生徒指導・進路指導論 前期B  2002年4月26日

 

 *前回までの授業内容をふりかえり、今回からはじめる「資料読解」と「エクササイズ」の必然的意味を確認することを試みた。

<復習>(第一回)@生徒指導とは何か? Aなぜ生徒指導が必要か?
    (第二回)@管理主義と自己決定主義? Aどのような指導があるのか?

 *前回に三つの「指導」の立場があり、その方法と理論を修得することが必要ではないかとまとめた。一つは「従来の問題対応」、もう一つは「相談対応」、三つ目は「自主性を育てるという教育の側面」であった。

(1)校務(公務)としての生徒指導・進路指導→→(従来型)担当教員中心という限界がある
(2)教員対生徒(&家庭)との間での生徒指導・進路指導→→カウンセリング及び家庭との連繋・コミュニケーション
(3)自立性・自主性の教育としての生徒指導・進路指導→→「予防」の側面、ピア・カウンセリングなど。

 *以上の3点について理論と実践を学んでいくが、注意すべきは「どれか」が絶対ではないということである。「取り締まり」が必要とされたのは「取り締まり」が切実に必要であるという状態があったからであろうし、それがある程度の効果を及ぼしたのも「そのような時期」「そのような事項」に対してであった。同じく「不登校」「いじめ」と評されても状態は各ケースで異なるように(また各人で抱える問題も異なるのであるから)「何かの特効薬」というものは存在しないと考えていきたい。何らかの「特効薬」があるのならば問題がここまで続いていないはずであろう。最大の「問題」は、何かを「特効薬」のように考えて、それを「絶対視」して続けるという体制そのものではないか。だから「取り締まり」だけでは効果が少なくなって別の「見えない」という現象が出てきたし、それで現在は「カウンセリング体制」や「カウンセラーが必要」といわれるのだが、しかしそれにも注意されたい。それを「絶対」としてはまた置き去りになる問題が出てくるのではと危惧している。もちろん「自主性」を促しているから完璧と思うのも「完璧などはありえない」ということで気をつけていただきたいし、「他を否定する」ためにどれかの方法があるのではない。担い手である「担当教員」に責任をかぶせるのでも「カウンセラー」に依存しすぎて教員が責任回避するのでも、もしくは「生徒」におっかぶせるのでもない。

 そのような考え方が必要ではないか。

<今回>・「カウンセラー」は万能ではない(管理主義と自由主義との葛藤)
     ・「社会背景を読む」能力
     ・「個人を読む」能力 ※→エクササイズ1、エクササイズ2

 

●「カウンセラー」は万能ではない

 *次に資料を読むことから「カウンセラー」というものの位置や、特に「政策」として過剰に依存して(そして何故か周囲が安心していて)、問題の根本解決にはいたらなかったのではないかということを読みとってもらった。まずは「中学生・高校生の悩み」という表から「スクール・カウンセラー」への期待と効果がみられることを指摘する。実際に「カウンセラーがいれば悩み事を相談しに行く」という子どもたちの意見は多くみられる。また「カウンセラー加配校」では問題の(同一児童)発生率が低くなっていることから効果がみられる。

 <資料●「中学生・高校生の悩み」(スクールカウンセラーについて)

 

 *以上のように「効果」がみられる。これらの統計を指摘して政策側は「スクールカウンセラー」事業をすすめている。しかし私は「実態」とその実現のための環境整備までを含めた構想が必要だと考えている。今のままでは楽観的で結局は「カウンセラー」を特効薬としてみて、結局は問題の解決されない子どもがいると思える。「相談に行けることで救われる子」は「相談に行ける子」である。それがすべての問題ではない。また教員との連繋の問題や、ますます教員と家庭や児童との乖離が顕著になるなどの問題もみられる。かといって「教員にカウンセリング・マインドを」という言葉の流行にも警戒している。最大の臨床家である教員が何をできるのか、そのような「教育的なカウンセリング」のいあり方を模索していきたい(次回以降)。

 次に「カウンセラー」政策を楽観視しないように、戦後以降の生徒指導政策を資料から読みとることを試みた。

 『生徒指導資料』の類をみてもらったが、例えば1966年(昭和41年)「第2集 生徒指導の実践上の諸問題とその解明」では「社会的諸事情の変化」によって「中等教育の急速な普及」と「教育課程の内容の質量両面における水準の向上が要請される」という「いまだかつてなかった大きな課題に直面」することになったととらえていて、生徒指導に充実も必須としている。学校カウンセラー=相談教師も登場することになった。

 しかし、1969年(昭和44年)の「第5集 生徒理解に関する諸問題」では進路指導を踏まえた「生徒理解」というのが重視されるようになり、「ひとりひとりの生徒について生徒理解をいっそう深めること」と書かれているものの「生徒理解のための資料収集の方法」というのが強調されていた。「生徒のもつ性格・行動の傾向や情緒的な問題をはあく」「生徒の環境をはあく」するために「友人関係」「家庭環境」などのデータを収集することが強調された。ホームルーム等がそのために(自立・自主性などではなく)データ収集の時間となったが、これらのデータ収集が「生徒理解」であり単純に信頼や自立に結びつくのであろうか。当時が学力教科詰め込みの最盛期であったということを勘案しなくてはなるまい。

 1972年(昭和47年)の「第8集 中学校におけるカウンセリングの進め方」では、従来の政策を批判してか「生徒指導というと、非行対策のような外側からの規制であるという考え方がかなり残っておりますが、そこから一歩前進して、教師と生徒との暖かい心の交流を確立することがたいせつ」であるとして、「この意味からも、学校におけるカウンセリングについて、あらためて見直してみる必要があると考えます」としている。これは「いま」の意見にも近い。しかし、それではこの考えが反映されなかったのであろうか。カウンセリングの必要がこれほど認識されていたのに、実はこの時代からより荒れたという事実もみられる。1970〜80年代の荒廃を受けて現在では「生徒指導・進路指導」が必修となったというのを初回の授業でみてきた。

 1982年(昭和57年)の「第17集 生徒の健全育成をめぐる諸問題−校内暴力問題を中心に」というのをみればそのことを補完してくれるだろうか。その年代の荒れについてである。「近年、校内暴力が増加し、社会的にも大きな問題となっている」ことと、特に「中学生による事件、特に教師に対する暴力が著しく増加」して「悪質化」や「全国的に発生」していることが記されている。これは現在との関わりでみるとどうであろうか。「校内暴力は、学校、家庭、社会それぞれの在り方や生徒自身の成長過程において形成されてきた性格や意識など種々の要因が複雑に絡み合って発生していると考えられる」としていて、「学校、家庭及び地域社会」が「一致協力して取り組んでいくことが必要」であるが、特に学校が「教育によってこの問題を克服し得るという確信をもって最大限の努力を払っていくこと」が現在最も期待されるという。この認識も前回の私たちとそして文部科学省の方針(現在)とも一致する(まま)です。それでも解決されない難しい問題なのかともいえますが、しかし「その方針下」のはずの私たちは「取り締まり型」ばかりをイメージしてしまっているという事実。もちろんこの資料では「学級指導、クラブ活動、進路指導などの教育活動」の充実や学校生活の充実もあげていますし、「善悪の判断力」をつけさせること、例えば「自主自律と社会連帯、勤労の尊重、自然愛・人間愛や奉仕の精神、規律と責任などの徳性の涵養を重視した実践的な教育活動」を充実させるようにも言っていて、これなども教育改革国民会議(2000年)で論じられていることと変わらないようにも思える。「生徒の問題行動については、早期発見と早期指導がいかなる場合においても大切」だというのも「予防」の観点にも近い。しかし、それが「早期発見による取り締まり」という問題対応になってしまったのでしょうか。「学校における教育相談の機能の充実を図っていく」と認識されていながら、いまもその「カウンセラー養成」や加配が求められるということは「この20年間」に何が行なわれていたのでしょうか。

 「カウンセラー」の登場はそれより以前からでしたが、それが何年もかかっていまに至るのだとしたら、いま早急にと急がれるのがインスタントに考えられないでしょうか。「なぜできなかったのか」という十分な実態把握もなしに、特効薬的に楽観的に、あるいはものすごい期待感で語られる。「そういうもの」がどのように成功するとありえるのでしょうか。もちろん「効果はある」し、導入を訴える人を責めるわけではありません。しかし、以前にもあったということと、それがうまく機能しなかった原因の究明もなしに、それに全面的に依存するというのは「何も考えないに等しい」のではないかと思います。

 (●参照した資料「生徒指導資料」・・・戦後以降の教育政策の変遷をみるために)

 

●「社会背景を読む」能力

 *できるだけ実態を知っておくこと、実態を読む力が必要なわけです。もちろん実践力や技術も必要です。そういうものは今日から体験的エクササイズとして試していきます。まずは実態を資料から読みとるとして、「不登校」というものをどのように理解しておくべきかをみます。単に「学校に行けない状態」というのは共通項にしかすぎません。「カウンセラーがいればそれでいい」という短絡思考と同じようなとらえ方ではないでしょうか。その複雑な構造や、しかし何らかの共通的な部分というものが見出せるように、次の資料を読んでいただきます。

●「不登校状態になったきっかけと継続している理由」(小・中学生)>

 資料は「平成10年度不登校状態となった直接のきっかけと不登校状態が継続している理由との関係」(文部科学省初等中等教育局児童生徒課『生徒指導上の諸問題の現状と文部科学省の施策について』(平成13年)からですが、例えば小学生と中学生でも「不登校」の要因に違いがあるという大きな共通項は見出せるので、それによって「ひとつのものではない」ということと、そして学校や家庭での人間関係ということが主要因であるのならば大人として相談を受ける体制などといって楽観視はしていられないということになるわけです。一部のみあげておきます。

 

不登校の要因・起因

その中の詳細な理由(%は全体中)

小学校
 

学校生活に起因(全体の20.2%)

友人関係10.6% 教師との関係2.1%

家庭生活に起因(全体の27.5%)

親子関係15.8%

中学校
 

学校生活に起因(全体の38.4%)

友人関係19.7% 教師との関係1.7%

家庭生活に起因(全体の17.4%)

親子関係 8.3%

 

●「個人を読む」能力 ※→エクササイズ1、エクササイズ2

 *「わかろう」として生徒指導が必要となるが、現場ではどのようにしたらわかるのかということが問題となっている。 もちろん専門のカウンセラーがいれば専門的な仕事はまかせるとしても、しかし自分に直に相談がもちかけられることもあるだろうし、あるいは悩みや何らかの問題に直面する生徒に出会うこともある。例えば何日か休んでしまって、自覚がないで休んでしまう子どももいるのでしょうが、そういうところに家庭訪問に行った時に何も理解していない信頼関係がないでは困るわけでして、少なくともわかっていこうという気持ちと、そしてわかるということがどういうことなのかや、人間理解という方法を知っておいた方がいいということになる。そういうためには理論と、そして実践が必要となる。数回のエクササイズを通して、どのような構造なのかがわかってくればいい。

 ◆エクササイズ1・・・自己紹介ゲーム

デモンストレーション−−私と受講生(彼)との対話

*次のことを説明した。

   ・・・「私」の中での「彼」と、「彼」の中での「私」−−主体と客体

   ・・・「傍観者」(皆さん)の見た「私」と「彼」−−客体と客体

   ・・・誤解(経験のズレ)と理解できる部分(共感)

     →→「知的理解」と「感情的理解」

 

   実践:隣、あるいは前後の人と会話する。その後、入れ替わって自己紹介してみる(なりきり)という「理解」の方法(エクササイズ1)(*エクササイズ2は次回以降)

 

 (リアクションペーパーの配布→回収)