生徒指導 (第三回・4月27日)
またまた、しつこいのですが・・・また前回・前々回の復習をしながら本日の内容にはいっていきます。前回まででいいたかったことは・・・
(1)生徒指導とは?
@生徒指導のイメージ・・・「校門指導」(頭髪・服装・持ち物検査)、とりしまり、管理、のイメージ、「力づく」的イメージがあるのではないかということ。
A定義(文部省=文部科学省)・・・主に、いじめや荒れ、登校拒否(不登校)などに対応するために「必要」と論じているので、そのために「管理型」になる。そういう課題・問題・限界がある。
B生徒指導論は新しいもの・・・「生徒指導論」(と「特別活動」)は、昭和63年12月、教育職員免許法改正によって必修とされ、平成2年4月入学生から、教職単位の必修となった新しいものであり、ゆえに指導担当者・教材等まで課題が多いのだということ。
Cなぜ、「生徒指導」が必要となったのか?・・・1970年代から80年代に「教育荒廃」が社会問題視されだして、「子どもの荒れ」への対応が重要な政治課題となり、問題行動の把握のため、「消極的生徒指導」(かかわらない)から「積極的(にかかわる)生徒指導」へと方針転換があった。しかし「服装の乱れは、心の乱れ」という生徒指導観になった。
(2)生徒理解の理論と方法
@本来の生徒指導のあり方・・・児童生徒の生活体験や人間関係を豊かにする取組を充実するなど、生き生きとした学校づくりを推進ために、カウンセリング(counseling)としての教育相談が重視され、相手の悩みや問題についてよく聴き、その過程で分析、解明、援助をし、児童生徒自らが問題の自己洞察や自己解決を図れるようにすることが本来の目的である。生徒にとって学校が、「自己決定」の場と「自己存在感」、「共感的関係」を得られる「場」とすることが重要。この「自己」と「共感」こそが「わかる」ということでもある。
A「わかる」ということは? どんなことか?
教育とは何故必要なのか? どうして学校に行かせるのか? 一般の人がこれに応えるのは難しい。「決まりだから」「皆が行ってるから」という右へ倣え的なところが現実であろう。
<教育の目的>
| 成長=発達
→→ 個人の発達・成長のために養育と教育が必要である。これは人間が生理的に早産で、未熟なままに
生まれてくるので養育が必要となり、また成長が遅い(ゆるやかな)ことから教育が必要であるとされる。 |
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| 社会的統制機能
→→学校において教育を受けることによって、社会が平和に保たれるという考え方。a授業で知識を得て、教養が身につき、常識を知ることができる。またb友人関係などを通して、協調性や社会性が身につくという考え。ようするに常識と他人に迷惑をかけないことを学ぶということではないか。 |
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| 文化の伝達と再構成
→→学校ができる前から教育は文化の伝達をその目標としていた。例えば発明や科学技術。もっと簡単に言えば母国語。同じ日本語を喋って日本で育つから日本人であって、帰国子女等が感じる異文化体験・カルチャーショックなどはこれを理由とする。 |
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以上のことから、教育は有益であり、国家で国民に保障しなければならないと述べ、政治的に保障=制度化され、法令化されるのである。これは時代によって、政策によってかわることを意味する。(例えば戦争中ってひどかったらしい)
上の下線部学校abは、学校教育の中身を二つに分けて考えている。これは教育学では意図的作用、無意図的作用と呼ばれていた。
| 意図的作用(教授で知識を得る、理解力が増す)
→→こっちは授業の成果としてテスト等で評価がはっきりする。テキスト化しやすいので、教師の主な仕事はどうしてもこちら中心になる。こちらが重視されればされるほど、学力重視、学歴受験社会となりやすい。 |
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| 無意図的作用(友人との関係で協調性やリーダーシップを形成)
→→こちらは協調性=共感(他者理解)とリーダーシップ=個性(アイデンティティ)をつくりあげる人間関係の問題である。当然人間関係に点数はつけにくいから「見えにくい」ため、どうしても軽視される。 |
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*学校教育でどちらが重視されるかは明らかですね?
ちなみに、大昔は口伝による知識の伝達だけでよかったし、それで文化は伝承されていったが、コペルニクスやガリレオにより地動説などの宗教的な世界観を超える発想とそれを裏付ける世界航路発見などによって「国際」時代と変容し、その結果宗教観だけでなく社会観も変わっていった。文化が内部からグローバルなものに変わっていったのであり、そこで社会が「複雑」な国際システムに変容していきつつあった。するとそのシステムに基づく「社会規範」を身につける必要が発生しる。工場法などにみられる「教育の経済効果」的構想が出てくる。その意味で従前の社会に対して新しい「社会システム観」が出てきたのであり、宗教等により倫理観・規範ではなく、知徳による規制というかそういう「社会性」を身につけることが学校の存在理由ともなったのではないか。一般的に小・中学校をでて15歳になるのなら生理的には「元服」の年齢であり、女性の婚姻が許可される年齢にもほぼ同一する。そういう時期まで義務化された「公」教育の中に子どもを存在させておくこと、・・・「社会人」をつくるのが学校というものの役割ともいえますね。
すると「学習指導」とともに「生徒指導」が二本柱になるのも理解できる。人間関係を結んでリーダーシップを結ぶとか、そういう面を期待されるわけです。
そういう面がテキスト化しにくいものであるし無意図的なものであるのはわかる。だから「解法」中心の教育では置いていかれやすい。それでおきている問題というのもいくつかはあるのではないでしょうか。そういう意味でも、人間理解と生徒指導の方法は重要な教育課題となってくるわけです。
前回、絵で示した「わかること」をもう一度繰り返します。
A君とBさんが出会って会話をしている。これはA君の頭の中では二人のA君がいて、片方が「主体A君」としていて、もう片方が「仮想Bさん」の役目を演じている状態である。あくまでも仮想の会話なのである。正直いってA君にはBさんのことが完全にはわからない。またBさんにだってA君のことが完全にはわからないはずである。ある人=C君は「Bさんって嫌なやつだ、最悪だ」なんていったとする。A君もBさんのことをちょっとやなやつだなんて思ってたとする。これはBさんに対するA君とC君の共通理解=共感である。でも知り合ってみたら、A君にとってBさんは嫌なところもあるけれど、そんなに最悪なんてことはなく、彼女の良いところも見えてきたりする。これはA君とC君で言うところの二人の間での誤解であり、A君によるBさんの新発見だったりする。そしてそんなA君とつきあうことによってBさん自身も自分の意外な一面を発見してとてもいい子になったりする。新しい自分の発見である。
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A君と『B』というある本を読んだ。これはA君の頭の中では複数のA君がいて、一人が「主役」としていて、もう一人が「相手役」の役目を演じている状態である。他に複数の登場人物も仮定して想像する。あくまでも仮想の会話なのである。正直いってA君にはBを書いた人の意図が完全にはわからない。友人=C君は「Bって楽しい本だな」なんて感想をもつとする。A君もBのことを楽しい本だなんて思ってたとする。これは本『B』に対するA君とC君の共通理解=共感=共通の読後感である。でも何度か読んでいくと、A君にとって『B』は、たんに楽しいだけでなく、その中に秘められたかわいそうな悲しいところも感じてきたりする。これはA君とC君で言うところの二人の間での誤解であり、A君による『B』の新発見だったりする。これによって本『B』は新たな一面が発見されて、新しい解釈がされたりする。
以上のように、他者理解と物語理解などは個人の頭の中では同じ反応がおきているのである。理解とは個人内の主体的・客体的な二人の会話であり、誤解とは個人内での経験のズレと考えられる。これが一個人の内部で連続・繰り返されるのである。ある種の適応していく力、統合していく力であり、新たな出会いから新発見があったりする。
科学的思考の形成と同じである。仮定・仮説をたてて、それを立証していく。今までの経験から分析し、それから外れるものは(つまり理解の範疇を越え、経験にないものは)新発見である。言葉によって他者の体験を仮想の体験として理解することも可能である。このように人間関係を重視することは創造性を大きくしやすい。「教育とは人間理解が原点であり、人間が成長するということは自由を失うことではない」。本当の理解とは「開放しあう」関係ともいえる。
○完全な理解はありえない。
○しかし、完全ではなくてもわかりあうことはできる。
○カウンセリングで「わかる」というのは一方的関係ではない。
○「心を開放」して他者と「自己存在感」、「共感的関係」を結ぶことが「社会性」。
★ここでB生徒指導の方法論に入りたかったのだが、時間の関係上、今回は「具体的な方法論」を紹介するところで終わりましょう。
次の配布物をみてください。
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やってみましょう! (やってみましょうか!?)
サイコ・ドラマ
・・・即興の劇を演じることで、心理的に仮想(疑似)体験によってその状況を理解するという精神療法の方法論の一つ
タイトル 『不登校児童がいる家族の風景−朝−』
●家族の構成→父(女学生)、母(男学生)、お爺さんかお婆さん、子ども1、子ども2(子どものどちらかが不登校の設定、性別はどちらがどちらでもいい)、先生(生徒指導)
計・6人 (いちおう二世帯の家族を構想してみました)
※役柄の性格設定(キャラクター)・・・まかせます。話し合ってきめてください。
(例)母は心配。登校強制派。父は子育て放棄派、ゆえに母におしつける。でも子どもには甘い。祖父は「まぁまぁ」と言ってなだめる。弟は「みっともない」とクール。先生は熱血教師だけど強引。・・・等。
●ストーリー→(例)不登校になりつつある子が風邪のような症状で寝込んで3日目。その子は子供部屋にいて、残りの家族が朝食をとっている。親のどちらかが「その子はどうしたんだろう」と心配するところからスタート。あとは真に役柄を演じてほしい。家族の会話としてお互いに相手に話しかけて「ふって」ください。
流れとして・・・、(1)不登校の寝込んだ子を誰が起こしにいくか決めて、起こしにいく。すぐに起きて来てもいいし、でもぐずってもいい。そうしたら別の家族に起こしにいかせたり、心配して数人で見に行ってもいい。
(2)そこに、連絡を受けてでもいいし、学校に連れていこうとしてでもいいけど、生徒指導のための先生(担任でもいい)が家庭訪問してくる。親の相談を受けたり、子どもをよびに行ったりする。子どもも反応を演じてください。
※とにかく、なんで不登校になったんだろう? そう心配、悩むことを、劇の中で考えてみましょう。
ねらい・・・
感想・・・
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この「サイコドラマ」はいくつかねらいがあります。それは次回に説明します。また役割を演じてその感想レポートも提出してもらいます。あまり原理的説明だけでもあきてきますので、少し方法論やディスカッションも入れてみましょう。本来は「即興」でやることに意味があるのですが、あえて今回役者を決めておきたいと思います。次回休んだ場合にはその欠席者の部分にサブが入ります。大丈夫です。まずはやってみましょう。
第一ドラマ「不登校3日目の子のいる風景、朝食時」編
父:タカハシ、母:セキグチ(マサ)、祖父:ヨネムラ、不登校児:セキグチ(チ)、兄弟:カワダ、先生:ミネサカ、
第二ドラマ「不登校長期化の子のいる風景、朝食時」編
父:コヌマ、母:スギモト、祖父:ハナブサ、不登校児:コムロ、兄弟:カミオ、先生:アキモト
第三ドラマ「不登校長期化の子のいる風景、夕食時」編
父:ヨシエ、母:シシクラ、祖父:ツキオカ、不登校児:イノ、兄弟:シモザキ、先生:ヤマモト
サブ、もしくは近所の人、同級生、あるいは第四ドラマ役者
スズキ、フクミ、キシダ、ハセガワ、ササキ、ヨシナガ
ちなみに次回以降の資料レジュメもつけておきます。
B生徒指導の方法論
◆生徒指導のねらい・・・「すべての児童生徒それぞれの人格のよりよい発達を目指すとともに,学校生活が一人ひとりにとって有意義なものとなるよう,生徒指導の充実に努めています。 (中略・・・ 児童生徒の問題行動・学校不適応については,いじめを苦に中学生が自殺するという痛ましい事件が発生するなど、校内暴力及び登校拒否も増加傾向にあることなどをあげる) これらの原因・背景は,学校・家庭・社会それぞれの要因が複雑に絡み合っていると考えられ,この問題の解決を図るためには,学校・家庭・地域社会の一体となった取り組みが必要となっています。
文部省は,生徒指導について,(1)児童生徒の個別の問題行動に対する緊急の対応,(2)児童生徒の生活体験,人間関係を豊かなものとする積極的な視点に立った指導の充実の両面から・・・(中略)種々の施策を講じています。」
◆集団指導と個別指導・・・(1)生徒一人一人の日常をつぶさに観察すること、
と、(2)生徒個々の情報を多く得るように努めること
※「守秘義務」(地方公務員法 第34条)
◆一方通行では「説教」になる。具体的活動を通して集団活動を・・・。
・・・清掃や給食なども。
◆家庭、地域との連繋を図ること
◆カウンセリング・・・クライエント中心。座位置も対面しないなどの工夫。
※★受容、★繰り返し、★反射、★明確化、★直面化、★解釈、等
◆学校内カウンセリング・・・★カウンセリングマインドは困難
★カウンセリング担当教師
★養護教師
★スクールカウンセラー
※ 生徒指導としての学校教育相談
| | | 児童について知る活動 | |
| | | 理解活動 | | | |
学級担任が行なう教育相談 | | | | | 児童の気持ちを理解する活動 | |
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| | | | 消極的な援助活動 | |
| | 援助活動 | | | |
| | | 積極的援助活動 | |