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 年代記に云う。



 スムナ・ホジャン王の治世二十六年目。


 白銀の勇者が闇の魔王と対決するも、相討ちとなる。


 王は亡き勇者の武勲を称え、城の南門をシャンスーム(白銀)門と改名した、と。


















『CRURA SERPENTIS −へびのあし−』より


”口の輪”














 古人は神学の都と呼んだ。

 カルス・シャン。人口約9000。

 都市の建設は古代まで遡る。それはマクシュード神殿の建立を契機とし、門前町として発達した。

 そしてマクシュードは知恵を司り、文字を発明したとされる神だ。

 歴史の始め、学問を修めるとはマクシュード神に仕えることだった。だから学者=マクシュード神官であり・・・・学問が万民のものとなった今も、大学教授はコンバ・マイタ(マクシュードに良く仕える者)と呼ばれる。

 カルス・シャンはマクシュード神の都であり、学問の都だ。

 かつて住民は80000を数えた。しかし魔王軍の襲来により多くの住民が殺され、あるいは逃亡し、500を超える大学、中等学院、寺子屋が破壊された。

 暗黒時代は終わったが、いまなお街のあちこちに戦火の跡が残る。大通りが参詣者で混雑し、広場のあちこちで学徒が論戦した、あの頃の賑わいは遠い。それでも平和の到来によって復興が始まり、人々は戻りつつある。











「ホントなんですよ〜」


 しかめっ面の門番は無言で相手を見下ろす。

 肩からずれ落ちかけた布袋を掛けなおし、少年はこぼした。


「参ったなぁ」


 時は夕刻。

 所はマクシュード大神殿から、やや離れた一画。

 広い宅地が立ち並ぶ、いわゆる高級住宅街だ。門の上に仰々しい紋章があるのは、貴族の証(あかし)

 壁の所々が焼けたり門に刀傷が見えるものの、鉄柵の奥に見える真新しい邸宅から、所有者の地位が窺える。門番は髪に白いものが混じるものの、立ち姿は堂々として、お仕着せの服も立派なものだ。

 門番の前に、少年が一人。しきりに困った素振りを示している。

 子供と呼んでよい歳だった。

 顔つきの幼さと比べて、肩幅が広くごつごつした拳が目を引く。肉体労働をして育った証拠だ。体格の分を差し引いて、実年齢は10に届くか届かないかという辺り。瞳と髪は、茶褐色の色揃いだ。髪は子供らしく柔らかそうだが、ずっと手入れをしていないらしく艶がない。

 身なりも上流階級と無縁そうだ。頑丈そうな地厚の長袖は、装飾性のかけらもなく染色もされてない。下はつぎ当てだらけの着古した長ズボン。手織り手縫いの自家製かも知れぬ。まるっきり田舎の子供である。学術の首都よりも畑がお似合いだろう。

 肩にかけた布袋には鍋と水飲みでも入っているのか、少年が動くとかすかに金属音がする。


「バウンさん、時間のムダっすよ。とっとと追い払っちまいましょう」


 門番の詰め所から、軽薄そうな声が飛んできた。見ると詰め所の中で、だらしなく座った青年が頬杖をついている。 

 バウンと呼ばれた壮年の門番が、詰め所を睨む。視線を感じた青年は、たちどころに頬杖をやめて座り直した。咳払いして、少年に問う。


「おい、ガキ。お前、ここがどなたのお屋敷だか知ってんのか?」


「うん、カウルク本家のお宅でしょ。『紫紺の魔女』が住んでる」


「・・・っ!」


 青年が声を詰まらせた。

 目を細くする門番に、少年は懸命に訴える。


「ホントにシャールから言われたんですよ? 『いつでも私の家にいらして下さい。歓迎しますわ』って」


 まんじりともしないまま、初老の門番は口元のへの字を、さらにきつくした。


「小僧」


「は、はいっ?」


 ドスのきいた呼びかけに、少年が反射的に背筋を伸ばす。


「お嬢様から、そう呼んで良いと許されたのか」


「う、うん・・・じゃなくて、ハイです」


「名前は」


「ナーグ。ナーグ・ホストラル」


「ナーグ・・・・」


 門番の眉間にかたい皺が出来た。

 少年は頭上からの凝視に呼吸も止まり、居心地の悪い時間をひたすら耐える。


「けっ、ホストラル(木こりの子)がお嬢様に何の用があるってんだ」


「シーカ」


 年嵩の門番が振り向いた。

「一走りして、ハハルさんに伺って来い」


「ええっ。バウンさん、ガキのたわ言を本気にするんですか?」

 

「判断するのはハハルさんだ。いいから行け」


「へぇーい」


 仕事を増やした子供を一睨みすると、青年は門を抜け邸宅へ駆けていった。


「・・・・・ふぅ」


 青年を見送って、肩の力を抜くナーグ少年。

 しかし目の前の男の視線に、慌てて姿勢を正す。


「小僧」


「は、はいっ」


「そう固まるな。お前が真っ当な客人なら緊張の必要はあるまい」


「は、はあ・・・・」


 溜め息まじりの息を吐き出しつつ、少年は思った。警戒心たっぷりの眼差しを受けながら緊張感を解ける人なんて、そういないんじゃないかと。

 肩から落ちかけた布袋を掛けなおす。荷物の大きさと重さが、あきらかに子供の体に合っていない。


「小僧」


「ナーグです」


「ナーグ。お嬢様とどこで知り合った」


「暗黒時代に・・・西の町で」


「暗黒時代か」


 壮年の門番はしばし目を閉じ、遠い目をした。









 魔王とその軍隊が世界を蹂躙した十年を、世人は暗黒時代と呼ぶ。

 クンヒマールの山中に突如として現れた暗黒城砦。その主たる魔王は、全世界に宣戦布告し、百万の軍勢で大陸を蹂躙した。

 魔王に抗って滅んだ国は20以上。それに100倍する城市が破壊された。奪われた人命は多すぎて、計ることもできない。

 勇者の活躍によって幕を閉じるまで続いた戦乱、それはまさしく暗黒の時代だった。

 目の前の新築屋敷も、その時代に燃えるか壊されるかしたのだろう。門の上に掛けられた紋章(知恵を運ぶケマン鳥と永続を示すハリデイ葉を組み合わせたものだ)も新しく、金銀の箔が夕日に眩しい。




「どこの生まれだ?」


「ここからずっと南に・・・あった、村、です」


 少年の目に翳りが生じる。口調と目を逸らす仕草で門番は察した。この子供の故郷は、すでに存在しないのだろうと。


「お嬢様に使ってもらいたくて来たのか」


 故郷を失った食い詰め者なら、わずかな縁でも頼りにしたくなるだろう。住み込みの職探しは多いし、この屋敷にもよく来る。こんな小さな子供は珍しいが。

 しかし少年は首を振った。


「僕、王都に行くんです。ここにはシャールが居るから寄っただけで」


「王都か」


「はい」


 それもありそうな話だった。復興の始まった都なら、仕事はいくらでもある。肉体労働が主だが、飯炊きや小遣いくらいなら子供でも雇ってくれるかもしれない。

 しかし王都は遠い。いくつもの山川を超えなければならない。

 門番は少年の大きな荷物の意味を悟った。これが彼の全財産なのだ。


「お前−」


「バウンさーん、聞いてきましたーっ」


 門番の口は、背後からの呼びかけで止まった。

 さっき邸宅に向かった青年が、軽い歩調で駆けて来る。年長の門番に軽く頭を下げると、少年に向き直った。


「おい小僧、喜べ」


「えっ?」


「お嬢様はご不在だが、お友達を門前払いするわけにもいかない。しかしすぐに使える空き部屋もない。だからハハルさんは」


 青年門番が、意地の悪い笑みを浮かべた。


「獣小屋でよければご自由にお使い下さい、だとさ」


「獣小屋−」


「おう。お嬢様のお友達にゃ、申し訳ないがな」


 少年は首を傾げて、口元に右の人差し指を当てた。目の前の邸宅と陽の傾きを見比べる。

 年長の門番はやれやれと肩をすくめた。口には出せないが、あの執事らしい試し方だと思ったのだ。新しい執事のハハルは賢すぎて、少し捻った対応をとりたがる。

 カウルクの邸宅に客室がないわけがない。獣小屋云々に対する反応で、門番が判断しろというのだろう。獣小屋に泊まれなどと言われたら、誰だって怒るか帰るかだ。人間扱いされてないのだから。

 本当にお嬢様のお友達だったらそれなりの反応を示すはず、というのがハハルの考えか。シーカを見ると、半身になっている。少年の反応しだいで屋敷に合図を送れる姿勢だ。合図が来たら「すみません。いま用意が整いました」と誰かが走ってくる図式。

 もし獣小屋でもいいと言ったら? その場合、誰かが獣小屋の監視につくのだろう。その『誰か』は間違いなく自分達だと考えて、バウンはこっそり溜め息を吐いた。


「今日中にシャールは帰ってきます?」


「わからんな。お嬢様は多忙なお方だ」


 彼らの若主人は、あの歳でカルス・シャン復興の要となっている。仕事は多く、限りない。事務局で仮眠を取ったり、交渉先で休むこともしばしばだった。


「うーん・・・・ま、いっか」


 しばらく考え込んでいた少年は、一人頷くと荷物を背負いなおした。


「じゃあ一晩だけ、お願いします」


「へえっ?」


 若い門番のシーカが、間抜けな声を上げた。一番ありえなさそうな答えが返ってきたからだ。

 年長のバウンがこめかみをピクリとさせた。


「いいのか? ナーグ」


「獣小屋って言うなら、駆獣だけじゃないんでしょ? 毛獣とか」


「あ、ああ。居るが」


「それなら大丈夫です」


 駆獣(デオタ)は大型の肉食獣だが、馬に近い使われ方をされている。毛獣(ルサ)は名前の通り、長毛の草食動物だ。農家では農耕用、都市では乳の生産を目的として飼われている。

 

「獣小屋はどっちですか?」


 にっこりと、悪意のかけらも見えない笑みを見せる少年。


「・・・・館の北東だ。干草が積んであるからわかるだろう」


「わかりました。お世話になります」


 頭を下げた少年は、また落ちかけた布袋を掛けなおして門を抜ける。夕日を見て方向を確かめると、興味深そうに頭を左右に向けながら、広い前庭をゆっくり歩いていった。

 そして門番二人は、半ば呆気に取られて見送っている。


「バウンさん−」


「なんだ」


「いいんすか?」


「ハハルさんが良いと言ったんだろう」


「そうすけど・・・・」


 青年は、長い影を引いて歩く少年とバウンを、交互に見やる。


「それよりシーカ、館に合図しろ。待ってるんだろう」


「あ、ハイ」


 両手を振るシーカを横目に、バウンは少年の後姿を見つめた。

 気になる子供だった。

 悪意は感じられない。長年の間、あちこちで守衛や番人を勤めた経験から、その程度はすぐに読める。

 かといって、見た目通りの純朴な田舎者と受け取るには世慣れすぎている。変人と決め付けるには真っ直ぐすぎるし、断じてただの愚かな者でもない。

 それに、あの足運び。

 気になる。

 どうやら自分が監視役に立候補することになりそうだと、バウンは唇を歪めた。















「こんにちはぁ」


 獣小屋には、入る前に必ず一声かける。これは中の人間に知らせるのはもちろん、獣たちを驚かさないためだ。

 人に馴れてる獣は、敵意より音や姿に強く反応する。だから、気を抜いてる時に知らない人間がひょっこり顔を出すと、驚いて昂ぶることがあるのだ。毛獣なら壁を蹴るくらいだが、駆獣や軍獣が暴れたら手をつけられない。


「こーんにちはー」


 君達の知らないヒトだけど入るよー、と知らせておいて、少年は薄暗い獣小屋に顔を入れた。色々な動物の体臭が入り混じった、常人ならむせかえる空気が鼻を突く。しかし少年は馴れているのか、わずかに眉をしかめる程度だ。

 明るい屋外から入ったため、すぐには中の様子がわからない。しかし何匹かの獣が反応したことは、気配で感じられた。

 暗さに目が慣れるまでしばらくかかる。


「小屋番さん、いませんかー」


 獣の息遣いが響く屋内に、大きな声で呼びかける。

 ほどなく角獣の間から影が立ち上がった。


「なんじゃあ?」


 暗い中でも髭の白さがわかる、細身の老人だった。手に盥(たらい)を持っているのを見ると、晩の乳を採っていたのだろう。老人の腰あたりで、採乳を中断された雌が不満そうに甲高い鳴き声を上げた。


「子供が獣小屋に何用じゃ」


「えっと、今夜ここに泊めてもらうことになりました。ナーグといいます」


 よろしくお願いしますと、茶褐色の髪を揺らして頭を下げる少年に、老人は呆気にとられた。


「泊まる? ここにか? おぬしが?」


 文法も語順もない疑問形の羅列が、白髭の隙間から漏れる。ぽかんと口を開けた顔は頬骨が目立って、痩せた角獣と似ていた。


「はい。シャールに会いに来たんですけど、もう陽が沈んじゃうでしょう? ついでに泊まらせてもらおうとしたら、ここしか空いてないって」


「お嬢様に? 会いに?」


「はい」


 困惑しきりの小屋番の老人に説明しながら、ナーグが大きな布袋を地面に下ろす。中の荷物が崩れてガシャリと鳴った。


「小屋番さん、お名前は?」


「あ、あぁ・・・儂はムクタノじゃ」


「よろしくです、ムクタノお爺さん」


 少年が再び一礼した。すぐに頭を上げると、まだとまどっている老人を横目に、きらきらした目で小屋を見回す。 


「へぇー、さすがシャールん家だ。駆獣が四匹もいる」


「い、いや、二匹は他所からの預かりものじゃ」


「そうですかあ。馴れない子じゃ、お爺さんも大変ですね・・・・・うん、ちゃんと序列のついた毛獣だ。良かった〜」


 雄雌大小取り混ぜて六匹ほどの毛獣を観察し、一人で頷いて納得する少年。干草を貰いまーす、と朗らかに言って出て行く。

 ムクタノ老は、旋風のように登場した子供の背中を、ただ目で追うだけだった。


「ムクタノ爺さん」


 いつまで呆けていたのか、老人が声に気付くと、獣小屋の入り口に白髪混じりの門番が立っていた。


「バウンか、ありゃあ何者じゃ?」


「いや・・・ちょっとな」


 ムクタノは細い腰で角獣の頭を押しやり、手で角をかきわけ、門番の元へ向かった。

 門番は怒るでも泣くでもなく、笑うでもない複雑な表情をしていた。

 今日は珍しいものをよく見る日じゃと、白髭を捻りつつ老人が思う。


「とにかく一晩だけ頼む。邪魔なら軒先に出せばいい」


「子供にそんなマネはできんよ。それよりこいつらに踏まれたりせんか心配じゃ」


 特に駆獣は肉食の猛獣だ。鋭い牙は子供の手足など容易に噛み千切る。興味本位で近付いて、大怪我を負わされる者は多かった。


「だいじょうぶですよー」


「おっ」


 いきなり左脇から声がして、バウンが振り返る。

 すると後ろに、両手いっぱいの干草を抱えた少年がいた。青空のような笑顔を見せている。


「駆獣の怖さは知ってますし、毛獣と一緒に寝ますから」


 言いながら少年は、立ち話をする二人の脇を抜けた。他より体毛の薄い毛獣の前に、干草を下ろす。


「う〜、久しぶりだなあ」


 ナーグは大人の目を気にする風もなく、わずかに頬を紅潮させて壁に向かう。彼の視線は、壁に掛けられた鉄の輪に向けられていた。少し錆の浮いたそれは、幅広い鉄板を巻いただけの、粗雑な作りだ。平たい部分のあちこちに歯型がついている。子供には少し高い位置にあるそれを、爪先立ちになって取る。


「どきどきです〜」


 いかにも子供らしい口調で呟く少年。鉄の輪っかに腕を通しながら、元の場所に戻る。毛獣は平たい耳だけをあちこちに向けつつ、体はうずくまったまま身じろぎもしない。


「おっかさん、一晩お世話になるね。よろしく」


 ナーグは腕輪を通した左手で干草を一掴みし、毛獣の口に押し付けた。


”フーッ”


 毛獣の鼻から湿った空気が吹き漏れる。少し顎を上げて唇をむぐむぐと動かすと、草食獣のわりに鋭い前歯を剥き出した。


「お、おい、小僧」


 思わず身を乗り出した門番の腕を、老人が押さえる。


「まあ、見ておれ」


「えへへっ」


 大人たちを横目で見て、汗の浮いた顔で笑みを見せる少年。


”ムゥ〜”


 毛獣が唸り声とも鼻息ともつかぬ声を上げた。発酵臭のする空気を吐き出して口を開け、差し出された干草をぱくりとくわえ込む。

 ・・・少年の左腕と一緒に。


「うひゃあ〜」


 ナーグが甲高い奇声を上げた。すわ手を噛まれたかと肩をいからせたバウンが、情けない声色に思わず脱力する。

 毛獣の頑丈な顎が、粘着音を鳴らして干草を食む。しかし少年の手は鉄輪にしっかりと守られていた。草食獣特有の肉厚で長い舌が、少年の手と干草を揉みしだく。

 しばらくして、気持ち悪そうな、むず痒そうな表情を浮かべつつ、ナーグが毛獣の口から拳を引き出した。獣の涎でべっとり濡れた手は、わずかに赤くなっている。

 毛獣は鉄輪を吐き出すと、再び口を閉じて頭を落とした。


「う〜・・・おっかさん、ありがと」


 見ようによっては半泣きにも見える少年が、涎まみれの手で毛獣の頭を撫でる。獣は耳を少しだけ揺らして応えた。


「何だ、あれは?」


「匂い付けじゃよ。毛獣の傍で寝る時にな、お互いに安心して眠れるよう、群れの母親の匂いを貰うんじゃ」


「・・・・・ふむ」


 ムクタノ老の説明を得て、バウンが腕組みする。


「おぬしらは町育ちだから知らないじゃろうが、どこの村でも客を泊める時にはやっとるよ」


 田舎で人と家畜が別々に寝るのは、よほど大きな農家に限られる。家畜は貴重な労働力であり、重要な栄養源であり、大切な財産であり、家族の一員でもある。寝床を共にするのは当然だ。

 大人二人が話している間に、ナーグは残りの毛獣の鼻に、よだれのついた手を押し付けていた。これで少年も、一時的に群れの仲間と認められる。


「終わりました〜」


 ナーグはよだれまみれの左手で、鉄輪を壁に戻す。


「ごくろうさん」


「優しいおっかさんで助かりました・・・・あ、お水もらえません?」


「出て左の先に井戸があるぞい」


「ありがとです。家に井戸があるなんて、羨ましいですねー」


 家畜番の老人にお辞儀して、少年が出て行く。背嚢に隠れて今まで気が付かなかったが、後ろの腰から横長の皮袋が垂れていた。水を容れるものだろう。

 きょろきょろしながら歩いていく小さな体に、夕刻の長い長い影がついていく。

 その姿を観察するバウンは、さっきと比べて明らかに目の色が違った。

 老人は鋭利な表情の門番と、ゆっくりした歩調の子供を見比べる。


「バウン。目付きが悪いぞ」


「これは生まれつきだ」


「ふん・・・・で、もう一度きくが、あの小僧は何モンじゃ?」


「お嬢様の友人と言っている。南の村から来たそうだ」


「ふむ、どうりで・・・・田舎の子か」


 白髭をいじるのが癖の老人は、二回ほど頷いた。

 この時代、村と言えば農村であり、およそ農民なら家畜の2、3匹は飼っている。獣に慣れていて当然というわけだ。


「盗人の手引きでもなさそうだが、やはり引っかかる。すまんが気をつけてくれ」


「あいよ」


 路頭に迷う孤児を使って悪事を働く連中は少なくない。暗黒時代の混乱が収まっていない今、神の都とされたカルス・シャンも、治安の悪さは他の町と変わらなかった。

 家畜小屋をぐるりと見回し、バウンが立ち去る。残ったムクタノ老は、子供の荷物袋からこぼれた鍋と火打石を見て、少し考えこんだ。

















 太陽が半分ほど隠れた頃。

 調理場から二人分のアンホ・テマジ(雑炊)を貰ったムクタノが戻ってくると、獣小屋から少し離れたところで青白い光がちろちろと揺れていた。


「ほお・・・」


 老人が光に近付くと、小さな影が立ち上がる。


「あ、おかえりなさい」


「角獣の糞か」


「はい。ちょっとだけ貰いました」


 頭を掻いてナーグがお辞儀する。

 少年の向こうで、三脚コンロの上にかけられた小鍋が湯気をのぼらせていた。

 何を煮ているのか、透明な湯の中で薄いものがひらひら舞っている。


「構わんよ。ここの連中は肥料にしか使わんでな、余って困るくらいじゃ・・・・ほれ」


「いただきます」


 雑炊の入った椀を老人から受け取り、少年は地べたに腰を下ろした。


「もったいないなあ。こんなによく燃えるのに」


 左手に椀を持ったまま、右手の火掻き棒で燃える糞を突付く。


「ウチの調理場は火をたんと使うからの。ここの糞じゃ足りんよ。それに、お嬢に糞臭いお食事を差し上げるわけにもいかんじゃろ」


「あははは。そうですねっ」


 小屋で食べるつもりだった老人だが、少年に勧められるまま、その場に腰を下ろした。


「何を煮とるんじゃ?」


「ヒタビー(川魚)の干物です」


「干物か」


「干物と塩だけの汁です。えへへ」


「・・・・ふむ」


 バツが悪そうに笑う子供を、考え深げに眺める老人。

 ナーグが作っているのは吸い物のようなものだ。岩塩とわずかな具だけで調味される汁は、貧しい村の常用食である。町の住民からは「田舎汁」と馬鹿にされる。

 少年は傍らの荷物袋から小ぶりの椀を取り出した。器をそのまま鍋に突っ込み、上澄みを少しだけすくって椀の中で回す。それを地面にこぼすと、今度は多めにすくって口に付けた。


「・・・・うん、まあまあかな」


 口元を綻ばせ、ふぅふぅと吹いて冷ましてから喉に流し込む。


「お爺さんもどうですか」


 無邪気な笑顔で差し出された椀を、老人は黙って受け取った。熱そうな鍋から、慎重に汁をすくい上げる。ナーグと同じように何度か椀に息を吹きかけ、ゆっくりと口に含んだ。白湯(さゆ)のようだが、塩味の中にかすかな甘みと旨みを感じる。飲み込んだ後には、ハリシ花に似た微香が鼻を抜けた。

 髭を汁に濡らしたムクタノが頷く。


「ふむ・・・・悪くないのう。匂いもいい」


「そうですか。良かった!」


 少年は返された椀を嬉しそうに受け取った。


「じゃ、僕もいただきまーす」


 細い膝の上に器用に汁椀を置き、少年は雑炊に口をつけた。


「・・・へぇ〜」


 ナーグは感嘆を漏らして目を閉じる。味を確かめているのか、口をもぐもぐさせて何度も味わう。


「こんなたくさん具の入った雑炊、初めてです」


「いい加減な賄い料理じゃが、カウルクの館じゃからの。材料もそれなりじゃよ」


 軽く頷き、老人も自分の椀を啜った。

 少年は余所見もせずに雑炊をかきこむ。椀の縁まで齧りかねない食べっぷりを、老人はどこか居心地悪そうに見ていた。

 少年は汁気も残さず一気に食べ終える。

 老人の椀と自分のそれの中身が違っていたことに、彼は最後まで気が付かなかった。










 夜。


 獣の番小屋で寝台を使うように誘った老人を、少年は済まなそうに謝絶した。


「さっき、このお母さんと話をつけちゃいましたから」


 毛獣の雌の小脇に、干草と外套で即席布団がしつらえてあった。毛獣の前脚と後脚の間に、ぴったり入り込む形だ。


「そうじゃったな」


 毛獣に体を預けてくつろぐ少年に、老人は得心したように頷いた。


「おぬしも『おっかさんがふたり』の育ちじゃな」


「はい。ここに口輪があって助かりました」


 少年は顔を、さっき使ったばかりの鉄の輪に向けた。


「ほ、口輪か。儂の村じゃ歯の輪っちゅーんじゃ」


「色んな名前があるみたいですね。守り輪とか咬ませ板とか・・・・腕抜きって呼んでる村もありました」


「ふむふむ。おぬし、子供のくせに良く知っとるのう」


「あー・・・・あちこち、歩いたから・・・・」


 少年がすっと俯いた。何度か瞬きし、すぐに顔を上げる。


「でも、よくここに口輪・・・歯の輪?がありますね」


 少し影の残った少年の顔に、ムクタノはわずかに眉をひそめた。が、何も気付かなかったように話を続ける。


「そいつは儂の私物じゃよ。錆が出とるじゃろ。まさかカウルクの家で獣小屋に客を泊めようとは思わなんだ」


「えへへ。おかげで助かりました」


 いかにも田舎風の笑い方をして、少年は薄い外套を胸まで引き上げる。背中から伝わる毛獣の温かさのせいか、自然と欠伸が出る。

 老人は眠そうな少年から目をはなし、さっと小屋の中を見た。駆獣、角獣、這い鳥、毛獣・・・馴染みの家畜がいつもの場所に陣取っていることを確認する。


「じゃ、また明日な。朝飯は食っていくんか?」


「えっと・・・余ってれば、いただきます」


「お嬢の友達なら遠慮せんで食っていけ」


「あ、あははは。ありがとです、そうします」


 目を細め、少年がはにかむ。

 その笑顔を見た家畜番の老人は、明日は必ず真っ当な食事を食べさせようと決めた。


「おやすみなさい、ムクタノお爺さん」


「おやすみじゃ、ナーグ」


 老人が引き戸を閉める。

 硬い音がして戸口が密閉されると、獣小屋は星の光も届かない真の暗闇となった。


「ふわ・・・おっかさんも、おやすみなさい」


 もこもこの毛獣に背中を押し付けて呟くと、少年の耳の後ろから、しゅーっと生温かい吐息が吹きかけられた。くすぐったさに、思わず首をすくめる。


「そういえば、シャールの時は大騒ぎだったっけなあ・・・・」


 その言葉に答えるものはなく、そのまま獣たちの息遣いだけが聞こえる静けさが訪れた。















 獣小屋の脇には、寄りかかるように建てられた番小屋がある。一通りの生活用具が備えられ、寝台もある。

 ムクタノがいつものようにそこへ戻ると、暗闇で大きな影が立ち上がった。

 ぎょっとして老人がのけぞる。

 焦って灯火を向けると、見知った顔だった。


「俺だ、爺さん」


「なんじゃ、バウンか。脅かすない」


 どきどきする胸を押さえたムクタノに、バウンが片手を上げた。


「すまんな。あの小僧は?」


「中で寝たぞ。慣れとるな、あれは」


「そうか」


 小声で言葉を交わし、二人そろって少年が寝ているだろう壁の向こうを見る。


「バウン、どう見る?」


「田舎の小僧・・・・それは間違いない、が」


「うむ。あの言葉遣いは田舎者にできんぞ」


 ムクタノが白い髭を捩りつつ、壮年の門番と視線を合わせる。


「付け焼刃じゃない丁寧語だ。それもキアシ風の」


「それじゃよ。あやつは南の村育ちと言うたが、キアシはずっと東じゃろう」


「ああ」


 キアシは勇猛な突撃騎兵団で知られた国だ。魔王に降伏することを良しとせず、支配階級が全滅するまで徹底抗戦した。その後、見せしめとして庶民まで皆殺しになり、魔王の残虐さを世界に知らしめた。城壁も破壊され、再興は絶望視されている。


 バウンは腕組みして唸った。


「キアシ人の生き残り、か?」


 ムクタノが首を横に振る。


「キアシが滅んだのは十年前じゃ。歳が合わん」


「うむ、俺もそれが引っかかった。それに」


「それに、なんじゃ?」


 皺首を寄せる老人に、バウンはさらに声を低めた。


「あの小僧は、両手剣を使う訓練を受けている」


「・・・・ウソじゃろ?」


 眉に隠れた老人の目が見開かれた。

 両手剣は扱いの非常に難しい武器だ。状況に応じて斬る、突く、打つの多様な攻撃手段を取れるが、使いこなすまで相当の修練が必要になる。村の子供が自衛のために習うものではない。


「歩き方を見ればわかる。体が小さいから片手剣を両手で振っていたかもしれんが、とにかく武器に慣れてるな。おまけに−」


「まだあるのか」


「あの小僧は、俺の背後を取りやがった」


 長く守衛を勤めてきた身だ。隠れた気配や意図を見抜く能力には自信があった。老人と話していたとはいえ、子供が真後ろにいながら気付かなかった事は、今でも信じられない。


「むう・・・・」


 髭を強く捻りすぎたのか、老人は自分の顎に目を落として眉根を寄せた。


「お前さん、そこまでわかっていながら、どうして放っとくのじゃ」


「爺さんと同じだよ。悪意が全くないからな」


「ふぅむ」


 バウンは考えこむ老人をしばらく見ていたが、やがて肩を叩いた。


「心配するな。今日は俺もここで寝るし、何かあったら獣どもが教えてくれるさ」


「わかった。しかし、あの小僧がのう?」


「人は見かけによらないってヤツだな」


「うーむ・・・・・」


 その晩、一つの寝台に並んで寝た大人たちは、一人は獣臭さに、もう一人は狭さに悩まされて、落ち着かない夜を過ごすことになった。




















 北に太陽を戴き、南に山を負い、東に畑を構え、西に川の流れるを、サニャース・ボス・ミスス(神与の楽土)と云う。古(いにしえ)のマクシュード神官が開いた土地は、まさにその形象と一致していた。

 煙立つ川霧を朝日が照らし、飽きることのない美しさを生み出す時間。


「お世話になりました」


 曙光が目に刺さるような夜明け。空気の冷たさが際立つ快晴だ。

 神都カルス・シャンの高級住宅街。

 意匠を凝らした門扉の前で、少年が深々と頭を下げた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた背嚢が傾く。背負いきれない荷を積まれた駄獣のように、小柄な上体が頼りなくふらついた。

 バウンが口元を歪め、若いシーカは肩をすくめる。


「お嬢様と会わなくていいのか」


「会いたいですけど・・・シャールも忙しいでしょ」


 わずかに寂しげな様子をのぞかせながら、少年は微笑む。

 門番と同じくらい、彼はよく理解しているのだ。自分は本来、少女の知己となるような立場ではなかったことを。

 陰惨な暗黒時代の終焉とともに、厳しくも印象深い旅は終わりを告げた。シャールは『紫紺の魔女』の称号を持つ魔道貴族。そして今や、カルス・シャンの歴史と未来に責任を負い、多忙を極める都市の重鎮となっている。

 いっぽうナーグは、滅びた村の一少年にすぎない。


「それに王都でミル・・・妹が待ってますから」


 そうであるように、との希望を込めて告げる。旅の最後を前に、友達の家に預けてきた、あの静かすぎた少女。彼女は離れていた間にどのように成長しただろうか。華奢な体は伸びたろうか、女の子らしく少しはふっくらしたのだろうか。銀糸の髪は長いままか、それとも切ってしまったか。もしかすると背を越されているかもしれないな、とナーグは思う。

 別れ際の一言で、自分を含めた全員を驚倒させた妹は、今の自分を見たら何て言うだろう。そこに至って、少年は胸の疼きに唇を引き締めた。


「それじゃ、行きます」


 ナーグは踵に力を入れ、首を上げた。

 古来、旅とは自分の足でするものだ。駆獣を馳せる飛脚や牽獣の車に乗る貴族は、例外でしかない。少年もまた、王都への長い道のりを自力で踏み渡ろうとしていた。


「気をつけて、な」


「はい。シャールにそれ、よろしくです」


「おう。確かに預かった」


 『それ』とは、バウンの大きな掌に包まれた木片のことだ。友人への短い挨拶の言葉が書き込まれ、少年の褐色の髪の毛が巻いてある。

 文字を知る村の子などありえない。バウンは少年が只者でないことに、ますます確信を深めていた。


「皆さんにもよろしく。ありがとうございました!」


「元気でな」


 最後に、朝日と同じくらい眩しい笑顔を見せて、少年は背を向けた。

 人通りの増えてきた道。小さな体を二人の門番が黙って見送る。それは大人たちの間に紛れ、すぐに見えなくなった。


「やれやれ・・・・だ。バウンさん、ガキ一人に昨日は大迷惑でしたね」


「・・・・・・フン」


 大柄な門番は何も言わず、ただ鼻を鳴らした。重い門扉をしっかりと閉ざし、閂(かんぬき)を通す。


「シーカ、お前はまったく年季が足りんな」


「はあ?」


 先輩の唐突な物言いに、若者がぽかんと口を開ける。


「いずれわかる。さ、仕事だ」


「・・・・・・・」


 バウンは強引に会話を終わらせると、持ちなれた長槍を手に取り、いつもの立哨(りっしょう)を始めた。

















「おかえりなさいませ、お嬢様」


「「「おかえりなさいませ」」」


 天下に名高いカウルク本家。

 華美ではないが、手のこんだ造作がうかがえる表玄関。

 ケマン鳥とハリデイ葉の紋章の下、居並ぶお仕着せの家人が一斉に低頭した。

 牽獣に繋いだ車の扉から、藍色の衣装をまとった少女が姿を現す。

 その娘は黒髪の男以下、男女十数人を見回し、ごく軽く頷いた。


「ただいま帰りました」


「お勤め、お疲れ様でございます」


 一歩前に出た黒髪の執事が、皆を代表して主の労をいたわる。


「ありがとう、ハハル。皆もご苦労様」


 紺色の髪の少女が、魔道”貴族”の肩書きを裏切らない優雅さで微笑んだ。



 ”紫紺の魔女”こと シャーレンカマカ・トユ・カウルケイ。



 見た目は小さくも美しい娘だが、彼女の価値は外見より内実にある。

 カウルク一族の惣領たるシャーレンカマカは、大カウルク直系の子孫であり、無限の魔力を蔵した高位の魔導師だ。魔法学全般に通じるが、特に雷電の操作に長じ、”カウルクの雷嬢”の二つ名で知られる。 


「ハハル、変わったことはありまして?」


 主を迎えるために開けられた扉に向かいつつ、少女が訊ねる。名指しで問いかけられた執事は、腰をかがめて少女の後を追った。


「特に何もございませんでした」


「そう。今日は先に湯を使いますわ」


「かしこまりました、お嬢様。ただちに火番と侍女組に用意させます」


「昨日は先方のお料理に問題がありました」


「わかりました。餐(さん)の献立は脂を控えめにいたします」


「頼みます・・・あら?」


 小さなカウルク当主が足を止めた。目線を落としていたハハルがつんのめって主に追突しそうになる。慌てて顔を上げると、いかつい門番の組頭(くみがしら)が玄関脇から身を乗り出していた。


「バウン」


 ハハルの控えめだが、きつい口調の呼びかけを無視して、バウンが「僭越ながら」と手を差し出す。


「無礼だぞ」


 言外に「門番風情が」と匂わせて黒髪の執事がたしなめる。

 しかしバウンは手を引かず、腰を曲げたまま動かない。

 シャールは差し出された手と、白髪まじりの番人の頭を交互に眺めつつ、わずかに考える素振りを見せた。

 門番のがっしりした手に、小さな木片が載っている。


「これを・・・?」


 少女が呟く。長袖の下から細く白い指が現れ、少女とも邸宅とも場違いの、粗末な木のカケラを摘みあげた。


「まあ、珍しい。刻文字(クナフテン)ですわね」


 クナフテンは、文章が壁や粘土板に刻まれていた旧文化に由来する、今はほとんど使われない文字だ。ウマ・サーバイ以来の天才と呼ばれる令嬢は、それを苦もなく読み取る。


”口の輪の友より、一宿一飯の恩義に感謝を”・・・・っ!?


 木片に炭で書きこまれた言葉を読み上げた途端、少女の頬が紅潮した。


「この綴り・・・この髪は! ナーグ様!!」


 泊り込みの仕事でくすんでいた瞳が、たちまち光を取り戻す。


「ハハル!」


「は、はいっ?」


 上品な当主らしからぬ大声に、執事が目を丸くする。


「ナーグ様がいらしたのに、なぜわたくしに知らせないのですか!? これほどの大事を!」


「え、あ、その・・・・それほど大切なお客様とは、存じ上げませんで−」


 しどろもどろの執事を見て、今度は周囲の使用人が目を丸くする。慇懃無礼に思われるほど沈着なハハルが、これほど慌てふためく様は滅多に見られない。


「それほど大切な御方なのです! きっと温かくお迎えしたのでしょうね!?」


(獣小屋に放り込んだ)


 と、シャール以外の全員が思った。


「え、そ、そ、それは・・・・その」


「失礼なことはなかったですわね!?」


(賄い料理と称して残飯を食わせた)


 再び皆が思った。


「お、お嬢、様・・・・あの方は、その、いったい、どのような−」


 端正な顔を引きつらせてハハルが問いかける。せっかくの美男子ぶりが、だらだら流れる脂汗で台無しだ。

 しかし心の昂ぶった少女は、執事の異常も知らぬ気に、満面の笑顔で言い放った。


「もちろん! ナーグ様は、わたくしの、わたくしの・・・・!」
















 その日、カルス・シャンの高級住宅街において、近隣一帯の住民が飛び上がるような雷鳴が響き渡った。


 そして翌日からしばらくの間、カウルク当主が公務を休む事態となる。


 行政の停滞を憂えた都市の重役が邸宅を訪れたものの、正常な会話を出来ずに退出を余儀なくされた。


 訪問者によれば、カルス・シャンの誇る小さな大魔導師は、「獣小屋」「残飯」などと脈絡のない言葉を漏らしつつ、酷くうなされていたという−















”ムゥ〜フ、ムゥ〜フ”


「なんじゃ、お前ら。落ち着かんのう」


”ムゥ〜ッ”


「たった一晩泊めただけじゃろうが」


”ムフ〜・・・・”


「心配せんでも、あの小僧なら元気でやっとるよ。きっとな」
































 シアドの『英雄伝説考』に引く。




” 白銀の勇者は、その死後において多数の生存報告が提出された。


 曰く、


「山賊に荒らされる村を白銀の鎧武者が守ってくれた」


「雪山で迷った子供を、白衣の若者が麓(ふもと)まで導いた」


「どこからか現れた白銀の戦士が悪代官を懲らしめた」


「嵐の海に投げ込まれた子供を、全身鎧の剣士が救い上げ、姿を消した」


「貪欲な商人に白銀の勇者が懇々と人の道を説き、改心させた」


「白銀の衣の青年が貧しい村を訪れ、重い病気を癒してくれた」



 しかしこのような目撃談は、聖人、偉人につきものである。実際、どの報告を見ても信頼性は低く、論ずるに値(あたい)しない。

 原因はおそらく、彼の名前にあるだろう。ナーグ(我々の言葉で一郎、または太郎)というありふれた名前と、勇者に傾倒する人々の願望が、ささいな事で結合し、次々と英雄伝説を紡ぎだしていったのだ。

 現実には、白銀の勇者はラプソンの城砦で華々しい最期を遂げたのであり、残念ながら疑う余地はない。そのことは、勇者と行動をともにした名誉ある人々(王の最高剣士、公正神の大法官、学都の貴族など)の証言により、明らかとなっている”−










(終わり)





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