教育制度論C(10月12日)
●復習から・・・
@9月21日(金)・・・「制度」とは何か? どうやって現在の形式になったのか? 改革の方向はどう向かっていくべきか? そういうことを考えていくというガイダンス。
A9月28日(金)・・・制度がなかったら、教育がなかったら人間社会はどうなっていたか? 現行の制度ができる前というのを考えてみる。
B10月5日(金)・・・「公教育/義務教育」制度はどのようにして確立されたか。日本の初期の教育制度がどのようなものであったか。
 
 今後の授業計画・・・一般的な法規・制度そのものを学ぶこととあわせて、その制度の裏側にある実態・理念を理解して、各人が応用していけるように考えていくことにしたい。また、現在の教育改革の動向についても各種の審
議会答申等を題材にして検討していく。
当面の授業計画(予定している内容)・・・以下の内容は取り扱いたい
4 日本の学校教育体系は特殊なもの? 輸入された初期の学校教育制度。
5 教育課程・学習指導要領の改訂が意味するものとは?
6 制度としての大学入試・受験。内申書と学籍簿。
7 教育問題を考える 不登校、いじめ、学級崩壊に制度改革論的アプローチは可能か?
8 学校と地域との連携 コミュニティ・スクールとは? ボランティア活動の義務化とは?
9 中等教育改革 中高一貫教育はなぜ導入されるのか?
総合制高等学校の設置とは?
 
1、(続)日本の学校教育体系は特殊なもの? 輸入された初期の学校教育制度。
・・・前回、「日本における学校教育制度の成立」として、「全国学校制度の監督や教科書類の編纂、教則(カリキュラム)の編成」を担う文部省(現在は文部科学省)の設立「前後」の「制度」案(構想)であった1870 (明治3)年「大学規則」「中小学規則」と、1872 (明治5)年「学制」について高等教育(大学)への連繋・進学過程(課程)を比較した。さらに西洋史的に概観することとあわせて、「教育」という制度が近代国家成立条件でもあり、また日本にとっては「移入」されたものであって初期は極めて形式的であったことをみてきた。従前の江戸時代における教育の形態とは異なる性質(形体も)をもつものであることを確認した。
 また、「学制」以降、「教育令」→「改正教育令」→「(各)学校令」→「教育勅語」体制へと移行する中で、教科書検定制度などにもみられる「統制」という「制度の一面」が表れてきたことに注目するようにした。その勅語体制のあたりで、国定教科書制度確立もあったが日本の「教育」の戦前体制ができあがったと考えられるし、さらには就学率が上昇安定することにもなっていったという面がみられた。「教育制度」とはなにかを考えていく上で、私たちの暮らす日本の状況・歴史から考えていくことが重要である。
 
2、日本の学校教育体系は独特か?
・・・前回みた「学制」の学校教育体系(進学過程・システム)が現在のシステム「幼稚園→小学校→中学校→高等学校→大学・短期大学」ともそうは変わらない年齢・学齢で構成されていたことはすでにみた。皆さん自身も小学校6年間、中学校3年間、高等学校3年間でその課程を経ていまに至るというものが大半であるとは思う。「飛び級」の構想はよくいわれるし米国では実際にみられるのだが、「学制」も基本的には「等級」制ではあったものの、基本的な「年齢」というのが目的として設置されていた。これは他国ともそうは変わらない。なぜなら人間の成長・発育・発達にそう差異はないであろうからである。その意味で日本の「6・3制」(小学校に6年、中学3年の義務教育課程)はそんなに世界で突出して変わっているものではない。さらに、教える内容も第二回目にいったように「母国語」が違うぐらいで後はそんなに違わないはずである。それは「教育学」というもので「教育内容」の構成が構築されているから、いわゆる人間に必要な知識・能力といったものが世界的にはそうは違うはずがないのである。もちろん「どれが重要視されるか」という価値観の違いは文化的要素によって変わることもあろう。
 
 日本の現行の制度と、戦前(戦時期)の制度の比較、


















 
左(1944年)と右(1949年)との違いを考えてみよう。
・左は、小学校が国民学校(初等科)であった。小学・中学の義務教育ではなかった。12歳での義務教育修了後から多様な進路であった。右はそれに比べればシンプルな系統である。複線型と単線型という。
左(1944年)と右(1949年)との変わらないところを考えてみよう。
・初等教育が6年間である。6〜12歳であること。大学(高等教育)の入学年齢も変わらない。
より多くの教育機会(年数)が保障された。「民主主義」に基づく個人(国民)の育成が目的とされた。
 
 ・・・この「6−3制」教育制度がどのようにつくられたのか、定着したのかを今回・次回とでみていく。仮説・見込みをもっておくために、諸外国の教育制度(系統)をみておきたい。












 
左(米国)と右(イギリス)では単純に「義務就学」年限に差がある。左が6歳から15歳までで、右が5歳から16歳までである。中身も単純に小学校→中学校ではない。右は細かにはっきりと分けられている。さらに「大学」へ進学できる中等教育が限られている。左は単線型の日本と共通点が多い。
 












 
左(フランス)と右(旧西ドイツ)。義務は左が6〜16歳、右が6〜15歳。年齢は右が日本に近いが小学→コレージュという系統では左の方が形では近いか。しかし小学校が5年間である。高等教育への入学□としてバカロレアなど日本と違う部分がある。この構想は今後の日本のボランティア・奉仕体験などが近いか。
 
3、戦後の教育改革と6・3制学校システム
 終戦直後の教育管理政策の問題天皇制のあつかい
 (日本側、連合国軍最高司令部<GHQ>の管理政策観)
      
 新教育指針の刊行
  ○アメリカ対日教育使節団の来日、民間情報局<CIE>
  ○教育刷新委員会の設置(日本教育家の委員)
      
 新憲法における教育規定制定(日本国憲法・第26条、教育を受ける権利)
      
  ○教育基本法の制定(1947・3.31)・・・教育の機会均等
    ○学校教育法の制定(1947・3.31) ・・・新学制六・三制の実施
※資料(他は略)

★新日本建設ノ教育方針(昭和二十年九月十五日)
文部省デハ戦争終結ニ関スル大詔ノ御趣旨ヲ奉体シテ世界平和ト人類ノ福祉ニ貢献スベキ新日本ノ建設ニ資スルガ為メ従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテヰル

一 新教育ノ方針
大詔奉体ト同時二従来ノ教育方針ニ検討ヲ加へ新事態ニ即応スル教育方針ノ確立ニツキ鋭意努力中デ近ク成案ヲ得ル見込デアルガ今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スルモノタラシメソトシテ居ル

二 教育ノ体勢
決戦教育ノ体勢タル学徒隊ノ組織ヲ廃シ戦時的教育訓練ヲ一掃シテ平常ノ教科教授ニ復帰スルト共ニ学校ニ於ケル軍事教育ハ之ヲ全廃シ尚戦争ニ直結シタル学科研究所等モ平和的ナモノニ改変シツツアル

三 教科書
教科書ハ新教育方針ニ即応シテ根本的改訂ヲ断行シナケレバナラナイガ差当リ訂正削除スベキ部分ヲ指示シテ教授上遺憾ナキヲ期スルコトトナツタ

四 教職員二対スル措置
教育者若ハ新事態ニ即応スル教育方針ヲ把握シテ学徒ノ教導ニ適進スルコトガ肝要デアル、之ガ為メ文部省ニ於テハ教職員ノ再教育ノ如キ計画ヲ策定中デアル、尚復員者並ニ産業界軍部等ヨリノ転入者ニ対シテモ同様ナ措置ヲ計画シテヰル

五 学徒ニ対スル措置
勤労動員、軍動員ニヨル学力不足ヲ補フ為メ適当ナル時期ニ特別教育ヲ施ス方針デアル、又転学、転科等モ一部認メルコトトシテ目下具体案ヲ考究中デアル、尚陸海軍諸学校ノ在学者及卒業者ニ対シテハ前項ノ再教育ヲ施シタル上文部省所管ノ各学校ニ夫々ノ程度ト本人ノ志望トニヨリ入学セシメ之ヲ教育スルコトニ決定シタ

六 科学教育
科学教育ノ振興ヲ期スルコトハ勿論デアルガ然シソノ期スル所ノ科学ハ単ナル功利的打算ヨリ出ヅルモノデナク悠遠ノ真理探求ニ根ザス純正ナ科学的思考力ヤ科学常識ヲ基盤トスルモノタラシメントシテヰル
(以下略)