生徒指導  第二回・4月20日
 
 (チャイム前からはじまる)前回、力みすぎて意気込みが強過ぎてうまくまとまらなかったので、今回は「脱力」していくことと、チカラを抜くことの意味という関係のない話しから始めた。チカラがあるから余計なチカラを抜くことが初めて効果がでる。そのために氷山の見えない部分ともいえるチカラをつける、学んでいくのだということをおせっかい的に述べた。
 
 前回の復習から、というか、果てしなくやり直しに近いのですが、もう一度まとめさせていただきます。前回「いいたかったこと」なのですが・・・。
 
 
(1)生徒指導とは?
@生徒指導のイメージ
・・・ドラマ『R-17』(学園ドラマ・スクールカウンセラーの物語)のシーンから
    →→「校門指導」(頭髪・服装・持ち物検査)、とりしまり、管理
     ・・・これも生徒指導  (女子校時代の校務分掌のことも言った?)
 
 
  ※こういう「力づく」的イメージはないだろうか。
    ちなみに校門指導等では有名なスローガンがあった。
  ★やはり「生徒」に問題があるとみているんですね。
 
  ※英訳もあやふや・・・? Education Guidance なのか、Guidunce for Junior High School Pupils なのか、School Guidance and Counseling なのか?
「ガイダンス」を「指導」と訳するのか。「カウンセリング」の「相談」とあわせて考えればもっと「支援」的なものではないのか。
 
  A定義 ★文部省(文部科学省)のホームページからコメントを紹介













 
 すべての児童生徒それぞれの人格のよりよい発達を目指すとともに,学校生活が一人ひとりにとって有意義なものとなるよう,生徒指導の充実に努めています。
 最近の児童生徒の問題行動・学校不適応については,いじめを苦に中学生が自殺するという痛ましい事件が発生するなど,いじめの問題が極めて憂慮すべき事態となっています。
 また,校内暴力及び登校拒否も増加傾向にあり,一方,高等学校中途退学者も相当数にのぼっています。
 これらの原因・背景は,学校・家庭・社会それぞれの要因が複雑に絡み合っていると考えられ,この問題の解決を図るためには,学校・家庭・地域社会の一体となった取り組みが必要となっています。
 文部省は,生徒指導について,(1)児童生徒の個別の問題行動に対する緊急の対応,(2)児童生徒の生活体験,人間関係を豊かなものとする積極的な視点に立った指導の充実の両面から,生徒指導資料の作成・配布,生徒指導講座等の教員研修の実施や,教育相談活動推進事業の実施など教育相談の充実,学校における「スクールカウンセラー」の活用についての調査研究,国立教育会館へ「いじめ問題対策情報センター」の設置,登校拒否児童生徒の適応指導教室事業,児童生徒を豊かな自然環境に移動させて行う集団宿泊活動を通じ,心身ともに調和のとれた健全な育成を図るための自然教室推進事業や奉仕体験,生活体験等の体験学習を推進するためのいきいき体験活動モデル推進事業,道徳教育の充実等種々の施策を講じています。













 
→→主に、いじめや荒れ、登校拒否(不登校)などに対応するために「必要」と論じて   いる。→→だから「管理型」になる。そういう課題・問題・限界がある。
 ★文部省がなんと言ってきたか→日本の教育の正式な生徒指導観
                    (たぶん日本の独自なものって言ったかな?)
 
 B生徒指導論は新しいもの
 *教職に関する科目(免許法施行規則に定める科目区分等)<現行法>












 
 科 目 各科目に含める必要事項単位
教職の意義等に関する科目・教職の意義及び教員の役割、教員の職務内容、進路選択に資する各種の機会の提供等
 
教育の基礎理論に関する科目
 
・教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想

 
・幼児、児童及び生徒の心身の発達及び学習の過程
・教育に関する社会的、制度的又は経営的事項
教育課程及び指導法に関する科目
 
・教育課程の意義及び編成の方法、各教科の指導法

 
・特別活動の指導法
・教育の方法及び技術
生徒指導、教育相談及び進路指導等に関する科目・生徒指導の理論及び方法、進路指導の理論及び方法
 
・教育相談の理論及び方法(カウンセリングの基礎知識含む)
総合演習 
教育実習 












 
 
 教職の科目については昔は「教育原理」「教育心理学」「教育社会学」ぐらいが必修であとは「法規」「歴史」等が選択であった。(もちろん各「教科教育法」はあった)
 「特別活動」と「生徒指導論」は、昭和63年12月、教育職員免許法改正によって必修とされ、平成2年4月入学生から、教職単位の必修となった。
   →→→新しいもの、ゆえに指導担当者・教材等まで課題が多い
 
 
 Cなぜ、「生徒指導」が必要となったのか?
 高度経済成長の時代、バブル期全盛に向けて、都市化・核家族化等の問題や受験激化等もあってか「教育荒廃」が社会問題視されだした。1970年代から80年代に「子どもの荒れ」への対応が政治課題となった。そこで中央教育審議会ではだめだとなって、内閣総理大臣直轄の臨時教育審議会での改革路線となった。「重要課題」となったということ。
 ・・・そこで、「社会の変化や児童生徒の多様化への対応の必要・・・豊かな生活体験と人間関係を。自己教育力の育成、基礎基本の重視と個性を生かす教育の充実」などが要請された。・・・これは、平成元年学習指導要領改訂に反映されている。
 →心身の未発達や幼児性人格、ひきこもり等の問題→→問題行動の把握のため
      「消極的生徒指導」→「積極的生徒指導」へと方針転換があった。
 ★これは、「消極的にかかわらない」ことから「積極的にかかわっていく」という方針の転換です。
 
 ただし、ここまで見たように新しいし、何をしていいかわからない。カウンセラーもいなかった。それで→「服装の乱れは、心の乱れ」→そういう生徒指導観になっちゃった?
 
 ★昨日の「R−17」で辞職になった体育教師がさいごにいう台詞にそういう指導観があらわれていると思います。
  台詞(体育教師)「あいつらはあまやかすと増長するんですよっ(怒)!」(捨てぜりふ)
 
 
 
 
(2)生徒理解の理論と方法
@本来の生徒指導のあり方
 
文部省 昭和62年12月「教育改革の推進−現状と課題」第二部「教育改革の取組み」






 
エ 生徒指導の充実等・・・児童生徒の問題行動の根本的な解決を図るためには、個別の問題行動への対応とともに、児童生徒の個性を伸長し、社会性を涵養し、豊かな情操を培うことができるようにすることが大切である。
 このため児童生徒の生活体験や人間関係を豊かにする取組を充実するなど、生き生きとした学校づくりを推進し、一人一人が充実感をもって学校生活を送れるようにすることが必要である。このような観点から、今後とも、前述の中・長期的な視野に立った施策の一層の充実を図る必要がある。






 
 
 
教員養成基礎教養研究会、高橋哲夫、原口盛次、井上裕吉(編)『特別活動研究』教育出版、1992年(27〜28ページ)






 
児童生徒の当面する生活や、心身の発達過程上の諸問題を有効適切に解決することであり、究極においては自己指導(Self-direction)能力を育て、児童生徒を有能な生活行動者、健全な人格の持ち主に育成することである。その過程での集団指導、個別指導が考えられる。特に生徒指導では「カウンセリング」(counseling)としての教育相談が重視される。カウンセリングは一対一で「話し合う」とか「相談する」ことであり、相手の悩みや問題についてよく聴き、その過程で分析、解明、援助をし、児童生徒自らが問題の自己洞察や自己解決を図るようにすることである。
 
 ★文部省も基本的には「経験で自立を」と言っているしそのための「生活習慣」を考えるべきと言っているんですね。そして「カウンセリング」という方法も注目されてくる。
 ただし個人カウンセリングやグループでもやりますが、カウンセリングが即「生徒指導」というのではないです。それも問題がある。
 まず「カウンセリング・マインド」とかいわれますが成績評価をするのが、学力をつけるのが教員だとしたら、相談をきいてあげることや距離感によってそれが難しく、単純にいえば「好き嫌い」との狭間での葛藤がでてくると思います。カウンセリングは必ずしも万能ではない。それに「カウンセリング」重視によって、イメージ的に治療というか療法的に考えられてしまうようになることも危惧します。「指導」=「療法」ではない。
 
 「生徒指導」とは、本来、学校教育において児童、生徒の心を育てるための理念・理論・機能・方法を統合したものでして、「学習指導」と並ぶ学校教育の二本柱の一つのはずです。そういうものなのですね。
 ●問題解決型(事後処理的)な生徒指導ではおいつかないとなってきた。それで「積極的予防的な生徒指導」に打って出る・・・。ところが、「管理」型指導になってしまった。
 「自己決定」の場と「自己存在感」、「共感的関係」=「わかる」ということ それが本来は必要なのですね。
 
 ※本来は、School Guidance and Counseling のはず。でも「管理」取り締まり中心になる。これは他にもあることです。「教育」という言葉の意味を『広辞苑』で引くと、「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」とあるわけです。「教える」というベクトル。トップダウン型ですね。ところが英語ではeducationなわけですが、辞書で「educe」という言葉をみると、「潜在する性能を引き出すこと」とある。これが「教育原理」などで説かれる「教育」の本来のあるべき姿ではないでしょうか。日米との違いは前回もお話ししましたね。
 
 日本的な現状ということでは、社会学者の森田洋司先生とかの著書に詳しいのですが、問題行動の「いじめ、不登校」の国際比較でもそういう違いが顕著であるというのですね。
例えば「いじめ」は米国では「もはやBoy'sの問題だけではない」と言われるのですが逆説的に男の子の問題だったのですね。グラウンドとか公の見えやすい場所での「からかい」「いびり」的なものが多かった。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のシーンなんかにありますね。がき大将ビフがマーティーのお父さんになる人を・・・。
 そして女の子が「やめなさい」なんて言って戒めるとはずかしいからといじめが終わるようなイメージ。これはあくまでもひとつのイメージですが・・・。それにイギリスでは生徒たちで自治的にいじめをなくそうなどの試みとか、そういうものもある。他にもありますが今後紹介していきます。
 日本は「陰湿」な「深刻」なイメージがありますね。なぜかというと「隠れている」からですし、「見えにくい」からなんですね。ではなぜ見えにくいのか・・・。それに教育観や生徒指導観が影響しているのではないかと仮説をもっています。そういうことも今後つきつめていきたいです。
 
 さて、そういうふうに「管理」的であるにしても、それは「わからないから」「わかりたい」となって生徒指導というものが行なわれるようになってきたのですね。カウンセリングにしてもなんでも、ようするに「生徒理解」が重要な問題になっているわけです。それで、では「わかる」というのはどういうことなのか、そういうことについても考えてみましょう。
 
  ★「わかる」ということは? どんなことか?
 結局は「わかる」ということはなんなのか。理解できない不安、わからないからという不安があって、「わかりたい」と考えられた。それでカウンセリングの必要性や、あるいは一見それと反するような「生徒指導」が行なわれるようになった。行動に関わることと、ある程度のしつけをともなうようになった。
 「わかる」ということ、人間を理解するということは可能なのでしょうか。他人を「わかる」というとき、他人と「かかわっている」とき、そこにどのようなことがおきているのかを簡単に考えてみます。
 ちなみにまたドラマですが「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」というのがありましたが、その最終回で窪塚ヨウスケ君が卒業生代表としてスピーチをして、そこで「僕たちは愛されるために生まれてきました・・・」とやって感動をよぶんですね。その中で「僕らは自分の中にもうひとりの自分がいて」、それを「自分の最高の友だち」にしてしまって、ようするに他を顧みないことがある。それではだめなんだと・・・。そういう「心の内面」というか複雑で何か愚劣な感情までをも含めた内容だったと思います。さすがは野島シンジさんだと思いました(つくった人ですね)。
 実はこの「ことば」はまさにあてはまるかと思うのです。
 私がアキモト君と知り合う。会話する。そして理解する。そこでどういうことがおこっているのか、「理解」とはどういう回路でおこっているのか、そういうことを考えてみましょう。
 (黒板に「絵」をかいて説明しました。)
 
他者理解
  と
自己表現


 
  同一化
   と
 自我の形成

 
 
(読後の)共通理解
    と
  個性的な読み


 
わかること
   と
 創造性


 
 
 私とアキモトくんが会話して理解しあっていくこと。この時、私の頭の中ではこの「光景」どおりに二人の人物がいて、片方が「主体の私」としていて、もう片方が「仮想アキモトくん」の役目を演じている状態で、あくまでも仮想の会話なのである。正直いって私にもアキモトくんにもお互いのことが完全にはわからない。
 でも読書の読後感想を語り合うのといっしょです。ある本を読んだ。共通理解=共感=共通の読後感をもつこともある。しかし何度か読んでいくと、感想は変わってくることもある。他者とは違うことを読みとることもある。それは「誤読(ミスリード)」というよりは「自分なりの独自性」ですね。誤解というよりは新発見だったりもする。これによって新たな一面が発見されて、新しい解釈がされたりもする。
 
 以上のように、他者理解と物語理解などは個人の頭の中では同じ反応がおきているのである。理解とは個人内の主体的・客体的な二人の会話であり、誤解とは個人内での経験のズレと考えられる。これが一個人の内部で連続・繰り返されるのである。ある種の適応していく力、統合していく力であり、新たな出会いから新発見があったりする。
 科学的思考の形成と同じである。仮定・仮説をたてて、それを立証していく。今までの経験から分析し、それから外れるものは(つまり理解の範疇を越え、経験にないものは)新発見である。言葉によって他者の体験を仮想の体験として理解することも可能である。このように人間関係を重視することは創造性を大きくしやすいともいえる。多様性を知るという効果はあるし刺激がある。
 
 ○完全な理解はありえない。
 ○しかし、完全ではなくてもわかりあうことはできる。
 ○カウンセリングで「わかる」というのは一方的関係ではない。
 ○「心を開放」して他者と「自己存在感」、「共感的関係」を結ぶことが「社会性」。
 
 そういうことをいいたいのですね。誰だって完全に自分のすべてをある他者に話したりはしないのではないか。またその話された一面ですべてを理解するのは難しいのではないか。だとすれば人間理解は「難しい」という限界を知るところからはじめて、深めていくことが必要・重要であり、つまり「わかってほしい」と思わせる関係づくりと安心(信頼)の関係を築いていくことが肝要となる。
 そのためにそういう関係を築いていく方法、どういう段階や過程があるのか、あるいはサインがあるのかということを考えていくことが必要ですね。時間が足りないのであとは次回に・・・。