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 夢を見ている。



 高く



 深く



 果てしない、



 緑色の−



 夢を。











 夢の世界には



 私にないものが



 得られなかったものが



 存在すら知らなかったものが・・・・










 けれど



 呼んでも



 手を伸ばしても



 追いかけても



 決して届かない・・・・










 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。



 私は見ている。



 夢を見ている。



 希望と羨望と渇望をこめて。



 緑色の



 夢を。








Pounding ★ Sweetie 番外篇

緑の記憶
















 ギィ・・・・


「帰ったよ」


「おかえりなさいまし。プロフェッサー・メンシャン」


 パタン。


「ただいま、メアリー。アリスはどうした?」


「ミセス・メンシャンはキッチンにおられます。ただいま火加減の大事なところと」


「そうか」


「プロフェッサー、お荷物をお預かりします」


「いや、これは大事なものだ。自分で持って行く」


「わかりました。御夕食はすぐに?」


「講義で喉を嗄らしたからな。腹ペコだ」


「かしこまりました。支度が整い次第、お知らせいたします」


「頼む。私は書斎に居る」


「はい、プロフェッサー」


 コツコツコツ・・・・



 こほっ。



「・・・・・・・・気付かれたか? あの子は勘が鋭いからな」















 カチャリ。


「ごちそうさま。美味しかった、アリス、そしてメアリー」


「ありがとうございます、貴方」


「私はミセス・メンシャンのお手際を拝見していただけです」


「この料理は気に入った。また作ってくれ」


「ええ、喜んで」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」(ぺこり)


 こほっ。


「メアリー。こっちに来なさい」


「はい、プロフェッサー」


 こつこつこつ。


「君がこの家に来て、今年で十年になった」


「はい」


「裕福でもない我が家で、安い給金にもかかわらず尽くしてくれる君には、本当に感謝している」


「そうね。いつもありがとう、メアリー」


「いえ、私はそんな・・・・・」


 がさごそ。


「これは君の十年間の働きに対する特別給付だ。受け取りたまえ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これは」


「今はただの布地だが、もちろん染色と仕立も私たちで負担する」


「まあ貴方、これは素晴らしいシルク!」


「ドレスを作って、生地が余ったら揃いのハンカチーフを作るといい。

 まあ、ハンカチの加工賃は出せないが」


「あら、貴方ったらケチね」


「そう言うな、アリス」


「プロフェッサー・・・・・・・」


「なんだね」


「ありがとう・・・・ございます・・・・・・・・・本当に・・・・・」


「これは労働の正当な代価だ。胸を張って受け取りなさい」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい」


 ぺこり。


 こほっ。


「明日にでも家内とピグウィッツの店に行くといい。アリス、任せる」


「よろしくてよ。あそこなら流行を外さず、流行に流されないドレスにしてくれるでしょう」


 こほっこほっ。


「おや、メアリーは風邪気味のようだな。今日はもう下がりなさい」


「そうね。後は私が片付けるから」

「いえ、それは・・・・」


「雇い主の命令だ、メアリー。そのシルクは持っていていい。明日からまた元気に働いてくれ」


「おやすみなさい、メアリー」


「・・・・・かしこまりました。お先に失礼します、プロフェッサー&ミセス・メンシャン」


 こつこつこつ・・・・


 こほっ。



 こほこほっ



















「・・・・・・ジャック」


「なんだ、アリス。怖い顔をするな」


「あの生地・・・いったい、お幾らだったんですか。私の知る限り最高のシルクですよ」


「それが実は−」


 ひそひそ・・・


「ええっ。そんな値段で!」


「うむ。キエットの話だと、元は東洋のどこかで織られたそうだが、訳ありらしい。

 我が国の製品と規格が違うし、卸(おろし)でも扱いに困っていた」


「あらあら、そんな物をあの子に」


「お前もあれを手に取っただろう。あの手触り、光沢、軽さ、やわらかさ。

 どんないわくがあろうと、最上級の品であることにかわりはない」


「それはそうですけど・・・・」


「私の稼ぎで買えるシルクがあれしかなかったのも、事実だがな」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「それに・・・・・一生に一度くらい、あの子だってドレスを着てもよいだろう」


 がたん。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「貴方」


「何だ」


「ブライトン先生とお会いになったのですか」


「うん」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「昼に、ドクターから話を聞いた」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか」


「あの子には・・・・・・?」


「いえ・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


「あんなにいい子が・・・・・な」


「神様・・・・・・・・・・・・・・・・・」


















 私は夢を見る。


 それはきっと良い夢。


 ・・・・・・・・・・・・。


 スノードンの辺地から、親に売られてこの街に来た。

 ボロをまとい、垢だらけだった私。

 そんな私を、メンシャン教授と奥様は、不満も見せずに迎え入れてくださった。

 教授は英語を知らなかった私に、ABCから教えてくださった。

 奥様はマナーを知らなかった私を、どこへ出ても恥ずかしくないように躾けてくださった。

 たしかにお給金は少なかったけど。

 他の女の子みたいに買い物を楽しむことはなかったけど。

 この家は街の喧騒と怒号と嬌声から切り離されていたから。

 静謐が染み付いていたから。

 私はここに居た。


 私の知る限り、この街で最高の贅沢は、静寂だったから。












 私は夢を見る。


 胸の奥に少しの違和感を抱えつつ。


 夢を−




 こほっ。








 









"Kono ittan wo torisi mono-"




 夢。


 高く


 深く


 果てしない−


 緑色の。




"Kano monono omoi wo-"




 すらりとした女性がいる。


 真っ白な顔。


 吊り上がった細い目。


 紅い唇。


 長い黒髪。


 見たこともないドレス。


 ゆらゆらと、揺らめいて−



 

"Kono ittan wo torisi mono,Kano mono no omoi wo-"




 耳慣れない言葉。


 私の言葉でも、英語でもフランス語でもない。


 さっぱり意味がわからない・・・・・・





 彼女は悪魔?


 それとも天使?


 でも、悪魔にしては神々しすぎる。


 天使にしては、表情が哀しすぎる。




"Kano mono no omoi wo uku besi."




 女性を見る。


 女性が見る。


 視線が交わる。




"Waga omoi wo ukesi mono"




 真っ赤な唇に吸い込まれる・・・・


 私は・・・・


 溶けて・・・・


 ・・・・・・・・・




"Waga negai Waga inori ni-"






 そうして私は−







 夢の中で夢を見た。





















 そこに三人の男女がいた。


 深い、ほとんど黒々しいまでの緑。


 翠の世界。


 大地は苔むす緑に覆われ、


 頭上はエメラルドグリーンの天蓋に包まれる。


 立ち並ぶ巨木。


 どこまでも森々として、


 木漏れ日の差さないほど濃密な、


 緑。 


 彼らはそこにいた。








 見慣れぬ顔。


 異国の服。


 聞いたこともない言葉。


 わからないのに、私はわかった。


 一人は愛情と激情を兼ね備え、


 一人は全てを受け入れ、


 一人は活力に満ちている。


 彼らは強い絆で結ばれていた。





 彼らはここに居て居ない私の前で、


 笑い、泣き、怒り、悲しむ。


 豊かな感情。


 それは私に必要のなかったもの。


 だって、笑いは静けさを乱す。


 泣き声は平穏を乱す。


 怒りは穏やかさをかき消す。


 悲しみは心を暗くする。


 それらは全て、老夫婦の穏やかな暮らしを乱す邪魔物。


 だから私には必要ない。


 必要なかった。


 それなのに、


 なぜか、


 私は心惹かれた。









 彼らは私にないものを持ち、


 想像もしえなかった日々を過ごす。


 そこにあるのは平和でも静寂でもなく−


 むしろ痛みと困苦にひしがれる毎日。


 何かを失い、何かを奪われ、得るものは少ない。


 絶望が希望を喰らい尽くす生。


 痛み。


 困苦。


 絶望。


 それは私の記憶にないこと。


 ・・・・・・・親に売れられた痛みなど、とうに忘れた。


 プロフェッサーとミセスの暮らしを助けるのは、困苦などではない。


 私の人生に失うものなどなく、奪われる物もない。


 どんな希望も持たないから、絶望に打ちのめされることもない。


 私は乳白色の霧のように、たゆたう平穏の中にいる。


 だけど私は、


 どうしようもなく


 心惹かれる。


 彼らの熱さに。








 三人は惜しげもなくさらけ出す。


 心からの喜びを。


 胸かきむしるような苦しみを。


 震えるほどの感激を。


 血の沸き返る憤怒を。


 そして、


 魂の慟哭を−








 私は夢を見ている。


 高く


 深く


 果てしない、


 緑色の夢。


 そこには


 私にないものが


 得られなかったものが


 存在すら知らなかったものが・・・・









 











 ざわざわ・・・・・


(肺病だって?)


(あの年頃の娘には多いからな)


(それにしても、あのメンシャン教授が養女ねえ・・・)


(元はハウスキーパーだろ?)


(臨終の床で養子縁組したと聞いたがね)


(そりゃあ感動的なお話じゃないか)


(あの爺さん、ただの学問狂いじゃなかったんだ?)


(しっ、声が高い)


(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)











「主よ。貴方の御許に我らの娘を送ります」


「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」


(土は土に−)


「メアリー・メンシャンは汚れを知らぬ清い心で、我ら夫婦の日々に、幸せと安らぎと平穏を添えるべく心を傾けてくれました」


「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」


(灰は灰に−)


「全知全能の主よ。どうか我らの娘のため、天の門を開かれんことを・・・・」


(塵は塵に−)


「アーメン」


「「「「アーメン」」」」


 ざわざわ・・・・


「安らかな御貌(かお)でしたね・・・・」


「・・・・・・・・はい」


「エメラルドグリーンのドレスが本当にお似合いで・・・・・どんなにか魅力的なお嬢様であったことでしょう」


「自慢の・・・・娘です・・・・・」


「心からお悔やみを申し上げます」


「ありがとう・・・・・・」


「どうか、気を落とさずに。プロフェッサー・メンシャン」


「・・・・・・・・・・ありがとう」





















 夢を見ている。


 高く


 深く


 果てしない、


 緑色の夢−







 そこには


 私にないものが


 得られなかったものが


 存在すら知らなかったものが・・・・









 私は見ている。


 心からの喜びを。


 胸かきむしる苦しみを。


 地に伏すほどの悲しみを。


 魂の慟哭を。


 そして、


 決して消えぬ希望のともし火を。











 夢を見ている。


 緑色の夢を。


 いつ終わるとも知れない眠りの中で−


 見ている。








 私は














”此の一反を取りし者、


彼の者の想いを受くべし。”



”我が思いを受けし者、


我が願い、我が祈りに寄り付くべし”












『緑の記憶』

おわり







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