生徒指導論(12回目 7月6日)

 

・・・前回の話を補足します。「本質」の探し方なんですが、「医学」ではどう考えられているかという話をしました。

 簡単に例えて話してみます。柳田博明氏(名古屋工業大学学長)は環境と技術について「テクノデモクラシー」という持論を展開されていて、「スパゲッティ症候群」という言葉を造られている。面白い本を書いているのですが、「何か問題が起こると必ず何か余分なものをくっつけて、解決するということになってしまうのが今の技術のいけないところだと思う」というのです。これも「こんがらがってしまった状態」のことです。同じなんですね。私は「技術」だけでなく、まさに現代は「複雑化して本質がわかりにくくなっている時代」であると考えている。帳尻合わせによって本質を求めない社会かな、と。

 柳田氏はインタビュー時に、「例えばこの部屋は暑いから冷房をつける。すると湿度が高くなってて困って、除湿器をつけようとなる。それで、どこかに結露してカビが生えたとする。カビをとる薬をかける。それでそこに住んでる人が病気になる。病院に行って薬をもらう。副作用がでる。そうやって、問題解決を対症療法でやっていこうとするのが『スパゲッティ』です。ますますこんがらがって、そのうちにどこが悪いのかわからなくなってしまう」と例えてお話しをしてくれたのです。

 この教室にもちょうど後から取り付けた冷房があります。大きい教室用だから仕方ないけれど、パイプむき出しで景観としてもいいものじゃないですね。しかしちょうど夏ですがこれをつけているから、だから湿度があがるんですね。壁に結露がある。なぜかというと外気と温度が違うから、空気が冷やされて、その水分が付着して結露するんですね。ここには除湿器はつけられていません。だから壁によってはウェスの中側がカビたりします。そして除湿器でなくとも、クーラーで例えば室外にその空気と水分を流しますね。すると部分的に水が出るところがあって、そこがカビたりもします。・・・そうするとやはりカビにはカビとりをやって、それで薬をつかったりする。それで皆さんが病気になって・・・(略)、そうしたら「原因」はなんなんでしょうかね。いや、原因よりもまずは対処なんですが、しかしこれは「本質的解決」にはなっていないのです。

 心理理解においても「問題の描写」(problem talk)という問題で同じことがあてはまる。どうしても医学モデルでは「解決方法」(solution)を絞って「処方箋」を出すことにベクトルが向かうのであるといいました。効果的な治療薬や手術などの療法があてはめられる。しかし心理的な問題では特に顕著であるが、必ずしも皆が同じ反応や効果があるわけではない。だからそれぞれのその時々の状態にそって可能性や方向性や考え方を見いだしていく、いくつか選択肢を広げていくというのがより現実的ではないか。そのために「臨床」という言葉があるのは言うまでもないんだと。

 これのどこが「スパゲッティ」と同じかといえば、問題解決を単純化しようとしてその一面対象ごとに「即断」することでもある。あるいは判断が極論におちいりやすい。本当はスパゲッティのごとくからまりあったものであるから、本質はもっとその「からまり」を解いていく作業をしなくてはいけない。もちろん一つの結果にあてはめないで多様な道を模索することも「スパゲッティ」的ではあるが、それは実際対処として行なうものであり、この場合は単純に「わからないまま」にある答えを出すことが「スパゲッティ」の弊害なのである。「本質」を探究する。その上で実質的にできることを多面的に考えていく。「こんがらがり」を理解しておくかどうかで意味は大きく変わってくるのです(苅谷剛彦氏の「単眼的思考から複眼的思考へ」という考えも同じであると思う)。

 そう考えると、人間の「本質」にせまろうとするときも、このスパゲッティのようなからまりや循環を整理していく作業が必要である。なるべく人間の「本質理解」を極めるためには、その「人間」そのものを見つめなおす必要がある。余計な肩書や立場や、ふるまいによる恩義、逆に嫌悪を感じることもあろうが、そういうものをとりはらっていかないと「その人間」はわからないのである。

 何故なら、人間は「実感」して「親身」になって、はじめて「わかる」(相手の身になれる)のでしたね。そして「教育学」は「人間学」であるし、「教養学」としても重要なものであると考えている。人間に与える影響、歴史的に果たしてきた役割、・・・人間の登場しない教育はない。その意味で社会科学の中でも重要なものであると自覚しているし、「聖職者」と呼ばれる「教員」をつくるのも大学に託された一つの仕事でもある。それは社会に、そして世界においても、未来においても重要な部分を担っていると責任を感じるべきものです。すると、「人間」をつくる、そして「社会」をつくる、そういう重大な役割を担ったものが、自身が説得力がないときに「それが与える影響」が重要(責任重大)だと思うのです。だから私たちは、セルフカウンセリングではないけれども、「教養」を深めながら学びつづける必要があるのですね。

 いま、市民活動にも関わらせていただいているのですが、市民側も勉強をして、しっかりと社会改革に参画していく意識がないと「結局はなにもかわらない」そういう社会のままなのである。何かがおこれば「学校の責任」という風潮も「学校まかせ」という無関心な距離によって「学校」・「行政」・「市民」の間に「シラケ」があるからではないだろうか。そういうものを、そういうことを、教育学者は「話す」わけである。そして教育者はそういうことに注意しろと「教育する」わけである。そうであるから少なくとも「教育者」の責任感だけは私は妥協したくないのです。これは皆さんも自ら問い続けていただきたいと思います。

 

 

さて、この「生徒指導論」のこれまでの授業をふりかえってみます。

 

 一回目 「生徒指導」の定義。英文表記。昭和62年での指導観「児童生徒の問題行動の根本的な解決を図るためには、個別の問題行動への対応とともに、児童生徒の個性を伸長し、社会性を涵養し、豊かな情操を培うことができるようにすることが大切である。このため児童生徒の生活体験や人間関係を豊かにする取組を充実するなど、生き生きとした学校づくりを推進し、一人一人が充実感をもって学校生活を送れるようにすることが必要である」。消極的生徒指導→積極的生徒指導へ。新しく入った「生徒指導論」(平成2年4月入学生から)。校務分掌。

 

 二回目 「生徒指導」のイメージ。校門指導=とりしまり、管理型。なぜ、「生徒指導」が必要となったのか? 生徒指導→本来、学校教育において児童、生徒の心を育てるための理念・理論・機能・方法を統合したもの(学習指導と並ぶ学校教育の二本柱の一つ)。「わかりたい」→「わかる」ということは、どんなことか? 完全な理解はありえない。

 

 三回目 「わかる」ということは、どんなことか(共感)? カウンセリング・マインドの教師はありえるか? 集団指導と個別指導。ガリレオ以来の国際社会・「社会規範」の必要。サイコ・ドラマ準備。

 

 四回目 「共感」「実感」「仮想体験」「アタマの中の相手」。理解のためのロールプレイングの方法。サイコ・ドラマ「不登校児のいる家族の風景」。資料「平成10年度不登校状態となった直接のきっかけと不登校状態が継続している理由との関係」(文部科学省初等中等教育局児童生徒課『生徒指導上の諸問題の現状と文部科学省の施策について』平成13年)。

 

不登校の要因・起因

その中の詳細な理由(%は全体中)

小学校
 

学校生活に起因(全体の20.2%)

友人関係10.6% 教師との関係2.1%

家庭生活に起因(全体の27.5%)

親子関係15.8%

中学校
 

学校生活に起因(全体の38.4%)

友人関係19.7% 教師との関係1.7%

家庭生活に起因(全体の17.4%)

親子関係 8.3%

 

 五回目 「サイコドラマ」の講評。資料『心と行動のネットワーク』。米国の生徒指導観→クラス、HR(ホームルーム)がない、「いじめ」イメージの違い。佐藤秀夫先生曰く「馬のしつけと近代の教育との関係」。  

 

 六回目 日本の最新の方針『心と行動のネットワーク』。協力と予防の方針。「論理療法」とは。「論理療法」のABC。受容中心ではない「教育的」カウンセリング。「固定観念」の部分をみつけるための方法。  

 

 七回目 「論理療法」(続き)。「健康的」と「病的」。「固定観念」テスト。ゲーム(エクササイズ)1「自己紹介」。「わかる」というアタマの中の状態。主観と観念の世界。論理療法(あなたならどうする)ケース1。

 

 八回目 自己嫌悪・自己否定で引きこもっている少年。「観念的世界観」。「ヒトの身になって考える」「相手の立場になって考える」「親身になる」ことで想像がつく。「劇場」で再現できるのは「仮想体験」が「自分の体験」として「実感」できるから。自己紹介ゲーム(2)。エクササイズ2(2対2)。「受容」から「刺激」へ。

 

 九回目 大教大附属池田小学校の事件と「幻覚」「仮想体験」「観念」の世界。論理療法の続き。「固定観念」をみつける!「そのとき、彼女はどう思ったか?」。「論駁」。滝充のPEACEメソッド(予防の生徒指導論)。「学校」を変える→「教師」だけではなく、「生徒」も「変わる」ことを目的としている。

 

 十回目 もう一度、歴史的に・・・。学校の歴史。思想家。近代教育の変遷。「学習指導要領」の変遷。「最近の若い者は」という意見と規範意識、道徳論。古代ギリシャから教育は「躾け」。生徒指導論の系譜(ヘルバルト→デューイ→いまの受容・カウンセリング主義)。日本近代最初の法制「大学規則」の取り締まり。

 

 十一回目 「心」のない授業、教師。カウンセリングの方法論。「教育・学校」カウンセリングのありかた。

 

 十二回目 今回 ・・・。

 

 

生徒指導の問題点はこれまでやった「不登校」「ひきこもり」だけではないし、その方法もカウンセリングだけではありません。簡単にコメントしておきます。

暴力、刃物所持→学校は取り締まる必要がある。

校則→部分社会論。学校は特殊・・・例:エホバの証人、内村鑑三、国旗国歌、体罰。

体罰→なぜ数値が増加?毎年教師が凶暴に?→人権意識の高揚・増大。

少年犯罪の急増→青少年白書。

不登校→追跡調査。不登校non attendance、登校拒否School Refusal、恐怖病phablar。日本は鵺(ヌエ)的。「現代型」はドラスティック。どの子もなりうる。複合的。なぜ「我慢」するのだろうか。

 

 統計数値(資料・略)の上では校内暴力、器物破損、刃物所持等は増加しています。ストレス傾向だといわれるのですね。しかし、暴力等に関しては学校はしっかりと取り締まる必要があります。

 基本的に法律や訴訟、裁判の問題というのは「学校」的にはややこしいし、避けたいところでしょうが、いじめとかの法的責任問題もいくつかの判例は出ているのですね。たしか「いじめられる側も悪い」ではないけれども「さけられたろう」ともいわれます。少年法の問題があったのでしょうが、でも、つまり「さける」ために「学校に行かなくてもいい」ということを法律が言ってしまっているんです。ただし、別として、刃物を所持しているのがわかっているのなら、学校は取り締まる必要があります。何が「いけないのか」を毅然とすることは大切です。

 「校則」は問題になりますが、部分社会論です。学校は特殊な社会なんですね。個人の自由なのか、学校という社会の規制かでいろいろな問題があるわけです。

 「体罰」の問題もその一つです。とくに体罰は数値上で増えているといいますが、これは毎年教師が凶暴になるのではないのですね。だってあまり変わらないのですから。新人教師が多いわけでもない。ですから、人権意識の高揚・増大ではないかとみれる。その表れなら歓迎すべきともいえます。戦後、体罰で死した例は4人なんですね。どこからが体罰なのかという問題もいわれます。殴るかこづくかで許容限度かとも考えられている。

 「少年犯罪」も増えているとか、いや戦時中・戦後に比べれば少ないとか見方が分かれます。あまり決めつけるのは本質的ではないかとも思う。凶悪化ともいわれるのですが、評価はまだしません。それよりも前にもいった「こころの教育」の効果が出ているはずの世代から問題行動が多くみられるのじゃないかという事実です。「何のせいか」という原因探しで家庭やビデオやゲームのせいにするのはもういいと思います。それよりも「生徒指導」で子どもが見えなくなってしまったという事実だけはなんとかしたい。でも、あまくして例えばナイフ持ち込み可なんていうのとはまったく違うのです。そういう大きい問題がある。

 「不登校」は、「学校恐怖病」から「登校拒否」、それが「不登校」にと変わってきた。1990年頃になって変わってきたのです。「特定」のことで「家庭」などが原因とされていた。「恐怖病」だとphablarですね。「病気」とされたのです。もちろん医師にかかるからというのもあった。「登校拒否」と変わったのですが、School Refusalという英語ですが、「拒否」では対立となるが実際にはそうではなく中立的考えが必要かとなったのです。やはり「個人」や「家族」が拒否する原因とされていました。でもRefusalは「すくむ」という状態でして、少しは病気的ともみられていましたね。しかしよくみるとそうではない。多様である。それを含んで概念をつくりあげようとなった。それで「広げ」て「不登校」non attendanceとなった。ちなみに、親が行かせないのは「虐待」になるでしょう。そういう児童の権利として就学の権利があるのですから。前にもいいましたが、欧米ではそんなに不登校はないのです。退学はあります。考え方は違う。いじめに関しても日本とは違うのですね。日本は鵺(ヌエ)的で実態がよくわからない。なんでもかんでも含んでいるというのは「広げ」た弊害かもしれません。「現代型不登校」は随分とドラスティックだと思います。どの子もなりうるし複合的である。さて、私たちはなぜ「我慢」して登校できていたのでしょう。ルソーの社会契約論ではないのですが、何を信じていたのでしょうか。そういう意味でいまにあったコーピングが社会にないといけないでしょう。

 

 ちなみに、私は、不登校の子、ひきこもりの子への支援といいますか教育プログラムとして生理的計測(体力)を行なうことを構想しています。研究者が社会に役立つ、実効性あるものを考えるのは当然でして、今後実行していきます。(略)

 

  最後に、今後の日本はどういう「指導」へと向かっていくのでしょうか。日本の「教育」改革をざっとみていただきましょう。われわれ日本人は「国民」ですから無関心にならずにこういうものも読んでおきましょう。

 

 「教育改革国民会議」URL http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/index.html 

 教育改革国民会議報告「教育を変える17の提案」(平成12年12月22日)。

 

 報告をまとめるに当たっては、骨太で分かりやすいものを目指し、理念や抽象論を展開するより、具体的で建設的な提案を行うこととした。このため、委員から出された数多くの意見や提言をすべて盛り込むことはしていない。また、必ずしも盛り込まれた提言のすべてが意見の一致をみたものではない。私たちの議論の背景を理解していただくためにも、『分科会の審議の報告』、『中間報告』や『議事録』等もご覧いただくよう希望する。

 

  こういうふうに公開されているのですね。

 「公開された資料」を吟味することが、「国民的」にしていくのに必要なことです。それで第一回目のものだけ、みやすくまとめてみました。

 時間があまりないので授業中には読みませんが、しかし「奉仕の義務」「社会活動」「人生科」「人間科」「道徳や哲学を教える」などと「日本を代表する方々」の意見にあるものは結局は「ちゃんと生徒指導できる教育が必要」ということであり、「規律が乱れている」というのですね。罰することを恐れないなどという提案まですすんでくるのです。前回みた「期待される人間像」と同じです。違和感を感じるのは、政策としては「カウンセリング的」「やさしく関わる」「予防」型生徒指導がいわれているのに、こんなにも意識が違うのですね。ひとことでいえば「公」に個人が従えというようなものです。こんな意見が名士の皆さんの中から出てきている。

 気持ちは複雑です。現場と親と、教師と研究者と、大人と、地域と、ものすごいかけ離れたところがある。しかし、それでも「生徒指導」はしなくてはいけません。「学校」に行く意味を考えながら、個人個人の教師は基本的にはその生徒のために、そしてその生徒を含むクラス、学校のために、やるべきことを考えていくこと。いきつけば「公」になるのを気をつけてやっていくしかないのですね。

 以上です。

 

 最後にエクササイズで「生徒指導」を設定してみます。

 *エクササイズ・・・「生徒指導の風景」

  教師役:1名(コムロくん)、あとはクラスの生徒役

 設定は、生徒会行事等にむけて話し合うホームルーム等。舞台を設定して仮想ですすめる。子どもの気持ちを想像・理解しながら、さらに舞台慣れもしておくことが目的。

 

 コムロ先生→「最近、服装、持物検査の結果がおもわしくなく、職員会議でもたるんでいるぞと注意された。・・・この学校には、いくつか生徒指導・学校のスローガンがある。きみたちの意見もききたい(僕は味方である)。話し合って、それで必要なら職員会議にかけあってもいい。」などと教師役がすすめていく。スローガンには例えば、@「服装の乱れは心の乱れ」、A「いじめをなくそう。見て見ぬふりをしない」、B「遅刻ゼロ! 遅刻者にはレッドカード」、C「清く正しく美しい異性との交際」、D「生徒指導ってどんなもの?」とかでいい。

 この日は、@「服装の乱れは心の乱れ」で行なった。

 コムロ先生→「きみたちの最近の服装や頭髪は、学校の規則をはずれているという意見があったんだよね」

 生徒〇「どうして服装の乱れが心の乱れなの?」と疑義がでて、他の生徒からも意見が出てくる。

 コムロ先生→「では、せっかくだから全員から意見をききたいな」といってホームルームをすすめていく。(*実際の内容は収録しません)

 

 ・・・教師としてどうやって全体の意見を集約しつつ、あるべきと信じる方向へ導いていけるのか、どうやってクラスを運営していくのが問われる。その練習用のエクササイズで「場面設定ドラマ」である。

 最後に・・・試験、頑張ってみてください。基本的には「邂逅」ということばがあるんですが、意味は「出会いを喜ぶ」とことなんですね。そういう出会いが喜べる社会であってほしいし、基本的に喜ばれる人間であれ教師であれ、なってください。こういうのは大きなお世話なのですがそういう社会になるといいと思っています。おつかれさまでした。

 

なお、最後の授業であったため時間が十分でなかったが、どのエクササイズでも積極的に参加してくれたことがよかった。それは受講者の意識であり、能力であったと思う。「科学的」でないことをいうが、それをみて「安心しています」。いい教員の資質とは、そういう責任感と対応を本人なりに最大限考えていくことだと思っているので・・・。

 ありがとうございました。 まだまだやりたいことがあったのですが、十分にできないままでした。反省点が多くあります。

 なお、テストやお約束どおりに、講評コメントをつけて返却いたします。研究室にお願いして11月までには返却したいと思っております。(古賀)

 

 

 

<資料>

第1回議事録

議事概要

 

開会
小渕内閣総理大臣挨拶
中曾根文部大臣挨拶
江崎座長挨拶
討議
閉会

【小渕総理】このたびは、教育改革国民会議への御参加を御了承賜り、ありがとうございます。「教育改革国民会議」の第1回会合が開催されるにあたりまして、一言ご挨拶を申し上げます。
 私は、我が国の明るい未来を切り拓き、同時に世界に貢献していくためには、創造性こそが大きな鍵であり、創造性の高い人材を育成することが、これからの教育の大きな目標でなければならないと考えております。こうした観点から、私は、教育改革を内閣の最重要課題に位置づけ、「教育立国」を目指し、社会のあり方まで含めた抜本的な教育改革について議論していただくために「教育改革国民会議」を開催することといたしました。   (略)
 施政方針演説でも申し上げましたように、これからは、個人が組織や集団の中に埋没する社会ではなく、個人が輝き、個人の力がみなぎってくるような社会に転換することが求められております。個人と公が従来の縦の関係ではなく、横の関係となり、両者の共同作業による「協治」の関係を築いていかなければならないと考えます。そして、そのような、次代を担う人材を育むために、今を生きる我々が取り組むべきことは何なのか。自由と規律の調和を描いた著作は私自身に一つのヒントを与えてくれていると感じております。
 さて、私は、教育は国家百年の大計と常々申し上げており、皆様には百年の大計をつくるという思いで、腰を据えた、密度の濃い議論を積み重ねていただきたいと思います。
 すなわち、教育改革とはなんぞやという原点に立ち返って、戦後教育についての総点検をすることが必要であると考えております。
 それとともに、いじめや不登校、学級崩壊、学力低下、子どもの自殺などの深刻な問題がなぜ起こっているかについて、教育の基本に遡って、幅広くご議論いただくようお願い申し上げます。


○小渕内閣総理大臣、中曾根文部大臣、江崎座長挨拶の後、オブザーバーからの挨拶及び各委員からの発言は以下のとおり。






















 




























 

【中曾根文部大臣】教育改革国民会議第1回会合に当たり、ご挨拶を申し上げます。
 我が国が活力ある国家として発展をし、さらには他国から尊敬をされ、世界の繁栄に貢献できる国となることを目指していくためには、あらゆる社会システムの基盤となる教育について、不断に改革を進めていく必要があります。
 文部省といたしましても、これまで、中央教育審議会等各審議会の答申などを尊重しつつ「教育改革プログラム」を策定して諸施策を実施し、教育の改善・充実のための努力を行ってきたところであります。
 しかしながら、近年いじめ、不登校、また暴力行為など、子どもの問題行動が憂慮すべき状況となっておりますが、これらの背景には、子どもたちを取り巻く環境の著しい変化や社会全体のモラルの低下があり、学校だけの力でこれを解決することは困難であります。このため、学校、家庭、地域の緊密な連携の下、「心の教育」の一層の充実を図るとともに、我が国の明日を担う青少年の健全な育成に、私たち大人一人一人が真剣に取り組むような機運を醸成していくことが重要であります。
 また、21世紀の我が国を担い、世界に貢献できる創造性に富む人材をいかに育成していくかなども重要な課題であります。
 教育改革国民会議の皆様方には、ただいま総理からもお話がありましたように、新しい21世紀を迎えるに当たって、戦後教育についての総点検を行い、また、教育の根本に遡った幅広い立場からの御議論をいただき、国民的な議論の輪を広げていただければと考えております。 (略)


















 



















 

【江崎座長】教育改革国民会議の座長を務めることになりました江崎玲於奈でございます。会議の始まりに当たりまして、御挨拶申し上げます。
 はじめに総理から座長への要請があったとき、一旦躊躇いたしましたが、考えてみますと私が今日あるのは、私が受けた教育のお陰ではないか、教育への貢献はその責務のように感じましたのでこれをお受けした次第でございます。
 今世紀、科学・技術文明は素晴らしい発展を遂げ人類に大きな利益をもたらしましたが、その一方で、地球環境の汚染など深刻な問題を惹起しました。21世紀、我々の文明は軌道修正を行いつつ、新たなフロンティアの開拓や未来への挑戦が活発に行われ、さらなる発展を遂げることは疑いありません。
 甚だ単純に考えまして我々の知性、英語ではマインドと言っていいかもしれませんが、能力は大きく2つに分けられると思います。1つは物事を解析し、理解し、判断し、公正に分別する能力、英語ではジュディシャス・マインドと言っているんじゃないかと思います。もう一つは豊かな想像力と先見性の下に新しいアイデアを創造する能力、これはクリエイティブ・マインドでございます。これが総理、あるいは文部大臣が強調された創造力でございますが、この創造力こそ改革、進歩の原動力となって、人類文明を発展させ、今後も発展させるものでございます。もっとも、文明の維持には専ら分別力が求められるでしょう。政府の三権というのがございますが、行政と司法は分別力が必要で、立法は特に創造力が求められるんじゃないかと思っております。
 このように2つの能力が相互に作用し合って、一層、力を発揮するのですが、ここで創造力は個性的であり、未知への挑戦だとしますと、分別力は没個性の側面を持ち、既存のものを取り扱うということが言えるのではないか。
 ここで問題なのは、学校教育は主として分別力を養成することに努めてまいりました。今後、いかに創造力を育てるかが教育改革の大きな課題ではないでしょうか。
 教育の問題は幅が広く、例えば、知識偏重型の教育、いじめ・不登校の問題、核家族化、子ども数の減少、人口の都市集中の中で家庭や地域の教育力の低下など、様々な問題が指摘されております。また教育に寄せる思いや考え方は、非常に多様であると存じます。ここでは、現象論的ではなく、教育の根本にさかのぼって、根本からの議論が求められていると受け止めております。 (略)




























 

1925年生まれ。1947年東京大学理学部物理学科卒業。神戸工業、東京通信工業(現・ソニー)、米国アイ・ビー・エム、ワトソン研究所主任研究員を経て、1992年筑波大学学長に就任した。本年4月より現職。1957年画期的なエサキ・トンネルダイオードの発見という業績により、1973年ノーベル物理学賞を受賞した。その後超格子など半導体量子構造の先駆的研究により1998年に日本国際賞を受賞。また、1974年に文化勲章、1998年勲一等旭日大綬章を受章し、日本学士院会員となっている。主著に『個人人間の時代』(読売新聞社1988年)、『個性と創造』(読売新聞社1993年)、『創造力の育て方・鍛え方』(講談社1997年)などがある。











 

【戸田議員】自由党の参議院の議員の戸田邦司でございます。
 教育改革国民会議につきましては、私ども長い間の念願でありまして、本日こうして第1回会議を先生方の御協力も得て開催できたということを、私ども自身、心から喜んでおります。
 知育・体育・徳育、こう言っておりますが、特にこれまでの教育の中で徳育の点については、なかなか現場で先生方が教えるのは難しい部門ではなかったかと思っております。また、町村元文部大臣からもお話ございました。これまでの挨拶の中にもございましたが、この会議で特に議論していただきたいと私が思っておりますのは、教育の問題の基本的な問題、根幹に関わる問題、根本的な問題、そういった点について十分先生方の御意見をお伺いできれば、こう思っております。
 当然のことながら、教育基本法の改正問題も御議論いただけるものと期待しております。これからもどうぞよろしくお願いします。

(戸田議員)
 これまでの教育についてみると、特に「徳育」が現場で教えることが難しかったようだ。会議では専門家の御意見も伺いながら、教育の基本・根本に係る問題につき御議論いただきたい。
 また、教育基本法の改正についても御議論いただけるものと期待している。


 











 

【太田議員】公明党の太田昭宏です。
 私は今まで、いわゆる文教行政ということには携わってきませんでした。なぜ太田さんが入るんですかという新聞記者からのお話がさまざまありますが、いくつか気になることがありまして、私はこの会議に参加をさせていただき、陪席をさせていただいて、議論をこれから、どれだけの期間になるかわかりませんけれども、聞かせていただくということについて大変感謝申し上げ、喜んでいる次第でございます。
 いくつか気になることがあるんですが、やはり日本では教育が大事ですねということは、政治家の議論の中でも最後に、経済が論じられ、さまざまなことが論じられて、太田さん、結局、最後は教育だねと。ため息で「以上終わり」、というような議論が非常に多いような気がします。
 21世紀の日本を考える場合に、今、私たちの課題は21世紀日本の形をどうするかということであろうと考えますと、もっともっと教育というものが第一義のテーマでなくてはならないし、あるいは環境とか人権とかいうことが日本の大きな課題にならなくてはいけないということで、こうした会議が持たれるということは大変私はすばらしいことではないかと思っております。
 また、私は党の憲法調査会の座長もやっておりまして、その成立過程とか、さまざまなことの議論を今、聞いてきているわけですけれども、ある意味では日本のグローバリゼーションの中での日本のアイデンティティー、ナショナル・アイデンティティーというものは極めて重要だなと。そこを深めていくことなしに、だめだなということを痛感をしております。
 ちょうど100年前の1899年、新渡戸稲造さんが『武士道』を書いたのはそのときだと思いますし、また、その仲間でありました内村鑑三さんが『代表的日本人』ということを書いたのもその当時であろうと思いますけれども、ヨーロッパ文明というものの風波を一方では受容しながら、そして日本人の根源的なアイデンティティーというものを探し求めていたという、ちょうど100年前の状況と今は、豊かさの中でグローバリゼーションの中でのナショナル・アイデンティティーというものを探すということについては、私は同じ試みがあるのではないかと思っておりまして、そんな思想的、あるいは哲学的な深みのある論議を皆様方の中でされていただいて、私はそれを参考にさせていただきたいなと思っております。 (略)

(太田議員)
 我が国の議論においては、経済などがまず優先されがちだが、教育という問題こそ根本的で一番重要な問題である。
 公明党の憲法調査会でも議論となっているのが、グローバリゼーションが進む中で、日本の「ナショナル・アイデンティティ」を如何にして確立するかという問題。現在の日本の状況は、百年前の日本が置かれている状況と類似しているが、当時、新渡戸稲造とか内村鑑三は、西欧化の中での日本人のナショナル・アイデンティティを論じており、この会議ではそういった哲学的な議論も期待したい。
 また、我が国を支える技術力の低下を大変憂慮しており、高等教育、大学の在り方についての議論も期待したい。








 



























 

【浅利委員】座ったまま失礼いたします。一番最初の発言者ですから、皆様のおっしゃりにくいこと、政府ご関係の皆様には少しお耳が痛いことを申し上げるかもしれませんが、お許しください。
 私は佐藤内閣時代の中央教育審議会以来、政府関連の多数の審議会に出席してまいりました。審議会は衆知を集めるもので、それが政策に反映されると承知しております。どの審議会におきましても、良いご意見がまとめられて答申になりましたが、実はほとんどそれが正確には実行されておりません。こういう言い方がお許しいただけるならば「行政府の皆様が、ご自分の都合のいいところをつまみ食いする」という形が、今までの答申取扱いについての一般であったと思います。今回の教育改革国民会議におきましては、これだけのメンバーがお揃いですので、真剣なご議論の末、良い答申が出ると思います。それを必ず実行していただくということをまず最初に小渕総理、そして中曾根文部大臣にお願い致したいと存じます。
 二つ目に申し上げたいのは、教育問題は本質論の議論が多いと同時に、観念論に傾き易いということです。私はできるだけ具体的な問題についてお話をしたいと考えております。例えば私の永年の親しい友人である、あるジャーナリスト、この方は東京大学の仏文学科を出られて、日本経済新聞に勤続された方ですが、将来何になりたいかとうかがった時、しみじみと「晩年は故郷熊本に帰って、小学校の教員がやりたいんだ。でもそれは資格がないからだめなんだよ」と残念そうにおっしゃっていました。私はこのような文化関係、マスコミ、あるいは企業、一般社会でいろんなご経験を積まれた方が、教育現場において子供たちを指導できるように、全面的に教員免許を見直していただくことが大事ではないかと思います。
 また今、モラルの向上、つまり子供たちにおける道徳教育の問題がかなり取り上げられています。この場合、戦前の「修身」の時間の復活のようなことではなく、「人生」という時間を設けてはいかがでしょうか。偉大な生涯を送られた方の人生を振り返り、子供たちに語り聞かせるということ、例えばガンジーでも、日本人でも、歴史上の人物でも良いと思います。そのように人の人生について思いをはせることで、自然に倫理や道徳が身につくのではないかと思っております。
 もう一つ私が考えておりますことは、私だけの意見ではなく、できるだけ多くの知性豊かな友人たちの意見、特に作家の友人の意見を反映したいということです。実はこの会議に出席する前も二人の方に電話をして「あなただったらどういう提案をするか」と尋ねてみました。一人はイタリー在住の作家・塩野七生さん。彼女が言うには、イタリーでは、教育において、義務の部分とサービスの部分を分けているそうです。日本のように、何でも一つの義務教育の中に収めてしまうのは、問題ではないかと言っておられました。教育の義務の部分を少なくして、サービスの部分を多くする、そしてサービスの部分は選択権が行使できるという形にするのが良いと提案していらっしゃいます。城山三郎さんは、授業が始まる前に十分間だけ、読書をする習慣をつけてはどうかとおっしゃっていました。マンガの本以外ならどんな本でもいいじゃないかと。これも一つのご見識だなと思いましたので、本日ご紹介させていただきました。
 どうもありがとうございました。

(浅利委員)
 劇団で40年にわたり、小学生に対して自己犠牲や友情についての芝居を見せてきたのが私と教育との関わりである。
 これまでの政府の審議会の答申は内容を読むと立派なものばかりだが、実行されていないものばかりであり、小渕総理には是非覚悟を決めて取り組んでいただきたい。
 また、教育についての議論は本質に近づくほど観念論となってしまうので、例えば、社会人が教員になれるようにすることなど、なるべく具体論で議論したい。
 戦前の修身の授業のようになってはいけないが、例えばガンジーや日本の偉人などの人生を学ぶことができるような授業を行うべきであり、その中で道徳観や倫理観を養っていくべきである。
 また、友人の意見も紹介していきたいと思っており、城山三郎氏は、授業で十分間読書をさせること、塩野七生氏は、教育について義務とサービスとを分けることが大事であると考えている。













 



浅利慶太(あさり・けいた)
劇団四季代表。
1933年生まれ。1953年慶應義塾大学在学中に、劇団四季を結成。劇団四季が上演した演劇作品、ミュージカル等の公演のほぼ全作品についての演出、制作を手がけ、さらにベルリン・ドイツ・オペラ、英国ロイヤルシェイクスピア劇団等の海外企画を数多く招聘プロデュース。ミラノスカラ座、ザルツブルグ音楽祭等、海外でのオペラ多数を演出。またイギリス、中国等への海外公演も手がけている。芸術選奨文部大臣賞、アッビアーティ賞、シェイクスピア演劇賞等多数受賞。中央教育審議会、第二国立劇場設立準備協議会、「田園都市構想研究グループ、文化の時代研究グループ」など、多数の政府審議会委員等を歴任し、慶應義塾大学講師も務める。主な演出・製作作品に『ジーザスクライスト=スーパースター』『蝶々夫人』『李香蘭』などがある。















 

【石原委員】石川県金沢市教育長の石原と申します。
 地方の義務教育の公教育を担当しておりまして、つくづくと義務教育における公教育は社会の縮図、そのものであるということを日々痛感しております。さまざまな家庭の問題や御意見、地域の環境やニーズ、その複雑な多様性の中で学校現場は子どもの教育以前にそれらへの対応に日々追われているという現状の一面も大変大きい課題ではないかと思っております。
 私はこれからの生涯学習社会、および地方分権時代に対応した学校教育、特に義務教育の在り方について、是非ここで
御議論をいただけましたら、大変心強いと思っております。
 なぜなら、まず学校は人生の何を準備させるところなのか。特に義務教育という年齢段階において、何を、どのように国として、あるいは大人が次世代を育てる責任者として子どもたちに教えていくかということについて、保護者と教職員の間ですら、共通認識が困難であるというのが現状でございます。子どもたちにとってこのことは、一体何を手本にし、先ほど人生の軸というのがございましたが、生きる軸、基本というものを身に付けさせるかということについて、非常に不安定な状況にあるということを意味しており、私は大人の責任ではないかと思っております。
 その意味では、学校が人生の何を準備させるのか、義務教育というのは一体これからの生涯学習社会の中で、何を具体的にするかという社会的な合意形成が大変重要ではないかと思っております。
 さらに、学校が子育て機関という現状になっているという状況があります。学校はあらゆることを引き受けております。学校が家庭や地域の教育の下に、教育機関としての機能をしっかりと果たせるということが大変重要だと考えておりますが、現実は子どものしつけや、友人関係、人との付き合い方、食事の仕方、健康問題等、そういうことにつきましても、保護者の要望も強く、いわば学校教育の一環として対応せざるをえないということがございます。
 一体親は何を子どもにきちんとしつけなければいけないのか、地域と言いますけれども、地域の教育力とは具体的に何を指して、どのような合意形成ができるか、こういうことが大変子どもにとっても大人にとっても重要なことではないかと思っております。
 特にこれからの社会で、先ほど創造性という問題がございましたが、戦後平等という点については、教育の機会均等等、私は一定の成果を上げることができ、そのことはきちんと高く評価すべきことだと認識しておりますが、21世紀に向けて、平等から公平の原理へと教育の在り方も変えていく必要があるのではないかと思っております。個に応じた公平な教育、それが義務教育の中でどのように実現できるかということは、大きな課題ではないかと思っております。
 また、この4月1日から地方分権一括法が施行されますが、特に義務教育の場合、子どもたちが地域の人たちにきちんと見守られ、身近に大人の手本があるということが大事だと思っております。地域の学校として、学校教育が大人たちの責任の下にきちんと機能するためには、学校を設置している当該自治体が責任を持って教育に当たっていけるという仕組みも、更に充実していくことが大切であると思っております。 以上でございます。よろしく御指導のほどお願い申し上げます。

(石原委員)
 地方の公教育・義務教育を担当してきた経験から発言していきたい。
 地方の義務教育を担う小・中学校は社会の縮図であり、学校の現場は、地域や家庭の問題や親からの様々なニーズへの対応に追われているという状況がある。
 現状では、学校で何をどのように教えるべきなのかという問題について、家庭・学校・地域に共通の認識がない傾向が強く、今後は社会の合意を形成していくことが重要である。
 また、教育の機会均等が成し遂げられたことで「平等」は一応達成されたので、今後は「公平」という観点について考えていくべきである。























石原多賀子(いしはら・たかこ)
金沢市教育長。
1946年生まれ。1969年東京女子大学文理学部社会学科卒業。1973年東京都立大学大学院社会科学研究科修士課程修了。1977年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。1978年金沢大学医療技術短期大学部講師。1985年金沢女子大学短期大学講師。1987年北陸大学教養部助教授。1988年金沢市教育委員会委員。1991年金沢市教育長。教育課程審議会委員などを務める。
























 

【今井委員】(社)日本PTAの理事をしてます今井です。私の子どもは今、中学校1年と3年で、ちょうど義務教育まっただ中の親の代表ということで、こちらの方に参加させていただいています。今の教育というのは、私ども素人が口出しできるほど簡単な問題ではないと思うんですが、現場を支えている私どもは、いつも悩み、不安を抱きながら日々を送っておりますので、そういう声をこの会議に是非届けたいという気持ちで参りました。
 まず、大きく6点ほど意見を述べさせていただきます。
 初めにIEAの調査によりますと、我が国の子どもたちは、国際的にトップレベルの学力水準があるにもかかわらず、応用力が弱かったり、数学や理科がきらいという何とも矛盾する結果が出ました。学校は何を学ぶところなのか、明確な理念を持たないで、社会の要請に応え、教育内容もどんどん高度化、複雑化してきました。いくら親や先生があらゆる努力をすれば報われるの精神で叱咤激励しても、子どもたちはもう消化不良を起こしています。私ども日本PTAの調査では、授業のわかりにくい子どもたちは小学校で3割弱、中学校で5割、あとは中学校で7割が塾が補完をしているという現実があります。まずこの矛盾した現実をどう考えるのか。今、教育内容が削減されてきていますが、やはりその辺りを基礎・基本をはっきりとして、少人数学級を実現し、授業についていけない子どもたちをなくしてほしいと思います。
 次に、現在の親はしつけから勉強のできる子へ、子育ての目標が大きく変わってきています。自分の子どもがよい学校に行っていないと恥ずかしい。また、受験に失敗すると子育てに失敗したというような感覚は、特に今、母親に強く表れています。みんなと一緒がいいと思う反面、差を付け、優越感にひたりたくなる親、自分の子育て、ひいては自分自身の生き方を世の中に認めてもらいたい表れでもあります。この欲望をひもときしない限り、違いを認める個性化教育の推進は画にかいた餅になるのではないかと思います。
 3番目に、本来親が身に付けてきた知識や知恵、あるいは地域の文化を次世代に伝えることは、教育の原点ですが、家庭や地域はその教育能力を失いつつあります。人としての在り方をベースに、個の自立が社会の双方向と生かし合ったとき、私たちは不安を忘れ、幸せや生きる喜びを感じることができると思います。地域の人々も少子高齢化などで嘆くばかりでは魅力的な地域づくりは推進されません。子どもたちは地域の力であり、ひいては地域の後継者になる可能性もあるわけですから、ピンチはチャンスの発想で学校と一緒になって地域教育の推進をしてほしいと思います。そのためには、学校も地域に一層開かれる必要があります。
 4番目に、学級報告の中で、子どもの心はわからないと嘆く前に、教師の技術力量も磨いてほしいと思います。更に学校や先生に対する地域や保護者の評価も加え、適性を欠く先生の配置転換の基準等も明確にしてほしいと思います。学校はだれを守るところなのか、はっきりさせてほしいと思います。
 5番目に、生涯学習が推進されれば、子どもを勉強漬けにする必要はありません。さまざまな子どもたちが自分の好きなところで学べはいいと思います。この選択の自由、やり直しのきく自由、やっては戻り、やっては戻りの試行錯誤の自由、これが今の子どもたちに一番求められているような気がします。
 それから、国民にわかりやすい自己実現のマップを提唱して、学歴偏重の単一の価値から、是非国民を解放してほしいと思います。
 最後に、日本PTAでは、広く国民の間で生涯学習の振興、青少年の健全育成や教育について考える機会を設けることを目的に、国民の祝日として、「教育の日」の法制化に向けた取り組みをしています。今こそ学校、家庭、社会、いや国民みんなが自分にできることを精一杯やる国民運動に展開していくチャンスです。この席でも是非前向きの御検討をいただければと思います。
 以上です。

(今井委員)
 本会議では、日本PTA、母親として意見を申し上げたい。
 IEA(国際到達度評価学会)の調査では日本の子どもは、学力は高いが応用力は弱く、理数系が嫌いという結果が出ている。「学校は何を学ぶところなのか」明確にしないで教育内容を複雑化・高度化させてきたため、子ども達が消化不良を起こしている。PTAの調査では、授業がわからないという子ども達は、小学校3割、中学校で5割、あとを塾が補完(中学校で7割)しているという現実がある。教育内容を削減し、学校では少人数で基礎基本をしっかりと教えるべきである。
 親が子どもに求めるものは躾から学力へと変わってきており、子どもが良い学校へ行くことで優越感を持つという感覚を変えない限り、教育改革は実効的なものとはなりえない。
 家庭・地域が知識・知恵を次世代に伝える力が低下している。子は「地域の宝」という意識を持ち、学校とともに地域教育の活性化を図って行くべきである。
 教員の能力を向上させるため、家庭・地域から評価を受けるようなシステムにするとともに、適性を欠く教員の配置転換についての基準を明確にするべきである。
 また、生涯学習を推進することで、子ども達の選択の自由、やり直しの自由、試行錯誤の自由が確保され、勉強づけの解消になる。
 「教育の日」の法制化を
はかることにより、教育改革を国民運動として広げていきたい。










 



今井佐知子(いまい・さちこ)
社団法人日本PTA全国協議会会長。
1958年生まれ。1981年北里大学卒業後、味の素(株)研究所に勤務。1994年大留蒲鉾(株)

取締役。1998年山口県PTA連合会会長。1999年社団法人日本PTA全国協議会理事となり、2000年6月より現職。生涯学習審議会委員、NHK中国地方放送番組審議会委員、山口県社会教育委員会の委員も務める。































 

【上島委員】上島一泰でございます。大阪から、参りました。9歳の男の子と、5歳の女の子の2児の父親です。経営学を勉強し、イギリスの大学に約3年半、仕事の関係でブラジルに2年ほどおりまして、20代は殆ど海外で過ごしました。今は、日本青年会議所の会頭を務めております。
 日本全体で、教育のことを国民全体で、本気に議論していくという会議の委員にご指名いただいたことに大変感謝いたします。青年会議所は、今全国749か所の地域にあり、約6万人のメンバーを有する、中小企業、零細企業の青年経済人の組織であり、また、小学校、中学校の親の世代であります。20歳から40歳までが会員資格です。今、我々としても、教育というのは、地域があくまでも主体なんだということに軸を置いて、学校、先生、家庭、親や地域全体で子供を育んでいこうとしています。その中で、会頭として今年は、「地域の先生づくり」という事業にも取り組んでいます。教育改革の大切さを重要課題としていた中でのご指名であったので、是非、地域の声として、また、これからの30年間、日本の責任世代として大いにいろんな意見を発信させて戴きます。
 1月末から47都道府県を訪問しておりまして、今、25都道府県を回りました。現場の声を聞いておりますと、殆どの皆さんが教育に関しては、既にそれぞれの地域の中でどういう人をこれから育てていけば良いのか。また、教育とは何ぞやという議論は、既にスタートされておられます。大いに悩まれているというのが現状と感じました。
 現実の親としては、例えば大都市であれば、麻薬の問題、いじめの問題など社会的不安をすごく感じている中での教育をどう見ていくのか。また、地方の方へ行くと、中学2年生ぐらいであれば、どちらかというと、少し学校を抜けてカラオケにいくのが問題であるというのが現状で、これは皆さんもご承知のことだと思います。地域の現場の実態を十分に、事実は事実として認めた上で、どうこれからの21世紀に向けて、ここ30年間ぐらい、日本は、どのような人を育んでいけばよいのか、また、教育とは何ぞやという大きな指針を、この会議でだしていきたいです。できれば1年以内に、「我が国の教育のかたち2001」というテーマで、まとめていければと思っております。
 特にこれからの世代、私どもの世代というのは、40歳以下
は、ちょうど共通一次試験が始まった世代で、その世代が、親となり、学校の先生となってくる。偏差値教育を受けてきたうえに、知識詰め込み型できたので、何の為に勉強するのか考えたこともない、受験ばかりしてきた世代が親になり、学校の先生になってきます。
 その世代が、あまりの詰め込み教育の弊害を緩和するために、ゆとりの教育システムや生きる力を目的にして教育を、次の世代に教えていかなければならない時代となり、世代間ギャップが起こってくるのです。
 だからこそ、まず親やこれからの先生に、何の為に教育をしていくんだということを明確にして、みんなが自分の言葉で理解をしていくことを共有した上で、この20年間ぐらいの世代間ギャップを埋め、次の日本を背負っていく世代への教育をしっかりしていくことが大事だと思っています。21世紀の教育の方向性を出していく、会議にしたいです。

(上島委員)
 二児の父、日本青年会議所の代表としてコメントしたい。
 青年会議所は20代から40代の青年経済人、また小学生、中学生の親でもある会員を60000人有していますが、教育の主体は地域が行うものとして、「地域の先生づくり」という活動をしている。私自身、25県ほど回って、現場の声を聞いてきているところである。
 大都市圏ではドラッグの問題や社会不安があり、地方では授業を抜けてカラオケに行ってしまうなど、地域によって問題の状況が違うが、これらの現実を踏まえた上で、できれば1年以内に、今後20年、30年を視野に入れた、どのような教育が望ましいか、また、どのような人を育てるのか、大きな指針をまとめたい。
 共通一次世代が親になってきており、何のために勉強するのかわからないまま勉強してきた世代が、「ゆとりの教育」を教えるというギャップが存在している。まず親や先生に対して何のため教育をするのかを示すことにより、この世代間ギャップを埋めていきたい。







 



上島一泰(うえしま・かずやす)
社団法人日本青年会議所会頭。(株)ウエシマコーヒーフーズ代表取締役社長。
1961年生まれ。1983年甲南大学経営学部経営学科卒業。1986年バッキンガム大学経済学部卒業。1987年(株)ウエシマ入社。取締役国際部長を経て、1999年代表取締役社長。1999年7月社名を(株)ウエシマコーヒーフーズに変更。

























 

【牛尾副座長】教育問題は全く自信がないんですが、そのようなことを副座長になった人が言うとよくないので、経営者というのは、料理のレシピを与えられても、それに該当する材料が半分くらいなくてもおいしい料理をつくるというのが大体経営者という職業の本分であります。教育の悪いところもいっぱいあるけれども、そこから出てきた悪いのでいい業績を上げることは十分可能なので、そっちの方向に物を考えるものですから、そもそも学校が悪いは言いません。今、先生がおっしゃったけれども、経営者が集まりますと、大体世の中が悪いときには政治が悪いんだと。政治を悪く言ってもなおかつだめな場合には教育が悪いと言って終わると。この2つだけは言うまいというのが我々の鉄則ですので、それを言わなければならないのは非常に大変な状況です。
 昔アメリカで「暴力教室」とか、麻薬や内部告発やいじめなどのすごいのを見ると、日本はこんなことは絶対ないと20〜30年前思っておりましたら、全部出そろったわけです。やはり日本にも来るんですね。
 どこが違ってきたのかというと、教育改革は旧制制度から新制制度に変わった。私はその端境期に旧制の高校から新制の大学に入ったものですから、大変に苦労した世代ですけれども、あの時代のような変化はできないということはわかりますが、しかし、決して悪い状況ではなかった。結構立派な人が育っている。私もこのように立派に育っているわけです。なぜよかったかというと、人がよかったんです。いい先生がそのまま残っていたし、学生も、戦争中の小中教育というのはよかったんでしょうね。
 しかし、その後状況が非常に変わって、日本は貧しい国であるときに非常にすばらしい哲学は持てるんだけれども、豊かになるといい哲学がない。製品はあるけれども、豊かな、清らかな人は少ない社会でありますから、まず豊かさに即応する教育というのは1つ大きなテーマになるであろう。
 2番目は、女性の方が働くようになって、また、女性の人が遊ぶようになって、母親中心の家庭教育から母親が抜けてしまったということをどうするか。
 3番目は、おじいちゃん、おばあちゃんというのは大きな家訓の継承者であったのが、核家族になって別々になった。平気で親の悪口を父親母親が言うということで育っているという、祖父、祖母、いわゆる伝統というものの、物理的になくなったときにそれをどう埋めるかという問題があるだろう。
 もう一つは、長寿化ですね。立派な人が惜しまれて死ぬからいいんで、皆生きているような社会になったときに、子どもの教育というのはどうなるんだろうか。こういうことも真剣に考える必要があると思うんです。それに情報化という現象が出て、最近小学校の4、5年生になりますと、教師よりも生徒の方が情報量が多いんです。これは企業でも売り手よりも買い手の方が情報量が多いんです。こういう社会というのは従来の価値が全部逆転してしまう。これをどうするのか。 それと、先進国日本になったということで、すべて貧しさの中で教えてきた二宮金次郎が豊かになったらどうなるかということを考えないといけない。
 最後は国際化という、本当に世界中がリアルタイムで何もかも知れる時代になると、「21世紀日本の構想」懇談会で提言された「英語公用語論」というのは言い過ぎですけれども、必要な道具としての英語が絶対にしゃべれないとだめだということが当然出てくるし、インターネットという情報源は、いろんな雑誌よりもはるかに大きな情報量を持っている。我々の世代は、活字世代で、昭和35〜36年から映像の世代が始まり非常に変化が加速された。それが10年くらい前からネットワーク、ネットの世代だと。3つの世代だと情報的には三重に共存しているという、そういうときの教育はどうなるんだ。
 だから、制度そのものの理念を議論する専門的な分野と、それなりにやっていたいい制度が大きな情報が変化した場合に、どういうふうに即応していくかというプロセスを考えることも非常に大事だということを申し上げたいと思います。
 以上です。

(牛尾委員)
 材料がなくても与えられたものでおいしい料理をつくるというのが経営者の感覚であり、教育が悪い、政治が悪いと言っても仕方がない。
 日本の状況についていえば、米国で20年前、30年前に起こっていたことが今現実に起きている。日本人は、貧しいときの哲学というのは持っているが、豊かなときの哲学というのを持っていないので、豊かさに対応した教育を考える必要がある。
 また、母親中心の教育が女性の社会参加に伴って機能しなくなっていること、祖父母とともに住まなくなったことにより道徳が軽視されていること、長寿化により立派な人を惜しむという感覚がなくなったこと、情報化の進展により教師より生徒のほうが多くの情報を有するという逆転化現象が生じていること、国際化の中でツールとしての英語教育の必要性が高まっていること等の状況の変化に合わせ、見直しを検討していく必要がある。






















牛尾治朗(うしお・じろう)
ウシオ電機(株)会長。
1931年生まれ。1953年東京大学法学部政治学科卒業後、東京銀行に入行。1957年カリフォルニア大学大学院修了。1964年ウシオ電機(株)を設立、社長に就任。1969年日本青年会議所(JC)会頭。1979年ウシオ電機会長。1981〜83年第二次臨時行政調査会専門委員。1995〜99年経済同友会代表幹事。1996年日本ベンチャーキャピタル株式会社を設立、会長に就任。

































 

【梶田委員】京都ノートルダム女子大学の梶田と申します。
 今、文部省が28も新しい四年制大学を今度認可してくだすったものですから、650の四年制大学ができまして、今18歳人口が151万人ですね。8年前の200万以上の子どもがおりまして、500の四年制大学。これから7、8年すると、いろんな予測がありますが、50校や100校四年制大学がつぶれていくだろう。つぶれても別に悪くないんです。ただ、私も1つ今あずかっていますから、ほかのところがつぶれて欲しいと思ってやっているわけです。
 ただ、その中でいろんな高等教育についての新しい、私どもは新・新制大学と言っているんですけれども、もう新制大学の時代は終わったと。新しい時代の高等教育の在り方を本気で考えなきゃいけない。こんなことを今、仕事の上では考えております。
 私は本職は、ミクロの話で心理学をやっているんです。ただ、河合隼雄先生とは大分違うんですけれども、私は自己意識とか自己概念とかアイデンティティーの問題をやってまいりました。文学部の心理学というものです。これを今でもや
っております。
 若いときに国立教育研究所に11年間お世話になりましたので、それからもう30年以上、教育の研究、それも足で稼ぐ研究、毎年30くらいの学校、幼・小・中・高、最近は大学も訪れていろいろと話し合いをするわけです。どこも困っていますから、幼稚園から大学まで、30年間ですから、随分行きました。
 そういう中で、日本の教育というのは、基本的には私はしぶとくて大丈夫と思っているんです。いろいろマスコミの人などは言いますけれども、基本的には私はすごいな、底力を持っているなと思っております。
 ただ、根本的な意味では、大きな曲がり角にあると。これは教育行政の仕組みをもっと柔軟で非中央集権的なものにしていかなければいけないという仕組みの問題もありますけれども、あるいは非政治化をしていく。政治に左右されない、今、文部大臣とか前文部大臣が政治に左右されているということを言っているんじゃないですけれども、そういう恐れがないような仕組みもつくらなきゃいけない。
 こういう問題もありますけれども、私はもっと大きな時代の曲がり角という意味で、2つだけ申し上げておきたいと思います。
 1つは、本当の意味で温故知新をしなきゃいけない。未来ばっかり語ってもしようがないんです。未来というのは過去からのものをきちっと、いわば踏まえた上での未来でなきゃいけない。
 例えば私の伴侶、うちの奥さんは、10年以上アジア・アフリカ・ラテンアメリカの留学生の世話をしておりますけれども、向こうの大学を出てくる人たちが、若い知識人たちが日本に来て、残念ながら失望したとよく言うんです。何か。技術はすばらしい。だけれど、植民地教育じゃないかと。日本の若い人というのは、例えばフランス革命を知っている。明治維新の細かいことを知らない。パリ・コミューンを知っている、だけれども、佐渡島のコミューンを知らない。堺の町衆などは知らない。あるいはアテネの民主主義は知っているけれども、日本で例えば室町時代から唐傘連判状をつくって、どういう人権意識があったかなどはみんな知らない。向こうから日本へあこがれて来ますから、ある程度勉強してくるんです。ところが日本に来たら、日本の若い人は知らない。先人の積み重ねてきた事跡を踏まえた上での未来論でなきゃ何にもならないわけです。
 これは10年くらい前にシンガポール建国の士と言われたリー・クァンユーが、あそこはみんな英語ができるんです。欧米的な生活様式を持っている。だから繁栄したいというけれども、これでは将来がないということをふれ出しまして、あそこは中国人が多いから、中国などの古い文化をきちっともう一度学び直せということを言いました。マレー人はマレーの古い文化、インドから来ている人はインドの古い文化。私は今それをもう一度考えなきゃいけない時期に来ている。
 あと1つは、豊かになって便利になった70年代以降の、これは牛尾先生もおっしゃいましたけれども、そういう中でどういうふうに自己統制力を持ち、価値の軸をちゃんと持った人が育っていくか。この2つを最初に申し上げておきたい。

(梶田委員)
 4年制大学も50や100はつぶれていく時代になった。
 経験上日本の教育はしぶとくて底力を感じるが、根本的なところで歪みが出ている。教育行政を非中央集権化、非政治化するとともに、未来ばかりを語るのではなく、過去を踏まえ温故知新を図るということが必要である。日本人はフランス革命を知っていても、自分の国の歴史や古い文化を知らないため、南米からの留学生は日本の技術はすばらしいが教育は植民地教育であるとして失望していた。


 また、豊かな時代に価値の軸、自己統制力を持った人間をいかに育てるかが重要である。





























 



梶田叡一(かじた・えいいち)
京都ノートルダム女子大学学長。文学博士。
1941年生まれ。1961年京都大学文学部卒業。京都大学大学院文学研究科修了。1966年国立教育研究所、1981年大阪大学助教授、のち教授を経て、1994年京都大学高等教育教授システム開発センター教授、1998年4月同センター長となる。1998年10月より現職。教育職員養成審議会委員、大阪府箕面市教育委員長などを務める。主著に『教育評価』(有斐閣1983年)、『真の個性教育とは』(国土社1987年)、『自己意識の心理学』(東京大学出版会1988年)、『意識としての自己』(金子書房1998年)などがある。





























 

【勝田委員】私、最初にお断りしたいのは、私は極度の近眼ですので、遠くの方には、ひょっとしたら欠礼するようなことになると思いますが、決して私は傲慢な人間じゃないです。その点だけ誤解しないでいただきたい。
 さて、私は教育基本法の根本的な見直し、これは大事だと思っているんです。しかし、これをお話しすると、30分やそこらかかります。やめます。
 それから、文部省はいやがるかもしれませんけれども、私はずっと年来言っているのは、教科書検定制度をやめてしまえと。教科書を自由にせいと。デメリットもあるかもしれないが、メリットの方が大きい。その理由をいろいろお話しすると、これまた30分かかりますから、これはやめます。
 こういういろんな根本問題を、後に機会があればお話しさせていただきましょう。
 今日は3分間という時間の制限がございますので、申し上げたいのは、こういうせっかくの機会、国民会議をはじめたのですから、情報開示を原則としてマスコミを上手に使うことです。その点は町村先生、太田先生、戸田先生もよく心得ておられるに違いありませんから、私は安心しております。
 国民運動に連動するようにと町村先生も中曾根先生もおっしゃった。大事なことだと思う。そのことで1つだけ、極めて短く、これも理由づけを始めますと、10分やそこらかかりますからやめます。キーワードだけ申し上げます。
 子どもは国の宝である。もともと国の宝という語は最澄、伝教大師の言葉ですが、子どもは国の宝である。だから、国民みんなで大事にして、自分の子どもだけではなくて、他人の子どもも誉めよう、叱ろう運動を起こしたいのです。叱ってばかりではだめです。誉めよう、叱ろう運動。これを国民運動として盛り立てようじゃありませんか。これは万人の心をうって国民運動に連動できると思います。この問題だったらば、共産党だって支持しますよ。マスコミに大いに働き掛けましょう。
 なぜかと言えば、教育の問題は言うまでもございません。学校教育だけの問題ではないのです。家庭と地域共同体、この3つが連合しなければならない。
 ところが日本を見ますと、地方の小さい田舎の都市でさえ、今や連帯心、そういったもの、つまりコミュニティーのきずなが消え失せております。いろんないまわしい事件が発生しています。こういったところから、たんに自分の子だけではよくない。他人の子どもも誉めよう、叱ろう、国民の宝だから、皆関心を示そうと、そういった国民運動を展開したいと思うのです。
 ついでに申しますと、これも実は私が何年も前から言っていることで恥ずかしいんですけれども、小渕先生、総理大臣
の蛮勇をふるって、大蔵省のお役人の反対を押し切って、どうですか、義務教育年限までの子どもの扶養控除額を、今は20万かそこらでしょう。けちくさい。せめて100万に引き上げる。そうすれば、マスコミは大賛成、小渕内閣の支持率が必ずや5〜6%上がりますよ。
 その他、いろんなことを私は言いたいんです。わざわざ遠く鈴鹿から来るんです。そして、私はこれが最後の陰徳の機会だと思っていますから、後日いろいろ言わせていただきます。今日はこれで終わります。


(勝田委員)
 教育基本法の見直し、教科書検定の廃止を行って自由化する必要がある。それにはメリットとデメリットの両方があるけれども私見ではメリットのほうが大きいと思う。
 また、教育改革国民会議を開催したせっかくの機会なので、情報公開を原則にしてマスコミを上手に使うことが大事である。子どもは国の宝であるから、国を挙げて「他人の子どもも誉めよう、叱ろう運動」をキャンペーンしてはどうか。今では地方ですら地域社会が崩壊しているのだから、教育改革は学校だけの問題ではあり得ない。
 また、総理は蛮勇をふるって義務教育を受けている子どもの扶養控除を100万円まで引き上げるべきである。

















勝田吉太郎(かつだ・きちたろう)
鈴鹿国際大学学長。京都大学名誉教授。専攻は政治思想史、現代イデオロギー。
1928年生まれ。京都大学法学部卒業。1963年より京都大学教授、1991年に退官し、奈良県立商科大学学長となる。1994年より現職。2000年に産経新聞社の正論大賞特別賞を受賞。主著は『勝田吉太郎著作集全8巻』(ミネルヴァ書房1992〜1994年)にまとめられている。代表作は『近代ロシヤ政治思想史−西欧主義とスラヴ主義』(創文社1961年)。近著に『思想の旅路』(日本教文社1998年)など。




















 

【金子委員】私は慶応大学を卒業しましてから、アメリカの大学院の学生をいたしまして、その後ウィスコンシン州の州立大学で9年間教えました。
 日本に帰ってきてからは一橋大学で10年間教え、慶応大学は6年目になります。去年4月から慶応幼稚舎の舎長、これは小学校の校長なんですけれども、やっております。いろんな教育現場を見ておりますので、その立場から発言させていただきたいと思います。
 今日はいろいろ言っても仕方がないので、この1年間、小学生と関わってきた感想をいくつかお話ししたい。
 1つは、子どもはそれなりに複雑なことも理解するなということをしみじみと思っております。子どもだからやさしいこととか、簡単なことではなくて、大人と同じようなことを言っても、多くの場合というか、かえって、先生よりも子どもの方がよくわかってくれるなということもございます。
 例えば、クロノスという歴史の事象を5万件くらいコンピュータに入れてタイムトンネルをつくって歴史上のつながりを見るというソフトウェアをつくりました。2年生がものすごく喜んで、レオナルド・ダヴィンチだとか、納豆の発見はここだということで、すっかりもりあがった。学習指導要領によれば歴史の流れをつかむというのは中学生でやることになっているんですけれども、年表を見たことのない子どもたちがタイム・トンネルに熱狂してしまうというところを見ると、これだからこれ、これをしてからこれという大人の思いこみは違うんじゃないかと強く感じた。
 情報教育でも、幼稚舎は1年生からインターネットをやっておりますけれども、まず英語のアルファベットを勉強してからキーボードということはなくて、面白いことがあればすぐに子どもたちは始めてしまう。創造性をはぐくむということを江崎さんは言っていらっしゃいましたけれども、1年生、2年生を見ると、みんないろんな力を持っていると。それをどんどんはぎ取っていくのが日本の教育だとしたら、これは大変なことだなと思っております。
 もう一つ、競争はよくないということが最近よく言われております。小学校・中学校で競争を導入すると遅れる子が出てくるんじゃないかという心配なんですけれども、さっき浅利さんがおっしゃっていました具体性ということでいいます
と、先ほどお配りしたものを見ていただきたい。これは幼稚舎新聞と言いまして、2週間に一回程出している校内新聞で、これは縄跳びの記録づくりという特集です。開けていただきますと、たくさん名前が出てきます。幼稚舎は冬は縄跳びの競争をしておりまして、二十何種目あって、上から30位〜50位までくらいですけれども、とにかくよくできた子の名前を出してほめる。
 幼稚舎では、運動会で幼稚舎で一番早い子を決めるとか、
折り紙がうまい子の作品を展示します。俳句のコンテストをやる。漢字検定をやると、60人くらい来てしまう。それから、ボランティアなどですと、近くの老人ホームなどへ行って、ボランティアのすごいうまい子、これは朝礼でもってその子をほめるとか。いろんな子にいろんな活躍する場を与える。負けた子は悔しがって涙を流す。別の機会にやる気が出て、そういうところから人の気持ちも分かるようになり、コミュニティーができてくるのではないかと思っております。
 今、学校も家庭もコミュニティーも崩壊していくと言われますけれども、学校はコミュニティーの核になるくらいのことをやってもいいんじゃないか。競い合いながら昔のことを勉強し、人の気持ちを知り人に役立つことの喜びを知るということを学校でやってもいいんじゃないかなと思っています。
 そのためには、日本で最高の人材というのを小学校・中学校に投入しなきゃいけない。例えば浅利さんとか牛尾さんとか曾野さんとか、私が小学校の校長をしていて、採用した
 いと思っても―もっとも来ていただけないでしょうけれども―免許がないということになりますね。免許を全廃しろということではないんですけれど、日本は何でもそうですけれども、入るときにはすごく入り口が狭い。一遍先生になると一生先生先生ということでおだてられて、余り発達する場面がないということになる。
 これは例えばアパートなどでも同じで、最初は保証人は要る、保証金は要る。礼金は要る、敷金は要るということで入りにくいのですが、入ったら最後、入った方が勝ちというような、そういうことは改めていかなきゃいけない。
 しかし、それには学校経営を自主的にやるような、地域ガバナンスというか、そちらもきちんと保証していかなきゃいけないんじゃないかと思います。
 最後に一言、小学校のことばかり申し上げましたけれども、大学と大学院に関しては、これも江崎さんよく御存じと思いますけれども、日本は非常にひどい状態にあると思います。アメリカだけがいいとは申しませんが、これは本当に何とかしなきゃいけない。ただし、大学教育に関しては、制度を変えてもうまくいくかどうかというと、これはなかなか難しいと思います。これについてはまた機会がありましたら、発言させていただきたいと思います。


(金子委員)
 慶応幼稚舎の舎長として小学生と関わる中での印象を述べたい。
 まず第一に、子どもは複雑なことも理解するということである。今の学習指導要領では歴史の大きな流れは中学2年生で教えることになっているが、コンピュータネットワーク上に歴史的事象50000件のタイムトンネルを作って見せたら子ども達は夢中になっており、面白いことであれば理解するもの。このような可能性をはぎ取ってきたのが日本の教育である。
 また、幼稚舎ではいろいろな分野で競争をさせて子どもを誉める機会を作っており、競争自体が悪であるとは思わない。そのことで人の気持ちがわかることもある。
 学校はコミュニティの核であり、学校を人と共に喜ぶことを知る場としたい。そのためには日本で最高の人材を投入する必要がある。また、教員制度の見直しも必要。日本では教員になるための入り口が狭いかわりに入ってしまえば一生安泰である。
 最後に、アメリカばかりがいいとは言わないが、日本の大学と大学院の状況は、外国にくらべかなりひどい状態にあり、また別の機会に改めて意見を述べさせていただきたいと思う。






















 



金子郁容(かねこ・いくよう)
慶應義塾幼稚舎長。慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授。専攻は情報論、ネットワーク論。
1948年生まれ。慶應義塾大学工学部卒業、スタンフォード大学Ph.D.。1975年ウィスコンシン大学助教授、1984年一橋大学助教授、1989年教授となり1994年慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授。1999年より慶應義塾幼稚舎長を兼ねる。主著に『ボランティア』(岩波書店1992年)、『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社1998年)、『コミュニティ・ソリューション』(岩波書店1999年)などがある。








































 

【河上委員】この中で唯一義務教育の中学校の教師ということで、現場の言葉でしゃべりますので、失礼なことが多いかもしれませんが、よろしくお願いします。
 自己紹介ということですので、私の今勤めています川越の中学校の様子を少しお話しをします。
 去年の4月に川越の町中の中学校に来て、今、中学校2年生の学年主任をしています。多分、うちの中学校は全国の中学校の最先端だと思います。最先端というのはいい意味で言っているわけじゃありません。学校が崩れている最先端であろうということです。
 ちょっと様子を言いますと、2年生は200人くらいの生徒がいるんですが、5、6名の生徒が学校の枠組みを全く無視して行動しています。日本の学校は、教師の言うことを基本的に聞かないというふうに生徒が決めてしまうと、何もできないという実態があります。教師の目の前でたばこを吸って、「吸うのをやめなさい」と言うと、「うるせえ」ということになります。例えばそういうことです。
 それから、授業の途中にがらっと戸を開けて、どたどた教室に入ってきて、座った途端に、例えば隣の生徒と大声でしゃべり始める。「静かにしなさい」と言うと、「関係ねえだろう」、と、そういう話になります。そういうことが現実にあります。
 そういう生徒は少数ですから、いいだろうということはあるんですけれども、例えば校内暴力時代の生徒と違いまして、そういう生徒とほかの生徒との間の差がほとんどないんです。ですから、今のような数名の最先端を行く生徒がいると、その後に約二割くらいくっ付いて動き出す生徒が現実に出てきます。そうなってきますと、学校の秩序と言うんでしょうか、そういうものを維持することは非常に難しい。ですから、現実的にはお手上げ、見て見ぬふり、放任状態と言いますか、そういう状態が具体的に起こってきます。かなり騒然とした授業になってしまうことがありますし、掃除をやらない生徒もたくさん出てきます。あるいは、たばこ、校内で物を食べるとか、器物を壊すとか、暴力行為をおこすとか、そういうことが頻繁に起こることになります。
 ただ、救われるのは、7割から8割くらいの生徒が、まだ現在の学校のシステムを受け入れようという気持ちがありますので、これは親も含めてなんですけれども、それで何とかもっているということがあります。
 私がここに参加する意味というか役割は、学校の現場の状況と、生徒の実態をなるべく生のままでお話ししたいということが1つあります。
 もう一つ、そういう状況の中で教育改革をしなくてはいけない理由は一体何なのか。今日本の学校の問題は何なのかということを現場の立場からお話ししたいと思っています。
 先ほどいくつか問題が指摘されていますけれども、義務教育の中学校の状況から言うと、例えば創造性などということを現場で論議するのは、ほとんど意味がないと、そういう感じがあるんです。
 少しふみこんで言うと、学校というのをたった1つの形で考えてもらっては困るんだろうという感じを持っています。こういう生徒にはこういう教育をというような、複線的な制度が出てこないと、現在の学校は全体的に崩れていくという感じがあります。
 ちょっと長くなりましたが以上です。


(河上委員)
 この場では唯一の現場の教師である。勤務先の中学は学校が崩壊しているという意味で全国の最先端である。200人の生徒の中で5、6人は学校の枠組みを全く無視する生徒がいる。枠組みを無視されると彼らに対して教師は何もできない。
 校内暴力が吹き荒れた時期と比べると普通の生徒と問題児の差が少ないため、2割ぐらいの生徒がそれについていってしまい、全く規律をなさない。ただ救いとなるのは7、8割の生徒はまだ、現在のシステムを受け入れようとしていること。このような現場の生徒の実体をなるべく生のまま伝えるのが私の役割と考えている。
 また、このような状況の中で教育改革を行わなければならない理由は何なのかという共通認識が必要。例えば、一律に「子どもの創造性を引き出す」といっても現場の実体とはかけ離れており、複線的な対応をする必要がある。







 



河上亮一(かわかみ・りょういち)
川越市立城南中学校教諭、プロ教師の会主宰。
1943年生まれ。東京大学経済学部卒業。大学卒業と同時に中学校の社会科教師となる。周辺中学の教師たちとプロ教師の会を設立。主著に『プロ教師の道』(JICC出版局1991年)、『学校崩壊』(草思社1999年)などがある。



























 

【木村副座長】私は学位授与機構という皆様方に余りなじみのない機関、これは生涯学習をやられてれいる方の学位の取得をお手伝いする機関でございますが、そこに勤務をいたしております。2つのことを申し上げたいと思います。
 1つは、諸外国と比較して、今ほど日本が、いわゆるヘゲモニーを求めないエリートを必要としている時期はないのではないかという点であります。先ほど総理のお話に出ました、池田潔さんの『自由と規律』、私も愛読いたしております。私、あの学校の隣のケンブリッジ大学の工学部にしばらくおりましたので、あの学校のことはよく存じております。要するに、あそこでうたわれている哲学は、ヘゲモニーを求めないエリートをいかに育てるかということであろうかと思います。私は我が国も何とかそういう哲学を教育システムの中に取り入れられないものかと考えております。
 2番目が、諸外国と比較して、今、日本の教育システムの中で決定的に欠如しているのが、職業観とか勤労観の養成の問題であります。ある統計によりますと、1990年に中学校を卒業した人、現在25歳になっておりますが、この197万人の若者の中に、実に54万人の無業者がおります。これはゆゆしき事態でありまして、このような状況になりましたのはまさしく日本の教育のすべての段階で勤労観とか職業観というものを教えてこなかったツケが来たためだと考えます。
 例えば最近、非常に経済が好調なアイルランド等では、学外で学位を取るシステムがありますが、ここでは学習歴、つまり学校で勉強したヒストリーと働いたヒストリーを同等に扱うという改革がなされようとしております。
 それから、私がしばらくおりましたケンブリッジ大学、エリート大学の最たるものですが、同大学の工学部では、ここ10年間にカリキュラムを大きく変えておりまして、社会との接点、ことに勤労観というものを大学のレベルで理解できるような工夫をしております。この辺のところが我が国の教育システムにとって、現在欠落しているところではないかなと思っております。
 もっとしゃべりたいのですが、副座長をつとめよということでございますので、2分でやめさせていただきます。


(木村委員)
 我が国は、今こそヘゲモニーを求めないエリートを必要としている。
 また、日本の教育には職業観・勤労観といったものが欠けており、そのため若者に無職者が非常に多い。経済が好調なアイルランドなどでは労働経験と学習経験を同列のものとして扱っている。ケンブリッジでも昔とカリキュラムがまったく変わっており、職業観について教えている。











 



木村 孟(きむら・つとむ)
大学評価・学位授与機構長。専攻は基礎・土質工学。
1938年生まれ。1961年東京大学工学部土木工学科卒業、東京大学大学院数物系研究科土木工学修士課程修了。東京工業大学助教授、教授を経て工学部長。1993年より東京工業大学学長となる。1998年より現職。中央教育審議会委員などを務める。ケンブリッジ大学チャーチルカレッジフェロー。主著に『土の応力伝播』(1978年)、『土質力学』(彰国社1980年)などがある。








 

【草野委員】私は労働組合の役員という立場で参加をさせていただきました。したがいまして、教育問題については全くの素人でございますし、先ほどから諸先生からいろんなお話が出ております。かなりダブるかと思いますが、思っていることを数点だけ申し上げさせていただきたいと思います。
 当たり前のことなんですが、戦後の高度経済成長を支えてきた優秀な労働力を育てていった背景には日本の戦後教育のいい面が私は出てきているんではないかと思います。
 しかしながら、それが昨今言われておりますように、偏差値重視、あるいはそれが受験戦争というような弊害になってきておる。
 一方で、経済は、これは小渕総理も今取り組んでおられますが、非常に環境が大きく変わってきておりまして、従来の教育では対応し切れないような状況になってきているのではないか。実業の世界から見て、そういうような感じがいたします。
 また、一方で少子高齢化社会の急速な進展によりまして、高齢者、あるいは女性の社会進出が必要でありますし、放っておいてもこれは相当数出てくるのではないか。
 そういうときに、一方では相互扶助的な考え方とかシステムとか、そういうものが当然必要になってくるのではないだろうか。こういうふうに思っているわけであります。
 そういう中で、一体教育というのはどうあればいいかと。個人の思いつき的に申し上げますと、1つは、個個人の能力をどうやって伸ばしていくかという視点が非常に大事ではないかということを1つ申し上げたいと思います。
 2つ目には、これからIT革命等の情報革命の移行が急速に進んでいくとは思いますが、一方で日本の経済を支えていくのは、物づくりではないだろうか。
 したがって、物づくりの大切さを教育の中にどう取り込んでいくのかということが非常に大事になってくるだろうと。
 3つ目には、自己の考え方をしっかり持つということと、それを正確、かつ明確に相手に伝えていくということが大事で、例えばディベートを教育に取り入れる。こういうことも必要になるのではないか。
 それから、4点目には、先ほどから話が出ておりますが、生涯学習を更に充実していく必要があると思いますし、それと同時に、生涯学習の成果を発揮できる場所というもの、あるいは環境というものを整備していく必要があるのではないかと思います。
 5点目でありますが、先ほど申し上げましたが、相手を思いやる精神の醸成。個性と言われておりますが、自由と放任、あるいは自由と放縦を混同している部分が多分にあるのではないか。
 最後になりますが、今、御指摘になりましたけれども、勤労観とか働くことの重要性というものが今、大変欠如しているのではないか。これを教育の中に取り入れていく必要があるのではないかというふうに思っております。
 以上であります。


(草野委員)
 戦後の経済成長を支えた優秀な労働力を育てたのが日本の戦後教育であったが、受験戦争・偏差値教育・学歴社会など悪い面もあった。少子・高齢化、女性の社会進出もあり、システムを構築する必要がある。
 重要なのは、@個々人の能力を伸ばしていくこと、AIT革命が進展しているが日本の経済を支えているのは「ものづくり」であり、そのための教育をしっかりやっていくことB自分の考えを正確に相手に伝えるためにディベートなどを教育に取り入れることC生涯学習の成果を発揮できる環境をつくることD相手を思いやる心の醸成E勤労観・働くことの重要性を教えることである。










 



草野忠義(くさの・ただよし)
日本労働組合総連合会(連合)副会長、全日本自動車産業労働組合総連合会会長。
1943年生まれ。1966年東京大学経済学部卒業後、日産自動車入社。1973年に日産労組専従。連合の前身である全民労協事務局次長を経て、1986年自動車総連事務局長、1998年会長となる。中央教育審議会委員など政府関係審議会委員を多数務める。












 

【クラーク委員】委員私は国民ではないですから、国民会議に出席する資格はないです。けれども、国民2人の父親として、日本国籍の子ども2人なんです。近いところから日本の教育制度を見るチャンスがありました。
 受験戦争は私にとっても悲劇、日本にとっても悲劇なんです。だから、まず何かしなくちゃならない。制度を根本的に変えないと。勿論、学校の中のいろいろな変更は必要です。1つは、高校卒業試験が必要ではないかと思います。大検と同じように。そうすると、勉強するインセンティブができるんです。一流大学に入るだけではなくて、高校卒業のために試験を受ける。
 もう一つは、江崎さんと同じよう、六・三・三制はやめて四・四・四制、6年間の小学校はおかしいですよ。日本の子は外国と同じように子どもの成育は非常に早いんです。勿論、少人数学級も必要です。できれば能力別クラス編成です。
 ただ、日本の平等主義教育はある程度尊敬すべきです。能力別になると、ますます受験戦争の競争がひどくなるのではないか。いわゆる優秀である学生は一生懸命有名大学に入りたい。この弊害を防ぐために2つの具体的な措置があります。
 1つは、千葉大学がやっているですが、飛び入学。そうすると、17歳の子どもは、2年で高校を終えて、それで1年くらい有名大学に入る準備ではなくて、優秀な地方の大学を選ぶんです。17歳で大学入って、学部3年、大学院2年、あるいは留学2年。そうすると、22歳で卒業です。東大の法学部の連中よりも高く評価される。例の教育一極集中、きれいに、簡単に断ち切られるのではないかと思う。
 もう一つ、暫定入学。うちの大学もほかの大学も悩んでいます。文部省の定員があるでしょう。ぴったりしないとだめなんです。でも実際合格ラインに近い学生が多いんです。だから定員の4分の1程度を暫定入学にする。暫定入学の場合、1年間大学の中で勉強して、それで試験を受けて、厳しい足切り試験を受けて、定員まで減らす。そうすると、大学に入って一生懸命1年間くらい勉強するインセンティブがあるだけではなくて、高校の教科書の暗記ではなくて、1年くらい大学の教育を受けて、その上に自分は本当に大学教育にふさわしいかどうかテストされるのではないかと思います。
 ほかにもいろいろい言いたい点はありますけれども、いまの英語教育は早くやめてください、受験英語の。だから日本人は英語をしゃべれないんです。むしろ、15歳まで簡単な英語にして、小学校からスタートしてもいいです。15歳で共通一次試験を受けて、英検の4級程度でいい。それで大学に入って、集中的に勉強させる。ダブル専攻制度の中でやるのがよい。そうすると、英語だけではなくて、ほかの専門と選ぶことができるんです。これから日本にとって中国語も非常に大事になるんです。今、日本の学校制度の中ではほとんど中国語をやっていないです。
 学級崩壊とか学力低下がいろいろ言われていますけれど
も、それよりも道徳崩壊、これは深刻です。それで「学校もっとしっかりしなくちゃ、家族はもっとしっかりしなくちゃならない」となる。でもこれは古い話なんです。外国でも日本と同じです。家族は弱いです。
 学校の先生は不十分な面があるのは仕方がないです。外国も同じなんです。外国だったら学校は学習だけです。道徳はあまりやってないです。けれども、外国だったら社会が役割を果たしています。スポーツは学校の部活ではなくてコミュニティー・スポーツ。奉仕活動も盛んです。アメリカの一流大学へ入ろうと思えば奉仕活動をやらないと不可能なんです。あるいはボーイスカウトも活発です。若いときに山に入って、いろいろ冒険、探検させられて鍛えられれば道徳面でもいいんではないか。
 その関係では修学旅行もやめてください。京都とか奈良への旅行は、あとで自分の時間で、自分の両親たちと一緒にやってもいいんです。むしろ自然の中で2、3日キャンプさせればどうですか。
 総理大臣は21世紀の日本の一番大きな課題は教育問題だといわれた。私も全くそのとおりだと思います。経済問題も大事ですよ。今回二兎追っても結構です。


(クラーク委員)
 私の子どもは、1回も実験室に入らないような受験校の化学の授業に失望して日本の高校を中退した。このような状況を生み出す日本の教育制度を変えていく必要がある。
 例えば、@高校に卒業試験を設けて勉強をするインセンティブを与える、A6−3−3制ではなく4−4−4制にする、B少人数・能力別クラス編成の導入などを行うべきである。ただし、その結果として受験戦争の加熱を招かないよう飛び入学や、当落線上の生徒を一度入学させておいて1年後に足切りを行う暫定入学制度を活用してはどうか。
 英語教育は、受験英語を見直すべきであり、大学入試に英語は不要である。また、道徳が崩壊しているので、修学旅行などはやめて、ボーイスカウトや奉仕活動などの経験を積むようにさせることが必要である。




















 



グレゴリー・クラーク
多摩大学学長。
1936年生まれ。1956年オックスフォード大学大学院修了後、オーストラリア外務省に入省。外交官として香港、モスクワ駐在。駐ソ大使館一等書記官などを務める。1969年より『ジ・オーストラリアン』紙東京初代局長、1979年に上智大学教授となり、1995年より現職。大学審議会特別委員などを務める。1990年東京都文化賞受賞。主著に『国際政治と中国』(アジア経済研究所1970年)、『日本人−ユニークさの源泉』(サイマル出版会1977年)、『ユニークな日本人』(講談社1979年)、『誤解される日本人』(講談社1990年)、『内外人がみた日本』(秀英書房1981年)などがある。






















 

【黒田委員】委員私は専門は生物物理化学で、分子や原子レベルで生命現象を解明する研究を行っています。日本で博士を取って、11年ほどイギリスの大学で教育と研究を行ってきました。
 このメンバーの中で自然科学が専門で、かつ大学の現場で研究、教育に携っている人が余り見掛けられないので、その点からも少しお役に立てればありがたいと思っております。

 先ほど江崎座長からお話がありましたように、近年科学技術の発達というものが、私たちの好むと好まざるとにかかわらず急速に進み、かつ生活に影響を与えてきています。
 生命科学に限りましても、新しい病気の治療法、診断法などが出てきているんですけれども、一方で、死の定義があいまいになるとか、遺伝子組替えの問題、クローニング、あるいはヒトゲノム情報を公開すべきなのかしないのかなど、いろんな複雑な問題が出てきています。それから環境問題も重要です。
 来世紀には、個人が主役となって、意思決定に参加しなくてはいけない時代が来ると思うんですが、そのときに、国民一人一人が感情に流されることなく、責任を持って、正しい判断をすることが必要です。
 そのためには、知識ばかりではなくて、精神性というものも非常に重要になってくると考えています。
 おはなししたいことはいろいろあるのですが、時間の関係上キーワードだけを述べさせていただきますと、@自然の中での一生物としての個、あるいは世界や日本や地域社会、家庭といったものの中での個、歴史の中での個といったような個の位置づけと関係性を知るということ。
 それから、A自然の不思議さとか美しさとか、厳しさといったものに心から感動して、自然の摂理を極め、創造する喜びを知ること。
 それから、B勤労を尊び、喜び、自らの職業に誇りと同時に、責任と倫理観を持つ。
 C他者への思いやりと、人のためになることの喜びの心を持つことなどがすごく重要ではないかと考えています。
 そうすると、まず小さいうちに、自然とか社会といったリアルな世界に触れることが大切。つまり、バーチャルな世界に触れることはちょっと後でもよくて、本物に接して、心から感動して、自分で考え、体を動かして、頭のみでの理解ではなく、心や体で理解するようにする。そういうことから本当の創造性とか、人への思いやりとかいうものが出てくるのではないかと思っておりまして、さっきのキャンプの話などにも通じると思います。本物に体を使って接するということが大切だと考えます。
 それから、高等教育や研究に関しましては、これはまた進学率が8%からほぼ100%になるという時代になりますと、大学という1つの言葉ではくくれない時代になってきています。社会の一員としてのすぐれた人材の養成、あるいは世界のリーダーシップを取るような人材の養成、いろいろな役割がありますし、それから広い意味での教養教育の充実を図るということも大切だと考えています。
 科学技術創造立国を図るためには、感性を磨き、創造性の高い研究をすることも必要ですし、それと同時に社会との関わり方を考えることができるような人の養成も重要だと考えています。
 また、日本の中の教育だけをディスカッションしていられなくて、特に高等教育では、情報革命を使って、距離を超えて、アメリカの大学教育のスタンダードがアジアに広がって
きているという事実もあります。ですから、その辺のことも視野に入れる必要があります。
 学校だけではなくて、家庭、特に社会全体が日本をどういうふうにしたらいいかということを考えていくような会にしていきたいと思います。ただし、特に財政のバックアップというものが非常に重要でありまして、いつもそこが気になるんですが、幸い小渕総理の会でもありますし、この辺のこともきっとサポートがあるだろうと考えております。
 いろいろキーワードだけを述べさせていただきました。


(黒田委員)
 自然科学の現役の研究者・教育者は私だけなので、その立場からも発言する。
 科学技術、特に生命科学の分野では生命倫理が問題となっており、また、環境問題においても、国民一人一人の正確な判断を求められている。@自然、社会、歴史の中での個を考え、A自然の不思議さ、厳しさに感動し知的創造の喜びを知り、B勤労に対する誇り、責任、倫理観、他者への思いやりを持つために、子どものころからヴァーチャルではない本物の自然と社会に触れて創造性を養うべきである。
 高等教育は一言で括れるものではなく、社会でリーダーシップをとる人材の創出、教養教育の充実、IT革命によりアメリカの教育のスタンダードが伝播してきていることなどを総合的に勘案しなければならない。
 また、総理の決断による財政的なバックアップが必要である。

















 



黒田玲子(くろだ・れいこ)
東京大学教授。専攻は生物物理化学。
1947年生まれ。1970年お茶の水女子大学理学部卒業。1975年東京大学大学院理学系研究科化学専攻博士課程修了。理学博士。1975年ロンドン大学研究員、1985年英国がん研究所を経て、1986年東京大学教養学部助教授となり、1992年より現職。猿橋賞、日産科学賞受賞。科学技術庁顧問のほか、大学審議会、産業技術審議会等の委員を務める。主著に『生命世界の非対称性』(中央公論社1992年)、『日本人の科学』(共著、岩波書店1996年)などがある。























 

【河野委員】東京海上の河野でございます。
 現在、教育関係といたしましては、日経連で教育特別委員会でこの3年間に「グローバル社会に貢献する人材の育成」というものを、また、去年は「エンプロイアビリティーの確立を目指して」提言をしました。
 また、海外子女教育財団で、海外子女の教育にも携わらせていただいております。
 御承知のとおり、今、第三の変革期にあり、更に言えば高度工業社会から情報社会へと大きく変わろうとしております。その結果、従来私どもが拠って立ってきた社会全般の構造や価値観などが大きく変わりつつある時代だと言えると思います。
 そういう意味では、戦後の教育制度というものもこうした変化の中で、制度疲労を起こしていることも否定できませんし、また、環境の変化に十分対応できているということも言えないのではないかと思います。
 こういう大きな変革期にあり、また、21世紀を目前にして、国民会議として教育改革国民会議をつくっていただきましたことは、大変意義あることだと思います。私も企業人としての経験も踏まえ、少しでもお役に立てればと思っています。
 そこで、3つ申し上げたいんですが、1つ目は、教育関係の審議会も多数あり、また、臨教審というものを始めとして、この1月に出されました「21世紀日本の構想」に至るまで、それぞれの立場から教育問題につきまして、大変立派な提言なり、答申が出されております。しかしながら、教育の根本にさかのぼって、今までの改革案とか議論というものが全体の中でどこに位置づけられるのか。そして、長期的視点からそれらをどのようにスケジュール化していくかという、位置づけと全体の論議というものができたらと思っております。 更にこれは文部大臣も言っておられますが、教育改革を実施していくときに、どのような効果があったのか。その検証と評価というのも併せていく必要があるのではないかと思います。
 第2番目は、先ほど海外子女教育に携っていると申しましたが、こういう関係でブラジルとかイギリス、アメリカなど
の日本人学校を見て回っておりますが、印象に残りましたことは、生徒たちは非常に自律心を持ち、はっきりとした自己主張を行い、多様な価値観を受け入れて、規律も保たれているし、しっかりとしたコミュニケーションをしているということであります。
 教育は環境に大きく影響を受けるものと考えられますが、日本人は弱いという個の確立と、考える力としての構想力、創造力というものをどのように身に付けていくことができるようになるか。これは内からの改革で大変難しいわけですけれども、このことが21世紀の日本の将来を決めることになるのではないかと思っております。
 したがって、どのような教育改革が、また、どのような環境社会システムが必要なのかという論議ができればと思っております。
 最後に、グローバル化とIT革命が進展しております。多様な社会を前提にしましたときに、日本がこれから生き残っていくためには最も大切なものはなにかと言えば、人の資源だということになる。技術というものもしょせんは人であり
ます。日経連で出しました「グローバル社会に貢献する人材の育成」という提言をしておりますが、この面からの教育というものはどうあるべきかも是非取り上げていただけたらと思います。
 以上でございます。


(河野委員)
 日経連の「教育特別委員会」で人材の育成と「海外子女教育振興財団」で海外子女の教育問題に携わっている。我が国は、高度工業社会から情報社会へと、またグローバル化の進展と、社会構造や価値観などが、大きく変わりつつあり、教育制度も制度疲労を起こし、環境の変化に十分対応できていない。
 臨教審以来幾多の立派な教育改革案の提案や論議が行われてきているが、教育の根本に遡り全体の中でどう位置づけ、どう実施するか、全体論議のスケジュール化が必要である。また、教育改革の効果の検証と評価を行っていく必要がある。
 海外の日本人学校の生徒達は、自己主張もはっきりしており、多様な価値観を受け入れ、自律心もしっかりしている。教育は環境に大きく影響を受けることがわかる。
 21世紀の日本の将来を決めるのは、「個の確立」、「構想力」、「創造力」を、どうすれば身につけていけるかであり、グローバル化とIT革命が進展する多様な社会の中、日本が生き残って
行くために何が最も大切かといえば、それは間違いなく人という資源である。





 


河野俊二(こうの・しゅんじ)
東京海上火災保険(株)取締役会長。
1927年生まれ。1951年東京大学経済学部卒業後、東京海上火災保険(株)に入社。ロンドン駐在、航空保険部長、人事部長を経て、1978年取締役、1987年副社長、1990年社長。1996年会長となる。この間東京海上研究所社長、日本損害保険協会会長(1990年、1994年)を務めた。1995年日経連副会長に就任。国民生活審議会等の委員のほか、日経連教育特別委員会委員長、海外子女教育振興財団会長などを務める。藍綬褒章受章。



















 

【曾野委員】私は本職が小説家でございまして、小説というのは、人生でうそをつくことだと言っている人もあります。そうかと思うと、すべて登場人物は筆者であろう。だから、本音を言うものだという説もございまして、恐らくその間を漂っているものだろうと思います。
 4年半前から私は日本財団というところで無給の会長になりまして、それでそこでも、NGOに関わることになりました。その以前にも私はずっと心ならずも、余りいいことをするのは好きではないんですけれども、運命がそうなりましたので、NGOに関わっておりまして、私流の、さっき河上先生が悪い言葉を使ってくださいましたので、私も恐れずに申しますと、世界中うそつきと詐欺師ばかりという感じがするときもございます。ただ、その中にすばらしい人がいるというのも本当でして、私はその間を漂っておりますが、日本財団の職業においても、わたしの個人的なNGOにおいても、人を疑うことと愛すること、この両方の矛盾したものをどういうふうに共存させていくかということをやってまいりました。
 私は日本の戦後の教育が貧しかった一つのあらわれとして大変古い言葉を引かざるを得ないのですが、「真善美」という視点から考えたいと思います。戦後の日本の教育は善というものに関しては一生懸命でした。自分はいかにいい人間であるかということを声を大きくして合唱するという趣味があったのです。
 しかし、それ以外の真と美に関しては非常になおざりになっていました。なぜなら、真も美もほとんど個人の作業だからです。みんなで渡ればこわくないのではなくて、一人で川を渡っていかねばならないというものだったから、勇気を扱えなかった時代にはできないことになったのです。
 ですから、真というのは、途端に人間の悪の部分に正視することになりますし、美というのは、命をかけて生き方を選ぶことです。
 今どき真善美などということを言えば、河上先生のお言葉ですと、生徒に「うるせえ、古くせえ」になるでしょうが、この二つが欠けていると人間として完成しません。私は日本の若者たちを見ていると、非常に皮肉な言い方ですけれども、お嬢ちゃまとお坊ちゃまばっかりという感じがしています。
 私は途上国を、数はどうでもよろしいんですけれど、109か国歩きました。日本の若者たちは、貧困というものも知らず、飢えも知らず、停電も知らない。この間自衛隊の方が数百人いらっしゃるところで、停電を知ってますか、と聞きましたら数人でした。停電というのは英語で何と言いますかと聞いたら、それも知らないわけです。停電というのは人生にないんです。世界の人口の60億くらいの人口の中で20億くらい電気のないところで暮らしております。20億人の電気のないところには民主主義がございません。民主主義というのは電気のあるところにしかないのです。このようなことを知らないお嬢ちゃまとお坊ちゃま方がたくさんいらっしゃいました。
 しかし、このお嬢ちゃま、お坊ちゃまはうれしいことに、決して才能がないんじゃないんです。非常にいい才能も性格もあります。これを私どもは伸ばすような方向に持っていってあげなければならない。
 恐らくこの真善美に対するそれぞれの役割というのは、触媒作用というのに当たるんじゃないかと思うんです。
 私は精神的なものばかり論じておりまして、具体策がないのもあまり好きじゃありませんので、ここでまとめてペーパーを出させていただくときに、日本人全国民が18歳で一年間の社会奉仕期間に従事してゆく制度を作るよう提案するつもりです。身体障害を持っている方でもしていただくことはたくさんあります。その1年間の社会奉仕期間に、受けるのみでなく与えられることのできる人間の責務を知ってもらいます。
 もっと具体的に申しますと、高齢者の介護の問題などもこれでほとんど解決すると私は思っております。
 以上です。


(曾野委員)
 日本人は、真善美のうち、相手との関係に基づく「善」ばかりに一生懸命になり良い人と思われようとしてきたが、「真」と「美」という徳や美学については個人的な作業でありおろそかにされてきた。
 日本の若者はお嬢様・おぼっちゃまばかりであるが、良い才能は持っており、これを伸ばすための教育が必要。
 全国民が18歳で社会奉仕活動の機会を持つべきであり、愛を受けるばかりでなく与えることを学ぶことで、高齢者問題などをはじめとした様々な問題の解決に結びつくと考えている。

























 


曾野綾子(その・あやこ)
日本財団会長、作家。
1931年生まれ。1954年聖心女子大学文学部英文科卒。1954年『三田文学』に発表した「遠来の客たち」で文壇にデビュー。人間の欲望、詐術、老醜などの重いテーマを、宗教的良心を秘めた軽妙、明朗な文体で作品化した。1993年日本芸術院会員。日本船舶振興会(通称日本財団)理事を経て、1995年会長に就任。臨教審委員、脳死臨調委員も務める。主な作品は『曾野綾子作品選集全12巻』(桃源社)などにまとめられている。最近の著作に『ほくそ笑む人々』(小学館1999年)、『中年以後』(光文社1999年)、『寂しさの極みの地』(中央公論新社1999年)などがある。




























 

【田中委員】田中でございます。大学で法哲学の教育研究に携っておりますが、最近は、大学の法学教育を再編し、日本型のロー・スクール、法科大学院を創設して、法曹養成過程を抜本的に改革するという問題に関与しておりまして、直接的には主として文科系の高等教育の改革に関心を持っております。この会議に参加させていただくことになりまして、あちこちから聞かれるのは、ほとんど初等中等教育の問題ばかりでして、高等教育に対する社会的な関心が余りないようなので、少し残念と言いますか、大学の中にいる者として、責任も感じているところでございます。
 勿論、初等中等教育が重要であることは十分承知しておりまして、大学における高等教育の在り方も、特に法学教育のように、公共的で実践的、倫理的な問題に関与する人材を養成する教育の場合には、教育の在り方を考え直そうとすると、初等中等の学校教育だけではなくして、家庭とか地域社会、生涯学習、更には企業や官庁の人材の採用・養成制度など、いろんな問題と関連しておりまして、社会全体の構造的な転換の中で教育問題を考えていかなければならないと痛感しております。
 最近、経済、政治、行政、司法、いろんな領域で次々と制度改革が行われているわけですけれども、わが国の大学の法学教育は、従来、こういった社会の基幹的な領域でのリーダーとなるジェネラリストの養成を行ってまいりました。こういった領域で制度改革が成功するかどうかは、結局のところ、人を得られるかどうかということに掛かっているところが多いわけでございまして、現在進行中のいろんな改革が本当に成功するためには、法学教育などはその典型でございますけれども、大教室で講義して、ペーパーテストでその成果をチェックするというような、安上がりの効率的なシステムでジェネラリストを養成しているだけでは、もはや国際的な水準から見てやっていけなくなっており、先ほど江崎座長がおっしゃいましたように、ジュディシャス・マインドだけではなく、クリエイティブ・マインドも持った、それぞれの分野でリーダーシップを発揮できるプロフェッショナルな人材を養成することが急務であり、そのためには大学の教育をもっと高度にする構造的改革が必要ではないかと思います。
 こういったことは教育改革についても同様でして、結局、教育に携わる人材の質の向上の問題が決定的に重要ではないかと思います。
 勿論、大学の教育を高度化しただけでは根なし草になるわけでございまして、裾野の拡充も大事でございます。
 この点につきまして、私自身は、教育の内容が、テストなどで比較的その成果が判定しやすい正解のある理論知を教え込むことに偏り過ぎていて、必ずしも正解のない課題に取り組んで、物事をじっくり考えて、的確な判断をする実践知の教育が、いろんな理由から従来やりにくかったということが1つネックになっているんじゃないかとみております。
 そうした意味で、公共的で実践的、倫理的な問題にリーダーシップを持って関与できる人材を養成するためには、従来の画一的な平等志向とか、不毛なイデオロギー論争から脱却して、教育の場とか、評価の基準をもっと多元化して、重層的に段階を追って、実践知の教育を行うシステムを構築する必要があるんじゃないかと考えております。
 以上でございます。


(田中委員)
 高等教育に対する社会的関心が低いことは問題。
 現在進行中の各種の制度改革の成否は、人材の養成にかかっており、安上がりな大教室のマス教育でゼネラリストを養成するだけではなく、リーダーシップをとれる人材の育成が必要。教育に携わる人材の質の向上も重要になってくる。また、公共的で実践的・倫理的な問題に関わる実践知の教育の充実が図られるべきであり、そのためには、画一的な平等志向から脱却し、多様化・重層化した教育・評価システムを構築する必要がある。















 


田中成明(たなか・しげあき)
京都大学教授。専攻は法哲学。
1942年生まれ。1964年京都大学法学部卒業。1978年京都大学法学部教授となり1997年より99年まで同大学大学院法学研究科長・法学部長。科学技術会議生命倫理委員会委員、法学教育の在り方等に関する調査研究協力者会議委員なども務める。主著に『現代日本法の構図』(悠々社1992年)、『法的空間』(東京大学出版会1993年)、『法理学講義』(有斐閣1994年)、『現代社会と裁判』(弘文堂1996年)などがある。















 

【田村委員】実は先月のことでございますが、卒業式がございまして、私の中学時代から非常に親しい友人で、新聞業界の重鎮で活躍している者がいまして、卒業の話をしてほしいという依頼をしました。ところが、彼は新聞界の人らしく、卒業式の前に10日間くらい、会う人会う人に、18歳の若者にどういうメッセージをあなたは与えたいかということを聞いて歩いたらしいんです。彼は卒業式が終わった後、私に言った言葉では、今の日本の大人の人は、18歳の人に与えるメッセージをだれも持ってなかったと。これが現実だろうと思いますし、それが教育改革国民会議をやる意味だろうと思います。
 つまり、社会は大きく変わろうとしている。言ってみれば明治維新みたいなときですけれども、そういうときには学校だけで教育がやれるわけがないんです。社会全体が教育に取り組むという意味を一人ひとりが持つということが非常に重要だということで、まず最初に申し上げたいことであります。教育を言ってみれば幼小中高大に子どもが通っている親と一部の教育関係者だけにまかせてしまうということでは問題は解決しません。この親達は通過集団ですね。子どもが卒業してしまうと関心を持たなくなってしまうという、これだけは直さなきゃだめだろうと。何とかそれを提言したいと考えているわけであります。
 したがって、この会議がそのことを考え直すきっかけになっていただくと大変ありがたいと思います。
 時間がありませんのであと3点ほど申し上げてやめますが、1点は、家計にエンゲル係数というのがございますが、私は私立学校を経営している立場から、教育というのはお金が掛かるわけでありまして、エンゲル係数ならぬ、国が教育に、あるいは文化にどれくらいお金を使ったかということを公表して、例えば小渕係数とかいう名前を付けて、小渕ドクリトンでもいいと思いますが、やはり1つの国際的に比較して数字を明示して、このくらいは教育・文化に使いたいと。今年は達しなかった。教育関係者はもっと使えるように工夫しろとか、そういうようなことが言えるようにしていくということも非常に大事なことではないかと思います。
 会議で何かの具体案ができたら大変うれしいなと思っております。
 2点目は、具体的なテーマとして、21世紀懇談会は個の確立ということをおっしゃったんですが、集団主義で見事に成功した国が、個を確立するということを言うのは非常に難しいわけです。そこで言ってみれば、正確に言うとすれば、個の確立と全体というような言い方をしないとまずいんじゃないかという気がします。
 つまり、ケネディ大統領が就任演説でおっしゃったと言われる、「アメリカ国民は国に何かをしてもらおうと考えるんじゃなくて、自分が国に何ができるかということを考えてほしい」ということを言ったんですが、これがここで求められる個の確立だということだと思うんです。こういう考え方が何とか教育の場で伝えられないだろうか。
 3番目が、大事なテーマが自然との共生ということで、命へのいとおしみということがその基本にあると思いますが、これがクリエイティブな能力を生み出す基になっていないといけないんじゃないかという気がします。
 私は現場で子どもたちと接していますので、河上先生のお話も聞いていて、そうだろうなと思って聞いているわけですけれども、逆説的に言いますと、茶髪の子ほど実はやさしいところがあります。接するとよくわかります。自分をそういう形で表現したいというところがあるんですね。ですから、大人の立場で子どもに接するときには、実際に当たっていただくとたくさんの発見がありますので、是非やっていただきたいという気がします。
 最後に、教育の問題は結局は、大きな社会変革のところでは、大人の問題だということ。大人の社会がちゃんとしていなくて子どもの教育がきちっとできるわけがないということを訴える必要があるだろうと思っています。
 まだ、たくさん申し上げたいことがあるんですけれども、こんなところで終わります。


(田村委員)
 今の日本の大人は18歳の若者に与える言葉を持っていない。
 明治維新のように社会が変化している時代に、教育は学校だけの問題ではなく、社会全体で取り組むことが必要。そのためには、まず、国が教育・文化にどれぐらい支出したかを示すエンゲル係数ならぬ「小渕係数」のような指標を作ってはどうか。
 21世紀懇談会は個の確立をうたっているが、集団主義で成功した国で個の確立は難しく、「個の確立と全体」と考えるべきであり、ケネディ大統領の演説にあるように「国が何をしてくれるかではなく、国に何をできるのか」ということを考えた方が良いのではないか。
 自然との共生も重要。また、大人の社会がしっかりしてこそ教育ができる。






















 


田村哲夫(たむら・てつお)
学校法人渋谷教育学園理事長、渋谷教育学園幕張中学・高等学校、渋谷中学・高等学校校長。
1936年生まれ。1958年東京大学法学部卒業後、1958年住友銀行入行、1962年渋谷教育学園常任理事、1970年より現職。日本私立中学高等学校連合会常任理事、中央教育審議会委員なども務める。藍綬褒章受章、エリザベスU世女王大英帝国名誉勲爵士叙勲。主著に『心の習慣』(東京書籍1998年)がある。

































 

【沈委員】司馬先生の小説に取り上げられまして、文豪の麗筆で書かれまして、実質以上の評価を受けて恐縮しているわけでありますが、司馬先生と昵懇の総理がそういう形で特別御指名があったんだと光栄に思っております。
 先ほど江崎先生に名刺を出したら、異色の人ですなと言われたときに、大変驚いて、先ほどまで異色とは何かとずっと考えているうちに番が回ってまいりました。
 私は陶工でありますけれども、鹿児島の県社会教育委員を30年近くやりました。そして、町の社会教育委員もほとんど同じくらいやって、地域と青少年のためにささやかな力をそそいできました。
 ただ、私たちは一番末端であります。いつも告知があり、通達があり、そして教育委員会の連絡があって、一番最後に中央の考え方というものを消化しながら具体的に町に下ろしていくという、そういう苦労をしている意味で、中央に立って日本国の教育はかくあるべしという大局で物を見たことがない。いつもヨシの髄から東京を見ながら、多分、世の中こうなるのかと思って動いてきた男であります。
 そうしてみると、東京は無理を言うと。そんなことがあるかと思うようなことを平気で通達その他でやってまいります。どうか日本は広いわけで、みんながわかるように、そして、どこでもそれが即、国のためにみんなが利用できるようなものを是非考えていただきたいと思うんです。
 家庭というのを私はいつも考えておるんですけれども、私たちは職人です。私は父から仕事を教わりました。だから、私はだれよりも父を尊敬しております。尊敬しなければ伝達は受けられません。この野郎と思って、憎んでいたらとても教えてくれるとはわからないと思うんです。今、日本にそういうきれいな尊敬があるのかと。しかも、家庭というものがそうした尊敬という形で親子の関係が成り立っているかということになると、大変疑問があるような感じがいたします。 入学試験の過激さとか、あるいは有名大学、一流商社という物の考え方とか、そういうのは子どもが決めたことではないと思うんです。子どもの時から周りで言われていることが、子どもの潜在的なものになって暗示されて、そして、そういう道を選んだんだろう。もし親が周りが焼き物つくりはいいぞ。茶わん屋の親父にならなきゃいかぬといつも言っていたら、迷わず焼き物屋になったかもしれぬ。まさに家庭のささやき、親の評価の基準というものが子どもの人生を決めてくるんだ。そして、それが社会に非常に大きな影響を与えてく
るんだろうと思うんです。
 ことに父親は家庭の教育から全部リタイアしております。金を稼いでくる。仕事が忙しいということで、奥さんだけ、お母さんだけに子どもの教育の全責任が掛かっている。お母さんが悪いとは申しません。しかし、物の見方は、男の見方、女の見方があります。やはりそうしたものを重ね合わせなければ子どもはできてこないんじゃないか。父親も断然家庭教育に帰っていくべきだと。企業はそのために父親が家庭に対して勉強する時間と、手段を考えてやらねばならない。そして我々がここでどんな改革を決めても、結局、最後の受け皿は家庭なんです。家庭が受け止めていかなければ具体化しないということ。これは私はそういうことを考えると、今一番必要なのは親教育だと。親教育だと。
 文部省もとかく学校教育というものを中心に据えたがりますけれども、この学校教育をいきいきさせるために親教育というもの、社会教育、生涯学習というものにもう少しお力をお入れになったらどうだろうか。
 私の横に浜田さんが、時間は短くと言っておられますのて、江崎先生、ここで失礼をいたします。


(沈委員)
 これまでは、地方は中央ばかり見てきたし、中央も地方に対して通達ばかり出しては上意下達の行政を行ってきた。
 私は、職人の父から仕事を伝達され、そのために父を尊敬することができたが、今の日本でこのような関係が成り立っているかどうかは疑問である。特に父親は家庭から逃げ出しており、親の側の意識改革をするための教育が必要である。





























 


沈 壽官(ちん・じゅかん)
薩摩焼宗家十四代。大韓民国名誉総領事。
1926年生まれ。1952年早稲田大学政経学部卒業。薩摩の苗代川(現・美山)の陶工。1964年薩摩焼宗家十四代を襲名。白薩摩による金襴手や浮彫、透彫の作品の他にも「宗胡録写」を展開したものや、黒薩摩の作品など幅広く手がける。司馬遼太郎の短編『故郷忘じがたく候』の主人公としても知られる。1989年国内初の韓国名誉総領事に就任、日韓交流につとめる。1999年韓国文化勲章受賞。




























 

【浜田委員】株式会社リコーの会長をしております浜田でございます。
 昨年から経団連で人材育成のテーマを担当しております。今日は初回ということですので、ちょっと一般論で恐縮でありますけれども、教育の問題というと、私はどうしても昔を思い出しまして、昔と比較してしまうんですけれども、昔は何か子どもたちの手本になると言いますか、目標になるような人物像というのが各界にいっぱいいたような気がするんです。今それがほとんどなくなってしまった。
 その原因の1つは、テレビが批判中傷、人をおとしめて楽しむという文化を巻き散らしてきているんじゃないかと。
 原因の2は、各界のリーダー層に、いわゆる役割と責任というのが何かあいまいで不明確、不在になってきていることが年々あばかれてきている感じがある。したがって、教育に取り組むときには、リーダー層の、特に大人の反省から始まらないと、なかなか難しいのではないかなというのが1つであります。
 もう一つは、昔はもっと緊張というんでしょうか。教育にとって緊張という状態というのは非常に大事ではないかというふうに思います。最低限の緊張というのは、うかうかしたら食いっぱぐれるぞという緊張ですね。これはないわけですから、今は緩んだ平和なムードの中で刹那快楽主義というような状況の中で教育をどう立て直すかということですから、大変難しいテーマ、それなりの覚悟が必要だなという感じがいたします。
 私は昨年初めてイスラエルという国を訪問しまして、日本とちょうど対局にあるような違う国だと感じたんです。国全体に緊張がありまして、若い人たちの目つき、態度、物腰、ほとんど違うんです。そういうことを感じました。
 詳しくは3分の制約がありますので、省略をいたします。 3番目にいじめというのは昔もあった。だけれども昔のいじめは弱い者いじめという言葉になっていました。弱い者いじめというのは否定されるというか、やってはいけないという暗黙の合意みたいなものが友達の世界にもあったように思います。最近は聞くところによりますと、弱い者のいじめというのが常識なんで、強い者はいじめることができないからいじめというのは弱い者をいじめるのは当然じゃないかという感じで周りの普通の人も、それを見て楽しんで、自分たちの憂さも晴らしているような話を聞きました。もし本当だとしたら、何とも情ない国になったなという感じがいたします。 例えば弱い者いじめは人間のくずだという標語を全国の学校の教室に貼るくらいのことができないのかなという感じがいたします。
 それから、最後に、昔はもっと自然に接する機会がありまして、遊びというと、友達と自然を相手に遊ぶというのがスタートラインだったんです。これが非常に薄くなってまいりまして、受験勉強の合間の遊びでも、一人で部屋で、いわゆる画面と遊ぶということになりますと、友達はまずできない。したがって、結婚相手もなかなか探せないという状況につながっているんではないかと。わたしの記憶でも、友達ができたというのは、ほとんど自然を相手に遊んでできた友達のような気がいたします。
 最後に提案が1つだけありますが、大変乱暴な提案ですけれど、14、15歳で1年間合宿をして、農業をしながら勉強するという提案であります。国民皆兵はいけませんので、国民皆農と仮に呼んでおりますが、土にまみれて作物を育てる、動物を飼う、自分たちの食事は自分たちでつくる。自分の下着は自分で洗う。掃除は拭き掃除をする。私はこの拭き掃除が大変大事ではないかと思うんです。電気掃除機がやるんじゃなくて、拭くことによって、物に対する愛情、愛着、そういうのが湧くような気がします。
 それから、テレビはないか、あっても劣悪番組は流さない。それを3夫婦プラス1名、合計7名で1単位30人の世話をする。この教育効果は十指に余るほどあるんですが、これも省略をさせていただきます。
 先ほど曾野先生から18歳で社会貢献のボランティアをという御提案がありました。それをやるには、13歳か14、15歳でこれをやっておかないと、それほどの体力も気力も出てこないんじゃないかと、併せて御検討いただければと思います。 以上でございます。


(浜田委員)
 経団連では昨年から教育を担当している。
 昔の日本にはお手本となる人がいたが、テレビが誹謗中傷にあふれていること、各界のリーダー層の役割と責任が明確になっていないこともあり、状況は変化してきている。
 また、社会全体が豊かになり、緊張感がなくなって教育にとってむずかしい時代になった。
 いじめは昔もあったが、弱い者いじめはしないという暗黙の了解があった。今は強い者はいじめられないので弱い者をいじめて楽しむのが普通となっており、政府で弱い者いじめはいけないことだと広告を打つべき。
 自然に接する機会が減り、友達とも遊ばなくなった。この状況を打開する意味でも、14、15歳時に、一定期間合宿で農業を行う「国民皆農制」を実施すべき。

























 


浜田 広(はまだ・ひろし)
(株)リコー会長。経団連人材育成委員長。日経連副会長。東京経営者協会会長。
1933年生まれ。1957年東京大学経済学部卒後、(株)リコーに入社。1974年東京支店長、1983年社長に就任する。1996年会長となり、1997年日経連副会長、東京経営者協会会長に就任。1999年より人事院国家公務員倫理審査委員も務める。1991年藍綬褒章受章。






































 

【藤田委員】藤田です。どうぞよろしく。
 私は教育を一応専門にしておりますが、学部では経済学を勉強しまして、それから銀行に就職しました。その後、日本とアメリカの大学で教育社会学を勉強しました。3年前に『教育改革』という本を書きまして、臨教審以降の教育改革は日本をダメにするというトーンの議論を展開しました。
 アメリカの研究者と話しておりましたとき、この十数年間日本で進められてきた教育改革は、教育の武装解除をしようとしているように見えるという点で意見が一致したことがあります。言葉が適切かどうかわかりませんが、世界各国が教育の再武装化を進めているのに、なぜ日本は逆向きの改革をするのか不思議だというのです。同様の疑問は、この数年、諸外国の研究者や政策担当者からしばしば聞かれました。
 教育は国家百年の大計であると言われますが、その通りだと思います。しかし、それはたんに計画するということではなくて、私たちがその責任を引き受け、それにふさわしい資源を投入することが重要だということだと思います。ですから、先ほど来いろいろ出されましたさまざまな提案について検討することはむろん重要ですが、それにふさわしい十分な資源を投入して改善に努めるかどうかが、それ以上に重要なことだと思います。その点を十分に検討してくことができればと思っております。
 2点目といたしまして、いわゆる学校病理と言われるものをどう考えるかが重要です。それは、学校が原因で起こっている病理・問題なのか、それとも社会に原因があって起こっている問題なのか、これはきちっと見極めていただきたいと思います。
 私の理解するところでは、ほとんどの問題は社会に原因があります。欧米諸国もほとんど同じ問題を抱えています。それは社会病理ではあるが、それに対する有効な対策の可能性は、学校にしか期待できない。だからこそ、学校に何とかし
てほしいと期待するのであって、必ずしも学校の在り方が原因で起こっているのではないということを強調しておきたいと思います。
 3点目といたしまして、いわゆる教育機会の再編に関わる制度改革と、学校の管理運営に関わる制度改革と、教育実践に関わる制度改革(例えば学習指導要領等です)と、それから、教育条件の改善に関わる改革(資源の投入や学級規模の縮小や弾力化等です)は、区別して考える必要があると思っております。これらを一緒くたにして議論して改革を進めようとしますと、とんでもない間違いの元になると思っております。
 それから、この会議では、教育の基本的な理念と基本的な方向を検討するということですが、これについては将来を見据えた改革が必要だということは言うまでもないことです。しかし、教育という営みが準拠すべき基本的な理念や倫理はそう変わるものではないと思っています。
 それから、最初に申し上げたこととも関連しますが、今日、
世界各国の高等教育改革では、21世紀の知的ヘゲモニーをどの国がどのくらい握ることになるのか、知的ヘゲモニーを巡る国際的な競争の中でいかに優位に立つかということが大きな関心事になっています。それに対して、日本の大学改革は、その点が非常にあいまいで軽視されているように思います。この点も併せて考えていくことができればと思います。


(藤田委員)
 臨教審以降の教育改革は日本を駄目にしている。世界的には教育の「再武装化」が潮流となっているのに、日本では逆に「武装解除」を行っているようなものである。
 教育には多くの資源を投入する必要がある。また、いじめや校内暴力などの問題は、学校病理なのか社会病理なのかを見極める必要がある。その多くは社会病理であり、学校に全て責任を押しつけ、問題を解決できないといって学校を責めるのは間違っている。
 世界では知的ヘゲモニーをめぐる競争が激化しており、それは諸外国の高等教育改革の重要な関心事になっている。我が国の大学改革に当たっては、この側面をきちんと重視する必要がある。
















 


藤田英典(ふじた・ひでのり)
東京大学教育学部長。専攻は教育社会学。
1944年生まれ。1969年早稲田大学政経学部卒業。1975年東京大学大学院教育学専攻修士課程修了。1978年スタンフォード大学大学院博士課程修了。1979年名古屋大学助教授。東京大学助教授を経て教授となる。青少年の自己形成と学校教育の関連について調査研究を進めている。主著に『子ども・学校・社会』(東京大学出版会1991年)、『教育改革』(岩波書店1997年)など
























 

【森委員】森でございます。時間がないようなので、簡単に3点だけ申し上げます。
 第1点は、教育は国家百年の大計ということなんですが、私の専門は教育行政なんです。かつて歴代宰相の教育政策、歴代文部大臣の教育政策というのを明治以来調べたことがあるんですが、そうすると、ほとんどの総理大臣、文部大臣は教育は国家百年の大計と言っているわけです。国家百年の大計と言ってもう百年経ったわけです。あるいは100年以上経っているわけです。現在、我々はそれをどう評価するかとい
うことは、これはコップの水が半分も入っているか、半分しか入っていないかで違うかもしれませんけれども、私は100年後に、今日のこの会議で出した国家百年の大計が、100年後にどう評価されるかということを考えると、百年の大計というだけのスローガンに終わってはいけないと。
 では、なぜスローガンに全部終わっているのかと分析してみますと、それは「理念」を実現する「理論」に欠けていたということです。スローガンだけで、心の教育、個の尊重、いろいろスローガンはあるんですが、それを実現する理論がない。その理論を実践に移すには「方法」がない、方策がない。「理念、理論、方法」というこの3点セットがそろってないので、百年河清を待つような現状になっているんじゃないかと思います。
 ですから、これからの教育改革というのは、スローガンだけではなくて、理論を提起する。その理論も「実践なき理論」ではなくて、あるいは「理論なき実践」ではなくて、私は附属小学校の校長を4年やりましたが、あるいはPTAの会長も小中と子どものをやりましたけれども、現場を見ておりますと、どうもこの理論と実践がいかに掛け離れているか。河上先生のおっしゃることよくわかるんです。
 第2点は、教育問題を考えるときに、何が原因かを考えて、その原因を除去しようと考えるんですが、私は「原因の原因」といったように考えないと問題は根本的に解決しないんじゃないかと思うんです。
 そういう意味で、あらゆる問題の原因の原因を考えていきますと、ある一つの共通項に気付くわけです。それは何かというと、「大人の幼児化」ということです。これはローレンツが言っていることですが、文明が発達すれば大人はだめになる。大人は幼児化する。だめな大人が子ども教育をしているんですから、子どもはもっとだめになる。それを私は子どもの「劣子化」と言っているんですが、今、少子化対策を中教審でやっていますが、あれは少子化という量の問題なんです。しかし、質の問題、教育というのは人間の質を考えるべきなんで、そうすると、どうなるのかということで私は劣子化と言っているんですが、劣子化は知徳体、3つに分けて考えないといけないと思うんですが、普通、教育を語るとき、皆さん方の御意見を聞いていますと、それぞれもっともなんですが、ある人は知育をイメージして語っていらっしゃる。ある人は徳育を、ある人は体育ということで、いつも知徳体の調和的な発展というのは理想でありながら、イメージが分散していることも1つあるんじゃないかと思うんです。
 そういう意味で、子どもの知の劣化というのは、知識と知恵のアンバランスで、考える力がないという問題。徳の劣化は、子どもが少なくなるのに少年犯罪が急増している。体の劣化は、体位は向上したけれども、体力は低下している。最近東京都は、子どもの身長も小さくなっているという統計を出しておりますけれども、そういうことで、子どもの劣子化対策、大人の幼児化対策、これを是非考えなければいけない。 これこそまさに100年掛かってもできないと思う。百年の大計を実現するには、私は50年の中計、1年の小計、この3つがシステム化されていないと無理じゃないかと思います。3番目は、もう時間がないので問題点だけ言いますが、問題を解決するには、原点から、川上から。教育の改革は原点からすべきだと。
 臨教審が教育の原点は家庭だと言って、これはなかなかいいことで、家庭教育をどうするかということを是非やっていただきたい。特に最近、私は仕事と育児の両立という甘い考えで少子化対策を考えていますが、その前提が少し疑問に思うくらいでなければいけないんじゃないかということであります。
 以上です。


(森委員)
 戦前から歴代総理大臣・文部大臣が「教育は100年の大計」と言っているが、それをスローガンで終わらせてはいけない。これまでの改革案は理念に傾き、これを実行するための理論や
実践方策に欠けていた。
 教育問題の原因をたどってゆくと大人の幼児化に行きつく。ローレンツも「文明が発達すると大人が幼児化する」と言っているが、この幼児化した大人が親として子どもを育てており、これが劣子化現象となっている。
 100年の大計を実行するためには、50年の中計と1年の小計のシステムが必要。また、原点から教育改革を見直し、原点である家庭教育をどうするのかを具体的に考えるべき。




























 


森 隆夫(もり・たかお)
お茶の水女子大学名誉教授。専攻は教育行政学、生涯教育。
1931年生まれ。1956年東京大学教育学部卒業。1956年国立教育研究所、1966年お茶の水女子大学講師、1967年助教授、
1974年教授となる。1982年同大学文教育学部長、1991年同大学大学院人間文化研究科長を歴任し、1997年退官。中教審委員を務めるほか、教育職員養成審議会と保健体育審議会では副会長となっている。主著に『教育の扉全15巻』(ぎょうせい1991-96年)、『教育行政における法的思考と教育的思考上下』(教育開発研究所1991年)、『生涯発達教育論』(ぎょうせい1996年)などがある。






























 

【山折委員】私は長い間宗教のことを研究してきた者でありますが、ちょうど橋本内閣のときに中教審に心の教育を考える委員会というものができまして、それに1年間参加させていただきました。
 そのとき冒頭に申し上げたんでありますが、委員の方々の中に宗教家が一人もおいでにならない。これは異常な会ではないかということを申し上げました。
 アメリカでもヨーロッパでも少なくとも心の教育といったようなテーマで議論をする委員会に、宗教家が一人も存在しないなんて、まず考えられないです。この異常な事態をどう考えていったらいいか。こういうことを申し上げましたけれども、そのときは、お取り上げになられませんでした。
 今回、この教育改革の問題を議するこの会議に再び出席させていただくことになりましたけれども、今回また、宗教家が一人もおいでにならない。官邸がやはり、かつての文部省と同じように、現在の文部省と同じような認識をお持ちになっているということに胸を突かれました。
 なぜそうであるかということにつきましては、恐らく100年、あるいは戦後50年の日本の教育の根幹に関わる問題がここには横たわっている。しかし、これからはこの問題を避けて、この教育改革の問題を議することはできないのではないかと私は思っております。先ほどもちょっと話に出ましたけれども、内村鑑三は、あの明治文明開化の段階におきまして、日本は間違っている。ヨーロッパ文明を全面的に受け入れながら、ヨーロッパ文明の精神的根幹を成すキリスト教をほとんど問題にしていなかった。キリスト教抜きのヨーロッパ文明の受容ということが主要な問題である。
 戦後日本の教育基本法をつくる上で非常に大きな役割を果たされました南原繁さん、南原さんは、あの教育基本法をおつくりになる初期の段階でどういうことを言っておられたかと言いますと、ルネサンスと宗教改革が必要であるということを言っておられたんです。しかし、やがて教育基本法が実際につくられる段階になりまして、その2つの軸はほとんど言われなくなりました。これにも戦後の政治状況の複雑な問題があったかと思います。内村鑑三、そして、南原繁、両氏がかつて日本の将来について言われた言葉を、できればこの会議において議論させていただければと思っております。
 以上でございます。


(山折委員)
 心の教育を議論するための中教審の委員に宗教家が一人もいなかったが、このような文部省の見識を疑う。宗教教育は戦後教育の根幹であり、内村鑑三も西欧文明を受け入れながらキリスト教を無視したのは失敗であったと言っている。
 また、教育基本法を起草した南原繁氏も原案で入っていた宗教教育の重要性が最終的には変わってしまったことについて述べており、宗教の問題についてこの会議で議論したい。












山折哲雄(やまおり・てつお)
京都造形芸術大学大学院長。専攻は宗教学、思想史。
1931年生まれ。1959年東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、白鳳女子短期大学学長を経て、1999年より現職。民族の中の宗教現象にひかれ、そこへ至る人間のからだのプロセスを研究、インドや東南アジアの宗教、ヨーガや座禅などを通して問題の核心に迫っている。主著に『死の民俗学』(岩波書店1990年)、『臨死の思想』(人文書院1991年)、『宗教の力』(PHP研究所1999年)などがある。











 

【山下委員】かなり御熱心に論議されていたものですから、私のしゃべる番がなくなるんじゃないかと、半ばあきらめておりました。
 現在、シドニー・オリンピックを目指して全日本柔道の男子監督として最後のまとめ役としてやっているところでございます。
 時間もありませんので、2点話させていただきたいと思います。
 1つは、今の教育に、あるいはここ50年の教育の中に、思想教育というのが欠けているんじゃないかと。いかにあるべきなのか、いかに生きるべきなのか。そういうことが全く欠けてきているんじゃないか。
 私自身、非常に恥ずかしながら、そういうことを考え始めたのは35歳くらいからなんです。昔、立志というのがありましたけれども、14歳ですか。やはりこれは生きる根幹に関わる、これの教育というのが全く欠けている。これは是非考えていかなければいけないんじゃないか。
 人生という授業の導入とか、本を10分読ませるという話がありますけれども、やはり思想教育と絡んでくるんじゃないかと思います。この欠如というのが非常に大きな問題であると思っております。
 2点目ですけれども、子どもは大人の鏡であると思います。磨くのは子どもたちではない。我々大人自身ではないかなと思います。教師は生徒を磨く前に自分を磨け。親は子どもを磨く前に自分を磨け。今の子どものもろもろの問題の根本は、何人もの先生が言われましたけれども、大人の問題であり、世の中の価値観のひずみがそこに表れているんじゃないか。環境が人を育てると思います。その環境に大きな問題があると思います。
 今の子どもではなくて、我々大人は、じゃないかと思うんです。我々の子どものころは、じゃないと思うんです。私は子どもは決してばかではないと思います。大人が本音と建前をうまく使い分けてきている。自分のやっていることと、子どもに言っていることと違う。そして、自分のこと、家族のこと、自分の育つ組織のことだけを考えて、自分の利害、エゴで動いている人が多い。
 そして、立場が上の人になればなるほど、人間的にすぐれているんじゃなくて、その権力を自分のために利用する人が多いと。そういうことを子どもは敏感に感じているんじゃないかと思います。
 そういう意味で私は、責任は我々大人一人ひとりにあるんだと。それをこの国民運動の中でもう一度子どもは国の宝という話がありましたけれども、この認識をまず我々が持って、我々一人ひとりの行動を改めていくところから始めていかなければいけないんじゃないかと思います。
 明治の前半までいろいろ勉強しますと、かつての日本人というのはすばらしいものを持っていた。自然を愛し、教育熱心で、勤勉で、正直で、名誉を大事にして思いやりがあった。しかし、残念ながらこういうことを私は学校では全く学んで
きませんでした。まず、そういうところから、我々大人から改めていかなければいけないんじゃないかと思います。時間がもう過ぎておりますので、以上で終わらせていただきます。


(山下委員)
 いかにあるべきか、いかに生きるべきかという人の教育が欠けている。また、子どもは大人の鏡であるので、親・教師は自分を省みて、まず自分を磨くべきである。大人が本音と建て前を使い分けていることが子どもが荒れる原因であり、責任は大人一人一人にある。


























 


山下泰裕(やました・やすひろ)
東海大学体育学部教授。
1957年生まれ。1980年東海大学卒業。1983年東海大学大学院修了。1977年大学2年の時に史上最年少(19歳)で柔道全日本選手権優勝。その後、全日本選手権9連覇、世界柔道選手権は4タイトルを取り、1984年ロス五輪で金メダル獲得。同年アマチュアスポーツ選手として初の国民栄誉賞を受賞する。1986年に東海大学体育学部助教授、のち教授となる。全日本柔道男子ヘッドコーチや保健体育審議会等の委員も務める。