生徒指導論  (第六回・5月25日)
 
 ○生徒指導に関する日本の最新の方針『心と行動のネットワーク』
 
 前回配布した『心と行動のネットワーク』という資料を読んでみたいと思います。
 4月13日付けというように最新の生徒指導に関する方針です。
 以前に配った『生徒指導上の諸問題の現状と文部科学省の施策について』(「平成10年度不登校状態となった直接のきっかけと不登校状態が継続している理由との関係」をみてもらった)も、この2月に出されたホヤホヤのものですが、とにかく最新の情報をいかにとらえて分析しておくかが重要な課題となります。
 ちなみに二つの資料は関係しあっていまして、2月の報告の成果があって、それが反映されて出された提言(方針)がこの『心と行動のネットワーク』です。
 
 この資料は『日本教育新聞』に付録としてついていたものですが、文部科学省初等中等教育局児童生徒課長・徳久治彦さんの「解説」が付されています。
 先ず「今回の報告の特徴」として、「学校だけが問題を抱え込んで対応するのではなく、学校・家庭・地域が、より一層連携を充実させていくことの重要性」が議論をすすめていくうちで改めてわかったというのですね。
 この「家庭・学校・地域」の連携というのは、これまでにもいわれてきたし、いつでも、どこでもいわれることではあります。そういう意味では「これまでいってきたのになぜできなかった(足りなかった)のか」そういうつっこんだ「構造」にまで言及されるのか、私は先ずこの段階で期待しました。まぁ、単純にこれまでのように「家庭・学校・地域の連携」というだけじゃなく、より具体的に「警察庁、内閣府、法務省、厚生労働省などで主に少年問題を担当している方々に会議のメンバーに加わっていただき、そのような地域のシステムづくりのために、『関係省庁との連携』を一つのキーワードとして、各省庁が密接に連携を取り合い、国のレベルでも共同して支援しようとしている点が特徴の一つです」と述べています。ここにこれまでの「縦割り」「分断」的構造が示されてはいますね。もちろん直接にはそう述べていませんが・・・。家庭内の問題とか虐待とか、そういうものは児童相談所やつまり厚生省(現:厚生労働省)、非行などは家庭裁判所・内閣府や警察庁の問題だったりして、「学校」(文部省)とは分断されたりもありました。問題は複合的にあるのに、事実上連携は不可能だったのですね。「生活」と「教育」と「防犯」等は別のものとされていたわけです。それで「学齢児童」の犯罪等問題行動が明らかにされると「学校教育」の責任が糾弾されますが、またぞろ「教育」と「進路指導」に熱心な(専心しやすい)学校側には「把握できていなかった」と証言される実態があるわけです。実際に見えなかった部分もあるのでしょう。他の場面でその部分が出ていたのだとしたら・・・、ある一つの場所、時間、空間、局面、省庁のみの判断にゆだねるのではなく、お互いの連絡協議のネットワークを築いておこうとなったのですね。
 ちなみに、これは「災害ボランティア」でも同じことがあって、そういったことも教訓にしているのだと思います。例えば阪神大震災の時、たくさんのボランティアが現地に赴きましたが、そのボランティアを采配する機関ができていなかったのです。いや、通常は効果的に采配するためには現地の福祉協会等がコーディネートするべきでしょうが、現地は連絡網からなにも壊滅的な打撃を受けていますね。そういう時にどう連絡をとってうまくいかすのか、そういうことまで対応が考えられていなかったのですね。これは大きな反省となったようでいまでは各地に「災害ボランティア・ネットワーク」ができています(実際に「阪神大震災がボランティア元年」なることばもあります)。せっかくの集まったボランティアをうまく不十分なそして必要なところへまわせなかったという現実がありました。また、特にあの時は大学の学年末試験のシーズンだったのですが、それが終わってから学生ボランティアが訪れました。その時には災害直後とはまた違った焦燥がでてきているころだったりしますね。そういうタイミングで「さぁ元気に」と悪気なくこられても、人間はその時の精神的状態によって受け取り方にも差が出ますよね。そういうときにこそ、またコーディネートする側が「情報」を分析してうまく伝えて采配することで、より有意義な活動ができるのだと思います。そういう「支援」の方法ですね。単純に他国から送られた災害支援の物を意味なく分けるのではなく、あるいは一部に留め置くのではなく、うまく協同していくことが必要です。「支援」という意味ではこの「心と行動のネットワーク」も同じことを目指しているのだと思います。
 「一見おとなしく目立たない児童・生徒が、突然キレて暴力行為を引き起こすといったタイプの問題行動への対応」のために、その「心のサイン」を見逃さないようにして、さらにいままでも「情報の連携」はいわれていたのだから今後は「行動連携」をというのがその主旨です。
 ちなみに従来の問題行動を「非行行為」が特徴であったとしています。こういう把握だから生徒指導も「校門指導」型になっていたのですね。それはこれまで見てきたとおりです。それが最近ではストレスによる「突然」「凶悪事件」を起こす「いきなり」型に変わってきていると分析しています。「行動面での前兆は見えないが、心の面で問題行動に至る予兆がある」としています。行動面での前兆はおさえられているといえないでしょうか。それでストレス要因となってきているのではないでしょうか。
 ちなみに徳久さんは「具体的には」として、家庭内で暴力があったり、ホラービデオを頻繁に観ていたり、凶器を携帯していたりといったことをあげています。まぁ、詳細は中の文書に書いてあるのですが、これまでの問題児「重点的に指導」の方法からこれからは「心のサイン」を見逃さない方法へとかえていくのだというのですね。その際に従来の一対一から「チーム」として多角的に対応していく方法へかえていくのだと言っています。おそらく国立教育政策研究所の滝充さんのPEACEプランという方法がこの文部省案の根底にあるのだと推測します。それについてはまた別にご紹介します。
 
「全文」においてはもっと詳細に記述されていますので読んでおいてください。バスジャック事件などの結果、文部省が「児童生徒に命の大切さをしっかりと教える時間を持つよう依頼」したとか、今回「情報連携」から一歩すすめて「行動連携」にシフトするのに従って「児童生徒の発するサインをとらえる」ことを重要視するといっています。今後まとめて提言するのでしょうが、こういうものはマニュアル化可能なのでしょうか。ここらへんには「問題視」はするけれど抽象的情緒的におわってしまいやすいこういう問題への限界がでていると思います。正直にいってまだわかりにくい。
また、さっきいいましたが、従来の政策や歴史的な「反省」の一文はどうしてもこういう文書には入らないのですかね。「縦割り」行政のことにも言及はないです。しかし、それ以上に、「児童生徒の問題行動の背景や要因」の項で、生徒自身に「善悪の判断などのモラルや道徳心、思いやり、忍耐力」が欠けるし、「社会性が未発達」で「自己表現力・コミュニケーション能力が低く、対人関係がうまく結べない」として、その背景を「都市化や少子化の進展やテレビゲーム、パソコンなどの普及などにより、大勢で遊ぶ、友人と語り合う、他人と協力し合うといった多様な人間関係の中で、社会性や対人関係能力を身に付ける機会が減っており、学校や地域社会といった本来社会性を育成する場で社会性が育まれにくくなっている」としているんですね。だったらなぜその分析と反省がないのでしょうか。そういう時代であったからしかたないのかもしれないけれど、そういう政策をすすめてきた過去への反省はあってしかるべきです。ところがない。この後、家庭や学校へはかなり具体的にいあままでの対応が問題があったと指摘しています。しかし都市化等の背景を問題点が出てきてからもすすめたのは「経済政策」「行政」中心の政府がやってきたことだったのですね。臨時教育審議会のころ不登校やいじめが問題視されても、その「背景」と明らかにわかる都市化・開発・バブル経済等は支持母体の関係から言及できなかったのでしょう。明らかに背景に対する「責任意識の不足」がありました。今回もそれにすら「反省」が欠けている。謝ればいいのではないのですが、あまりにも認識がまだまだ不足しているようにもみえます。そう考えるときっとまたズレがあるかもしれない。注意していきたいものです。
 今回のこの資料は今後の日本の「生徒指導」の指針でもあるわけでして、前にみてもらいました「平成10年度不登校状態となった直接のきっかけと不登校状態が継続している理由との関係」(文部科学省初等中等教育局児童生徒課『生徒指導上の諸問題の現状と文部科学省の施策について』平成13年)の数値を反映させたものだともいえますね。
  不登校の要因・起因 その中の詳細な理由(%は全体中)
小学校
 
学校生活に起因(全体の20.2%) 友人関係10.6% 教師との関係2.1%
家庭生活に起因(全体の27.5%) 親子関係15.8%
中学校
 
学校生活に起因(全体の38.4%) 友人関係19.7% 教師との関係1.7%
家庭生活に起因(全体の17.4%) 親子関係 8.3%
 
 「家庭生活」の中でも「親子関係をめぐる問題」がその主要な要因となってきていることが数値として出てきているといいました。これまでは文部行政が「家庭」にタッチするのは縦割り区分でも難しかったのですが、今回のこの追跡調査の結果から、これまでと違ってはっきりと言っているのですね。「基本的な生活習慣や倫理観等が十分しつけられていない家庭の状況」として論述しています。そこが特徴の一つかもしれません。学校についても「生徒指導体制が十分機能していない」として「一見平穏だがかえって問題行動が目立たなくなってしまった」というように、これまで講義で言っていたことと同じことを問題としてとらえているようです。そして「地域社会の教育力の低下」や「情報化の波」の弊害に警鐘もならしていまして、警察庁と科学警察研究所の研究成果として最近の少年事件22件の被疑者25人のうち、同様の過去の事件報道・ホラービデオ等が影響したものは13人にのぼるとしています。その悪影響を述べているのですね。分母はともかく率は高いです。
 以上のように書いてあるのですが、生徒指導的には「生徒指導の本来の意義を踏まえ、問題行動への毅然とした対応や、学校としての規律の維持といった指導的な面に加え、『児童生徒の心の揺れや悩み、不安等を柔らかく受け止めていく』という受容的な面や予防的な面を重視していくことも必要である。」として「予防」の側面を指摘しています。そして「児童生徒が、自分たちが抱える問題を協力して自らの力で解決しようとする態度を育てることも大切であり、そうした観点から一層の指導の充実を図る必要がある」と生徒側からの活動を促すかのような記述があります。実はこの予防と生徒参画も「滝充さんの方法」でもあります。これが今後の方針に、モデルになるのでしょうね。次回以降に紹介します。(ちなみに最初に話したボランティアコーディネートの話だって、災害の起きる前の平常時に交流と情報交換をしておくという意味で予防的・備え的ですね)
 
 しかし、「心」のサインへの対応とはいっても難しいことが多いですね。なぜ一見「良い子」を演じたのか、どうやってそのサインを見逃さないのか? 人間の内面の理解とはどうやったらできるのか? そういうことも考えていかなくてはいけません。次回にまた「人間理解」のためのロールプレイングをやってみます。
 
 
『論理療法』・・・心因性・神経症型、ストレス型、不登校にフィット
    →→「論駁」(説得・指示)するカウンセリング
 
 
 今日はこれから実際の生徒指導の方法論の一つとして「論理療法」というものについて考えていきます。
 いま、指針について説明しました。そういう原理的(理念)なものと、そして実際の方法論、それを交えながらやっていこうと思います。
 それで「論理療法」というものを数回、考えてもらいます。いくつか生徒理解やカウンセリングの方法はあるのでそのテクニックについては紹介していきたいのですが・・・。
 
 「カウンセリング」は「相談にのる」というわけで、「スクールカウンセラー」が派遣されたり、その有効性が説かれていますね。不登校やいじめなど生徒の「心」の悩みのためにと導入された制度です。「カウンセリング・マインド」が必要だともいわれている。
 実際に教員が「カウンセリング」の研修を受けたりしていますし、それはすばらしいことだと思います。しかし実はそんなに特別なテクニックでもないと思いますし、またカウンセラーがいたから救われて、いないところでは救われなかったということが必ずしもいえるわけではありません。学校内で「カウンセラー」のところにいけるというのは少なくとも学校には来れているわけでして、まさに「来談者」として自ら赴いているわけですね(声をかけられたにしても判断には加わっています)。これは引きこもりや不登校からは一歩踏み出した状態でして、そういう子には「きいてあげる」ことで「安心」を与えることは可能でしょう。しかし、来れない子の問題もある。それは家庭訪問でもとなるのでしょうが、もともと教員が相談者たりえる信頼関係があればまったく不要だとも思えます。なぜこんなにも「心理的」に悩んでいるからカウンセリングが必要とされる状態になってしまったのでしょうか。そして教員はカウンセラーたりえないのでしょうか。そういうことを考えてしまいます。
 
 実際に「教員」にはいえないのだということで「カウンセラー」ならいえるのだというそういう限定があるのなら、「教員はカウンセラーたりえない」ということにもなります。それが個人的な教員不信ならともかく、「成績を評価する立場の教員にはいえないことなのだ」というのなら、・・・。実際にありますね。教育実習生は人気がでやすい。たしかに若いし興味をもてるニューフェイスだし、しかも直接成績にかかわらないとも思える。私はそう感じていました。もちろんみんながそういうふうに思うとは限りませんが・・・。「教員」もけっこうバラエティに富むと思うのですが、それでもわざわざ専門のカウンセラーが必要とされるのはなぜでしょうか。
 難しいし、おそらく「それは違う」という指摘もいただくことでしょう。しかし、もし「悩み」が「友だち」とかの交友関係のことだったりしたら、教員は相談者にとって「自分だけのものではない」公的な存在でもありますね。皆の担任だし、皆の教科教師です。どう思っているかわからないですし、他人にも言えない(だから悩むのですが)悩みを打ち明けて、それにいい「反応」をしてくれるかはわかりません。誰の味方かもわからない。あるいは「教員」のことでもいいのですが、まさに人間関係はわからないから悩んでいるのに、だから人間関係は読めないので「おいそれと相談できない」という警戒心はあるのではないでしょうか。・・・難しいですね。
 その点、カウンセラーはすこし妖しげな立場かもしれないけれど「秘密保持」でそういうなんでもきいてくれるプロなんだという認識があれば、逆に複雑な人間関係にかかわりが見えなさそうだからこそ相談しやすいともいえます(宗教の懺悔や告白といっしょだとはいいませんが、そういう見えなさはあるのではないでしょうか)。
 
 実際にスクールカウンセラーが常駐した学校とそうでない学校とでは問題が減少していくのに差がみられることはたしかに数値として報告されています。だからある程度以上の効果はあると思います。それは認めなければいけない事実です。ただ、それも「カウンセラー」は心理学専攻の者が多く採用されるかのようになって一時期人気もでましたが、やはり現実はきびしくきつい仕事でもありますし、また採用される人間の養成も(規定もあって)追いつかず、かなり養成方針もかわってきていると思います。ちなみにカウンセラー採用条件もかわってきています。その中できっといいことも悪いこともあるでしょう。
 教師は「カウンセリングマインド」でいられるかという問題でも、「カウンセラーとしてきくだけではだめだ」とか、それでは成績評価者たる教師では「完全な受容」はありえないなどとも指摘されます。「カウンセリング」が「受容」一辺倒かどうかは別として、カウンセラーはカウンセラーであり、教師は教師ですから、たしかに職分は違ってるのも事実です。
 さて、ではカウンセラーたりえない教員として赴任したさきでどうすればいいのか、「わかる」だけでなく、さらに問題を解決してあげるためにはどうすればいいのか。そこで考えていただきたいのが次の「論理療法」です。
 
 ◆「論理療法」のABC
 「論理療法」は新しいカウンセリングの方法でもありまして、米国では一大潮流なのですが、これから日本でも主流になってくるかと思います。特に私は、「これこそ教師の行なうべきカウンセリング」であると考えます。受容中心ではない「教育的」なカウンセリングです。
 また、心因性・神経症型、ストレス型の不登校の療法にあうと考えられます(心で悩み、迷い、自分で判断して落ち込んでしまったタイプに効果がみられる)。これらは現在増えているタイプです。ですからその対応に必要ですし、取り締まり型から生徒指導を転換していく上で、「うまく関わっていく」型として注目すべきものです。
 
 私が勉強させていただいているカウンセラーの先生がこの方法を実践していまして、心因性・神経症型のなおりにくい不登校児がたちなおっていくのを確認しています。自分の心に「説明」していくタイプでして、「考え方」を変えて楽になっていくという方法です。成績に対する強迫神経症状の少年はこの療法で自分を再構築していって、今では大検で大学に入って将来は神経・精神について勉強してその道でいきていきたいと考えているという例もあります。
 自己嫌悪や自己否定で引きこもっている少年の話もしました。このホームページにおいてはその例は書きませんが、その状態から自己肯定へもっていき、他者理解と自信をもってもらうにはこの「論理療法」で考え方をかえていくことが有効だと思います。カウンセリングと違って、時には積極的に、相手の「考え方」の修正を促すこと。だからこそ生徒指導として教員がもちこめるよう学ぶことが必要だと思います。
 ちなみに基本的には下のように「ABCDE」のアルファベット頭文字でその構造が示されます。
 




 

Activating
event
(出来事)
 




 

Belief
(受け取り方)
 




 

Consequence

(結果)
 




 

Disputing

(論駁)
 




 

Effects

(効果)
 




 
 
 「論理療法」はアタマの中の「論理展開」を変えていく方法をとります。普通はA(出来事)があったからC(結果)につながったとなるわけです。だから「出来事」が原因というか対症療法的にならざるをえません。しかし「論理療法」ではC(結果)はA(出来事)の直接的結果ではなくてB(その時の受け取り方)考え方でそう思い込んで反応した結果なのだと考えます。例えれば次のようになります。
<普通> 人間の「悩み」(結果)はある「状況・出来事」に原因がある。
     そして、そう「受け取る」私がいる。
   (例:「友だちができないから、私は学校に行けない。そう考える。)
<論理療法では> 人間の「悩み」は「状況・出来事」に由来するのではなく、
     その「受け取り方」に左右されると考える。
   (例:「友だちができないことは救われない事実だ」と思い込み、
       その結果「学校へ行けない」と自己規制して行動にうつした。)
 
 「受け取り方」は「考え方」(固定観念・人生哲学)ともいえます。変えることで「楽」になるということ。そして次に実際に「状況」も変えていくよう働きかけます。情緒的な面、現実的な面の両方ですね。まずは心のケアというか、たんなる受容ではなくて刺激を与えてあげるのです。「登校刺激」とかではありません。「あぁ、そうかぁ」と気づかせるというか目からウロコ状態になれれないちばんいいのです。
 
◆人間には思い込みがある
 人間にはどうしても思い込みがあります。固定観念というやつですが、特に「心理的ひきこもりに陥る気質」といわれるものは「おとなしい、まじめ、完全主義、神経質、感受性が 強い、気が弱い、責任感が強い、内向的」な人間だと報告されています。皆さんはこれにかなりあてはまりますか。こういう「正直でまじめ」な人間は、自分を追い込んで強迫的な考え方(不合理な思い込み)をもってしまいがちです。「あいつはカタイ」ってやつですからイメージしやすいですね。「融通のきかない人(正義、節操ある人)」ともいえるでしょうか。そういう人ががんじがらめにしばられている(自ら縛っている)、そしてそのしばりによって道が閉ざされ、自ら追い込まれていくという・・・。そういう「縛り」を解いてあげることが必要となります。それだけで「楽」になれる例はある。そういう「楽」にするためにする(相手のためを思っての)「指導」こそ必要ではないでしょうか。
 ちなみにこの「指導」は「論駁」でして言い含めるというか言葉で攻撃・否定するわけです。ですから相手との関係なしに一方的に強制でもって攻撃するのはどうかとも思います。しかしもともと教員が生徒を「攻撃」するという表現もどうかと思いますね。悪意や害意があって「攻撃」するなんてとんでもないです。そうでなくて、例えば勉強でも教えるとき「こうした方がいい」という考えがあって生徒に指導するのですよね。「悪意」なんてあるわけがない。そういう意味で「教育」的な相談方法なのです。
 ちなみに、自らを追い込む「強迫的な考え方」というのは「〇〇でなければならない」といった考え方です。そういうのが「固定観念」です。「必ずしもそうといえるのか?」というふうに刺激を与えます。
 例えば教員にもあります。授業中に私語があるとガァーっと怒る教師。これは「邪魔」とか「他の生徒のために」とも言いますが、それ以前に「話をきけ!」という怒りの感情はないでしょうか。「生徒は教師の話をきくものだ」というステレオタイプの思い込みがあります。ですから「そうしない生徒は悪い」となる。もっというと「そういう授業にならない自分は駄目だ」と感じてそれで反射的に情緒的に怒ってしまう。そういう反応・回路なんだと思います。そんなことよりも「生徒が私語をすることはありえる」、「どんないい授業でもありえるのだ」と実際的に考え、その上で「それで致命的ではない」「そんなことに怒るより私語をなるべくなくすようなそういう方面を考えていこう」と「楽」に考えていくべきです。
 また例えば、「友だちがいないから私は生きてる価値もない」と考えるのではなく、「友だちはそんなにかんたんにできるものではない」「難しい」「できなくても異常ではない」と考えて「本当に早急に必要なものか」ということも考えさせたりします。それから「いたほうがいいけれど」(必ずしも早急にいなければならないものじゃない)と考えて、じゃあ「ゆっくりつくっていこうか」という方向に考えさせていくべきなのです。普通の相談では「友だちをつくろう」と働きかけますが、できないから悩んでいるわけでして、そこには「論理的な納得」がないと思います。また「僕が友だちだ」ともなりやすいのですが、またそういう問題でもないと思います。相手のタイプによって違うと思いますが・・・。
 
★カウンセリング・スタンス
 基本的にはやはり信頼も必要です。しかし受容一方でまったくすすまないというのではなく、相手に自分の考えをぶつけていくこともしていきます。順序というか前提は「相談」「療法」です。相手のことを理解して、相手のためを思って、それで自分の考えを示してあげることもする、というわけです。自己肯定のための、また後には自己カウンセリングのための、そういう目標をもつものでもあります。ですから「自己の存在」(Being)に対して、「相手のことを理解する(共感的理解)」(Being in You)、「相手のためを思って(援助的立場)」(Being for You)、「自分の考えを示して(共に対等な人として)」(Being with You)という立つべきスタンスがあるわけです。
 
 難しいですかね。「プラス思考にかえる」でもいいのですが、また次回この内容を細かくやっていきます。
 
 以下は専門の著書にも書いてありますが、チェックシート式のカウンセリングの方法です。「固定観念」の部分をみつけるための方法です。
「固定観念」をみつける方法・相互理解の方法
@質疑応答方式・・・「自分自身に何と言ったか」「あなたならどうする」方式

Aチェック・シート方式(エンカウンター方式)

Bメンタル・ヘルス・チェック方式

C「できるかな」方式
  3分ぐらいで話す。(いつ、どこで、だれが、どうした)
   お題:1 うれしかったこと
      2 びっくりしたこと
      3 困ったこと
      4 さびしかったこと
      5 たいへんだったこと
      6 残念だったこと
Aチェック・シート方式(エンカウンター方式)
学生生活の中で、よかったこと、困ったことは何ですか?

 例:わかるあえる友だちができて            よかった。
                             よかった。
                             うれしかった。
                             びっくりした。
                             困った。

学生生活の中で、さびしいこと、悲しいことがありますか?

 例:仲のよかったか友だちが退学してしまって      さびしい。
                             さびしい。
                             悲しい。
                             たいへんです。
                             残念だ。
 
Bメンタル・ヘルス・チェック方式
あなたにあてはまる項目がありますか。そしてその理由は何だと思いますか。
□ どうもやる気がおこらない。                      
□ すべてに関してつまらない。                      
□ 毎日が憂鬱だ。                            
□ 自分に自信がもてない。                        
□ 友だちができない。                          
□ 試験前だが成績なんてどうでもいい。                  
□ だるくて朝、おきることができない。                  

     さん から       さん へ(アドヴァイス)
 
 お互いにこれを交換して支持しあうことができるんですね。次回、少しお話しします。