生徒指導論  (第九回・6月15日)
 
 授業のはじめに・・・。先ずは深刻な話から・・・。先週の金曜日、ご存知のように大阪教育大学附属池田小学校で小学生児童が殺傷されるという痛ましい事件がありました。本当に驚きました。
 先ずは早速に現内閣下で精神病による心神耗弱で責任能力なしとされた刑事犯罪人を厳罰に処すかあるいは隔離的に監視といいますか、しっかりと規制するべきだといった動きが出ています。これは恐るべきことです。いままでも何度かこういった事件のたびに言われていたのですが、人権の問題だとして見直しまでいかなかったのですね。いまの政権がいいかどうかは別として・・・、私など小泉総理本人は嫌いじゃないのですが・・・、こういった大きい改革・大きい問題が「勢い」「雰囲気」で通りそうになるというのは恐ろしいことです。日の丸・君が代もそうでしたし、少年法改正もそう思ったのですが、そういう「流れ」があるときとは恐ろしいものです。とりしまればいいといっても事後処理でしかないですし、新たな偏見を、差別を生む可能性があります。注意したいものです。
 そして実際に犯人(容疑者)は精神科への通院歴があり、仰精神剤を服用していたとのことがほのめかされています。そこで「幻覚をみた」との論調ですね。・・・これもちょうど先週お話しした内容にかぶると思います。投薬治療の弊害として、この「幻覚視」と「観念的世界」への没入はありえます。
 (板書して)前回までやった「理解」の回路、「仮想体験」のシステムですね。そういう時に「観念」にしばられて現実と乖離してしまう方向・・・、そういう鬱的なものにも病的と健康的なレベルがあると思いますが、・・・本当に「観念」の世界から戻してつながりをもたせるのが社会化ならば、ただただ投薬して「おちつかせればいい」だけではなんの解決にもならないと思います。だからといって「施設」に収監するだけでもだめ。制度をつくるだけでは意味がそんなにないと思います。結局は新しく区分けするだけです。無関心でもだめでしょうが、そういう意味で難しい問題です。
 
 
 論理療法の続き
「論理療法」は、「論駁」(説得・指示)するカウンセリングなんだと言って、また私個人の考えとしては「教員」がこれをできることが有効だとも言いました。「教育的」なカウンセリングなんだと思います。「生徒指導」と「教育相談」の違いというものはあると思います。時間的にも短い時間でなおして、そして防ぐ方向でもいいから指導していくのが前者で、後者はそれに比して指導的ではないし比較的に長時間かかって相手の自己解決を待つものだともいえないでしょうか。
 心理学者ではない教師が、先生と生徒(児童)という関わりの中で、学習環境という全体の関わりの中で、「説いてあげる」という論理的な方法こそ、実効もありますし、その方法論を知っておくことは有効であると思います。
 以前も説明しましたが、問題行動への対応は次のようにとらえられています。
 
  <普通> 人間の「悩み」(結果)はある「状況・出来事」に原因がある。
      そして、そう「受け取る」私がいる。
    (例:「友だちができないから、私は学校に行けない」。そう考える。)
 
  <論理療法では> 人間の「悩み」は「状況・出来事」に由来するのではなく、
その「受け取り方」に左右されると考える。
    (例:「友だちができないことは救われない事実だ」と思い込み、
        その結果「学校へ行けない」と自己規制して行動にうつした。)
 
※「受け取り方」=「考え方」(固定観念・人生哲学)を変えることで「楽」になれるんだと。その上で次に「状況」も変えていくんだと、こういってきました。それで、そのためにはその苦しみ・悩みの根本である「固定観念」をみつける必要があるのですね。
 
 
◆ 人間には思い込みがある。→「固定観念」をみつけよう!
  「そのとき、彼女はどう思ったか?」
例:「遅刻して音楽室に入ったが・・・、それから不登校になった」
前々回ぐらいに紹介して書いてもらたことをまとめてみました。
 (HPには、ケース1をもう一度収録します)
 
 「あなたは(〇〇さん)、高校生。(その時のことを想像して、気持ちを思い出してください。)ごく普通の高校ですが・・・、3年生になりました。
 最近、自分に友だちはいないのではないかと迷っています。3年生でクラスがかわった時、仲のよかったグループとは一人だけ別クラスになってしまったからです。もともと積極的に自分から他人のワに入っていくタイプではなかったし、周りの皆も進路を考えはじめてか・・・、バラバラで近寄りがたいと思っていました。
 おとなしめの、少し話す・・・、お互いにおとなしいからよくしゃべるのではないのですが、そういう人はクラスにいます。たぶん似たタイプでクラスで積極的になれないタイプだと思う。この子たちが学校を休むとつまらない。・・・お昼のお弁当をいっしょに食べる相手がいなくなります。そういう時はつらい。食欲もなくなります。
 クラスには私たちとは正反対のにぎやかなグループもいて、先生を茶化したり、なんだかんだリーダーシップをとりたがります。
 私は彼女たちが苦手です。一人でごはん食べてる時、「ひとりぃ?」と声をかけてきます。話すことが得意でない私はそのグループへも入れないと思い・・・、「今日は〇〇ちゃん休みだから」とかいったりします。「ふ〜〜ん」といって彼女は去っていきます。目をつけられるんじゃないかと私たちは心配していました。
 〇〇ちゃんが不登校ぎみになりました。理由はわかりません。でも、私はさみしくなりました。
 私はよく腹痛や偏頭痛があって、朝、布団から出れないことがあります。そういう時は一日憂鬱です。
 体育の時間も見学が多いので一人になることが多いです。そういう時は周りの目が気になります。つらいです。
 ある日、遅れて2時間目の途中から登校しました。「音楽」の時間でした。音楽室は移動教室です。廊下を歩いていても他のクラスも授業中、また孤独を感じました。
 音楽室に着いて静かに後ろのドアをあけると、皆は笛を吹いていました。その時、あの目立つグループの子たちが、彼女たちの目線・視線が私に集中しました。
 また遅れてきた私は、その目が「白い目」でにらまれているようにみえました。そういう目でみられている。先生は何もいってくれない。皆の視線が私を責めているような気がする。「なに遅れて来てるんだよぉ!」と語っているように感じました。
 「もうここにはいたくない」。
 そう考えて私は学校を出ました。(それから彼女は不登校になりました。)」
 
 →→さて、「もうここにはいたくない」と彼女がアタマの中で思った時、なぜそう考えたのか。「〇〇となった(理由・事柄)」ゆえに「××と考えた」と書いて下さい。
 
●みなさんの意見・・・
〇「普段からクラスメイトから見放されているという孤独感を抱いていた。・・・ジロッと見られたということでクラスメイトは私を嫌っている・・・と確信」(コム)
〇「遅刻して(入ったから)・・・変なふうにみられ、それがもとでいじめがおきると思ったから・・・」(セキ)
〇「味方が誰もいない。いるのは敵と他人だけ・・・」(ミネ)
〇「自分を受け入れてくれない、つまり自分という存在を否定されると考え」(カワタ)
〇「自分よりも強い子たちは自分を嫌っているのかもしれない」(イワ・シズ)
〇「黙らせたところで、クラス全員が敵にまわる可能性が高い・・・」(スズ)
〇「本当の親友だったり仲良しだったら・・・対応してくれるはず・・・、私は不用だということ」(フクミー)
〇「自分の居場所はないし、自分を必要としてくれる人もいない・・・自分の存在価値はない」(ヨシナガ)
〇「彼女たちが苦手だと思い込んで・・・」(スギモト)
〇「私を責める目線・・・、友だちがいないと思っていた・・・居場所がない」(キシダ)
〇「他人に必要とされなくて自分は一人きりで学校生活を送っていると思った」(クボタ)
〇「自分は周りの人に受け入れてもらえないんだ・・・」(カミオ)
〇「友だちもできないしみんなが私を嫌っているような気がする・・・」(ヨシエ)
〇「にらまれる以上のいじめが始まりそうな気がした」(タカハシ)
〇「自分の気持ちが満たされず居心地が悪い」(イシタ)
〇「視線を恐れた・・・みんながこわいから、敵だから、非難されたと・・・」(オヌマ)
〇「自分がのけものにされていると感じた・・・被害妄想・・・」(ハセガワ)
 
 さて、共通して読み取れるのですね。何が彼女を行動に(結果に)結びつけたのか、どう固定観念をもったのか・・・。もしカウンセリングや家庭訪問でもいいのですが、おちついた彼女からそういう話をききだせていって、そして刺激に転じていいというタイミングによっては、具体的な論駁へとうつっていってもいいのですね。
 例えば・・・
 「普段からクラスメイトから見放されていたというけど、どう見放されていたの?」あるいは「『普段から自分を受け入れてくれないとか、存在を否定されていると思う』っていうけど、どんなことからそう思ったの?」というようにその「固定観念」の具体的構造を訊きます。・・・たしか具体的ないじめや無視はなかったはずですが、彼女がそう思い込んだなんらかの雰囲気が答えられるはずです。「あわない」「こわい」「うるさい」とか・・・。
 そうきたなら、その抽象的な雰囲気に対してですね。
 「『あわない』っていうけど、向こうにとってもこっちはあわないならお互いさまだよね。向こうが集団だからっていうけど、自分以外は全員がいっしょに行動してるかな。通学とかでもなんでも全員じゃないでしょう」・・・「でも、たしかにあわないってのはいるよね。でも全ての人と『あう』ってのもいないだろうし、そういう必要もないんじゃないかなぁ」・・・「『あわない』人たちに具体的に嫌がらせでもされたの」・・・「『こわい』っていうけど、なにか脅されたりとかしたの」・・・。
 もちろん、以上について具体的な事実があったならそれは別の問題になります。しかし思い込みであれば論駁にいきます。
 
 「別に全員とうまくいく必要や、必ずしも全員と仲良くしたりその仲間に入ったり、ついていったり、・・・そういう必要はないんじゃないかな」・・・、「皆が同じなんてことはそういう方が異常なんだと思うよ」・・・「友だちもいないといけないものなのかな?」。「友だちは『いたらいいもの』だろうけど、いなきゃいけないものではないんじゃないの?」・・・「だって、そのために、『いけないからつくる』っていうと、目的があってつくってるようなものだよね。お互いにたまたまなんかのひょうしに仲良くなって、それでもっともっと親しくなっていく・・・そういうふうにできていくんじゃないの?」・・・「友だちがいないって悩む人は多いよ・・・つまり友だちはかんたんにできなくてあたりまえだよ」。
 ・・・てなぐあいにすすめて、それで次に不安を解いていきます。あくまでも気休めにしかならないと思われるものもあるでしょうが、深刻な問題だからこそ、「あなたの考え方、自分の責め方は論理的に正しくはないのだ」から「受け止め方」「発想」をかえてごらんなさいと、そう進めていきます。もちろん周囲の状況への実際的配慮もしますが、まずはビリーフです。
 
 「『ジロッと見た』とか『にらまれた』というけど、笛吹いてるとこに入って来たら見るしかできないよね。そのにらんだのは何人? 全員がにらんだの? 数人でしょ。皆がにらんでることなんてないし、いじめる気持ちとかじゃないよね。だって声だってかけられないよね。
 僕は教員だけど、授業中に生徒が遅刻して来たコに挨拶とかしたら『コラッ!』って思うよ。」
 ・・・「『視線』も目つきがこわくてもやさしい人間だっているよね。人間は一見じゃわからないよね。きみだって『自分のことをわかってくれない』と思ったんだよね。当然他の人だって見たまんまじゃなくて中身はいい意味でも違う場合があるよね。声が大きいから怖いとか悪いとかでもないよね。そうじゃない人もいる。だから決めつけちゃうのはよくないよね」
 ・・・「君がその時、教室で笛吹いてた側だったらどうしたかな? 親しい子だったら『目で合図をした』かな? 親しい方じゃないコだったらどうしたかな? 目も向けなかったかな?」・・・「ねっ、『目』線自体にはそんなに意味はないよね」・・・「だからそう思い込むことはないよ」。
 →最後には、いいかえさせます。「〇〇だが、けっして〇〇ではない。大丈夫だ。」と
 
 以上は例なのですが、「論駁」するという方向がわかっていただけますでしょうか。理不尽な思い込みの部分。根拠なく判断してしまっている部分。・・・そういうものをみなおして「自ら」認識を改めることができたならば、「悩み」の原因というよりも「悩み」の性質・本質からなおしていくことができると思うのです。大切なのは生徒のたちなおるきっかけづくりと、そしてカウンセリングと違って時間がかからないで解決できるケースもある「相談」方法だということです。
 受け止めて、そしてかえてあげるべきところを変えていく。
 とうぜん、生徒理解があって、はじめてなりたつ方法です。
 
 
 滝充のPEACEメソッド
 
 それでは、今日の本題ですが、実際の学校教育における「生徒指導」の実例といいますか、最前線とでもいう方法を今日はご紹介します。
 以前にもいいましたが滝充(たき みつる)さんという方の方法論がおそらく今後の日本の生徒指導論の重大な柱になってくると思います。PEACEメソッドとか、ピア・サポートとかよばれる方法論なのですが、よく考えられたものだと思います。
 まず、第一回目の講義でおすすめの本をあげましたが、そのなかにこの滝氏の著書も入れておきました。
 ★滝充『学校を変える、子どもが変わる』時事通信社、1999年
 前にみた文部科学省側の生徒指導観の変化として、いまは「突然型・いきなり型」で「キレル少年」の問題行動がみられるということで、普段は前兆が見えにくいので「心のサイン」を見逃さない方向で行こうとなってきているということは、この4月に出された報告書として最新の方針なんだということで見ていただきました。
 「子どもがかわって」しまったので、「わからなくなった」というのですね。それでわからないのが不安で、なんとか「わかろう」と策が考えられている。しかし不安なのはわかりますが、「わかる」ことは可能なんでしょうかね。実際にどうしたらいいのかは、とても難しい問題だと思います。
 とにかく、「子どもが変わってしまった」のだという。どうすればいいのか。その点、この滝先生はタイトルどおりに「学校を変えようじゃないか」と言ってですね、それによって「子どもが変わって」わかるようになるといいますか、問題解決にむかうんだと言うのです。
 あの時に読んだ方針には「これからの生徒指導には予防の観点が必要」と書いてありました。その時に滝充さんの研究・提言がこの方針に反映されているんだと(思うよと)いうことは予告していました。滝氏は国立教育政策研究所という文部科学省の下の中心的研究機関で長く生徒指導について研究代表をつとめられているかたです。ですからこの指針にも中心的役割を果たしたと思うのですね。
 
 私も著書を読んで、また研修会等で話をきいて、それで理解したのですがひじょうに説得力のある方法論だと思います。そしてこれが今後の教育改革における柱の一つになっていくかと思いますので今回はそのお話しをします。
 滝氏の教員研修会での報告レジュメを参考資料として配布します。それをもとにPEACEメソッドとはどういうものか、話をすすめていきます。
 
 「子どものストレス状況と学校の取り組み」という講演タイトルですが、まさに「予防」の観点から「学校」がどう取り組みをして「かわっていけるのか」が提言されています。本のタイトルどおりに「学校を変える、子どもが変わる」というように主張されているのですね。
 では、問題状況をなくしていくために子どもを変えていくためには、どう学校が変わっていけばいいのか、・・・。PEACEメソッドはシンプルです。
 これもアルファベット「PEACE」それぞれの文字が頭文字となっていて意味があるのですが、考え方は次のようになります。
Preparation
 準備

 
Education
 教育

 
Action
行動

 
Coping
対処

 
Evaluation
評価

 
 
 この5段階でやるのですね。学校ぐるみで教職員全体で生徒の問題に取り組んで行くことを提案しています。
 誤解をおそれず単純に説明します。先ず教員全体の意識付けですね。「学校を変える」のには少数の教員ではできません。そのため具体的な問題を共通のものとしてとらえる「準備」が必要です。そしてそれを考え深めていく「教育」が次に行なわれるべきで、そうして問題行動に実際の「行動」をおこしていくのですね。その際にもっとも重要なのが「対処・対応」です。そういう周囲の働きかけ、つながりをつくっていくことがCopingなんですね。人が問題行動や例えば犯罪に走るかどうかの境でふみとどませるものが、何かとのつながりじゃないでしょうか。家族、知人・友人、なにかしらのかかわり・・・、逆にそれがないと「観念」の世界で孤立して生きることにもなってしまうのですよね。表面上だけのつながりへの希薄感に悩むのもありますよね。単純に役割を与えろということではないですけど、しかし単純に集団内で居場所を感じられず実在観をもてなかった人が役割を与えられて生きる場を感じてなじんでいったという実際の例もあるのですね。そういうつなぎとめをつくってあげることが、実は滝さんのメソッドの中心ではないかと思います。そしてそれを「評価」して反省して次につなげていく、そういう試みですね。
 もっと、さきに言ってしまうと、例えば生徒主体の自治的方法なんかも提案しています。「学校」を変えるのは「教師」だけではなく、「生徒」もその構成要素の一部ですし、まさに「生徒が変わる」ことをこそ目的としているのですね。
 基本的に「教育」とはそれを受けたものが後々まで「自己教育」していく習慣・スキルをみにつけることが目的の一つでもありますよね。自分をコントロールというか、まさに教える側からいえば自動操縦的にもなるのですが、そういう面で自律していってもらうことです。その点、滝先生は「生徒の意志」をも変えるというか、意識変革をまざすんですね。私が説明している「実感」と同じなんですが、問題行動を問題だとして認識していくこと、それ自体を教えるのです。
 つまり例えば生徒会です。その選挙とかもありますね。ああいうキャンペーン的に「問題行動を考える」ことを学校として全体で取り組んでいくことです。何かの行事をつかって、全体をまさにそういうふうに教育していって、そして行動していって、全体がそういうのはよくないことだからなくそうと認識すること、それによって全体のコーピングができるわけですね。そうしていい伝統をつくりあげていこうとするものです。
 従来、学校では、生徒指導とかでいい先生がいていい時期があっても、その先生が異動するとその伝統すら消えていくというのがありました。そういうものをなくして全国でどこでも有意義な学校生活ができるある種のマニュアル的方法論を示したのがこのメソッドだともいえます。
 
1、背景要因としてのストレス状況
 生徒指導上の諸問題(いじめ、不登校、学級崩壊等)の背景要因として、「ストレス」に注目していますが、次のように考えられています。
 
◆ストレッサー(ストレスの原因)・・・学校、家庭、教師、友人、親との関わりやできごと
◆ストレス・・・心に負担がかかって心理的にひずんだ状態。身体的・抑鬱・不安感・不機嫌・怒り・無気力等の様々な症状がある。
◆コーピング・・・価値観、社会観、対人能力等で、ストレス要因(ストレッサー)からストレス症状に、またはストレス症状の状態から問題行動(不登校やいじめ、非行等)にうつる時に、その結びつきを促進したり抑制したりする働きのこと。
◆問題行動・・・不登校、いじめ、非行等の結果として表れた行動
 
 これは「論理療法」で説明していることともある種重なりますよね。直接のダイレクトな接続結果ではなくて、そこには要因や関係が重なります。コーピングという状況によってはストレス要因がストレス症状に出なかったり、あるいはストレス症状からキレルこともなくなってくるのですね。
 
 さて、「ストレスがたまる」とか「ストレスがひどくて」とかいうのは正式には「ストレス要因=ストレッサー」によって「ストレス症状がでた状態」なんですね。しかしストレッサーはまったくなしにできるんでしょうか。人間関係がいやだというのがストレス要因なら、では人間関係を遮断すればいいのでしょうか。そんな単純なものではないですよね。それにストレス負荷も必ずしも悪いものだけではありません。
 例えば私の妻はここ数年間、毎日欠かさず腕立て伏せ100回、腹筋200回をやっているのですね。すごいものです。ちなみに数年前にはじめた時には、最初は腕立ては5回ぎらいしか腹筋も20回ぐらいしかできなかったです。ところが、毎日やって徐々に「負荷」を増していって、いまでは毎日当時の10〜20倍の回数をやるのですね。最初は疲れて痛いといっていたのが、ストレスを与えた結果、教化できたのですね。スポーツとか鍛練とかも意識的に成長のためにストレスを与えるのであり、必ずしもすべてのストレスが悪いということではない。
 ちなみにここ2年間ぐらいは回数は同じようです。そうするともうストレスにはならないのですね。するとパワーという意味での結果は増しません。なんのためにやっているのかは本人にしかわかりませんが、いつの間にか持続という意味に変わっていくこともありますね。最初は筋力トレーニングだったものが慣れると、そしてそれ以上をやらないと維持のためだけの筋持久力トレーニングに意味が変わっていきます。まぁ、ストレスはそういうものでもある。単純に耐えろというのではなく、目的があって耐えられるものもあるし、意識とも関係するし、皆との協同ならできるとかもある。こういったものがコーピングです。
 まぁ、学校においても家庭においてもストレス要因はあり、それで反応があらわれるんだというのですね。
 
2、生徒指導上の諸問題への対応
 「対症療法型から予防教育型へ」として、滝氏によれば対症療法としてのこれまでの方法では限界があるとされています。早期発見もいいのですが、発見しにくい状態なわけで、さらには未然に防げるのがいいはずなのですね。一般化が難しいです。それですぐに「持ち物検査」等におちついてしまうわけです。それよりも「考える」方がいい。これは以前に読んでいただいた「指針」にも同様なことが分析されていました。だからこの指針に滝先生らのプロジェクトの影響が見えると思います。
 その点、一般化可能なものとして「予防」なら可能だというのですね。
 また誤解をおそれず簡単に言ってしまうと、滝氏のいわんとするところは「学級王国」を解体するということでもあるかと思います。「学級王国」というものが弊害であると。
 「うちの学級は」という意識が教員にあるのですね、どうしても。愛着、思い入れ、これは誰にでもあることです。否定はできない。しかし、それが特別視や孤立になってはいけない、ということです。
 学級で問題が発生しても隠してしまう、いえない教師、そういうのは実際にあると思います。そして実際に知っている子と知らない子とでは感情のもちかたも違うのではないでしょうか。クラスの子のことは覚えますね。
 私の個人的な経験の話をしました。女子高校に勤めていた時、2月末の3年生を送る会のために教員劇の練習を連日していました。毎日残って、小道具もつくったり、ダンスを練習したり、セリフを覚えたり・・・。いよいよ2日後が本番だという日、居残りした数人の教師で帰りに居酒屋で夕食をとっていました。そこに入った悲しい連絡・・・。2年生のある生徒が夜に学校4階から飛び下りたという知らせでした。・・遺書があって、本人の悩みだから、いじめや事件ではない、と書かれていましたが・・・。とりあえず卒業生を送る会は中止になりました。それはそうですよね。
 しかし、その時、連絡を受けた中で「誰が!」となってその生徒の名前がわかった中で、やはり「自分のクラスじゃない」とある種ほっとした教員もいたのです。いや、これも自分のクラスから悲しい事件が出てほしくないというのはあたりまえです。安否確認というか、遭難のおりに「日本人はいないようです」と報道されるのといっしょです。そして私も個人的に知らない名前の子だったので、やはり実感がそんなに強くないような気がしたのです。これがとても哀しかった。そういう意識はやはりあるのではないかと、不謹慎ながら感情的な問題としてですね。知っていたらどう思ったのだろうかと・・・。
 それにクラス替えの時に自分にとって都合のいい生徒で編成したがる教師もいました。他のクラスの子をかわいがらない教師も・・・。こういうものも「学級王国」的な感情です。そういうせまい意識をなくして、共通のものにしよう。そのためには連絡・協力、時にはお互いに相談しあおうというのです。
 実はこのお話しを滝氏が講演したとき、質問やあるいはあとで集計したアンケートで、現場の教師の皆さんから不評だったことがわかりました。「そんなことはやっている」「現場のことを知っているのか」なんていう反発もありました。
 たしかにやっている(と本人が思っている)教員にとっては、何を言ってるんだという気持ちもわかります。でも、本当に学校内で全ての教員が協力体制でやっていますかね。自分たちを批判されていると不快に思われたのかもしれません。でも、滝氏はものすごく「わかりやすく」その方法を紹介したのだと思うのですね。おそらく「このぐらいは完全にできるだろう」という逃れようのない具体的な(というか単純な)提起だと思うのです。まさに悩みをもって来ている研修教員としては「カウンセリング」を受けれるかのように悩みを解消する何かが見いだせると思っていたところを、出てきたのがある意味で「教員間で仲良くしよう」「協力しあおう」とも単純にみれる「耳のいたい指摘」だったのですね。現場の教師はこう受け取ったのではないかとその場にいた私は思いました。
 ただ、滝氏の言ってるのはそういうレベルではないのです。
 まぁ、不思議なものでそうして反発される提案もそれから2年たって全体の改革方向の中に位置づけられていく時、おそらく一「学校」内での会議等でも今後の方針として受け入れられていくと思います。それが同じことをいわれているのだと認識せずに、たしかに協力を必要という方向にそうなってきていますかね。
 まぁ、これは「全体のとりくみとする」そういう方向づけなのですね。たしかにある特定の教員が異動してもこれなら平気ですし、それにこれならば「学校を変える」ことが可能と思います。
 
3、プログラム化された指針(ガイドライン)の必要性
 それで、例えば「学校行事」をいかしての、いじめ撲滅キャンペーン的な行動をすすめていくのですね。それが教育の一つでもあっても人権とか人間理解とか道徳としてもテーマ学習的にいいのでしょうし、従来の風紀委員とか服装検査ではなくて、全体として学校の問題であり自分たちの問題であると意識させることですね。そういう取り組みなわけです。生徒が主体的に参加していくという方向ですからまさに「学校を変える」ことで同時に「生徒が変わる」のですね。
 もちろんこれは外国で実践例のある方法でして、その方法論の応用です。ただ単純な輸入翻訳ではなくて、滝氏によって日本にあうように実情を考えて「このぐらいならできる」部分をまとめられたシンプルなものです。具体的マニュアルではなくて、そういう事細かな指示ではないのですね。大きい方向性です。
 意識を変えるという方法。カウンセラー導入とか、「人間の時間」とか「道徳」の授業を増やすとか、そういうものではない。根本的にいじめの意識を減らすというか認識させてなくしていくシステム・・・、これは実はすごい新しいと思います。
 いじめの次は暴力、次は不登校、あるいは福祉を考える・・・、なんでもいいですし、ある種、授業としても「総合的な学習の時間」のようにつかえるものもありますね。学校を変えて、生徒を変える」「生徒を変えて学校も変わる」、そういう方法がきっと近いうちに生徒指導論及び日本の新しい学校観になってくると思います。
 
  滝先生の本やホームページなどにも注目してみてください。次回は歴史をやります。