教育制度論A(9月28日)

 

 はじめに、以下について確認した。

講義の進め方
(1)必ず、前回までの復習から入る
(2)できるだけ受講者の意見や質問に応える

 

〇第一回アンケートの結果

 前回はガイダンスのみのため、復習よりもまず答えてもらったアンケートの結果をみながら授業を進めていく。

◆1◆ 受講者:27名
 男・18名:女・9名
 1年生・14名:2年生13名
 コース:商業14、経営9、会計4




 

◆2◆ 取得をめざす科目
 社会科(地歴・公民):15名
 商 業     :10名
 両方      :2名




 

 男女比、学年、コース、そして取得希望の科目まで、全部いい意味で混ざっているかと思うし、人数的にもこのぐらいの数はやりやすいかなと思っている。

 この学年も性別も属するコースもバラバラの学生が、ある目標(単位)のために一堂に会する。もちろん循環的ないいかたであるが、これはある目標・目的(資格)のためにこの学年・年度内の学生はこれをとらなくてはいけないとされるから来ているわけでもある。教職に就くための必修科目であるからということからであり、これは、「こういう教員をつくって現場に出します」という保証であり、またこの資格取得にはこれこれこの単位を集めれば認可しますよという保証でもある。

皆さん(学生)はB、実際の現場である学校はC、大学(教職課程)をAとする。BはCに到達したいし、CはBを募集している。その両者間を仲介するのがAである。Aという基準・ルールを判断材料としてBとCの連絡が成立する。

 

 こういうものも「制度」(きまり)としてあるのだ。つまり普遍的な意味を持たすルートというか、一般的な価値観を付与するための制約ともいえる。

 「制度についてどう思うか」「教育について関心のあること」という質問へは次のような答えがあった。

★3★ 制度に関しての今の考え
様々な場所でのルール、規則、しくみ 10名
なければ教育がなりたたないもの 3名
・義務教育の必然性は何か 2名
・小→中→高校の連繋の意味 2名
・校則、  ・学区、  ・登校日数

★4★ 教育に関して関心ある事項
不登校、ひきこもり、いじめの問題、対処 7名
体罰、暴力等、教員の問題  3名
教師と生徒の距離がひろがった、信頼関係 2名
教師の自覚の欠如、 ・教育内容の変化と時代への対応
・虐待、・教科書問題、・学級崩壊、・目立ってはいけない

 「3」の中の下線部のように、「しくみ、規則」であるといいながら、「なければなりたたない」というのは本質的なものかもしれない。必要・不要というのはあるとしても、しかし「なければありえない」ような気もする。「もっと自由に」とか「学校まかせで」とか「個性的に」とはいわれるけれども、「制度はいらない」とはならない。だから、制度は「最低限の保障をしてほしい」と思われるようなものであり(公約数のようなものと考えられる、なるべくシンプルがいい)、「量的・権限的」には問われるものであるが、「口は出すな、金は出せ」とでもいうような要求がされる対象でもある。「公益」的な「公」のものであるからだ。暴力的ないいかただが、すべて「自由」になって補助金も保障もなくなってつぶれるのもまずいし、全体のシステムができていないと「勝ち・負け」がはっきりとしてしまうこともある。それを競争原理とよぶのかは問題になる。

 「4」で「不登校」問題に関心のある人が多くいるが、もちろん授業でも取り扱う。現行の制度の問題点と、さらにどういう教育改革が模索されているのかを考えていきたい。しかし、「不登校」は、「制度」があってはじめて出てくる問題ともいえる。単純にいえば義務教育制度があって、子どもは学校に就学しないといけないのだけれども、そこで「不登校」という問題が出てくると、「登校の義務」を怠るとされるから「登校しないといけない」という制度にてらしてはじめて問題となる。「出席」義務がない機関ならば問題はないのであるから。

 しかし、単純に「制度」が悪いのではないとも言った。「制度」をなおせばいいのか、究極にはなくせばいいのか、といえばそうでもない。おそらく今の「不登校」を減らそうとして制度をどうにかすれば、もしかして「今の不登校児童」が出てきたとしても、次のタイプの不登校が出てくると思う。そもそも「登校とは何か」ということまで考えて、「登校させるのが目的ではない」としてどんな結果になってもかまわないというのならいいのだが、転校や進学など前回例え話をしたようなことがあるので、決められた「義務」段階は教育サービスを「なみに」でも受けさせたいとは思うことが多いだろう。

 ちなみに、「制度」ができる前はどうであったかというと、「皆、不登校だった」ともいえるといった。「登校してもらえる」ようになってはじめて現行の義務教育制度は確立した。資料のグラフでみてもらったとおりである。明治初期には男子児童で40%弱、女子で15%程度しか就学率はなかったが、簡易化したり、様々な策を講じて、それでもかなりの年月を費やして、1900年頃からやっと男女ともに伸びてきて、1905年ぐらいから現在なみになってきたのである。ほぼ達成できたのは明治30年代以降である。「教育勅語」で知られる天皇制国家体制が完成して、また他国との緊張・戦争もあって国家がまとまりつつあって、その頃にはじめて「不登校がなくなった」ともいえる。また就学率によって「意味」は変わるということでもあり、今後「大衆化」というものをキーワードに考えていくことになる。高校にほぼ全員がいく時代、その卒業生の2・3人中1人の割合で大学に進学者がでるという時代。それはそれ以前とはいろんな「意味」が変わってくるのだと考える。

▼5▲ 国際的な視点からみた日本の教育
<大学の問題>
・入試制度の問題、入るのが難しく、卒業は簡単。ピークの問題。 3名
・大学入学後、ほとんど勉強しなくなる。            3名
<学歴社会、教育観の問題>
・学歴重視で勉強の時間が多いゆえに人間性を育てる時間が短い。 5名
・「自由さ」が少ない。突出をゆるさず、公平に平均的な人間をつくる、脱個性。  4名
・楽しい授業がない。かたい。   3名
・アメリカはのびのびしているが日本は息苦しい。         1名
<すぐれている面>
・環境・設備が充実している。競争も刺激的。しかし生徒の意欲が他国より欠けるか。  1名
・識字率が高い  1名

 いい面もあるが、悪い面もみられるといったような、現実的な意見が多くあった。これも実質をとらえていると思う。いくつか個別の意見にコメントしておく。(略する)

 

皆さんの意見から学べたこと・・・「現行の教育制度に問題はないのか?」ということについては「個性・人間性vs受験知・学歴観」や「不登校・いじめ・学力低下問題」などが出てきているぞと。そういう意見が予想通り多くあった。しかし、さきほど言ったように、そもそも制度化される以前は全員が不登校だったというような事実もある。「学力」もはかられなかったし、個性はあっても出世が困難という現実もあった。であるから、「制度化」される段階(とその周囲の社会)をみておく必要がある(「部品でもあるし、欠けてもいけない」と前回言ったが、周囲の社会が変わっているのにシステムが対応しているかどうか、どういう意味をもっているか)。「制度化」の一つとして「学校教育制度」からみていくことにしているのだから、「学校」システムが保障されるようになってどうなったのかを先ず考えてみたい。

 

 〇もしも、「学校教育制度」ができていなかったら?

 単純に、「ない時代のままだった」のではないか。「学校教育」が制度化されたのはそんなに古いことではなく(だいたいどこの国でも200〜150年前後)、「近代」以降になって「公教育体制」ができあがった(日本だと明治時代以降)。・・・

 

 実際に学校に行くことによって習慣づけされ、身についたこと、家庭にまで影響したことは多い(教科書=日常に文字を読む、机+椅子=洋式の生活、リズム=日曜日、天皇制と親への尊敬・家族観など)。「日本人」として共通の感覚をもつことが可能になってきた。

 なかったとしたら、やはり学校へ行く(行かせる家庭の)子と行かない子とで、様々な機会や職業、人生について大きく差がついていた可能性がある(少なくとも、こういった格差はいちおうは「学校」社会によって「大衆社会」が確立して、それで少なくなって見えにくくなってきた。もちろん、完全になくなってはいなくて、むしろ「見えない差別」があるようにも思えるし、あいかわらず特権的立場を相続するものもある)。

 「学べばそれに見合って出世できる」という「立身出世」がスローガンになった(封建社会での身分差別、武士層の教育と市民が受けれる寺子屋等の教育との目的・内容の違い、さらに寺子屋等も「受けさせられる」ものとそうでないものとがあった)。「文字」が読めたり、つかえたりで格差がありえて、それが社会的地位をそのまま決定しかねない社会からの脱却の機会とはなっていたろう。

 

 〇「学校教育制度」ができて、何がよかったのか?

 とりあえず同じ年代の子どもが公平に学校で同じく「学ぶ」という時間を共有することができる。

 仲間意識とかリーダーシップ、連帯感らも身についていく(共通のルートを通過することによって国民となっていく)。

 ある程度、自分の夢がかなえられるかのような、実現可能性を信じられる。

 誰しも最低限の知識を習うことによって、文化的な発展・継承がうまくいく。どこにいても同じ教育を誰もが学べることで、平等な条件のもとに子どもが育っていく。同じ情報・内容を得ることができる。

 

 〇「人間」形成(国民育成)の学校教育システム














 

 

 ・・・学校教育の中身には2本の柱がある。「学習・教科指導」(国語・算数・理科・社会・音楽・芸術・体育・技術)と、「生徒指導」(部活動・クラブ活動・生徒会等)である。諸外国の公教育でも同様である。国語(母国語)がなにかという違いだけで、使用言語の違い以外にはそう大きな差はない。日本の学校では日本人がフランスの学校ではフランス人が育成される。

 

 これも社会との関係で「システム」として機能している。図示する。

・・・「個人」と「社会での選択(就職や資格など)」との間のシステムとして機能しているし、さらに「国家としての社会」自体の存続にかかわるしくみになっている。その最小限の「ルール」として2本柱がある。このレシピ(設計)どおりに育成されれば「のぞましい人間」に成長するのだと「教育学」的に考えられている(すべての能力を均等に目指すか、突出したものを尊重するかで国によって「教育観」は違いはある)。

 

 現実には・・・「学校教育」の部分は、「小学校→中学校→高等学校→大学」といったように、一つ一つの学校は「次」への受験準備的な意味をもってしまっていることもある。「課程修了」が認められて「受験資格」になる。例えば「大検」という入試資格が「高等学校教育課程卒業程度」の検定であるということでも明らか。これによって、実際には「進学」「アーティキュレーション」の輪の一部として存在するようなものになっている面、「そういう輪の中にいること」だけが現実的には価値観として優先されてしまったりという弊害もある。「受験・入試制度」について後に講義で扱っていく。

 

 〇そもそも、「教育」が保障される(教育がある)ということはどういうことか?

 各自に、「教育」があってどういいのかということを、これまでどのように学んできたのかをききながら確認した。

 

<資料>「義務教育就学率の推移(明治)」(文部省『目で見る教育100年のあゆみ』1972年)、「各国の学校系統図」・・・日本(1944年、1949年)、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、旧西ドイツ、ソ連、中国。(以上、ここでは略する)