教育制度論E(11月2日)

 前回の話しについて・・・

 前回、戦前・戦後の教育制度とも、どうやら「繰り返している」ような一面もあるというのを簡単にみてもらった。私の教え方の不足もあって、そういう「歴史的」なものが面白いと十分に学んでもらえてないかもしれない。いちおう、歴史の見方を工夫したつもりである。いいたかったのは「歴史記述」や「事実の羅列」を面白くないというのは教員も学生・生徒も悪い面があると思うし「学ぶ必要がない」とか「ある=学べ」ではなくて、「どう学んで考えていくか」が大切だと思う。「事実」をどう読んで、どう考えていくかが問題で、教員の責任が大きいとは思うし、私もうまく教えられているかは自信はないが、とにかく、「歴史・通史から問題と将来を読み取る」ということをテーマにしてみた。私たちは「制度改革」を読み取っていかなければならない。「制度改革」のアプローチをしていかねばならない。そのためにはそういう見方も養っておきたい。
 単純に「教育制度・内容の年表」を読み上げていっても、それ自体はあまり意味がないと思う。刑事ドラマも同じことだが、証拠の品とか血痕とかがあるだけではだめで、それは個々の事実でしかない。それを意味づけて関係づけていって、推理して、分析していって、はじめて「意味」が与えられるのであろう。だから現場で授業で歴史を教えるときもそうであるが、どうしても教科書や資料というのは最低限のことしか書いていないから、それをどう意味づけるかが問題なのだと思う。実際には時間が足りないとかで、「読んでおけ」とか「見ておくように」で終わってしまいがちだと思う。それにそういうテストが中心で、穴埋め虫食いの問題とか、資料の名前を答えさせるとか、年表に年号を入れるだとか、・・・そういう「出題形式」が多いというか、なかなか限られてしまうのであろうか。本当はそのテストは結果を見るためにある一部のものなのだが、結果が優先されると受験する方も教える方も形式的になりやすくなる。
 それで、前回のように、ああやって並べたものを比較してみたり、前後の関係とか、背景というか事件とか国際関係とかを考えて、それで分析してみれば、例えば「日本はあきらかにそういうことを定期的に繰り返してきた」なんていうこともみえてくるのである。(これについては「入試」について後の授業で考えていく)

導入のはなし・・・
 最近、いくつか怒りを感じるできごとがあった。前回は「狂牛病」の対応についていったかと思うが、この2週間ぐらいの間に、考古学会からある報告があった。あの「ねつぞう」疑惑事件。埋めた捏造してきた人に対して考古学会が「怒り」をあらわにした調査報告が新聞に載っていた。「オイオイ、違うのではないか」と。あんたらも加担者ではないかといいたい。あれで「歴史」は書き換えられた部分もある。教科書もそう。そして問題なのは「疑惑」がスクープされた時に彼らはすばやくこういったのではなかったか。「他の遺跡は大丈夫だ」と。これって「狂牛病」の牛がでてきた時に「他の牛は大丈夫だ」といったどこかの大臣と同じではないか。もちろん社会不安や不況をふせぐとか配慮があったのかもしれないが、それは国民(市民)に対してどのように考えられたものなのかというのが問題である。「制度」が国民の生活を保障しない、ある一部のメンツのためにあったりとかではいけない。「狂牛病」がでてきた時、満足な調査をしなかったのは誰が「責任者」だったときなのか。小泉首相が厚生省にいたころだともいわれるが、きっと誰でもあまりなにもしなかったのではないだろうか。すると「なにか」が間違っているのではないか。他国でどう拡大したかなんてすぐにわかっていたのに、問題がでるまではなにもしない。でても責任もとらない。つまり「機能」していないのである。そういう「制度」が。
 いや「システム」が「組織」の面でだけはたらいている。厚生労働省も農水省も、そしてその支持団体(天下り団体も含む)も、「学会」も「組織」であり、システムである。そういう「組織」(の存続やメンツ=権威)が優先になってしまっている。それは市民のための「制度」としては麻痺しているのだと、そう思った。きっともっと「狂牛病」の問題は出てくるでしょう。「遺跡捏造」ももっと明らかになってきます。きっと。ちゃんと「対応」しないのは「組織」(正直に言って「自分たち」の利権)のみを優先するからというのが多くあるのではないでしょうか。これは前に「システム」「制度」というのはどれかが他を支えているというよりも、全体で相互に支えあっているものであり、その意味で生物と内蔵の関係にも例えられるといった。しかし、「生物」と考えると、どうしてもその「生きる」こと、つまりは「システム」が生き物だから生かさなければとなりやすい。そうなると「弱い立場」の部分(あるいは無関心の部分)から切り捨てられる危険性があるのである。だから安易に「生物」としてとらえるわけにはいかない。私たちはそのシステムやルールの範囲内で社会生活をしていくのだから。
歴史から学べること
 私は考古学のファンで、大学の教員になろうと考えたのも「考古学の教授」の映画に憧れたからであった(単純)。例えば古代の人たちがどういう生活をしていて、衣食住はどうであったか研究していくのは面白そうだと考えていた。でも、それは過去をみるだけではない。現代の私が過去をみる。そういうつながりもあるけれど、そこから私は過去を通して「自分」や現代をみることでもある。そういう相対化・比較ということに意味がある。知識の競争には意味をあまり感じない。「具体的次元」から「抽象的次元」へと普遍化していって意味や評価を考えていくのでなければならないだろう。自分自身に視点、哲学、イデオロギーなりがないとピントがあわないし、自分自身にそれらがつくられていくということでもある。過去を知るには今を知らないと、逆に今を知るにも過去を知る。そういうふうにして「過去」をみないとあまり意味がない。たまたま近代史を対象とすることになったけど、同じように考えている。
 前に「寿命」がのびて「子ども」の教育が可能になったといった。あるいは「医学」の発見というか、神様の考え方というか、科学の発展で社会は変わってきたし、近代以降とくに急激に寿命がのびて、だから公教育が必要になったといってきた。あの時は「子ども」の話だったけれども、例えば現在の高齢化社会についても過去のことからいろいろいえるのです。主に社会科の授業のネタとしてつかっているのですが、例えば「縄文文化」の意味です。石器をつくりはじめ、遊動的な生活であったのが、やがて定住的なムラを営むようになった。「土器」がつくられた。皆さんはそう教わったはずです。ムラができれば移動の際に弱い「子ども」や「老人」が免除されて役割分業ができる。いや効率よい狩猟が可能で、その時のために「子ども」を温存することだって可能になる。これは前に話したことと矛盾していて、あの時は「子どもの発見」は近代じゃないかとはいいました。「寿命」ではそうです。ただし「社会」はここでまず大きく変わった。人生の経験ゆたかな老人が子どもと「文化」を伝承できるようになる。そういうサイクルができたのではないか。「女性」だって「移動」にはついていけるし農業社会でだって立派な働き手であった。マンモスを倒すような想像図では「男性」のみイメージするかもしれないが、きわめて動物的(チンパンジーに近い)生理の時点では若い夫婦で狩猟採集をしていたのだろう。すると土器や「ムラ」で文化の担い手、継承に可能性を与えたのは老人と子どもであって、はじめて「実学としての大人の狩猟」(動物的なもの)から「なにかをつくり、保存し、伝える」ということが可能になったのではないでしょうか。ムラや住宅ができて、はじめて「所有」の意識や「自己」だってあらわれて強まってくるといわれるわけです。「所有」といっても「資本主義」のはじまりだなんていけないけれど、「社会」が形成されていくわけです。その「社会」には「文化」や「掟」もつくられる。そういうものが「教育」に関わっています。また歴史的考察もとりいれてはいきます。

 前回の復習・・・

 5 教育課程 学習指導要領の改訂が意味するものとは?(続き)

1、戦後の教育改革と6・3制学校システム
終戦直後の教育管理政策の問題・・・天皇制のあつかい
(日本側、連合国軍最高司令部<GHQ>の管理政策観)
      
新教育指針の刊行
  ○アメリカ対日教育使節団の来日、民間情報局<CIE>
  ○教育刷新委員会の設置(日本教育家の委員)
      
新憲法における教育規定制定(日本国憲法・第26条、教育を受ける権利)
      
  ○教育基本法の制定(1947・3.31)・・・教育の機会均等
    ○学校教育法の制定(1947・3.31) ・・・新学制六・三制の実施

 

2、戦後の教育課程(教育内容)の変遷

(1)学習指導要領の成立と変遷、戦後教育の教育内容 (前回、見た)

  「成立時」(1947年)→「『試案』の文字削除」(1955年)→「官報告示」(1958年)

 例:成立時の目的・方針

1947年,学習指導要領一般編(試案)
序論
一,なぜこの書はつくられたか
(前略)この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたものではない。新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かしていくかを教師自身が自分で研究していく手引きとして書かれたものである。しかし、新しい学年のために見時間時間で編集を進めなければならなかったため、すべてについて十分意を尽くすことができなかったし、教師各位の意見をまとめることもできなかった。ただこの編集のために作られた委員会の意見と、一部の実際家の意見によって、とりいそぎまとめたものである。
この書を読まれる人々を念頭におかれ、今後完全なものをつくるために、続々と意見を寄せられて、その完成に協力されることを切に望むものである。

 例:目玉の教科としての社会科

1947年,学習指導要領社会科編(試案)
第一章,序論
第一節,社会科とは
 今度新しく設けられた社会科の任務は、青少年に社会生活を理解させ、その発展に力を致す態度や能力を養成することである。(中略)
 社会生活を理解するには、その社会生活の中にあるいろいろな種類の、相互依存関係を理解することが、最もたいせつである。そこで、この相互依存の関係は、見方によっていろいろに分けることができるけれども、こゝでは次の三つに分けることができよう。
一、人と他の人との関係
二、人間と自然環境との関係
三、個人と社会制度や施設との関係(以下、省略)

 ※他に、社会科の指導要領(昭和33年、45年、53年、平成元年、10年版の資料を比較したがホームページでは略する)

 

(2)「学習指導要領」をどうとらえるか

 「学習指導要領」→小、中、高等学校の教育課程の基準を示した文部省告示文書

 以下に述べるような矛盾があるし、改革についてもなにやら政治的意図すら感じられることもある。国旗・国歌問題もそれであったし、変遷の歴史からみたように性格の変容(手引きから指導へ)もあった。しかし、不要か必要かではないとらえかたが必要ではないか。「賛成か反対か」というよりも大切なことはある。役立っている面、そして注意すべき点を把握しながら、現場でどういかしていけるのか。それを考えていくことが大切。

 

(3)「学習指導要領」における矛盾     

「学習指導要領」には次のような矛盾がある。

@その成立時と途中からの方針転換による、法的拘束性の矛盾構造。

A憲法、教育基本法に則して作成されたはずだが、根本原理や精神に抵触している。現在、

  世界で論争されることに、あえて特定の立場や解釈や価値観を採用している箇所があ

  る。(天皇、国歌、国旗、等。もちろん内閣側の影響が強い)

B「指導・助言」文書であるはずが、あたかも、上から命令し忠実な実行を求める「指示

  ・命令」文書であるかのような表現がみられる。特に具体的内容や取り扱いになれば

  なるほど「〜すること」という方向と「〜しないこと」という方向との両面から、事

  実上の規制が加えられ、「特性を考慮」したり、「創意工夫を生か」す予知が極めて

  狭くなっている。

C個性化・国際化・情報化のキャッチフレーズ強調にもかかわらず、その内容・方法の中

  には結果としてねらいにそむく可能性をも含んでいる。

 ※これは現行の学習指導要領(2002年以降のものではない)のキャッチフレーズであるが、しかし今次の改革においても「ゆとり路線」「生きる力」の教育路線とともに、自己教育力、国際化、情報化が変わらずスローガンとなっている。もちろん重要な目標ではあるし、それを否定はできないが、しかし「否定するスキもない」スローガンゆえに疑わずに「必要だ」とは考えられるだろうが、実体がよくわからないという、そういう性格のものになっていないだろうか。

  ・個性化児童の個性的発達をいうのか、それとも能力差(個人差)にそった分断

        的個別指導となるのか。


 

※「ゆとり」や「機会の平等」を論じる現在の改革では、また顕著にこれが「意欲格差」とその結果としての階級分けになってあらわれつつある。(苅谷剛彦の論文を収載した『論争・中流崩壊』を参照)

 

  ・国際化地球的レベルでの国際連帯実現の担い手か、それとも日本の国益を最優

        先させ、国際経済競争に勝つ日本人の育成をめざすのか。




 

※小学校時からの「英会話」やあるいは「総合的な学習の時間」などの時間も英会話への利用、あるいは外国人講師の雇用という具体的な形式としては案が出ているが、それが真に形式化していかないだろうか。また社会科・地理・歴史教育としては教科書問題までを含めて、どういう内容を教えるのかという問題にもなる。

 

  ・情報化情報についての教養と情報機器の使用技術・技能を育てるのか、それと

        も受動的なコンピュータ操作にとどまるのか。



 

※「情報科」の新設が計画され、また、「IT」化という言葉も流行した。実際に各学校にコンピュータが一定台数常備されるようになった。しかしそこにも民間活力導入と名をかりた問題がありえるし、問題はどうつかっていくのかという実質である。

  

 

(4)教育改革推進の社会的背景、臨教審答申の基本的立場

 1982年中曽根内閣成立後(翌年)の教育改革着手

@「行政改革」(いわゆる行革)変革上の新方針延長線上に位置づけられる。

A中曽根個人のイデオロギー性と、保守党内での位置。中教審批判、教育改革を中教審でなく内閣直属の臨時教育審議会でと希望。新産業育成(国家の経済戦略)の教育推進により、世論を操作し依拠する必要、党内での足場作り。

Bマスコミの教育荒廃キャンペーン展開、教育問題の報道。外的条件。

 →臨教審審議・・・85年6月第1次答申、86年4月第2次答申、87年4月第3次答申、同年8月第4次最終答申。

 

(5)さらなる改訂(教育内容の厳選・精選と学力低下問題)

@「ゆとり」の教育路線。「生きる力」をつけること、「心の教育」がスローガンになる。国際性・情報化社会に生きる日本人育成という点でも前路線上に位置づけられる。

Aその中で「教育内容の厳選・精選」として内容の一部が削除・減らされた。「基本事項」を重点的教授と創造力をのばすことを目的とするというが、具体的な方策が打ち出されておらず、現場や学界からの学力低下危機の声がある。

Bさらにその延長上に「教育改革国民会議」提言などがあり、道徳教育重視という方向性がみられる。「教育基本法」の改正などが目的とされるかのような議論もあり、「政治的」なものに感じられる面もある。「制度」が「政治」の介入として改正されようというときには、たいていが市民の側がおいていかれるというのが過去の歴史ではなかったか。

 

→だから「制度改革論」アプローチを考えていく必要がある。(歴史的にみて気づかないのでもなく、だからだめなんだとあきらめるのでもなく、どうしたらいいのかを考えていくことが重要)

 

 ◆次の審議会等について違いを考えてみよう(調べておこう)。(簡単な説明後・・・)

  中央教育審議会、 臨時教育審議会、 教育改革国民会議、 教育課程審議会

 

 ◆次回の講義のためのアンケート

@ 大学「受験」は、あなたの高校生活にとって、どのような意味をもちましたか。あるいは大学受験を控えていた期間には、「受験」というものがどういう意味をもっていましたか。

A「受験勉強」はどのくらい、そしてどのようなことをやりましたか。

B「合格→入学」した今と比べて、勉強とはどういうものであるか、考えに違いはできましたか。

C国際的な視点から比較すると、日本の「入試」「受験」はどのように評価することができるでしょうか。自分なりに・・・

D「予備校」や「受験勉強」で、具体的に参考になる教え方、面白い授業などはありましたか。

E「入試」や「受験」の問題点はなんでしょうか。どのようなものがいいのでしょうか。

(おまけ)授業の感想、質問・疑問、要望等を自由に書いてください。