「吉本新喜劇やめよっかナ」

       キャンペーンに思う 



  当時、吉本興業では、吉本新喜劇は、ピークを過ぎたとされ、軽視されていた。

  3チーム制を、崩したりして、競争原理も働いていなかったし

メンバーの高年齢化で、「いい芝居をしたい。」という幻想にも襲われていた。

 

  そのせいか、何かわからないが、花月の看板や、駅貼りのポスターなどにも

 

   「テレビでお馴染みのと笑いの人情劇

  などと、とんでもないことが、書かれていました。(笑)

  そんな土壌では、寛平・進以降の世代で、スターが誕生するはずもなく

存続の危機が叫ばれるようになったのは、当然の帰結でした。

 

  そして、木村進は病に倒れ、間寛平が知名度の低さに焦って退団したことなどもあり

ついに、1989年、新喜劇は、発展的解散をも視野に入れた、大テコ入れを余儀なくされました。

 なお、このタイミング、ちょうど、ダウンタウンが卒業し、目玉を欠いて

NSC出身の、心斎橋2丁目劇場出演メンバーも、頭打ちだった時期でした。 

 

  この二つを掛け合わせて、いい目が出るか、悪い目が出るかという賭けに

出る形になって、この「やめよっかナ」キャンペーンは始まりました。

 

  久しぶりに、ニュース番組や、情報バラエティ番組にも

新喜劇の宣伝が打たれるように、なりました。

 

  が、蓋を開けてみると、全然面白くなかったのです。

流行語は一切カット、芸名と違う役名で呼び合うという、2つの大きな勘違いで

客が笑っていないのが、TVにも伝わってきました。

 

  完全に、これで終わりかと、私は思いました。

 

  が、そこは強運の吉本。

同時に「新喜劇名場面集」などの書籍や、「新喜劇ギャグ100連発」などのビデオを

発売していて、それが、予想だにしない売れ行きを見せ

観客や視聴者が、意外にも、吉本興行側が捨て去ろうとしていた方向に

目を向けていたことに、気付いてしまいました。

 

  そして、流行語志向として軽んじられ、看板が大きくならないままでいた

浜裕二や島木譲二が、実は非常に人気が高かったことなども明らかになりました。

  キャンペーンの途中で「くだらなくて面白い路線」に急遽転換。

これが功を奏して、存廃を分けるノルマ(観客動員数)を、キャンペーン終盤に滑り込みで突破。

存続を決めました。
 
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