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 桜が散り、人々が祝い酒と浮ついた空気から醒めてしばらくした頃。

 世間は忙しない日々の休息を求めるように、連休になだれ込む。

 ゴールデンウィークと呼ばれるその期間、ある者は外へ飛び出し、ある者は疲れを癒し、またある者はここぞとばかりに金儲けに走る。











   1




 五洋から程近い市営運動場のグラウンド。




「リョーのバカぁーっ!」


 耳汚しな声に被って快音が響き、白球が軽々とスタンドに放り込まれた。

 呆然とする敵チームの視線を無視して、眉間に皺を寄せた少女がダイヤモンドを廻る。

 試合開始直後のホームランに拍手しながら、部員たちが苦笑交じりに話していた。


「ありゃりゃん。タマちゃんてば、今日はちょーキゲンわるー」


「キゲンわるって、ホームランじゃん」


「いつもは場外よ、兄くんがいるから」


「兄くん? 玉緒に兄弟なんていたっけ」


「あ、従兄だっけかな。とにかく、タマちゃんが好き好き〜な男の子がね、今日は応援に来てないからね」


「ああ・・・・」


「あの人か」


「そーそー。五洋(ごよう)で一番似合わないカップルの」


「てゆーかタマちゃん、何であんなのがいいのかなー」


「もっといい人、いくらでもいるのにさ」


「いるよねえ〜」


「よりによってアレだもん。もったいなさすぎー!」


「ホ〜ント」


「何でだろねえ〜」


 ”ちょーキゲンわる”な一年生スラッガーがホームベースを踏む。

 チームメイト達は手を打ち鳴らして迎えながら、揃って小首を傾げた。


























   2




 日本のとある山中。




 そこは静寂を好む土地だった。

 静寂には、意味がある。

 大自然においては、特に。

 季節は春の盛りが過ぎようという頃。薄く雲が引いているが、陽射しは強い。

 しかし、寒い。

 五月になるというのに冷気が漂う。

 それは山の上に未だ五メートルを超える雪が残っているという地勢が原因であるし、鬱蒼と茂った高木が陽光を遮ってしまうせいでもある。

 そして、静寂。

 木漏れ日の届かぬ樹下はしんとして、風の唸りも、木々のざわめきも、鳥の囀りも、川のせせらぎも届かない。

 ただ鳥肌を覚えるほど虚ろな大気だけが、見えない壁となって立ちはだかり、他者を拒む。

 地表を見れば、人跡など絶えて久しい。大地に細い葉が幾重にも積み重なり、厚く覆っている。そこかしこにある巨木は、大人が両手を広げたとて幹の三分の一にも届かないだろう。並の人間より遥かに長い歳月を経てきたこと、一目瞭然だ。

 数え切れない大木の中に、とりわけ目立つ木がある。檜(ヒノキ)だ。太い幹から無数の枝葉が水平に伸び、それが首の痛くなるような高さまで何十段も続く。頂点に至っては、もはや視界から完全に隠れ、樹高を想像することを許さない。そんな大樹が二本、寄り添うように並んで立っている。どちらが上かは知れないが、この森のツートップであることは間違いない。

 その根元。

 いつから居たのか、女が一人、佇んでいた。

 容姿は、ひと目見たら誰も忘れないだろう。それほどの美貌の持ち主だ。

 木陰にも輝くような白皙の顔。黒瞳に時おり煌く光は強い力を感じさせ、軽く結ばれた唇は血より赤い。額の右側から分けられた髪は、金色の波を形作りながら肩まで流れる。顔の造りが整いすぎて、しかも表情が全くないため、見ようによっては人形にも見えてしまう。

 花のような面と対照的に、身に着けた服は地味な藍色のスーツだった。それでも女の備える抜群のスタイルは隠しきれず、派手さのない上下揃いが着用者の引き立て役を果たしているかのようだった。

 昼なお暗い、深い森の奥だ。女の、しかもビジネススーツを身に着けた女性の居る場所ではない。にもかかわらず、彼女のまとう雰囲気は威圧的な静寂とよく馴染んでいた。

 女が顔を向けているのは、他を圧倒する二本の大きな檜。

 その狭間。

 悠然と構える幹と幹の間に、半壊した木造の小屋が挟まれていた。

 小さな古屋だ。

 人が住めるような造作ではない。何がしかの神を祭った祠だったのだろう。そういえば、賽銭箱の名残のようなものが、傾いた上がり口に残っている。

 だが屋根は破れ、戸は倒れ、柱は苔むし、板は朽ち折れ−

 いつ建てられ、いつ棄てられたのか。その昔に篤い信仰心から奉納されたであろう社(やしろ)は、巨木と時の流れの力によって崩れようとしている。

 女は、見つめたものを吸い込みそうな深い黒瞳で祠堂を凝視する。瞳の奥にちろちろと赤い炎が見え隠れするのは、木漏れ日の加減か、目の錯覚か−

 どれほど長い時間、見つめていたろうか。女はやがて目を瞬かせると、首を垂らした。

 金糸のような髪に隠れた口元が僅かに動き、彼女にしか聞こえない呟きを漏らす。

 と、その肩が揺れた。


「覗き見なんて、趣味が悪いわよ」


 ぴりっとした声音が木立の間を走り抜ける。

 応(いら)えは低い苦笑だった。


「これは失敬を」


 幹を回るように、声の主が姿を現した。

 背が高く、肩の広い男。

 まず、世間一般の範疇に入る人物ではなさそうだった。目付きの鋭さが尋常ではない。深い皺の刻まれた目尻や、短くも印象的に整えられた口ひげから壮年以上に見えるが、檜の太い根をまたぐ身軽な動きや足音を立てない柔らかな歩き方から、若者のようにも取れる。それになにより衣装だ。垂直に立てられた黒い烏帽子に、翡翠色に銀糸で縫い取りのされた狩衣(かりぎぬ)。内着は清潔そうな純白の小袖で、薄暗がりにも鮮やかだ。

 男は相手の表情を見逃さない距離まで歩み寄ると、古式ゆかしい狩衣に似合う、優雅な仕草で会釈した。


「七社(しちしゃ)殿、お久しう。あまりのお変わり様に、ご当人や否や判じかねておりました」


「久しぶり、大炊少尉(おおいのしょうじょう)殿。貴方は変わらないわね・・・・・ここも」


 女はまず縦に目を動かして男を観察し、次いで首を左右に振って周囲を眺めた。


「いかにも。それが皆の願いにして慰みなれば・・・・」


「そうでしょうね。貴方も元気そうで何よりよ」


「七社殿も。お懐かしい限りに御座ります」


 二人の会話に無駄はなかったが隔意もなく、それが常の姿であると見受けられる。


「して、此度(こたび)は如何な御用にて?」


「うん・・・・・・」


 女は、すぐにも倒壊しそうな祠堂を見上げた。


「変わってない事を確かめに、かしら」


 廃屋と呼ぶのもおこがましいそれは、すでに残骸でしかない。とうに役目を放棄して、今なお風雪に耐えているのが奇跡にすら思える


「吾らは何も手を加えておりませぬ。もはや此れは主なき器に御座ります」


「そうね。・・・・・・・・・・・・・・そうよね」


 言いながらも、女は祠を見ることをやめない。ぽっかりと開いた戸口の奥に、何かが潜むと思っているかのように。

 女の目を追って社を眺めていた男は、ふと思いついたように辺りを見回した。


「時に七社殿。六華(りっか)殿はご同道されなかったので」


「誘ったけど、用があるって。あちらのほうが居心地がいいみたい」


 肩をすくめた女に、男は瞠目した。


「猫は屋形に憑くもの・・・・・この荒み様では狭みされ(軽んじられ)ようとも致し方御座りませぬ」


「そんな気はないでしょうけど、ここじゃ色々あったから。来れば嫌でも思い出してしまうもの」


「左様に御座りますか」


 女が再び首を廻らす。それは今でない、別のいつかに見たものを思い浮かべる仕草のようで。男は首肯し、女と同じ眼差しで深い森を見やった。

 彼らがどんな過去を送り、何を見てきたのか。それを知る者は彼らしかいない。森の木々でさえ、全てを見てきたわけではない。


「吾らには・・・・・悉(ことごと)くが過ぎて去(い)にき事ども」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう、ね」


 肯定するが肯定していない、女の反応はそんな心情を漂わせている。


「七社殿・・・?」


「いえ、何でもないわ。全て終わったことだものね」


 女は、自分の見たもの、話した相手のことを知らせようか迷ったが、心の内にしまうと決めたようだった。

 彼女は確かめに来ただけだ。”彼ら”の平安を乱すために遠い都会から訪れたわけではない。目の前にいる男とて、詰まるところは亡霊に過ぎない。想いの揮発する時を待ちながら、ただここに在り続ける哀れな妄執。


「あの夜」


「は?」


 女は見えもしない麓を見下ろして呟いた。


「人はカミを失い、カミはあの子を失った」


「・・・・・・・・・・・・・・・・」


「貴方の言う通り、確かに過ぎ去った日のことよ。だけど私は忘れない」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・は」



 女は忘れない。



 あの夜に見て聞いて感じた事、その全て。 



 燃え上がる紅蓮の炎を。



 焼け爆ぜる木と肉の臭いを。



 狂気に満ちた喚声を。



 失われた温もりを。



 カミの流した血の涙を。



 ・・・・決して忘れない。





「忘れはしないわ」


 男は立烏帽子を揺らした。両手を胸の前で合わせ、静かに黙祷する。


「悉く遠き日々の事ども、過ぎて去にきものに御座ります」


「・・・・・・ええ、そうね」


 しかし女の心は認めない。肯定するが肯定していない。

 まだ終わっていない。そのはずだと。

 終わっていたなら、どうして彼女が姿を現したのか。

 あの女、アヤトリが−



「・・・結局」



 女は物思いを振り切るように、首を回した。


「たどり着く所は一つなのかもしれないわね」


「此岸(しがん)に生を享けた者みな、その道を往くので御座りましょう」


「・・・・・・ええ」


 そうではない。言いたいことはそれじゃない。

 けれど長く想いすぎ、在り過ぎた男はどうしても自分の終着点へと回帰してしまう。

 もっとも、それは彼女とて同じであるが。

 彼女の思考も常に、自分のスタート地点でありゴールである存在に縛られているのだ。

 女の美しい顔に微笑が浮かぶ。

 感慨と自嘲と諦観の混交がもたらした、笑えない笑い。

 だが男にそんな複雑な感情の揺れを察することはかなわず、意味もわからず女に頷くのみだった。


「お邪魔したわ。森を騒がせて悪かったと皆に伝えて頂戴」


 女はきっぱりと言い切り踵を返した。

 男は細長いを帽子をゆらりと傾け、女の背に低頭する。


「そのようなお心遣い、恐れ多きことに御座ります。吾らは七社殿より救われし身なれば」


 女が立ち止まった。金色の髪を揺らして肩越しに視線を送る。


「ホント、堅苦しい人ね、貴方って。平家の公達(きんだち)って、皆そんな風だったのかしら?」


「さて・・・・」


 男は目を逸らし、廃社に顔を向けた。

 公達・・・・かつては自分もそう呼ばれた者の中にいた。ずいぶん昔のことだ。

 肩を並べ、杯を交わした多くの同胞(はらから)を思う。ある者とは都で上の寵を争い、ある者は吾妻に下って威を奮った。またある者は大輪田で財貨を山と積んだ。

 しかし皆、過去の住人となった。都の殷賑は終わり、覇者の栄耀も失われ、勝者とて疾(と)く去って帰らない。前大臣(さきのおとど)は病に斃れ、亜相(あしょう)も落胆と落馬により世を去った。姫御はカミ上がるも愛児(めづこ)を失った悲摧のあまりお隠れになり、因となった土民の村は森に呑まれて訪(おとな)う者もない。

 なのに敗者だったはずの自分が未だに在り、全ての営みが空しかったと思い知らされ続けている。


「天命、是か非か・・・・か」


 しばらく物思いに耽った男が我にかえった時、女の姿はどこにもなかった。




















   3




 壱ヶ谷の某ファーストフード店。




「唯っち、唯っち」


「んー? あによ、ミオ」


 目にも留まらぬ速さでチーズバーガーを紙に包み込む手が、横合いから小突かれた。ポニーテールを尻尾のように振って傍らを見ると、仲の良い同僚が客席に顎をしゃくる。


「や、アレなんだけどー」


「どうしたの」


 オーダーを捌くだけでいっぱいの彼女は、とても客席を眺める余裕がない。

 同僚のほうは余所見をしながらも、手元は確かな仕事を続けている。キャリアは大して長くないが、呑み込みの良い彼女は、すぐにベテランと馴染んで仕事を楽しめるようになった。

 短く言葉を交わす二人に電子音が降りかかった。

 液晶が瞬き、ニューオーダーを追加する。


「またダブルー?」


「ま、目玉だしねえ」


 呻く唯という少女に、隣の女の子が肩をすくめる。

 数えるのも嫌になるほど続く、ダブルバーガーの追加だ。連休中の値下げが効いているのだろう。さっき店長が集計をチェックして満足そうに頷いてたのを思い出す。


「そんな事より、あの子よ、あの子」


 バンズにレタスとパティを乗せ、ピクルスを散らしスライストマトを並べ−

 文字通り瞬く間にハンバーガーを調製する作業を繰り返しながら、作業台越しに客席を観察する。

 もちろんこの行動にも意味がある。客の混みようでオーダーの入り方が変わるし、引いては彼女たちの作業量(=過酷さ)に直結するのだ。


「誰?」


 唯はエッグバーガーをフロントに流すついでに、同僚が示した方向を一瞥する。

 どの女の子を指したのか、すぐわかった。そのコーナーは禁煙で、ミオが関心を持ちそうな対象が一組のカップルしかいなかったからだ。

 たしかに目立つ少女だった。

 眩いフラッシュイエローのトップに光が染み込むディープグリーンのボトム・・・日本人離れしたコーディネートを鮮やかに決めた少女が、笑顔を対面の少年に向けている。滴るような黒髪は背中に流れ、弾けた色の上着によく映えていた。


「あのロングの子?」


「そそ。あ、キンちゃん、客増えたからパティ多めでーっ」


「うい〜っ」


 雑談しながらも、オーダー処理に手抜かりはない。

 肩越しの呼びかけに応じたのは野太い声だ。短髪のがっしりした青年が、広い鉄板で同時にパティ(ハンバーグ)を何枚も焼いている。彼は一日に何百枚も焼き上げながら、ほとんど焼きミスをしないので、無口ながら皆に信頼されていた。


「で、知り合いなん?」


「んにゃ、違うけどー。や、どっかで見た気がしてー」


 ミオは客席をチラ見しながら、カッティングボードに残ったパンくずをダスター(物拭き)で一掃した。液晶の最上段に上がったオーダーを確かめると、右手と左手が同時に違う作業を開始する。体で覚えた動きが最適の手順で淀みなくレシピを実行する。

 唯は四つのダブルバーガーをフロントに流しながら、目を細めた。


「・・・・・あ-」


 ふと、小さな口を開けて、唯が頷いた。


「唯っち、知ってんの?」


「ん、そこそこ有名じゃん?」


「誰よ」


「三ツ栄(みつえ)の子、神社の。前、テレビに出たよ」


「神社?」


「そそ。三ツ栄神社の、ホラ、大晦日と元旦の踊りが有名じゃん。だから見覚えがあったのよ」


「はーん・・・」


「たしか駅にポスターを貼ってたっしょ。ミオは見た事ない?」


「あるある。そっか・・・・それでかあ」


 納得したように頷く少女。


「でもさー」


 チーズバーガーを流しながら、客席を見やる。

 話題の女の子は、満面に笑みを浮かべて、人のよさそうな少年にチキンバーガーを差し出していた。対する少年は、顔を赤くしてのけぞり気味に背を伸ばしている。「あ〜ん」と言いながら、さらに腕を伸ばして相手の口元にバーガーを寄せる少女。

 恋する少女の遠慮ない振る舞いは、清純可憐な巫女踊りとかけ離れたものに見える。ポスターに写った人物と同一と思えない。


「神社の子が、ねえ・・・・」


 微妙に口調が尖ってるのに気づいて、同僚が意地悪そうに口を綻ばせた。


「まあまあ、唯っち。巫女さんだって女の子じゃん。レンアイの自由はあるよ?」


「そりゃさー・・・・」


「ニューオーダー、入りまーす! ゴメン、ちっとタイヘンかもー?」


「いーっ!?」

「きたーっ」


 フロントから大量注文の合図が届き、二人は口を揃えて悲鳴を上げる。

 そんなファーストフード店の裏側と無関係に、客席では−


「あ、良くん、顔にソースついてる」


「え、マジ? どこ?」


「拭いたげる♪」


「いいよ、自分で取るよ〜」


「だーめ。動かないのっ」


 こしこし。


「・・・・・ありがと」(赤面)


「どういたしまして♪」(ニッコリ)


 その瞬間、調理コーナーで「アタシもカレシ欲しーい!」と叫ぶ声が炸裂したが、二人の世界を作っている恋人たちには、もちろん届かなかった。








(終わり)











(後書き)


 はい、おしまい。


 最初はギャグのつもりで書き始めたんですが、山のシーンがどうしても噛み合わず、バッサリ切ってしまいました。

 話そのものに特に意味はありません。第一回で振ったネタをようやく回収できたくらいでしょうか(^^;

 あ、二年前のチャットに登場した謎キャラの名前も、一度だけ出てきますね。


 まあ、”すぅいーてぃー”は基本コメディなので、あまり気にしない方向で。



 では皆様、ご一読ありがとうございました。


08/05/14 神有屋 拝



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