吉本新喜劇の歴史上、いろいろな名コンビが誕生したが
それぞれが時代を超越したものか否かをここで検証する。
 
 
 
 ◎白木みのる+平参平組
 
 60年代、コメディ番組が、まだ、全国ネットで多数放送されていた頃
人気を集めた、最強メンバー。
 
 ここでの平組とは、参平のほかには秋山たか志、三角八重、奥津由三などの
メンバーである。
そこに専科の白木みのるが加わった形だ。
 
 そのメンバーで、吉本新喜劇のほかにも、「毎度おおきに」などのコメディ番組も
手がけた。
 このメンバーのパワーは、ルーキー新一退団までは続いた。
が、その後、組替えのあおりで共演しなくなった。
 三角八重も早い時期に退団し、3年後白木退団
その後、似たメンバーで共演したものの
そこで秋山に重きを置きすぎて、まじめなものとなり全然面白くなかった。
 
◎ルーキー新一・白羽大介
 
 昭和40年頃の最強コンビ。
ルーキーが、脂の乗っていた時期だったので、テンポも速かった。
 
 40年秋の退団も行動をともにした形だし、ルーキー劇団を結成したが
座長と副座長をつとめた。
 
 暴力事件も共謀、干された後の復帰後も二人で漫才を組んだ。
 
 ルーキーが貧乏をこじらせて死ぬまで、苦労を共にした名コンビだ。
その後白羽は松竹芸能に拾われ、そこそこの活躍をしている。
 
◎桑原和男・平参平
 
 新喜劇入りより以前に、どこの所属かは知らないが漫才コンビだった組み合わせ。
解散理由が何かは知らない。
 
 しかし両者は新喜劇でもよく組んだ。
晩年の面白くない秋山の芝居でも行動を共にすることが多く
そのころが二人のスランプだったように思う。
 
 秋山退団後、徹底的くだらない主義に戻った二人は、専科扱いで脇役扱いだったが
それはそれで健闘した。
 
◎桑原和男・財津一郎
 
 65年頃流行語連発型の先輩後輩として脇役で共演、主役を食う人気だった。
その後同年秋からの秋山組に振り分けられても、二人でいるうちは元気だった。
 
 しかし財津が別の組の座長に、先輩桑原を抜いて昇格すると
桑原は秋山組だったせいもあってか不調になり
2大流行語の「冗談はよしてください」、「イヤ、イヤ、そんなこと絶対にイヤ」に
封印をかけてしまった。
 
 その後あまり共演しなかった。
 
◎花紀京・原哲男
 
 65年秋体制でチームを組んで以降、名コンビとして知られている。
そのチームは花紀座長時代はずっと続いたし、花紀が専科になった後は
原組によく加わったし、原も専科になった後も
2枚看板専科でよく共演した。
 
 アホのくせにいつも得するだらしない男と
それに振り回されて半泣きになるまじめ男と言う設定は、大爆笑を呼び続けた。
 
◎原哲男・谷しげる
 
 花紀組時代に、副座長格でボケとツッコミの名コンビぶりを見せた。
朝日放送の全国ネット高視聴率番組「てなもんや一本槍」でも共演。
 
 原の座長昇進後2年目以降は不調だったが
短期間コンビ復活したときだけは好調だった。
 
 その当時の原にとって、もっとも必要とする芸風だったようだ。
 
 原が専科になってからも共演はしているのだろうが、不思議とコンビの感覚がない。
 
◎岡八郎・奥津由三
 
 岡八郎が浅草四郎との漫才を解消し新喜劇に復帰した後
喜劇と並行して漫才もやったがその相棒が喜劇でも組んでいた奥津由三であった。
その漫才も人気があった。
 
 しかし44年秋体制で別々のチームに分かれると、急速に奥津は衰えた。
そして大宝芸能に移籍してしまった。
 
◎花紀京・岡八郎
 
 アチャコ・エンタツ門下の兄弟弟子だが、44年まで共演の機会がなかったが
花紀京が専科になったので、岡組とも共演することになった。
 
 これが大変な強力コンビで、史上最速のペースメーカーと、史上最強のボケが組み
しかも、お互いの以前の相手とイメージが重なるので
それまでの芸風を変えることなく入って行けたのである。
(花紀京は浅草四郎に似ているし、岡八郎は原哲男と似ている。)
 
 そのため夏休みスペシャルとか、正月特番にふさわしい豪華キャストを組みたいときは
岡組に花紀が専科で加わるだけで済んだのである。
 
 しばらく彼らの時代が続いたが、昭和57年には漫才コンビも二人で結成宣言した。
その漫才は自然消滅のような形になったが、喜劇ではその後も共演し
不滅のコンビと言っても過言ではない。
 
 しかし残念なことに、昭和63年、二人同時に勇退の憂き目にあいあまり見なくなった。
 
◎’69春岡八郎組(谷しげる、中山美保、船場太郎)
 
 わずか半年間だったが、この組は強烈な笑いを提供した。
テンポがとにかく速かった。
 
 別の組の座長、秋山たか志の退団により、再組分けが行われて
豪華すぎるこの組は、バラバラにするほかにはなかった。
 
 しかし、その後もっちゃりした芸風に変わった役者も多く
数年を経て伴大吾・谷しげる・中山美保らの組に
専科で、岡や船場が加わった形でやっても、その面白さは再現できなかった。
 
◎岡八郎・船場太郎・山田スミ子
 
 上の組分け後結成された組がこれである。
谷しげるがいない分、少し寂しい感じが最初はしたが
すぐにテンポの速い強烈な世界を作り上げていった。
 
 この三人のうち二人ずつの組み合わせも、それぞれ名コンビとされる。
 
 その後の組分けでも、このラインを崩さないように工夫されたほどに
会社側もこだわりを見せた。
 
 人気的にはピークを過ぎた後でも、コンビの輝きは長く続いた。
 
 しかし残念ながら山田スミ子が娘役を卒業してから、東京に行ってしまったので
この組み合わせの輝きも70年代いっぱいまでであった。
 
◎木村進・間寛平
 
 昭和47年頃から、その他大勢ながら息のあったドタバタぶりを見せて
注目されていた二人は、座長連を越える人気を得て2年後2枚看板で座長に抜擢された。
 
 血統書付きの2枚目役者と、狂気をはらんだ珍優の組み合わせは
ピークを過ぎ始めていた同劇団に刺激を与え、新たなる黄金時代を築いた。
 
 が、同格で座長だったため、その2年後、2枚看板制をやめ別々の組になってからは
共演していない。
 
 共演当時はボケ役の寛平に人気が集まりがちだったが、別れてからは逆転した。
 
◎伴大吾・谷しげる
 
 人気的にもキャリアでも座長以上だった谷と
悪役で人気があった大男の伴が
2枚看板で座長に抜擢されたのが、この組み合わせだ。
 
 テンポの速い喜劇を展開したが、借金地獄に負けて長続きしなかった。
 
◎池乃めだか・間寛平
 
 全国ネットのコメディ番組が無くなってきて
少し同劇団がマニアックな存在感を帯び始めた頃
中心的な役割を果たした名コンビ。
 
 激しい動きによるドタバタ喜劇を展開したが
大阪では大人気なのに東京では知られていなかった。
 その欲求不満が寛平の東京進出の元となった。
 
 その後も寛平が来阪してコメディ出演したり
90年代初頭の東京での変な新喜劇ブームで、東京公演時に寛平も加わったりしたとき
この二人は激しいドタバタを展開する。
 
 秀逸なのは、二人の喧嘩がいつの間にか猿と猫の喧嘩になり
さらに、それが両者の交尾で終わるという、無茶苦茶なパターンだ。

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