生徒指導論  (第七回・6月1日)
 
 「論理療法」(続き)
 
 「固定観念」というものにしばられているがゆえに人間の行動は規制されて問題ある方向へ陥ることがある。前に言いましたが人間には精神的に「状態」が違う時がある。電車で同じ遅い時間帯で同じトラブルがあっても、気持ちにゆとりがある時は「しかたないな」「たいへんだなぁ」と考えられるし、疲れたりゆとりがない時には「このやろう!」と怒ったりすることもある。こういう違いはありますよね。
 例えるなら「健康的」と「病的」と表現できます。この受け取り方の状態の差によって結果も「健康的」・・・つまり「バッカじゃないの?」とストレス解消に走ったり、あるいは「病的」・・・「もう駄目だ」とふさぎこんでひきこもったり、と違ってくるわけです。精神的にタフだとかそうでないとかではなく、誰の中にもこういう強弱はあるかと思います。せめてこの「健康的」な方にあげてあげること、それが「論理療法」です。
 
 さて、前回書いてもらったチェックシートを返します。(返却)
 
 ・・・皆さん、今、へんな顔をしていますね。不安そうな。あるいは不信の顔・・・。
 それは返却したプリントの右上に「A・B・C・D」のアルファベットが書いてあるからでしょうか。
 だますようで申し訳ないのですが、私はこの「A・B・C・D」のアルファベットに成績の意味をもたせていません。ランダムにふっただけです。いや逆に少ない記述の人にわざと「A」と書いてものすごく書いてくれたものには「D」と書いたりもしました。
 本当にだますようでごめんなさい。でも皆さんはこういうプリントに記号があると成績だと「思い込んで」しまいますよね。私は「成績だ」とはひとこともいっていませんのに。これが「固定観念」です。
 
 これは苅谷剛彦さんという東京大学教授の著書『知的複眼思考法』という本に書かれているものなのですが、苅谷先生は最初の方の授業でこれをやって、学生に「固定観念にとらわれるな」と気づかせるんだそうです。これ、すごいいい本です。大学時代に読むのにおすすめの本です。面白いです。勉強になります。まぁ心理系の本ではないのですが、しかし言ってることは共通すると思います。人間は固定観念にとらわれやすい。
 
 さて、今日は少しゲームをやります。今から必要なものを配布します。(そう言ってから「出席カード」を配る→→予想通りにカードに記入しはじめる者がいる)
 
 「ちょっと待った!」。「誰が番号・名前を書けっていいましたか?」。
 
 それも固定観念です。出席カードが手元に来たらすぐに書き込む。それは今日は出席カードではありません。私はひとことも「出席カードに記入してください」とは言っていません。
 
 次にマジックをまわす。「このマジックで裏の白い面に名字を大きく書いてください。男女の性別もその下に書いてください」。
 
 そしてプラスチックのネームプレートをまわす(ちょうど出席カードの入るサイズ)。
 「はい、これをまわすということは、わかりましたね。名札をつくってもらうのです」。(そういってまわす。→→予想通りにさっそく胸につける者がいる)
 
 「ちょっと待った!」。「誰が胸につけろっていいましたか?」。
 
  それも固定観念です。ネームプレートができたらそれはすぐに着けるという。それはまだつけてもらいません。私は「胸につけて」とは言っていません。それは回収します。それは先ず、抽選につかうためのものです。
 
 いかがですか。固定観念、お約束的に人間は反応するものですね。
 
 
◆ 自己紹介ゲーム
 それでは、本題に入りまして、心理理解のためのロールプレイングを試してみようかと思います。簡単なエクササイズをやります。「自己紹介」をしてもらいます。
 
 いまからこの「ネームプレート」で抽選しますので、そのとおりの組み合わせでお互いに自己紹介をしてください。10分間でいいですかね。男女のペアにしましょう。この機会に知らない人どうして知り合いになっていってください。せっかくですからネームプレートを配りますので、それをつけて話してください。
 (抽選→組み合わせ)
石田 高橋 小沼 吉江 神尾 吉永 長谷川 岩崎
峯坂 杉本 岸田 小室 福見 久保田 鈴木 川田・関口
 
 (10分後)
 はい。辞めてください。楽しくお話しができましたか? それならばなによりです。それではネームプレートを回収します。その前に、話した相手の名前をプレートの裏側に書いてもらってください。誰と話したか記録しておきましょう。(名札回収)
 
 それでは、再び抽選します。さて、皆さんのうちこれから数名の人に前に来てもらって「自己紹介」をしてもらいます。ただ、普通にやるだけでは面白くありません。話した相手に「相手になりかわって」「相手になりきって」自己紹介していただきます。そのためにこの「プレート」をつくりました。(と、ルールを説明)
 
 あなたたちは10分間、話したわけです。単純にお互いの情報を5分ずつ得ているともいえますし、まぁ相手が一方的に多くリードしてしゃべったにしてもパーソナリティは10分間分「みた」のですね。ですから「5分間」自己紹介してほしいのですが、まぁ3分間話せて合格といたしましょう。それでははじめます。
 
 ●岩崎さん(を川田君がなりきり紹介)→下の名前は? 趣味は? 好きな音楽は? 愛読書は? ・・・教職や成績等の情報は得た。しかし言えないこともあると・・・。45秒で終了。次の人を抽選する。
 ●長谷川さん(を鈴木君がなりきり紹介)→上とほぼ同じ。45秒。・・・次の人を。
 ●福見君(を神尾さんが紹介)→下の名前や居住地等までは理解。1分半。・・・次を引く。
 ●小沼さん(を岸田君が紹介)→かなり頑張る。3分間ギリギリ・クリア。
 
 今日は「自己紹介ゲーム」はここまでにします。どうですか? 趣旨を知らないで話しただけでは実は相手のことをそんなに知り得ないのだということがわかりましたでしょうか。「わからない」ということが「わかる」ことが大切です。
 人間のことはそんなに簡単に「わからない」のです。
 
 「わからない」のはなぜか、また「かくしたい(いえない)」ことがあるのはなぜでしょうか?
 
 ここで「コロンブスの卵」的発言をします。
 「わかる」というものは、ただ「話す」「見る」「聞く」ではなく、「わかろう」と考えること(理解しようとすること)で「わかっていく」(知的好奇心・興味をもつ)ということなのです。
 馬鹿にしたようなコトバにきこえるかもしれません。しかし、そういう事実はあるのではないでしょうか。例えば私がここで誰かと会話する。・・・以前も書きましたが図示するとこうなります。(黒板に絵を書く)
 私が前に座っている彼と話をします。「私」と「彼」とで自己紹介をしあう(試す)。・・・「彼」の名前、学年、出身地、趣味、聴いてる音楽、スポーツなどについて「知り」ました。「知った」というか情報を得ました。「彼」も「私」の情報を得たのですね。
 これは板書をすると・・・(絵図で示す)こうして会話しているのですね。そういう事実があった。ここで「わかる」とは何かというと、例えば「私」のアタマの中で「私」と「彼」が会話しているシーンがほぼ同時に再現されているというか、そうドラマが演じられているのだということなんです。漫画の「ふきだし」のようなものですね。その人の「思考」ですね・・・。そして「彼」のアタマの中でも同じようなシーンがあるわけです。
 しかし、このシーンというのは個人の「思考」ですからズレがありえます。なぜかというと、自己紹介であったようにお互いが相手をまだよく知らないからです。つまり・・・、アタマの中で本人は「本人」が演じているのですが、「相手」も自分が仮想ととして演じているという状態なわけです。想像といいましょうか(「彼」のアタマの中の思考の「私」は「彼」の想像する「私」であって、「私」そのものではないですね。「彼」が「私」の身になって演じているのだといえます。逆に私のアタマの中での「彼」は「私」の想像であり演技であるわけです)。
 わかりましたか。つまり「わかる」はずがないのです。でも短い時間でも「わかる」部分もありますね。少ない時間でも「わかる」部分。逆にいうと「わかってもらえたんだな」と思う部分。・・・これは「共感」できたりして共通の経験があったり思いが重なる部分です。物語を読んで感想をいいあっても同じ感想ってあるわけですもんね。もちろん誤解もありえますが、それは経験が重ならない部分というか、演じられない部分というか、想像が追いつかない部分だったりします。
 
 「わかりましたか」。「わかる」ということが。
 このように「体験」「経験」が重なると想像できて実感できるのです。知識や本の内容を理解するのも同じことです。前にガリレオの話をしましたが、ガリレオの発見したことを「体験」したことを、自らの仮想体験として実感しているじゃないですか。「わかる」とはそういうことですね。
 しかし、「わかろうとしない」と「わからない」ものです。
 
 今、「私」と「彼」とのやりとりでいいましたが、皆さんの立場でも同じです。話に加わっていない皆さんはまるでドラマを観るようにこの二人の会話をみていた。つまり皆さんのアタマの中でこのシーンがあり、出演している「私」も皆さんが演じて想像する「私」なわけで、「彼」も皆さんの想像で演じている「彼」なのですね。両方とも想像なわけです。これは・・・、よっぽどのことでないと「わかりません」よね。でもドラマや小説ってそうでしょう。共感したり、自分の思い入れがあったり・・・、そういうものですよね。関心のないシーンだと目にうつってもわからないというか流したりもするでしょう。
 ・・・こう考えると、他人のやりとりや、知識がなぜ「わかる」のか、といえば、アタマの中で仮想体験として実感できるから「わかっていく」のですね。すると根本的に「わかろう」というスタンスで臨まないと、いや「わからなくていい」として流しておくと「わからない」のが事実でしょう。
 「わかりましたか」。「わかる」ということが。
 
 人をくったようないいかたでしたが、「わかろう」とすることが大切です。特に教師が生徒を「わからない」から生徒指導が叫ばれるのですから・・・。「わからない」事実があるからこそ「わかろう」とすることが重要になるのです。
 
 そして、「実感」や観念の世界は「仮想体験」であり、自分の「経験」で想像・理解するということをスラスラと言ってきました。・・・ちなみに「観念」だけの世界、自分だけの「主観」の世界に生きてしまって、まるっきり他者や社会をかえりみないという状態におちいる場合もありえます。理解や実感・共感のための仮想体験はいいのですが、バーチャルな世界とリアリズムが混同して判断力が喪失してしまう状態は危険です。薬物の影響やあるいは引きこもりの子にそういう対人拒否型の性質が出ることがあります。
 また複合的な形等を試してみましょう。
 
 
★ 論理療法(あなたならどうする)
 さて、今のエクササイズで、「相手のことを理解する(共感的理解)」のが前回のBeing in Youの部分です。そういう理解の回路をつくっておく、意識しておく必要があります。
 さて、「論理療法」は「相手のためを思って(援助的立場)」(Being for You)、「自分の考えを示して(共に対等な人として)」(Being with You)あげるという「論駁」する方法でした。「固定観念」を「論駁」してあげるという「教育的カウンセリング」なのですね。心理学者ではない教育者がとれる方法であると思います。「論理展開」と「洞察力」が必要です。
 それでは、一つの「固定観念」の見つけ方からはじめましょう。まず「身になって」想像的に「わかろうとする」ところから始めます。今からケース(事例)を紹介しますので、そのケースのシーンでその主役がなんと考えてそういう行動にいたったのか、その時あなたならどうするか? それを想像してみてください。簡単です。
 それでは、ケース1を読み上げます。
 
 「あなたは(〇〇さん)、高校生。(その時のことを想像して、気持ちを思い出してください。)ごく普通の高校ですが・・・、3年生になりました。
 最近、自分に友だちはいないのではないかと迷っています。3年生でクラスがかわった時、仲のよかったグループとは一人だけ別クラスになってしまったからです。もともと積極的に自分から他人のワに入っていくタイプではなかったし、周りの皆も進路を考えはじめてか・・・、バラバラで近寄りがたいと思っていました。
 おとなしめの、少し話す・・・、お互いにおとなしいからよくしゃべるのではないのですが、そういう人はクラスにいます。たぶん似たタイプでクラスで積極的になれないタイプだと思う。この子たちが学校を休むとつまらない。・・・お昼のお弁当をいっしょに食べる相手がいなくなります。そういう時はつらい。食欲もなくなります。
 クラスには私たちとは正反対のにぎやかなグループもいて、先生を茶化したり、なんだかんだリーダーシップをとりたがります。
 私は彼女たちが苦手です。一人でごはん食べてる時、「ひとりぃ?」と声をかけてきます。話すことが得意でない私はそのグループへも入れないと思い・・・、「今日は〇〇ちゃん休みだから」とかいったりします。「ふ〜〜ん」といって彼女は去っていきます。目をつけられるんじゃないかと私たちは心配していました。
 〇〇ちゃんが不登校ぎみになりました。理由はわかりません。でも、私はさみしくなりました。
 私はよく腹痛や偏頭痛があって、朝、布団から出れないことがあります。そういう時は一日憂鬱です。
 体育の時間も見学が多いので一人になることが多いです。そういう時は周りの目が気になります。つらいです。
 ある日、遅れて2時間目の途中から登校しました。「音楽」の時間でした。音楽室は移動教室です。廊下を歩いていても他のクラスも授業中、また孤独を感じました。
 音楽室に着いて静かに後ろのドアをあけると、皆は笛を吹いていました。その時、あの目立つグループの子たちが、彼女たちの目線・視線が私に集中しました。
 また遅れてきた私は、その目が「白い目」でにらまれているようにみえました。そういう目でみられている。先生は何もいってくれない。皆の視線が私を責めているような気がする。「なに遅れて来てるんだよぉ!」と語っているように感じました。
 「もうここにはいたくない」。
 そう考えて私は学校を出ました。(それから彼女は不登校になりました。)」
 
 
 →→さて、「もうここにはいたくない」と彼女がアタマの中で思った時、なぜそう考えたのか。「〇〇となった(理由・事柄)」ゆえに「××と考えた」と書いて下さい。
 それを集めて今日は終わります。