教育制度論G(11月16日)

 今回のはじめに・・・閑話休題

公共性と制度
 →以前に日本は狂牛病対策でまさに「制度」が不備というか国民のためにあるのか疑問だと述べた。それは「そういうみかた」を述べただけであり、他の考え方もありえるだろう。やはり狂牛病についてはあの後も問題がでてきた。結果的には思っていたとおりに「不安」の残るものとなった。

 →考古学会のことも話したが、やはりほとんど遺跡が疑惑という結果になった。10月末にまとめられた見解を読んだが危惧したとおりであった。もちろんここで「どうだ、あなたたちは間違っている」などとはいえない。これはどんな組織も抱えている問題で、おそらくたまたま私が関わっていないだけにも等しいと思っているのだ。それも批判的とはいってもなにも「制度改革」にはならない。何が問題なのかを考えてみつけることが重要なのだから。政治家が疑惑を否定してあとから秘書がやったという構造だってありえる。そういうふうになったとき、その行政なり学界なりのシステムは国民のためにはなっていない。

 →アフガニスタン問題に終焉が近づいてか、「タリバン」後の政権構想なども記事になってきた。しかし何がよくて、何が悪いのかは与えられた情報からしか読めないのだとすれば、情報の信憑性や権力性にも注意が必要となる。以前に言ったように姉はタリバン誕生の布石となったソ連軍事侵攻時のアフガン高校生であったが、「国」は変わった。もちろん「制度」も変わった。姉のような留学生もいないし、女性の学生もいない。そして内戦・紛争が続いた。ちなみに、資料の絵(Jダワー『敗北を抱きしめて』70ページ)は「天降る贈物」というイラストであるが、戦後の日本に連合国から「民主主義」制度が導入されたことを、「パラシュート」でものが投下されている風刺画にしてあらわしたものである。この絵が示しているものは、それまで戦時中には爆弾が投下されていたのであるが、もう戦争では「本土空爆」という戦場にされた方がほとんど壊滅的打撃を受けるのはあたりまえなのですね。で、爆弾が投下され、次には制度改革が投下される。「自由」や「革命」という更新のチャンスが与えられたことでもありますが、しかし「上から降ってくる」ものなのですね。ちなみにいまのアフガンでも同じシーンが情報として流されています。爆撃と、そして食糧等の救援物資の投下。どちらにも「米国」の国旗が描かれている。複雑です。それは他国に降らせるものなのか。
 ちなみに新政権は多民族をテーブルにつけての話し合いが構想されていますが、しばらくは安定するまでは米国等が駐留することになるのでしょうか。すると近隣のイラクやイラン等と、あるいはパレスチナ等の問題が次におきるはずです。さらに当然のようにタリバン系はテーブルにつかせないでしょう。なぜ、そもそも話し合いではなく爆撃になってしまったのか。それは攻撃を受けたからだというのもわかります。しかし布石はあった。さらにいうと(以下、略)

 

 もういちど・・・

「教育制度」、「システム」という言葉(意味)について









 

 

 ・・・ピンクの外枠は「社会の価値観・ルール」であり、例えば「学校教育」というシステムは、まさに社会制度として上の図のようにあると考えられる。あるいは「教職免許」の制度については次のようになる(これまでにも説明してきた)。









 

 

  ・・・とにかく、全体のための一部であり、全体あっての部分でもあり、しかしまた、部分なくしては全体の秩序体系に変化を及ぼさずにはいられない。ゆえに個人の集合である社会全体の安定のためにシステムはあるのである。

 だから、ある種、生物・生命体のようである。しかし、これが「制度一人歩き」の原因である。組織や制度は生き物ではない。社会とは「共通のルール」によって規制され価値を決定するという空間でもある。そのルールに則って競争なりしてステップを踏んで得たものを周囲から認定され祝福されて、それが自分にとっても価値になるのである。動物なら食べて子孫をつくってのくりかえし、しかし人間は趣味だとか仕事だとか肩書だとか学歴だとかブランドだとかスポーツだとか知人だとか、そういう「社会でつくられた価値」を得ることを求めて生きているという方向性もある。以上の説明は少し哲学みたいなもので難しいかもしれないが、ようするに「制度」とは「公共性」をもとにつくられ、そしてズレがでてくるのだからそれに際して変えていくべきもので、しかしできるだけ大きく変えないようにシンプルな安定した存在であるべきというのが理想なのである。なぜなら「公共性」はやはり市民一人一人がなるべく納得できるものに近くあるべきで、遠くなったり、関心がなくなったりすると、もう自分たちが知らずに支配・規制されるだけになるからである。勉強が必要だし、なるべく最大公約数的なものがいい。そして変えないけど、変えるならば「話し合い」をしていくことが大事で、それがさきほどのアフガンの話しであったり、狂牛病の話しであったりするわけで、もう関心もないし、席につくという慣習もないのですね。それではなにも実現の可能性はありません。そういう「実現可能性」をめざして、何が問題なのか、そうしていくべきかを「考えていく」ことがこの講義の目的です。

 

 

6、入試制度と成績評価による「教育現場」への影響(続)

 前回・・・

  時間的には                実際には(優先順序)

<テスト>
   ↓
<通知簿> (学期ごと)
   ↓  →<内申書>→『入試』
<指導要録>
(学年ごと、全部)



→→

 

<内申書>→『入試』
   ↓ 
<指導要録>内申書や文部省・教委の指導(縛り)
   ↓
<通知簿>←→<テスト>





 

 

・・・本来「時間的順序」としては各テストの総合の上で学期ごとの評価がきめられて、それが「通知表」となる。その全学期分の合計が評価されて「指導要録」として学年ごとにまとめられる。それが3年3学期間の分までまとめられて、その生徒の成績として例えば保存され(20年間)、必要があれば証明書も発行できる。なお、途中の3年生2学期までの成績を「内申書」として作成する。あくまでも2学期までの評価である。だからその後の3学期の評価もあって、最終的な「指導要録」は変わりえるし、指導要録というのがその人の成績の評価として集大成ともいえるはずである。

・・・しかし、実際には、内申書というものが5段階評価で人数比も決められていて、またほとんどの生徒が高校へ進学する現在ではこの内申書の作成というのが極めて重要な位置をしめるようになってきている。なお、内申書と成績が、つまり指導要録に記載する数字などの評価(これはつまり通知書の総合でもある)があわないと重大な問題になる。そのため内申書の存在によって文部省や教育委員の指導もあってしばられることになる。するとある時期から進学・進路を意識しはじめればもう内申書にしばられながら学期ごとの評価をして学年ごとの評価を考えずにはいられなくなる。普通のテストはあくまでも公平に評価をしたというあかしにしかすぎなくもなる。客観・相対評価になって個別評価はありえないものになる。

 


明治以降の近代学校制度・試験制度・入学関係の重要項目・略年表
 1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
    (明治元)年 皇学所、漢学所の設置
 1869 (明治2)年 教育行政機関「大学」の設置。小学校設立の奨励
 1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布。大学南校に貢進生を入学させる。
 1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成)
 1872 (明治5)年 「学制」制定。<試験>による進学制度を定める。
 1873 (明治6)年 東京師範学校で米国式の教育課程(小学教則)を定める。
 1875 (明治8)年 開成学校の生徒を海外留学生として派遣。
 1877 (明治10)年 東京大学設置。第一回卒業式で学監Murrayが「試験」について演説
 1879 (明治12)年 「教育令」公布(いわゆる自由教育令)
 1880 (明治13)年 「教育令」の改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化)
 1881 (明治14)年 「小学校教則綱領」制定(修身の重視)。<学籍簿>の作成を通達
 1885 (明治18)年 「教育令」の再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策)
          森有礼、初代文部大臣に就任
 1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
          「教科用図書検定条例」(小中学校の教科書検定制度
 1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
 1891 (明治24)年 「小学校教則大綱」制定、説明中に<小学校の試験は教授上の参考の          ためと卒業の認定のためのもの>とある。
 1894 (明治27)年 「尋常中学校入学規定」を定める。高等小学校2年修了以外のものに          ついては試験による学力検定を定める(入学試験)。(日清戦争)
 1896 (明治29)年 帝国大学、初めて入学試験の規定を設ける。(翌年、実施、2人対象)
 1899 (明治32)年 帝国大学卒業式に天皇が出席、優等卒業生に銀時計を授ける
 1900 (明治33)年 高等女学校等での定期試験廃止
         「小学校令施行規則」で卒業認定に試験ではなく平素の成績を「考査」         することが規定。学籍簿への<学業成績>記入義務づけ
 1902 (明治35)年 高等学校の入試に総合選抜制を採用。
 1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立 
 1908 (明治41)年 高校入試の総合選抜制廃止
 1917 (大正6)年 高校入試の総合選抜制復活
 1919 (大正8)年 高校入試の総合選抜制、再び廃止
          入学資格は尋常中学校5年卒業程度から4年修了程度に改められる。
 1925 (大正14)年 官立高校の入学試験を二班制とする。
 1927 (昭和2)年 「中学校令施行規則」改訂。入試準備の弊害除去のため選抜は内申書          と人物考査、身体検査によることを訓令
 1929 (昭和4)年 大阪で「内申書」偽造事件が発覚。
 1938 (昭和13)年 文部省、学籍簿成績の10点法による記入を指示。
 1939 (昭和14)年 文部省、翌年の中等学校入試での学科試験撤廃を通達。
 1941 (昭和16)年 文部省、学籍簿・通知簿の成績は「優良可」で記入するよう定める。          高校入試にアチーブメントテスト導入
 1943 (昭和18)年 府県による<成績評定の割合を一律にする規定>の廃止を通達。
 1948 (昭和23)年 官立高等・専門学校入試「進学適正検査」を全国一斉実施。
 1949 (昭和24)年 文部省、<学籍簿>を<指導要録>と改める。
        国公立大学受験者は全国一斉の<進学適正検査>を受験することとなる。
 1949 (昭和24)年 大学<進学適正検査>廃止
       <指導要録>を「外部に対する証明等のために役立つ簡明な原簿」と規定。
 1958 (昭和33)年 学習指導要領が官報告示となる。
 1961 (昭和36)年 文部省、第一回全国一斉学力調査(小中高)を実施。
 1963 (昭和38)年 財団法人能力開発研究所、第一回学力テスト・進学適正能力テスト
 1979 (昭和54)年
 第一回国公立大学共通一次試験実施。
  ※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。
 

 明治14年の下線部「学籍簿」は「指導要録」の前身である。ここまでだんだんと学業奨励のためなどに試験がすすめられ、進学や努力、あるいは学力や学歴が立身出世(社会的立場)に直結するものと考えられたからその奨励・顕彰がすすめられた。ちなみにこの後ぐらいから教科書検定制度がすすんで国定制度へと、教育内容の規制が強められていく。しかし一方で「教育勅語」体制のように「臣民」という国民づくりの方が優先され、学力競争の加熱にはすすまなかった。1891(明治24)年下線部のように「参考のため」にとなり、楽にしようという動きがあったのである。明治30年代に甲乙丙丁の評価になった(資料「学校よりのたより」:別紙配布)。前回みたように1900年には「試験ではなく平素の成績を『考査』」となったのである。なお同年「学籍簿」に成績を記入することが義務づけられた。ある種、標準点評価となったのである。大正時代を中心に進学熱が高まっているので様々な選抜制の試みがあった。こういった反動もあってか1927(昭和2)年には下線部のように「入試準備」の「弊害」があり、そのために「内申書」中心の方式が考えられたのである。受験勉強中心とテスト一発で決まるということの弊害に対して、日常の努力や人物考査を加えて評価するように構想されたのであった。しかし翌々年には偽造事件も発生する。これは内申書にかえた弊害です。実際に内申書というものが大きくなれば、皆さんにアンケートで答えてもらったように内申書でしばる教師や縛られて偽る生徒、親、そもそも好き嫌いや公平性といった問題がでてくるでしょう。

 しかし、これを改正するとしても、それがどんな制度でもなにかしら問題が出てくる危険性はあるわけです。これまでの改革も対症療法的ではあるけれど、改善をめざしてきた。しかし、やはり現実にはなんらかの問題が生じないではいられないわけです。

 だったら何をやっても同じとなりますが、そうではなくて、その「制度」には何らかの目的があったはずです。その目的には効果を示す可能性が高い。しかし細菌ではないけれど、人間と慣習との関係のように慣らされて適応していくものなのですね。それを考えながら、常に大きくは「公共性」のためというのを考えながら、大きくではなくてどう変えて、どうあるべきなのかを考えていくべきと思います。

(資料「舎中条規」の休日や生徒規則、授業時間をみて、それが社会慣習になっていくことと、文化がつくられていくことをみた(略))

 

★アンケートの結果

 高校時代に「受験」がどのような意味をもっていたか?

□規制された12人(〇高校生活の最終目標・将来が決まる 9人、〇勉強しなくてはいけない 3人)
□良かった2人(〇勉強する目標になった、〇競争意識をもてた)
□ふつう7人(〇苦ではなかった 2人、〇あまり関係はなかった 5人)
 □他 1人

 

 どのくらい勉強したか(時間・量)・・・複数回答

〇学校以外の機関に学んだ 6人、  〇機関にはいかないが特別に勉強した 3人、
□個別にやったこと(〇解法の練習 2人、〇暗記 3人、〇ドリル 2人、〇論文3人)
□時間/一日(〇4時間、〇5時間、 〇8時間2人、〇9時間、〇特にしていない 5人)

 

 具体的に参考になる受験勉強法はあったか?

〇予備校の政治経済の授業が元新聞記者のため多様な視点を学べた、 
〇予備校で受験テクニックを教わった、 〇ごろあわせの記憶法 2人、〇年号を歌で教えてくれた

 

 入試や受験の問題点はなにか?どのようなものが理想的か?

〇それだけにとらわれて人間性が育たない、 〇悪問はやめてほしい、 〇面接だけでは本当にはわからない部分もある、 〇受験科目が入学後役立たない、 〇受験科目だけが優先される、 〇大学に入ってからが問題、 〇暗記ですむ教科・試験が問題、 〇学校を選ぶのもランクに頼っている、〇応募者数と募集数の差、
〇受験科目を増やすべき(商学部なら経営や商法などを)、 〇入学をできるようにして卒業を難しくするべき 2人、 〇自分の考えを述べるもの 2人、 〇AO入試、 〇若い時には苦労も必要なのでいまのままでもいい、 〇多様になってきた(得意科目、面接重視、個性) 2人、