生徒指導論(10回目 6月22日)
前回の復習・・・
★ 滝充のPEACEメソッド
・・・「ストレス」とは心に負担がかかって、心理的に負担がかかってしまった状態。一回だけでなく、続けられてるうちにある時に耐えられなくなる。「ストレッサー」とはストレスの原因。・・・とにかくいろんなストレッサーがあって子どもが反応する。そしていろんな問題行動がおきる。怒り、身体状況、いじめの加害経験とかに出ることが多いと考えている。いじめ被害は逆ベクトルで人間関係。
ストレスはあるよりはないほうがいいが。しかしトレーニングを考えると必ずしもそうではない。<ストレス=負荷>をかけると強化できる。またストレッサーは〇(ゼロ)にできるのか。勉強や学校をやめりゃいいのか・・・、それはありえない。
基本的には「コーピング」。とらえ方、対応。価値観、考え方によって、同じストレスでも同じような問題行動にいくとは限らない。ここが実際的側面として「論理療法」をあわせていけるところ。
ストレス状況をどちらかというと高まらないようにするというのがいい。@対学校、受験、成績→これを変えるのは無理というか大変、A対教師関係→やり方によっては可能。対応のほんのちょっと。B友人関係→へただとしたら、働きかければいい。何らかの形で教える。C家族関係→介入できないが、できる範囲である程度変えていく。→これらをコーピングで変えていくことができる。
*教育制度を変えなきゃだめだ、ではなく、ストレスに限定するなどできることする方が現実的。
「生徒指導」はどうも力づく的に考えられているし、事例が多い。なんで、起きてから?・・・起きてからの話は難しい。電話相談などでは限界がある。どうやって起きないようにするかが問題。「早期発見・早期対応」もいいが、「起きない方」がいい。もちろん起きている問題にも対応しながらであるが・・・。
さて、また現在の教育の動きについて少し話をしますが、先週もお話ししましたが小学校への進入殺傷事件がおこって、どうやら現内閣では精神病患者で被疑者となったものの措置をどうするかということが話し合われてまして、監視・隔離的措置が現実味を帯びてきています。これは言ったとおりですが、ハンセン氏病訴訟で控訴をしないと決めた英断にもかかわらず、同時に新制度での新たな隔離・差別を生むかの方針を無自覚にも打ち出すこの拙速な(愚直な)「反射」的内閣には本当に支持率が高いだけに逆におそろしさを感じます。こういった問題を把握するのは一部の意見だけですすんでしまうような構造があってはならない性格のことだと思います。「勢い」は「拙速」にも通じる危険性がある。
そしてもう一つ。同様に児童を狙った犯罪が続出していますね。以前にあったナイフの事件のときもそうでしたが、なぜかマスコミで報じられると同様の事件や模倣犯行が乱発となることがある。これはいったいどういうことなんでしょうか。
昔、ある時、私がどこかで不登校の取材について報告した時、ある人がそういう質問をしてきました。「情報」専門の教員なのですが、「マスコミで報じられるとそれが拡がって模倣的な事例が出てくるということをあなたはわかっていますか」と仰られました。「わかっているか」と訊かれれば、そんな事実は「誰でもわかっている」範囲のことです。少なくとも「情報」を専門とする方なら、また「教育学」の研究者の一人であるなら、もっとつっこんだ質問がほしかったです。私は、紙面でまさに報じられているのを読んだレベルの質問だと思ったのです。基本的に「複雑・複合的」な現象に何か有効な「一つ」の答えはありえません。マスコミが報じた時の「報じ方」と読み手の「受け取り方」と千差万別でさらにその地域や状況やなにやら・・・、それでは報じない方がいいのでしょうか。実は私は別に報じなくてもどちらでもいいのですが、マスコミの役割を断罪するなら「報じ方」の意味やその影響を明らかにしなくてはいけません。正義のマスコミもマスコミという職業なわけですから、何も説明なくただ「書くな」というのはたんなるヒステリックです。次に例えばLD親の会というものに関わったことがあるのですが、あくまでもそこの親の事例ですが「わが子がLDと診断されること」でホッとしていました。つまり症例・病名を与えられることで何か得体の知れないものではなく「はっきり」「すっきり」とするのでしょうね。たしかに心労はすごいでしょうから、そういう時に正体がわかって安心することもあるとは思います。ともに支える仲間の親たちともつながりが増すこともあるでしょう。医療や福祉ではそういう照合されることが「認識」という事例は多くあります。そして認識は「認定」だったりもするのですが・・・。とにかく、何がいいたいかといえば、「認定」によって「数」がわかってくるのだということも一方であります。不登校は調査される前は「数」が把握されていないわけで、単なる長欠児童です。それが「不登校」と認識されて、具体的には文部省が認めて乗り出して調査される。その定義が伝わって、地方・各地でもその例が「発見」「認定」される。いままでは「未確認」だったものが突然「確認」されるということもあるわけです(もちろん保健室登校を出欠でどう報告するかによって数は全然違ってきますし、しかも実際に「問題のないように」つまり「少なく」報告しようという心理もあるようです)。これは「報じ方」の報じた側の問題とは別にしておく問題ですね。「受け取り」側での伝播と意識形成の問題です。そしてもっと「観念論」的には、あるいは「教育」的には次のようにもとらえられるでしょう。
酒鬼薔薇事件の時も当時の容疑者少年が語った「透明な存在のボク」という言葉に共感をおぼえるという子があとをたたなかった。いや、私もその言葉はわかったような気になりました。でも、こういう言葉はいまは誰でも「共感」「実感」できてしまうそういう世の中ではないでしょうか。そういう性質のことばであるということです。
尾崎豊さんやX JAPANのHideさん、あるいは岡田有希子さんの自殺などの後、後を追うかのような自殺があったことや、そういう現象というのはなんでしょうか。
これらすべてを説明できるとは思いませんが、前からお話ししているアタマの中の「観念」的世界において、共鳴というか崇拝すらして特別視して自ら「わかる」と一体化のつもりまで行ってしまった場合、どうなるのでしょうか。
普段何気ない生活をしていようと、誰もが精神分裂ならずも多面性や二面性があるのですね。健康的・病的といっていた両面というかブレの上下の差異の問題なのですが、これがたまたま病的な方で共感一致してしまった時に、そういう後追い的な、模倣的な、そういう反応がでることもあると考えます。いや、愉快犯だとか手口の模倣のみとはいっても、それも「観念」的レベルでの憧れや一致、共感想像でのスリル感というのを求める構造というのがあったのではないでしょうか。
このように多様なものです。ちなみに先程の質問者は筑波大学大学院を出ているのに、その前身の東京師範学校の歴史について発表した僕にやはりすっとんきょうな質問をしてきたことがあります。なぜこんなことも知らないのかということを、当時院生だった私にぶつけてこられました。よく他の学生も質問で泣かされていましたが正直にいって質問のレベルは低く感じました。知っているふりをしていて、結局は自分の専門のことすら知らないのではないかと疑問に思いました。権威的だと疑いました。「歴史」「心理」「社会学」「思想史」「情報」「現代的」でもなんでもいいのですが、物事は多面的にみるべきでしょう。だから強引ですが今日は「歴史的」に見直していきます。
★ もう一度、歴史的に・・・
予告しましたとおり、人間の「しつけ」の歴史をみていただいて、生徒指導の一面がなぜ取り締まり的であるのかを感じていただきたいと思います。うち(日大文理)の教育学科は「教育史」に強いというか専門家が多くいますので、きいてきた話が多く、たいくつかもしれませんが、ここであえて歴史の見方をかえてというか、全体の中で「教育」と「規制」がどんな関係にあったのかをお話ししたいと思います。まず、他の教育の科目でも話しているのですが、おそろしく単純化した近代以前の歴史を示します。
(※反省点としてここに書かせていただくが、やる前に「歴史は嫌いだろうが」ときめつけ的(相互)に言ってしまっていることを猛省いたします。そういうのは必ず受け取る方に伝わるのだろうと思うので、迂闊でした。私がいいたかったのは、「歴史を学ぶのは必要」で「面白くないときめつけないでほしい」ということでしたが、私自身がきめつけていたようです) |
さて、それでは予告どおりに「歴史的」なことをもう一度ふりかえってみようと思います。「教育学」において「生徒指導」がどういうふうに扱われて来たのか、考えられてきたのかということをみていきます。
「教育学」と「生徒指導」といいましたが、ようするに「学校」ができて、そこで「教師」が「生徒」をある方向に向かって指導するというのがどういうことかということを考えてみたいと思います。
例えば、学校がシステムとしてどうやって実現されてきたかというと、次のようにザッとまとめることができるのではないでしょうか。
*学校の歴史(・・・公立学校制度ができるまで) |
これは(この表は)私はだいたいの教育学の授業でつかっているのですけど、「人間と教育との関わり」「教育がどういう意味をもつようになったか」がわかると思うのです。
なぜ、近代以前かというと、公教育制度が成立したのが「近代」以降だと考えれば、では「学校はそれ以前にはなかったのか」、「教育は近代以降なのか」と、思われますね。もちろんそれ以前からありました。「公教育」として制度化されたのが、近代以降であるわけですが、国民の、人間に共通する基本的な権利として把握される以前から、一部の人のために教育はありました。徒弟制度とか技術の教育・伝承もありました。
古代のギリシアには、シューレとかヒムナシオ、ギムナジウム、アカデミアなどの施設がありました。
ちなみに『ギリシア人の教育』という本は、面白いのですが、次のようなことが書いてあります。古代ギリシャにおいてプラトン、イソクラテス、古くはアイスキュロスらがPaideia(一般教養)というものを提起して、これが教育論のはじまりだ、と。しかしその内容は「子どもは人前で口をモグモグしない」「座り方は膝を前に置く」「食事は年長者から」等が書かれていて、これはむしろ子どもの養育、躾け、作法ともいうべきものですね。そして、プラトンは数学を教育課程として重んじていて、17、18歳まで自由に数学・幾何・天文学らを学び、これに20歳までは強制的な体育訓練を加えて、30歳ぐらいまでに全体的に結びつけさせるのだと。その後35歳ぐらいまで哲学問答を経て、50歳まで公務につき、それ以降は国政につき、哲学を説くとしました。イソクラテスの場合は弁論、言葉、文学、修辞学を重んじて教育課程としてふりわけているわけですが・・・。
こうみると、何才から「国政に就く」などとしているのは権威的とも思えます。秩序と順序を年齢で定めている年功序列主義ともみえる。こんな大昔の教育の原典からして、教育は「規制」であり「しばりつけ」であり「しつけ」であったのですね。
哲学という思考と弁論を一部の年齢層でかこいこむような、そういう性格もあったとも思えます。・・・もちろん実際には、いまの政治家の方々とは違って、プラトンの時代では国政は「責任」は重くその分もつ権限というか権威もあったのでしょうが、彼らの考えとして不正をなくすためか正義のためか、お金にならないものだったのですね。つまり二世議員とか地盤・看板ではなく、やる気がないとやってもしかたないしんどいものであったということが根本的には違います。そういう責任感は違った。でも、教育は「しつけ」的であったのはたしかです。社会秩序があたりまえに重んじられる、これは当然ですね。単純にいえば「しつけ」が教育観であったともいえましょうか。ただし、「シューレ」は「スクール」の語源ですが「余暇」という意味をもつことで知られるように、この時代は義務教育・公教育の時代ではなく、それこそ様々な意味で「余裕」があるから学べたのですね。だから単純に現在とは比較することはできません。
次の中世キリスト教の時代だって、宗教がある程度、社会的秩序維持の装置にはなっていましたよね。ちなみに「カトリック」とは本来「公会」という意味をもちます。まさに公の集まり(会衆)のための教義なのですね。神父が司式し、そして「説教」をするわけです。いや、仏教の説法も同質ですね。してはいけないことを輪廻転生で説明したり地獄絵図というビジュアルでみせたり(説法のためです)・・・、そして生まれ変わりや天国を説くことで現世での我慢や服従・従属といいましょうか、不満を解消する。不安に対応するのが宗教ともいえますから・・・。「懺悔」や「告白」というシステムはカウンセリングにも通じるともいえますね。そして仏教もキリスト教も教義を解したり読めるのは宣教師や僧職であり特権化された文字というかそういう理解でした。当時の知識というか「人心」を集める最高峰がまさに一部の人たちに占められていたというのも事実の一面です。戒律や規制、いちおうの上下関係というものを含めて教えさとすものが教育であったともいえますし、僧職のためのエリート教育と、教会での教化という二面性のあるものでした。
これが長く続いたけれども、ガリレオ・ガリレイやコペルニクスらによって宗教観を変えるような発明・発見がされたのが次の時代ですね。ルネッサンスによって学問熱・科学熱があがった。「地球は丸い」という地動説の証明によって、宗教の権威はゆらぎますし、それに国際感覚と異文化の流入・摂取によって新しいものが生み出されていく、シンクロされる時代になりました。蒸気機関、羅針盤、火薬、いろんなものが発明されて富裕の国と支配される国、いろんな文化によって発展する国とゆらぐ国がでてきたのですね。日本にもザビエルや鉄砲が伝来して、それで城下町や戦争の形態も、権力の形もかわっていきますから、世界的に「流れ」が大きくうねって伝わったと・・・。
そして王権の国や絶対主義という国際性とうらはらに帝国主義的な強大な国家がでてきます。強兵づくりのためのイデオロギーや体育訓練、そういう強権的な国家も出てくる。他国を知ることから「自国」というナショナリズムや「国体(国家体制)」という考え方も出てくるのですね。これは反する、矛盾するようでセットになる。一方で理解をといって、一方で優越性や差異を説き、そして国内へは一致団結という服従従属を説く。そういう極端に走る国もありました。強くならざるをえないし、団結する拠り所が必要となって、そのための教化がすすめられたのです。極めて統制的だったかもしれません。
そこで時代がすすむと市民革命等もでてくる。権力・圧政への反感がいいだせるタイミングというのはありますね。他国へ強かったものが弱くなった時、あるいはあまりにも国内圧政を理不尽なまでに進めた時、・・・革命の時期はやはり世界史的に共通しているともいえる。まぁ、次に述べるルソーの時代のような本当の流血革命もありましたが、技術革新の革命もあったのですね。それが産業革命です。ちょうどルネッサンスと時代をはさむ形です。そういうものが流れとしてある。「工場法」というやつが成立して、それで児童の労働に規制をかける・・・、「子どもは働かせるより学んだ方が後のためになる」という「学校教育の必要性」がある種、経済的にとらえられた。まさに経済的に授業が行なわれたり(助教法)、急速に教育が普及していくんですね。市民の時代到来か、となる。そういった経緯があって、近代教育が成立したわけです。公教育がある時代になった。単純ではないけれども、工場機械生産の開発によって子どもが労働から開放されるようになったともいえます。では、どうするのか。それで「ひとなみ」思想といいますか、誰もが教育を受けるべきだ(education for All1)という考えがでてきた。
おおまかにいうと、こうですが、古代もしつけ、宗教の規制、その後、科学によって自由なそれこそ旅行など国際的規模の拡大や人間の広がりが出てくるけど、またぞろ強制的圧政の社会になる。反動で大衆の革命によってそれは打倒されるけど、今度はここでは経済社会における規範とか、大衆の合意という規制ができましたね。そしてそういう「常識」や「ルール」を教え込むところが「国民」育成の場である公教育にまかされたのではないか。そう思うのです。今の大衆社会のためのそういう機能を期待されている。
*教育学をつくりあげた教育思想家
次に「外国教育史」の授業や「教育学概論」で習ったことのおさらいになると思いますが、「近代教育」をつくりあげた「教育思想家」を概観することで確認してみます。さっきの前史があって近代になった。そして近代教育がつくられた。順序は次のようにみてみます。
@コメニウス(Comenius, J.A. 1592-1670)
Aルソー(Rousseau, J.J. 1712-1778)
Bペスタロッチ(Pestalozzi, J.H. 1746-1827)
Cフレーベル(Fröbel, F.W.A. 1782-1852)
Dヘルバルト(Herbart, J.F. 1776-1841)
Eジョン・デューイ(Dewey, John 1859-1952)
コメニウスは「近代教育学の父」とも称されますし、「世界図絵」とかのテキスト等を著すことによって教育方法と内容ということを保障したというか準備した。そして彼によって「太陽の光のように一斉に生徒を照らす」とされて、一斉教授の重要性がひろまったのですね。それは助教法へ影響を与えた。ルソーによって画一的な教え込みが批判され、消極的な「自然な」教育がすすめられた。著書『エミール』の影響が大きく教育の福音書ともいわれたベストセラーになった。ペスタロッチによってメトーデ(教育方法)の一つとして「直観主義教育」がつくられ、教室で実物や掛け図をつかった効率的な授業が可能になったし、そのペスタロッチに学んだフレーベルによって幼稚園での幼児教育が、そして同じく影響を受けたヘルバルトによって教授学(教育学)が構築された。いまの学校教育の原型はこうやってできてきたんだともいえますね。
そのかたちと違って、それの短所を批判して、学習者中心の「児童中心主義」の教育を提唱したのがデューイでした。シカゴの実験学校(大学の附属学校)での成果をもとにすすめたのですが、経験カリキュラムともいわれるもので、生活体験主義にもとづくものですね。まぁ、あくまでも単純に比較すればコメニウスらの一斉教授が「教師が太陽」という教師中心主義なのに対して、ここで「児童・生徒が太陽」の児童・学習者中心にと変わったともいえる。生徒の「自主性」という点ではかなり変わったのだと思われます。しつけも「しつける」のか「自主性にまかせる」のかで違ってきますよね。例えば次のような展開ですね。
◆生徒指導論の系譜 |
・・・ヘルバルトからデューイへと、集団と個人の考えも、とりくみも少し変わったと思います。ヘルバルトは「教授」(教科内容の学習指導)とともに、「管理」と「訓練」(教科外のある種の生徒指導)をかなり重視したわけで、かなり形式的に保守性の高いものだと思えます。その弟子ラインによって「Führung」(指導)とされたものが、米国に伝わって「guidance」(指導)とされたのですね。これが日本に「指導」として伝わった。ソ連(当時)のマカレンコの場合は少し強制的な集団の規律重視の教育が優先されたのです。この後の米国のデューイの場合には「学校」という社会の中でどう人間(児童)の内部から社会性や集団性や協調性を営み、自他共生をしていけるかが、他者理解との関係で自己を確立するということですね・・・、課題となった。集団生活とその中での体験を重視したのですね。もっとも「児童中心主義」とはいってもまったくの自由奔放とか放置ではなかったわけですが。とにかく、米国での展開を受けて、それが「カウンセリング」となっていく。「生徒の目線に降りて」というやつで、この授業でもやっている「共感的理解」です。これが日本にも戦後に入ってきたわけです。
日本でもほぼ同じ流れです。ヘルバルト主義の教育が主潮のころは教科書検定や国定化への間でもあり、「全体」を重んじる風潮があった。授業集団としての「学級」が重んじられその「管理」が重視されたんですね。1891(明治24)年には「学級ニ関スル規則」というのも出ています。・・・いずれ「学校批判」はでてくるわけですが。
大正デモクラシーのころの「新教育運動」もあり、例えば1920年代末から30年代頃に「生活綴方運動」があったと。「北方教育運動」とかありました。作文によって生活意識や行動の仕方を指導するんだというものですね。まぁ、集団指導的な動きにもなりました。
実際には戦争への風潮の中、十分には根付かないわけですが、特に戦前・戦時には国粋主義的でそれどころではないですね。
で、戦後に、敗戦後に、米国の影響下、ガイダンス研究がはじまった。戦後も生活綴方の教育とか「山びこ学校」とかの試みがあります。カウンセリング論が入ってきて、そして一方で「道徳」が復活する。復活というか「特設」ですね。戦前の「修身」が批判されたのですが、まぁ復活がさけばれる。1965(昭和40)年には『生徒指導の手びき』が編まれています。
では、なぜこのように繰り返しで反動というか「とりしまり」が叫ばれるのか、次に概観してみましょう。
以下は、他の「教育」系の授業でもとりあげているのですが、私の理論(教育理解)の一つなのです。きわめて日本の教育にみられる特色なので、この「生徒指導」観にも関係があるかと思います。
★近代教育内容の変遷
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以上が、近代以降の教育の流れです。補足の資料もみてもらいますが、とにかく輸入した文化を最初直訳的に受け入れながら、それを日本的に吸収していこうとする「反応」がみてとれます。科目で注目すべきは「国語」系科目が欧米式にされて、それが前近代の形式にもどるということ。これは日本語にマッチするということですね。あと「修身」というきわめつけの「日本的道徳」の時間が優先されるようになり、行事・儀式とともに教育の「柱」になったということです。「教科指導」としても「生徒指導」としても最優先となったということですね。全体で「国際性」→「独自性」→「国際性」→「独自性」という周期的にもみえる動きがあった。それは「自由」と「管理」という反動でもありました。少なくとも「国際性」の風潮を憂うセリフにそういうのが書かれています。
明治期の近代学校制度の重要項目・略年表 (※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。)
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「管理統制の教化」「検定・国定教科書」「国歌」等、制度的な面ですが全体として規制に向かっていますね。明治という40数年間で。
次に戦後の、つまり「現代」の流れをみると・・・。
★「学習指導要領」の変遷
1947年、「学習指導要領・一般編」〔試案〕を発行(3月)。実施4月〜。 |
「試案」程度であったものがすぐに「拘束性」あるものとされ、そして「道徳」の必要性が説かれるという方向へすすむのですね。やはり近代と同じく「国際性」と「独自性」、そして「自由」と「管理(規制)」の間での揺れ動きがみられた。
もっと、やや詳しく当時の文書にあらわれた意見をみてみましょう。
★学制(明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊)
まずは日本最初の近代教育法制である「学制」です。幕末の外圧から「開国」し、明治維新を迎えた。その意味で教育も「開国」したのでありきわめて「国際化」されたものともいえる。この場合の国際化は直訳摂取ということでもある。「立身出世」とそして「受益者負担」とによって、旧制度からの「自律」(国民としてのとりくみ)が書かれていました。
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この「学制」は近代的ながらも「急進的すぎて実情に適さず反対が多かった」ともいわれますが、しかしそれでも施行3年後の1875(明治8)年には約2万4000校の小学が設置されていました。現在にせまるレベルの数です。もちろん校舎が代用(あるいは劣悪)だったり生徒数や環境の面でも「規模は異なる」ものであることはいうまでもありません。しかし、それにしてもこれをすすめるのはすごい「統制」の一面だと思いますし、「民衆の負担」は大きかったとも思います。社会的な不満も高まったでしょう。
「自由」の確立を実現するものだったけれど、過去にないものを「統制」的にすすめたわけです。それがいいものであっても、その時ははじめてですから、反応は違ったのですね。
そして、この時期には「自由民権運動」らも出てくるわけです。「もっと人民の権利を」的な風潮も高まる。そんな中で「国語科目の整理」的にいじられ、また他を簡素化したのが1879(明治12)年のいわゆる「自由教育令」でした。ある種、「自由民権」的に各地域まかせだったりした面もある。当時の影響はあったと思います。
これに不満をもった宮中派の元田永孚(もとだ・ながざね)が批判文書「教学聖旨」(あるいは教学大旨)を寄せています。「修身」道徳重視の教育の必要を説いているのですね。
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下線を付しましたが、「維新後の教育は欧化に傾きすぎである」と批判して、今後(将来の日本)が心配だと危惧しているのですね。儒教道徳重視の教育が必要なんだと。「しめつけ」が行なわれました。
そして「農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ高尚ニ馳セス實地ニ基ツキ」というようにある種、前近代的な身分制度的考え方まで述べています。教育近代化への批判なのですね。
もちろんこの意見に対して「学制」以降欧化政策を進める政府側は反対を示し、伊藤博文(政府代表)は「教育議」を発表して論争をしています。しかし、「自由民権運動」対策ということもあって、この元田の意見に寄るというか、天皇の権威を利用する方向へと方針の転換をします(あくまでも単純にいえば、「民権」が達成されると当時の「政府」は立場を失うことにもつながるわけですから・・・、例えば明治初期、キリスト教布教が禁止されたのもそういう西洋思想への警戒があったわけです。これについてもまたお話しします)。翌年の「改正教育令」で「修身」が筆頭となり、そして国会開設運動や大日本帝国憲法とのおりあいもあって、1890(明治23)年には「教育勅語」が出されて、この戦前の教育体制ができあがってくるのです。
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天皇制国家のための教育理念が記されています。これは祝日大祭日儀式の規定などとも関連して、日の丸・君が代ともセットになって、天皇の写真(御真影)とともに儀式に必須のものとされ、各学校へ下賜されて儀式で校長によって奉読されたのですね。これは「天皇のことばである」と・・・。内容は「皇国史観の国体」が記され、15の徳目が具体的に示されています。これを遵守することが「国民」の義務であるということですね。永遠の真理なのだからというわけです。井上毅という人物(官僚)が作成したといわれていますが、「天皇」のことばだから神聖でおかすべからざるものとされていました。さきほどのヘルバルト主義の指導観と時代が重なりますが、そういう「国家教育」という考えのもとに学校で教育と指導が行なわれていきました。「戊申詔書」(明治四十一年十月十三日)でも「宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉産ヲ治メ」 と求められ、その引き締め的性格、確認的性格がみてとれます。「國民精紳作興ニ關スル詔書」(大正十二年十一月十日)にも「國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在り」として、「忠實勤儉ヲ勤メ信義ノ訓ヲ申ネテ荒怠ノ誠ヲ垂レタマヘリ是レ皆道憶ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以」はここにあるのだと記されています。儒教道徳に基づく「精神」の指導こそが重要だとされたのですね。そういう時代の生徒指導は規律型であった。もっとも、なぜそういう文書が出たかといえば、そういう必要があったということです。「指導」でしめつける必要があった。2つの詔勅は約20年のスパンで「しめつけ」につかわれたものでした。「自由」や「しめつけへの反動」の風潮のたびに基本的には国家元首の権威をかりて風紀しめつけが企図されたのです。
さらにここから約20年後には「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(昭和十四年五月二十二日)がありますが、国家をささえるべく青少年生徒への「国民」としての意識統制の重要さがみてとれます。1941年の国民学校令を前にして、またその時に国定教科書も完全に全科目実施されるのですが、そういう戦時期・戦前の国民意識づくりがはかられたのだと考えます。
そして戦時期教育体制になり「国民学校令」以下、教育に関する特例が出されます。国家総動員体制ともいわれますが、戦時において「国民意識」と国家として戦争に臨む上での統制が確認されています。同年、「学徒勤労令」(昭和十九年八月二十三日勅令第五百十八号)も公布されましたが、それらに示された記述が、戦時期までの、日本の「教育」の考え方だったのですね。
これが戦後にガラリと変えられた。「日本国憲法」の精神に基づいて「教育基本法」が定められた。「民主主義」に基づく「教育」という方向へガラリと転換したのですね。そういうものが検討された、占領軍による指導や受け止める日本側の自主的な教育案は、後の「使節団報告書」や、あるいは機会があれば「教育刷新委員会・審議会」の議事録というのをみればですね、現在の「教育改革国民会議」の議事録のように、様々な意見・案がでてきたということがわかるし、そしてその結果どう反映されたのかもわかります。いずれ紹介します。
とにかく「個性」や「選択」「進路」など、民主主義が重視されたものですね。これは戦前の教育理念とはガラリと変わったわけです。そして当然それらは教え込むものではなくて、相談に応じる支援的なものに「教育」観が変わったということも示しています。
この戦後の教育の方針は「新日本建設ノ教育方針」(昭和二十年九月十五日・1945年)にも明らかですが、「戦前・戦時期」の教育を反省・批判して、こりかたまった固定観念をうえつけられる教育ではなく、科学的なそういう知識・思考法をそなえた人材育成のために教育はなくてはならないのだというのですね。「新」教育なのだというわけです。一新、刷新であるはずです。
同年の「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(昭和二十年十二月三十一日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官第八号民間情報教育部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書)には、その戦時期までの教育の中でも「排外」的思想をうえつける科目(修身や日本歴史、日本地理)を廃止するのだと記されています。
これが戦後の「新教育」のスタートだったのですね。
以上のような意見、流れを経て、「日本の教育」は戦前のものとは変えられたのです。しかし、「揺れ動き」があったのですね。やはり約10年で「統制」的面がでてくる。「学習指導要領」の「試案」という文字と性格が消され、「自由研究」も困難で学力低下といわれてか消え去る。官報掲示方式で「法制」的に強制性が強められ、1958年には「道徳」が復帰となりました。「道徳」が「足りない」「必要だ」と考えられたわけですね。そういう意見がでてきたのだと。
ちょうど戦後の復興期を経て、高度経済成長といいましょうか、日本経済がアップしていくころ、つまり自信をとりもどしはじめるころ、同時に「反省」をもうすめさせてしまうというか、不遠慮・配慮欠如的考えがでてくるわけです。
新幹線も開通し、そして東京オリンピックや、万博などもあり、「日本人」がもりあがってきたころ・・・、悪気なく「ナショナリズム」が高揚したこのころ・・・、次のような「教育への期待」文書が物議を醸したのでした。「期待される人間像」として知られる文書で<中央教育審議会>第20回答申「後期中等教育の拡充整備について」(昭和41年10月31日・1966年)として出されたものです。その中で「第1部 当面する日本人の課題」・「第2部 日本人にとくに期待されるもの」と構成された答申の中で、第2部の「第4章 国民として」の項で、「1 正しい愛国心をもつこと」・「2 象徴に敬愛の念をもつこと」としていたのですが、「愛国心」と「天皇制道徳」とを復活させて統合させるかのように思わせる文面があったのです。「天皇への敬愛の念をつきつめていけば,それは日本国への敬愛の念に通ずる」のだとする論調で、これはそういう「復興」の風潮であったのでしょう。工業化が進み、経済発展が進み、そして対外関係がかわるこのころ、「ふさわしい」とされる人材観、「こういう人間が育成されるべきだ」という期待感がかわりつつあったのか、あるいは批判や不満の反映なのか、そのような文書が出てきたわけです。しかし、歴史的に正しい日本理解をすることが世界の日本人となりえるというのも間違ってはいませんが、それは教科書論争でいまいわれることとあまりかわりばえのしないようにも思えます。ですから、「ナショナリズム問題」とされるのですね。そして、こういう「ナショナリズム」的価値観を教育にもちこんで指導観としようという運動は必ず起こるし、繰り返されてきたのです。
なぜ、物議を醸したかはわかりますね。戦後の改革時に否定されたもの、それとのあまりもの違いがでていると思います。ちなみに「中央教育審議会」は文部省の教育政策諮問機関ですね。そういうところで諮問されてでてきた答申がこれだったわけです。今の「教育改革国民会議」は性格が違うけれども、しかしはじめに「諮問ありき」というか、あれだって「教育基本法の改訂を検討」という政府側の意図がみえみえです。そういうものが求められ、いわば都合のいい答えが求められた。予定調和的ともいえますね。とにかく、ここでも「愛国心」と「天皇を中心とする国体」という「過去」を否定するなという、いやそういうものを大切にしようという「求め」があったのではないでしょうか。そういう不安と思いがあった。何もないところには何もでてこないわけですから。
そして、「教学聖旨」とも共通しています。そしてさらにこの「期待される人物像」と「教学聖旨」は、現在のナショナリズム的考え、例えば「新しい歴史教科書をつくる会」の皆さんの主張とも共通するところが多いと思います。韓国や中国からその内容にクレームが出されていて外交問題にもなっている「教科書検定」の結果の採用教科書の問題です。
このように、つねに反動的にか、「積極的とりしまり」と「消極的」とが交代で順次やってくるというのがあるのじゃないでしょうか。
これはあくまでも歴史的見方の一つです。人間(世論、あるいは政策)は「ゆとりを」と「道徳を」という極論の間を行き来しているようにもみえますね。
「道徳」と「生徒指導」とは区別して考えるべきものですが、モラルや倫理観がどう考えられていたかの反映ということでは共通する部分があります。「子ども観」でもあります。「教科指導」と「生徒指導」が二本柱なのは事実でして、そのウェイトにも関わると思うのですね。明治期には「学校管理」や「生徒指導の手引き・心得」といった書物がたくさん出ていまして、もちろん教えるサイドのための手引きでした。どういうようにしつけるかが重要なテーマだったわけです。例えば1871(明治4)年の『生徒指導心得』には家庭教育の躾けについて書かれいますが、実はそういう家庭の躾けというものも学校という権威によって広められたものなのです。だから学校とは「生徒」を「指導」する機関でした。
例えばその前年の1870 (明治3)年に「大学規則」「中小学規則」というものが公布されています。その中の「舎中條規」という宿舎の規則をみてもらいました。寄宿舎制だったのですね。寮生活でした。文部省設立前のものですが、維新直後の本格的な高等教育構想だったのですね。学ぶのは士族中心が構想されているかと思います。
その規則に、「門限」や「休暇日」の外出、あるいは生徒からの「申し立て」の方法、さらには生徒間のトラブルを防ぐための「飲酒禁止」などが記されていました。「校則」や「校門指導」をもイメージさせる、そして「生活指導」を含んだものだったのですね。もちろんエリート層を育成するためであったからとか、多様な地域・藩から多様な身分の者が集まり、またおそらく帯刀の習慣もあったことから刃傷ざたをさけるという事実もあったのだとは思います。しかし、規制でした。生徒のふるまいを取り締まることがちゃんと構想されていたわけです。
このように歴史的にみてくると、つまり教育には「生徒指導」「学習指導」の二つの柱があるのは以前から同じですが、学習指導の内容や方法が少し変わってくるぐらいで、基本的に「生徒指導」はそんなに変わっていないともとれますね。いや、体罰観ではないですが、社会全体のとらえ方はかわってきていますし、近代的になってきているのだと思います。しかし「教師」と「生徒」、「大人」と「子ども」、「目上の者」と「目下の者」という「関係」を維持する機能をもっているという面で本質的にはそんなに変わっていないのじゃないかと思います。
次週はカウンセリングのとらえかた、生徒指導の方法をまた考えていきます。
エトセトラ・・・例えば
●動物における心理実験(モチベーション・動機づけ・潜在意識)
・・・動機付けでしつけられますね。前に話した暴力と痛み(鞭)でやることから、飼い馴らす方へ、調教は変わった。だから「指導」観はかわりました。また「〇〇してはいけない」と規制を増やしてだんだん窮屈になるのが近代化なのかもしれません。
●親子以外へのしつけ
・・・血縁関係をこえた社会をつくりあげていく手段ですね。
●「理想的な人間の生き方のモデル」をすりこむ 二宮金次郎像、乃木夫妻の殉死などの逸話
・・・モラルやルールはもともとビジュアル的に、例えば聖絵や仏画などで「体感」させたものです。そしてリアリティのために伝説やロールモデル、偉人伝・伝記が語り継がれる。
これらは人間に特有の方法である。野生動物同志の争いと違って、人間は支配・従属を求めた。ナンセンスなことであるが、百獣の王といわれるライオンが(同種の群れのみならず)犬や馬を従えている姿がありえるであろうか。直接の食糧でなく支配を求めるのは人間のみであり、人間は人間をも支配するのである。暴力を繰り返せば、いつか自分の力も衰える。力に生きると力の限界や怖さがわかる。それで「ルール」や「徳」や「知」、「愛」、「慈」を説く。「平和」を説くが、半分以上は自分のためのものである。「政治家」「宗教家」「教育家」が登場し「政治制度」「宗教」「教育制度」として形づくったのである。また他に見えない制度としての「象徴」もある。昔の校庭に見られた二宮金次郎像、乃木夫妻の殉死などの逸話で「理想的な人間の生き方のモデル」をすりこむのである。校門・校庭に桜の樹を植えることによって学期や儀式を意識する効果がある。とにかく人間は慣らされやすくなっている。忙しく、その意味を考えず疑わないので支配しやすいのである。