、はしご段を上ってくる足音がしたからである。
 足音は、この二階を昇に貸している家主のおかみさんだった。おかみさんは、十分な部屋代を昇から貰う代りに、万事によく気をくばってくれるおかみさんだった。
「笠原さん。学生さんが会いたいといってきましたよ、高橋さんという方ですが」
 と、部屋を開けずに、はしご段の上がり口から声をかけた。
 昇は、女の眼をのぞき、女がうんとうなずくのを見て答えた。
「ああ、わかったよ小母おばさん。あと二十分ほど、そこらぶらついてから来るようにって、いって下さい」
 おかみさんは、はしご段を下りて行き、女は、足音が消えてから、もう一度はげしく昇の首に腕をまわしたが、もう時間が過ぎている。昇はつめたく唇を合せただけだった。女は泣き出しそうで、しかし、泣かずに身をはなした。それから、いそいで服を着はじめた。
 借りている部屋は、学生に似合わずぜいたくで二つある。
 女が立ち去ると、昇は、次の部屋にうつり、書棚から古びたノートを引出して、頁をくった。一頁に一人ずつ、人名が書いてあり、日附や金額を記入してある。計算尺で彼は計算をはじめた。そしてそこへ、前の夜の五人組の一人高橋勇が、雨に濡れた顔をハンケチでふきながら、はいってきた。
 畳に椅子をおき、テーブルによりかかっている笠原の前で、高橋勇は立ったまま、頬をふくらせ、眼の色をきつくし、喧嘩でもするような調子でいった。
「笠原君。金を返しに来たぜ」
「そうかい。よかったな。栃木の病院にいる君のおやじの方へ催促しようかと思ってたところだ」
 笠原は、ゆっくり笑って、さっきのノートの頁を見せた。「五ヵ月になるよ。延滞えんたいだ。天引き利子のほかに、二千百円の利子がつくんだ。合計七千と百円になるが、いいかい」
 高橋はノートを見なかった。その代り、笠原を鋭く睨み、ポケットから一万円の紙幣を出した。
「ほう、金廻りがいいんだね。田舎の病院長さんから仕送りがあったのかい」
「おやじは、何も知らないよ。バイトだ」
「オヤオヤ、そりゃ失敬した。何かよほどいいバイトがあったんだね」
 紙幣を受取り、ノートの終りに縫いつけてある厚紙の袋から、笠原は借用証を出して渡したので、高橋はベリベリッとその証文をやぶいてしまった。
「そう、きげんの悪い顔、するもんじゃないよ。誰でも惜金を返す時には、損したような気持がするものだ。しかし、じきに君は、次の金を借りに来るんだからね」
「何いってるんだ。誰がもう、君んとこなんかへ、金のこと頼みに来るもんかい」
 怒りが爆発した声で高橋がいったので、今度は笠原もびっくりした顔だった。
 謎を解こうとするように考えてから、また笑い声になった。
「おどろいたな。たいへんなけんまくじゃないか。ええ?」
「君の金、借りなくてもいいようになったんだっていってるのだよ」
「うん、わかってるさ。ホールへ行ったり、麻雀やったり、女と遊ぶ金が、ぼくの手からでなくて入るようになったっていうんだね。結構だ。たいへん結構だ。が、そういうのだったら、ぼくにも教えてもらいたいな。そんなボロイ金を手に入れるには、どうすればよいかってことをだよ」
「バイトだよ。バイトだって、さっきいったじゃないか」
「ああ、そうか。そうだったね。また失敬してしまった。なるほど学生には、バイト以外にゃないはずだ。何かほかにあるかねえ」
「ないよ。君のやる学生高利貸し以外にはね」
「うん――」
 笠原は、ひるんだような返事をしたが、実は少しもひるんでいない。高橋を軽蔑して眼尻を笑わせた。
「ぼくの高利貸しを非難したくば勝手にするさ。これはね、やはりアルバイトだよ。誰もやらないから、ぼくが始めた。そうしたら、ほかの大学にも、ぼくの真似をする奴ができたそうだよ。いいかい。ぼくはね、形のないものは軽蔑するんだ。義理や人情、おていさいと習慣、神様や仏様、成文にならない法律、こういうものはみんな軽蔑する。ぼくの欲しいものは実際にあるものだけで、無意味な偶像を持っちゃならないと思っている。ところで、現代はどういう時代だね。古い偶像はもちろん破壊された。バカな人間たちが、次の新しい偶像を探し出そうとしているが、こいつはなかなか見つかるまい。そうして、信頼すべきものが、すべてなくなっちゃったんだ。正しい理論、すぐれた才能、そういうものは信頼できるというだろう。ところが、そんなものも役には立たない。第一、正しい理論なんてものは、どこにもない。なぜかといえば、人間を支配するものは、けっきょく、力以外の何物でもないからだよ。すぐれた才能も、才能を生かすための力がなかったら、才能なんてない方が気がきいている。力だ。実力だ。実力だけが信頼できる。そうして実力の代表者として、今のところ、金力ほど手っ取りばやくその効果を発揮するものはないんだからね。原子げんしの開裂で何百万度の高熱が出たり、都会が一瞬に消えてなくなったり、何十万人かの命がうばわれたりする。しかし、金は、同じことをやるんだぜ。徐々に確実にやるだけだ。その金を、できるだけたくさん持っていようというのは、間違ったことじゃないはずだ。――うん、バカに長くおしゃべりしてしまったが、君たちが、金を欲しがるくせに金を軽蔑している。そういう習慣を是正してやろうというんだよ。まアね、君たちも幸いにして、いい、たんまりと謝礼の出るアルバイトを見つけたんだったら、それを大切にすることだぜ。そのバイトが、長続きさえしたら申し分がないよ」
「長続きするのだ。いつまででもやって行ける」
「おお、それじゃ、文句なしだよ。羨ましいって言ってもいいよ」
「ぼくだけじゃない。みんなそうなったんだ。君の世話にゃならなくてすむ。園江も小西も同じことだよ」
「へええ、園江も小西もね――」
 笠原の瞳はキラリとうごいたようだった。彼は、首をかしげている。指でテーブルの上のほこりをこすった。それから高橋の眼をのぞいた。
「ふしぎだなア、園江も、小西もってのは。それ、本当かねえ」
「本当だよ」
「そうかい」
 笠原の瞳は、再び謎を解こうとしている眼つきに変った。その視線を向けられると、高橋が我知らず顔をそむけた。
「ねえ、高橋君――」
「なんだい」
「ぼくはね、世の中が、なぜ急にそんなに甘くなったかということを、ふしぎに思っているんだよ。園江や小西までが、金には困らなくなったという、そこんところがわからない。あの二人は低能児だね。あいつらが、そんなに簡単に、金に困らなくていられるんだったら、生活苦なんて言葉は不必要になる。ことに、園江ときたら、ぼくがいつか見たことのある刑務所脱走人にそっくりの顔をしているんだよ。あんなに無智で野蛮な顔はないね。あいつは、拳闘家でもないくせに、鼻が曲ってついてるだろう。学生だからいいが、でなかったら、人殺しと間違えられる顔なんだよ。そのおかげに、あいつがいちばん女にもてない。下等なパン助と青かんだ。鳩の街へばかり行っている。しかもその鳩の街ですら、あいつは女に嫌われどおしだ。ぼくは、あいつの曲った鼻を見ていると、なにか背筋のあたりが、ゾオッと寒くなることがあるんだよ。あいつは、先天的犯罪者型をしているんだが、あいつまでが、金を儲けているのだとすると……うん……そうだったな、思い出したよ。川北か……イヤちがう。川北じゃない。川上だろう。川上って子がいたそうだね。うん、ぼくは直接には知らない子だ……話だけを聞いたんだ、その川上って子のことをね」
「川上が、どうしたっていうのだい」
「イヤ、そりゃ、君の方が、詳しく知っているはずだと思うがねえ。川上は、強盗やったって……」
「ちがうよ。チャリンコだ」
「ああ、そうか。チャリンコだ。電車の中の集団スリだね。ともかく、そのチャリンコで警察へつれて行かれたのだろう。それでぼくは思うんだよ」
「なんだ。何を思うっていうんだ!」
「怒っちゃいけない、怒ることは何もないはずじゃないか。ただ、ぼくはね、川上をぼくが知っていたら、チャリンコでパクられるなんて、そんなヘマはさせなかったと思うんだ。せいぜいのところ、警察へつれて行かれても、素行不良で注意されてガリがノルくらいのものだろう。ぼくだったら、金で川上を困らせやしないぜ。ぼくは、金を君たちが返さない時、君たちの家へ出かけて行く。そいから、善良な君たちのおやじゃおふくろに、親切な注意をあたえてやるんだ。君たちが、たいへんに今困っている。そして、ほっとけば、かっぱらいだの、スリだの、強盗だの、向う見ずのことをしそうだから、ぼくの金をたてかえてやったのだと説明するのさ。事実もまたその通りだね。ぼくが金を貸さなかったら、君たちは何をやらかすか、わからないのだよ。――ところで、説明を聞いて君たちの家では、びっくりしてありがたがって、ぼくに金を返してくれるが、つまり、おやじやおふくろってものは、自分の子供が警察へつれて行かれるってことを、極端に嫌うものなんだね。素質が悪くても、表面的にボロを出しさえせねば、それで安心している代りに、たとえば、親の知らない金を子供が持ってるだけでも、親は不安になり心配なんだ。まア、君たちも、少なくともその点を知っていなくちゃいけないね。金を、むやみに見せびらかしたら、それだけでよけいな疑いを起させ、よけいな心配をかけるんだぜ。君だけじゃない。多ぜいそろって、園江までが金づかいが荒いとなったら、世間じゃびっくりしてしまうさ。悪いことは言わないよ。いいバイトを、人に怪しまれず、うまく続けたまえ。そして、また困るようになったら、五千円以内、いつでも貸してあげるからね」
 高橋勇は、顔が土気色になっていた。
 池袋の銀行支店長の家で、昨夜どんなことが起ったのかを、まさか笠原が知っていて言うのではないだろう。しかし、いい、たんまりした謝礼のとれるバイトなんて、実はどこにもないことが明らかだった。皮肉な言葉がガクンとこっちの顎にぶつかってくる思いがする。それに、この男の頭の中には、まだどんな考えがつまっているのかわからない。聞いたことやおぼえたことはいつまでも忘れなくて、しゃべる機械みたいに雄弁で、時計のぜんまいみたいに頭が正確にはたらく。恐ろしい男だ。ウカツなことを、この男の前でしゃべってしまった。こいつを、昨夜小西が借りてきたハジキで、殺してしまったらどうなるだろう……。
「忘れてた。時間がない。とにかく、これでもう、君に借金はないんだよ」
 と高橋勇は、さっきより目に見えて意気が銷沈していった。ほかに、もっとうまいことを言わなくてはだめだと感じ、そのくせ、何も言葉が見つからなかったから、ひどくヘマな別れのセリフになってしまった。そうして、ヘマなセリフだと思うといっしょに、ますます気持が泡を食って、もう一刻も早くここを逃げ出したくなった。
「オヤオヤ。帰るのかね」
「うん」
 高橋の濡れた帽子が、肘かけ窓に投げ出してある。それを笠原が取って渡した。
「もってけよ。忘れちゃだめだ」
「あ……」
「借金なくなって、いい気持だとぼくは思うんだがね、――ええと、そうだな。園江も小西もっていうんなら、平川もむろんいっしょだろうな。平川にゃ、三度目の金を貸してある。なくさないうちに返済しろって、君から話しておいてくれよ」
 笠原は、立ち上って、紙幣を棚の本の間へはさみながら、もう部屋を半分出かかった高橋の背中へ声をかけた。

×    ×

 特筆すべきことは、雨がまだますますはげしくなっているこの晩に、五人の仲間は、平川が馴染みになっている下谷の待合で、ごうせいな宴会を開いたということである。
 高橋は、笠原と別れてから、その宴会へ廻ったが、そこでは笠原のことを、何も話す気がしなかった。そして五人のものは、飲めもせぬ酒やビールをガブガブと飲み、異国の丘や泣くな小鳩や校歌をどなり、女とダンスをして、ヘドを吐いた。
 十時頃、おどろいたのは、青い顔をして、もう一人の仲間の藤井有吉がそこへやってきたことだった。
 有吉は、坐るといきなり、酒をのまされた。
 若い芸妓がたいそう酔っていて、
「あら、このひと、可愛い顔してるわ」
 といって、そばへぺたりと膝をくっつけてきた。
 ところが、有吉は、めいわくそうだった。
「待ってくれ。君たちにぼく話があるんだ。平川さんと小西君とこへ行ったけど、平川さんも小西君もいなかったから、きっとここだと思って来たんだよ。少し、ないしょで話がある」
 平川が、小西と相談した。
 ヘドを吐いた南条が、縁側で座蒲団を枕にして倒れている。
 女たちが、一時、部屋を去ることになった。そうして、園江が、まだビールのびんを片手にもったまま、あぐらをかいた。
「ぼくはね、君たちのこと、心配したんだ。それでね、悪いことをしないうちにと思って、金をこしらえて来たんだよ」
 有吉がいいながら、持ってきた新聞包みをひろげると、中から五万円の紙幣が現われた。
「これだけあれば、当分のうち、困らないだろう。タタキなんか、あぶないと思うよ。よした方がいいと思ったから、持ってきたよ。これは、使ってしまってかまわないんだ。どこからも文句の来ない金だよ」
 そういって有吉は、五人の顔を見わたしたが、みな黙って眼と眼を見合せている。
 さいしょに、小西貞が、
「ぼくは……ぼくは……ほんとは反対したんだ! ……」
 といって泣き出した。
 それから、バカヤロウ! とどなって、平川が料理の皿をどこかへ投げつけた。バシーンと、皿が砕けて散った。
 有吉は、その五万円がどういう金だか説明する。しかし、高橋勇が、
「わかった。わかった。ありがとう、しかしもう、遅かったんだ……」
 また泣声でいって、有吉に抱きついてしまった。


山のクラブ



 ――実休じつきう討死のとき、長慶ながよしは飯盛にて連歌れんがせしにつげきたる。すすきにまじる芦の一むらといふ句、人々つけわづらひたりしに、その書をひらきて、とかくをいはずさしおき、古沼のあさきかたより野となりて、とつけ終りてさて、実休討死なりとつげきたれり、今日の連歌これにてやむべしとて、さて兵を出されしとなり――。
「いいなア、これは」
 と、友杉成人は、思わず声に出していった。藤井家の玄関からとっつきの、自分にあたえられている小さな部屋で、古本屋で見つけてきた常山紀談じょうざんきだんを読んでいたのである。彼は、三好長慶のうたった古沼の歌を、いくどか口のうちでくりかえしつつ、
「そうだったな。昔の武将には、いいものを持っていた人がある。実朝さねともが、歌人だった。謙信も、詩を詠んだ――」
 などと思いだしたが、すると、すぐにまた考えたのは、有吉のことだった。有吉は、スポーツにも興味をもっていなかった。自分でも愉しいことを、探しあてられないで困っているにちがいない。歌や詩をあたえたらどうであろう。絵画や彫刻や、文学でもいい。こないだから気がついているのだが、何か夢中になれるものを探してやりたい。そうすればあの少年も、不良ではなくなってくる。まだ残っている純真な素質を、生かしてやればよいのだからな、と考えつづけた。
 昨夜は、雨が降っているのに有吉が、三時間だけ外出する、きっと泊らずに帰るから、と友杉に断わりをいっておいて出かけたが、すると約束よりも三十分ほどおくれただけで、
「友杉さん、帰ってきたですよ、ぼく……」
 有吉は、雨にぬれていて、帰ると第一に友杉に顔を見せたから、
「すてきだな有吉君。約束守るんだったら、ぼくは君に、もう絶望じゃない!」
 そういって友杉が、ほめてやったくらいだった。実はその有吉の外出が、二階の書斎へ、誰も手をつけぬことにしておいてある、諸内代議士からの手土産のうち、五万円のさつ束を、有吉が盗みだして行ったのだとは、友杉もまだ知らないでいる。いま、常山紀談から、芸術のことを思いついた。困るのは友杉自身が、製薬化学の出身で、専門以外にはあまり明るくないという気がすることで、しかしこれからは有吉を相手に、俳句や歌の話などしようかと、肚の中できめたのであった――。
 有吉は、今日はめずらしく、学校へ行くのだといって、朝早く家を出た。
 邸内には、貴美子夫人と女中のふみやと友杉とがいるだけである。主人の藤井代議士は、おとといの午前、会社へ出たままで帰らないが、それは、代議士から電話があった。福島に、代議士が経営している炭坑があり、そこでストライキがはじまりそうだった。解決のため、代議士は自宅にも立ちよらず、福島へ赴いたのであった。
 雨の翌日の庭が、染めるような青葉に巻きつつまれている。
 友杉は、読書をやめ、庭へ出た。
 それから、上衣やシャツをぬぎすて、ズボン一ツのはだかになって、まき割りをはじめた。まき割りは、下男としてやる仕事のうちでは、いちばんの楽しみであった。原始的な単純な仕事だけれど、やったことのないものには、その味がわからない。重くて鋭い刃のついたまき割りの斧を、まっすぐに頭上からふりおろすと、太いくぬぎや、松の丸太が、戞然かつぜんと音を立てて割れて、新しい木の肌の匂いが鼻をうった。斧をふりおろす時、雑念が頭に入っていると、刃先が横へそれたり、丸太が倒れたりしていけない。それは剣道と同じようなものだった。心を澄まし、丸太の頭だけを狙ってやると、斧の刃先が、必ず思ったところへストーンとおちた。見ているとつまらないことで、しかし爽快な感じが起るのであった。
 一時間ほどたった。
 薪は、炊事と風呂場とで使うのが、たっぷり十日分はできたと思った。
 薪は納屋へはこんでおいて、井戸ばたで汗をふき、中庭を通りぬけて自分の部屋へもどろうとすると、ギクリとして足がとまった。
 サンルームとここの家で呼んでいるガラス張りの洋室で、レコードをかけ、貴美子夫人がダンスをしている。その相手が、いつの間にきたのか、笠原昇だった。笠原昇は、今日は仕立のいい背広服を着ていた。もう学生ではない。りっぱな青年紳士に見えた。そして、貴美子夫人の胸を抱きよせるようにして、なにか特別なダンスの型を教えているのであった。
 友杉は、中庭から引きかえし、お勝手をまわって部屋へもどった。
 時計を見ると、午後三時に近いから、有吉がいつ帰ってくるかわからない。今日は気を新たにして学校へ行った。しかし、帰ると、笠原が来ていたのでは、せっかくの有吉の気持が、またすっかりとこじれたものになるのであろう。
 友杉は、少しのうち、机の前へ坐ったが、じきにまた机をはなれた。そうして、サンルームへ行き、廊下に立ってドアをノックした。
「ああ、だアれ? お入りなさい」
 貴美子夫人の声がしたので、ドアをあけると、レコードはもうやんでいて、夫人が緑色のカウチに腰をおろし、笠原が、その横の椅子で、外国雑誌の写真を見ている。
「お客さまなの?」
 と夫人がいったが、友杉は首をふった。
「いえ、笠原君に話があるのですが……」
「あら、そうだったの。何よ?」
「笠原君と二人きりになりませんと……」
 びっくりした眼つきで、夫人は、友杉と笠原との顔を見くらべている。そうして、
「おどろいたわ。あたしに聞かせたくない話があるというわけね。たいへんだ」
 からかうようにしていってから、しかしすぐと、明るい微笑をうかべた。
「よくってよ。二人でここで話していらっしやい。あたしは、お呼ばれしているところがあるの。服を更えなくちゃならないわ」
 そういって、カウチから立ち上ってしまった。
 夫人は、渋茶色のスカートに、ハイネックのこまかい縫取りがあるブラウスを着ていて、部屋を横切って行くのが、花の動いて行く感じだった。友杉と笠原との間に、どんな話があろうと、それは自分とは無関係だという顔つきである。うしろ手にサンルームのドアを閉めると、じきに廊下で、
「山岸さーん、山岸さーん……」と女中を呼び立てる声がした。
 その声に、耳を傾けるようにしてから笠原は、膝の上の雑誌をひらいたまま、ゆっくりと視線を友杉に向けた。
「ぼくに、話があるっての、どういうことですか」
 友杉は、立ったままで答えた。
「君の喜ぶ話じゃないですよ。問題は簡単だが、君の訪問についてです」
「というと?」
「先週は、二回、君がこの家へ来た。今週はもう三回目でしょう。今後は、こういう訪問を、よしてもらいたいのです」
「ほう」
 笠原は、雑誌を、閉じてしまっていた。
 友杉の言葉が、あまりにも飾りがなくてハッキリしていて、気を奪われたという形だった。
「わからんな。――すると、ぼくの訪問が、迷惑になるというわけですか」
「そのとおりですよ。ほかに理由がないでしょう」
「しかし……迷惑だって……それは、なぜですか」
「そうですね。なぜかってことは、説明できないじゃないが、説明しない方がいいんじゃないですか。君を、必要以上に傷つけたくないんですよ。要するところは、君がもうここの家へ、来ないという決心をしてくれれば文句はない。君に対して、そのことを、ぼくよりほかに、言い出す人がいなかったものですからね」
 笠原の顔を、かすかな痙攣が走った。
 すぐに、なにか辛辣な言葉で言いかえしてやらねばならなかったが、あいにくとそういう言葉が見つからなかった。今までに、二度か三度しか、口をきいたことのない男である。訪問すると、玄関で取次ぎをする。それから、有吉が、四谷の麻雀クラブへ行くことを、教えてやった。しかも、べつに身分のある男ではなく、単なる藤井家の居候で、同時に書生であり、下男ですらあるはずの男だった。だのに、こんな男は、今まで見たことがないのである。軽蔑してやりたいと思うのに、軽蔑することができなくなっていた。ぬっと椅子の前へ立って、じっとこっちを見下ろしている眼つきが、しっかりしていてたじろがない。肚の中で思っていることを、思ったとおりに口へ出していって、不安もなければ後悔もないという風に見える。才智や口先きだけでは、相手をしにくかった。眼に見えぬ圧力がのしかかってきた。悪くすると、こっちが、犬のように、尾をまいて逃げるよりほかないのであった。
「不愉快だな、実にどうも……」
「そうでしょう。それは、わかる」
「こんなことを、だしぬけに言われるとは、ぼくは思わなかったですよ」
「だしぬけじゃないんです。ぼくの方では、こないだから、考えていたことですから」
「イヤ、――それに、ずいぶん無礼だと思う。ぼくはですね、よその家で、こんな無礼なことを言われた記憶がない。生れてから、これは、はじめてだ!」
 ついに、腹が立ち、声が大きくなった。雑誌を丸めて棒にしてしまった。この表情のおちついた男をなぐりつけてやるかどうするか、ともかくこの無礼を、甘んじてうけているのが業腹で、そのくせに、気ばかりあせって、顔が蒼くなり、唇がふるえた。
「しかし……いったい、誰がぼくのことを、迷惑だっていってるんですか。奥さんが、そういっておられたのですか」
「さア、どうですかね。べつに、誰も口へ出しては言わなかったですよ。ただ、さっきもお断わりしたでしょう。ぼくが、はじめて言い出したのですから」
「ぼくには……イヤ、君が、それを言う権利があるということがわからない。聞いておきたいですね。どういう権利ですか。君が、自分だけの考えで、勝手に来客の訪問を拒絶する。そうして、ここの家への来客を、こんなにも不愉快にさせるということは」
「さア、それはですね、権利の問題じゃない。義務の問題でしょう」
「え?」
「わかりませんか。ぼくはこの家の主人じゃない。親戚でさえもありません。しかし義務をもっている。ぼくは、この家の、忠実な番犬だから……」
「ふうん。――じゃ、番犬だから、誰の足にでも咬みつくというわけですか」
「アッハハハ、そうかも知れませんね。まさか、咬みつきゃしない。が、いやな奴だったら、腕の一本ぐらい、へし折ることはあるでしょう。そういうことが起らないようにしたいと、ぼくは思っている!」
 友杉の顔が、笑ってはいたが、めんどう臭いという色に変ってきていた。この美貌の大学生を、追い出すだけが番犬の役目である。しかし、久しく柔道を使ったことがなかった。庭石へでも投げつけて、じっさいに腕を一本へし折ってやったら、この男はどんな顔をするであろうか。
 笠原の顔色は、みじめに見えた。
 それから、その視線が、横へうごいた。
 両手でふりかぶるのに適当な椅子がそばにあり、また電蓄のこちらに、真鍮の彫刻がついた、重量のある台ランプがおいてあった。
 友杉は、相手の行動を、退散するなり、なぐりかかってくるなり自由にさせてやるために、笠原のそばから少しはなれて、やはりおちついて笠原を見下ろしていたが、その時ふいに邸内で物音がした。
 廊下のとちゅうにある電話が鳴っているのだった。
 聞いていると、ベルがいくどもいくども鳴っているのに、だれも電話口へ出るものがない。多分、女中のふみやは、貴美子夫人外出の身支度で、手つだいをさせられているのであろう。友杉は、もういっぺん、笠原の方を眺めた。そうして、だまってサンルームを去り、電話口へ出た。
 ところが、その電話は、藤井産業の庶務課長からである。課長は、社長夫人に、至急知らせてほしいということだった。会社からもすぐにお宅へ連絡に出向くが、実は、藤井社長が、福島の炭坑で怪我をした。本社からも見舞いにかけつける。社長夫人も、行かれるのだったら、切符を買うことにする。ともかく、奥さんが御在宅だったら、電話口へというのであった。
 やがて、友杉の知らせで、貴美子夫人が電話に出たが、すると話がすぐにきまってしまった。
「わかりました。それじゃ、あたしも福島へ行きますわ。――いいえ、こちらへ連絡に来なくてもいいでしょう。汽車の時間が……そう、あと二時間で出るのね。間に合うように出かけますわ。汽車の中で、話を聞きますからね。そうですか、それほどの大怪我じゃないんだって……ええ、結構よ。医師も、手配して、連れて行くようにして下さい。万一のことがあるといけませんからね」
 そうして、電話を切ったのであった。
 ふみやが、奥様の御旅行で、鞄をつめるやら、着替えを選ぶやら、てんてこ舞いになって、友杉を応援に頼んだ。
 笠原昇は、玄関へ出て靴をはいた。
 それから、中庭へはいり、夫人の部屋の窓へ来た。
「奥さん。おいとましますよ」
「あら、そうだったわね。急にあたし、旅行することになったのよ」
「知っています。福島でしょう。――ぼくも、福島へは、行ったことがありません。それにお手つだいができるかも知れませんね。いっしょにお伴してもいいでしょうか」
「いっしょにって、そうね……べつに、さしつかえはないわ。でも、二時間したら、汽車が出るのよ」
「大丈夫です。遅れないように行きます。じゃ、駅でお目にかかりますから――」
 彼は、靴音を高くして、立ち去った。
 友杉は、あとで、笠原も夫人といっしょに行くのだということを知った。そして友杉は、顔をさかなでされたみたいで、けっきょくあの男には敗北したのだと感じた。


 福島県のN炭坑は、交通の不便な位置にあって、炭質も硫黄が多く発熱量も少ないものとされて、一時ほとんど廃坑の状態にされたのを、藤井代議士が目をつけて買い取って以来、めきめきと盛りかえしてきた炭坑だった。近い将来、炭坑に、コークスエ場が付属する。タールから、副産物ができるだろう。硫黄が、新しい方式で作られる。更に進んで、猪苗代いなわしろの安い電力を使ったら、石炭液化もやれるかも知れない。藤井産業では、この炭坑に、大きな夢を抱いていたのであった。
 ストライキが起りかけたのは、やはり待遇改善の要求であって、それを、労働組合の大きな動きにする前に、藤井代議士がかけつけたのは、たいへん成功であった。紛争は、代議士の熱意で解決された。会社側も、坑夫の側も、十分に満足し合い納得し合って、前よりも、愉快に仕事ができるようになった。そうして、そのあとで、代議士は、坑内を視察することになったが、すると、トロッコの運転手がヘマをやった。代議士を、もう少しで、轢き殺してしまうところだったのである。
 幸いにして、怪我が、軽くてすんだ。
 腰をうたれ、脚を痛めた。が、命には別状なく、それも、しばらく寝ていれば癒るという程度のものだった。
 山に、会社のクラブができている。
 坑道の、石炭殻で黒くなった入口を少しはなれた谷間に、つい最近建てられたばかりだったが、社員の宿泊や集会にあてられるので、設備がよくととのっているし、石炭がふんだんにあるおかげで、冬は暖房が十分であり、夏も、朝から入浴ができる。まるで、温泉のりっぱなホテルのようだった。代議士は、怪我をした直後、このクラブへ運びこまれた。そうして、そこへ、東京からの社員と、医師と、貴美子夫人と、笠原昇とがやってきたのであった。
「びっくりしたのよ、あたし。あなたが怪我したってだけ聞いた時、ドスンと頭なぐられたみたいだったの、あとで、だんだんにおちついたけれど――」
「来て見て、わしが平気な顔しているから、がっかりしたかな。なアに、君がくるほどのことじゃなかったんだ」
「いいえ、来てよかったと思うわ。それに、山の中のクラブ、とても気に入ったのよ。まるで、遊びに来ているみたい。あたしも、一度炭坑の中へ入ってみてよ」
 代議士夫妻は、睦じく話し合った。
 怪我をして寝ているために、ゆっくりとして、久しぶりの愛情を味う時ができたかのようであった。
 三日ほどのうち、表面的には何事もなくて過ぎた。
 代議士は、手当が行きとどいたせいであろう。打身の腫れや痛みが急速に消えて行くようで、まだむろん、蒲団をしいて寝てはいるが、りかかりさえあれば、もう半身起して、しばらく話をしたり、食事をとったりすることができるほどになった。
 四日目の夕方、思いもよらずやってきたのは、中正党代議士諸内達也であった。
 藤井有太の怪我を東京で聞いて、その見舞いに来たというのが口実であるが、むろん、有太を中正党へ勧請かんじょうするための口説き落しが目的である。諸内達也が来たと聞くと、貴美子夫人が、ウッカリして話さずにいた果物の籠の手土産のことを思いだした。あれは、良人が会社へ出た留守のうちのことだった。帰宅するまでと思って、二階の書斎へ、誰にも手をつけさせぬようにして運ばせた。ところが、有太は、自宅へ帰らずに炭坑へ来てしまったから、あれはあの時のままになっている。夫人は、手土産の内容がどんなものであったにしろ、あとで有太が、好きなように処置するのだろうと考えた。そう深くは気にしないでいたわけだった。
 妻の話を聞いて、
「ふうん、そいつは、少し困ったぞ」
 有太は、眉をしかめている。
「オヤ、いけなかったんですか、預っておいたの」
「うまくないよ、金が入っていちゃ、おだやかじゃない。どのくらい入っていた?」
「しらべなかったの、だけど、現金で二十万や三十万、そのくらいあるんじゃないかって考えたわ。とてもかさばった籠でしたから」
「うむ、現金だけじゃなく、小切手を入れとくということもある。イヤ、少なくとも、百万以上だよ。このわしを、買収するには、そう安くないはずだから」
「買収されるつもりですの」
「とんでもない! 百万が二百万、千万円積んでも動きはせん。が、籠を受取ってあるとすると、めんどうだぞ」
「受取りゃしません。諸内さんも、それはわかっていらっしゃるはずですわ。あなたがどうおっしゃるか、とにかく預るということにして……」
「イヤ、いかん。預ったというのが、先方じゃ、受取ったことにしてしまうさ。君にも似合わん、まずいことしてくれた」
「あたしが悪かったとおっしゃるの?」
「まア、そうだ! まるで、子供みたいに考えている。政治家の妻としては、もっと深く考えていてくれなくちゃね」
「すみませんでした。あたし、政治家の妻には不向きでしたわね」
「え?」
「悪かったとおっしゃるから、謝ってるのよ。第一あなた、腹を立てた顔しているわ」
 そうして、そこへもう諸内代議士が、クラブの女中に案内されて、
「ヤア、どうしたい。怪我したっていうじゃないか」
 さも豪放らしい笑い声とともに、その肥った、短い口髭のある、うすあばたの顔をのぞかせたのであった。
 藤井夫妻の、やや険悪になった会話は、自然にそこで打ち切られた。
 そうして、それから十分たった時に、貴美子夫人は、クラブの裏手につづく林の中へ入っていた――。
 林は、濶葉樹や丈の低い灌木や、時々にょっきりとして松や杉が生えている自然林で、空気がつめたく、日の光がもう薄れているので、奥がどこまでつづくかわからないほど深く見える。細い、手入れをしたことのない道を、夫人は歩いていった。そして、大きな木の切株が三つほどある草地へ出ると、ハンケチを出して株の上へしき、腰をかけた。
 その場所へは、実はもう、二度も来たことがあった。
 はじめは、笠原と散歩に出て、木の切株を見つけたから休んだ。しかし、二度目は、今日の午前だった。やはり、笠原といっしょに来たが、すると、笠原がとつぜん物狂わしい態度になり、夫人への愛情を訴えた。その時の笠原は、不思議にも子供のように幼稚に見え、夫人は、姉のように冷静だった。そうして、それから数時間たって、彼女は、また同じ場所へ来てしまったのであった。
 あたりは静かで、草や木の葉の呼吸さえも聞えるほどであったから、それからしばらくした時に、遠くから足音が近づいてきたのは、その足音だけで誰だかということがわかるほどのものだった。
 足音は、貴美子夫人を見て、とまった。
「ああ、やはり、来てくれましたね!」
 笠原が、喜びの声を上げて近づいてきた。
「ぼくは、あれから、三度もここへ来たのです。奥さんが、怒っているのかと思った。それから、イヤ、もう一度、ここで会えると考え直したんです」
「あたしは、わからなくなったのよ。自然に足が向いてここへ来たわ」
「それでよかったんです。ぼくは安心しました。あのままだったら、ぼくは何をするか知れなかったんです」
 それは、本心からいったのかも知れない。また、こういう言葉で、女というものが、いつも我を忘れることをわきまえていて、技術的にいったのかも知れない。
 とつぜん、貴美子夫人の唇に、微笑がうかんだようだった。
「ほんとはね、あたし、夫婦喧嘩しちゃったのよ」
「それは……ぼくのことについてですか」
「いいえ、ちがうの。お金の問題よ。お金って、不思議なものね。男と女との問題と同じように不思議だわ。話してあげましょうか」
 果物の籠の話が出てきた。
 恋愛とは無関係なことであり、しかし、耳を傾けて、笠原はその話を聞いていた。彼は、切株のそばの草へ腰をおろした。そしてその肩へ、夫人の手がかかり、笠原は、ぎゅっとそれを握りしめていた。林の中に残っていた日の光は、もうすっかりと消えてしまい、夫人の顔だけが白く浮いている。誰もこの二人の、邪魔をするものはなかった。
「あたしね、一人でここへきていたのは、いろんなこと、考えてみるためだったの。妻と良人とのことも、わからないことがたくさんあるわ」
「奥さんは、今の結婚生活に、満足していないのですね」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れないわ。でも、満足しない時は、あたしがきっと、慾張りすぎるからじゃないかと思っていたの。藤井は、ほんとうは、とても善人だわ。あんな善人はないくらいよ。それでいて、あたしは、しょっちゅう、退屈していたのよ」
「退屈なんてことは、ぼくは、したくないですね、年よりになってから、そういうことがあるでしょう。しかし、若いうちは、毎時間毎分、充実して生きていたいですよ。退屈を、ぼくは憎みますね」
「憎んだって、あるのだから、しかたがないわ。あなたは、ほんとに、退屈しないでいられて?」
「もちろんですよ。いつだって、ぼくはせいいっぱいの生き方をしているんです。それに、奥さんを知ってからのぼくは……」
「ああ、それは、なにも言わないで……」
「いいえ、言わせて下さい。ぼくは、正直に告白すると、ほかの女たちと、いくどか交渉をもちました。ところが、奥さんを見てから、ほかの女たちが、とても下らない女ばかりだったとわかったんです。急に眼がさめたようなものでした。青春を、今まで無駄にしていたのだと気がついて、それから世の中が美しく見えてきました。朝起きてから寝るまでのうち、一分も休まずに、奥さんのことを考えています。苦しいけれど、ぼくが、ずっと充実された感じでした。そのかわり、奥さんがここで、どこかへ行ってしまっていなくなったら、ぼくは気が狂うんじゃないかと思いました。それくらいいっしょうけんめいで考えて、何か大声で怒鳴りたくなったりしました。一方で、奥さんをぼくが恋するのは、いけないことじゃないかと反省する。しかし、掴みたいものを掴まずにいるってのは、卑怯なんです。ぼくは勇気が出てきました。怖いものはなくなり、どんなものにでも、ぶつかって行ける気がしてきました。藤井さんが怪我をしたという。しかし、それはそれでかまわない。炭坑へ奥さんについて行こうと考えたのは、そのためだったのです。他人が見て、どんな風に思っても平気でした。生死の問題と同じです。それをしなければ死ぬという時、他人の思惑で遠慮して死んだら、そいつは馬鹿だということになるでしょう。ぼくにとってはこの世に奥さんがいるということが、ぼくの生甲斐になってきてしまいました。そうしてぼくは、ほかには何も欲しくはない。ただ奥さんの……」
 笠原の腕が、夫人の腰へまわった。
 夫人の身体は、木の切株から、笠原の膝へ崩れおちた。
「だめ! いけないわ」
「いいえ、奥さん!」
 そうして、唇が、はげしく重ね合わされ、二人の息が、からみ合って喘いだ。
 林の向うの炭坑の方から、とつぜん、音楽の響きが流れてきた。
 若い従業員たちのブラスバンドだった。今夜は、月に一回の慰安会だった。映画があり、漫才があり、素人演芸があった。ブラスバンドが、その開会を知らせているのだった。
 貴美子夫人が、クラブへ戻ってきた時に、藤井代議士は、待ちかねたという顔である。
「どこへ行っていたのだ」
「裏の林を、歩いていたのよ」
「そうか。探していたのだ。東京へ、明日の朝、帰ることにするよ」
「あら、――」
「腰骨んところが、まだ痛い。しかし、無理をしても帰らにゃならん。諸内の奴と喧嘩したよ」
「政治の話、うまく行かなかったのね」
「追い返してやったんだ。はじめから、交渉の余地はありゃしなかった。――しかし、議会へ出ないかぎりはどうにもならない。東京へ行ってから、奴らをとっちめてやる。帰る支度をしておくれ」
 有太は、しきりに気負い立っている。
 政治の醜状を曝露し、中正党を相手どっての大喧嘩をはじめようとしていた。そうして、自分の妻のことは、まだ何も気がつかずにいるのであった。
 しかしながら、東京へ帰ってから、どんなことが起るか、それは貴美子夫人ですら、ぜんぜん予想がつかなかったのであろう。東京へ藤井代議士がもどってから、新しい事件が起った。
 それは、殺人事件であった。


鳩の街



 空の色は、すきとおって晴れていたが、ラジオの予報があった。昼すぎから風がはげしくなり、十米の風速をうけた街路樹の葉が、緑色の大きな包みもののようになって、起き上ったり寝たり、身もだえしている。電燈が、まだ明るい街につきはじめ、窓わくを黄色くぬった、重量感のある新型バスが走ってきた。
「H町……お降りの方はございませんか。H町……」
 風をひいて咽喉へ湿布をまいた女車掌が、腰でうまく身体のバランスをとりながら叫ぶと、平川洋一郎が高橋勇を肘でこづいた。
「オイ、降りよう」
「え?」
「降りるんだよ。ここで――」
「ちがうじゃないか。まだだぜ」
「いいんだ、降りるんだよ!」
 高橋勇は、わけがわからぬといった顔で、平川の眼をのぞき、しかし、立ち上った。そうして、少しよろけながら、平川といっしょにバスを降りた。
「どうしたんだね、こんなところで?」
「いやだったんだよ。変な奴がのっていたよ。じろじろと、ぼくや君の顔ばかり見ている。向うがわの席の、すり切れた鞄をもっていたやつだ。もしかして、刑事じゃないかと思ったからね」
 しかし、その刑事に似た男を乗せたバスは、べつに異変もなく走り去った。平川が、それをじっと見送ってから、アハハハと笑いだしたが、笑う顔は、醜く歪んでいて、唇がビクビクとけいれんしているようだった。
 高橋が、たばこを口にくわえたが、風のために、いくどやってみてもライターが消えた。腹を立て、パチパチと火花をとばし、しまいにはたばこを噛んですてて、靴で踏みつぶそうとしたとたん、土ほこりといっしょの風が、その白いほそいたばこを、道の向うのはしまで、吹きはらって行ってしまった。
 何もかも思うようにならず、気持が灰色だった。
「夕刊にゃ、ぼくらのこと、もう出ていないぜ。まア、このままですむと、うまいぐあいだが……」
 ふいに、平川がいって、ポケットから新聞を出したので、高橋はうけとってそれをひろげようとしたが、やはり風が強くて、読むこともできない。
「朝刊も、そう大きく書いてはなかったから、いいあんばいさ。しかし、失敗だったね。あんなことになろうとは思わなかった」
「池袋の時のように、知っている家にしなかったのが失敗のもとだよ。はじめから、危険なような気がしていた。それを、南条がだいじょうぶだっていったからね。あいつ、まるでまだ子供だったのに……」
「南条もそうだし、小西だって、学校の帽子をかぶって行ったからいけないよ。徽章だけは、ぼくが取らせたんだ」
「新聞に、学生風の集団強盗って出ているので、ギョクンとしたよ。まア、それでも、ぼくたちだということは、まさかまだわかっちゃいないと思うんだが……」
「心配だぜ。警察じゃ、手配つけるまで、詳しいことを新聞に書かせないのかも知れない。ぼくたち、まさかと思っているうちにズキが廻ったりなんかしたものなら。――とにかく、園江にゃ困ったね。逃げる時、反対の方角へ逃げやがった。ぼくは、うしろ姿だけ見たから、声かけようかと思ったけれど、かけられなかった。あいつ、泡喰っていたから、つかまったかも知れないよ」
「いやだなア。園江がつかまって口を割ったら、ぼくらだって、つかまっちゃうよ」
「形勢を見て、場合によったら、自首した方がいいかも知れないね」
「うん、自首するか、高飛びするかだよ。とにかく、園江のこと、確かめてからだ。これから行って、園江がいたら、安心だものね」
 今までに、もういくどとなく、くりかえして話し合ったことばかりである。その時、停留所へ、お婆さんと商人風の男が二人きたから、平川が高橋に目くばせをして話をやめたが、二人とも、不安で眼がおちくぼんでいる。彼等は、池袋での「あれ」を、もうよした方がいいと知っていながら、また昨夜ある家へ強盗にはいった。そして騒がれて、一物をも得ずに逃走した。しかし、今朝になって見ると、新聞には記事が出ているし、心配でたまらなくなったから、例の四谷の麻雀クラブへ集合したが、園江新六だけがやってこない。みんなで、園江はどうしたのかと話し合った。園江も、そう間抜な奴じゃないはずだから、うまく逃げたろう、という者もある。イヤ、あの時は、近所の人たちも出て来て騒いだから、逃げられなかったかも知れない、という考えもわいた。それから、小西貞が、中野で家具店をやっている園江の家まで、様子を見に行ってきたが、どうやら家へも帰ってきていないらしいとわかった。なにかどす黒いいやな気持が、むくむくと、彼らの胸の中へふくれてきた。麻雀をやりかけたが、面白くもおかしくもなかった。鼻が曲ってついていて、笠原昇から、犯罪者型だと罵られた園江の顔を思いうかべ、その顔が、ヤアといって入ってきたら、どんなにいいだろうかと考えたが、待っても待っても、その顔は現われない。彼らは、相談した。そして、そうだ、園江は鳩の街へ入りびたりだ、こっちの心配も知らないで、女と寝ているだろう、鳩の街へ行ってみようということになって、平川と高橋とが、バスに乗って出かけたわけである。
「オイ、地下鉄にしようか。浅草まで行って、それから乗りかえるといいよ」
 と高橋がいったが、平川は賛成しない。
「地下鉄は、ぼくは好きじゃないな。だが、どうしてだい、地下鉄なんて?」
「うん、ただ、そう言ってみただけだよ。バスだと、笠原の下宿のそばを通るね」
「そうか。そうだったな。あいつは、いやな奴だよ。おれは、借金をまだ返さない」
 頭から、一瞬だけ、園江のことがぬけた。
 そうして、そこへバスが来た。
 さっきのより、ひどくこんでいて、天井のチュウブにつかまっているのがやっとである。二人とも話はできなかった。学生が一人、図面や数字のたくさんに書きこんであるノートを、赤鉛筆でアンダーラインをしながら、読んでいる。平川は顔をそむけて、そのまじめな学生を見ないようにしていた。


 鳩の街は、隅田川の向うの、低く湿った土地にあった。昔は――というのは、戦争の前には、少しはなれた玉の井がその場所だったが、今はここへきて商売をはじめた。女たちが、洋装だったり、お振袖だったり、時には女学生のようにセイラー服を着たりして、会社員や職工や、老人や青年がくるのを待っている。世間には女が有りあまっていて、男の相手がない女がたくさんいるのに、ここでは女が、一晩に十人もの男を相手にする。大胆で色っぽくて勇敢だった。そして中には、白痴に近い女がいる代りに、英語をべらべらしゃべることのできる女がいた。
 鳩の街へはいる前に、
「腹がへったね」
「うん――」
 平川と高橋は、屋台店の焼そばを食べた。ひどい匂いがして、口へ入れると、胸がゲッとむかつくほどだったが、鳩の街では金がいるかも知れない。だから、ほかのことでは、倹約をしなければならなかった。がまんして、のみこんだ。ようやく腹ができた。
 ふと気になったのは、平川は背広だが、高橋は学生服を着てきたことで、昨夜の学生風の集団強盗について、もしかしたら刑事たちが、ここらで眼を光らしているかも知れず、だとすると、危険がひしひしと身にせまる思いがするのであった。見れば学生服も、高橋だけではない、ほかにも二三人そこらをうろついているのがあったから、ナニ、かまうものか、平ちゃらな顔でいた方がいいと、度胸をきめることができた。
「わりに淋しいもんだね」
「宵の口だからだよ。それに、風がやめば、もっと人が出てくるさ。平川君は、あんまりここは好きじゃないっていったね」
「うん、芸妓の方が、ぼくは好きだよ。ここはまるで、怖いみたいだね。さきに、どっちに行く?」
「そうだな。ぼくの知っている方へ行こう。そこにいなかったら、君が行った家だ」
 高橋も平川も、園江の案内でここへ来た経験があるが、高橋はつい十日ほど前にきたばかりで、その時に、園江の新しい馴染なじみの女を紹介された。痩せているし、口が狐のようにとんがっていて、小母さんみたいに年をとった女だったが、園江には、その女が気に入っている風だった。高橋に話したところによると、女が園江に、あまりはげしく来ない方がいい、学校のことも勉強して、お小づかいのあまりで、月に一度か二度来るようにしろ。そうすれば、うんと可愛がってやるから、と言ったそうである。同じことを、真実の母や妹に言われても、嬉しくはない。しかし園江は、ひどく喜んで得意になっていた。いるとすれば、その女のところへ来ているにちがいないという見込みだった。
 家の名は、おぼえがない。
 小さい道を三つ曲って、入口の柱を、青と赤とのペンキで塗りわけた家がそれだった。
 まっすぐに、二人はその家へ行ったが、たちまち失望した。
 狐の口をした女が、肌襦袢一つでお化粧をしているところだったが、園江はあの時っきり来ないのだといった。
「どうしたのよ。あの子、いなくちゃ、困ることがあるの」
「うん、用があるんだよ。ほんとに来なかった?」
「来ないわよ。うそじゃないの。――それよっか、遊んで行かない?」
「あいつがいないんじゃ……」
「かまわないじゃないの。あたし、学生さんなら、誰でも好きよ。二人でいっしょでもいいわ。ねえ、とてもいいこと、してあげるからさ!」
 痩せていると思ったが、肌襦袢から、丸い乳の玉がふくらんで見えている。
 高橋も平川も、血が鳴ってきた。園江を探しにきた目的を忘れそうになった。それから逃げ出した。
 平川が、高橋より前に、園江と行った家は、おしるこ屋みたいに作ってある。しかし、園江はそこにもいなかった。第一、園江をおぼえてもいない風だった。平川を相手にした女も、いなくなっている。そうして、やはり遊んで行けとすすめられた。
「困っちゃったなあ。おれ、心配になってきたよ」
 平川が歩きながらいったが、顔はそれほど心配そうでなかった。女に、手をにぎられたり、むりやりに抱きつかれたりして、気分が変ってしまった。心配にはちがいないが、急にはどうにもしかたのないことだった。あとで、ゆっくりと考えた方がいいと思った。
 いつの間にか、風がおさまってきていた。
 高橋がいったように、人が多くなり、賑やかになった。脂粉しふんや汗や食べものやの雑然たる匂いがする。女の笑い声が聞えた。不思議に酔っぱらいはいなかった。果物を売るお婆さんがいる。りんごを買って、立ったまま、丸かじりにしている男がいた。赤い縞のアロハを着た男がきて何か話しかけた。
「じょうだん言うなよ。おれは知らんよ」
「客の靴を持って逃げやがったんだ。君が出たすぐあとで、靴のないことがわかった」
「でもおれじゃねえさ。その証拠にゃ、何も持ってやしない」
「それはそうだがね。まアいい、いっしょに来てくれ」
 すぐに人だかりがして、面白そうに眺めている。まだりんごをかじりながら、けっきょくその男は、アロハの男といっしょに、角を曲って姿を消した。
 夜だのに、空気が熱くなり、汗が出た。
 入浴して、ベタつく身体を洗ったら、きっといい気持だろうと思い、しかし、そんなことでは、おちつけないとも思った。二人ともに、金をいまいくら持っているかと考えた。その金はどっちみち、長く身についている金ではなかった。昨夜の強盗が成功していたら、そんな金はなんでもないもので、そう思うと、ヘマをしたのが、口惜しくなった。園江がつかまらずにいてくれるといい。そうすれば、多分自分たちも大丈夫だろう。今度こそ、うまくやって、もっと上等なところへ行くこともできるようになる。池袋の銀行支店長のような家を、早く見つけなくちゃいけない、などと考えた。
 ついに、二人がはいった家は、とても汚くて小さい家で、仕切りの唐紙などは、ぼろぼろに破れていた。そうして、二人ともに、不愉快になって外へ出ると、病気のことが気になったり、また、さっきよりも園江のことが大きく不安になってきた。
「もう、何時かねえ。ぼくは時計をグニヤ(質屋)へ持って行ったんだ」
 高橋が、一刻も早く、この街を立ち去りたいというように、急ぎ足で歩きながら、急にふりむいて平川に訊いたが、平川は、
「うん、ぼくも、時計、忘れてきたよ」
 てれくさい顔で答えて、それから、別なことを言いだした。
「しかしぼくら、学校の方も、当分は休まない方がいいね」
「そりゃ、そうだな。ノートがブランクばかりだから、試験の夢を見ることがあるよ」
「試験はどうだっていいけどね、休んでいると、警察なんかで調べられた時に、ぐあいが悪いよ。そういや、藤井は、このごろ学校へ行っているってね」
「まじめになったんだ。じきに、またグレはじめるだろうけどね。――あいつは、ここへ来たことがないんだよ。一度つれてきてやろうか」
「うん、そいつは……よした方がいい。藤井にゃ、スケ(娘)がついている。可愛い女だ。むりに、こんなカイヤ(私娼窟)へつれてくることないよ」
 そうして、五六歩行ってから、ふいに平川が思いだした。
「ああ、そうだった。園江のことは、藤井に聞いてみたら、わかるんじゃないかな?」
「ふうん、どうしてだい?」
「藤井は、金を持ってきてくれたろう。金ではあいつは困らないんだ。笠原のようなことはやらないし、藤井のところへ金を借りに行こうかって、園江のやつ、相談しかけたことがあったぜ。昨夜、ぼくらと別れて逃げて、それから藤井のところへ行ったかも知れないね」
「ああ、そうか、そういえば、そうだったね。園江は、ぼくにも藤井のこと話したよ。藤井は、二階の書斎に、果物籠に入れてその金があるってこと言ってたから、園江は、藤井の家じゃなかったら、盗みに行くんだがなアって言いやがった。バカ言え、そんなことしちゃ、藤井がかあいそうだよって、ぼくがいってやったが、ほんとうだ、藤井に園江のこと聞いてみた方が、早いかも知れないね」
 少し、希望がわいてきた。
 それに、園江が藤井のところへ行かなかったにしても、その話のついでで、有吉から金を借りる話をもち出すこともできる。
「これから、すぐ行こうか」
「いや、明日にしよう。今夜は疲れたよ」
 そうして二人は、やっといくらか元気づいた顔になって、鳩の街をあとにした。


果物籠



「あなた!」
 ドアをノックしないで、貴美子夫人が入ってきた。
 はいるとすぐに、蠅が一匹、良人の枕もとの水差しにとまっているのを見つけたから、手で蠅を追いはらって、ついでに、ベッドの毛布のはしをぴんとのばし、それから、そばの椅子へ腰をおろして、うちわの風を、仰向きに寝ている良人の顔へ送った。
「あついんでしょう。窓をあけといた方がよかなくって?」
「うん、さっき友杉がきた時しめてもらったんだ。あとであけてもらおう」
「ええ、いいわ。それから、お腹はまだおすきにならない?」
「も少したってからがいいね。キャビアのパン、うまかったよ」
「いいえ、今度は、もっとおいしいものつくるわよ。みんな、あたしが味付けしてるんですの。台所へあたしが入ってやるから、山岸さん、びっくりしていてよ」
「ほう」
 藤井有太は、妻の顔を下から見上げて、やはりふみやと同じようにびっくりした顔つきになり、しかし、満足そうな微笑をうかべた。福島の炭坑から帰ってきて、もう数日たっている。藤井代議士は二階の書斎にそなえつけのベッドへ、寝たきりになっているのであった。彼は、炭坑のクラブで、諸内代議士と口論した。すぐに東京へ帰って中正党攻撃の火ぶたを切ると意気込んだが、帰りの汽車がいけなかったらしい。帰宅すると、腰から背骨へかけてのはげしい疼痛が襲った。帰った日に、それでも書斎へ上って何か調べものをしようとして、がまんができなくなり倒れてから、そのままベッドを、はなれられなくなったのであった。
 ふしぎだったのは、福島から帰ってくると、貴美子夫人がまるで人が変ったようになったことである。
 夫人は、実にまめまめしく、身うごきもできずにいる良人の世話をやきはじめた。医師の指図で、疼痛部へ薬を塗り湿布をする。新聞を良人に読んで聞かせる。電燈のシェードが汚れていると気がついてすぐに新しいのに取りかえさせた。窓へ草花の鉢をおいた。ベッドに香水をまいた。部屋の換気や日光に気を配った。そうして、夜は、ベッドに並んで籐の寝椅子をはこばせて、その上へ夫人が寝る。そんなにしないでもいい、疲れるからと有太がいうと、だいじょうぶ、心配しないでよ、そばに寝た方が、あたしが安心なのだから、と夫人は答えた。
 こういう変化は、どこから起ったのか、ほかには誰も理解するものがなく、しかし、有太だけが、わずかにわかっていたかも知れなかった。あの夜夫人が、とつぜんに、泣きだした。そして有太を困らせた。
「どうしたのだ。え?」
「泣きたいのよ。泣いてみたかったのよ」
「君が泣くなんて、まごついてしまうよ。わけがわからない。わしが、なにか、悪いことしたのか」
「ええ、そう。あなたがいけないの。あなたが卑怯だから――」
「どういうことかな。もっと、ハッキリいってくれ。卑怯だなんてことは、ないつもりだ。ただわしは、君とは少し年が違っている。そのことを、時々思ってみるのだが……」
「それよ。それだわ。そんなことを、あなたは考えている。だから、しょっちゅう、だめなのよ。あたしが、ダンスへ行ったり、男の友達つれてきたり、それをあなたは、だまって見て知らん顔しているのね。それは、あたしを、ほんとうに愛していることにはならないんだわ」
「待て。それは君――」
「いいえ、いいえ、どんな弁解するか、知っててよ。だけど、あなたがそういう風にしてあたしをほっとくのは、あたしをいじめるのと同じことだわ。そのくせに、自分じゃ、卑怯な苛め方をしているんだってこと、気がつかない。それとも、実は、苛めてやろうっていうつもりでいるんでしょうか」
「バカ言え。そんなに陰険な人間にわしが見えるのかね」
「そうだったわね。それは、あたしの間違いだったかも知れなくてよ。だけど、そうだわ。――たとえば、政治のことだったら、あなたはまるで夢中になってしまうわね。事業でも政治でも、それにかかったらほかのことを、みんな忘れてしまうでしょ。福島から帰ってらしてから、身体がきかない。そうして、諸内さんに使いを出して……いくども使いを出して、それでも諸内さんが、遊説ゆうぜいに行ったのだのなんだのといって、なかなか顔を見せないから、あなた、じれてじれて、じれぬいて、病人車を呼んでこい、こっちから押しかけるなんていうでしょう。あたし、その気持がわかんないじゃないの。だけど、それだけにあたしのこと、夢中になったことはなかったわね。いつでも寛大で冷静だわ。この書斎のベッドで寝ていらっしゃる。病人には、下の日本間の方がいいのに、書斎のベッドに、むりに寝ていて……」
「ちがうよ。ひがんじゃいけないよ。わしは、ここの方が、寝ているのに静かだから、好きなのだ。梯子だんの上り下りが、たいへんだろうとは思うけれど……」
「嘘おっしゃい。そうじゃないのよ。あたしが、男の友だちつれてきて騒ぐから、それを見たくなくて、書斎へ寝たのよ。だけど、そんなことは、一事が万事で、つまらないことだわ。たいせつなのは、あなたが、煮え切らないで、あたしをただ見ているっていうことなのよ。これじゃ、あたしが、いつか何かの穴の中へおっこっちゃっても、あなたは上から覗いて見て、顔色も変えないかも知れないわ。穴がまっ黒な口をあけて待っていても、あたしはずんずんと、その穴のふちへ歩いて行ってしまう。それでいいんでしょうか。女ってもの、どんなに利口だからって、芯は弱くて小さくてバカなんだわ。利口ぶっているうちに、すっかりとくたびれてきてしまうの。ほんとは赤んぼになっちゃいたい。それを、あなたっていう人、少しもわからないでいらっしゃるのだから……」
 有太は、全身に甘味な情熱がわくのを感じ、この妻は、死んだ先妻の節子とは、べつな愛し方をせねばならぬのだと諒解した。身体のきかないのが口惜しかった。そうして、たいへん満足な気持で、それからの日を過してきたのである。
 貴美子夫人の変り方については、むろん、有太だけではなく、邸内のものが、誰も気がついていただろう。
 有太への見舞客がたくさんにきたが、そのほかで夫人を訪ねてきた客は、全部、玄関で断わりを言われた。奥様はお目にかかれません、といって追い返す。笠原昇が、二度、やってきた。しかし、これも簡単に面会を拒絶された。一度は電話をかけてきて、その取次に友杉が出た。友杉は、笠原の声だとわかっただけでガチャリと電話を切り、受話器をはずしっぱなしにしてしまった――。
「そうだったな、忘れていたが、会社から電話がかからなかったかね」
「ええと、どういうお話?」
「硬化油工場の敷地の問題だよ」
「ああ、あれね。気になるのでしたら、あたしから会社へ聞きましょうか」
「そうしてくれ。金が足りないかと思う。そうしたら、銀行へわしから話をしなくちゃならない」
「わかりましたわ。じゃ、――」
 夫人は立ち上った。
 そして階下へ降りてきたが、その時、玄関に客があった。
 客は、有太が待ちあぐねていた諸内達也代議士であった。


「いくども使いをくれたそうだね。イヤ、失敬したよ。遊説で関西へ行っていたんだ。それに、福島じゃ、喧嘩別れしたからね、アハハハ」
 有太が、寝たままだから書斎へ通され、諸内代議士は、例の豪放な笑いを爆発させた。
「しかし、君の方から会いたいというのは、心境の変化があったというわけだろうね。そう思って、ぼくはやって来たぜ。今日は、院内で代議士会さ。総裁が、君のことをぼくに訊いた。御心配無用、万事はわが方寸にありと答えてきた。どうだい、もうこの辺で、ぼくの顔立ててくれよ」
「うむ、立ててあげたいとは思うんだがね、ぼくは寝ていて、いろいろと考えたんだよ。そうして、実は、とんでもないことを思い出してしまった。それを君に話したくてね」
「ふうん、どういうことだね」
「まア、あわてなくてもいいだろう。それは、非常に重大なことで、しかも、ぼくの考えとちがっていたら、まことにつまらないことだったということになるのだ。ぼくとしては、重大になってもらいたくない。ぼくの杞憂ですんでくれたらありがたいと思う。それが政界の威信を、より以上傷つけることになったらたいへんだからね」
 有太は、相手の眼をまっすぐに見て云ったが、その時に、ふみやが茶をはこんできた。諸内代議士は、有太の意味ありげな言葉で、いやな顔つきだった。そして、ガブリと茶を飲み、むりに眼を笑わせていた。
「イヤハヤ、顔を合せるとたんに、爆弾的言辞を弄するから、どうも君にゃ、話がしにくくなるんだよ。重大だの、つまらないだのって、どういうことだね。ま、ハッキリそいつを言いたまえよ」
「言ってもいいさ。しかし、そこのテーブルに、紙ばさみがあるだろう?」
 眼で知らせたテーブルを、諸内代議士がぶりむくと、
「それだ、表紙の青いやつだ。その中に、新聞の切抜がはさんである。それを読んでみてくれたまえ。――イヤ、ちがう。小さいんだよ。うむ、ぼくの書いた感想文やなんかのうしろだ……」
 有太が、自分で手を、出しそうにしていっている。
 切抜を、諸内代議士は、やっと見つけ、それを紙ばさみから抜きとった。老眼で、眼鏡がないと、読むことができない。ハンケチで、ゆっくりと玉をふいた。
「それはね、寝ていてふっと思い出したから、古新聞を書生に探させ、切抜にしたのだ。どうだね、ぼくがそれを切抜かせたということで、なにかドキッとするようなことはないかね。ないとすれば、さっきもいったが、ぼくもありがたい。単なる杞憂であってもらいたいのだ」
 有太は、ベッドから話しかけたが、諸内代議士は、返事もせずに、切抜を読み、そうして、ジロリと有太を見かえした。
 その切抜の記事は、ある男が不思議な家出をしたということを知らせたものである。男は大して有名ではなく、しかし、追放になったもと将官級の軍人だった。そうして、家出後の消息がわからない。どうやら神経衰弱の気味があったようだし、生活が苦しく借金もできていたなどと書いてあった。加東明かとうあきらという名前である。
 相手の表情を見つめようとして、有太の眼つきがきつくなり、諸内代議士は、それをまた十分に意識して、わざとおちつきはらっているように見えた。切抜を、二度もくりかえして読み、それから銀製の葉巻ケースをひっぱりだした。
「イヤ、どうも、これはね……」
「驚いたろ」
「うん、べつに、驚きはしないさ。……むしろ、変だと思うよ」
「というと、その記事では、何も心当りがないというわけかい」
「そのとおりだ。これはこれだけのものじゃないか。元陸軍少将加東明が、敗戦日本で生活苦に陥ちた。そして行方不明になったというだけのことだろう。いったい君はこの人物を知っているのかね」
「知らないこともないよ。軍人だったが、政治が好きな男だね。追放にならなかったら、選挙で名乗りをあげたにちがいないのだ。ことに中正党とは、浅からぬ因縁があったはずだろう。ちがうかね」
「大ちがいさ。因縁などは、少しもない。第一、追放なんだから、政治運動とは絶縁されていたんじゃないかい。どうも、わからんね。この男の行方不明が、なぜそんなに君の心配する重大事なんだか――誰か君に、そういう意味のことを、話した人間でもいたというわけかい」
「イヤ、べつに、そんな人間がいるのじゃないよ。この記事に目をつけたのは、今のところぼくだけだ。新聞を探して切抜をつくった書生も、意味はよくわからなかったと思う。しかし、ほんとうにどうだ。加東明の失踪事件は、君及び君の属する中正党と、なにも関係がないということを、誰の前でも断言できるか」
「できるよ、もちろん!」
 事もなげに答えて諸内代議士は、うすい笑いを頬にきざんだ。
「君、よしたら、どうだい。バカなことで、時間をつぶしたってしかたがない。ねえ、お互いに、肚と肚とで行こうじゃないか。子供の喧嘩じゃないのだよ。この切抜は、せっかく君が見つけたもので、君が重大な意味があると考えたものだから、記念としてぼくが貰って行こう。但し、もちろん、重大でもなんでもありはせんが、要するところ、君はあまりに直情径行けいこうの士であり過ぎるということにならなければ幸いだ。角をためて牛を殺すの譬えもある。そこを考えてもらいたいよ」
 ここらで妥協しようといっているのである。表情が、図太くなってきている。そうして、うまそうに、葉巻をくゆらすのであった。
 藤井代議士は、天井を見たまま、しばらくのうち、だまっていた。
 そして、枕もとのベルのスイッチを、三度押した。
 呼りんは、階下へ通じている。一度押せば友杉で、二度がふみや、三度が貴美子夫人ときめてあった。じきに足音がして、夫人が顔を現わした。
「ごめんあそばせ。あたくしをお呼びになりましたのね」
「うむ。そこにある果物籠だよ。それを、諸内さんに、持って帰っていただこうと思う。――イヤ、諸内君。こいつはね、受けとれないよ。福島では、君の方から、引取りにくるという話になっていた。だから待っていたが来てくれない。物が物で、使いに持たせてやったにしても間違いが起ったり、君が留守で、うやむやに受けとられたんじゃ困るから、気にしながらここへ置いたのだ。今日はぜひとも持って帰ってもらうぜ。――こっちは、手をつけず、中を調べても見ず、家内が君から、むりやりに預けられた時のままにしてあるよ。ねえ、お前、そうだったね」
「それにちがいございませんの。この果物籠のおかげで、主人からあたくし、とっても叱られてしまったんですよ。預かったのが、受取ったことにされるんですって。さア、どうぞ諸内さん。あなた、そんなあたくしまで困らせるようなこと、なさるはずがございませんわね」
 えん然と唇をほころばして、首をかしげるようにして言われたので、諸内代議士は、思わず「やアどうも!」と頭をかいた。それから、ためらったが、けっきょく、
「そうだね。まア、君がそれほどまでに言うんだから、こいつはぼくの敗けにしておくか。よし、逆戻りにするよ。なアに、また筋を変えて、誰かをよこすかも知れんがね」
 そういって、等分に有太夫妻の顔を見くらべ、額の汗を、ハンケチでふいた。
 書斎の片がわの壁に、タイル張りの小さなマントルピースがあり、その上に問題の果物籠がのせてある。
 諸内代議士は有太に背中を見せてそこへ近づいたが、包装紙にちょっと手をふれて、
「しかし、籠の方はがまんしてもらうぜ。中身のかんじんなとこだけ、持って行く。イヤ、かんじんでない、ほんとの果物だってはいっているんだが、あの時のままほっといたんじゃ、腐ってしまっているだろうね」
 言いながら、包装紙をめくって中をのぞいたが、とたんに顔色が動揺した。
 彼は、ゴソゴソと、籠の中をかきまわしていた。一度、ふりむいて藤井代議士の顔を見つめ、また籠の中をしらべ直してから、今度はアハハハと笑いだした。
「藤井君。よせよ、じょうだんは……」
「え、何がだい。何がじょうだんだね」
「ふざけるのも、ほどほどにするんだな。ぼくは、本気にしていたぜ。イヤ、敬服した。完全に降参だ。君にして、かかる肚芸ありとは、不肖諸内も知らなかったね。アハ、アハ、アハハハ……よろしい。これは大いによろしい。籠が、こんなものじゃ、気に入らなかったのはもっともだ。百万円以上とぼくが主張したのに、総務がケチで、まア瀬踏みに、二十万円にしてみろって言ったんだよ。むろん、二十万ぐらいで、藤井君ともあろうものが、目をつぶって通すとは思わなかったさ。わかったよ。早速ぼくが帰って相談する。君が満足するだけの処置をとるよ!」
 有太夫妻には、意味がわからなかった。
「オヤオヤ、どうしたんだね諸内君。何を君はいっているのだね」
「とは、また、ひどく白ばっくれたものじゃないか。ええ? 藤井君」
「困ったな。白ばっくれてなんか、いやしないぜ。誤解はこの際、めいわくだよ」
「へええ、誤解かね、これが。金は、一万円のさつ束を二十個入れといた。そいつを、君はとっておいてね」
「待て……というと、金がそこにないのか」
「ありゃせんよ。梨とレモンが腐っているだけだね」
「それは、オイ、ほんとうか?」
「おどろいたな。まだそんなことをいってるのかい。影もないじゃないか」
「えッ!」
 夫婦はいっしょに、声をあげた。


前兆



 果物籠の中の金は、ついに、盗まれたのだとわかった。
 有太夫妻は炭坑のクラブで、果物籠を預かったことについて口争いをしたが、まさかそれが盗まれようとまでは思っていなかった。性質のよくない金である。預かっただけでもいけなかったのに、盗まれて紛失したのでは、事態がますます悪くなるかも知れない。すでに諸内代議士は、それを皮肉に誤解して、有太が金を取っておいて、なおそれ以上の金を要求しているのだろうといったくらいである。そういう誤解がおこるのも、むしろ当然だった。ここでよほど賢明な処置をとらないと、藤井有太の政治的生命、また社会的信用が、この一角からして崩れかけてくるということも、十分に有り得る――。
「こんなことになるなんて、あたし、思ってもみませんでしたわ」
「ぼくも、意外だよ。君が、そのまま手をつけずに置いてあるといったから、そうだと思っていた。包み紙のぐあいが変になっているとかなんとか、掃除の時にでも、気がつかなかったのかねえ」
「お掃除は、山岸さんがしたり、あたしがしたりです。そう言えば、ハタキをかける時、包み紙のはしっこのところが、少し凹んじゃったような気がしたことはあるんですけど、でも。盗まれるなんて……」
「受取るべき筋合の金じゃない。そっくりそのまま返すつもりでいたから、注意が散漫になっていたのだね。いったい、預かってから幾日になる」
「炭坑のストライキで、あなたが福島へお立ちになったあの晩からですわ」
「というと、もう、十日の余になるだろう。十日どころじゃない。二週間を越しているかも知れない。その間、ずっとここにほったらかしておいたんじゃ、盗む気がありさえしたら、盗めるわけだよ。家の者は、籠の中に金が入っていることを知っているね」
「ええ……それは、知っていると思いますわ……ですけど、家の者でなくって、外からだって……」
「それは、そうだね。この室は、戸締りがよくない。窓の挿込錠が壊れている。バルコニーからでも上ってくると、らくに忍びこむことができるからね」
 有太夫妻が話すのを、そばで聞いていた諸内達也は、なるほどという顔でうなずいたり、立ち上って、その壊れているという窓の挿込錠のぐあいをみていたりしたが、しまいに、ニヤニヤ笑って有太の顔をのぞいた。
「イヤ、藤井君。もう、いいじゃないか、金の話は」
「いいことないよ。盗まれたのは、こっちの不注意だった。これは、ぼくの方で責任を持たなくちゃなるまい」
「へえ。責任を持つって、どういうことになるのだね」
「君が無理押しつけに果物籠を置いて行ったから、こっちはそれで、とんだ迷惑を蒙ったようなものだ。――誰か金を盗んだものがある。それはゆっくり調べてみることにするが、調べてみて、わかったにしろ、わからないにしろ、金だけは君に返すつもりだ」
「そうかね。返すってのなら、返してもらっても悪くはないさ。しかし盗まれた金が出てこないと、君の損害になるんじゃないかい。どうせ、領収書の必要のない金だったのだ。無理に返さなくてもいいのだよ」
「イヤ、返す。ぜったいにこれは返さなくちゃならん。金は……こっちじゃ、内容を調べてもみなかった。一万円の束で二十個あったというのは、たしかだね」
「たしかだとも、諸内達也、そんなことで吹っかけを言やせんよ」
「よし、わかった。金額は、君の言うとおりだと信じておこう。小切手でもよければ、すぐ書くが……」
「待った、小切手は困るよ。現金にしてもらいたいね」
「よろしい。それも承知した。現金では、今すぐというわけにいかない。しかし、今度はこっちから届けるからね」
 性質が潔癖だから有太は、盗まれたにしろ盗まれないにしろ、金は返すのだといって頑張ったが、その押問答のあとで、また有太が言い出したのは、元陸軍少将加東明という人物の失踪事件についてである。
 金は、災難とあきらめて、自分の金を出しても返す代り、加東明についてはなお疑念がある。それを調査するのだと有太は言い、諸内代議士は、フン、加東のことなど、べつに関係はないだろう。それよりも、やはり中正党への入党を再考してもらいたい。それだと、もう何も問題はなくなるのだから、と喰い下って話を元へ戻そうとしたが、けっきょく二人の話は、同じところをぐるぐる廻っているだけで、ケリがつかない。
 彼等は、時々皮肉な冗談をとばし、大きな声を立てて笑った。
 しかし、しまいにこの二人の代議士の間には、何か眼に見えぬ険悪なものが、もやもやと立ちこめてくるかに感じられた。
 そうして諸内代議士は、
「うん、忘れていた。今日は土建業者の会合があってね。ナニ、顔を出しさえすればすむのだが、これでともかくお暇するよ。ああ、奥さん、どうも長時間、おじゃまでした」
 そういって急に帰って行ってしまった。
 諸内代議士を、玄関まで送りだしてから、二階へ戻った貴美子夫人は、ベッドの上で天井を睨むようにしたまま黙りこんでいる良人のそばの椅子に腰を下ろし、疲れたようなため息をついた。
「ねえ、あなた。……あたしがやっぱりおバカさんだってこと、やっとよくわかったわよ。あんなもの、大したものじゃないと思って預かったのが、間違いのもとだったわね」
「そうだね。預からない方がよかっただけは確かだろう。しかし、できてしまったことは、しかたがない。それに、盗まれさえしなけりゃ、よかったんだ。盗まれたのは、君だけじゃない、わしも不注意だったのだからね」
「そういって下さると、ありがたいわよ。あたし、あなたが気の毒で、諸内さんの顔を見ていると、腹が立って、腹が立って、たまらなかったの」
「あの男と話をしたら、べつになんでもないことでも、腹を立てたくなることがよくあるのだ。慣れているから、わしはおどろきはせん。そうしてね、実はわしは、君が思ってくれるほどに気の毒でもないよ」
「ま、そうですか。どうしてですの」
「あいつと話していて、ある確信が胸の中へわいて来た。あいつを、ガンとやっつけてやる手段を考えだした。これは重大なことでね、非常に慎重にやらなきゃならんことだが、ともかく切札を一つ発見したのだから、もうぜったいにわしは、あいつや、あいつの仲間たちに敗けることはないと思う。矢でも鉄砲でも持ってこいでね。その点、わしは、気の毒どころじゃない、たいへん愉快だと思っている。――もっとも、ただ一つだけ困るのは、金が盗まれたことでね」
「とんだ損害でしたわね」
「イヤイヤ、損害のこと、いってるんじゃないのだよ。なアに、二十万や三十万、べつに大した金じゃないんだが、盗んだのが誰かということを調べにゃならん。それが、わしはいやなのだよ」
「と、おっしゃると……あなたも、あたしと、同じこと考えていらっしゃるんじゃないか知ら」
「ふーん。君は、どう考えている?」
「言いたくないのだけれど、盗んだのは、家の中の者じゃないかっていうこと……」
「そうか。そう思うか」
「さっき、諸内さんの前で、あなたが、家の者は金のこと知っているかとお訊きになったでしよ。あたし、果物籠を諸内さんが、むりに押しつけておいて行った時のこと思いだしたわ。その時、玄関には友杉さんと山岸さんとがいただけで、有吉ちゃんはいませんでした。だから、正確に言えば有吉ちゃんは、お金のことを知らないはずで、でも、その後にあなたやあたしが、福島へ行ったりなんかしたから、このお部屋へはいつでも自由に入ることができたはずですわね。あたし、有吉ちゃんのことを考えると、口がきけなくなったんです。家の者だけじゃない、外からだって盗みに入ることができるって言ったのは、諸内さんの手前だけ、わざとそう言っといたのよ。むろん戸締りが壊れているのも、ほんとうですけどね」
「わかった。ありがとう。君の考えと、わしの考えとはまったく同じだよ。――金を盗むようなやつはほかにはいないのだ。友杉も山岸さんも、まことに正直で信頼のおける人間だ。有吉だけが、時計を持出したり写真機を売ってしまったりする。わしは、知っているつもりなのだ。呼びつけて小言をいったこともいくどかある。しかし、叱ると、逃げてしまって近づかない。実に困ったやつでね。金は、有吉が盗んだのにちがいないよ」
 深い苦悩が有太の表情に浮んだ。
 夫人もそれを、慰める言葉がないようであった。
「どうするのがいいかね。有吉を呼んで叱ってみるか……」
「ええ、それはね……」
 夫人は、考えてから、答えた。
「有吉ちゃんのことは、あなたにも、あたしにも、責任があるような気がしてならないのよ。あたしだったら、有吉ちゃんを叱るなんてことはできません。あなたにしても、叱ったら反抗するばかりね」
「というと、黙ってほっとけというのかい」
「ほっとくんじゃなくて、叱るかわりに、もっともっと可愛がってあげたらいいと思うわ」
「うむ」
「お金のことは、友杉さんからでも話してもらって、二十万円を、まだみんな使ったんじゃないでしょうし、返せるだけは返させることにしたらよろしいわ。友杉さんなら、有吉ちゃんがすっかり敬服してるんですから、きっとうまくやってくれますわ」
 賢明な考えだった。
 有太は、なるほどとうなずいた。そうして、眼の先きが明るくなったような顔をした。


「まるで、バカづきだね。ひょっとこのたきびだよ」
「なんとでもいうがいいや。も少し、お時間を拝借しよう。十本、つんでみせるからね」
「まだ上るつもりだから、やりきれない。三万点のトップじゃないか」
「満貫、もういっぺん、やるんだよ。そら、いうことを聞いて、六と出ろ!」
 有吉は、すっかりと、いいきげんだった。
 シャイツをふると、言った目の六にはならなかったが、四と六との十が出たから、パイのとりどころは、思ったとおりの南家ナンチャからで、やはり連荘レンチョアンが、できそうであった。
 相手は、高橋と平川と、もう一人がどこかの会社員で、場所は神田の紅中軒という麻雀クラブだったが、うしろには友杉成人がついていて、有吉の麻雀を見ながら、勝負の終るのを、じっと待っているのである――。
 実はこの日有吉は、いつものように学校へ行ったが、すると高橋勇と平川洋一郎とが、牛込の有吉の家へ行くのは気が引けたのか、学校の門のところへ来て、有吉を待ち伏せしていたのであった。平川も高橋も、強盗で失敗したことは有吉に話さない。しかし、園江新六が、もしかしたら有吉に会いに来たのではなかったかと訊いた。有吉は、考えてみて、ウン、園江は四日ほど前に、金を貸せといって来たことは来たが、都合が悪くてだめだと断わると、もうそれっきり来ないよ、と答えたから、四日ほど前というのなら、強盗を失敗してからのことではないのだとわかり、高橋と平川とは、いささかがっかりしたような顔つきになったが、さてそのあとは、久しぶりに麻雀でもやろうかということになって、有吉はつい誘惑に敗けて、クラブへ来てしまったというわけである。友杉の方は、有太夫妻に二階へ呼ばれた。そうして、有吉のことを頼まれた。ところが、この日に限って有吉が、待てども待てども家へ帰って来ない。夜になってから彼は、思いついて四谷の麻雀クラブへ行ってみたが、そこには例の五人の仲間のうちの南条真が一人きりいて、有吉の行きつけのクラブだったら、神田にも一軒あるのだということを教えてくれた。ようやく紅中軒を探しあてて来てみると、うれしや有吉はそこにいてくれたが、すぐに帰るという気にはなれないらしい。腕力でつれ戻すということも面白くなく、時間がついに十二時を過ぎそうになった。では、これが最後のあと一荘だけということになって、有吉がすばらしく勝ちはじめたから、連荘レンチョアンがもう七回もつづいてしまったのであった。
 八回目の有吉の連荘――。
 有吉は、ピンホーのリーチ、ツモで上ったから、また三千点以上をかせいだ。
「オイ、もういいかげんにしろよ。いくら勝ったらいいんだい」
 高橋が、面白くない顔でいったが、
「勝てる時に勝っとくんだよ。五万点かせいだら、ドロンゲームにしてもいいや」
 と、平気である。平川も、
「勝つのはいいが、勝ち過ぎるのは、気味が悪いぜ。天和やって、帰りに電車で轢かれて死んだやつがある。藤井が十回連荘したら、何かきっとよくないことが起るね。さア、チョンボでもして、落ちてしまえよ」
 とからかったが、
「ううん、だいじょうぶさ。――そう、リーチだ。ツモロン!」
 と叫んで、また九回目を上ってしまった。
 友杉成人は、がまんして、待っている。
 有吉は、宣言どおり、十回の連荘をやり、十一回目、西家シイチャの闇テンをうちこんだ。そしてその次に、やっと勝負が終った。
 千符が百円の賭けで、それにウマがついていたから、最後の回の有吉の勝ちは四千円に近く、しかし、高橋は赤い顔をして、今夜はコテンパアにのされた、この次までノリにしてくれといったので、いいともいいとも、ナニ、都合のいい時に返してくれ、と有吉はえらそうに笑って答えているのであった。
 もう、たいへんに遅い。省線電車も、多分なくなっているだろうという時刻だった。
 高橋と平川とは、どうする、困ったね、徹夜して麻雀うった方がいいが、有吉が帰るのじゃ、クラブのマスター入れてやるよりほかないね。でも、マスターは、ノリになると承知しない。服でも靴でも置いて行かせるからいやだなアと話し合い、けっきょく古本屋の小西貞が近くにいる、そこへ行って泊らせてもらおうということになった。
「有吉君は、帰ろうね」
「ええ、もう、勝ち飽きたから」
「よかったですよ。牛込まで、そう遠くはない。歩いて行きましょう」
 そうして友杉は、有吉に逃げられぬように用心して、九段から市ヶ谷への電車通りを歩きだした。
「ずいぶん、待たせちゃって、すみませんでした。――友杉さんは、ぼくの麻雀見ていて、びっくりしなかったですか」
「そうだな。びっくりしたですよ。とてもついていた。それに有吉君は、強引だから……」
「ぼくの強引なのは有名なんですよ。テンパイしたら、おちないんです。だから、とてもでっかいやつ、ぶちこんじまう代りには、みんながぼくをブルカムで……怖がるっていうことですよ。怖がって、向うでおちてしまうし、ぼくはカンがいいから勝つんですね。さっきの連荘の七対子チイトイツ、ぼくはパアピンがいいってこと、チラッと頭の中で思ったから、わざとフリテンの八ピンで待ってツモっちゃった。いつか、ほんとに友杉さんとやりましょうね」
「やりましょう。ぼくだって、カンがいいし強引だから、有吉君に敗けやしない」
「どうだかな。ぼくをのせるようだったら、ぼくが感心してあげるけどな……」
 友杉が、いやな顔もせず、黙って見ていてやったから、有吉は気を許して友杉に、麻雀のことばかり話しかけてくる。競馬や賭博では、大人でもそれはあることである。勝負のスリルを回想し、ほかは何も考えず、夢中になっているのであった。
 友杉は、果物籠のことを話しだすのに、当惑していた。まだ何も言わないでいたから、帰宅の遅れたのを心配してきてくれたのだとばかり思っている。だのに、金を盗んだのかどうかと、問いつめねばならない。場合によったら、痛い目を見せねばならぬこともあるだろう。有太夫妻に期待されただけのことが、できるかどうかわからない。罪を裁くのではなかった。辱めてもよくなかった。そうして有吉に、こちらからではなく向うから、進んで金のことを話してもらいたい気持だった。
 九段の電車の曲り角へ来ると、巡査が二人を呼びとめて、こんなに遅くにどうしたのかと訊いた。
 怪しいものではない、知人のところで話しこんでいた、自分たちは代議士藤井有太の家の者であると答えてそこを通りすぎた。
 そして、そのあとでようやく友杉は、今日家へ、諸内代議士が来て、果物籠の中の金がなくなっているのがわかったと話しはじめた。二十万円あったのだという。しかし、盗まれたので、有吉の父親は不利な立場に追いこまれた。清廉潔白を以て誇りとする藤井代議士の、せつを買い取ろうとする金を、そのまま着服したのであろうとまで言われた。これは、どうだろう、有吉君に責任はないのであろうかと問いつめた。
「いいかね、有吉君、誤解しちゃだめだよ。君のお父さんは、金を盗まれたので、腹を立てているのじゃ決してないですよ。腹を立てるどころか、こんな風になったのは、お父さん自身、責任があるのじゃないかと考えている。そうして、有吉君がやったことだとしても、有吉君を叱ることはできないのだといっておられる。君は、そういうお父さんを気の毒だと思ってあげなくちゃいけないのじゃないかねえ。――良いとか悪いとか、それをきめようというのでもない。善悪の判断は、有吉君が自分でできることですからね。ぼくとしては、お父さんから頼まれたのを、あまり嬉しくないお役目だと思ったが、しかし、ぼくが頼まれてよかったと考えて、引受けてきた。というのは、ぼくが有吉君を、ぼくに向ってまで嘘をつく人間だと思っていないからなんです。ぼく自身も、何かほんとのことを話すのには、ほかの誰より、有吉君がいちばん話しやすい気がする。それはぼくの喜びなんだ。かくさずに、何でも話すことのできる友人を持つことは倖せだからね。そうじゃないか有吉君。そうして、むろんぼくは、君を信頼していていいのだろうね」
 金を盗んだことを白状させる方便としてではなく、友杉は、真実それを感じていて、そのとおりにいったのである。心配したのは有吉が、金のことだから嘘をついて、盗みはしなかったと言張る場合で、そうなったら、もう絶望だと恐れていたが、幸いにして有吉は、一つずつ友杉のしゃべる言葉を胸の奥で噛みしめて聞いているようであった。
 富士見町をぬけ、市ヶ谷の駅の前へ出て、それから、牛込の高台への坂へかかった。
 坂を上りきると、間もなく藤井家である。
 その時、ふいに、へんなことが起った。
 頭の上の方で足音がして、誰かが坂を下りてきたようである。友杉は、有吉に、まだいろいろと説きさとすようにして話しつづけていた。その声で、坂を上って行く二人に気づいたのであろう。足音の主は、急に向うへ引き返し、坂を急ぎ足で上って行った。そうして、しまいにバタバタと、走るような足音になり、それっきりどこかへ行ってしまった。
 何か不安を感じさせるような出来事でもあるし、また、それほど大したことでもないという気がする――。
 二人は、立ちどまって、今の足音が消え去るのを聞いたが、べつにそのことについては口を利かず、また坂を上って行った。
 そうして、坂を上りきったところで有吉は、友杉が待ち設けていたとおりに、金は彼が盗んだのだとハッキリ言った。
 友杉は、嬉しくなり、また道の上で立ちどまると、前へ廻って有吉を、しっかりと両腕でつかみよせていた。
「ああ、よかったよ、有吉君。ぼくは助かったような気がするよ」
「そうですか。心配かけて、すみませんでした。ぼくは、友杉さんになら、しゃべることができるんですよ。――ほんとはぼくはあの金は、ぼくが持出して使っても、そんなにめんどうなことが起る金だとは思わなかったんです。政治家なんて、収賄だとか買収だとか、しょっちゅうやっているんでしょう」
「そう。それはあるね。しかし、まじめな政治家だっているんですよ。君のお父さんみたいな人もね」
「そうだな、お父さんは、政治家としたら、まじめな人の方でしょうね。――だけど、あの時は、ぼくの友達が、金がなくて困っていたものだから」
「友達に金をやったのですか。金は、二十万円だったというんですよ」
「ぼくは、ゆっくり数えなかった。だから、二十万か三十万の間だと思っていました。そのうち、五万円だけ、友達のとこへ持って行ってやって、あとは一文も使わないんだけど……」
「と、いうと、あと、十五万円は残ってますね。それは、どこにおいてあるんですか」
「お父さんの書斎ですよ」
「え?」
「ぼくは、全部盗み出してきても、あとで金がなくなったのだとわかった時に、どうせぼくに疑いがかかるだろうし、疑いがかかったとなったら、ぼくの勉強部屋なんかへかくしておいても、きっと見つけられてしまうと思ったから、果物籠からは持ち出したけれど、やっぱしお父さんの書斎のうちへ、そっとかくしておいたんですよ」
「そうだったのですか、イヤ、こりゃおどろいたなア。お父さんの書斎から、あとでまた持ち出すつもりだったのだね」
「まア、そんなところですね。持ち出したかったんだけれど、福島から帰ってきてお父さんが、書斎へ寝ることになったから、すっかりだめになっちゃったんです。園江ってやつが、金を借りに来て、それもそんなわけだから、貸してやることができませんでした。――でも、今になってみると、よかったですね。書斎へかくしたから、まだ十五万円、ちゃんとそのままであるんですよ」
 その書斎の金のかくし場所は、書棚の一番下の隅に、上下二巻の『日本史略』という書籍がある。箱入りの厚い本で、本の中身は有吉が、実はもう三ヵ月ほど前にぬいて取って古本屋へ売ってしまったのを、父親の有太が、まだ少しも気づかずにいる風だったから、箱だけが背をこちらへ向けてちゃんと立ててあって、その箱の中へ、紙幣の束を二つに分けて入れておいたのだと、さすがに有吉は、やや気まり悪げな笑い声を立てていうのであった。
 ついに友杉は、ここでは、少々おかしくなってきていた。
 金が、どこへも行きはしない。やはりあの書斎のうちにあるのを、誰も知らないでいたのである。
 五万円だけ減ったのはしかたがない。わかっていたら、五万円だけ足して、その場で諸内代議士につき返してやることもできたのであろう。
 が、これでともかくも、有太夫妻から引受けたむつかしい役目は、無事にすましたと思うと気もゆるんで、
「しかし、お父さんたちに話したら、お父さんだって、笑いだすにきまっていますよ。本の箱にかくしとくなんて、うまいこと考えたからね、有吉君も……」
 友杉は、わざとふざけていって有吉の背中を、ドシンとどやしつけたくらいである。
 その時は、あと数分とたたぬうち、いかなることが起るかを、友杉も、有吉も、まったく予期しないでいたのであった。
 彼等は、やがて、家のすぐ近くまで行ったが、すると、ほとんどいっしょに、誰かが向うからきた。
 靴の音が軽く、小刻みだった。
 そうして、門燈の明るみで、それは貴美子夫人だとわかった。


血の部屋



 夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあたえた。
 何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎている。
 二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだったが、驚きは、向うでも、大きい風だった。
「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」
 そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の先まで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いていた白いエナメル塗りのハンドバッグから、白い小さなハンケチを出した。
 疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさえている。
「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いたわ。一時間も――」
「どこへ行ってらしたんですか」
 と友杉が聞いたが、その時、向うもこっちも、何かバカバカしい間違いが起ったのだということが、頭の中へ閃めくようにしてわかってきた。
「こんなことじゃないかって、あたしもう、いくども考えながら帰ってきたのよ。有吉ちゃん、どこも、怪我なんかしてないわね」
「ええ、そんなことは。――いったい、母さん、どうしたんですか」
 と有吉が、心配な眼つきになった。
「バカバカしいの。有吉ちゃんが、怪我したっていって電話があったのよ」
「おかしいですね。誰からですか」
「男の声だったって、山岸さんがいっていたわ。あたしじゃなくて、山岸さんが電話へ出たものですからね」
「で、その男が? ……」
「有吉ちゃんが、喧嘩で斬られて怪我している……有吉ちゃんに頼まれて電話をかけるのだが、家の人にすぐ来てくれるようにっていってるのよ。所も番地もハッキリといって、草野という請負師うけおいしか何かの家で、そこの家の二階へ、ともかく寝かしてあるから、というんだったわ。あたしは、友杉さんが有吉ちゃんをつれて、いまにも帰ってくるかと思って待っていたところなの。友杉さんのこと、電話じゃ、何も言わなかったっていうから、なんだかわけがわからないけれど、その時はまだ電車があったし、向うで病院へ入れるなりどうなりしなくちゃと思って、あたし、すぐに出かけてみると、おどろいたわ。その草野という家、いくら探したってないんですもの。交番へ行って聞いてみたり、番地違いか丁目違いかと思って、さんざんそこらほっつきまわって、そのあげくがとうとうあきらめて帰ってきたのよ。くたびれて、くたんくたんになっちゃった。早稲田の近くの淋しい場所で、とてもあたしたいへんだったわ……」
 友杉にも有吉にも、その電話の意味はわからない。悪戯にしては念が入りすぎている。とすると、どんな目的があってのことであろうか。
 有吉は、早稲田になど、行きはしなかった。神田で麻雀やっていたのだと、友杉が話した。そして果物籠の金のことはあとで話す、そんなに心配したほどのことはないと、眼で知らせた。
「そうなの。よかったわ。有吉ちゃんにまちがいさえなければ。……さア、家へ入りましょうよ。お父さまが、有吉ちゃんのこと、とても気にして、待ってらっしゃるんだから」
 門のくぐりは、戸締りがしてなく、面目なげな顔つきの、有吉が先きに立ってはいって行った。玄関までが、斜めに右手へ十五六歩ほどで、砂利の道の両側に、松やひばやつつじの株が植えてあり、つつじは、おくれ咲きの白い花をつけている。とつぜん、
「あら、いやだ!」
 と、貴美子夫人が、叫ぶようにいった。
「山岸さん、どうしたんでしょ。用心が悪いから、あたしの出たあと、門のくぐりだけあけといて、玄関は、しめとくようにって、いっといたのよ。――いいえ、そうだった。山岸さん、たしかに内から戸締りして、そして電燈を消したはずだったわ……」
 だのに、玄関は、明るみが、外まで流れだしている。それのみではない。格子にガラスの引戸が、誰か今、人が出て行ったばかりというように、二尺ほどあいたままになっているのであった。
 不安だった。
 なにか、つめたくて、重量のあるものが、ドスンと腹の底へ、おりて行った。
「ぼくが呼んでみましょう」
 友杉が、先きに玄関へ入り、「山岸さん、山岸さん」と呼んだが返事はない。
 貴美子夫人は、靴をぬいだ。
 あわてたので、ソックスがいっしょにぬげそうになり、かかとで折れたたまって踏み心地が悪かったが、それをなおしているひまがなかった。廊下にも、奥の部屋にも、台所にも、電燈がついている。ふみやの姿は見えなかった。まっさきに気にしたのは、お納戸の箪笥で、のぞくと、思ったとおり、抽斗がいくつか引きだしてあって、衣類が乱雑に投げちらしてあった。
「やられたわ。どろぼうよ!」
 いったあとで、箪笥の角に、いや、角だけではない。そこらに、ベタベタと、血がついているのに気がついた。
 失神しそうになって、うしろへよろけてきた貴美子夫人を、有吉が両腕で抱きとめた。そして、友杉が、廊下を走りもどって二階への階段をあがると、書斎の入口まで来たところで、身動きができなくなってしまった。
 書斎は、血の部屋だった。
 代議士藤井有太は、血みどろになり、惨殺されていた――。


 所轄K署で、事件発生の知らせをうけたのは、午前二時を五分過ぎた時であった。
 署長は、官舎で寝ていたが、叩き起された。署僚警部の自宅へも通知が行った。むろん、本庁の捜査課鑑識課へも連絡をとった。代議士が殺されたということは、大事件である。政治的に波及するものがあるかも知れない。現場臨検もとくに慎重にやらないと、あとで何か思いもよらぬ問題を起すことがないとはいえない。終戦後、管内で殺人事件がいくつか起った。しかし、これは、最大の事件だということを、誰もすぐに考えた。夜の明けるのを待つなどという、悠長なことはできなかった。肥満した大堀おおぼり捜査課長が、じきに自動車で現場へやってきた。それにつづいて検事の顔も見えた。たちまち藤井家は、係官の姿でいっぱいになった。ふいに、門のあたりで、なにかどなり合う声がしたが、それは、記者クラブの連中が、現場を見せろというので、見張りの巡査と喧嘩になったからである。そっと塀をのりこしてはいって来て、庭の桜の木によじのぼり、フラッシュをたいた写真班の記者があった。その記者は、三人の巡査が包囲して、じきに樹上から引きずりおろした。
 女中の山岸ふみやが、ボンヤリした眼つきをして、大きな青い風呂敷包みを背中にして帰ってきたのは、そういう騒ぎのさい中である。風呂敷には、毛布と洗面器と氷枕と、有吉の寝巻につかう浴衣が二枚、ほかにタオル石鹸などが入っていた。巡査が、門の前で怪しんでふみやをつかまえ、引きずるようにしてつれてきた。友杉が、ちょうどそこにいて、この家の女中だと断言したが、ふみやは、旦那様が殺されたのだと聞いて、へたへたと廊下へ膝をついた。
「私は、早稲田まで、行ってきたのです。奥さまがお出かけになってから、一時間ばかりすると、また公衆電話がかかってきました。そうです、前のも同じ公衆電話でした。そして、同じ男の人の声ですけれど、誰だかわかりません。奥さまが、坊っちゃまを病院へお入れになった。だけど、病室に毛布もないし、寝巻もない。だから、それを持って、すぐ早稲田まで来てくれっていうのでした。私、お二階へ上って、旦那さまに、それを申上げたら、その時は、旦那様は、ベッドのそばの台ランプをつけて、何か本を読んでいらっしゃいました。そうか、よし、それじゃ御苦労だが、行ってきてくれ、とおっしゃって、私、戸締りをし、出かけたのですけれど、もう電車はありませんし、神楽坂から矢来へ出て参りまして、……」
 それからあとは、貴美子夫人の場合と同じだったらしい。探しても探しても、電話で知らせてくれた病院は見つからなかった。そして、また歩いて帰ってきたというのであった。
 ふみやだけが、その時刻を、おぼえている。
 有吉の入院に必要なものをかき集めて、出る時に台所の戸棚の目ざましを見たら、もう十二時を二十分も過ぎていたというのであったが、その時、藤井有太はまだ生きていたはずであり、今はそれが、血みどろな死体になっているのであった。
 二階の書斎は、四坪半の洋室である。
 南と東へ向いた一部がガラス窓になっていて、東の窓に近くデスクがあり、デスクにそなえつけの椅子のほかに、来客用の椅子が二脚あった。北側に入口のドアと大きな書棚、西の壁にそって、シングルのベッドがあり、このベッドの上で有太は殺されている。
 頭部に、傷がアングリと口をあけている。
 兇器は、まき割りの斧で、そのまき割りの斧が、デスクの横に、立てかけておいてある。それは友杉が、薪をつくる時につかうものだった。犯人は、それを、昔は自動車のガレージであり、今は納屋にしてつかっている表の小屋から持ちだしてきているのである。眠っているところを、頭上からいきなり兇器をふりおろしたのかも知れない。または、眼がさめていても有太は、起き上ることができない身体だったから、抵抗もせず、逃げもせず、やられたのだとも考えられる。血が、壁にまで飛び、また菊の花の模様がついた青い絨毯のはしを、びっちょり濡らすまでに流れていた。生前の有太は、血を見ることが極度に嫌いで、それは病的なものに見えた。しかし、今は、その大嫌いな血の海の中に、物も言わず、仰向けに寝長ねながまっているのであった。
 係官たちは、それぞれの部署に従って、死体をしらべ、犯人の足あとや遺留品をさがし、また家人を訊問して、事件前後の事情を知ることに努めたが、最初にともかく明らかだと思われたことは、この兇行が、単なる行きずりの強盗などがやったことではなくて、ある程度藤井家の内情に通じたものが、それもかなり計画的にやった仕業であるということであった。
 有吉が怪我をしたという、公衆電話の意味が、いま、はじめてハッキリしてきた。
 それは、邸内への侵入を妨げるものを、できるだけ少なくするためだったのである。いったいが家人の少ない家だった。代議士である。また藤井産業の社長である。だから、書生や女中がもっと多くいてもふしぎではないし、ガレージもあるくらいだから、自動車をおいてあったり、その運転手がいてもいい。しかし有太は、戦時中に自動車を軍へ取られて、それっきり自家用車を買わなかった。敗戦国民は、敗戦国民らしい生活をしなくちゃならんといっていた。そのくらいだから、不便でも、人を多く置かなかった。有太夫妻に有吉、それに友杉とふみやとの五人だけであった。そうして犯人は、少なくとも有吉が外出していたことは、知っていたのにちがいない。もしかしたら、友杉がやはり外出していたことも、知っていたのではあるまいか。あとは、貴美子夫人とふみやだけであった。そこで、まず貴美子夫人をおびきだした。次に、適当な時間をおいて、ふみやをおびきだした。あとは、有太が一人だけである。有太を、一人だけにしておいて、さて犯行に着手したというわけであった。
 死体の情況、血液のかたまりぐあい、そして電話のことなどからして、兇行は、午前一時前後だろうという推定がついた。
 そして、係官の頭の中では、次第にいろいろの考えが、まとまりをつけてきていた。
「どうだろう。こいつは、この家へ出入りする人間を、片っぱしから洗って行ったら、すぐに犯人がわかるんじゃないかな……」
「まず、そうだね。面識のあるやつだろう。顔を見られちゃぐあいが悪い。それで、家の者を外へ呼びだした。しかし、主人公の代議士だけ、呼びだすわけにいかなかった。そこで、殺してしまった……」
「待て、そこまで言うと、少し決定的になりすぎるね。コロシがシキのせいだとだけ考えると、はじめはコロシが目的ではなくて、盗みが目的だったということになるだろう。盗みも、なるほどやっている。箪笥をひっかきまわした跡がある。衣類が、しかし、なくなってはいないんだよ」
「へえ、それは知らなかった。家の者がそういっているのか」
「しらべてもらった。すると、和服の方も洋服の方も、どうやら、なくなったものはないらしいというのだ。但し、服の生地が、これは昔の品で、背広二着分、しまってあったのが見えなくなっているのだそうだ。茶に青い縞が入っているというが、ともかく、盗まれたのは、今のところ、それだけだからね」
「考えを変えなくちゃならんわけだな。現金とか、宝石とかは?」
「それも、無いというのだ。だから、盗みが目的だったとはいえなくなる。コロシが目的で、そのついでに、盗みをやろうと考えて、服の生地を二着分、盗んで行ったのかも知れないし……イヤ、そうじゃないね。盗むなら、もっとたくさん盗めたはずじゃないのかな。この点は、なかなか問題だよ」
「コロシが目的で……コロシを目的だと見せないために、盗みをやったということもないじゃないからね。イヤ、そのくらいのことは、やりかねない奴だ。犯行が、ひどく兇暴だ。斧で額をぶち割っている。野蛮なやり方だと思うんだが、一方じゃ、頭を使っているからね。家人を、呼びだしている。その口実が巧妙だ。こいつは、流しの強盗なんかじゃ、ぜったいやらないことだろう。電話は、公衆電話だというんだったね」
「そうだ、公衆電話だ。どこの公衆電話だか、電話局で調べたら、時刻も大体ハッキリしているし、わかるはずだと思っている。電話をかけておいて、犯人は女中が出て行くのを待っていた。それから、まきわりの斧を持ちだした……」
「斧がどこにあるか、それも知っていたのかも知れないね。入りと出のぐあいはどうなんだ」
「まだわからない。女中は、出かける時、戸締りをして行ったという。玄関は内側から戸締りをした。それから、勝手口から出たが、外から南京錠なんきんじょうをかけておいたのだそうで、この南京錠は、事件が発見された時も、そのままかけてあった。だから犯人が、勝手口からはいったということも考えられないわけだ。――出の方は、家の者が帰ってきた時、家の中に、消しておいたはずの電燈がついていて、また玄関の戸があいていたというのだから、まずわかっている。玄関から出て行ったものにはちがいないのだが――」
 出と入りとの問題は、重大であった。特に入りは、ガラスを焼ききる、土台下を掘る、雨戸をはずす、錠前をこわす、屋根をはがし、また汲取口からもぐりこむ、それぞれ犯人常用の方法があって、その手口から、捜査の端緒をつかむことが多い。しかし、この事件では、その点がまだまるっきりわからないのであった。
 事件が発見されてから夜の明けるまでに、家人に対しての訊問が、何回となく繰返されていた。
 その時、友杉や有吉が申立てたのは、彼らが帰る時に、坂の途中で聞いたふしぎな足音のことである。あれこそ、犯人だったのだろう。家で何が起っているのかを、その時に知っていたら、足音を追いかけることもできたのである。今となっては、歯がみをして口惜しがっても取返しがつかない。友杉は、係官に向って告げた。
「足音の様子では、一人きりだったと思います。それに、もしかしてあの坂に、土のやわらかいところでもあったとすると、そいつの足あとが残っているのじゃないでしょうか」
 足あとは、ふみ荒されると、役に立たない。まだ暗かったが、刑事が二人、手提電燈を持って、坂をしらべに行ったが、やがて、どうも、うまくない。坂の道路に砂利がはいっている。しかも、固く乾いている。足あとらしいものは、発見できなかったという報告をもたらした。


 貴美子夫人は、恐怖に圧倒され、また深い悲哀のうちに沈みこんでいた。
 はじめ、友杉が、有太の殺されていることを発見した直後、彼女もおどろいて二階へかけ上ったが、書斎の入口に立ち、血まみれな良人の死体を一目見ると、
「たいへんだ! 医者を……早く、医者を呼んでちょうだい!」
 わめくようにしてうしろをふりむいた。
 すぐに眼が狂人のように輝き、部屋の中へとびこもうとしたので、それは友杉が抱きとめたが、彼女は、有太がもう死んでいるのだとは信じない、どうしても医者を呼ぶのだといって頑張りつづけた。
 悲鳴でもあげるかと思ったがそうではなくて、その代りに、非常に気が立っている。そうして、だまってほっといたら、何かとんでもない、狂暴なことをでも、やりそうな風が見える。
 凄惨なこの部屋の様子を、長く見せておくのはよくないと気がつき、友杉と有吉と二人がかりで夫人を階下の室までつれ戻したが、すると、
「いったい、どうしたっていうのよ。なぜ、こんなことになったのよ。――こんなことって、まるでわけがわからない。ねえ、手を放してちょうだい。お願いよ。あたし、もういっぺん行って見てくるわ。だめよ、だめよ、こんなバカなことってないじゃないの。ねえ。あたしは、もうおちついているわ。行かせてちょうだい、お願いだわ。ねえ……」
 夢にうなされたようにしていって、そのあと、はげしく泣き伏してしまった。
 有吉が、それまでのうちは、魂を引きぬかれたように、キョトンとした眼つきをし、ただ途方にくれているという風だったが、貴美子夫人の泣くのを見ると、急にこらえられなくなったらしい。彼もその時、声を放って泣いた。
「ぼくが……悪いんだ。ぼくに、責任があるんだ。ぼくが家へ帰らなかった。だから……ぼくのことで、みんなが外へ出てしまって、その間にお父さんを殺した奴が、ノソノソと入って来たんだ……」
 くりかえし、そう叫んでいるのであった。
 こういう混乱の中で、ただ一人友杉だけが、ともかく思慮を失わずにいた。
 警察へ電話をかけたのも彼である。
 係官が来た時のことを思って、事件の起った部屋へ、家の者をも、もう入れさせぬようにしていたのも彼である。
 そうして彼は、係官が来る前に、貴美子夫人と有吉に、一つだけ注意をあたえた。
「いいですか。有吉君については、有吉君が果物籠の金を盗みだしたことを、なるべく警察へは知らせない方がいいと思いますからね。これは有吉君の恥です。知らせずにすむのだったら、知らせぬ方がいいんですからね。有吉君は、麻雀で遅くなって、心配だったから、私が迎えに行ったとだけ申立てておけばいいでしょう。――もしかして、その金のことが、関係があるのだったら、私が警察へそのことを話します。まア、様子を見てからのことにしますからね」、
 その金が、事件と関係があるとは思わなかった。だから友杉としては、事件と切りはなし、有吉のために秘密に処理してしまうつもりだったのである。金は、十五万円だけ書棚の『日本史略』のケースに入っている。あとで五万円足して諸内代議士に返してやる。それでよいのだと考えたわけであった。
 係官の方では、金のことは知らずにいて、しかし有吉が、麻雀で夜更かしをしたり、書生が心配して迎えに行くという点から、有吉の素行が、かなり不良なものであろうと推測した。
「息子が不良だとすると、その点で、何か問題がありゃしないかねえ」
「そうさ。あるかも知れないな。殺された親父と仲が悪かったとかなんとか……。そうだ、その点は調べておく必要があるね」
 係官は、相談をして、女中のふみやを呼ぶことにしたが、ふみやは、何も気がつかずに、有太と有吉とが、あまり仲がよいとは思えなかったといった。親子でありながら、子は父を恐れ、父は子を憎んでいるように見える。最近はそれほどでもないが、以前は、二人が口をきき合うのも珍しいくらいであったと答えた。
 係官は、ふみやを去らせたあとで、眼と眼を見合わしている。
「ふしぎなのは、息子の態度が、われわれの前で、へんにオドオドしている点だよ。神田で麻雀をやっていたといっている。賭け麻雀だろう。賭博であげられるのを心配しているのかとも思ったんだが……」
「犯人が、家の中の事情に通じている点から見ると、こいつは、も少し念入りにやる必要があるね。友杉という書生と二人で神田から帰ってきた。しかし、友杉という男も、態度が、へんだといえば、へんだからね。こいつは、ひどくしっかりしているんだ。一言一句、むだなことをいわない。聞くことに応じて、実に要領よく答えている。――待てよ。兇器の斧は、あの書生がまき割りの時に使うやつだっていうことだったね」
 この上に、まだ不利なのは、時間の点が、あいまいになっていることだった。
 十二時をすぎるまで、神田の麻雀クラブ紅中軒にいたというが、何時何十分にクラブを出たのか、友杉も有吉もハッキリ言えない。一方、兇行は午前一時前後だった。神田にいたというのは嘘で、邸内へもっと早く帰っていたのかも知れない。それに、公衆電話が男の声であった。友杉か有吉かが、その電話をかけたのだという疑いもわいてくる。
「よし! 麻雀クラブを、夜が明けたら、すぐに当ってみることにしよう。二人の申立てと違っていたら、二人がホシということになるかも知れんぞ。――書生も息子も、家へ帰る途中の坂で、犯人らしい者の足音を聞いたといっている。ところが、足あとはありゃしないのだ。足あとの残る場所でないことを知っていて、わざとそういうことを言い、こっちの捜査方針を狂わせるつもりだったということも十分考えられるのだからね」
 誤解は誤解を生み、しかも係官は、誤解だと気がつかないから、急にそこで元気づいてきていた。
 ――やがて、待ち設けていた朝がきた。
 谷野という警部補が、さっそく神田の紅中軒へかけつけだが、紅中軒では、昨夜麻雀を何時までうっていたのかと訊かれると、主人が、取締り規則の違犯になっていることを心配したから、
「そうですね。十一時少し前に、店を閉めたと思います。いえ、賭けなんか、ぜったいやらせませんよ。そして、規則どおり、いつも十一時には、お客さまに、帰ってもらうことにしておりますので……」
 と嘘をついた。
「そうかね。これは、ある事件に関係したことで、非常に重大な問題なんだよ。たしかに十一時以後麻雀をうっていた客はないのだね」
「まちがいなし、十一時でおしまいでした。事件てのは、どういうことですか」
「新聞にも、いずれ出るだろうから、その時にわかるさ。ついでに聞くが、昨夜の客のうちに、藤井有吉という男と、友杉成人という男がきていたかね」
 主人は、急に困った顔をしたが、そこまで嘘もつけなかったと見える。
「ええと、その友杉っていう人は知りません。しかし、藤井ってのなら、学生さんでしょう。藤井さんは、来ていました」
「それで、藤井が帰ったのは?」
「十一時に少し前でしたろう。いえ、私は、奥にいましたから、ハッキリしたことは知りません。しかし、十一時に店をしめた時、藤井さんは、もういませんでしたから」
 谷野警部補は凱歌をあげた。
 まっしぐら、捜査本部のK署へ戻った。
 これで、友杉と有吉とのアリバイが破れたことになるのである。昔のやり方だったら、すぐ二人をひっくくってしまってもよい。あとは、物的証拠を探すだけのことになったと考えてしまった。
 ところが、その頃に、事件現場の藤井家では、有吉が、もう一つ、係官の疑いを招くようなことをやってしまったのである。
 有吉は、書棚の金のことが、気になってたまらなかった。
 よせばよかったのに、自分の隠しておいた場所に、あのままあるかどうかを、たしかめたくなった。
 二階へ、一人で、上って行った。
 すると、書斎の入口に、刑事が二人、まだ見張っている。
「ぼく、ちょっと、書斎へはいりたいんですが……」
「困りますね。死体を解剖へ送るまでは、なるべく、入ってもらいたくないんですが」
「中をかきまわすんじゃないんです。調べたいことがありますから、辞書を見たいんです。一分間だけです。はいらせて下さい」
 刑事は、眼と眼で相談した。そうしてよろしいと許可をして、しかし、じっと有吉のすることを眺めていた。
 有吉は、書棚のガラス戸をあけ、辞書を探すふりをして、そっと『日本史略』のケースを引っぱりだし、中をのぞくと、思わず「あッ!」という声を立てた。『日本史略』は二冊あり、はじめに見たのは上巻だったが、次に下巻のケースをのぞいても、やはり驚きの表情が、すぐ顔に現われた。そうして、
「どうしたんです。何をびっくりしているんですか」
 刑事が、目ざとく、そのケースのあるところへきたが、
「いえ、なんでもないんです。ただ、ちょっと……」
 口をにごらして、赤い顔をして、有吉は書斎を出てきてしまった。
 事情を知らぬ人から見ると、それは少なからず怪しい挙動に見えた。
 しかも、有吉が書斎を出て階下へ行こうとすると、友杉は、有吉が二階へ何をしに行ったのかと心配し、階段を下から上ってきたから、二人は、階段の踊り場で、バッタリと顔をつき合した。
「友杉さん、たいへんですよ」
「どうしたの?」
「金が、なくなっているんです。隠しといた本のケースが、二冊ともからっぽになっているんですよ」
「え!」
 声は低かったから、何を話したのか、刑事たちには、わからなかった。
 しかし、それは、十分に怪しい態度として見えたのである。


虚実



 所轄K警察署の二階の、暗くてせまい廊下のつきあたりのドアには、『藤井事件捜査本部』と、あまりうまくない字で大書した紙が貼りだされていた。
 ドアは、ぐあいが悪いから、あけたてするたびに、ギギイッという悲鳴をあげる。そのいやな音は、事件の起った日、しきり間っきりなしに聞えていた。顔色のよくない若い刑事が、藤井代議士邸へ出入していた人物について、新しい聞込みがあったといって、眼つきを昂奮させて帰ってくる。古参の見るからに老練らしい背の高い刑事が、すぐにまた何かの命令をうけて外にとびだして行く。制服の巡査が二人、事件現場見取図と附近略図の拡大したものを持ってきて、ピンで壁に貼りつける。――目まぐるしく係官が、その室へ入れ代り立ち代りしているのであった。
 午前十一時、代議士の死体を解剖した結果、やはり致命傷は、斧で一撃された頭部の傷だと判明した旨の報告があり、またべつに本庁鑑識課から事件現場階下の台所には、犯人が血を洗い落して行った形跡があるのだと知らせてよこした。そうしてそのあとへ、自動車で乗りつけてきた刑事部長が、この事件は、とくに迅速かつ慎重に処理してもらいたい、警視総監も心配しているのだからといって、捜査課長以下の係官一同を激励して帰って行った。
 署員が、食事の都合を聞きにくる。
 新聞が、捜査経過を早く発表したらどうかといって催促にくる。
 卓上電話を二つ急設することになって、電気屋さんが、コードをぐるぐると部屋中へひっぱりまわしたが、すると、それができあがったとたんに、その二つの電話がいっしよにジリジリ鳴りだしてしまった。
「被害者の息子……そうです、有吉についてです。学生で、まだ十八歳だというんですが、情婦があるってことがわかりましたよ。相手の女も、H女学院の生徒で十七歳、会社重役の娘ですが……ええ、名前は、波木なみきみはるっていうんです。好きで会ってるとか、手紙のやりとりをしているってんじゃなくて、もっと深いらしいですね。情婦ですよ。二人で宜しくやってるんですよ」
 という報告と、もう一つは、電話交換局を調べに行った刑事からで、貴美子夫人とふみやをおびきだした電話が、牛込公衆Bの八番であるとわかったことを知らせてきたものである。その電話のボックスは、藤井家から約五〇〇メートルをへだてたT字型道路の角に立っていて、夜間は人通りがさびれるから、利用者の数がきわめて少ない。前夜は、十一時半ごろと十二時数分後との二回にわたって、そこから藤井家を呼びだしたものがたしかにある。むろん、それが犯人にちがいないというのであった。
 有吉について係長が、
「どうですか課長。おどろきましたね。議員さんの息子も、これじゃすっかりもう与太もんですよ。麻雀ばくちはやる、ダンスホールへ行く、女もつくったというわけです。ともかく、この女も洗ってみる必要があると思いますが……」
 やれやれといった顔でため息をつき、課長は、
「そうだね。見たとこは、おとなしい息子に見えるが意外に悪くなってるんだね。まア、洗ってみなくちゃなるまい。ただ、息子が犯人だとはきまらないし、その娘の方も事件と関係があるかどうかわからんだろう。若い者に、あとで傷がつかないように注意してやることだ。――ぼくとしては、公衆電話の方が興味がある。現場と五〇〇メートルの距離だ。歩いて五分あれば足りるだろう。犯人は電話をかけておいて藤井家へ行った。そうして女中なり細君なりが、うその電話と知らないで外へ出て行くのを見ていた。それから、邸内へ侵入したという順序になるんじゃないかね。くわしく地取りをしてみることだな。もしかして、犯人が公衆電話のボックスにいる時、または、そこを出て藤井家へ行く時……イヤ、待て。二度も電話をかけているんだよ。場合によると、被害者の家と電話との間を、いくども往復しているかも知れないぞ。その時に、犯人の姿を、誰か見ていたものがあるとすると面白いじゃないか」
 丸く肥った短い指で、買いたてのボールペンのキャップを、ぬいたりはめたりしながら答えていた。有吉や友杉に怪しいふしがあることは、すでに本部へも報告があって知っている。しかし、まだ的確な嫌疑をかけるという段階へは進んでいない。捜査は、できるだけ網を大きくひろげ、理詰めで一歩一歩進めたかった。願わくば、その公衆電話の受話器にでも、犯人の指紋が残っているというようなことがないだろうか。犯人が電話をかけたのは、第二回目が午後十二時数分過ぎだという。それなら、もしかすると、今朝の夜明けまで、ほかには誰もその電話を使用したものがなく、従って、もっと早くそのことがわかっていたら、受話器の指紋を検出することができたのかも知れない。今からでも遅くない、という流行語があったが、それは果して、今からでも遅くないのであろうか。今日は、まだ誰もその公衆電話へはいったものがないというような、奇蹟があると都合がよい。そうだ、ともかくこれは、手配を急いでみようと、課長も係長も、いっしょに考えているのであった。
 係官たちは、ゆうべの真夜中に、官舎や自宅から呼び出されてきたものばかりで、昼の食事がすむと、少し眠くなった。
 課長は、階下の署長室へ行って腕椅子を借り、よりかかるとすぐにいびきをかいた。
 係長は、署僚警部と昔から親しい仲で、子供が大きくなって中学へ入ったが、靴を買わされて閉口したという話をした。
 その時、だしぬけに署へ出頭したのが、友杉成人であった。
 署の受付へきて彼は、
「内密でお話をしたいことがあります。なるべくなら、捜査課長か係長さんにお目にかかりたいのですが――」
 と、いつものおちついた調子でいったが、その眼のうちには、何かしっかり決心したものが出てきている。署内は、急にまた緊張した。それから、課長と係長とが二人でいっしょに友杉に会ったが、するとすぐに友杉の話しだしたのが、例の果物籠の中の二十万円についてであった。
 実は、友杉としては、それをいくどか考えてみたあげくに、当局へ知らせてしまうのが、最適の処置だときめたのである。十五万円残っているはずだったのに、意外にも、全部なくなっている。それには有吉自身がびっくりし、友杉もおどろいてしまった。そうして、もうこうなってからでは、かくすことができないと感じた。かくしても、あとで知れて、そのために有吉が、どんな誤解を招くまいものでもない。表面的に見ては、金も有吉が全部盗んだと思われてもしかたのないことであるし、一方には、金を盗まれたのが、代議士の殺されたのと同時であるか、またそれ以前のことであるか、それも問題になるのであろう。藤井代議士を買収するために、諸内代議士が持ってきた金で、政治的に波及するところが大きいかも知れない。いずれにもせよ、うやむやで葬り去ろうとしたら間違いが起る。貴美子夫人ともそれは相談してみた。有吉が困って泣き出しそうな顔になり、しかし、はじめに盗んだ五万円を誰に与えたか、その友人の名前までハッキリと打明けて話した。有吉は、平川や高橋や園江が、その前日強盗をやったことを、今ではうすうす知っていて、それだけは、さすがに辛うじて言わなかったが、ともかく警察へ、残り十五万円の件を話すのは、やむを得ないことだと承服し、そこで友杉が、向うから呼ばれぬ先にというつもりで、とりいそぎ捜査本部へ出頭したわけである。
 友杉の申立ては、重大だと思われる。
 課長も係長も、耳をかたむけてそれを聞いた。
 そして、終ってからなお係長は、事件発生前の友杉や有吉の行動について、いくつかの鋭い質問をしたが、それはとくに、彼等が麻雀クラブ紅中軒を出た時間が問題だった。友杉が、クラブ主人の申立てとはちがって、ほとんど十二時を過ぎてからクラブを出たと記憶しているから、記憶のとおりに答えると、係長は、それを証明するものがあるかと訊きかえす。友杉は、そうですね、と考えこんで、いっしょに麻雀をうった平川と高橋を思いだしたが、じきにハッと明るい眼つきになった。有吉と帰る時、九段の電車の曲り角で、巡査に見とがめられて不審訊問をうけている。その時、自分らは藤井代議士邸のものだということを答えたのだから、それを巡査が忘れずにいてさえくれればよい。時刻は、巡査が記憶していてくれるにちがいないのである。――係長は、鉛筆で頬杖をつき、友杉の話すのを聞いているうちに、やはり急に眼つきが明るくなってきていた。そうして、そうですか、それはよかった、九段の巡査だったら、調べるとすぐにわかることだからと、愉快そうな口調でいうのであった。
 一時間あまりいて、友杉が帰る。
 そのあと、課長と係長とが、いっしょにたばこを口にくわえた。
「貝原君。君はどう思うかね、今の男を」
「感じがいいですね。会ってみているうちに、考えを少し変えなきゃいかんという気がしてきましたよ」
「同じだな。ぼくと……」
「ある程度の嫌疑が、あの男にもかかっています。事実、何かしら変なところがないじゃなかった。しかし、信頼がおけるのじゃないでしょうか」
「話した事実はオカしなことだよ。二十万円の金のうち、五万円は被害者の息子が盗んだ。が、ほかに十五万円盗んだやつもいるというのだ。ところが、申立ては信頼してもいいという感じを与える。捜査の資料を提供してくれただけでもありがたい。――まア、しかし、九段の巡査を調べなくちゃいけないがね」
「すぐやりましょう。それに事件が派生的にいろいろの面を持ってきたようです。第一、諸内代議士というと、名前は相当に知れている人物ですよ。こっちへも、すぐ手配をつけてみますか」
「むろんだ。やらんきゃならん。これはぼくから本庁へも連絡をつけておく。ともかく、うまくやってくれたまえ。ぼくは、ここで、ちょっとほかへ廻って来なくちゃならないが――」
 時間がたつにつれて、頭も身体も、忙しくなってくるのである。
 課長は、べつの用件があって、その時いったん捜査本部を出て行ったが、気になるからまた三時間ほどして帰ってきた時、係長が、待ちかねた顔で報告した。
「わかりましたよ。九段の巡査は」
「ほう。どうだった」
「友杉の申立てが正しいのだとわかりました。午前一時十分、九段で不審訊問をうけています。一方、藤井代議士の殺されたのが、やはりその一時に十分前か十分後というところで、その時刻には、友杉も有吉も、九段附近にいたというわけです」
「よかった。だいたいはアリバイが成立つじゃないか」
「だいたいどころじゃなく、りっぱなものですよ。それに、まだお話ししなかったからいけないが、つまりは紅中軒の親父が、でたらめをいっていたのです。ついさっき、呼びつけて叱りつけました。すると、一も二もなく恐れ入って、実は午前一時近くまで、客を遊ばせておいたというんです。その客というのが、有吉とその友だちで、そばで友杉が麻雀を見ていたというのもほんとうだったそうでしてね。むろん、ずっと夢中で麻雀をやっていて、公衆電話をかけるひまもなかったんですから、ぜったいに二人とも、嫌疑の余地はありませんね。二人だけじゃない、いっしょに麻雀をうっていた有吉の不良の友だちも、前に有吉から五万円もらった事実はあるが、それ以外べつに何もないという見込みが立つのですし、もう一つ、有吉に問題がないとすると、有吉の情婦だという少女についても、もうべつに大して調べを進める必要がなくなったように思うんですが、ところで困ったのは、諸内代議士の問題でして……」
「二十万円の件だね。そっちはどんなあんばいだった?」
「てんで話にならないのです。そういう金については、まったく覚えがないというんでして、ひどく頑張りました」
「ふうん」
「仮にも、藤井を買収しようとしたなんて、外聞の悪いことを言ってくれるな。我輩、そんな愚劣な行動は決してとらない。警視庁ともあろうものが、実にべらぼうな話をするもんじゃないか。とんでもない言いがかりだ。俯仰して天地に恥じず、公明正大、誰の前でも断言する、そんな汚いことをするおれではないぞといって、大声に笑いとばしてしまったんです。諸内代議士の言葉を正しいとすると、この点でだけ、友杉の申立てが、嘘だということになるのですが……」
 諸内代議士の、人を人とも思わぬ笑い顔が、目に見えるようである。
 課長は、なるほどそうか、とうなずいて見せたが、眼尻をかすかに笑わせている。何か考えていることがある風であったが、べつに何も言わず、ドシンと椅子に腰を下ろすと、留守のうちに集まっていた報告書類に目を通しはじめた。


 友杉や有吉の身辺については、もう完全に、何も問題がないように見えた。少なくともこの二人が、藤井代議士殺しの犯人でないだけは確かだった。今や当局としては、そのほかの方面へ、目を向けねばならぬ時期がきていたのである。
 係官たちは、血眼になって、捜査資料の蒐集につとめた。
 また、いくどかめいめいの意見を持ちよって議論を交し、捜査方針の確立をいそいだ。
 残念にもその時はまだ、事件現場たる藤井代議士邸で、犯人の遺留品であるとか足跡であるとか、直接犯人を推定するに足るような具体的物件が、何一つ発見されていない。それに、一時ひどく有力視されたのが、牛込公衆B八番の電話についての調査であって、これは、捜査課長も気づいていたとおり、犯人を目撃したものがあったり、また電話機に指紋でもついていたとすると、たいへん好都合であるにはちがいなく、しかし物事は、そう思ったとおりにはならないのが常である。その電話は、一時使用禁止にした。同時に、そこらかいわいの家を、刑事が軒なみ尋ねまわって、犯人目撃者を探してみたが、結果は甚だかんばしくない。指紋は一つだけ、ハッキリしたのがあったが、調べてみると、電話のあるすぐ前の家の少女が、病気で学校を休んだから、少女の母親が、学校へ電話をかけたのだそうで、つまりその母親の指紋が残っていたのだとわかってしまい、それもそこまでわからせただけが容易なことではなく、一方犯人を目撃したというものも出てこない。けっきょく、絶望とは言えぬにしても、あとは根気ずくで、同じことを続けるよりほかないということになってしまった。
 もっともここに、甚だ興味のある問題が一つ提出されている。
 例の果物籠の金についてだった。
 この金を、一方では、諸内代議士から無理押しつけで藤井代議士に渡そうとした金であるといっているのに対し、諸内代議士が、頭からそれを否定してしまったのは面白い。多分それは、友杉の申立てが事実であり、しかも政治的な意味に於て、諸内代議士としては、否定せざるを得なかったのではあるまいか。が、それだとすると、金の背後にひそむ問題は、どうしてなかなか、一朝一夕にはメスを入れ難いほど大きなものになってくるのだし、といって、それを藤井代議士殺害事件と切りはなして考えてよいかどうかにも疑問があり、また切りはなしてみたにしても、事件発生直後に、残り十五万円の紛失がわかったというのが、どうやら全然無意味なことでもなさそうである。黒いモヤモヤした雲がかかっている。雲の向うには、どんなに驚嘆すべき、そして恐ろしいことがあるのかもわからない。不気味で大きな懸案だった。もちろん、いつかはそこへぶつかるのだろう。が、焦っては失敗する、うかつに手をつけられぬという気がしてくるのであった。
 事件発生の日の翌日――。
 藤井代議士邸は、たいへんな混雑状態に陥った。
 警察当局が、現場の調査を打切って、邸内への人の出入りを許したので、有太が殺されたことを新聞で読んだ人々が、どっと弔問に押しかけたのである。
 さすがに代議士ではあるし、藤井産業の社長として、実業界にもある程度名を成していたから、弔問客は、各層各界にわたって多数であった。大臣の車が門の前へとまった。取引銀行の支店長がやってきた。学生時代からの友人がくる。築地の某料亭の女将おかみもきた。出入りの商人、区長、通運会社や肥料会社の社長、そして貴美子夫人――今は未亡人といった方がいいのであろう、未亡人と親しかった画家や音楽家、また洋裁店のデザイナーまでくるといった工合であった。
 人々は、応接室や廊下や、すでに有太が遺骨になって祭壇に安置されているサンルームの入口などで、くりかえし生前の有太について語り合い、口をそろえてあのようにも清廉潔白であった有太の死を残念がったが、それと同時に、この敬愛すべき人物を、残酷にまき割りの斧で殺した犯人が誰であるかということについても、いろいろと意見を述べ合っていたようである。
 その時に、そういう弔問客の中へ、生前の有太の知友でもないらしく、かといって、未亡人貴美子の姻戚らしくも思われぬ人物が、あちらに一人こちらに一人、べつに話相手があるでもなく、ボンヤリした顔つきをしてまぎれこんでいたが、それは実は、捜査課から選りすぐってよこした最も敏腕の刑事たちであった。刑事が、受付にもいた。台所へも顔をのぞかせた。人々が語り合う雑談に、片言隻語をも聞きのがすまじとして、じっと耳を傾けているのであった。
 有太が、若い頃は、なかなかの乱暴者で、しかし友情に厚い男だったという話が出る。
 先妻の節子をいかによく愛したかという話も、小さな声で話し合うものがあり、しかし、今の貴美子未亡人とは、年がいくつ違っていたのかと、それをひどく気にして人に訊くものもあった。有太が、政治の問題で、近いうちに大いに世間をびっくりさせることが起るぞ、と語ったことがあると話すものがあり、しかしそれがどんな問題であるのか、誰も知っているものがないようであった。酒量はそれほどでなかったが、酔うと下手な節廻しでおけさ節を歌ったという話――。また、芝居を見ていてボロボロ涙をこぼしたという話――。
 どうやらまだ、捜査の助けになるような話を、誰も持ちだすものはなかったが、そのうちふいに玄関で、
「やア、どうも、とんだことで……」
 と大きな声がした。
 それは、いかにもくったくのない明るい響きを伴っていて、しかし、いささかこの場合としては、無遠慮にすぎるような声だったので、そこにいた人々は、ハッとして声のした方をふり向いて見たほどだったが、その声の主は、中正党代議士諸内達也であった。
 彼は、鞄持ちの書生を供につれ、時期にしては少し早い白いパナマ帽をかむり、自動車できていた。むろん、弔問のためにきたのであったが、受付で名刺を出して玄関へ上ると、そこですぐに知人にあった。そうしてその知人と、玄関からとっつきになっている書生部屋の前で、立話をはじめたのであった。
 彼は、それからあとは、はじめほどの大きな声でなく、普通の調子で簡単な話をつづけた。そしておしまいに、
「イヤ、藤井君も、まったくえらいことになったものですよ。政治的意見では、わしと大分喰いちがいがある。だから議会では議論ばかりしましたが、そのくせ、忘れられん男でしてね。なかなかよいところがあったが、こういう死に方をするとは思わなかったですな。まア、不運というものでしょう。世の中が混乱している。その犠牲ですな。政治家としての前途も、大いに期待すべきものがあったのに、実際残念なことをしましたよ」
 知人にそういって別れを告げ、それから奥へはいってきた。
 藤井代議士買収の画策については、当局も慎重な態度をとり、新聞などにはいっさいそれを発表しないことにしていたから、来ていた一般の弔問客は、まだ何も知らないでいたことだろう。
 彼は、いつもに変らぬ剛愎なつらがまえで、そこにいた人々の顔を、一巡ずらりと見渡していた。
 刑事が、この時ばかりは、きっと身を乗り出すようにして、この代議士の一挙一動を見まもっている。
 が、彼は、口を大きくへの宇に結び、そのうすあばたのある顔を昂然と上げて、祭壇のしつらえてあるサンルームへ進んだ。そして、きゅうくつそうに、膝を折って坐って礼拝し香を焚き、そのあと、壇の前にいる貴美子未亡人の前へきた。
「驚きました。御愁傷さまです。奥さんとしては、いろいろとお話もあることでしょうし、いずれ、日を改めて参りますが、私も何かとお力になれるだけのことはしてみたいつもりでおりますから……よろしいですな。この際、十分に考慮なすって、世間を無益に騒がせぬよう願いますぞ」
 と最後の言葉を、ひどく低い声で、そして力をこめていった。
 未亡人は、この男が、金のことを否定したのだということを、むろんもう聞いて知っている。十分に考慮せよというのは、いかなる意味であるかもよくわかる。しかし、ここでは口へ出すべき問題ではないから、だまってただうなずいただけであった。
「御霊前へどうぞ……」
 代議士は、紙に包んだかなり分厚なものを未亡人の前へさし出し、そして席を立った。
 あとは何も言わない。
 それだけで、スッと帰って行ってしまった。


死んだ猫



 日が暮れたばかりの銀座は、光や音に充ちあふれ、いつにも増して、若い男や女の姿がいっぱいだった。
 女は、美しく生き生きとしていてなまめかしく、男は元気で愉しそうで、みんな苦しみや悲しみを持っていないように見える。露店の前の人だかりが、ワッと笑い声を立てた。閉店前の時計店の飾窓に、金やダイヤをちりばめた高価で珍しい時計が、ずらりと光って並んでいた。ビヤホールは、歩道まで客がはみだしている。腕と肩と胸とを、むっちりむき出しにした女が、背の高い男に抱きささえられて、横町から出たとたんに、つきあたりそうになった。
「こんど、どこへ行くのよ。どこへでも、あたし平気よお!」
 女の言葉が耳に入った。
 そして高橋勇は、頭がぐらつくような気持がし、さえぎる人波をぬけ、セルロイド人形の露店の前で、立って待っている平川洋一郎に追いついた。
「それでねえ、平川君。そん時ぼくは、藤井のおやじが殺されたなんて、ちっとも知らなかったから、ドキッとしたんだよ」
「同じだよ、ぼくも。ふいに刑事が来やがった。ちょうど、ぼくのおやじが、アトリエで仕事をしていた。女中がおやじに知らせたんだ。おやじが、先に刑事に会った。ぼくの方は、あれがばれたのかと思っちゃった。藤井から五万円もらった、あのことを確かめに来ただけとは知らなかったからね」
「ぼくの方は、もうだめだ、と思ってしまってね、すきがあったら、刑事をつきたおし、表へ逃げ出そうかと思ったくらいだよ。下宿のおかみさんがそばで見ていた。あとで聞いたら、ぼくの顔が病人のように青くなっていたっていうんだ。よかったよ。まったくよかったよ。心配なのは、やっぱりまだ園江のことだけどね。あいつ、それっきり、会わないんだよ」
「へまやらずにいてくれると、ありがたいね。ぼくは、毎日、電話しているけど、まだ家へ帰らないっていうことだ」
「帰っていても、ぼくらに会わせまいとして、家でうそついているんじゃないのかねえ」
「ちがうさ。そんなことはない、園江の家は、おふくろが女中上りで、かぼちゃのように肥っているよ。おやじは、ほかにお妾こしらえてるし、園江のことなんか冷淡で、いく日家へ帰らなくても、まるっきり心配してないんだよ。まア、園江が、つかまらずにいさえしたらいいと思う。園江のことより、こっちのことが心配さ。もうぼくは、もいっぺん、『あれ』をやる気にはならないしね」
 尾張町の角へ来ていた。
 二人ともに咽喉がかわき、アイスキャンデーでもいいから食べたいと思ったが、がまんして向う側へ渡った。金がなくなっている。煙草を買うのがやっとこさである。『あれ』をやる気がないのは本当で、しかし、うまく行く見込みがつけば、『あれ』よりほかに金が手に入らないのだから、やはりやってもよいという気持がどこかでしている。平川洋一郎は、画家の父親のアトリエから、額ぶちを盗み出して売ってきた。高橋は、靴を質に入れた。が、明日の朝は文無しになるにちがいない。こんな時、藤井に頼んだら、いくらかは役に立つのだろう。けれども、藤井は、父親が殺されてからまだ一週間くらいにしかならないから、そこへ金を借りに行くなんてわけにいかない。高橋は、立ちどまり、ポケットへ手を入れたが、たばこがもう二本しかないと思いつくと、そのまま歩きだした。敏感に平川が、たばこならあるよ、といって、光の箱を出した。
「中心附近の風速は四十メートル、毎時二十五キロの速度で東北東に進行中……」
 どこかでラジオが、今年で何番目かの台風のことをしゃべっている。
 しかし、誰もそんなことは、気にしていない。またビヤホールがあった。泡立つジョッキを白い服のボーイが配っていた。バタや肉の焼ける匂いがした。横町の屋台店から煙が流れ出し、そのそばでリンタク屋が、ボンヤリとネオンサインの方を見ている。夏の着物に赤い帯の女が二人、眼を輝かし、笑って、そばを通りすぎた。血が、うろたえ騒ぐようで、胸のうちが苦しくなった。
「しかしねえ高橋。藤井はきっとしょげてるだろうな」
「うん。かあいそうだよ、あいつはね。あいつは、南条と同じに少年だからな。ぼくらが告別式に行った時、何かぼくらに話したいような顔つきだったよ」
「でも、ぼくはあとで考えたんだ。藤井は、もしかしたら、ぼくらを疑っているんじゃないかってね」
「ほう、どうしてだい?」
「ぼくらが、五万円もらった前の晩、荒仕事したってこと、藤井はもう知っているからね。それと同じことを、ぼくらが藤井の家へ行ってやったんじゃないかってことも考えられるんだ。もちろん、ぼくらは藤井と麻雀をやっていた。だから、君やぼくが直接そんなことをやるはずはないが、ほかにぼくらの仲間があれば、藤井をぼくらが麻雀で引きとめておいて、一方でその仲間が電話かけたりなんかして、藤井の名前で家の者を呼び出し、それから忍びこむことだってできるだろう。藤井も、そんなことを、一度は考えてみるんじゃないのかねえ」
「考えたって、そうじゃないから、平気だよ。――しかし、犯人は誰だろう」
「わからないな。新聞にも、迷宮入りかって書いてあった。政治的陰謀の疑いがある、という記事もあったね。しかし、詳しいことは何も書いてない。某政治家――ってしてあって、名前も発表されなかった。おまけに、その某政治家ってのは、アリバイがあったそうだからね」
「まアいいさ。どっちみち、ぼくらが藤井代議士殺しとは、まったく無関係なことは事実だから、その点でぼくら心配することはないわけだ。それよりも問題は、ぼくら自身のことなんだよ。そこでこの際、とくにいやなのは、笠原だよ。笠原のやつ、なぜぼくに、用があるから来いっていうのか」
「笠原を、いやだと思うのは、君だけじゃないね。みんな、あいつには、かなわないと思っている。でも、ぼくは、わりに平気だぜ。金はあいつから三度も借りた。利子が高いから、借りるのはいやだけれど、今のような場合には、けっきょく、まああいつから借りるよりほかないだろうとも思っているんだ」
「うん、それはね平川。君は、池袋で『あれ』をやった金で、ぼくが笠原に借金返しに行った時のこと、まだ詳しく話さないから、そんな平気な顔をしているんだよ。ぼくは、その時に、笠原の眼で睨まれると、身動きができなくなるような気持だった。ぼくは、いいアルバイトを見つけたから、それで金ができて借金を返せるのだといった。ところがあいつは、アルバイトなんか信じてやしない。何かべつのことで金が入ったのだと思っている。高慢ちきな眼つきでぼくの顔のぞいて、腹の中じゃ、エヘラエヘラ軽蔑して笑っているんだ。そして、悪いことをすると親が心配するっていう話をしたよ。チャリンコでつかまった川上のことをいったり、小西や園江が低能児で、ことに園江は、鼻が曲がっていて、先天的犯罪者型の顔だなんて、ひどいこといったんだ。ぼくは、怖くなっちゃった。長いうち笠原と話してたら、池袋のこと、見ぬかれそうだと思ってしまった。あわてて帰ろうとしたら、ぼくが帽子を忘れそうになったから、笠原がニヤニヤして、その帽子をぞうきんぶら下げるようにしてぼくに渡したが、ぼくは、笠原にとびついて、首をしめてやるか、でなきゃ、逃げるよりほかないという気がしたものだよ。あいつは、きらいだ。恐ろしい奴だよ。それだのに、いい話があるから会いに来いっていうんだからね」
「ぼくの方へも、いい話があるっていってきたんだよ。南条と小西とは来ないそうだが、なにしろいい話だっていうのだから……」
「そこだよ。気味が悪いんだ。南条は子供だし、小西は低能だときめていて、君とぼくだけを呼びつけるのだ。しかし、ろくなことじゃないね。藤井のおやじが殺された事に関連して、五万円ぼくらがもらったことだって、あいつはもう知っているにちがいない。そして、池袋のことや、下谷でぼくらが失敗して園江がいなくなってしまった、そのことも感づいているんじゃないかと思う。警察へぼくらのこと、話す気になれば話せるのだ。それでいて、いい話だなんて……」
 サイレンが鳴り、ジープが走って行った。
 が、歩道はべつに何事もなく、笑いさざめき昂奮して、肩と肩とすれ合わせて人が歩いている。
 平川は、ため息をつき、高橋は、ワイシャツの袖で汗をふいた。
 藤井や園江や笠原のことを、百ぺんでもくりかえして話したかった。話して、話して話してしまって、そうしたら、何か安心できるような気がした。
 薬局があった。
「ぼくはね、催眠剤をのんでみたよ」と平川がいった。
「催眠剤より、阿片アヘンかなんかがぼくは欲しいよ。そんなにいい気持じゃないともいうし、でも注射するやつがたくさんいるからね」
 と高橋は答えた。
「まるで、でたらめになっちゃいそうだね」
「しかたがないさ、池袋の『あれ』をやったんだから、あとはますますそうなるよ。藤井のようなスケがあるとまだいいんだけど」
「女はいいね、女とねると、気が休まるとぼくも思うんだよ。ほかのこと忘れてしまうことができるのだ。けれども、ぼくの女は芸妓だから、金がかかってだめなんだ。金がほしいね」
 平川は、またため息をし、洋品店の角を曲って横町へはいった。
 笠原がダンスホール・オーロラへ来ている。そこへ来いという知らせであった。気は進まないが行くよりほかないのである。
 ホールへ入るだけの金がないのに気がひけながら、二人は、地下室の階段に立ち、笠原を呼び出してもらった。そうして笠原は、十分ほども二人を待たせてから、象牙彫ぞうげぼりのように顔の輪廓のととのった、しかし、笠原より年上の女と、腕を組み合わせてそこへ出てきた。
「速達がとどいたんだね」
「うん――」
「平川君には電話だったから、来ると思っていたんだよ。二人でいっしょに来てくれたのはありがたい。――が、今夜は、急に予定が変ったのでね」
 笠原はチラと女をふりむき、それからズボンのポケットへ手を入れると、厚い紙幣束をつかみ出していた。
「高橋君にもお気の毒だけれど、今夜はだめなんだ。明日の午後、ぼくの下宿の方へ来てくれないか。その代り、ほんとにいい話なんだよ。まア、今夜は、これをとっておいてくれたまえ」
 二人はびっくりしていた。この男が、こんな風にして気前を見せるとは思わなかった。平川の手へ押しつけられた金は五千円近くあるだろう。なぜ笠原がこんなことをするのか、てんでわけがわからない。それに、機嫌よく陽気な目つきで、二人を真実仲のよい親友のようにして取扱うではないか。
「かまわないんだよ。その金は、君たちが使ってしまっていい金さ。じゃ、しっけい」
 笠原は、もう、二人をふりむかない。女とまっすぐに行ってしまった。
 平川も高橋も、あっけにとられた。
 笠原が、向うの明るい通りへ出るところでタクシーをひろい、女といっしょに乗りこむところを見てしまってから、急に泣きそうな声で高橋が叫んだ。
「オイ、平川、ぼくらも、どこかへ行こう。バカにしてやがる、笠原のやつ!」
「うん、あいつ、ぼくらを軽蔑して、女の前で優越感を味わっているんだ。いいさ。したいようにさせておくさ。あいつはあいつ、こっちはこっちだ。ほんとに、どこかへ行こう。どこだっていいだろう。これだけあれば、どうにかなるからね」
 と平川もいった。腹の立った声だった。そうして、もらった金を、そのままポケットへ押しこんだ。


 その晩、高橋勇は、でろでろに酔った。キリスト教や共産党や保守党のことを、でたらめに悪くいったりほめたりし、また道の上で人に喧嘩をふきかけそうになった。そうして平川洋一郎は、迷惑し、貴様は馬鹿だと罵りつつ、けっきょく二人して少しも知らない家へ行った。
 その女たちは、同じアパートの小さい部屋を二つ続けて借りていて、自分たちは姉妹だといったが、なるほど顔がよく似ていて、服装も化粧もみすぼらしい代り、見た目には健康そうであり、よく二人を歓待し、ことに平川の女は平川を、芸術家にちがいない、あたいは芸術家が大好きだといって、夜っぴてそばをはなれなかったから、平川は、藤井のことも園江のことも、笠原のあの不思議な態度すら忘れて、満足したくらいだった。
 朝は、女たちが、トーストをこさえてくれた。しかし、高橋が頭痛で起きていられぬくらいだといい、昨夜の屋台で飲んだ酒にメチイルが入っていたのではないかと心配したが、二時間ほど寝ていると、高橋もやっと痛みがとれたといった。
「ねえ、これからあんたたちはどうするの」
「帰るのさ。しかたがないよ。金がなくなってしまった」
「あら、お金なら、気にしなくてもいいわよ。夕方までいらっしやい。その間は、フリイタイムよ。お互いにサービスだわ」
「面白いんだな。お互いにって、どういうんだい」
「わかんない人ね。お金がないと、食べるものにだって困るでしょう。それは、あたしたちが心配するわ。そうしてあんたたちは、こっちのいうなりになっているの。あたしたちのような女でも、たまにはできるったけたんのうしたいと思うものよ」
 いつもこの女たちは、自分の気に入った客を取れずにいるのかも知れない。が、それにしても、平川や高橋にとって、こんな女は予想外だった。そうして考えると、昨夜はヤケになっていて、何かはずみがついたら、ついフラフラと自殺でもしそうな気持だったが、笠原に会ってから、へんにアヤがよくなってきたような気がした。この分だと笠原の話もほんとに悪くないことのように思われる。とにかく世の中は、そう悲観したものでもない。不貞腐ふてくされな、しかし図太い勇気が二人ともにわいてきた。
 午後、台風は日本海にそれたらしいが、雨が一時はげしく降り、その雨がやんでから、二人は女の家を出た。
 そうして、本郷の焼けのこり地区にある笠原の下宿へ行ってみると、笠原は、
「ずいぶん待たせたじゃないか。しかたがないから、ぼくが一人で出かけてしまおうかと思っていたよ」
 バリッとした夏の背広を着て、柱にかけた鏡に向い、ネクタイを直していたところである。ふりむいて高橋を、頭から爪の先きまで見下ろすと、
「学校の服、着て来ちゃったね。帽子も汚い。――しかし、今日はまアいいとしておこう。そのうちに、服を新調させるぜ」
 と笑いかけ、次に平川にも、
「ああ、そうだったな。平川君は、まだ借金がそのままになっているだろう。が、これはあとで差引になるさ。ぼくは事業をはじめる。君たちに手つだってもらうのだからね」
 もうそれを決定したという顔で言うのであった。
 言葉が笑い声でも笠原は、瞳が冷たく澄んでいて、腹の底を見透かし難いところがある。それに、事業をはじめるとは、どんなことなのか。ウカと口を利いたら、足をさらわれるようなことがあるかも知れぬと感じ、この男に抵抗したいと心のどこかで焦りつつ、しかし平川も高橋も、その抵抗心が、もろくも急に薄れて行くのを、くやしいが、ハッキリと自分で意識した。
「夕飯には、少し早いね。事務的な問題を片づけてから、レストランへでも行くことにしようか」
 ひとり言のように笠原はいって、さて外へ出て、白線入りのタクシーを拾ってから、だしぬけにしゃべりだした。
「早い話がね。ぼくは昔からある一つの言葉に疑いを持ちはじめたんだ。その古い言葉は、青年には未来の期待があるとか、未来こそは青年のものだとか、そういう種類の教訓なんだ。いいかい、なるほどわれわれ青年には未来がある。そうしてその未来の輝かしさを思えばこそ、青年は現在のあらゆる労苦に堪えることができるというんだよ。ところが、未来ってものは、ほんとにそんなに輝かしく愉しいものかどうか、実際は誰にだってわからないものじゃないだろうか。それはその未来になってみてわかることで、イヤ、そもそもは、生命というものを、現在と未来とにわけて、未来だけが値打ちがあり、現在はその値打ちのある未来の為への準備時代だとする、この考え方が、ぼくは不当だと思うのだ。一個の生命は、その生命全体を通じて、価値を論ずべきだと思う。つまり、現在には現在としての価値があって、これは、必然的に未来と連続はするけれど、未来よりも低い価値だとは、どうしても言えないのだよ。むしろ、現在の方が、あるかないかわからない未来よりも、その現在を、享受している者にとっては、価値があるといっていいのじゃないか。――むつかしく考えず、青年と老年とを比較したまえ。老年は未来だが、肉体的にも精神的にも、老年は青年に劣っている。そうして青年こそは、生命のもっとも旺盛な時期だ。はげしい恋愛ができる。食慾も十分だ。それでいてこの生きる力の充実した時期を、しなびておとろえて、もう女を抱くことすらできなくなっている自分の老後のための犠牲にするなんて、まったくバカバカしいことじゃないだろうか」
 高橋も平川も、口をはさむことができなかった。笠原のしゃべることの意味はわかる。しかし、自分たちを呼びつけて、昨夜はいきなり小づかい銭をくれ、さて今はなぜこんな理窟をこねだしたか、動機がまったくわからないのであった。
 二人が、眼をきょときょとさせて、相槌もうてずにいるのを見ると、笠原は、ふいにニヤリとした。
 そして、笑いだした。
「アハハハ、平川君も高橋君も、びっくりしたみたいな顔してるね」
「うん……どうも、ぼくは哲学の話はきらいだからね」と高橋が、顔を赧くして答えた。
「ウフフフ、哲学の話はよかったね。なに、哲学というほどのものじゃあるまい。要するところは、ぼくらは青年で学生だろう。そして、青年らしく学生らしくやれってこと言われるだろう。その、青年らしく学生らしくやることを、今の時代では、新しい角度から決定したいという意味なんだよ。ハッキリ言おうか、ぼくはぼくら学生のやるバイトについて論じているのさ」
「へええ、アルバイトをね。アルバイトが、どうしたっていうのかね」
 平川が、自分を馬鹿だと思われるのを気にしながら、やっとそこへ口を出したが、笠原の眼は明るく愉快そうに輝いている。
「つまり、学生のアルバイトというものは、目的が学資を稼ぐだけのものだろう。そいつがぼくは、ひどくつまらないと思っているのだよ。君たちは、どんなアルバイトをやっているのか、ぼくは知らない。おそらく、大していいバイトじゃなくて、あんまり人の前では、話せないようなものじゃないのかい。――ぼくのバイトは、言葉を飾ってもしかたがない、君たちの考えている通りに学生高利貸しというやつさ。君たちのためにもずいぶん役に立ってやって、そのくせ君たちに憎まれているのだから、世話はない。しかし、ぼくは、その高利貸しを、もっと盛大にやろうと考えたんだ。学資稼ぎじゃない。事業として発展させるのだ。われわれが、学校へ通って勉強する。それは未来に於て、政治家になったり事業家になったりする、その準備だというのが常識だが、そんな常識は古いんだよ。学問は、生活力の資材じゃなくて、生命の調味料と解すべきだ。つまり、生活力の根源は学問にはない。従って、学問しながらでも、できるだけは生活を充実させるのが本当だ。簡単にいうと、学生だからといって、事業をはじめるのを、学校を卒業するまで待たなくちゃならんという規則はないことになるのだ。わかったかい。ぼくは、金融会社を興す。ぼくが社長で、君たちが専務だの支配人だのというわけだ」
 平川にも高橋にも、はじめてハッキリとわかってきた。
 金儲けをするのには、今は高利貸しが一番早いといわれている。それに笠原が、目をつけているのであった。
「こいつはね、世間じゃ、学生らしくないことだといって、非難するにちがいない。ところが、学生らしいということの意味が、さっきもいったように、昔と今とでは違うのだから、世間の非難は平気なんだ。ぼくらはぼくらの新解釈に従って行動すればよろしい。――しかも利益は莫大だよ。十日に一割の利子で一月三割、担保をおさえといて、天引きという場合もあるだろう。高橋君の見すぼらしい学生服なんか、オカしくて着ていられなくなる。五千や一万の金は問題じゃない。資本が一年で百倍になり得るというわけだ。実はね、これは一年前からの計画だよ。最近に、適当な事務所も見つけることができた。そこを、もうちゃんと借りてあるのだ。君たちをこれからそこへ案内してあげようと思っているのだよ」
 タクシーは、いつの間にか牛込をぬけ、淀橋の新しくできた道路を走っている。罹災あとの家が、まばらに立っていた。そうして笠原は、ふいに運転手に、ストップと元気よく声をかけた。
 なぜか、車を降りてから、二町も歩いた。
 すると、罹災後に建てたものではあろうが、掘立小屋のように小さくて粗末で、屋根のトントン葺きが、ところどころはげている家が、道のはたにポツンと立っていた。
「ひどい家だろう。ひどい家だから、ぼくが格安の権利と家賃で借りといたのさ。近所も賑やかじゃないが、ナニ、これで、少し手を入れてお化粧したら、けっこうぼくらの会社の事務所になるよ。さしずめ、平川君たちには、これを事務所に改装する仕事をやってもらう。ま、ともかく入ってみよう」
 笠原は、その家の横にある勝手口へ行き、鍵を出して錠前をはずしたが、その錠前が、こんな家には似合わないほど大きく立派なのが、何か異様な感じである。
 中へはいって、雨戸をあけた。
 表の道路へ向いた部分が三坪ほどの土間になっていて、外の光線が流れこむといっしよに、笠原が、
「あッ!」
 と声を立てて、うしろへとび下がった。
 土間には、猫が一匹、死んでいる。
 首に縄がかかっていて、毛には泥がこびりつき、それほど大きくはないが、いやらしくぐたりと曲げた胴のあたりに、刃物でえぐったらしい傷もついている。
 笠原は、その三毛猫を見て、顔色を変えたのであった。そうしてしかし、すぐに顔色を元へ戻すと、
「ああ、びっくりしたよ。ナニ、ぼくは猫については、迷信を持っているのでね」
 とこの男にしては、珍しく気まりの悪そうな顔でいった。


迷信と恋愛



「つまりだね。こいつがぼくという人間の一断片なんだ。べつに、このことをぼくは気まりが悪いとは思っていないさ。しかし、常識的には気まりがいいことじゃないのだろう。猫について、ぼくが迷信家だということはね」
 笠原は、土間の隅に横倒しになっていたボロ椅子をおこすと、ほこりをバ夕バ夕叩いて落して腰をかけた。そして、改めて猫の死骸をのぞきこみ、さて口のはたを歪めるようにしてしゃべりだすのであった。
「迷信てもの、平川君はどうだね、信じることがあるかい」
「イヤ、ぼくは……ないね。高橋は?」
「うん、ぼくだって、べつにないが、大道の易者に手相を見てもらったことはあるよ」
 平川も高橋も、眼つきが戸惑いしていた。猫の死骸を見て、笠原の顔色が変ったのは、それほど大したことでもないはずで、しかし、笠原は自分だけでそれを、ひどく気にしているように見える。むきになって、何か弁解しようとしているようで、返事をするのにも当惑する。一日前の夕方までは、いやな奴だと思っていたが、気前よくゴッソリと金をくれた。それから、事業をはじめ、自分たちを専務とか理事とかにするのだという。いい友達が思いもよらず見つかった。このいい友達と、仲違いしたらつまらないが、さて、猫の迷信とはどういうことか。迷信なんて、軽蔑して笑ってやってもいいし、でも、笑ったら、機嫌が悪くなるのであろう。機嫌を悪くさせたくはない――。
 笠原は、平川と高橋との顔をキラリと等分に見ただけで、もうこっちが何を考えているのかはわかったはずであり、そのくせ、べつに機嫌が悪くもならず、外国煙草の箱を、慣れた手つきで口を開け、二人に吸えといってさしだした。
「平川君も高橋君も、こういうことは、深く考えたことがないのかも知れんね。迷信てやつは、面白いんだ。物理学の理論で原因を説明できない結果がある。こいつを偶然と呼んでるだろう。迷信は、それに似ているんだね。といって、ぼくは、鰯の頭を信心したり、キリストの予言や奇蹟なんかを信じるという、そういうのとはちがうのだよ。君たちがわかってくれるように、どういったらいいのかな。つまり、ある一つの前兆なんだ。理由はない。偶然と同じだ。が、前兆というものはある。その前兆が、ぼくの場合には猫なんだ。猫だけが、ぼくにとっては、世の中の森羅万象しんらばんしょうのうち、ただ一つの前兆であり偶然であり迷信だ。ぼくの子供の時の話、平川君も高橋君も知らないだろうね」
「ああ、それは、聞いたことがないからね」
 高橋は、興味を感じた眼つきでうなずいて見せ、平川は、そうだ、それは不良の仲間で、アヤがいいとか悪いとかいう、そのアヤのことだと考えた。
「子供の頃のぼくは、田舎の百姓の末っ子で、小ちゃないじけた弱い子だったが、猫を魔物だと思っていてね。眼玉が大きくなったり細くなったり、足音を立てずに歩いたり、高いところから逆さにして落しても、ちゃんと地べたへつく時は、四つの足をそろえて立っているだろう。怖かったのはぼくの九十六になるおばあさんが死んで、するとおばあさんの墓を乞食が掘り起しやがったんだ。ところが、そのお墓へ行ってみたら、おばあさんの飼っていた猫が、ふいに、お墓の穴から飛びだしてきたんだよ。ぼくは、猫ほど神秘的なものはないと思いこんだ。そうしてそのうちに、猫がぼくのマスコットであるという、変な信念にとりつかれてしまった。猫を見る。すると、きっといいことがあるのだね。どんな場合でも、猫さえ見たら、ぼくは幸運に恵まれているということがわかった。一つだけ、禁断のおきてがある。それは、その猫の動くところを見たら、このせっかくの幸運が、泡のように消えるということなんだ。ぼくの猫は、動いちゃいけない猫なんだ。屋根で日向ぼっこをしている猫を見る。ぼくは、すぐに眼をつぶって駈け出さないといけない。池の金魚をねらって猫がくる。またぼくは、眼をつぶって猫の見えない所へ逃げてしまう。それだけは絶対にぼくが、守らなくちゃならん約束なんだ。どうだい、面白いだろう。ぼくは、誰にもこれは話したことがない。話したら、笑われるにきまっている。しかし、前にもいっといたろう。これが、ぼくという人間の、外部へは見せずにきた一断片さ。原子爆弾の世の中だね。原子が開裂して、ピカドンていうんだろう。一つのピカドンで一瞬に、大きな都会と都会に棲息せいそくする数十万の人類が灰になってしまう。けれどもぼくは、一匹の猫をバカにできないというわけだよ」
 笠原の顔には、時々自嘲の色が動きながら、言葉には力がこもっている。高橋と平川は、どこか胸のうちがもどかしく、耳に響く言葉の裏へつきぬけなくては、笠原が実は何を言おうとしているのかわからぬ気がし、金のことか女のことか事業のことかと疑いつつ、しかし、けっきょく猫の話よりほかはわからなかった。そうして、猫のことなら、べつに意見があるわけでもない。この冷徹で優れた頭脳をもった男でも、女や子供と同じように幼稚なところがあるのだと知り、かえって安心したような気持になった。
 気がつくと、土間は、上が十分に踏みかためてなく、湿った赤土のかたまりが、そこらにぼろぼろこぼれ散っている。
 高橋は、
「しかし、も少し、明るくしようや。第一、かび臭いじゃないか」
 表へ出る硝子ガラス戸を開けようとしたが、ガタガタ音を立てるだけで戸が開かない。
「うん、その戸は、内から釘づけにしてあるんだ」笠原が、ふりむいていった。
「釘づけって、どうしてだい、バカに厳重にしてあるんだね」
「物騒だからだよ。借りたまま、放ったらかしてある。釘づけにしといても、猫の死骸なんか持ちこんだからね。――が、困ったねえ、この猫には」
「困ること、ないさ。ぼくが、どこかへ捨ててくる……」
「イヤ、そうじゃない。捨てちゃいけない。猫を動かしちゃいけないんだ。動かさずに、そっとしておいてくれたまえ」
「でも、ここが事務所になるのだろう」
「そうだよ。だから、困るといっているんじゃないか。前兆がいいと思うけど、悪くしてしまうのかも知れない。さっきからぼくが言ってるだろう。君たちも、智慧を貸してくれなくちゃ……猫が、一寸でも動いたら、事業は不成功だと思うんだよ」
 迷信の話が、その場の座興でもなく思いつきでもなく、意外に真剣なものだったことが、やっとわかった。わかると同時に、そういう笠原の思想は、再び急にひどく幼稚で浅薄なものに見え、フンと笑いたくなったが、それはこらえた。こっちの腹の中を察して、笠原の顔が、怒りで染められてくるように感じたからである。実にバカバカしいことだったが、いっしょにそのバカバカしさに同化しないといけない。金融会社をつくる。これは素敵なことだった。新調の服ができる。ふんだんに金が儲かる。怖い思いをして強盗をやる必要はないだろう。それなら、猫の迷信も、バカバカしいことではなくなってくる。今が大切な出発点だった。そうだ、一つの儀式として、猫の処置を笠原の気に入るようにしてやらなければならない。
 笠原は、明日は建築会社から来て、この家の模様変えにとりかかる予定だと話した。
 すると、猫の死骸のある土間を、板敷きにするかコンクリートにするか、いずれにせよ、このままでおけぬことはたしかであり、その時猫をどうするのがよいであろうか。
 まじめになって三人は相談した。
 そしてけっきょく、猫の死骸は、一分一厘今ある位置から動かさない、死骸に、土をかぶせ、その上にコンクリートを厚く敷いて事務所の床にしてしまう。それで猫がこの会社の守護神になるだろうということに一決した。床は、実際は、土をさらい取ってからコンクリートにしないと、短い柱を使ってあるから、天井が低くなる恐れが多分にある。しかし、不便でも、また体裁が悪くても、やむを得ない。土をさらい取ったら、猫の位置が動くから、それ以外に設計は立たないということになったのであった。
 きまってしまうと、笠原は、安心した眼つきになった。
「よかったよ。君たちに来てもらってね。明日は、建築会社が来たら、工事がやりにくいと言うかも知れない。が、厳重に監督して、猫を動かせないようにするんだね。平川君も高橋君も、いっしょに来てくれるね」
「いいとも、オーケーさ」
「それで決定だ。むろん、君たちに損をさせることはありゃしないさ。よかった、ほんとうによかった。じゃ、これから銀座へ行こう。すてきなコックのいる店を見つけてあるんだよ」
 ふいに平川が気になったのは、猫の死骸に刃物でえぐった傷がついていることである。猫は病気で死んだのではなくて殺されたのであろう。なぜこの猫は殺されたのかわからない。それに、幸運の前兆だといっている。しかし、殺された猫でも、ほんとうに幸運の前兆になれるのであろうか?
「おい、なに考えてるんだい?」
 高橋が、小さな声で平川に訊ねた。
「うん、なんでもないさ。――腹が減ってきたね」
 と平川は答えた。


 工事は、その翌日から、予定どおりはじまった。
 工事請負人がきて、土間の改造について話を聞くと、それでは床が高くなりすぎると文句を言いだしたのも予定どおりで、それは誰よりも笠原が頑強につっぱって、こっちの設計に従わせることにした。請負人は、柱の根つぎをしたらいいという。根つぎはしなくて、はじめに、土間の工事からかかってもらいたいと主張した。そうして、けっきょく、砂利とセメントと砂とで、猫は夕方までに埋められてしまった。
 高橋が、早くも今までいた下宿を引きはらい、寝具と机を運んできた。腐ったような古畳には、土足であがった靴のあとがいくつとなく入り乱れているし、炊事場の準備もまったくできていない始末だったが、彼は工事中ここに寝泊りしていて、改装の監督をするというのである。平川も、もう会社が成立したかのように大喜びで、電燈会社へ行ったり水道の交渉をしたりしてくる。夜になって、しかたがないからろうそくをつけた。そして笠原が、二人に気の毒だからといって、近くの屋台店から酒や肴を運ばせた。その酒で、高橋はたちまち泥酔し、
「笠原君は、偉いよ。ぼくは、この尊敬すべき親友を誤解し……イヤ、憎んでいたことさえあるんだよ。バイトの話にゃ感心した。そうだね……まったく……学資稼ぎだけのバイトなんて、意味をなさんことだからなア。青年の未来がどうしたっていうんだい。お伽話はたくさんさ。在るが故に、我尊しとなすか。今日を大いに祝福せよだ。うん、これでいいよ。愉快だね……ばんざいだなア……」
 盛んに気焔をあげた末に、だらしなく倒れて眠ってしまい、それからあと平川と笠原は、どの青年にもあるように女のことを話しはじめた。
「高橋のやつ、酒を飲むといつもこうなんだよ。しかし、うまいこと言ったね。ぼくも笠原君に対しては、ハッキリ考えを変えなくてはならんと気がついたよ」
「わかってるさ。誰にだってぼくは、憎まれるか、そねまれるかするだけだった。むろん君もその一人だったね」
「そうなんだ。よく君は知っている。今になってぼくも明瞭になったが、憎んだのは、君にはかなわないと知っていたからだね。つまり、そねみだよ」
「どういう点で、そねんだのかね」
「いろいろだな。頭がいい、そいつが癪にさわっていたよ。金を貸すっていうこともね。それから女のこともだよ。女は、君はうまくやっている。ぼくは、高橋もだが、商売の女しか経験がない。君は、無数の経験だね。しかも、商売女じゃない。セニョリータだろう。堂々たるレディがいるだろう。こいつは、ぼくらにゃ、手が出せないんだが……」
 笠原は、大きな声で笑いだした。
 平川の露骨なそねみが、滑稽に聞えたからである。
「平川君も高橋君も、自分で自分の値打を、落して考えているのが、いけないと思うね。自信をもつことだ。そうして勇気をもたなくちゃ……」
「自信がもてれば、勇気は出るさ。君は、どんな女の前ででも、自信をもつことができるのかい」
「それはそうだよ。ある女をぼくが欲しいと思う、すぐに、向うの女も、ぼくを欲しがっているとわかるのだ。イヤ、欲しがらぬはずはないと考える……」
「おどろいたな。ぼくは、そうは考えられないよ。へまなことして、軽蔑されたり、横っ面ひっぱたかれたり、世間の笑いものにされたりするくらいなら、黙って我慢している方がいいと思うんだよ。一度だけ、ぼくもやってみた。お医者さんの奥さんだよ。僕より二つ年が上で、とても肉体がすばらしいとぼくは思ったんだ。映画のロードショウの切符を持って行ったら、すぐいっしょに行こうというから、しめたと思った。映画見ていて、そっと手を握っても、だまっている。それから外へ出てね、ぼくが抱くように腕を出したとたん、ピシャリと頬っぺたをやられたんだ。まったく恥かしかったよ。日本の女も、男をひっぱたくようになったからね」
 自分の失敗を話すことが、自然の阿諛あゆになっているのを平川は気がつかない。笠原は、面白そうに平川の話を聞いたが、その時、思い出したという顔になった。
「女で失敗といえば、君だけじゃないさ。ぼくも最近は一つやりそくなっているよ」
「ふうん、君でもそういうことがあるのかねえ。おとついの晩、銀座のホールからいっしょに出て来たレディかい」
「違う。あの女は、政治家の二号なんだ。そして失敗も何もありゃしない。最も簡単な例の一つだよ」
「そうかねえ。とすると、失敗したという相手は、よほど特別な例なんだね。どういう女だい」
「そうさ。そのことは、話そうかな、話すまいかな」
 笠原は、また口のはたを歪めていた。思案してみて、そのあと、明るい笑い顔になった。
「これは、秘密だよ。ほかの人には話せない。――ぼくがやりそくなった女というのは、君もよく知っているはずの女なんだ。殺された藤井代議士の奥さんさ。藤井有吉のママだよ。びっくりしたかい?」
「へええ……」
 平川は、びっくりしたとも、しないとも言わない。ちょっとのうち、まるで困っているようだった。そして、とつぜん、不安の色を眼にうかべた。藤井代議士を殺した犯人が、まだ逮捕されないでいる。深刻な恐ろしい事件で、それが未解決である。だのに、あの美しい未亡人のことを、こんな風に平気であけすけに、笑い話のたねにすることが、何かしら妥当なことではないと感じたからである。笠原は、平川が何を考えているのか、気のつかぬ風だった。
「あの女はね、まったく、不思議な女なんだよ。すばらしく美しくてすばらしく利口で、淫奔いんぽんのように見えるけれど、そのくせ、ちっとも淫奔じゃないんだね。ぼくは、実は、ほかのどの女に会う時よりも、あの女といっしょにいて、ダンスしたり、歩いたり、話をしている時、夢中になることができた。つまり、とても惚れていたんだ。いたんじゃなくて、今でも惚れているのだろう。問題は、それだのに、ぼくがあの女と、キスを一つしただけで、それ以上には、一歩も進めないでいるということだ。キスして、しかも、それっきりになった女なんて、はじめてなんだよ。あの女から、会わない、とぼくに断わってきた。電話をかけると、電話を切ってしまう。訪ねて行っても、玄関から追い返される。まるでぼくは、嫌われてしまったみたいなんだ。どうしてこんなことになったのか、さすがのぼくにもわからない。――君は、あの女と、何か話をしたことがあるかい?」
「ないよ。ほとんどね。こないだお葬式に行った。その時、ぼくからはお悔みをいったけれど……」
「殺された代議士の葬式だね。それは、ぼくも、よそうかと思ったが、ともかく行ったよ。しかし、口をきけやしない。そうして、ぼくの方を見向きもしないというわけだ。ぼくは、失望して帰ってきた。なぜぼくに、キスを許しておきながら、急にぼくをそんなにまで毛嫌いするようになったのか、その説明を聞きたいが聞くこともできない。それはね、キスしたあとだった。だしぬけに手紙がきた。そして、もうダンスもやめる。会いに来ないでくれ、といってきたのさ。ぼくは腹を立てたが、そのあとすぐに女の魅力が、倍も強くよみがえってきた。匂いがするような気がする。甘いいきざしが思い出される。とてもたまらないのだ。そこへ、代議士が殺されたと聞いたのだが、殺されたあと、あの女は一人きりだろう。一人きりでどんな風にして日を暮すのかと考えると、じっとしているのが苦しくなる。ぼくが、こんなにも一人の女で、馬鹿みたいになるなんて、変なことだと思うのだよ。苦しいから、何かしようと考えて、それからが実は、金融会社を早くはじめようと決心したんだ。といっても、むろん会社は、女のことがなくったって、やるつもりではいたんだがね――うん、ほんとうに、ぼくが恋愛でこんなに夢中になれるとは思わなかったよ。猫の迷信だの女だの、ぼくも、やきがまわったのかも知れないね」
 ドシンと音をさせて、高橋が寝返りをうったので、笠原は話をやめてしまった。高橋は、眼をさましている。ふいにむくむく起きなおると、アーンと大きな伸びをして、平川にいった。
「なんだい。面白そうな話をしていたじゃないか。藤井がどうかしたっていうの?」
「ううん。ちがうよ。藤井のことだけど、もっとべつの話だよ」
「そうかなア。おれ、聞いていたつもりなんだよ。有吉のことかと思っていた。ほんとは、昨夜から、おれ、有吉のこと、ちょっと考えていたものだから」
「有吉のことって?」
「あいつ、可哀そうだと思ってるんだ。親父が殺された。――ぼくら藤井と麻雀うっていて、藤井がバカづきしたから、何か悪いことが起るぞっていって、君がおどかしたろう。今思うと、言いあてたんだよ。その晩に、あいつの親父が殺されたのだからねえ。昨夜、それを思い出したから、おれ、気味が悪くなったけれど、今度の会社へ、藤井も仲間にして入れてやったらと思いついたのだ。あいつ、きっと、喜ぶぜ。悄気しょげているにちがいないのだ」
 寝ぼけて、見当違いの話を持ち出している。恋愛の話が、ポツンと中断された形になったが、笠原はだまって、高橋の話を聞いていて、とつぜん高橋に訊いた。
「いいね。賛成だよ。藤井有吉なら社員にしてやっても悪くはないんじゃないか。すすめたら、会社に入るかしら」
「入る、と思うね。あいつも、金儲けはしたいのだから」
「だったら、君から話してみてくれたまえ。話して、ここへ、つれて来た方がいい」
 笠原の態度が、急に事務的になり、テキパキしてきた。
 高橋は、自分の偶然の思いつきを、すぐ笠原に採用されたから、得意そうな眼つきになり、しかし頭をかいた。
「でもね、困ったことが、一つあるよ」
「なんだい」
「藤井の家へ行くのは、苦手だからね。誰かに叱られそうな気がする。まだ親父を殺した犯人がつかまっていないだろう。ノコノコ出かけて行って、デカにでも睨まれると怖いみたいだぜ。おれよりも平川行ってくれないか」
「うん、ぼくがかい?」
 平川も、首をふった。
「ぼくも、行きたくはないね。デカは、べつに怖くないさ。しかし、やっぱり苦手だよ。人殺しのあった家なんてね」
 どっちも尻込みしているのは、池袋のタタキですねの傷があるからである。
 笠原が、
「じゃ、二人ともに行くのはいやなんだね。いやなら、ぼくが行ってもいいよ。ぼくだと、さっきも平川君に話したように、追い返されるかも知れないがね」
 と口を出したが、その声は不機嫌で、さっきとまるっきり眼つきがちがっている。
 平川も高橋も、気がついた。
 社長の命令である。自分たちの都合ばかりを考えてはいられない。平川が、すぐに、
「うん、いやってんじゃないさ。行きにくいと思っただけなんだ、そうだ、高橋。二人でいっしょに行こうじゃないか」
 と言いなおした。
 笠原は、むっつりと、だまりこんだままでいる。気分が急に重いものになった。三人が三人、ちがったことを思っていて、まとまりがつかないといった感じである。
 高橋は、てれがくしに、残っていた酒をガブリと飲んだ。
 平川は、ろうそくを新しいのにとりかえて、わざと土間のコンクリートをのぞき、
「オヤオヤ、もうセメントが乾いてきているぜ。猫がどこに埋めてあるか、わからなくなっちゃったね」
 と高橋の方を向いて話しかけた。
「話は、早い方がいいよ。明日のうちに、藤井のところへ行ってきてくれたまえ。わかったね」
 とその時笠原は、冷たく二人に命令した。


苦悶の少年



 未亡人貴美子は、案内に立った巡査のあとにつき従い、二階への階段を上りかけたとたんに、
「あ、待って……友杉さん……」
 ふいによろけて、友杉の右の肘で身を支え、ちょっとのうち眼を閉じた。
 彼女は、黒い色調のスリム・スーツを着ている。そして白ピケのゆるいカラーと服に共地ともじの短いボウとか、おとがいや首の線の美しさを、いっそう強く引立たせている。
 友杉が、一瞬あわてた眼つきになり、しかし、すぐに落着きを取戻した。
「どうしました。奥さん」
「目まいがしたのよ。クラクラッとしたわ」
「きっと疲れていらっしゃるんですよ。大丈夫ですか」
「ええ……もう平気。歩けるわ」
 そうして、友杉の肘から身をはなし、先きに立って階段を上って行った。今日は、良人有太の初七日をすましてから二日になる。彼女は、急に自分で言い出して、友杉を伴につれ、K署の捜査本部を訪れたのであった。
 本部には、ちょうど大堀捜査課長がきていたし、貝原係長も、これは朝からやってきていて、二人はとつぜんの未亡人の出頭で、少しびっくりしたような顔をしている。
「おお、これはいらっしゃい……」
「だしぬけに上りましたの。いろいろと御苦労をおかけしておりますが……」
「いや……苦労なんて、そう言われると、困るですな。我々は職務ですよ。それに何分にも事件が解決の域に達しませんので」
 課長が、好人物らしい小さな眼を、照れたようにしてまたたかせたが、ともかく給仕を呼んで茶をはこばせ、それから話がすぐと本題に入った。
「あたくし、今日は、友杉さんと話し合った上で参ったのですわ。実は、思いついたことがございました。それをこちらへ申上げた方がよいということを決心したのです。が、その前に、話していただけたらよいと思うのですけれど、いかがでしょうか、諸内さんについて、あたくし、どうしてもハッキリしないようなものがあって、頭の芯から諸内さんのことがぬけ切らないでいるのですわ。その後、あの方について、何か新しい事実でもなかったのでございましょうか」
「ああ、諸内代議士の件。そうですね……」
 課長は、ちょっとのうち考えこんで、係長と眼で相談している。そして、まっすぐに未亡人へ顔を向けた。
「これはここだけの話ですよ。よろしいですか」
「はア、わかっておりますわ」
「諸内代議士については、もちろん我々も、考えていることがあるわけです。情況的には一応の嫌疑をかけてもいいでしょう。ところが、捜査を進めてみると、代議士自身については、これを容疑者として見るわけには行きそうもないのでして……」
「新聞で拝見しました。某代議士については確実なアリバイがあったと書いてございましたが」
「その通りなんです。諸内氏については、ほかに例の買収費二十万円の件がありましたね。これは、代議士が頑強にその事実を否定しているのでして、但し友杉君から最初に詳しい事情の説明があったのですから、この件については代議士の否定を、そのまま信用しているわけでもないのです。しかし、こういうことは多分に政治的な問題であって、もしかして、純粋に政治的な問題だけであったとすると、その捜査の担当は、我々でない、別の係りの者になってくるわけです。当捜査一課としては、とりあえず諸内代議士が藤井代議士殺しの犯人であるかないか、その点を追求する必要があるわけですが、さて捜査の結果によりますと、諸内代議士には、たいへん確実なアリバイがありました。事件発生の当夜、諸内代議士は土木建築請負業者の会合へ出席し、そのあと大森の妾宅へ行って泊っています。しかもその晩、妾宅の近くに放火事件が発生し、これが、午前一時半という時刻です。ところが調べてみるとその時刻に、諸内代議士が寝巻のまま妾宅の外へ出てきて火事を眺めていた姿を、数名目撃したもののあることがわかりまして、だとすると、藤井代議士の殺されたのは午前一時前後のこと。放火事件の発生とは、最大三十分の差があるのですが、牛込から大森まで自動車で飛ばして行ったにしても、その間に妾宅から寝巻に着更えて、外へ出てくるということは、まず不可能と見なければならないでしょう。一方、同時刻に、牛込から大森までの間、諸内代議士の自動車を見かけたものがあるかというと、これも目下の調査では、無いということになっていまして、けっきょく諸内代議士のアリバイは崩れません。つまり、少なくとも、諸内代議士が直接手を下して藤井代議士を殺したのじゃない、ということになってくるのでして……」
 疑惑が完全に消えた、というのではない。けれども、それ以上には捜査の手を進められずにいる、ということの説明である。
 未亡人の瞳に、かすかな躊躇の色が浮んだ。そして、ふり向いて友杉を見た。友杉の眼は、かまわないじゃないですか、話すだけは話しておいた方がいいと思いますね、と答えている。
「諸内さんのアリバイの話、よくわかりましたわ。でも、あたくし、申上げたいのは、諸内さんが宅の主人を訪ねて見えまして、その時に、あとで思うと、妙なことがあったものですから……」
「というと、お待ち下さい。それはいつのことになりますか。事件発生の前、つまりその日の昼のうちに、諸内代議士がお宅へ行っていたはずでしたね。その時のことですか」
「ええ、そうですわ。諸内さんには、あの果物籠を引取っていただきたいと思って、いくどか交渉しましたけれど、なかなかお見えになってくれません。こちらは、籠の中の金がなくなっているのは少しも知らないでいたのですが、その時、ふいに諸内さんが見えたものですから、そこで主人はベッドに寝たままで、果物籠のことを話しはじめたのです。すると、籠の中の金がなくなっていることがわかり、誰かが盗んだのではないかという話が出たのですけれど、主人の寝ている書斎の窓に、二ヵ所だけ挿込錠の壊れているところがあるのを、あたくしが気がついて申したものですから、諸内さんも、立ち上ってその壊れた挿込錠の工合など、調べてごらんになったのです。考えてみて、あたくし、意味のないことではないと思いました。その窓からでしたら、誰でも外部から侵入することができるのですわ。そして、挿込錠の壊れていることは、家の中の者を除くと、諸内さんだけが御存じだったのじゃないか、という気がするのですもの」
「なるほど……」
 と思わず、課長も係長も、うなずく言葉に力が入った。事件現場の最初の調査では、犯人の『出』がわかっていて『入』がわからなかった。其の後に、二階の書斎で、窓の壊れている部分を発見したものがないでもない。従って、『入』がその窓であるかも知れぬという意見も出ていたが、その窓のことを諸内代議士が知っていたとすると、問題はまた改めて検討をする必要が生じてくる。これは重大な証言であると考えられるのであった。
「挿込錠の壊れたのは、いつ頃からですか」
 と係長が、手帳を開き、エバシャープの芯を押し出しながら尋ねた。
「さア、記憶が確かではございませんけど、今年の春以来――いえ、正月以来だったのじゃないでしょうか。不用心じゃないかなって思ったこともありますの。建具屋さんを頼んだ方がいいと知っていて、つい、そのままになっていたものですから……」
「恐らくは、それがいけなかったのだと思いますよ。犯人が誰だかという点は二の次にしても、そこから犯人が侵入したということだけは、まず、間違いはないでしょう。それで、問題を諸内代議士に戻します。窓の壊れているのを、諸内代議士も調べてみたというお話でしたね。その時、代議士の表情とか態度とかで、特に何か印象に残るようなものはなかったのですか」
「はア、それは、べつにあたくし、気のついたことはなかったのです。諸内さんは、すぐにニヤニヤ笑いました。そして主人に向って、冗談はよせ、金は盗まれたのじゃあるまい、自分で取っておいて、盗まれたことにし、別になお大きな金額を要求しているのだろう、と申しました。主人は潔白な性格ですから、そんなことをする筈もありませんし、腹を立てたあげくが、二十万円の金は小切手でなら、すぐに返してしまうのだと言い出しまして、しかし諸内さんの方では、小切手では困るというお話でしたから、あとで現金で返すということにきまったのですけれど、そうですわ、そのあとで、もう一つ、変なことが起ったのです。その話、つづけて申しましょうか」
「どうぞ……」
「主人から、二十万円を返すときめてしまったあとのことです。だしぬけに主人が、あたくしの知らない人の名前をそこへ持出しました。それは、あたくしが主人に呼ばれて書斎へ行く前、諸内さんと主人と二人きりで話していたことの続きらしく、だからあたくしには、ハッキリした意味がわからなかったのですけれど、加東明という人のことについてでしたの」
 課長の眼の底が、キラリと光ったようであった。そして課長は、すぐに口をはさんだ。
「ああ、ちょっと、待って下さいよ。加東明――というんですね。そうですか。加東明なら、まんざら知らないじゃありませんね。我々としては、ある程度、知っている大物の名前ですよ」
「そうでしょうか知ら。……いえ、そうじゃないか、とあたくしも、こちらへ参る決心をしてからは、半ば予期して参ったんですわ。でも、その時ではあたくし、まったく初耳だったものですから」
「よろしい。わかりました。それであとを続けて下さい。加東明について、どんな話が出たのですか」
「主人は、諸内さんに向って、加東明の問題を、そのうちに詳しく調査するというようなことを言い、それに対して諸内さんの方は、平気だねそんなことは。調べたけりゃ、物好きにもいろいろあるのだから、得心の行くまで調べるがいい。まアしかし、加東明なんて、全然関係はないのだから、労して効なしというところだね、などと答えていらっしゃったようです。――けれども、あとで思ってみてあたくしとしては、どうも変だったと気がついたのは、その時の主人と諸内さんとが、表面は大声に笑って、冗談を言い言いしながら、その実何か眼に見えぬ荒々しさで、お互いにとても辛辣な皮肉をぶつけ合っていたことなのです。日がたつにつれ、そのことが強く頭の中へ蘇ってまいりました。一人で思い出していると、ドキドキ胸が躍ってきて苦しいくらいでした。それで、主人の初七日もすみましたし、友杉さんに相談をしてみたのでございます。すると友杉さんは、びっくりした顔で、加東明なら、知っている。先生の命令で、その人物についての新聞記事を探し、切抜きにして先生にお渡ししたと申しまして、ねえ、そうでしょう、友杉さん……あなたから、あとのこと、お話ししてちょうだい」
 友杉成人はうなずいている。
 未亡人に代って、いつもと同じむだのない言葉で答えた。
「詳しいことは、ぼくも知らないのですよ。ただ切抜きだけについてなら、話すことができるのです。亡くなられた藤井先生からは、事件の起る一週間前に、その記事を探せという命令がありました。そして、去年の八月二十五日の東洋新報の社会欄から、それを切抜いたというわけです。なぜその記事が必要であったか、理由を先生は言われなかったから、私にもわけがわかりません。しかし、記事の内容は、記憶しているつもりです。要するに、加東明というのは、追放になった元陸軍少将で、それが行方不明になったということを知らせたものです。記事によると、八月上旬、行先きも告げずに外出し、そのまま自宅へ戻らない。遺書も発見されないが、恐らくは、生活苦からして自殺したものではないだろうか、ということでした。警察でも行方を探したということが、簡単に書いてありましたから、それについての御記憶もあるのではないでしょうか。なお、その記事には遺族があり、その遺族は娘さんが二人、男の子が一人であると書いてありました」
 課長も係長も息をするのを忘れていた。
 はじめから、その予想は十分にあったことであるが、事件の性質は、複雑である。裏に裏があり、底に底があるものに見えてきた。友杉がいったとおりに、なるほど加東明の行方不明事件は、今から一年前警視庁でも手がけたことのある問題だった。それを言い出されると、今でもいろいろ思いだすことができる。元陸軍少将加東明は、政治の好きな人物であって、もっとも追放者だから、表向き政治には関与できない立場にあり、しかしながら、真に政治と絶縁していたかどうかは疑わしい。政治的暗躍または政治的陰謀に、喜んで加担しそうな人物だったことは確かである。遺族だという娘の一人が戦争未亡人であって、父親の失踪を届けて出た。当局としては、かなり綿密に行方を捜査してみたが、結果は一向に思わしくなく、大体に於て、自殺したのであろうと推測はされたが、死体が発見されたわけではない。けっきょく謎の失踪ということになっていたもので、それを生前の藤井代議士が、改めて調査にかかるつもりだと語ったという。しかも藤井代議士は、某政党についての醜い事実を摘発することによって、政界の浄化を志していたというではないか。藤井代議士が、いかなる事実を掴んでいたのかわからない。しかし、諸内代議士、または諸内代議士の所属する政党は、藤井代議士の掴んだ事実を恐れたが故に、果物籠へ買収費を入れて持ちこんできた。そうして藤井代議士は、福島で怪我をして帰ってきて、さて外出できずに寝ているうちに、加東明のことを思いだしたから、そこで友杉に命じて、新聞記事を探させたという順序になるのである。藤井代議士の意図する政界浄化と加東明の失踪とは、何か関係があるにちがいない。その上に、藤井代議士の殺されたのは、藤井代議士が諸内代議士に、加東明のことを話した日の夜だった。そうして諸内代議士は、あの書斎の窓が、一ヵ所だけ容易に外部から侵入できることを知っていたということになるのであった。――
「新聞の切抜きのことは、奥さんも前から御存知だったでしょうか。生前に御主人から、それについて何か話でも……?」
「いえ、それが、主人はあたくしを、政治嫌いだとしてきめていましたの。新聞の切抜きのことなど、一度も話してくれたことがございません」
「とすると、友杉君はどうですか」
「ぼくは、さっき言ったとおりです。その記事が必要なわけを、先生が説明して下さいませんでした。言いおとしましたが、記事を探しだして先生のところへ持って行くと、先生はそれをお読みになってから、ぼくに、机の上にあった青い表紙の紙ばさみへはさんでおけと言われました。ぼくは、命じられたとおりにしたのですが」
「そうですか。記事について藤井代議士が何を考えておられたか、その点がわからぬのは残念ですね。切抜きを、その紙ばさみごと、持ってきてもらえるとよかったですが」
「ええ、それは、ぼくも考えたことです。奥さんに話したあと、いっしょに書斎へいって紙ばさみを見ました。ところが、切抜きがなくなっていたものですから」
「ふーん」
 うなり声が出た。
 重大な証拠品とも見るべきものが紛失している。それは、いつ紛失したのであろうか。藤井代議士が殺されたと同時に紛失したものとすれば、犯人がそれを奪い去ったと見てよいのであろう。そしてまた、犯人が奪い去ったのであったなら、もはや確実に、藤井代議士殺しは、少なくともその裏面に、政治的陰謀の黒い糸が張り廻されていると考えてもよいのであろう。もちろん、諸内代議士にはアリバイがあった。だとすれば、諸内代議士が直接の犯人でないことだけは確かである。そうしてしかし、藤井邸は牛込にあり、諸内代議士の妾宅は大森にあった。時間としては最大三十分間の余裕がないではない。その時間で、牛込から大森に赴き、近所の火事で、驚いて外へ出てくるということは、ぜったい不可能なのであろうか。火事は放火であった。その放火が、ことさらにその時刻に起るように計画されていたということも、有り得ぬことではないであろう。――疑惑は疑惑を呼び、止め処がなくなってくる。係長は、課長の耳へ口をよせて、
「諸内代議士のアリバイを、もう一度、追究してみましょうか」
 と囁き、課長は、
「そうだね。それも必要だ。そして、加東明の事件を、根本から洗いなおすのだね」
 と、やはり小さな、しかし力を入れた声で答えていた。


 未亡人貴美子と友杉とが、藤井家へ戻ったのは夕方だった。
 未亡人が自動車を降りて邸内へはいってしまったあと、友杉が自動車賃を支払っていると、そこへやってきたのが、平川洋一郎と高橋勇である。高橋が、先きに友杉の姿を見つけた。そして、足をとめ、平川の腕をおさえるようにした。
「だめだよ。友杉さんがいるぜ」
「うん、そうか――しかし、いたって、かまわないだろう」
「でもヨオ。おれ、あの人は少し苦手だよ。怖いみたいな気がするんだ」
 そうして、そこで二人はためらって、コソコソと塀の角へでも身をかくそうと考えたが、その時、
「ああ、なんだ。平川君と高橋君じゃないか。何か用なの」
 逆にふりむいた友杉から、声をかけられてしまった。
 しかたがない。二人は門の前へ来た。
「藤井君、家にいるでしょうか」
「有吉君だね。いるはずですよ」
「ちょっと話があってきたんです」
「そうですか。じゃ、取次いであげよう。――しかし、麻雀やなんかじゃないだろうね。そういうことで誘うんだったら、ぼくが断わる。遠慮してもらいたいな」
「ちがいますよ。まじめな話です。笠原君から、使いを頼まれたものですから」
「ほう……」
 チラリと友杉の顔を影が走って過ぎた。
「なるほどね。笠原君なら、ぼくもよく知っているんだ。――よろしい。はいりたまえ。有吉君に知らせてあげます」と彼はいってから思案し、「しかし、君たちと有吉君との話、ぼくも聞かせておいてもらいたいなア。まじめな話だっていうんだから、いいでしょう。ぼくもいっしょにいることにするからね」とつけ加えていった。
 平川も高橋も、困ったことになったと感じ、しかしいやだとは言えない。自分たちは不良として警戒されているのだから、これもしかたがないのだとあきらめた。
 二人が通されたのは、玄関わきの応接室である。二人とも、今日は学生服を着ている。そこへ通されて、友杉がいないちょっとの間に、弱ったな、どうも、と二人は眼を見合わした。そうしてじきに友杉が有吉をつれてきた。
 有吉は、青く神経質な顔になり、眼の光が鋭く深く考えごとをしているようで、わずか十日とたたぬうちに、こんなにも顔が変ったのかと、二人をびっくりさせるほどであった。ショートパンツに、クリーニングしたてのワイシャツを着ていて、腕や足まで、白く痩せたように見えるのである。それでも、懐しい二人の友だちを見て、ニッと口のはたを笑わせたが、はじめ何も言わず、椅子のところへ来てじっと立っているうちに、たちまち眼のうちへ、涙がたまってきた。特徴のあるはしっこでめくれ上った唇を、きっと強く結んでいるが、それは胸いっぱいにこみ上げてきた悲痛なものを、溢れ出ぬように噛みしめて、自分をできるだけしゃんと見せるための努力だとわかる。十八歳の少年にとって、あの悲惨な父親の死が、いかに大きな打撃だったろうか。友杉が、
「さア、有吉君……」
 と、眼で椅子にかけさせようとしたが、肩を張り、息をつめ、立ったままでいる。不良ではあっても感動家の高橋が、ふいに自分も悲しくなって、有吉の手をしっかり握りしめた。そして
「ぼく、来たかったんだよ。君を慰めにゃならんて知っていたんだ。だけど、なんだか……来にくかったものだからね……」
 と正直にいって、とうとう自分も、涙声になってしまった。
「うん、いいんだよ。高橋君……」
 と有吉も、遠慮したのだろう。友杉の方をちょっとふりむいたが、ようやく口がきけるようになった。
「ぼくもね、君たちが、かげでぼくのことを心配したり、いろいろ噂をしてるだろうってこと、しょっちゅう思ってみたんだよ。麻雀うっていて、ぼくがあの晩、バカづきしたね」
「そうそう。そうだったね」
「友杉さんもおぼえてるでしょう。そん時、平川君がぼくのこと、そんなにバカづきしたら、あとでろくなこと起らんていって、からかったんだ。時々ぼく思いだすのさ」
「うん、ぼくらもこないだ、その話をしたよ、悪いこといってしまった……」
「いいや、悪いことないさ。謝まってもらわなくったっていいけれど、ぼくはとてもこりちゃった。麻雀のこと、考えるだけで、怖くなるんだ。夢見るよ。血のついた麻雀のパイが、血だらけの清一色チンイーソーで並んでいたり、ピンポンみたいに飛びまわって、遠くの方へ逃げていったりするんだよ。――だけど、ともかく、よくきてくれたね。ぼくの方から、君たちんとこへ、会いに、行こうっていくども思ったんだ。とてもぼく、嬉しいんだよ。おやじがあんな工合で殺されちゃった。それを恐ろしいと思ったり、また悲しいと思ったりするだけじゃない。ほかにぼくは、うんと心配なことがあるからね」
 再び友杉をふりむいたが、有吉の表情には、微妙な変化が起っている。瞳に力がこもってきた。悲しみが少し薄れたようで、そのくせまた、今までとちがった不安の色が浮いて出た。友杉が言いつけておいたのだろう。そこへふみやがつめたいコーヒーを運んできた。そして有吉の表情を、友杉が注意深く見守っているのであった。
 平川が、話しかけた。
「有吉君。ぼくら、君に同情しているんだよ。小西だって、南条だって、同じことさ。君のためには、どんなことだってしてあげるよ。うんと心配なことがあるっていったね。それはどういうことだい」
「ああ、それはね、ぼく、言っていいかどうか、わからないことだよ。――うん、むろん君たちには、いつかきっと話す時があると思うけど……そうだなア……ぼく、心配していることは、五万円の金、君たちにぼくからあげただろう。あれにも関係があるんだよ。……困っちゃったな。どう言ったらいいのかなア。ともかくぼく、あの金のことで、君たちが迷惑したんじゃないかって思ってんのさ。どうだったの、君たちの方は?」
「わりに平気さ。警察から調べに来たけれどね、もらったことを正直に言うたら、すんじゃったよ。それでおしまい。君が心配しなくってもいいんだよ」
「そう。それじゃよかった」
 表情が、また変化している。
 何か気おくれがし、ためらっているようであった。
 そして、だまって考えこんでから、わざとのように、明るい眼つきに戻った。
「バカかも知れないよ、ぼくはね」
「どうしてさ」
「きっとね、くだらないこと、ぼくが心配しすぎているんだろう。もうよすよ、そして、もっと元気だすよ」
「そうかい。そりゃ、その方がいいな」
「元気だせば、も少したってから、学校へも行けるし、君だちと遊ぶことだって、できるんだからね。……うん、そうだった……君だちと遊ぶっていえば、思いだしたよ。……いま平川君は、小西や南条のこと言ったっけ。みんな、変りはないのかい」
「ああ、いつもの通りだよ」
「……そして、園江は?」
「え?」
「園江は、どうしているの。園江は、お葬式の時も、来てくれなかったんだよ」
 友だちのことを訊く眼つきが、燃えるように熱心であり、しかも、平川も高橋も、すぐに答えることができなかった。
 園江は、どうしているか、彼等も知らない。あの時以来、ずっと気になっている。笠原に会ってから少し忘れていた。しかし、鳩の街まで園江を探しに行った時以来、いや、その前に二度目の強盗をやろうとして失敗し、ちりちりばらばらで逃げてしまって以来、会いもしないし噂も聞かない。それに、園江のことを訊かれると、胸をチクリと刺されるように感ずるのであった。
 高橋が、変だと思われるのが気になって、むりに笑ってみせた。
「園江か。あいつは、低能だから……」
「低能って、なぜなの?」
「なぜでも、低能だね。お葬式のお悔みを言いに来ないってのなら、なおのこと低能さ。うん、ほんとは、ぼくらもあいつのこと、まるで知らないんだ。ええと、あれはちょうど君のパパの事件が起る前だったね。ぼくと平川とで、君の学校へ行って、園江が来たかどうだかって聞いたろう。そのあと紅中軒へ行って麻雀うったんだ。けれども園江のやつ、あれっきりなのさ。ぼくらも、あいつには会わないよ」
「ふうん。じゃ、どこにいるか、わからないの、君たちにも?」
「わからないね。探したこともある。しかし放ったらかしておくことにきめちゃったよ。いいんだ、あいつはね。あいつのことなんか、そう心配してやらなくたって平気なんだ。……それより、ぼくらは、まだ肝心な話をしなかったね。その話をしてしまおうよ。ぼくたち、今日は笠原君に頼まれてきたんだ。笠原君が、君に会いたがっているのだよ」
 高橋が、急に笠原のことを言いだしたのは、園江新六の話が、いやだったからである。彼は、平川を見て、
「オイ、笠原のこと、君から話せよ。君の方が話はうまいから」
 と応援を求め、無意味に手をあげて、頭をかいた。
 友杉が、眼を離さず、彼等を見ている。
 平川も、友杉がいては話しにくいと感じ、しかし、きっかけがついたので、話しはじめた。
 笠原が、ある種の事業をやろうとしていること。淀橋に、もう事務所ができかけていて、有吉をもその事業に参加させたいと思っていること。そうして笠原という男は、自分たちが考えていたより愉快なよい友人であること。だから、有吉も、父親の死でしょげていないで、笠原のところへ来た方がよいではないかということ――。
 有吉は、見るも明らかに、不愉快そうな顔に変った。笠原なんて、名前を聞くだけでもいやだとハッキリ言い、どんな事業か知らないが、笠原といっしょに事業をやるなんて、ぜったいお断わりすると言い張った。
 不思議にも、だまって聞いていた友杉が、ニコリと笑ったようだった。
 彼は、はじめて、口をはさんだ。
「ああ、平川君も高橋君も、有吉君に対する友情で来てくれたんですね。有吉君も、ありがたいと思った方がいいじゃないんですか。……そうだな平川君。君たちの話、ぼくにはよくわかっているよ。有吉君のために、いいことかも知れないね。よろしい。ぼくがあとで有吉君には、ゆっくりと話してあげよう、笠原君への返事は、断わってしまったことにしないで、少し考えさせてくれるようにしてくれたまえ。今日はこれで帰ってもらう。もしかしたら、明日にでも、こっちが出かけて行くよ。――実は、ぼくも笠原君には、用があるしね。なアに、笠原君にぼくが、失敬なことをしたことがある。奥さんを訪ねてきていたのを、ぼくが脅迫して追い返したんだ。電話がかかってきても、ぼくが自分勝手に取次ぎを断わったりなんかしてね。悪かったよ。ぼくから謝らなくちゃならないと思っていたんだ。ねえ、有吉君。これはぼくに、任せて下さいね」
 有吉が、おどろいた眼で、友杉の顔を見ていたが、平川と高橋とは、意外な仲裁で、これもびっくりしながら、急に元気づいてきた。
「そうなんだよ。ねえ、藤井。ぼくら、君を悪いようには決してしないよ。大丈夫だ。頑張ったって、ほめられやしないさ。それより、向うで来てくれっていうんだから、ともかく会ってみるだけだっていいじゃないか。友杉さん、よろしくお願いしますよ」と高橋は言い、平川も、
「それにだな。笠原君のこと、ぼくらだって誤解していたさ。いやな奴だと思っていた。だけどあいつも、芯は淋しがっていたんだぜ。ぼくらから憎まれて、いろいろ煩悶したと思うね。話し合ってみると、いい人間だったよ。君も、つきあえば、だんだんわかるにちがいないのだ。ねえ、強情張らずに、会ってみたまえ。頭はいいし、啓発されることだってずいぶんあるぜ。ぼく、嘘をいっているんじゃない。ぼくらを信用したまえ。そうして、せっかく来たぼくらの顔も立てるようにしてくれたまえ」くりかえし、笠原をほめて聞かせるのであった。


 友杉が有吉を、少し外の空気を吸わないかといって散歩につれだしたのは、その夜の夕食が終ってから一時間ほど後だった。
 二人は、事件の夜、あの奇妙な足音を聞きつけた坂を下りた。それから電車道を神楽坂の方へ歩いたが、途中のお濠には貸ボートが浮かんでいたので、ああ、あれがいい、と友杉はすぐにボートを借りて漕ぎだした。
 お濠の重みのある水が、時々ピシャリと音を立て、水面には、走る電車の燈影が線を引いて映った。若い男女や女ばかりのボートの間を、しばらく漕ぎぬけてから、オールを有吉が代ったが、すぐに疲れて手を休め、煙草に火をつけると仰向けになって、夜の深い空を、じっとだまって見上げている。
「有吉君――」
「なんですか」
「散歩に君をつれだしたのは、どうしてだかわかっている?」
「わかっていますよ。むろん……」
 腹を立てた声だったが、むっくり顔を持ち上げると、思いついたように、煙草の箱を友杉の前へさし出している。
「ありがとう。一本、もらうかな」
 そうして友杉も、うまそうに煙を吐きだし、しばらくのうちは、また二人ともにだまりこんでしまった。
 向うのボートで、少女が何か叫び、それから笑い声を立てた。明るいこだわりのない笑い方だった。中央線の電車が、またはげしい響きとともに走り去った。
「ぼくは、友杉さんの気持が、わからないんですよ。ぼく、びっくりしていた」
「そうですか。笠原のところへ、有吉君が行った方がいいって言いだしたからですね」
「そうですよ。あの男を、ぼくは憎んでいます。それは友杉さんも知ってますね。ずっとせんに病院で、友杉さんはぼくの書いた手帳を読んだのだから」
「そうだったな。笠原という名前は、あの時にぼくは、はじめて知ったんですよ。――しかし、どうですか。せっかく平川君や高橋君が来たのだから、行ってみた方がよいとぼくは思いますがね」
「それは……ぼくは、友杉さんを信頼しています。友杉さんがそうしろってのなら、その通りにしてもいいんです。だけど、なぜ友杉さんが、ぼくの気持知っていて、むりにぼくをあいつのところへ行かせるのか、その理由がわかりませんから」
「理由は大してないんですよ」
「ひどいなア。それじゃ、まるでぼくの気持を無視してしまって……」
「無視しやしない。それは考えているんです。しかし、あとできっと役に立つと思うんですよ。ぼくには、そういう気がする。笠原という男は、ぼくも好きじゃなかったですね。ところが、たいへんな秀才ですよ。特異な性格を持っている。それに人間は、どこかによいとこはあるもので、そのことをぼくは思ってみました。平川君や高橋君が、今はすっかり笠原に敬服してるでしょう。何かあの人たちも発見したのにちがいない。だから、有吉君も、行って見れば、案外気持が変るかも知れないじゃないですか」
「まるでアヤフヤですねえ、友杉さんも。アハハハ、おかしいや」
「有吉君の笑うの、久しぶりに見たな。アハハハ、ぼくも、おかしくなってきた。いや、いいですよ、ぼくを笑ってもね。まったく、ぼくもアヤフヤなこと、いってしまったんでしょう。――が、どう。ほんとに行く?」
「ええ、行きますよ。それは……」
「よかった。有吉君は、すなおだから、ぼくは好きなんですよ。そうですね。場合によったら、ぼくがいっしょについて行きますよ。それでもいいでしょう。ここで、ほんとのこと、ぼくがもう一つ言う。それはね、ぼくは有吉君を、一人でおいちゃいけないって、いつもこの頃考えているんですよ」
「信用ないんですね。アハハハ……」
 有吉が、また笑ったが、おかしくって笑う声ではなかった。投げた煙草の火が、水面でシュッと音を立てて消えた。そして友杉は、鋭いまっすぐな視線で、有吉の眼をのぞいていた。
「信用の問題じゃないんだが、有吉君には解らないのかな」
「わかりませんね。信用の問題じゃなくて、では、どういうんですか」
「つまり、ぼくは、有吉君が、いつもひどく何か苦しんでいるのに気づいているのですよ。考えていることがある。しかも、それを誰にも言わない。自分だけで、不安を感じ、いらいらし、だしぬけに泣きだしそうになっている。ねえ、そうじゃないですか」「…………」
「お父さんがあんなことになった。それを悲しがっているのはわかるが、それだけじゃ決してないですね。そのことは、平川君たちの前でも、有吉君自身で言ったでしょう。あの事件を、恐ろしがったり悲しんだりするだけじゃない。ほかにうんと大きな心配があるってね。それなんだ。ぼくが気にしているのは。それがあるから、ぼくは有吉君に、いつもついていてやらないと、いけないことが起るのだと思っています。どうですか。ぼくにいっそ話してしまいませんか。その心配なことはどんなことだか……」
 有吉は、顔を上げると、友杉の視線を、あわてて横へそらしてしまった。しばらく、返事をしない。また煙草に火をつけた。
「いやだなア、ぼくは……」
「え、どうして?」
「相手が友杉さんでも、そうしちくどく、ぼくのことを疑ぐられるの、いやなんですよ」
「疑うんじゃありませんね。そうだと観察しているんですよ」
「同じことですよ、それは、友杉さん。――第一、心配なことっての、あの時にやはりぼくが平川君たちに言ったでしょう。友杉さん流に言えば、大したことじゃないんです。ぼくがバカかも知れない、くだらないことを考えすぎてるんだってね。それで解答はおしまいですよ。何もありません。バカバカしいんです!」
「君が一人きりで考えていることは、べつにないっていうんですね」
「そうですよ。その通りですよ。もういい、友杉さん。何もぼくに訊かないで下さい。ほんとうに、ぼくがバカだということだけです。それ以外に何もないんですよ!」
 声が痛ましい響きを帯びている。あと一歩というところを、命がけの力で踏みこたえている。友杉が、しかし、やはり視線をはなさなかった。無慈悲にまた一つえぐった。
「有吉君。ぼくはね、君をいじめたいんじゃないんだ。反対に、君の味方なんだ。いいね。そこで君がどこまでも君の考えていることを話さないのなら、ぼくの見たこと話してあげよう。四日前だった。ぼくは庭へ出て、草むしりしていた。そしたら、有吉君が二階のバルコニーへ上り、へんなことしているのに気がついたんだよ。バルコニーは、お父さんの書斎へ続いているでしょう。そして書斎の窓があるでしょう。その窓は挿込錠が壊れていて、バルコニーから、夜中でも侵入できるようになっている。ところがどうだ、君は、その窓を、そっと開けたり閉めたりしている。それから、バルコニーへ腹ん這いになって出て、何か探すような恰好をしている。じきに、階下でふみやさんが、湯殿の戸を外からあけた。その音がすると、君はびっくりして立ち上り、バルコニーから姿を消したね。……ねえ、どうなの? そこまでぼくに言わせたら、あとはもう強情張らなくてもいいんじゃないですか。あの窓は、今のところ、犯人が侵入した口だということになっているのですよ。少なくとも君は、そのことを前から知っていたのですね」
 有吉の瞳が、大きく見開かれていた。
 それは驚きの表情であり、しかし、恐怖の表情に近かった。
「友杉さん! ……」
 と彼は叫んで、あとの言葉が続けられず、ふいにオールを掴みよせると、その手の上へ顔を重ね、はげしく声を立てて泣きだしてしまった。
 ボートがグラリとゆれ、光る波があたりに散って行った。友杉は、ため息をつき、身を動かして有吉のそばへよった。
「君は弱いんだね有吉君。なにも泣くほどのことはないんだよ。え?」
 そして有吉は、手のひらで涙をこすりあげ、ようやくオールから顔をはなした。
「ぼくは……ぼくは、ほんとは……苦しいんです。友杉さんの言うとおりです。しかし……もう少しのうち、ぼくの気ままにさせて、ただぼくを見ていて下さい。お願いです友杉さん。それだったらぼくは、笠原のところへも行きますよ。そうです、行くことがぼくにも必要なんですから。一つだけ言えば、ぼくはぼくの責任を考えているだけで、これ以上友杉さんに迷惑なんかかけません。信じて下さい。そしてもう何も訊かないで下さい」
 兄に甘える弟の声だった。
 友杉は、有吉の肩を抱きしめるようにして、じっとこの嗚咽おえつの言葉を聞くのみであった。


愛の書簡



 有吉が、友杉といっしょに、淀橋にある笠原昇の事務所を訪ねたのは、平川と高橋とが有吉にそれを勧めにきた、その翌々日のことであった。
 ボートの中で泣いた有吉は、友杉と肩を並べて帰る道すがら、ふっと遠く空を見上げて、ああ、きれいだなア、今夜の星は、まるで生きているみたいに動いていますよ、と大人っぽくしみじみした声でいい、その星を眺める目つきが、思いのほか清く明るく澄んでいたが、これは彼が、胸のうちの秘密と苦しみとを、友杉に鋭く指摘されたので、かえってその苦しみや秘密は、これから後のいざという場合、友杉になら打明けて話すことができるのだという、ひそかな安心感が生れてきたせいだったろう。
 友杉の方は、帰るとすぐに未亡人の部屋へ行って、長いうち未亡人と話しこんでいたが、それは藤井家に於ける友杉の存在が、あの事件後すっかりと重味のあるものになってきている。未亡人一人だけでは、内外の家事一切を処置しきれず、自然友杉が、唯一の相談相手になっていたからであるが、さてしかしその晩の二人の話は、かなり重大な問題についてであったにちがいない。未亡人は、次の日一日、何かじっと考えに沈んでいた。そして翌日の昼ごろ、ようやく決心がついたという顔になって、
「ねえ、友杉さん。あたしも、同じような気がしてきたわ。あなたの意見に賛成なの。有吉ちゃんを、つれて行ってみてちょうだい。……それから、笠原さんに軽蔑されたら口惜しいじゃないの。身なりを、できるだけキチンとして行ってね」
 と女らしく気を配り、友杉のために、藤井代議士の服を出して与えたのであった。
 行ってみると笠原の事務所へは、折よく笠原が来ていたし、平川と高橋も顔をそろえている。そして、事務所の工事は、たいへんに早く進んだらしい。あの貧弱なバラックが、もう見ちがえるほどになっている――。
 表の硝子戸に、ペンキが塗ってあった。
 壁はベニヤ板で、天井がテックス。その天井いっぱいの高さに書類入れの戸棚が立ててある。ニスの匂いの新しいテーブル。安ものの灰皿や紙屑籠。そして奥の部屋では、畳替えがはじまっているところだった。
「あ、藤井か。よく来たね。もう来ないのかと思っていたよ」
 顔を見て、はじめに声をかけたのは高橋だったが、今日も友杉がいっしょなので、ふりむいて笠原と平川とに、てれくさくパチパチと目ばたきをして見せている。
 笠原と友杉との視線が合った。
 とたんに、友杉の顔には静かな微笑が浮かび上ってきたし、すぐ笠原も、
「やア、こりゃ、あなたが来てくれたのは意外ですよ。しばらくでした。歓迎しますよ」
 と思いのほかおちついた声でいった。
 かつて藤井家のサンルームで、貴美子夫人にダンスを教えにきていた笠原を、友杉が容赦なく追い払おうとした時、彼等は掴み合いの喧嘩でもはじめそうであった。それ以来、どちらも、相手を憎悪しているはずであり、しかし二人とも、それを忘れたような顔をしているのである。平川や高橋は、深いことを何も知らなかっただろう。気をきかして高橋が、脚を上にして重ねてあった椅子を床へおろし、入口のテーブルのそばへ、有吉と友杉との席をつくった。そうして平川に、
「オイ、お前、自慢してたじゃないか。コーヒーいれろよ。茶碗、買ってきてあるぜ」
 と言いつけた。
 女の事務員がまだ来ないので、キャンプ生活の学生のように、自炊をしているのだと、高橋、平川が言いわけしている。そのあとで笠原が有吉に、殺された有太のお悔みを言い、すると笠原と友杉との間で、話が有太の殺害事件のことにはいってしまった。
「どうですか友杉さん。あなたは直接に事件の渦中にいるのだから、いろいろと詳しいことが、ぼくらよりもわかっているはずですね。犯人の目星は、もう大体のところついているのじゃないですか」
「そうですね。警察じゃ、ある程度わかってきているかも知れません。少し政治的な問題がからんできているようですが」
「政治的って……そうですか。じゃ、それは、諸内達也という代議士のことですね」
「ほう、よく知っていますね。どうしてですか」
「どうしてでもないんです。ぼくは、実はこの事件には、興味をもっているんです。藤井君の前で興味だなんていうのは気の毒だけれど、ともかく変った事件ですからね。ぼくが新聞記者とか探偵とかであったら、夢中になったかも知れません。ぼくは新聞で事件を知ったのですが、事件発生以来の新聞の切抜きを、全部集めて持っているくらいです。――その新聞に、某代議士のアリバイのことが書いてあったでしょう。それを読むと、すぐにぼくは諸内代議士だと気がついたんです」
「新聞には、諸内代議士の名前は、出ていなかったはずですが……」
「出ていなくても、わかったんですよ。諸内代議士が、藤井君のお父さんを買収しようとしたんですね。政治的な何かの秘密を、藤井君のお父さんに掴まれていて、その曝露を恐れたからのことでしょう。諸内代議士は、果物籠へ莫大な金を入れて持ってきた。しかし、清廉潔白な藤井代議士が、最後までその買収に応じなかった。そうして、そんなことでモタモタしているうちに、とうとう殺人事件になってしまったという順序です。警察じゃ、どういう見解なんです。つまり藤井代議士は、中正党の秘密を握り、その秘密のため、殺されたというんじゃないのですか」
 友杉よりも、平川と高橋とが、おどろいた眼つきになっていた。これまでに笠原は、事件についての特別な興味をもっていることなど、おくびにも口へ出さなかった。むろん、それについての意見を、述べるというようなこともなかったし、果物籠のことも、平川や高橋が、話して聞かせた覚えはない。だのにこの男は、平川も高橋も及ばぬほど、詳しい事情に通じているらしい。いつのまに、どうしてそんなことを知ったのかと、不思議な気がするのであった。
 友杉の顔に、一筋、血の色が浮いたようである。ふいに、ニスのテーブルについていた肘をはなし、上体をまっすぐに起したから、何か反対意見をでも述べるのかと思われ、しかし、べつに何も言わなかった。ポケットの扇子を出し、パチリと音をさせて、またそれをもとのポケットに入れてしまった。そうして、簡単な言葉で笠原に答えて、諸内代議士の件は、多分警察でも笠原と同じ着眼点で捜査にかかっているのではなかろうか、といっただけであった。
 有吉が、急に椅子をはなれ、せまいテーブルと壁との間をぬけて、畳屋の職人の仕事を見ている平川のそばへ行ってしまった。やせ細った横顔が、透きとおって青い色をしている。友杉と笠原とが、事件の話ばかりしているのを、不平に思っている顔つきだった。
 友杉は気がついて、
「まアしかし、犯人を探すことは、警察へ任せておいた方がいいと思っているのですよ。それよりも今日は有吉君のことですが……」
 と有吉をこっちへ手招きして言い、笠原も笑いながら、
「そうでしたね、――これは、実は、高橋君が言いだしたのです。ぼくも賛成で、有吉君にしても、ここへきてぼくらの仕事を手伝っていたら、気がまぎれるんじゃないかと思ったんです。学校の余暇を利用して、まア、バイトというわけですが、学生のバイトとしては、かなり面白いつもりですから……」
 といって、事業の説明をはじめた。金融会社ではあるが、合法的にうまくやる。名前は企業会社ということにして、小資本の企業家に対し、資金を貸したり企業の計画を立ててやったりする。名目は、貸金の利子をとるのでなく、その企業を合同にし、利潤を分け合う形式になるのだから、世間ていも悪くはないし、出資金に対しては担保をちゃんととっておく、そうすれば、企業が失敗してもこちらは損失にならず、成功すると、それだけやはり儲かる、というような説明であった。
 友杉が、ふりむいて、心配そうに有吉の眼をのぞいたが、有吉は、思ったよりハッキリした口調で答えた。
「ぼくは、どっちでもいいんですよ。高利貸しって言われるんじゃなかったら、バイトしたってかまいません。しかし、その前に笠原さんに、一つだけ聞きたいんですが」
「ほう、どういうこと?」
「仕事の話じゃないんですよ。ぼく、気になっているから、こないだも平川君たちに訊いてみたんです。……というのは、園江が、どこにいるのか、笠原さんは知ってないでしょうか。ぼく、園江に、どうしても会ってみたいんです」
 胸のうちにためていたことを、がまんできず、口へ吐き出したという感じだった。
 なぜ、ここでだしぬけに園江新六のことなどを言い出したか、それは誰にもわけがわからない。友杉が、ハッとして有吉の顔を見なおした。笠原も、表情に変化が起り、眼が輝いたようであったが、ガタンと音をさせて、椅子の上の膝を組みなおした。
「おかしいね。藤井君。どうしてだい、園江のことなど、なぜぼくに訊くの?」
「わけがあるんです。平川君も高橋君も、園江のことは、知らないんだそうです。でも笠原さんなら、知っているかと思って……」
「だからさ。だから、なぜぼくなら、園江のことがわかるのかねえ。ぼくが、あいつのこと、知っているはずはないじゃないか」
「そうですか。じゃ、園江は、笠原さんのところへ、最近来たことはなかったんですか。――最近といっても、十日ほど前、イヤ二週間にもなるでしょう。その時園江は、笠原さんのところへ行くといっていたんですよ」
「ほう……」
「園江はぼくに、金を借りに来たんです。ぼくは都合が悪くて断わりました。そしたら園江は、それじゃしかたがない、困ったなアといって考えこんで、それから、笠原さんのところに、金を借りに行くって言ったんです。ほんとに来なかったんですか」
「そうか。――金を借りる話なら、園江が来たこともないじゃない。しかし、二週間前だというんじゃ話がちがうね。こっちは、もう二た月も三月も前のことだからね」
「ぼくの家で事件が起った、その四日前のことですよ」
「ふーん……」
 奥にいる畳屋さんのそばで平川が、ふっと顔を上げ、こちらへ耳を澄ましている。
 それは、誰の胸にも、ある微妙な感じが起ってきていたからであった。その感じは、海の底の流れのように力が強く、同時に大きな不安や恐れを伴っているものである。その原因は、甚だしく不確かであり、そうして不確かなくせに、ぼんやりと何かの映像が見えてくるようなものであるのであった。
 友杉が、まっさきに冷静な表情に戻った。
 つづいて笠原も、たばこを出し、ライターで火をつけ、それから、
「まア、いいじゃないか藤井君。――園江のことなんか問題じゃないよ。少なくとも、ぼくの事業とは関係がないと思うね。君は、急ぐわけじゃないから、ゆっくり考えてみてからでかまわないんだよ。いっしょにやる気があったら、ここの事務所へ出てくるんだね。なアに、心配なことはありゃしない。君のために、決して悪いようにはしないからね」
 と有吉に、いかにも親切に聞えるような、やさしい口調ですすめるのであった。


 はじめからその予想はあったことだが、こうして有吉と笠原との会見には、息苦しく不安定な気分がつきまとっていて、しかしともかくも、当面の用件だけは、事無くしてすんだのであった。
 帰りを、友杉と有吉は新宿駅へ出るつもりで、すると平川が、会社のゴム印を頼むのだといって、いっしょについてきたが、その途中友杉と平川との間で、事務所の床のことが話題にのぼった。それは友杉には、あそこにいた時から気になっていたことである。椅子に腰かけていて、天井がひどく低くて頭がつかえるようだと思い、つまり、コンクリで塗りかためた床が、高すぎるのだと気がついた。バラックを改造したのではあろう。でも、なぜ、あんなぶざまな設計をしたのかと、まったく何気なく平川に訊いたのである。
 平川は、これも何気なく説明した。
 要するに、猫の死骸があったせいだった。そして、笠原ががらにもなく、猫についての迷信をもっていたせいだった。
「ぼくは、反対したかったんですよ。しかし、仮にも社長の意見ですからね、ハハハハ」
「なるほどね。社長さんじゃ、かなわない。アハハハ」
 友杉は、つりこまれて笑い声を立て、それから間もなく平川とは別れた。
 邸へ帰って友杉は、有吉と笠原との会見顛末を、詳しく未亡人に報告していた。
 一方有吉は、留守中にきていた郵便物のうちから、雑誌の包みらしいものを見つけると、急にすばやい手つきでそれを抜きとり、自分の部屋へ持って行ってしまった。
 その包みは、表の宛名が有吉になっているし、中身もなるほど科学雑誌である。
 しかし、秘密があった。
 包み紙の裏に、字がぎっしりと書きこまれた、薄いレターペーパーが貼りつけてあった。そうしてそれは有吉の情婦波木みはるからの手紙だった。あの青い石の私設郵便局はもう不便になっていたし、ペン画の表紙がついた記念帳も使えない。今は新しく案出したこの方法で、彼等はすでに数回の通信を取交している。その前後数回の通信は、次のごときものであった。

×    ×

(波木みはるより……)
 お手紙、無事につきました。とても悲しかったり腹が立ったりしました。あんまり腹が立ったから、あたしは、あなたを苦しませることをこれから書くのです。あなたには、こんなこと知らせたくない。でも、あなたは、無責任ですね。お父様が亡くなったから、もうあたしのこと忘れるのだといってるでしょう。ずいぶん身勝手な言分だと思います。だから、あなたを苦しませてやるのですよ。ほんとは、あたしは、たいへんなんです。警察から調べがきて、あなたと私のこと、何もかも知られてしまったのは、この前の手紙で書きました。ところが、あたしは一つだけ、秘密にしておきました。それはあたしが、父や母にもないしょで、医者に診てもらったことです。その医者は、耳の大きい、赤い顔の肥った男でした。あたしは、いくども躊躇したけれど、パンパンだと嘘をついて、その医者のところへ行きました。とても煩悶したあとです。生理的に変だと気づいていたからでした。
 肥った医者は、ニヤニヤして私の頬ぺたを指でつつき、そしてたいそう長い時間をかけてあたしの身体をしらべました。診察のとちゅうであたしは、よして下さい、失礼なことしないで下さいって、よっぽど叫ぼうかと思ったくらいです。でも、パンパンだって嘘ついてあるから、軽蔑されてもしかたがなかったのでしょう。医者は、やっとこさ診療を終りました。貧弱な水道のカランのところで、ピチャピチャ音を立てて指を洗って、それから私の方へ向きました。君の心配したとおりだよ、赤ん坊ができているって言ったんです!
 あたしの頭の中では、ガン、ガン、ガーンと鐘が鳴るようでした。そこで泣きだしてしまいました。医者が、またニヤニヤして、泣かなくてもいい。簡単な手術でどうにでもなる。困ったら、いつでもくるがいい、手術の費用なんか、あたりまえなら、うんと高いのだけれど、君はとくべつにやるよって言って、あたしの肩を両腕でおさえるのを、あたしはふりはなして逃げてきたのです。あたしは今の今まで、誰にもこの話はしたことがありません。父も母も、そして警察でも知らずにいることなのです。いつかあたしは、あの赤い顔の耳の大きい好色な医者の所へ、もう一度行くことになるのでしょう。しかも、このことは、あなたにも永久の秘密にしておくつもりだったのですけれど……。ああ、しかし、こんなこと書いてしまっていいのでしょうか。
 腹立ちまぎれに書いたのですけれど、この手紙は、やぶいてしまった方がいいのでしょうか。
 いいえ、やぶきません。あなたに読んでもらいます。あたしは、そんなに考えなしではないのだから、書いた以上、この手紙はあなたに読ませるのです。
 ではさようなら。

×      ×

(有吉より……) ぼくは、息がつけない気がした。まったくうちのめされた。内憂外患こもごも至るという形になった。そして、みんなぼく自身の責任なのだ!
 ぼくは、改めて君に謝罪しよう。君のこと忘れるといったのは悪かった。忘れやしない、決して決して……。
 だから、無責任だという非難だけはしないでくれ。ぼくは、以前君が、自分たちが何をしようと、責任さえ持てばいいのだと言ったことを思い出す。勇気が必要だ。責任を逃げるようなことは決してしない。ただ、困るのは、君に対してだけの責任が、ぼくに重くのしかかっているのではなくて、ほかにも、もう一つの重い責任があることだ。その責任を果したい。そのあとで、君への責任を果すつもりだ。
 しかし、変だね。ぼくは、自分が今、ひどくえらそうなことを書いてしまったのに気がついて、顔を恥で、真赤にしているのだよ。
 二つの責任を、事務的に、順々に果すなんて、ぼくに可能なことか知ら、考えてみると、それはむつかしいことだとわかってくる。二つどこじゃない。その一つだけでも、ぼくの背負いきれる責任じゃないと思う。一つはぼくの愛人に対して、一つはぼくの父親に対して――。
 苦しい、苦しい、苦しい、苦しい!
 君は君のことだけを考えているが、ぼくだったら、君の立場になった方がまだましなような気がするよ――イヤこれはやはり君から身勝手な言分だといって非難されることだろう。そうだ、女としては最大の事件が起ったのだ。君が苦しいのは無理もない。そうして、ぼくも、君と同じように苦しいのだと言いなおそう。どうしたら、この苦痛から脱却できるのだろうか。いちばん容易な方法は、昔から多くの人々が実行してきた方法だ。その方法を選ぶなら、事はまことに簡単であり、ぼくにも、それだけの勇気は残っている。けれども、卑怯だね。もう少し、ぼくはこらえていてみよう。君にも、もう一度、会ってからだ。
 とにかく悪かった、ぼくの敗北だ。
 そのうちに、なんとかする。赤い顔の耳の大きな医者は憎い奴だ。そいつには、ぼくはいつか、十分な復讐をしてやりたい。
 サウザンドキスを君におくる――。

×    ×

(波木みはるより……)
 ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい!
 あたし、とても悪いことしました。あなたにこの前の手紙を出したあとで、あんなこと書かねばよかったと後悔し、今度はまたもっとうんと後悔してしまいました。
 お詫びしたら、あなたは許して下さるでしょうか。私は、嘘をついたのです。あなたが、私のこと忘れるといったのが口惜しかったから、あなたを困らせたくて、嘘つきました。耳の大きい肥った医者の話、あたしが作ったお話です。いいえ、それもただの作り話ではありません。あたしの友だちのズベ公が、私に話してくれたことで、それを私のことのようにして書いたのです。ほんとうに、ごめんなさいね。
 心配かけて、それもほかの場合じゃなくて、あなたにほかの大きな心配がある時なのに、すまないことをしたと思っています。そうして、今度は、あたしが心配になってきたのです。あなたが、何かとりかえしのつかないことしやしないかと思い、お手紙を読んでいるうちに、胸がドキドキしてきてしまいました。
 二つの責任があるってこと。
 そのうちの一つは、耳の大きな医者のことが作り話だから、もう解消したことになるでしょう。その残りの一つ、あなたの亡くなったお父様に対しての責任とは、どんなことですか。
 あの時、あたしはお葬式に行くこともできず、どうしたらあなたを慰めてあげられるかと考えて、そのあげくに、雑誌の手紙を思いついたのでしたわね。だけど、あなたがお父様のことでそんなに苦しんでいらっしゃるとは知りませんでした。お手紙では、お父様があんな風にして亡くなったのを、ただ悲しんでいらっしゃるだけではないように見えます。責任があるというのは、お父様に対して申訳がないという意味でしょう。
 そのわけを聞かして下さい。なにか異様な感じがしてならないのです。
 苦痛を脱却するのにいちばん安易な方法なんて、考えないようにしていて下さい。
 それは、あなたが一人でやることではなくて、万一の場合には、あたしと二人でやることです。あたしは、二人でだったら少しも怖いと思いませんし、でも、あなたが一人でそんなことをして、あとにあたしだけを残すのだったら、それこそあなたを、身勝手だと思ってしまうでしょう。死ぬなら、いっしょですよ。そうして、死ぬ前に、あたしにわからないことがないようにしておいて下さい。
 お願い!
 あなたの秘密を話して下さい。そして、ほんとにどうにもならないような問題だったら、その時、二人で死んだっていいでしょうもの。あたしは、本気に死のことを考えています。死ぬのは、そんなに悲しいことじゃないのです。少し早く死ぬか遅く死ぬかだけの違いです。そうして、今の世界では、若くて健康な人たちが、あたしたちよりもっと正直で善良で、そのくせ無理に死なされました。それを思えば、あたしにはあなたがあり、はげしい愛の言葉があり、この一瞬の命こそは、輝く幸福に充ちているのですから、もう十分に満足して死んでもいいのですわ。
 ママが、奥であたしを呼んでいます。見つけられないうちに、ではこれで。

×    ×

(有吉より……)
 ぼくは、笑いだしてしまった。はじめ、くそッ! と思って腹が立ったが、そのうちにおかしくてたまらなくなった。耳の大きな医者の話。よくうまくぼくをだましたね。これは覚えておくよ。いつか、きっとしかえしをしてやるから。
 ところで、死についての君の言葉は、ぼくに大きな慰めや力を与えてくれた。これは感謝しなくてはなるまい。自分が苦しくて、死と向き合っているような気持のとき、それが孤独ではなく、いっしょに死ぬつもりでいる人のあることが、死ぬほど苦しい時に、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。ありがとう。もしかしたら、ほんとにぼくは、死んだ方がいいと思うようになるかも知れない。その時は、よく相談をしよう。そして、世界でいちばん美しい、誰にも真似のできない方法で死ぬことにしよう。
 なぜ死ぬことを考えるのか。
 その話を、ぼくは君への感謝の念から、打明けてもよいと思うようになった。ほかの誰にもまだ話してはない。ぼくが最も信頼している友杉さんにさえ、この恐怖すべき真実をぼくはかくしているのだ。友杉さんは、ぼくを危ぶんでそっと見守っている。そうして、ある程度、ぼくの秘密に気づいている。しかし、ぼくは意地になって、口を閉じてしまった。それをぼくは、君にだけ打明けるのだ。
 結論から先きにいうが、ぼくの父、代議士藤井有太氏は、その一人息子である不良少年藤井有吉によって殺されたといってもよいくらいだ。直接犯人は、有吉の友人の園江新六であり、しかし新六は、有吉に教唆されて、この犯行を敢てしたというわけだ。
 君は、園江を知っているだろうか。たしかどこかで、ぼくといっしょに、コーヒーぐらい飲んだことがあっただろう。園江は、中野のわりに裕福な家具店の息子でS大専門部の学生で、年はぼくより一つ上の十九歳だが、鼻が曲っているし反歯そっぱだし、おまけにニキビがいっぱいあって、色が黒くてたいへん醜悪な顔つきをしている。ところがこの園江は、ある日ぼくの家へやってきて、金を貸してくれという相談をもちかけたのだ。奴にはぼくは、ぼくの家の二階の書斎に、誰も受取人がない、そして持主もない金が十数万あり、あのまま放っておくのは惜しいものだと話したことがある。その金を借りるつもりでやって来たのだった。ところが、ぼくは、その時もう、二階の書斎から、金を持出すことができないようになっていた。父が、福島から帰ってきて、その部屋のベッドへ寝こんでしまったからだが、そこでぼくは園江に、そういうわけだから、金を貸すことができないといって断わり、しかし、あとで、とんでもないことをしゃべってしまった。つまり、金は、『日本史略』という書籍のケースに入れてかくしてあると話し、なお、その部屋には、窓の挿込錠のこわれているところがあって、泥棒するつもりなら、そこからたやすく忍びこんで、あの金を盗み出せるのだということを、ウッカリ話して聞かせたのだ。むろんぼくは、そうしろといって園江に教えたのではない。泥棒ならそうするが、ぼくはこの家の子供だから、まさかそれもできないという意味で、笑いながら、園江に話しただけだが、あとで思うと、これは教唆になっている。園江も、その時は笑っていた。そうして、金を借りることはあきらめて帰っていった。ところが、それから四日目に、ぼくの父は殺されてしまった。しかし、ぼくと園江以外には、本のケースに金がかくしてあることを知っている者はないはずなのに、その金が影も形も見えなくなってしまったのだ。
 事件直後、まだ血みどろの父の惨死体が横たわっている部屋へ、ぼくが警官の許しを得て入って、ケースの金が消え失せているのを発見した時のぼくの驚きを察してもらいたい。立っている部屋の床が、ずしんと暗黒の底へ沈んで行く思いだった。息がつまり、脳貧血を起しそうだった。そしてもうすぐに、そのことを警官に話そうかと思い、それを怺えているのが苦痛だった。気が少しおちついてきてから、ぼくがひそかに考えたのは、せめてもの父への責任で、園江新六をぼくの手でひっつかまえて、警察へつき出してやろうということや、また反対に、園江がうまく逃げてくれて、一生涯つかまらずにいてくれたら、ぼくが彼を教唆したことは、世の中へ知れずにすむだろうというような、たいへん卑劣な利己的な希望についてだった。ぼくの煩悶がはじまった。死んでしまってから、ぼくは父の善良な性格を思い起した。その善良な父を、一人息子のぼくが、園江の手で殺さしたことになるのだ。
 気まりが悪くて、日の光へ顔を向けていることができないくらいだ。
 たった一つ、ぼくを救ってくれる道は、園江以外に犯人があって、その犯人が逮捕されるということだが、そんなうまい工合にはならないことを、ほかの誰よりもぼくはよく知っている。
 なぜなら、園江は、事件後、どこかへ逃亡してしまって、父の葬儀にさえ、顔を見せなかった。彼が犯人でなかったら、姿をかくす必要はないではないか。彼は低能だから、お悔みを言いにくることを知らないのだと、平川君や高橋がいった。が、そうではない。低能だから、何喰わぬ顔をして、ぼくの前へ姿を現わし、疑いのかからぬようにするだけの智慧がわかないのだ。却ってそれは図太くなくて小心なせいかも知れない。が、ともかくも、彼は、顔を見せただけで、ぼくが、ほかの誰が知らなくても、彼に金を盗み出す方法を教えたことを思い出すと考えた。そうして、ぜったいにどこへも立ち現われない。もしかしたら、今は彼も後悔しているだろう。ぼくという親友の父を殺してしまった。その罪の呵責に苦しみつつ、逃げ廻っているのかも知れない。しかし、誰にも彼は消息を絶ってしまったのだ。
 ある代議士に疑いがかかっている。
 ところが、この疑いは、すぐ晴れるにきまっている。
 けっきょく園江が逮捕されるのであろうが、ここに一つ、矛盾したぼくの気持が働くのは、ぼくが園江を憎むことができないでいるということだ。それも、つけ加えて言っておく方がいいだろう。ぼくは、どうしたものか、あの醜悪な顔をした園江が、犯した罪に脅えつつ、狩りたてられた獣のようにして、あちこち逃げ廻っているすがたを想像すると、彼が可哀そうに思えてくる。彼も不倖せな奴だ。今の時代が生んだ一つの犠牲者だ。何が正しいか、何が善良か、イヤ何が幸福かということを今のぼくたちはハッキリ判断し見定めることができない。本能的な欲望だけに忠実であることが、いちばん強くて正しい生き方だという議論がある。が、そうだったら、人間は、獣類や爬虫類はちゅうるいと同じ生物になってしまうし、ではほかに、どれが真実の人間の生き方かというと、世界で最高の権力者たちがしているように、一挙にして巨万の人の命を奪う原子爆弾の製造に努力することが、その正しいあり方だとも言えないだろう。すべては混乱している。わからないことだらけだ。園江は、そのわからない世の中で、もがいたり、はねたり、しゃべり、わらい、泣いている一人の少年に過ぎない。しょせんは、場合によったら、ぼくでもやりかねないことを、思い切ってやっただけだ。それを、ぼくは許してやりたい気さえする。
 下らない屁理窟を並べてしまったね。
 笑ってくれ。
 要するに、ぼくは、こういう状態で苦しんでいるのだ。
 いちばんいいのは、園江に、ぼくが会うことだ。わずかに一縷の望みを抱いているのは、会ってみたら、案外園江は犯人でなかったという場合だが、まア、それはあり得ないことであろう。ぼくは園江をつかまえ、彼と一晩語り明かし、それから彼を警察へ自首させたいと思っている。センチメンタルで空想的だと言われるだろうけれど、そういう風にすれば、ぼくは少しでも気が休まるのだ。長い手紙になってしまった。それでも、ぼくは、ぼくの微細な感情を、そのまま書き現わすことができなかったから、ぼくの苦しみを十分に理解してもらえなかったかも知れない。が、推察し感じ取るのは愛の力だ。これだけでぼくのこと解ってもらいたいと思う。書いてしまったら、ぼくは不思議に頭の中が明るくなってきた。苦しみを訴えるのは、それだけで大きな慰安になるのだね。では、これで失敬。

×    ×

 手紙には、若さのための、思慮の足りなさが見えている。が、それはともかく、偶然にも、平川や高橋と同じように、有吉も、園江新六の行方を気にしていることがわかる。ただ、平川や高橋と有吉とでは、園江を探す意味が違っているのであった。


絶壁



 M県S海岸という町の温泉旅館碧玉楼へきぎょくろうへ、ある日の夕方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人づれの奇妙な客がきて泊った。
 男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい――。
 彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。
 しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことにみすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等の一室に通したほどであったが、さてそれからしばらくすると、女中が帳場の番頭にあわてた目つきで報告にきた。
「ねえ、あのお客さま、部屋を変えてあげた方がよくなくって?」
「ふーん、どうしてだい」
「身なりはそまつね。だけど、持ってきたものが、とても大したものばかりよ」
「へええ、持ってきたものって?」
「トランクが二つ、あるじゃないの。あたしが行ったら、トランクの蓋をあけたところなの。そうしたら、服も靴も帽子も、りっぱなものばかりが揃っているのよ。女の方は、ダイヤの指環出して指へはめたわ。そうしてね、山登りしてきたから、汚い服を着てきたんだっていっていてよ。悪いこと言わない。部屋を変えた方がいいと思うな」
 それではと番頭も気がついて、客に詫びを言いに行ったり、特等の二階月の間に案内したり、急に滑稽なほどていねいな客あしらいに変ったのは、いかにもこの商売としてはあたりまえのことだが、そうなってみると客の方は、男も女も、すっかりとおちついてきて堂々として、そういう上等の待遇には、ふだんから慣れっ子になっているというところが見えてきたから、女中と番頭とは、
「ね、ごらんなさいよ。今日ばかりは、あたしの目の方が高かったわね」
「うん、そうらしいな。着替えの浴衣まで、自分のを持ってきている。どう見ても一流の紳士だね」
 また話し合ったくらいである。
 彼等は、東京からきたのだといった。ここの湯が胃病に特効があると聞いてきた。それで当分のうち滞在するつもりだともいった。
 宿帳の名前は、文房具商高畑義一、同人妻文江としてあって、しかし、夫婦ではないのであろうし、またどう見ても商人らしいところはみじんもない。女は入浴したあと、部屋の鏡台の前へ坐って、
「ああ、やっと、さっぱりしたわよ。こんな旅行って、もうこりごりだわ――。それに、景色だって、ちっともいいところじゃないじゃないの。汽車は三等、おにぎりの弁当。とんだ道行きしちゃったわね」
 不平そうな口ぶりでいったが、だんだらしぼりの涼しげな浴衣に、パッと目のさめるほどの赤い伊達巻をしめた姿が、宿へついたばかりの時とは別人のように、あでやかに見え、コケティッシュに見える。男の方も、同じく湯上りの肥った躯を、ガッシリあぐらをかかせて葉巻をくわえて、暮れてきた海の遠くを眺める目つきが少なからず傲岸で、精悍で、人を人とも思わぬ面魂つらだましいに見えるのであった。
 夕食に、彼等はビールをとりよせた。
 男にまけず、女もかなりいける口で、ビールよりはハイボールかなんか飲みたいわ、などといったり、久しぶりで三味線を弾きたいなどと言い出したが、酔いが廻るにつれて、男の方はとくに目つきが淫蕩になり、もう女中がきて次の部屋へ寝る支度をして行ったにもかかわらず、だしぬけに女を抱きよせると、はげしくその場へねじ伏せてしまった。
「……いやだわ……無理よ。部屋が開けっぱなしじゃないの……それに、女中さんがくるかも知れなくてよ。……ああ。そんなことして、バカバカ! ……ああ……」
 女は身をもだえて抵抗し、男を罵るようにしながら、しかし結局は、自分から進んで男の要求に応ずるようだった。
 荒い呼吸をして、男は、縁がわの籐椅子へ行き、ドサリと腰をおろした。
「へんねえ。あなたという人。今度はいつもとまるっきり変ってるわよ」
 しばらくして女がとつぜん言った。
「そうかい。どう変っている?」
「だって、そうじゃないの。万事が万事だわよ。あたしにわけも話さないで、こんな田舎の温泉へつれてきて、それもあなた、一等のパスだって持ってるのに、汚いなりをして三等できて、これから、何があるっていうのよ。あたし、怖いような気がしてきたわ」
「うん、怖いのは、おれも、怖いよ」
「え?」
「なに、お前を困らせるようなことは、せんつもりだ。だから、お前がびくびくすることは少しもない。しかし、今度という今度は、もしかするとわしの土壇場だからな」
「いやねえ。土壇場なんて。――わかった。じゃあなた、やっぱり警察から疑われていたとおりね。藤井という代議士を殺したの、あなただったのね」
「じょ、じょうだんいうなよ。わしは、そんなのじゃ、決してないさ。仮にも諸内ともあろうものが、そんな殺伐で野蛮なことは決してせん。藤井が殺された時、わしが大森のお前の家にいたことは、ほかの誰よりもお前が知ってるだろう」
「そうね。それは、そう言われると、そのとおりだわ。だけど、じゃ、ほかに何があるっていうのよ」
「つまりだな。明日になると、この宿へ、わしを訪ねてくる人物がある。こいつは、なかなかの悪党だよ。悪党でいて、見かけは寺の和尚か田舎の村長みたいな顔をしている。こいつに会って、話がこっちの希望するとおりのところへおちつけば、何も心配はないことになるし、でなかったら御破算さ。御破算も御破算、おれだけじゃなくて、天下の大政党の御破算だぞ。おれは、少なくとも代議士じゃいられなくなるからな。とにかく、その悪党に、会ってみなくちゃわからないが……」
「悪党って面白そうね。そういうの、あたし大好きさ」
「好きか好きでないか、会ってみてからわかる話さ。――うん、しかし、お前がそいつを好いてくれたら、わしは都合がいいよ」
「オヤオヤ、どうして?」
「というのは、おれが目をつぶって、がまんしなくちゃならんかも知れない。老人のくせに女が好きなやつだ。一晩ぐらい、お前が御機嫌をとらなくちゃならんかも知れん」
「あら、そいじゃ、あたしが、人身ごくうになるっていうわけ?」
「ふふ、まさか、本気でそれを言うんじゃないよ。お前を、人には渡すものか。ただ、譬えれば、いや、成行きでは、そうした方がいいという場合も起るというだけの話だよ。まア、政治の裏面ではね、そんなことがしょっちゅうあるのさ。自分の娘を、人身ごくうにすることもある。ひどいのは、女房を提供する。それがまた昔から、いちばん手っとり早い方法だとされているのだ。世の中のことを、真正面からだけで見ていたら、聖人君子ではいられるだろうが、しまいにゃ野たれ死にするかも知れんからな。わしはしかし、少々やりすぎたかとも思っているよ。まったく、つまらない目にあった。政治的野心なんか持たないで、材木屋をやっていた方が、利口だったかと思うよ。ウハハハハ……」
 明日になれば会うという悪党は、まだ誰のことをいっているのかわからない。
 しかし、この会話を、誰でも聞いたらわかるだろう。男は代議士の諸内達也だった。女は、大森にかこってある妾で、これは宿帳に記入したとおりの文江という名前の女である。旅行は、秘密の旅行だった。身分をかくし、名前を変え、服装までもわざとみすぼらしくして、この温泉旅館へきていたのだった。
 九時少し過ぎ、男――諸内代議士は、寝る前に汗を流してくるといって、階下の浴場へ降りて行ったが、その浴場は岩風呂になっていて、湯の落ち口の岩のかげに、色の黒い、ボンヤリした目つきの、頭が少し禿げかけた痩せた男が、ポチャポチャと湯の音を立てている。
「静かでいいですね、ここの温泉は――」とその薄禿げの男から話しかけた。
「そうですね」
 ぶっきらぼうに代議士はいっただけだが、
「前から御滞在ですか。私は、今日ここへ来たばかりですよ。まだ少し早いが、海岸の崖をおりると海水浴もできるし釣りも面白いそうですな。まア、私も四五日いてみようと思っていますよ。崖といえば、あそこはまことに絶景ですね。あそこだけは、海がとても深いそうですし、上から覗くと、頭がくらくらしてきます。最近に、浴客が一人、飛込んで自殺して、顔もなにもめちゃくちゃになったということですが……」
 その男は、しきりに話しかけてきた。代議士は、いいかげんにそれにうけ答えをし、間もなくして女のところへ戻ってきた時、ハタと横手をうつようにして、
「あ、そうだ。あの男だ!」
 とひとり言をいった。
 女が、すぐ聞きとがめた。
「あら、どうして? 何があの男なの」
「うん、いま、風呂場でわしに、うるさく話しかける男があったのだよ。どこかで見たような顔だと思ったが、東京から汽車の中で、同じ箱に乗っていた男なのだ」
「そうオ。それで……」
「それでも何もないが……イヤ、待て。何もないことないんじゃないかな。あいつは、汽車の中では、おれのうしろの通路の反対側の席にいたのだ。目つきが間がぬけていて、そのくせ、おれが便所や洗面所へ立つ度に、じっとおれの方を見ていたような気がする。とちゅうの駅で、おれはプラットフォームへおりてアイスクリームを買った。そしたら、あいつも、やはり、プラットフォームを歩いてやがった。そして、その時こそは、たしかにおれの方を瞬きもせずに見てやがったのだ。うん、こいつは、少し変になったぞ。あいつのこと、注意しなくちゃいけない。いやなやつだ。とぼけて、おれに、海岸の絶壁のことなんか話していたが……」
 不安のかげりが、顔にういてきている。
 しかし、代議士は、
「なアに、大丈夫だ。そんなはずはない。わしは、誰にも知れぬように東京を出てきたのだから……」
 強いてそういって、新しい葉巻を口にくわえた。


 朝、おそくなってから、代議士は目をさました。
 疲労を恢復すると、昨日にも増して傲岸な面構えになり、態度も横柄おうへいで、そのかわり、番頭を呼んでチップの札束を、どさりと投げ出した。
 入浴して、帰ってきて、女中を呼んだ。
「断わるのを忘れていたよ。わしを訪ねてくる人があるはずだ。もしかすると、名前をまちがえて、わしのことを諸内といってくるかも知れない。そういう人はまだ来ないかね」
「はい、お見えにならないと思いますが」
「よろしい。では、来たら、すぐにここの部屋へ通してくれたまえ」
 女中が、かしこまりましたといって引下ろうとすると、
「ああ、そうだった。ここの宿に、頭が薄っぱげになった、痩せた男が、昨夜からきて泊ってるだろう。あの客は、ここの馴染みかね」
 と訊いたが、女中は、首をかしげて考えていて、ちょっとわからないという顔つきをしている。
「風呂場で話しかけられたのだよ。なアに、なんでもないが、わしたちと同じ汽車で東京からきて、この宿へ泊ったらしいのだ」
「さようでございますか。昨夜は、たしか、新しいお客さまが四組いらっしゃったと思います。でも、宿帳へ東京からとお書きになりましたのは、こちらのお部屋だけでございますし、旦那さまが、いちばん早くお着きになったのでございますよ。あ、そうでした。頭の薄っぱげのお客さまというのは、松の間のお客さまのことでございましょうか知ら?」
「うん、部屋は知らないが、色が黒くて、ボンヤリした目つきをしているよ。女でもつれてきているのかね」
「いえ、男ばかり、お二人ですわ。会社員だっておっしゃっていました。風呂場でお会いになったのは、そのうちの年上の方のお客さまでございましよ。笑うと金歯が光っていて……」
「うん、そうそう、それだ」
「とても、冗談ばかしいっていて、面白い人ですよ。でも、何か、お気にさわったことでも……」
「イヤ、イヤ、何もないさ。もう、よろしい。サイダーを、氷といっしょに持ってきてもらいたいね」
 疑念はまだあるが、聞いてみたいことをそのままにして、あとは女に、
「オイ、お前。海水着も持ってくるとよかったな。海は、遠浅なところがあるそうだよ」
 と話しかけている。
 遅い新聞がきて、それをゆっくりと読んでいた。
 昼食に、またビールを飲み、二人で散歩に出た。
 その散歩から帰った時、約束のある人物が訪ねてきて、逆に代議士を待ちかねていたのである。
 その人物は、背の低い、髯の多い、鋭い目つきの、片腕を繃帯で吊った老人だった。
 二人で顔を合せたとたんに、
「やア……」
 とどちらも言い、代議士が、
「どうしたね、腕を?」と聞いたが、簡単に、
「怪我をしたのさ。久しぶりだね。貴公が直接来てくれるとは有難いよ」
 と答えただけであった。
 代議士と老人とは、すぐに二階の部屋へ行った。
 酒肴しゅこうの支度を宿に言いつけようかと女が代議士に相談すると、
「いや、そいつは、話がすんでからの方がよろしいて。奥さんは、こりゃ、べっぴんだね。こんなべっぴんをつれてきて、わしに見せつけるのは、諸内君も罪つくりじゃないか。アハハハ、あとで、そのことを相談せんといかんわい。な、諸内君、そうだろう。わしは、死んだ人間になって、世の中の蔭で暮しておる。君が、そうせいといったからだろう。パージでいるよりこの方が面白いという見方もあるが、わしはわしで辛いこともあるのだよ。時には、戦犯で処分された方があとくされがなくてよいと思うこともあるし、いっそ、また東京へ出現してやろうかと考えることもあってな。アハ、アハ、アハハハ」
 老人は腹をゆすって、皮肉に笑い出すのであった。
 やがて代議士は、目くばせをして、女に座をはずさせてしまった。
 それから、代議士と老人とは、長いうち二人きりでその部屋にいて、何か密談を交していた。
 その時に、一度は代議士が、ひどく気にしていたはずでありながら、いまはすっかりと思い出しもせずにいたのが、例の風呂場で話しかけてきた、ボンヤリした目つきの男のことである。
 女中がいったとおり、その男は、自分より年の若い、俊敏なスポーツ選手のような躯をした男といっしょで、同じ宿の松の間に泊っていた。
 松の間は、次の間のついていない、床前はあるが、畳も赤くやけていて、午後に西日が射しこむという部屋である。
 代議士への来客があった際に、年長の頭の薄っぱげの男は、ウカと油断していたのであろう。部屋のうちでも風通しのいい窓のそばへ寝ころんで、宿の玄関への出入者を、絶えず見張るようにしていながら、つい、とろとろとして、午睡をしはじめ、折悪しく、また若い方の男も、これは野天風呂があると聞いたから物好きで、その野天風呂へ行っていたため、代議士への来客のことは、それから二時間ほどもしてからやっと知った。女が、密談の席を遠のいて、一人きりで階下の娯楽室へきて、郷土細工土産品の陳列棚をのぞいたり、つまらなそうにコリントゲームをやったりしている。その様子が少し変だと気がついたから、たくみに宿の女中にあたってみて、月の間へは、いつの間にか客が来ていると知ったのであった。
「ホイ、やりそくなったぞ。その客がどんな男だか、見ておいた方がよかったんだ! 六日のあやめ、十日の菊……じゃない。十日のあやめ、六日の菊……わからん。どっちでもいい。それになっちゃ、たいへんだぞ」
 年長の男が、おどけていって、すぐにまた真顔になっている。
「よしきた。やっと少し面白くなった。橋本君。君は、見張っていてくれたまえ。どこかへ二人が外出するようだったら、すぐあとをつけて行く。ぼくは、ちょっと偵察だよ」
 そして、いそいで浴衣を服に着かえ、リュックから大ぶりな双眼鏡を出して、宿の裏階段をおりて行ってしまった。
 月の間では代議士と老人とが、まだ密談をつづけている。
 三十分とたたぬうちに、松の間へは、偵察に出た男が戻ってきた。
「大成功だよ」
「そうですか」
「あの部屋の中を、どこからもうまく覗けないんだ。幸いに向うの土産物屋の二階が、いい角度になっていると睨んだ。しかたがないから、名刺を出して見せて頼んでね。そのくもの巣だらけの物置場へ上げてもらったんだが、双眼鏡があって大助かりだった。諸内代議士が会っているのは、誰だと思うね」
「さア……」
「持寄りの意見で会議をした時、いろいろの説が出たっけね。その一つに、元陸軍少将加東明は、中正党の秘密を握っていて、そのために中正党のため殺されたんじゃないか、そうしてそれを藤井代議士が嗅ぎつけていたのだろうというのがあったほどだ。が、ともかくも、加東明と事件とは関係があるという結論だったはずだね。貝原係長がそれに註釈ちゅうしゃくを加えて、もちろん関係はないじゃない。しかし、藤井代議士殺しの直接犯人としては、やはりどうも諸内代議士じゃ頷けない点があるのだから、その点でゴタクサを起さぬようにしろといっていただろう。まア、こいつは、もっともだとぼくも思う。藤井代議士の殺人現場から、加東明の失踪事件を書いた新聞の切抜きがなくなっているといっても、その切抜きだけを持ち去っても、新聞に一旦出た以上、その事実はやはりあったことだと知られているから、もはやどうしようもないことで、従って、犯人がその切抜きを盗むために、藤井代議士を殺しに来たなんてことは考えられない。そのほか、アリバイも、はじめに洗ったとおり確かだった。常識的にも、中正党の幹部である諸内代議士が、自分から手を下して、まき割りの斧を振ったものとは思われない。けっきょく、何かひどくモタモタしていて、重大な関係はありながら、直接の犯人ではなさそうだと思われるし、一方で課長が、鋭く指摘していたじゃないか。これは、単純なノビ(窃盗)の品ぶれで、血のついたトバ(着物)が出てきたために、思いもよらぬコロシ(殺人)のホシ(犯人)が出てくる場合に似たものかも知れない。藤井代議士が殺されたのは大事件だ。しかし、加東明の線から発展して、もっともっと大きな事件が摘発されるかも知れないってね。――どうも、課長の言葉は、当っているよ。今、諸内代議士のところへ来ているのは、元陸軍少将の加東明さ」
「えッ!」
「失踪している。生活苦で自殺したのだろう、と思わせている。ところがどうして、矍鑠かくしゃくとして脂ぎっているんだ。写真でいくども見ているから、双眼鏡でのぞくと、すぐにわかった。同時に、諸内代議士が変装して三等車でこの田舎の温泉へなぜ来たかというわけもわかった。加東明に会うためだったのだ。二人で、はげしい顔つきをして、いがみ合いの口論をしている。どっちも一筋縄で行く人間じゃない。二人の話を、そばへ行って聞いていたら、とても面白いだろうと思うんだが、双眼鏡はありながら、読唇術どくしんじゅつを習っておかなかったのは残念だよ」
 若い方の、橋本と呼ばれた刑事が、もうだまっていられなくなった顔つきだった。
「井口さん。しかし、もういいじゃないですか。どんなことを話しているにしろ、加東明がきているってのなら、これからすぐ踏んごんで、二人をしょぴくことにしてしまったら」
 といったが、警部補井口民二郎は、例の、ボンヤリした目つきで、いきり立つ橋本刑事をなだめている。
「いいよいいよ。意気や甚だ壮とすべし。しかし、その時期じゃないぜ」
「そうですか、どうしてですか」
「刑訴法が、昔のもとのは違ってるんだ。つかまえたら、こっちでまだ知らなかったことを、容疑者の口から、しゃべらせるというわけには行かない。このために、人権は擁護されるというが、同時に、善良な人間の安全も脅かされている。――うん、いや、不平をいっている場合じゃないさ。要するに、内偵をうんと進めておかなくちゃいけない。第一が、諸内と加東とが、どういう利害関係で結びついているか、という点だ。そしてそれには、事実をつきとめ、証拠を集積しておく。まア、ともかく動静を観望しよう。大切なのは、加東明が、どこでどんな風にして暮しているか、それを確かめておくことだな。――そうだ、それには、君とぼくだけじゃ、手が足りない。君は、東京へ、電報うってきてくれ。ここは国警だったかね。――だとすると、めんどうかも知れぬが頼んだらいいよ。電話をかけてもらった方が早いだろう。加東明を発見したと知らせて、応援をたのむのだ。いいかい、うまくやれよ。ぼくは、一風呂浴びて、お祝いに、ビール一本おごるからね」
 そうして警部補は、愉快そうに、若い刑事の肩を叩くのであった。


 火ともしごろ、海はうねりが高かったのに、風がいでしまったから、気温が急に高くなった。
 どこかの団体客がきて、大広間いっぱい騒ぎまくり、流行歌やおけさや戦時にはやったツンツンレロレロをわめき立てている。
 代議士と加東明とは、浴衣を着てあぐらをかいて、しかしまだ話の折合がつかないでいた。
 夕食になり、今夜はビールと日本酒とがチャンポンで、
「なア、おい、諸内君。君の方に都合のいいことばかりいっていては困るじゃないか。悪くすると、君は、殺人の嫌疑をうけるところだぜ。藤井代議士の話は、わしも田舎にいながら、新聞を読んで知っていた。わしが生き証人になって出て、全面的に事実を証言するとしたら、中正党も何もありゃしない。つまりわしが代って、藤井代議士のやりたいと思っていたことがやれるわけだよ。――一方でわしの失踪は、秘密を握っていたわしを、君たちが殺したのだともすることができるし、どっち道、ろくな事はないにきまっているだろう。まア、ゆっくり考えたまえ。わしも、まだまだそう耄碌もうろくはしておらん。親からもらった名前を捨て、赤の他人の引揚者になりすまして、君に送ってもらうけちな金でおとなしく田舎に引っこんではいるが、大義名分のためとあれば、いつでも身を捨てて立つつもりだよ。どうだい、今の政治はなっとらんね。線の太い、ガッシリした人物がいなくなってしまったのかな。要するに、思い切った手をうたなくちゃいかんよ。その手をうつ勇気がないから、わしも中正党に、あいそをつかしているところだ。魚心に水心ともいう。ここでまちがったことをするのだったら、天下にわしは公表するよ。その方が大義名分論からは正しいとも言える。ウフ、ウフ、ウフフフ、まア、結論は今夜に限るまい。ぼくと君とで、納得のいくまで話すことだな。君の奥さんみたいなべっぴんを、その間わしに、斡旋あっせんしてくれても悪くはないぜ」
 老人加東明は、いまは客のとりなしで横から団扇うちわの風を送っている女を、ジロジロ眺めて、言いたいほうだいのことを言っているのだった。
 さすがの諸内達也が、蛇の前の蛙のようなものであった。
 国会では、痛烈な野次の名人であり、また蛮勇家として知られているし、政治的裏面工作には、厚顔無恥こうがんむちであるとともに奇策縦横、ある場合になくてはならぬ人物とされていて、しかも、この老廃将軍加東明の前では、額に怒りの青筋を立て、唇を固く喰いしばり、時にわざと磊落な笑い声を立て、ただ握りしめた膝のこぶしを、ブルブルとふるわせているだけであった。
 加東明が、盃をチビチビとなめながら、顔をのぞいた。
「イヤ、しかし、酔いすぎたかな、久しぶりで、美人を見たから、虫が起って困りよる。貴公、わしの言ったことで、腹を立てているのじゃあるまいな」
 代議士は、額の汗をふいていた。
「腹を立てはせんさ。君ぐらいの代物は、いつも扱いつけているよ。アハ、アハ、アハハハ……」
「そうか。よろしい。怒気心頭に発するというやつは、えてして間違いのもとだからな。怒るのは、けっきょく損になるよ。どうだ、長いこと聞かなかった、君のお得意を一つ聞かせろ。わしも、白頭山ぶしをやろう。そりゃ、テンツルシャン……」
 立って踊ろうとして、腰がきまらずによろけると、女の肩を抱くようにしてドタリと坐って、
「ああ、奥さん。逃げんでもよかろう。いっぺんでよろしい。キスして下さい。え、どうじゃ。わしは、諸内君と、たった一つしか年はちがわんですよ」
 うるさくからみついてきた。
 諸内代議士が、ピクリと眉をうごかした。
 彼も今夜は、立てつづけにビールを六七本飲んでいる。
 立ち上ると、加東明の繃帯で吊った腕をつかんだ。
「オッ! どうするのだ。諸内君……」
「どうもしやせん。ここじゃ、話がしにくいことがある。君の喜ぶようにしてやりたい」
「へえ……」
「ちょっと、海岸の方でも歩いて来よう。歩きながら話すから」
 言いながら、女を見る目つきが、しかたがない、がまんしろ、といっているようである。加東明は、ニヤニヤしだした。
「よろしい。大いによろしい、海岸へでもどこへでも行くよ」
 といって、ようやく、女の肩から手をはなした。
 真実酔っているらしく、加東明は足がフラフラしていて、宿の階段を下りるのに、諸内代議士が、それを抱きささえねばならなかった。
 宿の玄関へ出た。
 女中と番頭が、
「あ、あぶない!」
 と、よろけた加東明を、両側から抱きとめたのを、諸内達也は、眼の底でキラリと眺めて、唇で笑った。
「威張っても、昔ほどじゃなくなったね。あれ位の酒で」
「イヤ、大丈夫。酔ってはおらんよ、ウム、いい気分だ。君の友情を信頼する……」
 加東明は、無意味なことをいって、そのとたんに、女中のそろえた下駄の上へ、またペタンと尻餅をついた。
 番頭が、気をもんで、代議士にいった。
「これじゃ、あぶないですよ。御散歩はお止めになって、もうお休みになったら……」
「うん、心配せんでよろしい。わしがついているから」
「でも、お気をつけなすって。道が向うで、二つにわかれております。そこを右へ行くと崖の上へ出てしまいますから、左へいらっしゃらないといけませんよ」
「よしよし、わかった」
 代議士は、大きくうなずいて、見送りに出た女の顔をふりかえり、なに、安心していろ、と目くばせをしている。
 外へ出ると、間もなく海鳴りの音が聞えだした。
 少し歩き、代議士が、どういうつもりか、通行人に聞えるほどの大声で、
「オーイ、番頭さん、右だったな。左へ行くとだめだったんだな」
 どなるようにくりかえして言い、しかし、もう宿からは離れたので番頭の返事は聞えて来ない。代りに加東明が、
「右せんか左せんか、左派と右派との問題じゃよ。面白い。話はわかっとる。あの女を、わしに一晩、貸してくれるというんじゃろう。気に入った。酔いをさます必要がある。君には、まことに相すまんな。わしのために女をつれてきてくれたとわかっているのだ。ええ女だ。掘出しものだな。一晩だけでなく、わしのところへ置いて行ったら、まだまだ我輩、君のために、大いに役に立ってやるよ」
 悦に入ってしゃべりだした。
 星が輝いていて、月は見えないが、わりに明るい。
 しかし、外へ出ても、風が死んでいて、空気が重く暑くのしかかってきた。
 じきに、道が二つにわかれた。
 海へ向って、石の記念碑のようなものが立てられていた。
「うん、ここだな。番頭が左へ行くとあぶないといったね」
 代議士が、用心ぶかい口調で言い、加東明は、怪我をしていない腕で代議士にぶら下がりながら、
「うむ、そうだったろう。どっちでもいい。――今夜は愉快だ。故旧こきゅう来りて燭をとりて遊ぶ、また楽しからずやだ」
 とわめき、それからテンツルシャンと歌いだした。
 右は、絶壁への道である。
 はるかに足の下で、波が岸を打っていた。
 自動車は通るのであろう。片側にコンクリートの低い車止めが、ところどころ作ってあった。
 生酔いの本性違わず、加東明が、
「オヤオヤ、道を間違ったな」
 と言い、諸内代議士は、
「そうだ。間違ったのさ。間違いはどこにでもあるものさ。ま、あそこへ腰かけよう。海の風に吹かれた方がいい」
 平然たる顔で答えたが、その声には、かすかな顫えがまじっているようであった。
「どうだ、加東君。ここで一つ、話をハッキリときめてしまおうか」
「なんだい。女の話じゃないのか」
「いいや、それは、話をきめてからのことだ。急ぐことはないだろう。どうせ君に提供するつもりで、ここまでやっとつれてきたのだ」
「よかろう。それなら、話になる。やはり君はわかる男さ」
 ドシンと、代議士の肩を叩こうとして、上体がぐらりとゆれたから、加東明は、コンクリの車止めにしがみついた。
「あぶないな。どこか、よそへ行こう」
 と、酔いがさめたようである。
「まア、しかし、聞いてくれ」
 と代議士は、腰を上げずに、宿から手に持ったなりできた葉巻を投げた。闇の海へ、吸われるように、葉巻はおちて行った。
「わしはね、これで大野心を持っているよ」
「そうだろうな。君は野心家さ。また、将来は大臣になる器だ。おだてるのじゃないけれどね」
「ありがとう。そう見てくれれば感謝する。が、ともかく困ってしまっている。藤井代議士を、甘く見て買収にかかったのが失敗のもとだった。悪い時には悪いことが重なった。その藤井が殺された上に、買収費を盗んだやつがある。おかげで、買収工作が明るみに出てしまった。もちろん、警察で、わしを藤井殺しの犯人として疑うのは、とんだ藪睨みで平気だが、附随してこっちの痛い腹まで見抜かれそうになったのは閉口だ。ここを、事無くしてすませたら、わしは大臣にしてもらう約束だし、でないと、わしの大臣はおろか、政界のお歴々が芋蔓で引っぱられるということになるのだ。これは、個人的な利害でなくて、国家としても損害だよ。内外に信を失う。今後の政治が、ますますやりにくくなる。そこで君に、さっきからいっている通りだ。意を決し断行してもらいたいというわけだ」
「いやだね」
「いやでも、やってもらいたいのだ。ほかの工作はやってある。買収は、わしがどこまでも白を切るし、証拠は、いざという時、完全に湮滅する手筈が整っている。心配なのは君のことだ。警察が、君の失踪事件を、また調査にかかりはじめた。君がつかまったら、もうどうにも方策がつかない。そこで一方、君の希望するところへ、渡りをつけてやれるだろう。中共でも国府でも、お望み次第というわけだ。そこへ行って君は大将軍になるだろう。りっぱな将軍だ。引揚者の漢学者で田舎にくすぶっているよりは、まだ一花咲かせる時期がくるのだよ。どうだ、これでもう、二度とは言わない。最後の返事を聞こうじゃないか。否か応か……」
「いやだ――」
 実にす早かった。返事をした時、諸内代議士の腕は、ぐんと力をこめて加東明の胸をつき、加東明は、
「あッ!」
 叫んだまま、クルリと足を上に向けて、車止めの外側へ、転落したのであった。
 近くで見ていても止めるひまがなかっただろう。
 加東明は、絶壁へ呑まれてしまった。
 そうして諸内代議士は、ぶるっと身をふるわして、車止めをはなれ、じっと海鳴りに耳を傾けたが、すぐに気づいた風で、宿への道を駈け戻ろうとした。
 その時、ふいに、ぬっと道の上へ出てきた二人の男があった。
 代議士はそれを、ただの通行人と思ったのにちがいない。
「ああ、たいへんだ。友人が、酔っていて、海へ落ちてしまった!」
 と、彼等に向って叫んだ。
 しかし、その二人は、通行人ではない。たちまち代議士の両腕を、鉄の機械のような力でしめあげてしまった。
「オイ、バカなことするな。わしは代議士だぞ!」
「知っていますよ。汽車の中から、もう知っていたのです、それに、御友人は、落ちたのじゃありませんね。あなたがつき落したのですね」
「えッ!」
「見ていましたよ。だしぬけで、びっくりしました。まさか、そんなことをするとは思わなかったのです。ああ、そう、あばれないで下さい。あばれると、手首を痛めるだけでしょうね。――イヤ、こちらも、後悔しています。風呂場で、絶壁の自殺者の話をしたのがいけなかったのですな。ぼくらには、よくわからなかったのです。もしかしたら、あなたが自殺でも企てるのじゃないかと思い、一本釘をさしたつもりでしてね」
「き、きみは、それでは……」
「そうですよ。気がつきませんでしたか。東京からごいっしょしたんですよ。ともかく、諸内さん、ほかの点は別としておいて、加東明殺害の現行犯として、あなたを逮捕しますからね。あなたは代議士だから、これまでの苦心も、並たいていじゃありませんでしたよ」
 頭が薄っぱげになった井口警部補は、おちついている。しかし、ふりむいて橋本刑事に、
「加東明を死なせたくなかったな。うん、万一にも助かるかも知れん。今夜のうちに、死体捜査、または救助の方法を立てるのだ。おれはこれから宿へ帰って、女の方をつかまえておく。いそがしいぞ! 君は、もういっぺん、東京へ電話だ。大体のことを知らせておけ。但し、絶対に外部には秘密だということを念を押して断わっておけ。場合によると、事件は二課と協力しなくちゃならない。しかし、外部へ洩れて諸内代議士が逮捕されたと知れたら、証拠書類など、全部焼かれてしまうだろうからな。しっかりやるんだ。さア、急げ!」
 火の出る口調で命令した。
 諸内代議士は、うめき声を立てた。
 そうして首を人形のようにガクリと垂れてしまった。


崩壊のはじまり



 笠原昇は、今日午前中、久しぶりで学校へ出たが、午後の講義はサボルことにしてあった。そうして校門の前でタクシーを拾うと、すぐに銀座裏の喫茶店マロニエへかけつけた。
 腕時計を見ると、午後一時になろうとしている。
「予定どおりだ。十五分待たせた」
 口のうちで呟いたが、彼は時間に対して非常に正確である。毎朝、洗顔をして歯ブラシを使う間に、その日の時間表を頭の中でキチンとつくった。知識の修得に何時間、社交事務思索にそれぞれ何時間、食事衛生健康のために何時間、そして娯楽に何時間といったぐあいである。結果として、食事の時間と社交の時間が重なったり、娯楽が同時に事務の一部になったりすると、時間はそれだけ節約されたわけで、それを彼は、彼独特の言葉で、『時間の利子』または『生命剰余じょうよ』と呼んでいたが、つまりそれは、そのようにして余った時間は、時間の儲けだとも考えられるし、また反対に、生命のむだな延長だという意味でもあろう。彼は人生を、肉体の成育充実のための二十年は別として、あとはしかし、真にむだのない必要な時間というものが、十年とはないのだと計算したことがあった。十年の時間を、せいいっぱいに生かして使うと、人間の力で成し得る限界まで達する。天才や偉人というものは、そのせいいっぱいの充実した時間が、若い時から老年まで続く人のことで、平凡人は逆にその十年または十年以下をだらだらと五十年も八十年もかかって充実するのだ、というのである。時間は貴重であり、絶対に逆行せず、取返しのつかないものであった。そうして今日は、女とマロニエで零時四十五分に会う約束にしてあり、しかし自分は十五分遅れて行って、女をいらいらさせてやろうという予定だった。女は、待たせた方がいい女と、待っていた方がいい女と二種類ある。今日の女は、待たせるべき女だと考えたのであった。
 女は、果して瞳に、喜悦の色を輝かせた。
 可愛いフロント・レースのついた純白のブラウスに、水色のタイト・スカートがよく似合っている。しかし、待っている十五分が、不安で泣きたいくらいだったのだろう。そこへ、今日は学生服の笠原昇がきたのである。この女は、二日前に笠原のつくった企業会社の社長秘書募集に応募してきて、即座に採用と決定したのであった。その時に、R市の資産家の娘で東京へ出て、伯母さんの家から語学校へ通っているのだといった。働きたくて、笠原の会社へきたということであったが、一眼で笠原はこの女が、自分の自由になるのだとわかってしまった。社長の女秘書になるということは冒険である。その冒険への期待が、はじめから女の肌の下に燃えている。もしかしたら、もう処女ではないかも知れず、しかしそうであっても、べつに困ることはなかった。笠原は、金のことを、身体で結びついた女に任せるのがいちばんだと知り、それには、教養もあり利口そうであるこの女が適当だと考えたのであった。
 女には、アイスクリームを食べさせ、笠原は、甘味の少ないシャーベットをとった。
 そのあとで、
「実はね、予定が少し狂ったのだよ」
「そうですか」
「ここで会う約束をした男が、関西旅行で来られないと電話してよこした。それにぼくは食事前で、君に食事をつきあってもらうことにする。会計を、君に任せたいし、その話を、誰にも聞かれないところで、君に説明しておきたいからね」
 女を、神楽坂の待合へつれて行くつもりだった。そういっておいて、反応を見ている。女は、おとなしくうなずき、笠原の言葉を聞く間、食べかけたアイスクリームのスプーンを、動かさずじっと手にもったままでいたが、指が、こまかくふるえだしたようだった。爪にはマニキュアがしてなくて、きれいに剪りそろえてあった。指は、精巧な大理石の彫刻のようで、手の甲の指のつけ根に、えくぼに似た小さなへこみがついている。この指を五本そろえて、ギュッと力を入れて締めつけられたら、と考えて笠原の頭は、痺れるような快感にうずき、急にはげしい情慾がわいてきた。
「まだ、なにか――コーヒーは?」
「いいえ、もう……」
「じゃ、行こう。少し、銀座を歩いてから」
 銀座が好きなのではなかった。慾望の達せられる時を延ばして、更に慾望を刺激するのが楽しみだったのである。歩いているうち、洋品店へはいった。そして、銀のブローチを買って女に与えた。
「これから、いろいろの人に会うからね、美しくしていた方がいいのだよ。君の服も、会社の伝票で作ってあげる。社員の服装買うのも、事務所の備品買うのも、同じ借方勘定に入るようなやり方をぼくはやるのだから」
 そっと耳へ囁いて、その時、肩を抱きよせるようにすると、女も少しこちらへ、身をすりよせてくるのが感じられた。
 世の中は、自分の思うがままになると考えられる。自信に充ち、才能にあふれ、そして街を歩いている人間の顔が、間抜けと低能ばかりに見えてきた。
 神楽坂の待合今花は、笠原がある実業家の夫人につれられて行って、それ以来顔馴染みになった待合である。行ってみると、昼のことでほかに客はなく、しかし、風呂がわいているのだという。何もかもが、あつらえ向きだった。ここでも彼は、万能を信じた。恐れるものは何もない。これから、娯楽と衛生との時間を少しばかり費やす。そのあとで、淀橋の事務所へ行って、高橋と平川との報告をうけ、また彼等に指令をあたえる。企業は、組織や形態だけができても、資本をうんと掻き集める必要があった。出資は、一口一万円から月一割の配当にする。そうしたら、学生の父兄や、家作持ちの未亡人や、貯金をちびちびためた教員や官吏が高利貸しという悪名をこっちにおしかぶせておいて、その実一年で元金を、二倍以上にふやすことができるのだから、喜び進んで出資する気になるだろう。学生だけでやる事業だから、信用されることも請合いで、ある程度まで出資者がふえてきたら、事業はもうゆるぎがない。問題は、その最初の出資者である。それを平川と高橋とに命じておいた。手はじめに、彼等の学友の家庭を訪問させる。教授の家も結構である。そうして、銀行利子や郵便貯金の利子と比較させ、ためしに一万円ぐらい出させてみる。月末ごとに、キチンと一割の利子を届けたら、半年目に、出資を二倍にしたい、三倍にしたいと申込んでくるにちがいない。きっとうまく行くにきまっている。貸しつけ総額千万円となったら、利鞘が月に二百万円だから、どんなぜいたくをしても使い切ることなんてできやしない。いや、むだ使いするのでなくて、その二百万円も利子に利子を生んで行くから、ついに会社の財産は、一億円、またはそれを突破するという時が来ないでもない。世界でもまだ類のない学生財閥というものが出現するではないか――。
 女中が来て、お料理の出る前、お風呂にはいったらいかがです、とすすめた。
「そうだね。汗を流した方がサッパリするな。君はどう?」
 と女にきくと、
「いえ、あたし、けっこうですわ」
 女中の視線を、避けるようにして女は答えている。
 女中は、目くばせして笠原を、廊下へ呼びだした。
「どうなさるの。お食事だけでよろしい?」
「ちがうよ。気をきかしてくれなくっちゃ……」
「わかってますよ。じゃ、あちらのお部屋へ支度しておきますから」
「たのむ。それから、寝具香水を忘れないようにしておいてね」
 ふいに、ある淫蕩な場面の追憶が、胸のうちによみがえってきた。彼をこの待合へつれてきた実業家夫人は、香水の匂いがむせかえるほどの部屋へはいると、酔っていたせいもあるけれど、冬の寒い夜だったのに、身につけていたもの全部を急に脱ぎすてて、ねえ、ダンスしましょうよ、と笠原にからみついたことがあった。奇怪なダンスで、さすがの笠原でも、経験したことがないようなものだった。実業家夫人は、大胆で貪婪どんらんで、いつまででも踊りつづけた。ダンスの得意なはずの笠原が、でくの坊のようにぶきっちょになり、そのせまい部屋の中を、むやみやたらと引っぱり廻され、その間の強い刺戟のため、精神も体も狂人のように昂奮し奴隷のように疲れ果てた。それでも実業家夫人は、まだ笠原を許そうとせず、丸くて白い両腕の間へ挟みこんだ笠原の首を、昆虫を殺す子供と同じ残忍さで、ギュッと力いっぱい捻じ廻したり、ずっしり重量のある自分の体を、そのまま笠原にもたせかけておいて、無理なアクロバットのような姿勢をとったりしたが、それを笠原は思い出したのであった。
「しかし、あの語学校の生徒の女秘書では、そんなでたらめは相応ふさわしくない!」
 笠原は頭をふり、その妄念を、汗といっしょに洗いおとすため、廊下へ出たついでに風呂場へ行ったが、ここでも彼は、ひどく満足な気持であった。水泳が少しできるだけで、とくべつなスポーツはやらないが、常にまことに健康である。若さに十分恵まれている。ほかのアルバイト学生ときたら、汗臭くて垢だらけによごれているか、でなかったら、ろくにうまいものも食べないから、皮膚もしなびて痩せてしまって、レントゲンで肺がやられたとわかっていながら、青い顔をしてノートにかじりつき、学校を卒業する前に、体の方がだめになってしまいそうなのが、ざらにある。ところが、笠原は違うのである。新鮮な血液が、いつも元気よく体内をかけめぐっていた。しなやかで弾力のある皮膚は、新陳代謝の機能が盛んであり、内臓はよく食物を消化し、頭脳は明敏に溌剌として活躍してくれた。自分の人生は、アメリカで作った最大最新式の飛行機のように、これから悠々として、地上を睥睨しつつ、陽光を浴び、光彩を放ち、どこかの新しい空へ飛んで行く気がする。何がきても心配はない。どんなことでもたちまち明快に処理してしまう。そして慾望は、科学的に可能なものである限り、いつでも即座に達し得るようになるのである。そうだ、その幸福を、自分だけではない、他人にわけてやることだって、できるだろう。それは、楽しいことかも知れない。平川や高橋は、自分を神様のように思うだろう。いや、平川や高橋より、さしずめ、今日の女である。あの女は、まだ十分に、おれの力を知らないでいる。清潔で利口そうで役に立ちそうな女だから、ほんとに可愛がってもよい。あの女に、第一の幸福をわけてやろうか知ら。抱いてキスしたら、そのあとで将来のことを話してみよう。あの女は、おれのために、命を捨てても惜しくないと思うにちがいないのだ――。
 彼は、つめたいシャワアで、石鹸の泡を気持よく流した。
 そして、女中の出しておいてくれた糊のきいた浴衣を着て、もとの部屋へもどってきた。
 しかし、こうして彼が自由気ままな空想をしながら入浴している間に、実は同じこの待合へ、一人の新しい客がきていたことを、彼はまったく知らなかったのである。
 その男は、花模様を染めだしたアロハを着ていたから、一見して街の与太者風だったが、顔は蒼白く細面で眼つきにおちつきがあり、へんになにかヒヤリとする、つめたい感じをあたえる男だった。
 今花では、顔なじみのない客であるが、ズイとはいって、部屋は空いてるね、厄介になるよ、といったきり、もう靴をぬいでしまっていたから、女中が断わりたいと思いつつも気圧された感じで、そのまま上げてしまったほどだった。その時に、
「あとから、連れがくるのだよ。石川さんだ。知っているね」
 と、眼もとで笑って女中にいったが、石川などという名前は、どこにでもあるのである。女中は、おなじみの客を、あれかこれかと考えてみて、べつにハッキリした心当りがないながら、では、そういう客がいたのであろうと思ってしまったが、あとで思うと、男はただその場しのぎの口実でそんなことをいったのである。
 お通しものは、連れがきてからでいい、といった。そして、茶をガブリと飲むと立ち上り、部屋の作りや庭を眺めて、なかなかいい普請ふしんだね、とお世辞のようなことを言い、ふいに高く澄んだ口笛で流行歌の一節を鳴らしたが、これはやはりあとで思うと、ちゃんとした目的があって鳴らした口笛だったのである。
 連れの『石川さん』は、なかなか来なかった。そうしてこの間に笠原は、相変らず何も気がつかなかった。
 女が、
「いや! よして……」
 思いもよらず抵抗したのは、香水の匂いがする部屋へ行ってから、襖をしめるかしめないかに笠原が、抱きよせて接吻をしようとした時であった。
 抵抗しても、笠原は、女を抱いた腕をゆるめなかった。
 女がはげしくもがいたので、何かガチャンと金属性の音がしたし、三尺の床の間がつくってある、その床柱まで二人ともよろけて行ったが、ついに長いうち息をつめて唇を重ねていると、次第に女の体からは力がぬけ、うっとりと眼を閉じていると思ったから、
「ね、いいだろう。ぼくは、君の持っているもの、みんな欲しくなったんだ。君は、素敵だよ。さア、……」
 また唇を吸いながら、片手を女のスカートへまわしたが、とたんに女は、
「あれえ! 誰か来てえ! だめよオ!」
 スカートがピリッと音を立てて裂けるのもかまわず、笠原の胸を飛びはなれ、咽喉いっぱいの鋭い悲鳴をあげたのであった。
 笠原は、驚くというよりは、一瞬へんな気持がした。
 この女が、こんなにも手ごわく彼を拒否するなんて、有り得ぬことだった。どんな女でも、こういうことはなかった。口では、いやだといったり、誰か人が来るから困るといったり、そのくせ、声は甘くやさしく囁くようで、その声と言葉を聞くだけでも、感情が熱く快く昂奮するのに、これは、まったく違った種類の声と言葉であった。男を侮蔑し嫌忌し憎悪して、火事を見つけた時のように、ただけたたましく叫ぶのである。なにか喰い違いが起っている。しかもそれは、どうしてそうなったのかわからない。笠原は、頭の中へポカンと穴があいたような感じで、狼狽し腹立たしくなり、呆然として部屋の隅に立ちすくんだが、するとその時、廊下からの襖がサッとあいた。
 そうして、笠原とは一面識もない、あのアロハを着た男が、
「フン、ここの部屋か……」
 ひどくゆっくり言いながら、部屋のうちへはいってきてしまった。
 あまりに不意うちで、笠原は、この闖入者ちんにゅうしゃに対し自分の身を守るだけの体勢を整える余裕がなかった。
「知っているぞ。こんなことをやるんじゃないかと思っていたんだ。お前は、色魔で学生高利貸しの笠原だろう。他人の女を、貴様はおもちゃにしやがったな!」
 その言葉といっしょに、顔へ火の出るような平手打ちがピシャリときたから、肩が壁へドシンとぶつかり、はじめてその時に、これは罠であったと気がついた。こっちは知らなかったが、女の方では、予定してあったのにちがいない。もしかすると、喫茶店マロニエから、この男は、もうあとをつけてきたのであろう。時期を待っていた。そうして、のっぴきさせず、弁明のできない場面へ来て、笠原をゆすろうとしているのである。
「おれはね、知っといてもらおうぜ。錨のテニイだよ」
「えッ!」
「文句をいってもはじまらないさ。小切手書くんだね。いやだってなら、書かなくてもいいが、アッサリ片づけてしまいたいからね」
 錨のテニイというのは、不良学生の間で、猛獣のように恐れられている男だった。この男に睨まれたら身動きもできなくなる。もとは江田島の兵学校を卒業した男で、海軍中尉だったというから、学生時代は秀才だったのだろう。復員して、自暴自棄になり、すっかりと身を持ち崩した。度胸があり教養があり、正確な発音で外人との会話が自由である。だから、生えぬきの与太者でもテニイには一目おいている。女には、そういう男のヒモがついていたことを、不覚にも笠原は全然気がつかないでいたのである。
 どうにも、しかたがなかった。
 笠原の智能も弁舌も、今度ばかりは無力だった。法律では、笠原の方に理があるのだろう。しかし、それは恥の上塗りをすることだった。それにテニイは、ある程度まで笠原のやりかけた事業のことを知っている口ぶりだった。それへ割りこまれたら、ぜったいぜつめいである。学生財閥の夢は、一気に消し飛んでしまうのである。
 女がテニイのポケットからたばこを取って、うまそうに煙を吐きだし、テニイはつめたく、笑って、
「みっともないね。スカート、社長さんから買ってもらうんだね」
 といった。
 怒りが、全身をゆすぶる。
 しかし、ついに笠原は、小切手を書かされてしまった。
 金額は三万円だった。
「それ以上、ぼくは出せないよ。不服だったら、やぶいてしまってもいい。小切手でなくて、命のやりとりだってやってみてもいいね」
 その時になって、急に笠原はがむしゃらな勇気がわき、真実テニイと決闘してもいいような気持になったが、テニイはこっちより上手で、ニコリと眼もとを笑わせた。そして、
「おっと、君が、強いのは知っているさ。だから、三万円で手を引くぜ。ありがとう」
 と流行のアクセントでいった。
 笠原は、みじめである。
 唇をふるわせ、しかし、それ以上には、何も言えなくなってしまった。


 平川洋一郎が、古着屋で買ったのだけれど、ともかく寸法の合う白麻の背広を着て、ちょっと気取った姿勢で立ちどまり、ミネルバ企業倶楽部と書かれた新しい看板を見上げてから、天井の低い事務所の中へはいると、
「オッ、帰ったね。――どうしたんだい、やに張りきった顔をしているぜ。何かハクイことでもあったの?」
 と、高橋勇が、デスクから顔をあげた。
「うん、面白いところへ行ってきたんだ」
「へえ……」
「出資者勧誘が、ぼくはあまり成績がよくない。社長が機嫌が悪いから、いろいろ思案したんだが、ふっと思いついたのが高須の家だよ」
「高須って? ……」
「君が忘れるはずはないだろう。池袋の銀行支店長の家じゃないか」
 そう言われて、高橋は、眼を丸くしている。それは強盗にはいった家だった。今では思い出すのがいやなくらいである。五人の仲間だけの絶対の秘密で、それをしかし平川が、なんと思って面白いところなどといっているのだろう。彼は、ふりむいて、事務所のうちを見まわした。少年給仕を一人やとい、煮炊きや掃除のための女が、きのうから通いでやってきている。話を聞かれたら、ぐあいが悪いと考えたのであった。
「びっくりしてるんだね」
「うん。じょうだんじゃないよ」
「じょうだんなもんか。ほんとに行ってきたんだよ。そして大成功だよ。アハハハ」
 平川は、笑いとばしてから、たばこに火をつけ、声を小さくした。
「あの家はね、園江がアテをつけてきて手引きしたのだったろう。ぼくは、園江のことが、なんだかまだ気になっていてね」
「ああ、それは、ぼくも同じさ。こないだ藤井がきた。藤井も、やに園江のこと気にしていたっけ。社長に、園江のこと訊いてたろう。どういうものか、みんなで園江のこと、気にしてばかりいるんだからね」
「そうなんだ。二度目んのやりそくなってヤバクなって、その時から園江はいなくなってしまった。そうして、いつも頭の隅っこに、園江のことがからみついているみたいでへんなんだが、ぼくは、そうやって園江のこと考えてるうちに、そうだ、あの池袋の高須っていう支店長は、銀行の金の不正貸付で、ボロイ儲けをしているんだってこと、思いだしたんだよ」
「ああ、そうか。そうだったね。それで、金があるだろうってこと、園江が目をつけてきたんだよ。銀行の金で、このミネルバ倶楽部と同じことをやっていたんだ」
「わかったろう。だから、ぼく訪ねて行ってみたんだよ。息子がいて、こいつは、園江と友だちだが、くそまじめな奴だ。しかし、もしかしたら、園江のこと、知ってないかって、訪ねてみたんだ」
「うまい口実だね。怪しまれなかったかい」
「ぜんぜんだ――」
「へえ――」
「息子の行夫ってのはいなかったよ。怖かったのは、行夫の妹の――そら、あの時にヤッパでおどして腕を縛りあげたろう。あの妹がいやがって、ジロッとこっちの顔を見た時だが、けっきょくあの晩の強盗がぼくたちだなんてこと考えるはずはありゃしないさ。ぼくは、行夫のおやじに会ったよ。園江のことから話しはじめて、学生のバイトでミネルバ倶楽部をはじめたってこと話してやったのさ。おやじ、すぐに膝を乗りだしてきたよ。ひどく学生に同情したような口っぷりでね、ぼくを大いに激励するんだ。そして、事業を助けてやろうと恩に着せて、さしずめ、二十口分だけ出資するってことになったんだよ。どうだい、うまいだろう。あいつは、欲が深い。深いだけに、それにまた、自分でやってみて儲けた経験があるだけに、こういう話にはすぐと乗ってくるのだ。まだ、三十口でも五十口でも、あのおやじからなら引出せるよ」
 平川は、ますます張り切っている。
 そして、社長笠原がやってくるのを、しきりに待ちわびる風であったが、その時、
「新聞の広告で見ましたが……」
 といって、五十がらみの目の小さい商人ていの男がはいってきた。
 平川が応対すると、広告には、企業出資の相談に応ずるとあるが、自分は約束手形を出してあって、それをおとせなくて困っている。一週間だけ金融してくれぬかという話である。平川も高橋も、心の中でほくそ笑んだ。企業出資はどうでもいい。金融が目的で、こういう客が目あてである。よろしい、と平川は快諾した。所番地を帳簿に記入し、明日午前こちらから相談に出向くからといって帰してやった。
 事業は順調に進むらしい。希望が、明るくわいてくるのであった。
 おどろいたのは、しかし、それからしばらくして、待っていた笠原がやってきた時、笠原が、ひどく不機嫌だったことである。
 彼は、来るといきなり社長のデスクに、高橋が読みかけの雑誌をのせておいたのに目をつけ、それをくしゃくしゃにまるめて、床へ投げつけた。それから、ドシンと椅子へ腰をおろすと、帳簿を引っぱりだしてあけて見て、記入が乱雑で、なっていない、と小言をいった。
 変だぞ、と平川も高橋も気がついた。
 そして平川が、恐る恐る二十口分の出資者について報告した。
「二十口、つまり二十万円だね」
「そうだよ。やっと、そこまで説き伏せたんだ。今までの出資では最大だよ」
「そうかも知れんね。しかし、平川君。このくらいのことで、そう得意そうな手柄顔をしていたんじゃ困ると思うな」
「うん、そりゃ、なにも手柄顔するってのじゃないけれど……」
「二十万円は、フルに1ヵ月運転して六万円の儲けだから、出資者への一割を差引くと、四万円の利鞘りざやだろう。ところが、四万円じゃ、一ヵ月の自動車賃も出はしないぜ。ぼくは、運転資金二百万円になってやっと息がつけるだろうと思っているんだ。第一期目標を二百万円にして、その次は一千万円が目標さ。最低一千万円まで行かなかったら、人から悪口言われるこんな商売、やってみたってはじまらないじゃないか。二十口は、自慢になんかならないよ。相手は銀行家だろう、ぼくだったら、そんな個人からでなくて、銀行の金を借り出すように話を進めるよ。そうすれば、こっちの利鞘は、うんと割がよくなるんだ。まア、頭をもっと働かせるんだね。第一、二十万円の現金を、見てからじゃなくちゃ、話にならんよ」
 ムッとして平川は、笠原を殴りつけてやりたくなり、やっとそれでも、がまんしたくらいであった。
 笠原自身、不愉快でたまらないのは、待合今花での失敗が、彼の自負心をすっかりと傷つけていたからである。思いだすと、また新しく口惜しさの念が燃えあがってきた。いつもに似ず、ひどいドジをふんでしまった。女を、語学校の女生徒だと信じこんでいたのからして間違いだったが、男の脅迫に対しても、ただ意気地なく屈服しただけで、手も足も出せなかった。この不面目なぶざまな愚劣な見苦しい醜態は、誰にも話せないことである。その上、ミネルバ倶楽部発足の第一歩で、こんなことが起ったのは、何かわるいことの起る前兆のような気がしないでもない。いや、前兆なんて、理論的には、あるはずのないものだろう。が、そういう理論が、果して真実か否か、科学的に証明する手段が完成しているのであろうか。
 考えていると、彼は頭が痛くなり、躯中からだじゅうに汗がふきだしてくるようだった。
 平川や高橋の顔を見るのもいやで、こじれた気持は、どうにも動きがつかないのであった。
 だしぬけに、彼のこの気持を転換させたのは、会社の前へ、自動車がきてとまったからである。
 笠原は、ドキッと胸をおどらして椅子を立った。
 自動車から降りてきたのは、貴美子未亡人と友杉成人である。笠原には、友杉の姿が、はじめは目にはいらないくらいだった。未亡人は、今日は極めて簡単なディナー・ドレスで、顔が青く、眼が不安にまたたいている。しかし笠原には、なにか光がそこへ歩いてくるように思えた。
「ああ、友杉さん。どうしたのですか」
 と高橋がまっさきにいったので、友杉が答えた。
「有吉君のことですよ。有吉君、ここへ来ませんでしたか」
「いえ……」
 友杉の顔に、すぐ困ったという表情がわいた。笠原が、未亡人をチラリと眺め、しかし視線を避けるようにして友杉に訊いた。
「有吉君は、あの時っきり、来たことがありませんよ。何か起ったんですか」
「有吉君が、家を飛び出したらしいのです」
「ほう」
「ここへ来たのかと思ったんです。二日ほど前に、平川君たちもすすめたのだから、会社へ入って働きたいと言い出しましたが、それにはぼくが不賛成だったのです。有吉君は、じゃ、よしにするといっていましたが、今朝、珍しく学校へ行くといって出かけ、しかし、女中さんが部屋へ洗濯物を探しに行ったら、書置きのようなものが残してあるのを見つけたのです」
 友杉は、とちゅうで、詳しく話してもいいのかどうかと、眼で未亡人に相談したが、未亡人は、自分で話しだした。
「いえ、書置きだかどうだか、ハッキリしません。でも、ノートを一枚やぶいて、そのまん中に、お母さん、友杉さん、ぼくが悪いのです。すみません――て書いてあるの。あたし、読んでいる手が、ブルブルふるえてきました。学校へ電話をかけてみると、学校へは出席していないというし、それから友杉さんと相談して、ともかく有吉ちゃんは、笠原さんの会社へ、来てみたいような口ぶりだったと思いだしたものですから……」
 だのに、来て見ると有吉の影もない。不安が、急に黒く大きくふくれあがったのであった。
 高橋と平川とが、顔を見合わせ、
「変だね。スケじゃないかい。スケんとこへ行ったのかも知れないよ」
 と呟いたので、笠原がふりむいていった。
「スケってのは、女ということだね。たしか波木みはるっていう名前だろう」
「オヤオヤ、よく知っているんだな」
「知ってるさ。波木みはるなら、ぼくんとこへ金を借りにきたことがあるんだ。そうだ、友杉さん。それは平川君たちが言うとおりですよ。波木っていう女のところへ行ってみた方がいいんじゃないですか。ある会社の重役の娘で、女学校の生徒です。ズベ公っていうんですよ。あの娘と有吉君とのことは、誰だって知ってるくらい有名ですからね。――イヤ、そうだ、波木みはるの家へ行ったってだめでしょうね。ほかで会うとこがあるんです。そこがいい。そこへ行っているんですよ。平川君は、知らないのかね。有吉君や波木みはるが泊ったりなんかする家だよ。京王電車から、歩いてすぐのホテルだって聞いたが……」
 ホテルの名前は、平川でなくて高橋が知っていて、水魚荘というのだと教えた。そこで、有吉と麻雀うったことがあるというのである。
「友杉さん。どうするの。行ってみる?」
「行きましょう。心配ですよ」
「そうね。じゃ……」
 未亡人も、行ってみる決心をし、すると笠原は、
「高橋君。君も行って案内した方がいいよ。ぼくもついて行くから」
 と、いっしょに自動車に乗ってしまった。
 その時では、まだ不確かな予想であったけれど、間もなくして笠原の予想は、ビックリ的中していたことがわかったのである。
 有吉は、みはると共に、ホテル水魚荘へ行っていた。
 しかも、多量のアドルムを服用し、すでに意識はなく、こんこんとして眠っていた。そこへ未亡人がかけつけたのであった。


雷雨の午後



 ホテル水魚荘は、駄菓子屋と荒物屋とにはさまれた露地の入口に、『高級温泉ホテル』と書いた看板が立ててあったが、実はつれこみが専門の、まことに貧弱なホテルである。
 その二階の、西日が窓いっぱいにさしこんでいて、シーツのよごれた木製のダブルベッドをおいてあるが、ほかにはなんの飾りもなく、狭くて不潔で、歩くと床がギシギシと鳴る粗末な一室――。そこに、藤井有吉と波木みはるとは、二人ともに顔を正しく天井へ向け、しかしお互いの右腕と左腕とを、ハンケチでしっかり結び合せて、深い死の眠りに陥ちていたのであった。
 枕もとのニスのはげた台の上に、空になった水さしとコップがあり、また、アドルム十錠入りの細長いガラス管が、いく本となくちらばっている。どちらも顔が美しく見え、苦悶の表情はなかった。唇を半ば開き、いびきの声を立てている。健康そうないびき声で、ただその一呼吸が、長過ぎる感じを与えるだけである。そうして、呼んでもゆすぶっても、こんこんとして眠りつづけているのであった。
「いえ、気がついたのは、昼間の十時ごろにきて、それっきり、部屋を出てこないからです。いつも、そんなに長くいたことはありません。せいぜい、二時間でしょう。だのに、どうも変だと思ったから、ドアのそとで声をかけて、それから中へはいってみたんですが……」
 ホテルの番頭が、係官の前で恐縮して、もみ手をしながら説明したが、そうやって気のついた時というのが、貴美子未亡人と友杉とが、笠原と高橋とに案内されてホテルへ来る、それより少しばかり前のことであったらしい。ホテルでは、営業上のボロが出ることを恐れて狼狽した。が、しかたがないから警察へ届けた。警察が来て見ると、これは藤井代議士殺害事件に直接の関係があるのだと、すぐにわかることがあったので、警視庁へも電話をかけて、捜査課長や係長にも来てもらうことにしたが、その捜査課の連中がやってきた直後に、これはまだ何も知らずに、未亡人がそこへ駈けつけたという順序になるのであった。
 未亡人の顔からは、たちまち血の気が引いてしまった。
 笠原と高橋も、思いがけぬことでおどろいていたが、未亡人は、もう彼等をふりむきもしない。友杉と二人だけで、死の部屋まで通されると、彼女は、有吉とみはるとのベッドのふちへ両手をつき、しばらくは唇をかみしめたまま、じっと感情を制している風であったが、ついにこらえきれず、
「有吉ちゃん! ……あなた……どうしてこんなことしてしまったのよ! ねえ、有吉ちゃんてば……」
 咽喉をつきやぶるような声でいって、はげしく有吉の胸をゆすり、またその手をぎゅっとにぎりしめたが、むろん、誰が何をしようとも有吉は意識がない。手のひらに、病的な熱があるようであった。白い上品な額やこめかみのあたりに、こまかい汗の玉がういていた。そして、乾きを訴えるかのように、かすかに音をさせて唾液を嚥みこんだが、それっきり、またいびきをかきはじめるのであった。
 大堀捜査課長が、廊下まできて、顔をのぞかせていた。
 課長は、はじめ、警察からの知らせで未亡人がここへ来たのかと思い、まもなく、そうではないとわかったが、そのあと、波木みはるの両親へは、こちらから知らせてやるようにと命令しておいた。未亡人のうしろから、何か話しかけたい顔で、じっとその場の様子を見まもっている。ふりむいて見て、友杉がそれに気がついた。それから課長が、おちついた眼つきで、部屋のうちへはいってきた。
「ああ、課長さん!」
「びっくりなすったでしょうな。無分別なことをやらかしたもんですよ」
「あたくし、もう、こんなことになっては……」
「いやいや、奥さんは、しっかりしていて下さらないと困りますよ。それに、毒薬とはちがうし、発見がわりに早くてよかったと思いますね。死ぬとは限らないでしょう。病院へつれて行って手当てをしてもらうのがいいです。――実は、長い遺書が書いてありました。ベッドの上にありましてね」
「まア……」
「あとでお目にかけましょう。いろいろわかることがあります。が、助かるか助からないか、その手当てが第一ですからね」
 課長の言葉には、温い響きがこもっている。未亡人と友杉との眼に、感謝の色がういて出た。そうして、ともかく課長のすすめに従い、このあわれな、しかし無分別な少年と少女とを、近くの花井という医院まで、運んで行くことになった。
 医師は瞳孔をしらべ心音を聞き、それからすぐに手当てにとりかかった。開業医としては、珍しく無愛想で無口な青年医師だったが、することは、確実でキビキビしていて、信頼のおける感じだった。ビタカンフルを打つ。カテーテルで胃洗滌をやる。リンゲルを注射する。サイフォンになったカテーテルから、不快な臭気の胃液が出てきた。無意識のうちにも患者は苦しいのであろう。身をもだえ、ゴム管を噛み切ろうとした。どうでしょう、助かる見こみがありますか、と友杉ががまんできなくて途中で聞くと、
「わからないですよ。やるだけのことをやっとくのです。問題は当人の体質ですね」
 と医師は答えた。
 みはるの両親、波木重助夫妻が、最初の手当てが終った時にかけつけてきた。誰もこの夫妻には初対面であり、しかし、感じの悪い人たちではなかったので、何か助かるような気がした。夫妻は、娘の不行跡を、まるっきり知らずにいたのだといった。多忙なため、眼が届かずにいたのだと、自分たち自身が悪いことをしたかのように言いわけをし、そして細君が、声を立てて泣きだしてしまった。
 医院の別室を借り、そこへ捜査課長が、はじめに波木夫妻を呼んで、みはるの書いた遺書を渡してやった。
 この遺書は、わりに簡単なものであり、みはるが両親に対しての詫びの言葉である。生きていても、現在より楽しい時がくるのかどうかわからない。愛人とともに死ぬ方が、わがままではあるが、自分の一番の倖せだと思った。不孝なみはるを許して下さい。そしてパパとママとの幸福を祈ります。パパとママ、みはるはとても好きだったけれど、みはるがいけない子だったから、すみません。どうかみはるを憎まないで下さい、と結んであった。
 今度は、母親だけでなく、父親も泣いた。
 そうして、この夫妻のあとへ、貴美子未亡人と友杉とが呼び迎えられ、二人でいっしょに有吉の遺書を読むことができた。
 それは、鉛筆で書いたものである。
 内容としては、未亡人と友杉への詫びのあとへ、園江新六のことを、すっかり詳しく書いてあった。新六が、藤井代議士を殺したのである。自分は、新六をつかまえるのが自分の責任と思い、高橋や平川や笠原にも、それとなく新六のことを尋ねてみたくらいだが、けっきょく、自分の力ではどうにもならぬことだと知った。この上は、已むを得ない。自分の死んだあとで、警察の力を借り、園江新六を逮捕してもらいたい。そして新六がつかまったら、自分は新六を、決して憎んでばかりいたのではないということを告げて欲しい。新六は、鳩の街の女に夢中である。もしかしたら、鳩の街で彼をつかまえることができるのではないか……という注意まで書きそえてあった。
「これだったら、死ぬまでのことはない。死ぬつもりになる前に、園江新六のことを、我々に告げてくれた方がよかったと思う。それに、友杉君も、もう気がついていたんでしたね。この男のことについては」
 と課長は、口惜しそうな顔でいった。
「そうです。何かある、と思っていました。有吉君は、ぼくが警察と秘密に連絡をとって、いろいろ知らせたりなんかしたことには、気がついていないようでした。しかし、ぼくとしては有吉君が園江新六を、しきりに気にしている、とはわかったのです。笠原のところへ行った時も、それを有吉君が、笠原にすぐ訊いていたのですから」
「そこで、どうですか友杉君。君は、園江よりも笠原という男が、気になってならないということを、前からいっていたでしょう。ところが、有吉君の遺書で見ると、園江新六が犯人だとしてあるんだが、これについて何か意見は?」
「前と、別に、変りません」
「ほう」
「というのは、園江新六も、犯人であり得るかも知れない。しかし、ぼくの頭の中には、笠原昇の異常性格が、しっかり焼きつけられていますから、やはり彼を、疑ってみないではいられないという意味です。そのことは、もう数回、申したことがあるのですが」
「そうでしたね。君の意見は、我々もかなり重く見ている。だから、笠原について、事件当夜のアリバイなど、すっかり洗ってみたいと思ったんだが」
「それは、まだハッキリしていませんか」
「どうも不十分です。笠原という男は、なかなか頭が利く男だから、こっちが下手な動き方をすると、すぐ気取られるという心配があり、その点で捜査もやりにくいわけだが、大体に於て事件当夜、笠原が下宿にいたということは証言できても、深夜に外出したという証拠は上らずにいる始末ですよ。間借りしている下宿のばあさんを第一に問題にした。ばあさんの懇意にしている染物屋さんがあったから、刑事がこの染物屋さんに頼みこんで、事件当夜のことをそれとなく尋ねさせてみた。すると、ばあさん、その晩は、夜の九時頃に寝ちまって、あとのことは知らないという。そして、その九時に寝る時には、笠原が、たしかに二階にいたというのだから、けっきょく、笠原がそのあとで外出したかどうかわからんということになってしまった。むろん、笠原の出す洗濯物も、クリーニング屋でしらべてみている。しかし、血痕のあったというものも出てこない」
「ぼくの方は、刑事でもなく、私立探偵でもありません。だから、直接に捜査へ協力するわけにもいきませんし、よけいなことを言い出して、お邪魔になりはしないかと思って遠慮していました。笠原のことを、そうじゃないかと思って課長さんに申上げるまでに、時間がたってしまったから、その間にもしほんとうにあの男が犯人だったとすると、証拠を湮滅する手段だってあったのでしょう。そうだったとしたら残念ですね。無証拠のまま、身柄を拘束してしらべるということは、絶対にできないことですか」
「できないし、こういう性質の犯罪では、しない方が賢明です。つかまえておいて、あとで証拠不十分になったら、取返しがつかない。それよりは、忍耐しつつも、容疑者を自由におよがせておき、向うで気がつかないうちに、切札になる証拠、絶体絶命というものを掴んだ方がいい。――そうだ、口の堅い友杉君だから、話しておこう。最初に、これは奥さんから、二階の書斎の窓について、お話があったのでしたね。あの諸内代議士が、今いったような忍耐で、うまく成功した例ですよ」
「諸内さん……」
「そうです。あの男をずっと見張っていました。そうして田舎で、思いがけぬことだったが、ほかの殺人事件の現行犯としてつかまえましたよ!」
 今までの行きがかりがあるから、この人たちには、知らせるだけの義務がある。課長が、はじめて話したのは、諸内代議士をM県S温泉で逮捕した件についてだった。藤井代議士殺しとしての嫌疑も相当にあったが、それはどうやら見込みちがいで、その代り、加東明殺害の現行犯としてつかまえることができた。身柄はすでに東京までつれてきてあり、これからあとは、政界醜事実の摘発ということになる。加東明はS海岸の絶壁下から死体となって発見され、生き証人を失ったのは残念だったが、彼が偽名をし引揚者となって世に隠れ住んでいた居宅からは、政治に関する多数の通信や書類が出てきたから、その面での取調べは、もう順調に進むことであろう。波及するところは大きく深いものがあるが、捜査一課としての残る問題は、やはり藤井代議士殺しの犯人だった。むろん、早く片をつけねばならず、しかし、功を急ぎ焦りすぎたら、失敗の恐れなしとしない。今が、捜査は特別な段階へきて、最も大切なところだ……というのであった。
 あまり口出しをせず、じっと聞いていた未亡人の顔が、その時かすかに昂奮してきていた。
 藤井代議士が、その潔癖な性格で企てた政界の浄化は、生きているうちに目的を達しなかったが、諸内代議士の逮捕で、ようやく意志が貫徹されることになった。これは、せめてもの満足にちがいない。彼女は、ため息をついた。そして、有吉の容態が気になるからといって部屋を出て行き、あとでまた課長と友杉とは話しつづけた。
「これで、ともかくも諸内代議士は、事件と重要な関係はあるけれど、別の問題での中心人物になったというわけですね。方程式の項が、一つ完全に消去しょうきょされた感じですよ。ぼくは、もともと笠原を考えたのが、数学のエリミネイションからでした。藤井家へ出入りし、藤井家の事情を知っている者、という点で、その中から嫌疑の余地のないものを消去して行く。そうすると、最後に笠原昇が残ったのです。――今は笠原のほかに、有吉君が遺書の中で、園江を犯人として指摘しているわけですが、どうですか課長さん、笠原と園江とでは、どっちがどっちだとお考えですか」
「さア、それは、まだ少し決定の時期には早いでしょう。二人ともに、捜査の線へ浮かび出ている。しかし、面白くなったな、これは」
「何か、とくべつな手蔓を、つかむことができますか」
「今までは、ありていの話が、捜査は遅れていたということになるでしょう。笠原についてでも、たとえば、ミネルバ倶楽部の創立資金の関係をしらべてみた。ところがあの男は、学生のくせに、金を相当に貯えていて、事務所の設備費ぐらいは、十分に賄うことができたらしい。そういう事柄では、ボロがあったにしても、ボロを出さないだけの準備をしている。だから、捜査は事実上行きづまりだし、事件発生当時、藤井家の箪笥から洋服地が二着分盗み出されている。こいつからも、うまく行くと手蔓がつきそうでいて、しかし、その服地はどこへ品ぶれを廻してみても出て来はしない。――が、友杉君。君は気がつかないのかなア。捜査は、今日から、面目を変えますよ。有吉君の書いたものが、我々に重大なことを教えてくれた。期待してもらいたいと思うね」
 ふいに、課長の言葉には、力がこもった。視線の底に、ギラリと物凄く光るものがあるようである。友杉も、それに応じて眼の色が鋭くなった。探るようにして課長を見て、それからいった。
「ああ、課長さん。それは、わからないことはありませんよ」
「そうかね」
「問題は、園江新六が犯人だとして有吉君に指摘されている。それよりは、園江が行方不明という点にあるのでしょう」
「そう、そのとおり……」
「ぼくは、さっきから頭の隅で、重大なことを思いだしているのです。先き走りしまいと思って、わざと口へ出さずにいたのですが、ぼくは前に有吉君と二人で、笠原の事務所へ行ってみました。その時のことは、報告してありましたね。事務所の構造についてですよ」
「そう、それだよ君! 実はね、今日は刑事がミネルバ倶楽部へ行っている。手形の金の件を口実にして、その実は内偵が目的だった。ぼくの方は、有吉君のことでこっちへくる前に、ちょうど、その刑事からの報告があって、しかしその時はそれほどの注意もひかなかったのが、あとで有吉君の遺書で園江新六のことが詳しくわかったから、それで刑事の報告を、ハッと思い出していたわけだ」
 高橋や平川が、ミネルバ倶楽部へきた、あの五十がらみの、眼の小さい商人ていの男を、警視庁の刑事だったと知ったら、どんなに驚いたことだったろう。課長と友杉とは、意見がよく一致し、なお熱した口調で、あとを話しつづけようとしたけれど、その時に、未亡人が、走るようにしてそこへ来た。
「友杉さん!」
「は――」
「有吉ちゃんが、助かりそうよ」
「おお、それは……」
「注射したの、そしたら、いたいッ! ていって叫んだのよ。お医者さまも、有望だっていってらっしゃる。でも、娘さんの方は、まださっきのままで眠っていて……」
 医師の注意したとおり、体質の相違が現われてきていた。まだ時間が不足で、ハッキリしない。しかし、少なくとも有吉だけは、助かる見込みがついてきたのであった。
 友杉も、未亡人といっしょに、有吉の顔を見に行った。
 そのあとで、課長は、係長と二人になり、熱心に何か相談しはじめた。


 笠原昇は、二日間にわたり、憂鬱な時を過した。
 有吉が自殺を企てた翌日は、午前と午後と二度も病院へ見舞いに行き、有吉だけは助かって、波木みはるがついに助からなかったことを知ったが、病院から帰る時の彼は、いつもの傲慢な自信たっぷりの様子をまったく失い、しかも眼が血走っていて、いつものあの秀麗な顔が、別人のように棘々とげとげしくザラついて見えるのであった。
 話してくれるものがなかったから、彼は有吉の遺書について、何一つ知るところがなかった。だから、単純に有吉は、波木みはるとの愛の破滅から自殺を企てたのであろうと推察し、必要があれば、いつでもその詳しい事情は解らせることができると考えたが、実は有吉のことは、どうでもよかった。長いうち貴美子未亡人の顔を見ないでいて、この恵まれた機会で口を利くことができたが、すると、彼が知っているほかの沢山の女の中で、やはりこの女だけは、とくべつな女だということを強く感じた。それは身がふるえるほどで、この女が欲しくなり、どんな犠牲をはらってもと思うくらいだった。苦しいのは、未亡人が、彼をよせつけないことである。福島炭坑の森の中の、たった一ぺんのキスを、彼は忘れずにいたが、その時とは、態度がまるっきり変ってしまった。もうとうてい想いは達せられそうもない。彼女は、正気に戻り、しかしまだ体力の回復しない有吉のそばに、つききりで看病していて、笠原には、笑顔一つ見せなかった。ダンスのことを、映画のことを、話しかける余裕も見せない。そうして笠原は、不満と侮蔑と怒りをおさえ、退去するよりほかしかたがないのであった。
 ミネルバ倶楽部で、彼は、平川や高橋に、当りちらした。
 時々、反省してみて、これはいけない、自分は思慮を失っている、待合今花での不愉快な事件以来、絶えず何か心を荒らしているものがある。それに敗けたらたいへんだぞ、と気がつきながら、反省は長く続かなかった。そして、二晩つづけて、べつの女と待合へ行って泊ってしまった。しかも、そういう女は、もうたくさんだという気がした。ただ慾望のために使用するのである。使用するだけの女なら、ほかにいくらでもいるのだろう。そういう女では、ぜったい満足されぬものがある。それは精神か肉体かわからない。魂というようなものであろうか。魂なんて、あるはずがないと思ってきた。だのに、今はそれを考えている。ヤキが廻ったというのであろうか。それとも、今までの自分の人生観に、狂いがあったのであろうか。頭が混乱しそうになった。めんどうな不明瞭なことを、忘れてしまうような強烈な刺戟が欲しくなり、それから真夜中に、ガバと女のそばを起きて出て、好きでもない酒を飲みだした。
 三日目の午後、笠原は、最も気に入っている仕立の服を着て、銀座へ来ていた。
 雷雨のあとで、街は湿り、街路樹の葉が、まだ雫を垂らし、雫がキラキラと光っていた。
 その一本の街路樹のこちらで、笠原は十数分ものうち、じっと向うの、緑と白とで壁や窓を塗りわけだ小さな店を見つめていたが、するとその店から、貴美子未亡人が出てきた。化粧品でも買いに来たのであろうか。笠原は、すぐ近づいて行った。
「奥さん!」
「あら……」
 何かに揺り落されたような、おどろきの眼で笠原を見ている。一瞬、当惑してから、顔色がしっかりとおちついてきた。
「奥さんとお話がしたいのですよ。ぼくは、今日は、病院の前へ行って、外出されるのを待っていました。不良少年みたいに、銀座まであとをつけてきたのです」
「困った人ね」
「そう言われると思っていました。しかし、ほかには方法がなかったのです。――有吉君は、もう大丈夫ですか」
「ありがと。今夜、退院させますの。だんだん、気持が静かになって、もう心配ないつもりだわ。あなた、有吉ちゃんのこと訊くつもりで、あたしのこと、追ってきたんですか」
「イヤ、違います。むろん、別な話ですよ。どこかへ、いっしょに行って下さると有難い。どうですか」
「いやよ、お断わりしますわ」
「そうですか。じゃ、歩きながらでも……」
 未亡人は、腕時計をのぞいた。
 そして、まっすぐに向うへ顔を向けたままで、笠原と並んで歩きだした。
「ぼくはね、奥さん、福島の炭坑へ行った時のことを、千べんも万べんも、思いだしているのですよ」
 笠原が、まっさきにそれを言い出したが、未亡人は、動揺しない表情だった。
「それは、あたしは、忘れたいと思っていることですわ。過失には、責任がないでしょう。責任を感じさせる権利も、笠原さんには、無いはずでしたわね」
 とりつく島もないといった調子だった。笠原は、あせりの色を顔に現わし、しかし、哀願の声になっていた。
「それは奥さん、ひどいですよ」
「どうしてですの」
「権利とか責任とか、そんな冷たいものじゃないはずでした。少なくともぼくは、奥さんに対してだけは、ぼくの真実思っていることだけをいってるのです。そうだった。福島でも、ぼくは告白しました。ほかの女との交渉があり、でも、奥さんは別のもので、ぼくの生甲斐だってことをいったんです。その時、ぼくは感情的で、夢中でそんなことをしゃべったのかも知れません。しかし、あとで考えてみて、あれこそは、ぼくのいつわりのない、本当の声だったとわかったんです。お願いですよ、奥さん。ぼくは、奥さん次第で、どんな人間にでもなる男だということが、あののち、ますますハッキリとわかってきています。ぼくは、救われたいと思います。外見的に、イヤ、そうじゃない、ぼく自身でも、ぼくの本質を誤認して、非人道的な、すべてを計算してからやる、変質者だと思いこむことがあり、これは、放っといたら、救いのないものになるようで、苦しくてたまらなくなるのですが、奥さんがいて下すったら、きっとぼくは、今のぼくじゃなくなると思うんです」
「あたしに、あなたを救う力なんて、ないはずですよ」
「違います。あるのです。――歩きながらじゃ、話せません。が、ぼくは、生れてから今までに、今ほど本気でものを言ったことがない気がしている。うそじゃありません。しゃべっているうちに、奥さんを、誤魔化すことができなくなってしまうんです。言葉が足りません。わかってもらえないのが苦しいです。ぼくを、可哀そうだと思って下さい。もしかすると、ぼくは何か乱暴なことをしそうだけれど――」
「乱暴なんて、怖いわ。……あなた、昂奮しすぎているのね」
「そうです。昂奮しているのです。どうしてだか、自分でもわけがわからない気持がしています。――正直に言いましょう。ぼくは、女を口説くのだったら、自信があるつもりでした。名優のように、顔色を柔かくし、甘い言葉を、あとからあとからと引出すことができます。はじめ、奥さんにはダンスで接近し、それから、その名優ぶりを利用できると考えたこともありました。ところが、実際は、だめだったんです。福島の時もそうだったし、今はまたその倍もそうなんです。わけもなく気が上ずっています。自分で意識していて、訂正することができません。乱暴は、決してしやしませんよ。その代りに、もっと長く話を聞いて下さい。こんな散歩のような恰好じゃ、ぼくは物足らなくて、気が狂ってしまうでしょう。ぼくの知ってるところで、静かに話を聞いていただきたいのです。どうです、だめですか」
 笠原は、熱烈だった。
 自分で自分の口から出る言葉が、女を騙すためのものであるか、それとも、真実感じたままをいっているのか、よくわからないほどであり、そのくせに一方では、もし女が、土下座をしろとでもいうのだったら、すぐ土下座をするのだろうと、どこかで自分をそっと冷たく観察しているものがあるのを意識し、これでは自分は崩壊するぞということを、チラリと頭の隅で考えた。
 裏通りから、賑かな表通りへ出てしまっていた。
 もう、どんな話も、できなくなっている。
 笠原は、裏通りへもう一度引きかえそうとし、未亡人は、腕時計をまたのぞいた。そうして、
「さっき、いったでしよ。今夜退院なの。これで失礼するわ」
 それっきりで、人混みにまぎれこんでしまった。
 そこに立ちつくして、未亡人の後姿を見送る笠原の瞳が、打ちのめされた屈辱から、次第に憤りの色に変ってきた。
 今こそ、全精神が、笠原本然の主体に統合されたという気がする。
 女は、もう、諦めた。
 諦めたが、何か、意地の悪い復讐をしたくなった。どんなことをするか、これから考えることができる。それは一つの楽しみであるような気がしてきた。
「そうだった。事業というものがあった。一億円の大会社だ。世界に類のない学生財閥を作り上げるのだ!」
 彼は夢から覚めたように気がつき、銀座を歩く人の顔を、軽蔑して眺めた。それから、タクシーを呼びとめ、二十分後に、淀橋のミネルバ企業倶楽部へもどってきた。
 ところが、来て見ると事務所には、通いのばあさんと少年とがいるだけで、机ががらんと空いている。ラジオが野球の放送をやっているところだうた。
「うるさいな。ラジオなんか、やめたまえ。ほかの人たちはどうしたんだい。君が一人きりか」
 と、また腹が立ってきた。
 少年は、壁のそばへ立ちすくんでいた。
「一人きりですよ。平川さんも高橋さんも、帰ってきません。もう二時間ほど前に出かけたままで……」
「まるで、なっていないな。誰か一人は残っていなくちゃならないんだ。どこへ行ったんだい」
「わかりません。人が二人ほどきました。平川さんと高橋さんとを、一人ずつ事務所のそとへ呼びだして、ボソボソ声で話していました。それから、いっしょに二人とも、出て行ってしまったんです。なんだか高橋さんがあわてたような顔をしていましたけれど」
「ふーん」
 事務所への客であろうか、平川や高橋の友人であろうか、友人だとすると、麻雀でもやりに行ったのではあるまいか。笠原は、せっかく事業に専念するつもりになったのが、ふいに何か邪魔をされたみたいで、ひどく不愉快だった。平川も高橋も、帰ってきたら、こっぴどく叱りつけよう、よろしい、あいつらは、首にしてしまってもかまわないのだ、と考えた。
 上衣をぬぎ、ネクタイをはずした。
 それから椅子へ腰をかけてから、床へ作りつけた秘密の箱の蓋を鍵でひらき、ノートを一冊取りだすと、会計に関する特別な記入をしらべようとしたが、そのとたん、
「ごめん下さい――」
 二人の見知らぬ男が、ぬっとはいってきてしまったので、ノートは、いそいで元の場所へもどしてしまった。
 二人の男は、どちらも中年の、しかし、一人が痩せていて眼鏡をかけ、他の一人が、でっぷり肥っていて、ごくありふれた身なりの、何も特徴のない男たちである。べつに警戒心もおこらなかった。用件を聞くと、小さな鉄工場をやっているが、職工の賃金不払いでストライキが起りかけている。役所の仕事を引受けているし、ほかにも、あと二週間ほどで金になる仕事があるが、それまでストライキをおさえるために、どうしても十万円ほどの金を借りたい。担保は、工場の建物でも設備でも、お望みのものにするから、という話であった。
 笠原は、三日前の有吉自殺の事件があった日に、平川と高橋とが手形をおとす金を借りにきた商人の件で、翌日その商人のところへ行ってみると、商人は居所が不明であって、ついに話がお流れになったことを思いだした。よし、あいつらだから、そんな失敗をした。自分なら、ヘマなことはやらないぞというつもりで、この相談に乗ることにした。
 しかしながら、話してみると、なかなかこれは思うようにならなかった。
 利子の天引きが困るという。また、十日に一割は高いから、月一割にはならぬかという。その上、二人とも関西弁だったが、それがひどくゆっくりしたしゃべり方で、執拗に喰い下り、有利な条件にしようとしていた。折合いがつかず、いつまででも、同じところを堂々めぐりしている。そのために、時間が長くかかってしまった。しかも二人とも、笠原を両側の椅子から挟みこむようにしていて、なんだか身動きもできぬような気がする。ついに笠原は、辛抱がしきれなくなっていた。早く平川と高橋とが帰ってくればよい。彼らに、このネチネチした男たちとの取引を、まかせてしまいたいと考えはじめた。
 が、この時に実際は、笠原の運命が、もう最悪な状態へ陥ちこみかけていたのを、彼はまだ知らなかったのである。
 下手な関西弁の二人の男は、警視庁から来ていた、秋本、岡野という刑事だった。逮捕の前に、笠原が気がついて、逃亡するとか、自殺するとか、そういうことをさせぬため、刑事が逮捕状に先行し、看視に来ていたのである。むろん、高橋と平川がいなくなっていたのも、笠原が思ったように簡単なことではない。彼等は、警視庁へ行っていたのであった。
「オッ! また雨やぜ!」
 と、鉄工場の経営者に化けた秋本という刑事が、事務所のそとを眺めていった。
 晴れたはずの雷雨が、くりかえし黒い雲を運んできていた。
「こら、どむならんな。金策はつかんわ、ぐちょぬれにはなるわ。ま、もすこし話をねっとこ。なア笠原さん。あんたかて男やろ。ズバッと男気出して、うちを助けるつもりになってくれんかいな」
 と岡野刑事が応じた。雨は、ポツリと大粒におちた。そして、沛然はいぜんたる豪雨になった。


低い天井と高い床



 すねに傷もつ脚とは、このことをいうのだろうと、平川洋一郎と高橋勇とは、その時しみじみ思った。
 だしぬけに、事務所へ刑事がきた。
 そして、警視庁まで同行してもらえまいかと、まるで彼らに相談しかけるような口調でいった。
 その口調から判断すると、いやだ、といって強く拒絶することもできそうであり、しかし拒絶したら、あとがよけいに悪くなることが、眼に見える気がした。すぐに彼らは、池袋の強盗がばれたのだと、考えをきめたが、とたんに、脚の関節がガクガクと鳴りだし、傲然と平気な顔をしていようとすると、それが却って泣顔になってしまいそうであった。
 新聞に学生強盗の記事が出るのであろう。自分たちの一生はこれで台なしになる。警察は、間抜けで古臭くて、自分たちのやったことなんか、嗅ぎつけるはずはないと思ったが、やはりどうもいけなかった。よかったのは、二度目の強盗を、やりかけただけで失敗したことだった。だからつまり、あれは一度しかやらなかったということになるし、それも、銀行家が不正な手段で利得した金を奪ったのだから、そういう不正を懲らすためにやったのだといったら、いくらかは罪が軽くなるだろう。そうだ、とった金は、共同募金やその他慈善事業に大部分を寄附してしまったと嘘をつこう。そうすれば、傷害や殺人をやったわけではないし、同情されまいものでもない。場合によったら、ろくに裁判もしないで執行猶予というぐあいにはならないだろうか。
 慌しく、彼らの胸中には、そんな考えが往来し、しかし、もしかして青酸加里の錠剤でも持っていたら、それをすぐに飲んでしまったかも知れないほどの絶望状態で、ともかく警視庁までつれて行かれたのであった。
 刑事は、途中で何も説明してくれなかった。
 そして警視庁へつくと、貝原係長が直接彼らに会い、まずいきなりと、園江新六についての質問があった。係長が、ハッキリといっている。園江新六を、警視庁の手で探してみた。が、どうしても居所が判明しない。もしかしたら、君たちは知っているのじゃないか。イヤ、園江新六は、君たちの親友だったのだろう。君たちがどこかへ、かくまっているのではないか、というのであった。
 心の中で、平川も高橋も、園江のことを訊かれるようでは、いよいよだめだと観念した。新六は、きっと自分たちと別行動で、何かひどいことをやったのにちがいなく、そのために警視庁から追いまわされているのであり、またそのために、池袋の一件も、ばれたのであろう。まったく、あいつは、低能だった。あんなやつを、仲間にしたのが失敗だった。しかたがない。もう、白状してしまおう。改悛の情をここで披瀝しておいた方が、有利になるにきまっている。そうだ、真実自分たちは後悔しているのだと立証しなくてはいけない。泣くのがいい。涙を流しつつ白状したら、少なくともこの金ぶちの眼鏡をかけた、学校の教授のように温厚な顔つきをした警察官は、自分たちを憎むことなく、同情しつつ調べを進めてくれることであろう。泣くのだ、泣くのだと、二人とも同じことを頭のすみで考え、すると、もう涙は註文に応じて、こんこんとして眼の底から、流れだしてくるのであった。
 貝原係長は、おどろいた眼で、二人を見ていた。
 そのおどろきは、並たいていのものでない。呆気にとられ、それから愕然として、なにか警察官としての自信を揺り動かされるようなものだった。園江新六について訊ねたのは、もしかして園江が、彼らの手でどこかに匿われているとか、でなくても、最近に彼らが新六に会ったことでもあったとしたら、それだけでもう藤井代議士殺しについて警視庁でつけた狙いは、根底から狂うことになるだろうし、そうなると最大の容疑者笠原昇に対しての逮捕状も、出してもらえなくなるという立場に来ていたから、何より先きに新六のことを訊いてみたのは当然であり、そうしてその次に、なおもう一つ、重大な質問があったのに、ここで平川と高橋とが、叱られた子供のように顔を歪め、涙をボロボロこぼして泣きだそうとは、てんで予期せずにいたわけである。
 係長は、この不良少年たちの間には、警視庁でもまだ知らずにいた、何かの秘密があったのだぞと気がついて、だとすれば、自分の言葉にも、十分注意せねばなるまいというような心構えになったが、するともうそのとたん、平川と高橋とは、覚悟をきめて、彼等の改悛の情を、披瀝しはじめた。
「ぼくは、もっと早く、自首して出ようと思っていたのです。しかし、金ができたら、あの家へ返却しようと思っていたものですから……」
 さきに、そういったのは高橋であり、つづけて平川も、
「あれは、園江が、ぼくらを誘ったのです。園江が手引きしました。銀行家で、不正なことをして金をためている。懲らしめのため、やっつけようといったものですから……」
 と、すすり泣きしながら、しゃべってしまった。
 係長の口から、うなり声がもれた。
 いっしょにいた配下の若い警部補と顔を見合せ、それから、
「よし。わかった。君たちのやったことを、全部話してみたまえ。かくしてもだめだからね」
 と、それを知っていた顔つきで二人にいった。
 軽率な早すぎた自白だったとは、平川も高橋もまだ気がつかない。それに、実際もうかくしてもだめなところへきている。彼らは、池袋での犯行を、洗いざらい、しゃべらせられる羽目になった。つけ加えて、藤井有吉が五万円の金を持ってきてくれたのは、彼らの犯行の直後であったことも、そのまま正直に自白してしまった。
「藤井は、親切で、いいやつです。その時の仲間にはなりませんでしたが、ぼくらに悪いことをさせまいと思って、果物籠の中の金を持ってきてくれたんです。小西が、藤井の金を見て、オイオイ、泣き出しました。ぼくは、なぜだったか、腹が立って、やけっぱちみたいになったんですけれど……」
 と平川はいい、高橋は、
「その時に、一人だけニヤニヤ笑っていて平気だったのは、園江新六です。あいつは、五万円ぽっち、どうにもならない。もういっぺん同じことをやろうってことを、その時にもういっていました。――しかし、ぼくらは、園江には、あいそをつかしています。藤井のおやじが殺された頃から、あいつはどこかへ行ってしまったし、あれからのち園江が何をしたにしても、ぼくらとは完全に無関係です。あいつをかくまっているなんて、とんでもないことです。どこにいるのか、全然ぼくらは知らないのですから」
 と、その点はとくにハッキリ区別してもらいたいつもりで、言葉に力を入れていうのであった。
 捜査課長のもとへは来客があり、その客は、麻雀と将棋と釣りの話をしはじめると、自分一人いつまでも面白がっていて切りがない。近いうちに、釣った鮎を持ってきて、捜査課の連中全部にふるまおうと、あてにならぬ約束をしてから、やっと腰を上げて帰ったあとへ、係長が、緊張して報告にきた。
「意外でしたよ。こっちじゃ知らなかったのに、自分で口を割りましてね」
「ほう」
「園江のことを訊くと、いきなり二人が泣きだしました。それから、園江といっしょで、池袋の高須という家へ、強盗にはいったことがあると言いだしたのです」
「オヤオヤ、そいつはどうも……」
「こっちは、ドスンと、何かで殴られたような気がしました。が、しゃべるにまかせておいてみると、その事件は、代議士殺しよりも少し前のことらしいのです。園江といっしょでというのが、ほかにまだ、小西貞というのと南条真というのがいるのでして、こいつらは、果物籠の金の件で、いちおうは取調べてある連中です。――とにかく、五人組の学生強盗で、これは池袋署が所轄だから、そっちと連絡をとって、すぐ処置をとることができると思うんですが、問題はしかし、園江新六についてですから……」
「そうだ。それだよ。園江のことを、どういっている?」
「私も、気がもめてたまらなかったんですが、けっきょくのところ、思ったとおりでしたよ。園江には、ずっともう会ったことがない、居所もわからん、それが藤井事件の起る直前からというんです」
「直前とは、いつ?」
「それが日附をハッキリ記憶していない、といっています。しかし、園江に会いたいことがあって、平川と高橋とは、鳩の街へ園江を探しに行ったことがあるそうで、またその翌日に、藤井有吉のところへ園江のことを聞きに行くと、藤井有吉も園江のことは知らなかったから、それはそのままにして、神田の紅中軒で麻雀をうったのだということです」
「待て。紅中軒の麻雀というと、その晩だぞ、藤井代議士が殺されたのは――」
「そうです。だから、重大です。つまり、代議士殺しの二日ほど前から、園江は行方がわからなくなっているのです。どうでしょう課長。もうここらで十分じゃないですか。あなたが、その推理を組み立てた。友杉君も、同じ意見でしたね。園江新六は、もう生きていないのですよ。その推理を立証すればいいわけでしょう。――代議士殺しの直接の下手人は、やはり園江新六であったかも知れない。しかし、今もう、園江が生きていないことだけは、確実だと私も見ます。平川、高橋の強盗の一件は別にして、ここであの猫を見せた方がいいと思うんですが……」
 課長は、ボールペンのキャップを、ぬいたりはめたりしながら、ちょっとのうち思案した。そうして。
「よかろう。見せた結果で、逮捕状といっしょに、捜査差押許可状もとっておいた方がいい。物件はミネルバ企業倶楽部建物一式とやる。よしきた。学生強盗の顔を見に、ぼくも行くよ」
 元気な声でいって、椅子を立ち上ってしまった。
 猫を見せる、というのは、局外者が聞いたら、わけのわからぬことであり、まるでなにか、警察で使う特殊な用語のようにも聞える。しかし、そういうものではなかった。現実の猫である。そうしてその猫を警視庁は、捜査の最後のきめ手として、とくべつに探しだしておいたのであった。
 実は、刑事たちが、二日間にわたり、たいへんな苦心をした。
 ミネルバ倶楽部の事務所、及び笠原昇が間借りしている下宿の附近で、最近に飼猫がいなくなったという家を、残るくまなく探して見たし、また一方で、笠原の知友関係を、ダンスホールでも、キャバレーでも喫茶店でも、ひそかに片っぱしから聞きまわったが、するとある洋裁店の女主人が、ポカリと捜査の線へ浮かび上って来た。その女は、猫を可愛がって飼っていた。しかしその猫は、藤井事件がおこってから二日ほどのち、姿が見えなくなってしまった。女は、もう年増としまで、笠原にかなりの金を与えている。半年ほど前は、ほとんど毎夜のように、自宅の洋裁店で会っていて、そののちは自然に笠原の足が遠のいていったのを、ふいに笠原の方からやってきた。そしてその時から、猫がいなくなったというのであった。猫が主眼だったが、それに女と笠原とが結びついたのでは、もう間違いなしということになった。それは三毛猫だというから、いく匹もの三毛猫を借りあつめ、女に、どれが一番よく似ているかを選ばせた上で、その猫を犬の箱に入れ、警視庁へはこんできておいたのである。
 平川と高橋とは、留置場へぶちこまれることばかりを考えていた。
 来てから雷雨があり、そのあとの空の色が、窓のはしから青く見えた。あの空の下の空気は、もう自分たちのものではないと感ずる。見せかけではない後悔の念が強く身をかんだ。平川は高橋を、高橋は平川を、こんなやつと友だちになったのがいけなかったのだと思って憎くなり、そのくせに、手をにぎり、胸を抱き合って、声の限りに泣きたい気がしてきた。
 しばらくいなかった係長が、課長といっしょで、うしろに、猫の箱を刑事に持たせて戻ってきた時、その箱を、拷問の道具かと思って恐ろしくなったが、すると、思いもよらぬことを言われた。
「さて、お頼みがあるよ、君たちに」
「は……」
「この猫を見てくれたまえ」
 藪から棒で、キョトンとして、係長や課長の顔を見上げた。「説明しなくちゃ、わからんのだろうね」
「ええ、わかりません」
「はじめに、友杉君から聞いたのだ。ええと、平川君だったろう、君が友杉君に話したということだ。ミネルバ倶楽部の事務所の床が、コンクリートになっているね。ところが、それは、猫の死体を、ぬりかためたもので、猫の死体を、ちょっとでも動かさないようにして床を作ったから、床が高すぎて、天井が低くなったということだった。その話は、嘘じゃないのだろうね」
「そ、そうです。――ぼくと高橋とが、それは見たのですから」
「君たちのとこの笠原社長が、猫の死体を動かしちゃいけないという、迷信をもっていたのだったね」
「ええ……それも、そのとおりですが……」
「ところで、その猫は、君たちが、どこかで殺して持って来たのかね」
「ちがいます。ぜんぜんです」
「というと?」
「ぼくらは、笠原君から、事業をやるから手伝えっていわれました。そして、事務所へつれられて行ってみたら、バラックの床が、まだ土間になっていて、その土間のまん中に、猫の死んだのがあったんです」
「よし。その時のことを、詳しく訊こう。土間の土は、固くなっていたのかね」
「いえ。固くはありませんでした」
「掘りかえしたとか、穴を埋めたとかいう形跡は?」
「それは……わかりません。しかし、土の色は、新しかったと思います。そう言われれば、掘りかえしたのかも知れません」
「つまり、足で踏むと、ホカホカしていたというわけだね。そのホカホカした土の上に、猫が死んでいた――」
「そうです。そのとおりです。事務所に改築するので、その翌日、仕事師の親方が来ました。そしてコンクリートにするなら、土をさらった方がいいといったんですが、土をさらうと、猫を動かさなくちゃならないというので、そのまま、コンクリートにしてしまいました。その時にも、ぼくは見ていましたが、土の色は、まだ新しい色でした」
「では、それもよし。……もう一つだ。はじめに死んだ猫を見つけたのは、君たちのうちの誰だったね」
「三人でいっしょです。社長とぼくと高橋とでバラックへ入り、雨戸を一枚あけると、……ああ、そうでした、社長がはじめに、あッといってびっくりしたのです」
「じゃ、社長が、第一に、猫に気がついたということになるのだろう。その時の社長の態度や顔つきは?」
「目をまるくして、しばらくそこへ、つっ立ったままでした」
「よほどひどくおどろいたわけだね。社長は、いつもそういう風に、びっくりしたり顔色を変えたりすることがあるのかね」
「さア、どうですか。大体は、ぼくらよりずっとおちついているし、最近は少し変ですが……そうです。その時のように、社長が顔色を変えたなんてことは、ほかでは見たことがありません」
 係長が、ふりむいて課長を見た。
 課長は、満足な目つきをしている。
「じゃ、この猫を見てくれたまえ。死んだ猫に似ているかどうかだ。三毛猫だったということだね」
 そう言われて平川と高橋とは、いっしょに箱の中をのぞき、そうしてうなずいた。
「よく、わかりません。しかし、毛並みは同じですね。頭のところに、黒と茶色の輪があって、その輪のぐあいは、そっくりだと思いますが」
 それ以上は求めても無理であろう。そうしてこれまでわかったら、洋裁店主の猫が、あのコンクリートの床の下の猫だと、断定してもよいだろう。
 課長が、ポケットのたばこを出して、平川と高橋とにあたえた。
 そして、配下のものは、すぐに次の行動をおこした。


 雨がやまない。
 雷雨が、どうやら梅雨性のじとじとした降り方に変ってしまった。
 そうして、笠原昇は、へたな関西弁でしゃべる鉄工場経営者たちを、もうすっかりもてあましていた。
 事業は発足したばかりで、だから、がまんをしたいとは思うけれど、いつもこんな煮え切らぬ人物ばかりを相手にするのだときまっていたら、まったくやりきれぬと思うほどである。総額十万円の金融で、すったもんだの末に、二人のうちの一人が、笠原の持ちだした条件へ、ともかく歩みよりを見せたかと思うと、他の一人が分別臭い顔で文句を言いだし、文句があると、話がまたふりだしへ戻ってしまうという状態で、いつまでだってもケリがつかない。しかも、雨を口実にして、二人とも、悠々と腰をすえているのであった。
「どうでしょう。もう妥協の余地は、残っていないと思うんですが」
「さよか。そうなると、ほかで金策はつかんよって困るさかいに……」
「しかたがありませんね。それに、ぼくは用事もあります。これ以上、まとまらない話を続けているわけにも行きません」
「オヤオヤ、帰れちゅうんかいな。ひどいあいそづかしや。そんな短気なことを言わんかて、ま、もう少し、こっちのいうこと、聞いてもらわんと……」
「いや、もう、十分に聞きましたよ。金策ができないと、賃金不払いでストライキが起るという話でしょう。それについて、ぼくが責任をもつことはありませんね。雨も、さっきほどじゃありません。タクシーを呼んで来させましょうか」
「オットット……待っとくなはれ。タクシーなんて呼んでもろうたら、また散財やであかんわ。なア社長さん、あんたわしらが、あんまりゴテゴテゆうとるから、あいそつかしてしもうたんのんとちがうか。こら、えらいこっちが悪かったわ。ゴテつかせたくてゴテついたんやない。よっしや。もうゴテつかぬ話にしてしまお。金づまりの世の中やから、天引利子も、かめへん。といちの利子はぎょうさんやが、これも背に腹はかえられんさかい、キチンと払って見せまっせ」
「そうですか。そういくのなら、いいと思いますが」
「そうやろ。担保もしっかりしている、損はかけん。が、どうやろ、それだったら、十万円ばかりでなくて、もっとたくさん貸してもらえんやろか」
「たくさんて、どのくらいですか」
「ざっと、百万や。二百万なら、なおのことこっちは助かるが……」
 できぬ相談だとわかっていての、無理難題を持ちだされた気がする。でっぷりした方の男の眼尻に、皺がより、人を馬鹿にしたような薄笑いが浮かんだ。聡明なはずの笠原が、まだこの二人の正体を、わからずにいた。ただ腹が立ってきて、待てよ、これは金を借りにきたのではない。もしかすると、なにかゆすりにきたのかも知れないと、はじめて警戒心がわいてきただけであった。
 ゆすりとすれば、事業のことでか、女のことでか、わからないのがもどかしかったが、なにくそ、今度はもう待合今花でのようなヘマなことはやらない、うまく胸のすくような、背負い投げを喰わせてやるぞ、と腹のうちで叫んだとたん、今花での女はキスだけで、それ以上には一歩も進められなかったことを思いだしたから、ふいにその連想で、貴美子未亡人の顔が、目の先きにちらついてきた。あの女も、やはりキスだけはした。森の中の、たそがれ時であった。たしかにその時の自分は、倖せであった。白く柔かく美しい、ばらの匂いがする雲の中へでも巻き包まれたようで、女の肉体のことすら考えず、野心も消え、安心しきって、それ以上には何も望むものがないようであった。あの女には、それだけの値打ちがあったのである。銀座では、女に復讐をしてやりたくなったが、やはり、諦められぬ女である。なぜ自分を、あんなにも冷淡にとりあつかうのか。ああ、それは、もしかすると、ほかにあの女の愛を奪った男があるのかも知れない。その男は誰だ。諸内という代議士か。いや、あんなやつを愛するはずはないが。とすると、友杉か。友杉という男は、へんなやつだ。あいつだけは、藤井家の書生で家庭教師で下男で、しかし、おちついた、しっかりした目つきをしている。そうしてあいつは、いつも藤井家に起臥しているのだ……。
「どうや、社長さん?」
「え……」
「ズバッと、百万円貸してんか」
 肥った男の眼が、また不可解に笑っている。そうしてこの時、雨を冒して三台の自動車が、凄いスピードで走ってくると、ピタリと事務所の前へとまった。
 鉄工場の経営者に化けていた二人の刑事が、自動車を見てホッとした顔になり、笠原も何事かと思って腰をうかしかけると、左右からその腕を、二人の刑事が、パッとつかんでおさえつけてしまった。
「あッ、何をする!」
 叫んで、ふりはなそうとしたが、椅子へひきすえられ、肩まで刑事の手がかかった。
「バカな! 乱暴するのか、君たちは……」
 いった時、肥った刑事が、
「警視庁の車だよ。おちついていたまえ。――おお、課長もやってきたよ」
 と、はじめて関西弁でなくいって、相棒の刑事に、目くばせしている。
 なるほど、前の二台の車から、捜査課長がまっさきにとびだした。そして係長と数名の私服や拳銃を持った巡査がおり、つづいて三台目から、ツルハシやタガネやカジヤやハンマーをたずさえた、仕事師の一団がおりてきた。
 係長が、事務所のうちをのぞき、先発の二人の刑事が、笠原をがっきと抱きすくめているのを見て、それでよし、という表情になり、それから、天井が低くてせまい事務所のうちが、たちまち人でいっぱいになってしまった。
 笠原の頭のてっぺんから足へかけて、なにか氷のようなものが、ずーんと駈けぬけ、そのくせ、怒りと恥とが、血を逆流させた。しかも、それを見せてはならない。息をつめ、平静を装い、すると、ものをしゃべろうとする口や舌が、化石のようにこわばった。
「はなしてくれたまえ! こんなバカなことはない。いったい、警察が……」
「人権蹂躙だっていうんだろう。さア、こいつだよ」
 係長が、自分でたいせつにして持ってきた書類を、笠原の椅子の前へきて、デスクを隔て、及び腰になって、開いて見せている。それは、一通が、意外な逮捕状だった。園江新六殺害被疑事件につき、笠原昇を逮捕すると書いてある。他の一通は、同事件に関し、ミネルバ企業倶楽部建物を、差押え捜索するという許可状であった。
「……?」
 笠原の眼が、毒々しい光にあふれて、係長の顔を見上げた。
「わからんかね、これだけじゃ……」
「わかりません」
「園江新六を知っていないとは、いえないだろう。S大法科専門部一年、鼻が曲がっていて美少年じゃない。君に、度々、金を借りたことがある」
「そうです。知っています」
「この男は、藤井代議士が殺される二日前から行方不明だ。それ以来、誰もこの男を見たものがない。両親のところへも帰らず、馴染みの女のところへも行かないし、平川、高橋、南条、小西、みんな会っていない。ところでしかし、そうやって行方不明になる前に、園江が会ったとくべつな人間が一人ある。それは代議士の息子の有吉君だよ」
「…………」
「違例だが、君を納得させるために、みんな話しておくことにしようね。いいかい、今いったとおりだよ。すっかり洗ってあることだが、有吉君以外に、園江新六と会った人間――イヤ、そういっては適切でない。有吉君のほかに、彼が行方不明だと信ぜられている間に、誰かが彼と会っているはずだということを、警察では考えた。その人間は、多分この世の中で、いちばんおしまいに、園江新六と会ったのだ。それが誰だか知ってるかね」
「知りません……そんな、つまらないことをなぜ、ぼくが知っている必要があるのですか」
「ああ、そう。多分君は、そう言うだろうと思っていたんだよ。が、園江は有吉君に会って別れる時、君にとってはまことに都合の悪いことをいったわけさ。つまり、笠原さんのところへ行って、金を借りようってことをいったんだね。これは、有吉君が自殺するつもりで書いた遺書のうちからわかったんだ。そうして、こうなってみると、園江は、行方不明になってからか、またはその直前、君を訪ねたのだろうということが推測できる。つまり、この世で最後に園江と会った人物は、君だったと考えても不思議じゃないよ。それから、ほかにもう一つ有吉君は、お父さんが殺されてしまったあとで、園江がどこにいるかということを、ひどく気にしだしたのだよ。そしてこの事務所へ、友杉君と二人でやってきた時、君に向って、園江が君を訪ねて来なかったかと訊いたはずだね。それは、どうだい、おぼえているだろう」
「おぼえて……います……」
「有吉君も、その点だけは、警察と同じようなことを、すぐに考えたわけだ。しかも警察のわれわれとしては、君の次に、園江と会った人間は、恐らく一人もあるまいと思っている」
「待って下さい! ……ぼくは、有吉君にそれを訊かれた時、園江なんか来やしなかったと答えたはずですよ!」
「そうだ。君はそう答えている。が、その時の君の顔色は、ひどく緊張していたということだね。それは、もうわかっているのだ。そうして、君のその答えが、真実であったか嘘であったか――つまり、園江が君に会ったか会わなかったか、それは、じきにもう決定することができるのだよ」
「…………」
「警察は、目くらじゃないつもりさ。いろいろの方面で調査したよ。その中に、藤井代議士殺害より二日前の夜、君と園江らしい二人の人物が、自動車に乗ったのを目撃したという証言すらないじゃない。――いいね。もう納得したろうな。事実上は、君がもう一つの恐るべき犯罪に関係していると、こっちじゃ睨んでいる。とりあえず、逮捕状は、園江新六殺害被疑事件だけになっているが……」
 係長の言葉が、脳髄へうちこむ弾丸のようであった。
 さすがの笠原が、唇を血の出るほどに噛んで、もう何も言えなくなっている。係長は、笠原がそこにいては邪魔だから、畳のある部屋の方へ、つれて行けと命令した。そうして、仕事師の親方をふりむいて、
「さア、やってくれ。早いとこ、頼むよ」
 と、いせいよくいった。
 まず、書類が全部押収された。
 次に、椅子やデスクを、すみへ寄せて積みあげて、それからかしらたちが、事務所の床をこわしはじめた。
 笠原が、わめくかあばれるか、抵抗すると思ったが、彼はだまって見ている。顔色が、青く美しくぎすまされたようで、一度、手を自由にしてくれと訴えたが、それは許されず、刑事が、水をコップで飲ませてやると、それっきり何も言わなかった。
 かしらのツルッパシで、コンクリートの破片がとび散った。
 セメントが、あまり上質のものでないと見えて、わりにたやすく床が崩されて行く。
「ああ、それだ! 傷をつけないように持ちだすのだ!」
 係官の一人が、大声に叫んだのは、コンクリにぬりこめられた猫の死体が出たからであった。係長が、
「ウム、もう、腐ってるだろう。できるだけ形を崩さないようにして、ブリキ板の上へうつしとけ。そうして、その下の土を掘るんだ。気をつけろ。オイ、写真、たのむよ!」
 かしらをかきわけて首を前へ出し、しきりにどなりちらしている。
 土は、わずかに五寸ほど掘った。
 すると、はじめに現われたのは、蒲団ふとんか毛布のようなものであったが、手のひらで、ていねいに土をはらって見ると、それは、うすい茶色に目立たぬ程度の青い縞がはいった洋服地であることがわかった。そうしてその洋服地は、長々と横にひろげられ、はしの方が、まだ崩してないコンクリートの下までのびているのであった。
「品ぶれで、出て来なかったはずだよ。これは、藤井家の箪笥から盗み出された服地にちがいない。おどろいたな。こいつまで土の中に埋めてあるとは思わなかったよ」
 係長が、低い声でいったが、ほかの係官たちは、はやる心を押ししずめようとして、息苦しそうな顔つきをしている。
 かしらが、呼ばれた。
 コンクリートを、タガネでこわして、また少し穴のふちをひろげ、係長が、さすがに今度は息づまる声でいった。
「さア、よし。もう一枚、写真だ。それから、この服地を、はいで見ろ!」
 背の高い刑事の一人が気がついて、電燈のコードを長くのばし、人々の肩越しに、光の穴の中までさし向けた。そうして他の刑事が、静かに服地をはぎとって行ったが、するとその下に横たわっている人間の死体が、脚から胴、腕、肩、そして顔という順序で見えてきた。
 その死体は、園江新六であった。


短い尺度計の告白



『今私は、一八七五年フランス政府で招請したメートル条約の会議のことを考えている。この条約でメートル国際原器が、トレスカの考案にもとづき、X字形の断面をもつ、白金とイリジウムとの合金製のものに決定された。その原器は、重さが、たしか三・二五キログラムあった。そして、摂氏一五度で、正しく一〇〇センチメートルの長さを示した。私は、この原器が、もし狂っていたら、ということを思ってみる。その場合は、地球上の尺度計が全部狂ってしまうのである。幸いにして原器は狂っていなかったから、それを基準にして作った他の尺度計も、摂氏一五度で正しく一〇〇センチメートルであることが可能になった。そうして、もしかして九九・九九センチの尺度計が作られたとすると、それは不正な尺度計であることが、たやすく看破され得ることになったのである。
 しかし、この不正な短い尺度計を、正しい尺度計だと思いこむ者もあるであろう。しかも私は、そういう尺度計を使っていたのである。イヤ、私自身、その尺度計であって、正しい原器と比較することさえ忘れていたのだといってもよい。短い尺度計は、測量を常に誤っていたが、自分では誤っていないつもりであった。そうして、今の破滅を招いたのである。測量が、理論的には正しいと見えても、実はまことに不正確であったのは、尺度計の例ではなく、次のような場合にも似ているだろう。
 ある博物館で案内人が説明した。
“このミイラは五千七年たったものですよ”
“ほう、なるほど。しかし、五千七年というのは、どうしてそんなに正確にわかっているのですか”
“なアに、あなた。私がこの博物館へ任命された時、このミイラは五千年前のものだと聞いたんですよ。ところが、私はそれ以来もう七年間、案内人をつとめていますからね”
 この案内人に、五千七年が無意味な数字であることを、ハッキリ呑みこませるように説明するのは、かなり困難であるに違いない。彼にとって、七年という数字は、大切な数字だった。そうして五千プラス七、答えの五千七年は、どんな大学の教授でも、同じように計算するものと考えた。これは合理的である。合理主義は、こうして頑固に案内人の頭を支配している。私も、案内人に似ていた。短い尺度計にあわせて正しければ、それこそ合理的であると考えたのである』
 笠原昇は、警視庁の留置所で、手記を書くことを許されたが、その手記の冒頭で、以上のように書いている。
 彼の身体をしらべると、ズボンのバンドにとくべつな仕掛がしてあって、そこに青酸加里の粉末が収められていたが、もし、園江の死体が掘りだされた時、身体の自由を拘束されていなかったら、すきを見て毒薬を口へ投げ入れるつもりだった、と彼はいっている。
 変装した二人の刑事が、先発してミネルバ倶楽部へ行っていたのは、まことに機宜を得た処置だったと言えるだろう。死ぬことさえ、自分の意志にゆだねられなくなったのだと知った時に、彼も、もはやすべての結末が来たことを覚ったらしい。
 その後の係官の訊問に対しては、彼は進んで全部をうちあけた。逮捕状の方は、園江新六殺害の一件だけになっている。しかし、藤井家の盗難品が、新六の死体といっしょに発見されていたから、もう言い逃れはきかず、藤井代議士を殺したのもやはり自分であると、ハッキリ自白したのであった。
 殺人の動機を訊ねられた時に、
「いえ、ぼくは、動機とは、言いたくない気がします。それは、ぼくには、冷静な理論だったのです。今は疑問が湧いてきています。しかし、その時には、そうするのが最も合理的であるとぼくは考えたのですから」
 と彼はいったが、その理論や、殺人の手段などについては、彼の手記が詳しく説明している。
 手記は、次の如きものであった。

×    ×    ×

 さて私は、世間の人が――教育家や評論家や、人格者と呼ばれる人たちが、私のことをいろいろと批判する中で、一人ぐらいは、私を羨ましがる人だってあるだろうと思っている。
 私の思想や行動が、頽廃的たいはいてきであり不潔でありエゴイズムであり、ことに殺人者だから、甚だしく反社会的だという非難は、当然おこるにちがいなく、しかし私への共鳴共感者だって、必ずしも無いとは限るまい。私は、自分の欲するものに対して、勇敢に突進した。世間には、この勇敢さを欠くために、実は私と同じことをしたいと思いつつ、それができないでいる人がかなりに多い。その人たちは、腹の中の考えは不逞でも、表面的な行動は常識的で円満で社会性があるから、いちおう善人として認められている。細く長く生きるためには、まったくそれは賢明なやり方であり、私の方が、馬鹿だったということになるだろう。が、私は、そう思われても口惜しくはなく、なるほど君たちの方が賢明だよと、その小さな善人たちを、慰めてやるだけの寛容さを持つつもりである。そうして彼らは、私を悪しざまに罵り軽蔑し、しかも内心では、あいつはうまくやりやがった、最後に手錠をはめられ、絞首台へ送られるようにさえならなかったら、おれもあいつと同じことをやりたかった、と考えているにちがいないのである。
 小善人諸君!
 諸君は幸いにして、よい尺度計を持っている。その尺度計をたいせつにしたまえ。まちがった尺度計を使ったら、たちまちにして諸君も地獄行きだ。著名な人物では、ヒトラーが、狂った尺度計を持っていた。東条がまたそうだった。ところが諸君は、もちろんヒトラーだけのことはできやしない。いや、私だけのことすら、できないだろう、そうして、ただの一つでもその欲望を達しないうちに、地獄行きの急行列車に乗ってしまう。なぜなら、狂った尺度計は、それを使うことだけが、かなり困難だ。智能と技倆とが必要だ。その上に、智能と技倆とが、断然優れていたにしても、けっきょく狂った尺度計は、正しい測量をしないから、破滅が来てしまうのである。
 私が、どんなにして、智能と技倆とを応用したか、そのことを書いてみよう。
 それは、藤井家の事件より二日前の夜、九時すぎだった。
 私は、ある女との抱擁で、ひどくくたびれていた。女は、私の先輩にあたる某官庁の役人の細君であり、肉感的に私を誘惑するものがあったから、二度目にその家を訪問した時、私は苦もなくその女を征服したのであったが、征服してみると、思ったよりつまらない女で、私はがっかりしてしまった。そうして私は、下宿へ帰ってきたのである。
 ところが、下宿の前までくると、暗がりから、とつぜん園江新六が出て来た。彼は、私を訪ねてきて、しかし、中へははいらず、暗がりに身をかくすようにして、私の帰りを待っていたのである。私がなぜこんな夜遅くに来たのかと訊くと、もじもじしていて、なかなかわけを話さない。それから、ついに警察から追われているので、どこかへかくまってくれといって頼むのであった。
 気まぐれな興味が私のうちにわいてきた。
 そしてこの不細工な顔の、野犬のような男に、いっぺんは恩を施しておいても、悪くはないと考えた。ただ、私の下宿の部屋でこの男といっしょに寝るのは、いかにも殺風景でやりきれぬ気がしたから、淀橋に、高利貸しの会社をはじめるつもりで借りてあったバラックがあったことを思いだし、そこへ、自動車で彼をつれて行ったのである。
 まだ手入れをしてないバラックで、彼は不服そうであったが、平川や高橋たちと、その夜の宵の口に強盗をやろうとして失敗し、ちりちりばらばらに逃げたという話をした。そして、私に、金を貸してくれといったり、そのあとで、彼にとっては致命的な失言をした。藤井有吉の家に、かんたんに盗み出せる金がある。有吉が友だちでなかったら、その金を盗み出すのだが……というのである。その時に彼はその金が、百万円以上あるのだといった。あとでわかったが実際は十五万円であり、それを彼は、ことさらに大げさにいっただけのことであろう。私は、真実百万円だと思いこみ、すると私の血の中に住む金色の鬼が、何か私に囁くようであり、そうしてついに新しい一つの考えが、とつぜんそこへ生れてきてしまった。
 その金のことを、私は、福島の炭坑の森の中で、貴美子夫人から少しばかり聞きかじっている。だから、一方では受取るまいとし、一方では無理に押しつけようとする秘密の金で、どこへ消えてなくなってもかまわない。まことにもてあまされた金だと知っている。私は、もったいない、それを自分が、使ってやろうと考えた。そうして、園江の話だと、盗み出すのは、そう困難でないようであるが、実際はかなり困難だろうと思い、そう思うといっしょに、その困難を克服するための工夫が、頭の中へ泉のように湧いてきた。
 金は、藤井家の二階の書斎に、ブックケースへ入れてかくしてある。
 が、その部屋には、藤井代議士が寝ているし、貴美子夫人がつきそっている。
 そうだ、代議士は殺してしまえ。金を奪い、それから貴美子夫人をも、自分のものにしてしまおう、と決心したのであった。
 断わっておくが、私の貴美子夫人に対する愛情こそは、私の今までの生涯で、いちばん真剣なものだった。その時もそうだったし、あとでも常にそうだった。彼女が私のものになっていたら、私の人生観は更正され、私はもっと平凡であるとともに、世間から賞讃される人間になり得たかも知れない。彼女の迷惑になることだから、これ以上深く私は説明をしまい。が、彼女を欲しかったことは事実である。そうして、藤井代議士がなかったら、私は彼女の愛情を自分に向けさせることも、不可能ではないという気がした。結論として、代議士を殺すことは、一石二鳥だと思ったのである。
 むろん、私にも、反省がないではなかった。
 盗みをし、人殺しをする。
 これは、悪事である。
 私は、それを百も承知、二百もがってんというところで、ことに、そういう悪事こそは、私自身にとっても甚だ危険であるとわかっていたのであったが、その時に私には、例の短い尺度計が作用しだしたのである。藤井代議士は、清廉潔白の好人物だが、死んだところで、世界がそれはどの損失をしたということにはならない。金は、私が有用に使う。そして、私の人生は、貴美子夫人を獲て、ますます充実される。何よりも私は、私の欲望を達成するために、手段があり方法があるのだったら、躊躇や遠慮をしているのこそ、私の人生への反逆であると考えた。理論が構成されたのである。私は、勇気が出てきた。これを実行するのには、一連の危険を冒さねばならず、そのことが、却って私を激励するようであった。綿密に考え、大胆に実行し、見事に私はやってのけようと決心した。これは、危険を冒して猛獣狩りをする心理に似ている。それにまた戦争というものがある。戦争では、いかにして最も効果的に敵を多く殺戮さつりくするかということばかり研究している。一人や二人の殺人がなんであろうか。私は、身ぶるいし、頭の中が爽快になり、すぐその場で、実行に着手したのである。
 第一に、私は、園江新六を殺すことにきめてしまった。
 この男は愚劣であるから、私の仕事の協力者たるの価値はなく、しかも、のちに、藤井家で事件がおこった際に、私がそれをやったのだと感づいたり、それを世間へ言いふらす危険が多分にある。彼が私に教唆しているからだ。私は、この危険を未然に防止するには、殺すのがいちばんだと考えた。ことに、彼のような醜悪な男こそ、生きている値打ちはないのである。私は、どうだ、酒でも飲むか、と彼に訊いた。彼は、こんなバラックで、寝具もなくて寝られやしない。酒は有難いね、といった。私は、すぐに街へ出て、ポケットウィスキーを買い、ついでにまだ起きている古道具屋があったのを幸い、ショベルを一ちょう、買ってきた。ショベルを見て、園江は、オヤオヤそれは何に使うのだと聞くから、ウム、これは地べたを掘って、世の中で役に立たない廃品を埋めるのだよと答えたが、彼にはその意味がわからなかったらしい。ウィスキーには、口ぶたの、アルミのコップがついていた。そしてその底に、青酸加里がこびりついていた。彼はゴクリと飲んだ。そうしてたちまち死んでしまった。
 私は、土間を掘りはじめた。困ったのは、腕力が足りないから、思うように深く掘れなかったことである。
 しかたがない、ともかく、死体をかくすだけにして、あとでまた工夫しようと考えた。いいか、そのうちに、もっとうまくやりなおすよ、今はそれでがまんしていろ、と私がおどけて死体に言うと、死体は蝋燭の焔の下でだまって私を眺めていた。
 私は、いそいで、次の仕事にとりかかったのである。


 藤井代議士の殺害については、その詳細の手順を、ここに書く必要はないだろうが、私がここで最も苦心したのは、貴美子夫人を、いっしょに傷つけてはならないということだった。不幸にして夫人は、代議士のそばにつききりでいる。どうにかして夫人を、そばにいないようにする必要があった。
 そのため、園江殺害から二日間、私は工夫をこらした。私は夜になると、下宿の小母さんには、睡眠剤をあたえて眠らせてから外出し、藤井邸の附近を徘徊しては、乗ずる隙もあらばと狙っていた。
 ついに二日目の夜、私にとっては最も不気味な存在の友杉君が外出したので、とりあえず尾行してみると、神田の紅中軒へ、有吉君を迎えに行ったのだとわかった。私は、麻雀となったら、有吉君がなかなか家へ戻らないことを知っている。紅中軒の硝子戸の外から覗いていると、友杉君がじっとその麻雀を見物しているから、そうだ、今夜だ、今夜が与えられた機会であると悟った。そこで、藤井邸の近くへとってかえし、電話で貴美子夫人をおびきだし、つづいて、女中のふみやをも同じ口実で、外出させてしまったのである。今や、邸内には藤井代議士が、一人きりでいることになった。私は、度々藤井邸を訪れたことがあり、勝手は明るい。友杉君がまき割りに使う斧が、納屋にあることを知っていたから、その斧を持ちだした。斧など使わず何かもっと目新しい科学的な殺人方法がないものかとも思ってみたが、犯行が野蛮であり原始的であれば、それだけ私への疑いは避けられるのだと考えなおした。まったく、私にとって、斧で人間の頭をぶち割るなどということは、たいへんに似合わしくないやり方である。それは、園江などなら、やることかも知れない。そうだ、うまく行くと、園江は行方不明ということになり、嫌疑は彼にかかるだろう。よし、斧でやれ! と私は心のうちで叫んだのであった。
 挿込錠のこわれた窓からはいってから、二分の後に、身動きのできない藤井代議士は、血みどろになって死んでしまった。
 私は、日本史略のブックケースから、金がたった十五万円しか出てこなかったので、オヤとびっくりしながらも、さすがに、ほかの場所を探すだけの心の余裕をもたなかった。じきに階下へ降り、その時、盗賊の所為しょいと見せかけて、警察の捜査をまどわすのも一策だと気がついたから、納戸へ行き、洋服地を盗みだしたが、そのあとは、台所へはいって、手や顔へとびついた血を洗い、そうして、藤井邸の玄関から、逃げ出したのである。
 うまく、私は、下宿へ戻った。一つだけ、ひどく危険だったのは、藤井邸を出てから間もなく、紅中軒から帰ってきた有吉君と友杉君とに、あぶなく顔を見られそうになったことである。彼等は、坂を上ってきた。私は、坂を下ろうとしていた。そのままですれちがいになったら、私は顔を見られたかも知れない。私は、話し声で、彼らだと気がついた。そうして道を変えて逃げてしまったのである。
 その翌日から――。
 私が、警察の捜査を、どんなに注意深い眼で見守っていたかは、誰でも推察できることだろう。嫌疑が、私には向けられず、はじめに諸内代議士が怪しまれたことは、私をいくぶんか安心させ、しかし、いつまでも安心してはいられなかった。仕事は、まだし残してある。それを片づけてしまわねばならない。その仕事とは、園江の死体をもっと安全にかくしてしまうということだった。
 ある日私は、淀橋のバラックへ赴いた。そして、またショベルをふるい、死体をなお深く地中へ埋め、のちに、この上をコンクリートの床にしたら、それこそ完全であろうと考えた。ところが、上を掘りのけてみて、私はすっかり辟易へきえきしたというのが、すでに時間がたっている。気候が悪い。死体は腐敗しかけていたのである。私は、嘔吐をもよおした。それでもがまんしてやりかけたが、深く掘るために死体を抱き上げようとすると、おどろくほどそれは重かった。そして手を放すと、上がザラザラ崩れおち、穴は前よりも浅くなってしまった。私は、洋服地を死体にかぶせ、つかれきってため息をついたが、実はすでにこの時私の計画には、狂いが生じたと感じたのである。すべて、綿密に計画したつもりだった。また、その時までは、何も支障がおこらなかった。だのに、あの低能の園江の死体が、私を裏切ろうとしているのである。私は、ありていにいって、狼狽した。そうして、狼狽したら駄目だぞと、我と我が心を叱咤しつつ、次の最善の手段を工夫した。ともかく、コンクリートの床を、この死体の上へ築くことは、絶対に必要である。が、このままだったら、土方がきた時、死体を発見される恐れが強い。死体を発見させず、コンクリートで上を塗りかためさせるには、どうすればよいか。私は、百の考えを、頭の中でくりかえした。そうしてついに、解決をつけた。
 私は、その夜のうちに、ある女を訪ねた。
 洋裁店の女主人で、私に学資を貢ぎ、私をえらい学者に仕込むという、無邪気な夢を描いていた女である。
 女に会い、帰る時、私は猫を盗んできてしまった。なかなか困難だったが、けっきょく猫を、女に気づかせず、盗んでくることに成功した。そして猫を、青酸加里で殺そうとしたが、動物は、不思議なものである。毒薬入りの魚を、くわえたかと思うと首をふってふりおとし、なかなか食べない。ついに、首へ紐をかけて天井へつるし、そしてナイフで横腹をえぐって殺した。その猫を、死体にかぶせた土の上に置いて、ひとまず、バラックを引き上げたのである。
 私は、いつ誰があのバラックへ入り、猫の下の廃品を発見するかも知れぬ、という恐れで、一日も早く、コンクリートの床を完成しようとあせったが、ついに、平川と高橋とを利用することに成功した。少なくとも成功したつもりだった。彼らに、気前を見せ、心服させ、バラックへつれて行った。猫を、私は、非常にびっくりして発見し、それから、猫の迷信を捏造ねつぞうし、猫の位置を、一寸でも動かせずに、コンクリートの床を築くのが、それほどひどく不自然ではないという体裁を作り上げてしまった。私は、迷信の話をするのが、いかにもふさわしくない感じで、気おくれがし、吹きだしたくなり、それでも、うまく彼らはだまされた。その翌日に、もうコンクリートは築かれた。工事の請負人が、土間の土をさらった方がいいという。が、それは猫の迷信で一蹴した。その結果、死体も洋服地も猫も、完全にコンクリートの下へかくされ、さてしかし、床が高すぎて天井が低い、まことにぶざまな事務所ができあがったというわけである。
 ぶざまであっても、平川や高橋はそれが猫の迷信のせいだと思ってしまっている。他人から聞かれても、そう説明するにちがいないのであった。私は、ホッとした。ホッとするとともに、いよいよ貴美子夫人に対しての工作を進めようとし、それには、有吉君を手なずけるのが、何より効果的だと思ったから、平川と高橋とに命じて、有吉君をミネルバ企業倶楽部へ呼びよせた。
 ところが、これは、思いもよらぬ私の失敗だったのである。
 有吉君といっしょに、友杉君が来てしまった。
 しかもこの時に有吉君が園江のことを私に訊いた。園江が私を訪ねたことは誰も知る者がないと思っていただけに、私は愕然としたのである。ことに友杉君が、口には出さず、鋭い眼で、私の一挙一動を見守っている。私は、顔色を変えまいとするのに骨が折れた。ともかく、園江には最近会わぬと返事したが、早くその話題を他へ転じたいとあせった。友杉君が、事務所のうちをじろじろ眺めている。床の高さを気にしているにちがいなかった。そうして、その時は、それ以上に格別なこともなく、友杉君と有吉君とが帰ったので、私はどうやらこれで、危機は脱したのだろうと考えたが、それは私の倨傲きょごうな自負心が、私を欺いただけのことである。或はまた、尺度計の狂いが、ここでも作用したのである。警視庁へ来てから、係官の話で、私にはわかった。友杉君は、有吉君に園江のことを訊かれた私の狼狽を、敏活に見てとっていた。また、果して、床と天井との釣合いに、不審の目を向けて帰った。捜査課へ来て、彼はその印象を語ったのだそうである。捜査課では、事務所の構造を視察に来た。そして、ついに、猫が洋裁店の猫であることを捜索しだした。もう、いけない。かくしてミネルバ倶楽部へは、あの三台の自動車が来てしまったのである。
 私のたてた計画は、まことに綿密であるつもりだったが、その実たいへんに粗雑なものだったということが、今にして私にもよくわかる。そうしてその粗雑さは、単にこの犯罪についてだけでなく、私の思想や行動や、その全部を支配していたのではなかったろうか。
 私は常に思った。すべては合理的であらねばならぬ。そして現実をしっかりと把握し、それに即応してのみ生きることが、私の生命への最も合理的な努力であると。
 しかしながら、その現実の把握が、すでに私の場合では、甚だしく粗暴であったのかも知れない。そうだ、世の中の、嘘佯うそいつわりのないとことんの現実なんて、そう簡単に見極めてしまうことはできないのに、私はそれができたのだと、思い上っていたのである。けっきょく私は、単なる空想家にすぎなかった。空想こそは、無制限に自由で楽しくて、しかし、実在するものとの間には、ハッキリした区別をつけておかねばならなかった。私は、その区別を見失い、しかも悪魔的な空想に溺れてしまっていたのである。
 短い尺度計――。
 尺度計は、現実への測量過失を犯した。
 この尺度計は、折って捨てた方がいいと、私は今ハッキリ思っている――。

×    ×    ×

 笠原昇は、この手記のほかに、二通の手紙を書いている。
 一通は貴美子未亡人あてで、他の一通は友杉成人あてであったが、どちらも、ひどく簡単で、私は生れてはじめての祈りをささげる。それはあなたの幸福を祈るのである、という、文句までほとんど同じものであった。





底本:「石の下の記録」双葉文庫、双葉社
   1995(平成7)年5月15日初版第1刷発行
底本の親本:「石の下の記録」岩谷書店
   1951(昭和26)年MM月DD日初版発行
初出:雑誌「宝石」岩谷書店
   1948(昭和23)年12月合併号〜1950(昭和25)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
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