生徒指導・進路指導論L(2003年1月17日)

 

生徒指導の歴史   どんな「指導観」があったのか(何に気をつけていくべきか)。本当に考えているのか?

 

これまでの授業で扱ってきたこと・・・

(1)ガイダンス   (2)3つの指導観  (3)知的理解と感情的理解  (4)カウンセリング論の展開  (5)3役の演技

(6)論理療法、カウンセリング論  (7)心と行動のネットワーク−家庭・地域と連携−  (8)PEACEメソッド−私語をなくす?

(9)グループワーク(KJ法) (10)進路指導のデータ分析  (11)「わかりかた」とサイコドラマ  (12)いじめの国際比較

 

 1 近代教育における「指導」観の変遷

(1)日本の明治以降の学校教育から・・・「統制」「管理」主義であったのか?

(2)西洋の教育における指導観・道徳観・・・「自由」か、「自主性」か?

(3)学習指導要領に記述された生活指導・生徒指導を読む

(4)戦後教育における「指導」の側面(方針の変遷)

(5)中央教育審議会の答申から

 

 2 生徒指導の系譜








 

生徒指導論の系譜
ヘルバルトの指導理論(管理主義)・・・管理、教授、訓練→米国でguidance(秩序維持)
   

マカレンコの集団主義・・・社会主義社会における教育学(集団の規律づけ)
   

デューイの生活主義・・・注入ではなく、内在的動機付け(生活体験主義)
   

受容・カウンセリング主義

 

 3 生徒指導上の問題(各データから概観する−図表は略−)

暴力、刃物所持→学校は取り締まる必要がある。

校則→部分社会論。学校は特殊・・・例:エホバの証人、内村鑑三、国旗国歌、体罰。

体罰→なぜ数値が増加?毎年教師が凶暴に?→人権意識の高揚・増大。

少年犯罪の急増→青少年白書から(その波も確認)。

不登校→追跡調査。不登校non attendance、登校拒否School Refusal、恐怖病phablar。日本は鵺(ヌエ)的。「現代型」はドラスティック。どの子もなりうる。複合的。なぜ「我慢」するのだろうか。

 統計数値(資料・略)の上では校内暴力、器物破損、刃物所持等は増加しています。ストレス傾向だといわれるのですね。しかし、暴力等に関しては学校はしっかりと取り締まる必要があります。
 基本的に法律や訴訟、裁判の問題というのは「学校」的にはややこしいし、避けたいところでしょうが、いじめとかの法的責任問題もいくつかの判例は出ているのですね。たしか「いじめられる側も悪い」ではないけれども「さけられたろう」ともいわれます。少年法の問題があったのでしょうが、でも、つまり「さける」ために「学校に行かなくてもいい」ということを法律が言ってしまっているんです。ただし、別として、刃物を所持しているのがわかっているのなら、学校は取り締まる必要があります。何が「いけないのか」を毅然とすることは大切です。
 「校則」は問題になりますが、部分社会論です。学校は特殊な社会なんですね。個人の自由なのか、学校という社会の規制かでいろいろな問題があるわけです。
 「体罰」の問題もその一つです。とくに体罰は数値上で増えているといいますが、これは毎年教師が凶暴になるのではないのですね。だってあまり変わらないのですから。新人教師が多いわけでもない。ですから、人権意識の高揚・増大ではないかとみれる。その表れなら歓迎すべきともいえます。戦後、体罰で死した例は4人なんですね。どこからが体罰なのかという問題もいわれます。殴るかこづくかで許容限度かとも考えられている。
 「少年犯罪」も増えているとか、いや戦時中・戦後に比べれば少ないとか見方が分かれます。あまり決めつけるのは本質的ではないかとも思う。凶悪化ともいわれるのですが、評価はまだしません。それよりも前にもいった「こころの教育」の効果が出ているはずの世代から問題行動が多くみられるのじゃないかという事実です。「何のせいか」という原因探しで家庭やビデオやゲームのせいにするのはもういいと思います。それよりも「生徒指導」で子どもが見えなくなってしまったという事実だけはなんとかしたい。でも、あまくして例えばナイフ持ち込み可なんていうのとはまったく違うのです。そういう大きい問題がある。
 「不登校」は、「学校恐怖病」から「登校拒否」、それが「不登校」にと変わってきた。1990年頃になって変わってきたのです。「特定」のことで「家庭」などが原因とされていた。「恐怖病」だとphablarですね。「病気」とされたのです。もちろん医師にかかるからというのもあった。「登校拒否」と変わったのですが、School Refusalという英語ですが、「拒否」では対立となるが実際にはそうではなく中立的考えが必要かとなったのです。やはり「個人」や「家族」が拒否する原因とされていました。でもRefusalは「すくむ」という状態でして、少しは病気的ともみられていましたね。しかしよくみるとそうではない。多様である。それを含んで概念をつくりあげようとなった。それで「広げ」て「不登校」non attendanceとなった。ちなみに、親が行かせないのは「虐待」になるでしょう。そういう児童の権利として就学の権利があるのですから。前にもいいましたが、欧米ではそんなに不登校はないのです。退学はあります。考え方は違う。いじめに関しても日本とは違うのですね。日本は鵺(ヌエ)的で実態がよくわからない。なんでもかんでも含んでいるというのは「広げ」た弊害かもしれません。「現代型不登校」は随分とドラスティックだと思います。どの子もなりうるし複合的である。さて、私たちはなぜ「我慢」して登校できていたのでしょう。ルソーの社会契約論ではないのですが、何を信じていたのでしょうか。そういう意味でいまにあったコーピングが社会にないといけないでしょう。

 

 

コラム教育とは規制・しつけから始まった
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古代ギリシャにおいてプラトン、イソクラテス、古くはアイスキュロスらがPaideia(一般教養)というものを提起。これは教育論のはじまりとされるが内容は「子どもは人前で口をモグモグしない」「座り方は膝を前に置く」「食事は年長者から」等という、むしろ子どもの養育、躾け、作法ともいうべきものであった。
 この中で教育課程としてはプラトンは数学を重んじていた。17、18歳まで自由に数学・幾何・天文学らを学び、これに20歳までは強制的な体育訓練を加え、30歳ぐらいまでに全体的に結びつける。その後35歳ぐらいまで哲学問答を経て、50歳まで公務につき、それ以降は国政につき、哲学を説くこととした。

 

 日本の今後の指導観をうらなううえでも必要な歴史的な再評価というものをお話ししました。人数多くて、回数も少なくて、まだまだ足りなかったのですが、しかしやっと終わりました。あとは試験です。

  試験及び評価について  以下について勉強してくること。内容でといます。

●生徒指導・進路指導の理想的なありかたとは何でしょうか?(従来の指導における限界は何であったかまで考えて論述すべき)

●論理療法、サイコドラマ、PEACEメソッド、や、各種のエクササイズなどの効果や目的について

●なんらかの実態を示す資料の解説(単純比較ではなく、関係までみていくこと)