教育制度論B(10月5日)
 
●前回の復習から・・・
 〇もしも、「学校教育制度」ができていなかったら?
 〇「学校教育制度」ができて、何がよかったのか?
 〇そもそも、「教育」が保障される(教育がある)ということはどういうことか?









 

「教育」のもつ意味が変わってきた(義務教育年限も変わってくる)。子どもが「教育」を受けてどうなるのかという意味(制度の保証)も変わってくる。→→歴史的に考える上での仮説としてもっておこう。


 
 
 〇「保証(保障)」や「システム」とはどんなものか?







 







 
説明したこと・・・
 今回のテーマは「公教育/義務教育」制度はどのようにして確立されたか、なぜ欲されたのかということ。「寿命」と「余暇」「余裕」と科学・医学の発達との関係で「子ども」がどういう位置にいることになったのかを説明してみた。宗教教化から大衆社会への教育へと移り変わったことを説明したつもりだが、情報が(扱う時代)大きすぎて理解しづらかったのではないかと思う。宗教というか、文化的価値観というか、そういうものは不思議なもので、いまも「神」観の違いでかなり考え方が違うことも多いが、それは集団対集団でなくて、一つの集団内での規制やモラリティになっていたりもする。「地動説」(コペルニクス的発言)や「解剖学」や、いまの「クローン」等にも科学と神学との相剋がみられると思う。基本的には「命」を永らえる方法、死をのりこえる(むきあう)方法を探して進歩してきた「科学」によって人間は信じ方も考え方も習慣も変わってきている。社会が変わるというものはそういう側面もあって、その社会での人間の生活を連携させて保障していく機能が「制度」でもあるから、それは歴史的に形態が変わっているのだということを理解していただきたい。われわれが「制度」を考え、学び、将来はたらきかけていく際にも、社会の意味を考えていくという視点が重要となる。
 
1、「学校教育制度」成立の歴史(公立学校制度ができるまで) 日本へも伝わってきた?
@古代→ギリシア古代都市の哲学スクール、アカデミア等。プラトンやアリストテレスらの哲学者・教養人。一部の政治的指導者=「知識人の教養」のためのものという限定。
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A中世→ヨーロッパ・キリスト教の宗教思想。僧職が特権階級。僧職のための学校。 
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Bルネサンス期→科学の発達。宗教改革、世界観変革。実学が流行。私塾。学問熱が高まる。
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C絶対主義国家確立→支配階級の教育。国民統一、軍事力をつけるための教育。国民支配。
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D産業革命期→資本主義化、貿易等で経済力を増す国、工業化によって国力を富強した国が「近代化」。工場労働問題との関わりで国民に知識を与える必要、子どもへの教育の必要性が説かれる。
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E公教育制度の確立→19世紀後半に初等教育の義務化という形式で達成。義務・無償・中立性の3原則が公教育の特徴。
 
 @のスクールの語源となるシューレが本来「余暇」を意味したことから、実際にも「余裕」のある者が学ぶというスタイルであった。アカデミアやヒムナシオ(ギムナジウム)の語もあったが、誰もが学ぶ公教育(国民のための教育制度)とは違っていた。余暇・余裕は富や生活についてでもあった。教養をもった哲学者や政治的指導者、知識人という存在はあり、学問がめばえることにはなる。Aの中世ではヨーロッパ・キリスト教の宗教思想が広がり、国家的統合に宗教がもつ意味が強くなっていく。人間の「生」について考えるのは哲学的命題でもあったが「死」への不安や「他者の集まり」の中での共通の意識「愛」との迷いから導いてくれる一つの答えが「宗教」であった。キリスト教の司祭制はシステマティックでもあり、役割付与もあったし、また僧階級の特権化にもつながった。僧職養成の学校が存在する。「医学」がまじない「祈祷」や「薬学」(麻酔)であったのも日本などとも一致する。酒、ワインなど「神の水」という文化や「草を煎ることで薬品をつくりだす」ということも共通する。宗教を教える宣教(教化)と教育も性格が重なる面も多いが「国民」のための教育ではなかった。B科学が発達し、世界観が変わると、宗教改革も重なるが「実学」が求められることにもなる。文芸復興という復古という形式も「宗教」という統一への対抗でもあり、そのために「特権化」された教育をとりもどす必要があった。つまり学ぶことの重要性が認識されつつあった。ただし私塾形態のものであるという限界はあった。国際理解がめばえてきたともいえる。Cその国際意識の結果、自国意識が高揚する。絶対主義国家が確立し、国民の統一として国民づくりが意識される。歴史教育・モラルなどが重視される傾向は出てくる。例えば復古で王政になれば、歴代の王の名前などが必要な知識ともありうる。国民の自立というよりも国家の成立、他国に対するための国民教化となりうる。富国強兵政策などの発想も出てくるとイメージされよう。D産業革命などにより、市民が力をつけてくれば資本主義化というか経済力というのが重視されるし、反動もあって実学も強調されようか。工場労働問題との関わりで国民に知識を与えることの有効性、子どもへの教育の必要性が説かれる。寿命が延びてきたのもこの時期。医学や科学の発達が身を結びつつあった。Eその結果、「近代国家」には公教育制度が確立する。そして近代国家には「教育制度」が必要だと「必要条件」のように受け止められて世界に波及していく。国民教育の必要が「近代の条件」となったのだが、そのため(普及・実現)には義務・無償と、さらに偏らない中立性の、いわゆる3原則が重要となった。
 
2、日本における学校教育制度の成立

明治期の近代学校制度の重要項目・略年表
 1868(慶応4) 年 維新政府、旧幕府の学問所を昌平学校と改称、開成学校の設置
    (明治元)年 皇学所、漢学所の設置
 1869 (明治2)年 小学校設立の奨励
 1870 (明治3)年 「大学規則」「中小学規則」公布
 1871 (明治4)年 文部省の設立(学校制度の監督、教科書類の編纂、教則の編成)
 1872 (明治5)年 「学制」の制定。事前に、師範学校設立、教員養成を開始
 1877 (明治10)年 東京大学(官立大学)
 1879 (明治12)年 「教育令」公布(「学制」の廃止・自由教育令)
 1880 (明治13)年 「教育令」の改正(改正教育令・第2次教育令・統制の強化)
 1885 (明治18)年 「教育令」の再改正(再改正教育令・第3次教育令・経済対策)
          森有礼、初代文部大臣に就任
 1886 (明治19)年 「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」公布
          「教科用図書検定条例」(教科書検定制度)
 1890 (明治23)年 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布
 1893 (明治26)年 祝日・大祭日儀式規定(天皇写真、国歌等の問題)
 1894 (明治27)年 「高等学校令」公布
 1899 (明治32)年 「私立学校令」公布
 1903 (明治36)年 国定教科書制度の成立 
  
※ 学校教育制度に関する法令・布告類には下線を付した。
 
●文部省設置以前の「大学」構想








 
「小学→中学→大学」という進学過程が構想されていたし、予定された大学の「学科」(学部にあたる?)は教科・法科・理科・医科・文科というそれまでの日本にない構成であったから、「輸入」された構想と考えられる(内実は別として)。

 
 
●文部省設置後の「学制」に示された教育構想
 ・次のように「就学」の必要が語られ、従前の(封建制度下=近世・江戸期)教育とは違って「学校」というもので教育を受けることの意味ということが示された。

★学制(明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊) 「仰出書」(おうせいだされしょ)
第二百十四号
人々自
(みづか)ら其身を立て其産(しんだい)を治め其業(ぎょう)を昌(さかん)にして以て其生(せい)を遂(とぐ)るゆゑんのものは他(た)なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能(あた)はず是れ学校の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算を初め仕官農商百工技芸及び法律政治天文医療等に至る迄凡人の営むところの事学あらさるはなし人能(よ)く其才のあるところに応じ勉励して之に従事ししかして後初で生を治め産を興(おこ)し業を昌にするを得ベしされば学問は身を立るの財本ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫(か)の道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪(うしなう)の徒の如きは畢竟(ひっきょう)不学よりしてかゝる過(あやま)ちを生ずるなり従来学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人以上の事とし農工商及婦女子に至っては之を度外におき学問の何者たるを辨ぜず又士人以上の稀に学ぶものも動(やや)もすれば国家の為にすと唱へ身を立るの基(もとい)たるを知ずして或は詞章(ししょう)記誦(そらよみ)の末に趨(はし)り空理虚談の途に陥り其論高尚に似たりといへども之を身に行ひ事に施すこと能(あたわ)ざるもの少からず是すなはち沿襲(えんしゅう)の習弊にして文明普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏破産喪家(そうか)の徒(ともがら)多きゆゑんなり是故に人たるものは学ばずんばあるべからず之を学ぶに宜しく其旨を誤るべからず之に依て今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今以後一般の人民華士族農工商及女子必ず邑(ゆう(むら))に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜しく此意を体認(たいにん)し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり高上の学に至ては其の人の材能に任すといえども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるものは其父兄の越度たるべき事
但従来沿襲の弊学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費及其衣食の用に至る迄多く官に依頼し之を給するに非ざれば学ざる事と思ひ一生を自棄
(じき)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今以後此等の弊を改め一般の人民他事(たじ)を抛(なげう)ち自ら奮(ふるっ)て必ず学に従事せしむべき様心得べき事

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事

 明治五年壬申七月
 太政官

 
●学制「学校組織・系統図」に表された学校構想
・計画された「制度」・進学過程(全体)は次のとおりであった。








 
「幼稚小学(幼稚園にあたる)→小学→中学→大学」という進学過程が構想・計画された。しかし「二系統」(外国語で教授&日本語で教授)であった。「正則(外国語)」「変則(日本語)」と考えられてか、より高等な外国語コースの大学は20歳から入学と高く設定されていた。
 
 
・・・現在のシステム「幼稚園→小学校→中学校→高等学校→大学・短期大学」といったものに近いともいえるし、それがそれ以前には見られないものであるから(そして学制で実現されたのではないから)「ここ」で外国(西欧先進諸国)から移入されたものであるということがわかる。幾分かは「形式」としてのものであり、フィクションであり、機能を期待されたつくりものであったということである。日本等の近代化後発国では自然発生的なものではなかったというのが一つ。
 学制布告の数年後には2万を越える小学が設置(多くは廃寺等を利用する仮校舎ながら)され、初等教育では現代なみの数が急速に用意されるなど、「教育」(制度)が政府総出での重要な「政策」であったということがわかる。
 さらに次のように諸外国の学校系統・制度(日本の現行の制度とも)と比較してみれば類似点や差異、
学校のもつ意味が明らかになる。(次回以降、もう少し詳しく考えていく)