<コラム>「サンビストの想い」 2005年4月9日

 「最近、感動したこと」・・・

 前回までと変わって、資料の紹介や歴史的なことではなく、「現在」の問題を少し書いてみたい。

私はサンボに限らずスポーツに関してブランクがあった。ここ十数年(23歳以降はとくに)、練習をしてこなかったし、何らかの試合の観戦にもほとんど行っていなかった。一つの理由は怪我があって、自分で満足のいく「動き」ができないこと。もう一つは「取り上げられかた」。まわりからの扱われかたが嫌で、できれば自分について語られたくなかったということ。私としては真剣に取り組んだ結果なら何をいわれてもいいが、逆に真剣に取り組めない状態でその世界にいるのは失礼だと考えていたのだ。「ある世界(社会でも組織でも同じ)」に誰かがいるということは、その分「他の誰か」の居場所やスペースを奪っていることにもなる。「そんなことを考えてどうなるのか?」とお叱りを受けそうだが、私はやるなら全力でやらねば失礼だと言いたいのである。皆さんだって思うわけだろう。「何であんなやつが」とか「あいつはコネクションつかって」とか。「二世(議員や俳優など)」とか、個人の能力に関わらず、そういう想いはあるだろう。私は、それが嫌だったから、自ら距離を置いていたのであった。ところが「試合」への誘いはあって、「どうしても出てほしい」などと頼まれ・・・と、そんな繰り返しはあった(これについてはコラム4番あたりに書いた)。

とりあえず、私は「いろいろな立場」を常に意識して、少なくとも忘れないようにしたい。例えば、私と違って組織なりに残った人だって、それなりに想いはあるはずだ。去った人にだって、それなりの想いはあるのだろう。事情や、様々な「見えない」ものがあるだろう。だから決めつけずにいたい。なぜなら、「書かれたもの」、あるいはテレビなりに「映(写)されたもの」も、それが全てをあらわしているはずはないからだ。一つの見方ではある。一つの事実の評論ではある。しかし、それ以上に語れることは、きっと誰かの「価値」観であったりするのだ。「誰かの価値観」に踊らされるのだとしたら・・・、それはもうすでに「勝負」では負けているのと同じじゃないかなぁなんて思っている。「総合格闘技では何が最強だ」とか、「あの技のオリジナルはこの格闘技」とか、「この競技よりこちらの競技の方が実戦的」とか・・・。おそらく誰もが持つであろう、こういう「想い」。これは自分の直感なのか、それとも実は何かの雑誌なりによって「あなた」が「自分の考え」と勘違いしてしまっているものなのではないか? 考えてみませんか? しつこいけど「サンボ」の“CAM”というのは「自分自身」という意味です。自分で判断する、自己との戦い、自己を鍛える・・・。そういうのが本当の目的の一つなんじゃないかと考えているのです。

・−・−・−・−・−・−・−・−・−・

さて、最近、感じたことから、ちょっといい話しを。

『ゴンググラップル(GONG grapple)』という冊子(ゴング格闘技5月号増刊)が刊行されました。さまざまな組技系格闘技が掲載されています。いろんな競技があり、いろんな技術があって、いろんな選手たちがいる。それがよく取材されているなと思ったのです。五輪選手・メダリストもいれば、海外で注目される選手や、日本での思わぬ組み合わせや練習のシーンもあって、・・・よく整理され、網羅されています。もちろん「書かれたもの」ですけど、「何かだけ」ではない、そういう善意みたいなものを感じました。というか「愛情」なんでしょうね。もちろん他の雑誌だって、皆さん一生懸命「愛情」をもっています。今回のこの冊子に感じた「愛情」は、「グラップリング」という世界への熱意みたいなものです。ようするに、より専門的に、そしておそらく、かなりマニアックなかたが(失礼ですかね)、これを「伝えなきゃ」という情熱をもって(主観はおさえながらも)書いている。そう読めました。たしかに「柔道」「相撲」「レスリング」の各広報誌や専門誌はありました。関係者が中心に読むことが多かったと思いますが。「空手系」の雑誌も多くありますよね。もちろん武道は広く専門誌が存在する。「総合格闘技」の特集号はどのくらい売れるのでしょうか? とりあえず出ますよね。さて、「グラップリング」のニーズです。競技人口では柔術が多いでしょうか。いやレスリングの女子人気もあがっていますかね。でも一般的に他の人気スポーツと対象したときに、はたして「格闘技」はいかなるものなのか。たぶん、そう多くはないでしょう。

それはロシアだって同じです。『イズベスチャ』とかの記事を毎号読めば、「スポーツ」欄に格闘技が載ることはほとんどないと言っていいでしょう。フットボール、スケート、バスケット、アイスホッケー・・・。それらが大衆の注目を集めているのです。「格闘技」って、それらと比べれば、やはりまだまだ小さな存在ともいえます。それなのに、フットボールらと比べて・・・、種類が多い。ボールゲームものと比べても種類が多いといえるのじゃないでしょうか。また、カテゴリー分けもわかりにくい、整理されていない。一つ一つが見えにくいというか、小さいものに「みえてしまう」・・・つまり相対的に「みえにくい」ものになってはいないでしょうか。

それを「格闘技」の中の「グラップリング」ものとして整理することにより、「みえやすく」しようとしているのじゃないかと思ったのです。「打撃系」は、それなりにエキゾチックなところはみえているかもしれない。「空手」はとくにそういうイメージで外国では受け取られやすいし、日本には数多くの道場がある(流派、ルールの問題はありますが)。でもテコンドーとかも世界での普及にはすごくかけていて、五輪種目というのも大きいですね。ムエタイも国によってすごく盛んですし、蹴りをつかわないボクシングは、プロに関してはメジャースポーツにもっとも近い格闘技かもしれない。K1のブームもそうですね。「みせやすい」「演出しやすい」「エキサイトさせやすい」種目です。ルールがそういうものですから。離れて、打撃で、倒しあう。一般的にもわかりやすい。

組技はどうでしょう。何秒おさえて何ポイント、角度がどうなったら何ポイント、組み手のあのもちかたは反則で、それで重心移動のときにどうとか、こうとか・・・。一般にわかりやすいかどうか。

もちろん楽しみかたはあるわけです。相撲もそうですが、勝負のつきやすい環境設定というのもありですし、柔道やレスリングのルール改正なども「わかりやすさ」や「勝敗」をすごく規定してしまいます。でも、とにかく種類が多いので、各々の詳細までがとてもではないけど一般に浸透するはずもない。それぞれ独自でいくわけです。柔術は柔術の普及を、レスリングはレスリングの普及を・・・。それは間違ってはいない。

しかし、そんなとき、「グラップリング」という大きな見方でとらえなおしたとき、また一つの可能性が出てくると思うのです。違う、けど、似ているところもある。そして、他のものに技術を応用したり、あるいは自分の本当にあう競技を探して移動も可能となる。すると、普及の面でも、新技術開発の面でも、刺激的になるし活性化する。おまけに社会的に「みえやすく」なるかもしれない。注目やスポンサーでも理解とともに拡大すれば、またそれぞれの競技も伸びていけるし、それでまた他の競技も伸びていける。なにしろ、情報が検索しやすくなる。

以上のような、良いところがみられると思うのです。おそらく、そういう「想い」で編集されたのだろうなぁと、僕は読みました。

 

 


 

 サンビスト若林次郎 主催練習会

(詳しくはサンビスト若林次郎ブログを読んで下さい)
「日曜日の夜は江古田でサンボ!」 パレストラ東京で若林さん主催のサンボ練習会が定例化されます。

 

            メールでのお問い合わせはこちらまで