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生き残るもの

1 生命の基本原則と優位者の法則

2 多数派と少数派

3 生き残るもの




1 生命の基本原則と優位者の法則


 生命には、無数の有り方が存在する。

 地球表面のあらゆる環境に分布し、地下数十メートルにいたるまで浸透した地球最多種、最多数の勢力、単細胞生物。
 微弱な光エネルギーを旺盛な生命力に変換する事に成功し、生命の驚くべき適応能力を見せ付ける、植物。
 遅れて生まれ出で、後追いの有利さと機動性を最大限に生かして成功した、動物。

 もとより生命に高等下等の区別はなく("高等とか下等とか言わないこと" C.Darwin)、構造の、比較的単純な生命か、比較的複雑な生命が存在するだけである。我々人類は地球上において「最も成功した」生命体ではない(それは単細胞生物だ)し、況や「最も偉大な」生物種でも「最も残酷な」生物種でもない。適切な表現ではないが、「最も影響力の大きい」生物種、という辺りだろうか。
 それはともかく筆者には、生命の存在のあり方に基本原則とも呼ぶべき性質と―多くの例外を含むが―優位者に共通の法則らしきものがあるように思う。


 一、生命は大を成さんとする。

 生物種は、その種の中で集団の大を目指すと同時に、生物種そのものの勢力も大きくしようとする。あらゆる生物種とその集団が勢力の拡大を目指す結果、地球の全生命体は恒常的に葛藤状態に置かれている。

"生きることは戦うことである" L.A.Seneca

 「自然の摂理は大いなる調和である」などと言うのは、理に走って現実を見ない妄言に過ぎぬ。ありのまま自然が見せるのは「調和」ではなく、際限のないバトルロイヤルによって「調節」されている一時的な状態なのである。


 二、生き残るためなら何でもあり

 あらゆる生命体が恒常的な葛藤の下にあるため、常に敗者が生み出される。力関係は冷徹だが、やり方次第で敗者復活の余地も大いにある。
 例えば、生命が誕生して間もない頃の話だが、環境の変化に対応できなかったある微生物は、より複雑な生物種の細胞内に入り込み、重要な役割を請け負うことで存続に成功したらしい(ミトコンドリア)。
 また、飛行能力に劣る鳥類の一部は、生きるに過酷ではあっても外敵の少ない地域に住み、その環境に適応することによって生き残った(例えばペンギン)。
 魚類の中で、特に生存能力に乏しいある種の魚は、子孫のほとんどが抹殺されることを前提に信じがたい数の卵を産む(マンボウ)。
 「勢力拡大の余地が水流の中にしかない」という状況に追い詰められた、ある国の陸上植物が採ったのは、魚のエラと同様の機能を獲得して川中に森林を生成する方法だった!


 三、完全勝利はない。

 完全勝利とは、ある単一の生物種が、他の生物種を圧倒する勢力を持つという意味である。歴史上、そのような事態は何度か起こった。しかし何れの場合も永続的な勢力の保持ができず、あるいは衰え、あるいは滅んで現在に至っている。
 例は挙げるまでもないと思うが、代表的なものを少しだけ載せておこう。
 高熱高圧強酸性という、我々にとっては地獄そのものの海で生まれた地球最初の単細胞生物は、敵を持たなかったため瞬く間に海に満ちた。しかし環境の激変に耐え切れず、後続の生命体に道を譲らざるをえなかったらしい。
 また、不毛の空間だった陸地に乗り込んでいった原始的な植物は、土中の成分を取り込んで組織を巨大化させ、海中よりも多くの光エネルギーを獲得することに成功した。地表において植物がどれほど成功していたかは、我々の生活に不可欠の化石燃料がすべて彼らの死骸であることからわかる。だが植物種の極端に乏しい移動能力が、動物種の上陸によって、主役から「餌」へ転落する事を決定した。
 前述の莫大な植物資源を前提として発達した巨大草食恐竜は、同じく巨大な肉食恐竜を養い得るほどに増殖し、地表の温暖な地域を制覇した。だが気候と植生の変化が生存の前提条件を破壊し、滅亡への道を辿る。肉食恐竜もその跡を追って消えた。

 筆者が考えるところの「生命の基本原則(らしきもの)」は以上三つである。

 次は「優位者の法則」を見てみよう。


 四、より強いものがより多くを獲る。

 ある生命が生存している環境において、それが使用し得る資源は限られる。水資源、鉱物資源、土地の広さ、光量、栄養源などはすべて有限であり、かつそれらの資源の周囲に多くの競争者がいる。資源の配分は各生命体の知恵と力の差によって差別的に行われる。

 自然環境に「平等」の概念は無意味である。

 「ある種の動物は餌を分け合うし、森林では植生の住み分けが行われているじゃないか」と思われるかもしれない。残念ながら自然界における平和共存の現象は、人間の主観が見せる幻影である(そして筆者の自説も幻影に属する)。
 動物が餌を分け合うのは、生物種の存続に必要だからだ。親鳥は繰り返し繰り返し雛に餌を運ぶ。なるほど、それは感動的な光景ではある。しかし雛が育たなければその鳥類は死に絶えてしまうだろう。だから親鳥は自分の取り分を削って雛に与えるのだ。
 森では植物の間できちんと住み分けがされているように見える。高い場所を樹木の枝葉が占有し、日陰になった地面を陰生草本(シダなど)と地衣類が覆っている。樹木の落葉と根が水分を保持し、地表の植物が表土の飛散を防ぐ。かくして森林を荒廃から守っている。もちろんそれらの役割分担も、主観的な印象以上のものではない。樹木が高層を覆っているのは、かつて横に並んでいた低木、陽生草本を押しのけて日照を確保し、ライバルを枯れさせたからだ。陰生草本、地衣類が森の地表を覆っているのは、それらが平原部における生存競争に敗北したからで、樹木の根元にあって「お余り」で我慢する他なかったのである。


 五、生き残りの要は我慢強さ。

 生命体の存続には、生への強烈な執念が不可欠である事が多い。発情期における、雄が雌に繰り返す求愛行動など、その典型だろう。何匹の雌から何度けんつくを食わされても、雄は何十回でも求愛行動を繰り返す。中には雌という雌から振られまくり、それでも孤独に求愛行動を繰り返す雄もいて、我々の涙を誘う。
 植物とて忍耐力では劣るものではない。移動能力に乏しい植物は、種の存続のために様々な遺伝子の散布手段を編み出した。花粉や種子、胞子を飛ばす(風媒)、蜜を土産に花粉を運ばせる(虫媒、鳥媒)、果実を餌に種子を運ばせる、種子の形状を工夫して動物の羽毛に密着させる、などだ。ほとんど百年河清を待つに等しいこれらの繁殖行為は、膨大な犠牲―はっきり言うと「無駄」の上に成り立っている。生は、数えきれない「無駄(死)」の中から掬い上げられた奇跡的な僥倖なのである。

 生命のしつこさを、別の観点から見てみよう。
 北米の山岳地帯では、定期的に山火事が自然発生する。人類史以前から繰り返される迷惑な山火事に対し、カナダのある種の常緑樹が出した結論は、山火事を必要条件とした繁殖行動だった。木は毎年毎年種子を地面に落とし続ける。ある年に山火事が起こると、成長した樹木はすべて燃えてしまう。かくして山は丸坊主になってしまうのだが、黒焦げになった地面ではすでに種子が発芽しているのである。高熱を感知する事が種子の発芽条件にされているためで、3、40年もすれば山は元通りというわけ。もちろん山火事は何度も襲い掛かってくるが、木々は毎年毎年何百万個もの種子を落とし続けるので、種子の数パーセントでも燃え残ってくれれば、種の存続にはまったく問題ないのだ。


 六、独占は許されない。

 これはとても単純なことだ。ある環境において資源を独り占めした生命は、その行為ゆえに命脈を断たれてしまう。例として先ほど挙げた森林を見てみよう。ただし、以下は仮説にすぎず、実証済みではない事をおことわりしておく。
 さて、極相に達した森林があるとする。森を構成する木々が、すべての日光と水分と土中成分を独占したらどうなるだろう。まず地表を覆う地衣類は存在を許されず、根と落葉だけが地面を守ることになる。湿潤期ならそれらだけでも地表を守れようが、乾燥期に入れば話は別だ。風によって表土が飛散し、根が剥き出しになる。樹木は不安定となり、栄養素の摂取量も減少する。活力の低下した木は強風、地震などの天災、病虫害に対して脆弱になる。保水力を失った森林では山崩れが発生しやすくなり、森林の荒廃を加速させる(中国で土石流―山洪・シャンフォンと云う―が多いのは表土が薄く、樹木が根を十分に張れないからだ)。荒廃した森林は陽生草本の侵入を許し、草本の活発な代謝によって乏しい栄養素を根こそぎ横取りされてしまう。かくして極相林は消滅する。
 重苦しい事を書いてしまったが、理解するのは難くないと思う。植物でなく動物で考えればもっと簡単だ。餌を獲り尽した動物は飢え死にするしかないからである。


 以上で基本原則と優位者の法則は並べ終えた。改めて列挙してみよう。

 一、生命は大を成さんとする。

 二、生き残るためなら何でもあり。

 三、完全勝利はない。

 四、より強いものがより多くを獲る。

 五、生き残りの要は我慢強さ。

 六、独占は許されない。


 言うまでもないが、これらはあくまで筆者の主観である。同意される方は少なかろう(基本原則の存在すら認められないかもしれない)。そこで断っておくが、筆者は自分の主観を押し付けるつもりなど毛頭ない。ただ、これ以降の記述は原則と法則に従って話を進めるので、思考の土台を提示しておく必要があった。

 次回は多数派と少数派の関係について考えてみる。


生命の基本原則と優位者の法則  終わり

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2 多数派と少数派

 今回から人類だけを対象に絞って話を進める。生命体全てを対象にしていたら、いつまでも終わらないからだ。

 さて、二回目の論題は「多数派と少数派」。大雑把にだが、多数派と少数派の利点と欠点について考えてみよう。

 だが始める前に、心に留めておくべき要件がある。


 多数派(Majority)といい、少数派(Minority)という。「世論」とか「大多数」、「一部」、「少数意見」などと言い換えることもある。要は比較優位か比較劣位か、という事であるが、この単語は、その使われ方の容易さに反比例して極めて微妙な表現である。何が微妙かというと、発言者によって「比較」の基準が千差万別であり、時としてあからさまな偏見に基づいて比較されるからだ。

「多数派」と「少数派」は政治的表現である。

 この単語が用いられた時、そこには必ず(意識的にか無意識的にか)論者が論理誘導しようとする意図が見える(これは筆者も例外ではない)。読む側は意見を拝聴する前に、まず、論者にとっての比較基準がどこにあるかを推測せねばならない。愚にもつかない比較基準を採用しているとわかれば、その先は読むまでもない。時間の節約になるというものだ。

 「多数派」と「少数派」が、論者の主観に基づく恣意的な表現である事を理解していただいた上で、次に進むとしよう。


 一、なぜ多数派と少数派が発生するのか

 生存する事は、常に他者との葛藤を続けるということである。人間、あるいは人間集団が先天的に拡大を欲する以上、これは避けられない。そして葛藤には必ず結果があり、勝者と敗者が生まれる。葛藤の目的が生存圏が何か特定のものかはともかく、勝者がより多くを獲り、敗者はオコボレを漁るしかない。より多くを得た者がより強大になり、敗れた者はますます惨めになる。

 当然のことだが上記は一般論であって、現実はそれほど簡単に済まない。人間にとって葛藤は一回限りではないからだ。他者との葛藤は生命が生れ落ちた瞬間から開始され、死に至るまで続く。この様子を見ているとセネカの言うとおり、葛藤こそが生命の本分とすら思える。人間(集団)はその生の間に何度も戦い、時に勝者となり、時には敗者になる。繰り返される葛藤の中、やがて誰の目にも力量の差が明らかになる時が来る。

 こうして多数派(勝者)と少数派(敗者)が生まれる。

 多数派と少数派は生まれたが、これはあくまで比較計算上の問題であり、不変のものではない。変転する状況の下で、日に陰に葛藤は繰り返され、時には優劣が逆転する。奢る平家は久しからず。葛藤は死ぬまで続くのである。


 人類という生命種は、幾つもの階層(人種、国籍、団体、家族など)に分けられながら、ほとんど個人に至るまでその所属する集団を細分化できる。人間はその階層ごとに役割をあてがわれ、常に複数の役割を同時進行的に演じている。これは他の生命種に見られない、おそらく人類特有の性質だろう。
 この特殊な生存環境により、人はほとんど常に多数派でありながら少数派でもある。そしてこの環境によって、人間は他者の状態を類推する事ができる。類推能力は葛藤の際の武器となるが、同時に、自制のための安全装置としても働く。一般的にこの類推能力を「思いやり」という。「思いやり」機能によって、人間社会の葛藤は極大化することなく、一定の枠に収まって進められている。この枠が外れた状況が「喧嘩」であり、「戦争」である。

 身近な例を挙げよう。
 盛り場に、誰彼構わず絡みつく酔っ払いが居たとする。絡まれた人に「思いやり」があれば、「ああ、この人も日ごろ苦労してるんだなぁ」と相手の生活環境を類推して、多少の迷惑は苦笑いして許容するだろう。しかし「思いやり」機能を持たない者は相手の生活について類推することができず、両者の葛藤は避けられない。
 こうして、日々あちこちでストリートファイトが展開されている。


 要点をまとめよう。

A.生命の基本原則により、人間(集団)は拡大を欲する。

B.葛藤によって多数派と少数派に分かれる。

C.優劣は一時的なものである。


 二、多数派の利点と弱点

 多数派である事の最大の利点は、自己の存続に有利であるのみならず、後に続く者達にも有利なように思われる事である。この錯覚は、多数派に所属する者に心の平安と将来への希望を与えてくれる。人間の行動は精神に強く影響されるため、強靭な精神的土台を備える人間は、安定した能力を発揮できる。また多数派である事はじっさい、生存競争の上でも有利である。協同者が多ければ多いほど、集団は大きな力を発揮できる。

 そして多数派の弱点は、上記の利点を裏返したものになる。

 所属する集団が大きいならば、集団の維持に要するエネルギーも多くなるのは当然である。これは、大家族なら大量の食物を必要とし、大企業なら多額の収益を必要とする、という事だ。予期していたエネルギーが入手できなかった場合、集団は割り当てを巡り集団内部での葛藤を強いられる。それによって多数派は力を失い、時には分裂してしまう。

 もう一つ。多数派は精神的な安定を力の源としている。そのため安定が揺らぐことに強い拒否感を覚える。環境の変化を拒むというこの性質は、抗えないほどの変化に対して脆弱である事を意味する。


 ここまでの要点をまとめよう。

D.多数派の利点は精神的な安定感と物理的な強力さ。

E.多数派は欠乏と変化に弱い。


 三、少数派の利点と弱点

 いきなりだが、少数派である事に利点などあるのだろうか。

 そもそも彼らは何らかの理由で敗北したがゆえに少数派とされたのであり、本来的に弱い存在であるのだ。「生命は完全勝利を許さない」という、いわばお情けによって存続している集団に、どんな利点があるのか。

 その第一は敗北の経験そのものである。かつてある者が、「戦争からより多くを学ぶのは、勝者ではなくむしろ敗者である」と言った。筆者もまことその通りであると思う。敗北は衝撃と絶望を伴うが、それは同時に強い緊張感を生む。一人の人間ならいざ知らず、集団は同じ失敗をそうそう繰り返さないものである。敗北の経験が集団全体を用心深くさせるからだ。比較劣位にある者たちにとっては、この緊張感と用心深さが存続のために欠かせない。

 第二に、少数派は必要エネルギー量が多くない事も利点である。構成員が少なく必要エネルギーが少なければ、環境の変化に対応しやすい。たとえエネルギーが不足しても、敗者ゆえに不足には慣れされているので多数派より柔軟性に富む。

 では少数派の弱点は?

 それはもちろん、少数である事そのものだ。どんなに強い意思を持っていても、小回りの効く集団であっても、限界を超えた衝撃には抵抗しようがない。多数派が余裕で凌げるような変化でも、少数派では耐えられない事が多い。

 利点と弱点を混同されないように、簡単な例え話をしておこう。
 駝鳥の卵は鶏より固く大きい。しかしどんな卵でも、高い所から落とせば割れるのである。

 実も蓋もない話だが、少数派は多数派と比較してどうしようもなく弱いから少数派なのであって、どんな利点を持とうと弱い者は弱いのである。


 要点をまとめよう。

F.少数派の利点は不断の緊張感と柔軟性。

G.少数派の弱点は物理的な脆弱さ。


 四、まとめ

 あらためて今回のポイントを列記してみよう。


A.生命の基本原則により、人間(集団)は拡大を欲する。

B.葛藤によって多数派と少数派に分かれる。

C.優劣は一時的なものである。

D.多数派の利点は精神的な安定感と物理的な強力さ。

E.多数派は欠乏と変化に弱い。

F.少数派の利点は不断の緊張感と柔軟性。

G.少数派の弱点は物理的な脆弱さ。


 どれも単純に見えるが、基本は常に簡潔明瞭なものだ。そして簡潔だからこそ、現実に対応させるのも容易なのである。

 最終回では、一回目と二回目で挙げた原則と基本の応用について述べる。


多数派と少数派 終わり


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3 生き残るもの

 第一回と第二回では、生きるもの(達)の基本と特徴を明らかにした。今回は、生き残るための具体的な方法論を考える。

 論考を進める前に、「生き残る」という概念を明瞭なものにしておきたい。

 そもそも生きることは「戦う」ことである。地球が有限であり、生存の余地が限られている以上、これに議論の余地はない。したがって、「生き残る」という事は第一に「戦って死なない(滅びない)こと」であり、欲を言えば「戦って勝つこと」となる。生きてさえいれば、敗者復活の機会は必ずある。もちろん敗者(少数派)より勝者(多数派)のほうが生存に有利なことは言うまでもなく、勝者(多数派)である事がより望ましい。

 「生き残るもの」とは、死ぬことなく戦い続け、常に勝利を求めるものである。


生き残る条件 一、「戦いをやめない」

 これは生命存続の大前提だ。

 戦いに倦み、生に飽いたものに生き続ける価値も権利もない。万人平等の信念や平和主義は、聞いて耳に心地よく話して気分の良いものだが、一時の方便でしかない。方便でなくてはならない。建前を盲信して戦うことを放棄するものは、「生きることは戦うことである」という厳しい現実に必ず打ちのめされる。これは嫌味でも説教でもなく事実である。

・楚覇は漢高と和約を結んだが、それを信じた愚かさの故に五体を雑兵に千切り取られた。

・ペルシアの叛王子に加担した傭兵隊長クレアルコスは、信義を頼りに敵陣に赴き、首を刎ねられた。

・ボルジア家との和議のため会場に集まったローマ貴族たちは、一網打尽に捕縛され、何人かはその夜のうちに縊り殺されてしまった。

・終わりの見えない政争、戦争に疲れ果てた三好長慶は、有能なる奸臣松永に仕事を任せて政務をおざなりにし、家門を滅ぼした。

・徳川家康との和議による居城縮小を受け入れた豊臣家の、悲惨な末路は言うまでもない。

・ヒトラーとの戦争回避に尽力したチェンバレンは、和平努力の結果として諸国の信用を失い、さらに第二次大戦の開始によって全てを失った。

 思い違いをされないように書いておくが、拳をかためて殴りあうだけが「戦い」ではない。舌戦、頭脳戦、経済戦、電脳戦等様々な手段がある。また相手の戦い方に合わせないのも立派な戦法である(これを角界では「自分の相撲をとる」と云う)。

 笑われようが侮蔑されようが、どんな惨めな状態に落ちぶれようが、戦い続ける限り再起の可能性はある。逆にどれほど高い地位にいようと、どんなに多くの資産に囲まれていようと、戦いをやめたものは死人と同じ。いずれ何もかも失う時が来る。


生き残る条件 二、「勝敗に関係なく、決して死なない(滅びない)」

 勝敗は兵家の常だ。百戦百勝はありえない。時に勝ちを誇り、時に敗北を喫する、それが人の世である。だからこそ「戦いをやめない」事が重要なのだが、同時に留意せねばならないことがある。

 どんな不利な状況になろうと、絶対に死んではならない。死は救いではなく、敗北でもない。「無」だ。余人が称えようが嘆こうが、死者には何にもならない。生き残りたいものは、どんな手段をとっても生を守らねばならないのだ。

 「どんな手段をとっても」と書いた。読者は考えるかもしれない。では仮に、それが違法行為であったら? 社会倫理に反する行為だったら? 正義に反する悪行だったら? それは許されることなのか、と。

 ことは許す許さないの問題ではないのである。

 「生き残るもの」にとって最大の善は何か。当然それは生き残ることだ。そして最大悪は、死ぬことであろう。世間の一般常識や順法精神は、守る価値のある善きものだ。しかし「生き残る」という最大善より優先されるべきではない。

実際、人間の行為は悪くても結果さえ善ければいい(N.Machiavelli)

 「生き残るもの」は時として、様々な理由で非難される。それは価値基準が異なっているが故の事象であって、反省する義務はないし、反論する必要もない。
 例えば、菜食主義者は雑食人種を非難する。しかし野菜に口と知性があれば、菜食主義者とて非難を免れないだろう。例えば、先進諸国民は開発途上国の人々を不衛生だと非難する。しかし先進諸国民でも毎日風呂に入るわけではないし、または大衆浴場に入るし、殺菌しない魚肉や獣肉を生食し、腐敗した食品を好んで口にするのである。
 「生き残るもの」の最重要事は「生き残ること」のみであり、神への信仰でも法律の遵守でも一日一善でもない。

 手段に目を眩めて、目的を見失ってはならないのだ。


生き残る条件 三、「可能な限り勝利する」

 生き残ることは大変な難事である。しかし勝利は生き残ることを容易にしてくれる。よって、生き残りの可能性を最大限に高めるため、「生き残るもの」は勝たねばならない。

 先にも触れたが、「勝つ」とはもちろん、物理的に対敵を打倒することのみではない。また明白な勝利を得られることも少ない。自分の気付かないうちに勝っていた(負けていた)という事のほうが、多いかもしれない。そのような不明瞭な勝敗を分けるのは平時の優勢劣勢であり、また日頃からの備えである。これは、優位者(多数派)はその地位だけですでに有利であるが、劣位者(少数派)も準備を怠らないことで勝利獲得が可能という意味だ。当然、優位者も勝負に備えることができるが、優位者の特典である精神の安定は、「油断」と表裏の関係にあり、机上の想像のように上手くはいかない。

 「生き残るもの」の立場が優劣のどちらであるにしろ、自己の置かれた立場と利点欠陥をよく理解せねばならない。そして前段で述べたように「どんな手段をとっても」勝利をつかみ取ることだ。

 繰り返すが百戦百勝などあり得ない。しかし勝利に奢らず敗北から素直に学べば、そうそう惨敗するような不始末はしでかさないだろう。


四、まとめ 「生き残るもの」

 今回述べたことをまとめよう。


・「生き残るもの」の最高善は「生き残る」ことのみ。

・泥をすすり岩に囓り付いても生き延びよ。

・使えるものは躊躇せず何でも使え。

・できれば勝利せよ。


 一般的な社会倫理と合致する項目が一つもない。

 しかしそれは当然だろう。社会倫理は「良く生きる」方法を強制するものであって、しかも何が「良い」のかを伝統と共同体が決定している。それは共同体にとって都合の良い論理にすぎないのだから。

 また、ここに述べてきた「生き残るもの」の姿は、どう見ても格好良いものではない。けれども生命とは本来、ドロドロに汚くて湿っぽく惨めったらしくベタベタした粘着質の存在である。そして戦いは生命の本質に由来する行為であり、事物の本質を理解するものだけが戦いで勝利し得る。姿や方法に拘泥するものは、勝利からも生からも遠ざかるのだ。

 理想を掲げるのは結構なことだし、清く正しい道を選ぶのも自由である。ただし、そのような者達が生を全うすることの困難さは、歴史が証明している。

 「生き残るもの」に理想は無用、倫理に基づく判断も不要。

 ただ「生き残る」ことに専心し、知力を尽くせばそれが最高の善行なのである。


 余の意志を変え得るものは何もない。余はただ、必要であり、名誉に満ちていると信ずる道を、ひたすら墓に向かって突き進むのみである(Friedrich der Groβe)



「生き残るもの」

終わり



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