生徒指導論(11回目 6月29日)

 

・・・前回の「歴史」についての授業ですが、補足を少しします(ここでは省略)。なぜ、もう一度やろうかと思ったかというと、先週の講義の後、ある学生さんと話していて「やる前に卑下してかはわからないけれど、『歴史は面白くない』というのはどうでしょうか。心にひびいてくるものがなくなってきます」と感想をいただいたからです。まったくそのとおりです。皆さんが、教育学科の学生だから何度か聴いてるだろうし、しかも同じことだと面白くないのでは、という私の考え自体が思い込みで固定観念ですね。「遠慮」しているわけでも謙虚でもなんでもなく、たぶん自信を過信にならないようにもたないといけないのにもって臨めなかった私が悪いのです。それで、本来なら、もう一度、同じところを自信をもってやりなおしたいところですが・・・、なんとその学生さんもお休みのようだということもありますが、なによりも時間もあまりあるわけではありませんので、今日はカウンセリングの方法と考え方にいこうと思います。「時間がない」ということを理由にするのもいけないのですが、全員がわかったかの反応を調べながら授業がすすめられればいいのですけどね。

 

 

 

カウンセリングの方法論

 カウンセリングとカウンセラー

 まず、「カウンセリング」とは何かということですが、「カウンセラー」がおこなう相談に応じる行為のことなのですね。様々な専門のカウンセラーがいます。相談役なのですね。

 では、他の人が行なうのはカウンセリングではないのか、といえば、その話についてはこれから考えていきます。とにかく「専門家」のカウンセラーがいて、例えば学校に「スクールカウンセラーを加配」と求められるように、そういう人の投入が叫ばれるのですね。

 皆さんの中にも、教育学科の学生の中にも、よく「カウンセラーになりたい」と言ってくる人がいて、「だから心理学科へ転科したい」というのですね。たしかに「心理学」の基礎から学ぶことは大切です。しかし、実はカウンセラーというのは、社会学・教育学・心理学系の出身者が大学院に行って、その後学会に所属しながら臨床歴を経ていけば「資格」は認定されるのです。だいたい「認定資格」なわけですが・・・。

 ですから、「文理学部」という性格なら、教育学科にいながら心理学系の授業をたくさん履修できるし、個人で学んでもいい。それでも十分に可能なのです。

 もう一つの事実なのですが、千葉県、群馬県にいる知人がそうなのですが、心理学科卒業ではなくてもカウンセラーやっています。そして実際に「スクールカウンセラー」のすべてが「臨床心理士」ではないですよ。私もある学校でこのあいだお話ししてきたのですが、ある私学が「カウンセラー」を募集しているのですね。それでどのようなカウンセラーがいいのかという話をしました。ちなみに私はカウンセラーではない。不登校の子どもたちに対してもメンタル・フレンドだと自分では思っています。

 その私の持論なのですが・・・、カウンセラー養成は一時期すごい熱がありましたが、いまはちょっとそれほどではないと思います。これは現場にいくと対応できないことがあるからです。実際に数は足りないというか、いくつかの学校を専門家がかけもちをしていることが多いと思います。「現場にいくと対応できないことがある」というのはどういうことでしょうか。・・・たいへんなんです。

 たしかに、具体的にいえば週に2日ぐらいの出勤で、かなり高額を得て、さらに平和なことに仕事のないこともあるでしょう。しかし、相談業務以外にも教員との連繋や研修などの業務をもつことも多いでしょうし、また事件や問題があれば、基本的にその時間内ですむ問題でもありません。まさに現場にいくまでわからないし、行ってみても毎日わからないこともあるのです。

 それに教員との関係もたいへんです。私が相談を受けて話したところは「カウンセラー」は初めてではなくて過去に3人いたそうです。それで新たに1人とりたいのだがどうしたらいいか先生方の意見が割れているというのですね。会議の様子が想像できます。私も高校教員でしたから・・・。

 つまり、3人入れ代わったということは、3人とも必ずしもうまくいかなかったということではないでしょうか。もちろん相思相愛で惜しまれつつ辞める例もあったかもしれません。だから学校名はいえません。しかし、お話ししたところではそうではなかった。

 いわゆる「守秘義務」ですね。これはもちろん誰にもあるのですが、「カウンセラー」という専門家はそれを「表」に出すから相談に来れるというのもあるのですね。だって、言えない悩みを抱えているんですから・・・。それで、そもそも、先生へいきにくいという考えや雰囲気などがあって、それで言えずに悩むのですよね。そういう子が来る。

 でも、そういう「生徒」も学校の「生徒」であるし、教師のだいじな「生徒」なんです。たしかに対応できない自分が悪い面もあるけれども、誰もが誰にでも対応できるわけではない。教師としてできないこともあるかもしれない。皆さんだって、人によって話すことを変えますよね。この人にはこの部分、この人にはここを、こいつにはこんなこと話せない、とか。だからカウンセラーだって話してみないと接してみないとわからないのです。しかし、教会の懺悔ではないけれども、なぜか役割的に「話せる」ことになっていて、話せることを話しに行く場所なのです。

 だから、つまり教師や学校は、その生徒がどういうことで悩んでいるのか、実は知りたいのです。不安だからです。知らないでいると、自分がそういうつもりでなくても、自分がショックを与えているのかもしれないですから・・・。そういう心理がある。

 しかし、多くの「カウンセラー」は「守秘」でもって(あたりまえではあるが)話さないのです。これは難しい。・・・もちろん教員に問題があるときなどはカウンセラーがなんらかの措置をするのでしょうが、しかし「知りたい」という欲求にこたえるものではない。

 つまり、ヘタをすると、教員にとってはカウンセラーが抱え込んでいるようにもみえるし、実際に「情報」は抱え込むのです。それで人気をとられるかのジェラシーもあるかもしれない。そんなことは筋違いでしょうが、しかし「対立」しがちなのです。

 

 実際に前にも話しましたが、カウンセリングで相手と話している時には「言語レベル」「非言語レベル」(板書:略)での「知的理解」や「感情的理解」というのはあるのですね。「私」と「あなた」が話しているときの「アタマの中の世界」は何度もいいましたね。あれも同じですが、その話を聴いて「共感」したり、あるいは相手の考えを整理していったりしますね。「転移」「逆転移」とも称されますが、そういう時に相手にはまりこんでしまうこともあります。例えばオウム真理教事件でそのオウム・シスターズといわれる女性の洗脳を解いたとされる〇〇氏という人がカウンセリングをしていたのですが、もちろん複雑なことだし、自由なのですが、たしか彼女と結婚したのでしたかね。「それで洗脳を解いた」とは言わないけれど、それは洗脳しなおしみたいな面はないですかね。言い過ぎかもしれません。しかし宗教洗脳を解く時、他の宗教が教義を説いたりもするのですね。そういうふうに「信じさせる」こともたしかに有効なことではあります。しかし一方で「ミイラとりがミイラに」の危険性もある。だから、親密になりすぎるという問題もあったかもしれません。

 あとは、週に時間が決まっているのですね。それでは時間が少ない。しかもその時間は学校かカウンセラーのつごうですね。それではつごうにあわせられて、相談に来れる生徒だけが受けれるということになる。そして実際に、学校はこんなに雇うことで悩むのも、制度的に雇うべきだし、しかしうまくいかないジレンマもあるけれども、ある種雇うことで努力しているということは示せるのです。それが免罪符的になっている部分だってあります。また「専門家まかせ」のつもりになって無関心化もありえるかもしれない。

 

 さて、話しが長くなってしまいますが、この授業は「生徒指導論」です。もちろんカウンセリング論の性格も含むものだとも理解しています。しかし「教職」のための性質ももつことは事実です。その担当の私の考えは、さきほど言った持論なのですが、その学校で話したのですが、究極は「教師がカウンセラーになるべき」だと思うのです。

 前に、「カウンセリング・マインド」は難しいし、カウンセラーにはなれないということを言ったかとも思います。あまり覚えていないのですが・・・。しかし、「教員」は本当はできるんです。

 たしかに「成績評価」とかもある。しかし、「臨床心理士」の資格はなくても、最大の「臨床家」は教員であるはずです。いや、「臨床心理士」資格所持者でさえ、現場ではとまどうのです。それは理論や方法は学んでいても、臨床も学んではいるのでしょうが、必ずしも臨床に「すべて」はないからです。

 その点、教員は本来は「臨床」が多いはずなのです。子どもと接する時間、関わる時間、見る時間、話す時間・・・、これが多いのは教師です。もちろん「にわとりか卵か」ではないけれど、うまくいかないのだからとか、うまくいっていたら初めから問題はないというのもあります。でも、それでも「臨床」があるのですから、それで防いだり、それでも起こることにも対応したり・・・、本当はできていれば問題ないのです。

 「それをいっちゃあ、おしまい」というようなことはあって、だから「教員がカウンセリングをできるならカウンセラーはいらない」という意味をもつように思えるでしょうが、そういう意味でいっているのではないのです。そうでなくて、「生徒指導」という学校内での問題行動等に関する相談、生活指導に際しては、その自分の臨床歴から学んで積み重ねていってしっかり相談にのり対応していくことが必要であるといいたいのです。

 現在、求められる生徒指導像と方法論についてもみてきました。滝充のPEACEメソッドもそうでした。論理療法もそうです。こういうものをいかして「生徒理解」と人間関係を築いていくことで問題に対応していくことが可能だと思うのです。とにかく専門家にもいろいろある。連繋・連絡は必要です。でも、前に言ったように児童相談所から精神科医師にまわされて投薬されたり、相談機関でもピンからキリまであったりもします。だから一人一人の教員の能力・考え方・対応をかえていくことと、それによって一人がうまくいかなくても他の教員が誰かが対応できるということも可能になります。そういうことで教師こそ「最大の臨床家」たりえると。

 

 カウンセリングのテクニック

 これはどんなマニュアルにも書いてあるのですがそういうのは勉強できることです。だいたいが「きく能力」という認識があります。でも本来はただただ「きいていればいい」のではないのですね。もちろん、その人の人格もあります。そういうものは「みぬかれてしまう」ことも多いし、それよりもみぬかれた時に相手に与える影響が心配です。

 さて、「ただ、きいていればいい」ではなくて、「いかに対応できるか」こそが問題だと思います。たしかに「カウンセリング」は相手自身の内部から解決を促す方法です。その心配をとりのぞいてあげるのだというわけです。それで踏み出せるまで待ってあげる。そういう考え方ですし、これはこれで正しい。

  「いかに対応できるか」と言ったのは、別にすぐに具体的に何か道を用意してあげるとか、そういうことではないです。これは「きく」ことをただただ「きく」というと何もしないでいることになることを警戒して言っただけです。いや、「尋問」をするわけではないし、そういうのは逆効果になることも多いでしょう。

 ですから「ただ、きくだけではない」のです。

 まず「生徒指導」は「生徒理解」から始まるといいましたが、「カウンセリング」も同じです。「原因」をききだすことが必ずしも目的ではなく、ただどういう状況なのか、どういう考えなのかをきいてあげることで「問題理解」することから始まります。そのために「きく」のです。もちろん「受容」から始まります。ただでさえ、相手は悩みを抱えているのですね。論理的であるはずは少ないし、そうであっても「論理療法」で話したように強迫観念に偏っていることもあるでしょう。だから「混乱」しています。「不登校報告所」にもあったように「情緒混乱型」が多いのです。その予備軍的に学校には来れているけれど、いつ不登校になってもおかしくない子というのもいると考えられます。

 ですから、そういうのを「きいてあげる」のです。本人も、そして自分と共有していけるように「整理」しながらきいてあげるのです。「ただ、きく」のとは違う。

 

 そのためにはもちろん「理解」してあげる必要があります。話す向こう側をみておく必要もあるでしょう。その意味で、生徒一人一人の日常を観察しておくことも必要かとは思います。「情報集め」です。従来はこれが「監視的」になり、「個人情報」を集めるようになっていたのですね。「ホームルーム」で家庭についての資料を集めるというのがその一つの例でした。とにかく、集団指導の中でも、個人指導の面でもそういう日常からの理解があって初めて「よくきく」ことが可能です。カウンセラーの場合はその日常の時間が不足しているし、「決められた曜日に来談しなさい」となるから、時間もかかるし、悩み傷ついた状態から抜け出せないことも多くみられます。ですから、学校カウンセリングにおいて「臨床」ある教師のカウンセリングが有効たりえる可能性があると思うのです。

 しかも教員の場合は「学校」が問題であれば、そこで解決のための味方になってあげられればいいし、具体的な活動や、集団的活動を通してその解決をはかれることも、かなりあるのではないかと思います。例えば「役割付与」とかです。ストレスにならない、そういう範囲の「結びつき」です。こういうのが「コーピング」にもなります。

 ただし、教師の相談は従来、「生徒を指導するのだ」という強迫観念・イメージからか「説教」的になることが多かったのですね。たしかに毅然とした態度や徹底は必要です。ケジメなき教師も問題です。しかし、「説教」でなおらないことに説教してもしかたがないのです。意味がない。意味ある「説教」ならいいのです。前にもいいましたが、授業中の私語に怒る先生は「学生が授業を静かにきかないとはなにごとだ」という固定観念がある。そこで怒るのではなく、いかにそうならない授業をするかの方が本質的ですね。

 さらに、幸いにして教員は家庭と連携をとることができるのです。「知らない人」じゃないんですから。それをうまくつかう。家庭とうまくつながっていれば、家庭で教師がほめられることもあるでしょう。その効果は少しは子どもに波及するはずです。地域というか少なくとも専門機関とつながっておくことも必要かと思います。ただし「まかせ」にしないように教師が「相談」して学ぶ。実際に自律神経失調等で精神科医とかにかかる教員が多いと報じられます。私の教師時代も胃薬を飲んでいる人も多くいました。でも、うまく連携していく、そういう道を探していくべきです。

 

 具体的なテクニックは、いくつかあります。以前配布したプリントにもありますが、例えば対面して座らないとか、そういうテクニックはあります。しかしケースバイケースであることはいうまでもありません。

 技術的には普通、「受容」がまずあって、ききださないんだと。相手を待つし、受け止めてあげるスタンスでいることですね。頭ごなしに否定もしないし、「誰もきいてくれない」と悩んでいる話を「きいてあげる」ことが大切ですね。

 きいてあげる中で、「整理してあげる」ことが必要なんですね。混乱をとる交通整理です。考えをまとめる手助けです。そのために「繰り返し」で確認してあげることが効果あるわけです。聞き手も相手の発言を繰り返してあげることで、「きいてくれてる」安心感を深められますし、「自己」の考えをまとめて「さとり感覚」とでもいうものをつけさせることができます。

 それで次に「反射」といわれるものです。これは何度かやっている「共感的理解」というやつです。相手が「わかってくれる」ことで他者と自己という関係、そして孤独から少しは楽になれますし、心を少しずつひらいていけるようになってくるようにします。もちろん相手の思いを真剣に共感的に理解(かつ客観的に整理)しておきます。

 次に「明確化」です。相手の話がつまるときや、ただの繰り返しではないのを示すためにも、表現や言葉を助けてあげることが必要です。

 そして「直面化」という段階もあります。これは「論駁」にもあたります。対決してあげるのですね。もちろんそれをして大丈夫な関係ができてからということがあります。初めにこれをやってしまうと「頭ごなしの説教」にしかなりません。そうではなく、「違う」考えもあるということと、思い込みの論破とを行なうのが目的です。「刺激」を与えてあげるということもできるでしょう。

 あとは「解釈」というやつです。これは「明確化」にも通じますが、むしろ洞察力でもって先読みをするのです。人間との対話においてそういう「あらかじめわかる」部分はありますね。これをうまくすれば「本当の私をわかってくれる」というようになるのですね。もちろん完璧な理解はありえないのですが、なるべく本当にわかるようにするからこそ、先読みが可能にもなるわけです。他に、リードしてあげたり、助言を与えたり、支持する等もあるのですが、基本的にはこういうテクニック論はある。もちろんこれは「対話能力」です。そういう能力がカウンセリングの技術であるし、相手が「話せる」状態づくりがまずは必要になってくるわけです。

 

 カウンセリングの問題

 カウンセラーと教師の距離だとか、カウンセリングマインドの教師は難しい、とかは話してきたのですが、もっと問題なのは「基本的な考え方」です。

 まず、どうしても、心理理解においても医学モデル的に「解決方法」(solution)を絞って「処方箋」を出すことにベクトルが向かうのである。効果的な治療薬や手術などの療法があてはめられる。問題は複雑で多様であっても「解決」とははっきりと認識されることというのがどうしてもあるのではないか。「解決」中心であって単眼的見方になっていると思うのです。

 しかし心理的な問題では特に顕著であるが、必ずしも皆が同じ反応や効果があるわけではない。だからそれぞれのその時々の状態にそって可能性や方向性や考え方を見いだしていく、いくつか選択肢を広げていくというのがより現実的ではないか。そのために「臨床」という言葉があるのは言うまでもない。「解決方法」を「構成」していくことが重要なんですね。

 「問題の描写」を行ない、部分部分の目標を設定していくとか、身近な問題から解決していって、全体のからまりをほぐしてあげることこそが必要だと思うのです。

 ただ、気をつけなければいけないのは、それを「抑える」処置を重ねていくということとは違うということです。例えば「薬」です。何かを解決するために何かを投薬する。でもその副作用で別の症状が出て、こんどはそれへと投薬する。それが重なって・・・、何が問題だかわからなくなるのですね。これも「医学」モデルとも考えています。「本質」を考えていく、そのためにからまりをほぐしていくのが、本来の相談指導なのです。

 

 こういう相談は、スクールカウンセラー以外では、養護教諭だとか、カウンセリング担当教師がしています。こういう体制を充実させるのがまず一つ。あとは問題を解決するよう構成していって「本質理解」することが必要なわけです。今日は時間がなくなりましたので、これで終わります。

 

 *なお、エクササイズとして、教室の「理解」雰囲気、「集団の理解」というのを試して終わった。(省略)