教育制度論F(11月9日)

 前回までの復習・・・学習指導要領の改訂が意味するものとは?

1、戦後の教育改革と6・3制学校システム
→日本は戦後、民主主義教育が推進され、日本国憲法の下、教育基本法、学校教育法が定められ、新学制として「6・3制」制度が整えられた。

2、戦後の教育課程(教育内容)の変遷
→学習指導要領の成立と変遷を見ると、教育観のゆれうごきをが見られた。「学習指導要領」は全国の学校における教育内容の質を保証する役割をもつが、いくつか矛盾・問題点もみられた。
 @成立時と違って、「法的拘束性」が途中からの方針転換で付されて、そのことが現場に矛盾構造をつくっていること。Aその影響もあって「天皇、国歌、国旗、等」の世界で論争されることに、あえて特定の立場や解釈や価値観が採用された箇所がみられるがこれは憲法、教育基本法に則して作成されたはずだが、根本原理や精神に抵触しているのではないか。B「指導・助言」文書であるはずが、あたかも、上から命令し忠実な実行を求める「指示・命令」文書であるかのように、「〜すること」という方向と「〜しないこと」という方向との両面から、事実上の規制が加えられていること。、「特性を考慮」したり、「創意工夫を生か」す予知が極めて狭められていなかったか。C個性化・国際化・情報化のキャッチフレーズ強調にもかかわらず、その内容・方法の中には結果としてねらいにそむいていないか成績能力差や英語教師の雇用や情報機器の購入というものの「準備」が「免罪符」となっているのではないか。

4教育改革推進の社会的背景、臨教審答申の基本的立場
 1982年中曽根内閣成立後(翌年)のロン・ヤス時代に「つめこみ」「学歴社会」への批判も強まり、教育の崩壊現象(いじめ、暴力ら)が問題視され教育改革が着手されたが、「社会・経済の発展」が重視されたから必然的に崩壊や問題は子どもと教師の責任にされた。そして「自由化」は民活導入であって「生徒の自由」ではなかった。しかもこの後の改革が同じ路線ということは効果がなかったという一面でもある。空白の90年代を象徴する改革と考えている。基本的に現行の改革もよく似ているので注意が必要。

5さらなる改訂(教育内容の厳選・精選と学力低下問題)
この改革については後半の授業でみていく。

<矛盾>として

  ・個性化児童の個性的発達をいうのか、それとも能力差(個人差)にそった分断

        的個別指導となるのか。

 

→→「個性を大切にすべきだ」という願いに、こういう反応をする。それで対応したという。

 

  ・国際化地球的レベルでの国際連帯実現の担い手か、それとも日本の国益を最優

        先させ、国際経済競争に勝つ日本人の育成をめざすのか。




 

→→NGOとか国際人コスモポリタンとかの活動はあるが、それは競争に勝つということとは違うのではないか。グローバルスタンダードの裏にある「国益」という二面性については米国や日本をみれば学ぶことが多いが(いい意味ではなく)。英語の時間を増やすとか入試にいれるとかではなく、「いいもの」にすることを考えるべきであろう。

 

  ・情報化情報についての教養と情報機器の使用技術・技能を育てるのか、それと

        も受動的なコンピュータ操作にとどまるのか。


 

→→これが難しいが、ただただコンピュータ必修にするのか。どう教えて身につけてもらって何にいかしていけるのかが本質。

 

 

 6、入試制度と成績評価による「教育現場」への影響


 

質問;学校での成績といえば・・・
答;テスト、 通知表、 内申書

 テスト→中間・期末テストなど。点数がつけられて評価される。家に持ちかえって親もみたりする。「市販テスト」「業者テスト」などもあり、偏差値がはかられる。

 

 通知表→学期ごとの成績評価。学校にもこの成績は保存されていて就職の際の「成績証明」が可能となる。しかし保存されるのは「指導要録」という公文書(教育委員会が書式を定める)である。通知表はその意味では生徒サイドが所持する文書。

 

 内申書→入学試験・選抜のための資料。正式には「調査書」「報告書」など。入試を公平にするために内部での割合が決められている。相対評価になる。ちなみに入試には3年2学期までの成績が必要であり、これが要録よりも前であるのに優先されるようになる。そして受験が一般化するに従いこれをゴールとしてあわせて相対的に評価が行なわれていくことになりかねない。

  時間的には                実際には(優先順序)

<テスト>
   ↓
<通知簿> (学期ごと)
   ↓  →<内申書>→『入試』
<指導要録>
(学年ごと、全部)



→→

 

<内申書>→『入試』
   ↓ 
<指導要録>内申書や文部省・教委の指導(縛り)
   ↓
<通知簿>←→<テスト>





 

 

 次のことを考えてみよう

  なぜ、「内申書」が重視されるようになったのか?

  「内申書」はなにをみるためのものなのか?

  「内申書」や「入試」はどのような影響を生徒や教師・学校・親に及ぼしているのか?

  AO入試などの新方式は大丈夫か?

 

 ※まさに制度によって規制されて変容していったとも思えるが、どうしてそうなったのかを歴史的にみてみたい。


明治以降の近代学校制度・試験制度・入学関係の重要項目・略年表
 1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
    (明治元)年 皇学所、漢学所の設置
 1869 (明治2)年 教育行政機関「大学」の設置。小学校設立の奨励
 1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布。大学南校に貢進生を入学させる。
 1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成)
 1872 (明治5)年 「学制」制定。<試験>による進学制度を定める。
 1873 (明治6)年 東京師範学校で米国式の教育課程(小学教則)を定める。
 1875 (明治8)年 開成学校の生徒を海外留学生として派遣。
 1877 (明治10)年 東京大学設置。第一回卒業式で学監Murrayが「試験」について演説
 1879 (明治12)年 「教育令」公布(いわゆる自由教育令)
 1880 (明治13)年 「教育令」の改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化)
 1881 (明治14)年 「小学校教則綱領」制定(修身の重視)。<学籍簿>の作成を通達
 1885 (明治18)年 「教育令」の再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策)
          森有礼、初代文部大臣に就任
 1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
          「教科用図書検定条例」(小中学校の教科書検定制度
 1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
 1891 (明治24)年 「小学校教則大綱」制定、説明中に<小学校の試験は教授上の参考の          ためと卒業の認定のためのもの>とある。
 1894 (明治27)年 「尋常中学校入学規定」を定める。高等小学校2年修了以外のものに          ついては試験による学力検定を定める(入学試験)。(日清戦争)
 1896 (明治29)年 帝国大学、初めて入学試験の規定を設ける。(翌年、実施、2人対象)
 1899 (明治32)年 帝国大学卒業式に天皇が出席、優等卒業生に銀時計を授ける
 1900 (明治33)年 高等女学校等での定期試験廃止
         「小学校令施行規則」で卒業認定に試験ではなく平素の成績を「考査」         することが規定。学籍簿への<学業成績>記入義務づけ
 1902 (明治35)年 高等学校の入試に総合選抜制を採用。
 1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立 
 1908 (明治41)年 高校入試の総合選抜制廃止
 1917 (大正6)年 高校入試の総合選抜制復活
 1919 (大正8)年 高校入試の総合選抜制、再び廃止
          入学資格は尋常中学校5年卒業程度から4年修了程度に改められる。
 1925 (大正14)年 官立高校の入学試験を二班制とする。
 1927 (昭和2)年 「中学校令施行規則」改訂。入試準備の弊害除去のため選抜は内申書          と人物考査、身体検査によることを訓令
 1929 (昭和4)年 大阪で「内申書」偽造事件が発覚。
 1938 (昭和13)年 文部省、学籍簿成績の10点法による記入を指示。
 1939 (昭和14)年 文部省、翌年の中等学校入試での学科試験撤廃を通達。
 1941 (昭和16)年 文部省、学籍簿・通知簿の成績は「優良可」で記入するよう定める。          高校入試にアチーブメントテスト導入
 1943 (昭和18)年 府県による<成績評定の割合を一律にする規定>の廃止を通達。
 1948 (昭和23)年 官立高等・専門学校入試「進学適正検査」を全国一斉実施。
 1949 (昭和24)年 文部省、<学籍簿>を<指導要録>と改める。
        国公立大学受験者は全国一斉の<進学適正検査>を受験することとなる。
 1949 (昭和24)年 大学<進学適正検査>廃止
       <指導要録>を「外部に対する証明等のために役立つ簡明な原簿」と規定。
 1958 (昭和33)年 学習指導要領が官報告示となる。
 1961 (昭和36)年 文部省、第一回全国一斉学力調査(小中高)を実施。
 1963 (昭和38)年 財団法人能力開発研究所、第一回学力テスト・進学適正能力テスト
 1979 (昭和54)年
 第一回国公立大学共通一次試験実施。
  ※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。

 今回はポイントのみ

学制 第48章「生徒は諸学科において必ずその等級を踏ましむる事を要す。故に一級ごとに必ず試験あり。一級卒業する者は試験状を得るものにあらざれば進級するを得ず」

・・・1872(明治5)年の学制では「きびしく試験をした」し小学校でも落第があったのである(後に就学率のためなくした)。いまの日本が「入学できれば卒業はラク」というのと明治は違っていた。ただし、明治期には入学定員がなく学力が認められれば入学できたという違いがある。「資格試験」であった(いまは「競争試験」)が中では落第があったのである。大学は約半分が落第だったという。→後に大正になると全員の入学が無理になって成績順の入学(競争試験)に変わった(「競争試験」ははっきりとした目標がもてない)。それで内申書がとりいれられた。

           

小学校令施行規則 第23条「小学校に於て各学年の課程の修了もしくは全教科の卒業を認むるには、別に試験を用うることなく、児童平素の成績を考査してこれを定むべし」

・・・1900(明治33)年。「学力」より「善良なる臣民」育成を重視した。成績のつかない「修身」重視ともいえる。どういう時期の規定であったか考えれば性格は理解できる。えんま帳での管理という方式もでてくる。

 

  次回、もう一度、年譜からみる。